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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第四章 水の語り 『黄金果の遊戯』1

 いて下さってありがとうございます。


 天の雲を突いて聳えるベレ・サオの峰。その数多くの滝から水を集めて谷間に生まれた川、それがコタ・シアナである。

 彼女は東西ふた方に地を分けつつ、その麗しい水の多くを東のイナ・サラミアスの山肌から得て大きく西へと道を取り、旅路の始まりから大きな湖(クマラ・オロ)に注ぐ果てまでに、横たわるいくつもの森や湿原を生み出していた。同じくベレ・サオから生まれた二本の河と共に、イナ・サラミアスの水はエファレイナズの木々と獣、そして耕地と人々の命を支えている。

 人々が水と豊穣に感謝し仰ぐのは太陽の昇る地でもあるイナ・サラミアスであった。西に耕地を拓き定住する人々にとって、コタ・シアナの向こうは、知られざる神秘の国であった。

 イナ・サラミアスの南部はなだらかな高地であり、コタ・シアナへと裾引くその地には広大な森が広がっている。森は高くなるにしたがって様相を変え、ハイマツや丈の低いナナカマド、釣鐘型の花をつけるツツジ、束の間の命の可憐な花々の咲く広い高原となる。

 高原には時に希少な薬草をもとめて人々が訪れた。

 その中にイーマの四つの部族のひとつヒルメイの若者がいた。

 若者は誰よりも霧深い山奥に分け入った。他の者が躊躇する険しい岩場では岩に親しむ木の根のように沈着であり、霧の中では霧に洗われる草木と同様に慌てなかった。

 イナ・サラミアスには天界と下界を分ける原があるという。未だ誰も知りえぬその原は“神々の集う地(ナスティアツ)”と呼ばれていた。ナスティアツを目にする者は今わの際にある者か、さもなければ正気でない者と言われていた。しかし、若者は季節を問わずに天地の狭間のその地を訪れ、貴重な薬草を見つけてきた。朱色の鳥の形をした花であった。若者の言うところによると、霧の間に垣間見るその原はいつでも夏だという。

 イーマの民の者は、彼のその才を母の血筋によるものと見なした。また年寄りの中には“産むべきでない女から生まれたありうべからざる男児”である故の能力だと囁く者もいた。

 イーマの女たちは、春から夏にかけて一族の男たちの元を離れ、南の“蚕湖(クマラ・シャコ)”湖畔のティスナに滞在する。若者の母もそうした女達にたち混じり、初子を宿して深山の湖へと戻ったのであった。

 彼女はただひとり、湖の上の聖地“白糸束(ティウラシレ)”の産屋で息子を産んだ。赤子を取り上げた聖地の門の守女(シュムナ・タキリ)ルメイは他の女達が訪ね来るのを許さなかった。一介の男との婚姻によりその最も神聖な地位を退いたものの、赤子の母は、かつてはイナ・サラミアスの女主、女神サラミアの憑人(よりまし)である巫女であったのだ。

 子供は、時たま訪ねてくるルメイに会う他は母とふたりきりだった。いや、母でさえ、湖畔に下り、小さな蚕の世話をしに出掛けてしまうことがあった。それでも子供がひとりぼっちになることはなかった。

 春の日が新緑を空一面に輝かせる頃、幼い子は光に誘われるままに庵を抜け出し、母に似たしなやかな足を目にとめ、追って行った。足は立ち止まり、振り向いた。子供は追いついた膝にすがって笑い、その腕に抱かれて眠った。湖畔から胸騒ぎを覚えた母が蒼くなって彼の名を呼びながら“聖なる川(コタ・ミラ)”の流れを辿って登って来ると、子供は柔らかい苔に丸い頬をのせて寝ていた。

 子供は足が達者になるほどに遠くまで駆けて行き、流れの速い沢の際で母に抱きとめられ、たしなめられた。そんな日は母は子供をひしと抱きながら、立ち並ぶイスタナウトの木々の中を何度も透かし見て家に帰った。

 子供は大きくなり、身体つきも均整がとれてきた。ある夏、母はティスナの娘たちに機織を教えに下りて行った。家に置いておかれた子供は沢沿いに長い道を下りて来た。湖畔のカバの林の中で、五人の娘たちが歌謡の練習をしていた。子供が声を聞きつけてやって来、木の陰からそっと顔をのぞかせると、娘たちはすぐに見つけて駆け寄って来た。そしてシャラの木のように引き締まった滑らかな腕で子供を抱きしめ、順繰りに膝にのせては顔を覗き込み、笑いはやした。子供の顔は小さくて丸い他はその母にそっくりだったから。

 数を覚え始めた子供は膝が変わるごとに大声で数えた。「いーち、にーい」新しい腕が次々に抱え上げては下ろした。「ろーく!」数えてから子供はびっくりして見上げた。母に似たその面影は母よりもずっと若々しかった。

 少女たちは大声を上げて母を呼んだ。子供があたかも見えない姿を追うように駆けだしたからだ。母は、ほどけた髪をなびかせて駆けつけた。そして水辺で辛くも子供の前に立ちふさがり、見ているいくつもの目の前でつかんだ腕を引き寄せるや、子供の頬を打った。音の高さに立ちすくむ娘たちを、鋭い声が湖畔から追い立てた。

 その何日か後、従兄の少年たちが子供を迎えに来た。子供は母と離れ、北の森の中で父と親族の男たちと暮らすようになった。

 父の対応は明快であった。彼は子供が少しでも幻を目で追う気配を見せると、拳骨を突きつけ、自分に注意を向けるように言い含め、時には山でよそ見をする者がどんな目に遭うかを思い知らせた。父にはその姿は見えずとも子供を狙う者の気配がわかるかのようであった。絶えずつきまとう魔物も手の出しようがなかった。やがて幻は少年を誘惑するのをやめ、知恵を授け始めた。父の指導と相まって少年は目覚ましい成長を見せた。少年の背ははた目にも際立ってすくすくと伸びたが、物静かな眉目の奥にしまいこまれた知識はさらに計り知れなかった。

 秋が訪れるとヒルメイの女達も木々の紅葉とともに戻って来た。少年は娘たちの容姿が気になる年頃になっていた。しかし、何かしらの小うるさい干渉の目が付きまとい、少年の心地を悪くした。風は少女たちの笑いさざめく声を歪め、木漏れ日はそっと振り返る眼差しをイバラのように辛辣に映した。内気な少年には自分に向けられた嘲笑と聞こえ、蔑みの一瞥と見えた。二、三年ぎこちない交流を試みたあげく、ついに少年は娘たちに背を向けた。この事はいきおい仲間の少年たちと行動する機会をさえ減らした。他の者が若者宿で寝起きする齢になっても、少年は相変わらず両親の家で暮らした。

 彼は父の供をして木々の手入れをし、狩りもした。幾冬を過ごすうち、父の冷酷にも見える仕事の手際にも慣れてきた。集会の傍聴が許される年齢になると、少年は若者たちに交じり、長老たちの語る民の使命に耳を傾けた。それはエファレイナズの水を守る者の使命であった。彼らの住まう森はコタ・シアナ、コタ・レイナ、コタ・ラートを支える水源でありそこに住まう者の守り主であると。

 容姿が大人びてくるころには少年は、幻とはすっかり縁が切れたように見えた。幼いころにあった様々のことももはや忘れ果てていた。

 しかし、成年を迎えてまる一年も過ぎたある日、それは彼の前に姿を現した。

 その秋、臥せりがちになった母のため、若者は朱鳥の薬草をもとめ、南の峰に渡って森林の上の高原に出かけた。 

 空に迫るその原では木々も伏せて這いつくばっている。きりきりと冴えた無窮の青空が半身を包むかと思えば、雲そのものが白い壁のごとく視界に立ちはだかる。神の庭の中に身を隠すところは無く、日が 暮れれば宿とすべきところは無い。薬草を探せるのはわずかな時間だ。

 霧に閉ざされた山脈の万年雪は小さな流れをつくり、小川が入り交じり段をなしている脇を辿ってゆけば、流れそのものの形を描いて小さな草花が群落をつくっている。

 性質の違うふた色の風が朝に夕に通い、谷川の左右にふた色の季節を作り出す。赤い枯れ草を簪に、露を戴いた苔が青々と覆う堤のその対には、可憐なフウロウやキンバイソウが汀を彩り、コケモモは鈴なりの花の傍らに瑞々しい実を結ぶ。赤く色づいたナナカマドの隣の枝は、緑の色もたおやかに今が花の盛り。地上で紅葉が森を包み始めたというのに、ここではまだ夏がとどまっている。

 明けぬ永い朝に似た薄闇があたりを包んでいる。鼓動の高鳴りとともに旅装束は重くまとわりついた。

 草木の示す季節はいつしか完璧に夏になっている。窪地いちめんにひろがる薄緑は、筋目のはいった広葉の花だ。白い小花を紡錘上に冠した大振りな姿は汚れなく清々しい。が、この花には毒がある。若者はさらに上に行った。

 ナナカマドの茂みも絶え、蒼いごつごつした岩の突き出た荒涼たる原に出た。風に絶えず運ばれる霧の帳のあいあいに淡い陽光が射せば、岩根に落ちた青い小さな星々の如き花がおののいている。足元は礫土となり、もはや眼前には屏風のような大岩の群れしかない。薬草は見つからなかった。雷光が閃き、天候の移り変わりを知らせた。若者は引き返すことにした。

 すべては雲の中に包まれ、足元の地だけが存在するものの全てだ。慎重に岩場を下り、白い花の野にまで差し掛かった時、一瞬霧が割れて光の梯子が下り、その下のものを眩く輝かせた。

 高原によくある池のひとつだ。しかし、その中に何か立っている。

 水面にとろかすような真昼の光があふれた。彼の目は水上にひとのかたちをとらえた。

 彼よりいくらか年下の少女に見えた。目の前にいながらその身にまとっているものが何なのか彼には分からなかった。移ろう雲の色の衣に、光に透かした血潮のごとく赤い帯、髪も目も肌も水に映した火影のように絶えず揺らぎ影が定まらなかった。少女は愛らしく首を傾けた。が微笑む顔は子供のそれではなかった。

 見覚えのある顔だ。誘いかける微笑に若者はわれを忘れた。長年の警戒の封印はたちまち消え、了解と新たな期待とが湧きあがって来た。許すだろうか、彼女自身になら。見つめ、触れることを?

 彼はそっと手をあげ、少女のつややかな鬢に触れようとした。途端にその姿は水に溶けたかのように消えた。彼のすぐ耳元で少女の声が言った。

「金の実を取って来て、ラシース」声は風のさざめきとなり消えた。

 若者は少女の姿のあった空に手をのばした。虚しく漂う霧が指の間を過ぎた。

 霧が再び視界をふさいだ。若者は手探りで岩に触れながら道を戻った。

 翌日は高原を北に戻り、次の日には森に下り、沢を渡渉し、長手尾根(エユンベール)に登って、ニアキの村を臨む峠に野営をした。晴れた晩で、コタ・シアナの向こう、丘陵を超えた平野にまで空気は澄み渡っていた。平らかな下界のはるか、高原の霜よりも小さく瞬く灯火がくねりながら少しづつ動いていた。夜っぴて随分大勢の者がコタ・シアナを目指してやってくるようだ。若者はすぐに思い当たった。コタ・シアナの岸で催される祭礼にやって来る人々だと。河のこちら、彼の世界イナ・サラミアスの中でニアキの灯はほんの足元にあるかに見える。若者はそれを眺めながら自分も野営の火を焚いた。

 次の日の夜明け前、朝を告げるどんな鳥よりも早く、若者は村へ吹く風にのせて朗らかなイワヒバリの声を送った。それは帰宅が近いことを母に報せる合図であった。

 尾根に沿って急ぎ下るラシースの耳に鋭い口笛が届いた。村とは峠の反対側の山腹を下りた沢だ。友人のオクトゥルが送ってよこした伝言だった。若者はすぐに返事を返した。鷲の雄叫びのような音色が森を下った。村に帰るには遅くなるが友人が手伝いを求めている。若者はふと、コタ・シアナの向こうの丘を見渡した。

 夕べ見た松明の列はどこへ行ったのだろうか。大勢の者がコタ・シアナの岸へ向かったはずだが。

 友人が待っている沢へ下りて行こうとすると第二の合図が聞こえた。このまま尾根沿いに下り、コタ・シアナに流れ込む川の淵で舟を迎えろという。若者はさらに尾根を下った。谷川の水源を越し、そのまま沢へ下ろうという時、若者の足は思いに背いて尾根の先へと進んだ。もう少し北西に峰をゆけば、コタ・シアナの対岸を一望できる。毎年アツセワナからやって来る人々は対岸の丘に幕営する。夕べの松明の数からいってもさぞかし見ものだろう。

 彼は生まれてこのかたコタ・シアナの水を超えたことが無かった。毎年この時期に行われるアツセワナの祭礼と競技にも関心を抱いたことはなかった。彼らイーマは“河向こう(オド・タ・コタ)”の者から姿を見られることを嫌ったし、彼らとは系譜の違うアツセワナの祭祀を軽蔑してもいたからだ。しかし、薄暮の中で見た灯火の群れは若者の好奇心をかき立てた。

 一時もたつと、森の影から覗く対岸の台地に、大きな天幕がいくつも弧を描いて並んでいるのが見えた。そこに出入りする人の多いこと。イーマの眷属が全て集まっても到底及ばない。若者は嘆息した。

 ついに半日近くかけて、彼はコタ・シアナの流れが見えるまで山腹を下った。いったい、定住を好むアツセワナの人々が旅をしてまでコタ・シアナのほとりで行う祭りとはいかなるものか。

 それはもともとは遠い西の地、アツセワナの人々の収穫祭が始まりであったという。彼らと共に遠い外界からコタ・イネセイナの流れに乗って運ばれてきた黄金の作物、麦の実りに感謝するものであったとか。それがやがて、アツセワナが伝えた麦と共に東へと伝わり、どこの民の人々にもある水への信仰と感謝の祭りとひとつになった。まことに水が信仰の対象とならぬことはない。イーマは水を発する山を崇め、水郷(クシガヤ)の民はコタ・シアナの水を崇め、エファレイナズの者はコタ・レイナの恵みに感謝する。水は命を育てもし、ものを運び宝をもたらす。水への信仰が水のもたらす収穫への感謝の祭りと実りの象徴への崇拝に結び付くのは自然のことだ。

 豊かな収穫をあげたエファレイナズの富裕の領主たちは領民を饗応する。エファレイナズがアケノンの名のもとにひとつの国となってからは、アツセワナの王が領主たちを饗応する。そして収穫祭の呼びものは今の王シギルが二十年前に始めたという“黄金果の競技”であった。競技は饗応の主役であり、その結果は神託であるそうな。

 競技に参加する者は未婚の若い男女だ。日の出とともに、女神サラミアに扮した乙女がコタ・シアナに投げ落とした黄金の実を、挑戦者の若者は日没までに再び乙女の手に戻さねばならない。

 上流の岩棚から落とした実は、沢に落ちて流れに運ばれることもあれば、岸の岩根や崖に引っかかることもあった。また風によって森の中に運ばれることもあった。多くの若者は向こう見ずなことはしなかったが、まれに命がけの競い合いになることもあるという。

 若者は森を歩きながら対岸に詰めかけた人々の、遠くて小さいが巨大なさざめきに耳を傾けた。丘よりも低くまで降りてきたのであの天幕の群れはもう見えない。流れの一部が見えるだけでそこに人の姿は無い。

 若者はふとコタ・シアナの上流から木の葉のように小舟が流れ下ったのを目の端にとらえた。荷を運ぶ舟は長手尾根より南を行き来するはずだ。彼はさらに森を下流へと下ってみた。祭りに集まって来た人々が舟を雇って川遊びでもはじめたのだろうか。しかし、コタ・シアナに大勢の人がいるらしい気配は無かった。

 なだらかになった森の中にはコタ・シアナに流れ込む小さな川が無数にあった。流れの際は明るく、種々の草の間には夏の名残の花も見られた。若者は花には目もくれなかった。下界の草は香も力も弱い。

 森の際に人影を見つけて彼は立ち止まった。静かにたたずんでいるその姿が明快な対比の色をまとっているために目をひいたのだ。若い娘は怯えたように振り向いたが、その身のこなしは凍えたカナヘビのようにゆっくりだった。

 抜けるように色白で背が高く、瞳は灰色。ひと目でアツセワナの娘と分かる。身なりは立派だった。胸元に丹念に襞を縫い取った長衣は白。胸から背にかけて長く垂らした飾り布は刺繍を施した真紅。黒い髪は編んで高い額の両横からベレ・サオの大山羊の角のように長い輪になって両肩に憩い、結った髪の両の根元には、銀を打ち出した精巧な花を連ねている。イナ・サラミアスの花を知り尽くした若者でさえ名も知らぬ、細工師の意匠の花である。

 静かな驚きの中で、娘はようやく若者を見分けた。移り変わる森を流れる水辺はふかふかした下草の浅い緑に、散り敷く葉の積もった黄とあかがね色が入り交じり、はっとするような明るさだった。若者が身に着けている外衣もまた森と同じ色だった。

 娘は、ふとその目を若者から逸らし、低いかすれた声で言った。

「美しい若木ですこと。」

 若者は不意を突かれたように娘を見返し、それから笑った。まだ樹齢の若い木々が同じ色をまとった同胞のように彼の周囲を取り巻いているのだ。

 娘は、飛び立つ間際の小鳥のように身を固くした。若者は近づいて来た。長い外衣が風をはらみ、弓を引くために折り上げ結わえてある翼が右肩から後方にたなびいた。小枝を編んだ胴乱は冬の装いの中で軽やかであった。

「イスタナウト。見たことが無かった?」

 若者の黒い瞳は蝶のひと呼吸ほどのあいだ娘にとまったが、またふっと離れた。娘はその先を追い、導かれた視界にうっとりと目を奪われた。イスタナウトの幹はすらりとまっすぐ、枝ぶりは細く繊細で、枝元や幹、根元はまろやかで力強かった。精巧で軽やかな葉を連ねた枝は何層にもなって空にひろがり、様々な色が織りなす模様になっていた。

「話には聞いていました―――サラミアに愛される木だそうですね。」

 素早く手ごろな一枝を折り取り、若者は娘を手招いた。先に立って森を歩き、持っている枝で落ち葉を散らしてその下に群れている茸を見せたり、彩な真紅が目を奪うが決して触れてはならないツタウルシに注意を促したりしたが、決してその動きが娘を脅かすことの無いように細心の注意を払った。

「ほら、これが“虫飼い(ミモカリ)”。夏の初めには白い花が咲き、なかなか見事です。葉が落ちてしまったけれども。下に落ちている丸い葉です。」

「実も綺麗だわ。ガマズミのよう。」

「この木はイスタナウトと仲がいいのです。」

 空に巡らされた枝葉の間に小さな金茶の房玉が見つかると、娘は喜んで指差した。きれいに割れた毬からすべすべした茶色の実がのぞいている。若者は上を見上げながら手ごろな高さにあるものを探し、ひと飛びして、手にした枝を笞のように振るった。叩かれた毬はぱらぱらと雨あられのように落ちてきた。娘はその下で頭を抱えて、くつくつと笑いながら逃げた。若者は落ちた実をひとつ拾い、(いが)を払い落として小さな尖った実を娘に見せた。

「食べてみる?」

「こんな木の実を!」娘は驚いて言った。「豚にやるものだと思っていたわ。」

 若者は娘の目をじっと見つめた。弓なりの眉と杏仁形の目とがきゅっと細くなった。

「何?」

「アツセワナにいる動物。後で肉にするために育てるの―――そう、猪に似た生き物よ。でも。」

 娘は赤くなって見返した。

「食べると豚になるとは言わなかったわ。」

 若者は笑い、娘も笑った。

「確かに木の実は獣と取りあいになる。敵を丸ごともらうこともあるけれど。ほら、来た。あいつは肉にもなるし、手触りもいい。ちょっとかわいいし。」

 若者は振り向きもせずに囁いた。地面の上、木の幹をするすると伝っていく小さな影がある。止まってひょいと起き上がったところを見ると、リスであった。

「じっとしていればこちらに来ますよ。捕まえてあげようか。」

「ほんとうに?いえ、やめて、可哀相。」

 娘が動いたので、たちまちリスは木に駆けあがり、短いけたたましい声をあげた。若者はがっかりして逃げ去っていく影を見送った。

「触らせてあげようと思ったのに。僕が父の子と知ったら、あいつ笑うだろうな。」

 リスが次に降りてきた時には、若者は一緒になってイスタナウトの実を集めていた。そしてひとつかみばかり娘の手に分けてやると、自分はせっせとかじりだした。今朝で旅の食糧は尽きていたから、これでもちょっとした食事の代わりだった。しかし娘は気後れからか気味悪さからか食べようとはしなかった。 

 若者は少し食べると残りを地に払い落として静かに立った。

「あなたはアツセワナの人?」

「ええ。」

 若者と娘とは改めてお互いを眺め、ぎこちなくそっと顔をそむけた。娘は、故郷で囁かれる、森の奥に人付き合いを断って生きるイーマについての、恐れと好奇心のないまぜになった噂を思い出し、若者は娘の気位ゆえの気後れを感じ取っていた。

「アツセワナはどんなところ?」

 若者は娘に並ぶように向きを変え、くだけた風に尋ねた。

「広い原に麦が実り―――豚がいて?」

 娘は真っ赤になって怒り出すか、それとも笑い出しそうに若者を見返した。若者は詫びるように瞬き、遠く西の彼方に向くとゆっくりと穏やかに諳んじ始めた。


 外界の子 イネセイナの流れに乗りてかの地に至りぬ

 河床の石を積みやがて一里にまたがる城となせり

 水のはしる道をなし

 汀を鋤き耕して 五穀豊かな沃野となせり


「勇敢で勤勉な人々が住むところだそうですね。」若者は丁寧に言った。

「これは私がただ大叔父から聞いたことだけれど。」

 娘はうなずき顔をあげた。

「そうです。そして穀物の一年は稲の田から始まります。コタ・イネセイナの岸辺、黄金の穀倉地帯(トゥサ・ユルゴナス)に。」


 昼と夜と日を等しく分かち 東風吹くころ

 コタ・イネセイナの沃土を小さな白い花が覆う

 かれこそ豊穣の神の呼び声

 水を入れ八方を隈なく潤せ 犂を入れ種子のための床となせ


 燕のつれあう空のもと 水鏡に早苗を植えよ歩幅に一束

 凍える夜は水に抱かせ 昼は光に抱かせよ


 一粒は百粒に 穂は重く垂れ黄金に熟れれば

 朝の光にて露を払い 恵みに謝して手に受けよ


 朗誦の気分が入ると娘の少しかすれた低い声は心地の良い響きを帯びた。

「丘の上の露台の上から北はイビスの端から南はイズ・ウバールの際まで見晴らせる。そしてその間は耕地と牧場と水路が。一本の運河が通り、工房が軒を連ね、丘の上では市が開かれ商いが行われる。それがアツセワナです。」

「想像もつかない。そんなに広い土地に、田や―――人に属するものしかないなんて。」

 若者は疑いというよりは戸惑ったかのように呟き、面に表れた驚きを隠すかのように眉をひそめた。

「何かあなたを不愉快にさせることを言ったでしょうか。私にとってはありのままの故郷の風景なのですけれども」

 娘は不安げに言った。

「いいえ。ティスナでは女達が田をつくりますから。だが、獣や、木は?自由な友にして危険な敵である精霊たちは?」

「こことは違います。」娘は言い、あたりを見回した。

「こうしていると、私は安全な広い家から離されて、遠くの知らない世界に連れて来られたよう。そして何て自分とはみすぼらしくちっぽけなのでしょう。ここは人はいないけれども他の()()なら何でもいる。そしてどんなに小さな草も私よりも強く―――そして私があまり好きではないみたい。」

「どうしてそう思うの?」

「風が冷たい。そして、まるで弱く醜いものは一瞬もいられないみたい。厳しく選ばれたものの中でどうしてお前が立ち混じっているの、と問いかけてくるようだわ。」

 若者は娘の言った言葉をよく考えるように顎に手をやった。

「一瞬もいられないわけではないが事象は頻繁に代わり新しいものが表に出る。高い所へゆくほどに、大気は薄く冷たく、草木は老いるほど長くは地表にいられない。素早く育ち花を咲かせ、それが色あせる前に新たな花が取って代わる。その葉陰に朽ちたものは人目に触れる間もなく、盛んなものに食いつくされる。だが、この下の森ではそこまでではありません。完璧なものばかりとはかぎらない。ほら、ここに座ってみて。」

 若者は、小川の際にある、地に触れんばかりに曲がった木を示した。座るにはちょうど良い高さだった。そんな姿でありながらその木は生命の盛りであり梢を高く持ち上げていた。娘はすべすべした灰白色の樹皮に触れながらそっと腰を下ろした。

「ここに、朽ちた古い木の根があるでしょう。その木がごく若かったころ、ここにあった木が雷に引き裂かれて倒れたのです。その重さに拉がれて幼い木はそんな姿になった。倒れた木が朽ちて若い木は自由になり生気を吹き返した。サラミアに任せておいても古いものは新しく置き換わる。が、私たちが手を加えれば交代はもっと早い。この辺りには私たちも滅多に来ません。しかし、もう少し上の森では生育を妨げるものは放ってはおきません。弱った木は倒してしまいます。光をあて、新しい木を育てるために。そして森が健やかなら水が豊かになる。」

「あなた方の勤めは森を守ることだとか。」娘は興味をひかれたように言った。

「そうやって森がつくり出す水はコタ・レイナとコタ・ラートをつくっているのですってね。でも、あなた方がつくるのは水だけ。どうして広い耕地を持たずに暮らしていけるのですか。」

「どうして暮らして行けないのか?」若者は問い返した。「この疑問は同じだ。」

「でも、私は故郷の暮らしについて言いましたわ。一年の営みがどのように保たれるかを。私たちの求める答えが同じだというなら、違いを比べて考えるための材料がふたつながら必要でしょう。あなたの方でも教えて下さらなくては。」

 娘はやや高飛車に言った。若者の表情に軽い驚きと好奇心があらわれた。イーマの若い娘にはこのように男に言い返したり問い詰めたりする者はいない。

「女達が作るわずかばかりの作物の他には、私たちは暮らしのものを森から得ている。私たちは森を保つが森はイーマの他の鳥獣をも養う。どれが抜きんでても均衡は失われる。ゆえに私たちは人の数を増やさない。そして身の丈より多くのものを持たない。それについて掟を学びます。」

 若者は娘の座っている木の梢の側の幹に寄り掛かった。

「年上の者の前で間違えずに言えるまで何度も唱えさせられる。だが、もっと小さい頃にはティスナの炉端で、男の子も女の子も先ずこんな話を老女(コーナ)たちから聞かせられるのです―――」


 賢い男の子(イー)(イス)のもとに育った

 ヤマネがはじめにこの子の師となった

 ヤマネは眠りを教えた 手と足とで臓腑を内に守り長い毛で寒さをしのぐことを

 だが教えはひとつきりなのでイーはヤマネを殺して衣を得た


 次に鹿が師となった

 鹿は草の滋養と解毒 恐れの心をイーに教えた

 しかし教えは怖れきりなのでイーは鹿を殺して肉を得た


 次にモズが師となった

 モズは予見と備え 弁舌と奸智を教えた

 しかし教え過ぎたためにイーは殺した その企みが自分にされるその前に


「まあ、それは恩知らずじゃなくて?」娘は口を挟んだ。若者は目配せした。

「彼は個々の事柄ごとに師を持たねばならなかった。獣はそれぞれにひとつの事しか教えてくれないのですから。」


 最後に熊が師となった

 熊が言うには

 我が子よ 学んだらおれを倒せ それが学びの証だ

 おれの行く道でお前の行けぬ道はない

 おれの食うものでお前に悪いものはない

 またお前の師となった者たちの振る舞いから学ぶなら

 先は若い者に譲り 身を仕舞う家と墓は身の丈にあわせるのだ


 イーは礼を言い熊を殺して衣食住を得た

 イーは年老いて木の元に帰って来た

 そして尋ねた

 母よ我が師は何故あれほどに気前が良かったのでしょう?

 木は答えた

 お前が最も持たない弱きものであるからだ


「自らを最も弱いものと遜って生きるからこそ、草木鳥獣の霊は人に恵んでくれるということです。」

「でも殺すのね。」

 若者は静かに黒い瞳を娘に向けた。

「人の暮らしは死を積み重ねた上に成る。」

「いいえ、産んで育てることの繰り返しで成るのだわ。」

 灰色の瞳が一瞬勝気に若者に向けられた。

「収穫は死では?」

「死は暗くてその先に何もないことだわ。収穫は食べるためよ。育て、実を結んだ物は食糧になり、種子になる。」

「そしてその後は」

「食べ物があって、子供が育って、家が続く―――大きくなる。いいことだわ。」

 娘はふと若者の目を振り切って立ち、せせらぎまで下りて行き、小さな流れに目を落とした。この森を走るどんなに小さな流れも遠からずコタ・シアナの大きな流れへと加わってゆく。

「生きることと死ぬことはいつも同時にある―――大きくても小さくても同じ。大勢が生きる事は大勢が死ぬことだわ。確かに。私は小さくたって構わない。本当には。でも、生まれた時にもう大きくなっている家族と家を減らす事なんてできないでしょう?」

 若者はそっと娘のあとについて下りた。そして娘の編み下げに隠れた横顔を見やり、初めて気になっていたことを問うた。

「あなたがはるばるアツセワナからやって来たのはあの競技のため?」

 娘は振り返った。そうして、言いよどんで一度二度目を逸らし、考えた。もう会うこともない行きずりの若者だ。胸の内を打ち明けても彼にとっては他の国の遊戯のこと。他言を恐れることも迷惑をかける気づかいもあるまい。ついに娘は口を切った。

「明日の競技で、私は女神サラミアとして、滝の岩棚から金を貼った木彫りの毬を投げるのです。競技者は私に結婚を申し込んでいるかたがた。父はこれを神託として夫を受け入れよというのです。」

 若者の面持ちに一瞬走った影を、軽蔑のしるしと取って娘は少し悲しげに言い足した。

「イスタナウトを知らぬ娘がサラミアとはさぞ呆れておいででしょうね。」

 峰の上から森の内へと梢の頷く音が順々に後を追って下って来た。風は耳元を打ち、渦をまいて飛んできた木の葉が、ぱたぱたと娘の髪や衣の裾をはたいた。執拗な唸りと塵のつぶてとに娘は怯えて耳を覆った。

「なんでもない。ただの風です。」

 風の音は、その鳴りつづける間だけ若者の心をも乱したようだった。だが、吹き収まると若者は朗らかさを取り戻した。

「競技に気がすすみませんか。」

「サラミアの真似をするなんて恐ろしい。私はただの人なのに」娘は呟いた。

「毎年誰かがやることです。求婚のさや当ての遊戯。サラミアが怒るほどの事ではありません。」

 若者の声は挑発するかのように声高になった。風は何も応えず、しんと不機嫌に静まった。娘は許しを請うように両手を合わせて頭を垂れた。

「結婚したくないのです。それなのにこの役を担わなくてはならないのが辛いのです。」

「ではなぜ承知なさったんです?」

「父の命です。私はただひとりの子ですから、婿を迎えて子をもうけねば家は絶えます。私も自分の勤めは分かっています。」

「大きな家と耕地の継承のために」

「そう思っていただいて結構です。」

 娘は顔を上げて言い返した。

「まさに多くの者がそのように私の家を見ていることでしょう。父も私も自分のものなど何ひとつない、ただ守らねばならない家族が多いだけの者なのに。誰かが指揮をとらなければ家族の中で諍いが起き、食べ物の分配は公平にされず、暮らしを支える労働は滞ってしまう。家長に世継ぎは必要なのです。」

「イーマは森を守る役割を子に引き継ぐ。しかし人は増やさない。母なるイナ・サラミアスを疲弊させないために。私の一族は“日に仕える者(ヒルメイ)”。大叔父と従兄たちの他は老人ばかりで父と母には私の他に子はありません。あなたの父上と同じように。しかし私は結婚はしない。父の血筋は私で終わる。」

 娘は驚いて若者を見た。

「もともと私は“正しくない契り”による“生まれるいわれのない子”」

 若者は笑って飛んできた木の葉を打ち返した。

「母がそう言いましたから。自分で決めていないのはあなたも私も同じ。ただ民の慣わしがそう決め、従うだけだ。それにあなたの心が誰とも言わないなら選ばれる男たちにしてみれば公平なやり方ですよ。」

 若者は、冷淡な言葉が娘の心に立てる波紋を確かめるかのようにそっと横目で見やった。結婚を諦めるのと強いられるのは同じではない。しかし、娘は反発せずに小さく震えただけだった。

「公平なのかもしれません。せめて、そうであって欲しい。私が勤めを認め、従うからには。」

 娘は胸の前の両手を揉み絞った。

「黄金の実を投げるのは私です。でも手から離れれば後はどうなるか誰にもわからないのです。戻って来るものが本物かどうかも。」

「競技の最中にすり替わるかもしれないということですか。実際には獲得されたものでない偽物が勝利の証として紛れ込むとか」

 娘はうなずいた。

「それを確かめるだけならそう難しいことはないのでは。」若者は考えながら言った。

「黄金の実は木彫りだと言いましたね?」

「はい、木の塊から丸ごと彫り出したもので、風に乗ってよく飛ぶように、球の上に翼がふたつついています。」

 娘は手の形でその大きさをあらわした。若者は娘の指が形作る大きさを心に刻みながら淡々と言った。

「今晩、父君にお願いして、実の一部を切り取っておき、切片はそのまま取っておいていただくのです。なるべく損なわれないような場所を、木目を断ち切るようにね。」

「そうしますわ。」娘は力なく答えた。

 その時、高地から鋭い鳥に似た声が鳴り響き、呼応してコタ・シアナの方から水鳥の声が返した。短いやり取りが交わされ、何かを待つように鎮まった。

「待たせてしまったな。」若者は呟いた。「友人に呼ばれて行くところだったのです。」

「いけませんわ。」

 娘は促した。打って変わった強い口調だった。

「早く行ってくださいませ。」

「あなたはどうやって?」

 娘は上流側を指した。

「私のほうにもそろそろ迎えがあるでしょう。私の小さな友達が間もなく小舟を向かわせてくれるのです。行って差し上げて。そしてどうか私の事は他言なさらぬよう…。」

 娘が振り返った時には、もうそこに若者の姿は無かった。さくさくという軽やかな音と共に、白い幹の間の明るい朽ち葉の色がひと振り揺らいだかと見えただけだった。


 森をそのまま南に下ると尾根から下りてくる谷川がコタ・シアナの合流点に穿った淵がある。外からは隠れ、河の勢いも削がれた尾根の陰ゆえ、舟着き場のひとつとして若者たちが出入りする。ラシースが下りて行くと、先に沢から下りてきていた風見(タフマイ)のオクトゥルが拳骨を振って合図した。足元には舟荷がふたつ。ひと目で塩と分かる袋、小さな行李が背負子に載せられている。

 ラシースは年上の友人の苦り顔をものともせず駆け寄った。

「新しい鏃だ。父が頼んでおいた分だな。それに塩。」

 オクトゥルは腕組みして言った。

「ようやっと来た。若いの、早くしてもらおうか。それをさっさと担ぎな。上の沢には羚羊を漬けてある。それに塩をして今晩に間に合うようにしなきゃならないんだ。」

 ラシースが答えるより先に水辺で影が動き、休んでいた若者が立ち上がって迎えた。額に水守(クシュ)の紋様の鉢巻をしている。秋も半ばというのに外衣は着けず、上着も夏の装いと変わらない。

「サコティー」

 ラシースは相手の顔を認めて懐かしげに声をかけた。

「君が舟頭なのか。」

「今日が初仕事だったんだ。自分の舟をつくって初めてのね。」

 若者は、紐で綴って腰に下げている数枚の銅貨を見せた。

「秋中には谷懐からクマラ・オロまで乗りこなしてみせるよ。いつでも乗せてやる。」

「泳ぎを練習したらな。」

 サコティーは瞬きし、横を向いて一寸笑った。オクトゥルが口を挟んだ。

「こいつを川へ叩き込んでやれ、サコティー。お前が泳ぎを覚える前に彼は溺れかけを十人救うよ、ラシース。ただそいつの名はいつも同じだろうさ。」

「舟はどこにあるんだい?」

「可愛い女の子に貸してあげたのさ。」

 ひとまわり濃く日焼けした顔に大人びた表情をつくりクシュの若者は答えた。

「嘘だ。舟を流したんだ」

「上流へかい?」クシュの若者は素早く切り返した。

 ラシースは森の陰から見かけた舟を思い出した。

「クシガヤの顔なじみの子さ。」サコティーは真面目に言った。「じきに返しに来る。」

「クシガヤから随分舟を出しているじゃないか。コタ・シアナを見れば、客やら荷を載せた舟がいつもぷかぷか浮かんでる。競技にやって来るアツセワナの連中は、陸路から来るんだろう?」

 オクトゥルが言った。サコティーは事もなげに答えた。

「エフトプから来るし、コセーナから一部舟で来ている。 アツセワナの者で舟を求めるのもいるよ。方々から競技の間の行き来を言い遣っていてクシガヤは村じゅう出払っているよ。隣の客の詮索はしないがね。“黄金果の競技”は毎年いい実入りなんだ。」

「君は“河向こう”の渡し守なんかしないだろう?」

 ラシースはやや険のある声で言った。

「何故?コタ・シアナの民が仕事にするものは僕がしたって悪くはないだろう?」

 サコティーは穏やかに言った。

「父が一家を連れてクシガヤに移ってから、我が家はコタ・シアナの民とひとつになったんだ。水守(クシュ)が彼らを教え導いたというのは昔話さ。僕が物心ついてこのかたクシュについて分かることといえば、ただそれが僕の家の名だということだけだ。僕は彼らと育ったし、時には彼らに請うて学ぶ。彼らは僕をイーマとは呼ばない。―――ニアキの者が僕をイーマとは言わないのとは反対の意味でね。」

「君はイーマだよ。」

「僕がこれを捨てたら意味が分かるかね」

 サコティーはそう言って額の“水”の紋を指差した。

「母はこれにこだわるけれど、僕は君にだってイーマと呼ばれたくはないんだ。また違う理由で。」

 オクトゥルは首を振り、素早く言葉を挟んだ。

「こいつに分かるもんか。高いところに登るほど得意になる何とやらさ。川まで降りるとお終いだと思っているんだ。だが、サコティー、本当の事を言うとな、こいつはあんたよりもよほどおれたちに冷たいんだ。」

「ベレ・イナよりもっと高いところと言えばベレ・イネだろう」ラシースは落ち着いて言った。

「行かないけれど。」

「ほら、いやな奴だ。」

「だって行く用がないよ。」

 ラシースはサコティーに振り返り、前よりも少し熱心に言った。

「サコティー、河の兄弟、君はイナ・サラミアスの陸には上がらなくなったね。今晩はニアキで宴があるよ。集会の後に歌垣も。仕事が終わりなら舟を陸にあげて来ないか。三人なら荷も軽くなるし。」

「荷物は全部お前が背負うんだ―――。来いよ、サコティー。」オクトゥルも言った。

 サコティーは首を振った。「知らない男がいたら(ハヤ)が戻って来なくなる。あの子にはあまり時間が無いんだ。」

「分かったよ。消えてやるよ。」オクトゥルは機嫌よく言った。

 背負子を担いで、ラシースはサコティーに振り返って言った。

「そのうち、君の舟を見せてくれ―――乗せてもらうよ。腕は信用しているから。」

 サコティーは笑った。

「泳ぎを練習してから、だろう?まる一年は先だな。」

「僕が呼んだ時に君がもたついていたら先に向こう岸まで泳ぎきってしまうからな。」

 出発にしびれを切らしているオクトゥルを中にして、年若いふたりは背をそびやかす素振りをした―――荷を負ったものと低い水辺にいる者とで。

「君の舟の印は何?」

「カワセミだよ。ありふれた号さ」川面に注意を向けながらサコティーは手を振った。

 半日前から沢の水に漬けてあった獲物の羚羊を取りに戻り、冬の支度に追われる村にラシースとタフマイのオクトゥルが帰って来たのは日没近くだった。

 オクトゥルは荷の重さを比べ、結局羚羊の方は自分で担ぎ、狩りの道具をラシースに預けた。

「そちらの収穫は?」

 オクトゥルはラシースの胴乱を顎でしゃくった。ラシースは首を振った。

「まあ、おふくろには身ひとつで十分な薬だろうよ。」

 オクトゥルは慰めるように言った。

 村までは長手尾根を越えるための険しい登りが待っている。その後のふたりは無口で仕事は素早かった。途中の谷川でふたりは一旦荷を下ろし、水で渇きを癒した。

「今年の祭りは大きいぞ。」

 オクトゥルは言った。

「エファレイナズの奴ら、半月も前からアタワンに出入りしている。コタ・シアナを行き来する舟も多い。天幕も豪勢だぜ。競技者には大きな郷の子弟が多いそうだ。サラミアの乙女は誰だと思う?間もなく成人を迎えるシギルの娘、ロサリスだ。」

「王女か。」

 ラシースは呟いたが、それっきり黙ると友人を促すように荷を負った。

 沢を渡り、尾根の上の水平な道に出るとオクトゥルは饒舌になった。

 アツセワナの王、エファレイナズの盟主シギルにはただひとりの娘がいた。そろそろ成年を迎えるという王女の夫選びのためにアツセワナは前の年から沸き返っているという。そして今年の夏、王は候補者を発表した。中でも有力と目されるのは宰相トゥルカンの息子アガムンとコセーナの領主であり王の弟でもあるシグイーの息子ダミルである。さらに誰に定めるかは“黄金果の競技”による神託を仰ぐと宣言した。

 祭りの準備はいやが上にも盛り上がった。アタワンの丘において多くの催し物が用意された。歌唱や舞踏の競演もまた祭礼の呼び物であり、王により賞与も用意されるという。

 祭礼もせまる中秋の頃、イナ・サラミアスの主幹らは“盟約の州(コス・クメイ)”において王の使者を迎えた。使者はベレ・サオのコタ・シアナ源流の谷から長手尾根までの沿岸の通過の許可を請うた。居並ぶ主幹たちは示された地図を見てどよめいた。王自身が黄金果の競技を催すのは実に二十年ぶりのことで、競技の場として選ばれた谷川の峻険なことは音に聞く初回の競技に匹敵するものだったのだ。

 通例の競技においてはイーマの人々は冷ややかながらも時節の事として遠巻きに眺めていた。少数とはいえコタ・シアナの流れを渡る者がいる。祭りの度にイーマの若者たちは忙しい秋の仕事の傍ら、番を決めてはコタ・シアナの見張りに出かけた。

 年寄りたちは、概ね若者たちの好きなようにさせていた。シギルの治世において警戒が必要だったことはほとんど無かったし、祭りに酔った狼藉者の乱入は若者たちの警備でも十分だ。見物も良し、時には競技を混乱させる悪戯も大目に見ていた。河向こうの若者たちが落とし穴に落ちようが、化け物に逢って腰を抜かそうが、懐を貸した女神のご機嫌次第というわけだった。ただ、姿を見せることは厳しく戒めており、ことに人を殺傷することや、競技の結末を左右するような介入をすること―――黄金果に手を触れることには相応の罰が下されることになっていた。

 オクトゥルは何度か警備に加わっており、祭りにも詳しかった。

「いったい、いい大人の男を、水の中だの藪の中だの探しに行かせる娘の気持ちというやつはどうなっているんだろうな。」

「そんな競技に出る男も大人じゃないよ。」

 ラシースは足を速めた。妻と子供を養っているからとすぐに大人ぶって見せるけれども、子供っぽい話をしたいのはいつもオクトゥルの方だ。

「まったく、娘のほうにちょっとでもその気があるなら、谷底に投げずに気のある奴にお手玉みたように放ってやるといい。それでみんな助かるものを。そうじゃないか。」

 ラシースは止まりかけたのを足場を確かめるふりをしてごまかした。オクトゥルは軽く前にのめった。道は下りに差し掛かり、光線が傾いて濃くなった影が、さしもの艶やかな落ち葉の色合いも暗くしている。

 気のある奴だって?誰かに気があるに違いないなんて思っているのは男のほうだ。あの娘に何が出来る?たとえ轡が外されても次の引手がやって来るまで待っていることだろう。

「知るものか」ラシースは無愛想に言った。「王女の気持ちなんか」

 オクトゥルの笑い声が答えた。ラシースは少し気になりだした。どうしてこんな話を続けたがるのかな。自分に何か変わった様子でもあるのだろうか。寄り道をして遅れたことか?浮かれているとか?たしかに年頃の娘と言葉を交わしたのは生まれて初めてだったが、娘はまるで子供のように見えただけだった。彼自身も子供のようにふるまっただけだ。

 しかし、オクトゥルは全く別の見当をつけて話をしているのだった。

「おまえ、結婚するのか?」

「まさか、どうして?」ラシースは訊き返した。

「おまえのおふくろがうちの妹に手伝いを頼みに来たらしい。出かけてすぐの日だそうだ、機に経糸を張るのに手を貸してくれと言ってな。絹だぞ。」

 ラシースは首を振った。そんなことはあり得ない。

 尾根から村へと下る急な斜面にコタ・シアナの方から赤い夕陽が射しはじめた。木々の間から漏れ出た黄金の光が頬をつつんだ。瞬く瞼の前に光のたまが踊り、風は額から濡れた首筋へと髪を梳くように吹き抜けていった。

「おお、凄い夕陽だ。」

 オクトゥルは彼の後ろで叫んだ。

「あれは熱くなった鉄の色だぜ。終いに溶けて流れ出す時の色だ。だが、あれは球で宙に浮いている。」

 天に浮かぶ雲の片側を紅に染めて、夕日は輝いている。白にちかいまばゆい黄金の球の際は赤い光だ。血のように赤い。ナスティアツに現れた幻が帯びていた色。

「オクトゥル、金の実とは何だろう?」ラシースは尋ねた。

「あまり見ると目をやられるぞ。」オクトゥルは注意したが立ち止まっている彼に並んだ。

「もともと、どこかの郷からシギルに献上された箔を貼った木彫りの梨だか林檎だかだったらしい。それを戯れに競技の毬に使ったそうだ。」

 オクトゥルは顔を真っ赤に染めて嬉しげに話した。

「だが、アツセワナにはこんな昔話があるそうな。太陽が沈むのを惜しんで地平まで追いかけた男がいる。そいつは地の果てで太陽をつかまえるが、身は焼かれて灰になってしまうってな。灰になってでも手に入れろ、という王の趣向らしい。だから、金の実は太陽の印さ。太陽を天にとどめたい」言って彼は笑った。「太陽と同じように永遠に娘をとどめておきたい。」

「ただの遊戯だろう?」

「いや、」

 オクトゥルは珍しく真顔で否定した。

「黄金の実の中身はともかく、贈るという行為には力があるんだ。サラミアでさえもこの力には拘束されるのだ。コタ・シアナの水が逆に流れようとも、実は運命のままに勝者の手に落ち、勝者が贈る実は受け取った者の運命を定める―――ほら、おまえのおやじとおふくろさ。」

 ふたりは黙った。オクトゥルは先に立って下り始め、ラシースは、ナスティアツに現れた乙女の言ったただひと言の意味を考えていた。

 いったん木立ちの中に細く切り分けられた夕陽が今度は全身を包んだ。村へたどり着いたのだ。家々から出て来た女や子供たちが、魅せられたように日輪を眺めていた。

 形の定まらぬ、潤んだ輪郭の震え、風を通してなお肌に刺さる光線の熱が、言い知れない胸の高鳴りを呼び覚ました。

「競技を見たいな。」

 ラシースは、友人に言うともなく呟いた。

「ああ、行って来いよ。」

 オクトゥルは簡単に言った。

「おれはあの夕日を見たら風呂に入りたくなった。沈んで赤くなると焼けた石に似ているものな。」

 村の背後に流れる沢の横からふたりは出て来た。家々の間を通り、北西に開けた広場にたどり着くと、中心に立つ大トチの木の下で憩っていた男たちが手を貸しにやって来た。オクトゥルは獲物を男たちに渡した。

「ガラートは?」

 オクトゥルは男たちに尋ねた。男たちは辺りを見回して首を振り、広場と、さらに北の山を背にした集落との境あたりを指差した。山側に石を積んで風よけの石垣を設けた火焚き場があり、下へと下る道がある。

「下かな?」

 オクトゥルはまだ人気のない火焚き場をちょっとのぞいて、道を下った作業場に行こうとしかけた。

 石の囲いからふたりの者の低く話す声が漏れた。女の抑えた急き込んだ囁きと、それに答える男の声とが、オクトゥルの掛けた声にふっつりと途切れた。

「急ぎなさい」

「―――今さら(あか)(すべ)は……。」

「ガラートか?供物の羚羊を取ってきたよ。河で荷も受け取ったし、極楽とんぼも捕まえてきた。清算を頼むよ。」

 オクトゥルは顔を覗かせかけて、石垣の裏から現れた男とその奥に素早く引いた人影を目にすると一歩さがって、ラシースを前に押し出した。

 ラシースは、母に最も血縁の近いヒルメイの主幹ガラートに挨拶をし、荷を渡した。

 ガラートは若者ふたりをねぎらい、その場で鏃を数えてラシースに渡すと、母のもとに行き安心させてやるように、と声をかけた。

「ガラートはいつまで独り身でいるのかな。」

 火焚き場から広場の方へ戻りながら、オクトゥルは妻と子の姿を探して見渡した。

「妻を亡くしたのだと前に母が言っていた。」

 ラシースはガラートの後ろに見えた影を目の裏から振り払って言った。

「そうさ、お産で死んだんだよ。十年ほども前かな。」オクトゥルは妻の姿を見つけ、手を振った。「気の毒に!」

 広場は、仕事を終えて次々とやって来る者であふれた。集落と広場から一段沢に沿って下がった作業場では冬に備えた保存食をつくっている。ゆり根や木の実の粉、油や乾物をつくっていた女達、木を挽き、薪を割り、肉の燻製をつくっていた男たちも仕事を仕舞いだした。

 年配者が戻り、若い者も戻り始めた。ひときわ目をひくのはこの秋結婚することになっている男女だ。男は落ち着き自信に満ち、女は軽やかであでやかだ。やがて迎える霜の月は契りの月でもある。今宵は感謝の共食があり、夜の集会の後には年頃の若者たちと娘たちとの歌垣遊びもある。この二三日の間に言い交す者は幾倍にも増えよう。

 少し間を置いてまだ独り身の若い娘たちも、生き生きとした顔つきで下から上って来た。彼女らはラシースに気付くと微笑みつつ無言でうなずいたが、目は慎ましく正視を避けていた。花の命は短い。娘たちは望みの無いことには早く見切りをつけていた。

 下から戻って来た者も、共食と集会の準備で広場に出ていた者も、みな一(とき)作業の手さえ止めて沈みゆく太陽を見守った。村の背後から今しがたふたりの若者が降りてきた左手に聳え、そのままやんわりと村半分を包むようになだらかに下ってゆく長手尾根の、その手先の方へと日は沈んでゆき、その最後のきらめきが消え雲の残照のみがとどまるのは妹神イネ・ドルナイルの肘元であった。

 ラシースは、火焚き場の裏の谷より清水を引いた、水場を囲む林の陰から、母レークシルが歩いて来るのを見て取った。遠目にもすらりとした姿としとやかな物腰は見分けられた。今でもサラミアの言葉を語ると思われているその身辺に親しげに寄り添う人影は無く、常にその姿は眼に見えぬ苞に守られているかのようだ。

 母は、そっと身を引いて道を譲る女達の間をまっすぐにやって来て息子を迎えた。

「ラシース」

 肌の艶は失せ、髪には白いものも幾筋か見られたが、瓜実形の顔は凛として、瞳は澄み、声は静かなるも明瞭でよくとおった。

「サラミアに逢いましたね。」

「はい。」

 ラシースは答え、一瞬でも自分が震えたのではないかと気にした。若くはないが、母の顔だちはナスティアツに現れた乙女の顔だちと似ていたからだ。

 母はじっと息子を見つめ、くるりと踵を返して、集落の北のはずれの、森を背にした父の家に向かった。彼はその後に従ったが、裏手の森に流れ込んでいる小さな谷川でまず旅の汚れを洗い流した。

 感謝の共食と集会の身支度に思いを巡らせながら、ラシースはふと、父がもう帰って来ているだろうかと考えた。

 昔からひとりで狩りをする父は、彼が出かける前から家を空けていた。もともと礼拝の儀式に一切出ない男だったから、今晩ニアキに帰りついていなくても不思議はない。しかし、無愛想な父は傍目で見て取れるよりは母の身を気に掛けている。帰って来て母の具合が悪いという話を聞けば、機織りをはじめたことをどう思うだろうか―――母はひとたび機に向かえば寝食を忘れて打ち込むのが常であった。

 行水を終えて足早に家に向かうと、父の良く響く声が、藪の葉先をもおののかせる剣幕で中から聞こえてきた。

「何の真似だ。お前の夏の仕事がこれなのか?」

 相手の声は聞こえないが、家の中には母の他に誰もいないはずだ。

「ルメイにそそのかされたか」

 否定をする鋭く細い母の声が応えた。

「どうして私が」怒りと軽蔑がその声を震わせる。「誰よりもあの声を知っている私が、守女(シュムナ)に耳を貸すなど」

 父が母に声を荒げ、手を上げることなどほとんど無かったが、ラシースは眉をひそめ、鏃の包を外衣の内に抱え込み、胴乱を手にして家に急いだ。

 入り口の土間のところでラシースは出て行こうとする父ハルイ―と鉢合わせた。

 父は今年になって白髪が増え、厳しい面に消えない皺を刻み始めていた。二年前に息子の背丈が追い付いた時には、不敵な笑みの中に満足げにまなじりを細めていたものだが、その時から、常に正面から仰いでいたその姿を、後ろから見ることが増えた―――。

 久々に対峙すれば、その身に漂う怒りがかつての峻厳な父を思い起こさせたが、面には、無防備なほどに不機嫌の色がそのまま残っていた。ラシースは、面に懸念の色が浮かばぬように気をつけた。父はまるでそれを己への侮辱のように受け取る。

 父は息子の顔を見、その姿をひとわたり眺め、息子が見せた包みに軽くうなずき、低い声で炉端に置くように言いつけ、入り口の衝立の裏の、母のいる部屋に目をやった。

「ハルイルを見舞ってくる。着替えて集会に出ろ。―――せいぜいめかしていけ。」

 しかし、父の頬に笑いは無かった。ラシースは家に入った。

 二重の正六角形に柱を立てた頑丈な家は、わずか三人で暮らすには少し広すぎるくらいだった。高い屋根裏には中心の炉の吹き抜けを囲んでぐるりと棚が造られ、簡単な刻みをつけた丸太の梯子がかかっている。身の軽い少年なら横たわって眠れそうなその棚には綿の入った籠や糸が置かれ、垂木から薬草の束が吊ってある。下には貯蔵と物置の土間があり、床を張った居間とは衝立で仕切られている。母レークシルは居間の柱と外壁との間に灯火を吊るし、その下で機に向かっていた。

 母の細腰へ引き寄せられた経糸は綜絖をいくつも通り、むらの無い光沢の上に灯火の映し出すあかがね色をほの見せていた。膝の上から杼を取り上げると、縒りのかかった金糸が暗がりに細く繰り出される。

 絹の匂いに鬱金の暗い輝き、臙脂の光。あらゆる殺傷を避け、糸をとるのでさえ蚕が羽化したあとの繭を用いていた母が、生繭を煮、高山の蝶の黄金の蛹から皮膜を取ったのだ。

 母は振り向いて声をかけた。

「朱鳥の草は見つかった?」

「いいえ、残念ながら」

 母はため息をついた。

「仕方がない。」

「明日、もっと下を探してみますよ。上は寒すぎて無かったのかも。」

「ナスティアツにないものは探しようがない。あの方が私の運命を決めたのだ。」

 母はそう言い、刀杼を取り、緯糸を打った。

 日はすっかり暮れ、広場にはかがり火が焚かれ、人々はその年の森の恵みと獲物に感謝し、共食した。婚約した者たちの名が知らされ、祝福の言葉や冷やかしが火の粉と共に飛び交い、かがり火を間にした男の輪と女の輪の間にしばし戯れの謗りあいがされた。今宵、集会の後で行われる歌垣遊びの前哨戦のようなものだ。ここでは後の本格的な遊びには参加しない年増たちが元気よく、若者や娘たちはまだはにかんで笑っているだけだった。こうして大人たちが駆け引きの手本を見せるが、本番が始まれば、星空の下は恋人たちのものだ。

 そのうちに集会を知らせる角笛が穏かに鳴り響いた。女達は黙って子供の手を引いて家に戻り、娘たちは娘宿に一旦引き取った。長老を中心とした大人たちは大トチの下でくつろぎながら世話ばなしをし、若者たちは居住まいを正してかがり火の焚かれた広場での集会に臨んだ。

 ニアキは遠くベレ・サオを仰ぎ、その(こうべ)高くに星は巡る。イーマの最長老のウナシュのアーキヌイが峰々に礼拝し、集会の責任者、ヒルメイの主幹ガラートが、今はクシュが欠け、往時の半数にも満たないヒルメイ、ウナシュ、タフマイの若者たちの顔ぶれを確かめると、夜闇に包まれた森にも透る声で、会合の始まりを告げた。

「イーマの子らよ。星々と森羅の守るもと、各々告げるべきを告げ、知るべきを知れ。」

 一同は、そのまま向かいあった長い丸太に掛けた。成年に達しない少年たちは末席のさらに下に集まって座った。彼らは会合を見聞きすることは出来るが、発言は許されない。しかし、居眠りするわけにもいかない。なぜなら、成人した時に年少者は真っ先に指名され、よどみなく夏の仕事と問題、見通しを手際と語呂良く述べなければ恥をかくからだ。

 汗をかきつかえながら焚火越しに報告を終えたウナシュの若者の向いで、ヒルメイのラシースは滑らかに長手尾根と中の峰の主な水脈に沿った森林の様子、伐採の必要な木と地盤の痩せ具合を知らせた。特別なことはない。彼にはこの役目は二回目だった。そして当面、自分より若い者に譲れる見込みは無かった。彼の報告に、もう少し年かさのタフマイの者が質問する。それに応えるのはラシースの従兄だ。こうして協議はどんどん年上に引き継がれ、最後には大人たちに回る。

 やっとで順番の回ってきたタフマイのオクトゥルは、コタ・シアナの沿岸の森について大袈裟な修辞を用いて報告を試みた後で、明日行われるアツセワナの競技についての詳しい情報を求めた。

 ガラートは、昨年までの競技の規模と警備の首尾をもとに若者たちが話し出そうとしたのを押しとどめて言った。

「明日の競技は異国の遊戯とはいえ、神事の意味をもって王が主催するものだ。例年の戯れと同じではないことを皆心してくれ。―――シギル王は禁じているが、アツセワナやエファレイナズの郷の者が私的に競技者を警護することもあり得る。彼らと事を構えないように。」

 後で悪戯の相談ごとをしようとしていた者たちは残念そうに見交わした。ガラートは彼らの方を見ぬようにしながら、一段と声を強めた。

「王の使者とは競技の場の境界を丹念に協議した。警備に就く者は“鷲谷”の南から“掌”までの源流に沿った稜線についてくれ。この領域への立ち入りは素手と棒によって対応し、さらに上への侵入は弓手の射程に入ると王には通告し合意している。同様に我々も競技の場への介入は無用。いかなる事情があっても競技の流れに手を出してはならぬ。アツセワナの人と物、わけても黄金果に触れた者を西の追及から救う手立ては無い。」

「“黄金果の競技”、あれは呪われた遊戯だ。」

 ガラートの隣でタフマイの主幹ヤールが若い者たちを見渡して言った。

「タフマイのお前たち、万一にも則を破ったら“ベレ・イナ”の背面に送るからな。」

 目交ぜしていたタフマイの若者たちは神妙に目を閉じた。

 場が大人たちの集会に引き継がれた後、主幹と若者たちはトチの木の下で、競技の外縁を警備する者を決めた。

「ラシース、お前は警備はいい。明日はニアキにとどまれ。」

「どういうわけで、ガラート?」

 オクトゥルが気の毒そうにラシースを見て言った。

「こいつは競技を見たこともないんだぞ?」

「ならば、なおさら」

 ガラートは厳しく顎をもたげてラシースを見やった。傍らにある松明の火影が、端正な顔の頬から顎にかけて走る、消えない大きな傷跡を白く映した。

「明日はいつもにも増して仔細に気を遣う。慣れぬ者が行くものではない。それに明後日、お前には私に代わって国境に行ってもらう―――。」その眼差しががふと南へと流れた。「急用が出来たのだ。」

「承知しました。」ラシースは短く答えた。

 大人たちが引き上げ、解放された若者たちは誰ともなく歓声を上げた。家族のある者はさっさと帰り、

恋人のいる者、いない者、十五人余りが広場に残った。

「娘宿に行くぞ。」

「誰か呼びに行けよ。」

 若者たちは互いに見交わした。ひとりが思い切ったように言った。

「みんなで呼びに行こう。外から呼ぼう」

「村じゅう目を覚ますぜ、恥ずかしい。」

「何の、わきまえている場合じゃない」

 はじめに口を切ったタフマイの者が叫んだ。

「ぐずぐずしていると来年また売れ残るぞ。」

 わっ、と悲鳴のような声が上がり、笑い声があがった。駆け出す者があり、肩を組んで連れだって行く者がいる。ラシースの両側から肩に腕が回り、ぐいと引っ張っていこうとした。

「女の子に顔を見せてやれよ。」

 ラシースはするりと身を沈めて腕を振りほどいた。若者たちはしつこく誘わなかった。ちょっと振り返ってから、先に行った仲間たちを追って娘宿の方に駆けて行った。

 旋風が熱気をもさらって行ってしまったかのようであった。星空の下に、一時鎮まった広場で松明の火が静かにはぜた。ラシースは家に戻った。

 父はまだ戻って来てはおらず、レークシルは機を織っていた。天井から吊るした灯火の灯心を三本に増やして手元を照らし、長い髪が邪魔にならぬように首の後ろに折り返して結わえている。刀杼で緯糸を打つあいあいに、幾つもの紋綜絖を上げて杼を差し替え金糸を入れる。静かな、忍耐強い作業だ。無言の中で刀杼を傍らに置く音だけが緩い節奏を刻む。

 新しい鏃の包はそのまま炉のそばに置いてある。ラシースは入り口の鴨居に掛けてある弓を取った。

 旅に置いていったのさえ心残りな大切な弓だ。それは、昨年十八歳の成年を迎えた時、父の指示に従って作りあげたものだった。

 父の見立てた木はひときわあざやかな紅葉の盛りに切り倒され、彼の身の丈を優に超す長さに切り取られた。冬の間に長い時間をかけて削り上げ、熱した滑らかな石に押し付けて湾曲をつけると、握りに少し窪みのある優美な形に仕上がった。矢を弦につがえて放てば、御しがたい反動と共に矢は勢いよく飛んで行った。恐ろしいばかりの速さで見当はずれの方へ。父はそれを見ても何ひとつ言わなかった。弓の出来ばえなのか、腕前なのか。他の者が短弓を身軽にあしらいながら森での狩りをこなしている間、彼は父の無言の理由を求めて、手を入れながら弓を使い続けた。暴れ弓はいつしか彼に従い、身体の一部となった。

 初めてこの弓で獲物を仕留めた時、ラシースは記念の彫り物をすることを思いついた。父は即座にその思い付きをたしなめた。木目に傷をつけると撓りの具合も狂うし、弓も傷むぞ。しかし、彼は、きっかり深さの揃った浅い溝を細かく刻むことで父を納得させた。父は彼一流の口調で許した。「そんなもの、すぐにひしゃげるわ」ラシースは気にとめなかった。いま弓は握りのあたりをわずかに余し、透かし模様の鎖のような草木鳥獣に覆われていた。

 弓を傍らに置いて、炉に小さな坩堝をかけ、灰と煉り合せた松脂を温めて溶かした。乾かしてあった矢柄を三本取り、真新しい鏃を取り、矢の先に取り付け、糸をまいて固定する。

「明日は狩りへ?」

 母が尋ね、一寸肩をかがめ、刀杼を顔の横に庇うようにかざした。鉄の触れ合う音が嫌いなのだ。ラシースは出来上がった矢が音をたてないように敷物の上に置いた。

「さあ、ニアキにとどまるなら、補修を手伝うか。仕込みを手伝うか。」

 彼は決めかねて曖昧に言った。

 弓は丁寧に拭い、握りの具合を確かめ、矢摺に一部の隙も無く糸を巻いた。一度弦を掛けて矢筈をあてがい、中仕掛けの具合を確かめる。

 弓の湾曲が何かを思い起こさせた。厚ぼったい編んだ髪からのぞくえりあしや、信じられないほど細い腰の線。今日会ったアツセワナの娘だ。

 若者は戸惑った。大して美しいとは思わなかった娘の、微細な身体の線を思い出せるのが不思議だった。白い華奢な手や、高い額の下の瞳―――高原の雲を映す池塘のような清らかな瞳、そんなものを自分が知らずに見ていたのだということが。

 ラシースは弓をそっと下ろし、ひと息ついた。編んだ黒い髪、光を吸い込んでしまう豊かな厚み、ほどけばさぞ長いだろうな。

「おまえ、」母の声は静かだが唐突に耳に響いた。

「忘れてはいないでしょうね。」

 ラシースは母を見る勇気が無かった。その目に見つめられると、自分には全く覚えの無い心をさえ見透かされる心地になる。

 母の目を忘れるために、彼は炉の明かりに向かい、矢を手に取った。わずかな歪みを正そうと火に炙ると鏃がつかえて坩堝が傾き、火の上に松脂が零れ、ぱっと明るい光を放って炎が上がった。彼は一寸笑った。鉄と炎。母の苦手なものを気遣って仕事がはかどるものか?振り向かぬ彼の横でレークシルは物音も立てなかった。

 表で歌っている若者たちの声が風に乗って聞こえていた。即興に疲れた彼らは、頭声でゆっくりと古謡を歌っていた。ラシースは表の歌に声を合わせてみた。ちょうどいい音だ。

 レークシルは不意に身を折って、両手を胸にあてた。そして機に伏せて泣いた。

「何のために織るの?」

 苦しい自問の声が糸の張りを震わせた。

 ラシースは母の後ろから織られている布を見た。

 見事な縫取織だ。紫の光沢を帯びた臙脂の地に鬱金の枝葉が連なる。これを外衣に仕上げれば纏う者をどんなに豪華に見せることか。

「誰の外衣ですか。父上に?」

 父は彼同様、ごく森に馴染んだ色を纏うことが多い。

「ガラートに似合いそうだ。」

 若い大叔父の秀麗な顔だちを思い浮かべてラシースは言った。

「山が散る間際の夕陽の色だ。仕立てる時にこの模様を一瞬でも裁つなんて惜しいな。」

 レークシルは、はっとして彼を見上げた。

「そうね、ええ。ほつれないようによくかがっておくわ」か細い声の中に、元々の母の性である並々ならぬ強さがうかがわれる。「時間が無いわ。続けなくては。」

「無理をしているのでは?身体に障ります。」

 ラシースは、母の肩を抱いた。幼い頃の記憶にあるしなやかな肉付きが著しく失われ、手の下に華奢な骨組みがひんやりとして在る。

 父の帰って来た物音がした。朴の葉に包んだ食べ物を手にしている。父は彼を一瞥し、母の涙のあとに目をとめた。ラシースは母の両肩から手をはなし、父と入れ替わるように外に出て行った。

「遊んでこなかったのか?」

 静かに尋ねる父の声が背中を追って来た。

 広場の明かりは燃え尽き、歌の鎮まった輪から連れだった影がひとつふたつと抜け、去ってゆく。

 ラシースはくるりと闇に向かった。冷たい澄んだ夜気の中をずんずんと荒々しく足を速め、村のはずれの、やがて足元から下る傾斜が、ベレ・サオと中の峰の間に横たわるイナ・サラミアス一の大渓谷へと続く際まで来た。明朝競技が始まるというコタ・シアナの源流は、まさに渓谷を隔てて正面の位置にある。そこから発した霧が徐々に、姉神の喉元から肩口を満たし、下の森を包み、彼の足元にわだかまっている。

 彼は、ざわざわと波立つ心を闇の中にそっとあけた。

 ガラートは何故自分を止めたのだろうか。若い者たちが皆出払っているなか、自分ひとりでニアキにとどまって年寄り女子どもと過ごすのか。明日の見張りも務まらないだろうというのに、その翌日には彼の代わりに国境で異邦人と取引の話をしろと?南に用事があるのだと言っていたな。彼が会っていた女の声を自分は知りすぎている。父の不機嫌の理由は?―――母の涙の理由は?

 ひとつひとつ放った問いが残らず闇の中に消えて行った。霧の中に身を浸す彼の胸の中に戻って来る答えはひとつも無かった。

 振り仰げばベレ・サオの西へと豊かに髪を打ち振る山容があり、こめかみに掛かる深更の闇に星々の瞬きが際立っている。

 ああ、やはり、自分の力を試したい―――!願いが彼の心の中に飛び込んできた。

 見張りにもなれないって?競技を見て満足したいわけではない。山を駆ける足の速さ、草木に紛れる的を見分ける目、民の誰にも負けないはずだ。会ったことも無い“河向う”の大きな郷の男たちにだって、自分の土俵の上で勝負にならないこともあるまい。

 乙女は禁に触れる実を敢えて取って来いと言う。母に尋ねてみよう。母はあの乙女の名を知っていたのだ、その言葉の意味もわかるだろう。

 彼は家に取って返した。

 衝立の奥で機の音は止んだままだ。父が帰ってきているのを思い出して、彼の足は鴨居の下で止まった。父の前で幻を見た話を母にするのか?息子が白昼夢を見るのを何よりも嫌い、母の力を否定する父の前で?

 両親の交わす声は途絶えることなく低く続いている。父の声は落ち着いており、母は取り乱しながら強固に反駁し、それがわずかな体力を焼き尽くそうとしていた。

「私をわかっていない。―――私がこれを仕上げた暁には何を贄に捧げるつもりか。」

「織ってはならん。」父が低い声でたしなめた。

「サラミアを騙せると思うか?機を置くのだ。織れば必ずあいつを奪う。」

 母の声は短い苦しげな嗚咽に変わり、父が掛ける声は優しく、歌うように繰り返しなだめていた。

 ラシースは聞くまいとした。彼の知らない父母の姿がある。

 すぐに出かけよう。彼は唐突に思った。炉端に置いたままだった弓と新しい矢をいれた矢筒は入り口に戻されている。短刀をあらため、衣服を整えると弓矢を取り、自分の立てる物音が父母を妨げないように、そっと戸口から出て行った。


 夜の明けるはるか前、真夜中のうちに若者は村を出た。競技は太陽が空に昇ると同時に、ベレ・サオの源流となる大瀑布の岩棚で行われるという。並みの旅で二日歩く分をこれから一夜のうちに行こうというのである。

 濃い夜霧は谷底から上がって森をすっかり包み、ほんの少し前に若者が佇んでいた場を、知らぬげに消しつくしていた。若者は灯火を持たなかった。闇の上に霧がかかれば明かりがあってもなくても同じことだ。彼は闇に親しむことも知っていたし、両足がイナ・サラミアスに降りている限り、その稜線を見失うことなどなかった。若者は家の裏手からなだらかな登りとなっているイスタナウトの森を北東へとまっすぐに横切って行き、先ずふたつの峰の鞍部を目指した。

 ニアキの東は昨日下りてきた長手尾根の上腕であり、なだらかな肩をなす頂は、ベレ・サオを指して北へと下り、やがて西方に懐深い大渓谷を臨む首筋に差し掛かる。そこまでが道行きの半分だ。丈の低いカバと松の混じった森のあいあいに岩を洗ういくたりかの流れは靴を浸す幅もない。これらはやがて集束してコタ・シアナのもうひとつの源流、“鷲谷”を貫く流れとなる。広らかな谷あいを巡る丸い頸部で一度足を止めて休み、いよいよ、イーマの子らもなかなか行くことの無いベレ・サオへと渡る。

 山の南側はまだなだらかなイスタナウトの森だが、しばらくでシラビソの濃く茂る険しい尾根へと行き当たる。その上部と西に開けた山腹はハイマツと岩の山塊、その間を梳いて流れる万年雪からの水、裾野を覆う針葉樹の森だった。若者は岩を伝い、水源の上に回った。

 滝の低い轟きが間近く聞こえだした頃にはいくぶん空も白んできたと見えた。音に身を浸すと疲労と睡魔が手足を緩やかにとらえた。若者は源流に向かって下って行き、ツツジの株を手掛かりにしてふたつみっつ岩棚を下り、瀑布を一望できるところを探し当てると、岩根のわずかな窪みに入って外衣にくるまり、身体を丸めて眠った。

 一帯を賑わす人の気配と夜明けの明るさを感じて、彼ははっと目を覚ました。岩場に囲まれた渓谷は音が響き、人々がひどく近くにいるような気がしたのだ。瀑布の刻む緩急のあいに、嘆声混じりのどよめきが起こる。身をおこすと、中の峰の肩口から昇った日の光が目を射た。

 彼のいる岩棚はまさに水の最初の落下の始まる目元の位置にあり、イナ・サラミアスの山脈の稜線を一望に出来た。山の際は朝日に縁どられて輝いている。が、“長手尾根(エユンベール)”がその(かいな)のうちに包んでいる山の西面はまだ蒼い陰と朝霧に覆われている。ニアキはその中でまどろむ森のさらに奥だ。彼の下の岩棚にいる“河向こう(オド・タ・コタ)”の者には滝を囲む渓谷の岩壁に阻まれ、彼の(くに)の姿は、大渓谷の懐のほんの一部が見えるに過ぎない。

 競技は下の岩棚に日が届けば始まるだろう。間もなく競技を行う者たちが現れるはずだ。彼は滝の両側に集まった人々を興味深く見つめた。

 彼よりもやや南東よりの、岩壁が三方せまる岩棚に、異国の男たちはひしめいている。昨日の驚きが再び若者の心を満たした。その多さ、声の大きさ。何故こんなにたくさんいる?ただの見物人か?

 しばらくすると、向こう岸の人々の頭はしきりに彼のいる下の岩棚に傾ぎ始めた。人々の輪は少しずつ前方へと押し出された。立派な身なりで堂々と着飾った男たちが、ふた方の列に分かれて進み出て来たのだった。

 これが土地を所有する者たちか。若者の中で反発と称賛とがせめぎあった。男たちは大柄で、髪が白くなり禿げた老人までも福々しく色つやの良い顔をしている。このふた方の中でさえ、髪の色や体格、顔つきに違いがみられる。コタ・レイナのコセーナの荘の男たちはこちらか。皆、立派な体格をしている。胸板は厚く、上腕が太く、手足が大きい。身振りが堂々として、声も大きく力があった。

 中で取り囲まれている若い男が競技者のうちのひとりだろう。幾分ずんぐりとして見えるが、筋肉はまるく引き締まり、動きは敏捷で美しかった。短い、ゆったりとうねりのある明るい色の髪、目元には笑いが宿り、朗らかな口の脇にはえくぼがある。

「ダミル」よく似た顔だちの少し年かさの男が声をかける。コセーナの領主の息子ダミルか。

 いまひとつの集団にいるのは色白の男だ。細づくりの顔で渋面に思い出したように口元に笑いを浮かべるが、口数は少なく、終始相手の様子を気にしている。

 他にもやや下に五人、身軽ないでたちであたりを検分している者がいるが、従者もいない。競技の挑戦者だとしても、王女の婿の候補としてはあまり期待されていないのだろう。身なりの良くない者もいれば、年を取った者もいる。

 王と王女の到着が告げられ、狭い岩棚の上の人々はさらに動いた。

 相次いでふたりの人物が現れた。ひと目でそれとわかる王、そしてほっそりとした長身の白髪の老人。

 王の装いは簡素であった。父とあまり変わるまいが、少し若いかもしれない。堂々とした体格。晴れやかな顔に、その場で肩に羽織った真紅のマントも似つかわしい。

 濃い紫の長衣を着た老人は一旦岩陰に消え、王女の手を引いて来た。大きく丁重なその手こそは幸運の鳥を逃さぬ枷に見える。老人は愛想よく微笑みながら人々を見渡し、競技者の色白の男に目をとめると、一瞬冷ややかな面持ちで軽くうなずいた。男は応えるかのように口を開けかけ、小刻みにうなずき返した。するとこの男がこの老人、宰相トゥルカンの息子アガムンらしい。

 王女は白い衣装に身を包み、蒼白い顔をして父王の傍らで懸命に岩を踏まえて立っている。その姿は、徐々に大きさを増してゆく歓声のただ中で震えていた。彼女を得るために戦うはずのふたりでさえ王の方にのみ注目している。その差し上げた手に件の黄金果が、折しも射しこんできた太陽の光を受けて輝いていたからだ。王は衆にその実をかかげて示し、ゆっくりと岩棚を進んできた娘の両の掌に置いた。

 途端に辺りは水を打ったように静まった。それまで打ち消されていた滝の音がいくつもの静かなもつれた旋律となって谷間を満たした。流れ落ちる水の上に、岩から岩へ差しかけられた橋の上に、王女は進んだ。競技者が下段の岩棚に向かいあって立った。

 王女が競技の始まりを告げる。風が運んできたのか、王女のか細い声は一語一句漏れることなく若者のもとにまで届いた。

「勇士よ、この手に黄金果を返し、その心の誠をしめせ。」

 王女は意を決したように一歩踏み出すと、生まれゆくコタ・シアナに接する天を仰ぎ、きりりと首を反らせた。前方に捧げていた実を右手に替え、弧を描くように投げ上げた。折から来た風がふわりと金の翼を持ち上げた。

 どっと歓声が湧きおこり、興奮の故か、滝壺のひとつに飛び込む者もいる。

 途方もないことをする者がいるものだ、と若者は呟いた。アツセワナの傍らに流れるという大河はそんな豪気を育てることもあるのだろうか。しかし、彼も競技者たちも、黄金の実が風に流され、下流に展開する渓谷に行ったのを見届けていた。そこにはツツジの茂みが張りついた切り立った岩壁が五十尋に渡って連なっている。流れに落ちたか、崖の茂みに掛かったか。

 コセーナのダミルは南東側の崖を指して声をあげた。すかさずアガムンは駆け出し、同じ側の三人が追った。

 滝の反対側にいたコセーナのダミルは両の岩棚に差し渡された木橋の上を渡り、後をふたりの男が続いた。突然、橋が大きく谷に向かって振れ、最後に渡った者を道連れに谷じゅうに轟く音をたてて落ちた。ラシースは我を忘れて身を乗り出した。木橋は深い亀裂に落ちて真っ二つになり、挟まれて泣き叫ぶ男の声が、驚愕のどよめきの後になお続ている。

 何故、こんなにたやすく橋が落ちる?競技に何か企みがあるのか。動揺を静めながらラシースは人々の動きを見守った。しかしこれで競技者は一人減り、さらに侵入する者も減る。

 王はただちに落ちた男の救助を命じ、続けよ、という合図に腕を振った。競技者たちは婿候補のふたりを筆頭に既に黄金果を求め崖に取りついている。

 対岸の見物人は目の上に手をあてがって、南東の崖の下を覗いている。太陽に向かう位置ゆえ眩しげで視線は定かでない。が、コセーナの男は崖をつたい横ばいに進む。その少し先、深く奥へと切れ込んだ屏風の岩の突端の藪に、金の実は引っ掛かっていた。

 このままでは勝負が終わる。王女にとってはそれも良かろうが、自分はそんなことのために来たのではない。ラシースは弓を取った。この矢に使いをしてもらうとしよう。そしていま少し人々の目が崖とその上の岩場から離れてくれたなら。

 人々が興奮して叫び始めた。コセーナの男は狭い岩の端から懸命に手をのばしている。その後からアツセワナの男が迫る。下は目も眩むような谷底に、砕け落ちる滝から生じる急流。谷から吹きあがる風が競技者たちの衣服にまつわる。ラシースは岩棚の端に立ち、矢をつがえ弓を引いた。

 後ろからの追跡に気付いたコセーナの男は、振り返り、怒ってアガムンが捉えた左腕をもぎ離し、逆手につかんだが、何かに驚いたように、岩肌に肩を伏せた。ひゅうという軽い唸りと同時に茂みが鳴った。そして次に顔をあげた時には仰天して声をあげた。金の実は消え去っている。

 早くもコタ・シアナの流れに落ちて流れ去ってしまったか?人々は岩棚の下の谷に発した急流を眺めた。競技者たちが登って行った屛風の壁が果てる彼方にはイナ・サラミアスの喉元から集めた水を集めてもうひとつの水源を発する“鷲谷”がその広い鉢の間口を放ち、三段にわたる滝の水がふさふさとかたまりとなって落下し、生まれたばかりのコタ・シアナの流れに合わさっているのだった。既にそこに落ちたのならば誰が取って来られよう?

 だが、コセーナのダミルはそのまま登り詰めた屛風の崖を谷の方へと行き、その後を遮二無二追いすがるアガムンが、そして他の者たちも続いてゆく。

 王は、当惑のどよめきを上げる人々に山を下り、渓谷の下流の淵に待たせてある舟でアタワンの幕営地に戻って待とうと呼びかけた。そこが競技の終点となる。

 すっかり汗だくになったコセーナの男が、蒼い顔をした競争相手を谷の上に引っ張り上げた頃、下から彼を追い抜いた二名の者が、背後のまろく高い山腹と岩壁との間の狭い平らの上を歩きまわり、登攀を諦めた二名が急流沿いに横ばいに下りて行った。王の一行は北岸の森の中の道を西の下流へと下りはじめていた。そしてラシースは、ベレ・イナの“目”の滝裏をまわって競技場の上の岩場に出、金の実を射込んだ“鷲谷”目掛けて、丈の低い針葉樹が覆う急峻な斜面を駆け下りていた。

 羚羊のように斜面を短く折り返し、その拠点ごとに遠く谷の北の辺を見渡すと、今や谷間をくまなく照らす光線が、谷を縁取るツツジの紅い茂みの上に淡く光る球を浮かび上がらせた。紛れもなく彼の矢の刺さった黄金の実が載っている。

 彼は止まり、斜面のハイマツの陰に身をかがめた。既に黄金の実の近くに、競技者のふたりの男が駆け寄りつつあったのだ。

 近寄るとふたりの男は、思いがけぬ横やりの印が獲物に刺さっているのを見て、一瞬立ち止まった。互いを見交わし、次に矢羽根の示す方を警戒して見渡す。彼らの目には山腹の裾のまだらに岩場を彩るハイマツとナナカマドの間に潜む姿は見えなかった。

 ひとりの男が矢の刺さったままの金の実をひったくった。呪縛が解けたようにもうひとりが追いすがる。先の男は取られまいと手を後ろに遣り、後ずさりながらその口元には薄ら笑いがうかんだ。ふたりともに身形の貧しい、年格好の似た者同士だ。

 後ろ向きに逃げながら実を手にした男が言った。

「なあ、きょうだい。幸運のありかを間違えちゃいかん。金の実はおれ達のつかむ褒美じゃない。旦那がたに残しておくんだ!だが、()()()についてきたものなら別さ、そうだろう?で、相談だがよ―――。」

 男は近づく仲間をかわしながら金の実から矢を抜き取った。が、その笑いはすぐさま後ろざまに虚空へと吸い込まれ消えた。金の実に飛びついて奪い取ったもうひとりが、仲間をその手に握った矢もろともに崖下へと突き落としたのだ。

 若者は少なからず動揺した。全てがわずかな間に起きた。彼の放った矢が競技を違うものにしてしまった。落ちた者は死んだに違いない。

 男は自分のしたことが信じられぬように茫然と立ち尽くしている。

「何があった?」

 コセーナのダミルが叫んで駆け寄って行った。あとをアツセワナのアガムンが追う。男は、駆け寄る男たちと手にした金の実との間に目を泳がせながらふらふらと後ずさり、ぽとりと実を落とした。

「もうひとりはどこに―――落ちたのか。」

 男を問い詰めるダミルをよそにアガムンはつかつかと歩み寄った。男はくるりと背を向けて逃げるそぶりをした。やにわにアガムンが男の襟首をつかんだ。

「ご主人、どうぞ堪忍を!」

 男は叫びながら懇願するように金の実の方にさかんに手で指した。

「失せろ、下人め。」

 アガムンは男を突き放し、それでも足りないのか足蹴にしようとした。横に転がって逃げた男の脇腹に靴の先が当たった。男は一瞬、目を見開き口を歪めて見返すと、金の実をつかんで谷の方へと駆けだそうとした。アガムンは背後から男のベルトをつかまえ、打擲するためのものを探し、腰の短剣を抜こうとした。

 後ろからアガムンの肩をとらえるや、コセーナのダミルは拳を固めて殴りつけた。前に飛んだアガムンに強く押されて金の実は男の手を跳び、ふっと風を受けて谷へと落ちて行った。男はひと声悲鳴をあげ、地面に突っ伏した。

「おい、物騒な始まりだな。」

 コセーナの男は険しい顔で目の前の有様を眺め、傍らに唾を吐くと、男にそう声をかけたが、すぐに黄金の実を求めて、ツツジの藪の根本から土の削げて落ち込んだ谷の際を見渡した。やがて用心深く向きを変えると両手を使いながらゆっくりと木の根、草の株を伝って下りて行く。

 ラシースはハイマツから出た。鼻を抑えて横ざまに倒れているアツセワナの男の横を足音ひとつ立てずにすり抜け、崖の縁にうずくまっている男を真上からそっと覗いた。男はコセーナの男が谷の中へと去って行く物音に耳をすませ、起き上がって逃げる頃合いを見計らっているようだった。ラシースは上から強い力で男の首の後ろを抑え込み、囁いた。

「“遊戯を抜けた”と十唱えてもと来た道を戻れ。(ヒル)の方を見たら矢がお前に飛ぶ」

 男はうなずこうとしたが、頭がびくとも動かなかった。そこで両手を自分の頭の上に重ね、降参の意を表した。

 ラシースはコセーナの男が下りて行った“鷲谷(シグ・ハマ)”へと向かった。金の実は風でもっと奥に流されたはずだ。水源が貫く谷の奥行きは深く、底の鉢は漏斗のように集束して滝へと全ての水を運ぶ。水に落ちたものも。

 ラシースはコセーナの男よりもずっと早く谷を下りた。何でもないことだ。男は足元に気を取られ、他の競技者たちは谷に至ってもいない。この程度の勾配ならば彼は目も両手も全く自由なのだ。

 彼は、渓流沿いの草紅葉の中に金の実を見つけた。コセーナの男が山肌を下りきるにはまだ時間がある。谷間には彼が姿を隠せる藪もいくらかある。空の下に暴かれる広らかな谷の斜面を彼は大胆に横切って実に駆け寄った。まだ誰の目も谷の中には届いていない。

 冷たい影がさっと背の上に降り、球の金色が翳った。硬い翼が風を切り、甲高い声が叱責した。ラシースは地に伏せた。ばさばさと大きな翼が彼の肩を打ち、水辺をかすめて谷の鉢をひと掃きし、虚空へ飛び去った。

 良く通る陽気な声が、明るい色合いの枝々が縁取る青空に響いた。ラシースは声の主の方を見た。谷底をめざし流れ込む小さな沢のひとつの中ほどにコセーナの男が立ち、空を振り仰いでいた。旋回する大きな影の後部には金の実がきらめいている。金の実は今は空高くにあるのだ。

 “鷲谷”の呼び名は、この一帯を縄張りに持つ年取った鷲から来ていた。秋から冬にかけては殊に若い同族の侵入を嫌い、源流の脇の古木の高みにいて、炯々たる瞳を光らせては八方に睨みをきかせ、時には大きな翼の影を落としながら、領内を巡回する。この谷の主が、ラシースの眼前から金の実を持ち去ったのだった。

 コセーナの男は、鷲を挑発するようにほうほうと声をあげ、のびあがって拳を振り回した。その姿は可笑しくも勇壮であった。鷲ですらそう思うのであろうか、高みにゆったりと、男の上へ上へと旋回しながら飛び去る様子もない。男は少しでも近づこうとするかのように沢筋の岩をひとつふたつと登る。倦まずたゆまず不格好に叫び続けている様は、遠目に見れば、鷲と戯れ親しんでいるようにも映る。

 若者は讃嘆とも嫉妬ともつかぬ思いで見つめた。谷の主を脅して実を落とさせるつもりか?そう、かれがどうするか知りたいならひとつ手伝ってやろう。見慣れぬ者が鷲の怒りを買うには、ほんのわずかな弾みがあれば十分だ。若い無鉄砲な若鷲の声を聞けば、谷の主は思いあがった侵入者に一撃を加えなければならないと思い出すだろう。

 甲高い鷲の声が谷にこだました。谷の主はそわそわと羽ばたき、山肌すれすれにまで下りてきた。

 コセーナの男は無鉄砲にも鷲の足にとびかかった。鷲は金の実を放して男の手をすり抜け、風に乗り、ぐんぐんと空へと昇って行った。

 男は踏み外した岩から一回転して金の実をつかみ取ったが、それで終わりにはならなかった。虚空に上がった鷲は一直線に男の上に下りてきた。一間あまりの両翼にすっぽりと男の身体は隠れ、鋭く鳴き立てる声と空を打つ羽音のただ中で、鉤爪に切り裂かれる男の悲鳴が混じった。男は血の流れる腕で額を庇い、必死に鷲を追い払おうとした。

 今、ほんの少し待てば、男が落とした金の実を拾って来られる。姿を見られることもないだろう。鷲が、見られないように男を始末するだろう―――ラシースは拳を握りしめた。いや、駄目だ。ラシースは卑劣なけしかけの後始末をせねばならないことを悟った。彼は鷲を追い払うために弓を構えた。

 鷲は金の実をつかんでふわりと一旦舞い上がり、ゆっくり旋回しながら彼の方へ近寄って来た。明るい琥珀色の目がじっと彼を見つめた。彼は思わず弓を下ろした。彼の頭上に来た鷲が、金の実を差し出すのでは。

 だが、違っていた。鷲は吹きあがる風に乗って高く上がり、金の実を放った。数回羽ばたいて、玩具のように嘴で弄んだ挙句、鷲は宙返って谷の南側の森に飛び去った。金を塗った木片がはらはらと、コセーナの男の嘆く声を聞きながら宙を舞った。金の実からもげた片方の羽根だ。球のほうは谷の果てた先にある滝壺の方へまっすぐに落ちて行った。

 男ががっくりと肩を落とす様子が見えた。顔も、腕も、引っかかれた傷から血が流れている。しかし、谷川の水で素早く傷を洗うと、自分で包帯し、金の実を求めて滝の横の崖を下る途を探し始めた。

 コセーナの男が谷の北側から下り始めたので、ラシースは南側に渓流を渡り、滝の脇を下り始めた。

 “鷲谷”の間口から切り下がった崖はベレ・サオの滝から生まれたコタ・シアナの流れに面し、そこで流れをひとつにする。初夏に雪解け水を満々に湛えて、イナ・サラミアスの掌の下に深い淵をつくるコタ・シアナの上流は、秋も深まるこの頃、水がすっかり捌けて、流れに磨き抜かれた一段低い河床がせりあがり、ベレ・イナの胸元の岸を縁取っている。南側の岸辺はうねりながら高くそそり立ち、その上にベレ・イナの緑の衣、今は黄金から橙、紅へと色づき始めた森が始まる。しかしながら、谷口から注がれる水を受ける高坏(たかつき)のようなみっつの段をなす滝の脇は、手掛かりにする草木の根もない岩壁であった。

 初めの滝の釜の脇まで下りてきて、ラシースは、とっさに滝裏に身を引いた。滝の北側は、先ほど競技者たちが最初の探索を始めた岩壁へとつながる。鷲谷に至らず、先にそこに降りていったふたりの男たちのうちのひとりが、三段目の滝の傍の岩に取り付いている。金の実は釜に満々とたぎる純白の泡の上に浮かんでいた。男がそこにたどり着くにはまだ間がある。反対側から水の帳に隠れて近づけば。

 一の滝の滝裏からそっと北に回り、道を見出そうと岩壁を眺めやった時、思いがけないものがラシースの目に映った。白い水の帳の、節奏を刻んで生じる間隙に、上方に肩を突き出した岩棚に立つ見慣れない風体身なりの男を。

 競技者ではない。弓矢で武装し、ベレ・サオの“目の滝”では見なかった顔だ。大きな男で、少し仰いだ顔は、肩まである縮れた髪と同じく枯葉色の髭が薄く覆い、日焼けで赤らんだ顔の中に猛々しく薄青い目が光っている。その手に弓を構え、矢をつがえ、上方に狙いをつけている。

 ラシースは男の狙う方に何者がいるのかを悟った。上から下りてくる競技者、コセーナの男だ。彼は弓矢を取り、狭い滝裏から刺客に狙いをつけた。的は大きい。だが、肩の上を狙い放った。

 彼の矢は男を脅すことすらなかった。男は狙いをただちに変えて滝の上に向けた。ラシースは伏せ、矢は矢筒の端をかすめて岩壁の端に当たり、水に落とされ流れ去った。

 男は上を見やってコセーナの男の位置を確かめ、岩棚をこちらに向かってきた。ラシースは取り回しの悪い弓矢を置き、外衣を脱ぎ捨てて、帳のぎりぎりまで近づき、相手を待った。相手は、上と滝を交互に見ている。牽制の構えをしながらも、コセーナの男の動きに気を取られ、新たな足場を求めている。

 ラシースは滝裏を戻って二の滝の横まで岩棚を下りた。先に三の滝に下りた競技者の男は滝壺に身を乗りだしている。彼はその頭の上を伝い、二の滝の下を回り、そのまま岩根を踏み切って向こう側の岩に跳び移った。からからと小石のかけらが落ちる。弓矢の男は振り向いた。二歩ばかり上のその岩棚に手をついて飛び乗ると、ラシースは横から男に組み付いた。

 不意を突かれた男は矢を落とし、弓を下げかけたが、腕ごと上体をふるって、相手をもぎはなした。

 ラシースは奪い取った弓ごと岩壁に叩きつけられながらも、すかさずそれを傍らにツツジの古木の根が楔となり断ち割った岩の割れ目に横ざまに突き立て、両手でえいとばかりにへし折った。その根元に手を持ち替え、抜き放った短刀を振りかぶる相手の肘の下に滑り込むようにして足をさらい、蹴り放すと、身体を引き上げ、上へと崖を登った。

 少し登ったところで振り返ると、男は二段ばかり滑り落ちた岩棚で止まり、短刀を拾って起き上がったところだった。あの青い瞳でこちらを睨みつけている。しかし、追ってこようとはしなかった。この騒ぎのわずか五間ほど離れた三の滝の釜では、金の実を滝壺から拾い上げた競技者のひとりが、その直下のコタ・シアナの奔流に引きずり込まれそうになりながら、せりあがった河床の上に這いあがって来たところだったのだ。青い目の男は競技者から隠れた岩陰に身を潜め、立ち去るのを静かに待っているようであった。ラシースと男は上と下から無言でにらみ合った。ラシースは上の岩棚に移り、男の姿は眼に入らなくなった。

 あの男は、コセーナの男だけを標的にした刺客なのだ。ラシースはそっと息をついた。何故、自分はあの男を射殺してしまわなかったのだろう。コセーナの男がこちら側から下りてくれば、間違いなくあの男と遭遇する。自分にはそれを教えてやることはできない。

 それにしても、コセーナの男はどうしたのだろうか。もう下りてきてもいい頃だ。ラシースは崖の上を見上げた。この下から刺客の男は彼を狙ったはずだ。姿が見えないわけが無い。振り返って下を見ると、刺客の男はゆっくりと滝の方へ、南側へと動きはじめている。ラシースは気付いた。彼の知らない間に、コセーナの男は一の滝壺よりはるかに高い位置で裏をくぐって南側に抜けたに違いない。とすると、もう先に拾っていった男に気付いて追って行ったのだ。遅れをとったのは自分のほうだ。

 彼はすぐに壁に取り付いた。下に三人がいるのなら自分は上を行くしかない。

 南壁に移ってすぐに、ラシースは、実を拾った男が河床に沿って下って行かずに、硬い岩盤がそそり立つ壁を回って行ったのに気付いた。何故、川沿いに下って行かないのだろう?競技の決勝点はコタ・シアナの向こうの丘、いずれ水の試練が待っているというのに、イナ・サラミアスの内に向かう理由がどこにある?あの崖は、内側に亀裂を隠した危険な場所でもある。こっそり隠れて他の者を出し抜こうというのだろうか。誰よりもあの場所をうまく抜けられるというならそれも良いが。

 下に降りようと向きを変えると、南へと移りゆく光線に混じって飛ぶ塵がある。さらさらと上から降ってくる。次いで土塊が落ちてきた。続いて叫び声。

 声をあげているのはコセーナの男だった。彼は滝の下の岩壁を横に移動して行ったところで右側の切り立った岩盤に行き当たって立ち往生していた。だがそれだけではない。下に行き詰まった彼は、上を登り切って仕切り直そうとし、敵と出会ったのだ。

 彼のいる上部は鷲谷の際から上の森へと続いているところで、空に迫り出した木の根が抱えている土がごっそりと削げ、危なげな盾で行く手をふさいでいた。その上に、ツツジやシャクナゲの藪が覆いかぶさり、その藪がぐらぐらと何者かに揺すぶられて、根元から土塊を落としているのだった。

 せせら笑う声ともうひとり、うろたえて言う声がある。

「お止めなさい、アガムン様、お止めなさい。」

「ふん、石でもあればいいものを。」

 ひと節どっと土塊をコセーナの男の頭上に浴びせ、アツセワナのアガムンは藪の上に一瞬憎々しい顔を出した。急ぎましょう、こちらでございます、アガムンともうひとりの声は森の方へと去って行った。

 崖の途中でこらえていた男は動きはじめた。怪我をした右手を胸の下に庇い、左手で上にすがるものを求めると、その掌と腕の下で根の浅い石が剥がれ落ち、土が流れて身体をすべり流した。石はラシースの右側を転げ落ちて行った。

 ラシースは、出来るかぎり急いで男に近づいた。敢えて自分の身体を男の下に位置づけ、右の掌で男の左足を受け止め、自分の肩をあてがい、足場をつくった。これで男が上に道を見出すか、自分ももろともに落ちるかのどちらかだ。額と左肩を壁面に押し付け、預けられた重みに耐えながら、なおも彼の重みに耐えてくれる木の根を踏まえて彼は念じた。さあ、暫時安んじて、すぐに見つけてくれ。ここを助かる途を。

 男は深く息を吐いた。静まり返った谷間に、森の際で囀る鳥の声、微かな風の音、そして手掛かりを求めて身じろぐ音がした。やがて、若者の肩はすっと軽くなった。男は右手を上げ、太い根に手を届かせ、這い上がろうとしていた。ラシースは、すかさずその下に付け、足に手を副えて助けた。男の脇が縁に届く。左腕がその先に伸び、何かをつかみ、足が上に抜けた。もう一押し。だが、男の身体はきれいに藪の向こうへ抜けて行った。男の長い嘆息が若者に彼の安全を知らしめた。

 ああ、女主人(ミアス)

 ラシースは、崖の際から溢れて繁るシャクナゲの下に潜み、男が十分に遠ざかったと見てから木の根を伝って岩盤に沿った崖を下り始めた。コセーナの男はアガムンを追って上の森を川沿いに行くだろう。だが、金の実を持った男はまだ下の岩盤に穿たれた暗い水の迷路の傍を彷徨っているはずだ。

 鷲谷の崖の脇から渓流の上にのしかかるように聳える岩盤は、今は水面に表れている河床の脇に沿って二度三度迫り出しながら二百尋にわたり、縞目の硬い岩肌を横たえている。その上には幾重もの丘陵を経てやがてニアキにまで続く森が広がる。

 しかし、ひと綴りの帯のような岩根にはところどころに亀裂が入り、山の深部から来る水がさらに岩を磨いて通い路となしている。川に向かって開けた出口は明朗な回廊と見え、しかし、その奥は、上から下へと縦に切れ込んだ長い亀裂が、時には上の森を歩く者を、時には川辺から闇に踏み込んだ者の足元をすくう。

 ラシースは、崖の半ばから縦に切れ込んだ岩の間に入り、川辺へと下りて行った。金の実を持っている男から奪うには相手の目の利かない闇の中に身を置くしかない。

 男は、崖の下から流れ出て、コタ・シアナに向かって横断している水の帯をひとつ渡ったところだった。腿までつかりながら大きく両腕で空をかいて歩くその手に金の実は無い。懐に仕舞ってあるのだろう。

 日の高くなった谷間の南側は崖の直下に濃い影をつくっている。男は日向を歩いている。ラシースは陰になった崖を伝った。しまい込んだ懐から金の実を出させるにはどうすればいい。つい不安になって取り出して確かめようとするような気にさせるとか?いや、直につかまえて取り上げる他にどんな方法がある。

 男は不思議に崖の上を気にしている。どうもおかしなことだ。何故、まっすぐに決勝点に行こうとしない―――誰か落ち合おうとする相手がいるのか。

 水の中を歩く者とそれを追う崖を伝う者。間は少しずつ開いてゆく。

 ふたつ目の亀裂に差し掛かると向こう側の壁は離れて手が届かない。ラシースは少し亀裂の奥に入って移る手がかりを探したが、そのまま浅い水の中に跳び下りた。水音を聞かれるかもしれないが、後ろを追った方が早い。外に出ようとして彼は動きを止めた。外の明かりを背にして男の黒い影が亀裂の出口に塞がっている。男はのびあがり、顔を左右にゆっくり振って陰の中を見極めようとしていた。

 男はちょっと顔を突き出し、奇妙な獣に似た声を出した。ラシースは逡巡した。合図のようだが、知らない鳴き声だ。

「相棒、返事は?」疑い深く問う声が続いた。

 ラシースは音をたてぬように壁に背をつけた。相手の方が後で陰に入って来たのだ。まだ自分よりも目が利かないはずだ。相棒、と言ったのだから味方と思わせればもう少し近づける。

 彼は、男の立てた奇妙な声を試みながら手を明るみの方に上げてゆっくり手招いた。

 男は無言のまま真っすぐ膝までの水の中を歩んできた。ラシースは亀裂の窪みに身を潜め、相手を待った。男が腰の短刀に手をかけるのと、ラシースが男の襟首をつかむのが同時だった。ラシースはぐいと襟元をねじりあげ、相手を突き放した。上がる水音に紛れ、さらに奥に逃れる。男は黄金果を持ってはいない。どういうことだ?

「曲者!」水から立ち上がる音と同時に相手がしわがれた声で囁いた。

「どこの者だ?コセーナか?」

 ラシースは岩壁の中を奥に退き、内側の亀裂を辿って、つながった抜け道を探った。男は追ってくる。

これは逆だ。ラシースは自分に腹を立てた。何故、自分は逃げるんだ。仲間を装って物陰におびき寄せてつかまえ、取り上げるつもりだった―――だが、黄金果は無かった。今は素性を追及される危険があるだけだ。イナ・サラミアスの者が競技に介入してはならないのは周知のことだ。

 しかし、サラミアに捧げられたというこの競技の有様はどうだろう。競技者本人から橋の細工、公正などどこにある?コセーナのダミルを狙った男は自分の姿を見たが、彼自身が人には見られてはならない存在だ。―――この競技では表に知らされぬ者が多く潜むのだ。

 源流の峡谷の壁面から奥へと走る大きな二本の亀裂は岩盤を鋭角に切り取って奥では繋がっている。岩盤の中はさらに割れている。ただ、身が通るほどの隙間はそう多くはない。ふたつも角を曲がれば川辺からの光は届かなくなる。しかし、先にはところどころにうっすらと明るみがある。上の森から射しこんでる光だ。上を歩く者にとっては恐ろしい奈落だ。そしてこの地底で行き詰まった者には、無限の隠れ家につながる出口かもしれない。ラシースは手掛かりをもとめて明かりの下りてくる壁面を眺めた。足元を流れる水のすぐ下で水の跳ねる音がした。ラシースは振り返って後ずさり、上からの光の溜りの中から奥の岩陰へと隠れた。水の流れる音だけが続いた。そっと窺う陰の中で男の肩が微かに上下している。

 やがて、はっ、と笑うような短い息が漏れた。

「あんた、黄金果が欲しいのかい。」男は言い、上の方を顎でしゃくった。「上だ。上で奴らが持っているよ。崖の上から紐を下ろして引き上げて行った。なのに、おれを上げてくれんのだ。」

 ラシースは答えなかった。岩の角を曲がり、完全に闇の中へと隠れた。

「畜生!」男は言い、あの獣の声をあげた。そしてあいあいに罵った。

若いの(アート)、おれをここから出してくれ。―――イーマめ!」

 ラシースは亀裂のさらに奥に進んだ。切り立って手掛かりは少ないが、両側に迫る壁は手足を張れば登れる間隔だ。弱い光が上に抜ける穴があるのを示し、壁面に張り付いた蔦の蔓が一本二本と上から下がっている。

 岩壁を擦る音に気付くと、男は罵るのをやめ、耳を傾けた。そして、水の中を歩き回り、岩を探った。滑る音、水音、罵り。そしてまた水を歩き回る音。―――すすり泣き、水を歩く音。上へと登る若者の耳にそれは纏わりつづけた。

 岩肌に絡むと木の根とびっしり内に張り付いた蔦の蔓、粘土にぬめるひび割れた壁が、増してくる明るさに伴って現われてくる。上の森の風の音、遠い鳥の音が、闇の中の水音に代わって出口の近いことを若者に知らせた。もう、あの音は聞こえない。若者は足の下の闇に残したわずかな心残りを振り切ろうとした。その時、闇の底から長い絶望の呻き声、そしてあの獣の声が、人の怒りと恨みの響きをそのままに彼の背後を追って来た。若者は上へと手を伸ばして木の根をつかみ、出口に向かって身体を押し上げた。

 落ち葉を踏む音が誰かが近づくのをしらせた。走って来る。

「あいつだ、あいつの声だ。どうして地面の中から聞こえるんだ?」当惑した声には聞き覚えがある。競技者を装ったアガムンの従者だ。

「すておけ」離れた場所から言い放つもうひとりの声。「時間が惜しい。早くいくぞ。」

「上げてやらなかったのでどこかに迷い込んだんだ。可哀相に、あいつは滝の水の中からやっとでこれを拾ったのに。」

「地に落ちた汚い毬だ。」アガムンは怒鳴り返した。「この嫌な森の出口はどこだ?」

 黄金果は彼らと共にある。ラシースは穴の中で外の様子に耳をすませた。彼らがここを見逃せば、立ち去った後で追うことができる。

 地の底からは続けて苛立った獣の声が聞こえている。地上の、ラシースのいる穴のすぐ近くから、答えるように同じ合図が聞こえ、枯葉が鳴った。

「地面に穴が開いている」男の声が言った。「つながっている―――深い」

「よさんか!」アガムンが苛立って言った。「他の者が聞いて寄って来る。」

 ざくざく迫る足音に、深みへと下がってかわそうにも間に合わない。

 ぱっと朽葉が散り、上から覗き込む男の影が森との間を遮った。

 あっと小さく声をあげる男の、穴の際に掛かった足に、ラシースは左手で取り付いた。

「黙ってここを去れ。さもなければ穴に引きずり込む。」彼は囁いた。

 男は両手をちょっと上げ、足を引こうとした。ラシースはさらに力を込め、足首をつかんだ。

「ベレ・イナがお前を見ている。」

「やめてくれ。ベレ・イネの穿場の方がましだ。」

 ラシースは手を放す前に素早く言った。

「お前の仲間は川側の穴だ。」

 男の蒼ざめた顔に、一寸人懐こい安堵の表情が浮かんだ。男の腰には巻いて束にした紐が下がっていた。剥がれた金箔の一部がついているが、そこに金の実は無かった。

「ご主人、お待ちを!あいつのいる場所がわかりました。今、助けてやります。」

 男はラシースのそばを離れ、地面の窪みに沿って川の方へ移り、広い亀裂を見つけてかがみかけた。と、ごく近いところから金色のつぶてが、振り返った男の額を横に掠って傷を負わせ、地をかすめて飛んで行った。アガムンが手にした黄金果を従者に投げつけたのだ。

「何をなさいます。あれは、あれは、本物なのに。」

 男は呻いて立ち上がりかけ、膝をついて目を覆った。

「ああ、目が……なんてことだ。目が見えない!」

 男はひとつ喘ぐとばったりと倒れた。

「起きろ。舟まで案内をせぬか、この役立たずめ。」

 アガムンは罵り、倒れてびくともしないのを見ると、アツセワナの屋敷の庭先でやり慣れた折檻をしようと棍棒に手ごろな枝を探そうとした。しかしこの男が自分の足元からいくらか目を上げるより前に、傍らから忍び寄った影が、その手を恐ろしい力で引き寄せると同時に足を払い、彼の身体は宙を返ってどさりと背から落ちた。落ちた腰が奈落を差し渡して沈み、朦朧と目を閉じるその顔の上に、ぱらぱらと土塊や木の葉がふりかかった。

 ラシースは蔦の蔓を手繰り寄せると、アツセワナの男の両脇と腕に素早く巻きつけ、近くを這っている浮いた木の根にくくりつけた。これでこの男には十分だ。生きて目を覚ませるようにしてやったのだから。彼は倒れている男に駆け寄り、仰向けに抱え起こした。

 眉間の近くに傷を負い、恐怖のあまり気を失っている。ラシースは男をそっと下ろし、沢へと下りて行った。懐から切れを取り出し、流れに湿して戻ると、傷を拭い、トウキの軟膏を塗って額を縛った。

 彼は南東に連なる丘陵を見回した。“鷲谷”の南からこの稜線に沿って“長手尾根”の手先まで侵入者を見張る者がいるはずだ。十五人いる彼らの合図は何だろう?

 ラシースはアオバズクの鳴き声を三度、間をおいて三組繰り返した。怪我人が出た時の合図だ。そして、落ち葉をかき寄せた上に男の頭を乗せ、身体を落ち葉で覆った。合図を聞いた近くの見張りが様子を見に来てくれれば、男を見つけ、介抱するだろう。アツセワナのアガムンも縛めから自由になるはずだ。見張りは助けてやったことを後悔するかもしれないが。

 ラシースは、アガムンが金の実を投げた方角へとなだらかな斜面を下って行った。

 “鷲谷”よりも南、中の峰にはいれば勾配は緩やかになり、針葉樹は減り、樺やナナカマドの木立ちに混じってイスタナウトの若い木々が色づいた葉を広げ、ところどころに灯をともしたように森を明るくしている。その下の奔放な流れのひとつに、水に洗われながら金の実はあった。

 ラシースはしばしそれを見下ろした。

 地に落ちた毬。幾人もが傷つき、命を失った競技において、わけても罪深い手で打ち捨てられたこの実はまさに穢れているのでは?この実はナスティアツの乙女に捧げるのに相応しいのだろうか―――。

 いや、遊戯のいわれは太陽を追ったあげく灰になった男の物語だという。命を賭して男たちが競うほどにこの実には価値が出る。これはそうした性質の実だ。しかし、なら、このように無傷な手の上に下りてくるものだろうか。自分が手を触れても何の価値も持たないのでは―――。

 ラシースは、自分のものではない吐息を聞いた。誰かがほんのすぐそばにいる。

 コセーナの男が、ガマズミの藪をひとつ隔てた、彼よりも下流にある小さなせせらぎの脇に腰を下ろしていた。怪我をした腕を胸の前に抱え、競技の事を忘れたかのように、じっと、燃えるような草紅葉が縁取る水辺を眺めている。

「誰かおれを助けてくれた者がいる。そうじゃないか?」突然男は口を開いた。

 ラシースは思わず周に目を走らせた。他には誰もおらず、男はうつむいたままだ。

「だが、この競技はもっと不思議だ。正体が知れん。」

 男は耳の上の髪をかき上げ、大きな背をますますかがめた。ラシースはほっとした。この男はただ独り言ちているだけだ。自分に話しかけているわけではない。

「真に黄金果を争う者はふたりだ。おれはどうやら一対六の勝負をしているらしい。後の五人は全てアガムンの側だったわけだな。だがそうすると敵は人だけとは限らないわけだ。競技場にどんな仕掛けがされているものか―――。それにしても、誰かがおれの味方ではあるらしい。―――誰なんだ。」

 ラシースはかがみ込み、金の実を拾い上げた。

 虫のいい想像を止すがいい。味方などあるものか。―――お前には知らない競争相手がいただけだ。

 手に取ってみれば簡単なものだ。傷だらけでところどころ金が剥げている。片手で持てば掌に余すほどの手ごたえ。軽く柔らかな木を彫り出した球体に長い翼が二枚―――。うち一枚は途中で折れて無くなっている。翼の付け根のあたりが、小さく、深く、繊維を断って切り取られている。あの娘は彼の忠告を受け入れたのだ。

 彼は首から紐で胸の内に掛けてある護符を引き出し、実の羽根の付け根を縛り、首から下げた。狩りで獲物を仕留めた時の火照りも感謝の念も心に湧いては来ない。一方で底知れない空虚な闇が広がる。競技の流れを乱し、黄金果に手を触れた彼は、これでもう村に戻ることはできないだろう。そして、傷ついた男を救うために呼んだ仲間が間もなくやって来る。ラシースは滑らかな苔に覆われた地面を選びながら、足早にその場を離れた。この森の静寂の中では、草や枯葉さえも罪びとの所在の告発者となる。

 “鷲谷”へと戻ろうと、崖の下を見て、ラシースは、木立ちの中へと身を引いた。斜めに岩肌を伝って、あの青い目の男が登って来るところだった。

 山で育った者のように早い。平らまで来るとさらに大股に進む足は速く、油断なく辺りを見回している。この男に黄金果を見つける必要は無いのだ。ただひとり、標的にしている男さえ見つかれば。まだ金の実を求めて歩きまわっているコセーナの男はすぐに見つけられてしまうだろう。

 ラシースは、青い目の男の少し後ろから木立ちと藪を間にして付け、少しづつ近づいた。男は枯葉の中に寝かされている男の姿に目をとめたが、心を動かされた様子も立ち止まる気配もなかった。が、亀裂の際に括り付けられたアガムンを見つけると足早に近寄ってかがみ込んだ。

 やはりアツセワナのアガムンに雇われた男だったか。主人を助けるのだな―――。男は手際よく短刀で蔓を切り、アガムンの脇を引きずり上げた。そして引きずって穴から遠ざけたが、その前に、わずかに奇妙な逡巡を見せた。ラシースは眉をひそめた。自分は何か別の悪事を目にするところだったのではないか―――。男はアガムンの頬を軽く叩いたが、気が付くのを待たずに彼から遠ざかった。

 ラシースは遠巻きに男を少しずつ抜き、コセーナの男を探した。彼に直に教えることは出来ないが、少し警戒するように教えてやることは出来る。

 コセーナの男は休んでいた水辺から立ちあがり、探索を始めていた。競技の行方を見失い、気落ちをしていると見えた先ほどの様子とは打って変わり、元気に歩いている。結構なことだ。だが、たとえこのような競技を巡る悪だくみが無くとも、イナ・サラミアスは人だけの領土ではない。もう少し警戒を覚えるがいい。

 ラシースは近寄って小石を拾い、男の傍らの木に当てた。男ははたと立ち止まり、あたりを見回し、少し足を速めた。ラシースは駆け寄り、さらに近くから、今度は当てないように気をつけながら、十分脅威を与えるほどに近づけて速い礫を投げた。コセーナの男は屹と向き直り、迎えうとうとするかの素振りを見せたが、相手の正体がわからないことを合点すると、さしあたり見えない脅威から離れるために走り出した。

 ラシースはほっとした。青い目の男はまだ彼に気付いていない。少し距離をあけることが出来た。これで自分は戻れる。

 彼は礫をぶつけてしまった木を撫でた。まだ若い滑らかな木だ。間もなく冬の眠りに入るとはいえ、樹皮が傷つけば人が思う以上に木は弱る。

 触れたところに彼は見慣れぬ深い傷を感じた。刃物で刻まれた掛け印だ。彼はあたりの木々を見やった。木肌の滑らかな若い木をわざわざ選んで印を刻んである。それが一間おきほどに川に沿って続いている。むろんこれはイーマの仕業ではない。

 彼は怒りを覚えた。せっかく先に行かせたコセーナの男はまだ見えるところでぐずぐずしている。しかもこの男は何をしている?木につけられた印を辿って進みながら、自身の通った後を剥がして消している。そればかりではない。わざわざ少し離れたところに新たな傷をつけ足している。

 ラシースは男の後ろに付いた。男の注意は下流の方へ向かっている。さらに近づくと男は何事か呟いている。

「さあ、おれをどこへ連れて行くんだ」

 獲物の足跡を追う者のようだ。が、細心さよりも好奇心が優っている。

「違う顔がこれを辿って現れたら、ご対面はさだめし、面白かろうよ。」

 男は、企みを攪乱する印を増やすよりも、先を辿って答えを探す方が楽しくなったようだ。ラシースはほとんど気付かれる心配も無く、ただ、身をさらさぬように気をつけながらついて行った。木の幹につけられた道標は岩盤の帯の果てるあたりから少しずつ下り、コタ・シアナへと導いていった。

 ベレ・サオの滝に生まれたコタ・シアナは、競技の始点、両脇の切り立った断崖の間を矢のように流れ下り、“鷲谷”の三連の滝とひとつになった後、南側の断崖の下に蛇行した河床を刻みながら、徐々に苛立ちを静め、なだらかになってくる。そのあたりで中の峰からの穏やかな水脈を得て川幅は広まり、小舟が行き来できるほどの淵になる。

 目印は森を横断する沢の流れに従って下り、コタ・シアナとの交点に刻まれた谷に沿って川辺へと下りて行く。

 コセーナの男は行く手にある川の幅と深さを見てまごついたように立ち止まった。怖じ気づいたのではなく、当てが外れたといったふうであった。

「アガムンは雨上がりのぬかるみを踏むのでさえ嫌がる奴だ。」コセーナの男は呟いた。「泳いで渡らなきゃならんのに目印をつけてもらうはずがない。」

 男はそのまますたすたと川べりまで下りて行こうとした。しかし、ラシースは絶え間ない水音の中にも流れに逆らう櫂の軋みが近づきつつあるのを聞き取っていた。続いて、同じ方向からあの奇妙な獣の声を。

「やあ、」コセーナの男は我知らず声を高くして口走った。

「聞いた事もないぞ。イナ・サラミアスに羊がいるなんてことは!」

 声の方に駆けだそうとした男を、ラシースは後ろからその袖を引いてとどめた。男は立ち止まって振り返った。しかしその後ろには誰の姿も見えなかった。男はイスタナウトの幹をじっと見つめ、ややそこから身を離して前に向き直り、「木霊め、そこにいるな」そっと声を低めて誰に聞かせるともなく呟いた。

「感謝するぞ。危うく敵の懐に飛び込むところだったのだからな。」

 ラシースはうなずいた。コセーナの男は敢えて振り向かず、木に聞かせるように言った。

「あの川口の、少し高いところへ行けというのだろう?あのハンノキの並んでいるところ、あそこならよく見えるものな。」

 男は自ら先に立って堤の端に登った。敢えてゆっくりと向きを変え、タニウツギの藪の裏に入った。

 谷川の注ぎ口の下の淀みに堤の下に隠れるようにして小舟が滑り込んできた。コタ・シアナの舟頭が操る渡し舟であった。背を丸めた若い男が乗っている。寒いのか胸元をマントの内に握りしめ、やや蒼い顔で落ち着きなくあたりを見回している。藪の後ろからのぞいていたコセーナの男ははっと息を飲んだ。

 舟が岸に着くと若い男は舟頭に言った。

「ここで少し待っていてくれないか。主人を探してくるから。」

「誰だと?誰が主人だ。あいつめ、ぶん殴ってやる。」

 コセーナの男は小さからぬ声で独り言ち、立ち上がりかけた。その肩を前よりもはっきりと誰かの手が押さえつけた。男は今度はすぐさま振り返った。何者かの手と見えたのは彼の肩先まで突き出したカエデの枝で、しなやかな震えの余韻をのこしている。彼の後ろからカワセミの鳴き声が短く間をおいて川面に呼びかけている。彼が故郷のコタ・レイナの森の泉で耳にするよりもずっと通る、大きな声だ。男は、胸中の思いに逆らって川へ向き直った。舟から下りた若い男はそろそろと斜面を上がり、彼が印を辿ってやって来た森の方に遡るように歩き出していた。

「あいつはな、おれの知っている奴なんだ。」拳の上に顎を載せて男は唸るように言った。

「―――お前には関係ないな。気にしないでくれ、おれはただ考える時に口に出す癖があるんだ。だが、あいつがおれの与り知らないところで不正をしようとしているなら、おれは止めねばならん。」

 微かな風の渡る音に、カワセミの声が響くばかりだ。川面で舟を止めている舟頭がそれに耳をすませ、訝しむように堤を一二度仰ぎ、次いでコタ・シアナの方を見た。しかし、舟をもっと岸の藪に隠し、自身も岸に下りて目立たぬように潜んだだけだった。それを見ながら、コセーナの男は苛立たし気にこぼした。

「ああ、わかってるよ!短気をおこしてあいつを捕まえたらもっと大きな魚を逃すということはな。」

 背後からは何の返事も無かった。カワセミの声は止み、風までもが止み、ただ、沈黙が、静止せよと命じた。

 舟を下り森を行った男はほどなくして誰か向こうからやって来る者を見出したようであった。だが、待ちもうけていた者ではなかったのだ―――。若い男は相手を認めて後ずさり、引き返し、隠れようとし、逃げ出す前にあっという間もなくやって来た者に詰め寄られたと思うと、相手の抜き放った短剣にざっくりと胸を刺されて倒れた。

 コセーナの男は叫ぼうとし、声が喉を発する前に、見えない手で後ろざまに藪の株元に引き倒されていた。ぐるりと逆さになった森の、揺らいで定まらない視野から影がひとつ引き、しっ、という微かな囁きと同時に、枝ではない、紛れもない手が、一瞬つかみしめた襟元から引っ込んだ。一旦止んだカワセミの声は、突然高く激しいモズの高鳴きに変わり、短くせわしい警戒の音へと移った。

 川べりで待っていた舟頭は明らかな動揺をあらわして立ち、舟に乗り、櫂を手にした。舟の傍に下りてきたのはアツセワナのアガムンだった。若い男から奪い取った袋を懐に入れ、舟頭の手際をなじり、横柄に舟を出せと命じた。刺された男はわずかにもがいたきり、地面に横たわり、既に動かなくなっていた。

「お前が止めなければ!」

 コセーナのダミルは、傍らの木を殴りつけて叫んだ。

「今度こそ僕の邪魔をするなよ。あいつは(うち)の者で、兄の従者だった。」

 彼は起き上がると、舟を止め、乗っている男を引きずり下ろすのに最も早い方法を求めて荒々しい目で川辺を見下ろした。

「アガムンの奴にたっぷり水を飲ませてやるまでは!」

 再び、カワセミの短い鳴き声が彼の少し後ろでしたと思うと、川口からコタ・シアナの淵に舟を出しかけていたコタ・シアナの舟頭が何かに気付いたように櫂を取り直した。

 コタ・シアナの下から小舟をあやつって新たに滑り込んで来たのは、まだ若い舟頭で、クシガヤの者とは違う長い鉢巻きを額に締めていた。若者は通りすがりに谷川の堤をちらりと見上げると、ぐるりと舟を回転させて、川口へと引き返そうとしていたアガムンの舟の側舷めがけ、速い流れに乗って矢のように突き進んできた。

 壮年の舟頭は客を守るために立ち上がって櫂を突き出し、突進してきた小舟の舳先を川岸へと逸らせた。舟尾が速い流れを受けて回り、二艘の舟は並びかけた。舟頭が横ざまに振り回す櫂を櫂で受け止め、若者は一瞬並んだ舟べりから、相手の舟べりを踏み込んで均衡を奪い、さっと自分の舟の重心を戻して、離れた。横倒しにまで傾いだ舟の上で舟頭は素早く体勢を直したが、アガムンはもんどり打って水の中に落ちた。

 ふたりの舟頭は互いの舟の上で見交わした。やがて、年上のクシガヤの舟頭は櫂を取り、水に落ちたアガムンをそのままに川の中へ進んだ。ゆったりと漕ぎながら流れの中にとどまっている。

 上流に同じようにとどまる若者の舟は、川下に抜ける路を探している。間もなく意を決したように左側に舳先を向け、流れにさらに櫂をさして下の舟と岩盤との狭い間を滑り抜けようとした。

 年上の舟頭は猛然と舟を進めて路を遮り、若者の舟を岩盤の上へと押しやった。舟はわずかな水の高まりに乗って岩の上をやり過ごすと見えて、突然引いた水によって現れた岩に艫を打ち付けた。すかさず老舟頭が櫂の柄を持ち替え、ひと打ちする。

 こーんと響きわたる中に微かに木の裂ける軋みを聞いたか、若者は一寸肩越しに艫を見た。岩盤を超えて川下に漂い出た舟の上で若者は立ち上がり、老舟頭に一礼した。老舟頭は舟を流れに戻した。若い方はもう一度堤を見上げ、軽く手を挙げる仕草をして、徐々に艫の方から傾いでゆく舟を流れに任せて下って行った。

 コセーナのダミルは驚き呆れて一部始終を見守っていた。

 が、舟上の若者の目を追って素早く振り返った。彼のいるところより少し高い藪ごしの、流れに突き出した枝の上で、金色が閃いた。それは、素早く後ろへ飛び込んだ影とともに、瞬く間にかき消えた。

挿絵(By みてみん) 

  












 

 

 



 


 


 



 



   



 

  


 




 











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