31話 別れ
数日が経過した。
マルレイが軍師であった頃の計算通りなら、そろそろ魔物の本体が城塞に到着する頃だ。
私とマルレイが閉じ込められた小さな部屋は、ベッドと椅子、机に風呂まで完備した、快適な空間に変わっていた。
祈りを中断された私は、木の生命を操って調度品を次々に作りだしていた。
マルレイがもたらしてくれた『源魔法』の書を読破していたことが大きかった。火や水を扱う術を覚えていた私は、風呂に必要なお湯を容易に沸かし、マルレイに喜ばれた。
その幸せだった空間が破られたのは、人々の声によってだった。
人間の声を聴いて、不安になる日が来るとは思っていなかった。
聞こえてきたのは話し声だ。
争う声でも、怒号でもない。だが、私を探しているのは間違いなかった。
『ここに、キール王子を閉じ込めたのは確かなのかい?』
声に聞き覚えがあった。
私はマルレイを見る。
マルレイは頷いて返した。
「ドゥーラですね。兵士を一人見張りに着けたはずですが、現在はどうなっているかわかりません」
それはそうだろう。父が生きているかどうかもわからない。民衆が何もしなかったとしても、魔物との戦いで兵士はすでに全滅していることもあり得る。
『しかし、もう4日が経過している。逃げだしているんじゃなければ、死んでいるじゃないか?』
『いや、そうは思えないね。私には聞こえるんだ。この中に王子がいる。王子を捧げなければ、人間は許されない』
ドゥーラと、私の知らない男が話していた。
私にわかり安いように、ドゥーラが目的を話したわけではない。男に納得させるために、目的を話したのだ。
私は何かに捧げられる。
おそらく、城塞に押し寄せてきているいずれかの軍勢に捧げられる。
魔物たちの中に、私が魔力を操っていることを理解した者がいるのか、あるいは王の血族を皆殺しにしたがっているのかはわからない。
「大丈夫、私がついています。絶対にキール殿下をおひとりにはしません」
マルレイの知恵は私をはるかに上回るはずだが、私に危険が及ぶ時だけ、判断を間違えるようだ。
部屋の外から、積み上がった薪を崩す音が聞こえてきた。
私は、自ら出る気はなかった。
人間の選択を信じたかった。
出る時が来たようだ。
だが、私が信じた理由によるものではなかった。
マルレイは、私を抱いて部屋の奥に陣取った。
相手の数はわからない。たとえ一人でも、マルレイが戦って倒せる数は知れている。
私が力を振るえば、何百人いても圧倒できることを知っているはずだが、マルレイは私がそれをやらないことも知っている。
相手は人間である。
私はおとなしく、人間の処遇に身をゆだねるだろうことを、マルレイは知っている。
だが、私は人間の中で誰よりも、母とマルレイには傷ついてほしくなかった。
マルレイを眠らせてしまおうかとも思ったが、その間に私が奪われたとなれば、マルレイは自害しかねない。それでは意味がない。
仕方なく、私はマルレイに抱かれていた。
赤ん坊を抱いた騎士は、抗う方法もなく、崩される薪の壁を見つめていた。
最後まで、薪の壁は部屋の内側には崩れなかった。部屋に面していた部分の薪は、すべて私の力で変質してしまっていたからである。
部屋の中には、たった一種類の樹木から生った複数の果実があふれ、入口近くでマルレイが浸かった風呂の残り湯が湯気を上げている。
「……なんだい? この部屋……こんな部屋で、王子が死んでいるはずがないだろう」
壁を取り払った後、ドゥーラが呆れたように言った。まだ、修道女のような服を着ている。私は気に要らなかったが、様子を見るために赤ん坊であり続けた。
「そんなはずはない。この部屋は、家具なんかなかったはずだ。食べ物だって……たぶん、どっちかは飢えて死んでいると思ったんだ」
部屋の外には、10人近い民衆が押し寄せていた。
私を連れ出すというのは、かなり重大な事項であるようだ。
だが、私は男の言い方が気に入らなかった。
私とマルレイが閉じ込められ、どちらか片方が死ぬと思っていたのなら、死ぬのは赤ん坊である私の方だ。それが普通の考え方だろう。
だが、マルレイが、私が先に死ぬことを許すはずがない。万が一私が死んだとしても、マルレイが生きるために、私の肉を食べるはずがない。
私は怒りを覚えた。怒りを覚え、男に後悔させることにした。
男の脳にある記憶を呼び起こした。
途端に、男は膝をつき、泣き始めた。
「……悪かった。俺が家の金に手をつけたんだ。裏切るつもりじゃなかった。母ちゃん、許してくれ……」
「……何があったんだい?」
「殿下」
マルレイだけが、何が起こったのか理解した。私をぎゅっと抱きしめる。
「……ありがとうございます」
私がマルレイのために腹を立てたことまで理解したらしい。どうにも察しが良すぎる。
私は、少し照れてしまった。
「見ただろう。こいつらがやったんだ。こいつら、魔物の仲間さ。だから、キール王子を寄こせって、あの魔物の親玉も言っているんだ」
言ったのはドゥーラだった。ドゥーラに命じたのであれば、おそらく魔物ではなく悪魔だろうが、ドゥーラはここにいたっても正体を隠したいらしい。
「ああ……だが、これはどうしたことだ? 確かに、何もない部屋に閉じ込めたはずだ」
別の男が部屋に踏み込み、机の上に置かれていた果物を手にとった。私が植物の生命をいじって作りだした産物である。見たことがあるはずもなく、ずっととじ込めていたはずの部屋に置かれていたにしては、あまりにも瑞々しい。
男は口元をぬぐった。空腹なのだろう。
魔物が襲来する中、生き抜こうとすれば、当然食べ物は切り詰めなければならない。満足に食べているはずがない。
「キール王子は魔物だ。その証拠だろ。あの王妃だって、魔物の子を宿したんだ。正体は化け物だろう」
「違います」
答えたのはマルレイだった。すでに体力はすっかり元に戻っている。軍の中で唯一女であり、軍師でもあった強い意思と声が戻っている。男達を怯ませるのに、十分な力を持った声だった。
「あの女も、軍を指揮してきた張本人だ。ひょっとして、人間を滅ぼすためにこんな山の中に引きこんだのかもしれないよ」
ドゥーラはマルレイを侮辱したが、マルレイは冷静だった。自分のことを侮辱されても一向に怒らないのが、マルレイの賢いところである。
「ドゥーラ、あなたは人間ですか? それとも、上手く化けている悪魔ルーシェルの配下ですか?」
「余計なことを言うな!」
ドゥーラは口角から泡を飛ばした。背後の男達には少しだけ動揺が見られたが、ドゥーラのことを疑っていなかったのだろう。表立っては何も言わなかった。
誰も部屋には入ってこられなかった。
入口に積み上げられ、封鎖していた薪を除いても、私が色々と利用する過程で、長い枝が複雑に入口に立ちはだかっていたのだ。
私はさらに魔法を使った。
マルレイが私を抱いて陣取っている部屋の、最奥のベッドに使われている木の成長を促進させ、部屋中に枝を張り巡らせた。
これで、誰も入ってくることも出ることもできない。
私のように、極端に体が小さな者は例外だ。
驚いているマルレイは、私から意識を離した。
私は、その隙にマルレイの腕の中からベッドに降りた。
「キール殿下、どうされたのです?」
マルレイの顔を見上げる。私を再び抱き上げようとして、枝に邪魔されて動けなくなっていた。
私はマルレイに感謝した。
よく、ここまで私を信じてくれた。
だが、私のために命を落とすべきではない。
私は、ずっと封じてきた魔法を使うことにした。
それは、マルレイに対するせめてもの礼だ。
『すでに魔物の本隊が到着しているのでしょう。私は民衆と共に行きます』
「これは……キール殿下の声ですか? キール殿下、いけません。魔物が、殿下の力を知れば、殿下を生かしておくはずがない」
『私は大丈夫。もう、十分に生きました。せめて、この場で人間が全滅しないように、最善を尽くします。マルレイは、ファアを頼みます。どこにいるか解りませんが、見つけて保護してください。これから先、ファアだけが負傷した人間を救えるようになるかもしれない』
マルレイは頷いた。だが、私に迫ろうという努力は続けていた。私の言うことを理解しても、私が自ら死のうと考えているのだという恐怖に囚われている。
「キール殿下、お待ちください。死地へなら、私も一緒に」
『マルレイ、あなたにだけは、生きてほしいのです』
私が念話でそう告げると、マルレイの動きが止まった。
マルレイが顔を伏せた。
私は背を向け、部屋に入ろうともがいている人間たちの元へ向かった。