第三章 虫の語り 『深山の蝶』4
月の光に羽色を閃かせ、ひとつ、またひとつと夜空へと競いあがる蝶が深更をさわがす唯一の色と音であった。広げた大きな羽の音は力強く、後ろ羽の長い尾は虚空に描く軌跡に二本の震えを添える。
蝶を雌雄に分けねば。少女は露台に座ったまま茫然と蝶を見上げた。分けて籠めるための籠は用意されていない。病み臥せり、下界で人に会ってる間に繭は羽化してしまったのだ。
水面に戯れ飛んでいた蝶はやがてイスタナウトの森へとつがいに行った。空を舞う羽ばたきが静まると、月明かりが浮かび上がらせるイスタナウトの白銀の肌をさらにはたはたと鱗片が覆う。
立ち上がりかけた彼女の目の前の林から、恐れていた声が問う。
「蝶は守られているか?」
初めてこの谷で聞いたときそのままに恐ろしい。
「守られている。」少女は答えた。
男の声に答えうる声は彼女の膝元の水鏡の中にある。しかし、今は彼女になりかわって話してはくれない。冷たく聞いているだけだ。
「守られている。だから行け。」少女は男に言うと同時に水鏡から監視する目に言った。
男は手招いた。その顔は穏やかだ。少女は水鏡から目をそむけ、露台の上を沈下橋の前に移った。水の流れが像を乱し、彼女と姿を分け持つ者の目は見えない。しかし、少女は水を境にして石柱にもたれた。男はイスタナウトの下に立っている。
「お前、アツセワナの奴らの前ではだいぶん暴れたようだな。」男はくだけた口調で言った。
少女は首をそびやかし目を見開いて男を見返したが、足元の流れに吐き捨てるように言った。
「あれはヌイマイ、妹の子の落ちぶれた裔の裔。骨をしゃぶって生きている。他のふたりもだ。」
「おれなども似たようなものだな。」男は木の幹を眺めながら呟いた。
「もうひとりの男は?あれはアツセワナの男だろう」
少女は柱に沿ってくるりと背を向け、肩の蝉羽を引き寄せた。
「あいつめ、サザールと鉄師ふたりをコセーナに預けるにあたってガラートを人質にしていった。」
「いかにもお前たち男のやりそうなこと。」
少女はうつむいたまま答えた。男に背を向けたその両肘は胸の前にイサピアを握りしめる手に続いている。少女にとっては幼い頃から、ただ不安をなだめる護符のようなものなのだ。
「頼みがある。」男はしばらく考えた末言った。
「手が空いていたら絹を織ってくれ。一反、あの子のためだと思って。何もないにこしたことは無いが、いざという時にはそれであいつの命を買う。」
少女は振り返り、ごく小さくうなずいた。
男はイスタナウトに片手をかけた。幹を覆って息づいている鱗片がひとつ、華奢なぎこちない脚を伸ばしてその袖に移った。
「いけない、さわるな。」少女は叫んだ。
男は蝶をつまみ上げて木に戻し、半ば雲が月を遮った闇の中で言った。
「引き続き蝶の守をたのむ。」
移行する雲が明るみを取り戻すに従って男の足音は去って行った。
“白糸束”の北の壁を登る前に、ハルイ―は現れた月の光で左の袖口を透かし見た。肩口から襞の峰に沿って、消えぬ露玉が九つ、並んでついていた。
翌日、ティスナの女達はハルイ―の訪問をうけた。
稗の田でクマタカの声を聞きつけた若い女が、子供を仲間に預け、白樺の林のはずれまで出て行って彼を出迎えた。
「ルメイは来ているか?」ハルイーは尋ねた。
「ええ、」女は落ち着きなく答えた。「前よりもよく来るわ。前は日があるうちに帰っていたけど、今は月の出ている夜ならいつでも。夜は仕事がしにくいわ。明けてから帰るもの。」」
「それなら明けてからすればいい。」ハルイ―は簡単に言った。
女はうなずいた。「用があるなら早く言って。」
「これは神蚕の卵だ。」ハルイ―は布切れに受けた卵を女に託した。
「小童と同じように孵してみてくれ。」
「どうやって育てるの?」
「イスタナウトの葉を食わせるが、ここの葉はもう硬い。ご苦労でも下に降りて出来るだけ若い葉を探してくれ。蝶になるまで育てて欲しい。」
「これも茹でるの?」女は恐れながら尋ねた。
「小童とつがわせられないかな。」
「無理だと思うわ。姿も気質も違うから。」
「まあ、育ててみてくれ。その中に雄も雌もいるだろうから。」
女は素早く切れを受け取って腰の帯に挟み、焚きつけの小枝を拾いながら集落へと戻って行った。白樺の林の中から少女たちの驚きの声と、慌てて機を仕舞う気配が聞こえた。日が翳り、やがて峰のシラビソの林の方から順に、雨が葉を打つ音がティスナへと降りてきた。
ハルイ―は広がった雨雲を見上げ首を振った。
「あいつめ、よく泣くようになったな。」
稲の穂のふくらみはじめる時節に、イナ・サラミアスは切れ間ない雲と篠つく雨に見舞われた。川は終始濁り、青草は色あせて細り、男たちは狩りに苦労しながらやがて獲物が痩せ乏しくなっていくであろうことを予測し、慄然とした。
ニアキで持たれるべき集会の召集に年老いた長老たちは同意せず、代わりに設けられたオルト谷での会議に大人、主幹たちが集まった。
アツセワナとの交渉が突然の終わりを見てから“河向こう”に不気味な予兆があらわれていた。コタ・シアナの水の民は呼びかけに応じて渡しの舟を出し、彼らの産物の交換には応じてくれてはいたがピシュ・ティの交換市まで舟を出すのを渋った。南北の物見は夜になるたびにエファレイナズを行き来する灯りを目にした。コセーナを中心に北へ南へ灯りが走ることもあれば、遥かアツセワナからじりじりと網の目のようにコタ・ラートの沿岸までを公道に沿って広がる灯りが見られることもあった。やがてコセーナから出る灯は減り、なりを潜め、アツセワナから広がる灯も減ったが、エファレイナズの公道の交点には常に灯が灯るようになった。
タフマイの者は幾度か陸路から交易を試みたが、エファレイナズの商人たちはもはや交換に応じなかった。ある者がようやくコセーナの近くまで行って顔見知りの商人に尋ねたところ、イナ・サラミアスと取引した者には罰金が課せられるのだと打ち明けたという。
「使節の命を危険にさらしたための報復なのだと。使節の本復と帰国をみるまでは報復を解かないと」
「あの小男がそれほど重要な人物であったのか。」
主幹たちは訝しげに囁きかわした。
「まだコセーナで療養中なのか」
「アーラヒルの息子がコセーナから返されないのは、人質だったからなのか。」
ヒルメイの主幹は輪から離れて、壊れたまま置かれた鉄炉の前にしゃがみ込み、捨て置かれている鉧をひっくり返して調べているハルイーに近より、苦々しげに言った。
「ハルイー、それを置け。女主の不興を買った鉄だ。誰も触らぬようにしているのに。」
「兄上は落ちてきた石にも怪我人にも触ったのだろう?」ハルイーは淡々と答えた。「鉧を触るからいけないのか、おれが触るからいけないのか、自分の胸に訊いてみるといい。」
「お前は気づいていたか、ガラートが使節の命の形にとられることを。」
「―――いや、」ハルイーは鉧をおろし、顔を上げて言った。「そう見せて、実は絹の形なんだ。」
「あの若い男はただの使節ではないな。お前は自分の取り引きのためにあの子を人質に差し出したのか。」
「あいつを行かせるのに同意したのは兄上だろう」
ハルイーは兄を見返したまま立ち上がり、声を押し殺して言った。
「おれはあいつに行けとは一言も言わなかった。おれならむしろイナ・サラミアスの生贄になれと言うよりは絹の形になれと言う、だがどちらも言わなかった。悪い見通しに目をつぶったのは兄上だ。彼らに倣って自分をごまかすのはやめてくれ。あの場にいた者は皆知っていた。知らないのはあの子だけだ。」
ハルイーは鉧をつかみ上げ、縦に割れた炉口から中へ放り込んだ。
「これをこのままにしておくなんてあんたたちは馬鹿だな。良しも悪しも鉄の珍しくないベレ・イネならともかく、エファレイナズでは一瞬たりとも放っておかないぞ。鉄は入って来なくなった。最後の一片かもしれんのに。」
「ハルイー―――」
「あの男は二月後には鋼をつけてガラートを返すと言った。」ハルイーは首を振って兄を遮った。「おれはそれまでに絹を用意しなくてはならんし、必ず用意する。兄上、おれの邪魔をしないでくれ。それに邪魔をさせないでくれ―――あの連中に。」
「お前に近づけないようにすればいいのか。」
ハルイーは肩をすくめた。兄は主幹たちの協議の輪を振り返った。皆は話を中断し、休みながらこちらを見ている。ハルイルは空模様に目を移し、腕を組んで考えた。
「飢饉が心配だ。塩の蓄えも―――冬を越すための備えを協議することにしよう。“河向こう”の動きに心乱されず、この地にあるもので身過ぎをすることに専念するとしよう。―――絹の仕上がるのが二月後ならば、秋には女達を呼び戻せるか―――いや、この冬は戻さぬ方がいいかな。」
「その話を向こうでやってくれ。」ハルイーは低く言った。
「おれはひとりに慣れているし、そのうちに消える泥なら被れるだけ被るさ。」
乾きかけていた地面に峰の上から風が運んできた雨の粒が落ちた。瞬く間に降り注ぐ雨が土の色を変え、鉧の表面に筋をかいて流れ始めた。人々はもの慣れた様子で木の下へと移り、雨音があたりを満たした。
四日後に雨は収まり、空には淡い光が射した。地にたまった水は鏡の小片となり、泣き疲れたイナ・サラミアスの上に薄青い空模様を垣間見せた。
月の昇る頃にハルイーは、長手尾根の南脇からコタ・シアナの岸に下りて行った。ひと月前よりも水位は下がり、木立ちの前には西へと大きく突き出して砂州が広がっていた。
コタ・シアナの下の方から舟が来る。ハルイーは口笛を吹き腕を振った。舟に乗っていた客が振り向き、舟頭に声を掛けた。舟はゆっくり岸に近づいて来た。客は薄闇の中で目を凝らすようにして岸に立つ者を見、低く声を掛けた。
「そこにいる方は、ヒルメイのハルイーではありませんか?」
「月の形は約束通りだが、おれに約束したのは違う男だ。」
「もっと良い男ですよ。話も上手で便りも良い。」
日に焼け、少し精悍になったトゥルドは言い、手招いた。ハルイーは舟に乗り、舟はさらに上の中州まで遡った。舟を岸辺の茅の間に待たせておいて、ふたりは柳の木立ちの陰に入った。
トゥルドは待ち構えたようにマントを跳ね上げ、その下に握っていた手を突き出した。開いた掌には、ふたつに割られた一対の赤茶の鉱滓の塊が載っていた。ひと目見たハルイーは磁石のようにそれをさらえ取っていた。
焦げた赤錆色の飴の中に、玉虫色を帯びた銀灰色の塊が絡めこまれている。わずか親指の先ほどの大きさだ。
「こいつは迷子だな。」ハルイーの声は懐かしげに弾んだ。「炉の中で雫になって落ちる時に仲間から遅れた奴だ。」
「はい、その連れは二貫目あまりの塊でした。混じりっけのない銀色で、粟粒が炊けたようなふっくらとした肌つきで。」トゥルドの声は、ハルイーと同じ興奮に上ずっていた。
「彼に会えたか。チャゴロに。」
「息子たちにも。彼らは私たちにコタ・サカのもっと上流の場所を教えてくれました。砂に混じりものが少なく、粘土も近くで取れ、風の良く通る谷間です。そこで彼らは風の方に合わせて炭と砂を入れ、鞴などはいらないのだと。ただ、一回一回出来る鋼は少しです。そして、我々の仲間でまだ鉄を作れるものはいない。」
「彼らは沢山鉄を作るのには乗り気じゃなかった。イーマのように―――」ハルイーはもの思わしげに言い足した。「イーマの使う鉄の量など高が知れている。我々相手には十分だ。だが、アツセワナで商うにはそこそこ沢山作らねばならない。彼らが承知する仕事の量では間に合うまい。イーマの女達の織る絹もそうだ。アツセワナの要求を満足させるほどは作れまい。一度の交換を成功させても次が続くかどうか。次の無いものに生かしておく値があるとアツセワナが考えるだろうか……。」
ハルイーは鉄の埋まった鉱滓の欠片をトゥルドに返した。
「どうしたのです。あなたの方には前ほどの気概がないようですね。」トゥルドは前より痩せて鋭くなった眉を寄せた。「あなたは絹を作るのを諦めたわけではないでしょうね。諦めてはいけません。―――コセーナに寄ってちょっと聞いた話ですが、絹は素晴らしかったとシオムが言っていたそうで。もっとも、これはシグイーも今日の約束同様、人づてにやっと聞いた話ですが。」
「あいつめ、うかうかと人にそんな余計なことを話したのか。」ハルイーは腹立たしげに呟いた。
トゥルドはさも驚いたようにちょっと瞬き、咳ばらいをした。
「彼はもう来ません。こうやって私とあなたのやり取りを何とかつないだのですから良しとしましょう、要領に不満があるとしても裏切りはしない男ですからね―――あの少年は元気です。顔をちょっと見ましたよ。コセーナで預かっている他の三人も無事で、サザールも回復してきているとか。大丈夫、誰とも接触していません。ところでシギルですが」トゥルドは笑いを抑えながらつまらないことのように言った。
「冷淡だった妃とにわかに睦まじくなったようですよ。妃はいつもぴたりとご一緒で、お召し替えの世話を焼く、手料理を一緒に召し上がる、以前は無精だった家々の訪問、閲兵にも、トゥルカンの行く所、必ずふたりで行かれる―――」
「気楽なものだ。手の上で飼いならされて飾りに納まる気になったならそうするがいい。」ハルイーは横を向いて呟いた。
トゥルドはぴたりと唇を結び、それからゆっくりと言い継いだ。
「まるで番犬のように。トゥルカンから一時も離れず、どこに行くにも歩調を合わせ」
ハルイーは振り返った。トゥルドは鉄の欠片をしまい込み、背筋を伸ばして仕切り直した。
「コタ・サカで鋼が上がり、取るもとりあえず吉報の報告を、と私が勇んでイネ・ドルナイルを出たのが半月前です。アツセワナにいるシギルには近づくことも出来ませんでした。コタ・イネセイナのドルナイルとの渡しからアツセワナ、ニクマラに至る公道の要所にはトゥルカン配下の見張りが置かれ、私はアツセワナの南のはずれ、暗黒の森に大きく回り込んでニクマラから舟に乗り、クマラ・オロ、エフトプを回ってコセーナにたどり着きました。五日前のことですよ。
「コセーナではちょうど私が来るのを待っていました。アツセワナのシギルから内密に手紙が届いたところだったのです。それも妃からニクマラのシギルの叔母宛ての贈り物に忍ばせ、ニクマラからエフトプにいる別の叔母という具合に。その道筋すらもう使えない、とした上で、シギルは今夜あなたに伝えるべきことを手紙に指示していました。
「ひとつは私トゥルドから満足のいく進捗報告をさせよ、ということでした。ふたつ目はあなたに絹と鉄の交換の期日とその場所を詳細に知らせよ、ということでした。私はここ三日間というもの、シギルの寄越した条件に合致する方法をシグイーとずっと話し合ったのです。」
ハルイーはトゥルドの正面に向き合い、柳にもたれた。
「来月の満ちる時―――霜降の収穫祭にはシギルの妃のもとに絹が無くてはならないのだったな。」
「収穫祭のその日、エファレイナズの全ての領主とその妻の目の前に、王妃は絹を身にまとって現れる。」トゥルドは予言のように断言した。
「イナ・サラミアスの絹を一気に国中に知らしめるにはこの機会を置いてない。絹は人々を惹きつけ、その価値を知らしめ、欲求を呼び覚ますでしょう。これを産する場所はイナ・サラミアスを置いてない、そう得心させるのが狙いです。
「イネ・ドルナイルに鉄を求めに行ったことのあるあなたでも、アツセワナの秋の収穫祭をかの地で過ごした事はありますまい。それも前夜、当日の祭祀、饗応、翌日以降の競技などと続く催しを全てご覧になったなどという事は。
「アケノンの世以来、アツセワナでは各郷の個々の収穫祭が終わった後で、全ての領主をアツセワナでの祭事に招待します。領主たちは祭祀と饗応に出席するため、王への土産を持ち、供人を従え、また自由市を目当てにした郷人たちをも連れてアツセワナへ旅立ちます。前夜には遠国の領主たちも皆が城に到着し宿泊する。軽い夕食の振舞などもあります。アツセワナの家々では親しい客を招き園遊会を催すこともあります。翌日には王が耕地に築かれた祭殿に収穫物や貢物を奉納する神事。そして同日、城の広場においては様々な物の品定めが行われます。長たちは長たちの、仕え人や領民たちは彼らの。国中から伴って来た人の、物の競技が行われます。生り物の品定め、力自慢に、技能の腕自慢。勝者には名人の称号のほかに、様々な褒賞、あるいは特権が与えられます。そして晩には大きな饗応が行われる。翌日は軽い遊びや競技、そして見送り。領主たちは郷に帰った後、王をお返しに招くこともあります。また、王が旅に出られることもある。
「シギルは、手紙を出す前に今年の収穫祭についてトゥルカンと熱心に協議しました。祭りにあわせてエファレイナズ全ての家の主を招いて饗応するのはもちろん、前の年まではトゥルカンが順次個々に招いて催していた前夜の園遊会、祭りの後の競技会などもシギルは全て自分の采配のもとに行うと言い、トゥルカンも承知しました。
「まず、シギル自らが筆をとり、全ての領主とその妻に招待状を出しました。従者を信頼篤い者二名に限り、郷人の市への参加は自由と定めました。そして前夜には王宮の前庭において全ての領主を招いての園遊会を行う―――あなたはトゥルカンが独自にオトワナコス、エフトプに出した招待状を押さえたそうですね。あの後、両者はトゥルカンに返答したそうですよ。同胞三郷揃って参上の所存、到着は遅くなる由、お構いなく、とね。トゥルカンは密書の件など無かったかのように振舞っています。いまはシギルを追い落とすために進めていた駒をとりあえず引っ込めたようです。いまの彼は接待役として天幕と敷布の調達に走り回っています。なにしろ全ての領主夫妻と従者を、園遊会を行う庭にそのまま天幕を設けて泊めるのです。」トゥルドはちょっと笑い、また真剣な面持ちになった。「その代わり、イナ・サラミアスを市から追い出しいじめにかかっていますが、シギルはこれを黙過しています。全て収穫祭で取り返すつもりなのです。
「シギルは祭りの日に行われる品定めにおいて新たな趣向を加えました。領主たちが持参した献上品を競わせるというものです。王自身も出品する。私もです。」トゥルドは手真似で布で覆うふりをした。
「こうして提出したあと、王を含め、領主たちは―――男たちは皆退出する。次に領主の妻たちが招じ入れられる。目の肥えた、しかし権力とは無縁のこのご婦人がたが覆いを取り去った品の投票をするのです。王が出品するのは絹をまとった妃。」
トゥルドは笑みを浮かべ、高らかに言った。
「そして私が出品するのは鉄の細工物。」トゥルドは少しはにかんで声を低めた。「これから帰って取り掛かります。多分、小刀か鋏か―――ご婦人の使いやすいものを用意しますよ。なに、私の方は勝つ必要は無いのです。肝心なのはシギルが勝つことなのです。
「この競技の趣旨は勝者である作り手に特権を与えることなのです。必ずイナ・サラミアスの絹に勝利を。作り手イナ・サラミアスは同じ出品者の中からコタ・サカの鋼を交換相手、取引相手に選ぶことが出来る―――シギルがトゥルカンに十日間かけあって勝ち得た条件です。」
ハルイーはもたれていた柳から身を起こした。その面持ちに静かな高揚が湧きあがっている。微かな望みと疑念との揺らぎ。彼と出会って以来、初めてその面に見出した感情の揺らぎだ。齢以上の開きをようやく追い上げたか、少しは相手が人間らしく見える―――トゥルドはうなずいた。
「もちろん、トゥルカンはシギルが目論みあってこんな事を提案したのだと気付いています。シギルが準備しているものが何かを突き止め、この上をいこうと企んでいるに違いありません。だが条件は承服した。」
トゥルドは枝を折り取り、地面にかがんで砂利を手で払い、砂地の上に図を描いた。
「それでは目論見を遂げるための手順といきましょう。コタ・イネセイナ、コタ・ラートにコタ・レイナ。夫婦川の先にクマラ・オロ。そしてコタ・シアナ。こちらがイネ・ドルナイル。反対側がむろんイナ・サラミアス。アツセワナはここ。ニクマラ、エフトプ、コセーナ。この間に公道がどのように走っているか分かりますか。」
トゥルドに渡された枝を取り、ハルイーはさらさらとアツセワナを取り巻く環状の道とそこから伸びる六本の道、その内五本がつながるコタ・ラート西に南北に沿った道を描いた。さらにコセーナからオトワナコス、エフトプへ線を引き、またコタ・ラートにかかるふたつの橋をそれぞれイビスとアツセワナへと伸びていく道を描いてつなげた。トゥルドは満足げに枝を取り戻した。
「ああ、そうです。この中で、コタ・ラート西の道と交わるところ、そしてアツセワナの周りには必ずトゥルカンの見張りがいます。また、コタ・ラート上下の渡しとその区間も雇われた舟が行き来しています。私がイネ・ドルナイルから渡ろうとした時から。」
「イナ・サラミアスからでも物見が灯を見ている。」ハルイーは言った。
「旅人は必ず名と用向きを訊かれ、荷の改めも受けます。収穫祭に無法者が紛れ込むのを防ぐのだという口実で。だが、その実、領主たちの一行が祭りを目指して行き来する段になれば、彼らも詳細には手が回らないはず。祭祀の供物と王への贈り物に手出しをするわけにもいきません。品物を運ぶならこの時だ。
「前にも言ったように、コタ・レイナの領主たちは揃ってアツセワナに到着するように出発します。コセーナとオトワナコスがコタ・レイナ沿いに道を下り、上って来たエフトプと中の大橋を渡ってアツセワナへと行く。移動は馬や車です。それに荷馬が二、三頭。市へ行く郷人たちはその後を徒歩で行きます。六日の日程で前夜にはアツセワナへ着く。あなたは、シグイーが出発するまでにコセーナに来て下さればいい。そして絹を預けてください。後はシグイーと奥方に任せて下さればいい。」
「人質の事を忘れている。」ハルイーは不機嫌に言った。「使節として来た三人がアツセワナへ返されるまでガラートは返されないのか?」
「分かっているくせに。あの子は絹の形です。コセーナまで絹を届けて下さればその時点で帰しますよ。」
トゥルドは笑って立ち上がろうとした。ハルイーは手真似でとどめた。
「念のために訊いておこう。シギルとイナ・サラミアスとの取引は、品定めに勝って取り引きの権利を得た後だという事は分かった。それまでに鉄を受け取るのは我慢できる。収穫祭に必要なのはただ一反の絹と鉄の細工物だ。コセーナの領主がおれの代わりに絹を届けてくれるのならそれを信じよう。あんたはいつどうやってアツセワナへ行く?」
「私はこれからコタ・シアナを下り、クマラ・オロを西に沿って行き、ニクマラの南から湿地を通ってイズ・ウバールまで戻ります。実はそこまで鉧は運んである。小鍛冶場もコタ・イネセイナの傍につくってある。アツセワナへ入るのはなるべくきりきりにしておきます。ニクマラの領主の一行に紛れ込むことにしますよ、一番南のこの道です―――トゥルカンは私を追っているに決まっています。何であれ、シギルが準備しているものを私が持ってくるに違いないと思っていますから。いたずら坊主が三人揃ったところでやおら腰をあげて仕留めにかかろうとするでしょう。」
舟を待たせておいた岸辺へと行きながらトゥルドは機嫌よく言った。
「鉄師のトゥルドは今度は鍛冶屋のトゥルドになるのです。何かイナ・サラミアスで入用なものはありますか?鋏、小刀、鏃など。」
「晴天に程よい風、獲物。」ハルイーは答えた。
「ご冗談でしょう。」
「アツセワナに頼むなら、今なら鉄よりもむしろ穀物がありがたい―――」川に近づくほどに小石まじりの地面には捌け切らない水の溜まりが残る。ハルイーはため息をついた。
「何故あいつが泣き止まないのかわからないんだ。」
昼は薄霧が谷間を覆い、水は削られた岩石を含んでうっすらと白く濁る。風は沈むかと思えば高鳴って糸車を引きちぎり、糸を捩り、絡める。吐いた蝶はみな死んでいる。束にした糸はわずかだ。
痛む額に冷え切った手の甲を押し当て、少女は沢を立って森へと入って行った。摘んだ繭を糸にするのにどれほどの時間がかかったことか。幾日たったのだったか。
彼女に仕事を教え、糸を繰るのも縒りをかけるのも共に和して一緒だったもうひとつの魂は、霧の天蓋の下に眠らせてある。目覚めれば陰鬱な沈黙の奥底から、恐ろしい記憶を引きずりあげて連れてくる。
新しい繭を摘もうとして見上げると、イスタナウトの枝に、繭はみな空になって残っている。そればかりか、その周の枝と言わず幹と言わず、びっしりと銀の粒がついたままなのだ。もし孵化してしまえば彼女の手には負えなくなる。
少女は、イスタナウトの節に足をかけて登り、手をのばした。耳を打つ雨の音を訝しんで梢から空を透かし見た。薄青い空を遮るまばらな葉がそれぞれにうなずいている。うなずきながら優美な葉脈を露わにして徐々に小さく切り込まれてゆく。雨音はやがてばらばらな呟きをひとつにして言葉をかたちどりはじめた。冷め果てた気候と滋養の失せた葉にむずかる小虫の声だ。空に満ちるその声が遠のき、突如夜の幕が目の前に下りた―――。
肩を強く揺さぶる手の力に、知覚は速やかに目覚めてきた。痛み、冷たさ、湿った草の香、時季はずれの神蚕の葉を食む音。目の前だけが未だ暗い。昼間の色は無く、闇に刻まれた輪郭をかたどるのは月の光だ。
男は頭を高く上げて周囲を窺っていた。窟の炉に火が灯っている他には動くものは何もない。風も凪いでいる。男は腕を少女の肩に回し、そのまま草の上に起こした。
「どうしたんだ。木から落ちたのか」
男は低い声で尋ねた。間近からじっと見つめる目に、少女は蛇に見込まれたように竦んでいる。男はそっと手を放し、少女から離れて立った。少女は草の上に足を縮め、そわそわと肩を腕を撫でおろした。
「食うものに困っていないか。」男は尋ねた。
少女はかぶりを振った。男は少女の膝の上に小さな袋を投げた。
「好きなように食え。」男は横を向き、口早に言った。「おれに気兼ねをするな。子供の頃、お前は遠慮なんかしなかった。おれから何かを分捕るのに条件なんかなかったんだ。」
「いつ、そんなことが……」思い出そうと記憶を手繰りかけ、少女は顔をしかめて唇をかんだ。
「泣くな。」男はなだめた。「お前がひとりだったころ。泣いても天を崩す心配など無かったころのことだ。おれはその子に食べるものをやったんだ。」
少女はふと男を見上げた。その手が膝の上の袋を握った。
男は、月明かりの下を歩き回ってイスタナウトの木をひとつひとつ見て回った。
「増やし過ぎだぞ。」
「生まれるはずはなかった。風も冷たくなったというのに。」少女は答えるともなく呟いた。「闇の中で眠っているはずだった。大人にならずに死んでしまう。」
「こいつらはもう相当大きいが、いつ気がついたのだ?」
「半ばまで育っている。繭になるまでもう一月、でもそこまで持つわけがない。」
「ひと月か。」男は思い出したように言った。「ひと月もたてばいろいろと変化も起きよう。」
「お前、」少女はようよう立ち上がり、男に歩み寄った。「お前は蝶を守る限り私に味方すると言ったな。」
男はわずかに頬に笑みを浮かべかけたが、低く言った。
「ひと月、こらえてくれ。」
空から白く淡い光線が漏れ出し、徐々に澄んでくる闇と相対して、少女の青みを帯びた艶やかな髪とほの白い額、対称に弧を放つ眉の下の大きな瞳を描き出した。男はふと目を逸らせた。
「好きな仕事をして、心を静かにしていてくれ。」
少女は小虫が葉を食む音に耳を傾け、不安げに言った。
「もし、守れなかったらお前は―――」
「守れ」男は短く言った。
少女は途方に暮れて北の彼方を見据える男の顔を見た。“白糸束”に戻ってからイナ・サラミアスを己と一体と見なすことをやめ、ただこの場を、閉ざされた避難所として籠っていた。が、この男がもう三度も出入りしたのを見過ごし、今も追い払う事さえできない。この場はこの男から身を守ってはくれない。そしてもし、この男が味方でなくなったら―――。
沈黙の中から別の音が湧いてくる。少女は耳を押さえた。もうひとつの目覚めが連れてきた、この男には聞こえない音、見えない光景が身内で大きく形をとりはじめる。かつて来た者たちだ。彼らがまた来るかもしれない。ティスナまでも来たのだから。ずっと以前に。
「蝶を守れ、サラミア」男は振り返り、言った。先ほどとは打って変わった、初めて谷に降りてきて矢を見せた時と同じ居丈高な口調だった。
「蝶を奴らから守らないなら、いいか、おれが奪っていくからな。」
少女は後ずさり、水に囲われた窟へと身を返した。月光に浮かび上がる沈下橋の下で水は流れを止め、 静止している。少女は水辺に膝をつき、力を求めて水に手を伸べた。怯えた顔の背後に静かに男の影がぴたりと迫った。
少女の前に水鏡は冷ややかな面を表した。
水鏡の少女は彼女の声で彼女を罵った。裏切り者と呼び、力を貸すことを拒んだ。その目が鏡を通じて男の眼光とはっしと出会った。
夏の半ばから薄靄にくるまれたまま過ぎた二月は、田の実りばかりか木々の果実にさえ乏しい恵みをしかもたらさなかった。葉は紅葉を待たずに褪せて皺み、青い実をのこしたまま地に落ちた。
新しい月が上弦になる頃、ハルイーは兄にだけ出発を告げた。
「鉄か。」
ハルイルは深い敬意を込めて弟を見、それから首を振り、心情を吐露した。
「今はそれどころではない。」
何を保証する言葉もない。ハルイーは黙って兄の前で鴨居の弓を取り、矢筒を負って家を出た。
翌朝、ティスナを訪ねると、合図を聞いて湖の北側まで回ってきた娘から絹を受け取った。絹を織りあげた女は産褥についていて来られないのだという。
「神蚕の繭が出来たわ。もう蝶が出て来そうよ。」少し離れたところから守女が来ないか見張っている仲間の様子に目をやりながら、娘は目を合わさないようにして付け足し、小走りに村へと帰って行った。
ハルイーは包みを開いて少し反物を広げてみた。白くしなやかで早春の朝の雲のように艶やかだ。申し分ない。包みの端を閉じて背負い、その上から外衣を羽織った。
秋の初めからコタ・シアナにやって来るクシガヤの舟は減っている。上流では河の水位が下がり、つながった洲が現れている。が、歩いて渡れるにはほど遠い。オルト谷の南端の峰の突端でハルイーは口笛を吹き、舟を待った。ようやくやって来た男にハルイーは船賃として矢を一本差し出した。湿地を避けて少し北に上がった岸に下り、鬱蒼とした堤を登り、森の中へと分け入った。西へ進めばコセーナからタシワナまで延びた道がある。その中ほどには、さほど遠くないところに宿を請える農家もある。しかしハルイーはシアナの森のなだらかな丘陵をそのまま横切っていった。夜にはコセーナの領内に入り、荘を取り巻いてのびる道の近くにたどり着いた。
夜明けになると待ち構えたように荘の東側の道に入る。そのあたりには少し木立ちの中に入って丸木で造った背の低い住居が連なり、住み着いている季節雇いの作人たちがそろそろ起き出して共同の炉で炊事の火を焚きだしている。道に現れた人影にふたり三人と振り向き、互いに寄り合い、窺う。
「ハルイーじゃないか」ひとりのヨレイルの男が声を掛け、寄って来た。
「夏にここに来ていたらしいな。館の方に」眩しげに高台に整然とめぐらされた高柵を指差した。
「用事か?食事は?」
「ありがとう。急ぐんだ。」
「麦蒔きが終わったので、この間から祭りに行く者は支度で騒いでいた。」男はあたりの静かな戸口を手で示した。
「今日はもう前のところで集まっていて、殿様の支度が整って皆でアツセワナへ出かけるのを待っているのさ。」
「早いじゃないか。」ハルイーは呟いた。行きかけるところを、物珍しげにその様子を眺めながら男は言い足した。
「ひと足早く出た連中もいたね。そちらは舟だ。怪我人が、北の道は車じゃ揺れる、傷にこたえて嫌だと言ったとかで。」
「怪我人?」聞きとがめてハルイーは振り返った。「それは預かっていた客という事か?」
「あんたの方が詳しいのじゃないのかね、殿様と話をしたくらいなんだから。」男はやや不満げに言った。遠巻きにしていた者たちがひとりふたりと道の下に寄って来る。
「怪我人と他に男がふたり」
「それに子供。」
「子供!」
「イーマの男の子がひとり。」寄って来た者たちは互いにうなずきあった。
ハルイーはそのまま道を北に辿り、通用路から東の門へと走って行った。門を叩くと直ちに開き、門番が広間へと案内した。旅に際して片付けられた広間に領主と妻が旅支度を整えて待っていた。ハルイーの姿を見ると領主は馬を正門の前まで引いて来るように従者に命じ、自ら歩みよって来た。
「ヒルメイのハルイー、待っていたぞ。アツセワナから再三、客人の引き渡しの催促があってな。引き延ばす口実もそろそろ尽きたので、南北の同胞と連絡を取り、幸い予定より早い出発を承知したので、こちらの用意もあなたの荷が来るばかりになっていたのだ。」
ハルイーは片側が開いた扉口から一歩入り、そこに立ちふさがったまま言った。
「絹はここにある。だが、アーラヒルの子を返してもらうのが先だ。」
シグイーは姿勢を変えずに落ち着き払って言った。
「私たちを信頼して荷をわたしてくれないか。」
「約束が違う。」
若い領主の妻はそっと夫に歩み寄った。
「殿、申しましたでしょう。訳を話さないでどうして通じましょう?私たちを信じてもらったうえでようやく出来る話ですわ。それで得心がゆかなければまたその先の話です。」
血色の良い、ふくよかな奥方は、鷹揚な眼差しでハルイーに振り向いた。
「私たちはもちろんこの場であの子を帰すつもりでした。夕べあの子をここへ呼んで、あなたが来たら郷に帰れるのだと話したのですが、使節を送り届けるのが務めだから、と言い張りますの。郷の人の顔を見れば気持ちも動くだろうと一度室に帰しました。夜のうちに呼んでおいた舟が参りまして、わたくしが施療師に怪我人の付き添いを命じ、警護の者を手配いたしました。そうして準備をさせておりましたところ、オトワナコスから使者が参り、向こうの一行はもう発ったとのこと。上下のアツセワナ街道の結びの途上で合流すると取り決めておりましたので、こちらはあなたを待つ心積もりをしておりました。それが、もう出発だと誤って伝えた者がおりましたようで。使節の舟がもう発ったとうちの川番がやってきて申しまして。あの子も一緒だったそうです。自分から舟に乗ったのだとか。」
「どの道を通るかわかるか。」ハルイーはぶっきらぼうに尋ねた。
「もちろん。」奥方は茶色の目をひとつ瞬くと、物柔らかな口調からてきぱきとした調子に変えた。
「この館の脇のコタ・レイナの渡しからひとつ下の渡しまで下り、そこの道からはいくぶんなだらかですので車です。エフトプ行き、コタ・ラートの“中の橋”行きの道の、ちょうど間に自営農の家が一軒ございます。そこの主が迎えにまいりますので、その家で今宵は一泊しまして、あす、“中の橋”に迎えに来るアツセワナの者に使節の三方を預ける予定です。私たちもすぐにその後から橋を渡り、アツセワナに入るのです。橋の前で落ち合えますから、付き添いもつけてきっとイナ・サラミアスまであの子を送り届けますわ。」
「あなた方は橋までどの道を行かれる」ハルイーは尋ねた。
「正門から出てコタ・レイナ橋をわたり、北から下りてくるオトワナコスの一行と合流し南に道を取り、コタ・ラートの中の橋へ向かう。その途上でエフトプと合流する予定だ。」領主シグイーが妻の後を引き継いで言った。
「妻の言う通り、責任をもってヒルメイの子供は返す。混雑する橋の前で荷の受け渡しは避けたい。重ねて言うがここで預けていってくれ。」
領主とハルイーとはじっと睨み合った。「本物の絹なのだろう?」ややあってシグイーは気軽に言った。ハルイーはその場で外衣の下から荷を抜き取り、シグイーの前でさっと二尺ばかり引き出して見せると、すぐに巻き上げ、またしまい込んだ。
「これはシギルとの約束の絹だ。だが、あなたとの約束は絹とアーラヒルの子ガラートとを引き換えることだった。私は約束をたがえる事はしない。ガラートがシオムという男との約束を守るために使節について行ったのなら、私はその意地に付き合ってやってもいいが、あなたが約束を破るのは我慢ならないんだ。」
「殿、この方に任せましょう。私たちは忘れずに橋のところで荷を受け取ればいいではありませんか。」
奥方は微笑みながらシグイーの腕に手を置いた。「仕方ありませんわ。義理堅い方々ですもの。さ、馬に乗りましょう。皆が待っています。」
ハルイーは広間の敷居を出ると、領主夫妻に振り返った。
「先に出かける。コタ・ラートの“中の橋”で。」
「そこで落ち合おう。」領主はやや冷ややかに答えた。「約束が果たされんことを。」
奥方は出立後に扉を閉めるように命じ、領主と並んで引いて来られた馬に跨った。その後をふたりの従者が従った。広場で待っていた三頭の荷馬と馬方、祭りに同行する職人や作人、自営農たちや彼らが市に持って行く羊や牛が続けて門を出た。旅に出る全ての者が跳ね橋を渡り終えると、門番は橋を上げて門を閉じ始めた。
先頭を行く領主が西へと伸びる公道に差し掛かった時、ハルイーは既にコタ・レイナの橋を渡り終え、南側に耕地が開かれた見通しの良い道を走っていた。領主夫妻が橋のはるか遠く、北のオトワナコスから下り交わる道にうごめく一連の人影があふれ出してくるのを認めた時、イーマの男の姿は耕地の向こうに南西に広がり始めた森林の一端の道上から忽然と消えていた。
少年は、夕べ暗いうちに館の西の舟着き場に移った。出発の合図をうけて、二艘目の舟に怪我人と施療師とともに乗り込んだ。ほどなくして下りた岸に農家の荷車が迎えに来て、明け方から昼過ぎにかけてを牛の引く荷車の後ろに付いてゆっくりと歩いて行った。北の道よりは起伏も少ないからという理由で取られた道だったが、明けてしばらくで道は公道を出、森林の中の轍があるばかりの農夫の通用路に入り込んでいった。
車輪は木の根を踏み、ぬかるみの固まったへこみにはまり、車に横たわった怪我人は呻き、毒づいた。親切な施療師は、知らぬ顔で牛を歩ませる農夫に請うて車を止め、怪我人の身体にあてがった詰め物を点検し容態を診た。二月というもの虜になっていたふたりの男は無言で車の後ろに付き従い、護衛のふたりは始終止まる車輪を動き出させる補助に忙しく、彼らに注意を払う余裕はなさそうだった。
イナ・サラミアスから突然連れて来られ、柵の内からほとんど出されなかった自分とは違い、コセーナから付き添う一行はこの辺りのことには通じているはずだ。だが、この寂しい道は怪我人を運ぶのに相応しかったのだろうか?時に車に手を貸しながら、少年は黙然と考えた。
怪我人はといえば、傷が快方に向かい、人心地を取り戻し、要望も言葉で伝えられるようになってからも、施療師に付いて来て介助をする少年には一切目をくれず、言葉をかけようともしなかったが、時折、夜の眠りの中で怪しい夢うつつの言葉を漏らした。一緒にいた男たちはそれを嫌がって付き添いを拒み、少年は彼らに代わって何度か夜を付き添った。
怪我人の口走る夢は、鉄の精錬の陽炎の中で垣間見たものと同じ光景だ。繰り返され、補強され、時折入り混じる怪我人自身の苦しい思い出の他は、もう細部にわたるまで変わることもない。
その中でゆうべから夢が変わり始めた。川面に揺られている時だ。まどろみながら話し始めた声を聞き、少年はどっと全身に冷たい汗が滲むのを感じた。痩せて突き出した頬骨にぴったりと張った黄土色の皮が引きつり、皺んだ瞼が震えたと思うと唇が横に引き、歯の間から息が漏れる。声は男の声だったが、囁くような声色、言葉の旋律、心の惑いは少女そのものだった。傍らの施療師は顎を胸に垂れて深く眠り込んでいる。少年はひと呼吸つき、再び怪我人に目を落とした。水音に従って揺らぐ月の波紋の中に、初めて見る光景が重ね映った。
石柱の足元の水は滞り、月の浮かんだ波紋を鈍く震わす歪んだ鏡だった。風の凪いだ森から、窟の石の天蓋からはたはたと短い暑い風を送る無数の羽根が白い鱗の壁をなしている。水辺に座った膝元に一片の白い影が舞い降りる。沢の下から飛んできたのだ。ここで生まれた蝶ではない。立ち上がると頭上から驚いた幾らかの蝶が、瞬時湧きあがるように発ち、少し間を置いて静まる。
花崗岩の上を渡り、水門を閉ざした堰の下の枯れた沢へと下りて行く。下からひとひら、ふたひらと蝶が飛んで来ては髪へと肩へと初めに来たものに加わる。耳元に羽ばたく蝶の唸りが切ない訴えの囁きとなる。
「お前はどこで生まれた?」
褪せた黄色に変わったイスタナウトの葉は沢べりですっかり落ち、細った梢の差し掛ける天蓋が蒼白い石の枯れ沢の上を奥へ奥へと麓までみちびく。頬から側頭へと風は流れ、蝶はこらえきれずに足を放した。下から開けてくる湖面の景色、崖沿いに微かに灯る火、風に混じって何かが匂う。絹の香に混じる、洞窟の奥に漂うのと同じ匂いが。
「死の匂いだ。」怪我人はふと目を開けた。目蓋の下で虚空を見つめる目元に苦悩の表情が浮かび、絞り出すように高い声が発せられた。
「蝶が煮られる!」
怪我人はそれきり目を閉じ、また眠り始めた。舟を下ろされ、迎えに来た農夫の車に運び込まれる時には毒づいたが、日が昇ってからも眠りはじめるとまた同じ寝言を繰り返す。
夢の意味の分かるものは自分の他にはいない。少年は外衣の下で拳を握りしめた。コセーナで迎えを待たずにこちらについて行くことにしたのは義務の他にこの男の夢が気になっていたからだ。だが―――。
彼は、心細げに再び横切る流れに車輪をとられて傾ぐ車の荷台を見つめた。この旅が進めば進むほど、一向に帰途に向かうようには見えないのだ。
コセーナからアツセワナに通じる道は、オトワナコスから下って来る道の合流点の西で二手に分かれ、コタ・ラートの上流、下流それぞれにかかる橋を経て、丘を環状に巻く街道から放射状にのびる道へとつながっている。上流の橋はイビスに近く、下流の橋はアツセワナの入り口に最も近い。
オトワナコスの北側の山脈から水を得て生まれ、またコタ・イネセイナと同じ系譜の水をも引き継いでいると言われる“背の君の川”コタ・ラートは“愛し妹の川”コタ・レイナよりも広い河原と太い水流を備え、弓なりに大きく西へと湾曲した河沿いには氾濫を防ぐための幅の広い土堤が築かれ、その上を道が通っている。東岸の緩い丘陵の裾から向こう岸の土堤にかけて、石を積んだ迫持ちの橋が架かり、その下を黒々とした水が流れる。
公道から橋のたもとまでを見張る森の木の陰に、ハルイーは東からやって来る者たちを待った。
雲に隠れたイナ・サラミアスから明ける鈍い朝は、硬い葉の繁る森の道の見通しを悪くしていた。ハルイーは幾度となく橋の上と道とに交互に目をやった。橋の上に人影が現れるまでには交換を終えておきたいものだ。
車の軋る音が聞こえる。ハルイーは思わず道の向こうを透かし見ようと身を乗り出した。彼のいる道沿いの藪の奥から、音もなく明るい色合いのものがすっとすべり寄って来て止まり、話しかけた。
「あなたらしくもない、ハルイー。道を出たり入ったり。向こうから丸見えだよ。」
ハルイーは振り向き、驚きと安堵の声を上げかけ、背をかがめて木立ちの中に身を引いた。
「二月ばかりで背が伸びたな!コセーナは栄養が良かったか。」
少年はちょっと目を丸くしてはにかんだように笑った。
「お前の連れは?見張られていないのか。」
「どちらが?」少年は気丈に言った。「見張っているのは僕で、約束の成就に近いからひと息入れているんだよ。」少年が見やった道の奥の方から牛に牽かれた荷車がやって来る。「ハルイー、隠れていて。彼らはもうほとんど僕を見張ってはいない。が、あなたはあまり見られない方がいいと思うんだ。特に使節には。」
少年が散策を楽しむかのように道の際にそぞろ歩く横を、荷車は通り過ぎて行った。少年はその後ろにそっと加わり、ハルイーに手招きした。ハルイーは少し離れながら森の中をついて行った。彼の背後の方で木々の間を縫って大勢の賑わいが聞こえ始めている。蹄鉄が石を打つ音に軽い話し声、馬や羊の声さえも遠くの方から入り混じる。コセーナ、エフトプ、オトワナコス三郷の旅の一隊が近づきつつあるのだ。
コセーナの一行が早ければいいが。領主とどこか目立たぬ所で会わなければ。
荷車は森を出て橋のたもとまで行って止まった。農夫は牛の引き綱を持ったまま橋の上を見ている。警護は車の両脇に控え、施療師は車を降りて、怪我人の準備を整え、使節ふたりに怪我人を支えるための介添えを指示している。ハルイーは急いで後ろから近づいた。ガラートは車の後ろに控え目に立ちながらも、ついついコタ・ラートの太く広らかな流れと大きく開けた空、切り均された土堤と長く堅固な石の橋に魅せられて立ち尽くしている。ハルイーは少年の後ろからそっと声を掛けた。
「あまり前に出るな。ここまで来れば十分だ。おれにはお前と引き換えに領主に渡すことになっているものがある。」
少年はハルイーに振り返りかけ、ちょうどその時に橋の上から響いた別の声に呼び戻されたかのように止まった。
橋の真ん中を騎馬が進んで来る。胸にアツセワナの使者の印の帯を袈裟懸けにしている。
「アツセワナの宰相トゥルカンの使いだ。コセーナに逗留していた家臣三名をお引き渡し願いたい。」
コセーナの者たちは立ったまま、気がかりそうに道を顧みた。森の奥から現れた一隊の騎馬の先頭にはコセーナの領主シグイーの顔が見て取れるほど近づいていた。シグイーは何か先のことに気付いたように顔を厳しく引き締め、少し馬を前に急がせた。車から使節ふたりに抱え下ろされたサザールがしわがれた声で何かを叫んだ。
「助けてくれ。早く引き取ってくれ。我らは虜だ。」
使者の後ろからたちまち数名の者が駆け出して来て、橋のたもとまで両脇を支えて運んで行った使節ふたりの手からサザールを引き取り、橋の上に用意された担架の上に運び去った。その後ろをふたりが後生大事とばかり追って行く。後ろからシグイーの大きな笑い声が森を震わせた。
「あれを見ろ。トゥルカンの遣わした使節とやらの行儀を。みっつの子供でもする別れの挨拶もなしとは。」
誰も笑った者はいなかった。事情を知らぬ郷の者たちは異様な出来事に戸惑い、囁きあった。「そんな時ではないのだ。」ハルイーは呟いた。
虜三人を奥に引き入れ、アツセワナから来た使者の一隊はたちまち橋の前面に並んで進み、槍を交差して道をふさいだ。森の奥から橋の前へと出て来た人々は次々と立ち止まり、茫然として馬上の領主を振り返った。
「祭りの安全と治安を守るために検問を行う。橋を渡る者はひとりずつここを通られたい。荷駄は全て目を通す。領主の方々も例外ではない。ご婦人の手回り品もですぞ。」
馬上でシグイーの顔色がさっと変わった。その頭が素早く周を見回す。
ハルイーは唇を噛み、さっと身をかがめて少年の腕をつかんで囁いた。
「来い。」
少年は驚いて振り返った。
「領主に挨拶を……」
「いいから来い!十分だ。」
少年は、橋の前へとじりじりと詰めかける人々に押されて慌てて荷車を脇に退かしにかかった農夫と道中の仲間たちの傍らから、そっと抜き足して藪へと滑り込んだ。
「ついて来い。」藪の下にかがんだハルイーが手招いた。
ふたりは少しづつ道から離れるように姿勢を低くして進み、道上から隠れて見えなくなる小川の土手の陰に入り、息をついた。まださほど遠くない道の上では、訝しんでかわす人々の声や、列になろうとする物音がはっきりと聞こえてくる。
「お前と引き換えに渡すはずだったものが先延ばしになった。」
「何の話ですか。」
「もう少し先に行こう。」
ふたりは土手の丈高い草の陰を遡って森の奥へと進んだ。人畜のたてる全ての音が遠のき、虫の細い音と静寂のみが辺りをつつむようになって初めてハルイーは立ち止まった。
「あのシオムとかいう男は、使節の引き渡しを見届けるのがお前の役目だと言っていただろう?」
ガラートは頷いた。
「見せかけなんだ。あいつは絹の形にお前をとった。これがそうだ。」
ハルイーは外衣の下から包みを引き出し、少し開けて見せた。絹地の滑らかな肌つきと光沢に驚く少年にハルイーはトゥルドを通して秘かにシギルと交わした約束について打ち明けた。
「コセーナの領主にこれを渡せば彼がこれをシギルの手元に届けてくれるはずだった。おれはコセーナでお前を引き取り、帰れる予定だったんだ。だが、お前は自分で使節の形だと心得てここまでついて来た。そしてここでは絹を渡し損ねてしまった。いや、渡すわけにはいかなかったんだ。トゥルカンの奴、シギルの目論見を見抜いて、勝負の品がその手に運び込まれるのを阻もうとしているんだ。」
「絹だと知って?」
「いや、わからんが……」
「もう他に方法は?」
ハルイーは、トゥルドの人の良い朗らかな顔と、その手が“誓いの洲”の砂の上に描いた図を思い出した。
「最後にシギルに会う者にトゥルドがいる。あいつはひと月以上前からもうコタ・イネセイナのこちら側にいてイズ・ウバールで鉄の最後の仕上げをしている。彼の手に託す他はない。」
「彼の通る道筋と日程は分かりますか。」
「ニクマラの一行に紛れて入ると言っていた。アツセワナに向かう最も南の道だ。」
「コタ・ラートの向こう岸には森がほとんど見えなかった。」少年は橋のたもとで驚きに打たれながら見た景色を思い出しながら言った。
「その道筋に彼が身を隠せるような所は?」
「ニクマラのすぐ西側まで暗黒の森は迫っている。南の街道はニクマラから六町ほどはイズ・ウバールに連なる森の中だ。このどこかで旅の一隊が通るのを待つだろう。満月の前夜までもう四日だ。ニクマラも二日後には出発するだろう。明日中にはニクマラまで行きつきたい。」ハルイーは少年を見た。
「明日の朝、エフトプのコタ・レイナ側で舟を拾う。お前にも見つけてやるからイナ・サラミアスまで帰れ。」
「僕もあなたと行く。」少年は明るい金褐色の外衣をまとった胸を張ってきっぱりと言った。
「あなたの首尾も見届けずにひとりで帰って行って大人たちに言い訳が出来るものですか。それにふたりいた方がいい場合もある。あなたに比べれば目立たないし隠れるのも上手だ。」
「母上に申し訳ない。」ハルイーは目を逸らし、呟いた。
少年は笑った。「今さらなんです、二月前に直に母に言ってほしかったよ。ハルイー、行こう。早い方がいいんでしょう。」
ハルイーは諦めて首を振った。彼は絹を少年に渡し、目立たぬように外衣の下の胴に巻くように言った。人と出会ったときに荷は手に持っていない方が良い。
コタ・ラートからさほど遠くない森の中を、下流のエフトプを指してその日は日暮れまで歩き通した。小高い、小さな丘陵地に差し掛かり、ふたりは西側の斜面を少し上り、木立ち越しに垣間見えるコタ・ラートと、その堤のはるか奥に薄暮の中に広い丘の上に並んで明滅する灯りを見た。
「アツセワナの灯だ。もう少し暗くなると中程より上にちいさい並んだ灯が見える。城壁だ。」
ハルイーは少年に言った。少年は夢見るように目を細めた。
「行ってみたいか?」ハルイーは尋ねた。少年はややあってかぶりを振った。
「あなたとは違うよ、ハルイー。あの一里もの城をこの目で見られたのは嬉しいけれど。」
ふたりは丘陵の反対側に回って下り、三方を低い丘に囲まれた森の中で野営をした。
「食糧が無い。」ハルイーは火を熾しながら、薪を拾って来た少年に言った。「明日、エフトプで手に入れてやる。」
「椎の木があるね。」少年は座りながら隠しから拾った木の実を出して見せた。「暗いのであまり見つからなかった。だけど食べるものは少し持っているよ。舟に乗る前にもらった。」
わずかな食べものを分け合うと、ハルイーは焚火の番を代わるまでの間眠るように少年に言った。
少年は乾いた松葉をかき寄せた上に横になったが、音をたてぬようにひとつひとつ枝をくべながら燠火が赤い光を放ち始めるのを眺めていたハルイーが目をやると、少年の睫毛の下でまだ瞳が火影を映して輝いていた。少年はハルイーに気付くと起き上がり、外衣の中で膝を抱えた。
「ハルイー、あなたが夏に出かけている間に、オルト谷ではあのサザールの要望で鉄を作ったんだ。」
ハルイーは頷いた。
「誰かからあの時起こったことを聞いた?」
「兄からあらましは聞いた。」
「長老たちからは?あのサザールがタナにどんな振る舞いをしたか。幻の事は?」
「幻?」
ハルイーはどうでもいいことのようにおうむ返ししたが、手にした枝を全部火に放り込んでそっと少年を窺った。少年は膝先を見つめ、ためらいながら話し始めた。
「見たのは僕だけだろうか?いや、長老たちは見たはずだ。アーメムクシの顔色があんなに変わったんだ、あれを見たのでなくてどうしてそうなる?そして“掌”と同じ質の幻なら、山の精がそこにいる者に働きかけて心の内を暴き、それを形象にしているんだ。だから、アーメムクシは見たというよりも見せたんだ、心ならずも。しかし、タナの他に誰が山に成り代わって人々に命令できる?あの時、タナはむしろサザールに命令されていた。
「初めに出て来たのは“掌”で見たものと同じだった。妹神の山、ベレ・イネの裾に広がる荒れ地で、いにしえのひとりの男が長葉の石を拾っているところだった。次にその男の子孫と見える若い男が出て来た。首にその石を鎖で下げ、山腹の、深い穴の開いた地面の前で他の者たちと穴から汲みだした水を運んで働いていた。サザールの顔だった。彼を、身形の良い別の男が連れて行った。
「そこまでは、タナがサザールの心を暴いてみせたのかもしれない。突然、尋常でない風が吹いて鞴が壊れ、鉄の生成は無理だと思われた。タナがベールを取って姿を現した時だった。だが、サザールは侮辱するようにせせら笑い、タナに風をおこすように命じた。タナは苦しそうだったけれど、彼女が息を吐くと谷に風が通い、炉の火が大きく燃え上がったんだ。今度はその燃え上がるほむらの上に、また幻が―――月の光が照らす高地の寂しい岩場で、矢で射殺される若い男女の姿が見えた。タナによく似た顔だち、そして、どちらも僕とそう変わらない年頃だった。
「そして最後のは最もひどかった。あなたも聞いただろう、あの出来事の時だ。サザールが炉を壊し、鉄の塊を引っ張り出したとき―――僕がそうなれば良いと願ったかのように―――石が落ちてきて炉を砕き、熱い火の液が川まで流れ出て蒸気が上がり、その中にまた幻だ。ティスナの上のコタ・ミラだ。男が決して行かないあの場所に今より若い水、土、風の長老たちがいた。もうひとり、僕の知らない、しかし厳めしく相貌の秀でた男が命令を下し、アーメムクシがそれに従って川に赤子を捨てていた―――。」
少年は顔を上げた。
「あの男は誰なのです?どれも起こったのは僕が生まれる前のことだ。そして、あのサザールというのは何者だろう?タナに命令さえした男。タナは彼を妹神の末裔と呼んでいたけれど……」
「アーラヒル。」ハルイーは突然言い、少年から目をそむけたまま、早く寝ろ、と叱りつけた。
横になりながら、ガラートはハルイーが東に顔をやり嘆息するのを見た。二月というもの、コセーナに滞在している間も毎日のようにイナ・サラミアスの峰にかかる雲を見ていた彼にはハルイーが何に思いを巡らせているのか察せられた。
「サザールはコセーナで療養中、ずっとうわ言を言っていた。どれもあの幻のことだった。」ガラートは囁いた。ハルイーは片膝をたてて肘をのせ、頭をもたせている。眠っているわけではない。聞こえないふりをしているのだ。
「だけど、二晩前から違う夢を見だしたようだった。まるで女のような話し方で―――声はそのままながら、あのタナのような、まさに“白糸束”にいるタナのような口調で―――。」
「何だ?」
ハルイーは顔を上げ、険しい目で少年を見、急かすように顎をしゃくった。少年はふっつりと言葉を切り、目を伏せた。
「先に眠るよ、ハルイー。夜中を回ったら起こしてください。あなたが休んだら出発だ。なにはさておき勤めを果たさないと帰れない。」
少年は突然のハルイーの叫びで目覚めた。夜更けの闇に火は赤く熾り、低い姿勢から立ち上がって、闇の向こうから切り込んで来た者の腕を返してぶつかっていくハルイーの影が見えた。
少年は明かりの外へと転がって身を起こし、長い刃のぎらりと描く弧に竦んだものの、手につかんだ枝を得物に、加勢に飛び込んだ。ハルイーは足を払って倒した相手と地面でもみ合っている。相手は大きく、ハルイーを火に押しやりながら取り落とした剣を取ろうと手をのばした。
ガラートは剣を足で蹴りやり、次いで枝に替えてその柄を手にした。両手を添えて持ち上げ、火の傍で組み合っているふたりを見下ろすと、目をつぶって剣を後ろへほうり捨てた。
「下がってろ!」ハルイーは叫んだ。首元を締め上げられながら腰の短刀を抜き、相手の脇腹に刺し、緩んだ手の下から位置を逆に返して喉元にとどめを刺した。次の瞬間、自らも苦痛に叫んで短刀を取り落とす。押し付けられた右肩の後ろに火がついたのだ。
少年は恐ろしさに蒼白になりながらも、すぐに駆け寄った。そして素早く外衣の裾を広げて上から覆いかぶさり、身体を押し当てて火を消した。ハルイーは少年を突き放した。
「無茶をする!」ハルイーは怒鳴りつけた。「二度とこんな真似をするな―――絹を駄目にするところだった。お前に大事を預けてあるんだ、退いて隠れていろ」
「早く消さないと」少年は弁明した。「いい絹は燃えにくいと聞いたことがある。目の前にある大事のどちらを選ぶかでしょう―――?」
ハルイーは襲撃者の亡骸を離れたところに引っ張って行き、火の傍に戻って来ると、自分で傷の手当てをした。少年は面目を失って悄然とその傍らに立っている。
ハルイーは不機嫌に振り向いた。
「外衣に焼け跡をつけたな。」彼は冷たく言った。「兄が着るはずだったものだ。」
少年の顔がさっと赤く染まり、見開いた目が光った。
「ああ、そういうことか!」傍らに外衣を脱ぎ捨て、火の横に座り、膝の上に両腕を組んだ。
「休んでください、ハルイー。交代だ。」
ハルイーは鼻を鳴らして立ち上がった。
「外衣を着ろ。もう出かける。こんなところで眠れるものか。」
「休まないのですか」
「エフトプで舟に乗ったら眠る。」ハルイーは外衣を拾い上げて差し出した。少年はさっと背を向け、薪を散らして火を消した。
「寒くはないよ。腹が立っているから。それに歩けば暖かくなる。―――着るよ。あなたが忘れた頃にね。」
薄い月明かりを頼りに、ふたりは南の丘陵の裾野を巡るようにして、東へ回って行った。野営を襲った者が盗賊なのか、命を受けて旅人を見張っていた者なのか定かではなかったが、コタ・ラートの河筋にトゥルカンの配下の者が監視しているのは想像に難くない。エフトプで拾う舟も、コタ・レイナで見知った舟頭を見つける必要があった。
幸い夜明け前にたどり着いたエフトプの東の渡しで、昔なじみの舟頭に出会い、乗ることが出来た。
「この頃知らない奴が増えた。」
珍しそうに明るい朽葉色の外衣をまとった少年に目をやり、舟頭は舟に載せていた食べものの蓄えを少し分けてくれた。
「コタ・ラートを上ったり下ったりしているが積んでいるのは空荷だ。人目のないところで近づいてきてあれこれ訊いたり、場合によっては二艘で舟の足をとめて荷を調べるそうだ。」
「ピシュ・ティからニクマラにもそんな奴はいるか?」
「ああ」
「じゃ、そいつらには近づかないようにしてクマラ・オロまで出て、ニクマラの近くで下ろしてくれないか。」ハルイーは言って考え、付け足した。「湿地の抜け道をつかって。」
「ニクマラの“鳰島”でいいか。」
「ああ。」ハルイーは答えるなり舟に横になり、明けてきた光を遮るために外衣の袖で顔を覆って眠った。
舟は“夫婦川”を葦原の間を隠れるように進んだ。ピシュ・ティに着くころにハルイーは目を覚ました。舟頭は本流に乗れない旅の疲労をこぼした。ハルイーはクマラ・オロに出るまでの間、舟頭と漕ぎ手を代わった。
午後間もなく、舟はクマラ・オロの西岸に近づいた。広い水の上にも慣れ、ハルイーと舟頭が交互に櫂を操るのを食い入るように見つめていた少年は、西の水上に横たわる切り石の壁が現れたのを見て、背を伸ばした。
少し小高い丘地を左右を森に囲まれて、ニクマラの郷は水上に打った杭の上から丘の頂上まで石を積んで作られている。近寄っていくと滑らかな灰色の切り石はそれぞれに赤みや白み、黒みを帯びて、木の桟橋から丘へと登る階段、壁、露台、見張りの塔などを作っている。桟橋には大小の舟着き場が備えられ、番小屋があり、人の姿も見える。
「コセーナよりもエフトプよりも大きい」少年の興奮した呟きをよそに舟は見張りを避けるように郷の東端を回り、岸辺に広がる葦の原の中に進んで行った。ピシュ・ティの周辺同様、葦と砂州の間に細い水路があり、舟頭たちの他には知られていない隠れ家、避難所へと通じているのだった。
葦原の中の、小さな庵を備えた浮島の横を通り過ぎ、舟の下に泥の層が迫り、湿地の上に、上を平らに削いだ丸木を並べてつくった道に舟頭は舟を泊め、ふたりを下ろした。
「ハルイー、帰りに舟は入用かい?」舟頭は尋ねた。「今晩、それとも明日に?」
「いてくれるとありがたい。が、明日も午後になれば他のを探すさ。」
ハルイーは矢を二本差し出した。背に負った矢筒はだいぶん軽くなっている。少年は目を丸くしてそれを見守った。
湿地の木道はまばらな木の間を通り、やがて地面は固く、丈の高い木々の森に入って行った。
「ハンノキにトネリコ。」少年はあたりを見回した。「コセーナにはニレとカシがたくさんあった。クマラ・オロから見たニクマラ・ガヤは周りを緑の木に囲まれていた。何の木だろう?」
「この先イズ・ウバールに行けば年中葉をつけた樹が多くなる。ナラやカシの大木。コタ・イネセイナの近くにはモミの木も多い。藪が少なく、森の下は開けているが、日が射さず昼でも暗い。」
ハルイーは言い、少年が身にまとっている明るい外衣に目をやった。イナ・サラミアスの色づいた藪の中では見事に着ている者の姿を隠すだろうが、青黒い森の中では目立ってしまう。
お前、おれのと取り換えないか―――言いかけて、ハルイーは黙った。せっかく機嫌を直したものを。そのままにしておけ。
「ニクマラ・ガヤの領主はいつ、アツセワナに向けて発つのかな。トゥルドはもう、こちらに向かっていると思う?」
「明日にはニクマラの者たちが発つだろうから、彼も今日中にはこの近くに来て待つはずだ。」
「もともとここで落ち合う約束はなかったのだから、僕たちの方から人目を避けてやって来る彼を探し出さなくてはならないわけだね。」ガラートは空の明るさと行く手の暗い森の中を見比べながら言った。「そのニクマラの街道の向こうまで行って彼を森の中で見つけられるかな。」
「そうしておく方が安心だろうな。」ハルイーは同意した。
ふたりはニクマラ・ガヤへと登っていく森の斜面を少し上がり、低地の方を見張りながら街道に行きあう北へと進んで行った。一時と経たないうちに、目の前に土を突き固めた広い道が広がった。左側の丘から下ってきている幅六尺ばかりの道につながっている。ふたりは道の東側を一町ばかり辿り、道を渡って、西側を折り返すように調べた。
「まだこの近くには来ていないようだ。」ハルイーは、開けた道の周囲に油断なく目を配りながら言った。「この先は広い。うっかり先に進むと行違うかもしれない。」
「ハルイー、何かくる。」少年は、丘近くまで戻って来た時に森の西の奥を見て指差した。「人じゃない―――馬だよ。」
ふたりは木の陰にそっと身を潜めた。黒ずんだ木々の陰に、ほの白く斑のものが途切れ途切れによぎりながら、少しずつ近づいてくる。
「轡と荷がついている。」
「人は?周りにいるはずだ。」
引綱は顎の下に垂れ、地面を引きずっている。時折首を振り、飛び上がるように肩をいからせて駆けた。ガラートは馬をじっと見つめて言った。
「コセーナの馬だ。たてがみを編んである。」
「コセーナの馬に逃げられた奴をひとり知っている」ハルイーは呟いた。「どうもそのようだな」
ハルイーは馬に声を掛け、少しずつ近づいて行った。馬は横目で見ながら小刻みに距離を置いていたが、最後にはハルイ―に手綱を取らせた。ハルイ―は馬の背につけられた荷を上から触って調べた。
「荷は正しい。袋の中にモミの葉を詰めてあるが、その内側には鉄が入っている。荷主はどこだ?」
馬が現れてから長い時間がたっていたが、馬の主の姿は見えなかった。
「馬がただ逃げ出すとは思えないな」ガラートは馬のたてがみを撫でながら言った。
「馬具はきちんとついているし荷主にも慣れていたはずだ。」
ハルイ―は馬の足回りを調べ、蹄の周りにはねた赤みがかった泥を見、やって来た方向を眺めた。
「丘の麓の土手を横切ってきている。それより向こうで何かあったな。昨日のような奴に襲われたのかもしれない。」ハルイーは少年に手綱を渡した。「コセーナで馬を引いた事はあるか。」
「何度も厩に入れたよ。」少年は簡潔に言った。「どこで待てばいい?」
ハルイーは馬の葦毛の毛並みを見て言った。「ここではその毛色は目立つ。」
「低地の藪の中だね。」少年は言った。
ハルイ―はトゥルドを探しに出かけ、ガラートは馬の手綱を引いてゆっくりと道を戻った。馬の首をそっと叩き、話しかけながらニクマラ・ガヤの丘を右手に戻り、少しずつ東の方へと下って行った。
丘の裾野を下りて行くと、コタ・ラートに沿った長い丘陵との間に浅く広い窪地があり、中央には小川が流れ、その周囲には枯れ草と落葉樹の藪が広がっている。ガラートは淡い黄に色づきはじめた林の下へと馬を導いて行こうとした。そしてぴたりと歩みを止め、引き綱をめぐらして森へと向きを戻した。小川の傍にこちらを向いて立つ人影が見えたのだった。
気付いていなければいい―――胸が早鐘を打ち始めた―――馬を待ち伏せていたとは限らない。自分のこともただの旅人だと思うだけかもしれない。ただ、こちらの慌てた様子さえ見られていなければ。
ざくざくと草を分ける馬の歩みに紛れ、近づいて来る者がいる。馬の胸ほどの草丈に窪地の上の見通しが悪くなっている。
馬が鼻を鳴らし、首を上下に振った。ガラートは馬の背を撫でながら引き綱を引き寄せ、静かに声を掛けて歩みを止めた。
目の前に立ちはだかっている男がいる。マントに防具をつけ長い剣を帯びている。薄色の目が少年の目と出会い、ちらりと合図するように動いた。少年が振り返ると同時に背後から腕が回って羽交い絞めにし、短刀が襟元に閃いた。少年が取り落とした手綱を目の前の男が取った。
「羽色の変わった鳥がかかったな。」男はじろじろと見つめた。「こいつはヨレイルか?他にも仲間がいるのか、ただの行きずりのこそ泥か。」
「イーマだ。」押さえつけている男が刃を上に向け、嘲るように言った。「まだ子供だぜ。馬を繋いで荷を調べろ。報告さえ済めば後は土産だ。」
「いちおう聞いてみるか。宝がひとつとは限らんからな。」
鉄か絹かどちらを守る―――鉄を見られてはならない。見られなければまた機会はある。絹は黙っていれば分かるまい。ガラートは男の腕を手で剥がそうと爪を立てた。
「何もないよ、ただの―――ただの木の葉さ」
「木の葉だと!」男たちは大笑いした。「木の葉を袋に詰めてこっそり運ぶのか?待て、見てやる。もし嘘だったらひどい目に遭うぞ。」
男はガラートの顔の横で刃を返していきなり馬の荷に突き立てた。ざくっと食い入る刃の先で微かに鉄の触れ合う音がした。男たちの目つきがその音を聞きとがめたことを示し、わずかに緩んだその手を渾身の力で振りほどいてガラートは額の鉢巻きを解き、馬の目めがけて打ち振るった。
蛇のように飛んできた影に怯えて馬はたちまち跳ね上がる。
「行け!」馬の脇腹を力いっぱい叩いてガラートは叫んだ。馬は手綱を手にした男を引きずり倒して駆け出した。荷を背に積んだまま、狂ったように駆けて行く方角は湿地だ。やがて泥に足を取られ、荷とともに水の下に沈んでしまうだろう。
「すまない!」少年は叫び、地に膝をついて顔を覆ってむせんだ。「みんなそのまま、持って行ってくれ!」
背後から恐ろしい手がつかみかかり、両腕を引きずりあげた。
「この野郎、言わせてみせるぞ、何を隠した?」
馬に引きずられた男が激怒して剣を抜き、詰め寄った。気丈に見返す少年の顔を見つめると男は何かを嗅ぎつけたように片頬を引きつらせた。
「まだ何を持っているんだ?」
男の剣の切っ先が上がりかけた。と、鋭い唸りを上げて飛んできた矢が男の喉元を貫き、吸い込まれるように押し込んだ矢羽根もろとも後ろざまに倒した。
「その子に触れるとこうだぞ!」怒りに満ちた声を最後まで聞かせるまでもなく、二の矢が少年を捉えている男を射抜いた。男は前のめりに少年に覆いかぶさって倒れた。
「ハルイー、何て無茶をするんだ!」トゥルドが慌てふためいて駆け寄り、矢の突き立った骸を脇に押しのけ、うつ伏せて倒れている少年を抱き起した。少年は呻き、その左の頬から顎にかけて傷が開き、血があふれ出た。「大変だ。大怪我をしている。」
ハルイーは、傍らにさっと滑り込むと、少年の頬に手をあてがい傷をぴたりと閉じると、トゥルドに手を副えて傷を押さえろと命じ、少年の外衣の裾をまくり上げると、胴に巻いていた絹地を解きにかかった。
少年は目を開けハルイーを認めると、「馬を……馬を、僕は」言いかけて泣き出した。
「傷が濡れる。泣くな」ハルイーは叱り、トゥルドに残っている鉄はあるかと尋ねた。
「ああ、あります、あります。」トゥルドはどもりながら左手を隠しに入れた。「今となっては唯一つの鉄細工です。鋏がひとつ。使い勝手がいいので拝借して荷から取り除けておいたのが。」
「貸してくれ」ハルイーは絹を引き出しながらトゥルドの手から鋏を取り、反物の横から刃を当て裁ち切った。
「絹が駄目になる」少年は、純白の絹が広がり頬を包むのを押しやろうとした。「守ったのに―――」
「黙ってろ。」ハルイーは傷を押さえた上から絹地で包帯をしながら言った。
「ハルイー」ガラートは手を上げてハルイ―の腕をつかんだ。「言わなくては。あのサザールがタナの声で言ったんだ―――蝶が煮られる、と」
ハルイ―は最後のひと巻きで少年の口を塞ぎ、しっかりと包帯を結び、外衣で身体を包んだ。「動くな」少年に命じると、残った絹を巻き取り、トゥルドに差し出した。
「着丈には足らず、血の染みと土埃がついた。そして鉄を積んだ馬は湿地に飛び込んで行った。今ごろは泥の下だ。鉄と絹、ふたつながらまともなものは残っていない。これが今の状況だ。これから打つ手があるかどうかだ。」
「弁明にはなりませんが、証拠として預かっておきましょう。」トゥルドは溜息をつき、うなだれたまま受け取った。「シギルの負けは決まりましたね。あなたは繰り言にはうんざりだろうが、私は自分が許せない。荷を守らずに逃げてしまうなど。私は笑いものになるのも無一物になるのも構わない。だが、イナ・サラミアスの力になることはできなくなってしまった。」
ハルイ―は首を振った。
「その後生大事な足でもう一走りしてくれ。おれもそうするから。ひとつだけ絹の当てがあるんだ―――。満月にまで戻って来られるかは分からない。が、とにかくその鋏を持って品定めには出てくれ。今分かったが、そいつの切れ味は上等だ。それがもし勝てば、あんたはイナ・サラミアスの絹を指名できる。」
夕暮れが迫っていた。木々から透かし見える丘の上の城壁には明かりが灯りはじめた。
「今宵は一段と明かりが多い。」少年に肩を貸し、ハルイ―の後を従って湿原まで降りてきたトゥルドは言った。「いよいよ出発が近いのだ。明日か。それとも今晩か。」
「もう道のそばまで戻るといい。」
ハルイ―は浮島の横につけてある小舟と舟頭を見るとトゥルドに言った。「運があんたにあるように。」
トゥルドが身ひとつきりにマントをまといつけた格好で、辺りを窺いながら湿地の低木の藪の中を戻っていくと、ハルイ―は舟に少年を寝かし、舟頭に言った。
「あんたのこの隠れ家を丸ごと燃やし、その上、それを餌にして行儀の悪い奴らを呼び寄せることにするが承知してくれるか。そいつらの注意をあの男から逸らすためだ。」矢筒を下ろして舟にどんと立てた。「それ全部と引き換えに。」
舟頭は腕を組み、非常に厳しい顔つきで見返した。
「そりゃ、おれは鋼の価値は分かっているし、あんたがそうまでして頼むのはよくよくの訳があってのことだというのは分かる。あんたは軽々しく頭を下げる奴じゃないし、自分の後始末にちょっとでも人を煩わせるのを嫌がる男さ。だが、これはおれが長年使っていた家なんだ。金子で癒えるような痛みじゃないんだ。」
ハルイ―は弓を下ろし、小屋の茅葺の屋根の上に刺した。「これはおれの腕、おれの命。だが、シギルとの約束が果たせないのならおれにはもう無用のものだ。」
舟頭は黙って櫂を取り、舟首をクマラ・オロへと向けた。ハルイ―は小屋に火を点け、舟に乗り込んだ。
小屋が煙を上げ始め、闇に赤々と火が照り映えても、舟頭とハルイ―とは振り返らなかった。クマラ・オロの広い水上を長い漕ぎで進み、沖に出た頃、異変を見つけたニクマラの物見が鐘を鳴らす音が水上の丘の上に響き渡った。
「他に望みは?」舟頭は無愛想に尋ねた。ハルイ―は答えた。
「この子をいい施療師のところに連れて行き、イナ・サラミアスに帰れるようにしてやって欲しい。そしておれには小舟を一艘手に入れてくれ。」
コタ・シアナからクマラ・オロに流れ込む水は土に白く濁っていた。その水がついに闇に紛れる頃にクシガヤに着いた。コタ・シアナの民人は小高い丘に逃れて仮庵をつくり、川べりの桟橋には見張りをする者だけがいた。
「一昨日、イナ・サラミアスのクシュから報せの笛があった。」常には舟を仕舞っておく桟橋の下すれすれに強い流れが通っているのを指して男は言った。「急な大水があるかもしれぬ、丘に行け、と」
彼の小屋で短い休息を得て、ハルイ―は夜のうちに再びコタ・シアナに舟を浮かべた。霞むイナ・サラミアスは色の持たない姿を横たえている。姉神の泣き疲れた沈黙の中に、ハルイ―は微かに女達の歌唱の余韻を聞いたように思った。南の森は明けても白茶けている。黒ずんだ水の上をひとつ、ふたつと白い蝶の骸が滑り下って行った。コタ・ミラの川口であった。ハルイ―はオルト谷の口に着いて舟を陸にあげた。
沢筋の土手は痩せ、倒れ重なる木の下に水はまだらに土砂を流し続ける。雨がもう一息落ち着く前はどこが川かもわからぬ様相であったろう。
オルト谷を上まで登ってゆくと、かつて父と別れた中央の水脈の谷に橋が掛けられていた。春と秋にニアキとティスナを行き来する女達のために掛けられる橋だ。しかし、渡ろうと待っているのは、みな身籠ったお腹の大きな女達だった。ハルイ―が良く顔を知っている女達、絹を織ってくれた女達だ。彼女たちはハルイ―を見るとよそよそしく顔をそむけ、ある者は仲間の肩に顔を伏せて泣いた。橋の半ばにはひとりの壮年の男が立ち、ひとりずつ手を引いてこちらの岸に導いていた。橋の上の男は振り向いた。水守のメムサム、父との別れ際にやはりこの流れを渡るのを助けてくれた男だった。
「ヒルメイのハルイ―、お前の旅が何であれ、ここに帰ってきたなら伝えておくことがある。女達が渡りきるまでそこで待ってくれ。」
ハルイ―は立ち止まったが、流れを渡れそうな位置を探して上流を見回した。
日頃は温和な顔にほとんど感情を表さぬメムサムは、深い疲労を湛えて辛抱強く言い足した。
「急ぐのか。だが、聞けば心と足の向かう先が変わるかもしれんぞ。」
女達はひとりずつ渡り終えると男たちから少し離れて固まった。最後に橋を渡って来たのはメムサムの妻だった。メムサムは橋を降りたが、引き上げようとはせず、ハルイ―を手招いた。
「四日前のことだ。ティスナにとどまっていた女達が、南の物見に少女を遣いに寄越した。ティスナで女達の監督をしていた年寄りがひとり亡くなり、三人が重傷を負ったという事だった。女達は口を閉ざして詳しい事は話さない。が、鍋の湯を被った火傷がもとだという事だった。そして、女達はタナを恐れてティスナに留まることが出来ないというのだ。我々にようやく聞かされたのは次のような話だ。
「その前の晩、珍しく空が晴れて月が出ていた。女達は空気をきれいにするために岩室の蚕室の戸を開けていた。大きな蝶が九つ、月光に誘われて外に飛び出し、“白糸束”の方へと飛んで行った。と、間もなくタナが怒り心頭といった様子で上から駆け降りて来た。私の子が煮られた、と叫んでいたという。若い女子ども達は家の中に隠れた。タナは崖の岩室で糸を繰っていた年寄り達のところに行き、あっという間に立ち去って行ったのだという。女達が我に返って行った時にはもう惨事が起きた後だったそうだ。
「ニアキの評定を待つまでもなく、私は息子たちをティスナに向かわせ、子供と動ける者から避難させることにした。通年通りニアキに女達を迎えるだけでなく、今回は孕んだ者も受け入れようと。ニアキで大木達と主幹たちの意見は割れ、長老たちは一切の意思の表明をしなかったという。ニアキで子供を産んだ前例は無いと。
「我々は取るもとりあえず女子どもを南の森に避難させた。そのうちティスナを見て来た息子たちから報せが入った。クマラ・シャコの西の縁が崩れかけている。決壊すればコタ・ミラの下流で大水になる、と。私はクシガヤに向けて警報の笛を鳴らした。
「昨日、物見に大木、主幹らが集まった。この冬、女達をどこで過ごさせるか、家の用意と食糧の分配をどうするか。また、聖地に取り残されている巫女と守女をどうするのか。クマラ・シャコの調査のために慣例を破ってティスナに赴くべきか。私は当然それが討議されると思っていた。
「土守の者たちは母と赤子、孕んだ女をオルト谷の村に受け入れると言ってくれた。しかし、巫女をどうするかで激しく意見は割れた。どのようなことで割れたか分かるか?長老たちの前では誰も口にしなかったことだ。
「オコロイらはタナを神人とは認めぬと言い、この災禍のうち水難を収めることは出来まいが、老女を死に至らしめた罪の懲らしめにその身を食糧と交換に“河向こう”に引き渡すと言った。それに対し、私の従兄はタナは神人であると反論した。この災禍はタナが人に悪しき感情を抱いたためだ。赤子の頃の自らの境遇を嘆いているのだと。彼らは、タナが神人ではあるが厄災をもたらす悪い神になったと恐れているのだ。
「私も、お前の兄も、他の何人かも違う考えだ。だが、ほとんどの者がこのふたつの考えのどちらかにとらわれていた。タナが罪を犯したただの女か、生ける女神か。そしてこれほど正反対の意見でさえ、争いを回避するための落としどころはつくものだ。
「彼らは籤をつくった。辛いのはあなただけではないとサラミアを慰め、犠牲を哀れに思うなら災いをもたらさぬようにと警告する、クマラ・シャコの人柱を決める籤だ。そして引き当てたのは私の娘だった。」メムサムは離れたところに、倒木に敷物を掛けて休んでいる身重の妻を見やった。
「息子たちは話を聞くと娘を連れてティスナから“白糸束”に至る参道の森に隠れた。息子たちはやっと十三と十一だ。大人を相手に姉を守るには子供にしか許されぬところに逃げ込むほかに無かった。」
「無事か?」ハルイーは初めて尋ねた。
「辛うじて。今は南の森に三人で隠れている。」メムサムは橋を叩いた。「ハルイ―、この橋を渡るなら、お前が渡るまでは残しておこう、だが、そうでなくても行こうと思うのがあの場所なら聞いてくれ。私の子供たちを捕まえようとあの場所へ追って行った者たちは、皆やがて息を切らし、よろめきながら戻って来た。中には血を吐いて倒れた者もいた。もう、あえて挑もうとする者はいない。あの場所に男が近づいてはならないというのは本当だ。十八年前、アーラヒルと長老たちでさえあの場所には立ち入らなかった。それを承知で行くなら私は止めないが。」
ハルイーはメムサムの前を横切り、橋を渡った。そのまま行きかけてハルイ―は振り向いた。
「クシュのメムサム。息子たちに裏切をさせ、聖地を冒涜に行くおれを見逃してあんたはニアキに戻れるのか。それにあんたなしで五人の家族は暮らして行けるのか。北の川口に舟がある。使ってくれ。」
聖地“白糸束”は凪いで静けさに覆われていた。虫に食いつくされ落ち葉の一片さえないイスタナウトの森を抜け、縁石の並んだ汀に出たハルイーの目交を、くすんだ一面の白が捉えた。
緩く動いている白いものは水面一面に浮かんだ蝶の死骸であった。微風に吹き寄せられた下から現れた水面は、冷たい鏡となって沈下橋を駆け抜ける男の影を映した。
ハルイーはルメイを呼び、次いでレークシルを呼びながら、牙の列柱をくぐり、窟の中へと入った。人のいる気配は全くなかった。炉には一見わずかな炭火と白い灰が残っていたが、近寄せた彼の顔には厚い熱風が吹きつけ、肩の火傷の痛みを呼び覚ました。ハルイーは慌てて飛び退った。
窟の奥にかかっている簾をあけ、両側の小部屋を覗いたあと、彼は正面の大扉の把手を掴み、夜よりも濃い闇を開いた。闇に次ぐ闇を無言の岩が右へ右へと案内する。背をかがめて大岩の下をくぐるとさっそく段につくられた通路につまづく。右壁を手で触れながらひとつひとつ石段を登っていくと右手が虚空を突き抜け、よろめき、何か乾いた玉のついた枝をつかんだ。せめて明かりがいる。
ハルイーは、繭のついた枝をひっつかみ、水屋へ取って返した。炉の前に立つと、陰の中にわずかに薄色の火影がゆらめき、枯れ枝に出会ってたちまち赤い炎を上げて燃え始めた。火は色を持たずに炉の中で燃え続けている。
大扉の奥へ戻ると、狭い通路が右へと曲がり、繭をつけた枝の並ぶ壁龕、そしてその奥には砕石を敷き詰めた大広間があった。壁に沿っていくつか開いた穴は身体がひとつ通り抜けられるかどうか。その奥はそれぞれ大小さまざまな天然の小部屋になっている。反対側の壁をかざすと、これも繭の貯蔵棚が並ぶ。
ハルイーは、窟の外側の形を思い描いた。左手の壁の裏側は山肌を滑り落ちる小さな滝だ。
広間の奥には通路と思しきふたつの穴がある。右手の方へと抜けてくる風を辿ってゆくと、湿った刺すような匂いがした。壁面はでこぼこして冷たい。焼いたあとの鉄が濡れた時と同じにおいだ。急に下った坂で踏みとまったおかげで危うくぽっかりと開いた穴を免れる。彼は明かりをかざして奈落の底を透かし見た。白い花弁を散らしたように見える岩肌は四方から迫り、徐々に狭まっている。白い塵は捨てられた繭と蝶の亡骸だが、その中に人の落ちた様子は無かった。ハルイーは、もうひとつの通路を調べた。
壁面に沿ってゆっくりと流す明かりに、すぐ奥の壁が映る。小部屋か?いや、右側にさらに落ちくぼんだ暗闇。通路は短く折れ曲がって奥に続いている。
ハルイーは、湿り気を帯びて下って行く穴の中に滑り込んだ。水の流れる音が壁を伝ってくる。右に曲がった道はすぐに左へと折れ曲がり、水音の物憂いもつれは澄んだ一本の音になった。横ざまに大きな水路が通っている。他に道は見当たらず、深さは大したことがなさそうだ。
踏み込んでみると膝の上くらいであったが、少し進むとたちまち腰のあたりまで水位は上がった。そして天井の岩は下がっていく。行く手には大きな岩が塞がり、水はその隙間から向こうへと流れ込んで行く。上流から流れてきた蝶の羽が、大岩の下へと吸い込まれていった。この蝶はどこへ行く?この水路の水は地中を通ってやがて窟の外の、南側の掘割に出て行くのだ。蝶が出て来たのは水路の上流だ。ハルイーは、水路を戻った。上流の方も天井は低い。入って来た横道の上で明かりの火がちりちりと高い音を鳴らし蒸気をあげた。天井の傾斜を伝って下って来た水滴が火の中に落ちたのだった。この上にも抜け道が通っているのだろうか?
ハルイーは水から上がり、横道を折れ曲がったところの手前まで戻り、手を差し上げて明かりを横へ滑らせた。ふっと炎が高くなる地点がその線上にある。その壁には小さな間隔で足掛かりが穿たれていた。登ってみると滑らかな古い穴が壁の横にあいている。緩い上り坂は四つん這いになってやっと通れるほどの道を、地下の奔流からつかず離れずに沿いながら続いていた。枝は燃え続けている。小枝はひときわ赤く輝いて散り、繭は次々と落ちて転がった。枝は焼け落ち、短くなっていった。が、火の弱まる気配はなく、顔に送られる熱風には清い空気が混じっていた。いつしか水音は下に移っている。
通路の果ては急な坂だった。うっすらと上方が明るみ、それゆえに奥から長く垂れている白い帯様のものが見える。ハルイーは、手をのばし、引いてみた。幅一尺ほどの絹布だ。しっかりとした手ごたえがある。彼は、燃え残りの枝を捨てた。そして布を辿って登って行った。
せわしい水音は地の底に遠のき、代わりに高く澄んだ小雨の音が前方に広がった。露天の光が外の色を、雲母があやなす縞目模様、苔の薄い緑、そして、瀑布からのぼる霧を見せていた。“白糸束”の源泉、峰の雪から溶け出したナスティアツの水が、八方から集まり、一斉に眼下に流れ落ちてゆくところだった。
ハルイーが闇に慣れてしまっていた目を覆った腕をようやく下ろし、布を手繰って来た左手を放した後も、絹布は続いていた。岩の上にぴんと延びたその果てに、瀑布に望んで迫り出した岩棚の際に、雲とも蓮の花とも見まがう無造作に折り重なった絹の中心に、ほっそりとした姿が立っていた。傍らの石柱に結わえつけた糸の束の先に布の一端が続き、少女はその上にかがんで最後の緯糸を打ち入れたところだった。布と糸の間にはまだ糸綜絖と糸を巻きつけた棒がついたままだ。
少女は振り向いた。潤んだ両の目は疲労にくまどられ、頬はすっかりこけて唇は蒼かった。それでもその瞳は彼を認め、身内に最後に残る怒りを声にして吐いた。
「お前、何故ここに来た。」
ハルイーは少しずつ近づいていた歩みを止めた。少女の目は油断なく男との距離を測っている。その手には短刀のような刀杼が握られている。ハルイーは言おうとしかけていた言葉を変え、落ち着いて口を開いた。
「お前に頼んであった絹が入用になった。着丈分だけ分けて欲しい。」
「あの子の身の代か」尋ねる巫女の声が微かに震えている。
「あいつは取り戻した」ハルイーは素早く答えた。「今欲しいのはアツセワナのシギルに用立てる絹だ。」
「手に取って見るがいい。私の目を誤魔化してまでして得た成果を。この滝と同じ丈がある。」
少女は、刀杼を投げ出し、機から糸の固定棒を引き抜いて投げ捨て、糸綜絖を解こうとして苧糸を爪で引きちぎった。
「お前は、あの男は、私を騙し、下の女達に虫を殺させて―――」
涙がぽろぽろと頬を流れ落ちた。それは露玉となり絹地を、初めて光を感じた新芽の発する淡い緑の色と同じ絹地の面を転がった。湯で洗った絹には無い、強い張りと艶が、綜絖の下に始まる布から少女の足元へとささらの波紋となり流れ下る。
「蝶を守れなどと言いながら。」少女は泣きながらなじった。
「この虫たちは糸を繰っている間にみんな死んでしまった。私が心乱れて優しい加減を忘れてしまったから。蝶を眠らせながら糸を繰る歌が心に浮かばなかったから。ここに来る者の足音しかこの耳には聞こえない。しくじれば私は終わるのだという音しか聞こえないなかで、歌は心に聞こえてこなかった。私は蝶を死なせた。お前は嘘をついた。蝶を殺すなど平気だったのに。それでも私が果たせなかったことだけは言質として使うつもりだろう―――。」
ハルイーは首を振り、初めに言おうとしたことを改めて口にした。
「お前を迎えに来た。」
少女は耳をふさぎ、機の上に顔を伏せた。
「絹を持って行け。他は知らぬ。」
「絹は民を守るために必要だ。だが、お前は役目を果たした。おれとここを出てくれ。」
少女は答えずに柱にしがみついた。ハルイーは絹布を素早く端から左腕へと五尋ばかり巻き取り、切り取るために短刀を抜こうとした。
少女は柱から飛びかかるように布を手繰り、刀子を抜き放って男に振りかぶった。
ハルイーは振り返るとその手首を受け止め、左腕で腰を捉えて引き寄せようとした。強い反動と苦痛の悲鳴が彼の足を止めた。少女は己の胴に反物の半ばのところを巻きつけてあり、それが身を引きちぎらんばかりに締めあがったのだった。
しかし、それでも少女は腕を振り払い、ハルイーを突き落とそうとした。
おれとこの柱との間で絞殺されるのがこの娘の望みか。
ハルイーは自分と少女の間の絹を切ろうとした。刃は滑るばかりでただの一本も切れない。ならばと岩の隙間に楔のように打ち込む。しかし、少女が布の片端を掴んで引き上げるとたちまち食い込む切っ先を岩から抜き去ってしまう。鋼と互角の力の絹だ。
ハルイーは再び少女を引き寄せると、巻きつく絹とその着衣の胴との間に短刀を滑り込ませた。
少女は渾身の力でハルイーを突き放した。そしてその瞬間、ハルイーは少女の手からイサピアをもぎ取り、“白糸束”の源流の深みへと投げ込んだ。イサピアはたちまち滝壺に吸い込まれた。
するすると身体を絞めつける恐ろしい音の中で、少女はかつて一体であった不滅の魂が己を捨て去るのを悟った。
水煙の中に立ち現れた完璧の似姿。それは冷ややかに面をそむけ、虚ろになった少女の目交を過ぎ去った。
ハルイーは左腕からほどける絹の中から自らを滑り落ちるに任せた。絹は水面まぢかで彼を放し、その端は上がるしぶきをよけた後でふわりと水を撫でた。滝壺に沈んだ彼を、あの地下水路へと送る流れが捉える。逆らいながら泳ぎ水面に顔を出すと、両手をかいて空から垂れている絹に近寄り、それを口にくわえ、這い上がる場所を探して滝壺の周を泳いだ。
十五尋もの上の天に抜けた穴の端から水はしぶきの裾野を広げて落ちている。彼を閉じ込めている崖の裏側は丸天井のてっぺんが抜けたように大きく迫り出し、彼の身の丈を優に超える石灰岩のつららを連ねた軒が幾層にも重なっていた。その上が彼の落ちて来た岩棚だ。その端からぴんと下りた絹の帯が、宙の中ほどに少女を絡めとっている。
ハルイーは少女をくるむ螺旋を解くように回りながら少し泳いだ。彼の目の前を絹のねじれがゆっくりと下りてくる。彼は、落ちて来た側と反対側の崖のつららの破風の下に深い陰を見出した。その下に身を潜める空洞か、棚がありそうだった。彼は口に布の端をくわえたまま、ぬめる岩にとりつき、上り始めた。
上に行くほど、じわじわと下に降りて来た少女の重みがかかる。ハルイーは歯を食いしばり、岩棚めざして壁を登った。もし失敗して落ちれば一瞬にして彼の重みが少女の命を引きちぎってしまうだろう。
岩棚の際の石筍に手を掛け、身体を引き上げると、ハルイーは息をつく間もなく布を掴み、背へ回して滝壺に身体を向けた。
少女は彼の少し下の位置に、撓んだ絹の底にいる。布を手繰ると水平の位置から少しずつ頭が、肩が上がって来て、終に彼の手に届く位置に来た。ハルイーは腕の中に少女の両脇を捉え、引き上げようとした。強い反動とずるずると滑り落ちる上体に、危うく自身も水の上に吊りだされそうになる。両足首にきつくしまった布が、上の柱と彼との間で少女の身体を引きあっていた。
「まだだ」ハルイーは呻いた。まだ下には水。イサピアが沈んでいった水にはあの女が待ち構えている。
その時、ふっと少女の足もとがまた下がった。布がまた少し下りてきている。ハルイーは夢中で少女の身体を引き寄せた。残りの重さがずしりと彼の手元に落ちてきて、同時に滝の上からふわりと糸の束の尾を引いた絹の残りが舞い降りて来た。
ハルイーは少女を下に下ろし、胴の周りにまだひと巻きしていた絹を解いた。彼の短刀は少女の胸にそのまま出て来た。神蚕の絹の間で抜き身の刃はどこを傷つけることもなく、絹の締め付ける力からはわずかな血の通い路を残しておいたのだった。彼は短刀を鞘に収めた。絹は岩棚の端から垂れて片端に引っ張られ、透きとおった薄緑の蛇のようにするりと水に下りて行った。そして片端から地下へともぐり崖の下へ吸い込まれていった。
ハルイーの下りた岩棚は、吹き抜けの内側に途切れ途切れの回廊をなす浸食洞のひとつであった。が、他の棚との連絡はなく、またその天然の回廊も、この穹窿から抜け出す足場にはならなかった。
吹き抜けの天から夜は迫っていた。ともかくも夜の冷気から身を守らねば。壁の奥には狭い横穴がある。最後にはこれも水の檻に通じるのかもしれない。
まだ雫の垂れている服のまま、腕に少女を抱え上げてハルイーは横穴に身体を滑り込ませた。穴は狭いが滑らかに摩滅し、一定の幅でゆっくり下っている。通路として作られたもののようだ。
明かりの無い道を、かがめた身体で壁を擦りながら進む。子供がやっと立って通れるかという狭さ。一寸先も見えぬ闇。少女の頭を庇うと後は脇に抱えて引きずりながら、膝でにじり進むのがやっとだ。今よりましなところに行けたらそこで休むことにしよう。そうでないなら、力尽きた所が休憩場所だ。
よほどの時間が経ったように思えた。滝の音も少しは遠のきはしなかったか?ハルイーはゆっくりと少女を置き、うつぶせに身体を横たえた。まだ滝からはさほど離れていない。だが、曲がり角か小部屋かに差し掛かったようだ。のばした右手が壁の果てた空洞を探り当てていた。
ハルイーは身を起こし、少女を抱えて急いでにじり入った。小部屋になった洞窟のようだ。入ってすぐに寝棚のように高くなった箇所があり、古い繭の匂いとともに無造作に巻き上げられた布様の塊に触れた。真綿をのばした夜具のようだ。死者の弔いの夜伽をする部屋かも知れぬ―――ハルイーは少女を寝棚に載せ、自身は濡れた服を脱ぎ、傍らに滑り込んで夜具を掛けると、ひんやりとした身体を抱き寄せた。艶やかな髪が顎の下で湿りを帯び、微かな呼吸が聞こえた。眠りを妨げるものは何もない。
瞼の内が赤い光がよぎるのを捉えた。ハルイーは目を開いた。眠りの闇と変わらぬ闇がそこにある。しかし、顔を向けると、灯火の余波が洞の入り口の縁から過ぎるところだった。ハルイーは短刀を握りさっと起き上がると洞の口にすべり寄った。通路には光は無く、滝の音の他は何も聞こえなかった。
少女の傍らに戻ると綿の内は温まり、姿勢は少し動いて呼吸はやすらかだった。ハルイーは湿った衣服を身につけた。隠しを探ると、湿って殻の裂けた椎の実がいくつか出て来た。ハルイーはそれを食べながら他のものを調べた。火打石と鋼が出て来た。少女の分を取り分けると食べるものは他にない。この洞が部屋なら他に何か無いか?寝棚の奥の壁を探ると壁龕があり、素焼きの皿と古い油の入った小さな壺があった。食糧は無い。が、灯を手に入れた。
ハルイーは真綿をちぎって縒り、灯心を作ると油を注いだ皿の中に浸した。そして、真綿を火口に石の床の上に火をおこし、灯心に火をともした。いつの間にか少女が起き上がり、真綿にくるまってハルイーのすることをじっと見ていた。
「レークシル」ハルイーは声を掛けた。「おれが分かるか?」
少女はうなずいた。
「ついて来てくれ。」
小部屋を出、右に進むとほどなくして分かれ道に出た。ハルイーは迷わず右に進んだ。左は滝の方に戻るだけだ。ふと前に見た明かりのことが頭をよぎったが、ハルイーは前へと足を速めた。少女は今では自分の足で歩いている。何も話さないが彼の渡したものも食べ、大人しくついて来る。道がはかどるにこしたことは無い。
天井が高くなり、両側は鋭い岩の壁になった。足の下は大小の砕石で均されている。地中に出来た岩の亀裂の中に道をつけてあるのだ。しばらく行くと分かれ道がつながり、そちらは岩中を打ち欠いてつけた道だ。ハルイーはここでも右をとった。大きな亀裂は間違っていなければ南西へと伸びている。この地中の通路は、天然の亀裂のいくつかを間を掘ってつなげて作られている。
後ろで少女の小さなため息が聞こえた。別れた道の方に未練でもあったのだろうか。しかし、小石を踏む静かな足音は彼の方について来る。
亀裂は細くなり、掘った道でつないで再び亀裂の中に入った。左右の壁にはひび割れや亀裂が入り、脇道に見えるものもある。だがその下は深い切れ込みで砕石で埋められてはいない。
「気をつけろよ。」ハルイーは短く声をかけた。衣擦れの音が返ってくる。
左手に小部屋と思しき横穴を通り過ぎた。入り口は小さく三尺ほど。砕石が敷いてあり奥ゆきは分からない。「これも道かもしれん」ハルイーは呟きながら通り過ぎた。碾臼のような丸い平たい石が壁の横に立ててある。「倒れると危ない。触るな。」ハルイーはついて来る足音に言った。
道は右に短く曲がり、その先は広くなり、真っ直ぐになった。遠い先には微かに白く外の光も見える。
「ありがたい、出口が近いぞ。」ハルイーは呟いた。
彼の後にしてきた闇の奥で少女の微かな声が上がり、ついでごろりと短く低い音がしたと思うと、しんと静かになった。ハルイーははっとして振り返った。ついて来ているはずの少女の姿はなかった。
曲がり角の先だ。あの小部屋の近くに違いない。
ハルイーは道を駆け戻った。曲がり角の先の地面に少女が肩に掛けていた綿の夜着が落ち、その先に灯火を手にした女が立っていた。女の左側、壁に岩室の入り口のあったところはぴたりと塞がり、砕石に縁を埋めてそこに転がし込まれているのは石の円盤だった。その下に少女の蝉羽の先がのぞいている。
ハルイーは女に目を移した。感情の無い端正な相貌と槍のように立つ姿勢は、十四年前に対峙した時の記憶を呼び覚ました。しかし一回り痩せて小さくなり、髪にも面にも老いの影が兆していた。十四年前と同じようにその口が開き、当然のように彼に命じた。
「ヒルメイのハルイー、その道は正しい。そのまま真っすぐに行け。」
ハルイーは眉をひそめて女を見返し、それから一瞬ちらりと笑みを浮かべた。
「おれがここにいる訳を訊かないのか。」
「お前が“聖地”に踏み入った時に私を呼んだのは聞いた。」女は取るに足らないことのように答えた。
「何故、その時出て来なかったんだ?」ハルイーは再び眉をひそめた。「おれにはあんたに訊きたいこともあったし、伝えた方がいいかもしれないこともあった。あんたはここの守女だろう―――クマラ・シャコが崩れかけて女子どもが行き場に困り、男どもは巫女を襲うかもしれず、聖地のすぐ下では人柱にされる姉を庇って子供たちが逃げ込む事件もあった。」
「愚かなことだ。人柱など役に立たぬ」ルメイは呟いた。「大事ない。更新の一時の不安定だ。すぐに落ち着く。タナを置いて去れ。外に連れ出してはならぬ。」
「連れて帰る。もとよりそのつもりで来た。」
きっぱりと答えながら、ハルイーは石室の前に立ちはだかる女を見返した。髪の一筋まで微動だにしない手に、携えた灯火の火影が微風に揺れた。
暗闇の石壁の上を横切る灯り―――。滝の固く結わえた柱からほどけて落ちて来た絹糸の端。心の端に掛かっていた不可解な事柄が次々とつながり、甦ってきた。
“白糸束”に入り、名を呼ばわった時から気付いたと言っていたな。ずっとおれのすることを陰で隠れて見ていたのだな。おれの動きはこの女にとって都合よく事を運んでいたというわけだ。
「あんたは滝までおれが行くのを許し、おれが大事なく水から上がった後はこの娘が無事に手元に来るように手を貸したのだろう?洞窟の奥に泣き籠って天候を荒らし、寝食も勤めも乱れているのに手を焼いて、おれにこの娘を任せたのだろう?たった今おれに用が無いと判断するのは何故だ」
ルメイの面に初めて微細な変化が現れた。思い返した労苦に苛立ちを新たにしたようにその目が宙を見て細まり、男が尋ねたことも、またその男が目の前にいるのも忘れたかのように素早い呟きが漏れた。
「この娘はサラミアから全てを与えられたというのに惜しい事。早くからこれほど女主と強い結びつきを持った者はいなかった。目も手もすべて天地を治めるに足る力を持っているというのに、他国の使者の脅しに手もなく怯えあがり、勤めを放棄してしまった。もとより身勝手な、人を虫ほども思いやらぬ気性だったが―――。ゆえに私は守女のもうひとつの勤めを行ったのだ。その時期が来ていたからだ。天地を平静に治めることが出来なければサラミアの器は更新される。三度もの満月にお前に会わせたのもそのためだ。」
ハルイーは思わず笑いだした。解けた謎があまりにも思いがけなかったので、取り繕う暇さえなかった。しかし、ルメイは思い違いに気づいてはいないようだ。彼は横を向いて明かりを避け、ただ口元には薄く笑みを残しておいた。これが愚か者らしく見えようが、油断してもう少し話してくれるならそれに越したことは無い。
ルメイはハルイーに目を移した。元の権威をまとった面持ちで言葉を継いだ。
「タナの容姿、手の技、お前の心を惹く麗質はサラミアに属したものだ。お腹に子が宿れば、イサピア同様その子に引き継がれる。」
巫女が産む子が女とは限らないだろうに。
ハルイーの心にほとんど思い出したことのない幼い頃のティスナの光景がよみがえった。林の脇の日当たりの良い草の上に座っている年かさの少年。色白でいつも半ば瞼を伏せている。時折両手で這って場所を動いていた。幼い彼は、両手に紅白のイチヤクソウを束にして少年に近づいて行った。片手にした白を少年の鼻先に近づけ、もう片手を背の後ろに隠した。少年は差し出された花の花弁にちょっと触って首を振り、彼の肩を手探りで引き寄せると隠してある方の腕をつかんで紅い花に触れ、微笑んだ。盲目で跛者、しかし、触れるだけで薬草の色を知る者。アーラヒルの息子、ヤコマだ。
兄達を失った日に自分は火のそばで何を聞いたのだったか。ハルイーは丸い岩戸の下の蝉羽に目を落とした。聖地に閉じ込められた姉と盲目の弟が人の助けなしに会えるはずの無いものを。
「ヒルメイから最高を選別し、生まれた子にイサピアを授けるのは守女の勤めだ。」ルメイの声が強みを帯びた。
「アー・タッカハルの末の息子。熊を滅ぼしたほどの男。お前の力は優れているが、その存在は平穏を乱す。イナ・サラミアスから出て行け。お前にしても抜け殻に用はあるまい。」
「そこを退いてくれ。」
ハルイーはつかつかと歩み寄り、ルメイは岩戸の前に身体を割り込ませたその身体が触れるすれすれのところで一歩退いた。ハルイーは構わずに円盤の戸の前にかがみ込み、前にそれが据えてあった受け溝の位置を確かめた。それは円盤のある所の左側の少し高い位置にあった。それから盤の面に引手となる手がかりを探した。閉めるのは非力でも転がし落とせるが、もとの位置に戻すには相当な力がいる。盤の端の相対する二か所の位置に棒を差し込む窪みがある。これを転がした時の棒があったはずだ。ルメイの後ろの通路の隅に置かれた軸棒を、ハルイーは彼女を押しのけるようにしてつかみ取った。
「ヒルメイ、下がれ。」ルメイの鋭い囁きに怒りが混じる。それでも決してハルイーに直に触れようとはしない。「生まれは卑しく闇に葬られた身でも私はルメイだ。サラミアの営みを差配するのは私の役目だ。御子が生まれるまで誰にも触れさせぬ。」
円盤は砂利の上をきしみ、左右にわずかな隙間をあけて元の位置に静止した。ハルイーは一度背を起こしてルメイに言った。
「先ず、イサピアを探したらどうだ。滝の中に消えたぞ。」
ルメイの全身に激しい震えが走り、危うく灯火を落としかけた。
ハルイ―は円盤の左下に砂利を寄せて受け溝へ登る傾斜をつくり、すべりを良くするために真綿をのばして貼り付け、もう一度軸棒に向かった。
「サラミアはもうこの女と共にはいない。この女はそのうちおれの子を産むかもしれないがそれはずっと先のことだ。ましてこんな場所ではない。」
言うなりハルイーは、他の全てのものがそこから消えたと言わんばかりに全身で岩戸に突進した。円盤の端が受け溝に載り、押しやった軸棒に応じて円盤がぐるりと回って溝に納まり、岩戸の後ろが開いた。
岩戸に轢かれた蝉羽の先が地面に横たわり、その奥に少女は静かに座っていた。ルメイは蒼白の顔に眉をつり上げ目を見開いた。身を沈めると、ハルイーが止める間もなく、灯火を押し付けるようにぐっと少女の顔に近づけ、ふと凍てつくように止まると、その場に跪いた。あたかもサラミアが虚ろの身体に再度宿ってその姿形を守ろうとしたかのように、少女が目を上げ、嬰児の目で彼女を見たのだった。
「サラミア」ルメイは恭しく頭を垂れた。ひとたび露呈した己の境遇への不満、巫女への嫉妬、蔑みの情はうつ伏した顔の下に隠れた。その言葉は、淡々と穏やかに、なおも少女の心を掌握しようとその耳に注ぎ込まれた。
「心にお留め置きください。女主の魂は必ずあなた様を通じて御子に現れます。ここにおとどまりくださいますよう。」
「レークシル出て来い。」
ハルイーの通る声が響き渡った。少女はゆっくりと立ち上がり、ルメイの前をすり抜けてハルイーの元に歩いて来た。そのまま出口へと向かう男の後を、少女の華奢な姿がほの白い蝉羽を引いて闇の中へと消えて行った。
道は一度細まり、掘った短い道を経て急に右に曲がり、背後から届いていた灯火の明かりも絶えた。だが、一度外明かりの見えるところまで歩いていたハルイーは迷わずに真っすぐ進んだ。道は広がり緩やかに下っている。やがて細く縦に白い光の線が見え、線は白く反射した壁面となり、その向こうに彼方の雲と雲よりも白い乾いた石の原を垣間見せた。やがて右側の壁が切れて昼の明かりが全身を包んだ。
眼下には切り立った岩壁があり、その下は白茶けた枯れ草の茂みがまだらに混じった荒涼たる礫地の原だった。
「おれはここに来た事が無いが―――」
ティスナよりも南で男たちが狩りをする時は高原を大きく回ってエトルベールから西側に降りる。中腹にある大きな谷、“鳥獣の谷”を北東に仰げば森の間に切り立った岩肌が細く帯状に見えるところがある。そしてその北側には礫地があった。狩り人はそこには近寄らない慣わしだった。岩壁の近くには山の深部を通る亀裂が口を開け、山中をたどればクマラ・シャコの南の岸壁にも、オルト谷の南にも通じていると言われていた。ティスナで死んだ女子どもたちはニアキの男たちのように火葬にはされず、地下の弔いの道を通って“鳥獣の谷”の岩壁の上に運ばれ、そこに置いてゆかれるのだ。
ふたりがたどり着いた通路の果てはちょうどその“鳥獣の谷”の上部の岩壁の上だった。
「今、通って来たのは弔いの道だ。この少し先にティスナの者を葬るところがあるのだ。そしてこの崖の下の石原は―――」
ハルイーの隣で少女の蝉羽が揺れた。少女は荒野を眺めていた。強い風が顔の周りのおくれ毛を乱し、茫然と見開いた目元から溢れる涙すら落ちるのを許さず、目尻へこめかみへと雫を惑わせている。少女は手を上げて礫地を指差した。
「ここは刑場だ。」ハルイーは呟いた。「ホーリスがどこに行ったか分かったぞ。彼は自分から向こうに行ったんだ。」
少女の膝がくずおれる。ハルイーはその肩を両手で支え、命じた。「立て」
少女はハルイーの手を振り払い、座り込んだ。ハルイーはその肩に綿を掛け、自らも横に座った。
強い風は断続的に続いていた。雲は空一面を流れながらその白い艶の後ろに光源を隠している。枯れ草のさざめく礫地の蒼い面に、薄い影が小さく横切る。小さく、縦横に、いくつもの影が大きさと濃さを増しながら。続けて吹く風が雲を押し、岩の上に白日の光と濃く落下してくる影を同時に広げた。
少女は振り返りざま、肩にしていた綿を脱いで背後に放り投げた。ばさりと強く空気を打つ音。ハルイーは石を掴んで投げたが、猛禽は虚空に逃げ去った後だった。そして、少女は蝉羽をなびかせて平らな岩の上を真っすぐに、崖沿いに駆けだしていた。ハルイーは後を追った。
弔いの岩の上には日の光に白く、石片のように枝のようにそこここに散らばっているものがある。風雨に晒された大小の骨の欠片だ。少女は小さく叫びながらもそれをよけて風のように駆けた。岩は崖の上を狭くなり、上のツツジの紅く色づいた斜面に覆われる。ハルイーはようやく少女に追いつき、両腕の中に捕まえた。
両腕を外側から包囲する腕の中で少女はうずくまった。男は緩めた腕に抱えたまま身をかがめた。
「鷲に驚いたか。」顔を両手に埋めた少女の耳の上にほつれた鬢が撓んでいる。男はそっとその髪をかき上げ、赤みのさした頬を覗いた。「だが、奴も驚いただろうさ。お前、速いな。」
少女は手を外し、そっと目をのぞかせた。
「この下は険しいから上を回ろう。少し頑張ればなだらかな尾根を通って“膝の峠”から森の中に下りられる。」
少女は立つと羽を両袖にからげて背で結び合わせ、長い裾を少しはしょって帯に挟んだ。そして自らツツジの株をつかみ、茂みを分けて登り始めた。ツツジの下は細かくひびの入った斑の岩が広がっていた。
やがてなだらかな高原に出ると頭上には青く空がひろがった。ハイマツの深い緑の中に枯れた草は黄金色に輝き、小さなバラの茂みは赤い火花のような実をつけていた。
「レークシル、こっちだ。」
どんどんと東の方へと進む少女にハルイーは声を掛けた。少女は振り向き、ゆっくりと戻って来た。ハルイーは先に立ち、低木の林の中を下りて行った。時折振り返ると少女はついて来た。草を編んだ薄い靴は破れて中につめた綿が飛び出し、むき出しのすねには小枝の擦れた傷が無数についている。
「おれの籠手を貸してやろうか?」ハルイーは立ち止まって尋ねた。
少女は首を振った。昔の面差しを残す眉と目がじっと彼を見返す。その胸にイサピアを吊ってあった絹紐が、折れた柄の輪の部分だけを残して下がっている。ハルイーはふと不安に駆られた。身体は何ともなさそうだ。言葉も分からないわけではない。なのにどうして口をきかない?そういえば、昔、この娘を“白糸束”まで連れて行った時も、女神が話させた奇怪な言葉の他には話すのを聞いたことが無かった。
「何か言ってくれ―――すまない。」瞬く瞳にうろたえてハルイーは言った。「蝶を殺してしまって。」
少女は神蚕にそっくりな眉目の下でゆっくりと唇を開いた。声を発することを初めから思い出し、なぞっていくかのようだ。
「お前はだれ」細い囁き声が言った。「名は?」
「ハルイー。ヒルメイのタッカハルの子だ。」ハルイーはほっとして言った。
「アー・タッカハルを覚えているか?」
少女はうなずいた。そして物思いしながら言葉を継いだ。
「お前は私を聖地に連れて入った―――どうしてそれが出来たの?あの場所には男を近づけない力が働くのに。」
「あの時お前自身が許したからだ。」
ハルイーは鉢巻きを解いてみせた。その下には細いリボンが額に巻かれていた。コタ・シアナの娘が幼いレークシルの髪に結んでやった神蚕の絹のリボンであった。
「“白糸束”の入り口で難渋していた時、お前はおれの額にこれを結び、おれがお前に属する者だと宣言した。」
少女の面に戸惑いと否定の表情が現れた。ハルイーは微笑んだ。
「お前にそう言わせたのはお前自身ではなかったかもしれんし、その言葉が契りを意味するとは思っていない。だが、この紐をお前の髪に結んでやったコタ・シアナの娘の願いだけは守ってやりたかったんだ。あの子は、おれにお前を守ってやってくれ、と頼んでいたから。」
「ハルイー、私はお前のいる所に下りて行く。」
少女は足元を確かめながら言った。ハルイーは手を貸して木の根の高い段差を下ろしてやった。
日が傾きはじめるころにふたりは“膝”の峠にたどりつき、夜の冷たい風を凌ぐために、丈高い木々の森林に向かって西側に下り始めた。幾日ぶりかで雲の払われた空の下は遠くまで見渡せた。
「クマラ・シャコから大水は出なかったようだ。」
コタ・シアナの沿岸に木々の乱れはなく垣間見える水も澄んでいる。色づき始めたシアナの森の彼方がひと筋窪んでいるのはコタ・レイナがそこにあるからだ。その向こうには平たくエフトプが頭をのぞかせ、さらに小高く広くアツセワナの丘が遠く西に煌めく灯りをともしている。ハルイーははっとして顧みた。「しまった。今宵は確か満月……。」
アツセワナでは収穫祭の余興の品定めが始まる頃だ。トゥルドが無事にたどり着き、万が一競技に勝てたとしても絹はどうする?シギルと約束し、シグイーにも念を押された絹は?
ハルイーは、傍らの少女に目を走らせた。どうするも何も、もう唯一つしかない。この娘の身に着けているものの他にはどこにも……。
少女は彼に気付き、目を合わせたまま立ちすくんだ。しなやかな姿を柔らかい絹の艶がなぞっている。
何と迂闊なことをした。おれはうっかりこの娘をアツセワナの男たちに見せてしまったが、もし約束を反故にすれば、シギルに取られるのは絹でもましておれの命でもない。
少女は彼の心の中の裏切りを見定めるようにじっと目を当てている。やがて少女は目を伏せ、冷たい風から少しでも暖を取ろうとするかのように男の方へと身を寄せた。蝉羽の下から伸びた手が彼の傷だらけの革の籠手の腕に下り、細い指がその上からすがるようにつかんだ。その口から漏れたのは羽毛よりも柔らかでか細い声であった。
「私を渡さないで。誰にも」
「馬鹿を言え」ハルイーは驚いて言った。口にすると同時に心は速やかに決まっていた。
「ここを下りたらイナ・サラミアスを出る―――“河向こう”の森に行こう。どこかの郷の季節雇いになるか、自営農の家にしばらく身を寄せる必要はあるだろうが、そのうちお前の入る家をつくってやる。シアナの森に神蚕はいないが蝶ならいろいろなのがいる。鳥も飛んで来るし、獣もいる。機織りの道具も作ってやる―――絹は無くても草から、木から、獣の毛から糸は作れる。それでおれの外衣を織ってくれ。」
少しずつ闇の下りてくる中で少女の黒い瞳が光った。ハルイーは少女の肩に腕を回し、少しかがんで額の上から側頭へと分かれて編まれた髪に頬を押し当てた。
これまでの生で類の無い喜び、しかしほんのひと呼吸ほどの短い快感。
彼はレークシルの肩に蝉羽を掛け直してやると、自分の左腕に彼女の手を捉まらせ、先に立って下り始めた。安らぎの望めない道、同郷の者の目から、裏切りへの追求から身を潜める旅へと。
「―――霜降の満月の日、祭祀の後で行われる余興の競技は、領主たちの献上品の品定めを除き、全て日中に終わった。件の品定めを晩餐の直前まで取っておいたのはシギルの計らいだった。彼はまだハルイーが絹を持ってくることに望みをかけていたんだ。もちろん、誰が見ても無理な話だ。三日の間にアツセワナとイナ・サラミアスを往復するなど。」
コセーナの正門を通し、北の方に広がる耕地と森を見晴らせる館の入り口の石段に腰掛け、トゥルドは昼に訪ねて来たロサリスとシアニを相手に昔語りを楽しんでいた。午前に川西の煉瓦つくりの作業を見、鍛冶場で農具の直しを手伝って汗をかいたあと、高齢の身体をいたわるために午睡を取ると言って、午後の仕事に向かう男たちを行かせ、ゆっくりと話しこんでいたのだった。
「だが、シギルは決着を急がせようとするトゥルカンを夕方までかわし続け、トゥルカンもシギルが待っているものを突き止めることはついにできなかった。彼は、少なくとも私が何かを用意するだろうと見当をつけて、早くから見張っていた。トゥルカンの張り込ませていた手下のうち、ニクマラにいたふたりは私を襲ったが、知ってのとおり報告は果たせなかった。翌日私はニクマラ・ガヤの一行に紛れて出発し、前日にはアツセワナに入った。だが、シギルに近づくことは出来なかった。私は旅で汚れひどい格好だったから城郭の内には入れてもらえなかったんだ。ニクマラや他の郷の百姓や使用人たちと、門の外で一夜を過ごした。もっともおかげでトゥルカンにも見つからなかったんだが。翌日シギルとトゥルカン、そして領主たちが耕地で豊穣の神に感謝を捧げる祭礼をしている間に私は家に戻り、身繕いをした。そして城内の庭園に入り、祭祀から戻って来た面々に挨拶をした。
「その段になるとトゥルカンも私がどこにいて何をしていたのかを詮索はしなかった。もう品定めに向けて準備は進み、後は勝負あるのみだった。私は、庭園の肉桂の木の下に作られた壇に、亜麻布を被せた献上品を置いていく領主たちの末尾につき、手布に包んだ鋏を置いた。ちっぽけで平たく、いかにも頼りなかった。シギルと王妃はじっとそれを見ていた。気の毒に!最後まで待っていたが、私の持って来た絹は到底王妃に着せられるものではなかった。私はハルイーから預かった残りの絹を出さなかった。何故中途半端なもので王妃とイナ・サラミアスの両方を侮辱する必要がある?
「私たちは壇の周りに張られた幕の外に出、代わりに手に手にサザンカの花をひとつ持ったご婦人方が幕の内に案内された。このサザンカが彼女たちの投じる票になる。やがて賑やかにさざめく声が外にも聞こえた。何かに興奮しているようだ。いったい何に?鋏ではあるまい。だが、藁にもすがりたい思いのこちらは何を聞いても希望を抱いてしまうんだ。
「何が勝ったと思う?王と領主、男たちが幕の内に戻った時に目にしたのは、サザンカがぐるりと固まった中に埋もれた、自慢らしげな金ぴかな木彫りの林檎だった。イビスの指物師が出したものだ。これがひとつを除きすべての票をさらえてしまったのだ。コセーナの奥方トゥサカが私の鋏に一票をいれてくれていた。だが、私もシギルも勝負には負けたのだ。これは認めない訳にいかない。
「トゥルカンが、勝ったイビスの指物師を呼び、望むものは何かと尋ねた。指物師はあらかじめ言い含められていたに違いない。自分でも意味も解さぬ要求をした。イナ・サラミアスとの交渉の権利を、と。シギルは立腹のあまり横を向いた―――その晩のシギルにはこれ以上の屈辱は耐えられなかったのだ。
「シギルとトゥルカンとは、この収穫祭を皮切りに互いに人知れずして手合わせし、一時矛を収めた。トゥルカンは私のはじめた小鍛冶の真似事を面白がりはしたが、大した脅威とは考えていなかったし、もうひとつの秘密、イナ・サラミアスの絹については幸いにも全く気付いていなかった。彼はサザールが手傷を負って探りだした事には満足していて、慌てずにゆっくりとイナ・サラミアスを手に入れようと考えていた。
シギルは私に許可を得て、私の作った鋏をただひとり価値の分かる人、トゥサカへの贈り物とした。シグイーは兄の気分をなだめるためにコセーナの東、シアナの森に狩りに誘った。トゥルカンは機嫌よく同意し、あまつさえ親しくしている領主たちを誘って同行した。既にその頃から、イナ・サラミアスへの侵攻の足掛かりにアタワンに目を付けていたのだろう。そのままそこに狩小屋をつくり、あたかも祭りの場をそのままシアナの森に移したかのような行幸となった。
「シギルはシグイーから犬を借り、私とコタ・レイナの領主たち、そして一緒にいたとて少しも気晴らしにはならないアツセワナの連中とシアナの森に出かけた。獣などは何ひとつ取れやしない、あんなに大勢のでくのぼうが賑々しく歩いているのでは。だが、彼らは違うものを見つけた。
「シグイーの犬は、中でもコセーナに昔からいる老犬はハルイーを覚えていた。コタ・シアナにほど近い森の北部でハルイーとレークシルを見つけたのだ。彼らは冬になる前にオトワナコスか近くの農家を頼ろうとしていた。犬たちはハルイーに懐いていたが、レークシルは怯えて飛び出してしまった。よりによって皆が休憩に集まりかけていたところだった。
「ハルイーとシギルのどちらがより驚いたか。私はシギルの方だと思うね。彼はトゥルカンはじめ皆の見ている前で一年間の辛抱もどこへやら、つかつかと馬を寄せて、女と一緒に犬に囲まれているハルイーに言った。ヒルメイのハルイー、約束の絹はどうした?私の目に狂いが無ければその女は聖地の巫女。
「驚いたことに、ハルイーはその時までアツセワナの使者シオムの正体が王シギルだとは全く気付いていなかったんだ。レークシル、長老たち、ガラートがすぐに見抜いた事、そして賭けてもいいが、このお嬢さんが誰よりも先に見抜いたことを」―――トゥルドはシアニに目配せした。「あの男は全く気付いていなかった。だが、彼にとってはそもそもシオムがシギルであろうがどうでもいいことだったのかもしれない。誠意を尽くすに足る相手かどうかというだけのことだ。そして、彼にはその時、何にも増して守らねばならない者がいた。
「ハルイーは答えた。巫女ではない、と。これも嘘ではない、彼にとっては。しかしシギルを怒らせるには十分だった。巫女ではない、では何だ?布を巻き取る芯棒か?―――私はシギルがあれほど怒ったのを他に知らない。」
「私は、他に知っていると思いますわ、トゥルド様。」
ロサリスは、広間の開け放した扉の外の段に掛け、コタ・レイナから送られてくる風に顔を向けて言った。風は水場の脇のニレの葉を揺らし、その下には涼んでいるうちに組んだ腕の上に頭を垂れてうつらうつらとまどろんでいるダミルの姿がある。「二十年後のことですけれども。」
トゥルドは声をあげて笑った。「まったく、あの木彫りの林檎は彼には験の悪い使者以外の何物でもない。トゥルカンはシギルに最初の負けを思い知らせるために、彼が見向きもしなかった金箔を貼った木彫りの林檎とその作り手をずっと伴っていた。旅の手回り品、天幕に置かれたわずかな調度の上に、必ず彼に見えるように置かせていた。シギルにしても何らかの形で細工師に面目を施す必要があった。
「シギルはハルイーと女を捕えさせ、狩りの天幕に引き立てていった。そして、卓の上に盛られた林檎の頂点に飾られた馬鹿馬鹿しい金の林檎を手に取ると、皆の前でその金の実の飾りの葉をもぎ取った。人々は何事が起こるかとざわめくし、指物師は可哀相に、震えあがっていた。シギルは―――落ち着き払っている時の彼ほど恐ろしい者はいない、彼は骨の髄まで冷酷になっていた―――ハルイーに言った。お前は約束の成就に故国の命運がかかっていたのを承知だったはずだ。お前の成果が得るはずだった権利はこの男の―――と、指物師を前に押し出し―――手に渡った。この男はイナ・サラミアスとの交渉を要求している。己が何を望んでいるか分かっているとも思えぬが。私はこの男に相応の報酬を与えてその権利を譲り受ける。お前の連れていたこの女が巫女でないなら、これは約束の絹の芯だ。だが、何と呼ぼうが私にはどちらでも良い。遊戯を思いついたのだ。この女が惜しければ私から見事勝ち取れ。」
トゥルドの日に焼けた顔は、初夏の昼下がりの光と熱に赤くなり、白い眉と消えない笑い皺の襞の陰に明るい瞳がいたずら坊主のように得意げに輝いた。彼はちょっと腰をのばして段の片端に掛けたロサリスと、その足元に掛けたシアニを見回した。シアニは顔を上げてロサリスを見た。その顔は笑ってはいなかった。
「無論その場にはトゥルカンを含めすべての者が揃っていた。シギルは己の威信と命運を賭けた狂気の遊戯を思いついたのだ。彼は、木彫りの林檎の葉をもぎ取った跡に、二枚の羽根を取り付けるように指物師に命じた。そして、イナ・サラミアスに遣いを出し、裏切り者の捕縛を報せ、このふたりをアツセワナがどのように処分するつもりであるかを伝えた。彼はコタ・シアナの源流一帯を一時イナ・サラミアスから借り受け、捕えた女を褒美に競技を行うと宣言した。後に言う“黄金果の競技”だ。」
シアニは突然、段から立ち上がった。お昼に持って来てトゥルドが褒めてくれたエンドウ豆の揚げ菓子の入っていた籠が転がったのを浚いあげ、トゥルドにちょっと会釈すると、ロサリスに、歩いてハーモナまで帰るわ、と告げた。トゥルドは驚いて言った。
「もう、帰るのかい。それに馬で来たのに、歩いて?」
「大したことないわ。森を歩きたいし。」
トゥルドはいかにも残念そうに言った。
「話はまだ途中だよ。今日は私はまだまだ話せそうな気分なんだがね!“黄金果の競技”で誰が勝ったか知りたくないかい?」
「ハルイーが勝つわ」シアニは簡単に言った。トゥルドは目を丸くして肩をすくめてみせた。
「どうしてわかるね。シギルは若く、大きく強く、ハルイーが約束を破ったことにとても怒っていたんだよ。宿敵トゥルカンの前で恥をかかされるしね。」
「もう結構!」
自分でも思いがけない大声で言い放ち、シアニは真っ赤になって立ちすくんだ。きっと母さんに叱られるわ。理由を聞かれても答えられないけど。自分でもわからないのだもの。
しかし、ロサリスは、用があるなら行ってもいいのよ、でもご挨拶はきちんとね、と言っただけだった。トゥルドはやや恨みがましく言った。
「ロサリス、あなたはシギルの味方だと思ったんだがね。」
「どちらかの肩を持たなければなりませんの?」ロサリスは目を伏せて素早く言い、膝の上に両手を組んでトゥルドを見上げた。「そうですね、私が敢えてどちらかを選ぶとしても、トゥルド様、私の立場を半分お忘れではありませんか?それに“黄金果の競技”は女にとっては心の浮き立つような話ではありませんのよ。殊に二度目の“黄金果”の報酬だった身からすれば。」
シアニはニレの木の下にうたた寝をしているダミルを揺り起こした。
「父さん、私はもうハーモナに帰るわね。さっき厩で見て来たけれど、ニノマのお腹が随分大きいわ。もうすぐ産まれるのじゃないかしら。」
「今晩かな。」ダミルはあくびをし、髪を指でかき上げながら慌ただしくうなずいた。「母様は?ひとりか?気をつけて帰るんだぞ。」
東門から通用路を通ってハーモナの西の分かれ道まで、今のシアニには走れば一瞬で行ける。果樹園にも牧場にも、そして木立ちの間に斑に木陰をつくっている道にも誰もいなかった。
風が鳴ると、固く乾いた土の上の斑の影がわさわさと動く。シアニは駆けだした。速く、もっと速く。影に捕まらないように道の端まで走らなくちゃ。鳥に食べられずに端まで辿りついたら私は蝶になる。
分かれ道からジグザグ道に入ってシアニは歩きはじめた。
私の態度はとても失礼じゃなかったかしら?トゥルド様とはすぐに仲良くなったので友達のように話してしまったけれど、男の人でお年寄りで身分の高い人だわ。十五歳の時のアー・ガラートはシギルをちゃんと見抜いていた。私があと三年で同じくらい賢くなるのでなければ、きっと彼より努力が足りないという事ね。
だけど母さんは叱らなかった。何故か私の気持ちがわかったみたい。
シアニは立ち止まった。トゥルドは親しげで優しく話は面白かった。とても苦労をしてきたようだが、不機嫌な顔を見せたわけではない―――男の不機嫌な顔なら、バギルの苦り顔をもうしょっちゅう見ている―――。だが、表情が少し気に入らなかったのだ。
道の脇の日向にケシが固まって咲いている。シアニはかがんで切り取ろうと隠しから鋏を取りだし、ためらった。
私の鋏は本当はとても良いものだったのじゃないかしら。いろいろなことに使ってきたけれど、絹を切る鋏だったんだわ。花を切っても良かったのかな?
シアニは鋏を仕舞い、手で花を折った。傷ついた茎から水が滴ってくる。花はみるみる首を垂れる。
ごめんなさい。
ふと、そんな言葉が心に浮かんだ。誰に?花に―――それとも。
聞きたくなかったからだわ。いいえ、本当は知りたいのかもしれない。レークシルがどうなったか、とても気になるけれど、聞いてはいけないような気がした。
シアニは拳を上げて目元を拭い、空の籠を手に取ると立って歩き出した。
モーナはいつでも私のそばにいる。きっといる。でも振り返っても今は見えない。もう出て来ない。わかってしまったから。私は彼女が誰だか知ってしまったから。秘密を話してしまった後で後悔することがあるものだわ。
翌朝トゥルドはオトワナコスに向かい発った。
二日前の晩、トゥルドはダミルと食事をとりながら、ロサリスに話したコタ・サカの襲撃と村の状態についてさらに詳しく話し合っていた。
グリュマナらによる破壊は迅速にして徹底したものだった。その目的は鉄の生産を阻害することであり、コタ・サカの主だった鉄造り達を拉致することだったようだ。アッカシュ、アガムンらの掌握しているチカ・ティドの主力の鉄床、コタ・バールの黒砂は今や枯渇しつつある。まだ本腰を上げてはいないが、いずれコタ・サカを占拠しさらって来た鉄師たちを使って鉄を作ろうと目論んでいるのではないか。一方、散り散りとなった村人たちは山に潜伏している。コタ・レイナ勢は何とか人を送って彼らを支援し、アツセワナ勢の侵入を防ぎつつ、村の立て直しを出来ないか。
コタ・ラートの防塁の建設に既に人手を取られているダミルは、トゥルドの要請に同意はしたものの、即時の人の派遣を渋った。
「アッカシュの若い嫁が懐妊したと聞いた。祝いの気分もあろうし、アガムンとこじれた仲を直すまではコタ・サカを取りに来るのを急がぬのではないか。」ダミルは内心の希望を漏らした。
「相手の腰が重いうちにこちらがどれほど歩くかだよ。」トゥルドは頬杖に顔を埋めているダミルを見て厳しい面持ちを引っ込め、にこやかに言った。「―――そこで私は次にオトワナコスを訪ねる。ついでに三郷でお互いに融通して鉄がどれほど持ちそうか見て来よう。しばらくは古い鉄を鍛え直すことで凌がねばならん。明日、鍛冶場を見させてもらうよ。道具立てが肝心だからね。」
翌日、トゥルドは火山灰の煉瓦つくりを見、コセーナの鍛冶場で働き、疲れたダミルがシアニに起こされた後も倒れるように木陰で横になったのを見て、ロサリスに言った。
「あなたに告げたものかどうか迷っていたことがある。」
「私はいまちょうど尋ねようとしていたところですわ。」ロサリスはシアニが駆けて行った後を眺めていたが、すぐにトゥルドに振り向いた。
「コタ・サカの襲撃さえなければ私に違う話をしていただろう、ということでしたわね。」
トゥルドはやや身体を寄せ、さくさくと話し始めた。
「五年ばかり前のことだ。噴火の灰が収まり、人が生活の立て直しに動き始め、コタ・サカでも少しずつ人が戻り始めていた頃だ。懐かしい顔を見ては互いに無事を喜びあっていた。昔コタ・バールで働いていたが、コタ・サカに移り住んで赤砂の精錬を習い覚えた、とある鉄造りの一家があった。主は腕が良く、鉄を吹くのも鍛えるのも巧かった。子供がたくさんいたが、その中にひとり、琥珀色の頬をした坊やがいてね―――」トゥルドはロサリスの表情を気遣いながらゆっくりと言った。「顔だちも他の兄弟とは違う。私には忘れがたい人々の系譜の顔に思えた。が、それにもまして印象に残ったのは坊やの目だ。深い目元に長くて黒い、濃い睫毛の影、しかし、それよりも明るい瞳の色。」
ロサリスはトゥルドが話し始めてから、膝の両手の上に目を落としていた。いつ希望が断たれても耐えられるように備えているかのようだった。しかし、耳をすませて次の言葉を待っていた。
「賢く、健康だった。父母はその変わった子を分け隔てなく育てているようだった。不思議なことに、その子には一緒に暮らす家族にも知られていない、離れて見守る者がついていた。」
ロサリスは振り返った。トゥルドは首を振った。
「女だ。まだ若い女。しかし、イーマの顔で……。」
「その女の名はルメイと言いませんでしたか?」ロサリスは急き込んで尋ねた。
「いや、それは知らない。だが、子供本人にさえ気づかれないようにしていたという。私は去年の夏にはあなたに報告しようと心に決めていた。それなのに、村をグリュマナに襲われてしまった。一家もろとも子供は行方不明になった。襲撃の真の目的が何だったのか、私は疑っているよ。」
ロサリスは振り切るようにして立ち上がりトゥルドに深く頭を下げると、高垣の影が地に広く陰を投げかけはじめた中を、人目を避けるようにして館の奥へと立ち去った。
夕食の折に女達を伴って配膳に現れたロサリスは、気がかりな目を向けたトゥルドのそばに杯を運んでくると、姿勢を変えずに素早く囁いた。
「ありがとうございます、トゥルド様。あると信じた望みが真にあり、それが再び見えなくなっても―――無くなったと決めるものではありませんわ。」
「私もそれを心しておくとしよう。」トゥルドは答えた。
トゥルドが発つときに門まで見送りに出たのはほとんどが女子どもと老人ばかりだった。明け方まで馬の出産にかかりきりだったダミルは急いで手を洗って門まで出て行った。ロサリスは、子供の手を引かせた大きな少女たちを従え、自らも両脇に小さな子を抱え、馬の脚が届かないように離れている。ダミルはその横に歩み寄って、ひとりの子を抱え、もうひとりの手を取った。
「もっと近くに行くといい、ロサリス。今度はいつ会えるかわからない。」
ロサリスは促されるまま、トゥルドの傍らに近寄った。トゥルドは馬上から白い柔和な眉の下の目を細めた。
「年寄りを忘れないでいてくれて嬉しかったよ、ロサリス。」
「懐かしゅうございました。トゥルド様」
ロサリスはトゥルドの差し出した手を両手に受け、頬を押し当てた。トゥルドは恥ずかしげに笑い、ダミルを見やった。
「私は自分を寂しい独り者だと決めつけていたが、娘がいたことを思い出したよ。だが、あなたもそうそう子供ではいられないね。ほら、あなたの長女が来た。」
門は大きく開いて跳ね橋が前方に下り、麦畑の中を曲がりながら道が北に伸びている。青い穂の上がり始めた間を、灰色の馬が鬣を朝風になびかせてやって来る。馬に乗っているのはニーサだった。その腰に捉まって、シアニが後ろに乗っている。シアニが横から上体を傾げてニーサを覗き込んだ。ニーサが馬の足を止めると、シアニは馬の背から滑り降りてトゥルドの方へと走って来た。トゥルドはじっとそれに目を留めていたが、馬を下りて、手綱を従者に預けた。
シアニは、前掛けの中に何か包んだのを両手で抱えるようにして、門の内まで駆け込んで来た。頬が赤く、息が弾んでいる。
「トゥルド様、オトワナコスに行くのでしょう?この子達を連れて行ってくださいな。」
シアニが前掛けの中から取り出したものを見てトゥルドは驚きの声をあげた。
「これはこれは!コセーナで神蚕の繭にお目にかかるとは思わなかったよ。どうしたのかね?」
「春に蝶が飛んで来て卵を産んだの。もう九つきりしかいないけど。カササギが来て食べちゃったの。」
風に乱れる髪を慌ただしくかき上げながら、シアニはひと息に言った。
「夕べ繭になったばかりだったの。隠れる葉っぱが少なくなって動かなくなったから狙われたんだわ。それでもハーモナで育てるのはもう無理だわ。ハーモナのイスタナウトはまだ小さいのですもの。来年もかじられたら枯れてしまうわ。オトワナコスには大きな木があるのでしょう?そこでなら小虫も生きていけるわ。」
トゥルドは厳めしく姿勢を正してシアニを見下ろしたが、その瞳は悪戯っぽくくるりとひと巡りした。
「イナ・サラミアスの人々が命がけで守って来た絹の虫をこの子は前掛けに入れてお土産にしようとしているよ!」
「だって、イナ・サラミアスで神蚕の世話をしてくれる人はもういないのよ。」
シアニは悲しげに言った。
「それに私はレークシルじゃないもの。」
トゥルドは手を伸ばして、神蚕の繭のついたイスタナウトの枝を受け取った。
「君は十分賢いよ。」彼はシアニにだけわかるように素早く目配せして囁いた。
ニーサが灰色の馬を門の内に入れ、トゥルドは馬上に戻った。そして神蚕の繭の枝を軽く差し上げると、馬の腹に軽く鐙を当て、北に向かう道へと進みだした。