第三章 虫の語り 『深山の蝶』2
暑い陽気と急な冷え込みをひとしきり経て、季節は確実に初夏へと向かっていた。ハーモナの丘は隠し戸を秘めた緑の鎧のそこかしこに蔓バラを飾っている。強い風が森の木の濃い緑を揺すり、時に青い爽やかな芳香を、時に花々のえぐみを帯びた匂いを織り交ぜて運んでくる。
シアニは籠を抱えて丘の連絡路から木立ちの下を通り、カシの林の下の若夫婦の小屋に行き、戸を叩いた。ハーモナで以前働いていた妻が、ゆっくりと戸を開けた。お腹を庇うように片手を添えている。
「姉さん、パンを持って来たわ。」
シアニはお腹にぶつけないように気をつけて心持ち籠を持ち上げた。
「これから家で焼いて持ってくるから。母様が力仕事は駄目よって。子供たちを見るから休んでいて。」
シアニは子供ふたりの手を引き、田の水加減を見た。高い水位の中で冷え込みを耐え抜いた苗は、全身に光を浴びてすくすくと育っている。きらめく水面の下には小魚が泳ぎ、水草がそよぐ。対岸の藪には鴨が身を沈めて潜んでいる。シアニは子供たちをそっと促してそこを離れ、垣に実っているエンドウを少し摘んだ。そして白と黄の大輪の百合の花が縁取る畑の際から小さい子を抱いて森を抜け、連絡路に着くとまた歩かせて丘の方へと遠足をした。
四年前の焼き討ちで、連絡路の曲がり角から西の方は下草と藪が焼き払われ、林床が開けたところに丈の低い草花が育ちはじめて、白や黄、桃色の花畑になっていた。
シアニは、地面が柔らかで見通しの良い安全なその場所で子供たちには好き好きに花を摘ませておいて、森の方へ駆けてイスタナウトの様子を見に行った。
若木の葉っぱは、枝先の一帯がまるまる食われていた。そのすぐ下の葉が揺れながら見る間に小さくなってゆく。シアニが近づくと枝先はぴたりと揺らぎを止め、嘘のように静止した。枝の真ん中のおかしなところに変なふうに丸まった葉っぱが一枚。それは色も節の様子もイスタナウトの葉にそっくりのずんぐりとした毛虫で、側面の波型の模様までが葉の縁の鋸歯に似ている。そのうえ、体表にずらりと並んだ後光のような毛までが新葉の産毛にそっくりだった。
「あんまり欲張ったらつまんで捨ててしまうからね。」
シアニは心配そうに裸になった枝を見て言った。そして急いで子供たちのところに戻った。
ハーモナの丘は今も木々で覆われ、上に登る道と揚戸は修理され、丁寧に隠されている。それでも、古い番小屋の跡の斜面の一帯は、低木の生育が周りほどには追い付かず、丘の下を巡る道から見上げると、焼け落ちた番小屋の、残された石の土台が丘の棚地にはっきりと見える。
襲撃の後、敵対する西の勢力がアタワンとコセーナの近辺、終にはコタ・レイナの東から一掃されて以来、ハーモナが差し迫った危険にさらされたことはなかった。それに何よりも、小屋を作り替え、斜面に成長した木を植え付けるのに人手を割く余裕はなかったのだ。夫婦ともに館に移り住むようになったバギルが気にしたように、番小屋から畑と水場、その上の台所へと棚状に通用路が出来ている丘のその面は、番小屋が暴かれれば明らかに弱点であった。しかし、シアニはそんな事情には頓着しなかった。四年間、杜への通いに上り下りしたために、番小屋跡から下の道までの斜面には、くっきりと段状の踏み跡がついていた。
シアニは大きな子のお尻を押し、小さな子は自分のお腹の下で這い登らせながら番小屋の跡まで登った。
屋根も壁もない、だが叩きの床と風よけになる石の耐火壁、そしてかまどが残っている。それに薪小屋と作業場は今も使われている。かまどを目にしたのが合図のように子供たちが騒ぎだした。
「おなかがすいた。おなかがすいた。」
「待って、待って」
シアニはかまどの上に雨よけに被せてある木の皮と重石をどけ、残った礎石の上に渡して卓に見立てた。そして、四角い低い石をふたつその脇に並べた。「はい、椅子よ。」そしてかまどの焚口から中に仕舞ってある小さな土鍋を取り出した。
「姉ちゃんはお鍋を洗ってくるからね。お皿をつくって並べておくのよ。」裏のイチジクの木から葉っぱを取って上の子に渡し、上の水場に行って水を汲み、畑でイチゴを摘んで前掛けに包んで戻って来ると、かまどに火を焚き、水を張った鍋を火にかけた。
「さあ、お湯が沸くまで辛抱よ。エンドウを茹でてあげるからね。それまで腹ぺこの巨人の話をしてあげる。さて、むかーし、むかーし…。」
イネ・ドルナイルの三人の土っ子巨人
昔、ベレ・イネの山腹に、バルヘン、バルサ、サカサという、土っ子が暮らしていた。
バルヘンはつやつやと黒い肌をして、丸く肥えており、バルサは蒼白い肌に黒い髪、サカサは肌も髪も赤くちびだった。
三人は母ドルナイルのお腹の上で仲良く岩を食べていた。白い岩には鉄が混じり、おいしかった。黒い岩はもっとおいしかった。ごくたまに食べる緑の石には金や銅の脈が入り、とてつもなくおいしかった。しかし、三人が何といっても好きだったのは、溶岩の縞模様の中に混じり込んでいるきらきらした鉄の粒と、母ドルナイルの膝の大きな湖の鏡の傍らに蓄えられた“星の鉄”だった。
ところで三人の住まいの近くには、ちっぽけで砂色の肌、砂色の髪をしたヌイマイが住んでいた。ヌイマイはやせっぽちでいつもお腹をすかせていた。ヌイマイはいつも指をくわえて、三人がうまそうに黄金や黒金を食べるのを、ドルナイルの肘の下から覗いていた。
気付いたドルナイルは三人に言った。
「ヌイマイにもおいしい金をおやり。あれもお前たちの弟だよ。」
三人はヌイマイがちっぽけでみすぼらしいのを見てそっぽをむいた。それでもすっかり金をかじりとり、すすった後の岩くずを放ってやった。ヌイマイはいつもお腹をすかし、小さいままだった。
三人がお腹がくちくなって眠ってしまうと、ヌイマイは鏡のそばまで降りてきて、おいしそうな“星の鉄”を眺めた。ヌイマイが本当に好きなのは金の混じった緑の石だったが、それはあらゆる岩のずっと奥に仕舞われていて、小さなヌイマイにはなかなか掘り出せなかった。ヌイマイが爪で岩を掘る音で三人は目を覚まし、ヌイマイをつまみ上げるとドルナイルの膝の外へと放り出した。
腹ぺこのヌイマイは、コタ・イネセイナの川べりに水を飲みに下りて行った。川には木の葉の舟に乗った蟻が漂っていた。ヌイマイは小舟を手招いて呼び、蟻どもに「何をお探しか」と尋ねた。蟻どもは、褐色の甘い樹液の塊を探しているのだと言った。ヌイマイは蜜よりも甘い声で言った。
「山の上に大きな鏡があり、そのそばに蜜よりも甘い甘い石がある。だが、それは三人のうすのろの巨人に守られている。奴らは黄金が何よりも好きだ。何か黄金に似たものを持って行けば、その引き換えとして甘い石が手に入るぞ。」
蟻どもは相談し、一族郎党を呼び集めるために、また木っ葉に乗って戻って行った。ヌイマイはそれを見届けると、こっそりとドルナイルの霧のベールの下に隠れて引き返し、誰にも見つからない山奥へと逃げて行った。
蟻どもは長い列をなして麦粒を運んできた。湖の脇を回って“星鉄”のかたわらに着くと、ウヌマの三兄弟に言った。
「私らのところには黄金がいくらでもある。その甘い石をわけておくれ。」
甘い石と聞いて巨人たちは嘲笑った。が、黄金は彼らが何にも増して好きなものだ。どうせ蟻は小さい。ひとかけらの石だって動かせるものか。
「黄金ならいくらでも持ってこい。石は好きなだけくれてやる。」
蟻は続々といくらでもやって来た。そして麦粒の入った袋を次々と置いていくと、引き綱を掛けるやらころに乗せるやらして、“星鉄”を引いて山を下ってしまった。
着飾って夜と会っていたドルナイルは、昼の訪れとともに雲のベールを被ろうとしてふと鏡に映っている“星鉄”が何者かに引っ張られて膝先の向こうへと消えていくのを見つけ、たちまち大気から雷雲を梳き出し、雷を落した。しかし、“星鉄”は最後のひとつまで跡形もなく消えていた。
ドルナイルは大声でウヌマ達を呼びつけた。
「お前たちは大切な星鉄を独り占めしようとどこかに隠したな。」
ウヌマ達は“星鉄”がひとつも無くなったのを見て慌てた。
「母さん、ヌイマイが盗んでいったんだよ。」
「嘘をお言い。お前たちはヌイマイを外に放り出したじゃないか。鏡がちゃんと映していたよ。」
ウヌマ達は仕方なく蟻がやって来て黄金と引き換えに持って行ったのだと白状した。しかし、ドルナイルはますます怒った。私が生み出す黄金よりも価値の在るものなどありゃしない、それは偽物だ。それに蟻は小さすぎて鏡には映っていなかったのだ。
ドルナイルは金銀銅、宝石の類を蔵の奥に残らず隠し、ウヌマ達にただ名前と同じ鉄を食べることだけ許した。
バルヘンには黒い川の上流の沢にある黒餅鉄を。バルサにはその下流の黒砂鉄を。サカサには赤い川の赤砂鉄の鉱床を与えた。
さて、ウヌマの三兄弟は蟻が運んできた麦を食べたので、しばらくの間に歯がふにゃふにゃに弱くなってしまっていた。そこで鉄を食べるにも昔のようにそのままかじるわけにはいかず、それぞれの方法で鉄をつくって食べなければならないのだった―――。
「どうしたかというとね。」鍋の湯の沸き加減を横目で見ながら、シアニはどっしり座った膝に広げた前掛けの上で片っ端からエンドウの筋を引っ張り、へたをもいでさやを割る。
「バルヘンは、黒餅鉄を割って土釜の中で沸かし、どろどろの灰汁を流して、殻を落とし、焼いて打ちこねて混じったゴミを叩き出してパンにした―――。なんだか順番が変ね。」シアニは首をかしげた。「でも、これで合ってたはずよ。母さんが言ったんだから間違いないわ―――。
「さてさて、バルサはもっと大変だ。砂に混じった黒砂をふるいださねばならなかったから。それでも鉄は重いので、何とかふるい分けることは出来た。」
さやからかき出したエンドウをさらえ込み、火床の薪を散らして火を落とす。それから選り出してあったごく若い実を最後に湯の中に放り込んだ。
「可哀相なのは末っ子のサカサ。赤砂鉄は小さいので、砂から選り出すのがひと苦労だった。そして煮るとすぐにどろどろのスープになってしまい、歯ごたえのあるパンが出来ないのだった―――誰だって、スープからパンをつくるなんて無理じゃないかしら」
前掛けで鍋をつかんで湯をあけ、豆とイチゴの器をテーブルに並べた。
「食べ物が自分の名前なんて変ね。―――雀」シアニは首を振った。「今の私なら“包み焼き”ちゃんがいいな。それとも“お肉の煮こごり”ちゃん。―――駄目、駄目、食べ物がひとつしかないなんて。」
茹でたてのおいしいエンドウに子供の手が次々とのび、イチジクの葉の上はあっという間に空になった。そしてイチゴは器ごと消えている。
「あなたはエンドウちゃんね。そしてあなたはイチゴちゃん―――お腹が冷えないかしら?」シアニはため息をついた。「私は腹ぺこちゃんだわ。ヌイマイのように。―――そしてサカサのように。」
サカサはパンを作ることにかけてどうしてものろまだったので、兄達から馬鹿にされた。もちろん、パンをわけてもらえるはずもなかった。
サカサはヌイマイがそうだったように小さくなった。あんまり空腹が辛かったものだから、母のドルナイルに泣き言を言った。ところがドルナイルは厳しく言った。
「お前はなまけ者だ。せっせと鉄を沸かせば誰よりも食べるものがあるのに。」
確かに赤砂はいちばんたくさんあったのだ。サカサは叱られたのが恥ずかしく、赤砂の鉄床をも捨てて、ドルナイルの背中側に回り、母の目から隠れてしまった。
サカサが逃げて行くのを見て兄たちははやし立てた。だが次に自分たちの間で諍いが起こるであろうことを予測した。何といっても、黒餅鉄は見つけるのが容易で、手間もかからず、食べ物の豊かさがそろそろ兄弟の体格にも表れ始めていたのだ。
バルヘンは、バルサがいつも自分の後ろにくっついてくるのを嫌がった。砂に紛れた黒砂をあさるよりもバルヘンがこぼした黒餅のかけらを拾う方が楽だったのだ。果たして、ある日、バルサが鋭く長い爪を振り上げて襲い掛かろうとしたので、バルヘンは大きな拳を見舞って湖の端からバルサを突き落とした。
「やい、パン屑拾い。おれを追い落とそうとしても駄目だ。母さんの鏡より上には来ない方が無難だぜ。」
負けたバルサは湖の遥か下流で細々と黒砂を集めて暮らした。バルサもまた昔よりも小さくなっていた。バルヘンは今やベレ・イネの鉄を独り占めだった。黒餅は沢にいくらでも集まって来た。バルヘンはのんびり鉄をつくって暮らした。
長い年月が過ぎた。バルヘンは思い立ってベレ・イネの麓を眺めた。コタ・バールの岸で砂を集めている小さな小さなバルサの姿が見えた。
「奴はあんなに小さくなったか。まるで蟻だ。」バルヘンは嘲笑った。さらに遠くを見ると、またもあの蟻どもが、今度はなかなかのしっかりとしたこしらえの船に乗ってやって来る。蟻どもはコタ・イネセイナの岸に上陸し、列をなしてやってきた。コタ・バールに差し掛かると、バルサは蟻に道を譲り、ドルナイルの濃い針葉樹のマントの下に隠れてしまった。
蟻はとうとう湖の際までやって来た。驚いたことに蟻はウヌマ達と同じくらい大きくなっていて、ぴかぴかの鎧をまとっていた。そして精巧な細工を施した剣を帯びていた。それは銀よりも、湖に映る星よりも美しく光っていた。バルヘンはたちまちうらやましくなった。その素晴らしい金属は何かと尋ねた。
「なあに、私たちはお前さんのパンからこれをつくれるんだ。だが、私たちの住む土地には鉄が無く、私らはあんたのパンの作り方も知らないのでね。」
バルヘンはすっかり心を奪われて言った。
「その細工の仕方を教えてくれ。必要なものは何でも持ってきてやるから。」
蟻は、ドルナイルが太陽から隠れ、雲を被って眠っている間に湖の奥にある蔵を開けろと言った。バルヘンは遠い昔にお菓子のように与えられた宝石や金銀を思い出した。バルヘンは沢で石をひっくり返していた鋭い長い爪を山腹に突き立て、掘り崩した。土砂が流れ出し、湖に流れ込み、鏡を曇らせた。日が暮れる前にやっとで蔵が開けられた。手つかずの金や銀、銅、宝石が岩の脈の中に輝いていた。蟻はそれを見るとバルヘンを取り押さえ、鎖につないでしまった。そして、昼のうちは穴を掘らせるために追い使い、夜は逃げないように縛り上げた。バルヘンはドルナイルに訴えた。
「蟻がいじめて、宝を取っていくよ!」
しかし、ドルナイルは応えなかった。曇った鏡の湖は女神に何も教えなかったのだ。
「ドルナイルはちょっと考えものな母親じゃないかしら。ヌイマイが追い出された時もすぐに叱らなかったし、兄弟に違う食べ物をあげるなんて。私はお菓子を盗み食いしたことなんてない。」シアニは考えた。「母さんはみんなの頭数しか作らないし、私の分がちゃんとあると分かっているからだわ。」
だけど、私もそろそろ鏡は欲しいな―――。シアニはうねうねと豊かに伸びてきている髪を振った。髪も結えるように練習しておきたいし。
ほどなくエンドウとイチゴでお腹がいっぱいになった子供たちの目がとろんとし始める。シアニは急いで鍋をかまどに押し込み、下の子を抱き、上の子の手を引いて、今度は道沿いに下まで下りてゆく。子供が眠りそうになるのを、大声で歌いながら道を下り、森を抜けて、なんとかカシの林まで戻ると、歌声に気付いた子供たちの母親が小屋から迎えに出て来た。
上の子を母親の手に預け、ずり落ちそうな寝ている子をやっとの思いで寝台まで運ぶと、自分までもがつんのめりながら敷布の上に下ろした。そしてパンの代わりにエンドウとカブの入った籠を受け取って館へと戻って行った。
コセーナからの連絡路を横切る時に、シアニはハーモナに向かう方角に新しい蹄鉄の跡がついているのに気付いた。だが、これだけなら警備の見回りが通った後かもしれない。森を通り、もうひとつ内側の、丘の外周の道に出ると、そこにはさらにはっきりとした蹄の跡があった。しかもそれは少し木立ちの後ろに隠すようについている上に登る分岐の方に向かっている。
四年前のアツセワナの騎馬の襲撃以来、年上の娘たちは、馬のいななきを聞くと背筋が凍ると言っていたが、シアニは気にならなかった。馬に乗ってハーモナにやって来るのは昔からダミルだ。ケニルやニーサと一緒のこともあるし、ひとりのこともある。この何年か、ケニルがハーモナに来ることは滅多にない。コタ・レイナ州のどこかの荘か、タシワナに行っていることが多いからだ。
ダミルは一度、武装した大勢の男たちを引き連れて遠くに出かけ、長いこと帰らなかったことがあった。もう何年も前、老人がいなくなってすぐだ。あの時、年寄りや女、子供たちみんながコセーナの高垣の中で暮らしていた。冬至になる前にダミルはすっかり髭が伸び、陽気な目の周りを幾分窪ませて戻って来た。「もう大丈夫だ、シアニ。コタ・レイナの森をどこへでも歩けるぞ!」それでロサリスとシアニはまたハーモナに戻って来たのだ。小さな家族をさらに増やして。
今、ダミルはどこにも行かず、このハーモナにも来ず、コセーナの館に詰めっきりだ。コセーナの西側、コタ・レイナの沿岸には常に大勢の人夫が浚渫の工事をしている。エフトプのある下流からまず川の中を縦に長い杭を打ち、片側をせき止めて、河床に積もった火山灰を運び出して来たのだとか。火山灰はコタ・レイナの対岸で石灰と小石を混ぜ煉瓦に作られる。煉瓦はコタ・ラート岸まで運ばれ、エフトプの西側を守る防塁になる―――。ダミルは、ケニルが方々を訪ねて頼み事や交渉をするように、そうやってコセーナにやって来る人たちに会わなければならない。だから館を離れられないのだ。昼間来ることなど、さらに無い。じゃあ、ニーサかしら。
シアニは蹄をたどって行きながら、行く手に馬の姿が見えないかとのびあがり、見回した。ニーサは馬を丘の低いところで木に繋いでおくことが多い。
シアニはもう大分前から、領地の内外の見張り班を指揮しているニーサに、いなくなった老人の居所を探してくれるよう頼んでいた。老人が小屋に住んでいたのはわずかな期間だったし、シアニは小さかったので、もう幾分老人の顔も忘れかけている。だが、老人が別れの直前にシアニの頭に置いた手のどっしりとした重みとその時に言った言葉は、煙の匂いと煙った陽光と共に心に刻み込まれていた。
田んぼと畑はちゃんと作っているわ。母さんの言いつけは良く守っている。それに、おじいさんの故郷、イナ・サラミアスのことも前よりは知っているよ。―――おじいさんに会ったらそう言うんだわ。
だが、馬に乗って来たのはニーサではなかった。丘の一番上の揚げ戸を通り、短い小道を抜け、館の正面に出たところで、台所と前の小さな花壇とを行き来して待ち構えていたらしいバギルの妻が急いでやって来てシアニを捕まえ、籠を受け取ると囁いた。
「客人がお見えです。身繕いしてご挨拶なさい。」
「何か食べるものをちょうだい。」
「台所でトゥサカの炒粉をおあがりなさい。口を拭くのを忘れずにね。」
シアニはイチゴの汁のついた前掛けを取り、手と顔を洗い、櫛で髪を梳かした。ハーモナに客など訪れたことはない。コセーナにいても子供が客に引き合わされることなどない。シアニは、ダミルが訪ねて来た時にバギル夫妻や小女達がどうしていたか思い出しながら居間に入った。
「ようこそいらっしゃいました。」
恭しく会釈をして顔を上げると、ロサリスと向かい合って椅子に掛けている老人が興味深げにこちらを見た。
サカサのような色合い―――。シアニは顔が赤らむのを感じた。もちろん、似ているというわけではないけれど。それどころかなかなか立派な風貌だ。
コセーナの男たちと比べ特に大柄ではないが、姿勢が良くがっしりとして、動作、目配りも無駄がなく敏捷だ。よく日に焼けているが、もともと極めて色白なのか、血色がよく、禿げた頭頂の周りの赤みを帯びた亜麻色の髪といい、灰色に近い目の色といい、全体が明るい炎のようだった。
風雨に晒されたと見える旅装束も、もとはとても良いものだ。目の詰んだ羊毛のチュニックは染料で染められており、靴はきちんと型を取って縫ったものだ。ただ、とても古そうだったが。革をはぎ合わせた風変わりな胴着とベルトが、容貌風体は全く違うものの、あのイーマの老人と不思議な一致を見せている。そして腰に帯びた長い剣。コタ・レイナの者はほとんどが短剣しか持たない。長い剣はアツセワナの者の証だ。
遠慮なく互いをしげしげと観察している老人とシアニを取り持つようにロサリスが声を掛けた。
「お話した子です。この春で十二歳になりました。」
「この子が勇敢な子か。」老人はにっこりして言った。「名を聞いてもいいかね。」
「シアニ」シアニは答えて一寸もじもじした。一方的に尋ねられるだけで行儀よく黙っていなければならないなら、せめて何か仕事をしていてはいけないかしら?しかし、老人は親しげに話しかけて来た。
「シアニ、私はエファレイナズの先の王の友人で家臣だったトゥルドだよ。」
「王様?」シアニはびっくりして尋ねた。「―――アケノンの?」
老人は他のことに驚いたようにロサリスに振り返り、咎めるように声を低めて言った。
「何とも―――この子に何も教えていないのかね?自分の身分も家柄も。」
老人の注意が逸れたのを潮に、シアニは棚から羊毛の籠と錘を下ろして来、ロサリスの足元に座ると、羊毛を毛梳きで梳きながら聞き耳をたてた。
「では、ダミルはこの子にとって何だね?」
「父親ですわ」ロサリスは低く言い含めるように答え、急いで言い添えた。
「この頃は誰もが大勢の子を持ち、親を持つのです。ご存じのようにもともと私がやりたかったことですわ。このような形で叶ったのです。」ロサリスは警告を含んだ声で笑った。
「このシアニは子供たちの筆頭ですの。―――せっかくの久方ぶりのお越し。西の国のお話を伺いとうございます。それとも道中の様子でも。」
「久方ぶりどころではない、実にコセーナを訪れるのは十五年ぶりだな。あの頃には既に本拠をイネ・ドルナイルに置いて二十余年にもなっていた。主命で出向く他に東に旅することは無かった。」トゥルドは軽く唸って笑い、心持ち椅子の背にもたれた。
「その時私はまだアツセワナにおりました。」ロサリスは呟いた。「コタ・シアナでのことを幻のように思い返しながら。父は最後の競技まであの人には冷淡でしたから、トゥルド様が父の命を受けてコセーナに呼びに行かれたのだとは存じませんでした。」
「あなたもエファレイナズもこれほど数奇な運命になろうとはな。」老人は糸を梳く少女に目をやり、感慨深げにロサリスに言った。
「運命がまだ私に何を与えるものか見極めたわけではありません。」
「無論だ。」老人はうなずいた。
「コセーナまでは舟でお越しになったのでしたね。」ロサリスは話題を変えながら、申し訳なさそうに言った。
「浚渫はエフトプから始めてはおりますけど、全幅には手が回っておりません。航行に難儀なさったのでは。」
「エフトプは水運が命綱だ。灰が降り始めた直後からもう、水路を確保してある。それでもクマラ・オロとの連絡に使える路は以前の三分の一もない。大雨が降るごとに川床が動き、溜まった火山灰に舟がたびたび乗り上げる。しかし舟頭は慣れたものだ。ちょっと櫂を動かして、ひれでいざって魚が戻るように舟を流れに乗せる。いや、私の通った迂回路の、本筋の方はすっかりきれいなのさ。」トゥルドはこともなげに言った。
「だが何といっても驚いたのはエフトプの荘の西岸を南北一里にわたり防塁が築かれていたことだ。四年前には無かった壁が。邪魔者の灰を一転、防壁の材に変えてしまうとはなかなかの快挙だ。ダミルは運に好かれる男だな。」
「それでいいのです。そうでなければ」シアニの髪が触れる膝の上に、ロサリスは両手を組んだ。
「舟頭が人づてに聞いた話を教えてくれた。私を乗せてイネ・ドルナイルからエフトプに向かうにもニクマラ・ガヤを迂回せねばならなかったのは、アツセワナがコタ・レイナ州を恐れて水辺からの潜入を防ぐために警備を強めているからだ。コタ・ラートの東西を結んでいた道の各所が忽然と出来た壁によって封鎖されたのを見て、イビスにも境界の監視を強化させたということだ。」
「このように壁をつくるのが良いことなのかどうか。」ロサリスは呟いた。「かつてはひとつの国であったものを。それでも命を守るためです。あちらが恐れるとはおかしなこと。」
「思いの他の勇猛さに驚いたのだろう。エフトプのキアサル殿から聞いたよ。このハーモナが焼き討ちにあった後、コタ・レイナの盟友はアタワンを拠点にしていたアツセワナの勢力を一掃し、それ以来、東には一兵たりとも踏み入らせてはいないとね。」
「四年前の襲撃は伯父アッカシュの意向ではなく、アガムン殿の独断であったとか。」ロサリスは小声で言った。「ハーモナに匿われている私と―――夫と子を狙ったものだったと聞きました。」
「大いに恐れる理由はあろう。」トゥルドは重々しく言った。
「ごらん、そうして相手を怒らせるばかりか仲間との信頼も損なう。」
そして前にかがんでシアニに言った。
「君がハーモナの火事の火を消し止めたと聞いているよ。」
「全部じゃないわ。」シアニは顔を上げて言った。
「はきはきした子だな!」トゥルドは感心して言った。
「不自由な、物の無い時に生まれ、私を助けながら育ちましたから―――。私よりもずっとしっかりしていますの。こうして噴火の痛手から回復しても、東の地ばかりでやり繰りしておりますので、私などはつい、あれがあったらなどと無いものが欲しくなるのですけれど。」
「何が足りないね」トゥルドは鷹揚に尋ねた。
「鋏、刺繍針、指物用の刃物―――鏡」
我儘な子供のように立て続けに言って、ロサリスは恥ずかしげに言い足した。
「これらは贅沢品ですわ。それどころではない、食べることに精一杯で灰に囲まれていた時には気にならなかったのに。身繕いに気を回す余裕が出来たのですわ。」
「コセーナの鍛冶工に細工物は難しかろうな。」
トゥルドはなだめるように言い、残念そうに顎に手をやった。
「コタ・サカの村でも長年職人を育ててそんなものをつくっていたのだ。イナ・サラミアス向けだった。多くはなかったが。―――早い時期に作ったものをコセーナの奥方に献上したことがある。あの頃よりは職人の腕も上がっていた。が、面目ない。細工物はおろか、延べ金ひとつ持ってこられなくなった。」
「何があったのですか。」
ロサリスが強い関心と懸念をあらわしたので、シアニは思わず手を止めてふたりを見上げた。
「昨年の秋、コタ・サカの精錬所が襲われた。」トゥルドは口元は微笑みながら明るい瞳をまっすぐにロサリスに向けて言った。「それで、今、鉄は作れていないのだ。」
ロサリスはぴたりとトゥルドを見つめ、やがて小さくうなずいた。
「以前よりは世も落ち着いております。鋤や鍬の刃は今あるものを直せますから―――急いで鉄を求めはしません。」
「しかし、鉄の供給を封じにかかるということは新たな攻撃を目論んでいる証だよ。」トゥルドはやや苛立ちを見せた。「何事か始まるのを待っているわけにもいかない。」
ロサリスはかぶりを振った。
「コタ・サカの村が心配なのです。子供たちは…。」
「ああ、全く残念だ。」トゥルドは悔しげにひと言言い放ち、強いて穏やかに口調を戻した。
「村の破壊は酷かった。私は五年ほど前から村に学校をつくっていた。少し思うところがあってね―――。山の子も丘の子も集めて学ばせていた。それなのに一夜にして、女も子供もない、みんな散り散りになってしまった。―――グリュマナの仕業だよ。」
ロサリスの指先から縫物が落ちた。幼子の長着だ。
「すぐに追わせたが奴は真っ先にアツセワナに逃げた。他の連中より先の舟で。」
「残念ですこと」ロサリスはふと鋭く言い、かがんで縫物を拾い、優しく塵を払った。
「目的を果たせば直ちに去るのが奴の流儀だ」トゥルドは呟いた。「ひとりでも手勢が多くても同じだ。仲間の狼藉は奴には煙幕か余興のようなものだ。」そして詫びるように言い足した。
「ただ、私の得た知恵がそれだけだということだ、ロサリス。こんなことが無ければ私はあなたに違う話を持ってきているはずだったんだ。だが、何といっても今は私の失ったものが大きい。村が丸ごと破壊された。シギルと一緒に作った製鉄の村だ。北のコタ・バール、第五家とトゥルカンに対抗して我々で立ち上げたのだ。火は消すまい。十四年前の動乱と度重なるコタ・バールの攻撃や穿場の占領も、山の民、丘の民は手を携えて山奥に潜み、しのいだ。そして私の呼びかけに応じて出てきてくれた―――が、今回は立ち上げからずっと頼りにしてきた者が多く殺された。山の民も。はるか昔、アケノンの世よりも昔、コタ・バールのでの反乱と弾圧を生き抜いてきた土着の鉄造りたちだよ。」
イナ・サラミアスにサラミアの子たちイーマがいたように、イネ・ドルナイルにはドルナイルの子たちがいる。バルヘン、バルサ、サカサ。これらは皆、鉄造りの一族の名だ。ヌイマイも。自然金や石を細工し、黒い川や赤い川の源の山から鉄砂を見出し、鋼にすることを知っていた民。
「若い頃、イネ・ドルナイルに渡り、わずかな同志と一から作りあげた。私同様、薪を切り、火を焚いたこともない連中だった。何のためにそんなことをしたって?」
トゥルドは誇らしげに瞬きした。
「なに、シギルの面目のためさ。十四、五歳の小僧が絵姿に恋をするように、シギルはイナ・サラミアスに恋焦がれていたのだよ。その頃、イナ・サラミアスに新しく資源を見出していたトゥルカンはイナ・サラミアスの併合を視野に入れつつ、交渉に着手しようとしていた。シギルはどうしてもトゥルカンの先にイナ・サラミアスを口説きたかったのだ。」
「…トゥルド様」ロサリスは目顔でたしなめた。
「お嬢さんの前で話すのに相応しい言い方では無かったな。」トゥルドは笑い、耳をかいた。
「あの頃のことを思い出すとつい年甲斐もなく浮かれてしまってね。何しろ、熱に浮かされてでもいなければ出来ないことだったんだ。前述の連中を説きつけるのに私は何をした?さも鉄造りの奥義を会得したかのように彼らを焚きつけ、故郷からイネ・ドルナイルに引っ張りだした私には、ハルイ―の少しばかりの助言の他には何の手立てもなかったのだ。チカ・トゥリたちに会えなかったら鉄をつくるのは到底無理だった。だが、私はシギルの顔を潰したくなかったし、ハルイ―の無茶な要望に応えてやろうと意地になっていたのだ。」
「ハルイ―?」シアニは、籠の中に羊毛を放り込み、行儀も忘れて立ち上がって老人を見た。
「熊にお兄さんを殺された男の子?レークシルを水郷からティウラシレに連れて行き―――イナ・サラミアスから去ってしまった、あのハルイ―?」
トゥルドは少女に振り向いた。明るい髪に囲まれた血色の良い広い顔の中で、目が陽気に輝いた。
「そうだよ。私はイナ・サラミアスのハルイ―とアツセワナの王シギルの仲立ちをしたんだ。」
シアニは、黙って腰掛をロサリスの後ろに押して行き、その上に梳いた羊毛の籠を置き、自分は錘を手にしてその横にぴたりと立った。そして梳きほぐした羊毛を錘の先に掛けた。ほら、こうして母さんの後ろならお客様の邪魔にならずに聞いていられるわ。立っている方が紡ぎやすいし、耳はちゃんと横についているし。長い話でも大丈夫よ。
深山の蝶2
ベレ・サオから発したコタ・シアナを南流域で西へと湾曲せしめているのはエトルベールの稜線、そしてその対岸で硬い岩塊が切り立った堤のようになって、水の恵みをイナ・サラミアスの足元との間に細く押しやっているタシワナである。
河に面した南は切り立って険しく、北面の緩やかな斜面では、五つの小さな集落が、河の恩恵からは切り離された畑作を営んでいる。西斜面の下は森に続く湿地、その奥には危険な底なし沼があるとされ、近寄るものすらいない。沼の先がコタ・シアナ、そして妹川、背川がエフトプの末でひとつになった夫婦川の行きつく大きな湖であることも、南の崖の下から沼地へと通り抜ける怪しげな歌声がコタ・シアナから湖に下る水郷の舟に乗った旅人たちのものであることも知らず、村人らは忌まわしい底なし沼に住む人魚の声として恐れ、避けていた。
タシワナの人々は、その祖先の半ばが白い肌の人々であったが、兄弟分のコタ・レイナの三郷の繁栄からは取り残され、母なる森の中へも戻れず、幾百年もの年月を丘で暮らしているのであった。森の中の孤島に住む彼らには、隣人であるコタ・シアナの民は怪しい水辺の人々であり、イーマはコタ・シアナの舟人をも操る幻の民であった。
この痩せ地と付き合いをしてくれるのは、娘っ子川の西一帯の在所の親分、コセーナの領主くらいのものであった。
歩いて四、五日のコセーナとの関係は良好だった。飢饉でどうにもならない年などは、刈り入れの手伝いに雇い入れてくれ、年を越せるほどの穀物も貸してくれる。郷の周りの普請に若い者を貸してくれと向こうが頼むこともあるし、界隈の事情を知りたいからと言って、村長を寄り合いに呼ぶこともあるが、いつでも同じだ、仕事の最後には饗応でたっぷり食わせて帰してくれる。
それがこの頃ではちょっと様子が変わってきた。コセーナのこまめな挨拶が減り、遠いところから別の“お役人”が来るようになったのだ。
その事の始まりというのは、持ち回りでその年の村長を務めている男の大雑把な勘定によれば、彼のもういい年齢なのに独り者の息子がまだ赤ん坊だったころのことだ。
時の村長だった隣の集落の老人が突然、議員としてコセーナに呼ばれ、コタ・レイナ州の会議の席に着いた。帰って来た老人は思い出すのに苦労しながら、村の男たちを呼んで説明した。コセーナのあちらを流れるいい女川よりももっとあちらのいい男川より遠い地に、コセーナよりもエフトプよりも大きな郷があり、そこの長が、タシワナも、知っている郷も知らない郷もひっくるめた大きな国の王になったのだと。
村人たちは何事が起こるのかと固唾を飲んで数日間待ったが、大したことは起こらず、暮らし向きも変わらなかった。ただその年のうちにコセーナの者の案内で、馬に乗ったふたり連れの、身なりのいい男たちがやって来て、麦を播いた畑を数えるやら測るやらして帰って行った。コセーナの者によると、飢饉の備えのために必要なんだそうな。今度は夏の初めに役人だけが出来具合を調べに来た。(あいつら、まだ青い穂を一区画刈っていきやがった!)秋には、から馬を一頭連れて、コセーナの案内人と役人とがやって来た。そして貴重な収穫の一部を、王による庇護と支援の原資にするとか言って馬に載せて持ち去った。コセーナにもともとあった備え倉が“郷倉”に改められ、そこにその年の決められた分の租が納められるらしい。案の定、二、三年に一回は、村長はアツセワナの役人が置いていった手形を持ってコセーナに食糧を分けてくれと頼みに行くことになった。コセーナの倉番はにこにこと開けてくれるが―――だったら初めから持って行かなきゃいいのに。
だが、そのうち、村人たちは租を取られることにも役人―――見る奴にも慣れた。
間に一度手入れがあった。不作が続いた時で、村の者は気が立っていた。理由も分からぬ“租”とやらで大切な食糧を取られてなるものかと、作況を見にひとりでやって来た役人を捕まえて、一軒の家に足止めした。数日後、コセーナの殿様がとりなしに来て、役人を連れて帰った。いつもの仕事をして帰らなかったので、これで今年の取り立ては無いものと皆安心していた。
ところが相手はいつも通りの納入の時期にやって来た。それも剣を下げた護衛付きだった。挙句の果てに、いつもより念入りに村を見て回り、隠された畑や作物が無いかを調べ上げ、一番いい出来にあわせた割合の租を持って行ったのだ。
以後は役人が作況を見に来ることもなく、租が見直されることもなくこの調子で続いていたが、少し良いこともあった。
アツセワナから来る監督官は郷倉のあるコセーナに先ず寄り、そこからタシワナやシアナの森の自作農のもとに出向き租を集める。コセーナは王の縁戚であり、アツセワナの役人を率先してもてなしたが、同時にこちらも目付をつけて領主の了解した範囲外に役人が立ち入るのを許さなかった。この目付が役人の案内がてら付いて来て、タシワナの隠し田や蓄えをそれとなく庇ってくれたのだった。
コタ・レイナ州の三つの郷はそれぞれが遥か昔にやって来て森をはじめに拓いた者の末裔だ。遅れてイネセイナ川を下って来たアツセワナの新参者が王と名乗り、道を手入れするのはいい。飢餓に備えて倉を置けというなら協力しよう。あれやこれやと面倒なやり取りを取り持つ役人に手間代を渡すのも構わぬ。だが、飽くまでも我らが認めたらの話だからな。主の領内で役人に付きまとい、次の訪問先の荘の目付に引き渡すまで離れないコセーナの目付の慇懃で隙の無い物腰はそう語っていた。
そのうち村人たちはもうひとつの変化を耳にした。王が代替わりしたというのだ。
王の息子だということだ。まだ若い。どのくらいって、村長の息子くらいの年齢だよ。何か変わるだろうか。
村人たちは気長に変化を待った。珍しいほど気候が良く、豊年が続いていた。若い王はしばらく前にコセーナに婿に入ったアツセワナの王子の兄だという。コセーナの婿殿は気性のまっすぐなしっかり者だと。身内のよしみでちっと租を軽くしてもらえんものかね。
しかし、何も特に良いことは起こらなかった。いつになく強気の役人がやって来て、村長に作況を問いただし、調査に協力してくれないでは租の割合が正しく決められぬ、と言って久しぶりに青穂を刈り、必ず通知した量を納めるようにと言い捨てて帰って行った。コセーナの目付は顔も出さなかった。これじゃ前より良くない。
やがて村人たちにもうっすらと事情が分かってきた。シギルというこの若い王には、先代が頭が上がらなかったトゥルカンという宰相がついており、嫁もこの男の勧めで娶らされたと。アツセワナには王の家の他に力の強い家がふたつあって、ひとつはこの王の嫁の家、ひとつはトゥルカンの嫁の家だと。租の取り立てもこのトゥルカンという男が先代の時に口出しして決めたことで、若い王はこの男に遠慮するし、コセーナでは婿の兄が寄越した役人に遠慮するしで、面白くないことになっているらしい。
コセーナの婿の不甲斐ない兄シギル―――誰ともなく顔も知らぬ王をこう呼ぶようになり、やれ、租が増えたの、余所者を見かけるの、村長が寄り合いに呼ばれる回数が増えたのと、面白くないことは全て王がしっかりしないからだということにされた。
村長はよく出かけるねえ。この間のはアツセワナからのお達し、そして今度はコタ・レイナの領主や大百姓の寄り合いだとよ。どうしてあちこちに話し合いがいるんだい。だってひとつの国なんだろ、何だって会議だっても王様がひとつにぴしっと決められないね?
それでも年若い王の噂は立ち話にわずかばかりの彩を添えただけで、村人の暮らしが大きく変わるでもなく、とりわけ王の評判を下げたというわけでもなかった。
特に王様が悪いというわけでもないよ。本当のところいてもいなくてもそう変わりは無いし。物も人も内輪で丸く収まっている。だが、もうちょっと租を減らせればな。
シギルが王になって三年経つと、村人たちは、コセーナの目付の付いて来ない貧相な役人をもてなすことなど造作もないことだと気付きはじめた。で、二度目の手荒な行動に出た。数日後、コセーナの若い殿様が口元に笑いを浮かべてやって来て、口調ばかりは厳しく諫め、役人を連れて帰ったが、その悄然とした後姿を密かに遠巻きに下の畑の縁までつけて行って見送りながら、村の誰もが役人は二度と来まいと合点した。そして夏の間に伸び放題に伸びた草や蔓ですっかり狭くなった道をそのままにして、安心して仕事に戻って行ったのだった。
コセーナを前日に出てからずっと森の中の道だ。ゆうべは教わった農家に泊まり人心地ついたものの、ますます人の気配は消え、故郷より早く色づきはじめている落葉樹の天蓋によりさみしさを覚えながら、馬上の旅人はひとり南東へと進んでいた。
分岐点で西へと分かれていく道を残念そうに一度振り返り、より細い道の方を取る。両側から迫る草に、突き固めただけの土の道はほとんど覆い隠されてしまっていた。彼の前任の者が通って以来、誰ひとり、ヨレイルさえもこの道を通る者はいなかったのだ。
うむ、タシワナに行くのか。お前が新しい監督官か?ご苦労だな―――。五年ぶりに会ったコセーナの若い主は、顔を合わせるなり昔の調子でからかいながら、自ら装備の面倒を見てくれた。
あの道を行くには鉈が必要かもしれんな。村人はこのところ手入れをしていないし。荷馬はいらん。租をどこに積むかって?積むほどもあるものか。それどころか、その馬の上にお前が乗って帰ってきたら褒めてやる。去年租の取り立てに行った監督官は馬だけ帰って来た。おれがタシワナに迎えに行くまで家畜小屋に閉じ込められていたんだ。いや、母屋だったかな?どちらにしても入り口はひとつだからな。お前のその長い剣は邪魔になるだけだよ。藪を開くことは出来ぬし、熊に出会ったら得物が長かろうが短かろうが関係ない、奴ら、素早いからな。腰でも抜かした方が逃げるよりましだ。
可愛い朗らかな妻との間にふたりの息子をもうけ、シグイーは万事コセーナ流が気に入ったらしく、アツセワナの長い剣は壁の飾りにしてしまい、短剣を好んで身に着けていた。
年齢も体格も三人の中では最も小さい彼は、いつもシグイーのいじられ役だ。しかし、性急で自信家のシグイーもその兄には昔から一目置いている。兄の使いではるばるアツセワナからやって来た幼馴染の執事の息子にコタ・レイナの郷を訪ねるにあたり何くれと助言をしてくれた。大人しくて丈夫な良い馬も貸してくれた。
タシワナの方に進むにつれて、木々は少しずつまばらになり、頭上に青空が開けてきた。彼の故郷のアツセワナでは、どこもかしこも開けている。木があるのは城内なら庭、耕地なら休憩所だ。後はきれいに刈り込まれるか石で畳まれている。草丈が高いのは麦畑か牧草地だ。だがここはどうだろう。馬の胸よりも草が生い茂っている。それも様々な種類の草が、花をつけ実をむすんでいる。
開けた空を東に見ると、イナ・サラミアスの長い裳裾の稜線が緑衣に黄金の畝を伴って聳えている。コタ・シアナが近い。頻々と洪水が川岸を洗うので高い木が少ないのだ。コタ・シアナの下流域に住むという水の民のクシガヤはどこだろう?川の恵みで暮らしを立て、時にはあのイナ・サラミアスの孤高の民イーマの渡し守も務めるという人々が暮らしているのは。
ゆっくりと馬を進めながら物思いにふけっていると、風にそよぐ草原の波に突然波がしらを横切って突進してくるものがあった。
旅人の叫びはもっと大きな奇怪な叫びの中にかき消され、と同時に手綱が振り切られ、鞍も尻の下から消えた。身体は唸りをあげて宙を飛び、草の中に落ちた。どしんと沈む衝撃と拉げる藪の小枝の音、擦れた青草の匂い、ふうふっと奇妙な声が混じり、やがて静かになった。
草を分けて人の近づく音がする。旅人は少し身じろいで怪我がないのを確かめると身を起こした。
「無事か?」
響きの良い、しかし低くぶっきら棒な声がかかった。
「ひどい目にあった。」あちこちさすり、旅人はゆっくりと立ち上がりながら相手も見ずにこぼした。
「馬が逃げた―――。借り受けたものなのに。」
「矢で仕留めるには互いに近すぎてな。」
黒髪に浅黒い顔がのぞいた。手繰り寄せて撓めた草で拭った刃に血の筋が残っている。風が生温かい血と獣の臭いとを運んできた。
「毒が効くまで半日追い回した。とどめを刺そうとした時、お前の馬が飛び出した。」
男は短刀を収めぬまま、草をかき分けてその後ろにあるものを見せた。一帯の草をなぎ倒して横たわっているのは、眉間をぱっくりと割られた大きな熊だった。切り開いた喉からまだとくとくと血が流れ出している。旅人はその場で腰を抜かした。
男は、背負っていた長い弓と矢筒を下ろして、胴中で結わえていた濃緑の外衣を脱いで置き、座り込んでいる色白で赤毛の男に手を貸せるかと尋ねた。色白の男がかぶりを振ると、褐色の肌の男は舌打ちし、短刀を持ち直しながらかがんで鮮やかに熊の腹を切り開き、臓物を抜いた。
日の傾きかけた頭上から柔らかな羽音がいくつも降りてくる。見ると周囲の木々には烏が留まり、さらに上空には鳶が何羽も旋回している。男が熊の胆と肝臓を袋に入れ、他の臓物を木立ちよりの離れたところに置くと、たちまち鳥は下りてきて分け前をついばみ始めた。男はそのまま道を窪地へと下ったせせらぎで手と短剣を洗い、胆の袋はそのまま流れに浸しておいて、平たい滑らかな石を拾って来た。東の地に不慣れな旅人はじっと我慢して自分と男との間に跳梁する黒い群れを我慢するしかなかった。
男は戻って来て手近な倒木を見定めると、細いしなやかな縄を取り出して熊の両足を縛り、倒木の反対側に回って、下にあてがった石の上を滑らせながら縄を引いて熊をうつ伏せに引き上げた。腹の中に残っていた血がさらに流れ出した。
男はそのままそこに熊をくくりつけておいて、戻って来ると身仕舞をしながらどこへ行くつもりかと尋ねた。旅人は用心しながら立ち上がり、言い訳のように服を払いながら足元を見回した。所持品はすべて馬と一緒に消えた。
「タシワナに行くつもりでした。でも先ず馬を探さないと。」
「気が立っているからしばらく放っておけ。タシワナなら目と鼻の先だ。」
男はそう言い捨てて、毛皮のついたままの獲物と、水に浸した袋をそのままにして、さくさくとタシワナを指して歩き出した。
「ご一緒しても…。」旅人は慌てて後について行った。
丘の登り口から山腹を折り返しながら登っていく道がついていたが、男は勝手知った様子で急な斜面を直に登ってゆき、その上辺に積みあがっている畑地の石囲いをも軽々と登り超えて向こう側に消えてしまった。旅人は仕方なく道に戻り、成り行きを心配しながら、小走りに村の入り口へと急いだ。
男は西寄りの畑地から集落を囲う垣根越しに二、三の村人と話をしていた。彼は熊を仕留めた辺りを指差し、村人はうなずいて大声を張り上げ、獲物を回収する人手を集めた。あわせて呼ばれた女たちが食べ物と思しき包を持って来たが、男は手を振ってそれを断り、こちらを向いて旅人の方へと村人の注意を促した。
村人たちの顔が一斉にこちらを向いた。彼らは遠巻きに何度も振り返りながら、それぞれの用のある所へ向かっていった。熊を取って来る一隊が畑地から下へと繰り出して行った頃、ようやく呼ばれた村長がやって来た。
旅人は会釈をした。
「私はアツセワナのトゥルド。シギル王によりコタ・レイナ東部の監督官に任命されました。」
村長は、マントに草の実をいっぱいくっつけた赤毛の若者をじろじろと見つめた。若者は任務を拝命した時に引き継いだ印章付きの指輪を見せた。村長は返事もせずについて来た男たちに振り返り、言った。
「皆、お役人の見送りをせい。」
トゥルドは慌てた。前任者が最後に冷たくあしらわれ、任務を果たせずにみっともない帰り方をしてシギルの評判を落としたのは知っている。おれは多少とも破綻を繕うために来たんだ、ここで返されてなるか―――そしてもう日暮れも近い。
垣を潜り抜けて近寄って来た狩人は、村長の警告を込めた目つきとへの字口をものともせずにざっくばらんに声を掛けた。
「泊めてやってくれ。おれが彼の馬を脅して逃がしてしまったから。熊は全部やる。不足か?」
村長は嫌々トゥルドに振り返るとねめつけた。
「いつまでご逗留かね。で、わしらの麦も持って行くんだね。」
トゥルドは言葉の意味が通じるだろうかと心配しながら丁寧に言った。
「私は、主から前任の仕事を全うするよう言いつかっております。シギルの世以来、各郷において租の徴収は正しく行われてはおらず、従ってこれを正すため、値を割り出す全ての条件を調べ、算出する必要があります。」
「また、あちこちと覗いて回るんだな。」
「皆さんの暮らしぶりを見、耕地を測らないことには落としどころがつきません。」
「つまり、長いことかかるってこった。で、持っていく物は持って行くんだしな。」
「不当に多く負担していたものが減るかもしれないのですよ。」
「やっぱりな。そりゃ、わしらの物を持って行って公平なわけは無いわ。何度言っても駄目だ。とっとと帰るこった。」
押し問答に益は無い。トゥルドは苛立ちながら糸口を探ろうとした。狩人は知らぬ体でゆったり空を眺めている。
「肝心なのは、郷倉の仕組みをわかっていただくことなんです。王は取り立てよりも先ずそれを望んでいる。わかっていただけるなら麦などいりませんよ!」
いきなり狩人は弓を取ると、矢筒から引き抜いた矢をつがえ、空に大きな弧を描いて引き分けた。と、ぴんと良い音がして矢は一瞬のうちに空に吸い込まれた。遠い高みに短い叫びが上がった。乱れた形を整え直した雁がねが、コタ・シアナの上を越えて行った。
とっさのことにその場の者たちは棒杭のように突っ立っていた。弓は緩やかに男の胸元に戻り、弦の震えは凛とした面に濃い一直線の影を落として止まった。
「一羽、仕留めた。おれの矢を使うには可哀相な奴だった。」
男は村長に振り向いて言った。
「これで彼の宿代にしてくれ。おれは外で構わんが村の近くで休む。明日、彼の馬を探すのを手伝ってやらなきゃならんから。」
「ひとりもふたりも同じだ。泊って行ってくれ。」村長はやっとで言った。「雁は息子に言って取って来させる。女房が料理もする。だが村に入る前に弓弦は外してくれ。」
「いいとも」男は、長い弓を地面に押し付けながら弓弦を外したので、その声は恐ろしいほど力強かった。
トゥルドは、村長がまろぶように大急ぎで戻って行きながら息子を怒鳴りつけて走りにやらせ、村方に、誰の家でもいいから一軒空けろ、そして娘たちは近寄らせるな、と遠慮会釈なく大声で命じるのをあっけにとられて見送った。
「あなたは何者ですか?」
狩人は問われた意味が分からないという風に肩をすくめた。
「嫌われものさ。」
「まさか」トゥルドは、次々と石積みの丈の低い家から飛び出して来て遠巻きに見物する子供たちや、それを叱って追い戻す女達の、色味の無い服や素足を見て思わず唸った。
「貧しい。こんな高台に住んでいるが水場はどこです?」
「下から汲んで来るか、雨水を貯めているか。」男は笑った。
「おれはここで泊まろうとも、水をもらおうとも思ったことはないし、村の連中もそれで安心して少しばかりの食べ物を分けてくれていた。おれはあんたたちの言うところのイーマで、イナ・サラミアスが目と鼻の先のこの地でも気味悪がられているのさ。」
「私はコタ・ラートの東側で言われる見る奴ですよ。」
トゥルドは、交渉が体もなく途切れてしまったのを思い出し口惜しげに言った。
「私こそ嫌われ者です。エファレイナズはひとつと言っても、コタ・レイナ三郷はそれぞれが力を持ち、自領の政を行っている。先代アケノンもシギルも、この三郷から容認されて王を名乗っているに過ぎませんよ。私は飢饉に備えての郷倉が運営されているか監督し、道普請を頼み、三郷とこのタシワナ、他の小集落や自作農の間を駆けまわって集めた租の中からお駄賃に扶持がもらえるのです。しかし彼らにしてみれば何ひとつ作り出していないのに持って行く嫌な奴ですよ。」
「うっかりと麦などいらないと言ったな。」イーマの男は見下すように言った。
「彼らにはったりや言葉の綾は通用しない。いらないと言ったものはいらない事になる。租の取り立ては駄目になった。」
「あなたこそ損な取り引きをしています。」トゥルドは憤然と言った。
「熊一頭に一宿一飯なんて馬鹿げている。アツセワナなら毛皮だけでどんなに安くても金六銖にはなる。麦なら二石だ。麦の中で泳げますよ。」
「おれひとりでアツセワナまでは運べぬし、塩が無いから肉が腐る。ここで用立ててもらって、熊なんかは土間の冷たさをしのぐ敷物になり、何日か村人の腹を満たすだけだ。おれは半日の労働の駄賃に何日分かの穀物をもらう。ここではこれでいい。」そして村人のひとりが案内に近寄って来るのを見て、垣に立てかけておいた弓を取り、呟くように言った。
「あいつはおれの知る限り界隈では最後の雄だったから、まさにいい値がついたかもしれんな。」
夕刻になると丘の上に吹く風は耐え難いほど冷たく乾いてきた。石垣で囲われた外の調理場では横ざまに火が走り、やっとで炙った肉が出て来た頃には日はとっぷりと暮れていた。
貧しいことにおいてこの上なく平等なこの村では、村長の家もどこの家も例外なく、屋根を柴で葺いた石積みの壁の、丈の低い一間きりの家であった。飼われている山羊の囲いとの境に仕切りがあるのみで、煙出しの下の炉で簡単な煮炊きをする他は、暖をとって座っているか寝るしかなかった。
トゥルドはふるまわれたよどんだ水には手をつける気になれず、慣れない熊肉の赤黒い色と白く厚い脂を見てすっかり腹がいっぱいになった気がしていたが、後になって腹が減りだしたので、宿の主が他所の台所でたっぷり噂話をしながら煮込んだ雁の羹を持って来てくれたときには素直に感謝した。主は女房と娘たちを他所の家に遣ってしまい、その家の亭主と一緒に、客から家財家畜を守り、同時に面白い話のひとつも引き出そうと、酒を持って戻って来たのだった。
トゥルドは村人の好奇心を歓迎した。イーマの男は無口で、食事がそこそこ済むと炉から少し下がって横になってしまい、辺境のわびしい宿で夜風の音を聞きながら過ごす相手としては物足りなかった。そして村人と言葉を交わしておけば、明日、再び交渉を試みるまでに心象を良くしておけるのではないか?
「あんた、村ん中でもお役人を泊めたのはわしとこが初めてだよ。」
勧められた椀を恭しく差し上げるトゥルドの様子を見て主は諭すように言った。
「助かりましたよ。馬を逃がしてしまったので、シアナの森の自作農のところへ戻ることも出来ず凍えてしまったことでしょう。熊に襲われたかもしれませんしね。」
男たちは今晩の“御馳走”の出所を思い出したらしく、ちょっと具合悪そうに肩をすぼめた。狩人が言ったように、彼もこの村では好意的に見られているわけではないらしい。
「どうも、旦那。賄いを気にかけて下すって。」
主は気味悪そうにそっと見回し、どこにいるのか分からない影に向かって頭を下げた。くすりと鼻を鳴らす音がして、イーマの男は身を起こし、酒を注ごうとする主をとどめた。
「悪いが、酒は目にも耳にも悪い。おれは常から飲まん。すまないが村長を呼んでくれ。熊の相場のことで気が変わった。」
主の顔色が変わり、連れと見交わすと慌ただしく出て行った。やっぱりだ。きっと女だ。腹を立ててそう言いあう声がした。トゥルドは男を振り返った。
「二言は通じないと言ったのはあなたでしょう?」
男は答えなかった。なるほど、相手にもよるわけだ。トゥルドは口惜しがった。あの大熊を倒すほどの男と、馬に逃げられる青二才とは言葉の相場も違うというわけだ。
ほどなくして村長どころかぞろぞろと五、六人もの男がやって来た。村長は非常に腹を立てている風にしばらく睨みつけていたが、やっとで言った。
「旦那、何をお望みで?言っとくが、うちの女どもはみな醜女だよ。」
男は少し苛立ったように首を振り、座りなおした。
「あの熊はコタ・ラートの東では最後の奴だ。もう、はるかベレ・イネあたりまで行かないと熊はいない。聞けばアツセワナでは麦二石になるという―――あんたたちにとってそこまでの価値は無かろう。だが、もう少しいい値をつけてくれ。明日、彼が租の歩合を勘定したらその分は渡してやってくれ。」
村長は口を開けて聞いていたが、疑わしげに言った。
「で、あんたは他に何もいらんと言うのかね?」
「もう、故郷に帰るつもりだからな。」男は淡々と言った。
男前よな。戸口に詰めかけて村長の後ろから覗いていた男たちは一寸残念そうに囁きかわした。外から婿を入れたためしはないがよ、狩りの腕もたつし悪くなかったかもな。いや、やっぱり外者だよ。土を耕すような男じゃない。
トゥルドは勝手に仕事に口出しされ、恩を着せられ、むかっ腹をたてたが、村長がしゃくるように振り向くと我に返り、
「長くは時間を取りません、明朝、そちら様の都合の良い時に。そこから一時以内に発ちます。」頭を下げた。
村長は引き上げて行ったが、宿主と隣の男の他、ふたりの好奇心の強い男が残り、炉の周は前よりも賑やかになった。新たにやって来たうちのひとりは愛想のいい老人で、トゥルドの居心地は格段に良くなった。
「また、時間のことで安請け合いしたな。守る自信はあるか。」
イーマの男はのんびりと手足を伸ばして尋ねた。
「算盤は私の領域です。耕地の広ささえ測らせてもらえればすぐにでも。前任が受け取っていた量より多くはならない。」
トゥルドはちらちらと振り返る目を見返しながらてきぱきと答えた。
「ここの耕地は主に北向きで光が弱く、朝もイナ・サラミアスの影に入る時間が長く、日照量がアツセワナの半分くらいだ。せいぜい播種量の十倍の収量でしょう。しかも土が痩せていて一度麦を作れば三年は休ませなきゃならない―――そうですね?」
村人たちは身を乗り出して聞き耳をたてていたが、そう尋ねられると目を輝かせて大きくうなずいた。
「さて、アツセワナでは少なくとも五倍の量の麦が取れる。ところで、作物が実ろうが実るまいが腹が減るあんばいはどこも同じ、播く種の量も同じ。来年の収穫までに必要な食糧と種籾、これを全収量から差し引くと、余ったものには余計に差が出来る。この倍率を出して、アツセワナに課されている税率に何分の一かの割合を掛けたものがタシワナの税率になる。これが公平なやり方じゃありませんか。これまで皆さんが納めていたのはアツセワナと同じ割合の租ですよ。」
今にも興奮してまくしたてようとする男たちを見て、トゥルドはなだめるように両手を振った。
「シギルはもちろんこの不公平を正すつもりでした。皆さんがきちんと作況を見せてくだされば。どれ、もう少し条件を見てみましょう―――。コタ・イネセイナの川辺では水を引き込んで一旦米を作る。豆を作る。これでここでかつかつ二回の穀物を得るのに、当地では六回の収穫があるのです。つまり三年の期間で見れば双方の差はもっと広がり―――」
「それで、どのくらい取られるだろうかね?」心配と期待を込めて村人は尋ねた。
トゥルドが分かりやすく説明しようと小石のかけらをいくつか拾い上げた時、イーマの男が物柔らかに口を挟んだ。
「おれの熊も昔の駄賃までは払えんからな。」
トゥルドははっと手を止めて考え、五つ並べてあった中から単に四つ引っ込めて見せた。
「これが去年のでしょう―――そして、これが今年です。」
危ない危ない、これまでなけなしの蓄えを不当にむしり取られていたと知られたら、それこそ無事に出してもらえないところだった。
「そうかい、よかったなあ」
「だけどよ。今までそんなに取られていたのかい。」
幾分恨み節が混じるのを、ほっとしたトゥルドは喜んで不満のはけ口を差し出した。
「これまで来ていた監督官は宰相トゥルカンが選んだ者で、アツセワナとここでは条件が違うことがわからぬ人だったのです。ところが私は王シギルに選ばれましたので。」
「シギルって頼りない王様のことじゃなかったかい。」
村人が疑わしそうに言うのをトゥルドは心外そうに応えた。
「若いには違いありません。やっとの二十六です。皆さんはどうです。二十六の者を長に据えて思慮分別、知恵にどのくらいの信用がおけましょう?どんなに利口な若者だって自分の生まれる前に起こったことは年寄りに聞く他は無いでしょう。まして、トゥルカンがその人なしには先王アケノンも王にはなれなかっただろうというほどの男なら。しかし、シギルは知識を尊重し、熟慮する男です。」
トゥルドは主君を一生懸命盛り立てようとしたが、村人の興味はむしろトゥルカンに向いたようだった。
「そのトゥルカンとかいう世話人は、王様の父親の頃から仕えているというと、随分な年寄りなのかい?」
「いいえ、さほどではありません。」幾分苦々しさがこみ上げるのを押さえてトゥルドは言った。
「まだ五十やそこら。彼こそは、劣った身の上から己の才覚を頼みに売り込んで地位を得た男です。彼の父はイネ・ドルナイルのチカ・ティドの府長でした。」
「そりゃまた、どこだね」
「ベレ・イネ。西に見える、ほら、ここのすぐ東隣の女神の妹です。その山にある鉱山の町ですよ。」
楽しみの少ない村で他所の珍しい話は何よりの贈り物になる。トゥルドは、トゥルカンの怪しげな人となりを物語ることにした。ついでに彼のことをどう思っているかを少し加えても、こんな村のことだ、誰の害にもなるまい。
イナ・サラミアスがイーマによって治められているように、イネ・ドルナイルには古来、自然金属の加工に長けた山の民がいた。
遥か遠い昔、コタ・イネセイナの上流から肌の白い髪の明るい人々が大挙してやって来、河の岸に住みはじめた。彼らはその故郷から多くの優れたものを持って来ていた。すなわち、穀物の種子、役畜、そして灌漑と冶金の技能であった。
ほどなくして彼らは丘の上に高柵をめぐらせて町を作り、またその町を巡って争ったのでそこは王たちの争う丘と呼ばれるようになった。アツセワナは肥沃な川岸に耕地をつくり、豊かな国となった。
アツセワナの技能者たちは銅を求めてイネ・ドルナイルに渡り、山の民と出会った。そして、暮らし向きは素朴ながら、この山の民が金属の冶金、わけても鉄の精錬に長けていることを知り、驚いた。彼らもたまさかに銅の精錬の折に鉱滓に混じっている小さな金属の塊のことを知ってはいたが、その材料も精製の仕方も知らなかったのだ。鍛えた鉄は青銅よりもさらに強靭であったが、山の民はさも当然のようにこの鉄を日々のことに用いていた。そしてやがて分かったのだが、このベレ・イネには、空から降って来たという強靭な鉄の塊が豊富にあり、他にも実にその半分もの部分が鉄という純度の高い鉱石もいくらでも見つかったのだった。
技能者たちはアツセワナに帰り、それぞれの主人に伝えた。たちまちアツセワナの有力な家の者はこぞって鉄を求めた。代価は領内で取れる穀物であった。
ベレ・イネでは山の民が採掘と精製を行い、イネセイナの対岸でこれを洗練された道具、装飾品に加工するのはアツセワナの職人たちだった。
さて、それまでアツセワナの人々は、コタ・イネセイナの沖積地を農地として拓く以外に背川の向こうの森を敢えて拓こうとはしなかった。森の中に点在するいくつかの郷には自分たちの先にこの地に来た、同じように肌の白い勇猛な人々が住んでいるのを知っていたからだ。そして木霊と呼ばれる褐色の肌の人々は、彼らに馴染もうとはしなかった。
コタ・イネセイナの東では三とおりの人々が、西ではアツセワナの商い人と山の民が、それぞれに境界を守って暮らしていた。しかし、ある出来事で人々の暮らしは大きく変わる。ベレ・イネの噴火である。
昔の物語によれば、煙が空を覆い、何年も暗闇が続いたとか。山の民は指導的な地位にあった者たちを中心に半数もの人々が死に絶え、一時鉱山は営みを止めた。生活に窮した人々は生きる途を求めてそれぞれの境界を超えはじめた。行く先々の出会いで、他所の者の親切に触れたこともあったかもしれない、だが、煙が止んだところで蓋を開けてみれば、始まったのは耕地の拡大に伴う争いであり、よりたくさんの鉄の需要だった。
飢饉の危機をいち早く切り抜けたことでアツセワナは他の郷を凌駕し、食糧を見返りとしてベレ・イネの山の民とヨレイルの一部を労働者として支配下に置いた。山の民との関係はもはや取り引きではなかった。アツセワナのいくつかの有力な家の者が山の民に命じて鉄を作らせ、売り、あるいは直接これを武器に戦をした。こうしてコタ・ラートの西には、アツセワナの五家、イビス、ニクマラ・ガヤが領土を固めていった。
アツセワナは丘の上に城壁に囲まれた街を築き、五家の中で評議会を持ったが、やがて有事の折の対応を早めるために互選で王を選出するようになった。また、イビス、ニクマラ・ガヤとの間に盟約を結び、境界、治水の争いを回避するために議会を持ち協議をし、あるいはもっと確実な関係をつくるために婚姻した。
このころアツセワナでベレ・イネに鉱山を所有していたのは第ニ家と第五家であったが、第二家は収益の少なくなった鉱山から手を引き、第五家は、チカ・ティドに出来た町と鉱山の運営を任せるためチカ・ティド府を置き、府長を置いた。
これは当地に住むアツセワナの技能者の末裔か商人の血筋かは分からぬが、採鉱、冶金に通じた家系であり、その後アツセワナの五家が王位をめぐって再度争い、第四家の没落を見、終にまた個々の領土支配へと力を弱めていく中で、着々と世襲を続けて地位を固めた。
こうして第一家の世継ぎアケノンが、長い戦乱の難を避けて育てられた母方の祖父の郷里、コセーナからアツセワナに戻って来た時、丘の上に王が不在とはいえ、もっともその地位に近いのは第三家、または鉱山を持つ第五家と思われた。
その時、イネ・ドルナイルでチカ・ティド府長であった男こそはトゥルカンの父であった。この男は冷酷な力を行使して、山の民や零落したアツセワナの家の子弟までを隷従させ、一手にした鉄の生産で第五家に収益をもたらしていた。遠縁の女を妻に娶り、長男をもうけていたが、一方で当地の商人の娘との間に庶子をひとりもうけていた。この息子がトゥルカンである。この子が十五歳の時に父を訪ねて行くと、府長は初めて会ったこの息子の利発さが気に入り、ゆくゆくは兄の部下にするつもりで経理の者のもとに連れて行った。
「その頃のチカ・ティド府は既にアツセワナを小さくしたような町でした。」
トゥルドは言い、町はおろか、小さな露天市の取引すら知らない村人がぽかんとしてうなずくのを見て気の毒そうに肩をすくめた。
「ただ、耕地の代わりに鉱山があり、精錬所がある。そこで働く者、監督する者、賄い方が暮らすのに必要なものは全てアツセワナから運ばれていました。食べ物だとか、当地では作れない道具や布。トゥルカンはそれらと地金との取り引きの場で―――上手にやり繰りしたのでしょう、父の信頼を確かなものとして、アツセワナの第五家にも名代として出向き、チカ・ティドの町の中のみならず製錬所や選別所、穿場まで監査しました。二十歳になるやならずで、です。府長の下で働く者で精錬所まで立ち入る者はそれまでいなかった。潔いと言って良いほどです。なぜなら、鉄造りの場と穿場とは山の民の領域であり、命を形に追い使っていると言っても、彼らが多数の場所では、安全とは言えなかったからです。案の定、山の民は反乱を起こしました。全ての穿場、全ての製錬所で。」
「そうかい!」タシワナの村人たちは顔を見合わせ、慌ててトゥルドの椀に酒を注ぎたした。
「大変だね?」
「いえいえ、」トゥルドはにこやかに手を振った。
「私は何とも。生まれる前に起こったことですから。三十年も前のことですよ!」
府長は直ちに反乱を鎮圧し、何人かが見せしめに選り出され、酷い処罰を受けた。製錬技能者はその価値ゆえに殺されなかったが、山奥に連行され、監視された。
「何しろ彼らを失うのは痛手でした。山の民の鉄造りたちは、山相を見、鉱床を見抜く能力を持っていました。これもまるでイナ・サラミアスのイーマが各々の氏族の受け持つ事象があると言われるように、氏族ごとに得意とする鉄の性が違うのだそうで。
それぞれ黒餅、黒砂、赤砂などと呼ばれ、ことに黒餅は、チカ・ティドで最も頼りにされていた集団でした。府長は文字どおり、彼らを仕事場に監禁しました。」
トゥルドは一寸、もの思わしげに言葉を切った。イーマの男は片膝を立てて頬杖をついてひとり輪から外れていたが、ちらりと促すような目をくれた。
「自由も望みも奪われるのは草木が水を奪われるようなもの。三十年経った今、最も大勢いた彼らは、直接手を下されなかったとはいえ、ほぼ死に絶えてしまいました。だが、当時は彼らこそが鉱山の中心でした。黒砂の鉄造りたちは黒餅よりも下手とされ、それ故、少しく自由が与えられました。トゥルカンは父に申し出て彼らを監督し、彼らが黒餅とは違う方法で鉄を造ることに気付いたのです。」
トゥルカンは拘留するためとしてこの黒砂の一族をベレ・イネの北面の針葉樹林帯を伴う峰の麓に連れて行き、そこに厳しい監視をつけた上で鉄造りをさせた。
彼にしてみれば、父のためにアツセワナと鉱山との取り引きで利をかすめ取っていたその才を、今度は自分が父からかすめ取るのに用いたに過ぎなかった。が、やがてこの隠れた鉄造りが彼に大きな幸運をもたらすことになる。
「アツセワナの第一家の世継ぎアケノンが、幼少期を過ごしたコセーナから帰った時、第三家、第五家はこの“田舎育ち”の若者を侮って、不在の間に曖昧にしておいた地所の境界や、評議員の身分をあわよくば取り上げてしまおうと思っていました。が、アケノンはその後十年間辛抱強く境界を接する家を訪ね歩き協議を重ね、時には自ら問題の場に出向いて剣を抜き、己の地位を固めてゆきました。年に一度父の名代で第五家を訪れるトゥルカンにも何度か会っていたでしょう。イネ・ドルナイルの山の民の反乱はアケノンに思わぬ好機をもたらしました。鉄の産出が滞り、第五家の財力は大きな痛手を受けました。折しも第三家とアケノンの間には境界を巡る問題が持ち上がっており、もともと短気なアケノンは、長年の辛抱もこれまでと、武力で雌雄を決することを望みました。そしてトゥルカンは密かに造っていた鉄を売り込む相手を探していた。」
「それで」ようやく話が分かるところにきてほっとした宿の主が口を出した。
「トゥルカンがその鉄で造った刀だか剣だかをアケノンに差し出すと、アケノンが敵をやっつけたわけだ。」
「まあ―――そうです。“長たちは丘を争う”わけでなく“野を争った”だったのですが、結果はほぼ流血を見ずにすみました。」トゥルドは、村人たちの期待を裏切るのが心苦しいと言わんばかりに声を低めた。
「コタ・レイナの三つの荘はアケノンが第三家と事を構えるに先立って互いに同盟を結んでいました。そしてニクマラ・ガヤにはアケノンの妹が嫁いでいました。こうなると敵はそう多くありません。結局、アケノンは血縁を強めることで王になったのです。第三家から妻を娶り、自分の別の妹をその家に嫁がせることで。」
「おれの家とこいつの家は縁者だよ。」宿の主は隣家の男に顎をしゃくって言った。
「ほんとのところ、村じゅう近い遠いはあってもみんな縁者だ。そうでなくてもそうそう喧嘩はしておられんよ。狭いとこだもんな。」
「だけどよ、縁づいてつながりゃみんな郷ってのはわかるけどよ、ここから嫁入りも婿取りもないのに何で租を払わにゃならないね?ここは別の郷だろ?」
隣家の男は思い出してしつこく怒りだした。
「それはね、ほら、たのもしだと思ってくださいよ。」トゥルドはなだめるように言った。「もし、飢饉で食うに事欠くようなことがあれば、コセーナなり、エフトプなり、またアツセワナなり、郷倉にゆとりのあるところが助けますよ。」
「それで、アケノンは王様になったわけだ。」
村長についてやって来てそのままそこに居残った男が口を出した。
「王様って偉いんだろ?何で先代のアケノンから今のシギルになっても同じ世話人なんだね?」
「―――言ったように、アケノンは第三家と縁戚になりました。結納の取り決めで少しばかり領土の境界で得をしたかもしれません。だが、相手もそんなものは次の代で取り返せると思っている。」
トゥルドは少し酔いが回り、気も楽になって内心抱いていた不満を漏らしはじめた。
「事実、シギルは父と同じように第三家から妃のニーニアを娶りました。事の成り行きはこうです。」
エファレイナズの王となったアケノンはまだ若いトゥルカンの功績を重く見、統治体系を整えるにあたって彼を顧問のひとりに迎えた。その頃のトゥルカンはまだ自分の名のもとに全ての提案を通すほどの力は無かったが、水を漏らさぬ細心さで事案を検証し、こまめに実地に出向いてなかなかの器の大きさを見せたので、機関が整う頃には名だたる旧家の面々にも一目置かれるようになった。アケノンは彼に、最も謀反の恐れがあると思われるイビスと第五家の監視官に任じた。
「目を光らせると見せて実際には便宜を図ってやっていたに違いありません。せんから第五家とは顔なじみですし。大分後になりますがそこの娘を妻にしています。それまでに彼の関わった仕事は、税を定めるのから貨幣を決めるのから郷倉を置くのから実に多岐にわたりました。アケノンは所詮武の人ですから、こういったことを決めるにはトゥルカンの言いなりでした。またトゥルカンも事を決定するにあたっては評議員の前で上手に王を立てたものです。でなければ自身が反感を買ったでしょう。アケノンがトゥルカンに寄せる信頼は大したものでした。アケノンは年取るにつれ王子の行く末を気にするようになり、王子が成人したのを機に後継者として指名しました。ところが評議会は古来の互選で王を選ぶべきであると主張しました。なあに、シギルが王になれないようにトゥルカンが評議員たちを裏で焚きつけていたに決まっています。そうしておいて王には王子たちに継承権に関わる名家の娘たちを娶らせるようにと進言しました。第三家にはニーニアが、第五家にも良い年頃の娘がいました。こうして三つの家を対等に並ばせればシギルが王位を継ぐことに不満なものはいない、とね。トゥルカンにとってわずかに誤算だったのは、シギルの弟、シグイーが縁談をかわしてさっさとコセーナの婿に入ったことでしょう。」トゥルドは、一寸にやりとした。
「どちらにしても、既に第五家と縁者であるトゥルカンにとって大した痛手ではありませんでした。弟が先に結婚したことでシギルが慌てたのかどうかは知りません。ともあれ、彼は第三家との婚姻を承諾し、王になりました。またもや結婚が王位を与えたのです。だが、これで嫁の生家に気を使って王はがんじがらめになる。ごらんなさい―――。」
トゥルドは炉の底にたまった灰に円を描き、そこに石をふたつ置いた。
「第一家と第三家。シギルの次にはこの二家の間に少しの差もありません。しかも第三家にニーニアの兄アッカシュがいるが、シギルにまだ子はいません。その上トゥルカンは継承の資格のある第五家の妻を持ち、息子をもうけていることでこの輪に食い込める。」
トゥルドは我知らず激して声高になりながら三つ目の石を円の中に置いた。
「宰相であり、さほどの年齢でもなく、息子もいるトゥルカンはこの中で最も次の王位に近いんですよ!」
村人たちは驚いたようにトゥルドを見、小石を見、目をぱちぱちさせたが、やがて互いに見交わしながら言った。
「偉いじゃないかね、その世話人は?」
「若い王様はよく言うことを聞くこった。」
トゥルドは苦笑しながら燃えさしの薪を取り、灰の上の図を崩してから炎に放り込んだ。
実際、シギルはトゥルカンの言うことを聞く他は無いんだ。そうでなければどんなことになるか。父府長の目をかすめて鉄を貢ぎ、アケノンを後押しした後でトゥルカンは父と和解したか?父と兄と。このふたりの府長は相次いで死んでいる。
トゥルカンの前の石は除かれる―――。少年の頃、陣取り遊びをしていた時にシギルが冗談めかして言っていた。陽気で冗談好きのシグイーでなく、考え深く口数の少ないシギルがそんな風に言うのはかなり気にしている印なんだ―――。
「しゃべり過ぎを聞き逃してもらえたんだ。良しとせねば。」
てんでに話しはじめた村人たちをよそに、イーマの男はつと背を伸ばしてトゥルドに話しかけた。
「あなたも悪口を言ってくださればいいんです。」トゥルドは不機嫌に言った。「それで追及が分散される。」
「おれはもうイナ・サラミアスに帰る。関係ない。」
「分かるものですか」
トゥルドは向き直って言った。男が座り直すと腰に帯びた短刀の鞘口が短くぱちりと音をたてた。
トゥルドは仲間うちで話している村人たちに少し振り返り、声を大きくして言った。
「私は今宵は自分の分の物語を済ませました。明日にはここを発ちますし、そろそろ休みたい。だけどせっかくだから誰か話して聞かせてくださいませんか?世間では頼りないなどと言われている気の毒な主人にせめて話の土産でも持って帰りたいのです。そう、先ほどはイネ・ドルナイルの話をしました。妹の話が出たから今度は姉の話がいい。イナ・サラミアスの話を聞かせてください。」
「わしらはタシワナの者だよ?」村人は驚いて言った。
「この先のコタ・シアナのクシガヤの者は川で産湯を使って沼に躯を埋めるまで、人は渡してやっても自分は舟を下りないって手合いだ。それより先のことはそちらさんに聞くこった。」
男は、一同の目が自分に集まったのに気付くと意外な狼狽ぶりを見せ、身をこわばらせた。それがトゥルドを面白がらせた。が、彼が濃い眉を寄せ、目を鋭く細めると村人たちはそわそわと目を逸らした。
「もう十二年もの間、故郷には帰っていない。それにあそこではその女は決して男の目に触れぬ所にいる―――。悪いな。」
男はそう言ったきり、まるで人ごとのようにそっぽを向いてしまった。
「残念ですね。」トゥルドは、気付かぬふりをして言った。
「遠いアツセワナでもかの女神のことは噂されているというのに。故も知らぬ不思議の数々。あの山肌が月のように光ると何かが起きるのだとか。」
突然、イーマの男は足を縮めると、外衣を引き寄せてごろりと陰の中に横になってしまった。
「それは本当のことだよ。」
トゥルドの向いに座っていた老人がしきりにうなずいて言った。
「わしはそれを子供の時分、クシガヤの婆さんに聞いたし、自分でも見たよ。」
「爺さんのお得意のほら話だよ。」家の主が口を挟んだ。「そりゃ、きっと稲光だ。嵐が来る前なんか、ふわふわっと山腹が光るだろう?」
しかし老人はにこにこと笑っている。
「見た、ですって?」トゥルドは本気で驚いて言った。「で、何かが起こりましたか?」
トゥルドがアツセワナで耳にした噂というのは、イナ・サラミアスの山が満月のように輝くときには、そこに宝があるだの、人身御供が行われただの、女神が妹神と話をしているだのと尾ひれがついていたが、出所はただひとりの少し頭のおかしい男だった。だが、こんなに離れたところにもうひとり狂人がいるとすれば話の価値は少々変わってくる。
「十七年も前の春だよ。夜にイナ・サラミアスの山腹が昼間のように明るく光ったんだ。稲光のようにすぐに消えたりはしなかった。そしてその何日か後に、沼地に白い蝶が流れ着いた。」
「それが何か?」トゥルドはつまらなそうに言った。
「あんた、ただの白い蝶じゃない。神蚕だよ。それが沼の水口が堰き止められるほど流れて来たんだ。サラミアは蝶を可愛がる。蝶が死んだら女神も代替わりしたってことだ。つまり憑り人が変わったんだ。あんた、わしらがサラミアと呼んでいるのは山の女神の憑り人だ。何代にもわたって名を継ぐ巫女のことだね。わしが山の光を見たのは、新しい巫女が生まれた日らしいんだ。」
老人は萎びた顔の中に子供のように茶色の目を輝かせながら、膝で調子を取り、歌うように諳んじた。
「サラミアがお越しの時はお山が光る。宿りとするのは見目好い女の子。十七、八にて手業巧みに雲を繰って糸を縒り出し、恵みの雨を降らせるのだと。日がな他に何するでもなく、ただにこにことしておれば、草木はよくのび、獣は育つと。」
「見目好い娘で十七、八。まさに今そんな年頃か。」トゥルドは酒を探すふりをしてイーマの男を見たが、その姿はもうすっかり陰に紛れていた。
「だが、姿を見ちゃいけない。」老人が意地悪そうに言ったので、トゥルドは思わず顔を上げた。
「男は、特に若い者は駄目だ。見れば命を取られるとな。」老人はトゥルドがぴたりと凍りついたのを見て顔じゅう皺めて笑った。
「まあ、わしらは大概大丈夫だね。うん、あんたやそこの兄さんは知らんけど。」
我に返ってひとしきり大笑いした後、トゥルドは前よりももっと大胆に尋ねた。
「だってその身が神ではなく巫女ならばひと目見て死ぬわけでもないのでしょう?」
うーん、どうかな。老人は腕を組んで頭を胸に落とした。どうも先ほどとは違い、からかう手を考えているでもないらしい。他の三人の男はぶつぶつと文句を言った。もうよしなよ。わし等には関係の無い話だ。それにじいさんの話は少々気色が悪い。その娘は口から蝶を吐き出すだの、いや、口の中で蝶をかえすのだとか。
しかしトゥルドの目は興味に輝いた。
「会ってみたいものだ。シギルはこの話を聞いたら何というだろう。」
そろそろ引き上げようと腰を浮かし、あるいは寝場所を探しはじめていた村人たちは、それを聞くと二言三言ばかりこの遠くから来た若い者に苦言を呈した。
王はもう大分前に嫁を貰ったんだろう、さっさと子供をこしらえなきゃ駄目じゃないか。あんたも見たところいい年齢で独り者だが、女を探すなら東を見ずに西に帰ることだ。
夜も更けていた。言葉少なになった男たちは、誰からともなく敷物の上に横になり始めた。宿の主は熾火を散らしながら、ちらりとトゥルドに目をくれた。トゥルドは狭い小屋の中を遠慮がちに見回し、藁筵の上にようやく隙間を見つけると、そこに割り込んで横になった。
翌朝トゥルドが目覚めるまでに、この新しく来た“お役人”が見込んだ租の割合についての噂が村じゅうに広まっていた。がやがやと表が賑わっている気配に寝返りをうつと、屋内にはもう誰もおらず、戸口から二、三の男が覗き込んで口々に声を掛けた。
「兄さん、朝が遅いなあ。」
「さっさとかかってくれんかね。」
トゥルドはむっくり起き上がって目をこすり、マントを腕に抱えて背をかがめながら家を出た。そして後ろに村人をぞろぞろと引き連れながら村長の元へ行くと、しかつめらしく耕地の案内を請い、歩測し、方位を確かめ、いかにも計算をしている風に呟きながら、注意深く五分の一の麦を受け取れるように答えを出した。
イーマの男は、先に村を出て、丘の麓の登り口のところで待っていた。
「馬がいない時には少ないのも悪くないな。」
二升ばかりの穀物の袋を抱えて下りて来たトゥルドに男は悪びれる様子もなく言った。馬が逃げる元を作ったくせに。トゥルドは思ったが、他に心を奪われていることを口にした。
「あの村から何かを取り立てるなんて無理な話だ。」申し訳なさそうに袋を叩いた。
「コセーナで馬を借りる時に過去の郷倉の台帳を見せてもらいました。タシワナは三年に二回の割合で種籾の借り入れに来ている。それにコセーナはうわ増しして渡してやっている。」
「あそこはそのつど労力を都合しあって回っていた。」
「郷倉の話なんかしたって通じるわけもありません。彼らの得にはならないし、アツセワナにも得にはならない。タシワナの麦は粗悪で相手にされないのです。それに、こうやって持ち出すことでひょっとしたら何人かの命を奪ったかもしれない。」
「森には見た目よりも食べ物がある。彼らもいざとなれば森に入る。あんたが気の毒がることじゃない。」男は簡単に答えた。
馬は前の日に逃げ出した草原からさほど遠くない木立ちの下に佇んでいたが、物音を聞くと落ち着かなげに顔を上げ、足踏みした。
「あいつはコセーナの馬だったな。」
男はそう言うと、コセーナで家畜を呼び集める時の節回しで指笛を吹いた。トゥルドは昨日からの驚きに次ぐ驚きで半ば夢見心地になりながら、じっと立ち止まって円らな瞳でこちらを見ている馬に近寄り、名を呼んで首根を優しく叩き、そっと手綱を取った。
「あなたには助けられっぱなしだ。」
トゥルドは男に振り返った。
「別れる前に尋ねてみないではいられません。あなたはイナ・サラミアスの方で、コセーナの牧童の合図を知っていて、我々アツセワナの者でもそうそう手に入らない良い短刀をお持ちだ。そして昨日から何くれとなく不注意な私の世話を焼く。閉ざされた東の地の人間が、西のさいはての鋼を帯び、アツセワナの役人に近づくなど尋常とは思えません。―――なんの目的があって私に構うのですか。」
「特に意図などない。」男は呆れたようにトゥルドを見返した。
「おれは一族の変わり者で、鉄が欲しくて十二年前にイナ・サラミアスを飛び出した。方々で使ってもらい、イネ・ドルナイルに渡る機会を得、長いことかかって短刀と鏃を手に入れた。それで熊を狩りながら故郷に帰るところだったんだ。あんたとはただ鉢合わせただけだ。」
トゥルドは、丸い顔の中で眉を寄せ、口を引き結んでしばらく考えた。
「おそらく、大筋ではその通りでしょう。だが、それだけですか?」
「あんたはどうだ。それだけか?」
男は切り返した。トゥルドはにこりとした。
「お互いに偶然ならばそこがちょうど道の分岐だ。あなたはイナ・サラミアスへ、私はコセーナへですね。さあ、別れましょう!」
しかし、ふたりの男は互いに動かなかった。
「おやおや、どうしたわけです?」トゥルドは声を高くした。
「おれがどんな訳で疑われているのか知りたいのは当然だろう?」
男はあたりを見回し、さっさと手綱を取ると、道から少し森に入ったところにトゥルドを誘った。
「ゆうべから見たところ、あんたは宰相のトゥルカンに不満があるようだ。誰の目からも能力は明らか。そのうえ第五家の娘を妻に持ち、事実上イネ・ドルナイルで稼働している鉱山も彼のもの。この上はタシワナの連中が言っていたように、若い主は与えられた役目と女に満足して彼に任せておくのが無難だな。―――おれのように行きずりの者がどう考えるのか聞きたいなら、言っておくが。」
トゥルドは苛々といちいちうなずき、男の言葉尻にかみついた。
「それが警告と言うわけですね。」
「何を言うやら。」男は苦笑した。
「トゥルカンは冷酷な男です。彼がアケノンの支援を始めてからほどなく父府長は死に、実の兄はトゥルカンの讒言により処罰された。彼がその気になれば、あれこれと手を回して噂を流し、シギルに王の器が無いと評議員と民に思い込ませ、排斥に追い込むことも出来るでしょう。」トゥルドは男をにらみつけた。「そしてあなたは、彼が選んだ監督官はまぬけだと突き止めたわけだ。」
「間抜けじゃないが、せっかちな奴だな。」男は面白そうに言った。
「じゃあ、あんたの方では、こうして偶然のように辺境をさまよっているが、東で手に入るはずもない鋼を身に着けている奴はトゥルカンの手下に違いないと突き止めたわけだ。」
トゥルドの灰色の敏捷な目が一寸細まった。
「―――そうですね。そう疑っているのは確かです。」トゥルドは、手綱を緩く枝にかけ、両手を腰に当てた。これで剣に手が届く。だが、特に武術が得意でもない自分がそうそうこの男に適おうか?
トゥルドは軽く両手を上げて見せ、手近な根元に腰をおろした。イーマの男は程よく離れた低く横ばいした枝元に腰掛けた。
「しかし、もしそうでないなら、むしろあなたはトゥルカンから最も遠い道を辿って来られたかもしれない、とも思えてきました。」
男はごく柔らかな唸り声をあげた。
「とは、またどうして」
「本当に良い短刀をお持ちだ。」トゥルドは男の腰につられた短刀に目をやった。
「いま気付いたが、アツセワナのとは型が違う。柄の作りはもっと単純だ。鉄師はあなたの要望に応じて造った。いや、あなた自身が鍛えたのかもしれない。夕べ、私はイネ・ドルナイルがどこだかチカ・ティドが何だか知りもしない村人相手に、アケノンがまだ野心に満ちた王子だった三十年前に起きた山の民の反乱の話をしました。黒餅、黒砂、赤砂の三つの鉄造りの氏族の主力、黒餅が監禁された末に徐々に衰え、トゥルカンによって遠くに隔離された黒砂がやがて次の鉄の産出を担い、アケノンを支えたのだと話しました。結局、彼らもアケノンのものとはなりませんでしたがね。ところで話にも上らなかった赤砂は、わずか家長とふたりの息子のみの氏族だったが、この一族は反乱の時に姿を消しています。彼らに鉄を造ることが出来るなど、当時は誰も思わなかったでしょう。だが、誰に分かりましょう、黒砂だって他の鉱床に行くまでは鉄を造るとは思われなかった。が、彼らに相応しい鉱石に会うと鉄を作り始めたのですから!あなたの短刀を鍛えた者こそは赤砂の鉄造りだ。どこへ身を潜めているかなど、私は聞きません。トゥルカンがこれを知ることがありませんように!」
「そんないきさつは知らなかった。」男は淡々と言った。
「おれはただ鋼が欲しい一心であちこち尋ね回った。巡り合うまで長い年月がかかった。だから、彼らに義理立ててトゥルカンを遠ざけるに違いないなどとは思うなよ。鉄をくれると言われれば心が動くかもしれないからな。」
トゥルドは鼻白んだが、強いて言い添えた。
「ともかくあなたはトゥルカンとは関りが無いわけだ。」
「ああ。取り越し苦労だったな、若いの。」
男は立ち上がりかけたが、ふと振り返った。
「鉄は、いつでも、いくらでも使えるものだ。戦があろうと無かろうと。おれは少しばかり鉄の道具を持っているし、鍛え直すことも知っているが、鉄は時間が経てば少しずつ減っていく。イナ・サラミアスは今でも石の鏃を使う。青銅すら貴重だ。イナ・サラミアスに鉄をもたらしてくれるなら、トゥルカンでもシギルでも構わない。」
トゥルドはきっとなったが、男は簡単に言い足した。
「イネ・ドルナイル、アツセワナ、エフトプ、クシガヤと仲買人と船代を通すから、イナ・サラミアスでは鉄は黄金よりも高価なんだ。」
トゥルカンでもシギルでも構わないというなら、鉄のあるところへ行って交渉すればいいだろう―――。トゥルドは言いかけて男を見た。男の片頬には微笑が宿っていた。
「鉄が手に入るなら、あなたは代わりに何を寄越します?」
トゥルドは尋ねた。男は即座に答えた。
「絹だ。」
「絹…。虫が作るという、糸ですか?」
その娘は口の中で蝶をかえすってよ。
手振りして風を呼び、雲から糸を縒り出し…。
夕べ村人たちが気味悪がりながらも抗いがたい興味を示して話していた巫女の話をトゥルドは思い出した。
「聞かれましたか、夕べの話を。口から蝶を出すという…」
「ああ、」さすらい人はけろりとして答えた。
「口の中で糸をほぐして繰り出し、最後に蝶を出すんだ。飲んでしまわないんだから大したものだな。」
「なんですって?」
「糸を傷つけない最良の方法だ。」
「あなたの仰る絹というのは…。」
「蛾は繭を破って出てくるが、切れた糸では美しい絹にはならん。ほら、おれの外衣も大したことはなかろう?蛹は殺してしまえばいいんだ。しかし蚕は神の虫として聖地で育てられ、女達は殺生の制約を受ける。生かしたまま糸を繰るのは至難の業。イナ・サラミアスでも絹と呼べるものを作れるのは件の娘だけだ。」
トゥルドは相手の提案した代価の馬鹿馬鹿しさを思った。風の縒った糸。女神の織った布。それは誰にも手に触れられぬ幻ではないのか。遠いコタ・イネセイナの岸から東の空に描かれたイナ・サラミアスの稜線を打ち眺め、昔語りの乙女に焦がれるシギルとどっこいどっこいだ。そして一方シギルに求められるのは―――。
「あなたは鉄を望んでいる。」
トゥルドは、一言一言を秤にかけるように言った。
「おれも欲しいが、イナ・サラミアスにもやがて必要になろう。鉄の硬さ、粘り、細工のしやすさ。狩りの道具ばかりじゃない。鋏や針があれば、女達がどれほど助かるか。」
男はまだ青年の片鱗を残していた。そして黒い瞳は陽気に輝いていた。
「シギルの手元に鉄は無く、イナ・サラミアスにも絹は無い。互いに望みは薄そうだな。」
弾みをつけて立つと同時に濃緑の外衣の裾がはらりとトゥルドに風を送った。しなやかで軽そうだ。トゥルドはゆっくりと立ち上がって、長身を包む風変わりな外衣を眺めた。両肩に掛かる二枚の布を中心で接ぎ合せ、右の肩口を弓の邪魔にならぬように折り上げ、胴中で縛っている。トゥルドの羊毛のマントよりもずっと薄く、そのくせ強靭な腰と張りがあった。地には絡んだ糸の縞目が入り、柔らかな光沢がある。これもまた完全ではなくとも絹か。トゥルドは手綱を取り、丈高い草の中の踏み跡を注意深く道まで戻った。
杞憂だった。コセーナやエフトプを回るおれが小賢しいことをしない様に、トゥルカンが見張りをつけているかもしれないと思ったのだが。それに、コタ・シアナを西に渡るのを嫌いイナ・サラミアスに籠っているというイーマがあんなに上等の鋼の短刀を持っていれば、トゥルカンが与えたと思うじゃないか。実際、イナ・サラミアスとの交渉でトゥルカンが鉄を土産にするというのはありそうな話だ。
トゥルドは、晴れやかな秋の陽光の下で緑から黄金へと色づきはじめた“緑郷”に目を向けた。
わずかばかりの製錬された鉄、それを土産にしてイナ・サラミアスと交渉の道を開けばトゥルカンは何を手に出来る?すっかり乏しくなった、イネ・ドルナイルの製鉄の燃料、すなわちもっと広大な森林、果てにはその下に眠る鉱脈―――土産に持って行く鉄など何ほどのものであろう。やがては姉神自身の身からいくらでも、鉄が、金、銀、銅さえも取れるだろう。
噂は去年から出ていた。冬至の饗応の宴の折、シギルはニクマラ・ガヤの商人が献上した、いくぶん稚拙な造りだが白地の滑らかな水瓶を気に入り、早速、酒を注ぐために下ろせと命じた。ところが侍童がそれを洗いに持って行こうとすると、トゥルカンの側近、あの少し頭のおかしいサザールがしゃしゃり出た挙句、水瓶を落として割ってしまった。シギルは粗忽に立腹したが、トゥルカンはサザールに片付けるように命じた。大きなかけらのひとつが炉の中に飛び込んでいた。派手に割れたものだ。だが、その後のサザールの行動はもっと奇妙だった。瓶の残骸を膝の上に抱え込んだまま、うなだれて炉端にしゃがみ込み―――主に叱られた忠犬よろしくと皆が笑っていたが―――そのまま宴が果てるまで火の中のかけらを見つめていたのだった。後日、サザールはトゥルカンにたっぷり絞られたという。だが、本当のところはどうだか。シギルのいないところでサザールがトゥルカンに何かを進言したらしい、と何人かが噂していた。噂の中身には例の、イナ・サラミアスの山が光るとどうのという戯言もたっぷりあったわけだが、まともに耳目を集めた話というのは、イナ・サラミアスには鉱脈がある、というものだった。
年が明けて、シギルはコタ・イネセイナに新しく大規模な耕地を開き、民の暮らしを向上させたいとトゥルカンに提案した。トゥルカンは誠に結構でございます、と応えつつ、水路を引く工事の困難さ、資材の調達の難しさなどを滔々と説き、にこやかにイネ・ドルナイルの鉄ももうかつてのようには取れないので、と言い添えた。ただ、西の方を見ればそうだということで、東にはあるやも知れませんな。シギルの顔が気の毒なほど色を失った。実際、鉄の取れるのがどれほどだとしても、シギルの企てのために分けてやるつもりは無いと言ったも同然だったのだ。その後トゥルカンはそこにいる誰彼にとも無く、イナ・サラミアスという地にも人は住むというが支配する者はいるのか、だの、そこに住む人間が交易に境を超えて来ることがあるのか、だの、交渉を持ちかけても言葉は通じるだろうか、などと戯言をかけては楽しんだ。その直後、コタ・レイナ州の租の取り立てに失敗した男の代わりに誰を監督官に任命するかという話になり、シギルはその場ですぐにおれを手招き、指輪を差し出しながら言ったのだった。
「トゥルド、気楽な独り者はもうお前だけだな。だが、美人を見つけたら、いいか、人より先に口説くんだぞ。」皆がいる所で言えたのはそれだけだった。
トゥルドは馬を止めた。あのイーマの男はもういないに違いない。そう思って振り返ったが、男はまだ道の上に見えた。トゥルドは狭い道に苦労しながら馬首をめぐらし、早足で男に追いついた。男は特に驚く様子もなく足を止めて振り向いた。トゥルドは馬から下りるなり言った。
「イナ・サラミアスは既にトゥルカンと交渉を始めてはいないでしょうね?」
「おれが知ろうか。」
「トゥルカンとの交渉はいけない。」
「なぜ」
「なぜって…。」
イーマの民が護る地に押し入り、森林と鉱床を手にしようというトゥルカンの企みが汚いからか?シギルの方が公平な交渉が出来るとでも?いや、そんなことよりも―――トゥルドは首を振り、相手に挑みかかるように言った。
「なぜって、イナ・サラミアスと交渉の道を開くのはシギルだからです。」
男は楽な姿勢で腕を組み、穏やかに見返してくる。シギルよ、あなたの願望がどんなに見通しに欠けた虚しいものであることか。あなたに代わって他人に口にしてみて馬鹿さ加減がよくわかるというものだ。だが、男はややあって先に口を切った。
「トゥルカンがイナ・サラミアスに求めるものは何か?」
「森林、鉱床、使役人」トゥルドは即座に答えた。男の目が険しくなった。
「では、シギルは」
「分かりません」トゥルドは正直に言った。
「ただ子供の頃から言っている。自分こそが誰よりも先に行き、イーマと交渉するのだと。」
ぴくりとも動かないその顔が次の瞬間、憤激するか、笑い飛ばすか、いずれにせよ、自分を片付けた後、この男が故郷に帰ってすることは政に与る者に進言することだろう。より強固に国を閉ざし、いかなる西からの交渉事にも応じてはならぬ、と。しかし、男は一歩近づき、トゥルドをじっと見据えて言った。
「なら、シギルに伝えてくれ。友が欲しいなら鉄を一貫目ほど用意してくれ。こちらからは一反の絹を用意しよう。」
横臥するイナ・サラミアスは男の後ろに峻厳と聳えている。
独自の鉄でなければならぬ。トゥルカンから自由な者の手でつくられねばならぬ。
「そうだ―――」
シギルがイナ・サラミアスとの交渉を成立させ、鉄と絹の交易を実現できれば、第一家のわずかな所領からの収益の他に、シギルに相応しい政の財源となり得る。
「―――しかし、どこから鉄を手に入れたものだろう。」
トゥルドは呟いた。男は左腰に手をやった。外衣の脇口から短刀の柄がのぞいた。木を削って磨いた極めて簡素な造りだ。
「あなたの短刀を作ったサカサがどこにいるのか私は知りません。」
「ベレ・イネからコタ・イネセイナに流れ込む大きな川はふたつ。ひとつはコタ・バール、ひとつはコタ・サカ。」男は言った。
「コタ・サカの上流は険しく、西側のまがった尾根が障壁となってチカ・ティドの側からは隠されている。おれはサカサの鉄造り親子に会うまで四年かかった。だが、あんた自身が運を試すというなら教えてもいい。そこには炉を築く粘土、鞴の革となる山羊、入用なものは近くに揃っている。砂鉄は上流ほど良い。丸い小石が長い面を並べている窪地が流れに沿っていくつも見つかるだろう。川が流れを変えた跡なんだ。その下を掘れば、濃い灰色の砂が出る。その下からさらに赤い艶のある褐色の砂が出てきたら、水に溶いて樋に流し、さらに沈むものだけを選ぶんだ。炭になる松は尾根沿いにずっとあるし、下流の森には栗やナラもある。炭と砂鉄を交互に入れ、熱した強い風を当てながら三日三晩。これに劣らぬ鋼が取れる。」
男は、鞘から短く柄を上げて白刃を見せ、鯉口にぴたりと落とした。
「途方もない話だ。」トゥルドは言った。「到底無理だ。」
「仕方がない。」男はあっさりと答えた。
「トゥルカンがイナ・サラミアスを薪と金と奴婢の山だと考えるなら、体の良い理由をつけてわずかな金物を餌にイーマに道を開かせ、ゆっくりと隷従させて数年後にはすっかり手の内にするだろう。そしてアツセワナは富む。シギルにもあんたにも悪い話じゃあるまい。」
こうして人の自尊心をちくりちくりと刺してくるくせに、この男は故郷の行く末を案じてはいないのだろうか。
「シギルが頑張って鉄を造ったとしましょう。それでも片方だけで取り引きは成立しませんからね。」
トゥルドは憤然と言った。
「おれは絹を用意する。あんたが来ようと来まいとな。」
男はイナ・サラミアスに顔を向けた。その冷静な表情に故郷への思慕を伺わせるものは無かった。
高く雲を天上に払い、畳なづく三つの峰が襞をなし、腕をなし、西の方へ下る稜線を奥へと重ねている。その最も遠くに、万年雪を頂いたベレ・サオ、女神の神々しい額がある。
ベレ・イネで鉄を造ることもそうだが、この広大な姉神の山にひとりの男を訪ね歩くのも途方のないことだ。
「私はトゥルド。先王アケノンの執事の息子で、シギル、シグイー兄弟とは幼馴染です。私はただひとつ自由に動けるシギルの手足、シギルの目なのです。」
トゥルドは、深い眼窩と高い鼻梁が鷲のような輪郭をなす横顔に尋ねた。
「鉄が出来たらシギルの友トゥルドは誰を訪ねればいいのですか。」
「ハルイ―だ。」男は言った。「ヒルメイのハルイ―」
「タシワナで偶然出会った若者ふたりが、主君の威信と故郷の命運をかけて何とも大雑把な約束を取り交わしたんだ。」
トゥルドは、卓の上から水差しを取ると杯に注ぎ、愉快そうに干した。
「ハルイーはその場でさらに詳しいことを教えてくれた。鉄造りの居所はもとより、彼らに会えなかった場合、何を材料とし、どうやって炉を築き、どの手順で砂鉄を入れ、どのくらい風を送るかをね。私はコタ・レイナの郷の石高を記録するはずだった帳面に、彼に言われるまま詳細に図を描いた。炉の下の深さ、炉の大きさと形、鞴の羽口の位置や傾き具合まで。どんなに些細なことでも欠くべからざる条件だった。長年チカ・トゥリで鉄を造って来た者でさえひとつでも欠かせば鉄は出来ぬ。サカサはバルサと同じことをやるようで、気をつけなければならないことがあったんだ。」
トゥルドは少女に振り向き、いたずらっぽく目配せした。
「青菜と根っこを一緒に茹でてはならないようにね。」
「可哀相な末っ子のサカサは」シアニは、糸を紡ぎながらすまして答えた。
「パンを作るのに大変苦労しました。赤砂をよく洗って選り出し、土釜で煮沸かしました。―――それでふつうはどろどろの灰汁を捨ててから、殻を打ちかいて落とし、焼きながら打ちこね、ゴミを叩き出してパンを作るのですけれど―――サカサは灰汁と一緒にどろどろのスープになるのでパンにはできませんでした。」
「物知りな子だ!」トゥルドは、驚いてロサリスを見た。
「まさに、バルサの製鉄をしか知らぬ者は赤砂でパン―――つまり鋼が作れるとは知らなかったのだよ。サカサは鋼の混じった鉧と鉱滓とに分かれず、鉄を取り出すのは困難だったのだ。だが、ハルイーの言った通り、最後には出来たのだよ。だけど、お嬢さん、その順でパンを作ってはいけないよ。」
「存じております。」シアニは会釈した。
「こうして微に入り細を穿って教わったものの、当地では我々ははじめから躓きっぱなしだった。先に言ったように私の仲間は木を切ったこともなければ土を掘ったこともない者ばかりだったからね。シギルが私のために出来ることは多くなかったが、それでも鉄山で働いたことのある年寄りをひとり見つけてくれた。第一家の台所で火焚きをしていた爺さんだったがね。この爺さんはめっぽう働いた。コタ・イネセイナを渡れば立場は逆さ…火焚き爺は檄を飛ばし、道楽息子どもは走り―――真っ赤な燠をうち叩きながら炉の底に込めるのは熱かったな―――どうにか炉を整えることは出来たのだ。だが、鋼は出来ず、そう、鉄とごみと粘土が離れていないどろどろのスープばかりだった。ハルイ―が教えてくれた鉄造りには会えず、半年ばかり苦戦が続いた。」
「その間、トゥルド様のお仕事はどうなっていたの?」シアニは行儀も忘れて尋ねた。「イネ・ドルナイルは遠いんでしょう?コタ・レイナの監督官をしていたらこっそり行くのは無理じゃないかしら。」
「トゥルド様がコタ・レイナの監督官をされたのはその一年きりだったと聞いております。」
ロサリスは笑いを押し殺しながらトゥルドを見た。
「一年?いや、その時限りだったよ。」トゥルドは笑って言った。
「コセーナに馬を返しに行き、シグイーにタシワナでの出来事を話すと、シグイーは今後コセーナがタシワナの租を肩代わりする、と言ってくれた。その上で、私にシギル宛の手紙を言付けたんだが、どうも中身は、私が粗忽者で使い物にならないので監督官から解任して他の男を寄越してくれ、というものだったらしい。」
「どういうこと?」シアニは、紡いでしまった糸を片付け、籠も仕舞うと、すっかり空になった手を後ろに組んで尋ねた。
「なあに、仕事に就きやすくしてくれたんだよ。」トゥルドは、得たりとばかり少女に振り返った。
「私がアツセワナに戻った時には、トゥルカンは既にイナ・サラミアスと交渉する心づもりをしていて、シギルにも計画を話し始めていた。トゥルカンの目が完全に東に向けられたことで、私とシギルは少しく西では自由になったんだ。むしろ私を全然違う方向に歩かせ、イナ・サラミアスの開国に大人しく関心を寄せることでシギルはトゥルカンに手なずけられつつあると装った。
「私はシグイーの手紙のこともあって、アツセワナに戻るとすぐに任を解かれ、南の水運の整備事業に向かわされた。これもコタ・ラートとコタ・イネセイナ北部の水運にしか用のないアツセワナには関心の薄い土地だ。殊にエフトプの南から大きな湖にかけては迷路のような航路が入り乱れていてね、コタ・レイナの河口の市、ピシュティに商いにやって来るニクマラ・ガヤ、エフトプ、そして一部のアツセワナの商人たちの努力によって保たれていたんだ。私の仕事はその中で有効な水路を見極めて一本の水路を開くという名目だったが―――。とにかく資材もないのだからね。ただ隅でくすぶっていろという意味さ。
「今でも南部の行き来は陸路を交えて舟を乗り継ぐ。コタ・シアナ、クマラ・オロ、コタ・イネセイナと単一の舟で移動できる者がいるとすれば、もはや故郷から去ってしまった水郷、コタ・シアナの民か、あるいは彼らと同化したイーマの水守族だ。だが、この時は彼らはまだイナ・サラミアスとその前に横たわるコタ・シアナにいる。
「実際は私は一日たりとも仕事はしなかった。数日後には同様の不平分子のあぶれ者の仲間たちとイネ・ドルナイルに渡った。後で少しづつシグイーから村をつくるのに必要なものが送られてきた。農具、工具や小型の家畜。そこでまず、コタ・サカを遡った森の中の高台に基地を作り、山の中の窟に隠れているというチカ・トゥリの父子を探すとともに、手探りで鉄を造り始めたんだ。」
「それで―――どうなったの?」シアニはそわそわして尋ねた。
トゥルドは苦笑してため息をつき、ロサリスは振り返った。
「シアニ、お客様はお疲れよ。それに今晩にはコセーナに戻ってお休みになるからそろそろ支度をなさらなければ。」
「いやいや」トゥルドは手を振って立ちあがり、身体を伸ばすと、開け放した扉から丘を取り巻く緑の盛りの木々を眺めた。
「よくここまで回復したものだ、この丘も、あなたも。そして私はまた昔のようにコセーナとエフトプから支援を受けることになりそうだよ。」
「父の代からずっと助けていただきましたもの。」
シアニは、トゥルドが父親のようにロサリスに答えるのをしげしげと眺めていた。王様と友人だった人が母さんと親しげに話している。後でよく考えてみなくては。
「お嬢さん。懐かしい話が出来て愉快だったよ。だが、母上が仰るように私はもういかねばならないし、私の話は一区切り来たようだ。ハルイ―とは後でまた会ったが、彼は極めて話が下手だったから、アツセワナの使節が翌年イナ・サラミアスを訪れるまでの詳しい話はしてあげられないよ。シギルもハルイ―とそう変わらない程話は下手だった。が、彼も娘にならもっと詳しい話を聞かせたかもしれないね。」
トゥルドはそう言ってロサリスに目配せをした。
「さあ、どうでしょう。」
ロサリスは首をかしげ、時折見せる虚ろな微笑を浮かべた。
「誰に聞かずとも私には見えるようです。ニアキでその秋に行われたであろう集会の様子が。ニアキではこの年以来存亡を賭けた協議が何度となく持たれたことでしょう。」
「イーマ達が彼ほどの危機感を持っていたかどうか。彼らにはひとりの人間が今の身の丈以上の所有を主張するということが分からないのだ。一方、我々アツセワナの者はそこにあるものの所有者を決めないという不安定な状態を好まない。」
「シアナの森も、北の森も、南の森もどこの郷の領土でも無いわ。」シアニは驚いて言った。
「コタ・レイナ州では。アツセワナでは境界は隣の地所との間にあるものなんだ。アツセワナの者は、イナ・サラミアスを統治者のいない土地と見、イネ・ドルナイルに代わる資源の宝庫だと見ていた。シギルでさえそう見ていたのだよ、結局はね。私もだ。」トゥルドは少女の目を受け止め、うなずいた。
「ハルイ―は故郷に冷淡なようでいて、イーマの不所有の美徳ゆえの弱点を見抜いていた。彼は民の暮らしを良くするほんの少しの鉄を手に入れるために、故郷の限られた資源から代価として絹を見出したが、トゥルカンがもっと大きな宝に気付いた以上、交換ではなくむしり取りに来るだろうと気付いてしまった。シギルとの交易が成り立てば、蚕のために森を守ることを名目に山の掘削を阻止出来るかも知れぬ、という薄い望みがあったろう。かぼそい望みだ。シギルの鉄が来ようが来まいが絹を用意する―――それが彼の約束だった。」
ロサリスはトゥルドを見送りに立って戸口まで行った。トゥルドは、がっかりしながら大人しくロサリスの後ろについて来たシアニに親しげな目を向けると言った。
「鏡が欲しいと言っていたね、ロサリス。」トゥルドは隠しからつやつやした平らな楕円の石を取り出した。
「コタ・サカの村の跡で見つけた。ベレ・イネの山肌で見つかる黒曜石だが、村の女たちはそんなものを工夫して鏡の代わりに身繕いしたのさ。」
トゥルドは掌に載るほどの石をシアニに手渡した。
バギルが馬を引いて来、ロサリスとシアニは小径の手前までトゥルドを見送った。初夏を迎えて枝葉のびっしりと繁った小径は狭く、並んで通る馬とトゥルドの両脇に次々と細枝が当たり、ぴしぴしと音をたてた。
「ああ、正にエファレイナズの木だ。」
トゥルドは上機嫌で独りごちた。「しなやかで瑞々しく豊かだ。ロサリス、コタ・イネセイナの向こうでは同じ名のつく木でも随分と違う。木は成長が遅く、硬く、葉は小さく少なく、厚い。」
「年々よく繁って、今じゃ噴火の前と変わらない程だ。」バギルが揚戸に絡んだ小枝を払いながら答えた。「ただ、こちらが年取って手入れが追いつかないので。」
トゥルドは揚戸をくぐり、道に出るとロサリスに言った。
「明後日コセーナを発ってオトワナコスを訪ねるつもりだ。」
「ご出立の前に伺いますわ。子供たちの様子も見に行きたいので。」
トゥルカンが軽く手を上げて応えるのが、下ろされてゆく揚戸の向こうに見えた。
夕食後、日足の長くなった庭で、明るい空と穏やかな草木の揺らぎを楽しみながら、シアニは幾度となくトゥルドにもらった黒曜石のかけらをかざして眺めた。ロサリスがそのまま持っていても良いと言ってくれたのだ。母さまは自分のをひとつ持っていて、あなたにあげたいと思っていたのだから。
鏡は小さく、離さないと顔が収まらず、近寄せるとあちこちばらばらにしか映らなかったうえ、色合いはどうもよく分からなかったが、丸い顔にぱっちりとした目、小ぶりに整った鼻とどこをどうしても笑みの残る唇、額から頬に沿ってゆるくうねった髪の房が見て取れた。
「あなた、悪くないわ」
シアニは鏡を隠しに仕舞い、上から軽く叩いて独りごちた。
藍色を帯びた空の下で丘を囲む木々は影を帯び始めた。露台の端に掛けるシアニの前に、モーナはニレの幹にもたれるようにして立っていた。幹に沿わせた首と肩に従って顎がやや持ち上がり、いつもの怖いように黒く澄んだ瞳はこの時は気だるげな睫毛の影に静止している。
不公平を見つけたわ―――シアニは口を一寸とがらせた。私はあと五年経ってもモーナのようにはならない。
「ニアキの集会を知ってる?」
シアニは少しばかり挑発するように話しかけた。自分より小さい子にこんな話し方をするとロサリスが叱る。経験の無い、どうにもならないことで気後れさせるのは可哀相でしょう?でも、モーナは本当はとても長生きなのだし―――ただ、もしかしたらニアキにだけは行かなかったかもしれないけれど…。
モーナの瞳が面白がるように見返した。
(じゃあ、あなたは何を知っているの?)
母さんが話してくれることしか知らないわ。母さんだってイナ・サラミアスに行ったことはないのかもしれない。でも、お話の中にはいつも私の知らない面白いものがぎっしり詰まっていて、間違っていても、嘘でさえ、そこにあるものはいつか本当の姿を現していく。サカサのお料理の手順はパンだとでたらめだけど鉄なら正しい。ドルナイルが言ったように、赤砂は本当は一番たくさんあるのだ。
「ニアキの集会では女の人は出てはいけなかったんですって。せっかく秋に帰って来て夫と会えても」
モーナは横を向いた。気に入らないみたいね。いいわ。私だって知らないのだから。ただね―――
「見てみたかったなぁ」シアニは露台の端に両手をついて靴を脱いだ素足を跳ね上げた。
「集会の始まりの礼拝と、若者の集会、大人の集会が終わった後の、男の子と女の子の歌垣遊び―――。」
イナ・サラミアスの三つの峰の中の峰、長手尾根が見下ろすなだらかな北の山腹に、イナ・サラミアスの心臓と呼ばれるニアキがある。
黄金から赤銅色へと紅葉した山肌は日没と共に峻厳な山容のみ残して陰に入り、空は濃紺に染まって行く。やがて星々の灯りはじめた空と山影のもとに長々と角笛の音が響く。
広場には赤々とかがり火が焚かれ、腰掛の長い丸太が二重三重の矩形に並び、周囲の家々から集まって来る男たちは、紋様を縫い取った鉢巻きに色とりどりの外衣も美々しく正装している。
雪のように白い髪の水守の長老が中央に進み、三方の峰を拝し、開会の宣言をする。
会議は若い者から始まる。“日に仕える”の主幹が議長を務め、水守、土守、風見の主幹がそれぞれの部族の若者を順に指名し、意見を取りまとめる。夏に見回った森の様子や問題の対処、民の在りよう、行く末についての協議が尽くされる。
末席で緊張しているのは初めて参加する成年を迎えたばかりの者。さらに外側の木陰には傍聴のみ許された少年たちが膝を抱えて座っている。その中には後にイナ・サラミアスの滅亡を見るヒルメイの長ガラート、タフマイの長ヤールもいる。
若者たちの出した見解を詰めるために、今度は彼らが退いた席に代わって入った大人たちが協議を始める。四部族の長たちは、会議を通して臨席し、最後に裁定を下す。席を退いた若者たちも木陰で静かに協議の成り行きを聞き続けるが、時折彼らがちらちらと気にするのは、娘宿のある一角だ。会議が終われば彼らの裁量で娘たちと歌を交わして遊ぶことが出来るのだ。
しかし、その日の協議は大人たちの会合で最後に出された議案で紛糾した。若者たちは立ち話をやめて聞き耳をたて、少年たちは眠気も消し飛んだように侃々諤々たる様に目を見張った。
昨年、毛皮や細工物に交えてオルト谷の土で作った水瓶をピシュティの交換所に持って行ったことについて、タフマイ、ウナシュの男たちは長老たちと口論になっていたが、この夏はピシュティのなじみの仲買人を通さず、“河向こう”の上流域に単独でやって来ていたアツセワナの商人と直に壺を交換したのだという。その商人が彼らの王が国主同士の交渉を望んでいると持ち掛けて来たことをタフマイのオコロイが明るみにした。もともと長たちの承諾の無い交易であったうえ、突如興った“河向こう”の国に警戒心を抱いていた年寄りたちが異論を唱えたのであった。
タフマイの老いた長老アーサタフの逡巡を押しやるように、その甥であり次代の長と目されるオコロイは傲然とアツセワナと直接に取り引きする利点を説いた。
昨年エフトプの商人に買い叩かれた壺をアツセワナの商人は十倍もの値の鉄と塩で交換してくれた。話にならない。どちらが価値を知っているか一目瞭然だ。すぐにアツセワナと取引するのを待てというなら待ってもいい。だが先ずピシュティの奴らに彼らの提示した取り引き値を言って揺さぶってみるといい。
「違うぞ、オコロイ。エフトプの商人は正しい値をつけられるから相手にしないんだ。悪いがオルト谷の土は良くとも壺の出来にそこまでの価値は無い。」
少年たちのいる木立ちの脇からひとつの声が遮った。その男は外衣もつけず、自ら選んだ末席のさらに下という場所で集会の様子を見ていたのだ。
ハルイ―、集会の準備をして席に着け。ヒルメイの主幹である兄がたしなめる。
無作法者を入れるな。大人たちの中から、中でもウナシュの者たちから怒りの声が上がる。あいつに見せてやれ、我々が交易で得た品を。今まで壺以外の何を積んでも刃物ひと振りにもならなかったではないか。
長老アーメムクシが手を上げて騒ぎを静めたが、オコロイは相手の姿を認めると軽蔑したように言った。
「無礼も甚だしい、ハルイ―。集会の作法も学ばず“河向こう”をさまよっていた者が突然帰って来てどの口をきく?そもそもお前は鉄が欲しくて飛び出したのだろう。そして民に面目が立つほど手に入らなかったのだ。顔向けできないから難癖をつけて失態をごまかすのだな。」
男は胸の内で事をより分けるように腕を組んで押し黙った。あいつは狡い。人々は囁きあった。あの目を見ろ。
ヒルメイの主幹が弟の様子を見て長老に頭を下げた。あのように手順をわきまえぬ者ですが、弟は河向こうを良く知っています。故なく口を開いたわけではありません。
アーメムクシは男に振り向き、少年を諭すように言った。
「ハルイ―、発言する時は訳を終いまで話すのだ。エフトプの商人は正しい値をつけられるというのだな?見てのとおり、我ら年寄りと若い者の間で意見が割れておる。両者に必要なのはアツセワナについての知識だ。そなたがアツセワナが正しい値をつけないと思うならその訳を話してくれ。」
男は居並ぶ人々が口を閉じるのを見届けるとおもむろに口を開いた。
「私は十三年間“河向こう”にいた。己ひとり強く、己ひとり鉄を手にしたかった。そしてそれを叶えるにはアツセワナの人間の考え方を学ぶのが一番なんだ。強いことは良いことだ。これは皆にも分かると思う。が、所有する者は優れた者であり、強い者が独占的に所有することは正しく、そうなることに力を尽くすことは是とされる。嘘をつくことも含めてだ。」
一同は顔をそむけ、男は冷静にその様子を見守った。
「エフトプでもアツセワナでも壺を見る目は変わらない。ただ、アツセワナはより欲しいもののために壺に高値を付けるのを厭わないのだ。」
「壺より欲しいものとは何か?」アーメムクシは問うた。
「交渉の糸口」男は答えた。
そら見ろ、ひとりの者が言いかける。
「そうだ。その事は何ら悪いことではない。また、彼らも気前が良かろう―――手に入れる前だからな。金なと銀なとくれるかもしれん。いずれ何倍にも返ってくる実だからな。アツセワナが欲しているのはイナ・サラミアスの森だ。そしてその下にある鉱床。」
長老たちの面は厳しく凍り付いた。オコロイの後ろで耳をそばだてている若者たちは、思わず仲間を盗み見、うつむく者もいる。しかし、オコロイは冷ややかに言った。
「よし、ハルイ―、ここにも金や銀があると言うんだな?何故おまえが造らない?」
「あんたに冶金の話をしてもらちがあかない。」
男は微かに苛立ちを見せた。オコロイを相手にする時にはいつもより余分な努力が要るのだ。
「一振りの刃物を作るにはオルト谷の半分が跡形もなく崩される。おれが躊躇するかと言えばそうでもない。が、アツセワナにすれば山は女神ではなく鉱物の混じった土塊だ。そしてイーマは鉄の作り方も知らぬ蛮人で、資源の眠る土地を所有するにふさわしくない者なのだ。排斥しても構わぬ者なのだ。」男は手を振って沸き起こった怒りの声を遮った。
「アツセワナの思惑を知りたいというなら私がそれを知っている。彼らは金銀かわずかな鉄であんたたちの気を引き、イナ・サラミアスに入り込もうとするだろう。木を切らせてくれと言い、鉱物を得られると説きつけ、やり方を教えてやると言ってあんた達の上に執政を置くだろう。その頃になって、初めの心積もりがどうであれイナ・サラミアスは使用人の身に落ちたことに気付くだろう。彼らがイネ・ドルナイルの民をどんな風に追い使っているか、あんた達に見ることが出来ればな。」
長たちは互いに近づいて話し合った。皆は邪魔をせぬようにその場を動かず、大声の議論も控えていたが、オコロイと、ウナシュ、タフマイの交易を受け持つ男たちは時折囁きあいながら、協議の埒外の場から彼らの企てを邪魔した男、ハルイ―に険しい目を向けた。
長たちがもとの場所に戻るとアーメムクシは言った。
「オコロイよ。アツセワナの申し出に応じることは出来ぬ。既にそなたが己の一存で約束したのであれば、イーマの民の意向としてそれを解消してくるのだ。そして以後は以前のとおりにピシュティのみで交易せよ。」
長老たちは防衛と監視を担当する主幹たちに後を任せ、長引いた会議から引き上げて行った。成年以下の少年たちは帰るのを許され、席の外には、ガラートとオコロイの息子ヤール、そしてハルイ―が残った。
「ハルイ―、その場所は良くないぞ。お前は長老に意見するほどの男だろう?」
オコロイは強いてくだけた口調で声をかけた。ヒルメイの主幹、兄のハルイルも促すように目を向けたが、ハルイ―は動かなかった。
残った男たちは南北の物見に配置する者やコタ・シアナ沿いを見張る者を振り分け、オコロイは率先して自分と数名の者を警備の日の中に入れた。会議が済むと皆は言葉少なに引き上げ、若者たちは名残惜しげに火の気の消えた娘宿の方を眺めやりながら若者宿の区画へと帰って行った。
「オコロイは折衝を続ける気だな。」
ハルイルは、ガラートに燠火がすっかり消えたか確かめさせながら弟に声をかけた。
「人を見下し欺く者が、他人が自分に仕掛けるとは思わないのが不思議だな。」
「ハルイ―、それ程アツセワナの者は危険か」
「彼らは親切なこともある。」ハルイ―は長い放浪を思い出して言った。「羽振りが良い時は気前もいいし、相手が自分を脅かさずしかも有益ならば親切だ。兄上、あんたや長老たちには思いもよるまいが、おれは辛抱次第で相手の懐にいながら生きのびることも出来ると考えている。」
ガラートが炭を散らしながら振り向いた。ハルイルは穏やかに言った。
「それは少し大げさじゃないか?」
「アツセワナは相手が劣ると見れば組み敷いてくる。これは言った通り、彼らには正しいことだからな。イナ・サラミアスはほとんどの事において遅れている。そして我々は単独でアツセワナに追いつくのは無理だ。遅れているもの、そのひとつは鉄だ。おれは本当に、オコロイの何倍も鉄が欲しい。鉄こそは使って生きる金属だ。“河向こう”で鉄はどれ程使いこなされていることか。こうして守りを固めたところで、いざ事を構えても石の鏃では話にならないんだ。」
「お前の言うように、私にはサラミアの衣に手をつけるなど思いもよらないが」ハルイルは言った。
「アツセワナの手を借りて安寧をはかる道があるなら、考えを聞こう。」
ガラートを若者宿に帰らせ、ハルイルは弟と家に向かった。ハルイ―は幼い子のいる兄の家に入るのを遠慮し、裏手の谷から下る沢筋に少し降りて話した。
オコロイはアツセワナの商人から国主同士の交渉と聞いたそうだが、国主とは宰相トゥルカンの意向を指す言葉だと思われる。トゥルカンは明確にイナ・サラミアスに鉱床があると認識しており、イネ・ドルナイルに代わる鉱山を開くことを目的としている。
「相手がそうと的を定めたものをどう変えられよう?」
ハルイルは驚きながらも悪い見通しを受け止めて言った。
「若い王シギルはトゥルカンとは別に我々との交渉を望んでいるらしい。」ハルイ―は淡々と言った。「本当のことなのか、真意がどこにあるのか覚悟がいかほどのものなのかも分からん。が、彼が王ならその決定、その言葉はいくらかは力を持つはずだ。シギルにイナ・サラミアスの地を守らせるのだ。」
「トゥルカンと異なる交渉相手とも思えぬ。」
「シギルには違うものを与える。そしてそのため森林とその下の土には手を触れさせぬ、と約束させる。」
「それは何なのだ?」兄は重々しく尋ねた。「シギルに何を与え、代価は何になる?」
「絹、そして鉄」ハルイ―は答えた。
「絹は糸を切らずに織り上げたものだ。虫を育てるには森が欠かせぬとして全土を守らせる。そして代わりに鋼をもらう。イネ・ドルナイルのコタ・サカの鋼だ。」
「して、それをどうやって用意するのだ?」兄は厳しく言った。「イナ・サラミアスの我々にとて自由にはならぬ絹を。紬でなく糸に切れ目の無い絹など誰につくれる?サラミアは蛾が糸を切って羽化する前に口中で糸をほぐすというが、真似を出来る女はいない。」
「繭を茹でるといい。湯の中でほぐれてくる。」
「よせ、もういい。」
兄は首を振った。
「神蚕は女神の子ともいうべきものだ。我々の外衣をつくる小さい繭、小童もだ。絹は人が手を触れられぬ宝だ。」
「兄上も年寄りたちも肝心のところで話が進まないな!」
ハルイ―は失望して声を大きくした。
「オコロイならむしろそんな躊躇もすまいよ。あいつなら虫も殺し、木も切り、地も切り与えるだろう。ただ相手が自分を騙すだろうということだけが分からぬ馬鹿だ。だが兄上、あんた達は相手に欲望があることすら分からない。相手の欲を見極めて駆け引きせねばならない時に。」
「分からないではないが―――」ハルイルは腕を組んで考え、弟に向き直って言った。
「それで絹が出来たとしよう。代価となる鉄はどこにある?シギルと絹と鉄の交易を成り立たせ、イナ・サラミアスの森林を守らせるとしても、その取り決めはトゥルカンが長老方を説きつけるか、あるいは誰かを秘かに籠絡して鉱山を開く流れをつける前にやりおおせねば、何ともならんのだぞ。」
ハルイ―は、わずか星明りの中で見分けられる兄の輪郭の、まじろぎもしない目元を見返した。いかに自分の意思が強固で望みを賭けていようとも、その事だけでは民の護り手として一分の判断の狂いも許されぬ兄に対する答えにはならない。ありのままの事を告げるしかない。
「シギルも未だ己の自由になる鉄をつかんではいない。」
ハルイ―は拳を握りしめて、足元に沸き立ちわだかまる水の渦に目を落とした。
「―――母さんに聞いたことだけど、翌年の夏にはアツセワナの使節がやって来たんですって。コタ・シアナの北の岸辺まで。その時はまだ人が住み着いてはいなかったけど、アタワンという丘の近くよ。そしてもう少し下にはコタ・シアナの中州“誓約の州”がある。この時はまだこう呼ばれてはいなかったけど、この中州まで出向いて、長老たちはやって来た使節と対面したの。」
シアニは木の下に腰を下ろしているモーナに言った。夜風に足が冷えてきたので、靴の中に両足を落とし込むと、露台の端からお尻がすとんと落ちる。もう少し足が長くなるといいな。シアニは掛け直しながら思った。
「オコロイは長老たちの決めたことを守らなかった。何度もアツセワナの商人たちと会ったに違いないわ。だって、コタ・シアナの北の方の見回りは彼の仲間がしていたし、使節を取り次いだのもやっぱり彼だったもの。ハルイーの他はイナ・サラミアスの誰も気付かなかった。サラミアの目を持つ巫女はどうだったのかしら―――」シアニはモーナを見た。
「ベレ・サオの高みからすべてを見ていたのかしら?それとも、見るのをやめていた?手のひと振りが山を動かし、怒りが嵐をおこすのを恐れて、人を気に掛けるのを止め、蚕の世話だけをしていたの?」」
モーナは目を地に落とし、ただ微笑んでいる。怖いほどの静寂だ。露をいっぱいに含んでうなだれた花がいつ振り切って起き上がるかというような静寂。
「私はウズラの雛が好きだわ。手の中に入れて遊んでいると時間を忘れるくらい。」
シアニは考えながら言った。「―――でも、結局放ってはおかれないのよ。次の仕事があるから。いつか誰かが呼びに来るわ。―――そうだよね?誰かが呼びに来たのね?」
ふいにモーナが顔を上げた。測りがたい遠くを見る目がふと、眼前に現れた何かに目を凝らすかのように、宙に焦点を止めた。大きく見開いたくっきりとした杏仁形の目と弧を描いた眉、少し開いた唇には、畏れと同時に憧憬の色が浮かんでいた。
驚いてその様子を見ながら、シアニは不思議な充足感が身内に広がるのを感じた。私が初めてモーナを見た時はこんな顔をしていたのじゃないかしら?…いいことだわ。ひとつ見つけた。
人は素晴らしいものを見つめる時、その人もまた美しい。
シアニは、やがてモーナのその目に睫毛の影が下り、何事かに備えるかのように口元が引き締まり、背筋が伸びるのを見守った。