30話 独房での生活
この世界はすでに神に見放されているのかもしれないが、私は祈った。
人間が滅亡するにしても、これ以上の罪を犯さないように祈った。
私が目覚めても、魔法による眠りに強制的に入らされたマルレイは目覚めなかった。魔法で起こさなければ起きないという強い呪いではないはずなので、眠らせておくことにした。
マルレイは瀕死の重傷を負った後も、私のために忙しく働いていた。
休息が必要だ。
私はマルレイに抱かれるような位置のまま、無心で祈っていた。
独居房のような狭い部屋に、入口は大量の薪で埋められているので、中は静かだった。
祈りを捧げるにはちょうど良い環境だ。
私は無心に祈り続け、時間を忘れた。
意識を祈りに集中させると、宇宙と一体となる感覚を得られる。
前世では、それはヨガの達人でなければ至れない感覚だと言われたが、私には難しいことではなかった。
今も宇宙の声を聴き、宇宙の鼓動を感じる。
どれだけの時が流れたかわからない。
マルレイが起きていた。
私と共に祈ってくれた。
私が祈りを捧げていることを理解したのだ。
マルレイが倒れた。
私は祈り続けていた。
マルレイが床に倒れる音が、私の祈りを中断させた。
私がマルレイの身を案じたが故だ。
マルレイは痩せていた。もともと痩せていたが、私が記憶している軍師の姿ではなかった。
空腹なのだ。
私のように、前世で100年を修行に費やしてからこの世界に来たわけではない。
マルレイは空腹で倒れたのだ。
外での時間がどれだけ経過したのかはわからない。
相変わらず、この部屋の中は静かだった。
マルレイと私を閉じ込めた人々は、私たちの存在を忘れてしまったのかもしれない。
あるいは、生かす気もなかったのかもしれない。
最悪の場合、私とマルレイ以外の人間が全滅してしまったことも考えられる。
だが、私は自らこの部屋を出るつもりはなかった。
私はできるだけのことをしてきた。
人々がその結果、私を死に追いやるというのなら、それもいいだろう。
私の力が足りなかったのは残念だった。ただ、それだけのことなのだ。
だが、私はマルレイが死ぬのを目の前で見たくはなかった。
100年を生きた私から見れば、まだ産れたばかりの少女にすぎない。
その少女が、誰よりも賢いはずの少女が、私のために働き、私の名誉のために命の危険を顧みず、そのまま命を落とすのを、私は見過ごしにはできなかった。
私は世界の理に働きかけた。
私の脳裡に、魔法の選択肢はもはや浮かばなかった。
長い祈りが、私にこの世界の力を操る法則を教えてくれた。
私は大気を漂う水分を集め、その水分に人間にとって必要な栄養素を集めた。
私の手から、マルレイは生きるための水を受け、口に含み、しばらくして、目を開けた。
「……キール殿下? 私はまた、殿下に助けられたのですね」
目を開けたマルレイは、真っ先に私に感謝した。私には、出来過ぎた騎士だ。
やはり私が心配した通り、私とともに祈り続けていた間、マルレイはさらに痩せていた。
私はハイハイして、部屋の入口を塞いでいる、積み上げられた薪の壁に向かった。
この薪も、私がドングリから成長させて大木にしたものを人々が使いやすいように割ったものだ。
「この壁をなんとかしないといけませんね」
マルレイも薪の前に立った。壁に体を預けて肩で押したが、大量に積まれているらしく動くことはなかった。もっとも、私がこの壁に向かったのは、外に出るためではない。マルレイも、私の意図を完全に理解できるわけではないのだ。
私は、細かくされた木の肌に手を当てた。
再び強制的に成長を促す。
私が知っている種類の木ではなかった。
だから、単に成長を促すだけでなく、植物の種性を変化させた。
マルレイが下がる。私の邪魔をすることを恐れたのだ。
割られた木の肌から、新芽が芽吹く。これだけでも、本来はあり得ないことだ。
栄養を吸収する根もなく、吸収するべき栄養もない。そもそも、芽吹くような生態をしていない。
だが、私の望みに答えて芽吹くと、木の芽は勢いよく成長した。
この木本来の植生を無視し、鮮やかな緑色をした蔓を伸ばした。咲くはずのない花を咲かせ、自ら受粉し、花の咲く元から実をつけて膨らんだ。
床の上に、まるで焼きたてのバンのような形をした、ふっくらした果実が転がる。
マルレイは、その様を茫然と見つめていた。
「……これも……キール殿下が?」
「だぶ」
「……いただいてもよろしいですか?」
私はうなずいた。マルレイが気絶した主な理由は、体力の衰弱である。そもそもの原因は、空腹である。マルレイが果実を拾う手は震えていた。それが体の衰弱によるものか、精神的な動揺によるものかは私にもわからなかった。
果実を拾い、口に含む。私は食べることができない。まだ歯が生えていない。
マルレイは、とても美味しそうに果実を頬張った。
食べながら、涙を流していた。
その涙が意味することは、私にはわからなかった。
私と出会ってからのほんの数日の間でさえ、あまりにも様々なことが起きた。
その以前のマルレイの人生を私は知らない。
私は、マルレイに背を向けて祈りを再開した。
泣いているところを見られたくはないのだと思ったのだ。
「……今度は、殿下の番です」
マルレイは食事を終えると、私に呼びかけた。いつもとは少し違い、私の考えを探るという言い方ではなかった。
やや有無を言わせぬ口調で、私を振り向かせた。
私を抱き上げる。
祈りを強制的に妨げられたのはずいぶん久しぶりのことだ。
私はマルレイに抱きあげられた。
マルレイは、上半身をはだけていた。
私の『番』とは、食事のことだろう。
「あの木は、決して実をつける植物ではありません。それなのに、殿下は私のために実をつけさせた。なら、私の体に母乳を出させることぐらい、簡単にできるのでしょう?」
その通りだ。
私は目の前のマルレイの乳に口をつけた。
ほんのわずかに、マルレイの体を変化させる。
私の口の中に、マルレイの生きた証が流れ込んでくるようだった。
マルレイの体は大丈夫なのだろうか。魔法には、魔力のみでなせるものと本人の体に負担をかけるものがある。手足の復元などは、代わりに寿命が縮まるし、重症の怪我を回復させると、体力が奪われる。
本来出ないはずの乳を出させるということは、体にそれだけの負担を強いているはずだ。
私が視線だけを上向かせると、マルレイは優しくほほ笑んだ。
「私のことはご心配には及びません。私は、キール殿下のために身を削れるほど、名誉なことはないのです」
マルレイの言葉は嬉しかったが、私は自身の命を保つために必要なだけをマルレイから摂取し、マルレイの体を戻した。
「……もう、よろしいのですか?」
むしろ、マルレイは不満そうだった。私はマルレイの乳首に再び吸い付き、まだ飲んでいる振りをした。
マルレイは幸せそうなほほ笑みを作りだした。
私は、しばらくマルレイの笑顔にみとれ、私自身も幸せなうちに、眠りに落ちてしまった。
私と騎士マルレイの生活は、この追いつめられた状況下でありながら、幸せに満ちた充実したものだった。




