第三章 虫の語り 『深山の蝶』3
深山の蝶3
鋭い夏の陽射しが水底を青く輝かせている。花崗岩の縁は目に痛いほどに白く、風は力強く木々の梢を打った。真昼のひと時、谷間の水にはいちめんに光があたる。
巫女は牙状の岩の天蓋の陰から森を眺めた。眩い水面の外側に緑のベールでしめやかな白い肌を守っているイスタナウトの森である。彼女は同胞を見つめるように目元をやわらげた。夏の陽が肌を刺すのを嫌うのと同じ細心さで、繁った葉が神蚕を守っているかどうかを見張った。
子供だった頃の彼女は、裸の枝で立ち往生している蚕をわざわざ拾ってやったものだが、今ではそんな手間はいらなかった。谷間の上にさしかかる雲に目配せしてとどめ、小虫をついばみに来るカササギには鷹の鳴き声を模した歌で脅しておく。その間に蚕は安全な葉陰へと潜り込む。
ある時はまた、万年雪のきらめく峰からの颪が冷たい手で花々を苛みに来れば、巫女は大地の裾をなす山々に下知し、シラビソの樹冠で梳きほぐした。穏やかな風は蚕を傷つけずに強くする。さらに下界のティスナに下れば花粉を運び、田の豊かな実りを結ぶ。
巫女は自ら知らずに庭を豊かにしていた。彼女は時折、北方の左目から全土をうち眺め、麗しい繁栄を喜んだ。しかし、領域を分かつコタ・イネセイナの向こうに雲で顔を覆った妹神の半ば眠り半ば目覚めた知覚の糸に触れぬように気をつけた。妹の目から覗く男の目に出会うことはなかったが、その思念のみが稀に、遠く隔たった小さな存在である現身の身辺をかすめることがあった。が、成人した彼女にはそれも夜風にまぎれて飛び込んで来る羽虫のように些細なものに過ぎなかった。
蚕の生育が順調なのを確かめると、巫女の心は年若い娘のものに立ち戻った。窟から水上に顔を出している花崗岩の沈下橋を渡って岸に下り、清澄な緑陰の下を散策しはじめた。
灰白色の樹幹が緑に染まるひんやりとした森の中から、巫女はふと谷の北側にあたる斜面に目を移した。その目がぴたりと一点に据えられた。
日盛りの風に光るキンバイの淡いさざめきの中に、くっきりとひとつの黒い人影が下りてくる。遠目に見ても大柄な長い手足、確かな無駄のない身ごなし。男がこの谷に入って来ようとしている。
巫女の身内から微かな震えが湧きあがって来た。ティスナの女達を介さずにやって来る者は誰だろう?
巫女は踵を返し、水上へと駆け戻った。露台でとどまり、相手を待った。そして両手を上げ、押し止めんとした。
斜面を下りきりイスタナウトの森に入った男は一瞬姿が紛れたが、すぐにまっすぐに樹間から姿を現した。男は汀で足を止め、その姿は細部にわたるまで巫女の目に焼き付いた。
獣毛を紡いだ織物の簡素な服。籠手に脚絆は鹿革。鉢巻きは絹だ。広い肩、厚い胸にぴたりと筋交いに添った革帯は背にした矢筒と弓を負うためのものだった。その弓の長いこと。
肩越しにのぞく矢羽根は鷲だ。巫女はその奇異な道具を訝しみながら眺めた。男は矢筒から一本の矢を引き抜くと、両の手の間に渡して巫女の方へと差し出した。
それを見た途端、彼女の魂は矢羽根の運命へと滑り込んだ。
眼下に虚空とコタ・シアナの源流の広い谷間が開けた。両の腕は風をはらみ、その流れに乗れば思いのままに空を行けた。飢えた猛々しい魂が心に息づいていた。彼女は沢に出て来た羚羊の子を狙って降下した。と、石礫が胸の真ん中に当たり、潰えた生命の固まりとしてその身は墜落した。男がかがみ込んで鷲の骸から三枚の羽根をもぎ取った。
羽は割られ、矢軸の頭を飾る。そして今度は狩人の手先となって弱いものを追いはじめる。
彼女の憐憫の情は、森にたたずむたおやかな牝鹿に向けられた。獣の感じる恐怖が彼女をその身内に引き込んだ。背筋の凍るような音が空を貫き、矢が身にささり、しなりの余勢が逃がすまじと身中に鏃を送る。
巫女は手を上げ、叫んだ。
「その鏃をつぶせ。お前のために私は苦しむ。」
思念は遠く離れた北の地から“白糸束”の水辺に戻り、少女の声で叫んでいた。その前に男は平然と立っていた。
「命を限りに戦った獲物は旨い。」
男は矢を縦にして鏃を見せた。
極限まで尖った穂先。箆の方へと広がる刃は獲物をとらえて離さぬ返しの刺を放っている。全体にわたる青く冴えた地金に霧のような星屑が散り、そのきらめきは美しくも戦慄をさそった。いくつもの死の瞬間が巫女の目の前をよぎった。この男に屠られたものの恐怖が彼女の心に蘇った。その最後の息の根を止めるのはやはり同じ鋼の刃であった。
「そう、これは鉄だ。火を被り、槌で鍛え、折れても欠けても生まれ変わる。怖いか。」
巫女は背ををぴんと伸ばし、男と対峙した。この男は私を守る地の力のことを知るまい。
彼女は地の目を通して改めて男を眺めた。男は甲虫のように小さくなった。彼女は殻の内の弱みをさぐった。
額を割られて倒れる大きな熊がいた。彼女の遣わした熊だ。熊の前に息絶えた若者がふたり。熊の倒れたむこうにか細い子供の息すすりが聞こえた。男と同じ顔だちの少年が膝を折り、くずおれるところだった。少年の指の間から蝶の躯が落ちた。
「かつてお前は私に敗れた。怖いものか。」巫女は言った。「私の蝶に手を触れるな。」
男はちょっと笑った。精悍な顔はよく日に焼け、金褐色をしていた。くっきりとした眉の下の目元の深さ、鼻梁と頬の峰の鋭さ。男はもはや彼女の記憶する少年ではなかった。
「せいぜい守ってくれ。それがいい、サラミア。あんたが蝶を確保している限り、おれはあんたの味方だ。」
巫女の眼差しから千丈の高みから見下ろす色は消えた。地上の一陣の風が少女の肩を覆う蝉羽を揺らした。
「誰、お前は?」少女は細い声で呟き、矢継ぎ早に叫んだ。
「それ以上私に近寄ってはならぬ。ここは聖地だ。もと来た道を返すがいい。」
男はまじろぎもせずに言った。
「おれはどこであれ用があればゆく。長居はしないから安心しろ。やがてイーマの四族の代表があんたに託宣をもとめてくるだろう。そうしたら下界に下り、問いに答えてやれ。民の守りなしにはあんたもそうしてはいられないからな。民の長たちを知るのはあんたの勤めだ。」
「私は遠くベレ・イネまでも見渡し、聞くことが出来るのだ。」
少女の叫ぶ声は、乱れる風に虚しく散るのみであった。
「結構だ。あとは―――機嫌よくしていてくれ。」
男は片頬に笑みを浮かべてくるりと背を向け、若々しいしなやかな足取りで谷間を横切り、あっという間に崖を登って姿を消した。
少女は佇んでいた。南の山脈の向こうから積みあがった雲が濃い影を醸して広がりつつあり、谷間は陰の底に沈んだ。風は彼女に従わずに荒れ、梢の先が波打ちはじめ、鳥は空から地上へと下り、森の陰に入った。少女は身をかがめ、黒々と面を揺らす水鏡を覗いた。不安げな顔がこちらを見返した。
「あの男がそうなの?」
水鏡は彼女自身の声で答えた。少女は立ち上がり、ぱっと沈下橋を蹴って森へと駆けこんだ。せわしくイスタナウトの下を彷徨う少女の耳に、五月雨のように蚕の葉を食む音が降り注ぐ。
あの男は何と言った?蝶を守っている限り私の味方でいると。
少女はイサピアの上で両の拳を握りしめた。
だが、私を脅し、命令しようとした。
少女はイスタナウトの幹に肩を寄せ、頭を預けた。木の他に頼る者はいない。ふとこみ上げた心細さの中で、少女は守らねばならない蚕のことを考えた。誰に言われずとも、私は蚕を守るに決まっている。だが、あの男を味方と考えても良いものだろうか。あの男が妹をあやつり、イサピアを奪おうと企む者とは別の男と考えて良いものか?あるいはまさにその男では?
地中から雨の匂いが立ちのぼる。青草のひんやりとしなる中に、窟へと戻る足取りも頼りなげに、少女は程なく降りだした雨が森の外で細かな矢柄のように降り注ぐのを眺めた。森の下の参道に、外衣の片袖を頭上にかざすようにして急ぎティスナから戻って来るルメイの姿があった。
ルメイに男の来訪を告げるべきだろうか?少女は、すっかり濡れた外衣の水滴を窟の前で払い泥のはねた裾を背をかがめて絞っている姿を見て考えを変えた。
いや、いい。おそらく何の助けにもなるまい。
ルメイは炉の火の前に行き、濡れた髪を背の方へ撫でつけながら手早く薪をくべた。白い筋が側頭のあたりに増え、赤くなった手の甲に皺がうかんでいる。火を燃え立たせてから彼女は濡れた服を着替えるために奥に行った。歩いたあとには水の滴りが残った。
巫女は己の身形を顧みた。森の下を通ってきたとはいえ、衣の裾も髪の先に至るまで、少しも濡れた様子は無い。
言うに及ばない。巫女は独り言ちた。今では誰が一年を通してイナ・サラミアスの水を治めている?ルメイはその口から私の名を告げ、今では私を女主として扱っている。考え、決定を下すのは私だ。
「上の峰のほうから、男たちの召集の角笛が。」
身繕いを終えて戻って来たルメイが、礼をして言った。
「ニアキで時ならぬ集会が開かれる様子でございます。“河向こう”から稀人が参ったのでしょう。」
「稀人とは?」
「友好の意を表明して訪ねてくる異邦人のことです。」
ルメイは西の方を見やり、声を低めた。
「コタ・シアナを超えて人が来るのは稀です。それが南の郷の舟人でもなく、西の白く朱い人とは例のないこと。」
そして頭を下げながら巫女に言った。
「私のお仕えした代に稀人の前例はございませんでした。が、もしや、ニアキの長老方が助言を求めて参られましたなら、あなた様は女主の神人としてその言葉を告げねばなりませぬ。」
「どうしたらそれが出来よう?」少女は思わず言った。
ルメイは答えた。
「昔から神託を受けるのに定められた場がございます。女主の目が両眼ともに開き、ものの真偽を見定めるとされる、ベレ・サオと中の峰の間の谷間にございます“掌”。長手尾根の裏にあたります。必要が生じた時はあなた様はそこに出向き、サラミアの言葉が降りるのを待たねばなりません―――初めての長旅となりましょう。」
十三年前に“白糸束”に入って以来、下ることのなかった“聖なる川”の参道を巫女はティスナまで下った。ヒルメイの女がふたり付き添い、蚕湖から再び流れ下るコタ・ミラの脇から“南の物見”までの緩やかな道を一日かけて移動し、物見所のナラの木の下の小屋で泊まった。翌日にはヒルメイとクシュの主幹が物見に到着し、男たちによってオルト谷の上部の源流に橋が架けられた。
男たちの仲介役の少年が、宿の前までやって来た。
「ヒルメイのガラートと申します。これより先は私が案内いたします。主幹に伝えることがあれば私にお申し付けを。」
少年は付き添って来た女のうちのひとりの息子であった。少年は勾配の緩やかな西の方へと、渡渉するいくつもの沢の水量を見定めながら森林の中を先導して行った。オルト谷の上部の北の峠を越えたところにやや深い渓流があり、少年は駆けて行って大人たちと相談し、吊り橋を編んで流れの上に架け、女達を長手尾根を仰ぐ麓の森に降ろし、そこで母を手伝って天幕を張った。
巫女は旅の間終始ベールの中であった。揺らぐ波紋の中で乱れる陽光と梢の影、初めて見る一族の女、もっと遠くに影の所作のみ見える男。少年の後姿。全てが明朗でない中で光線の位置は移り、色は夕闇へと沈む。
彼女は手を上げベールを後ろに押しやり、空を仰ぐと大きく息を吸った。木々は高地よりはるかに丈高く、幹は太く、天は遠かった。足元にはシダが繁り、苔は青く、しっとりとしていた。
付き添いの女ははっと振り向いて、小声で息子にその場を去るように命じた。
神託所“掌”は長手尾根の手先を回り込んだ向こう側にある。コタ・シアナの上流を臨む崖に穿たれた険しい道が旅の終わりだった。巫女には少年と女達の逡巡が見て取れた。彼女は自ら少年に先に行くように声をかけ、ベールを女に渡し、髪を束ね上げると誰の手も借りず、少年の辿ったように後を辿って岩肌に沿った狭い道を通った。その後を女達が続いた。
北東に視界が開け、その眼前に仰ぐのは雪を被ったベレ・サオの頂とそこから発する深い渓谷を伴う千尋の峰々であった。丁度イナ・サラミアスの肩口から昇って来た太陽が、それらの切り立った畝々の波頭と、その間々の水脈の長い銀の筋を輝かせていた。伝い下る水のきらめきは、峰の裾野を色濃く包むシラビソの森林へと紛れている。しかし、それはやがて西の方で妹川、背川となって現れる。
巫女は、正面の最も深い谷の上に落ちる瀑布を遠くに見つめた。反射が目を射るほどに眩しい。彼女は一寸微笑んだ。瀑布の右側の山腹は丸くふくよかに明るい森林が覆っている。初めて直に見る彼女自身の顔だ。
「ベレ・サオの滝でございます。」彼女の後ろから女が声をかけた。「左側は御髪の峰。今ではかの地に住まう民はおりません。右側へ参りますと鷲谷がございまして、この水とご覧の滝の水がコタ・シアナの最初の流れをつくります。さらに右、中の峰に移られますとニアキがございます。今おいでの所より長手尾根を上った先でございます。」
女はベレ・サオから右へとなだらかに弛んだ鞍部を経て、中の峰の方へ言葉を導いた。長老たちが会議を行い、女達も冬にはそこで過ごすニアキ。しかし、巫女は軽くうなずいただけだった。
男たちは、昨日の渓谷を東に回って“長手尾根”を越え、ニアキの長老たちを迎えに行っているという。
会見の場を決める時だ。巫女は周を見回した。彼女がいるのは鷲谷からの源流に臨む棚地で小さな明るい森を備えている。彼女の“大きな目”からも良く見えるが、小さな現身は相手の目にさらされる。彼女は少し上へと歩いた。
長手尾根から伝ってくる水がところどころにいくつもの小さな滝をつくっている。滝の下は少しへこみ、ひとしきり水をためて源流に合流する。滝裏に小さな窟があるものもある。
母親から追いやられた少年がある滝の傍らで腰掛けて涼んでいた。巫女は足をとめた。ふた方から落ちる水がぶつかり細かな水煙を発している。その後ろには堅い岩が山中に穿たれてほどよい窟をつくり、水の帳の影になる。窟の正面には大きな平たい一枚岩。ベレ・サオの瀑布をまっすぐに仰ぐ場だ。
「ここを会見の場にする。」
巫女は言った。そっと後に従って来た女は連れに振り返り、座の設えを相談しようとしたが、巫女はふたりにそのままそこにとどまるように命じ、泡立つ渓流の中に頭を出している岩をみっつ踏んで水の帳の裏に姿を消した。
少年は気を揉むふたりの女の横から一枚岩の上に飛び移り、じっとしぶきを見つめた。細に砕けた水の呟きは周囲を包む音のうねりとなり、人の話し声などはたやすく紛れてしまう。
「私の声が聞こえましょうか?」
少年は静かに水煙に問いかけた。軽い笑い声がし、明快な声が岩の上に返って来た。
「そこをお退き。私に尋ねるのはお前ではあるまい?サラミアに事を尋ねる者が来たらその場に連れてくるがよい。私にはよく見え、よく聞こえている。」
少年はそうと教えられたように、小さな滝の群れの奥のやや険しい峰の側方を見た。木々の間から下りてくる男たちの一隊がある。少年は長老たちを迎えに棚地の奥まで走って行き、軽快に斜面を登って行った。
巫女は水の帳の内から岩の上へとその周囲を眺めた。イーマの四部族、光、水、土、風のそれぞれの若い者の頭を務める主幹たちが長老たちを先導し、あるいは殿を守って来、少年が案内した岩の上からは間をおいて止まった。
彼らの間から、杖をつき、長い白髪の、あるいは半白の髪を束ねた三人の老人が分かれ出て下りてくる。額に締めた鉢巻きの紋様から水守、土守、風見、と見て取れる。他に風見の壮年の男がひとり、傲然たる足取りで長老たちに続いて岩の上に下りた。
水守の長メムクシは中心に進み出、先ずベレ・サオを向き、礼拝して言った。
「庭を見そなわす女主よ。イーマの子らに事を説き明かしたまえ。」
そして、巫女のいる窟に直り、一礼した。
「女神の言葉を告げ報せる乙女よ。我らの意を女主に取り次ぎたまえ。」
巫女の声が岩の上にいる男たちの耳朶に穏やかに響いた。
「そこにいて問うがよい。答えよう。」
四人の男は岩の上に座った。アーメムクシは言った。
「女主よ。エファレイナズの西にアツセワナの地がございます。古にコタ・イネセイナを流れ下り来た、白く朱い異邦人の裔。この長が三十年ほど前にエファレイナズの郷を束ねて王を名乗り、このほど、息子のシギルがイナ・サラミアスに親交を求めて使者を遣わしてまいりました。我らは彼らをどう遇するべきか。この申し出はまことに互いの益となることか。または二心あっての申し出か。明らかにしてくださるようお願い申し上げる。」
巫女は、妹神が健やかであった頃に北の地からやって来た、彼女らの子ではない人間のひと群れを思い出した。大きな移動は二度あった。一度目の群れはコタ・レイナの周辺に移り住み、二度目の大きな群れはコタ・イネセイナの岸に住み着いたのだ。この群れの中のいくばくかは妹の地に入り、鉱石を貪って妹の身に変調を来したのではなかったか。彼女はより遠くを、より昔をよく見るために、ベレ・サオの“大きな目”からアツセワナを眺めようとした。
が、ふと、巫女はコタ・イネセイナの向こうに座す妹神の眠りが、もはや空蝉のような空の魂を揺らすそよぎに過ぎないのを見て取った。妹の魂と力はすっかり奪われてしまっている。そしてその髄石を持ち去った者の気配はイネ・ドルナイルの周囲からすっかり消えていた。
巫女は、心乱されながら、なおもベレ・サオの高みからエファレイナズの西に眼差しを集中した。
薄曇りの下に、麦の刈り取られた跡の枯れ乾いた切り株の野が、長い丘の下に広がる平野の大部分を占めていた。わずかに残る木立ちは別の耕地との境界に過ぎず、木立ちの下には多すぎる人間が涼み、草地には大きな鈍重な生き物が根こそぎ食い尽くした地面の上に座り込んで反芻している。
外で働く者たちはくすんだ色の厚い服を着ている。男たちの中には上着を脱いで、薄い肌着と長脚絆のような衣服のみの者もいる。女達は陽射しを避けるために広い庇の上から短いベールを掛けた頭巾を被っている。これらは農民たちだ。肌は日に焼けて赤く、髪は麻色から濃い茶まで様々だ。
丘に目をやれば裾野から煙が上がる。石垣の内の一角には火の燃え盛る炉があり、その前では鋼の材料の鉧を地面の上で割っている者があり、鞴を押す者があり、金敷に置かれた白光を発する鉄塊を鍛える者がいる。
鎚に打たれるのは妹の骨肉だ。
巫女は目を背け、これらの使用人たちを使う長たちの住む丘の上部に視線を移した。
かねがね蟻塚のようなと思っていた丘の街は石で畳まれ、均質な石材を積んで固めた城壁が丘の周と階層の変わる通路沿いに巡らされ、その方位の変わる節々に閉ざされた門が配されている。
「見えない…。何も見えない。」
巫女は呟き、大きく目を凝らした。不意に闇が下りてきたかのように視界は白茶けて色あせ、奇妙に眩しく揺れた。アツセワナの城壁の内は彼女がどんなに見つめても透し見ることは出来なかった。そればかりか、コタ・イネセイナからコタ・シアナに至るエファレイナズの全てが薄闇に包まれている。
正面に目を移した巫女は、思わず目の前の闇の帳を振り払おうとするかのように手を顔の前にかざした。岩の上に座す四人の男たちの姿はひとりひとりが薄闇の覆いに包まれ、なかんずくその面前には濃い煙霧が下りて彼女の視線を遮っているのだった。
「そなたたちは何故覆面をしている。」
彼女は語気鋭く言った。「私に面を見せよ。」
長老たちはわずかな動揺の身じろぎをしたが、端然と座したまま、より畏まって答えた。
「どうなさいました。この通り老いた顔を御前に晒しておりますが。」
巫女は困惑した。高所から透かし見る大きな目で見るほどに、男たちを覆う闇は濃くなるばかりだった。彼女は見えるものを探し、一枚岩の外側の木立ちの方へと目を移した。岩壁の陰に、長い弓を背負った男がひとり、岩肌から生い出た小木の隣に半ば隠れるように立っている。
「何故、あの男だけが鮮明なのか。」
巫女の声に、岩の上に長老たちと並んでいた風見のオコロイはたちまち部下を呼び、岩壁に潜んでいた男を取り押さえさせた。
「これはこれは…。」
オコロイはうんざりしたように冷笑した。岩に近い汀まで引っ張って来られた男は、聖地に現れた鋼の鏃と刃を持つ男だった。
「ハルイ―、お前はここに居る間じゅう騒ぎを起こす奴だな。」
両側から腕を取られた男は巫女の方に顔を向けた。巫女は水の帳が彼女を守っているのを忘れたじろいだが、男の目元がふと微笑むかのように和らいだのを見て冷たく言った。
「その男を私から遠ざけよ。」
風見の男たちが闖入者を連れ去るのを見届け、巫女は一枚岩に目を戻し、面を曇らせた。依然として岩の上の男たちの面は覆われている。
「あの男は罪を負っているのです。」顔の無い風見のオコロイが言った。「まだ子供の頃、不注意から兄たちの死を招いた。」
「では」巫女は戸惑いを隠しきれずに言った。
「何故、そなたたちは闇をまとっている。そして罪人が光のもとにいて鮮明なのか。」
オコロイは笑い声をあげた。他の者は皆黙っている。
「まさにあなたの眼力に暴かれたのでありましょう。行いに科の無い我らは懲らしめの光から身を守る盾のようなものが備わっているのでしょうな。」
オコロイは彼からは中の見えぬ水の帳にやや膝を進めて言い継いだ。
「サラミアよ。我々は待っているのです。あなたのその目がアツセワナとかの地の使者たちをどう見定め、我々にいかなる助言を授け給うのかを。」
「アツセワナには渇き疲れた野が見えた。」巫女はためらいがちに言った。
「蔵には刈り取り屠った物が四方隙なく納まり、人は大勢おり身体も大きい。が、彼らを使う長の姿が見えず長の仕事の様子も見えぬ。彼らの触れる草木、育てる獣は少ない。住居の高所は暗く閉ざされ何も見えぬ。」
「何も見えぬ、と。」
オコロイが畳みかけた。巫女は口元を引き結び、再度ベレ・サオの目から庭の内を眺め、やがて言った。
「コタ・シアナの西の岸。私の手元のほんのすぐ近くの下流に異邦人が四人いる。」
「彼らが使節でございます。」
「そなたたちと同様、闇をまとっている。―――刻々と濃さを増し、何人かも見分けられぬほど―――ひとりを除いて。」
「では、近くに招いて会われてみては?」オコロイは言った。
「オルト谷からここに至る沿岸には見張りをたて、怪しい者は近づかぬように守りましょう。」
巫女は帳の内から順に長老たちの顔を闇を透かして見ようとした。依然としてその面には厚く遮る闇がかかり、彼らが何を思っているものか表情から推し量る術は無かった。あまつさえオコロイを除き、顔ひとつ指ひとつ動かない。いつの間にか人の姿をした石の塊にでもなったかのように。
「水守、土守、風見の長たちよ。そなたたちも使節に会うことに同意なのか?」隠せぬ戸惑いが巫女の声に表れた。
「ここに連れてこられても―――面の見えぬ者ばかり。彼らの真意をどうして知ればいい?」
オコロイはますます声を高くして笑った。
「それこそ、先に申し上げたように、御目から守られた者が闇をまとっているのであれば、我々と同等ということ故、気になさるには及ばない。審議はお任せあれ。残る怪しいひとりの心積もりをご覧になっては?その者はどのような容貌でありましょう。」
巫女はしぶきに目を据えた。やがてその薄い帳の表に“長手尾根”の向こう、オルト谷との間の川口のひとつに、岸につけようとする小舟が二艘入って行こうとするのが見えた。
「誰が許した?」巫女は厳しい声で言った。
「あの男だ。身体の大きい。肌の白い―――。鳶色の髪、灰色の目。」
コタ・シアナの岸辺から谷間にかけて、山肌は濃い朝霧に包まれていた。谷から次の谷へとゆるい傾斜を選りながら森の民の案内人が導いていく道筋は、西から来た者にはほとんど道にも見えない。
イナ・サラミアスの上陸を秘密裏に果たせるという目論見は甘かった。交渉の申し出に応じ、入り口を教えてくれたタフマイの男は、自分では一族で地位のある、口の利く男だと言っていたが……。民全体の中での信頼はどうやら。我々の来訪はどのくらい知られているのか。コタ・ラートより西をあまねく治め、コタ・レイナの領主たちをも配下にしたとはいえ、この東の地で彼らアツセワナの者は未だ何者でもない。友でないのはもちろん、人とさえ思われているかどうか。
待たされていた中州を離れ、河沿いに下ってほんのいくばくか。舟をつけた川口の脇の渓流の岩から誰何する声が響きわたったのだ。
「気の早いことだ、アツセワナの方々。」
高所から弓を構えているのは精悍な顔だちの男だ。イーマはアツセワナ人から見て体格が大きくは無いが仰ぐ位置からゆえか、この男は長身に見える。
「許可を受けてのことではなかろう。陸に上がって案内もなく何をなさるつもりか。」
「弓を控えろ、そこを下がれ」
男の立つ岩根の下の藪からまっすぐに出て来た、幾人もの部下を引き連れた頭の風格の男が、弓を持つ男に声をかけた。見通せぬ藪の奥は森が広がっているようだ。
「長老が迎えに私を寄越した。案内する。」
「入山を許されたのはふたりだけだ。」弓を下ろしながらもその目は一瞬の怠りもなく侵入者を見据える。
ここに来ている者は正使がひとり。残りの三人は全く同じ仕着せの副使だが、その実ふたりはイネ・ドルナイルのチカ・ティドから連れて来られた従者。彼らを選んだ正使の他には、彼らの素性、また何の故あって選ばれた者たちか詳しくは知らない。彼らもこちらの素性を知らされていないのだから相子ではあるが。その正使は、はたまた何故トゥルカンに選ばれたものか?これは外交はおろか、城内の会議の問答、果ては通りすがりの挨拶でさえおぼつかない粗忽ものだというのに。
トゥルカンにイナ・サラミアスと交渉する意志はあるのだろうか?それとも、こちらの要望を聞き入れて戯れに副使の数に入れたこの身に存外の働きを期待しているのか。まさか。交渉が頓挫し、いっそ侵攻のきっかけさえつかめればいいと思っているのではあるまいか。本人はアツセワナにいて高みの見物だ。
「正使の方。前に出られよ。―――そこの御仁」
案内に来たという者がこちらを見て言う。
「あなたともうひと方には外していただきたい。我らの神人があなたについて不穏なことを口にされたので。」
「おれの意見は逆だ。」
弓の男は一同のところに下りてきて言った。
「彼の目が気に入った。他の者は動き過ぎる。」
「しかし……」先頭の男は、副使ふたりを見比べた。この者たちに風貌で劣ることもあるまい。
「オコロイでさえ彼女に任せろと言っている。」弓の男は皮肉るように言い足した。「珍しく意見が一致だ。」
「―――よかろう。」案内人はこちらを見てうなずいた。
「鳶色の髪の方。正使の方、そしてあなたの名を伺おう。」
「正使はサザール。」いそいそと先に進もうとする正使を見やりながら、舟の中の贈り物の荷を見定めて肩に担い上げ、鳶色の髪、灰色の目の男は言った。
「サザール・ウヌイマイ。私は副使。シオム(若鷹)だ。」
イーマ達の足取りは静かでよどみなく、しかし、素早かった。なだらかな森の中はもちろん、小さな沢がほうぼうに谷を刻んで賑やかにさざめいている急峻な山腹を横切る時でさえ、外衣の裾をはしょって腰に結わえた姿で軽快に登ってゆく。シオムはしっとりと重くなった長いマントを腕にからげ、汗をかきながら、案内人と意外な頑強さを見せてぴったりその後について行くサザールの後を追った。
流れる霧の垣間見せるものは、白い木肌とともに洗われた瑞々しい緑の葉と林床に灯された花々の揺らぎであった。時にはその間に立つ警備の男たちの端然とした面をも見せた。彼らは悠然と遠くを眺めているようでありながら、その前を通り過ぎる者に一瞬鋭い目をとめる。
シオムはそれをひとつひとつ臆することなく見返していった。彼の前後に付き添っていた少年が好奇心に満ちた目をむけた。まことに気の利く少年であった。携えた杖で小枝や草を払い、急勾配では安全な足場を指して教えてくれる。先を行く案内人に追いついて、休憩を請うてくれたのもこの少年だった。シオムは少年の杖のたもとに腰を下ろした。少年は詫び、杖の先を控えた。
「ちょっと訊きたい。まだ大分かかるのか。」
シオムは離れて座っているサザールにちらと目をやって少年に尋ねた。
「さほど遠くではありません。この峠を越えると後は下るだけです。低い水の音が聞こえませんか?下の谷に小さな滝があるのです。」
「私にはどの水の音も同じだ。」シオムは呟いた。「自分がどこにいるかもわからん。」
少年は用心深く黙っている。
「私を推してくれたあの男は、最も無能で無害なものを選んだな。」男は自嘲した。
少年はちらりと笑った。
「ヒルメイのハルイ―は真実しか言いません。」
シオムは少年に分かるか分からないかくらいにわずかに頷いた。
「ならば我々の見送りも彼に任せれば安心だな。」
峠を下る道は険しく、岩がちであった。下るほどに岩盤から染み出る水に育まれた苔に足を取られ、さしものサザールも悪態をついた。
「尾根を回る穏やかな道はないのか。―――開けぬ郷よ。」
「コタ・シアナに張り出した崖沿いの道が」少年はやや挑みかかるように言った。
「水面まで三十尋もありましょうか。」
険しい尾根を下りきると、広い谷間に面した棚地があり、イナ・サラミアスを象徴するあの美しいブナ、イスタナウトの森が、周囲の空気をすっかり緑色に染めている。蒼い陰の中に白い毬のようにガマズミの花序が浮かんでいる。その房が揺らいでいるのは、切り立った山肌から降り注ぐ小さな滝が起こす微かな風のせいだ。
アツセワナからやって来たふたりの使者が通されたのはふたつの小さな滝がかち合った滝壺の前であった。その北東に開けた、コタ・シアナの源流を形成する谷の一支流に加わるべく、ふさふさと泡立って下る水を一旦左右に引き分けて、前面には大きな平たい一枚岩がある。
岩の向こうにはイーマの長である三人の老人。鉢巻きの紋様から水守、土守、風見であることは数日前の事前の対面で知れている。そして風見の壮年の男がひとり。コタ・シアナでの長老たちとの対面はこの男が手配した。三人の長たちの中で待ち受けるように真っすぐにこちらを見据えている水守の長老には初めて会う。
「ようこそお越しを、異国のかたがた。」
杖をつき、長い白髪を束ねた、最長老と見える水守の長が声をかけた。
「古来より、コタ・シアナを越えてイナ・サラミアスの地を訪ねる白き肌の人は稀であった。我々もまた西へ付き合いを求め下ることは無かった。我らと貴公たちとはそれぞれに異なる役割を授かった者同士であったのだ。しかるに世は変わり、我イーマの中でも異国との交流を望む声が起こり、貴公らもこうして訪ね来られた。この呼応が何をもたらすものか。話し合いにより互いの存念が明らかになろう。まさにここはサラミアの掌。女主の眼力の最も強い場所なのだ。」
「ここが件の……」シオムの隣でサザールが呟き、初めて関心を示して、かがめた肩ごしに頭をめぐらせた。
アツセワナの使節とイーマの長たちがそれを挟んで対峙する一枚岩の、その前に交わるふたつの滝は、水の帳のあわいにある深い滝裏の窪みを透かし見せている。水のわずかな増減が帳を薄くした時、滝裏の洞の中に、何かが微かに白く動くのがシオムの目に留まった。
水守の長が使節らに手真似をして岩の上に招じ入れ、同時に彼らイーマも岩の上に下りて向かい合い、足を組んで座った。シオムはそつなく振舞うサザールに内心感心しながら彼らに倣って座った。腰を下ろせば不思議と心地が良い。頭上には淡い緑の天蓋がかかり、滝の繊細な沫が散り、降りそそぐ。程よく緑の葉を透かして届いた光が、滝の脇に控えて立つ少年の上体を柔らかく縁取っている。他の警護の若者たちと違い、この少年はこの場に留まるのを許されるのか。
「女主はこの場におられる。アツセワナの方々、貴公らの主の意向を述べられよ。」
水守の長の言葉に、尖った頬骨と細く曲がった鼻梁、半白の砂色の髪のサザールはつと首をのばして言った。
「某はサザール。アツセワナの宰相トゥルカンの命を受け、正使として参った。」
土守と風見の長は彼の風貌に目を留め、言った。
「不躾ながら貴公の生まれは北の白い人々とは違うような。」
あまり日の目を見ない肌はそれでも色白ではなく浅い黄褐色だ。サザールは厚ぼったい目蓋を上げた。
「生まれはイネ・ドルナイル、血筋は申し上げても仕方がない。」
「私はシオム。」シオムは素早く言った。「王の意を受けて、友好の意思を伝え、両国の存続と繁栄を図るために参った。」
滝の音が高まり、シオムの声を上回るかと思えた。ふふっと風が耳をくすぐった。
使者がふたり、主がふたり。いったいどちらが真の王で、どちらの意向が本意なのか。
風の嘲りも聞こえぬげに、サザールはシオムを向き、なかなかに尊大な身振りで合図をした。
「友好の印に贈り物を主より言付かって参った。お納めいただきたい。」
シオムは舟を下りてから道中担ってきた袋を前に出した。
「ご覧あれ」
金の延べ金、銀の延べ金、砂鉄の袋。サザールが機嫌よく言った。
「お納めくだされ。緑郷の美人に身を飾る金など要らぬかもしれぬが。」
「金、銀」水守の長老は落ち着いて言ったが、用心深く目を逸らした。
「美しいかもしれぬが無用だ。また稀少ゆえに妬みや慢心の元となるやもしれぬ。」
サザールは首を振った。「ありふれた物だ。身につけた者の価値を左右するほどでもない―――。だが、こちらの方がより有用かも知れぬ。この手に取った黒い砂。何かご存じか。砂と見えてチカ・ティドの技で驚くべき変容を遂げる。少しはこれが変化した道具をお持ちかな?」
誰かが答えるよりも早く、どっと一塊の落水の飛沫と轟音とが、サザールの手の内の砂をこぼれさせた。
妹の血だ。
針のように鋭く繊細な声が一同の輪の中に下りてきた。大きな水の落下から次までの間隙に、滝壺の窟の中に潜む姿が露わになった。ほっそりとした人影を薄い紗のベールが山なりに覆い、面を白い光沢の斜面が覆い隠している。風がベールの裾をもちあげて優れた顔の輪郭、なだらかな肩の線を透かし見せた。
その面がサザールを向き、ふいとそむけられた。
「醜い男」
一瞬にして瀑布の帳がその姿と声を覆い隠した。サザールの声が高く、饒舌の気味を帯びた。
「これはこれは、サラミアの言葉を語る神人がここにおられたとは。鉄がお気に召さぬなら銀は?河畔まで同伴して参った細工師がご要望のままに細工をして進ぜよう。装身具なとお持ちの刀子の鞘、柄なと。」
滝の面は何事もなかったかのように淡々と水を吐き続けている。一瞬のうちに見えた少女の姿も声も、その気配はふっつりと消えた。
シオムはしばし残像に心奪われた。だが、誰ひとり何も目にしなかったかのように端座している。水守のアーメムクシは口火を切った。
「アツセワナのかたがた、ご厚意は頂戴しよう。が、このような宝、我々はどのように扱ったものかわからぬし、見合う返礼が出来るとも思えぬ。これを受け取る前に訊きたい。西の長は我々に何を望んでおられる。」
「他でもない。鉄、塩、穀物などの取り引きの事だ。」サザールは、主トゥルカンを思わせる鼻にかかった声で言った。
「交易の申し出か」アーメムクシは事も無げに言った。「取り立てて不自由は無い。」
「公正な交易を」サザールはゆっくりと言い直した。
「これが肝心なところなのだ。互いに不都合が無ければはるばる訪ねて参りはせぬ。」
アーメムクシは厳しい目でじろりと使節らを見返した。サザールは平然と言った。
「一昨年前から、アツセワナの市に法外な値のついた益体もない焼き物が出回るようになりましてな。城下の陶工たちを大いに怒らせた。なに、貴人の道楽にひとつふたつ買われてすぐに売れなくなったのだが、出所を聞くとこのイナ・サラミアスで鉄の代価として取引されたということ。買い取った商人に尋ねてみれば、この地では鉄器を求めているが、コタ・レイナの南の市では手を尽くしてもほとんど手に入らず難儀しており、気の毒に思って当時はまだ珍しかったかの地の焼き物と交換したのだと。」
オコロイの顔がわずかに赤くなり、こわばった。
「もはやアツセワナの商人も人助けのためにこのような不公平な取り引きをする者はおらぬ。いや、お国ではようやく鉄の道具に気付き、まだまだ必要とされる段階であろう。我らはこのように提案申し上げる。アツセワナの製鉄はイネ・ドルナイルの採掘と精錬に負うているが、今ではかの地の杣は乏しく、炭を作る木が不足している。ところでこのイナ・サラミアスには木が豊富にある。アツセワナは鉄器を提供する代わりにイナ・サラミアスの木材が欲しい。」
長老たちは明らかな渋面を浮かべ、沈黙のうちに見交わした。水守のアーメムクシは言った。
「我々は必ずしも鉄を欲しない。民の者があなた方の要望に沿わない代価を差し出したのなら今後はそれを止めるだけのことだ。」そして間に置かれた贈り物に冷ややかな目をくれた。
「話がそれだけのことなら我々には贈り物を受け取る言われもない。ここで会見は終わりだ。」
風見のオコロイは憤慨したように身を乗り出しかけ、警備の若者たちでさえ動揺したように身じろいだ。サザールは平然と老人たちと若者たちとを見比べている。シオムはやや前ににじり出た。
「正使が初めに申し上げた事を思い出されたい、長老のかたがた。鉄に限らず穀物や塩の取引のこともだ。イナ・サラミアスはひとり隣国を頼らずにゆけるのか。あなた方はこれまで通りと思うかもしれないが、事実はこれまでよりも後退していくはずだ。」
皆の目が一斉にシオムに向いた。
「先ほど世は変わったと言われましたな、水守の長よ。あなたはそれぞれの民の役割と運命が移りゆくことを肯んじはしないが気付いてはおられるのだ。ここがまさにサラミアの目元の展望台なら西を御覧じろ―――。北から来た民の末裔アツセワナはもはや一部族の集落ではない。あなた方は不動であったかもしれないが、アツセワナは国として政を行い、先王アケノンの代には、コタ・レイナの三郷との盟約を結び、全エファレイナズを統治のもとに置いたのだ。強力な基盤を持つコタ・レイナの領主たちも今ではアツセワナが定めた一定の法に従い賦役を担っている。それぞれが主であった国がだ。彼らはアツセワナの元に下ると予想したであろうか?あなた方が交易に下りてくるコタ・シアナの下流域はもはやアツセワナの領土だ。知らぬ遠国とは言えぬ。互いに挨拶をかわすのはいずれ道理の事ではありますまいか。
「そこでこの度の会見だ。これまではあなた方にとってコタ・シアナの向こうとの交易は人同士のやり取り、あるいは一地方の郷同士のやり取りであったろう。しかし、我らから見ればエファレイナズの領民と異国との交渉だ。今後わが宰相トゥルカンは、エフトプの下流、ピシュ・ティの交易所に持ち込まれる品にも税を課す。あなた方イナ・サラミアスは市での取り引きでは不利になろう。あなた方はこのままでは不自由される。―――鉄ばかりではない、塩、穀物も。アツセワナの領民よりも高い相場でないと手に入れられなくなる。近年あなた方は天が恵んでくれるものでは豊かであったろう。子も増えたに違いない。しかし、我がアツセワナの市を頼みにすることも増えたはずだ。しかも農民漁民ばかりのピシュ・ティではあなた方が持ち込む木材も毛皮も高くは売れず、アツセワナの市までの輸送にその価値はほぼ消える。鉄山を営む我がアツセワナは交易の品目を指定し、代価を何にでも交換できる金子にすることでこれを解消する道を示すことが出来ると思う。例えば、我々の欲しいものであなた方が唯一無限に持っているのは森の木だが、一方我々はあなた方が求める他の全ての物をほぼ網羅できる。」
「はるか北方より来りて己を主とし、西に君臨するアツセワナよ。そなたは併合を促しているように聞こえる。」
風見の長が辛抱強い沈黙の後に厳めしく口を開き、その傍らの長らもうなずいた。
「使者のお方、その物言いには既に支配者の尊大がうかがわる。そなたの言い分がアツセワナの意思ならば、我らにアツセワナと生きる道は無いようだ。サラミアの元で森を守るのが我らの勤め。その身を切り売りして生きるなど我々には許されぬ。アツセワナの市に頼らねばならぬのなら子を増やさぬ方がましだ。」
「必ずしも併合を意図したのではないが、」シオムはひるまずに言った。「サラミアを母とし、掟に従って生きる高潔なイーマよ。あなた方の方はどうか?我々を神を知らず、習慣も違う異邦人として分かろうとすることすら避けているのでは?交流は力の大小にかかわらず互いを豊かにするものだ。併合はひとつの家族として見ることも出来よう。これが婚姻ならばつれあいを尊重しあいながら資産をひとつにすることだ―――これは道の一例だ。また互いを友人と見ることも出来よう。友の求めに応じて力や物を融通しあう―――これも道のひとつ。仰るように力ずくで奪う道もあろう、我々の意図はそうではない。が、併合であれ共生であれ、可能性に目をつぶるのは賢いなされ方ではない。」
シオムは言って、滝に覆われた窟に目をやった。
「はるばる訪ねてきた我々の事をあなた方は知りたくはないか。そこにおいでの神人がサラミアの言葉を語られるなら、私はそれを聞きたい。」
「タナの言葉を我々は直に聞くことは出来ぬ。」アーメムクシは直ちに答えた。「ここにはサラミアの目があるだけだ。ここでそなたに答える口は無い。」
ああ、とサザールが笑いに似た奇妙な溜息をついた。長たちは四人ともがひとつの鉄壁となったように頑として面を動かさなかった。一介の使者としては出過ぎた振る舞いだったか。恥をかいても正してくれる者などいない身だったな―――。目線がつい滝の奥に惹きつけられるのを、シオムは膝先を睨みつけて抑えた。しかし、イーマの長たちばかりでなく、サザールまでも気付かないふりをするのか。巫女がそこにいるはずだ。声も聞いた。でなければ、あの中にいる人物の正体は何なのか。大事に隠しているが、何も言わさず何もさせないつもりか。
「ここにサラミアはいる」
耳に鳴れてきた滝の音から、細い少女の声が降りてきた。と、瀧音と奔流の玉散る水音は、少しずつ驟雨のように整い揃ってきた。ふつふつと水音に紛れる怒りの念が細い針のように耳を刺した。
シオムの動かさぬようにこらえる視界の端で、滝の脇に立つ少年が呼ばれたように水に振り返り、おもむろに一歩近づいた。
「何をお申しつけでしょう」少年は囁くように言った。
その声は滝音にもかかわらず、岩の上にいる全ての者に聞こえた。尾根より谷間を下る風が葉擦れの音に乙女の声を包んでよこした。
「おまえは私の身内だ。私に代わりわが言葉を歌唱し、彼らの素性意思を審問せよ。」
少年の顔に緊張と誇り高い高揚の表情が浮かんだ。彼は許可を求めるように長老たちを振り返った。アーメムクシは渋面の下に諦めの色を浮かべてうなずいた。
「どうぞ、まなかいに映る事どもをお示しください。言の葉に差し替えましょう」
少年はほっそりとした身体を岩の上に進ませると胸を張り、深く息をし谷間に声を放った。
もののはじめに 大いなる火ありて 二柱の神成れり
やがて我目覚めて 妹と身を分かてり
血潮の乾いて平原となり 気の冷めて水となりイネ・セ・イナ河成れり
夜の彼方より日来りて姉神を娶り
妹神 日を恐れてそのかんばせを雲に隠しけり
日の君 我誉ある女に麗しき緑衣を掛けたまい
夜の彼方に去りたもう
天の下に授かりし我が子イーマよ 星々と森羅の守るもと
告げるべきを告げ 知るべきを知れ
少年の声に混じる滝の音はやがて古から今に至るまでの森羅万象の声となり、人の声となった。若い魂、成熟した魂、老いた魂。産声から臨終の吐息まであらゆる声が、水音の中から立ち現われ、言葉を発した。
シオムは驚き、同時に岩の上にいるイーマの男たちの面にも同じ怪異の感覚を見て取った。視野はありのままの谷間の景色を映していながら、目の裏には少年の歌い描くこの世の誕生の炎とふたつの完璧な山容、輝くイネ・セ・イナ河、太陽の運行と山肌に萌え出る緑が重ね映されていたのだ。
少年の歌唱が景色を描いたのだ。そう思ってシオムは間違いに気づいた。描き出された光景を少年が読み取って歌にしているのだ。
シオムの横でサザールが何者かに呼ばれたかのように顔を上げた。滝の音が不意に勢いを削がれ、一同の見る景色が暗く濃紺に変わった。サザールの見る先には夜闇が広がり、銀河が横たわり、その下にはイネ・ドルナイルの端正な佇まいがあった。丈なす髪の畝を飾る蛇紋岩、雲母、金銀の露頭。銀河にもまさるあまたの地上の星々。イナ・サラミアスの美を誇るイーマ達ですら感嘆を禁じ得ないほどの麗姿であった。
サザールは少年に振り向き、物凄まじい笑みを浮かべた。少年は不注意の非難には静かに目を逸らし、素直に見たものを歌った。
妹神ドルナイルに夜の君訪い 麗しき襟元に金銀玉石を飾りたまいぬ
手業巧みなドルナイルの子 地上に落ちし星を取りて業物につくりけり
勢いを減じた滝の音は少女の物思いするようにベレ・イネの光景と少年の歌の周りにまつわった。そして突然また勢いを増してシオムの方へと向かって来た。
水音に変わって周囲にあふれているのはそこにいる者の思念の声だった。皆が唇ひとつ動かさずにその声を発し、また聞いた。ただ、その声はあまりにも多すぎて何ひとつ満足に分かるものは無い。後から後から流れ過ぎる影の端切れをあらためるような具合だった。シオムは怪しい力が自分だけを捕らえたことを悟った。皆の目が女神の追求の目となって一斉に彼の方を向いた。彼らの目は彼が誰かと問うていた。
彼の祖先、彼の出自。シオムはたどたどしく心に絵を描き出した。
コタ・イネセイナがおぼろけに形をとり、広い帯となって眼前に伸びた。その奥から板切れに小釘をびっしり打ち付けたようなものが遠くから流れてくる。近づくとそれは大筏に乗った一大部族であった。
少年は澄んだ遠い目でそれを眺めるとすぐに読み取って言葉にした。
外界の子 イネ・セ・イナの流れに乗りてかの地に至りぬ
河床の石を積みやがて一里にまたがる城となせり
藁すべのような人々は岸に下り立ち、丸石のような役畜を使って岸に溝を引いた。水が押し寄せると藁すべも小石も一緒くたに流され溝は平たくなる。その繰り返しだ。
水のはしる道をなし
汀を鋤き耕して 五穀豊かな沃野となせり
そのうちに水路は強固になり、堤は丘になり、地に刺さる藁すべはふっくらと肉付き、服を着て動きはじめた。畑を耕し、土器をつくり、羊の毛を刈った。岸辺に立つ藁すべの何本かがシオムの下知に逆らって勝手に河をわたり、向こう岸へと駆けて行った。おや、と思う間もなく藁すべは蓬髪を垂らした人の姿になり、イネ・ドルナイルをさまよった。
だしぬけに眼前に散った赤い火の飛沫に一同は身を固くした。少年は驚いて歌いやめた。
皆が見つめる岩の上に、火の果てた冷たい地面の上から何かを拾い上げる痩せた半裸の若者がいた。と、それは小さく縮み、シオムが描いたとおりの藁すべ人形になって歩き去って行く。
サザールがシオムの横で深く息を吐き、両手を腹の上に重ねた。
藁すべは列をなす仲間の中に加わっていき、その列を少数の人形が棒を振るい追い立てる。藁すべ人形は火にくべられたようにくねり、もがき、地に倒れて消え去った。
この光景に気を取られる間もなく、シオムは自分を見つめる一同の追求の中に剥き出しで放たれる自分の声を虚しく追っていた。
(お前は誰だ?)(お前の主は誰だ?)(何のために来た?)
(おれをここに来させたのは憧憬だ。)
腹をくくり、逃げ隠れもないまっすぐな言葉を差し出す。
少女の脆い笑いが耳を横切った。青く、未だ成熟をせぬ声に警戒の刺が混じる。
(アツセワナであれ、コタ・レイナのいずこの郷であれ、朝に夕に東西の姉妹山の姿を仰がない日があろうか。)
相手が女神であれ、ただの少女であれ率直な称賛を隠す必要がどこにある?
(西に端座するイネ・ドルナイルは古に開かれ、今に至るまでアツセワナに資源と技能と富をもたらしている。一方東には手つかずのイナ・サラミアス。この地を拓く栄誉を得たいと願うのは当然のことだ。)
(わが庭の子らが鳥獣草木の調和に努めている。)
少女の声が冷ややかに答えた。
(北から来た外界の裔が何をしようというのか。)
(イナ・サラミアスの民はもっと豊かに暮らせるはずだ。少しの開発と、技術の導入。人は住みやすくなり、アツセワナにも恩恵をもたらすだろう。)
さっと下りてきた翳りが水の砕ける音さえも低く潜めた。巫女のひるんだ気配が、シオムの口元にわずかな笑みを誘った。
(ドルナイルは噴火と行きすぎた開発で著しく容姿を損なった。残念なことだ。サラミアスの山容を損なわずに人々を豊かにし、イナ・サラミアスの民に感謝されたいものだ。伴侶とも思い、友とも思い、親しく知恵を分かち合い、アツセワナとの交流に道をつけたいものだ。)
座した岩根を震わすのは再びいや増した水の轟きだろうか。それとも、初めからこの場に働く不可思議と恐れを醸す山の精の力なのだろうか。
(お前は私の手の内にいる)
少女の声の端に抑えきれぬ怒りが閃く。
(我が物顔に庭に手出しをしようという心算、放言―――無事にここを出られると思うな。)
(何故怒る、巫女よ。自分を女神と思うから自尊心が傷つくのか)
高慢な一少女が虚勢を張っているに過ぎない。恐れるに当たらない。
(あなたの小さな身体がイナ・サラミアス全土に値すると?それが本当なら面白かろう!だが、おれはこういう他は無い。水は水。地は地。それを御して収穫をあげるのは人の才覚だ。あなたの身が地なら、それは畢竟人の力に従う存在だ。そして指導者たる者の才覚は、領民に今彼らのある地位、運命が、大きな存在による恵みであり差配であると信じさせることにある。そうやって統治を安定させるのだ。神とは支配者が創るものだ。支配者は新たに領土を広げれば、必要に応じて神を創り出すだろう。)
シオムは沈黙の中に、少女の表情を読み取ろうと窟の奥に目を凝らした。
(巫女よ、あなたも人ではないのか。あなたの地位も子孫の代へと信仰をつなぎとめ、礼拝を様式化するために設けられたものではないのか。)
長老たちは陽に当てられた雪像のように身じろぎを始めていた。頭をかしげ、手を額に当て、眼差しを落とす。サザールがふふっと息を漏らした。この男、主へはどんな話を土産に持って行くことか。
シオムの傍らに静かに密やかに気配が近づいた。と、耳朶に鋭い声が囁き、強い力が彼の側頭を抑え込んだ。
(私を偽もの呼ばわりして!)
シオムはその無法な手段と痛さに怒りを覚え、首を振ろうとした。が華奢な手指は悪夢のように離れない。
(サラミアが命ずる。お前を遣わしたアツセワナの真の支配者の顔を描け―――トゥルカンという男の顔を。その心に描け。)
怪しい山の精の力が、シオムの脳裏にトゥルカンの顔を描くことを命じた。アツセワナの支配者としてのトゥルカンだ。そんな屈辱を受け入れてなるものか―――。いや、思い出してやるものか、狡猾な宰相の顔など。それよりも、もっと他のものを―――。
ほら、これが―――耕地だ。農民だ。水路。縦横に流れる完全に舗装された水路。空はどうだ。完全に開けた空。その下できらめく黄金の穂。男たちは大きく、屈強だぞ。これがアツセワナの目指す景色だ。
シオムは目を上げ、瀑布の裏の窟を盗み見た。中の影が身を乗り出し、胸の前に組み合わせた手に力を込める様子が見て取れた。
巫女が悪戯に気を取られ、おれに近づきすぎたようだ。こちらにも彼女の心が見える。
シオムの心に巫女の目に映るものが垣間見えた。
岩の上には降り注いでいるはずの陽光もなく、あせた陰の中に黒く塗りつぶされた五つの人影が座っている。彼ひとりが鮮明に色と形を持ち、こちらを冷静に見返している。巫女の思念がか細い両手となって彼の頭を捕らえ、命令している。
こちらを見ているな。よく見ていろ―――。
彼は逆手にその腕を捉えた。もがき逃れようとする姿は頭から爪先までベールに覆われている。シオムはそれをはぎ取ろうとしかけて自らを抑え、ある姿を脳裏に思い念じた。
御影石の壇上に向かって進む男。麦穂を模った冠を戴き、笏を手にした大柄な若者。彼は玉座に掛けるために振り返る。その髪は艶やかな鳶色。瞳は灰色―――。
シオムは手を離し、巫女を孤独な闇の中へ返した。どうだ、高慢な巫女よ。今の顔はお前の他は誰も見なかったはずだ。真の王の相貌をとくと見たか。
さらさらという音が一斉に押し寄せてきた。窟の両側から流れ落ち、白いしぶきが密になりゆく帳のあわいで、人の影が力を失って沈んでいくのが見えた。
滝の脇に控えていた少年が、窟の方へ身を乗り出し叫んだ。
「タナが―――気分がすぐれぬのでは?」
少年の声がほとんど誰の耳にも届かぬうちに水煙の綿に吸い込まれるのと時を同じくして、巫女の戦きつつも明瞭な声が谷間の内に行き渡った。
(アツセワナは猛鳥相食む獰猛な国)
シオムとサザールは互いを見なかった。長老たちの面には隠しきれぬ疲労の表情が顕れている。
(イナ・サラミアスの子らは西の狡知に勝てぬ。石と火を操るものに―――私は敗れるやも―――)
岩の上を支配していた怪しい山の精の力は収まった。遠く額の峰を望む谷間に邪気の無いウグイスの呼び鳴きが響き、小さな滝は大人しやかに水を落とし続けている。
「アツセワナの方々。そなた達はかの国の優れた力を、併合をほのめかした脅しと併せて示された。我らが拠って立つ信仰と掟を否定して憚らぬほどに強いのであろう。それが交渉の有利を意図する以上のものでないことを願うしかないが。」アーメムクシは言った。
「内輪で話をしたい。待ってもらえぬか。」
「喜んで待たせてもらう。」サザールは答えた。「そして神人の介抱をして差し上げなされ―――あのように、痛ましい。」
少年はふたりの使節をもう少し谷の奥の林の脇に案内した。彼らと入れ替わるように巫女の付き添いの女達が滝の窟へと入って行った。
“掌”の西側に寄って話し合っていた長老たちは程なく戻って来た。緑盛んなイスタナウトの木陰と遠く望むベレ・サオの稜線、滝の景色を楽しんでいたシオムは、ぽつねんと棚地の崖の際で足元から谷底にまで続く岸壁を眺め下ろしているサザールに声を掛け、会談に戻った。
「交渉の継続を望む。交換の品を言ってくれ。」左右の土守と風見の長に目顔で確認を取りながら、水守のアーメムクシは言った。
「木材。当面は木材のみ」サザールは答えた。
「当面とはどういうことか。」オコロイが気色ばんだ。
「焼いた土はもう結構だ、オコロイ殿―――結構。」サザールは首を振った。「代価は副使の言った通り、アツセワナにあるものなら何でも応じられる。」
「相場はいかほどになろうか。」
「おいおい分かろう」サザールは薄い砂色の髪を振りやり、ベレ・サオの峰を見た。
「贈り物は受け取っていただけようか、その方が値をつけやすい。」
長老たちは訝しげにサザールを見返した。
「持参した金で細工をして差し上げよう。」
「タナは金銀は受け取らぬし、我らも不要だ。」
「では鉄の精錬を」
サザールは言った。
「土の硬い傾斜地を切り払って用意されたい。そして粘土を。あの焼き物の土だ。タナの臨席の元で精製をご覧に入れよう。それが交渉の継続の条件だ。」
「ご希望の場を整えるのに猶予が欲しい。―――次の新月の日に」
アーメムクシは言い、一同を見回した。長老たちはうなずいた。
「承知いたした。」
サザールは簡潔に言い、シオムもうなずいた。
長老らは使節らに冷たく黙礼し、主幹らは戻りの道の案内に立った。オコロイはゆっくりとふたりの使節に近づくと、シオムに「お若いかた、どうぞよしなに」と声を掛け、サザールに「空模様も変わって来た。西のお方には足もとが厳しかろう。見送りを」と先導した。
夏の日盛りというのにベレ・サオの谷間で湧きたった霧はたちまちのうちに南寄りの尾根全体を包み、さらに一行の行く手行く手と広がり、隠した。乾いていた外套や頭髪は再びしっとりと冷たく湿り、岩肌や苔はぬめり、不意に足元をすくう。先を行く物との間に綿をのばしたような流れる帳が視野を二間、一間と狭めてくる。
「何という霧!」
朝から幾度となく口にした言葉をシオムは改めて感慨を込めて呟いた。
「何も見えん―――。イナ・サラミアスを襲うのは容易ではあるまいという事実の他には。」
軽い足音と少年の息を飲む音が微かに耳朶を打った。
「今、何と」
「一方が考えるに違いないことはもう一方も考えねばならぬ。」
シオムは少年に振り向きちょっと笑った。
「私には騙さねばならない相手がひとりならずいるのだよ。本気でそのつもりなら、むしろ黙るがね。」
少年の滑らかな頬の上の黒目がちの目が警戒を込めて鋭くなった。シオムは顔を上げて前方を見渡した。
「サザールはどこに行った。もうそんなに離れてしまったか」
「大木オコロイは足が速いので」少年は低い声で言った。「あなたの案内は私が」
「ヒルメイのハルイ―という男を呼んでくれ。」シオムは簡単に言った。
「彼に何か?」
「彼は真実しか言わんのだろう?私も今日はもう腹の探り合いはまっぴらだ。」
少年は、狙いを定めて飛び立つ百舌のように霧の中に消えた。ほどなく、シオムの横に音もなく影が寄り添い、素早く峠の岩陰へと招いた。岩のたもとのナナカマドの藪に入り込むと、やって来た男は、間近からじっと鋭い目をシオムに注いだ。
「わざわざヒルメイのハルイ―を呼ぶあんたはアツセワナの使節以外の誰だ?」
「コタ・レイナの監督官を解任され、シギルに暇乞いし、イネ・ドルナイルに渡ったトゥルドの友人だ。」
シオムは言い、灰色の目をしばたたいた。
峠で警備の監督をしていたヒルメイの主幹ハルイルは、シオムが弟に話しかけるのを見てちょっと眉をひそめ、彼らに配慮した距離を置きながら主幹の命令にも応じられる位置に静かにたたずんでいるガラートに目配せし、言った。
「ここでもか!先頭ではオコロイが正使を連れて警護の先を行ってしまった。わずかな時間だが追いつくまでに話し込んでいたのは違いない。」
「あの人はものの言い方が不愉快です。」少年はきっぱりと言った。
「私の母の事を―――西では見ない肌つきだの、顔かたちがどうのと」頬を赤くして言葉を切り、真剣に言った。
「そしてあの若い方の使者は心は悪い人ではありませんが冷たい人です。我々に見下したいたわりを抱いている。ハルイ―があの人の考えを変えてくれるといいのだけど。」
「彼の態度がそうなら、アツセワナじゅうの考えがそうなのだろう。」
ハルイルは少年をなだめるように言った。
「あいつは私が見る」ハルイ―を目で指し、「おまえは先に回って待たせている者たちを見張っていてくれ。」
少年は短くうなずくと山側に大きく斜面を登り、身軽に尾根筋を駆けて行った。
ハルイ―は、岩に手をかけ、上から覆いかぶさるようにしてきびきびと話し始めた。
「話は平行線のまま中断したと聞いた。鉄の生成を見せてくれるそうだな、黒砂か?」
「正使はトゥルカンの側近だ。この度の申し出は私にも初耳だ。」シオムは同じ調子で答えた。「反対すべきだったか。」
「意見が割れているところを相手に見せるほど愚かなことは無い。あんたも鉄造りは見ておくがいい。あいつには快くなかろうが、知るにはいい機会だ。」
シオムは同じ高さに降りてきたハルイ―の前に両腕を組んで立った。
「私はあの場所で実に奇怪な、あまり気分の良くない目に遭った。あの若い娘が巫女か―――無礼な。」
「無礼は相子だな。慎重な取り引きにはよい出足だ。それでこちらの話だが。」
ハルイ―はナナカマドにもたれ、ややくつろいだ姿勢で相手を見た。横ならふた回り大きく、背も少し高いはずだ。若い顔に似つかわしからぬ厳しい灰色の目がまっすぐにこちらを見つめる。
「あなたの申し出ではその絹とやらは銀の倍もの価値があるらしいな。」
「今年は風も穏やかで木も良く茂り、三度も蚕が孵化した。秋の終わりには一反織り上げることが出来るだろう。」
「一反か!一反を何に使う?」
「三千もの生繭だ。難しさが分かろう。」
「どんなに難しくとも相手が欲しがらねばな。」
シオムは腰の物入から赤黒く焼け固まった塊を取り出した。ひと目見るなりハルイ―は首を振った。シオムは苦笑しながらそれをまた仕舞った。
「トゥルドがやっとで寄越した便りだ。砂の選別、築炉、炭の加減、あなたに教えられたとおりに準備し、チカ・ティドの精錬の経験者が指導をして作ってみたものの、出るのは鉱滓ばかり。割ってみても鉄らしいものは見当たらない。」
「砂鉄は間違っていないが錆が離れないうちに焼けた粘土と一緒に下りてしまうんだ。」ハルイ―は何かを思い描くようにその目を宙に巡らせた。
「炉の上から投げ入れられた赤砂は炭と出会って錆を離し、粒が互いにつながりながら炉の下へと下りてくる。黒砂だと炉が十分熱ければ素直に錆を離しはじめるのだが、赤砂はなかなかに錆を離さず、熱すぎるとそのまま下りてしまう。錆を離し始めてから鉄粒が鉧に育つまでの時間を稼ぐため、炉はいま少し高く、肘の高さに。そして炉の熱さだが―――炎の色を見るのだというが、おれはこれを見抜けたことがない。チャゴロはおれに見させてくれなかった。目がやられるからと。」
ハルイ―は濃い眉を寄せ、イーマ独特の黒い澄んだ目を細めた。
「トゥルドはまだ彼に会えていないのか?」
「妹神の長い肘の下に隠れているという三人を探すのは城壁の下の蟻を探すよりも難しい。人もおらず名を尋ねる訳もいかず。あなたはいったいどうやって彼らに近づいたのだ。」
ハルイ―は素早く考え、ふと目尻を下げて笑った。
「あの親子は酒が好きだ。それに歌が好きだ。おれはどちらも駄目だったが、いつだったか手違いでつかまされた酒を怒って捨てたことがある。コタ・サカの源流をずっと上って行った、南北真っすぐに貫いた谷間―――真昼しか日のささぬ―――その岩の割れ目の奥の洞からチャゴロは歌いながら出てきて―――酒壺を拾い、次には地に這って地面を舐めそうになり、おれに気付いて逃げた。おれはすぐさまチカ・ティドに酒を手に入れに戻った。アツセワナから運ばれる米で穿場の賄いが隠れて造る、濁った酒だ。」
「そんなものが役に立つなら買いにやらせよう。」
「売り物ではない。彼らは監督に見つからないように交換している。」
「アツセワナの酒蔵で造られる他の酒ならよほど楽だな。」
シオムは軽くうなずく素振りでハルイ―に退くように合図した。ハルイ―は身体をちょっと横にして相手を先に通した。濃い陰りの色が外にも降り、小雨が降り始めていた。シオムは微動だにせず樹木のように佇むヒルメイの主幹を認め、そっと目を逸らし囁いた。
「私はあなたの絹を見せてもらっていない。トゥルドにこのように心細い便りを与えるために遣いを走らせ、再度の難題に挑ませる価値があるのか疑問に思えてきた。せめて端切れなり見せてもらえないか。」
「織っている途中のものを切るわけにはいかない。絹なら巫女が身にまとっているものがそれだ。」
「水の帳に隠れている。次の会見がどこであれこちらからは見えないようにされるに違いない。」
「あいつ自身に頼むといい。」ハルイ―はこともなく言い、気分を害したように表情を険しくした相手にあっけらかんと言った。
「水も草木もあれの意に従って盾となる。が、本性は勝気な娘だ。挑発されれば自らたやすく盾を外す。試してみることだな。」
「そうかもしれない。」
シオムは一枚岩の上で繰り広げられた奇怪な幻影のやり取りを思い起こしながら言った。
「ところで新月の交渉の再開まで私たちはここに足止めされる。私は一日も早くトゥルドにあなたの助言を伝え支援の品をコセーナのシグイーに―――若い領主に頼みたい。彼は兄のために何でも揃えてくれるはずだが。」
ハルイ―は遮った。
「長口舌は無用。おれがコセーナに行く。どうせここでは外されているからな。必要なものだけ言ってくれ。ただ、おれがコセーナの季節雇いをしていたのはずいぶん前だし、新しい領主の顔は知らない。取次に訊かれてもシギルの家臣の使いだと分かる印が欲しい。」
シオムは指輪を外し、ハルイ―に渡した。
「コセーナの家人なら誰にでも見せれば分かる。」
ハルイ―は受けとった。
「もし再び会えなくてもコセーナの領主に訊けばおれがちゃんと仕事をしたかどうか分かるだろう。」
「食糧の補給、可能なら皮革職人、大工、窯工。そして酒か?」シオムは疑わしそうに付け足した。
「酒を飲む者がそんな難しい仕事をこなせるのか?」
「おれは違うがチャゴロはそうだった。それに彼は仕事の後に飲むんだ。」
ハルイ―は言いながら目配せしてさっと離れた。
ヒルメイの主幹は近寄って来て重々しく言った。
「副使殿、大分行程に後れをとった。休憩は存分にされたろう。ご案内する。」
ティスナの田には青い穂がつき、久々に出た雲の下で憩っていた。凪いだ空気は暑く、機屋の娘たちは風を求めるかのように何度となく外へ出た。カバの林で腰機を織る娘達も、相方はしばしば沢筋の白い参道まで涼みに出た。彼女たちは織り手には休憩を譲らず、必ず参道から上を見ては手招いて次の誰かを目顔で呼んでから戻った。
木の陰が少し長くかかりはじめ、仕事に疲れた少女たちに少しずつ眠気が襲いはじめた頃、涼んでいた少女が小さく声をあげ、立ち歩いていた者たちは皆いっせいに機へと戻った。林の端の少女が機屋の前にいた娘に腕を振って合図をし、娘は機屋の先の岩壁へ走って行き、数人の娘を呼び戻した。何人かはゆっくりと歩いて戻って来、ある者は機屋の中に、ある者は子供たちの遊んでいる日向に面した木陰に戻り、糸車を回し始めた。
“聖なる川”の参道から降りてきたルメイは、白樺の林の少女たちの間を通り、田をひとわたり眺め、岩室の中の年寄りと産婦を見舞い、赤子の様子を診た。
「シュムナ、白髪が増えましたね。」
膝の具合を診てもらい、処方された薬草を湿布しながらひとりの老女がいたわるように言った。
「月日が終わりに向かって数え始めているのです。自分では気づく暇もないからこうして教えてくれる。私の後継はまだいませんからね。」
ルメイはそっけなく言い、若い女達はそっと目をそむけた。守女に選ばれる者は、身内に望まれなかった者、身内を失くした者である―――毎年ティスナに通い、彼女の教えを受けて育った者たちもいつしかこの事を知るようになる。その身の上に同情はしても成り代わる覚悟など持てるものではない。
ルメイが機屋に行っている間に、老女は岩室を心配そうに覗きに来た少女に目をやり、膝を揉みながら言った。
「姉さん達は繭を集めたかね。」
「もう火を焚いて鍋を掛けている。」
「じゃあ、お前、ここにいて蓬をしばらく選っていておくれ。私が行ってくるから。」
イーマの女達は昔から蚕を育て、繭をほぐして紡ぎ、晴れの服や外衣を織ってきた。殊に外衣を織る糸を賄うためにティスナの女達は幼虫の孵化の回数を増やし、桑の木を剪定して発芽を促し、年三度の収穫を行ってきた。蚕の殺生は固く禁じられているため、収繭後は、繁殖のために羽化させる幾つかを除いては洞穴にしまって自然死するのを待ち、これをほどいて使う。
繭を保存しておく洞穴の前の山腹には複雑な亀裂が入り、中には蝶の死骸を捨てる穴もある。老女は用心しながら壁に寄り、若い頃には軽々とよけた亀裂の脇をそろそろと足を引いて避けながら岩をさらに下りた窪みへ下って行った。そこに三方を囲われた小さな岩室があり、入り口からはもうもうと湯気が立ち込めていた。
声をひそめて話しかわす声。そしてふつりと訪れる沈黙。ふつふつ煮立つ湯の音だけが途切れることがない。
若い女の声が鋭く囁いた。
「罰が下るわ。」
「よしてよ。」気丈な声が遮る。
「じゃ、あんた―――口でほどける?殺さずに上手にほどけると思う?」
「虫を口に入れるなんて、死んでも嫌だわ。」嫌悪の叫びが上がった。
「なら、ふたつにひとつよ。茹でるか、それともハルイ―が言ったようにアツセワナの男たちがやって来て何もかも変わってしまうか。」
「変わるって?」別のか細い声が疑わしげに尋ねた。
「知らないわ。でも、どうにかなるまで私は待っていられない。私たちの良い人と愛しい子を失うかもしれないような運命をね。ハルイ―は絹こそが私たちの盾だと言った。アツセワナの王が驚くような絹をつくりあげれば、コタ・シアナの水がコタ・イネセイナに飲まれようと民は命を残していけると。」
女達はしんと黙った。やがてひとりがためらいながら言った。
「だって、女主が守ってくださるのでは?そうよ、繭を殺したらそれこそ先に女主が私たちにどんなひどい罰を下すか。」
相手のひるんだような短い沈黙の後に、それでも意を決したように低く声が追いかけた。
「堂々巡りね。結局私たちがいつもしていることと何か違うかしら。繭を眠らせたって闇に次ぐ闇、冬に次ぐ冬でそのうち死ぬわ。湯でゆでて死んでもどちらも種は残らない。それなら茹でた方は翼を待たずにナスティアツまで飛び、躯は絹に生まれ変わるのよ。」
繭の籠を持ち上げたらしい、周から微かに悲鳴が上がった。
老女は痛い足を急いで進ませながら杖で岩をひと打ちし、鋭い囁き声で一同を叱った。
「そこまで!お待ちよ。騒がずにみんなお聞き。」
老女は岩をつかみ、杖を滑らせてもう一歩にじり出て皆に見えるように前に出ると、杖の上に両手を重ね、腰をのばした。若い女達はぴたりと口を閉ざし、目を伏せたが、一様にどこかほっとしたように力を抜いた。
「子供たちが知らせてくれたよ。経験の浅い若い者だけで決めるのは難しいものだ。ニアキでは男たちも年寄りと若い者が合わずにもめている様だ。だが、あんたたちは男たちとは違うことで難儀しているね。」
「男たちは自分の体面の事ばかり。」気丈な女は顔を上げて言った。「私たちには何も教えてくれず、何もさせてもらえない。聖地のサラミアが北に出向いていくほどの事よ。ハルイ―ははみ出し者かもしれないけれど訳を話して頭を下げてくれたわ。」
老女はため息をついた。「あのアートはここにまで来たのかい!」
「彼が男たちの言うようなならず者で、その彼がここに来るのを見過ごすなら、女主にはアツセワナの男たちが侵入するのも防げない。」女は小声で言った。「私たちはアツセワナには無い絹を織れるわ。それで男たちが取って来る獲物よりも価値のある仕事になるのなら試してみたい。」
老女は若い女達を見回して首を振った。「シュムナが来ている。ここであまり時間は割けない。まあ、ひとつ私の言うことをお聞き。」
女達は大人しく老女の前に集まった。
「若い者が新しいことを始めようというのは自然なことだ。年寄りは考えや体がゆっくりになりついていけなくなるが、若い者は身が軽く、小さな足掛かりで流れも壁も越えて行く。私らにも身に覚えのあることさ。西から銅が入り、鉄が入り、木を削り布を裁つのも楽になった。肩を留める釦をつくり松脂とひまし油を混ぜて色を塗ったのは私の母だった。はじめは奇妙な顔をされ、やがてみんなが真似をする。アーメムクシだって今はあんな立派なボタンをつけているけど、子供の頃は私たち女の子を変なものを着ている馬鹿だとからかったものだ。ためしのないことを始めるのに気後れをすることは無い。だが、お前たちは罪を恐れている。それで手が止まるんだね。当然だ。」
籠を手にしていた女までもうつむき、目元をぬぐった。
「その理由を言おうか。お前たちは皆、孕んでこれから母になる者だ。この繭は皆、お前たちの子に似ていやしないか?手をかけて育てたもの、心の底では気が咎めるだろう。心の責めは母としてのこれからの仕事を困難にする。子供の顔を見るたびに殺した小虫の事を思い出すよ!―――どうしてもそれをしなければならないなら私がやる。この罪深い場所から離れなさい。そして代わりに年寄りたちを呼んでおいで。」
若い女達は畏れに打たれて老女を見た。
「私と年寄りたちとで糸を繰る。これを縒って織り糸を作るところからがあんたたちの仕事だ。糸は何本合わせるね?」
「十本です、コーナ。」
「よしよし、美しい絹になるだろうよ。しっかりおやり。だが先ず妹達を呼んで来てくれないか。そして産屋に戻ってゆっくり休みながらお腹の子に歌でもうたっておやり。そんなにかっかするんじゃない。お腹の子がそれこそ火傷をするよ―――」
若い女達は悄然と岩室から出て来、やがて足早にその場を離れた。今にも鍋の湯が獲物を捕らえた時の、恐ろしい沸き立つ音が上がるのではないかと恐れた。しかし、洞窟からは眠りのような静けさが漂ってくるばかりだった。女達は転ばぬように助け合って岩場を上がって身形を整えると、ゆっくりと岩室の療養所に戻って行った。そして休んでいる老女たちに、最長老の女の言葉を伝えた。
ルメイは機屋から戻って来ると、出払っていた若い妊婦たちが揃って帰ってきているのを認め、一様に大人しく無口なのに目を留めた。そして老女たちがひとりもいないことも認めたが、ただ、女達の体調をひとりひとり尋ねて帰り支度を始めた。
療養所の崖の西に伸びている壁のはずれに、ひとりの若い娘が小さな子たちの守をしている。娘はルメイの姿を見ると黙って子供たちをかき集めて壁に身を引いた。ほとんど訪ねることのない繭の保存庫のある風穴の前だ。ルメイはつかつかと近寄って行った。
「おまえの仕事は?子供たちを黄泉の口に近づけてはいけません。田に連れてゆき草取りをさせなさい。」
娘は子供たちを呼んで、岩壁の東に広がるシラビソの林へと連れて行った。
ルメイは岩室の前の亀裂のから一歩下がった。足の下には羽根のある成虫に混じり、濡れた蛹が亀裂の口元にもこぼれている。岩室から老女たちの声が漏れ出てくる。
「やれやれ、目の薄いものにこの仕事は辛いね。糸口はどこだろう?」
ルメイは立ち止まり、岩室の入り口を見つめた。
この春ティスナに戻って来てから若い女達の間にどこか秘密めかしたぎこちない様子があった。年寄りたちがそれを不思議がって口にしていたと思うと、これも意味ありげに黙ってしまった。異邦人たちの来訪、そして巫女が長老たちに呼ばれて出て行ったことを取り沙汰しているのだろうと思っていたが、女達は自分に隠れてこれをしていたのか。
ルメイは踵を返し、ふと、岩室の脇の木陰で縒りかけ車を回している娘たちがこちらを伺っているのに目を留めた。彼女は気づかぬげに亀裂から大きく回って道へと戻った。
自分に異を唱える訳などあろうか。繭を茹でて生糸をとる。なるほど、いけないわけがあるか。選ばれた繭は艶やかな絹となり、選ばれなかった繭はやがて闇の中に死ぬ。
“掌”で散会した会見は新月の頃の再開を見込んでオルト谷に場を移し、砂鉄の精錬の場をつくるための林の狩り払いと掘削が始められていた。三部族の主幹たちはオルト谷のウナシュの陶工たちの創った集落の近くにとどまり、新たに陸にあげた四人の異邦人たちに築炉の指示を仰ぐ傍ら、配下の若者たちに野営地を見張らせていた。長老たちはニアキに戻り、巫女は“白糸束”に戻った。
オルト谷はアツセワナの男たちを上陸させた谷川からもうひとつ南に移った広い谷間であり、谷間には立派な森林、上辺には数多くの沢を有した傾斜地がある。
正使はそこに案内されるや、あやまたずウナシュの村落の下にある沢に沿った傾斜地を示した。早速、藪を刈り払い、炉を築かねばならぬ。人手は集まったが掘削に必要な道具がない。切り倒した木を削りだし、これをそのまま土を削る楔とする。裾から山腹へと平らに地面を切りひらき、斜面を垂直に掘り下げてつくるその土壁を背面に、下から三度にわたり粘土を積み上げ焼き固め、縦長の炉を築く。基部にふたつの羽口を設け、下の傾斜に向けて開いた鉱滓の排出口をつける。火に風を送る鞴も必要だ。切り倒した大木から上下二枚の板をつくり皮でつないだ鞴が二基、つごう四枚の板を挽く。板をとった残りを割って炭を作るのだ。鉄を造るに炭はたくさんいる。ナラにシャラ、イスタナウト、どれも炭にはよい木だ。こうして山に積んだ薪に火が回れば小枝と葉、土で覆い、燻しながら一晩焼く。全ての準備がととのうまで十日ほどもかかろうか。
藪の切り払いの進む場とウナシュの村との境の森の中でヒルメイの少年は、異邦人たちの行動を見張っていた。
コタ・シアナの中州に予定されていた野営地はイナ・サラミアスの中部、オルト谷を貫く谷川よりもさらに南に設けられ、宿泊のための小屋が彼を含むイーマ達の手で用意された。サザールの指示のもと大人たちが木を挽き、土を掘り、粘土を運び始めると、彼はウナシュの少年たちと賄いに回り、その役目もひとわたり終えるとそっと喧騒から離れて野営地と作業の両方を見張れる高所へと移った。
使節が贈り物としてもたらしたわずかひと包みの砂鉄の精錬にあれほどの木を伐らなければならないのだろうか。―――ひと振りの刀を造るにはオルト谷の沢筋ひとつが跡形もなく消える―――生まれる前から不動であった景色が大人たちの働きによってわずか一日の内に様変わりしていく様子に心奪われながらも少年は胸の内で不安と疑いを募らせていた。
大人たちはおかしいとは思わないのだろうか。会見の後で陸に上がったふたりは初めから鉄造りに通じ、サザールが何を言わずとも先だって手筈を整えている。はじめからここで炉を築くつもりだったかのように、彼らの手際は初めて知らぬ土地に連れて来られた者のそれでは無い。対して、気位の高く鷹揚なシオムの不器用さは初めて異国の技に触れるイーマ達と何ら変わるところは無い。熱心に間に立ち混じって働く姿は好ましくはあったが、彼自身の立場や使命すら忘れるほど没頭する様子はどこかおかしい。
夕刻、沢沿いに掘り崩された生々しい土の香の漂う中、少年は食事のために作業を離れる者たちで大勢が入れ替わる合間に、サザールがシオムを除く配下のふたりの男に何事か一言耳打ちするのを目にした。彼らはイーマの何人かに会話を試みながら戻って来たシオムと入れ替わりに食事をしに炊事場へと向かった。やがて食事を終えたふたりはそれぞれ別の方へ歩き出した。ひとりは作業場へ戻ってゆく。もうひとりは裏の藪へと入って行った。少年は暮れゆく空に満月を認めた。しばらくしても戻って来る様子は無い。男が入って行った藪の奥は森で、谷の南の斜面を越えると女達がティスナに通う道が長年の歩き均された踏み跡もくっきりと地面に刻まれている。男がそこに立ち入ったのでないにしても斜面のすぐ上はウナシュの村だ。
少年は村と道の間を高い位置を通るようにして登った。村の外縁を見回っても怪しい者の姿は見えなかった。村の南東のはずれには四年前に崩れた壁の露頭がある。そこに移り住むようになり、粘土で器を作るようになってもウナシュの人々は居住地を崖の前にはつくらなかった。薄闇に沈みつつありながらも見晴らしのよいその切り出し場から男の影がそっと立ち去り、自分の前の森へと消えるのを見て、少年は後を追った。追いながら小石をふたつみっつ拾った。
アツセワナの男は不案内な森の中をきょろきょろと見回しながら女達の通いの道の方へと近寄っていく。少年は男の足もとに石を投げた。一旦立ち止まりあたりを見たものの、すぐにまた歩いてゆく。これ見よがしに手をやる腰には短剣がある。彼はたとえ土地の者に見張られていようが侵入と偵察を思い止まる気は無いのだ。自分がここで取って返して誰かに報せたところで取りあってはもらえまい、イーマの中のある者たちはイナ・サラミアスの地形について既にアツセワナの者たちに漏らしたに違いない。自分が目を離したらこの男は聖地までの道をも探し当てるかもしれない。だが、男がさらにこの先を行くのならどうやって侵入を止めたものか―――思い悩みながら少年は男の先に回るように縦走していった。
月が東の空高く昇ったころ、少女は窟の中で目を覚ました。灯火は無く、ルメイはいない。ティスナに降りて行ったことすら彼女は知らなかった。彼女の食事を気遣った様子もない。
少女はまっすぐに光る露台をわたり、水鏡を覗いた。
自分とともにあったあの力、あの魂も今は彼女を離れ、地の眠りの中で疲労を癒そうとしている。
少女は沈下橋を渡り、イスタナウトの林の中に入って行った。葉を食む音が身体を優しく包んだ。営繭の力を蓄えるため、蚕らは一心に葉を食んでいる。いま、彼女はまったくのひとりだ。
「レークシル」
その声は月のある彼方から降りたかと思われた。音色は遠く懐かしい闇を経て響き、少女の記憶の扉を揺すぶった。同時にその肉声は、危険の予感に満ちて少女の警戒心を呼び覚ました。少女は記憶のとば口に封をした。彼女は近くの幹にぴたりと身をつけた。
背の高い影が汀に満ちた月光を横切った。少女の耳元で血が音高く脈打った。影は立ち止まり、しばしあたりの様子を窺った。
男は身軽ななりで、あの長い弓も矢筒も、短剣すら帯びてはいなかった。片手になにか小さな包みをそっと捧げ、林の下を、藪を鳴らすのさえ避けて歩み寄ってくる。
「そこにいるのか?」
男の声はやはり少女には恐ろしい。少女は身を縮め、口に両手を当てた。男はなだめるようにちょっと手を上げた。
「出て来なくても良い。おれも近づかないから。」
少女は両手の下で自分のもうひとつの心を分け持つ名を呼んだ。その魂はまだ眠りの中にあり、安らぐことのない夢にうなされている。
「―――我が身が削られる。ナラ、シャラ、私の愛しい木が切られる。焼かれている。まだ、まだ足りないの?穿った身を焼く火が熱い。次は炭よ。我が子を焼いた炭を叩きしめて我が身を焼く―――醜い瘤をこしらえて、一度、二度、三度も焼かれた。水を、雨を降らせてやる。嵐をおこしてやる。」
「やめろ。」男の声が厳しさを帯びた。「こらえろ。傷つくのはお前の民だぞ。人の姿で彼らに寄り添い人の目で見届けろ。」
「嫌な虫!」少女は幹に顔を伏した。
男は約束したとおり、一歩たりとも近づかずに出来るかぎり言葉を尽くして諭した。
「焼かれているのはお前ではない。お前の身体はここにあって安全だろう?木を伐るのも火を焚くのも土を掘るのも昔からのイーマの暮らしのうちだ。あいつの身にも特段の事などないんだ。あいつを呼ぶな。あいつは冷たい動かぬ心を持っている。それはそのままにしておけ。お前の心であいつが動けば、お前の身にも耐えられぬ災難をおこす。身をいたわって、お前のままでいてくれ。おれはもう行く。」
男はそっとかがんで包みを草の上に下ろした。数歩ゆっくりと後ずさってから踵を返し、さくさくと森の外へと消えて行った。
少女はかなり長いことそうやっていたが、煌々と輝く満月を濃い雲が覆った時に、ようよう木を離れ、森の際に置かれた包みに近寄って行った。瑞々しい香りとやや萎びた手触りが、それが蕗を結んで作った小籠であると教えた。中には肌に吸い付くほど瑞々しい木苺が盛られていた。
少女は草に腰をおろした。恐ろしさは男が遠ざかると少しずつやわらぎ、贈り物の心地よい重み、男の呼んだ名の不思議な懐かしさが心の奥にとどまった。
雲が流れ去り、贈り物が艶やかな紅の色もくっきりと形をあらわした。少女ははっとして月の光が洗い出す花崗岩の縁石、汀に沿って下っていく参道を眺めた。
ルメイがやがて帰って来る。見つかる。
少女は籠をつかんで汀に駆け寄った。籠は手を離れ、水面を滑り出した。水が勢いよくそれを運び、初めの堰を過ぎると、激しい落下の元に果実は飛び散り、もみ消されてしまった。
こうして目に見えるものが無くなると、少女は男の好意に手をつけなかったことに冷ややかな満足を覚えた。少女は月に酔ったようにゆっくりと彼女の住居、白い牙が噛む虚ろな闇の奥へと戻って行った。
オルト谷の南の峰を越えた森は“聖なる川”を内に通したなだらかな谷間につながり、コタ・ミラを行きつ戻りつ折り返しながらティスナへと登っていく女子どものための道がある。月夜が垣間見せる谷の内もさすがに今は夏の盛んに繁った枝葉に覆われ、その下に潜む者を容易には見せなかった。母と年中過ごす幼子の時期を過ぎたら男子はその道を通わないのが習いであった。少年はまだ急用のある時なら道を通っても許される齢であったが、長年身に付いた作法からどうしても谷に下りて行くことが出来なかった。わずかな気配、足音も地面を覆う苔に吸い込まれてか消息を失い、そうしているうちに草を踏み枝を分ける自分の物音の方を悟られるのではないかと気を揉みながら、少年はとにかく相手の先を行ってティスナへの道をふさぐのだと心に決めて、終に盆状になった“幼蚕湖”を望む西の辺にまで登りつめた。
記憶に懐かしい湖面が隔てる奥に、岩壁が深く湾曲を穿つ東の山容。その麓に女達の村ティスナがある。もうよほど夜も更け、木立ち越しに透かし見える水面にさざめく月光の他に灯る灯りはない。集落の大部分は木立ちと岩陰に隠れ、そこに村があるとは生まれ育った彼にすら見分けられない程だ。少年はほっとした。彼は斜面から見下ろす村への道を麓から登って来る者がいないかとしばらくの間見張った。
忍び込んだ男はここには至らなかったのだ。歩きなれない夜の山道の探検を諦めて引き返したに違いない。そう判断して少年は戻ろうと向きを変えかけ、突然北から吹き下ろして来た激しい風音に身をすくませた。夏の重い梢をも撓らせるほどの突風だった。彼の背面を硬い風の音が上から下り、横切って行った。思わずうつむいた肩越しに、はっきりとした影が彼の後ろの木立ちの中に飛び込み、瞬く間に下っていくのが見えた。
今のは彼が見失った異邦人なのだろうか?それ程足の速い男だったのか?それとも知らないうちに他の仲間が忍び込んでいたのだろうか。村のありかを探すのが目的で?それとも―――聖地の巫女の居場所を探るために?
少年は驚き慌てた。いてもたってもいられず、彼は斜面を道まで降りると、一散に湖畔に沿って村の方へと駆けだした。村は岩壁のもとに月光にすらさらされずに静まっている。カバの森を抜け、棚田の脇を流れるコタ・ミラに沿って築き上げられた白い石の参道を迷いもなく駆けあがって行った。足休めをふたつ越えたところではるか上に人影を認めた。長衣の裾をからげてゆっくりと登っていく女の姿だ。杖をつき、休み休み歩いている。水の音に耳をすませるかのようにその姿が立ち止まり、流れの一点を見つめ、身をかがめた。少年はいっそう足を速めてその影を追った。女はやがて再び身をおこし、杖を取り直すと再び段を登り始めた。少年は下から叫んだ。
「シュムナ!門の守り女!」
ルメイは、月の光を頼りに夜更けの参道を戻って来た。長年水音を聞きなれた耳には、地の休息のなかにも時ならぬ水流のせわしい昂ぶりが聞いてとれた。
彼女は歩みを止めた。水は清く、冷たく、順々と行く道筋のわずかなつまづきに惑い、苛立った。水の苛立ちの一点に手にした杖をつき立て、手繰って手ですくい上げると、水を抱えた籠はぱっと広がってほどけ、下界にあるべき蕗の葉の姿を見せた。
彼女はそれを一瞥し、誰かこの闖入物をもたらした者の痕跡が残っていないかとあたりに目をやった。やがて、彼女は状況を胸に刻むと、蕗の葉をさらに下の流れに放りやった。
「シュムナ!シュムナ!」
聞きなれない声が、夜の静けさをついて呼ばわった。ささやかな水音の異変に次ぐ異変、切羽詰まった子供のような調子で彼女を、それも長年ほとんど耳にしたことのない声変りをした少年の声で呼ぶ者がいる。
ルメイは、声のする下に顔を向け、息せき切って駆けあがって来る少年を見ると、杖を差し上げてとどまるように合図をした。少年はすぐに止まった。ルメイは杖を胸の前に下ろし、手で少年に月に顔を向けるように手真似した。少年は門の守女に見えるように月の光の中に進み出、少し声を抑えながらも明瞭に聞こえるように言った。
「異国の者がこの近くにやって来ています。そして何者かの影がティスナの横を下りて行くのを見たのです。」
ルメイは、黙って少年を見返した。少年は言いよどんだが思い切ったように言葉を継いだ。
「かの人は安全なところにいますか?護られていますか?」
少年が不安を感じるほどルメイは、長いこと面も変えず黙って少年を見つめていた。やがて彼女は首を振り、口を切った。
「アーラヒルの子息、あなたではない。ここはあなたの来るところではない。」
少年は悄然として一歩下がった。
「―――承知しています。申し訳ありません。」
少年の狼狽よりも他のことに思念を奪われ、ルメイは少年から空へと目を移したが、問いに対しては答えるべきことを答えた。
「タナは私がお護りしている。必要とあらばコタ・ミラの流れをせき止めて参道を氾濫させ、菱を撒いて備えましょう。それに、ミアス自らが昼夜の別なく守りの目をめぐらせておられる。無論のことご自身の宿り身の守りもしておられるが―――。」
心が下した評価そのままに虚ろな冷ややかな目が再び少年に向けられた。
「あなたではない。ここはお帰りを。」
少年はうなだれたが、一礼するとくるりと踵を返し、ほとんど音もたてずに飛ぶように駆け下りて行った。
少年の姿が消えるのを見届けると、ルメイは蕗の葉の籠が流れ着いていたところをもう一度見た。あれは上流の聖地から流れて来たのだ。守りの備えをしても、もはや意味はあるまい。女主自身が守りの力を働かせなかったのだ、守女の出る幕ではない。少年がここまで登って来られたのはまだ子供に過ぎないからだ。ただ、他の男が侵入したなら女主は彼をも許すはずがない。侵入は女主の黙過のもとになされた。後はいかにその意を汲み、守女のもうひとつの役目を遂げるかだ。
参道を堰の上まで登り、ルメイは窟の周りの水に変化がないことを確かめた。
少女は厨の床に座り、星空を楽しんでいるように見えた。ルメイは、入り口に杖を置き、炉に薪をいれた。少女は振り向いた。
「お加減はいかがです。何かあがりますか。」
「何も」少女は横柄に答えかけ、ふと肩を固くし、両腕で下腹を抱えた。こらえた息の下から震える声が漏れた。
「気分が良くない。人間に会ったからかしら。」
ルメイは、ああ、と奇妙な笑い声をたてた。
水音はただ違う音をたてるわけではない。そこには必ず原因となるものがある。二十年前に彼女は同じ水音の異変を聞いた。その時、変化を変化として聞かなかったのは彼女自身が手を貸したからだ。その結実がこの少女だ。ニアキで罪とされたあの逢引きも、サラミアが成り行きを認めたのは今では明らかなこと。この度の異変もまた、彼女が手引きしたのではないにしても来るべきものが来、新たな更新の時機を示しているに過ぎない。
怪訝な面持ちで彼女を見返す少女にルメイは言った。
「ご存じありませんでしたか。月のもののちょうど間にはお腹が痛むのを。」
少女は蒼ざめた口許をきっと結んで立ち上がり、灯火も持たずに奥へと入って行った。
“白糸束”の北を回り、近道のためにティスナの盆の北の斜面からコタ・ミラの渓流の北側の峰へと降りてきたハルイ―は、後にしてきたはるかに遠くで、夜のしじまの中を澄んだ若い声の余韻が細く、声に声を次いでつながっているのを聞いた。彼はしばらくの間足を止め、そのおかげで月光が暴く渓流沿いの斜面の目の前を道から尾根の上へと横切って行こうとする人影に気付いた。彼は鋭いヤツガシラの鳴き声を発して怪しい者の足を止めた。男はぎょっとしたように身を沈めたが、その姿はハルイ―からはっきりと見えた。ハルイ―はわずかな間に男の風体、身仕舞、目的を見て取り、心に刻んだ。彼は音もなく月光から陰になる北側から男に近づき、やがてそろそろとオルト谷目指して歩き出したその後にぴったりとついて行った。
剥き出しの粘土の採掘場を見下ろす尾根をたどりながら、ハルイ―は前を行く男がどれほど関心を寄せている様子かそっと伺った。男は一二度そちらを見、またその奥の森林の陰にはなっているもののウナシュの集落のあるあたりもじっと目を落としたが、もう目的をある程度は満たした後なのか、それ以上深く踏み入ろうとはせずに戻る方を急いだ。やがて尾根の上から、掘削の行われている堤へとつながっていく沢筋に差し掛かると、男は沢を越えた上で森の中を辿って、澄んだ夜空の中に吐き出される炭を焼く煙と二三の焚火が明滅する下の方へと降りて行った。
築炉の現場では粗く削り取られた土壁の前に膝ほどの高さに矩形に囲った粘土の壁が一層築かれ、乾かすために内外に薪を積んで燃されていた。別に一山炭焼きの塚から煙があがっている。昼間総出で働いていた男達も、今は火の番を数名残すだけだ。シオムはその中に混じり、ウナシュの男たちと座って話をしている。疲れも手伝ってか、気位の高い冷たい面持ちは今はすこしくつろいで頑健で穏やかな若者らしく見える。
野営地の火の近くでサザールとオコロイが立ち話をしている。ハルイ―は藪の中で足を止めた。男はするりと森から出て来た。オコロイは物音に振り向き、不機嫌に言った。
「どこへ行っていた、客人。正式に交際が決まれば案内もしよう。夜は知らぬ地を歩くものではない。」
「この先の付き合いがあるかは件の谷の土次第ということもあるので。」サザールのかすれた声がやや高い威圧を込めて言った。「お聞きしていた谷の土を少し調べさせてもらった。」
「では、やはり鉱脈があると?」
サザールは答えず男が差し出した岩石の欠片を受け取り、火にかざして見た。
「そちらの御都合もあろう。―――どう思われる、今日切り開いたこの土の肌、切り倒した木。それも炭になり灰になるだけだ。まだまだ序の口ですぞ。思い止まるなら今のうちですぞ。」
「土産の砂がどれほどの鉄になるかを見届けるまでは」オコロイは言った。
サザールは岩石を眺めたまま、はっはと笑った。オコロイは先の話し合いで器が腐されたことを思い出したようだ。
「条件は木か土か。」苦った声が呟いた。サザールは聞こえなかったように遮って言った。
「主に交渉が長引く旨を伝えねばならん。遣いを出しても構いませんかな?なに、舟人に伝言を託すだけだが。かの女のご不調で少し予定が伸びたことを伝えておかねば。雲の中の星のように拝眉もかなわぬお方だが、お出ましでなければ何事も決まらぬご様子なのでな。」
「なに、ただの娘―――素性の怪しい娘、女神などではない。私にとってはアツセワナの貴人が望むなら最も惜しくない代価だ。」オコロイは吐き捨てた。
「これはまた気前の良い。」サザールは驚いたように声を低めた。「ヒルの氏族の血筋に伝わる力はイネ・ドルナイルにも遠く聞き及んでいるものを。ほれ、あの山の髄石を通じて女主と語ることが出来るとな。」
「髄石」オコロイが押し殺した声で呟いた。「そんなことまでも“河向こう”に……」それきり口をつぐみ、くるりと背を向けると、オルト谷からコタ・シアナの沿岸にかけて見張らせている者たちの交代を指示するために、谷の北側に設けた飯場の方へと戻って行った。
ハルイ―はサザールと副使とされる従者ふたりが天幕の中に入っていくのを見届けると、森の中を先回ってコタ・シアナの方へ降りて行った。川辺に突き出した小さな峰の突端の藪の中に弓と矢筒が隠してある。彼は、オルト谷から流れ出てくる沢の川口のひとつを見張った。既に小舟が岸に寄せられ、舟頭がひとり、月を眺めてじっと待っている。
果せるかな、副使のもうひとりの男が沢の上流からそっと降りてきた。ハルイ―は沿岸から谷の森の境を見やった。見張りに就いていた水守の男たちが、夏の夜風が梢をそよがす以上の音もたてず、溶けいるように森の中に下がり、代わって風見の男たちがオコロイの指示に従い、位置に就く。星明り月明かりのもとで、木々の質、動きとは違う影が、目を凝らしてようやくわかるほどの動きで木々の間に収まってゆく。男はその交代とおなじくして岸辺に降りて来、舟頭に何かを手渡し、命じた。
舟頭は櫂を取り直し、男は足早に沢筋をもとの谷へと引き返して行った。ハルイ―は矢筒の中から夜目にも目立つ白鳥の羽根の矢を選りだし、弓弦につがえた。既に小舟は岸を離れ、コタ・シアナの流れに乗って南に向かおうとするところだった。
ハルイ―は本流の勢いを得て流れ下る舟の舳先を狙い射た。白羽の矢は櫂を操る舟頭の肘をかすめて舳先に刺さった。舟頭は動きをぴたりと止め、少し下流へと流されながら落ち着いて舟の向きを変え、ゆっくりと遡って岸の木陰につけて自分を止めた矢の主が現れるのを待った。
ハルイ―は弓矢を背負い、岸の上のやや切り立った高みから舟を見下ろした。舟頭は上を見て言った。
「緑郷の兄さん、そこは険しいが、この先下った川口は堪忍して下され。知ってのとおり、コタ・ミラの川口に男が近づくことは出来んのでね。」
「おれは構わんよ。ここを下りて行ったら舟を寄せてくれ。」
「上に行かれるか、下に行かれるか。」
ハルイ―は木の根を伝って下りて来、男と舳先に突き立った矢との間に跳び下りた。
「あんたはどこに行くよう、言い遣った?」
「ピシュ・ティに便りを」男は仏頂面で答えた。
「遠いな―――下へやってくれ」
舟は流れに乗って滑り出した。ハルイ―は弓を置き、どっかりと舟べりに両手を置いて座った。
「アツセワナの旦那たちは舟賃を弾んだかね。」
ぐんぐんと水を分けて進む舟に心地よく身を任せ、我知らず微笑を浮かべながらハルイ―はさばさばとした口調で尋ねた。
「ピシュ・ティの宿にいるトポジョという男に伝言をし、舟賃をもらうことになっている。」舟頭は淡々と話した。
「ベレ・イナは泣いたか、笑ったか、と?」
「いいや。キジの巣に卵はあるかとね。」
ハルイ―はにわかに身を男の方に乗り出し、真剣な顔つきで言った。
「悪いようにはしないから、言付かった伝言をちょっとおれに見せてくれ。」
舟頭は空を仰ぐように顔を上げ、穏やかに言った。
「金目のものじゃない。ただの手紙だよ。それでもわしには仕事は仕事だからな。」言って舟頭は櫂の片方を上げ、身体を大きく傾がせた。舟がぐるりと回転した。舟頭の腕は逞しく、櫂は大きかった。ハルイ―は笑った。
「当然だ。ただ代わりに仕事をしてやれるんじゃないかと思ってな。おれはコセーナまで行きたい。ピシュ・ティの手前で仕事を仕舞って帰ったら?クマラ・オロまで行けば、クシガヤの仲間はいるだろう?舟をおれに貸して仲間の舟で一緒に郷に帰ったらどうだ。」
「舟はコタ・シアナの男の血肉だ。わしが舟を下りるとすればわしが死ぬときだし、わしが死ぬときは舟が沈む時だ。わしに下りろと強いる者がいたら、どっこいそいつが降りるのが先さ。」
ハルイ―はまっすぐに相手を見返して言った。
「そこを曲げてあんたの大事な娘を任せてくれよ。そうすれば秋には再び会えるから。何故ってピシュ・ティに行ったら永遠にお別れだぜ?その矢をやる。鏃は上等の鋼だ。鍛えて小刀にするなり、鋳つぶして釣り針にするなりしてくれ。そのピシュ・ティの男はおれより良いものはくれないよ―――あんたが使えるような形ではな。おれに物を渡せ。そしてしばらくは渡しの仕事を休むのがいい―――春まで。」
舟頭は黙って懐から巻いた羊皮紙を取り出してハルイ―に渡し、再び櫂をとってまっすぐ下り始めた。
「そしてキジの卵はどうだったんだ?」
「五色。黄身に白身」
ハルイ―は手紙を自分の懐に仕舞うとその上に腕を組んでうつらうつらと眠った。
翌朝、舟はクマラ・オロに注ぐコタ・シアナの河口に差し掛かった。葦の繁る広い湿原の中に、“夫婦川”の水路へ、またクマラ・オロの向こうのニクマラ・ガヤへと舟から舟へ人や荷を移す舟着き場と小規模な交換が行われる桟橋が鎖状につくられ、休憩の掘っ立て小屋がいくつか立つほか、簡単な日よけをさしかけ、筵を敷いた上に全部で一抱えばかりの品を並べて、早朝のうちから物売りが商いをしている。コタ・シアナの水郷の女の売る食べ物や荷縄、苧を編んだ袋。木の陰で筵を被り、商売道具の袋を枕に寝ているのは、舟や指物の修理屋の男だ。
「年々人が減っていくな。」ハルイ―は静かに舟頭に言った。「おれがここで働いていた十年ほども前はもっと賑わっていた。」
「せめてピシュ・ティ、それとも湖をわたってニクマラ・ガヤまで行かないことには仕事もない。」舟頭は答えた。「クシガヤにいれば魚は食える―――だがそれだけだ。」
「悪いな。辛抱してくれ」
桟橋の間を進むうちに舟頭は仲間の舟を見つけて呼び止め、また先の倍も恨みつらみを口説いて舟を下りた。ハルイ―は夏の終わりには返すからと念を押し、舟の形にと弓と矢を残らず水郷の男たちに預けた。「それはおれの右腕、おれの虎の子だからな。」譲られた舟に乗り込んでハルイ―は言った。
桟橋から少し離れた葦の茂みの中で舟を止め、炙った干魚を頬張りながら、ハルイ―は手紙を開いて見た。
主に宛てた手紙は一枚の羊皮紙にしたためられ、コタ・シアナ沿岸の大まかな見取図、主だった川口、谷、尾根が記され、聖地やニアキ、集落の位置が描き込まれ、鉱脈のあること、交渉が半月ほど伸びたことが記されていた。
「読める―――が書き換えるのはおれには無理だな。」ハルイ―は耳の後ろをかいた。
これがそのままトゥルカンの手に渡っても大した差は無い。図は正確とは言えないし先に備えることも出来る。そして備えただけ故郷は少し長く苦しむだろう―――ハルイ―はアツセワナ、イビスの圧倒的な人の多さを思った。アツセワナには直に耕しも牧しもしない富裕の者がおり、彼らを守る専門の兵もイナ・サラミアスの四部族を合わせたよりも多い―――楽々それらの人々の口を養うほどの力があるのだ。
「しかし」手紙を巻いて再び上着の合わせの間に押し込み櫂を握る。
「これを使節の帰りまで待てない理由は何だ?またもし、これが届かなかった場合どうする手筈になっているのか」
ハルイ―は呟きながら葦原の間をゆっくりと漕ぎ出した。二、三回大きく漕ぐうちに葦原は切れ、広らかな水面が眼前に横たわった。
使節の帰りまで報告を待てないのは信用されていない者が一行に混じっているからなんだ―――。そして決められた期日があるのはその次に動くことになっている計画があるからだ―――。
細かなさざ波が朝の光に輝き、その上をいくつもの舟が西のニクマラへ、あるいは北西の“夫婦川”の広い河口をさして横切っていく。水面にゆったりと浮かぶと見えて、その舟足は近づけば相当の速さだ。
エフトプで妹川に入り、コセーナへ。彼の目的はコタ・サカで奮闘しているトゥルドへの支援をコセーナの領主に要請することだ。だが、そのエフトプの手前、エファレイナズ南部の交換所でこの手紙の後始末がある。
ハルイ―は舟足を徐々に速めながら、クマラ・オロ一帯の慣わし通りに舟の接触を避ける掛け声をあげた。河口に近づきつつある先行の二艘の荷舟の水夫が櫂を控えて勢いを落とす横を、小舟は滑るように追い抜いて行った。
“魚が集まる”は“夫婦川”がクマラ・オロに流れ込む河口の一帯で、種類も数も豊富な魚と水鳥、また陸伝いに水を求めてやって来る獣もいるために古くから南の人々の漁場であった。
葦の繁る湿原は朽ちた草木の堆積した浮島がまだらな畝になって連なり、水郷や土地の者が思い思いに細い迷路のような通路を小舟を操って漁や用に使っている。上流の方では杭を打って水路を太く整備し、“夫婦川”を行き来する舟を速やかに本流へと導いている。またその脇の堅牢な島に桟橋を渡し、市を開く露台を造り、さらに奥には煮炊き場や小屋の並ぶ宿泊所が三、四区画もある。
下流の浮島の間の細い通路を渡し舟が一艘、葦原を九十九に縫うようにして、南端の宿泊所の煮炊き場に近づいていた。火を焚き、夕食の支度をしようとしていたのは日用品を商う子連れの夫婦だったが、思いがけず近くの葦の陰から突然現れた舟にぎょっとしたように身構えた。
舟の男は気にする風もなく舟を浮島の間に止め、艫に結んであったものを解いて水の中から陸地へと放り上げると、火の傍の亭主に声を掛けた。
「すまないが、火を使わせてくれ。こいつの肉をいらないか?溺れさせたから水っぽくて旨くないかもしれんが―――。」
濡れそぼった塊はまだ牙の短い若い猪だった。舟から降りてきた男は火に近寄ってちょっと手をかざした。腕に巻いた籠手が裂け、赤黒く腫れた切り傷がのぞいた。男は籠手を外し、懐から布を出して傷を縛った。そうする間も濡れた服の裾から、脚絆から水が滴っている。
「濡れると決まったものを乾かす。馬鹿らしいが仕方がない。」首を振り、猪の脇にかがんで女房の方に言った。
「血を受けるものを貸してくれ」
男は獲物を柳の木に吊るして喉を切り、血を女の差し出した皿に受け、腹を切り開いて抜き取ったはらわたの片端を縛って血を流し込んでもう片方をも縛り、剥ぎ取った皮に大事に包んで舟に放り込んだ。次いで肉と骨を丁寧に切り分けて夫妻に取れと目配せした。
「次の満月までは誰にも喋らないでくれよ。」男はごく気楽に言うと水辺で短刀を漱いだ。
一家が礼を言って肉を焼きはじめ、奇妙な男のいるのにも慣れて内輪でぽつりぽつりと話し始めると、男は火の反対側で服を乾かす傍ら、短刀の刃を炎にかざして炙った。隠しから小さな塊を出して刃に載せ、それが溶けだすと、懐から取り出した筒に丸めたものの上に垂らし、さらにその上を拳で打つようにひと押ししてまた懐に落とし込んだ。
短刀を片付けると男は舟に戻り水へと滑らせて出した。女が近寄って焼けた肉を差し出した。男は軽く礼を言って一切れ二切れ取り、葦の間へと漕ぎ出して行った。
その夕方、日がクマラ・オロよりもコタ・イネセイナよりも彼方の山々の世界に沈むころ、物売りの一家は川の本流の桟橋の方から沸き起こった騒ぎに慌てふためいて葦の仮庵から飛び出した。
「人殺しだ!」桟橋から舟へと跳び下りながらひとりの男が叫んだ。何人かは逃げ場を探し、何人かは手近な櫂や石や薪を得物に騒ぎの場所に駆け出していく。
「さっきの男だと思う?」女房が子供を両脇に抱えて叫んだ。
「黙ってろ」夫は言い、妻に小屋の裏に回るように言い、道具の中から最も長い鉈を手にし、戸口の脇に構えた。
「クシガヤの渡し守がやられたらしいぞ。」桟橋から戻って来たらしい、ニクマラからの荷運びが大声で言った。物売りの亭主は小屋の陰から顔を出して言った。
「誰がやったんだ?」
「詳しくは知らんが西から来た男だよ。三、四日もここにとどまっていた、いもりとかいう奴だ。」戻って来た男は大分小さくなった焚火の傍に行き、両腕を抱えてさすりながら亭主に言った。
「待ち伏せしていたんだろう。やられたのは様子のいい男で、相手の名前を確かめて何か手渡した途端に刺されて川に落とされたそうだ。」
「それで?」女は恐る恐る尋ねた。荷運びは首を振った。
「浮かんで来ん。桟橋の下につかえているんじゃなかろうか。何しろ血がひどい。」
夫婦は顔を見合わせた。
「気の毒に」夫は言った。「それで殺した方はどこに?」
「逃げた。」荷運びは言った。「船着き場の方に桟橋を走って行った。ちょうどエフトプに行く荷舟が出るところだったが、その後ろに飛び乗ったんだ。」
物売りの亭主は火に焚き木を足して燃え立たせ、女房に余った肉を持って来させて焼きはじめた。戻って来始めた野次馬達が炎の色と匂いに誘われて火の回りに集まって来た。
「後を追って行ったコタ・レイナの舟頭がいたよ。」火の傍にやって来た男が肉を横目で見ながら言った
。亭主は手招きして枝に刺して炙っていた肉を差し出した。
「馬鹿な、ひとりでか。」荷運びは怒ったように言った。「それにもう追いつけまい。」
「どちらがどちらの仲間だか。」男は集まって来た者たちを見まわし得意げに言った。「荷揚げ場のところから話し声がしていたようだぞ。」
「えっ、気味の悪い。」
「荷物の見張りを増やした方が良いですぞ。」
何人かの水夫たちがぞろぞろと戻って行った。残った者たちは話を持って来た男の傍に近寄った。
「で、何て言ってたんだ?」「人殺しの仲間か?」
「いやいや、」男は残った者の顔を確かめて首を振った。「死んではいないよ。」
男は意味ありげに物売りの夫妻にうなずいてみせた。
「あれは若造の時からこの辺を行き来して仕事をしていた奴で、顔見知りが多いんだ。追って行った舟頭もそうさ。」
「で、」物売りの女房は夫の横に割り込んできて尋ねた。「この肉は大丈夫な肉なの?」
「それはもう」男は両手を振りたててうなずいた。「罰当たりな肉じゃない。おあがんなさい。」そう言って自分も大急ぎで頬張った。「ただ、あいつが何か頼み事をしたのだったら出来るだけ守ってやることだね。」
物売りの女房は口の前に指をたてて見せ、残った肉をひとつひとつ火の回りにいる者たちに振舞うと、ふたりの子供を伴って小屋へと戻って行った。火の回りに残っているのは物売りの亭主の他はコタ・ラートとコタ・レイナを行き来している小舟の舟頭たちだ。
「明日、手の空いている者はいるか?」
二、三の者がうなずいた。「あのいもりめの先回りをしてエフトプとオトワナコスに書状を届けてくれ。」
「書状だって。王様の使者みたいだな。」
「そんなもの、わしらのようなみすぼらしい者が行って誰が相手にしてくれるね。」舟頭たちは疑わしげに言った。
「どうしてどうして立派な手紙だ。 絹の地に、煤と脂の墨、膠の封印。」男は手渡しながらにやりとした。「お歴々がやり取りする手紙とは体裁が違うな。だが、驚くなかれ、印は本物だ。」
ほう、と面白がるような声を漏らしたが、舟頭は真面目に男に言った。
「舟ではオトワナコスまでは行けん。あそこに流れてるのは川じゃなく滝だ。わしはクシガヤの舟人でも鯉でも無し。」
「コセーナまで行けりゃいいだろう。」男は目をむいて囁いた。「お前の知っている馬方ならあの坊ずにも知り合いさ。コセーナの先は馬で行くんだ。」
「本人はどうしているんだ?」遣いを引き受けたふたりは見交わしながら手紙を懐に仕舞って言った。「奴の足も沼地で舟よりも速いということはないだろう?こちらは手紙よりも本人を乗せる方が気楽だね。」
「裏の水路からとっくに舟でコセーナに向かったよ。」
男は夜闇に沈んだ葦原を手で指して言った。
新月の頃、オルト谷に築いた鉄炉は完成した。シオムは沢の向い側で手水を使い、手布で拭いながら昨夕までの成果を朝の光の中で改めて眺めた。
土手に沿って四間ばかりに段を切って、足場と作業場を造り、平らに切り下げた土壁の前に七尺もの高さに聳える粘土の竪炉が聳えている。正面には鉱滓を流れ出させる口、両脇の羽口には真新しい板と皮で造った鞴が備わっている。
工事の期間ずっと昼夜番をし続けたイーマの若者たちも、もう慣れた様子で歩きながら勤めをこなし、時には短く気楽な言葉を交わしている。やはり物珍しいのか頻々と炉の傍に来る。素直な賞賛と好奇心がその面に表れるのを見るのは気分が良いものだ。彼らは物静かで呑み込みが早く、働き者だ。
何年ぶりかで良い汗をかいた。あの背の丸い貧相なサザールがこの旅から様子が変わって来ていたが、この谷に入ってからは特に生まれついた指導者でもあるかのように指揮を取り、自分もまたそれを大いに興がって働いた。
彼は自分の上流の堤の森の際に佇むヒルメイの少年を見つけた。近寄っても気付く様子もない。少年は沈思するように谷の上を眺めている。日当たりの良い堤の高所には花々が群れている。
「イナ・サラミアスは素晴らしい。」シオムは話しかけた。「すっかり作業に没頭して景色を楽しむのも忘れていたが。」自分はここでは余所者だ。相手の気位に合わせてやる気持ちも必要だ。「この前咲いていた花々はどこへ行ったのだろう?古びた躯をさらさず次々に新しい花芽が上がる。白、青、紫、紅……。いや、これは実か。」
少年は答えるかわりに澄んだ瞳で見返し、胸を張った。盛夏の深緑の陰に、イスタナウトの灰白色の肌には苔の紋様があらわれ、少年の着衣の色と紛れて口をきかなければ木になってしまったかのようだ。少年は突然炉の方を見やり素早く囁くように言った。
「私はこの光景を好みません。これがただの見世物で済み、鉄造りなどこの地で行われなければいい。」
「だが、君の使っている短刀は?」シオムは穏やかに言った。「父上は狩りをすることもあるだろう。鏃や短刀には少なくとも金属を使っているのではないか。製鉄を担う地は多かれ少なかれ荒れる。仕事を担う女の手が荒れるように。イナ・サラミアスは美しい女神だが、妹ばかりに負担を押し付けるのは不公平ではないか?」
少年はうなだれ、シオムの横を下りて行った。シオムは苦笑した。
炉の完成に引き続き行われる鉄の精錬に臨んでイーマの四人の大人、四人の主幹たちが集まった。副使という肩書でやって来たふたりの山師は使節の仕着せを脱ぎ、鉄師のなりをしている。サザールはまだ宿泊の天幕から現れなかった。
ニアキから呼ばれた長老たちは、切り開かれた沢の下流から厳しい苦り顔で水の濁りとせせらぎに沈んだ砂の状態を眺めながらやって来たが、森の中を炉を目にできるところにたどり着くと、一斉に忘我の境に達したかのように立ち尽くした。アーメムクシは杖を取り直し、外衣と白髪をなびかせ、大股につかつかと炉の前に歩み寄り、なおも言葉を失ったかのようにむき出しの土壁を見つめた。
「アーメムクシ、こちらへ。鉄造りは強い火を焚く。そこにおられては危ない。」風見のトゴ・オコロイが声を掛け、長老たちを沢の反対側へと導いた。
「ここにあった二本の大木は……。」アーサタフがやっとのことで言った。
「鞴を作るのに切り倒した。どのみち場をあける必要があったので。」オコロイの声は以前ほど居丈高ではなく、弁明するかのように低く素早かった。「あのように沢山の炭を要するとは。またあの煙の凄まじさは。風向きで梢に火が移っては危ない、ゆえに広く伐採しなければならなかった。」
シオムは、イーマ達が次々と静かにその場に止まり、ある方を向いて直り、軽くうつむき目線を落とすのに気付いた。シオムの心が鋼が打ちあったかのように高く軽やかに鳴った。
沢の南側の上流から、ヒルメイの女達に伴われて巫女がやって来る。
今日は水の帳はなく、昼の光のもとで両脇を付き添われ、前よりもいくぶん人間らしく見える。ただ、その姿は相変わらず頭のてっぺんから足のつま先までベールで覆われている。ほっそりとした身は軽そうだが、苔の覆う石、草の跳ねあがる堤、見えぬ足先が惑って下りるひと足ごとに紗の裾野がふらりと右へ左へ傾ぐ。
シオムは我知らずまっすぐに登って行った。両脇の女達が気付いて立ち止まり、巫女も驚いたかのように立ち止まって女の手にすがった。シオムは止まって軽く片足を引き、姿勢をかがめて丁重に言った。
「サラミア、手をお貸ししよう。そのベールは視野を悪くする。せめて顔まで上げられては。」
さっと俊敏な影が、楔のように巫女とシオムの間に入った。巫女の右に付き添っていた女が叱った。
「ガラート」
ヒルメイの少年は落ち着いてシオムを見つめ、言った。
「どうかそれ以上お近づきにならないように。人と人にはそれぞれ相応しい間のおきかたがありましょう。私もこれ以上あなたには近づけません。ましてサラミアには。この血の半分は最も神人に近いとされる私にしても直に会うことはかなわないのです。」
少年の優しげな姿に似合わぬ大胆さにシオムははっとした。透かし見る巫女の容貌すがたはなるほど、少年と姉弟かと思わせる相似を見せている。
「申し訳ない」シオムは顎を上げ目元を穏やかに伏せ面目を保ちながら、一歩下がった。
「下がれ、子ども」オコロイが呼ばわった。「客人、あなたもこちらにお越しを。鉄を吹くのが初めてならあなたも我々と同じということだ。間もなく正使どのが来られる。共に鉄の生成を拝見しよう。」
丁度、下の森からサザールが登って来たところだった。マントの下に腕を組み、傲然と顔を上げた姿は儀式に臨む神官のような物々しい歩きぶりであった。長老たちをはじめとして一瞬にして皆の耳目がこの男の方に集まるのをシオムは見た。神蚕の紗の光をまとった巫女の存在ですら一時影を潜め、イーマ達のそのおおかたの注目の理由が不審と警戒であれ、今やこの生まれも定かではない男の差配にこの場は委ねられていた。
使者に身をやつして見聞するために来たのだ。交渉の決着がつくまで何物も見逃すまい。シオムはオコロイに勧められるまま、トゴと主幹たちの集まる炉の左手の下に行き、腕を組んで立った。
炉の右側を見下ろす水辺の木々の間に繭を引き延ばした薄い天蓋を張り、その下に巫女は腰をおろした。
サザールは沢を大儀そうにゆっくりと横切って炉の前に立った。よろけるようにしてかがむと、マントの下からずしりと砂鉄を詰めた袋が地上に落ちた。
「イーマの長のかたがた。そしてサラミアよ。とくとご覧あれ、これよりお見せする冶金の技、これなくしてはこの度の訪問の手土産も話し合いも意味をなさぬ。ここに持参した砂鉄二貫目は、築炉の合間に水に洗い、一度火にかけて炒ったものだ。まだ鉄の性は現れておらぬ。これをどうされる?そなた達イーマの中でこれを鋼にすることが出来る者はおられるか?」言わずもがなの問いを投げかけ、その口元には満足げな笑みが浮かぶ。「なにはさておきひと目見てもらわねば。ご覧になれば鉄の価値も分かろうし、その代償も理解していただけよう。」
「一緒に来られた副使の方々は鉄造りの匠であられたか。」
アーメムクシはじろりと鋭い目をくれた。
サザールは意に介さぬふうに炉に歩み寄り、粘土を焼き固めた肌を平手で叩いた。
「これが鉄を生む炉。胎でございますな。火を熱く保ち、その身を削りながら鉄を生成する。第一にはこの炉の形、高さ。そして第二には粘土だ。某の本分はこの土の見極め」サザールはやや声を張り、ちらりと一同を見やった。「鉄造りとしてはベレ・イネの子らの裔でも末席でございます。なに、こればかりの鉄吹きならこなして見せましょう―――さて、この胎も基盤がしっかりしないことには働かない。見えない部分が肝心だ。地中には炉の高さの半分もの深さに掘って木灰と木炭が詰めてある。湿り気は鉄吹きには毒だ。炭は胎にも隙なく詰まっている。」
「私の木が……」細い声があがった。巫女の肩が上下した。サザールはもったいぶってマントを広げ、風見の旗のように向きを変え、堤の下に三つもの大籠に蓄えられた炭を見せた。
「まことによい炭が取れた。炭は沢山要る。そして鞴も整った。火を焚きつける時が来た。鉄が生まれる。」
払いやったマントの下に、襟元からチュニックの内へと重く沈み込んだ鎖飾りが光った。巫女は小さく声をあげ、身を引いた。
水の盾に守られていたとはいえ、以前会った時はもっと気の強い娘かと思ったが―――。シオムはそっとその様子に目を走らせた。また絹を見る機会のないまま、この娘の退出となるのではなかろうか。
「さて、我が故国では鉄吹きのはじまりにベレ・イネにこう祈りを捧げ申し上げる。」
サザールは砂鉄をすくい上げ、両の手の間からさらさらと袋の中へと落とした。
「よい鉄を生ましめたまえ」
焚口から火が入れられた。
炉頂の接する堤の脇に炭を詰めた籠がずしりと置かれ、さらにふたりの鉄師が砂鉄の袋を引き上げる。
「鞴を押す者を四名借り受ける。鉄吹きは長きにわたる仕事だ。ここにあるわずか二貫目の鉄でも日が傾くまではかかる。」
主幹たちはひとりずつ若者を呼び出し、両側の鞴に二名の者がついた。鞴がゆっくり上下し、煙が上りはじめる。やがてびっしりと炭の詰まった炉の内に火が回ると炉の両側についた鉄師は掛け声と同時に交互にしなえで炭を打ち始めた。イーマの若者たちが鞴を押す。煙は澄み、炎は炉頂に静かに短い鎌首を揃え、鞴の節奏に合わせて明滅する。
肌を脱いだ男たちの身体は汗で光り、その上をさらに水のように汗が流れ、顎や肘から滴り落ちる。炭が減れば上にさらに箕を使って投げ入れ、しなえに持ち替え、叩きしめる。主幹たちは鞴につく若者たちを交代させたが炉の傍らに立つふたりの鉄師は片時も炉を離れない。
サザールは一同を見渡した。
「火を燃え立たせるにふさわしい言葉をご存知の方はおられるかな。」
イーマ達は炉の発する熱気に魅入られている。森を脅かす火を燃え立たせることに罪と恐れを抱いているのか、あるいはそのような力を持ちうることに魅了されてか。シオムは首を振った。一様に無防備な表情をさらす。これが交渉に臨む者のすることか。美しい顔が愚かな表情をするほど情けない事は無い。彼は仮の立場も忘れてサザールに言った。
「言葉というのはおかしい。何の迷信だ?炉と鞴がちゃんとしていれば燃え立つだろう。」
サザールはシオムの目と遭ってもびくともしない。これほど正使の役を徹底して演じるとは見上げたものだ。
「おいおいに分かろう。この谷間の風の巡りを良くする言葉が。イーマの皆々は、胸にひとつずつ秘めた昔語りを持っている。サラミアの目はそれを読み解き、風を起こす。」
「戯言は沢山だ。」シオムは呟いた。まじないなどで鉄の出来が左右されてたまるものか。
「今は、まあ、いい。」サザールは上の鉄師に合図を送った。
「火処が熱くなってきた。赤砂をいれよ。」
片側の鉄師が炭を投げ入れ、続いてもう一方が赤い砂鉄を投げ入れた。鞴は休まず動き続け、炉頂から伸びる炎の鎌首は丈を倍にし、やがて炉の前の口から、赤く焼け溶けた粘土と鉄砂の塵とが、ゆっくりと地を焼きながら流れ出してきた。
今、造ろうとしているのは黒砂による鉄だ。赤砂は事前に炉の温度をさらに高くするための、言わば呼び砂だ。まだ鉄の材料も入れぬうちから、炉は既に高熱にすり減り、溶けて流れ出している。鉄が生まれるにはこれほどの熱、これほどの燃料が必要なのか。シオムは顎の下に両手を組み、流れ出る火の液を見つめた。
木立ちの中の白い天幕の中で不意に影が立ち上がり、長らくそこに巫女がいることを忘れていたシオムは驚いて振り返った。巫女はしなやかな枝のような両腕をあげて左右に打ち開いた。
ぞくりと天を覆う陰りが天候の急変を報せ、峰から降りてきた突風が一瞬にしてその面からベールをはぎ取った。
耳元を打たれたかのような聾さんばかりの音がひとつ、またひとつと続き、サザールの脇を、また頭の横をかすめてもんどりうち、台木からもぎ取られた鞴が谷の下へと飛ばされ転げ落ちていった。鞴の横についていた若者たちは弾き飛ばされた土手の下から起き上がり、うろたえながら炉の傍に駆け戻った。もげた羽口から火の手の端がちろちろ漏れ出てくる。
しかし緊迫の瞬間にもシオムは目にしたものに驚きを禁じ得なかった。煮えくり返る炉の向こうの木立ちの中に少女はベールを脱いでまっすぐに立っている。
これが、イナ・サラミアスの絹か。なるほど、これがシギルに買わせたい品というわけだ。この織物の柔らかさは芯のなだらかな線を少しも損なわず、流れ下る足元に端然と波紋の襞をつくる。染めていない地色は淡い緑を帯びているが、厳寒の真昼の新雪のように煌めいている。だが、あの男に分かろうか―――シオムはハルイ―の鋭くも大らかな眼差しを思い起こしながら思った―――この絹は触れるも恐ろしい雷雲だが、一方では果実の甘さを引き出す霧かもしれないと。
巫女は木立ちの間に立ち、じっとサザールを見つめた。サザールは峰を見上げてしわがれた声で笑い、鉄師に命じた。
「黒砂に代えよ。続けよ。」
鉄師は上から叫んだ。「風を送らねば、火が弱っていく。」
「なに、鞴はとうに備わっている。」サザールは叫び返した。
「うまく吹かせるだけだ。」
炉頂の炎は既になりをひそめていた。サザールは炉の脇にあった杖を取り上げた。山を歩くときに携えていた、鉄の石突のついたものだ。それを両手に取り直すと、炉の正面に回り、出滓口の上を突いた。
そこにいる者は皆、思わず腰が浮いた。数度で炎が炉頂に灯り、突き崩された掌ほどの穴から真っ赤な炉の内がのぞけた。熱さに炉の周りの空気が歪み、流れ出した鉱滓が水辺に達してもうもうと湯気をあげ、あたりの視界を白く覆った。ゆっくりと宙に散る靄の中にシオムは幻影を見た。
岩の荒野から刃のような石片を拾い上げる蓬髪の若者―――以前見た光景だ。続いて、鉱山の穿場で坑道から水を汲みだす男たちのまばらな列。まだ若い身形のよい男―――極めて若いがよく知った顔―――が、ひとりの若者に声を掛ける。石を拾った男に似ているが別の男だ。これも良く知っている。若い頃のサザール・ウヌイマイに違いない。この時からいまも変わらぬ鎖を首に下げている。はだけた襟元の陰に鎖の先に下がった玉石の刃が揺れた。若いサザールは若いトゥルカンに手招きされ、鉱夫の列から出て従って行った。蒸気が薄まるにつれてその姿も現の光景に溶け入り消えた。
「お前」細いがよく通る声が抜き身のように鋭く少女の口から発せられた。
「お前は祖が拾い上げた妹の魂を訳も知らず引き継いで持っている。」
サザールは名指して呼ばれたように振り返った。
「お前の父祖は荒れた妹の膝元の地に代々住まっていた。アツセワナから来た男たちのために妹の血肉を削り、金銀を探し出してやっていた。奴隷だったお前を狡猾なアツセワナの男が目をかけ、取り立てて、ここに遣わした。――――ここへ何をしに来た。我が子らと対等に話に来たのではあるまい。お前の目的は最初から……。」
巫女は胸の前に庇うように両拳を交差した。サザールは靄の中で上目づかいに巫女を見やり、囁くように言った。
「女よ、お前が生まれる前のことだ。そして石の所以を知らぬではない。」
「お前は妹の憑代に値しない。生まれも知れぬ―――」
サザールは呵呵と笑った。
「女よ、それを言うか?お前の生まれの物語を白髪の子供たちに訊くがいい。そうして鞴を吹け。」
シオムが訳も分からず幻のように耳にしたやり取りは、突如ごうと息を吹き返した炉の音にかき消された。巫女は胸元を押さえて前にかがみ膝を折った。炉が開けられた通風孔から沢の風を引き込み、炎は炉の倍もの高さに伸びあがった。土手から上がるかげろうがその中に別の光景を見せた。
月夜のもとに照らされる岩がちの原に、ぴたりと寄り添う同じ顔だちの少年少女。そこへ飛ぶ一本の矢。
「待て―――」シオムは我を忘れて口走っていた。「その子たちは何をしたのだ?」」
しかし、彼の声は炉の上で掛け声をかける鉄師と交互に投げ込まれる炭と黒砂、炉が引き込む風の音にかき消されていた。幻は一片も残らず消え、彼の目の前にはただ、煌々と入日の陽光の色を呈して輝く炉口と、その前に汗だくになって笑みを浮かべるサザール、そしてその向こうにうずくまって喘ぐ巫女の姿があるだけだった。シオムは長老たちを振り返った。どうしたことか。誰もが死者のように蒼白で、そこで行われている鉄の生成すら眼中にない様子だ。自分の見た悪夢をこの者たちも見たのか。そればかりかまだ幻の続きに苛まれているかのように見える。
一方、鞴を押すことから解放された若者たちは少しづつ魅せられたように炉の周りに集まって来ていた。炎は高い位置を保っている。はっはっと引き込む風に明滅をつづけ、炉の表面は思いなしか焼けて赤らみ歪んでいるかのようだ。
シオムの目の端にぎこちなくわななく指をあげ、こめかみの汗をぬぐう巫女の姿が目に入る。背が波打ち、あたかもその華奢な身体が炉の炎を唸らせているようだ。
サザールが通風孔から炉を覗く。シオムは思わず顔をそむけた。若者たち達も皆、目を押さえている。炉の光を見た後では森の緑は白茶け、色を失い、空は暗く輪郭は陰に沈む。よくも見ていられるものだ。いったん閉じた目に涙がこみ上げ、瞼があかない。しかし、不思議だ。目の裏にサザールが見ている炉の内の光景が映し出される。
灼熱の黄金色の火の中に、ひとつ、またひとつと白く輝く星があらわれ、膨らみ雫となって下りてくる。炉底に集まった星はつながり、白い星の塊に育ってゆく。
「鉧が育っていくぞ」サザールは囁いた。「まだまだ。鞴を吹け」
峰から下ろす風に梢が細かにさざめいた。
「息が強すぎる」サザールが言った。
巫女が拳を固める。
ここまでが全てトゥルカンによって仕組まれたことなのだろうか。このシオムを一行に加えた戯れ以上の、予定外の成り行きということか。あたかもサザールが巫女を支配しているようだ。この男が下知し、命令のままに巫女が吐く呼気が風となり、炉の火を吹いて鉄をつくり出す……。
いや、そんな愚かなことを考えるものではない。サザールがこれほど芝居気のある奴とは思わなかったが、これはただ鉄造りの工程を説明しているだけだ。巫女と長老たちには結局、森で手に入るものだけで暮らしをやり繰りする古い慣習を改める気になれず、それで気分を害しているのだろう。
弱々しい声が言いかけた。
「我が父母は―――」
「口をつぐめ。息を止めろ。鉧の仕上がりだ。滓を出すぞ。」
サザールが杖を取り、炉の下部を突き崩した。眩い光を放って溶けた鉱滓が流れ出し、斜面を水辺へと下って行く。さらに炉を突くと縦に長い亀裂が入って沈み、溢れた滓の中に差し入れた杖が、中から真っ赤な光を噴き出す手のひらほどのかさぶたを地面の上に引っ張り出した。杖の石突が当たり火花が飛び散る。
「これが鋼か」強烈な光に驚きながらひとりの若者が喘ぐように言った。「だが、これっきりか?―――あんなにたくさんの砂鉄をいれたというのに」
「なに、鋼は半分もあれば上等。まだ三割は鍛えれば鉄になる銑だ。」サザールが言った。「イーマの衆、お分かりか。一斤の鉧に値するものは?」杖の先が削られた土手と炉を示し、炭籠を示し、はるか谷の下流で壊れて転がっている鞴を指す。「そなたらは土産をものにするだけでもひと苦労よ。これが既に出来上がった鉄を求めるとするとどうするか。さらに材料と手数の代価がかかる。大木が、さよう、十本も必要でありましょうな。」
イナ・サラミアスに取り引きの交渉を持ちかけようという話が出、使節の派遣を決め、交渉の趣旨をトゥルカンと取り決めた時、当然鉄の代価として木材を求める事は決まっていた。だが、自分には言わないものの、トゥルカンにその先に目論見があるのは分かり切ったことだ。当地での採掘と精錬が可能であると言い、利益を説いてアツセワナの監督のもとでイナ・サラミアスの山を開かせるところへ持って行くのがトゥルカンの真の目的だ。だが、今回すぐにそんな話を持ちだすとは思ってもみなかった。いや、サザールは話をそこまで持って行くつもりだ。が、こんなに急いでは警戒されるか、相手の誇りを傷つけ反感を買って交渉が頓挫するだけだろうに。特に長老たちを頑なにするだけだ。
シオムは長老たちの様子に目をやり、彼らがサザールの言葉よりも先からの怪しい幻にますます心乱されたように茫然と巫女を見ているのに気づき、あっけにとられた。
殊にアーメムクシは巫女を恐ろしいものを見るようにこめかみを震わせて見つめたと思うと両膝にあった両手を懇願するように揉み絞り、うなだれてしまった。
オコロイだけが、サザールの示した鉄の代価に驚き慌て、考えをめぐらせている。
「そんな取り引きを続けてはすぐに森も底をつく。」彼は大人たちに素早く目をやり、同意を求めた。「まことに、出遅れたつけがまわったというものだ。だが、材料があれば鉄は当地でも作れるはずだ。我々は半月でこの炉を用意したのだ。鉄造りを習得するのに今しばらく時間がかかるとしても当地で出来ないことではない。サザール殿、イナ・サラミアスに鉱脈があるとは言われなかったか―――。」
「むろん鉄はある。鉄などありふれたものだ。」サザールはつまらないもののように言い、巫女に目をやった。巫女は誰にも目をくれず、前に折った上体の下に両手を握りしめている。
「他にも金銀。瑪瑙、玉髄、翡翠、地の奥に眠る宝は計り知れず。殊に世に知れる髄石はこのイナ・サラミアスにあるのではなかったか。」サザールの言葉にオコロイはにわかに警戒を示して頬をこわばらせた。「―――髄石。ははは、だが先ずは目の前の成果を受け取りなされ、忘れてもらっては困る。これは土産だ。」
いつしか少年がシオムの傍らに立っていた。警戒する羚羊のように顔をもたげ、谷の上方を見ている。
「やれ、冷めたようだ」サザールは鉧を杖で突いた。「玄翁を持て。鋼を取り出し、後は鍛冶で鍛えてみよう。―――女、どうだ、土産の石を自分で割っては。」
無礼が過ぎるぞ―――たまりかねて、シオムはそう怒鳴ろうとした。この男め、いい気になりおって。城内で軽んじられている鬱憤を、遠く離れたこの見知らぬ土地で、自分よりもか弱い少女で晴らそうとしているのか。真実は一少女に過ぎないとしても、ここでは神のように奉られている者をこのように公然と侮っては必ず反感を買い、報いを身に受けることになるぞ。
巫女がうなだれていた顔を上げ、組んだ両手を突き出し天を仰いだ。額に、口元ににじんだ汗がきらめく。
何かが鈍く、低くはじけた。凪いだ大気の中を、からからという不気味な音が谷の上から近づいてきた。イーマ達が耳をすまし、素早くあたりを見回す。少年はぴたりと東の斜面の一点を見るや、
「落石!」叫んでシオムを両手で押しやり、庇うように覆いかぶさった。イーマ達は一斉に伏せ、ふたりの鉄師は炉の脇を左右に分かれてかがんだ。
赤子ほどの大きさの石の塊が速さを増しながら斜面を転がり、切り落とした堤の端から縦に炉を断ち割って残った鉱滓を飛び散らせ、場の中心にいるサザールを地上へと押し倒した。杖が吹き飛び、沢の水に流れ込んだ鉱滓が凄まじい破裂の音をたてて蒸気を噴き出し、もうもうたる幕の中に一声さえ断たれ、ぱくぱくと口で喘ぐ姿をかき消した。
叫び声が飛び交い、主幹たちが若者たちに救助の指示を下すなか、シオムは靄の上に最後の幻を見た。
揺らぐ広らかな波紋。水辺にかがみ、大きな籠に封をするのはまだ側頭に黒髪の残るアーメムクシ。峻厳な面持ちの非常に美しい、しかし初老を過ぎたと見える男が手を振り合図を下す。水音としぶき、その中に紛れて嬰児の泣き声が、籠を運び去る水足と共に遠ざかってゆく―――。
靄を払いながら飛び込んで来たイーマ達は皆その場で立ちすくんだ。
固まった鉱滓のまだらの真ん中で石を抱え込んでサザールがもがいている。
「手を貸せ」ヒルメイの主幹が湯気を立てている地面に飛び込み、怪我人の傍らにかがんで叫んだ。続いて飛び込んだウナシュの主幹とふたりがかりで石を持ち上げかけると、相方のウナシュの主幹はその下を覗き込み叫んだ。
「ハルイル、首の鎖を引くな―――体に何かが、石の刃がもぐり込んでいる。」
サザールは気を失った。
強い風が谷の上の厚い雲を流し、真夏の藍色の空が地上の無残な光景をくっきりと光のもとにさらした。
堤の上で巫女がすくと立ち上がった。頬は赤く上気し、瞳が静かに輝いている。杏仁形の目がすっと細まり、花弁のような唇が言葉を吐き捨てた。
「虫めを潰したが、妹の髄石を汚してしまった。」
巫女は、胸を押さえてうずくまっているアーメムクシを冷たく見やった。沢の水が、ひと固まりどぶんと音をたて、折から通り過ぎたつむじ風がしぶきを巻き上げ、居並ぶ者の面にかかった。巫女は地に落ちたベールをそのままに、身をひるがえして木立ちの奥へと立ち去った。
「僕の心はこれを望まなかっただろうか。」
慄く声が呟いた。シオムは少年の肩を押しのけ、茫然とした目が彼を認めて動くのを確かめるときびきびと言った。
「私に怪我は無い。心配はいらん」
少年はシオムを見つめ、小声で素早く詫びた。
「どうぞ、お許しを。このようなことになるとは―――イナ・サラミアスをお恨みにならないように。」
「馬鹿な。」シオムは腹を立てて言った。「人が山をどうこうできるものではない。落石くらいで何故イナ・サラミアスが責めを負うものか。」
「あなたは身分のある方です。」
シオムはそれ以上少年には答えず退けという合図に顎をしゃくり、前に出た。
怪我人の介護にあたっているヒルメイ、ウナシュの主幹と若者たちの脇に長老たちと大人が集まり、対応を話し合っていた。
シオムはつかつかと歩み寄り、ひとりふたり押しのけて割って入った。
「正使の怪我は重いのか。直截に答えてくれ。」
一同は蒼ざめた顔で振り返り、牽制と自重との狭間で沈黙した。
ヒルメイのハルイルが立ち上がって答えた。
「あばらを少し折ったが、肺も心臓も動いている。だが背骨を傷つけたようだ。そして奇怪なことに首に掛けていた石の刃と思しきものが胸の肉に食い込んでとれぬ。鎖を切り、取るもとりあえず血は止めた。我らの医術ではこれを無事に取り出せる保証は無い。この石が他の悪いものを取り込んでいなければ、生きる命は生きるだろう。」
「分かった」シオムは鉄造りのふたりを呼び、壊れた炉の脇に待たせた。そしてイーマ達を振り返って言った。
「アツセワナまでは遠い。間のコセーナで怪我人を療養させたい。その旨を信用のおける者を選んで遣いをやって領主に伝えてくれ。迎えがあるまで引き続き厄介になる。なるべく揺れない舟の手配、そして怪我人の看護を頼む。そしてこのふたりは―――」炉の脇のふたりに目をやり、「寝起きと食事の面倒を見た上で、宿から一町四方を出ぬように見張れ。私たちがこの地を離れる運びとなったら、皆一度にコタ・シアナの向こうに来たコセーナの者に引き渡してくれればいい。」
主幹たちは訝しげに見交わした。ハルイルが尋ねた。
「あなたの身分は?」
「今は正使。アツセワナのシギルとの取り引きを引き続き検討してくれるように頼む。が、今後しばらくの間は休止せざるを得ないな。そして我々四人の身柄が収まるところに落ち着くまでは私の身分は他の三人と同様のあなた方の虜だ。」シオムは落ち着き払って答えた。
サザールは宿泊小屋のひとつに運び込まれ、鉄師たちはその隣の小屋に見張り付きで入った。シオムはそこから少し離れた炊事場の焚火の傍で賄いを手伝いに来た少年に声を掛けた。
「私たちの帰りの舟の手配はついたか。」
「すぐにも。しかし遣いに出す者は決まっておりませんし、怪我人を動かして良いのか私には……。」
「大丈夫だろう。」シオムは冷ややかに言った。「私たちが早く立ち去った方が君たちは安心できる。」
「お望みならそう伝えましょう。」
「ヒルメイのハルイ―は戻って来ているか。」
少年は一瞬押し黙った。「何故、またしても彼なのです?」
「私に信用が持てないのか。それとも彼は君のような子供に心配される男か?」
警備をしながら傍を行きかう者を気にして、シオムは苛々と言った。少年はふと南東の稜線に顔をそむけ、素早く言った。
「帰ってきています。つい先ほど、コタ・シアナの向こうから。」
「それは好都合だ。」シオムは呟いた。「彼を小屋の南の森まで呼んでくれ。私はもう引き取って休むことにする。小屋の周りを見張っていてくれ。」
少年は目を大きくした。
「私に嘘をつけと言うのですか。」
「君は空の小屋を見張る。ただ空だと言わなければいい。」
少年は巫女に似た表情でシオムを見返した。「―――ハルイーはまた出かけました。」
「遠くへか」
「いいえ」
「それなら、彼が帰ってきたら、私の見送りに来るように伝えておいてくれ。」
夜も更けてから、シオムは小屋の垂木のひとつを手の甲で叩く物音に目覚めた。彼は屋根を葺いてある草を分けて垂木の間から外に滑り出た。森の中に少し離れてハルイ―は立っていた。
「私が思っていたよりも大分時間がかかったようだな。」シオムはわずかな星明りのもとで相手の表情を読もうと試みながらしかつめらしく言った。
「ここを発つ前に思いの他の事があった。」
ハルイ―は淡々と、副使のふたりの男がサザールの命を受けて谷の奥を探り、密書をコタ・シアナの舟頭に託したことを話した。
「そちらを追ってクマラ・オロまで回ったのでコセーナに行くのに大分遠回りになってしまったんだ。」
「密書だと。」シオムは低く呟いた。ハルイ―はじっとその様子を見ている。やがてシオムはゆっくりと言った。「そんなものが出ていたとは私にとっても思いのほかだ。」
「そうではないかと思ったので、確かめてみた。」
「見たことを話してくれ。あなたはどこまでその密書を追った。内容と受取先は突き止めたのか。」
「おれは舟頭に手紙を任せてくれるように頼んで、中を確かめた。サザールからトゥルカンに宛てたもので、交渉が長引いていること、イナ・サラミアスには金銀の鉱脈のあることを示す五種の石があること、攻めるならどこから入り、どこに襲うべき村があるかが記してあった。」
「あなたはそれをどうしたのだ?当然放ってはおけなかっただろう。」
ハルイ―は肩をすくめた。
「書き換えたところで大した違いはない。そしてこれを消したところで敵が次の手筈に移るのを早めるだけだ。おれは直さずにそのまま封をし直して、舟頭に教えられた通り、ピシュ・ティでトポジョという男に渡した。案の定トポジョはおれを殺そうとし、また、殺したものと思って、次へ行った。エフトプとオトワナコスへ。イナ・サラミアスに宝があると伝言があった場合、トゥルカンはイナ・サラミアスをものにしようと思ったらシギルの縁戚のコセーナを避けてこの二郷の機嫌を取ろうとするだろう。そこで、トポジョがどんな中身の手紙を持って行っても二郷に思い止まってくれるように、おれは手紙を用意し、コタ・レイナを行き来する顔見知りの舟頭に託した。あんたから預かった指輪の印で封をして。」
「ほう」シオムは興味深げに口の端をつり上げた。「よくも用意があったものだ。どんな手紙だ。」
「手布に煤に油を混ぜた墨で、待て、と書き、膠で封をした。これを二通用意し、それぞれエフトプとオトワナコスに届けてくれるように頼み、おれはコタ・レイナを上ってコセーナへと行った。コセーナでは思いのほか川から入る者に厳しく一日留め置かれた。そこへオトワナコスへの手紙を持って行く馴染みの舟頭が追いついて、馬を貸してくれるように馬方に頼みに来た。彼らがおれのために口をきいてくれて初めて柵の内に入ることを許された。
「コセーナの領主はトゥルドへの支援を約束した。だが、おれが先回りをしてエフトプとオトワナコスに手紙を出したのには不服そうだった。」
闇の中でシオムの頬がこわばり、その上で睫毛が素早くしばたたいた。
「当然のことだ。名を騙られて嬉しい男がいるか。一国の主として隣国との信頼を築くために骨折って来たものを、余所者に大事の判断を奪われて。本来なら結果にかかわらず死罪になるところだ。」
「が、折も折、トポジョを付けてエフトプに行っていた男が、探り当てた報せを持って来てくれた。トポジョはエフトプの領主にトゥルカンの親書を持って行ったので、それによれば、領主を邸に招いて内々に話したいとのこと。さらにエフトプを発った後、トポジョはオトワナコスにも同じものを携えて行ったということだった。」
「ヒルメイのハルイ―、命拾いをしたな。」シオムは重々しく言った。「その会見がいつの事か分かればなおよいが。」
「霜降の頃、例年通り行われるアツセワナの収穫祭の前夜、第五家の別邸で園遊会を催すゆえ、来られたし、と。」ハルイ―はすらすらと答えた。「コセーナを外してコタ・レイナの領主ふたりを招いたことで、シギル同様にコセーナをも排除してイナ・サラミアス獲得を企てているのがわかるだろう。侵攻するには北でも南でも道筋を整えねばならん。ところが真ん中に最も領土の広いコセーナがある。コセーナは兄に肩入れしてトゥルカンの進路をふさぐだろう。あるいはコセーナこそが先にイナ・サラミアスを支配下に収めるかもしれん。取られる前に取れということだな。」あっけらかんと言ってのけ、ハルイ―はシオムを見た。
シオムは顎に手をやり、じっと考えている。その目が不意にハルイ―を向き、気短に促すような目配せをした。
「領主にその心積もりが無くとも、疑われ、のけ者にされたのは面白くは無かったろうな。シグイーは―――領主は何と言った?」
「すぐに正式な書状をつくり、使者を遣わし、二郷に向かわせた。真実を正し、同盟を確認し、トゥルカンに加担しないことを同意させるために。」
「うむ」シオムはうなずいた。
「これでもおれは出来ることはやった。が、全て満足とはいかない。」ハルイ―は隠しから指輪を出してシオムに返した。「そいつはトポジョに渡した手紙の封をし直す時とオトワナコス、エフトプへの手紙の印に使い、コセーナでは領主への目通りをかなえた。が、領主はおれに言った。―――この印を使ったか。手下風情は騙せてもトゥルカンの手に密書が渡れば開封は露見するな、と。」
「その通りだ。まさに今ごろはトゥルカンに知られていることだろう。」シオムは重々しく呟いた。「こうしてはおれぬ。」
谷間の上部から獣とも鳥ともつかぬ奇怪な鳴き声が断続的に続いていた。
「あの音は何だ?」シオムは突然尋ねた。ハルイ―が、答えかけた時、小屋をまわって少年が覗き、木立ちの中を透かし見て口早に囁いた。
「使節どの、おられますか?河向こうから緊急の報せが届く模様―――小屋に戻って待たれた方が。」
そう言う間にも、谷の上が松明の火で明らみ、集まった人々の短く言い交す声が聞こえる。シオムは小屋の横をそのまま森の中をぬけて、イーマの主幹、大人たちが集まっているかがり火の傍につかつかと歩いて行った。イーマの主幹たちは峰の上から降りて来たらしい若者を前まで呼び、話を聞いている。
「南の物見より報せが。オド・タ・コタから夜を衝いてコタ・シアナを指してくる者があります。」
「大勢か?」
「ふたり、多くて三人でしょう。灯火を持っています。」
「どのくらい離れている。」
「五里ほど。夜明けには岸につくかと。」
「見張りを続けろ。」
いつの間にか少年が傍らにぴたりとついている。「私は虜だったな。」シオムは苦笑した。他の者たちは犬ほども気に掛けぬ様子でその前を行き交っている。
「何であれ、今出来ることは無い。休んでおくがいい。」
後ろからごく気楽にハルイ―の声が言った。
明け方、うつらうつらとまどろんでいるシオムの耳にごく軽い草を踏む音、そして小屋の外から凛と声を張って呼ぶヒルメイの主幹の声がした。
「正使どの、一緒に来ていただきたい。」
まだ薄青い影に入った谷を中心の沢に沿って、主幹たちとふたりの大人、シオムと彼の後ろを守る少年とは下って行った。谷の果てはコタ・シアナの岸から内に入り込んだやや深い川口になっており、クシガヤの渡し守の乗った小舟がつけられ、彼らが載せてきたらしい西の服装をした男がふたり、岸辺に立っている。彼らの上の堤にはヒルメイのハルイ―が、軽くもたれていた木から身を起こして彼らを出迎えた。
「コセーナからの早馬だ。」彼は言った。
普段なら耕地の作人や車力の監督をしている朴訥なコセーナの男たちは、シオムを見ると、跪こうとするかのようにうろたえて足元を見下ろした。
「そのまま。」シオムは厳しく言った。「立って用向きを言え。早く。折しもこちらにも用があったのだが、まさか同じということはあるまい。」
「我らの主シグイーからの伝言でございます。」
背はあまり高くないががっちりとした、日に焼けた男は生真面目に胸に手をやって少しかがんで言った。
「一昨日エフトプから報せが。―――王妃ニーニア様が病に臥せっておられると。お妃御自らの言葉でございます。世継ぎを産むのも能わず、さらに病の身をおそばに置いてご迷惑をかけるには忍びない。この上は里に戻るのをお許しくださいますように、と。」
シオムは両手を後ろに組み、眉をひそめ口元を引き結んで聞いたが、使者が伝言を終え、おずおずと一礼すると短く言った。
「許さん。」
コセーナの男たちは答えかねるように逞しい肩を屈めた。
「女の病というものは言外の意味を持つらしい。ここでもそうならアツセワナでもまた。」シオムは、呟くと主幹たちに振り返って言った。
「長の逗留、誠に世話になった。アツセワナのシギルの名代シオムは急ぎアツセワナに帰らねばならん。ついては怪我人と残る二人をコセーナに預けるにあたり、私の代わりに領主シグイーに事の次第を話し、頼んでくれる者が欲しい―――。」彼はぐるりと頭をめぐらせた。堤の上でハルイ―は面ひとつ変えず腕組みして見返している。彼は傍らの少年の肩に手を置き、自分の方を向かせた。
「子供の方が良い。名は?齢は?」
少年は厳しい灰色の目を見返し、答えた。
「ヒルメイのアーラヒルの子、ガラート。十五になります。」
「彼らに伴ってコセーナに行くのだ。」シオムは郷人達を目で見やって言い、戻って来たばかりの指輪を少年に渡した。
「この指輪を携えて奥方トゥサカに取り次いでもらい、怪我人の世話と副使の滞在の世話を頼むのだ。そして、アツセワナから彼らの身柄を正式に引き取りに来るまで、君はコセーナにとどまるのだ。」
少年はやや緊張した面持ちで一礼した。シオムはあっけにとられているコセーナの男たちに言った。
「お前達は向こう岸まで馬で来たのか。」
「さようでございます。」
「一頭借りるぞ。馬の足は速いか。」
「相方のもう一頭を除いてはコセーナきってでございます。」男は戸惑いから我に返ると誇らしさをにじませて言った。
ヒルメイの主幹は大人たちと手筈を相談すると少年に軽くうなずいた。
「怪我人を渡す用意まで時間がある。母上に別れの挨拶をして来い。」
シオムはクシガヤの渡し守がコセーナの男たちを乗せてきた舟の一艘に乗り込んだ。ハルイ―はつと舟縁まで堤を下りてきた。シオムは口の片端にちらと笑みを浮かべ、低く言った。
「あの子はイーマには大事な子だろうな。」
ハルイ―の面から鷹揚で明朗な伸びやかさが消えていた。初めて彼の前に矢をつがえて現れた時以上の警戒と敵意を込めて、まっすぐな眉の下の目は厳しく光った。シオムはまじろぎもせずに見返し、言った。
「次の三日月には良い便りを遣わそう、ヒルメイのハルイ―。さらにもうひと月あれば鋼をあの子に持たせて返そう。だがそれまでに代価を用意するのだ。―――私は絹を見た。素晴らしかった。あれに匹敵するものが欲しい。評価が厳しくなるのを覚悟してくれ。霜降の収穫祭には妃には新しい装いが必要だ。」
「二月後までに絹を用意するのだな。」
ハルイ―は舟縁に置いた手を離した。シオムは手を上げ、北を指した。
「上流に中州があったな。イナ・サラミアスとの交渉の初めての足掛かりになった島だ。次の三日月の夜、誓約の州で。」
「誓って」
答えたハルイ―の前を舟はすべり、柳の青葉の間をかいくぐって、明け初めたコタ・シアナへと漕ぎ出して行った。