34話 譲れぬもの
途中、母は私が魔法を使うことを見越して、壁の上から飛び降りるという無茶をしたが、人々から歓声をもって迎えられた。
母と入れ替わるように、武装した人々が城壁を登っていく。もちろん、魔物が居る外側には階段などはない。それでも、魔物は壁を上るだろう。
ただ魔物が昇ってくるのを待っているということもできないのか、武器を持った人間たちは階段で行列を成した。
まずは壁を登った直後で疲弊した魔物を討ち、城壁の高さを利用して魔物を殺し、支え切れなくなったら第二城壁前で迎え撃つということなのだろう。
軍師マルレイがいればどんな作戦を立てたか興味はあるが、現在マルレイはファアと一緒に城塞の奥にいるはずだ。
第二城壁前の広場は3000人からの人々で埋め尽くされていたが、母の前には道ができた。私には解らないことだが、城壁の上で縛られていたということは、民衆は一度母を裏切ったのだ。その母が、魔物に多大な損害を与え、城壁がもっとも役に立たない空を飛ぶ魔物を無力化したのだ。
母が通る前は、まるで洪水を割るかのように道ができた。
かつて、魔物を退治した母をたたえるのとは、少し違うように感じた。
あまりにも巨大な力を持つ母を、またその母を裏切ったことを、恐れているのではないかと感じた。
母は広場の最奥に行き、さらに城塞の奥に入ろうとした。つまり、戦場から去ろうとしたのだ。
『母上、私はこの場にとどまりたいのですが』
私は本心を訴えた。私の力を振るい、人間に向かってくるのはなお駆逐できなかった魔物たちだ。単純な数で数倍に匹敵し、戦闘能力は一体につき人間の十倍以上だと思われる魔物たちである。
人間が生き伸びる可能性があるとすれば、この場でそれは排除しなければならない。戦場から立ち去ってしまっては、人間を見捨てることになる。
私は、まだ人間が生き残る可能性をあきらめてはいなかった。
「お腹が空かない? すぐに戻れるわ。いくらなんでも、五分や十分であの壁を越えてくるとは思えないし、いいでしょ?」
母は、見上げるような城壁をほぼ飛び降りて短縮した。空を飛ぶ魔物がいない限り、時間はあるだろう。私は母に抱き付いて、その考えに賛同の意を示した。
城壁の上で縛られて絶望していた母が、とたんに元気になったように見えたのだ。
私が反対する理由があるとも思えなかった。
第二城壁の内側の兵士詰め所も後にして、母は私を自室に連れ帰った。
母と父の部屋は荒れていた。
備え付けの寝台や風呂は石でできていたのでそのままだが、母に乞われて私が作成した様々な道具は破壊されていた。
母が大事にしていた陶器のグラスや、宝石箱の類も奪われていた。
私を抱いたまま、母は荒らされた自分の部屋を見つめ、私の頬に口づけした。
「……キール、どこに行っていたの? 私とパパが、暴漢に襲われて死にそうになったのに……あなたは来てくれなかった……」
二人になり、母は私を責めた。ずっと、そうしたかったのだ。私の頬に口づけしながら、母は私を責めた。
『申し訳ありません。私も、マルレイと共に監禁されていたのです。扇動した男がいたので、逃げるように母上に呼びかけたつもりでしたが、届きませんでしたか』
「……いいえ。あなたの声は聞こえたわ。でも、何が起こるのかわからなかったの。パパは、国民に対してはお人好しなの。誰かが裏切るなんて考えもしない。王族のことを嫌っている人がいるなんて、想像もできない人なのよ」
母は私のオムツを替え、自らは上半身を肌けた。
「しばらく何も食べさせてもらえなかったから、お乳の出も悪いかもしれないけどね」
寂しそうに母は言う。私は、母の乳房に吸い付きながら、床に落ちていた木片を拾ってもらった。魔法を使い、マルレイに与えたのと同じような果実を実らせる。
当然、木片となっていたのは、実の生るような植物ではない。母は驚きながらも、その果実を口にした。
「……確かに私が産んだのでなければ、人間の子どもではないと思うところね?」
自らが魔術師である母は、私の行う魔法は、人間が失ってしまった力であることをよくわかっているのだろう。
母の肌はきめ細かく、乳は甘かった。私は少しだけ、赤ん坊らしい安らぎに身をゆだねた。
それから、母は荒れた部屋で私を抱き、少し休んだ。
すべての魔力を解き放った母が、すぐに戦場に戻ることはできないだろう。だが、それでも母が戦場に戻ることを私は疑わなかった。
私が戦場にとどまることを望んだのは、それが必要なことだからだと理解してくれているのだ。
母はごく短い休憩で目を開けた。
「まだ、少しぐらいは大丈夫よね?」
私が同意すると、母は私をきつく抱きしめた。
何も語らず、ただ、私を抱いていた。
母の体が震えていることに気づかないわけがない。
ただ、母は黙って私を抱いた。
やがて顔を上げ、母は魔術を使うときに必ず振り回していた杖を取り出した。
魔法の杖に、私には意味があるとは思えなかった。だが、母には必要なものだ。魔術を行うために必要なのではない。魔術を行うには、世界の理に語り掛ける必要があり、イメージを明確にするためのルーティーンとして必要なのだ。
「私がキールを守る。全国民よりも、キールを優先する。でも、キールは同じことはしないでしょう。それでいいわ。だから、もし私が先に倒れたら、キールがこの杖を使って。キールには必要ないのかもしれないけど、私があなたに残せるものはほかにないから」
母は一度だけ、私に杖を握らせた。ただの棒である。だが、母のぬくもりは伝わってくる。
「さぁ、行きましょうか」
私の手から杖を取り上げた母の顔を、私は一生忘れないだろう。
再び兵士詰め所を抜け、戦場へ戻る。
城壁があまりにも高いため、壁の向こうへ弓を放つこともできない。
内側に居るのは、武器を持ってはいても、戦いの経験がない市民兵だけだった。
本職の兵士の数があまりにも少ない。
私が尋ねると、母は広場の一番奥に陣取ったまま教えてくれた。
「この数日、魔物の本隊が近づくにつれて、先発した魔物たちが襲っては来ていたのよ。もう、まともに戦える兵士なんて、はじめからいないわ。私たちができる限りの抵抗をすれば、被害を恐れた魔物の指揮官が停戦を求めるはずだって……パパは言っている。それだけが、生き延びる可能性なのでしょうね。でも……私には、それだけの力がこちら側に残っているとは思えないわ」
私は、母のために木片から椅子を作りだした。
城壁の上から、人間が降ってくる。
魔物が城壁の上に達したのだ。
私も、母と同意見だった。




