第四章 水の語り 序
麦の葉が鳴る。四段にわたる扇形の田の上を風が横切り、がっちりと伸びてきた茎の上の新葉を撫でる。小馬の亜麻色の鬣をも梳きとかしていく。
「ほーい、ほーい」
鐙の無い馬の胴の両脇に、ズボンに素足の両足がぽんぽんと前後に振りながら、馬の歩みを促している。道の先、三叉路の向こうはやはり麦の畑、そして遠くに下がった森がある。足を両脇に控え、左の手綱を軽く上げて引き、右膝を寄せる。馬はゆっくり左に向き、その後は指示を忘れたようにぶらんと足を垂らしたままの乗り手に応じて気ままにゆっくりと歩き、鬣と同じ亜麻色に枯れた草むらの中の新芽の匂いを嗅ぎに立ち止まった。
冬の間、堤の辺を赤く彩っていたハンノキの花に続いて、ニレが小さな花を咲かせ、河畔に繁る柳の芽の銀灰色の毛皮は丸く膨らんでひとつひとつ枝を引き立たせている。その奥にゆったりとうねっているのはコタ・レイナの流れだ。
乗り手はそっと身体を倒して腹這いになり、両足を揃えて小馬の背から降りた。素足の裏を、地面に放射状に張り付いたひんやりとした草の葉が受け止める。急に背が伸びたせいで足首はズボンの裾からにょっきりと突き出、お気に入りの赤い胴着はぴちぴちして、腰にたくし上げたスカートも肩の上のマントも、丸くなった身体の上に窮屈そうに張り付いている。首の後ろのちいさな頭巾の上にはふさふさと豊かにうねる栗色の髪が覆いかぶさる。少女は右手をあげて、うっすらと汗がにじんでいるうなじから髪を後方へと梳きほぐし、河を眺めた。
浚渫の終わった河は、シアニの覚えているよりもずっと川幅が広く、オトワナコスの上からやって来る雪解け水が滔々と弛みない波がしらをたてている。コタ・レイナ橋の橋脚にたまって氾濫を引き起こしていた火山灰は取り除かれ、橋も新しく掛け直された。橋台と橋脚の一番下は昔ながらの石材だ。“コセーナと同じくらい古い”と言われる石の基礎。橋桁に近い部分は火山灰の煉瓦。この頃つくられる煉瓦は、堅固な形の整ったものだ。古い橋を修理した木橋は、橋桁と敷板の一部は木の皮もそのままの丸木を組んで作られている。耕地の水路の堰や樋などもそうだ。シアニは木の形の残るものが好きだったが、大工によると、ここ二年ばかりは鉄の工具がすり減っても新しいものがなかなか手に入らないので、鋸で挽いたり鉋をかけたり、細かい細工が出来ないのだとか。
馬を引きながら堤の上をぶらぶらと歩き、シアニはまたひょいと腹這いになって馬にまたがった。そして、裾を引っ張り上げて姿勢を正した。小さい頃のように身軽に動けないのに腹が立つのだが、その理由は自分ではわかっていなかった。大抵の事は大して努力しなくてもどんどん上手になっているというのに。
道に戻って両足で合図を送ると、馬は訓練された通りに従順に歩いた。シアニもニーサに教えられた通りに正確に馬を操った。
コタ・レイナ橋の橋台のたもとまで来ると、シアニは馬の歩みを止めた。
ちょっと渡ってみようかな。コタ・ラートが見えるところまではだいぶん遠いのかしら?行ったことは無いけれど、コタ・ラートの岸には高さ一丈から二丈ほどの壁が作られていて、ところどころに向こう岸を見張る台が設けられているそうだ。何日か交代で造りに行っている若者たちが話しているのを聞いた。初めは腰くらいまでの低い垣を、公道に近いところから順に川沿いをつないでいき、徐々に物見台の周りから高く積んでいったそうだ。もうつながっていないところはほんの少しらしい。
コセーナには随分前から人が増えている。シアニが小さい時にたくさんやって来たヨレイルの男の子、何人かの女の子たちはもう若者や大きな娘になっている。その後にやって来たのは主にエフトプから来た人々で、耕地が乏しく西からの物流が途絶え、時にコタ・ラートの向こうからの攻撃にさらされる故郷から逃れてきた女とその子供たちがほとんどだった。去年になって、ごくまれにコタ・ラートの向こうから逃げて来たのだという人々が身を寄せてくるようになった。この一団にはあまり若い者はいない。驚いたことに、シアニより少し大きいくらいの子供の他は、彼らは皆、コセーナにずっと昔住んでいたのだという、家人と血縁の者たちだった。
彼らはやって来た数日後には、ずっと昔から暮らしていた者のように立ち振る舞い、工房や農地の古参の頭からは大いに重宝がられたが、コセーナの郷に住む一部の者たちにはなかなか打ち解けなかった。シアニは、台所や農場に働きに出てくる女達のややつっけんどんな態度をも、好奇心の内にやんわりとくるみ込んで彼女たちに親しもうとしたが、やがてこの“戻って来た”人々が打ち解けない相手が誰なのかに気付きはじめた。
先ず、ロサリスだ。とても恭しく丁寧に振舞うけれども、ほとんど目さえ合わそうとしない。次にエフトプから来た者たちだ。特に争うわけでもなく、むしろ親切にしているのだが、何か一緒に仕事をしようとすると「このコセーナでは昔から……」だの「前のやり方では……」と、昔の話をする。噴火の前の事を知らないシアニには面白いが、今ではバギルでさえ言うことだ。「そのやり方は通用しない」。そして、三番目にはヨレイルたちだ。あからさまに横柄に接している。
最後には、シアニはおぼろけながら自分でさえなんとなく疎まれているのに気付いた。去年の秋に彼女たちがコセーナに住むようになってからというもの、シアニはハーモナから手仕事を持って足しげく彼女たちの糸紡ぎの作業場に押し掛けて行ったのだが、シアニの事を「色が黒い」だの「混血」だのと失礼なことを言いながらも、まんざらでもなさそうに仕事や世間話の相手にしていた年配の女に、コセーナに昔から住んでいるその姉が心配そうに何か耳打ちした。その途端、女があわてて言葉を取り繕ったのだ。
「あらまあ、イネはダミル様のお子様で……。元気に日に焼けているものだから―――でも、地は白いものねえ。」
シアニはその女が嫌いではなかった。が、それからは女のほうがあからさまにおどおどするものだから居心地が悪くなってしまった。
もとは仲良くコセーナに住んでいたのだろうに、何故、出て行って十何年もの長い間戻らなかったのかしら。それにコタ・ラートの向こうに住んでいた間に何があったのかしら、身体は戻ってきたけれど、心をどこかに置き忘れて来たよう。いいえ、置いて来たものをとても気にしているけれども取りに戻れない時のような顔、と言えばいいのかな。そう言えば彼らとすれ違う時の母さんも同じくらい冷ややかで張りつめた顔をしている。
彼らが逃れて来たところ、イビスやアツセワナとの行き来をもうじきぴったりと閉ざしてしまう壁は遠いのかな。もし、馬を走らせたら、遠くでも、見えるところまでは行けるのじゃないかしら?
シアニは橋の向こうを眺め、両手に取った手綱を持ち上げかけた。
「雀嬢ちゃん!」
はるか後ろからニーサの声が呼び止めた。
「戻りなさい。河のそばは危ない。」
シアニはゆっくりと右の手綱を引き、膝で馬に合図を送って向きを変え、ニーサの馬が追いついて来るのを待った。小馬は、やって来た大きな粕毛の馬にひと足ふた足歩み寄り、鼻をすりよせた。
「ニーサ、おじいさんは?」
シアニは昔ながらの生真面目な眼差しで馬上の男を見返した。
「元気にしている?」
「ええ」男はいつも通りにさらりと答えた。
「会いたいなあ。」
ニーサは首を振った。
「誰にも知られたくないんだよ。静かに暮らしていたいんだ。」
四年間行方知れずだった老人は、二年前の秋にシアナの森の中で暮らしているのをニーサが見つけた。ニーサかあるいは彼の従者のヨレイルの少年の他には誰にも会おうとせず、時々居場所を変えるのだという。
「私、誰にも話したりしないのに。父さんや母さんにも。昔みたいにパンをあげたいなあ、今度は私が焼いたのをよ。」
シアニは、昔から滅多に笑わなかった老人が顔をほころばすのを夢想した。そうすると忘れかけた老人の顔はバギルの顔になる。私はおじいさんの名を男前だと思っていたっけ―――あら、ますます分からなくなっちゃった。本当のところは、誰にも知られずにこっそり余分なパンを焼くのは無理な話だ。食べ物は前よりも厳しく管理されていて、ハーモナでもパンを焼く日は決められている。母さんだって特別なことは出来ない。
「心配いらない。」ニーサはきっぱりと言った。
シアニは姿勢を正し、窮屈な服が出来るだけ滑稽に見えないようにちょっとマントの裾を引っ張った。ニーサの日に焼けた丸い顔の輪郭と上背のあまりない痩身は三十という年齢よりは若く見える。しかし、物静かで落ち着いた様子は、頑健で賑やかな荘の他の男達よりも何だかずっと老けている。ケニルよりもだ。
シアニはぐるりと後ろを向いた。小馬が不意を打たれたように顔を上げ、鼻を鳴らした。
「橋から河を見たいわ。」
「馬を下りてからなら。」
シアニは橋台のたもとまで馬を進め、そこで馬を下りた。
木の敷板は乾いて素足に温かい。歩くと微かな振動が伝わり、欄干の無い側面から吹く風が、滔々と流れる深い青緑の水に視線を誘う。岸に近い緩やかな流れの中に、魚が並んで尾を揺らしている。
橋の真ん中まで進むと、シアニは川上を見た。緩く右に左に湾曲する川の両脇は森。元をたどれば最後にはオトワナコスの東側を通ってきて、その源はイナ・サラミアスの豊かな髪の峰々の中にある。オトワナコスは峰の切り立った崖の直下にある高台の郷だ。その昔、エクミュンの妻が峰の先を蹴落として作った崖。その両側を流れるのが妹川と背川だ。オトワナコスでは郷の両側を流れているふたつの川が、ここコセーナではコタ・ラートははるか西側に遠ざかっている。
シアニは向きを変えて川下を見た。遠く離れた両方の川はエフトプではまた郷の両側を通り、南の先端ではひとつの川になる。その先には広い広い湿地帯そしてその先がどうなっているのか誰も知らない大きな湖。
橋の上に立っても、空想が見せる以上の遠い景色を見渡せるものではない。それでも河の東側からだけでは見えないものも見える。コタ・レイナの周囲に拓かれた耕地と、耕地を守るための畝をなす堤。よく手入れされた生垣と道。あまり見たことのない高垣の西側も見渡せる。高垣の奥の脇から川べりに下りてくる石壁と石段、その先にちょこっと突き出している舟着き場。対岸にも舟着き場があり、その先は耕地の間を通る道だ。シアニはそこまで行ったことがない。が、この舟着き場も“コセーナと同じくらい古い”。火山灰で半ば埋まり、浚渫の工事で半分流れが止められていた時も、細々と使われていた。先の王シギルの友人だった老人トゥルドは三年前にここにやって来た。彼の若い頃から今と変わらずあったそうだ。それどころか、ハーモナの出来る前、イルガートがアサルとその花嫁を助けて送り届けたのもこの舟着き場じゃなかったかしら?
「アニナ!」
ニーサは、髪を吹き分ける風に目を細めたまま立ち尽くしているシアニを心配して馬から下り、二頭の引き綱を緩く立ち木に掛けて傍らまでやって来た。
シアニは振り返り、川下の舟着き場を指差した。
「舟が来るわ」
ニーサはシアニの指さす方を見た。エフトプから荷舟が来なくなって久しい。彼は右手を目の上にあてがって、流れに逆らって滑るように桟橋に近づく小舟の細い影を見た。男がひとり乗っている。
「水郷の小舟だ。」
ニーサは、男が櫂を上げて舟をもやい桟橋に降り立つ姿をシアニに劣らぬ関心を寄せて見つめたあげく呟いた。
馬場に戻り、小馬を降りて柵の下に置いたままになっていた靴を履くと、ハーモナからの連絡路からダミルの明朗な声がシアニを呼んだ。タシワナを訪ねていたダミルが五日ぶりに帰って来たのだった。
「馬には慣れたか。」
ハーモナのせせらぎで洗って来た自身の馬の手綱を従者の手に預け、ダミルはシアニの小馬の鬣を梳きほぐしながら、小馬の身体と装備に目を配った。
「もう、すっかり大丈夫ですよ。」ニーサはシアニの目配せを見ないふりをして言った。全てを監督しているものと安心して若い部下に任せて出かけた父親に、娘を馬の上に置いたまま遠くに人を訪ねていたのだとは、おくびにも出さなかった。
「鞍を置かなくても上手に乗りますね。」
「鞍は無いし、蹄鉄を履かせてやる余裕がない。」ダミルはやや白みがかってきた茶色のたっぷりとした髪と頬髯の陰で無念そうに言った。
「私の馬にしていいの?」シアニは心配そうに言った。
「まだ三歳にもなってないわ。それにこの子が大人になったら、仕事に要るのじゃないの?」
「シアニは軽いから乗っても大丈夫だろう。だが、これもお前と同じでまだ育っている途中だからあまり無理はさせられない。」
馬を持ってもいいのだろうか。犂をつけて耕すのでもなく、遠方に使いに行くわけでもない自分が。シアニは口まで出かかっていた不安を引っ込めて微笑もうとした。
一緒にハーモナで暮らしていたルーナグとユルマは十歳になってからコセーナで暮らすようになった。男の子はそうするのだと前からそう決まっている。弟のようなふたりがハーモナを出るまでは気にしたこともなかった。ずっとシアニよりも小さく大人しく可愛らしかった。それが二、三年のうちにどんどん身体が大きくなり、気難しくなり、農繁期にシアニと一緒に畑に出ると事あるごとにかかりあって張り合うようになった。シアニはもう力ではかなわない。水桶、籠、穀物袋、煉瓦、何を運ぶにも男の半分しか運べない。だから運ぶ量を少しにして三倍歩く。水場から台所の水甕にでも厩にでも、桶に半分を三回余計に歩く。鍬は高くは上がらないし鎌で太い株を切るのは無理だ。だからなんでも小刻みに、その代わりに速く動いてほんの少しだけ作業量が上回る。だが、そうすると、特に十二歳になったルーナグは顔色を変えて泣きそうに機嫌が悪くなる。
男の子ってあんなだったかしら?訳もなく偉ぶって、まるで違う生き物になったみたいだわ。
だからといって、より女の子達と仲が良いわけでもない。女の子たちの間にはたくさんの決まり事があり、シアニはそれを破ったらしい時だけなんとなく気付くのだが、どうもよくわからない。それに大体の場合、彼女たちのいる場所は高垣の居住地の裏庭か、東の森に囲われた果樹園と畑の一画に限られ、少し物足りないのだ。エフトプやコタ・ラートの向こうからやって来た子達でさえ間もなくその中に混じって作法を覚えるというのに。自分は何か変わっているのだろうか。
「シアニ」
ダミルは馬の鬣からシアニの髪へと手をやった。肩に垂らした髪の奔放なうねりと大人びてきた額、金褐色のそばかすの浮いたふくれっ面との間に、昔ながらの生真面目な眼差しが、彼ではなく自身の心の内を見つめている。何を思っているのか知らぬが励ましが必要のようだ。
「お前は私の自慢の娘だ。気前もあるし力も強い。男並みだ。」
「うそつき」
シアニは途端に鼻に皺をよせ、ひょいとしゃがんで脇に逃れた。
「ニーサ、私が厩に入れるわ。」
「男の仕事だよ。」ニーサはやんわりと言った。
「じゃ、男よりも早くやるわ。」
シアニは手綱を取ると馬の頭を東門に通じる道に向かせ、のんびり歩きたがっている小馬の脇を大股に歩いて行った。
ダミルは柵に背をもたれ、いつになくその後姿を長い事眺めていた。
「タシワナは取引が減ることを承知してくれましたか?」
マントを取っただけで旅の格好のままの主にニーサは声を掛けた。
「タシワナは石灰石でこの八年間食いつないだ。村が始まって以来の繁栄だったに違いない。五年ぶりにタシワナから見るエトルベールは、切り出されて形が、変わってしまったように思えたよ―――ロサリスには言えない。」
「私の両親がいれば、またあの近くで宿を商おうと思ったかもしれませんね。」
ニーサは南東の森の彼方を目を細めて見やった。イナ・サラミアスの方には霞がかかっている。
「道の灰は片付いて通りやすくなった。タシワナから二本の道がきれいについている。かつてなかったことだ。彼らも道の手入れには努めてくれたからな。が、石灰石と食糧が行き来するためだけの道だ。道筋で宿を商ってもびた一文落ちてこん。まだまだシアナの森は人が住むような所ではないしな。あそこを引き払って来た連中も今では戻ることを考えてはいまい。」
「子供の頃の賑わいを思い出します。鉄と絹の交換は年に一度、寒露の頃にあるきりだったのに、“絹を商う道”はいつも人が行き来し、宿を請う者が絶えなかった。」ニーサは懐かしげに言った。
ダミルは連絡路の向こうの木立ちの中に少しずつ建て増しされてゆく小屋をながめ、さらに南のハーモナの丘を包む森に目を移した。
「毎年秋になるとイナ・サラミアスから絹を納める使いの者が、シアナの森を通ってやって来た。“絹を商う道”を通ってアツセワナへ行き、絹は王の立ち合いのもとで定められた目方の鉄と交換される。彼らの帰途の用を見込んで、行商人が集まり市が出来る。ものの品ぞろえが良くなるから方々から人も来る。彼らが帰った後も商人たちは商売の相手に困らないんだ。コセーナには三つの宿駅があり、市もよく開かれたが、品ぞろえはコタ・ラートの水運を使えるエフトプにはいつもかなわなかったな。」
ダミルは、タシワナに出向く前に会っていたエフトプの老領主キアサルの心労にやつれた姿を思い起こし、首を振った。
コタ・レイナの浚渫とコタ・ラートの防塁づくりという七年に渡る事業の間、エフトプはコセーナの支援を受けながら糊口をしのいできた。しかし、コタ・サカの鉄山との仲立ちの地位もほぼ意味を失くし、防壁の建設も終わりが見え始めた今、コセーナの援助の見返りに提示できるものはほとんど残っていない。交易による収入の道を断たれ、狭い耕地をしか持たぬエフトプに、物資と防衛のための人手を送り続けることに年寄りたちは難色を示し始めていた。もう何年も西の勢力がエフトプを襲ったという話も聞かない。そろそろ自立してもらってはどうか。
ダミルは、キアサルとの会談で顔を合わせた途端に、エフトプの存続のために彼がコセーナにより強い絆を求めているのを見て取った。コセーナの家人が納得するような強い絆が必要だ。縁組のような。
自ら馬を駆りタシワナへ、石灰石と穀物の取引の量を減らすから、依然食糧が必要なら代替の品なり労作なり別の途を探してくれ、と告げに行く前の晩、ダミルは、年寄りたちと会議を行った。ハーモナにいるバギルをもコセーナの広間の卓に呼んだ。ダミルは、コセーナが食糧の支援をしているタシワナとエフトプのうち、エフトプのへの支援を打ち切るつもりは無いと宣言した。エフトプが今やクマラ・オロを通じて西とのほぼ唯一の出入口となった事を強調し、依然、脅威の入り込みやすいところでもあり、世情が落ち着けば西からの豊かさ、鉄山の恵みやニクマラとの交易の恩恵の入り口となるところでもあると説いたうえで、双方の結びつきを強める縁組は考えられないだろうか、と相談した。
年寄りたちはたちまち苦り顔を胸に埋め、あるいは掌に預けて黙り込んだ。この八年もの間、いくつかあった縁談を口を濁らせたまま見送ってしまったのは誰だったのか。
ダミルは、彼らの不機嫌の理由の片方だけに気を揉みながら一同を見回した。
亡き王シギルの家臣だったバギルを交えたのは、最も避けたい選択を年寄りたちに迫られるのを防ぐためだった。しかし、バギルはエフトプの事情をひと通り聞くや、思いがけないことを言ったのだった。
「殿、シアニはどうでしょうね。」
ダミルは、驚きのあまり言葉を失ったが、やっとのことで何を言っているんだ、と呟いた。しかし、年寄りたちは顔をあげてダミルを見、一様に次々とうなずいた。
「すぐに嫁にやれとは言いません。向こうにも釣り合いの取れる者はおりませんのでな。だが、養女に出すことは出来るでしょう。」バギルは強いて厳しい面をつくりながらも抑えきれない誇らしさをにじませた。
「殿、あの子はどこへ出しても恥ずかしくない子ですぞ。丈夫でよく働き、気立てもいいし、器量も悪くない。あの目の綺麗なこと、ご覧なさい。そこらの娘のようにおどおどしないし、大丈夫、可愛がられますよ。」
シアニがエフトプに行けば、なるほど、おれはあの子が飢えていないか凍えてはいないか、毎日気が気ではないだろう。
あの子だってもう三年もたてばどこかに片付かなくちゃならないんだ。バギルは言い足した。今のままでいられるわけじゃなし、そのうちに親のことも気が付く。下手なことを考えだす前にちゃんとした立場を与えておやりなさい。
それはそうだ。今のうちにエフトプにやって行儀作法などの教育を仕上げてもらい、そこからオトワナコスに嫁がせることだってできるんだ。あそこにはそこそこ良い齢の男も何人かいるし、三郷揃って縁が深くなる。
旅の道中にも折に触れて心に投げかけた問いに、不意に違う響きの答えが返ってきた。
だが、シアニである必要があるのか?ロサリスが育てた娘の中にはもう少し年上のもいる。それに、良い齢の男で片付かなきゃならんのは家にもいるじゃないか。
ダミルは、突然ニーサに振り向き言った。
「なあ、ニーサ。あいつをもらってやってくれないか。」
「なんですって。」ニーサは、自分が何を与えられると聞き間違えたのかとあたりを素早く見回し、主の目の、シアニが小馬を連れて行った方に目交ぜするのを見て首を振った。
「お前たち、いつも仲良く話しているじゃないか。」
「シアニに決してこの話をなさらないように。」ニーサはきっぱりと言った。「私はあの子に蛇蝎のごとく嫌われるのは御免です。十五も違うんですよ。冗談にしても悪すぎる。」
「冗談なものか。おれは真面目に考えた上で言っているんだ。あいつはあれよあれよという間に大きくなったし、すぐにいい年になる。ちょっと齢が離れていても五年もすれば釣り合いもとれてくるだろう。」
ニーサは柵から飛びのくとダミルに真っ直ぐに向き直り、ひと息に言った。
「去年エフトプから来た寡婦、ふたり子どものいる―――彼女と結婚することにします。もう大分前から人づてに申し出を受けているんです。二、三日前に本人とも顔を合わせました。」
「しばらくハーモナに住んでいた女か?いつも子供を脇に連れた―――。」ダミルは、面食らって言った。「十近くも年上じゃないか。」
「結構ですとも。齢は取るに決まっているし、だんだん釣り合いが取れるのでしょう?心が決まりました。彼女はとにかく男手が欲しいんです。子供とゆっくり暮らしたいがひとりでは家を持てないので。考えてみればお互いに要件はぴったりだ。殿、もう一度申し上げますがシアニにこの事を言ってはいけませんよ。私はともかく、あなたが一生許してもらえない程恨まれますよ。」
ニーサが念を押したところに、厩に小馬を戻して来たシアニが、駆けて戻って来た。
「父さん、厩は今のままでいいわ。ハーモナの厩は作り替えないと入らないでしょう―――ここに通って面倒をみるわ。ニーサ、今度は洗い方を教えてね。」
「早くお帰りなさい。」ニーサは目を合わせずにそっけなく言った。「お母さまの用があるのでしょう?」
シアニにとって、幼い頃からこまごまと面倒を見てくれるニーサは大人しい叔父といったところで、遠慮のない相手としてはバギルの妻と何ら変わらない。黙って靴を脱いで手に持つと、きれいに土を固めた通用路を大きく腕を振りながら走って行った。豊かな髪の下に小さなマントの両肩がなびき、敏捷な小麦色の足が軽快にその後姿を運び去っていく。
「ああ、ニーサ」ダミルは、腰に手をやってその姿を見送りながら呟いた。」
「知っての通りあいつはおれには縁もゆかりも無い子だが、実の子でもあの子ほど可愛いと思えるかどうか。本音を言うが、あの子は樽に漬けておいてでも手元に置いておきたい。」
ニーサは、旅帰りからそのままの形のダミルが、愛娘を見送った後にようやく大きく息をついて門に向かい始めるまで待った。ダミルが柵に掛けてあったマントを手に取ると、ニーサは面を改めて言った。
「殿、先ほど河下から小舟が来ました。クシュの長です。」
シアニは道が緩く右に曲がるところで走り止め、近道をするために木立ちの中に下りた。森は少し切り拓かれて、ハーモナに通じる内側の道のすぐ近くからでも、コセーナの果樹園と高柵まできれいに見通せる。間には古い小屋、その向こうには、いま後にしてきた馬場がある。
小屋を取り壊して地下通路の入り口を分からなくしようか、バギルがこの頃そう口にするようになった。昔は若い者は分をわきまえてハーモナの近くをうろつくこともなかったが、事情の分からない者も増えたし、次々と増えてくる住民にいちいち教えている暇もない。だいたい、近頃イビスから戻って来た連中は、あのコタ・シアナの戦いに端を発したコセーナの天下分け目の時に、まさにあの地下通路に出し抜かれた奴らの仲間だ。彼らに種明かしをするのは利口じゃない。十七年も前のことだと言ってもな。
シアニには別にこの小屋を薄気味悪く感じるようになった理由があった。まだ日の入りの早かったころ、近道をしようと思い立って薄暗くなった耕地を横切ろうとした時、小屋を過ぎた辺りで、突然横合いから出て来た誰かとぶつかり、次に腕が巻きついてきたのだった。わっと声をあげて拳をあげた途端、あまり大きくない影はさっと逃げて行った。こらっ、と叫んでバギルが走って来たっけ。気の毒に、もうだいぶん年なのに。大丈夫か?バギルは物語の英雄のように尋ねた。まるでハルイーか誰かみたいに。そしていつものおじいさんに戻って付け足した。餓鬼どもめ―――。
ルーナグだけじゃない、コセーナの男の子たちは近頃様子が変だわ。ほんの冬まではこうじゃなかったのに。反対に年寄りたちは急に丁寧になった。でも本当は同じなのかもしれない―――よそよそしく、そのくせどこか値踏みする目になったという点で。
道のそばまで鋤き起こされた畑の際では作男たちが休憩しながら、ハーモナの方を指差して話をしている。
「ほんの今しがただよ。小舟でひとりで来たんだと。」
「新しい犂先やら鍬やらを持って来てくれたんじゃないのかい?」
ひとりが首を振った。
「殿が探させていたようだよ」シアニに気付いて声を低める。「ロサリス様のために。」
「だって、十五年から経っているじゃないか!」
中心にいた男が目配せし、皆はこちらを見やってシアニを認めると、丁重に頷き、そそくさと仕事に戻った。
シアニはハーモナに戻ると居間の卓の上に裁縫の道具を整えた。戸口も窓も、光を入れるために大きく開け放たれていたが、不思議なことに、館の前庭にも居間にも人の気配は全く無かった。年上の娘たちの機織りの音もしない。小さな子たちを連れて散歩に行ったのかもしれない。バギルもその妻もいない。畑に行っているのかもしれなかったが、誰一人留守番を残さずに家を空けているなんておかしなことだ。
シアニはロサリスを探して、まだ冬の屋根がそのままになっている奥の祭殿から部屋を見て回ろうとした。居間の奥を出、手探りで右の壁を探しながら、シアニは庭から回れば良かったのだと思った。天気もいいし、木の芽時の頃にはロサリスは東向きの露台で外の風を楽しみながら仕事をしていることが多い。
祭殿の古い遺構の外側に建て増された部屋は木でできていたが、戸口のアーチは古い石壁だ。木の戸が少し開いて外明かりが細く漏れている。
薄い光が縁取る石壁に手を置くと、びーんと石を震わせて、男の、穏やかながら明瞭な声が響いて来た。
「彼のことはもう待たれぬように。」
聞いたことの無い声だ。
「友人として申し上げる」
「息子のことは?探してもいいのでしょう。」
低く抑えたロサリスの声の、言葉の終わりは少し潤んでいる。男は応えなかった。ロサリスの声が苦みを帯びて付け足された。
「あなたの再三の忠告にも耳を傾けない女でしたわね。」
「判断なさるのはあなただ。王女」
王女―――王女?
立ちよどんでいるシアニの前に、音も無く戸が開き、いきなり目の前にぴたりと立ち塞がった影にシアニは慌てて後ずさり、見上げた。
薄闇の中で静かにたたずむ者。精悍な深い輪郭の奥で、水のように目がきらりと光った。
黒く側頭から後ろへ束ねられた髪、鉢巻き、均整のとれた身体をぴたりと包む衣服は掛け合わせた身頃の右肩に、模様を彫った釦が並び、腰には蔓の靭皮を織った帯を締めている。
「ようこそ……。」馬鹿のように口ごもるシアニの前を、男は軽く目礼して、墓碑の脇から居間の方へと出て行った。
脚絆の上から見て取れる高く丸く盛り上がったふくらはぎ、柔軟な足首の上にきちんと結んだ草履の紐。齢はいくつくらいかしら?身体つきは青年のようだけど、よく見ると少し肩がかがんで節が見えはじめているし、そういえば目の端に薄くしわが無かったかしら。ダミルよりは若いが、ニーサよりも年上だ―――ずっと。
男の姿が消えたのを確かめてからシアニは開いた戸から室内に入った。ロサリスは外に張り出した露台に腰掛け、外を眺めていた。正面には大きな木蓮の木がある。姿の良い、まっすぐに伸びた幹から大ぶりの枝がいくつも伸び、細枝には灰色のすべすべした毛皮に覆われた大きな花芽が天を指している。シアニの覚えている限り昔から、毎年春になると大きな白い花を咲かせる。イスタナウトの杜の桜と先を争うようにして咲く。
「母様、縫物の支度が出来たわ。」
シアニが近づいていくと、ロサリスは指で目の下を拭い、立ち上がった。
「今行くわ。」
言って、ロサリスはあたりを見回した。
「あら、いけない。反物を用意し忘れているわね。出したと思ったのよ。すぐに持って行くわ。先に行ってちょうだい。そして小部屋の長持のところに赤い布を出しておいたから持って来ておいてね。」
「赤いの?赤い色は貴重なんでしょう?誰の服を作るの?」シアニは大人ぶって眉をひそめた。
「あなたの服を作るわ。」ロサリスはいつになく注意深くシアニの身体つきを目で測った。「もう大分小さくなってしまったわね。」感慨を帯びた声にもどこか悲しみの陰が潜む。
「自分でつくれるのに。」
シアニは、拳骨を腰に当てて顔をそびやかした。窮屈な胴着がますます居心地を悪くする。母さんのその目が何だか嫌。弱々しくて、おばあさんになったよう。
ロサリスは首を振った。
「これまでとは違う裁ち方をしないとだめ。縫い方も教えるわ。」
「ズボンも縫いたい。」シアニはバギルの呆れ顔や年取った女達の困り顔を想像しながら付け足した。
「いいわ。」
シアニは居間に戻り、素早く小部屋に行った。長持の上に出してある赤い布にはすぐに気付いた。布を手に取り見ると、長持の掛け金が外れている。
後ろめたい気持ちが和らぎ、蓋をあけて鏡をのぞいてごらん、と心の中で声が囁いた。黒曜石の鏡ではどうも色が分からないし、顔全体も映らない。この頃、こうやって長持の一番上に置いてあるロサリスの鏡をほんの少しだけ手に取って覗くことがある。もっと小さい頃は自分の顔を見るのが好きだったが、今はもっと気になることがある。
色白で目が大きく可愛いと年寄りたちは言うが、シアニは、以前ほどその誉め言葉を真に受けていい気になったりはしなかった。十五にもなれば土台の顔がなんとなくわかって来るし、そうそう変わるものでもないと気付いて来る。
濃いクリーム色の肌はロサリスほど白くないし、瞳も髪もダミルよりも黒っぽい茶色だ。丸くて陰影の浅い子供っぽい顔は悩みの種なばかりでなく、消えない不安を呼び覚ます。―――どうして私は父さんにも母さんにも似ていないのかしら。
膝の上に赤い布を載せて長持の傍らにしゃがみ込み、ひとしきり鏡を眺めたあと戻そうとして、シアニは、さらに鏡の置いてあったすぐ下の包みが少し乱れて例の織物が少しのぞいているのを見つけた。
もともとずっと下の方にきちんと包んでしまってあったはずだ。最近出して見たのかしら。母さんが昔織ったという絹の縫取り織り。今日は何もかもが、まるで目に留まるのを待っていたかのように見つかる日だ。
シアニは、包みを少し開いてみた。しっとりとした臙脂の艶に暗い金のイスタナウトの葉模様。目で飲み干してしまいたいくらいきれい。これも本物にはかなわなかったとか。
織り手は、そう、レークシル。
シアニは、もう長いこと語られることの絶えた、灰に埋もれた地、イナ・サラミアスにずっと昔に住んでいた少女のことを思い出した。
レークシルはいつこれを織ったのかしら?巫女として聖地に蝶たちと孤独に暮らしていた時には、神蚕の生成りの糸をそのまま織っていたはずだったわ。ハルイーに連れられてイナ・サラミアスを下りた後、絹を再び手にすることはあったのだろうか。私の知らないその後の物語の中で。
遠い昔に聞いた物語の末尾を思い出そうと追憶にふけるうちに、シアニは、ロサリスのごく軽い足音が小部屋の入り口に迫るのに気付き、包みの端を戻して鏡をさらえ込み、ロサリスの影が明かりを遮った暗がりの中でそっと長持の蓋を下ろした。
「シアニ、始めるわよ。」
「今行く。」左手で目をこすりながら、身体の後ろに回した右手で指を挟まないように気をつけながら、音をたてずにぴたりと重い蓋を閉じた。
新しい服はこれまでと全く作り方が違っていた。身頃の幅が申し訳ないほど生地を食うし、丈もうんと長くとる。踝までスカートの丈を長くするのだそうだ。姉さん達でさえそんなに布を使わなかったのに。その上ロサリスは、胴着は赤でつくると言って譲らなかった。
「赤がいい。女前が上がるからな。」バギルまでがそう言った。
女の子たちのうらやましそうな溜息に少しばかり気が咎めたが、たっぷりした布を膝の上に置いた気分はまんざらでも無かった。
ロサリスが新しく教えたのは、身頃を裁つ前に、襟元に細かく立てた襞をひとつひとつ縫い取って刺繍する方法だった。これで襟元は華やかになるし、厚みを増して温かくなる。それに胸回りも腰回りもゆっくりとして着心地も良くなる。左手につかみ込んだ布はすぐにずり下がり、刺繍は難しかったが、シアニはすぐに没頭した。食事の支度を手伝うのに間に合わないくらいだった。いつになく皆が大目に見てくれるのをいいことに、針を置いて縫物を仕舞った時には、卓の上はあらかた出来上がっていて、いつもは一緒に働いている姉妹弟たちの顔には明らかに不満の色が表れていた。
今では常に子供たちだけで二十人もいるうえ、この何日かは畑の犂起こしや水路の準備で両親ともに遅くまで野良に出ている子供たちを預かっていたので、食事時の卓の周りは窮屈だった。姉妹たちは先に小さい子たちを座らせて順に食べさせ、喧嘩の仲裁をし、ひっくり返したものを片付け、口を拭いてやった。シアニは謝りながら、卓に駆け寄った。
「赤い胴着」
年上の娘たちはつんとして終わった皿を持って台所に下がった。
私がねだったわけじゃないのに。とても空腹だったのが、食欲の失せたただのお腹の痛みに変わった。
今日は、子供たちが騒いでいる他は奇妙に静かだ。食卓に遅れたのはシアニだけではなかった。いつもは先頭に立って食事の面倒を見ているロサリスが炉端の椅子に掛けたきり、物思いにふけっているのだ。もう昔ほどかいがいしく動かなくなったとはいえ、ゆっくりと歩き回りながら娘たちの手助けをしてくれるバギルの妻も、今日は心配そうに立っているだけだ。バギルが炉の向こうに立ち、気難しい顔でしきりに首を振っている。
とにかく、手と膝は空いているのだから預けても大丈夫ね。
シアニは走り回っている子をひとりふたり捕まえるとロサリスのそばに連れて行った。膝元に置いていこうとすると、途端に子供が足踏みをして怒った。
「お姉ちゃんがいい!」
バギルがこちらを向いて怖い顔をした。ロサリスは気付いてもいない。
「じゃあ、おいで。母様は忙しそうだからね……。」子供たちを両腕でさらえてそっと見やると、バギルがきつい調子でロサリスに囁いている。
「ご自分で行かれるなど、なりませんぞ。クシュに任せなさい。」
「明日がどうなるか分からないのよ。」ロサリスがぼんやりと呟いた。「今でさえも」
「ここにいれば、姫は強いお母さまですとも。でも、仇の領土ではただの女の身ですものね……。」バギルの妻が言う。ロサリスは強く首を振った。
ここにも駄々っ子がいたわ。シアニは腹立たしく思いながら立ち上がろうとすると、男の子はひょいと両腕を首に掛け、両足を胴に巻きつけて飛び乗った。
「蝉だよ、みーんみーん」
静かにしてよ。耳の横でどなるのをやめて。
「抱っこ。抱っこ。」もうひとりが地団駄を踏む。
「はいはい」かがんでもうひとりの胴を抱える。乱暴なやり方だ。だが、大人たちは見ていない。
卓に戻り、椅子に掛ける。
「椅子はひとつ。姉さんの膝もひとつよ。どちらを乗せようかな。まてまて、ふたり乗るかしら。」
しがみついている方を振るい落とすふりをしてからかいながら、もうひとりを引き上げる。先に膝に載っていた子がいきなり手でシアニの胸を押した。思わず、腕にぶら下げていた子を落とす。
「ごめんごめん」気のせいだわ。
膝の子を後ろ向きに抱えなおす。子供はくるりと振り返り、はっきりと手を上げてなで下ろした。
シアニは子供を膝で押しやり、飛びのいた。椅子がうしろに倒れ、火のついたように子供が泣き出す。皆が一斉にこちらを見た。
「どうしたんだ?」バギルが耳を赤くして尋ねた。激怒する直前だ。
顔から血の気が引き、喉が詰まったが、シアニは息を止めたまま素早く言った。
「なんでもないわ。」
「なんでもないのに何で泣かすんだ。突き飛ばしただろう。」
子供がわんわん泣いている中で、皆は凍り付いたようにこちらを見ている。シアニは今度は次第に顔が熱くなるのを感じた。しまいには燃えるように熱くなった。どうしてこんな事を言わせるのよ。
「だって、胸に触ったんだもの。」
「だから何だって言うんだ。」バギルは目をむいて怒っている。
「今に嫁に行って子供を産んだら抱っこしてお乳をやるのが当たり前だろう。」
この―――!とんでもない言葉が頭をよぎり、頭にのぼった血が今度はどっと下がった。シアニは唇をひん曲げて喉元まで出かかった声を飲み込んだ。こちらの我慢も知らず、ここぞとばかりにバギルは言い立てる。
「嫁ぎ先で亭主に抱っこが嫌だなんて言ってみろ、すぐに離縁だわ。口答えもいけない。」
言ってやればよかった!
「もう、本当に―――」駄目、どうしても言えない。そもそも何がいけないっていうと―――。
姉妹たちは首をすくめて目を逸らしながらじっと聞いている。子供たちはぽかんとして見ている。何故今だけ静かなの?そんなに注目に値する一大事なのかしら。母さん、なんとか言ってよ。
「もういや。男―――男の子なんか、みんないなくなればいい!」
言い終わる前に後悔の波がひたひたと揺り戻ってくる。
もしこれが呪文だったら本気じゃなくても起こってしまうのかしら、何か悪いことが……。
「シアニ」
ロサリスがさっと立ち上がった。垂らした墨が水面に広がるよう。黒い装いの中にその顔は蒼白だ。
「シアニ、それだけは言わないで」
胸元に締めあがるような痛みが走る。
母さん、そんな声は止めて。もう悪かったってわかっているんだから。
「私には男の子がいるのよ―――。私の産んだたったひとりの子が。」
水を打ったように静まった卓の周りに固唾を飲んでいる人々。誰も彼もが石になったかのように。
くるりと背を向けてシアニは戸口に歩いて行った。閂を外し、戸を開け、冷えた夜気の中に出、戸を後ろ手に、やがて背全体で押して閉める音が震動を帯びて返ってくる。戸の内から応えるようにバギルの声が重なった。
「放っておきなさい。あの子も今のままじゃ引っ込みがつかん。頭が冷えないことにはな。」
玄関を出てから、行き慣れた台所の裏、段を下りた水場から、鋤き起こした土の匂いののぼる畑へと足は自然に向かった。長いこと遊び場にしていた番小屋の跡はすっかり朽葉や小枝が吹き溜まって、わびしげに崩れかけた耐火壁の影をがらんとした地面の上に残していた。薪小屋の中でなら夜を過ごせるかもしれない。だが、今は狭い闇の中に閉じ込められるのは御免だ。あんなに我慢していた窮屈なところから出て来たばかりなのに。それに、とにかくあの家とそこにいる者たちを思い出させるところには居たくない―――自分と、彼らの関係が分かるまでは。とにかくも、帰ってもいいのだと思えるようになるまでは……。
番小屋の裏の斜面を、半分しゃがみながら、木の株に手を掛けて下りる。踏み跡の段々は残っているが、周りには実生の小さな木が増えた。細い柔らかい枝にはほころびかけた芽がびっしりついて、ひと夏経つころには地面が見えなくなるだろう。
シアニが小さい時にこの斜面が燃えたのだ。老人にパンを届けに行ったこと。白と黄の百合の花。イスタナウトの杜と泉の間を何度も走ったこと。目の前に広がる炎の帯。森の木の中に立つ老人。昨日のことのように瞼に浮かぶ光景はあるけれど、あの日どうしてあんなことになったのかは思い出せない。モーナが現れなくなってからは、思い返すことも無くなった。
イスタナウトの若木は白く闇に浮かび上がっている。ようやく木らしい格好になって来た。それでもまだ少年くらいのものだろう。
私には男の子がいるのよ。
何か考えようとするたびに繰り返し鳴る声、そしてあの時の締め付けられるような悲しみがよみがえる。
丘のたもとの曲がった桜の木が花を咲かせている。シアニは桜の幹に腰掛け、出てくるだけ心の中でその言葉を繰り返した。さあ、他の事が考えられないのだったら、飽きるまであの声を聞きなさい。泣きたかったら泣いてもいいわ。好きじゃないけど、他に何もできないのだったら仕方がない。今は苦しいけど、それでまさか死ぬことも無いでしょう。どうか、涙を流しつくす前に馬鹿になったりしませんように!
私の産んだたったひとりの子が……。ほら、違う言葉が出て来たわ。たったひとりなんだって。じゃあ、私は誰なの?
もうひとしきり泣いたあとで、シアニは桜の木から腰を上げて、腕を抱きながら歩き出した。何ひとつすっきりとはしなかったが、風が冷たくなり、じっとしていられないくなったのだ。
家に戻る?どんな顔をして?あそこが私の家だと思える答えを見つけたのだったかしら。
イスタナウトの杜からニレの林の中に入っていくと地面はだんだんと下り、右側に木の植わった長い土堤が現れる。コタ・レイナの氾濫を和らげるために築かれたものだ。やがて前方にも同じような堤が現れ、シアニは谷間のようになったその間を歩いて行った。せせらぎがあり、コタ・レイナの川辺に近い堤の果ての開けた斜面には木苺の藪がある。やっと芽吹いた枝の下には冬を越した堅い刺が残っている。
痛いのが嫌だと思えるんだから私は生きていたいんだわ。
身体をちょっとよじって腕に引っかかった刺を避けながら、シアニは立ち止まってコタ・レイナの水音に耳を傾けた。昼間橋の上で見た河は近くではこんな音がするのね。たくさんの雫が集まり、一斉に旅をし、駆け抜けるほんの一瞬の音が、順繰りに続いて出来る河の音。
「イネ、水の音を聞くのはいいが、水辺に近すぎるぞ。」
穏やかだが低くよくとおる声が藪の向こう側から聞こえた。足音ではなく、水音と櫂の軋る音がして、男の影が滑り出て来た。シアニはびっくりして、藪の方へ寄った。
「昼の陽射しが強く、ベレ・サオの雪解けが進み、水かさが上がった。夜は見えないから特に気をつけなければ。気が付いていなかっただろう?」
昼間と同じ声の主は櫂の柄を堤の根本に突き立て、小舟の上に立っている。
「どこにいくつもりだった。」
「分からないわ。でも水の中じゃない。」
「結構だ。乗りなさい。」
シアニは、星明りで輪郭のみ見える男を首をかしげて見つめた。私は間違ったことを言わなかったかしら。男は言い足した。
「お互いにもう少し安心な場所に行こう。明かりがあって、地面があって、人がいるところに。」
男が差し出した手に手を置いて、シアニは舟に乗った。勢いあまって向こう側にのめりそうになるのを男は軽く腕を引いて座らせ、漕ぎだした。
舟は堤の間からコタ・レイナの本流へ出て、ついと下へ滑り出た。櫂が静かに水に下りたと見ると、長い力強いひと漕ぎでたちまち河の上へと進んで行く。
「舟に初めて乗ったわ。」冒険に戸惑いながら歓びを抑えきれずにシアニは言った。
舟が向かうところがどこかすぐにわかったし、舟旅はあっという間に終わったが、コセーナの舟着き場の灯りにともされた桟橋に下りた時には、半ば人心地を取り戻していた。
次には父さんのところに連れて行かれて叱られるのね―――父さん。本当に父さんでいいのかしら。訳を聞かれるでしょう、そうしたら、私は何て言ったらいいのよ。
シアニは、うなだれた。前ほど涙は出てこなかったが、それでも灯りの元で見るとひどい顔に違いない。
「おいで」男は手招き、先に立って舟着き場の上の段を登って行った。高柵まで川辺に築かれた石垣の内へと道は折り返し、さらに登ると舟着き場の上から河を見張る一角に灯が灯り、河番の詰所がある。
男は閉じた木戸を叩き、窓から顔がのぞいて答える声があり、河番の夫妻が中に招じ入れた。
「散歩のついでに客をひとり連れて来たよ。鴨の卵はまだ残っているか?それにフキノトウ、笹の煎り茶は?ご苦労だが、湯を沸かしてもらえないかな。」
「シアニ嬢ちゃん」ショールをかけた河番の妻が驚いて言い、広げたショールで肩を包んで炉のそばへ連れて行った。
「もう夜だよ!今からハーモナに送っていくのもねえ。」河番が困って言うのを、男はシアニを見ながら言った。
「イネ、齢はいくつだ。」
「十五よ―――戻らなきゃいけない?あそこに」自分の家と言ったらいいのか分からずにシアニは、言った。
「自分で考え、私の舟でここに来た。寒さを避け、味方もいる。」男は言った。「何故ここにいない者を気にする?」
「だけどロサリス様がさぞ心配なさって……。」河番が口を挟んだ。
「親じゃないけれど心配をかけている。」炉端に座って毛布を掛けてもらい、シアニは、呟いた。
河番夫妻は、炉辺と戸口の両端から顔を見合わせたが、男は棚を見回し、卵を手に取りながら言った。
「君が戻っても心配は減らない。先に気分を直しなさい。」
「そうしたいけれど」
どこから、どんな顔をして?何を言えばいい?ただいま。申し訳ありません―――お母さま。
「どうすればいいの?自分が誰だかわからなくなったの。あの人が誰なのかもわからない。」思い返すハーモナの居間で、皆はロサリスを守るように取り囲んで、こちらを咎めるように見つめている。「それに誰にも訊いてはいけないみたいなの。」
「そうかな。今が知る時じゃないのかな。」男はちょっと振り返った。「いや、朝になってからだな。まず、食べて温まり、物語りをする―――その間に夜が終わる。」
鍋に卵を入れて火にかけ、男はシアニの前に座った。河番の女房が火の前の明かりで籠のフキノトウを選りすぐっている。爽やかなほろ苦い芳香が立ちのぼる。ぐらぐらと湯の沸きはじめる音。背に温かい毛布。
あら、私の悩み事って何だったかしら。こんなふうに良くしてもらっていいのかな?シアニはもじもじと身を縮めた。
男は顔を傾けて、熾った炭火の明かりが映し出す、もしゃもしゃに乱れた髪の奥の少女の顔を見、興味深げに声音をわずかに高くした。
「昼間ハーモナで会った時には暗くて顔がよく見えなかったが、どうやら思った通りだった。君の顔だちには見覚えがある―――。コタ・シアナの血を引いている。私は彼らの事は兄弟のようによく知っている。知りたかった事かどうかは分からないが。謎に近づいたかい?」
「いいえ」シアニはびっくりして男を見返した。「どうして、初めて会うあなたに分かるのか不思議だわ。」何だか負けたような気がする。シアニは大きな目を相手に凝らし、やがてしかつめらしく言った。
「あなたはイーマ」
男は反撃に驚いたかのようにちょっと微笑んだ。
「あの人々はもういないよ。」
「だって、鉢巻きは?」自分の悩みを忘れてシアニは尋ねた。「その模様は何の印?服も変わっているわ。」
「私の事を知りたいのかい、自分の事よりも。」男はやんわりと水をむけた。
シアニは考えた。今は人の話を聞く方が楽かもしれない。でも、問題を後回しにするだけじゃないかしら。
女房は湯の中にフキノトウを投げ入れて、棚にバターを取りに行った。亭主はパンを切っている。男とシアニの話している炉端から下がって、壁の灯火の下に互いにくっついている。そう、あのふたりがこんな風に寄り添っていることってあったかしら。あの人が男の人と仲良くくっついていることなんて。
パンとバターの皿が出、フキノトウと大きなゆで卵が出た。膝の上で転がしながら割り、もどかしく殻をむきはじめる。この大きな卵は丸ごと自分のものだ。家の誰も知らない、自分だけの元に降りて来た幸運。
「変なの」シアニは呟いた。「泣いて、空っぽで根無し草で。こんなの初めて」
食べ始めると、空っぽのお腹の方は満たされてきた。やがて、笹の葉を炒った茶が入った。男はおもむろに振り返った。初めて会った時ほど厳めしい感じはしない。風変わりな装いに慣れれば、その表情はごく親しげに見える。
「舟に乗るのは初めてだと言っていたな。水に漂っても怖がらない浮草だ。根無し草は性に合っているかもしれないぞ」
からかっているのかしら?
「それに、誰でもない気分というのは、物語を聞くにはちょうどいい。」
「お話を聞くのは好きよ。もうずいぶん長いこと聞いていないけれど。」シアニは思い返しながら言った。「だけど、もう、お話を聞いても楽しめないような気がする。お話の中の人々はみんな偉くて、自分だけが置いてきぼりになったようで。それに、もし想像が働いてそんな気分になれたとしても―――お話が終わると、自分自身に戻って来なくてはならないでしょう?前よりも何も無い私に。」
「君くらいの齢になれば、幼い頃とは違う耳になっているものだ。」男は言った。「別の折に昔に聞いた話をもう一度聞いてみるといい。非の打ち所がないと思えた英雄たちの弱さ、愚かしさに気付いて驚くだろう。」男は何かを思い起こしたように苦笑した。「それが君の年頃の子には栄養になる。少し年上の者の失敗がね。」
さてさて、この話は聞く価値があるのかしら。お年寄りが話すようなしかつめらしい苦労話じゃないのかしら?失敗して、助けられ、感謝しました、っていうつまらないお話じゃないかしら。私は人の失敗を面白がるような人間じゃない。むしろ、やっぱり、きれいで勇敢な人々の冒険がいいわ。その方がいい。
男は炉に太い薪を一本足した。籠手を外した腕に大小の傷跡がある。中には滑らかな筋肉に分かるほどの影を刻んでいるものもある。舟を漕ぐため肩から上腕は厚いが、横から見た線はさほどではない。左肩の上には鉢巻きの結わえた端が長く垂れている。
あの模様は何の印かしら?このお話が終わったら聞いてみようかしら。
シアニは毛布の中で姿勢を直した。男は組んだ足の膝に手を置いた。
「私にはちょうど思い出した話がある。君の顔を見てのことだ、縁があったのだと思って聞いてみてくれ。」
語り手の力量を測るかのようにシアニは目を大きくし、口元を引き締めた。男は穏やかに言い添えた。
「英雄のような決断をせずとも、一夜にして運命が変わってしまうこともある。君は夜に迷い、ここに来た。しかし朝になるまでに、私の物語の中からいくらか知ることがあるだろう」




