29話 滅亡への行進
女性にしても音質が高いマルレイの声は、市民広場全体に響き渡った。中央の台の上で演説をしていた男が、ぴたりと止まった。
同時に、私とマルレイに対して視線が集まった。
「キール殿下への侮辱は許せません! 人間を一人でも多く、一日でも長く生きさせるために、どれほど腐心しているのか知りもしないで!」
私はマルレイの服をぎゅっと掴んだ。どうしてマルレイが、そこまで私の考えを読んでいるのかわからなかった。母にさえ、そんなことは言ったことがない。その上、マルレイに『念話』を使って語り掛けたこともないのだ。
「お前は軍師マルレイだな」
男の声は、演説していた時より静かに、だがそれだけに薄気味悪く、地を這うように響いた。
「もう軍師ではありません。キール殿下の騎士です」
「我々を皆殺しにして、王だけを、王と王妃と、その息子だけを生き延びさせようとしているのではないのか?」
「よくもそんなことを! 恥を知りなさい!」
マルレイが、冷静に、計算しつくした上で声を荒げているようには見えなかった。それすらも、演技なのかもしれないが。
私は、マルレイが無用な危険を冒していると感じていた。止めようとした。服を掴んで引っ張るが、私の意図は通じなかった。ファアに助けを求めるが、ファアは近くにいた私の知らない女の腕に抱かれていた。
たまたま近くにいただけで、私やマルレイとは無関係だと思われたのだろう。
保護したのだ。ファアを保護しなければならないと感じさせる状況になるだろうと、その女は思ったのだ。
正常な判断だと私も思う。ファアを保護してくれた女に、私は感謝した。
「その抱いているのはキール王子だな。さっきから泣きもしない。まともな赤ん坊に、お前には見えるのか?」
「この、人間が滅びるかもしれないという非常時に、赤ん坊がまともであることにどんな意味があるのです!」
「キール王子こそ、魔物の子ではないのか?」
マルレイは私を抱く手に力を込めた。私のことを、魔物の血を引いているのではないかと疑っていたとしても、それは仕方がないことだ。私は赤ん坊らしくあることを放棄していたのだから。
「キール殿下への侮辱は許しません。今すぐに謝罪しなさい。さもなければ、私がこの場で……」
私は、これ以上マルレイに言わせてはならないと感じた。『生命魔法―堕睡』を使用する。初めて使うが、強制的に眠りに落とす魔法に違いない。
マルレイは突然言葉を切り、膝をついた。腕の中の私に目を落とす。
「……キール殿下?」
「ばぶぅ」
私は、私を庇い、私の名誉を守ろうとしてくれたマルレイに感謝の言葉をかけた。私を抱いたままマルレイは眠りに落ちたが、私を人々から隠すように覆いかぶさった。
私は身動きができず、その代わり、怒れる人々からマルレイによって守られた。
マルレイが眠りに落ちてからの人々の動きは早かった。
私をマルレイから引きはがし、一人の女が私を気持ち悪そうに抱き、演説をしていた男が指示するままに、王と王妃の部屋に向かって移動した。
演説していた男が先頭である。
私は『念話』を使用した。できるかどうかは確信がなかった。
近くにいる人間、つまり母にしか使用したことがなかったのだ。
私は遠くの母に向かって、逃げるよう呼びかけた。突然のクーデターである。兵士のほとんどは外からの侵略に備えており、抵抗すらできずに、王も王妃も捕まってしまうだろう。
だが、母は優れた魔法使いだ。抵抗すれば、人々に多くの犠牲がでる。だから、逃げてほしかった。
問題は、母が『念話』を使えないことである。
かつて、私の呼びかけに母が心の中だけで返事をしたということはない。
仮に私の声が聞こえていたとしても、母は返事をする手段がない。私は、母が私の声を受け取っているかどうか、判断することができないのだ。
マルレイの体が引きずられていく。マルレイは女性にしても体格に恵まれず、軽いはずだ。それなのに、引きずって移動させるのは、扱いがぞんざいだからである。
だが、殺されることはないだろう。あのままマルレイに言い争いをさせておけば、男を言い負かしたかもしれない。
だが、それが事態を治めることになるとは限らない。男にそれなりの求心力があれば、激昂して暴力に訴えるかもしれず、その場合、マルレイは酷い暴行を受けて命を落としただろう。
その時、私にマルレイを守るために人々を傷つけることはできない。
私には、それまでの覚悟は無い。
私を支持し、私を愛してくれる人々以外の人間は、死んでも構わないと言い切るだけの覚悟は無い。
一人でも多くの人間に生きてほしいという私の希望が、どれだけ強欲なのか、私は思い知った。
引きずられるマルレイの姿に、私はこれでいいのだと自分を納得させ、同時に私の弱さ、私の欠点を垣間見ていた。
「この子はどうする? やっばり、噂通り気味が悪いよ。世話をしてくれた女があんなになっても、泣きもしない。本当に魔物の子かもね」
「そうだとしても、勝手に殺すわけにはいかないだろう。きっと……魔物に差し出して、俺たちを助けてもらうとか、そういうことに使うのかもしれない。面倒を見るのが嫌なら、あの女と一緒にしておけばいい」
「そうだね」
王と王妃を殺しに行きそびれた民衆が、私を取り巻いて相談している。どうやら、私は殺されずに済みそうだ。
いや、あくまでも、すぐには、という意味だ。
引きずられていったマルレイと同じ部屋に入れられた。狭い部屋である。
出口に見張りが立ち、扉が朽ちてなくなっていたため、薪が積み上げられて出口は塞がれた。
私が魔法で強制的に成長させた樹を薪にしたものである。
ひょっとして、私を恨んでいるのか?
私は私とマルレイを閉じ込めた薪を見上げたが、答えは返されなかった。
一人ではないことが嬉しかった。
母のことは心配だが、母がいなければ人々は生きられない。そのことは知っているはずだ。殺されることはないだろう。飲み水は数日と持たずに枯れてしまう。母の力なくして、生活は維持できないのだ。
マルレイはまるで死んだように眠り続けていた。
私が眠らせたことは、マルレイなら気づかないはずはない。
起きた後で怒るだろうか。
怒られても構わないと、私には思っていた。
どうも、本当に私はこの幼い騎士が好きらしい。
ただ眠っているだけの騎士がそばにいてくれるだけで、私はとても落ち着いた。
再び魔法を使えば、マルレイを起こすことはできるだろう。
だが、私は寝かせておくことにした。
あきらかに働き過ぎだ。
眼鏡をしていたから気づかなかったが、目の周りはまるで殴られたようにくっきりとくまができている。
無造作に捨てられるように扱われ、床の上に横になっていたマルレイの懐に潜り込み、私はその両腕に抱かれるように、眠ることにした。
人間は滅びに向かっている。
魔物によって滅ぼされるか、人間が人間を滅ぼすか。
私には力が足りなかった。
暴力で押さえつけてまで、私は自分の正義を貫く覚悟はない。
100年間の前世で聖人と呼ばれた私は、この難局ではいかに無力かが知れる。
人々が滅亡を望むのなら、私にそれを止めることはできないのだ。
いまはただ、信じるしかない。
信じて待つしかない。
人間がどんな結論を出そうとも、私は、せめて守れるものは守りたい。
マルレイに寄り添い、私は眠りに落ちた。




