33話 善と悪
『母上』
私は母に呼びかけた。このまま王の一族全員が、つまり私を含めた父と母が殺されれば、人間は滅亡の道をまっしぐらに進むことが容易に想像できた。
この場面は切り抜けなければならないのだ。
私は、監禁生活で長い祈りをささげたおかげで気持ちが落ち着いたのか、『源魔法』の書で知識を得たためか、脳裏に選択肢を思い浮かべる必要もなく、魔法を行使できるようになっていた。
私の目の前には、間違いなくドゥーラごと丸呑みにできるサイズの口を持つ、巨大な黒いドラゴンが浮かんでいる。翼を力強く羽ばたかせているが、翼の浮力だけで飛んでいられる巨体とは思えない。おそらく、飛ぶのに魔力も使用している。
以前ワイバーンを退けたように、『浮遊』の魔法を使っただけで勝手にどこから飛んで行ってしまうということは期待できないだろう。
母がぴくりと動いたのが見えた。ドゥーラに持ちあげられたままだったが、私も首を動かすことぐらいはできる。
「キール……」
掠れて声にならない。つぶやきにすらならない。母の気力が枯れていることが、私には辛かった。ただ、魔力は枯れていない。魔術が使えない状況ではない。母はただ、絶望している。
「よくやった。人の子よ」
がらがらとした声で、悪魔ルーシェルは言った。ドゥーラが歓喜の声を上げる。危うく私を落としそうになった。
『母上、お目覚め下さい』
「……キール、どこなの? あなたは、どこに行ってしまったの?」
『申し訳ありません。いまは、1メートルほど南でしょうか』
「……キール?」
母の声が跳ね上がる。太い鎖に拘束されたまま、母は頭を上げた。ドゥーラに持ちあげられた私を見た。私の向こうにいる、巨大なドラゴンを見た。
「褒美をやろう」
私は、悪魔ルーシェルがドゥーラを殺すつもりなのだと気づいた。
「キール!」
私は、母が何としてでも私を助けようとするだろうことに気づいた。
私は祈った。ドゥーラの魂が、救われることを。
悪魔ルーシェルの命により、ドラゴンがドゥーラを飲み込もうとする。
ドゥーラは最後まで疑っていなかった。
至福の表情を浮かべたまま、ドラゴンの牙に貫かれた。
私は後方に投げ出された。
宙を舞い、空中で制止した。
世界の理を通じて、語り掛ける。
父を縛り付けていた杭を腐らせ、母を束縛していた鎖を断ち切る。
城壁の上に父が落ち、その傍らで母が立ち上がる。
「貴様……何者か!」
まだ赤ん坊にすぎない私だが、なんの支えもなく宙に浮いている。
私のことを知らず、父と母の命を狙うのだとすると、個人的な恨みでもあるのだろうか。
だが、もはや始まってしまった戦争を止めるのに、直接の原因を突き止めようとすることがいかに無意味か、私も承知している。
私は祈った。
残された全人類が許されるように。
人間を滅ぼそうとしている者たちが、許されるように。
私を害そうとしている者たちに、罪が及ばないように。
そのとき、天空から光が降り注いだ。
私に向かい、細く、弱く、だが温かい光が落ちる。
宙に浮いている私を、母が抱いた。
母の腕に久しぶりに抱かれ、私は、世界の安息を祈った。
私に降り注がれた光が、一気に拡散する。
この世界全土を包み込むまで広がった光は、善なるものであると私は感じた。
悪なる力の象徴である黒いドラゴンが咆哮する。
ドラゴンの口の中に、飲み込まれつつあるドゥーラの上半身が見えた。
私は、高く天に働きかけ、この地に作用している魔法を、終わらせた。
それは一時的な効果にすぎなかったが、間違いなく効果が発動した。
城塞の南側のひらけた地形に、すし詰めのように並び、いまにも人間たちに襲い掛かろうとしていた魔物や悪魔の群れが、叩き潰されたようにべちゃりと沈んだ。
魔力が無ければ立っていられない者、魔力によってこの世界での姿を維持している者たちが、潰れた。
乗る前の黒いドラゴンも、思った通り、魔力がなければ飛んでいられるはずがなかった。私がこの周辺の魔力を一時的に終わらせた瞬間、落下を始める。その背に乗っていた悪魔ルーシェルは存在そのものが維持できなかったようで、姿を見ることなく消滅した。
『母上、魔力で飛行している者たちは落下しました。今、飛んでいるのは純粋に風の影響を受けている者たちです』
「でも……私も……力が……」
忘れていた。母も、絶大な魔力によってその力を示して来た人だ。私の広範囲に及ぼした力は、それほど長時間続くわけではなかった。
母は杖を取り出した。母を拘束した人間たちも、いざという時に杖だけで戦える母の武器まで、取り上げようとは思わなかったのだ。
魔力が戻る。そのことを母も理解した。上空で飛び続ける魔物の数は、半分に減っていた。それだけ、魔力に頼って宙を舞う者たちが多かったのだ。もう半分は地上に落下している。
「風よ! 我が命に従い、我と我が子に害成すものを討て」
風の玉が生まれ、母の呼びかけと共に拡大する。この地は風に守られた地である。母の呼びかけに、世界が答えた。
だが、足りない。
『城塞の中の人たちは大丈夫です。母上の力で、この城塞を包んでください』
「……無理を言うわ。でも、面白そうね……風の精霊よ、猛き魂よ、我が同胞をその力強い腕で抱き、呪われし悪しき魂から隔絶せよ。世界の混沌を疾風の息で包め」
母の力で生みだされた風が、すさまじい勢いで力を増し、あたりを包む。勢いが着くと、この地の風の力を吸収し、城塞を中心とした巨大な竜巻が生まれた。
城塞の南側にむかって、竜巻がゆっくりと移動する。
空に浮かび上がっていた翼竜と呼ばれるワイバーンも、魔獣と呼ばれるグリフィンやヒッポグリフ、ロックチョウなどの巨大な魔物が、巻き込まれて抵抗することもできずに流されていく。
人間を滅ぼすために押し寄せた魔物の群れが、抵抗することもできずに風にのまれ、巻き上げられる。
すさまじい風の力を、すべてを飲み込む自然の驚異を茫然と見つめ、母がペたりと腰を落とした。
「……あれ……私がやったの? 私に……こんな力があったの?」
『お見事でした』
私の言葉に、母は私が窒息しそうなほど強く抱きしめた。
私が母に強く抱きしめられている一方、解放されたもう一人の人間が立ち上がる。
私の父である国王だ。
「ブロウ、よくやった。これでこの戦、勝機が見えた」
父は母の肩に手を置いた。私には、戦う理由が見えなかった。勝つことができるとは思えなかった。
地面に張り付いて竜巻を逃れた魔物の数だけでも、人間の数十倍はおり、巻き上げられて空中に投げ上げられ、地面に叩きつけられても致命傷にならない魔物がさらに加われば、人間は抵抗するだけ無駄だと思える。
その上、母はもう魔術を使えない。限界まで振り絞り、ただ一つの魔術にすべてをかけたのは私にも解っている。
おかげで、上空の魔物はすべて吹き飛ばされた。魔物たちは、すべて高層ビルのような城壁をよじ登らなければならない。
「ここまで生き延びた王国の民よ! 城壁を越えられる魔物は王妃ブロウの魔術で敗北した! これが最後の戦いだ! 動ける者は武器を取れ! 最後の一人まで戦うのだ!」
王の声は、はるか下にいた広場の民衆に轟いた。
人々の歓声が起こる。自分たちが滅びようとしているのだという自覚がないのだろうか。
母の行った魔術の力を信じ、王の言葉を信じたのだろうか。
城壁にいた、さきほどまで王を見殺しにし、悪魔に捧げようとしていた男達も、正気に戻ったかのように王に従っていた。もともと、ドゥーラに騙されていたのだと言えば、その通りなのかもしれない。
母はまだ、私を抱えたままうずくまっていた。それだけ、疲労が激しかった。
「ブロウ、よくやった。後は男達に任せて、お前はキールを守れ」
「ええ。わかった。キール……それでいいのね?」
母は決断を私に委ねた。
「あば」
私は承認した。
いずれにしろ、父王が戦いを辞める選択肢を選ばなければ、何もできない。私だけで、すべての魔物を相手にすることはできない。この場は下がるしかない。
前線から引き、できる備えをしたほうがいいと思えた。
母は理解してくれた。
私と母は城壁の上から身を引き、高い城壁を挟んだ戦闘が始まった。




