表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
4/23

第三章 虫の語り 『深山の蝶』1

初めて読者となってくださった方へ

無から一を与えて下さり、ありがとうございます。服が着てもらえて初めて仕上がるように、物語の目標が確かになりました。

 これより少し大きな内箱が続きます。気長にお付き合いいただければ幸いです。


 小川の流れのもとは、遠くシアナのなだらかな丘陵から発したものだ。そしてその道すがらエファレイナズのそこかしこの小高いところから水を集めて森を走り、やがては幾多の小川と同じようにコタ・レイナへと注がれる。その途上にはハーモナの泉の発する清い流れがあり、その(かみ)ではかつてには及ばぬものの、清澄な水辺を取り戻したアヤメの茂みが、すくと長葉の上に高く蕾を掲げている。

 アヤメの株元にはなみなみと水がたまり、木杭と板で出来た堰の高さを越した水量だけが川下へと流れ落ちる。アヤメの対岸は火山灰を固めた煉瓦できれいに舗装されて水をまっすぐに堰まで導いている。煉瓦はそのまま堰の奥に作られた水田の縁をぐるりと囲んで川辺に戻って来る。堰の上の水口の煉瓦をひとつふたつ動かせば、溜まった川の水は田に流れ込んでゆるやかにめぐり、川下の排水から川へと出て行く。

 四年前に老人が残していった田だ。小さな田は保たれて、毎年一椀ずつ蒔かれる種が五升ばかりの収穫になる。今も田の上に仕切られた苗代に、かぼそい細葉を寄せあった薄緑の苗が育っている。田より高い位置に赤稗(トゥサカ)と蕎麦の畑があり、畑の境には百合の株が植わっていた。

 田に水が満たされると、夕刻の森の長い影に入った水面は涼しい風のさざ波を立てた。同じ風がカシの木立ちの若芽を撫で、ふさふさと茂ったエンドウの垣の濃い緑の葉と白い胡蝶のような花を揺らす。エンドウの垣の奥には、今は若い森番夫婦の住む煉瓦造りの小屋がある。小屋の煙出しからは炊ぐ煙が漏れている。

 シアニは、小屋の横手から小川へと流れ出ているせせらぎで手を洗い、鋏を取り出して、水辺に幾分花の残っているスイセンを切り取った。それから、沢筋を通るごとに微かに高鳴る甘く剽げた蛙の呼び交わす声を聞きながら、泉の北のイスタナウトの杜へ歩いて行った。

 杜に通うようになって四年。もどかしい自分の成長にも増してもどかしく、木は何年経っても幹が太くなる気配もない。それでも今年になって急に背の伸びだしたシアニよりもずっと高く、年々枝も増え、葉も大ぶりになってきている。 

 光輪のような産毛をまとった若葉を透かして、夕日の名残の薄桃色の空と、藍色のさした雲が切り抜かれ、宵の明星が見て取れる。その真ん中から不意に何か白い、木蓮の花弁ようのものが、若木の穹窿のもとに舞い込んで来た。それは奇妙に水平に空を切ってひとつの枝元に降りて来たと思うと、ひとつがいの羽根になって二、三回羽ばたき、シアニの目の前の葉にとまった。

 白い大きな蛾であった。薄墨色になりゆく木陰の中でもなおくっきりと白く、優美な翅脈いっぱいに広げた羽は七色を帯びてさえいる。羽根の末尾は細長く湾曲した飾り尾になり、潤んだ銀の斑紋がある。

 葉に降りた蛾は、のろのろと物憂げに歩いた。羽根の下の胴は丸く重たげで、三日月形の触角の下に円らな黒い目がある。

 シアニは両手を後ろに組んでそっと顔を蝶に近づけ、その目を覗き込みにっこりした。そして疲れた蝶を脅さないように気をつけながら背をかがめて杜を出、後ろの斜面から、古い番小屋の土台が残る段を通って丘を登って行った。

 十六人もの賑やかな夕食の間、シアニはロサリスにスイセンの花を見せただけで何も話さなかった。食事の傍ら小さな子ふたりに食べさせ、口を拭いてやり、洗い物を片付けてからも、ロサリスがファナら年上の娘たちと子供たちを寝かしつけてしまい、その娘たちすら繕い物の仕事の末に解放するまで、こまごまと室を整える風をしながら、黙って、ただ時々意味ありげにくるくると雄弁な眼差しを投げかけるのだった。

 バギルと妻が挨拶をして奥の部屋に引き取ると、ロサリスは残った火で湯を沸かし、煎り茶をいれた。

「シアニ、何か話したいことがあるのね。」

 注いだ湯の中で煎った種子や笹葉、花が浮かんで広がるのを眺めながらロサリスは笑みを含んで言った。

「分かるの?」

 シアニは両膝で椅子の上に乗り、卓の上に身を乗り出した。ロサリスは茶を漉して椀につぎ分け、シアニに差し出した。

「あなたは言いたいことがある時静かになるわ。そして行儀よく待つ。ダミルは関係のないことをいっぱい喋りはじめるわね。でも同じよ。私を見る目がそう言っている。」

 ロサリスは深い灰色の目でシアニを見返し、シアニはその目が自分の他にも父の目を見、また別の誰かをも見ていると感じた。時折母が見せるその表情は、他の者がいるところでは見せない、我を忘れたような、無防備な、そして不安を誘うものだった。目の色も形も違うが、まるでモーナのような、幻のような眼差しなのだった。モーナのような―――。シアニは弓形の触角と黒く輝く目、ほの白い羽色を思い出した。

「イスタナウトの木に大きな白い蝶が来ていたわ。」

 シアニは言い、ロサリスの目が強い興味を寄せ、さらに詳しい描写を求めて問いかけるのに気付いた。

「蛾よ。銀色の丸い模様があって、長い羽のしっぽがあって、眉と目がきれいだった。おなかが大きくて卵を産みそうだったわ。」

神蚕(しんさん)よ。」

 ロサリスは憧憬とも畏れともつかぬひと呼吸ののち言った。

「幼虫はイスタナウトの葉を食べて繭をつくるの。繭は絹糸になる。」

 シアニは幼いころに見た、ロサリスの長持ちに大切に仕舞われた織物を思った。

「母様の織った、あのきれいな布の?」

 ロサリスはかぶりを振った。

「あれは、桑の葉を食べる蚕。もっと小さくてインゲンのような繭をつくる。神蚕(しんさん)の繭から糸を作り、織ることが出来たのは特別な人よ。イナ・サラミアスが噴火する前は、コタ・シアナの向こうにはイーマが住んでいた。サラミアが生んだ四人の子、太陽に仕えるヒルメイ、水を守るクシュ、土を守るウナシュ、風を見るタフマイ、それぞれの子の子孫とされる四部族がイナ・サラミアスの心臓と呼ばれるニアキで協議をして政を行った。」

 幾度となく聞いた(くだり)をさらさらと唱え、ロサリスは椀を持って椅子に掛け、いつになく迷うふうに宙に目をやった。

 新しく話を始める時の前兆だ。シアニは物語の源泉の初めの一滴を逃すまいと卓に両肘をついて身構えた。ロサリスは促されて振り向き微笑んだ。

「このコセーナともアツセワナとも違う暮らし―――。草木鳥獣と人との釣り合いを守るために、イーマには結婚に厳しい掟があった。男と女は春夏は分かれて暮らす。男は森を旅し、草木の手入れと狩りをする。女は南の湖畔ティスナで穀物と蚕を育てる。一緒に暮らせるのは秋と冬だけ。ニアキに女と子供が帰ってくる時だけ。」

 うちはいつも一緒じゃないわ。シアニはちらと思った。

「相手も自由には選べない。出来るだけ同じ部族の中で結婚した。中でもヒルメイ族は決して他とは一緒にならない。」

 ロサリスはどこか痛むように言葉を切り、眉をひそめた。

「ヒルメイはイーマの長兄として他のどの部族よりも掟を厳しく守ることを求められた。ヒルメイにはさらに(ヒル)の氏族と(ハル)の氏族があり、その間ですらおいそれと婚姻は認められなかった。何故なら(ヒル)の家は祭司の家であり、サラミアの言葉を人々に伝える巫女を出す氏族。(ハル)の家はニアキの議長であり、政を主導する氏族でそれぞれの役目ははっきり違っていたから。―――どのように生き、誰と結ばれるかはほとんど生まれた時から決まっている―――。」

 シアニは大人しく待った。風を通すために開けてある窓の端に月光が射している。今晩は満月だ。あの蝶はイスタナウトに卵を産むのだろうか。

 ロサリスは謝るように一寸笑った。

「絹の話をしていたのだったわね―――。イナ・サラミアスの女たちは春夏の間、南の湖畔で蚕を育てた。晴着と許婚(いいなずけ)の外衣を織るために。でも湖を(かみ)に登った聖地“白糸束(ティウラシレ)”では巫女が神蚕(しんさん)を育て、その繭から糸を取り、絹を織った。ただ巫女の身を包むためだけに神蚕から糸を取ることが許された。何故なら神蚕はサラミアのものであり、巫女はサラミア御自身の現身とされたから。」

 月の光は明るさを増し、窓の外の木々の姿をも自在に描き出している。かたいモクセイの葉、柔らかいカエデの葉。金に縫い取られたイスタナウトの紋様がシアニの遠い記憶の中に浮かぶ。イナ・サラミアスの女の人が織ったものを真似たということだった…。

「あれは違うことのために織られた―――」

 シアニの思い描いたものを知るかのようにロサリスは呟いた。

「そう、あれも神蚕の糸だったの。織り手はレークシル。神蚕の繭から完全な一本の糸を繰ることが出来たのは彼女ひとりだった。」

 ロサリスは椅子の背にもたれ、聞き手が誰なのか、いるのかいないのかも頓着しないふうにうっとりと宙を眺めて話しはじめた。


昼間の仕事の疲れと時刻が遅かったのとで、いつの間にか卓に突っ伏して眠ってしまったのをロサリスが優しく揺り起こし、シアニは夢うつつのまま、ふらりふらりと祭殿を通り、子供部屋へと歩いて行った。

 月は高く南にあり、祭殿の北側のほぼ隅々までが、冷涼な白い光によって洗われ、草の色、玉砂利の色、シアニの胴着の赤い刺繍の色までがくっきりと見える。シアニは扉の前で祭殿を振り返った。

 切り株の碑の上に腰掛けてモーナがいる。組んだ両手を膝の上に乗せて。初めて現れた頃は母のように思えたその姿は、今改めて見るとほっそりと華奢で、シアニよりいくらか年上の少女のものにすぎない。

 シアニは瞬きひとつせず、月光のもとにはっきりと浮き出た青光る黒髪、クリーム色の瓜実顔、中でも神蚕の触角と同じ弧を描く眉と黒目がちな杏仁形の目を見つめた。

「あなた、()()()にいたのじゃなくて?」シアニは真面目に尋ねた。眠気はどこかに消えてしまっていた。「それに―――もっともっと知っているんじゃないの?」

 モーナは目を上げてシアニを見返し、立った。シアニよりもずっと背の高いその口元に微かな笑みが浮かんだ。


深山の蝶・1


 銀灰色の木々は、かたい冬芽のみの裸の枝に斜陽を受け、腐葉土の地表にだんだら縞を下ろした。そのあわい陽を横切り、四つの人影が列をなして行く。

 先に立つふたりは容貌の優れた若者であった。後に続くのはまだ年端もゆかぬ少年である。ほっそりした身体をかさばる旅装に包み、その上に真新しい弓と矢筒を背負っている。長い旅に疲れてか、歩くたびに身体は左右に振れている。しんがりにいるのは老人だ。静かで小幅の足取りはいくら歩いても調子の衰えることはない。

 イナ・サラミアスの森閑たる奥地を進む彼らは、春先に向けて切り出す木々の選定を終え、この日を旅程の最後に帰路につくことになっていた。

 中を歩く若者は後ろに振り向いて言った。

「今夜で草枕は終いだ。頑張ったな。」

 いたわりの声に少年はちらりと目を上げた。

 半月にわたる道中の“お勤め”は兄たちの足跡をひたすら辿るものだった。千種の木々が交互に立ち塞がる斜面、行く手行く手に水に逆らい続ける沢筋。そしてひっきりなしに次兄の叱責が飛ぶ。

 少年は黙っていた。運悪く兄たちのうちのどちらかが話しはじめるのにぶつかったなら叱られるのは自分だ。

「月が出ている。」

 長兄が足を止めて言った。何かにつけ考え深いためにその言動の時機は測りがたい。

「昨夜が満月―――。出立したのは新月の頃だったのか。」

「何か?」次兄は気安く尋ねた。「約束の日に遅れたとか。このあたりの木をもう五、六本も切ろうかね。混んでいるとは思えないが」手をついた幹を叩いて「新居の柱にはいい太さだ。」

 一行が今晩の宿にと目指す谷間の沢は、もう半月もすれば水量が増し、丸太の一本も浮かぶほどの川になる。コタ・シアナの流れに乗せて西の地の交易に持っていくには、木々が冬の眠りから覚める前に切っておかねばならない。が、次兄が言ったのは許嫁のいる兄への冷やかしだ。

「馬鹿を言え、そうじゃないんだ。」長兄は素早く言った。

「出かける前の夜、南の山腹が光ったという話を聞いたろう。月の光でないなら何だろうと思ったんだ。」

「ヤコマが言ったんだろう?」次兄はつまらなそうに言った。

「足の立たない―――目の見えぬあの少年が。どうしてあの子に光が見えるんだ?兄上は婚礼を控えて忙しくなる。つまらないことを気にしている場合じゃない。用心しろよ―――。この冬はあぶれた男が多かったからな。」

「慌てるからさ。」

 兄たちは声をそろえて笑った。春の香の一陣の風がそれを吹き散らし、静けさが降りた。長兄は歩き出し、少年は冬芽のついた枝をわざとやかましく鳴らしながらくぐった。甘い静けさがこそばゆくて仕方なかったし、兄自身がそっとしておいて欲しい時には弟をたしなめないことが分かっていたからだ。

 少年は得意になって歩いた。姉が出来るのは嬉しいことだ。たとえ会えるのが秋冬の間だけでも。それに―――自分よりも年下の身内が出来るのも楽しみだ。

 不意に少年は宙に引きとめられ、若鹿のように肩をゆすった。大事な弓が枝に引っかかったのだ。少年は腹を立てながら二歩ほど下がった。

「長く作りすぎだよ、ハルイ―。」次兄は振り向いた。

「ニアキに着くころには母上たちはティスナに出立だ。おれ達と来ずに甘えていた方が良かったのじゃないか。」長兄が目を細めて言った。

「なんで?」少年は唸った。「まだ何も仕留めていないのに。」

「おいおい、それでいきなり大物を仕留めようっていうのか。」兄たちは顔を見合わせて笑った。

「後で手ほどきしてやるさ。」次兄は戻って来て()()に絡んだ枝をほどいた。

「まだ狩りに出たことも無かったろう。刀の研ぎ方からみっちりやるぞ。ひとりで弓を使うのは最後の最後だ。そのままニアキまで大事に持って帰れよ。」

 少年は口をひん曲げて兄を見返した。近頃とみに次兄に似てきた顔だちの中に、途端に幼い表情が戻って来る。

「さあ、宿だ。」

 長兄が言った。あらかじめ目印に決めてあったクルミの大樹が、沢に面して開けた森の明るみに黒々とした輪郭を見せている。少年はのろのろと次兄に従った。やっとクルミの下にたどり着いたところで、あたりを見回していた長兄が言った。

「もう少し沢の上に登ってシラビソの林に入ろう。ここは獣の通り道だ。」

 少年は皺の寄った丸い大きな種子を蹴って、ため息とともに文句を飲み込んだ。

「熊に喰われたくないだろう?」見透かしたように次兄が言った。

「勾配のきついところではな、ふた足で行くところも三歩で行け。」沢沿いをたどりながら、老人は静かに助言した。少年はわざと立ち止まった。

「坊、止まるなら山側だよ。」老人が手本を示すようにゆっくりと通り過ぎようとするのを阻んで大股に追い抜こうとした。背に背負った一切合切が崖側に向かって揺れ、水気を含んだ粘土質の土が足をすくい、少年は無数の根っこが一斉に伸びていく沢へと滑り落ちた。林床で乏しい光を待ってしのぎを削る無数の幼木たちには、芽吹いて数年このかたの忍耐を無にする災難であった。か細いたくさんの腕がちくちくと折れながら、丸まって落ちて来た身体を受け止め、ふかふかした朽ち葉の吹き溜まりの床に下ろした。

「大丈夫か、ハルイ―?」兄の声が呼びかけた。

「ゆっくり登って来いよ。ひとりでな。」

「おれはここで泊まる。」少年は言い返した。

 兄の笑い声が返って来た。むろん、本気では無かった。が、疲労は場所を選ばない。傷ついた枝から立ちのぼる生木の香に包まれ、柴の寝床の上に身体は隅々まで蕩けるように託された。その上を迫りつつある夜気とせせらぎの音が静かに覆っていった。

「あいつ、寝ているぞ。」兄たちの声が微かに聞こえる。

「まさか。不貞腐れているだけさ。」

「行ってやろう。」

 川辺を吹く風は柔らかく少年の額に惑っていた。少年は薄目を開けた。投げ出した掌の上に羽毛のように軽いものが舞い降りた。舞い降りてなお止まぬ細かな震えが皮膚をくすぐる。少年はそっと手を引き寄せ目を開けた。掌にとまっているのは一匹の蛾だ。

 南のティスナで女たちが珍重している蛾を少年は知っていた。糸を吐き、それにくるまって変身を遂げる幾多の蝶の中でも、ティスナの蛾の糸のまっすぐで強靭なことは、人が身に纏うにこれ以上の素材は無かった。からむし、葛、ハルニレ、羚羊の冬毛。そんなものを糸にすることもあるが、年頃になると女たちは婚礼に備えて蚕の糸だけを集め続ける。

 しかし、聖地の巫女が飼う蚕は特別だ。神蚕(しんさん)はティスナの女たちでさえ滅多に見ることはなく、その糸に触れることは出来ないのだとか。

 蛾は少年の掌で羽を休めている。弧を描く触角の下で、円らな黒い瞳は何処を見ているとも知れない。胴は丸くふくよかで、後羽はなだらかに飾り尾を引き、細まった先端がわずかに外側に湾曲している。月光に濡れた羽は息を詰めて見守る少年の呼吸に応じ、ゆっくりと上下している。移ろう色の揺らぎの中に、大粒の雫を落としたような丸い斑紋がふたつ、脅かすように少年を見返した。

 逃がしたくない。しかし、蝶の羽が落ち着くほどに再び襲ってくる睡魔には勝てない。少年はゆっくり五本の指を閉じ、緩い拳の中に蝶を閉じ込めた。

「まて、」藪の中の長兄の声が微かに、しかし怪しい戦きを帯びて聞こえた。

「見たか?」

「何を」

「いや…今もいるのに。見えないのか、あれが。」

「どうしたんだ。」心配そうに次兄は尋ねた。「兄上の方がよほど変だ。」

「よし、ではあれは幻だ。だが、何と鮮明なのか。」

「見えているものを教えてくれないか。」

「女がいる。こちらを見て。」

「女?こんな森の奥に…」

「微笑んでいる。」

 少年はまどろみながら背を丸めた。手の内の蝶はすっぽりと包まれてから徐々に羽ばたきをせわしくしていた。手を引っかき、狭く熱い闇を飛ぼうともがいた。

 衝動的に少年は手を固くした。じりじりと次第に固く握りしめる拳の内で蝶は大人しくなっていった。わずかに鼓動かと思われる震えが伝わってくる。少年は冷ややかな逡巡を覚え、手を幾分緩めた。終わるのは惜しい。透かした指の間から蝶の目を覗く。触角がうなだれ、その奥の目を隠している。

「美しい」

 兄の口からむき出しの言葉が漏れた。日頃は許嫁の称賛さえ人前で謹んでいるというのに。

「言おうか、この目に見えるものを。心に秘めおくと罪深さに苦しくなる。たおやかに白い。夜空にある月のごとく。闇はこの女の上には下りないのか。身体は女なのに瞳はまるで嬰児だ。おれを見た。地の底に引きずり込まれるように恐ろしい。口は微笑んでいるがあの目は怒っている。」

「しっかりしろ、兄上。その女は見ない方がいい。」

 藪が鳴った。あっと次兄は叫んだ。「ああ、おれにも見えた。」

 老人の声が畏れを込めて森を揺るがせた。

「目を伏せろ。それは女主だ。」

 少年ははっと目を覚まして飛び起きた。

 森は騒音のただ中にあった。ふたりの兄の叫び声と藪の鳴る音。そして全く新しい、恐ろしい唸り声。

「熊だ!」

 少年は弓を握りしめて藪に飛び込んでいた。日頃の厳しい修練で培われた所作が怯える身体を下知し、矢を抜き、つがえ、放つ。

 矢はぶかぶかの毛皮に吸い付いた。が、熊の動きを少しも妨げはしなかった。ひと飛びで長兄に襲い掛かり、肩に短刀の刃を受けると同時に掌の一撃で殺し、その体を素早く巡らし、なぎ倒した次兄の腕を顎にくわえて藪へと引きずって行こうとしている。

 少年は震えるわが身を励まして二の矢をつがえ、弓を引き絞った。

 どうしてだ。至近距離から射られた脇腹に深々と刺さった矢が少しづつ肉をえぐり、血がたらたらと流れ続けているというのに。

 熊は少年を認めて立ち上がった。短い咆哮が喉から漏れ、一旦得物を放しかけたものの、その鋭い爪をざっくりと兄の肩へと打ちおろした。

 憤怒の叫びが少年の身内から噴き出した。弓矢を投げ捨ててむしゃぶりつこうとする彼の目に、微かに兄の振り向くのが見えた。

 馬鹿者、下がっていろ。

 熊の獰猛な息遣いのあいあいを、葦のさざめくがごとく声は届いた。

 次兄は熊の爪から身をもぎ離し、緩く刺さった矢を抜き取るや、熊の眉間に深々と突き立てた。熊は両の手の間に敵の身体を叩き潰した。

 魂がその身を離れる前に若者は熊の耳に囁いた。

「おれはお前を連れてゆく。血の味を知ったお前は人に害をなそうから。」

 熊は若者の身体を下にしてその場に倒れた。こわい毛の逆立った背が波打ち、唸り声は乾いた大きな喘ぎになった。最後に熊が長い息を吐き切った時、少年の足腰から力が抜け落ちた。彼は茫然と前を見たままそこに座り込んだ。


 刈りたてのシラビソの芳香が急激に覚醒を促した。枕の下に分厚く積まれ、高い寝台に設えられているところに、少年は外衣に包まれて寝かされていた。

 大きな焚火の光。傷が引きつり、少年は目を開けるより先に呻いた。

 節くれだった短い指がぎこちなく彼の髪を撫でた。

「よく帰ったなあ、坊。」

 連れの老人の声だ。さっきからずっと足をさすって温めてくれていたのだ。少年の薄く開いた瞼から涙が流れた。この温かみはあまりにも苦い。

導主(シムアス)は?アーラヒルは何処だ。来てくれるよう頼んだはずだが。」

 少年は父の声を聞いた。ナラの梢が宵闇を背にしている。父はこちらを見ない。だから彼は父の目を避けて向きを変えなくても良い―――。闇の帳を支える大樹のもとに、今は清められ、帷子にくるまれているであろう姿と、その傍らに黙然と跪いている三番目の兄とを。

 少年が朦朧としている間に、父と氏族の男とが駆けつけてきて場所を清め、彼と兄たちとを“南の物見所”へと運び込んだのだ。父はすぐにニアキとティスナに遣いを出したはずだ。兄たちの死を報せ、導主アーラヒルに霊送りをしてくれるようにと。

 アーラヒルはいない。父が今そう言った。兄たちの魂はまだ足止めされているのだ。少年は虚ろな目を開けた。

 少年に背を向ける位置に佇む男は、広い肩をわずかにそびやかせた。その立ち姿と仕草を見て少年は再び目をつぶり、そして薄目を開けた。 

 この男は嫌いだ。いつだって兄たちを妬んでいた奴じゃないか。

「アーラヒルも水、土、風の長も今はティスナに呼ばれている。ここにいるのはあなたひとりだ。光の長よ。」

 “風”の主幹は苦々しげに言った。

 父が鋭く振り向くのが見え、少年の枕元で老人が尋ねた。

「何があったね。」

 “風”の主幹は腹立たしげに振り返った。その表情には憤りの他に捕殺者の充足に似た不穏な高ぶりがあった。

「時節はずれの赤子が生まれたとティスナから報せがあったのだ。」男は老人に説明し、父に向き直った。

「アー・タッカハル、あなたも呼ばれたのだ。しかし、ご子息らの悲報を受けてニアキを出られた後だった。赤子が生まれたのは聖地。巫女の子だ。孕ませたのは他ならぬアーラヒルの息子だ。昨年の夏までティスナにいたヤコマだ。巫女は実の弟の子を産んだのだ。」

「早まったことはすまいな。」

 父は厳しく男を見つめたが、その声にいつもの力は無かった。

「私は罪人をティスナまで連行していった。今はその帰りだ。」

「待ってくれ―――。」

 男は冷ややかに父を見返した。

「あなたは裁定の評議に待たれている。急ぎティスナに行かれよ。」

「父上、兄上たちの葬儀を先ずしてください!」

 ナラの木の影から三番目の兄が叫んだ。平生の穏やかな性、内気な年頃も、長く死者たちへの哀悼と儀礼が捨て置かれているのにたまりかねたのだった。

導主(シムアス)の助けなどいりませんから。神々の集う原(ナス・ティアツ)への旅立ちを足止めしているのが導主の子供たちの不始末とは情けない!」

「やめぬか。」父は兄をたしなめた。

「致し方ない。風見(タフマイ)のオコロイ、ティスナにいる長たちとアーラヒルに裁定を待つようにと遣いを頼まれてくれ。私は息子たちを葬ったら急ぎ向かうから。」

 父は立ち上がり、“風の主幹”オコロイは下がって道をあけ、少年の傍らを通った。少年は反対側にくるりと寝返り、両腕で頭を抱えた。外衣のおこす風がその肩をなぞって行った。

 父は自分を見なかった。ほっとすると同時にそれはやがて苦い痛みとなった。


 葬送の間、少年は床に横になっていた。少年は望みどおりに捨て置かれることに満足し、自分の姿が誰の目にも映らないのだと夢想した。事実、埋葬を終え、父がティスナに、兄がニアキへと出立してしまうと、老人と残った手助けの男とが目を閉じて横たわっている彼の横で、ティスナで起こった騒動のあらましと処罰の見通しを、少年の年頃と境遇への慮りもなく話していった。

 イーマの神事を司る氏族の長、導主(シムアス)のアーラヒルには生まれつき盲目で足の不自由な息子がいる。精霊と交信し、無垢な気性であるとして、幼子同様にティスナで女たちの世話を受けながら暮らしていたが、さすがに次の年には成年を迎えるというので、前の年の秋に父アーラヒルがニアキに連れ帰っていた。事はその前の夏に起きていたようだ。

 山腹の湖畔ティスナの蚕湖(クマラ・シャコ)の水源、聖なる川を辿った上流の聖地“白糸束(ティウラシレ)”には、聖地の門の守女(シュムナ・タキリ)ルメイに護られ、サラミアの言葉を語る憑人(よりまし)である巫女が住む。かの女(タナ)ともサラミアとも称されるこの処女は、生まれはアーラヒルの娘である。聖地から出ることすら稀であるこの女が、どうやってかティスナで養われ蚕の孫(ヤコマ)と呼ばれている弟と会っていたらしい。

 イーマの女たちは夏至から冬至にかけてしか子を産まぬ。時季はずれの子が生まれた。しかもそれが聖地の巫女に起きたことに長たちは、なかんずくアーラヒルは狼狽した。事態を審議するために四人の長とルメイを呼んだものの、ティスナに出立する時にはもう導主の意思は決まっていたようだ。息子を連行させ射手を伴っていった。子供たちは処刑を免れまい。(アー)タッカハルがティスナに着くころにはもう全てが終わっているのではなかろうか。

「それはサラミアの意思ではない。身内の恥を上塗りするものだ。」

 話を聞いた老人は低く呟いた。

「我々はそも身内で結婚する。導主の氏族は特にそうだ。」男は同意するように言った。「これで絶えてしまうだろう。」

「で、生まれた赤子は?」

 男はその問には答えなかった。が、横を向き、一段と声を低めて言った。「亡くなったハラートも気の毒に!許嫁はアーラヒルに嫁がされるだろう。オコロイはそんなことまで口にしていた。」

 少年は呻き、襟元を握りしめた。男たちはそっと立って出て行った。少年は手を開いて見た。汗ばんだ掌にべったりと鱗粉が光っていたが蝶の骸は無かった。

 その日は食事を摂らず身体も拭いてもらえず、また日が暮れ、夜が更けるごとに冴えてくる目を見開いて、少年は孤独を弄んだ。

 覆いかぶさる小屋の広い片屋根と、開いた間口の外にすっかり弱くなった焚火の明かり。少年の閉じ込められた薄闇の外は夜明けを待ち受ける森と、眠りから覚め始めるイナ・サラミアスの威容であった。

 火の向こうにそそり立ち、自分のいる小屋を一枝のもとに覆っているナラの大木ですら、その身にあまねく宿る鳥獣草木に下知する女主人(ミアス)の一僕に過ぎない。  

 少年は明け方の寒さに震えた。わずかな時間うつらうつらしていたのだ。

 驚いたことに彼の足元でひとつの影が動き、少年の傍らに腰を下ろした。彼の世話をするものが交代したらしい。新たに薪をくべ、勢いを増した火影が男の(おもて)を暴いた。

 少年は初めて身を起こした。傷の痛み、心の痛み、何もかもが一斉に目覚めた。

「ホーリス、あんたの弓は駄目だ。」少年はしわがれ声と幼子の癇癪をないまぜに怒りをぶつけた。

「全然当たりゃしない。飛びやしない。駄目だ。駄目だ…」

「坊主、おれの弓は好調そのものさ。」男は答えた。

「立ち直りもいいし、矢も速く飛ぶ。」空手のまま構える所作をする。

「鶴二羽を串刺しに出来るほどにな。」

「うそばかり。」

「嘘じゃないとも」男は構えた身体を少年に向けた。少年は戦慄を覚えて大人しくなった。

「ひとりになって怖くなったな?憎い奴を見つけて元気を取り戻したろう?」

 男の顔は優しくも凄みを帯びていた。彼は淡々と言葉を次いだ。

「熊を狩るにはどんないい矢でもそのままじゃだめだ。そいつが逃げる道を考えた上でトリカブトを使わないと。効くには小半時かかる。それまでは近づけん。」

「じゃあ、出会ってしまったらどうするんだ。」少年はべそをかきながら言った。

「どうにもならん。坊主、お前はうまくやったほうだ。」

 少年は顔さえ隠さずに慟哭した。風見(タフマイ)の一族の射手は何ひとつ慰めの言葉をかけなかった。少年がやっとのことで泣き止むと、男は食事を与え、包帯を取り換えた。

 父からも兄からも迎えのないまま、少年はますます無口になった男の世話を受けながら、ただ一つの入り口から漏れる陽の移り変わりだけを眺め、傷が癒えるのを待った。

 矢がきかない!

 悔しい思いは時折声になって口から漏れた。しかし、起き上がれるようになり、見える世界が角度を変えると、少年の思念もまた一間四方程度からイナ・サラミアスの森へと広がっていった。

 少年はよろよろと空の下へ出て行った。もはや屋根の下に籠る闇よりも昼の方が自分に近しい。既にそこまで身体は回復していた。だが外に見出すべきものは敵だ。そいつは春が近づくにつれ力強く美しくなる。少年は、陰鬱に森を通して南北に連なる峰を眺めやった。

 おれは()()()のものに手を出し、やられたんだ。ぬくぬくと育った庭で、己の手に届くところに触れてはならぬ聖別されたものがあるなどとは思いもよらずに、あんたに捧げられた蝶を自分のものにしようと。弱くて腰抜けで自分でつくった弓を引き分ける力さえ無かったのにさ。そして、あんたは見せしめに兄達を奪い去った。だが、見てろ―――今にあんたを凌いでやる。

 少年の回復とは反対に、留まって彼の世話を見続けていた男はやつれ、動作すら物静かになっていた。何かが欠け落ちたようなその姿に苛立ちを覚えながら少年はふと気づいた。

 ああ、そうか。弓が無いんだ。

 いつも身に備わった翼の片方でもあるかのように、その手に届くところに必ずあった弓が無くなっていた。少年が訳を尋ねた時に男は言った。

「あれはもう壊れてしまったんだ。」

 そしてその訳をどうしても答えようとはしなかった。

 やがて林床に花々が咲き、枝が新芽を吹き、鳥がさえずりはじめた。定住の期間が終わり、女たちがニアキから南のティスナへと移り、男たちが狩りをしながら移動をする季節がやって来た。

 北から仲間たちとやって来た兄が少年を迎えに来た。少年は弓を手にし、物見所の小屋から出て旅の一行に加わった。少年は振り向きもしなかったし、彼を見送る者もいなかった。“風見(タフマイ)”の射手、ホーリスは前の晩に立ち去っていたのだ。


挿絵(By みてみん)

 北の峰ベレ・サオで生まれたコタ・シアナは、イナ・サラミアスの白い山脈に沿って下った南の果てでベレ・ニマの山塊に会って西に進路を移し、エトルベールの稜線に導かれて終には大きな湖(クマラ・オロ)に注ぐ。その過程で清冽な急流は、満々たる水を湛えた豊かな大河となり、勾配の緩い対岸の支流の合流点に水鳥と魚の豊かな湿原を育んでいる。およそ“聖なる川”の出合いからタシワナまでの西岸には、水の増減で島となって岸辺より切り離される高所に集落が点在し、桟橋を備えた葦葺きの家が三、四件ずつ寄り合って建つ。川のものを(すなど)って暮らすコタ・シアナの民の村、水郷(クシガヤ)である。

春を待つ今しばし、漁舟は桟橋の下に繋がれ、漁師らは空と河の両側からくる陽気な光のもとで道具をあらためている。魚を逃がさぬように網を繕い、裾のおもりが揃うように整える。

 川沿いに並んだ家の一番上の桟橋で()()の刃を研いでいた男は、ふと東のイナ・サラミアスから来る風の中に微かな音を聞き取った。男は、手にしていた道具をそこに置いて桟橋の端まで駆けて行き、隣家に向かって聞いたと同じ雁の鳴き声を繰り返した。桟橋の下で舟の修理をしていた男はその場で隣に向かって伝え、三軒目の家にいた女は子供を使いにやり、子供はそのまま水を飛び越して次に伝えに行った。間の家は出払っており、まさにその家の印となる呼び声が雁なのだった。

 たちまち水路に浮かんでいたあらゆる舟は鉤で桟橋に引き寄せられた。明け渡された水路に浮かぶ舟は遅れた一艘のみであった。年老いた寡婦と孫娘の乗った小舟であった。

「サピシュマ、端に退いていろ!」

 桟橋の男が手にした鉤棒を振って言った。漕ぎ手は小さいながらも巧みに櫂を操り、ふたつの桟橋の足の間に舟を漕ぎ入れた。その横すれすれを上流から流れて来た、枝を切り落としたばかりの丸太の束が流れ過ぎた。桟橋で待ち構えていた男たちが順に鉤で下に送りながら、集落の端の集積所に手繰り寄せる。

 少女と老婆を乗せた舟は、岸から揺れ戻る波に乗って河の中へと漂いかけた。少女は素早く水をかいて舳先を反転させた。その横を逞しい男が漕ぐ渡し舟が、風に乗る木の葉のように追い抜いて行った。

 老婆はきっと顔を上げて、客として乗っているふたりの男を見た。

 縫い取りのあるしなやかな長い鉢巻きが、束ねた黒い髪の上になびいている。ゆったりとした長い外衣は概ね緑っぽい色合いで、いくつもの色糸の紋様が織り込まれている。

「あれがイーマ?」

 少女の声が聞こえたのか、ひとりの男が振り向いた。大柄だがごく若い、少年のような若者だった。老婆は険しい顔をいっそうそびやかせた。

「イーマはあの子を連れて行くの?」少女は心配そうに訊いた。

「わからん。」老婆は不機嫌に答えた。

 舟は中央の桟橋の間を通り、やや奥まった高所にある広い露台を設けた家につけた。家はひとまわり大きく、側壁には網や縄の他に銛が並び、破風には彫り物をした櫂が飾られていた。クシガヤの長の家であった。

 ふたりの男は軽快に舟を降りた。長は自ら出迎えた。

緑郷(ロサルガヤ)の方々、よくお越しになられた。」

 長は日に焼けた柔和な丸い顔に笑みを浮かべながら、若いが背の高いふたりの男を、しっかりと両足を踏まえて見返した。イーマの若者たちは会釈をした。

「舟便をお望みか。」

「いかにも」兄弟と見える年上の方の男は手短に答えた。

「クマラ・オロまで往復を頼みたい。四人乗り、荷は二梱、重さは三鈞ある。」

「二艘出そう。」

「代価は白檜に黒檜、十本ずつだ。用立ててもらえようか。」

 村長は思案して、露台の端で休んでいる舟頭を見やった。

「我らには多すぎる。家や舟の補修には五本もあれば。そうは言っても、クマラ・オロの交換所まで筏にして運ぶとなるともうふたり人手が必要だ。」

「漕ぎ手の代価は荷から出しても良いし、交換で手に入れても良い。」

 男は連れと見交わして素早く言った。長は温和に言葉を継いだ。

「だが、実のところクマラ・オロでは木材の買い手を見つけるのは難しかろう。ニクマラ・ガヤまで運べば建材として価値が出ようが、河口の交換所で高値で木を取り引きする者は稀だ。」

「じゃあ薪にするか」若い男が呟いたが、年かさの方は取りあわず、

河向こう(オド・タ・コタ)に深く立ち入る慣習はイーマには無い。」と冷ややかに言った。

 長は辛抱強く言った。

「若い方、何が入用でクマラ・オロまで行かれる?」

「鉄の道具を少し。塩と穀物があれば。」

「我々も丁度それが欲しい。」うなずいて舟頭に目配せした。

「我がクシガヤの者が案内するのでクマラ・オロをもう少し西に行かれてコタ・レイナの河口ピシュ・ティを少し入って行きなされ。もう少し大きな交換所があり、旬ごとに上のエフトプの荘と西のニクマラ・ガヤから商人が来る。ニクマラ・ガヤは木材をアツセワナに高値で売るから買い取ってくれよう。彼らの使う銅の金子は我々やあなた方には意味をなさんがエフトプでは使えるし、コタ・レイナを遡ったコセーナでも使える。彼らはニクマラ・ガヤとの仲立ちともなる。」

「半月かかるが仕方がない。」男は呟いた。

「もうふたり。そしてピシュ・ティまでの舟路は鉄、塩、穀物で。」長は言った。

「我らの鉄はあきらめねばならんな。」男は若い連れに言った。「穀物は急ぎ欲しい。」

 若者は口元を歪め、じろりと見返したが黙っていた。

「釣り針が十本、塩が一斤。穀物は我らは無くても良い。」長は言い換え、あらためてふたりの若者をじっと眺めた。精悍な顔立ち、すらりとした体格だが、明らかに痩せ、疲れも垣間見える。

「承知した。舟を手配出来たらオルト(ハマ)の口につけてくれ。そこに荷と連れふたりがいる。」

 男は口早に言い、くるりと背を向け、舟に戻ろうとした。コタ・シアナの民の長は、

「しばらく待たれたい。」声を大きくしてとどめた相手に歩み寄り、なだめるように寸のつまった温和な顔をうなずかせ、差し招いた。

「商いの話は疲れるもの。我が苫屋で食事をされては。」

「ありがたいが先を急ぐので。」

 男は軽く頭を下げたが、長は首を振った。

「“日に仕える(ヒルメイの)”氏族の方々とお見受けしたが、我らコタ・シアナの民よりイーマの民に申し上げることがある。アー・タッカハルおよび水、土、風の長にお伝え下さらんか。」

 男は連れを振り返った。若者は黙ってコタ・シアナの長の言葉を待っている。

「込み入った話か。」

「そのまま、確かに伝えて下されば良い。しかし、我らは返答を待っている。」

 長は小柄な身体ながら威厳と相手に対する深い敬愛を込めて言った。

「用件を仰っていただきたい。」

 男は向き直って丁寧に尋ねた。長はうなずいた。

「さればイーマの長老方にお伝え願いたい。我がコタ・シアナの民は数年来、緑郷の子を預かり、育て申し上げてきた。今やあなた方のもとにお返しすべき時であると。」

「なに、私たちの民の者が水郷(クシガヤ)の民に育てられてきたと…」

 男は驚きと戸惑いを隠さなかった。が、ふと言葉を切り、考え込んだ。

「まさか」呟いた声は用心深く口の中に消えた。

「私はニアキまでは戻れぬ。仲間はオルト谷で待っているし、食糧の入手は急務だ。」言い訳するように言い、連れの若者に目をやった。

「弟を父タッカハルのもとに遣いにやる。必ず伝え、返答すると約束する。」

 ふたりのイーマの男は慣れた身ごなしで舟に戻り、舟頭は舟を出した。家々の桟橋に集まった人々が物珍しげに見守っている。男はその弟に言葉短く言い、弟は表情を変えずにひとつうなずいた。舟は艫に長い水の畝を引きながら、広い水面を遠ざかっていった。


七日後、水郷(クシガヤ)の長の家の前に迎えの舟がつけられた。桟橋に降り立ったのは、イーマの頭日の奉仕者(ヒルメイ)の長と、水守(クシュ)地守(ウナシュ)風見(タフマイ)の主幹、そして七日前に訪れた若者の五人だった。

 長は男たちを屋内に通した。コタ・シアナの集落でひときわ広い間はがらんと静まり返り、暗かった。中に案内された男たちは、間柱の陰に息をひそめて寄り添っている老女と少女とを見落とすところだった。しかし、床のイグサの敷物の上に座ると、まだひとつ、ほの白い小さな顔が見えた。コタ・シアナの少女が日に焼けた腕で抱きかかえ、長く垂らした髪で隠そうとするかのように頬を押し付けている、幼い子供がいたのである。

「では、この子が…。」

 ヒルメイのアー・タッカハルは、クシガヤの長に振り返った。

「さよう、もう五年にもなります。我が民でお育て申し上げてきました。」

 クシガヤの長は少女に振り返り、促した。

「これ、サピシュマ。前にお子を出しなさい。」

 娘は嫌々子供を前に出したが、すかさず膝にのせ、両腕でしっかり抱えた。子供は人形のようにされるがままになっている。わずかに身じろぎ、手足をすくめたので生命が宿ると見て取れる。が、たちまち完璧な静寂の中に身を沈めてゆく。

「赤子であられた時に、これなる娘が“聖なる川(コタ・ミラ)”の水から救い上げて参ったので。神蚕(しんさん)の繭の詰まった籠に込められていた女の子で、このクシマの申すところでは緑郷の子に間違いはない、そのうえサラミアに似つかわしいかんばせ、長じて神人(よりまし)となる方であろうと…。」

 暗がりに慣れた人々の目に、少しずつ子供の優れた容貌が明らかになっていった。

 黒目がちの杏仁形の目、眉は完璧な弓形、滑らかな肌は色白と言っても良い。身体は小さく華奢で薄雪草を思わせ、一見したところ儚げな様子が(まさ)っている。

「なるほど、一度落とした命であれば。」

 ヒルメイの長は口の中で呟いた。細めた目の奥で瞳は注意深く正視を避けた。若者はそんな父の様子をじっと見つめている。

 老女はしげしげと彼らを見ていたが、いきなりいざり出ると庇うように子供を腕で覆った。ヒルメイの長はそれに目をやり、優しく言った。

「どうしたね。その子に害を加える者などいないよ。」

 老女は真っ赤になって口ごもったが、睨むのをやめなかった。

「誓おう―――が、まず詳しく話を聞かせておくれ。」

 ヒルメイの長は少女に目を移した。

「この子を救ってくれたのはお前さんかね。」

 少女はうなずいた。

「ありがとうよ。お前の行いは赤子が誰であるかによらず尊い。だが、我らはその子の行く末に口を出す前にお前さんを頼っていろいろ調べねばならんのだ。子供が見つかった時の様子を話してくれ。」

 少女は一同をちらと見回した。村の大黒柱、頼みともなる温厚な長は、高みの山から来たイーマの人々に遜る一方で、助け舟を出してくれるでもない。威あるヒルメイの長はもとより、イーマの男たちの粛然とした居住まいは少女をひるませた。水守(クシュ)の主幹が励ますようにうなずいた。少女は子供を膝の上から祖母の手に預け、水に潜る時のように息を大きく吸い、すらすらと話しはじめた。

「良い水はイナ・サラミアスから来る。そして女の子には聖なる川(コタ・ミラ)の水が良い。雪が解け、草木が芽を出す春一番の水を浴びればサラミアそのひとのように美しくなって立派な夫と良い子供たちに恵まれるというから。あたしが七つになる年だったわ。春の水をくぐったのはあの時が初めてだったから。」

「水の民の七歳の儀礼だね。」クシュの主幹は促した。「今年は何回目になる?」

「この前のが五回目。」少女は村長に確かめるように目をやりながら答えた。

「あたしの勘定では。でも、その後のいつの時よりもあの日のことを覚えている。毎年春が来て山の上の雪が解け始めるとイナ・サラミアスで水守(クシュ)が葦笛を吹いて雪割草が咲いたのを知らせる。そうしたら女の子たちはみんなで長い舟に乗ってコタ・ミラの水を浴びに行く。河口の対岸(タシ)から順番に泳いでいって、つむじまで水に潜ったら舟に戻る。コタ・ミラの水はとりわけ冷たいので出会えばすぐにわかるけれど、その頃は何処まで行けばいいのかわからなかった。どこもかしこも水は冷たすぎて。」

 男たちは皆、床に目を落とし、黙って聞いている。若者だけが無表情な目を少女に注いでいる。

「あたしはコタ・ミラの川口まで遡った。そこには大きな岩があるの。大抵は水の中に潜っているのだけど、その時は掴まって休めるくらい出ていた。どのくらい来たのか確かめようとして見たら、コタ・ミラの川口の入り口で、そして掴まっている岩の上に、何かが流れ着いて引っ掛かっているの。近寄って見たら、大きな籠だった。すっかり水がしみてて、持ち上げようとすると目から水がざあざあこぼれたわ。水除けに外側に貼った布と松脂がすっかり剥がれて上にちょっとだけ残っていた。とても重かったのでそのまま置いていこうと思った。そうしたら籠の中から声が…。」

 薄闇の中で男たちの目が時折光った。クシュの主幹は軽く顔を上げ、微弱な笑みを口元に浮かべた。

「蓋をあけて中を見ると、いっぱい薄緑色の繭が浮かんでて、その中に半分水につかって赤ちゃんがいたの。」

 少女は男の目を見返し、唇を噛み、瞬いた。疲れ、凍えた子供の驚きと当惑がその表情に再現される。

しかし、誰も応えようとはしない。若者の遠慮会釈ない眼差しだけが少女に返ってくる。少女は続けた。

「あたしを心配して姉さんたちが舟で迎えに来てくれた。あたしは姉さんたちを呼んで出来るだけ舟を寄せてもらった。籠を押しながら舟まで泳ぐ力が無かったから。籠をそのままに置いて舟の中に赤ちゃんをあげたその時、コタ・ミラの水が急に増えてあっという間に籠をばらばらにして飲み込んでしまった。本当にあっという間だったのよ。それなのに不思議よ。すぐに水が収まると、まるでお取り、というように…。」少女はふと言葉を切った。

「どうしたのだ?何があった。」黙っていた風見(タフマイ)の主幹が畳みかけた。

 少女はかぶりを振った。

「ううん、別に…。ただ、舟の周りにはたくさんの繭が残っている。この子を水から上げた時、まるで身体じゅうできらきらした虹を引き出してきたようだった。繭からほどけた糸が絡んで、束になって繰り出されているの。その裾が水面一面の繭に繋がっている。次の大きな流れで舟はコタ・シアナに押し出された。解けた糸が長々と舟の両脇について来る。しまいに櫂に絡んで動けなくなったから舟を下りて皆で泳いで押したの。あたしはこの子を温めるために舟に座って抱いていたけど、舟を囲んで泳いでいた姉さんたちはすっかり凍えてしまった。」

挿絵(By みてみん)

「あの日は寒い日でした。報せの声を聞いて村じゅうで迎えに行き、対岸(タシ)で火を焚き、湯を沸かしました。娘たちも赤子も冷え切っておりましたのでな。」

 クシガヤの長は目を細めて少女を見、ねぎらうように後を引き取った。

「聖なる川より下って来られ、このとおり神の衣を纏って来られたお子でもある。その場で村の衆皆で育てることに決め申した。」

 ヒルメイのアー・タッカハルは深い息をついた。彼の傍らの息子は眉一つ動かさず、少女の物語の進むにつれ周囲で起こる微弱な狼狽の物音をも聞いていた。

「なんと奇怪な話だ。」土守(ウナシュ)の主幹の呟きをも、風見(タフマイ)の主幹の性急な苛立ちの身じろぎをも、若者は聞きながら受け流していた。しかし、父が重々しく告げた時には、その声の中に自らに下した断罪と諦念を聞き取り、瞳を動かしてその顔を見た。

「人がどう位置づけようと、生きる者は運命のままに生きる。」

 アー・タッカハルは誇り高い頭を少女に巡らし、わずかにうなずくように礼をした。

「娘よ、お前に感謝する。」

 娘は礼を返しながら、不安げにイーマの長を見返し、祖母の後ろに隠れてしまった。

「緑郷の子と承認していただけましたか。」

 クシガヤの長はイーマ達を順々に見て言った。アー・タッカハルが何か言う前に、タフマイの主幹オコロイがさっと顔を上げた。

「いや、まだだ。まだ子供の審査は終わっておらぬ。イナ・サラミアスの民の者と認めるには全ての条件が揃わねばならんのだ―――。」

「ああ、情けない!」

 突然、甲高い叫びが起こった。老女が子供を背後に庇いながら憤慨して言い立てた。

「高座で神々の手足を務めるお前様がたの考えはこの私にはわからん。それにしても、大事に育てた子が何故郷を追われ、流されたのか訳を聞くことも出来ぬのか。それでこの子を返せと言われても得心がゆかぬ。」

「連れて帰ると決まってはおらん。」オコロイはすげなく言った。

「ならばすぐに帰れ」老女は言った。

「これ、クシマ、黙らんか。」クシガヤの長はたしなめ、そこに集まっていた村方達に目配せした。

 ヒルメイのアー・タッカハルは、たちまち峻厳な両手を膝からあげ、一同を黙らせた。タッカハルは居住まいを正し、右手で招いて促した。

(コーナ)、お前さんの言い分を聞こう」

 老女は、しんと静まった場にかえっておののき、怒りのあまりの勇気も半ば消え去って座り込んだ。それでも気を取り直して、少し膝を進め、厳しくも穏やかなヒルメイの長の方に、眩しいものを見るかのように顔を向け、言いかけた。

「何故、何故あんな―――」そして両手で胸元を握りしめ、やっとのことで声を絞り出した。

「お前がたがこの子にしたことを一から聞かんでは、私はここを動かん!」

「もっともだ。」

 アー・タッカハルの目は鋭く光った。クシガヤの男ばかりか、イーマの主幹たちもその目元が細く引きつるのを見て息を殺した。しかし、タッカハルは銀灰色の岩のように動かなかった。穏やかな声だけが懇々と屋内に響いた。

「事の次第を言って聞かせよう。罪を犯した者が真っ先に受ける罰は怖れだ。その次が罪を告白によって再び辿り、恥を逐一身に受けることだ。そなたに聞かせることで我らは第二の罰を受けることにしよう。

(コーナ)よ、我らイーマが最も心せねばならぬのは我ら自身の身の振る舞いなのだ。故に、身内に穢れが生じた時、我らは最も厳しい者になる。

「五年前のことだ。聖地ティウラシレにおいて処女であるはずの巫女が身籠った。女神の不興は必定として、導主アーラヒルは掟を破った子らを処罰した。しかし巫女の産んだ子はどうする?両親は共にアーラヒルの子であり、赤子は神人(よりまし)となる氏族の唯一の後継でもある。禍の子か聖なる子か。聖地の門の守女(シュムナ・タキリ)のルメイは赤子を助けるようにと進言した。長たちがそれぞれにどんな意思を表明したかは言うまい。しかし、アーラヒルは赤子を試すため水占を行うと言い、それが決定となった。

「籠に目張りをして神蚕(しんさん)の繭を詰め、赤子をそこに置き、サラミアの守り刀イサピアと共に聖なる川の流れに委ねた。赤子にサラミアの魂があらばイサピアと神蚕が守るはずだと。すぐに女たちが後を追ったが赤子は見出されず、イサピアもまた発見されなかった。“聖なる川(コタ・ミラ)”を“幼蚕の湖(クマラ・シャコ)”をも含めてくまなく訪ねて歩いたというのに。我らは幼い命ばかりか、聖地の至宝、イナ・サラミアスの髄石、イサピアをも失ったのだ。

「サラミアが何に怒り、またその怒りがどのような形で返される事になるものか思いもよらぬ。過去の五年は辛かった。イスタナウトは実らず、熊が村を襲い、雪がニアキを閉ざした。ティスナでは餓死者が出た。水脈の調査をしていた水守(クシュ)の一団が雪崩に飲まれた。しかし、水は豊かでコタ・シアナは潤い、西の地は穀物がよく実ったとか。」

「そういえば近年は滅多にないほどの豊漁でございました。」

 村方のひとりが恐る恐る言った。

「マス、鯉、ウグイ…スズキまでもがクマラ・オロから入り込み、水鳥も。女どもは緑郷の子のお陰だと。」

 思い当たったように二、三の者が声を漏らしたが、クシガヤの男たちは意見を控えてアー・タッカハルの次の言葉を待った。

「恥を忍んで五年前の我が民の事情を話した。その結果我らが受けた罰についても分かっていただけたことと思う。クシガヤの衆よ、我が一族の子を助け、守り育てて下されたこと、礼を申し上げる。この子は慈しまれ、幸せであったろう。」

 男たちは頭を垂れた。近年漁に恵まれたとはいえ、彼らの暮らしは厳しく、働き手として望めない脆弱な子を養うゆとりは無いのだ。また、この恐ろしげな素性の子は彼らに幸運をもたらしたのかも知れないが、扱いを誤ると同じ運命の風向き次第で災厄をももたらすかもしれないではないか。イーマ達はうつむいて顔を上げないクシガヤの者たちの様子からそれを悟った。

「しかし、イーマの子はイナ・サラミアスに戻るべきであろう。この子の将来だが」タッカハルは、子供を抱き寄せ、さすりながらむせんでいる老女からクシガヤの長へと頭を向けた。「巫女の子供が見いだされた事は聖地の守女(シュムナ)ルメイにも伝えられた。ルメイはすぐにも迎えると言っている。今でも神人(よりまし)を出すアーラヒルの血筋で女の子はこの子ひとり。一昨年生まれたアーラヒルの末子は男の子だった。この子には既にサラミアの現身となる栄誉が約束されているのだ。」

「ああ、それも運命か」老女はむせび言った。「捨てられるのも、かしずかれるのも、掌を返すように。」

「祖父アーラヒルは、昨年身罷るまで行いを悔いていた。徒や疎かにはせん。約束する。」 

 タッカハルは短く言い、ふいに顔をそむけた。老女がますます子供を籠めた両腕を掴みしめ、放すまじ素振りを見せたからだ。

「行かせん!」老女は目をつぶって言った。「行かせん!」

 少女はうろたえて、老女の肩を抱いている。

「さあ、クシマ」コタ・シアナの民の長は声を強めた。やむを得ぬ、押さえてでも引き離さねば―――。村方らに目配せしながら、その丸い顔は老女を哀れんでいた。

「待て、しかし、その子が巫女の後継ならイサピアは何処にあるのだ?」

 風見(タフマイ)のオコロイが突然言った。

「まだ、我らは真偽を審査している最中ではなかったか。」

 老女は驚いて目を開け、コタ・シアナの男たちまでも心外とばかりに振り向いた。水守(クシュ)の主幹が諫めるように言った。

「話の道筋はたつし、民の子に違いはない。連れて帰らぬ法はない。」

「だが、先から見ておればその子は口をきかぬ。目は見えているのか?足腰は立つのか?その子の父というのは盲目であったが…」

「もうよい!」タッカハルは男を制止した。「二言は無用。」 

 老女の後ろで少女サピシュマはそっと立ち上がった。先ほどから測るように男たちを順に眺め、皆が気付いてくれぬ中で若者の目に出会ったのだった。少女はうつむいて首の紐を手繰り、小さな刀子を引っ張り出した。そして若者の前に行き、その前に刀子を置いた。

「籠が壊れた後も岩の上に残っていたの。神蚕の糸に繋がれて。」少女は、若者にかすれた小さい声で言った。

 それは翠玉を磨きだして長葉(イサ)形に刃を形作った刀子であった。若者は手を伸ばしかけた。

「ハルイ―」

 ヒルメイの長は小声でたしなめ、若者は手を膝に戻した。と、小さな影が男たちの前を横切り、さっと伸びた小さな手が床の上から刀子を拾い上げた。

 子供は老女の腕の中から抜け出、若者の前にまじろぎもせずにすっくり立っていた。当然のように胸の前にイサピアを抱え、黒く推し量りがたい瞳の上に一瞬、好奇心と軽い非難の動きが閃いた。華奢だが身体に不具合はなさそうだ。

「しっかりしている。」水守(クシュ)の主幹は静かに褒めた。

「何故先に出さぬ」風見(タフマイ)のオコロイは厳しい声で少女に言った。

 少女は口をすぼめ、それから眉をつり上げて言った。

「だって―――だってこの子を連れて行ってしまう」

「不満か」

 少女は黙って子供の傍らに膝立ちし、自分の方に向かせると、その首にイサピアの紐を掛けた。そして、子供の長い髪を素早く指で梳いて整え、自分の髪をまとめていた薄緑色のリボンを解いて結わえてやった。それから子供の肩を抱いてヒルメイの長、アー・タッカハルに向かわせ、一礼をして逃げ去るように祖母の傍らに戻った。

 タッカハルは左に居並ぶイーマの主幹たちを振り返った。

「御子の承認に異議はないか」

 男たちは短くうなずいた。タッカハルはクシガヤの長に身体を向け、重々しく宣言した。

「御子を(ヒル)の家の裔と認め、イナ・サラミアスに迎え入れる。」

 コタ・シアナの民の見送りを受けて、イーマの一行は舟に乗った。二隻のうち一つには三部族の主幹が、もうひとつにはヒルメイの長とその息子と、新たに加わった子供が。それぞれの舟をコタ・シアナの渡し守が漕いでゆく。

 舟は北東へと水を進み、集落の最後の桟橋の端から呼ばわる少女の声がきれぎれに届いた。

「レークシル、レークシル」

 子供をそう名付けていたのだろうか。長老の息子は振り向き、子供を見た。子供は膝を折ってぺたりと舟底に座り、長い睫毛の下の虚ろな眼差しを行く手のイナ・サラミアスへと向けている。細い首の両側を抜ける風がまだ柔らかい髪をたなびかせ、うなじのあたりできちんと結ばれたリボンの蝶をはためかせた。若者は眉を寄せ、水面の向こうに小さくなっていく少女の姿を見やった。

 舟を操って追うことも、泳いで追うことも許されぬのだろう。少女は口に両手をあてがい、最後に叫んだ。

兄さん(アート)!どうか守って…その子を。イーマの兄さん(アート)…」

 河はゆるやかに湾曲してゆき、舟尾の右手から張り出してくる岸の陰に水郷の集落は隠れた。

 雪解け水を浴びた娘たちが焚火で身体を暖めたという河原。コタ・ミラの合流点。赤子が流れ着いたという岩を探してか、皆の顔が一度そちらを向いた。水かさは春になって日一日と増す。件の岩は誰の目にも見えなかった。

「あの話は(まこと)だったのか。」

 地守(ウナシュ)の主幹が呟いた。

「イサピアが見つかった。子供が生きていた。どちらも偶然に過ぎん。」

 オコロイが言った。

「では我々は過ち以上のことを犯したのだと認めるのだな?」

 水守の主幹は思わしげに言い、何も聞こえぬふうに櫂を漕ぐ舟頭に目をやった。

 若者は少女の最後の叫びを聞いてから、ずっと子供の髪を結わえた薄緑のリボンを眺めていた。

 女神サラミアが自らの宿り身を救った老女と孫娘に与えたものがあったとすれば、生繭から糸を繰る術であったろう。それこそは、聖地の巫女のみが知る不出の技であった。そして若者が期せずして思い当たったことであった。

 舟の周りに浮かんでいた繭のいくつかが羽化していたら、クシガヤの民人は、暮らし向きを変え得る宝を手にしたかもしれないのだ。そして繭から長繊維を取り、機を織ることを知ったとしたら。もっとも彼女らは女神の与えた褒美を受け取らなかった。その証拠に、ささやかな成果を唯一のはなむけとして子供の髪に結わえてやったではないか。

 日脚の伸びた空の灰青色の層に月がかかり、森林は宵闇を含み始めた。オルト谷の口を目前に、子供は自分で横になり、眠った。


 舟は、オルト谷の出口の、内側に入った広い静かな水辺の岸にイーマ達を下ろし、二艘とも素早く岸を離れた。一行は岸から少し入った森の中で野営をした。

「さて、明日から後の話だ。」

 アー・タッカハルは皆と相談した。

「事の次第をニアキに留まる長たちに報せねばなるまい。だが、御子には長旅はさせられぬ。すぐにティスナに連れて行き、守女(シュムナ)ルメイに預けるべきだろう。」

「異存はない」水守の主幹が言い、他の者もうなずいた。

「だが、全員でティスナに行くことも無かろう。もともと男が行くところではない―――」オコロイが言いかけた。

「もっともだ。」タッカハルは静かに遮り、続けた。

「そこで二手に分かれるのが良いと思う。我らヒルメイは同族である故、御子に付き添い、ティスナに送り届ける。」

「私も同行しても良い。」水守の主幹は言った。「後のふた方にニアキに報告してもらおう。しかし、この近年は春先に事故も多い。分かれる前に我らが辿る道筋も確かめ合った方が良いのでは。我らが出立する時にはおいおい女達がティスナを指してニアキを発ち始めた頃だった。今も西回りの下道には旅をする女たちがいるはずだ。その者たちを見つけて託すのが子供にはもっとも安全だろう。礼儀に悖るとも思えぬが。」

門の守女(シュムナ・タキリ)には直々にこの口から頼みたいのだ。」

 タッカハルは断固として言った。

「私は嫌です。」焚火の向こう側で膝に顔を埋めていた若者が身を起こして言った。「女道なんか。」

 主幹たちは低く声をたてて笑った。

「アー・タッカハル、決定は明日に持ち越しては?どのみちここから“南の物見所”には登っていかねばならぬし、そこを休憩所にティスナに向かう女もいるかもしれん。」

 翌朝早く、一行はやや急な沢筋を辿って行き、一時も歩くと広いなだらかな谷間に出た。麓の方でたっぷりと淵をつくっていた流れも、ここではたくさんの小さな流れに分かれ、岸辺に薄緑の新芽の帯を伴っている。

 大股に沢を横切って渡る大人たちの間で子供は裾をびっしょり濡らしながらよろよろと歩いた。一言も話さなかったが、聾者でも啞者でもなく、言葉を解さないわけでもなかった。男たちは子供が手を取らないことに満足した。

 若者ひとりは子供から目を離さなかった。子供が立ち止まり両手で目を隠す仕草は愛らしく見えたが、水辺の小さな芽の上を歩くのを躊躇しているのだった。

 オコロイは子供が立ち止まったのを見てたちまち機嫌を損ねた。

「おい、おぶってやれ。」

 子供と共にしんがりにいた若者は黙って背を向けてかがんだ。子供がおずおずと両の肩に手を乗せると、若者はさっと子供を背にゆすり上げて、後れを取った距離を軽快につめていった。

 子供は広く厚い背中に頬をつけ、光が射しはじめた森を少しずつ視野を遠くに移しながら眺めはじめた。

 立ち並ぶ白銀の樹幹の遥か上の空には、精密な枝先に尖った芽がびっしりとついている。それらは全て天を指して立ち、芽がはじけると薄茶の皮は剥がれ、ふわりと風に払われた。子供は天を仰いで何かを呟いた。

 若者は立ち止まって、拳で汗をぬぐった。ふたつ目の大きな沢のほとりで、一行は小休止をとっていた。足音が戻って来て、ヒルメイの長が子供の顔を覗いた。若者の背にいる限り、子供の目は誰よりも高いところにある。

「疲れたか?」細めた目尻の皺は深く、声は低く枯れていた。

 子供は笑いかけた顔をくるりと反対に向けた。両手が若者の喉元に合わさった。長は、汗を流して弾む息をこらえている息子には目もくれず、休憩を終えた一行の先頭に戻った。

 若者は、先に行った者との間に開く距離を犠牲にして、仕事を楽にする道具をつくった。シナの若木の皮をはぎ取って、全長の中ほどを(こわ)い樹皮をつけたまま撓めて底にし、両側の残りはさらに削いでしなやかな靭皮のみにし、輪をつくって結わえ、その天辺と、左右に振り分けた手を蔓で結わえて固定し、担ぎ帯に仕立てた。

 こうして出来た簡単な背負子に子供を乗せ、振り分けた帯を交差させて胴に結び、若者はさらに鉢巻きを解いて、おぶさった子供の両脇から背にわたして端を結び、その輪の端を自分の額に引っ掛けて支えた。

 若者は、ちょっと具合を確かめるように肩をゆすり、子供は両手で、若者の、額、首、肩とつかまりなおした。互いの動きが止まった一瞬後に若者は歩きはじめた。

 日は高くなり、汗は容赦なく若者の顔を伝い始めた。面に落ちかかる髪が筋になってまといついた。若者はいまいましげに手を上げて汗と髪を同時に払った。恵まれた体格と明快な顔立ちだったが、サラミアの他に見る者のいない今は、その全身に不機嫌を纏っていた。常に不愛想で捨て置かれるのには慣れ切っていたが、今は何を不当と感じ怒っているのか、もはや分からなかった。

 先を行った大人たちの中に一声軽い落胆の叫びを聞き、若者は足を速めた。

 昨夜彼らが入った器谷(オルト・ハマ)は、イナ・サラミアスの長手尾根と湾曲した腹部の稜線に囲われた広大な谷間の中央下部に椀状に広がった谷間であり、一行は、その中心の水脈の北側に沿って登り、急勾配を避けて、椀の内の林と沢を横断し上辺へと向かっていた。上辺の南側の棚地となったところに“南の物見所”がある。しかし、水脈の中心の源流が一本椀の上を貫き、さらに上部の狭く急な谷を形作っているところで、その流れを渡るための橋はもはや取り除かれていたのだった。

 橋は、春と秋に女たちと幼子が居住地を移動する時のために設けられる。ニアキからティスナに向けて発った最後の一隊がここを通り過ぎてしまったのだ。子供を彼女らに預けるという計画は駄目になった。

 大人たちが沢の際で話し合っている脇で若者は子供を背からもぎ取ると、水に駆け寄って立て続けに両掌に五、六杯も干した。子供はその横で、縁の岩の間にたまった水をすくって飲んだ。

 水守(クシュ)の主幹がふたりに聖餅を割り与え、若者に相談の輪に加わるよう声をかけた。

「見てのとおり、この沢の今の水量ならば渡れぬことはない。だが、物見所から先は、女たちの通る道の他は北を回って行くほかない。お前なら成年前だ。下道を通っても咎められない。私たちはここから谷の上を回ってティスナの入り口まで行く。お前とそこで落ち合おう。」

 若者は男が指で辿る渓谷の上辺の斜面を見た。どうということはない。子供の頃から何百回と通った道だ。数年来の厳しい冬で沢筋に雪は残るが、こちら側は渡渉地点と目するところまですっかり地面が出ている。

 自分も上から行く―――そう言いかけて、若者は渓谷のさらに上に真昼の光を浴びて輝いている長手尾根の雪壁を見て身震いした。谷間じゅうに細糸のように流れ出している水はそこから来ている。薄皮が剥がれるように雪が緩んできているのがこの男にわからぬわけはない。若者は水守の主幹の穏やかな顔を見返し、強く首を振った。

「男が三人も行く必要がありますか。私ひとりで十分だ。」

 アー・タッカハルは、旅が始まって以来、初めて息子にまともに振り向いた。

「何を言うか」タッカハルは誰に対してもほとんど見せぬ露わな怒りを息子に向けた。

「何も知らぬお前ひとりを遣いにやっては、ヒルメイのとんだ恥さらしだ。」

 子供は、老長の声に立ちすくみ、そっと若者の陰に隠れた。

「どのみちこの子を背負って行ってティスナの女たちに預けるのは私の役目でしょう?女たちに守女シュムナルメイへ言付ければいい。イサピアが本物で巫女が必要ならルメイもこの子を引き取るはずだ。」

「ただの子ではないのだぞ。わしが直に赴いてこそ義理が立つのだ。」威信を保とうと赤く染まったこめかみの上に白髪が震える。

「ただの子だ。」若者は子供をちらと見て言った。

「それに誰への義理ですか。あのクシガヤの媼にすればイナ・サラミアスの誰に対しても言う言葉はひとつ。」若者は父に一歩踏み出し声を低めた。「この子を殺すな。」

 たちまち、タッカハルの拳が若者の頬に飛んだ。少し離れて地守ウナシュの主幹と沢の脇に座っていたオコロイが若者に声をかけた。

「顔は兄のアケイルにそっくりになってきたが思慮も浅ければ品行も兄には遠く及ばんな、若いの。」

「黙ってくれ」若者は荒々しく言い捨て、父を見返して言った。「では、言いますが、私はあの尾根の雪が気に入らないんだ。」

 水守はうなずいて、父と息子の間に入った。

「アー・タッカハル、ハルイ―は雪崩の心配をしているのだ。もっともな話だ。私もこれを軽く見てはいない。」

「それならそうと言えばよい。口答えや侮辱はいらん。」タッカハルは顔をそむけて言い継いだ。「考えなしと思い上がり。それがお前だ。」

 むっつりとうつむいてしまった若者を励ますように水守(クシュ)の男は言った。

「ハルイ―、お前の心づもりを言ってくれ。」

「今、ここで沢を渡り、物見所を過ぎたら高回りして湖の盆の北から入り、ティスナで子供を預ける。」

「その後は?」

 男の両脇で父と子は目も合わさない。

「ティスナを出て、どこかの狩に入る―――それともクマラ・オロまで兄たちを手伝いに」

「アー・タッカハル。異存がなければ、ハルイ―にルメイへの言付けを教えてやってくれ。私は彼を信頼する。」

 男は若者の目を見て言い、谷間を、森林の中へと流れ下る水の白いしぶきの段を黙って眺めている父親を促した。

 若者が沢を渡るにあたり、水守の主幹は、膝の上まである速い流れを命綱をつけて渡渉し、岸に綱をぴんと張り渡して手掛かりをつくった。

 若者は腰に短刀を帯び、一方には丸めた外衣と水筒、そして糧食となる聖餅をまとめてくくりつけた。最後に子供を背負い上げた。

 主幹たちが少し離れて見ている中で、ヒルメイの長は息子が、ひと足を水に踏み入れるまで付き添っていた。

「父上、もう行ってください。」

 若者はわずかに顔を向けた。

「気を付けていくのだぞ。必ずティスナで御子を渡すのだ。女たちがルメイへを恐れて聖地まで子供を連れて行くのを嫌がったとしても、自分で“聖地”ティウラシレに入ろうとしてはならん。女神がお前を見ていないはずはない。くれぐれも見込まれないように注意するのだ。」

 タッカハルは言葉を尽くした。しかし、若者は言った。

「私への言葉ならもう聞きましたよ。道中ご無事で、父上。さようなら。」

 老いたヒルメイの長は息子を見守った。背負われた子供が時折、振り返り振り返りして微笑んだ。タッカハルは子供の笑顔と、その度に川床を踏みしめて流れに堪え、振り返る素振りもない息子の両方に胸を苛まれながら沢を離れた。

 若者は沢を渡り終えると、綱の端を解き、長い小石に結わえ直して向こう岸に投げ返した。

 ほどなくナラの木の元の物見所を過ぎ、若者はそこから少しだけ南へ下り、桂の木の根元の泉で水筒の水を満たした。もう少し南に行けば女たちがティスナに行くために使う道に行き当たる。若者は泉から少し北に引き返し、そこからまっすぐ東を指して登り始めた。流れをまたぎ越え、大きく身をかがめて枝をよける時も、子供の足はぶらんとしていた。若者は子供が眠ったものと決めて歩くのに精を出した。

 太古の大きな火口は、その内を隠しながら北西側の盆の際を近づけてきた。

 森林に縁どられたすぐ下は輪状に落ち込み、白っぽい岩石の肌があらわれている。盆の内には幼蚕の湖(クマラ・シャコ)と呼ばれる湖とその湖畔の女たちの集落があり、さらに背後の嶺から発し、聖地と幼蚕湖を繋ぎ、山裾のコタ・シアナのへと切り進む“聖なる川(コタ・ミラ)”がある。しかし、若者のいる位置からは見えない。聖地には、その水の流れるところ、幼蚕湖畔を含め、男は踏み入ってはならぬのだ。ティスナに入れるのを許されるのはまだ母のそばを離れられない五歳までの子供か、特別な命を帯びた少年だけだった。

 夕方、湖畔は影の中に入り、東になお高くそそり立つ嶺は紅の陽光に照り映えた。

 火口の盆の外側の斜面を登りきると、厳しい登攀の火照りを、今度は嶺から湖へと吹き下ろす冷たい風が奪ってゆく。若者は背を丸め、同様に吹き撓められた裸の樺の傍らを横ばいに下りて行った。

 勾配が和らぐと、若者は顔を上げた。木立ちの向こうに岩石の混じった岸辺、風にさざ波立つ暗い水面、そのはるか奥に灯火がいくつか漏れ見える。さらに進むと、湖とその東から南にかけて小さな家々が閑寂な佇まいを呈して散っており、灯はそこから漏れているのであった。

若者は子供をおぶったまま、北岸の森の境を右側に辿り、集落を指して歩いた。白樺の林の向こうに桑の林があり、その奥には棚田の裾がかかる。このまま行けば、嶺から下りくる聖なる川と、それに沿って作られた白い石畳の参道に行き当たる。大人の男が近寄ってはならぬ場所だ。若者はかろうじて成年前だった。彼は静かに橋に通じる道を駆けて行った。

 湖に接した山腹の南東は急峻な岩壁であり、その一端を平らに穿ち、すぐ背後の壁に寄せかけるようにして作った差しかけ小屋がある。ここがティスナの本丸だ。昨秋のニアキへの移動の折に身籠っていた女達はティスナに留まり、冬を越す。差しかけ小屋は言わば玄関間であり、その奥は崖の中に広がり、女達と蚕種の冬ごもりの宿となっている。暖の光は、粗い曲がりくねった樺の垣の奥で、岩壁の窓から煌々と漏れていた。

 若者は、崖に向かってクマタカの鳴きまねをした。木戸が開き、ひとりの女が手火を持って出て来た。寡婦となり年老いて、年中ティスナに留まって、産婦や赤子の介助をする女であった。

 女は段を下りてくると、一寸火を上下させ、若者を見て疑わしそうに眉をひそめた。若者はどう見ても一人前の男に見えた。若者は子供を背から下ろし、前に出した。

「ニアキから父タッカハルの命で来た。」若者は凍える寒さと、ずっと歯を食いしばっていたためとで言いにくそうにしながらも、間を置かずにきびきびと用件を言った。

「この子はコタ・シアナの水郷(クシガヤ)から長たちの審査と承認を得たタナの後継だ。ここでお引渡しする。聖地までこの子を連れて行き、この旨を門の守女(シュムナ・タキリ)に宜しくお伝え願いたい。」

 途端に女は警戒と戸惑いの表情を見せ、次いで、道理の分からぬいたずら坊主でも見るように目を細く寄せた。

「私らにそんな使いはできん。」

 若者は嘆息しかけて、辛抱強く尋ねた。

「どうして?あんたたちは川沿いの参道を通っていけるんだろう。」

「シュムナ・タキリが水門を開ける日を決め、“聖なる川”に田に入れる水を流す。それまでは危ないので参道は通れない。」女は当たり前だと言わんばかりにつけつけと言った。

「ルメイを呼んでは?」若者は畳みかけた。

 女は啞になったように見返すばかりだった。

「わかった。」若者は言い、東の嶺を目で辿った。日は暮れ、山塊は黒く聳え、侵しがたい様相を構えていた。

「明日になれば何とか送り届けよう。だが、もう夜になる。」

 女は首を振った。

「ヒルメイの若いの(アート)。あんたは成年前だったかね?」

「十七だ。」

「だけど身体はもう大人だ。ここより先には入れられないよ。子供は今夜預かろう。」

 若者は肩をすくめた。「それでいい。」

 子供は女に促され、心細げに若者を振り返ったが、黙って女に従って、ざらざらした岩がちな地面を歩いて行った。若者は女に言われた通りに森の中に戻り、朽ち葉をかき集め、その上に頭から外衣にくるまって横になった。

 翌朝、老女に連れられて森の際までやって来た子供は、若者を見るとまっすぐに駆け寄って来た。二日の間に子供の顔は蒼く、ひとまわり小さくなったかのようだった。ルメイがティスナまで降りてくる時まで女達に預かってもらうことにしようか、と思案していた若者はすぐにその考えを捨てた。子供は明らかにここを出たがっている。そしてルメイは少なくとも子供を大事にするはずだ。初めからこの子の命を助けよと言っていたのだから。

 北東の斜面の裾まで歩いてから、若者は子供を背負い、登り始めた。

 背に揺られながら子供は辿って来た道を眺めた。足の下に広がる傾斜の底に青黒い幼蚕湖(クマラ・シャコ)の水が平らかな面を見せている。その端に日の光が届くと、細々と樺の木が縁取る際の方から微かなさざ波の反射が見えた。崖に張りついた小屋や、家々は、岩石の色と陰影の中に溶け込み、位置すら窺えない。

 尾根筋に出るごとに木立ちのあいあいに垣間見えていた湖は、次第に遠く全容を見せ始めた。聖地から来る水に満たされ、その際から溢れた分が下コタ・ミラを経てコタ・シアナの一端へと注ぐことになるその面は静止している。

 やがて谷の底に、幼蚕湖(クマラ・シャコ)に注ぎ込む聖なる川の一端が見えた。弛みない水の帯に沿って、白い岩が雪のように縁取っている。子供がゆるやかな階段のような参道を目にした途端、若者は急な斜面を横断し始めた。背は前にかがみ、上にゆすり上げられた子供の目の前から湖と川はふっつりと消えた。若者は左へ左へと回りながら同時に上の方へも登っていく。

 子供の背負われた身体の半分は空にあった。下で支える背の張りつめた筋肉が動きを止めるたび、子供は身を固くした。ひんやりとした陰があたりを包んだ。止まったまま身体がすうっと下がる。鋭い呼気の音に続いて、背筋をくすぐる軽快な摩擦音が、呼気を追いかける。若者は北東の斜面に大きく広がる雪渓を横切っているのだった。岩場にたどり着くと若者はこの上なく慎重な足取りに戻りながら息を整えた。

 少しずつ傾斜がゆるやかになり、両手が岩から離れ、そこここにハイマツとナナカマドが身の丈よりも低く枝を広げたところに差し掛かると、若者の足は早まった。子供は人形のように揺られるままになっていたが、しまいに冷え切った小さな体を震わせたと思うと、頭を乗せた若者の肩に、苦くて酸っぱい水を吐き出した。若者はすぐに足を止めて子供を下ろした。子供は背をさすられるのを嫌がり、口を漱ぐ水も受け付けなかった。若者は自分の外衣で子供をくるみ、座らせた。そして日の光が子供を暖めるのを辛抱強く待った。それから少しずつ水をやった。

「歩くんだ、レークシル。」若者は子供に言った。「この水がどんなにいい薬だとしても、お前の心臓が怠けていたんじゃ、効かないぞ。」

 手を取ってやると、子供は大人しく歩いた。

 靄が晴れてくると、東には絹雲を纏うたなだらかな稜線があらわれ、彼らのいる所は真綿を方々に置いたかのように雲に接した、光の明瞭な高原であった。そして南西へとその先を辿って行けば、直下に落ち込んだ白い岩壁があり、その下に蒼い陰に沈んだ聖地がある。岩壁の両側の斜面から聖地に至るまではイスタナウトの森だ。繊毛のような梢が斜面を覆い、芽吹きの薄緑の霞がかかっている。幾筋もの銀の糸がその間から紡ぎだされる。森からばかりではない。白い岩壁に光の端が当たりはじめると、壁面は一斉に眩い輝きを吐きはじめた。高原からの水が長年にわたって筋目を穿ち、何層にもわたる列柱の回廊を作り上げたのだ。絶えず水を通す石柱が光を受け、ティウラシレ“白糸束”の名の故となる景観を呈している。

「これからあの下の棚に下りていく。」若者は指差した。

 岸の裾は突出した奇岩の畝となって絶え絶えな牙の間からどっと水を吐き出していた。そして斜面の森から来る水をもあわせ、ゆるやかに聖地の広い底へと集っていた。堀ともいうべきところにひとわたり溜まった水は、堰の上辺から溢れ、段々と折れながら下り、幼蚕湖クマラ・シャコに向かって聖なる川を生んでいる。

 これらを望む嶺の上で、子供は谷間に引き寄せられるように真っすぐに歩んだ。

「ここからの下りは険しい。背中に乗れ。」

 子供は傍らにしゃがんだ若者を見やった。

 崖を窺いながら子供が乗るのを待っていた若者は、自分を見たその劫を経た眼差しとともに信じられない重さにぞっとした。両膝ががくりと地に着いた。彼の背で子供はウグイスが囀るように笑った。

 聖地への下りは白昼の悪夢のようであった。岩を下り始めてすぐに、若者には上下も距離も、自分の身がどこまでなのかすら分からなくなった。目に映るものは信用できず、触れるもの、触れぬものすべてが脈打つように揺らめいていた。彼は、自分の皮膚の内側を流れる血が岩肌に強く押し付けられるためにそう感じるのだと思った。他にどう考えられよう?掴んでも掴んでも、まるで砂の像を掴むように、身体がじわじわと流されてゆくようだ。そして天と地とは互いにひとつになろうとするかのように若者を間にして恐ろしい力で閉じてくる。胸が苦しく、脂汗が流れた。

 かつてここに来た者たちはどうした?彼は自問した。そう、このレークシルの父であった男は半身の利かない者ではなかったか。一体どうやってこの聖域に入った?

 若者の背で子供が動いた。頼む、動くな。若者はそう叫ぼうとした。少し気が逸れれば真っ逆さまに落ちそうだ。若者は動くのを諦めた。全身全霊を傾けて出来る事は、ただその場にしがみつくだけだった。

 子供の手が両のこめかみに触れた。額にぴんと細いものが当たった。子供がぎこちない手で自分のリボンを若者の頭に結わえたのだ。

「この男は私のもの。」子供は言った。細いが地を貫く鋭さを持っていた。

「道を開けよ。」

 途端に、若者の四肢を押さえつけていた力は全て吸いあがるように背に上がり、子供の重みに加わった。崖の壁はしっかりと形をとり、大気は通った。手足は現の感覚を取り戻し、動きは自由になった。ただ、その荷の重さときたら無かった!ひとつひとつの動きに全身に痛いほどの力が要り、こめかみで血潮がとくとくと音をたてた。若者は、彼を底まで引きずり降ろそうとする重さに必死で対抗しながら、少しずつ下りた。

下りがなだらかになった頃、子供は自分から担い帯を抜けて弾みをつけて飛び降り、一輪草のほころんだイスタナウトの林床に嬉々として駆けて行った。若者は着衣のまま湯からあがって来たような有様だった。彼はよろめき、顔を振って汗を振るい落とした。

 子供は、若者の周のあちこちで跳ねまわり、しゃがみ込んで咲いている花を覗いたが、時折振り返った。若者は、でんぐり返りそうになる地面を踏まえて眩暈と動悸が収まるのを待った。それからすべての荷を放り出して、大の字なりにひっくり返った。食べ物を差し上げて呼ぶと子供は食事をしに戻って来た。食事が終わると、若者は子供の姿を目の端にとどめながら、好きなように歩かせた。こうして、日の傾くころには、子供は全ての道を歩き通していた。

挿絵(By みてみん)

 森を抜けると谷間は早くも薄い影がさしていた。若者はあちこちを見やりながら、縁石で整えられた平らかな水辺を歩き回った。住居らしいものは何も見つからない。白い崖から水の真ん中に突き出している巨大な奇岩は、近づくとアーチ状の穴だらけで、中には大きな窟もあろうと思われた。見れば牙状の岩を列した窟の前から水に潜って平らな石が並び、近くの岸まで繋がっている。

 若者は子供を抱え上げて水を渡ろうとした。が、その時、牙の門の脇に背の高い女が立っているのに気が付いた。

「ルメイか?」

 若者は叫んだ。女は答えずにじっとこちらを見返している。若者はそのまま水に足を入れようとした。ごうという音が頭上から落ちてきた。東の崖の列柱が膨れ上がり、泡を立てた水がどっと押し寄せて、たちまち沈下橋を渦の中に隠してしまった。

「どうしたんだ。」若者は毒づいた。「ナスティアツで大雨でも振ったというのか、この結構な空で!」

 子供は身体をねじって若者の腕から滑り降りた。その肩に片手を置き、若者は水の轟音にも負けじと声を張り上げ、女に言った。

「シュムナ・タキリのルメイ。私はヒルメイのハルイ―。父タッカハルの命でこの子を送り届けに来た。かの女(タナ)の後継とされる子だ。」

 女は測るように子供に目をやった。

「では、おいでなさい、水を知ろし召す子よ。」

 子供は岸辺に寄った。見る間に水は捌け、橋は一寸ほど水面から顔を出した。子供はためらわずに石の上を渡って行った。若者は怪しみながら続いた。

 ルメイは特に子供を招き入れるでもなくその場に立っている。高い上背、ハコヤナギの樹皮の色の長衣はすらりとした身体を端然と包み、端正だが鼻梁の高い、頬に肉付きのない顔はむしろ男に近い造作に見える。さほどの齢ではあるまいが、分けて束ねた鬢には銀色の筋がいくつも見られる。

 女神サラミアが憑人(よりまし)となる巫女を替えて世代を継ぐように、門の守女(シュムナ・タキリ)ルメイも襲名するものであるとされている。出自は単一の家系ではなく、ティスナで生まれた女児の内ではあろうが、秘密は女たちの間でのみ固く守られ、男たちには謎のままであった。実の父ですらその存在を知らぬと言われる。おそらく望まれざる双生児の片割れではないか、と、若者は噂を耳に挟んだことがある。まさか何千年にもわたってただひとりの人間ということはあるまい。

 若者はついうっかりとルメイを見つめていた。この女が幻術を使ったのか。それで水が増えたように見えただけだったのか。しかし、ルメイの目は驚きをこめて彼を見返した。

「水が増したのは()()故か。」

 いま初めて目に入ったと言わんばかりに女は呟いた。

「あんたじゃないのか。」

 無礼と無礼とで相殺だ。若者は横柄に応えた。女は黙って子供の様子を目で追うた。子供は奇岩の柱廊を、水辺から水辺へと覗きながら巡っていた。中ほどに平たく迫り出した一枚板があり、その先には鏡のように静止した水面が広がっていた。子供は上から覗いた。若者はその後ろから、前方五間ばかり先にある堰と、子供の足元の直下から堰までの間に横たわる花崗岩を畳んだ廊を認めた。これも水の下に沈んでいる。そしてその途中に、さらに深い闇を湛えた円形の井を備えている。女はつと若者と子供の間に割り込み、静かに子供の背後から両肩に手を置いた。

「急ぐことは無いのですよ。」女は子供に言った。「あれを見る前にあなたがすべき事はたくさんある。」

「レークシルだ。」

 若者は女と自分の両方に腹を立てながら口を挟んだ。この女が子供にとって何者かも分からぬうちに引き渡してなるものか。一度水に流させた子を、連れてこられれば当たり前のように指導下に置こうとするのなら、どう扱うべきなのか言ってやる。

「それが名だ。そう呼んでやらないのか。呼ぶ名が無ければ不便だろうに。」

「時が至れば相応しい名で呼ばれるようになるだろう。」

 女は冷ややかな眼差しと独特の気だるげな声で答えた。火照りを削ぐような、高地の霧のような冷淡な声音だ。だが、若者の腹立ちはかえって極まった。彼はイナ・サラミアスじゅうのどの女よりも色白の顔に、褐色に焼け、汗で髪の張りついた顔を突き合わせた。

「父もそう言った。おれはその名が嫌いだし、イナ・サラミアスの者が誰も、その子を今の名はおろか、どんな名でも呼んでやろうとしないのが嫌だ。あんたもその中のひとりだな。誰彼とは違い、その子に触れるのは平気なようだが。恐れてはいないが、やっぱり等し並みに扱ってもいない。なぜ、そんな年齢(とし)の子を名も呼ばずに世話できるのか、おれにはわからん。」

「若者よ、お前の言う等し並みとはどういうものなのか私には分からぬ。」女は言った。

「それに、お前の望むように御子を遇するのは私の仕事ではないし、お前の憤りも私には与り知らぬ事だ。」ふとその瞼があがり、若者の目の奥を見た。

「民とお前とは違うと言いたいようだが、では、お前は何故この子供に触れるのを恐れぬのだ。」

 若者は一度も考えたことのない問いに思い悩むでもなく答えた。

「皆はこの子に死の影を見て恐れている。黄泉がえりをしたものとして。そして、この子が還って来たために、イーマの民は血に染んだ手を見つめ続けるしかない。民の者は罪に怯えている。おれはその罪とは関係ない。そして、その子とは同じ穢れを分かち持つ。肉親を送り、自分のみ黄泉がえりした者同士だ。しかし、おれには、おれ自身と同じく、その子が生きていることが分かる。その子の飢えも分かる。だから触れるのは怖くない。」

 ルメイは若者から目を離し、子供の背を押し、奇岩の中の窟へと向かわせながら言った。

「夜になる前に立ちされ、ヒルメイの若者よ。ここの水を操るのは私ではない。子供は眠ればお前を忘れる。眠るものは手心を加えぬ。熊の顎を逃れたように水の難を逃れられるとは限らぬぞ。」

 その子は大事に扱われるのか。せめてティスナに来る娘たち、子供たちと会うことは出来るのか。

 喉元までこみ上げる問いをする間もなく、若者はひたひたと迫る水の音を聞いた。柱廊の低い部分は水を被り、橋は水で洗われはじめた。

 女の、長々とした編み髪と白茶の長衣が、傍らに小さな姿を従えて、粛々と窟の奥へと遠ざかって行った。小さな影は肩越しにちらりと振り向いた。その顔を見ずや否や。

 若者は踵を返して、既に水の下にある橋を一息に走り切った。最後のひと足を浚わんばかりに水は窟の周囲を流れ下った。

若者には、窟の中で子供がどう遇されるのか思い巡らす余裕はなかった。まして、休息をとっている暇は無かった。ルメイが口にした不吉な予告は、この“聖地”へ下って来た身としては十分な警句であった。彼はほとんど脇目もふらずに、薄暗い陰の中で銀灰色に輝くイスタナウトの森まで駆けて行った。そこに放り出した荷のあらかたが残っている。

 額の細紐にふと、手が触った。谷を下るときに子供が彼の額に結んだものだ。“聖地”から赤子の命を守ってコタ・シアナまで流れていった神蚕の糸を、クシガヤの娘は細紐に織って子供の髪に結わえ、その子供が彼に与えて“白糸束(ティウラシレ)”に入るのを可能にしたのだ。

 ふいに胸に湧きあがった未練に若者は戸惑った。振り返る儚い姿。すがりつく小さな手。すべて自分が民を飛び出す機会をつくるために引き受けたものに過ぎないじゃないか。ここを出れば、巡行する狩猟の小集団を避けて東の嶺を回り、南のエトルベールまで下り、タシワナあたりでコタ・シアナを越える。そのころには今日どころではない冒険の何くれで、すっかり忘れているだろうさ。

 それでも、彼は二度目の敗北を喫したのだという思いを拭い去ることは出来なかった。―――兄たちの命を召し上げたサラミアは、水占を生きのびた小さな子供をも憑代として連れ去った―――。

 若者は、細紐の上から鉢巻きを締め直した。おれは西に行く。はるか遠く、アツセワナか、イネ・ドルナイルか。鋼を手に入れるんだ。お前を思い出したら戻って来るかも知れないな。お前を虜にするだろう者に勝つために。

 彼は幸先の良さを信用してはいなかった。なぜなら、早速ひとつ手抜かりのあることに気付いたからだ。ルメイに水を頼むことを思いつきもしなかった。腰の水筒をゆすると、半分くらいある。が、からからに渇いている喉を勘定に入れなかったらの話だ。若者はひと口含み、ゆっくり飲み下した。そして木々の間から北東の斜面を登り始めた。


 “白糸束(ティウラシレ)”は、水から成る聖地であった。そして巫女の住居は三方を水に囲われた窟の内にあった。日々の生活のためのみっつの部屋は、天然の空洞をそのまま用いたものであった。

 ルメイは、牙の列柱から南の方に迫り出した廊を辿って子供を連れて行った。大理石で畳まれた廊の床は平らに磨かれ、広い間隔で浅い三段の上り段になっていた。南側の、奇岩のアーチ屋根が半ば差し掛けた露台にたどり着くと、ルメイは丸く抜けた天窓の下の御手洗で子供に手水を使わせた。水盤の水は樋を通ってさらに水槽に落ち、下部に通った水路から外へと流れ出す。しかし、つい今しがた通って来た床は、一段低いところまで増して来た水に浸かっており、水路の縁石にはひたひたと水面が迫った。

「あの男のせいか。これほど水があがって来たのは初めてだ。」

 ルメイは呟き、子供を手招いた。窟の奥に向かって小部屋があり、岩壁を掘り抜いた小さな炉がある。

 子供は炉の前に立ち、目をぱちぱちさせた。おかしな炉だ。小さな洞窟のような火床には燃えさしの木切れと石の五徳が置いてあるきりだが、ちょうど子供の目の高さの宙にぼんやりと青い火が浮かんでいる。微かな音をたてて炎が煙出しの方に伸び、ふっと熱い風が顔に吹きつける。

「“生命の火”です。決して絶えることのない。」

 ルメイは、炉の脇に積んだ薪を取り、青い火にかざした。薪はやがて赤い炎を放って燃え上がった。ルメイは薪を火床に置いた。

 すっかり闇に包まれた谷の中で、狭い小部屋の壁は、あかあかと照らし出された。水郷の小屋と同じく、中にはほとんど何もない。枝を編んだ円筒形の腰掛け、食器や刃物を片付ける行李、樹皮を編んだ敷物。葦壁の代わりに、白と灰色の入り混じった縞模様の岩壁。そこには吊り棚があり、樹皮を縒った紐や糸巻きが置かれ、解体された機の道具が束ねて立てかけてある。岩壁のさらに奥に一枚、細枝を糸で綴った(すだれ)が掛かっている。

 子供はくるりと、開放された入り口を振り返った。露台の水盤からこぼれる水はきらきらと輝き、その向こうには天につながる闇があった。子供は露台に出、迫り出した水盤の上を仰ぎ見た。丸く抜けた天窓の中に、見たこともないほど大きな星々が、いまにも今にも色とりどりの光の雫となって降ってきそうに散りばめられていた。

「星が見たいのですか?」ルメイの尋ねる声は独り言のようだった。

「それとも、昼の訪れる東の空を?」

 子供は爪立っていた足を下ろし、黙って水盤にもたれた。炉辺に端然と跪き、火の上に薪を積むルメイの前で光は強さを増したが、その姿は逆光の濃い陰によって足元から闇に繋がれていた。ルメイもまた孤独であった。

「あなたの丈が伸び、時が至ればあらゆるものが見えるでしょう。心と身をひとつにするあの方の名があなたの名となりましょう。」

 ルメイは手燭に火をうつし、子供を促して窟の奥へ移った。簾の奥には、窟の深部へと至る大扉があり、脇に向かい合うようにしてふたつ、寝所が設けられている。木の扉を開けると、一間の幅いっぱいの寝台と身繕いのための狭い床があるきりだ。天井ばかりは高く、外に広がって湾曲した壁の遥か上の方に、横ざまにぽっかりと穴が空いている。そして、はるか遠くの地の胎内を流れる水の音が、調子を様々に変えながら聞こえてくるのだった。

 扉が閉まり、灯火の光は追い出された。子供はぴったりと身を付した。

 何もかもが闇にとっぷり包まれている。もはや室の狭さも、天井を貫いて地の腹に至る空洞の遠さも関係はない。一体となった闇の中には自由に馳せる魂だけが存在する。

 子供はそっと声を放った。声は細やかにもつれて昇っていった。

 やがてその耳には、遠い地の懐にいる幾千万の蛹のまどろみが返って来た。水の音に揺られながら、子供の呼吸は眠りの波へと誘われていった。


 霧が谷間を覆う早朝、子供はイワヒバリのさえずりで目覚めた。ルメイが子供に声をかけ、(とこ)を整え、水盤の水で洗面をさせた。炉に新しい薪をくべ、火を燃え立たせる。黍を洗い、土鍋に入れて火にかけると、子供に肩まで覆う頭巾を被せ、外に連れ出した。沈下橋を渡り、イスタナウトの森に入っていった。

「この木をご存じですか?」

 ルメイは尋ねた。子供は黙っていた。

「あなたはまだ生まれたばかりの方、お教えしましょう。“かの女の現る木(イス・タ・ナ・ウト)”。意味はいずれお分かりになる。今はまだ春先ですべては眠っています。あなたも、この木も、蚕種も。ゆくゆくは、あなたはこの木の新芽をもって神蚕(しんさん)を養われる。」

 堰の先に出来た広く浅い水の帯は、下るに従い、丈高く両側から木々が迫り、一本の急峻な谷川を形作った。谷川の傍らには花崗岩の参道が沿いつ離れつ続いている。石段の真ん中は摩滅して窪み、長い年月とティスナとの繁き往復を物語っていた。

 ルメイは子供を伴い、参道の初めの足休めまで石段を下りて行った。勾配のなだらかな斜面には、少し背の高くなったイスタナウトに、様々な小木が入り混じりはじめた。

 カエデは紅色の芽を出し、ガマズミは皺のよった小さな丸葉を広げはじめていた。林床には透き通るような薄紅の花びらがほころんでいた。子供は駆け寄って行った。

「地上の花にすぎません。」ルメイは自嘲するように言った。

「高貴な魂は“神々の集う野(ナス・ティ・アツ)”に生まれ変わる。そこでは永遠に春が続き、花々は古びることがない。あなたのご両親もそこにおられる。」


 イスタナウトの梢の中ほどの芽がほころびはじめると、ルメイは子供を淡い緑に包まれた谷川の脇の参道まで連れて行った。子供は風の中に微かな煙の匂いをかぎ取った。ティスナの女たちが、湖畔の南西の畑に火を入れた合図であった。

「ティスナの女たちが畑を焼くときには、水路の修理も終え、水を田に引く準備も整っています。あなたは水を司る方。麓からやがて水を請う歌唱(ヨーレ)が来れば、水を送らねばなりません。」

 子供はしゃがみ、手で水を少しかいた。小川の水は何も変わらなかった。

「後でお教えします。しかし先ず、イスタナウトの芽吹きとあの煙の合図との折り合いを見て、あなたが取り掛かるべきものがあります。」

 窟へ戻ると、ルメイは奥へと子供を連れて行き、閂で閉ざされている大扉の前に進んだ。重い閂を外し、脇に立てかけると把手を持ち、両開きの扉の右を引き、次いで身体を内側に滑り込ませて全身で押し開いた。左も同様に開き、手燭を持って暗い洞穴へと子供を連れて行った。

 洞穴の径は扉の内側ですぐに小さくなり、ルメイの頭の上すれすれに左下がりに大岩が横たわり、左横を閉ざしていた。天然そのものの岩の間に大小の石を埋めて段状にした通路が右側に上ってゆく。身をかがめ、裾をたくし上げるようにして進むルメイの足元を、子供は両手をついてよじ登った。

 通路の脇の壁が窪んだところでルメイは足を止め、子供の手をとり、引き上げた。手燭を置いた壁龕状の棚から揺らぎ出る明かりが、花盛りの木とまがうものを映し出した。

 切り束ねた枝がほの白く、繭をたずさえているのであった。通路に沿い棚状の溝が走り、繭玉の花をつけた木は、風の流れてくる奥に進むごとに現れた。

「眠っているのです。」ルメイは言ったが、子供は鼻柱に皺を寄せた。その中には死んだものも混じっている。

 足を擦るようにして行くと、だしぬけに両の壁は消え、巨大な円天井を備えた大広間に出た。地面は砕石を敷き詰めて均してあった。壁にはぐるりと岩石の縞目が走り、深い亀裂のどこからともなく冷たい風が流れてくる。穿った壁龕に切り枝が立てかけられている。

「神蚕の蚕種です。」ルメイは言った。

「さあ、手にお持ちなさい。しっかり両手を添えるのですよ。」

 子供は引きずるようにしてやっとで両手に抱えた。枝は、昼間も暗い大扉の外側にまで運びだされ、床に穿った穴に差しておかれた。こうしてゆっくり蚕種の目覚めを促すのだ。

 ティスナで女たちが歌いながら苗代を均しはじめた頃、ルメイはシナノキの皮をよく縒って作った糸を出してきた。彼女はイスタナウトの下に座り、子供のおぼつかない手に手を添えながら、子供の両腕の幅ごとに、糸に鳴子を結びつけるのを教えた。これは枝々にぐるりと張り巡らし、小鳥が幼虫をついばみにやって来るのを防ぐためのものだった。

 七夜が過ぎた。夕食を済ませると、ルメイは蚕種のついた小枝をひと節ごとに切り離して籠に差した。枝にはどれも暗緑色の玉がついていた。

「夜明けまでにこれをイスタナウトの枝に結び付けるのです。葉もちょうど小虫の食べよい柔らかさ。遅れてはなりません。」

 翌朝はこぼれんばかりの満天の星空から始まった。

「早く。日の光の届く前に。」

 “白糸束”のイスタナウトは細くて背が低かったが、それでも子供には一番下の枝さえ手が届かなかった。ルメイは息を弾ませながら時折空を見やった。子供には果てしなく遠い朝が、ルメイには容赦のない追っ手なのだった。

「さあ、これでもうお終いですよ。」ルメイが言い終わった時には、もっとも明るい星のみが東に残り、それさえも迫りくる大いなる昼の色を予測して輝きを失いかけていた。水際を取り巻く二十本のイスタナウトには蚕枝が結び付けられ、訪れ来る光を今かと待ち望んでいた。子供は木の幹にひとつひとつ触れて駆けまわった。ルメイは冷えた手を額にやって目眩がおさまるのを待ったが、やがて子供を呼んで食事の支度に掛かりはじめた。

 日が高くなると、風に乗ってティスナの方から女たちの歌声(ヨーレ)が聞こえてきた。


 五穀の霊のゆりかごは整いました

 かごを抱き揺らす水を 水を


 ルメイはすくと炉の前から立ち上がった。廊から靴を脱いで段を下り、そのまま水の中を、堰の方に向かって歩いた。堰の際まで来ると、腰までつかった水の中にある閂を上げ、水門の扉を左右片方づつ押した。

 水門は木枠の中にぴたりとはめ込まれた、片端を枠に軸でとめられた五枚の板で成る。もう片端は枠の外側の上辺の長柄に連結され、外側に押し開くと五枚の板は並列に振り動かされ、堰口から等分の弧を描いた水がほとばしった。

 左側の長柄をも身体じゅうの力をかけて押し開くと、ルメイはよろめいて床に手をついた。垂れた黒髪の先から水は八方に逃げるように大きく引き、彼女を乗せたまま、水の中心を貫く花崗岩の露台が姿を現した。水が捌けると、露台はまっすぐ窟の廊と通じていた。

 廊の端で立ち尽くしていた子供は、出来たばかりの露台の通路を駆けて来た。肌を真っ赤にして冷たく濡れそぼっているルメイの袖をつかんで露台の端から水口を眺めた。水は櫛削られ、泡立ち、白い道の脇を駆け下って行った。間もなくティスナから歓喜の叫びがあがり、歌は水を請う詞から感謝の詞へと変わった。

 夕刻、ティスナから参道を通って四人の老女がやって来た。苗代に播く種籾を聖水の槽に浸すために運んできたのであった。ルメイと四人の老女は炉の前で火と水の番をしながら夜を明かした。

 翌日、ルメイは女達と一緒にティスナへ下りて行った。すべての場を聖水で清め、種蒔きに立ち会うためであった。子供はひとり窟に残されることとなった。ルメイは聖餅の切れを食事として包み、子供に残していった。

 “白糸束(ティウラシレ)”の細い流れは、谷間のせせらぎをも集め、終に幼蚕湖(クマラ・シャコ)へと注ぐ。明るい北面の湖畔にはカバの林があり、山塊の影の落ちる南面から“聖なる川”へと流れ出る静かな斜面には、森閑としたイスタナウトが立ち並ぶ。ティスナへ下って行けば、“聖なる川”の辺にもそこかしこに大木が立ち、若葉を漉した光を注いでいる。いつもは日がな一日、流れる水と参道の敷石だけに注がれる光である。その敷石の上を、三々五々、影を左右に躍らせながら、にぎやかな声が上がってくる。

 長い黒髪を編み下げ、膝ほどにたくし上げたスカートから陽気な素足をのぞかせている。春になってからティスナの村に移り住んでいる娘たちだった。

 娘たちは上からやって来る五人を認めると、礼儀正しく立ち止まり礼をした。それから愛嬌を帯びた目を見交わし、口々に言った。

「まあ、素晴らしい赤ちゃん」

「私に抱かせてください」

「大切にします。お世話させて。」

 娘たちは型通りに言い慣わされた言葉を言い、笑いさざめいた。老女たちはしかつめらしく、これも型通りに問うた。

「水を汲み、土を素手で運ぶ働き者かね。」

(ヒル)(アス)に好かれる器量よしかね。」

 娘たちは日に焼けた顔をうなずかせた。そして駆けあがって一行に加わり、老女たちの腕から穀物神の宿った種籾を受け取り、歌唱(ヨーレ)をしながら、村の方へと下って行った。


 子供はひとり、そっと足を擦って柱廊へ出た。

 子供はひとつひとつの牙の間から水を覗いた。晴天にくっきりと立つ牙の間で水は眩く内側を隠し、アーチの差し掛かる長い窓の下では、水は暗いうねりの中にぼんやりとした小さな顔をうつす。

 子供は、今度は水の上に延びる露台を眺めた。真昼の光は露台の白を際立たせる。その両側に流れはさやさやと早く、イスタナウトの森に通じる沈下橋には白く波頭をたてて水がぶつかっていた。子供は露台に降りた。初めは差し足で、それから小走りに露台の中央にある丸い井に向かった。

 水はちょうど床の高さきりきり。晴天の青をいっぱいに閉じ込めた鏡は、映すものを薄黒く平らに張り付けている。そこにあるのは小さく不機嫌な顔だ。

 子供はそれと目が合うなり、水面を砕こうと拳を振り上げた。同じく拳を上げるその像の背後を真っ白な雲が横に滑りながら太陽をすっぽりと隠した。途端に鏡全体が暗くなった。子供は驚いて手を引っ込めた。くっきりと色白な顔が自分と同じように瞬きをしてこちらを見ている。その顔はやがて微笑んだ。

「ねえ、」子供は誰にもかけたことのない声をかけた。相手と分け合うものを探し、見つけた。手に持っていた包を急いで開けると聖餅が水に落ちた。

 水の中の子は掌にそれを受け、差し出した。

 いつもは固く、裂けない餅が、両手で引っ張るとたやすく真っ二つに裂けた。

「名前を教えて。」子供は差し出しながら言った。

 水を吸った聖餅はゆらゆらと揺れて沈み、像の奥に消えて行った。水の中の子は何か言った。子供は耳をそばだてようと身を乗り出した。頬が擦れ合うほど近づいた互いが伸ばした手が、手をとった。


 ルメイが夕刻帰って来た時に、子供はイスタナウトの木の下を、枝を見上げながら歌い、歩き回っていた。“白糸束(ティウラシレ)”に連れてこられて初めて、はっきりとした言葉で、自由に声を放って歌っていた。イスタナウトの葉には、孵化したばかりの小さな小虫が取りついていた。

 子供はルメイの姿を認めると歌いやめ、自分からさっさと窟に向かって歩いて行った。ルメイはその後に静かについて行きながら、しっかりとした歩み、まっすぐ伸びた肩の線、形の良い頭部からまっすぐ後方に下りた二本の編み下げに目をやり、右腕から胴にかけての衣服の湿りに目を留めた。

「もっと火にお寄りなさい。」

 薪をくべ、食事の支度をしながらルメイは声をかけた。子供はコタ・シアナから連れてこられた時の苧麻の服をひとつ持っているきりだった。しかし、子供は濡れた服のまま、腰掛に座っている。ルメイはもう一度促そうとしてそちらに顔を向け、たちまち目を下に逸らした。

「これほど早くにおいでとは」ルメイは恐れを込めて言った。

「しかし、あなた様にはまだ御身辺のお世話が必要です。」

 子供は黙っている。

「―――そして、まだ御名を口になさらないように。」

「知ってる」子供は顎を突き上げた。

「結構です。ではお聞きください。あなた様の憑代が弱らないようにここへ来て火にあたり、食事をなさってください。」

 子供は椅子から下り、突っ立っている。ルメイは、子供が初めてやって来た時と同じように、食事の所作手順を全て説明し、子供は、新たに教えられるまでは何ひとつ動こうとしなかったが、教えたものは、今朝までの何日もかけて倣い覚えたよりもずっと上手に立ち振る舞った。寝る時間になると、初めて案内されたように寝室に通された。

 闇に入ると子供は寝台に腰掛けた。明かりの元では薄く風景に重なっていたみすぼらしい不如意な記憶

は漆黒のもとに塗り替えられ、新たな知覚が己のものとして湧きあがって来た。水鏡の姿が話した言葉と言葉から織りなされた光景とが、鮮やかな炎のように、古い記憶の断片を飲み込んでいった。葦葺小屋の下の水のよどみ、舟の進む広い水面、一晩過ごした湖畔の岩室の人いきれ、孤独の中で聞く女達の語らいと赤子の声―――子供は、弱々しく無力な者としてのその記憶を惜しまず、全てを誕生の火のもとにくべた。歌声(ヨーレ)とともに高まる炎、彼女と妹を産み出した炎だ。美しく、熱く、強い。

 眠りに落ちる一瞬の戦慄と知覚の空白が、ひとひらの記憶を送ってよこした。浅黒い顔と鋭い黒い瞳。くっきりした眉の根が寄り、ぶっきら棒な声が言う。

「歩け、レークシル…」

 しかし、興奮と充足の余波が送ってよこした炎がその残像をもひと舐めにした。炎は、妹と共に世界を形作る偉大な彼女の揺籃であった。子供は安心して目を閉じた。


 種蒔きが終わると翌日には、ルメイはティスナの蚕の掃き立てに出かけた。ティスナの蚕は神蚕ではなく、屋内の籠で飼われ、摘み取った桑の葉を食べる。世話をする娘たちの指導にルメイは忙しかった。

 ルメイは数日に一回はティスナに下りて行ったが、“白糸束”に留まる小さな子供には何も教えなかった。ただ、遠くの方からそっと気を付けて見ていた。子供には他の教え手がいる。ルメイにはそのことがよくわかっていた。

 新緑は日に日に広がり、糸くずのような虫もひと眠りを越して再び新葉をあさりはじめた。しばらくは鳴子の音がするとイスタナウトへと飛んでいくのが子供の仕事だった。

 子供はよく番をした。幼虫を狙いにやって来るカササギばかりでなく、ルメイさえもイスタナウトの下から追い出した。夏になると蚕は繭をつくったが、ひと月余りもすると硬い抜け殻になってしまった。子供が羽化した蝶を追い始めると、ルメイはようやくこれを集めることが出来た。

「茹でて糊を落とし、切れてしまった糸を紡いで糸にします。あなたの服を作るのですよ。」

 焚いた火のそばにやって来た子供は、繭をゆでるための鍋を見て首を振った。

「そうじゃないわ。」

「先代様もその先のお方もこうなさっておいででした。」

 子供は目を細めてルメイを見下ろし、森へ走って行ってしまった。やがておびただしい蝶の旋風の帯が樹間を舞い始めた。

「あれも捕まえなくては」

 ルメイは苛々と立ち、外にいる子に叫んだ。

「雄と雌とを振り分けます。火を焚いて燻すのです。あなたの髪を少しいただきます。そこに待っておいでなさい。」

 うっとりと蝶の間で立っていた子供は嫌々立ち止まった。

 ルメイが子供の髪の先を少し削いで火にくべると、煙の匂いに惹かれ、雄の蝶が近寄って来た。ルメイはこれを捕らえ、布で覆った籠の中に入れた。子供はその横でじっと見ていたが、いきなり籠をひっくり返した。たちまち雄の群れは雌の群れにたち混じり、沢の方に飛び、麓へと下って行ってしまった。

「好きにつがってしまいますよ。」ルメイは声をきつくした。

 子供は振り向き、眉をしかめた。突然の颪がごうと唸りをたてて下って来た。風がぱちぱちと水面を鳴らし、通り過ぎた。小さな氷の粒が浮かんでいる。木々のさざめきは谷間に沿い、ティスナの方へと流れて行った。

「葉物が傷んでしまったでしょうよ。」

 ルメイは止むを得ず午後からティスナを見舞うこととなった。

 羽化の終えた繭は、鍋で煮て糊を落とし、いくつかは絡んだまま丹念に薄く引き伸ばされ、幾重かに合わせて、身の上に羽織るもののなかった子供の初めての外套になった。苧麻の服の肩からそれを羽織った子供は鈴虫のようだった。残りはルメイの手によって糸に紡がれ、取っておかれた。

 最後の集繭が終わって間もなく、ティスナから棚田の稲の穂刈りをする女たちの歌声が聞こえていた。穂刈りの歌は三日続いた。“白糸束”にひとり残った子供は、参道の端に腰掛けてその歌に耳を傾けた。

 刈り取った穂を田の脇の稲架に掛け、天日で干す間、湖への排水口に作った生け簀で魚が捕らえられる。歌は無く、興奮した子供の歓声や驚きの声のみが時折上がる。

 夜風の冷たくなる頃、満ちてくる月にあわせて(ヨーレ)が再び歌われる。杵つきのヨーレ、粉を碾くヨーレ。そして宵の頃から夜半にかけて、異様な活気に満ちた穀物神を讃える歌になる。

(あの歌を知ってる?)

 身と心をひとつにする者に向かって子供は問いかけた。

(いつからティスナであの歌を歌うようになったの?)

 始原から歌われた歌はただ種子の芽吹きと若木の成長を促し、樹木がもたらす恵みが鳥獣を喜ばせるように、と願う歌だったはず。

 ひとり繭の外套を頭から被り、子供は聖なる川(コタ・ミラ)を下って行った西の麓に閃く赤い光を見た。女達がいかに穀物神を見出し、立派に育てたかを競い、自慢する歌の終いに、その刈り取られた哀れな神は、食糧として聖餅となり炙られる。

女主(ミアス)のお産みになられた万物の中でも、ティスナの蚕と穀物は力の弱い女のために下げ渡された劣った神なのです。」ティスナに下りてゆく時、前に立ち塞がる子供を前に、ルメイは冷たく言った。「その生死は月に仕える私の領域。お退きを。それにあなたはまだ女主ではあられない。」

ルメイはやや勝ち誇ったように一瞥し、収穫に次ぐ儀式のために村へ下りて行った。

 歪に大きな実を結ぶ穀物と、目も見えず飛ぶことの出来ない蚕と。いつしか姿を変え、身を落してティスナで短い生と死を繰り返す精霊を思って子供は泣いた。身をひとつにする大きな声からの応えは無かった。

 田を仕舞うと、ティスナの女達は身籠った者たちを残してニアキに旅立っていった。嶺のナナカマドから谷間のイスタナウトまで木の葉が色づき、深紅に燃え、散り、水の流れは細くなった。ルメイは堰の水門を閉じた。やがて雪が降り、谷間を包んだ。

 ルメイは、時には参道を下って出産の介助のためにティスナへと下りて行った。それ以外の時には織機を組み立て、縒りをかけた神蚕の糸を経糸に、柔らかく紡いだ糸を緯糸に布を織った。織りあがると、凍り付いた雪が真昼の光に眩く輝く斜面にこれを広げて晒した。

 布はちょうど子供の着丈分あった。仕立てた服はしなやかで温かく、丈も充分であった。子供は冷ややかにこれを身に着け、かたい芽がびっしり天を指し、蒼いいぶし銀の樹幹の根元にまるく雪解けの輪の出来た森へと走り去った。地面の輪がつなぎあいひとつになった地に花々の蕾があがった夜明け、ティスナにたどり着いた女たちの歌声が微かに聞こえてきた。二度目の春であった。


 その春から、子供は蚕を自分で飼った。飛んで行ってしまった蝶は戻らず、卵も幼虫もほとんどが行方知れずであった。無事に羽化した蝶を、子供は紗のベールをかけた枝へと上手に追い込んだ。蝶が卵を産み付けた枝は切り取り、窟の奥の冷たい風の通う洞穴に仕舞った。

 翌年には、洞穴から出す蚕種を半分にし、木の上で孵化した小虫の三回目の脱皮が済むと、半分の蚕を手に取って新たな木に移した。成長目覚ましい蚕は裸になった枝を見捨て、移動する。時には夜を日に次いで木を移る。鳴子の脅しも地面までは見張れない。蟻や小鳥から守るには木から下りさせてはならぬ。

 少女は木にたっぷりの葉が残るように気遣い、一本の木に数匹ずつ割り当てた。そして上蔟期に入ると、ひとつの枝を定めて簾を差し掛けて陰をつくり、そこに蚕を導いた。少女は目配りに満足した。蚕は二枚の葉の間に足場をかけ、その間に薄緑の繭をつくった。ひと月経つと、果実のような繭を破り、蝶が出て来た。

 八年間、少女は誰とも正式に会わされることはなかった。春ごと、種を水に漬けにやって来る老女たちが“生命の火”のそばで夜を明かしたが、廊から窟に上がる時に、奥に掛けている少女に一礼をするきりで、誰も少女を見もしなければ、彼女に話しかけもしなかった。

 老女たちの話は、前の年の天候や作物の出来、身籠っている女達の名や赤子の生死についての報告に限られた。

 冬の居住地のニアキで成人した者、死んだ者についてはもっと速やかに名だけ口にされた。それは男の名だった。

 ある年、ルメイが種漬けにやって来た老女たちと入れ替わりに出かけて行ったことがあった。ティスナで幼い子が熱を出したというので診療に出たのだった。少女はルメイに代わり、老女たちに食事をふるまった。女達は少女には礼を述べたきりだが、お互いの間では饒舌になった。

「ニアキから来る子は、この頃悪い病を持っているのかね。」

 火の近くに陣取った年寄りが、二年前から加わった女ふたりに尋ねた。

「この冬、同じような発疹を出した若いの(アート)がいましたよ。」まだ、さほどの老齢でもない女が静かに答えた。

「秋に河向こう(オド・タ・コタ)に交易に行ってたから、そこでもらったんでしょう。クマラ・オロのまだ西まで行かないと塩が手に入らないというのに、もらってくるのは悪い病気ばかり。」

「若い者は鉄も欲しいんですよ。だけど、鉄はコタ・レイナの西まで行ってもなかなかだとか。だから言うだけ。オド・タ・コタの者だって鉄が欲しい。そして代価なら何でもあるから、何でも品物は彼らの方に回って、ここから持っていく物にはいい値がつかない。おかげで鉄はおろか、塩を手に入れるのも難しいのだとか。」

 年寄りの横に座った女が脚をさすりながら言った。

「私らはもうニアキに行かなくなってから長いから、“河向こう(オド・タ・コタ)”の事までは到底分からんが、冬でも、こう西を見ると、どこからかよく煙が見える。なんの火だろうかね。」

姉神と妹神の間(エファレイナズ)で焚かれている火ですよ。森に火を入れて耕地を拡げているのです。ここ三年ばかりは特に。」

「若い頃、時々夜に空が赤く照っていることがあったわね。」

「それは戦の火」腿に手を置いて女はため息をついた。

「エファレイナズの西の端で起こり、最後にはコタ・レイナのあたりでも見えたね。大きくもなく、長くもなかったけれど、オド・タ・コタに(アス)を名乗る者があらわれた。」

「アケノン」ふたりの女が同時に言った。

「そう、アケノン。アツセワナの(アス)の一氏族がエファレイナズの王を名乗った戦だった。懐刀トゥルカンの働きで。もう大分昔だね。するとティスナから見える火は、大きくなった(くに)の口を養うために、穀物の畑を拓く火だね?」

 年下のふたりの一方がうなずき、ニアキで聞いた話を続けようとすると、年長の女が不機嫌に遮った。

河向こう(オド・タ・コタ)の話が私らに何の関係がある?ひとりの(アス)がエファレイナズを我が物にするなんて、嘘に決まっている。」

 二番目に年かさの女は押し黙り、最も年下の女はなだめるように声をかけた。

「私らには何も見えませんからね。交易に行った男の話を聞くだけですよ。」

「ニアキからも、ティスナからも、西に見えるものは昔ながらの森ですからね。」

 隣の女は相槌を打った。

 それから女達は、ぽつりぽつりとこの冬成人を迎えた若者や、娘たちの結婚相手、寡夫になった男の暮らしぶりなどを話しはじめた。最年長の女は、男の話は慎むようにと小言を言いながら、いつしか居眠りをはじめた。

 同じように退屈してうつらうつらとしていた少女は、女達の話がまた秘密めかして早口なやり取りになっているのに気づいて、姿勢を変えずにそっと目を開いた。最長老がすっかり敷物に横になって眠ってしまった今、彼女達は少し寛いだ格好で話をしている。

水守(クシュ)には年頃の娘が少ないね。」

「男はもっと少ないんですよ。もう同族にこだわっていては相手がいないんです。」年下の女は首を振った。「風見(タフマイ)地守(ウナシュ)では、もう何年も前から互いから妻を娶っています。年頃でちょうどいい組み合わせは限られるものだから。」

「それで子供も少ないんだね。」女は寂しげに言った。「ヒルメイの坊やはもうティスナに来なくなって四年目だね。元気にしている?」

「利発な子です。アー・タッカハルが引き取って育てておられる。三番目の息子の嫁もふたり目を身籠っている。男の子ならいいけど。」女は小声で言い足した。

「タッカハルの末の息子はオド・タ・コタへ飛び出したきりなのかい?」

 年下の女達は答えなかったが、老女の大きな溜息から彼女達がうなずいたのが分かる。続いてひとりが囁いた。

「アー・タッカハルは二度と末の息子には会えますまい。」

 少女はその名を心の中で繰り返したが、微かに聞き覚えのあるその響きも、何の感覚も呼び覚まさなかった。

「一度、交易に出かけた兄が、遠い郷の舟で荷積みをしているのを見かけて声を掛けたそうです。だが帰る気はない、鉄をつくるのだと言って行ってしまったと。もう大方余所者になってしまったんでしょう。」

金物(かなもの)をつくるだなんて!」老女は、寝ている年寄りが一寸まじろぎながらも目を覚ます気配が無いのを確かめて言った。「それこそイネ・ドルナイルに行かねば技を知る者もおるまいに。」

「アツセワナのアケノン王の片腕トゥルカンとはイネ・ドルナイルの民の裔でしょうかね?」

 女達は興味をそそられたように尋ねた。

「いいや」老女は聞き手を得て、張り合いが出たらしく、肩を揉みながらも姿勢を正した。

「イネ・ドルナイルの民は、白い肌のアツセワナの民が来てからずっと彼らに追い使われていた。イネ・ドルナイルは石にも金物にも秀で、鉄も知っていた。だが、アツセワナは武器も戦も知っていたのさ。トゥルカンの父親はアツセワナの人間で、山の民の鉄造りたちを追い使い、逆らえば罰した。トゥルカンは逃げた鉄造りを囲って鉄を作らせ、アケノンに与えたんだ。アケノンは鉄の力と母親の郷のコセーナの助けでエファレイナズの里人を手なずけたのだ。」

「そのアケノンですけど」ニアキから来た女のひとりが言った。

「もう息子が成人を迎えたというので王の座を継がせたいと願っていたのです。が、アツセワナには王の血筋の家が三つあり…」

「ヒルメイに日の氏族と陽の氏族があるようにね。」老女はうなずいた。「だがヒルメイは役目を分けているから争わない。」

「互いに協議によって選ぶべきだという声が大きく、王子はそのまま、アツセワナの一領主として置かれていました。昨年、弟の方が親族コセーナの婿に入り、身を固めたので、兄もアツセワナの王の家柄の娘を娶ることになりました。」

「おやおや、それは話を早くするね。」老女は面白そうに言った。女は含み笑いをしながら言葉を継いだ。

「ええ、トゥルカンが宰相(ドース)とかいう役につくのでエファレイナズの小さな長たちは王子が父の後を継ぐことを認めたのです。」

「それはトゥルカンがもう一方の家と縁があるからだろう。これで表向きは三つの家の顔が立つ。だが、力の釣り合いは見た目ほど良くないね。」

「若い王は苦労するでしょうね。」

「次の代がどうなるか見ものだ。」老女は眠っている年寄りに目をやって囁いた。「姉さんも他所の話を嫌がらずに聞けば面白いのに。この人はね、ティスナに籠っているのが退屈で拗ねてしまったんだよ。」

「私たちだって人づてで聞くだけですよ。男たちも何でも教えてくれるわけじゃない。」

「私は心配です。」年下の女は遠慮がちに言った。

「“河向こう”で起こっている事を男たちは気に掛け、噂しているのに話してはくれない。」

「新しい物は昔から少しずつ入って来ている。」年かさの女は少し声を鋭くした。「こうして聖水に漬ける種も、銅も、鉄も。外の物が欲しければ、こちらの身を切って何かを渡すんだよ。昔からそうやって来たんだ。何でも初めてのものの交換はお互いに恵みも大きいが痛いものさ―――タッカハルのせがれは鉄の塊ばかりか技も欲している。こちらの値は高いよ!彼が他所にいるなら払うのは彼自身だ。だが、イナ・サラミアスに帰ってきたら誰が代償の取り立てに応じるね?」

 ふたりの女は黙って物思いにふけった。やがて年かさの方が口を切った。

「あの若者は帰ってこない方が民には良いやも。」

 老女は笑った。

「どうだかね。強運を持っているかもしれぬし。まあ、大概の子は夢ばかり追いかけても手ぶらで郷に帰って来て失敗の分ひとつ賢くなる。それなら本人が恥ずかしいだけで別に害も無いんだがね。―――大丈夫さ。イナ・サラミアスはそうそう変わりやしない。春が来れば新しく始まる。私たちが年々朽ちて行こうとも。ところでエファレイナズの新しい王の名は何というのかね?」

鷲の子(シギル)です。」年下の女が言った。

「シギル・アケノン」

 少女はぱちっと目を開いた。いつの間にかまたうたた寝をしていたのだった。手をあげ、目をこすった時に膝の上に置いた鳥よけの鳴子が触れ合った。女達はぎょっとしたようにすぐに口をつぐんだ。

 少女にはコタ・シアナの向こう、“河向こう(オド・タ・コタ)”はおろか、イナ・サラミアスの心臓ニアキも、他のどこも分からなかった。男のことも分からなかった。ルメイは西のことも男のことも一切口にせず、老女たちの会話の中でさえ、それらは注意深く禁忌の匂いを残して回避されていた。

 少女は黙って立ち、寝所に引き取った。


 山の端から茜の光の滑り出したばかりの、風の優しい朝であった。

 少女は露台から水面を見下ろした。見慣れた人影は、ほっそりと頸が長く、腕は肘のなだらかな窪みに光を受け、しっかりとした隆起と伸びやかな長さを描いていた。

 水の中の像は真面目な顔で言った。

「新しい服がいるわ。」

 十四歳の春であった。

「成人のための衣装がいります。」

 露台から室に戻った少女にルメイは告げた。

「わかっている。」少女は横柄に応えた。

 食事の後、少女は洞穴に入り、蚕種を見回った。選んだ枝を前へ出し、その他へは優しく囁いた。

「お眠り、お眠り。風は乾いて冷たい。」

 死んでいる繭と卵を見つけると、少女は枝を抱えて洞穴の奥へと入って行った。いくつもの天然の小部屋をやり過ごし、冷たい風の吹いて来る分かれ道に行き当たる。丸い横穴に入ると空気は凍てつくようで、触れる岩は肌に引っかかり、高飛車で尖った感触を返してきた。少女はぴりぴりと身を引き締めながら歩いた。時折、ひらりと冷たいものが身辺を横切って行く。両壁は押しせまり、天井は低く押し込んできて、床はぬるりと下がっていた。少女はそこで立ち止まり、抱え込んでいた腕を奈落に向かって放った。死んだ繭の枝は乾いた音を響かせて下へと落ちていった。

 少女は踵を返して洞穴を戻っていった。あの先は死の国だ。彼女の両親のいるところ。還元の場所。彼女が生を終えてそこに行く頃には父母の魂は神々の集う野(ナスティアツ)の地の根に取り込まれている。女主(ミアス)の背骨だ。そこで花のひとつにも生まれ変われば日の目を見られる。よし夜は闇に包まれようとも、天にはあまたの星がきらめくだろう。

 誕生を待って蚕種は眠り、万物の種子はここに眠る。“栄光を得た姉神(イナ・サラミアス)”は大きい。少女の現身は小さいけれど。

 少女は走り止め、両の手を肩からなで下ろした。水鏡に映る子は私の姿?伸びやかな手足、日ごとに陰影の冴えてくる輪郭。あの姿が私のものなら嬉しい。でもあの子は私の知らないことを知っている。いつもあの子が教える。私が教えてあげたことは一度もない。

 人が持つ名を少女は持っていなかった。成人を迎えれば、女主の名が私の名とひとつになるという。それはあの子の名?少女は、口の形だけでかつて教わったその名を呟いた。成人の服を用意するということは名を知る日のために準備をするということだ。

 少女は選んであった蚕種をさらに吟味して枝を半分に折りとり、後を戻した。成人までにまだ四冬かかる。ひと冬に自分で完璧にこなせる繭しか作るまい。

 窟にルメイはいなかった。外衣と杖が無かった。ティスナの女達が畑を焼く匂いが漂っていた。

 少女は水鏡を覗いた。水の中の顔は笑っていた。水の像は、堰にとどめられた水面にも緩い撓みを帯びながら居た。逆さの足元から尊大に見下ろしながら、少女と同じ紐につなげた鳴子を持ち、同時に橋を渡り、イスタナウトの森の汀に下りた。少女は森の中でたった一本の木を選び、枝に登って鳴子を張り巡らせた。水辺に戻ると、生き生きとした目が見返した。

「あなた、水の中にしかいられないの?」

 少女はけしかけるように囁いた。水の中の少女は高らかな声で笑った。

「私がいなければ、あなたは声を持てないじゃないの。」少女は言い返した。

「私の姿の見えないところまで行ってごらん。教えてあげるから。」水の中の顔が言った。

 少女は手を打って笑い、二、三歩後ずさった。

「ほら、見えないわよ。どこにいるっていうの?」

 風が耳の横を通り過ぎた。笑いを含んだ囁きが耳朶にまつわった。

「あの木まで行って。横になって目をつぶって」

 少女は耳をふさぎ、周りを見回した。声は耳元に言い続ける。「目が回って倒れるからね。」

「卑怯者」少女は罵った。やがてゆっくり風の凪いだ森に進み、日当たりの良い緩やかな斜面に仰臥した。鳴子の描く円の中心に、そそり立つ樹幹が見下ろしている。

「さあ、目をつぶるわよ。いーち、に―、さーん」

 わずかな身じろぎの下で枯れ草が呟き、土の香が近く迫った。真上からの陽光が剥き出しの顔をあらため、近づくものに足音は無く、ただ、いたたまれないほどの恐怖が接近を知らせる。その手が起き上がろうとした肩を突いてすとんと暗黒に落とした。

「目を開けて見てごらん。私の目で。」

 水の少女の声は頭の中から聞こえていた。彼女自身の声が彼方から呼びかけている。

 あの子に声をとられてしまう。自分で考えなければ。訊きたいことがあったはずだ。私の両親は何所にいるのか。どうやって旅立ったか。

「どうしたの。あなた、前にも自分の声でものを言ったはずよ。ずっと前、ここへやって来た時にね。」

 少女はそっと目を開け、急いで閉じた。閉じるまでの間を幾年の疲労が埋め、残像はさらに長く脳裏に留まった。

 見たことのない風景だ。左目には荒涼たる高所から望む景色が、右目からは頬から生い広がる苔のごとき針葉樹の森が見えたのだ。閉じる瞬間に玉散るしぶきの架ける虹が、その環のなかに、滝の落下とその先に続く悠々たる大河の像を結んだ。

 少女は背を丸めたまま、肌と身内に押し寄せる感覚に怯えた。

 天の下で存在しうる熱さと冷たさが同時に身体の一部であった。生誕の歓喜と営みの苦痛、死の静寂が、絶えず魚の鱗片のきらめくごとくに繰り返されている。髪の一本に至るまでが疎かにならず、自由でも無かった。

 少女は身辺の事象について考えた。そして最初に見た景色を目を閉じたまま思い浮かべた。そしてまた別のものを思い出した。創世の歌だ。

 火の中から生まれた姉妹。ふたつに割かれ、天地の固まる鳴動に共に怯えつつ、しかし、妹は昼に訪われる運命を逃れ、暗雲を纏って身を隠してしまった。姉は輝かしい昼の妃となり麗しい衣と子供たちを得た。コタ・イネセイナを境に横たわる姉と座する妹の姿はそれぞれイナ・サラミアスの山脈とイネ・ドルナイルの峰にあたる。

 少女はその一節を人間の言葉で教わったのだったが、思い出したのはその言葉ではなかった。蘇ったのはことごとく己の肉体と結びついた地勢とそこから発する蠢動の感覚だった。

 左目に見た額嶺(ベレ・サオ)の岩壁。右目をしとどに濡らす“竜の頭”の滝と山麓の森、その涙の奔流は若い娘の川(コタ・シアナ)、また別の一端は背川(コタ・ラート)妹川(コタ・レイナ)

 妹、それはベレ・イネ。

 慣れが心の重荷を除くまで、少女はそこに横たわった。それから声をたてて笑った。

 私はふたつの身体を手にしている。そのひとつのなんとまあ小さなこと。だけどこれは動けるし、身体の向きだって変えられる。自由に見られ、人間と話も出来る。コタ・イネセイナの向こうまで見渡して識る知識を、ちっぽけな人間の耳にふさわしい声で話してやることも出来るのだ。

 そしていまひとつの大きな身体を通せば、同じ大いなる魂との対話も自由だ。会って言葉を交わそう。今の私にはそれが出来る。

 少女は起き上がり、イスタナウトの下に立った。よく知った“白糸束”の水辺と森だ。同時に足元に見えるのは、自身の横たわる姿。北に伏した頭からまろい背としなやかな腕の峰にかけて純白の雪の衣が掛かっている。雪と入れ替わるように緑の薄衣が身を覆い、緑濃く、襞の深くなりゆく裳裾は水際まで達している。涙から生じ、衣の襞が集める露がそれを太くするコタ・シアナは、折った膝が形づくる山塊に会って西へ西へと導かれ、大きな湖(クマラ・オロ)へと注ぐ。北方で右手が押しやった髪から伝い集まった水が、コタ・ラート、コタ・レイナをつくり、三つの河は共に、流域を豊かな森へと育んでいるのだ。人々が“姉妹の間(エファレイナズ)”と呼ぶ、彼女に属する地だ。

 少女は真西に目をやった。彼女と妹とを隔てる、源も知れぬ大河、コタ・イネセイナ。その沿岸の丘陵地の南西面は醜い小石で覆われている。それは彼女の子孫(イーマ)ではない、外界の人間の子孫たちが暮らす蟻塚のような住居だ。コタ・レイナの周辺で細々と巣を営む者よりも後に、コタ・イネセイナの流れを下って大挙してやってきた。少女は記憶をたどって、河岸のかつて見事な森であったところが、みすぼらしい離れ島のようになり、耕地と居住地とが広がっているのを見て取った。そこでは穀物神の育成と殺害が毎年繰り返される―――私の小さな末子ヨレイルたちを追い払い、居住地の丘と麓の耕地を巡って相争う野蛮な連中。彼らはその丘を自ら“王たちの戦う丘(アツセワナ)”などと呼んでいる。まあ良い、それでもそこはまだ豊かな土地だ―――。

 少女の目はさらに西、コタ・イネセイナを越えた妹の地へと移った。そこでは様相はがらりと変わる。

 かつて妹は凛と優れて美しかった。端然と座する姿は起伏と陰影の豊かな峻険な地形を大河の向こうに形づくっていた。日を避け、雲のベールに深く身を覆いながら、その下で高く上げた頭部に万年雪を被り、屹立した岩稜をなす肩と胸に蛇紋岩の綺羅が輝き、北東面の肩口から膝の峰にかけて黒々と濃い針葉樹の衣が覆い、南西の裾野は水に至るまで艶やかな広葉樹の樹海が広がっていた。またその腹部と膝元の間には火口湖の広らかな水鏡を横たえていた。

 妹の山麓には夜との間にもうけた闇を好む大人しい子らが住まい、母の産する金属を道具にこしらえてつましく暮らしていた。彼女のイーマ達と妹の子供たちは時に会い、不足を補いあった。長いこと姉妹の庭はそうやって保たれていた。

 遠い記憶の中で、少女は妹の姿が変わっていった様子を思い起こした。太古の魂の思念は、無知な少女の小さな器の中で地鳴りのように轟き、揺すぶった。妹の横腹に穴が空き、続々と蟻のような人間が這い出している。水鏡は濁り、谷あいの森林はごっそり剥ぎ取られ、その膝元には精錬の炉がいくつも煙をあげている。外界の裔、アツセワナに住み着いた者たちが妹の身内に有する金銀の類に目をとめ、天然の形のまま享受するのに飽き足らず、山の身を穿って取り出せと山の子たちを唆したのだ。

 そればかりではない。妹の深部から何かが取り出された。動かしてはならぬ何かが。

 妹の訴えが地の彼方から蘇る。

(髄石が奪われました。姉上、我らの分け持つそれが)

「それは何?」

 少女は人間の声で呟いた。瞬時に、少女の胸の帯に隠されたイサピアが、押し付けられた心臓の鼓動に震えた。ああ、これはふたつで一対だ。私たちが生まれた時からそれぞれに持っている髄石だ。

 妹の髄石はこれを守る憑人を随分前に失っていた。石はただ聖所に安置されていた。妹の身体を鉱物を求めて掘り進んでいた者がこれを見つけて奪い去り、妹は二重の凌辱に苦しんで炎の血を吐いて己の身を焼いたのだ。

 妹を見舞ったのは五百年も前のことだ。あの後で激しい噴火は起きていない。今見れば、流れ出た溶岩は湖の半分を埋め、河畔まで下って行ったが、そこはもはや冷えて人間どもが歩き回っている。それどころかそこを望む高台には大きな巣もでき、山腹に開いた穴はますますぱっくりと大きく広がっている。湖の下から流れる黒い川(コタ・バール)の流域はすっかり荒廃し、礫と泥土が剥き出しの地の上に吐き出されている。

(お前はまどろんでいる。)

 少女は自分とひとつのもう一方の声が腹立たしげに言うのを聞いた。

(身仕舞いをすっかり忘れ、自分の子からも忘れ去られ、喰い荒らされながらまどろんでいる。)

 少女の心の中で姉神の感情はその声の先触れとなって響いたが、それすらも幾年月もの時と身体全土の間を駆け巡る唸りであった。少女は一片の木の葉にも等しい小さな身体を震わせて、故も分からぬ言葉を口にしているのだった。

(目覚めて私に答えよ。)

 少女は手を伸べ、ベレ・イネの山頂近い北東の面をそっと扇いだ。そこにはまだ生まれた時のままの秀麗な面差しを残した顔がある。もう片側は崩れてしまった面に溶岩が張り付き、きれぎれに残った雪と雲のベールが隠している。

 少女はイスタナウトの木の下で、恐れながら見守った。私は何故これをしたのだろうか?

 薄雲の帳から透かし見る頬は痩せ、いっそう傾いていた。高い頭頂を飾っていた万年雪が溶け、蒸気をたてる汗となって流れている。眼窩に燃える火が苦しげに焦げた岩の辺を這い、がくりと開いた口から漏れる喘鳴がまつわる雲の一片をも払ってその顔を露わにした。

 空洞を抜ける風が声となって答え、燃える目が少女を見据えた。侮蔑と苦い怒りが閃いた。

(よくも、よくもこんな小娘に私の姿を見せて!)

 少女は戦きながら、身内からの声が平然と答えるのを聞いた。それは少女の細い声を通って深い轟ききとなって妹へと返ってゆく。

(身繕いするがいい。これは私の目だ。)

 答えるほどに妹の姿は聳えるような大きさから少女と同等な目の高さへと変わっていった。

(何故、彼奴らをそのままにしている?欲しいままにさせて眠っている。)

 妹は苦しげに顔をしかめた。わずかな岩石が剥落し、麓に集まる蟻どもが騒いで巣から出たが、すぐに収まり戻ってゆく。嘆きの呟きが漏れた。

(髄石が奪われた。私は正気でいられない。)

(心を確かに。失せても無くなったわけではない。どこにある?)

 声を掛け、励ます少女を妹神は虚ろな目で見返した。その目がふと何にそそられたか狡猾に光った。

(ここにもある。髄石が。)

 少女は後ずさり、鋭く言った。

「何故、私をそんな目で見る。お前の髄石は誰か邪悪な者が所持しているな。」

 ベレ・イネの巨大で虚ろな眼窩の奥に小さな目が細まり、瞬いた。

(十四年前に見た兆しがこれか。新しい巫女か。)

 呆けて下がった顎の、溶岩の抜けた空洞から漏れ出てくるのは山の鳴動ではなく、まして妹神の声でもない。小さな人間の体躯から出るしわがれ声が、興奮したネズミの囁きのように独り言ちているのだ。

(イナ・サラミアスの髄石イサピアはこの小娘が帯びているのか。)

 男の声だ。少女は帯の上に両手を重ねた。他に自分の身もイサピアも隠す術はない。

「妹よ、目を覚まして。お前の目と心は盗られている。」

 少女は声を振り絞った。はるか遠くから蚊の鳴くような弱々しい自分の声が聞こえる。戻るべき場所、彼女の身体がある場所だ。そこに向かおうとする少女に、最後に、わずかな覚醒の合間に吐き捨てられた妹神の言葉が聞こえた。

(同じ目に遭うがよい)

 少女は振り返り、妹とその身に潜む男を叩こうと手を振り上げた。帯の下の刀子が強くみぞおちに当たり、思わずうずくまる少女の心象に、コタ・シアナに向かって開いた谷のひとつが映った。器谷(オルト・ハマ)。肘先の谷川の下段の方、広い森林に覆われた傾斜地だ。その上には女達がニアキとの行き来に通る道があり、南の端には物見がある。そこから何に驚いたか人々が駆け出る。谷川の下部の道を通る者が魅入られたように振り返り、立ちすくむ。新芽の覆いはじめた地表が震え、幾つもの細い筋をかいて土砂がこぼれ出た。

「子らよ。汝らを哀れむ!」

 叫んだはずの声は、どっと溢れた土の生々しい匂いの中に埋もれた。爆ぜた穀粒のように散る岩石と木々。人の姿を探す目の前に、速やかに闇が下りて凄惨な光景を隠し去った。

 木の下に倒れていた少女をルメイが揺り起こした。西から流れて来た雲が午後の空を暗くしていた。

「着替えて服を洗ってきてください。水は下の槽のを使って―――。」

 ティスナから戻って来たばかりのルメイは疲れた低い声で言った。

「下で田の水を待っています。しかし、あなたは身体が冷えるので水には入れない―――。」

 少女はゆっくり立ち上がり、目を合わせないが疲労に苛立っているルメイを見て言った。

「私は入らないし、あなたも入らないで良い。」そして着換えに行くために背を向けた。

 ルメイはややあって杖を置き、外衣を脱いで水辺に向かおうとした。その耳に少女が歩きながら歌うように呟く声が聞こえた。

「―――ほんの小さな戸よ。掛け金よ。ひと押しするのに小指もいらない。水はゆくところへゆく。」

 堰の方から小さな軋みがし、水の上辺が細かに震えた。並列の小板が長柄の一振りに従ってうち揃って外に開き、水の合唱が下方へと響き渡った。たちまち水位が下がり中心の露台が姿を現す。ルメイはその場に膝をつき、そっと掬い上げるように少女を見やった。少女の動きはゆっくりだった。時々立ち止まり、お腹に手をやった。

 長い時間をかけて着換えと洗濯から戻って来た後、少女は西を見渡しながら、ティスナから来る老女たちの分も合わせた食事のために木の芽を洗っているルメイのところへ来て言った。

「ベレ・イネが雲を払って顔を見せた―――その時、お腹が痛くなって目眩がしたの。」

「月のものです。その年頃になれば普通のこと。」ルメイは淡々と答えた。「むしろ良いことなのです。蚕が蝶になる前に物憂くなるのと同じですよ。」

「谷が崩れるのを見たわ。」

 少女は小さな声で言った。が、ルメイは手を止めかけたものの、振り向かずに、木の芽の籠を炉端に置き、粥にする粟と稗を洗った。そして言った。

「前兆を読むのはあなたのお仕事。私が間違った示唆を与えてはいけませんので。」

 少女はルメイの前に回り、じっと見下ろした。それからふいと外へ出て行った。

 夕刻は長くなり、薄暮に浮かぶ木蓮の紫や白は鮮やかで、イスタナウトの銀の幹は優美に浮き出ている。少女は川沿いの石の参道を少し下って行った。種籾を漬けに来る老女たちが登って来るはずだ。いや、遅れるか、来ないかもしれない。オルト谷にいた者を助けに行ったはずだ。

 老女たちはいつも通り登って来た。そしていつも通り夜を過ごした。去年やって来た年長の老女がひとりいなくなり、代わりに新しい女がひとり加わっていた。

 あれは夢のことに過ぎないのかしら?少女は訝しみながら、昼間のことを思い出そうとした。女たちの控え目ながらも世間話を交わす声に耳を傾けるうちに、オルト谷の崩落は、繰り返し思い出すごとにただの夢のように色あせて思えた。少女は寝所へ行こうと席を立ち、もう一度洗い物をしに外の流しに行き、木に掛けてあった肌着をとって戻って来た。

「オルト谷が崩れたのをご存知ですか」

 新しく来た女がルメイに訊いた。ルメイは低く何事か答えた。女は途中で遮られたように口を押えた。少し年かさの者が諭すようにその横で言い含めた。

「今度の方は、とても女主に近い―――気性がそのままに事象に現れる。今度のことが何か勘気に触ってのことならよくよく気をつけねば。だから、骨身の堪える仕事や、手を汚すことは我らで引き受け、胸の内にとどめておくのが良い。」

 少女は干し物を胸に抱え、寝所の戸の把手を押さえたまま聞き耳をたてた。老女たちが探るように用心深く黙っている中で、ルメイの重々しい声が微かに聞こえた。

「もはや、一体なのです。感情ひとつが事象につながる。眉ひとつ動かす事すら。」

 少女は戸を開け、中に入ると荒々しく閉めた。さて、一体これで何人が死んだというのかしら?彼女は腹立たしげに自問し、次いで床に伏した。波立つ動悸、お腹の痛みから来る不安。ここで身じろぐのさえも何か悪いことを引き起こしたら?闇の中に心の不安を打ち明けたら、そのこだまは何をするだろう?岩盤は崩れ、聖地は埋もれ、幾千年もの人々の営みは塵と化し―――。馬鹿な。そんなことがあるものか。

 少女は闇につながる洞穴に、彼女に命を託して眠る神蚕の卵を思った。

 私は人の事などしない。良いことが出来ないなら悪いこともしないために、何もするものか。

 だが、私は蚕の事をしよう。光を浴びれば目覚めて出てくる弟妹を、悪い風ひとつ当てぬようにして蝶にしてみせる。

日が昇ると女達は種籾を持ってティスナに帰って行った。田植えのヨーレ、草取りのヨーレ、緑が濃く、風と光が強くなりゆく中で、時折ティスナに降りていくルメイは、女達が聞き伝えたオルト谷の崩落の様子を淡々と少女に聞かせた。

 オルト・ハマの北側の斜面の一部が縦に割れ、下に落ちた。丁度そこに狩りの野営の基地を置いていたウナシュの男達三人が山崩れに飲まれた。いずれも働き盛りだ。ティスナに残る妻たちはこの秋、別の夫を見つける他なかろう。

 ところで狩りの集団には陶工の心得のある者が多数いた。陶冶は土守(ウナシュ)が持っている技のひとつだ。この者たちは時折粘土の出るいくつかの所に滞在して皆の入用な鍋や壺をつくっていたが、この件の崩落した土地の粘土がことのほか器を作るに適していたので、何人かがここに居を据えたという。

 少女はルメイの報告を黙って聞いた。目を合わせず恭しく述べるその無表情な顔、無感動な声音は言外の示唆に満ちていた。

 あなたは三人の命を召し上げ、代わりに人間に粘土を与えたのです。この先、あなたの身をこぼって道具をつくることをも、木を伐り獣を狩ること同様に許しておやりになるように。

 少女の背後にいる大きな存在への畏れが、女神を直接非難することを避けている。しかし年若い現身は依然、監督下に置かねばならぬ。置かれていることをわかってもらわねばならぬ。

「どうぞ悲しみなさいますな」ルメイはそう結んだ。

 悲しみなさいますなというのだから悲しむべきなのだろう。少女は、正視を避けているルメイの目元を見、その口元にゆっくりと笑みを浮かべた。

 少女は、自分に行くことを許されているわずかばかりの庭の中で薬草を育て、蚕を育てた。はじめの集繭があり、少女は木の五分の一の繭を洞穴で眠らせた。そして二回目の蚕も四度の脱皮を終えた。

 少女はほとんど水鏡を覗かなくなった。時折、身繕いのためにちょっと目をやるくらいのことであった。蚕が大きくなり、繭をつくるために簾の影の枝を登りはじめると、少女もまた怒りっぽくなり、動きは物憂くなり、ものを食べなくなった。ルメイはそれとなく成人の衣装に相応しい糸を取るためには繭が羽化で破られる前に中の蝶を殺す必要があると告げたが、少女が耳を傾ける様子はなかった。糸縒りの手つきをさらう仕草をしているようにも見えたが、ルメイに出会うと苛々と動きを紛らせて手を置いてしまい、明らかに彼女がその場から去るのを望んでいた。

 ルメイは、数日ティスナに逗留すると言いおいて沢沿いの参道を下って行った。春蚕の集繭に次ぐ夏蚕の掃き立てがある。ティスナの小さな灰色の蚕は、春から秋にかけて三回も、白くて小さな繭をつくった。糸紡ぎ、染料づくり、糸染め。田畑の世話に追われる女達に代わって娘たちに機織りを指導する者が必要だ。この娘たちは十八歳で成人するまでに、自分の晴着の他に許嫁の若者の外衣をも織らねばならないのだ。

 十日ばかりしてルメイは“白糸束”へ帰った。道の辺の草は伸び、蔓が木々の枝を這いあがっていた。炊事の道具に手をつけた様子は無く、炉は少しばかり火を焚いた後の灰がそのまま残っていた。

 少女は軽やかな足取りで牙の石柱の外側の張り出しを回ってきた。鼻歌を歌っていたが、ルメイに気付くとふいと顔をそむけ、手にした桛を服の襞の間に隠した。少し痩せていたが顔色はむしろ良く、食事を用意すると飢えたようにあっという間に平らげ、寝所にたどり着くや否やにすとんと床に落ちるように眠った。ルメイは少女の枕元に大事に置かれた糸束に気付いた。彼女は手に取り、手燭のもとでつくづく見入った。薄い緑の糸は極めて細く、八の字によじった束の輪のすみずみにまで光沢は途切れることなくひとつながりだった。生糸であった。ルメイは室を出た。そして翌日は早朝から出かけた。

 ティスナの娘たちは既に一回の糸紡ぎを終え、二回目に取り掛かっている。秋までに成人を迎える娘たちは、春から既に機屋に籠り、十四歳から十六歳までの娘たちが糸紡ぎの傍ら、折りを見て染料を仕込み糸を染める。ひとつの色が何度も何日もかけて染められる。差し向って糸を紡ぐふたりが相方に尋ねるのは専ら、染めとすすぎの役をどちらが受け持つか、何回染めたかという確かめであり、近隣の組に尋ねるのはどの日に染め場を使うかという予定のことであった。機屋に手伝いに行く娘は頼まれた色糸を持って行き、次の要望を聞いて戻って来、織り柄や進捗、そして織り手の機嫌の報告や噂話を仲間たちに囁いた。

 十二、三の少女たちは、昨年染めた糸の余りで鉢巻きを織る。これもふたりが組になり、年上の娘たちに気兼ねなくゆっくり仕事が出来るように、道具も糸もひと巻きに抱えて樺の森に入って行き、それぞれがお気に入りの木の下に陣取って仕事をはじめた。

 樺の幹元の、枝打ちした切り株に紐をかけて機の先端の軸棒をつなぐ。二本の軸棒の間に輪状にぴんと張り渡した経糸は、細い丸棒をひと巻きして糸目を揃え、上糸と下糸の間に中筒を通し、下糸を糸綜絖で吊る。手元の軸棒は座った織り手の腰につながれ、経糸の張りが姿勢で加減される。綜絖を引き上げ中筒を前後させて上下の糸を開口する時に、横に控えた手伝いが介添えをし、順を間違えぬように目を光らせる。織り手は横口から杼を通して緯糸を入れ、刀杼で打ち込む。鉢巻きが表す一族の紋様を浮き立たせる染め分けた経糸を、そのあいあいに長いすくい針で掬い取り、下から杼を通し、また刀杼で打つ。

 互いの呼吸を乱さぬように、一心に織る娘たちの長い編み下げに淡い木漏れ日が踊る。こうして夏じゅうかかって交代でそれぞれの一族の証を織る。機屋で大きな娘たちが織っている機は、幅の広い、据え付けられた大きな機だ。紋綜絖をいくつも使い、複雑な紋様の外衣を織る。晴れがましい機の前に座る日と厳しい将来の仕事を思って少女たちの目は真剣であった。刀杼を打っては置く、軽い音、時々掛け合う声、その間、途切れることなく続くのは“聖なる川”の沢のせせらぎであり、寄せては返す木の葉のさざめきだった。

 午前も半ばになると夏の陽射しは強くなった。幼蚕湖(クマラ・シャコ)の面は紺碧に冴え、湖畔の樺の梢は緑の三角の旗をそよがせ、力強く歌唱した。

「あら、風が変わったわ。ナスティアツから来る。」

 樺の下の機につながった若い織り手たちは次々と手を止め、高地の方に身体をねじり、掌で風を受けた。


   吹けよ風 吹けよ風

   黍の田 稗の田扇いで 実をむすべ


 少女たちは笑いながら風を手招くふりをした。ルメイは少女たちの間を歩きながらたしなめた。

「姿勢を直しなさい。経糸が寄ってしまいますよ。」

 少女たちはぴたりと笑いやめ、いそいそと杼を取り直した。

「休んでもよろしい。機をまっすぐに置いて。」 

 ルメイは言いおいて、色とりどりの機が広がる木立ちの間をゆっくり通り抜け、そっとそのまま沢沿いの参道へ向かった。やがて、後にした樺の森の下から、ためらいがちな囁きとくすくす笑い、続いて小鳥の囀るようなさんざめきが沸き起こった。少女たちは一斉に休憩に入ったのだった。これで彼女が戻って来るまでおしゃべりはやめないだろうが、水を飲み、散歩に行って身体がほぐれ、陽光の移り変わりに気付けば自分で仕事に戻るはずだ。

 二つ目の足休めまで上がって来た時、水辺で摘んできた桑の実を頬張っていた子供たちがルメイを見て、川上を指差した。

守り女(シュムナ)、風が歌っているよ。」

 子供たちの言うとおり、東からまっすぐに吹き下りてくる風には、微かな声が入り混じっていた。ルメイはもう少し上まで登り、参道を折り返しのところから木立ちの中へと外れた。

 “白糸束”の水が淵いっぱいであふれ出ている眺めの良い際のところで少女は糸を縒っていた。流れの中に石を八つ置いてつくった七つの水口に糸を一本ずつ掛け、高く畝だつ水に長々と沿わせている。東からの風がうまく糸を流れの上に吹き下ろし、束ねた一方を、流れに差しのばした左手のしなやかな指が親指に添えて押さえ、膝がしらに置かれた右の手へと送り出す。右手から一本に縒られた糸は、膝元の流れの上に仕掛けられた風車の軸先の糸巻きへと目にも止まらぬ速さで巻き取られてゆく。少女が糸を縒っている間、風は微塵の狂いもなくまっすぐ吹き続けた。風車の編んだ枠につけられた四枚の朴の葉の羽根は休まずにくるくると回り、イスタナウトの葉を巻いた糸巻き管には七本の細い細い光の線を縒り合わせた糸が錘形をなしてゆく。そして糸のしっぽがつむじを巻いて終わると、風はつかの間の自由を楽しむかのように、天に開けたせせらぎの上で野放図に枝葉を鳴らした。手が空になると少女はイスタナウトの森に駆けてゆき、蚕を養っていたただひとつの木に紐をかけて身軽に枝に登ると、繭を吟味して摘み取った。

 後をつけて木の陰から見ていたルメイは、はっと一歩下がった。少女のいる枝の上からはらりとふたひら、緑の葉っぱが舞い落ちた。影に続いて両足がするりと地面に降りる。身を返すとたちまち元の水辺の岩の上に腰をおろす。

 ふくよかな頬の内から笑いが漏れた。左手を高い稜線、ナスティアツの方へ上げ、ゆっくりと手招くと、山の上から再びまっすぐな風が瀬の上へと吹き下って来た。少女は首をかしげ、頬で風をみた。まどろむように長い睫毛を伏せ、唇だけが舌を打つ細やかな震えを伝えている。やがて少女は右手をつとあげて、口許から細い細い銀線を引き出した。手繰っては出す糸は水の流れにそのまま乗せられる。中ほどは速く、終わりが近づくと繰り出す手は非常にゆっくりとなった。糸の終いが出ると少女は立ち上がり、流れの上にさしかけた枝に片端を引っ掛けた。

 こうして、一本の長い糸を枝から水上へと漂わせておいて、おもむろに片手を口許へともってゆく。広げた掌に何かがふっと吐き出される。日盛りの陽光が少女の頬に浮かぶ懸念の色をやわらげ、喜びへと移ろう表情を描き出した。一片の羽根が指の陰に覗き、と、完全に羽化した神蚕の成虫が少女の手の中から現れた。明るさに惑う蝶は、透きとおりそうに青光る白い羽根に大きな水銀の雫の紋をつけ、長い湾曲した飾り尾をぴんとのばして、少女の指の上を歩いた。その手が水上へと突き出される。蝶は解き放たれた風に乗り、せせらぎの上から渓谷の空へと舞い上がって行った。そして少女は新しい繭を口に含むためにイスタナウトの森へと走って行った。

 ルメイは驚きに打たれて立っていた。彼女が仕えた先の二代の巫女たちが糸を繰る時でさえ、このようなものは見られなかった。少女はこれを七度繰り返すだろう。そして七本の糸が揃うとこれをひとまとめにして縒りをかけるのだ。蚕の飼育から、少女は何ひとつ彼女を倣おうとはしなかった。当然のことだ。より優れた教え手がいる―――いや、教え手すらいないのではないか。彼女は思索にふけりながらティスナへと下って行った。

挿絵(By みてみん)

 続く三年もの間、イナ・サラミアスは豊年であった。風は穏やかで、森と畑に恵みをもたらし、秋には女達はたっぷりとした収穫物を携えてニアキに戻った。イスタナウトの実もまた豊年であった。これを分け合う熊は不思議なことに姿を見せなくなり、代わりに男たちの狩りの獲物は増えた。谷の崩落で夫を亡くした寡婦たちは、その次の春までには新たな伴侶を得、新しい晴着に身を包んだ娘たちは、秋のうちに美々しい外衣をまとった若者たちと結ばれた。夏から冬にかけてティスナには赤子がたくさん生まれた。

 籾を漬けに聖地に登って来る老女たちの話は概ね民の繁栄を喜ぶものであった。そこにごくたまに思い出されたように疑問が投じられるのであった。強い神の守り手、獣の王である熊がめっきりいなくなったのは何故であろうか?若い者、特にウナシュの者が定住を望み、タフマイの者はより河向こう(オド・タ・コタ)との自由な交渉を望み、長老たちに迫ったそうな。古来の掟を破るのはいかがなものか。森羅万象の調和が損なわれはしないだろうか?オルト・ハマでとれた粘土で焼き物がつくられ、一部オド・タ・コタに売られたとか。いや、草や木ならともかく、土はまさにイナ・サラミアスの血肉ではないか。イネ・ドルナイルの血、鉄を求めるからだ。わずかばかり、まだ誰の用に足るほど手に入るでもないのに、だよ?

 そして三年目の秋、ティスナから戻って来たルメイは告げた。

「ヒルメイの(アー)タッカハルが亡くなりました。」

 少女は最後に縒り上がった糸を桛に巻き取りながら、うなずいた。半白の髪と日に焼けた目元に刻まれた笑い皺が瞼をよぎったが、それきりだった。成年の前の年だった。

 ルメイは窟の大広間の中から新しい場所に抜ける通路を教えた。

「私は参りません。」ルメイは、窟の扉の前で手燭の光のもとに機織りの道具を拡げた。解体された何種かの機の部材が入り混じっている。

「どれをお使いになりますか。」

 少女はじっと見下ろしていたが、やがて最も細く軽く短い軸棒二本と中筒、丸く削った細棒三本と刀杼、杼を手に取った。機を固定する支柱も綜絖も持たなかった。他に苧糸と帯、()()を何本かと生糸を全て束ねて帯で巻き上げると、灯火も持たずに窟に入って行った。

 長い洞窟の果てに、天井が抜け、ぐるりを石壁に囲まれた滝があった。“白糸束”の見えざる中枢の滝であった。

 少女は滝壺に突き出た岩棚の上、砕け落ちる滝の帳の傍らで、細い石柱と自分の腰とを結わえるようにして機をつなぎ、絹糸を織り始めた。

 七尋もの高さからふわふわと綿のように降る水は、足元からさらに七尋もの底へと吸い込まれる。水の飛ぶように杼は飛び、水面を叩くように刀杼は緯糸を打つ。

 秋が深まるにつれて岩稜の空に接する際は赤く染まり、滝の水は細り、機を織る少女の腰元から足元にかけて、幾重もの大輪の花弁が重なるように織りあがった絹のかさは増した。

 冬になり、滝の水が氷の細い筋を何本か残して涸れると、少女は機と織りあがった布を抱えて、炉の燃える窟へと戻って来た。そして冬の間に長衣に仕立てた。子供の頃のように繭を拡げた外套はもう相応しくない。少女は羽化した繭の短く切れた糸を捩って編んだ薄緑の長い蝉羽を作りあげた。胸元に結わえたその両袖は肩口から踵まで透きとおった羽根のように垂れた。

 春になるとルメイは、細紐で少女の額の周を測った。黄金の蝶の蛹の皮膜を縒りこんだ絹糸で金線の紋様が編まれ、額を飾る輪となった。

 水守(クシュ)の吹き鳴らす雪解けを告げる葦笛がイナ・サラミアスの渓谷にくまなく響き渡る頃、少女は聖地“白糸束(ティウラシレ)”において水中の廊を水鏡まで進んだ。東から昇った太陽の光線が水鏡に届いた時に、ルメイは、少女の額に巫女の冠を授けるとともにその名がサラミアであると宣言した。



 


 

 




   




 

 




   

 





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ