20話 瀕死のマルレイ
「だぶだぶ」
私は連れ出そうとするファアに抵抗した。奥にマルレイがいるかもしれないのだ。ひょっとして死にかけている。
このままでは帰れない。私なら、癒せるかもしれないのだ。
「駄目だよ。赤ん坊が起きている時間じゃないし……あれっ?」
少女ファアは暴れる私に手を焼いていたが、突然私の顔を覗き込むように視線を合わせた。
「だぶ」
「殿下の大事な人が、向こうの部屋にいるんだね」
ファアは私を抱き直した。
部屋から出ようとしていたところだったが、敷居の直前で向きを変えた。
「ファア、何をしているの?」
当然、修道女のような恰好をしたドゥーラに見咎められたが、ファアは私をしっかりと抱えて言った。
「この子、ちゃんとわかっているよ。向こうに、誰か大切な人がいるみたい」
「そんなこと、赤ん坊に解るはずないじゃない」
「ううん。この子……ドゥーラ、お願い」
女は腰に手を当ててファアを睨みつけていたが、ファアが頭を下げると、突然兵士たちの容態が気になりだしたようだ。
「私は見ていないよ。キール殿下が夜泣きをして収まらなくなったら、ファアが子守をするんだよ」
「うん……ありがとう」
どうやら、ファアは少し不思議な力を持っているのだ。そのことをドゥーラも知っているのだろう。
私を抱えて奥の部屋に入ろうとしていたファアに、私は『知覚魔法―魔力検知』を行った。
明らかに強い魔力をファアはまとっている。ただし、母の持つ魔力とは性質が異なる。
ファアの魔力はとても温かく、まるで母の胎内に戻ったかのような安らぎを感じる。
人間が魔法を3つの系統に分けた基準から判断すると、ファアは治療術師の力を持っているのではないかと感じられた。
いまのところ、私の想像でしかないし、本人もまだ力を使いこなせない。だが、これは人間にとってじつに大きな朗報だ。ファアが早く魔術に目覚めれば、戦力が数十倍になるのも同じことだ。
私は人間の希望を見ながら、よしよしと背中を叩かれ、より重症の患者が収容されている奥の部屋に運ばれた。
奥の部屋は暗い。
一切の明かりもなく、ただ血の臭いだけが立ち込めていた。
明りを灯さないのは、せめて安らかに死を迎えられるようにとの配慮なのだろう。
私は光を呼ぶことはできたが、死に向かう人々の神経を刺激したくはなかった。
ただ、何も見えなくては困るため、『生命魔法―身体強化』『生命魔法―変質』により、自分の目を夜行性動物のものへと変えた。
複数のベッドに横たえられていた人々は、身動きすらできず、小刻みにけいれんをしているだけで、かろうじて息をしているにすぎないように見えた。
ベッドはほぼ埋まっている。
これが行軍の途中であれば、捨てて置かれるのが当然だというほどの重傷の患者たちである。
その中に、私は軍師マルレイの姿を見つけた。
壁際のもっとも暗いベッドの上で、マルレイは横になっていた。
ベッドは赤く染まり、流れた血は床に達していた。
私はマルレイを指さした。ファアはあまりにも凄惨な人々の姿に目をそむけながら、私を奥のベッドに運んだ。
かすかに、マルレイは息をしている。
まだ、生きている。
私はマルレイの生命を感じた。
見て分かったのではない。背中を向けていたので、呼吸の有無はわからない。ただ、感じたのだ。
私は降ろしてほしかったが、ファアはためらった。私の服が血で汚れると思ったようだ。
「だぁぶ」
私が抗議の声を上げる。普通の人間には通じないだろうが、魔法の素質を持ち、自らも不思議な現象を起こすと周囲からみなされていたファアは、私の意思を理解した。
私を、マルレイの前方に下ろした。
マルレイは起きていた。
口から血を流し、腹部からも血がにじんでいた。
細い空気の音は、肺に穴が空いているのではないかと思われた。
マルレイは目を開けたまま、何も見ていないかのようなうつろな目をしていた。
私に魔術書をもたらし、城塞の中を見せてくれた聡明な女軍師の姿はなかった。
生きる希望さえ失い、ただ死を待つだけの存在になり下がっていた。
「……殿下?」
かすかに、口の動きだけでマルレイは言った。100年以上生きた私には、何が言いたいかははっきりとわかっていた。
「ばぶ」
だが、相変わらず私の言葉は意味をなさない。
「……どうして?」
マルレイの問いには答えず、私は黙って首を振った。
『生命魔法―治癒』
私はただ絶望の淵にいるマルレイの体に抱き付き、魔法を行使した。
『生命魔法―蘇生』
死にかけている細胞を癒し、潰れた肺と折れた肋骨、砕けた全身の骨を正しい形に戻した。
『生命魔法―回復』
似たような魔法でありながら、少しずつ作用が違う。前の二つは主に本人の治癒力に働きかけるものだが、最後の回復は世界の理に働きかけて半ば強引に傷を癒すものだ。
それだけ立て続けに魔法を使用しなければ、軍師マルレイは癒せなかった。
マルレイは目をしばたかせた。私の顔をじっと見た。
上半身を起こし、自分の体を叩いた。
さらに私を見降ろした。
「キール殿下……まさか、あなたが?」
私は答えなかった。マルレイが死から免れた。ただそれだけが重要だった。
マルレイの向うで、少女ファアが驚いているのもわかった。
ファアの前で治療を行ったのはわざとである。魔法の使用を見せて、治療術師としての覚醒を促したかったのだ。
私にこの世界の魔術の知識がなかったため、それが正しいことなのかどうかもわからないが、ファアは私が魔法を行使したことは理解したようだ。
「ありがとうございます。私なんかのために」
マルレイは私を抱こうとして、動きを止めた。ベッドから降りて膝を折り、まるで臣下がするように頭を下げた。
「だぁぶぅ」
私は辞めるよう諭したが、伝わっているとは言い難い。
「キール殿下は私の命を救われました。私も、この命をキール殿下に捧げます」
捧げてほしくはない。自分のことだけを考えて、生き抜いてほしい。
私の想いはマルレイには届かなかった。
ファアが私を持ちあげる。
「他の人にも、するの?」
「ばぶ」
当然である。
「じゃあ……私も手伝いたい」
ファアは言った。
「キール殿下、あまり無理は……」
マルレイが留めようとしたが、私の体を心配してのことだ。私はマルレイに小さく頷いた。
マルレイは私の意思を理解し、ファアから私を受け取った。私を瀕死の兵士の元に運ぶ。
私はファアを見た。ファアが近くによる。ファアに腕を伸ばさせ、私はファアの腕を介して『生命魔法―回復』を使用した。
瀕死の兵士が、重傷の兵士に変わる。
当面は十分だ。
私は治療より、ファアに魔法を使う感覚を覚えさせることを意識しながら、人々を癒していった。