表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
3/23

第二章 火の語り 2


その日の朝、ロサリスはシアニを呼び、パンを持たせた。

「今日は少しゆっくりして来ていいわ。バギルたちは下で家のことをしたいと言っているし、母さんは姉さん(イナ)たちと子供たちを見ているから。」

 シアニはパンの籠を持ち、思い立って、水場に下りる階段の斜面に咲いている白と黄の百合を少し摘み、正面の揚戸から出ようとした。

 モーナがその前を立ち塞いでいる。シアニは瞬きしたが何も変わらなかった。いつになく鮮明な姿で厳しく見返してくる。その顎がふと上がり、シアニの背後に視線を向けた。シアニは向きを変え、館まで戻った。

 住居に風を通すために、玄関も祭殿も戸が大きく開き、貯蔵庫の入り口までが開いている。シアニはそっと耳をすませた。ロサリスとイナたちは子供を庭の東側で遊ばせている。

 シアニは貯蔵庫に駆け込み、揚戸を押し上げた。驚いたことに大して重くはなかった。そこで前掛けを外して籠と花をまとめて包み、腹這いになって降り口から精いっぱい手を伸ばし、梯子の横木の出っ張りに包を引っ掛けてから、揚戸を半ばまで下ろし、後ろ向きに向きを変えてその間に滑り込み、背で、肩で、頭で板戸を支えながら梯子を下りて行った。三段ばかり降りると頭の上で板戸はぴたりと閉まった。シアニは闇の中でに三度目を開けては閉じ、手で周囲を探った。壁に触れると同時に、闇は濃さを減じたかのようにぼんやりと物の形が浮かび上がって来た。シアニは梯子から荷物を引っ張り下ろし、記憶の通りに壁の左側を探りながら歩いて行き、封印された脇道にたどり着くと、筋交いの下をくぐって抜け、元気よく小走りに駆けて行った。

 丘の横穴から出、青々と茂るニレの林の間のせせらぎ沿いに歩き継ぎながら行く。木立ちの下の柔らかい苔の上を歩いている時に、シアニは、一、二度、丘の方から馬のいななきを聞いたように思った。

 誰かが訪ねて来ているのだろうか?シアニは、考えた。ダミルは忙しい。ニーサもケニルもずっと訪ねて来たことはない。夏の昼間は誰もかれもが仕事に忙しい。

 老人の家の裏を流れている小川に行き当たり、遡ってゆく。青々とした小さな田があり、赤稗の畑があり、新芽の出ている蕎麦もある。しかし、畑にも小屋にも老人はいなかった。シアニは、小さな卓の上にパンの包を置き、花を甕の中に生けて、小屋を出た。

 森は雨が降る前のようにしんとしている。しかし、空には雨を運んでくるような雲は無く、すっかり見慣れた澄んだ青い空に真綿のような雲が浮かんでいる。

 若木に水をやりにいかなくちゃ。

 シアニは籠を振りたてながら、小川沿いに泉の方へと駆けて行った。


 コセーナの荘に、正門の外の耕地で蕎麦の種蒔きをしていた女たちの悲鳴が響き渡ったのは、朝露が消え、乾いた風が吹き始めた頃だった。

「なんだよ、騒々しい。」

 休憩のためにやっと櫓を降りて来た番人は、陽射しの暑さにげんなりしながら、果たしてわざわざ確かめるような重大事だろうかと訝りながら、嫌々引き返しかけた。

「何か聞こえたぞ。」若い者をエフトプに行かせたので、手いっぱいの仕事場から、鋳掛け直したばかりの熊手を引っさげた鍛冶工が怒鳴りながら走り出て来た。

「見張りは何をしているんだ。さっさと上から確かめろ!」

 櫓の下でぐずぐずしていた男を叱りつけると、外へと走って行った。その後から三人四人と取るもとりあえず走りだして行く者。母屋の扉が開き、ダミルは方々から集まって来る老若男女に「待て!」と一喝し、櫓に急ぎ駆け寄った。

「早く状況を見ろ。」

 櫓から真北を見た見張りは、声にならない悲鳴を上げかけ、やにわに槌を取り、半鐘をけたたましく打ち鳴らした。

「火が!藁塚から火が!―――やられたっ!」その手から槌が落ちる。「斬られたっ!」

「そこをどけ。」ダミルは櫓に登り、すぐに振り返って後から来たニーサに叫んだ。

「アツセワナの奇襲!騎兵だ。外のものを呼び戻せ。武装で救助へ。弓手は垣の上から援護を。」見張りに槌を渡し、「退却の合図を鳴らせ。皆が戻りはじめたら、いいか、西の狼煙台に行ってエフトプに襲撃を知らせろ。」

 退避の鐘が鳴り響く中、やがて種蒔き籠を肩に掛けた女たちと、救助に飛び出した者、そして、顔と肩を切りつけられ血を流した鍛冶工がふたりの肩に担がれて門の内に逃げ込んで来た。

「アツセワナの騎兵が火を点けている。」最後に入って来た男が叫んだ。

「正門を閉じろ。」命令しながらダミルは正面の耕地に積み上げた藁に火を放っている六騎の兵を見た。歩兵はいない。我が物顔に走り回っているが高柵に近寄る様子はない。裏門から出て、堀に沿った植え込みからそっと射程へと近づいているニーサに気付きもしないようだ。

「奇妙だ。」

 呟くダミルの目に東門から登る煙が見え、それに気を取られる間もなく、全く逆の西の耕地から湧きあがる、殺戮の鬨の声とは異質な、どことなく青く興奮に満ちた声が飛び込んできた。

 コタ・レイナの対岸にヨレイルの少年たちが建てた宿舎のある、煉瓦の作業場だった。

 少年たちは家の壁や煉瓦の山を盾に、煉瓦を得物に、耕地に入り込んだ騎馬を相手に戦っている。そしてその相手は、一騎が耕地の周の植え込みに仕込まれた煉瓦人形に馬の脚を取られて前方に放り出され、もう一騎が二体の綱に結ばれた人形を引きずりながら駆けまわっている。大きな少年たちは機を逃さなかった。何やら拳に握りしめて飛び出して行くと、乗り手と馬の顔めがけて力いっぱい投げつけた。乗り手がたちまち顔を庇って手綱を落とし、馬は狂ったように駆けだし、これも乗り手を落とす。

「三手に分かれてくれ―――いや待て」ダミルは、集まった男たちに言いながら川向こうに目をやった。

 今や少年たちは、自分たちの砦から飛び出してふたりの敵に躍りかかっている。無傷の一騎と見えたのは馬を奪った少年が乗りながらなだめ、操っているのだ。首尾よく火消しに回っている者もいる。

「正面と東へ。」

 正面からニーサが駆け戻ってきた。入れ替わりにいち早く火消しのニワトコの枝を手に女たちが駆け出して行く。熊手、手桶と手にした年寄りと子供が広場に集まっている。

「ふたり仕留めましたが、四人に逃げられました。正面には他に誰も。」

「誰も?騒ぎを起こすのが目的か?」ダミルは、矢筒を負い、弓を手にしたニーサを見下ろし、言った。

「逃げた奴はどちらに行った?」

「南の方かと。」ニーサはまっすぐ見返した。「私見では南に加勢に行ったかと。」

「こちらは囮だ。ハーモナがやられる!」ダミルは櫓の途中から跳び下り、最も近くにいた男を大声で呼びつけた。

「消火の目途がたったら、女子供を垣の内に入れて門を閉めろ。東門の火を消したら、内道へ加勢に来い。私はハーモナに行く。ニーサ、来い。」


 いつもよりゆっくりと洗い物を済ませた後、ロサリスはふたりの少女から幼いふたりを引き受けて、敷物の上で遊ばせながら窓辺で糸を紡いでいた。少女たちは少し大きい子三人を連れて庭でまり遊びをしている。茅の綿毛を芯に糸を巻いて締め、色糸で縫い取った毬に子供たちは大喜びだった。幼子の歓声に少女たちの気兼ねのない笑い声が入り混じるのに耳を傾けながら、ロサリスは自分でも歌を口ずさんだ。長いこと触れていない竪琴のことを思い、もし、新たにこの面白い玩具を触らせてやったら、子供たちはどんな顔をするだろうかと思い巡らした。

 突然、奇妙な少年の叫び声のようなものが子供たちの声の間に割り込んできた。遠いが鋭い叫びだ。

 子供たちの声は、しん、と止んだ。間髪を入れず起こった「うおっ」という恐ろしい声に、ロサリスの手から錘がぽとりと落ちた。足元から這い上がる凍り付くような恐怖の中で立ち上がりながら、その耳は馬のいななきと、一斉に上がる複数の男たちの声を聞いた。震える両手で、ようようふたりの幼子を引き寄せる。これは夢ではないのか。立っているのか、座っているのか、下肢の感覚すらない。昼なのか夜なのか。目の前から色が失せ暗くなる―――。

「何なの?」

 泣き声をあげて駆けこんで来た少女たちに我に返る。全ての色と音が彼女の周囲に立ち返り、

「子供たちは?みんな呼んで家に入れて」厳しく命じた。

 おいおい泣きながら出て行く姿に心を傷めながら、ロサリスは両手を揉み、考えようとした。

 今の物音が何なのか突きとめなくては。早く様子が分かれば取るべき行動も分かる。

 入って来た子供たちを居間の炉の前に固め、ひとりひとりの顔を見て静かにするようにと言い含め、菓子を台所から持ってきて割り与えた。

 食べ物を口に含んで少し落ち着くのを見ると、ロサリスはそれきり静まり返っている外の様子を見ようと、一旦閉めた戸口へとそっと近寄った。

 たたっと外で足音がしたと思うと戸が大きく開いた。ロサリスはとっさに後ずさり、柱を背に、(つか)え棒を探った。

 イーマの老人が立ち塞がるように立っている。その後ろに膝に両手をついて息を弾ませているバギルがいる。老人はつかつかと入って来、ロサリスに炯々とした目を向け言った。

「弓は?」そしてぐるりと振り仰ぎ、鴨居に目をやった。

「ラシースの弓は?」

 ロサリスは口に手をやり、声を押し殺した。そしてようようかぶりを振った。老人が拳を握り、絞り出した声が自身の呻きのようにきりきりと心の根を締めつける。

「無いのか―――弓も、矢も」

 

「アツセワナの兵が来る。逃げる準備をしろ。」

 イーマの男はぶっきら棒に言った。

 ロサリスは、いま少しの助けを求めてバギルを見た。バギルは動揺を抑えきれない様子ながら、少女の頃から慈しんだ姫にうなずきながら、とつとつと話した。

「あのさらわれたヨレイルの子が脅されてここの場所をアツセワナの兵に教えたんだ。下回りの道まで来たが、あの子だってその先は知っちゃいない。こらえていたが逃げようとして馬から跳び下り、斬られた―――女房がうちで介抱している。この旦那が助け出してうちまで連れてきた。騎馬が十ほどいるらしい。」

「下の道を取り巻いている。じきにここに来る。」男は冷ややかに言った。

「いや、火をかける」

 少女たちは泣き声をあげた。ロサリスは喘いだものの、強いて男の厳しい目から目をもぎ離し、少女たちの肩に手を置いた。

「これからコセーナに行きます。地下の道を通って。さあ、並んで、みんな―――みんないるわね。」

 膝が、手が震える。唇をかんで少女たちの背を押し、一歩、二歩と進む。前へ。

「祭殿へまっすぐ行って。灯を用意するわ。」

 子供たちを祭殿の砂利の上に並ばせ、灯火をつけるうちにも、老人ふたりは素早く相談している。

「コセーナから煙が来ている。」

「コセーナは危険なのか。」バギルの声に懸念が混じる。

「ここで待っているほどではない。狙いはこちらと見た。」

「火を食い止めるのを手伝ってくれ。」

「この丘の木はそう簡単には燃えん。―――攪乱してやろう。屋根の茅を少しもらう。粘土、麻布、縄があったら欲しい。」

 たちまち、バギルは鉈を腰に帯び、水場の脇の物置へと走る。イーマの男は外に出た、と、子供たちの列が倉庫の前に行きつく前に屋根の上に現れ、茅の留め縄を切りはじめた。やがてざくっざくっと茅の束が砂利の上に落ちる。

 ロサリスは子供たちの先頭に行き、揚戸を上げ、まず自分が降りた。足元の下は漆黒の闇と冷気がわだかまる。その闇の中にどっぷりと半ばまでつかって少女から灯火を受け取る。片手を擦るように伝い下りる梯子の脇にはぴたりと口を閉ざした大きな鋼鉄の扉。ロサリスは半ば取り落とすように灯火を足元に置いた。しっかり、しっかり!口の中で唱える。次は子供よ。半ばまで梯子を上り、幼子ひとりを抱いて下ろし、次に少女ひとりを下りて来させて預けると、もうひとりを抱いて下ろし、残りは励ましながら下りて来させた。

 最後に下りて来た少女に幼子を預けると、ロサリスは先頭に立った。少女ふたりの間に歩ける子三人を挟み、ゆっくりと暗い通路をたどる。狭い壁と低い天井の囲みを灯火の火影が暴き、さらに奥の、終わりのない闇を示す。歩け。歩け。あそこから遠ざかるのよ。一歩づつ進んでいるはず、終わりに向かっているはず。本当に前なの?前でいいの?後ろには子供たちがいるはずだわ―――。

 耳元で鳴る鼓動の遥か遠くから子供たちの足を擦る音と時々漏れる息ずすりが聞こえる。

「大丈夫。大丈夫。」ロサリスは押し寄せる闇に喘ぎながら言った。

 大丈夫―――目の前を覆う闇の中で、耳元に囁かれた声。

(ミアスがついておいでです)最後に触れた、小さな小麦色の手。そして高らかに中天にとまり威嚇のさえずりをする雲雀のような叫び―――。

「離れないで。―――私から離れないで」

 ロサリスの声が鋭く、何重もの木霊を生んで響き渡った。ロサリスの背に後ろの少女がぶつかり、抱かれていた子が驚いて泣き、たちまち皆は押され、よろめいた。ロサリスは壁に手をつき、かろうじて灯火を庇って踏みとどまった。

「待って、速すぎたわ。みんな止まって。」

 子供たちがひとしきり騒いで止まり、静かになるまで、ロサリスは順にゆっくり名を呼び続けた。全員の応えを確かめると、ロサリスは再び子供たちに並ぶように言い、前の者の腰のあたりを左手で掴むように言った。

「さあ、また歩きますからね。こうしましょう、みんなでひとつづつ好きなものの名前を言うの。前の人が言ったらあなたの番よ。ファナまで言ったら初めに戻るの。私からいくわよ。苺!」

 赤ん坊を抱いた少女は「馬」と言い、続いて子供が「パン」、「お菓子」と言った。

 これで子供たちの声を聞いていられるわ。ロサリスは速くなりすぎないように慎重に進んだ。

 何度かファナが言う。「―――ウズラ!」「雀!」…「毬!」「雀!」…「バラ!」「雀!」

 子供たちががっかりしたように唸り、すぐ後ろを歩く少女が愚痴を口にしかけた時、ロサリスは言った。

「前から灯りが来るわ―――味方よ。」

 前方から二、三の灯火。こだまする呼び声。それが次第に近づいてくる。灯火は揺らぎの波の中に人の形を垣間見せ、その形は揺るがず確かだ。

 前方から呼ぶ複数のよく知った声と、後方の子供たちの歓声とが交じり合う中で、ロサリスは数歩を駆けるようにして手を伸ばし、向こうから差し出される手を掴んだ。掴んだ大きな手指がしっかりと握り返す。

「ダミル、子供たちを頼むわ。どうかコセーナまで連れて行って。」手を放し、その手で子供たちの背を順に押してやる。ニーサが少女を先導し、その後に子供たちが続くのを見届けると、子供の列の中にひとつの姿を探すダミルに言った。

「私は戻るわ―――シアニがいないの。」

 そしてたちまち身をひるがえしてハーモナの方へと走って行った。


 丘の上は煙のにおいが漂い、うっすらと曇っていた。祭殿には人影ひとつなく、居間に通じる扉は閉まっている。

 ダミルは戸を開けた。さらに強い煙のにおい。玄関の戸を開くと目の前の庭の中心に大きなかがり火が  焚かれていた。

 茅を丸太状にきつく縄で巻いて立て、上に生葉をくべて煙をたてている。煙は激しくまっすぐ上に上がり、コセーナからも見えるはずだ。一方、木立ちや藪の間から下方に流れる煙と煤は、麓で火を点けてから攻め込もうと企む敵の、相互の意思疎通を混乱させるだろう。

 言葉少なに掛けあう声がし、ふたつの人影が東西に分かれて走り去った。ダミルが駆け出してみると東の藪がするりと黒い影を飲んでひと揺らぎしたところで、その下方の斜面にはくすぶりながら煙が流れ始めたところだった。

 麓からかっかっと蹄の音がする。敵は火を点けて様子を見ているに違いない。コセーナを襲った奴らは三班に分かれた十四人だった。ここを襲っている奴も十騎前後か?だがコセーナで取り逃がした奴らがここに合流すれば十五騎。

 下回りの道を見つけたものの、上に上がる道が分からず、下からあぶり出して出て来た住民を襲い、折りを見て斜面から徒歩で登り、館に切り込むつもりなのだろう。

 丘の木々はたやすく燃えるものではないが下草が燃え続ければいずれは…。ダミルは煙の源に向かって下り始めた。

挿絵(By みてみん)

 少し先を下りていった者の素早さは驚くべきものだった。蛇のように枝ひとつぶれず、微かな葉擦れのみが下ってゆく。と、煙のただ中からぬっと立ち上がった男が、両手に抱え上げた丸太を前方に投げ落とした。

 怯えた馬のいななきと人の叫びがして、どっと赤い火花の固まりが地から噴き出し、ちりちりと舞った。熱く焼けた茅の束を閉じ込めた泥の簀巻きが道の固い地面に落ちて飛び散ったのだ。その場から逃げた敵をよそに、イーマの男は、手際よく広葉の繁った枝を切り取り、地を叩いて火を消しはじめた。腰に巻き縄と鉈をつけ、これから一手も二手も繰り出して見せようという意気込みで道に跳び下りると、道の脇の株立ちしたしなやかな枝をたわめて弓なりに反らせ、反対側の藪に結び始めた。

 今、ここにおれの出る幕はない。それよりも他の場所だ。

 ダミルは丘の上に取って返した。ぐるりと見渡すと北側にも煙が上がっている。こちらは遠い。丘の中腹にある畑の段よりもさらに下だ。ダミルは台所の裏に回り、水場へ下りる段を駆け下りた。

「姫、まだこんなところに!」バギルの慌てた声がする。

 ロサリスは池の辺にかがみこんでいる。

「大丈夫よ、ほら」池から浸した麻布を引き上げ、バギルに差し出した。「気をつけてね。」

「早く行きなさい」

 バギルは気がかりそうにしながら、際の栗の林を抜けて下の斜面へと走って行った。煙は薄く横に広がり始めている。二、三騎固まっていそうだが遠くて手が出ない。

「弓があれば…。」ダミルは呻いた。

 ニーサを戻したのは惜しかった。ロサリスが子供たちとコセーナに行くべきだったのに…。

 ざばーんと音がした。からりと手から手桶を落とし、ロサリスが池の端から立ち上がった。目元を指で拭い、ショールから雫を滴らせ、自らも煙の立つ木立ちの中へと下りていくところだった。

「待て!」

 こんなことを許してなるものか。彼女を気にしながらシアニを探し、敵と戦うなど出来たものではない。ダミルは後を追おうとした。

「ダミル様!ダミル様!」

 切羽詰まった叫びがその背後に絡みついてくる。ダミルは苛立ちながら振り返った。その目に見えたのは南西からもくもくと上がる煙と、番小屋のある下から駆けあがって来たバギルの妻の恐怖に目を見開いた顔だった。

「助けてください!」追いついて腕にすがり、必死で番小屋を差し、引っ張って行こうとする。

「この手を放せ。そして逃げろ!」ダミルは怒鳴った。

「まだひとりいるんです!」バギルの妻は目をつりあげ、叫んだ。「ヨレイルの兄さん(アート)が。」 

 そしてスカートをからげ、段を下りて行った。ダミルはその脇の山腹を五歩で跳び下りた。

 番小屋の下の斜面は煙に曇り、木立ち越しに道の際に沿ってちらちらと短い炎の列が舌をのぞかせて上ってくるのが見えた。

 小屋の奥の寝台には身体をくの字に折り曲げて少年が横たわっている。肩から背に斜めに、巻きつけた包帯の下から点々と血の染みがにじんでいる。

「背負うから起こすのを手伝ってくれ。」ダミルはかがみながら言った。

 小屋から出た時には火の手はさらに迫り、熱に抵抗する青葉のしゅうという威嚇の音まで聞こえ始めていた。少年はわずかな動きにも苦しがり、ダミルはじりじりする気持ちを抑えながら慎重に段を登った。戻って来たニーサが丘の上から下りて来て、最後の数段を引っ張り上げた。その横を、桶を手にした者ふたりが水場へと駆け下りて行った。丘の上では三人の男が火の帯を見て話し合っている。ニーサが連れて来た加勢だ。

「怪我人だ。」ダミルは少年を祭殿まで運び入れながら言った。

 ニーサは少年の真っ青な顔を見て首を振った。

「地下道に下ろすのは無理です。ここを守って介抱した方がいい。私たちは地下道から来ましたが、他の者は下から加勢に来ます。彼らは敵と同様、上に登る道を知らない。彼らが来た時に引き入れてやらなきゃ。」

「それまでに上に来る火は我々だけで食い止めなきゃならんのだな。」

 ダミルは少年を祭殿の横の子供部屋に運び入れ、介抱をバギルの妻に任せ、ニーサを連れて外の男たちに合流した。


 北に放たれた火はバギルと加勢に来た男たちが消し止めた。斜面の藪が焼かれ、一部あらわになった道から、敵が侵入したものと思われた。隠し戸は外側からは探し難いが、内側からは容易にわかってしまう。敵が西の揚戸を発見すれば、外にいる騎馬を一階層上に引き込んでしまうだろう。ふたりに西の揚戸の内側を見張らせ、ダミルとニーサは侵入した者を追った。東の揚戸は外側からは見えない。気付かずに通り過ぎればまた下の道に吐き出されるだけだ。が、その前に仲間が東の麓に放った火の上の層を通るはずだ。

「道の位置を知られれば、南東の入り口から騎馬を引き入れるでしょう。一気に十騎ほどに押し入られれば道の上では話になりません。」

「では、南から上がってくる蹄の音がしたらお前は上に上がって先頭を射止めてくれ。」

 東の火は木立ちの下の草と藪をまだらに焦がし、上の層に至る前に消し止められていた。

 ニーサが駆け寄って行って、道の上に突っ伏して倒れているアツセワナの兵を抱え起こした。兵はこめかみを石で砕かれていた。

「石飛礫だ。」ニーサはダミルを見上げた。「あの老人ですか?」

 ダミルはうなずいた。「あれを見ろ。」南に下る道にはところどころ立ち木を撓め、反対側に引っ掛けた障害物が設けられている。「あれに触るな。ウサギみたいにぶん殴られるぞ。ここはもういい。もうふたりに北を守らせよう。そして東にふたり。残りで南を守ろう。」

「私とあなたとあの老人ですね。」ニーサは既に斜面を登りながら言った。

「先に加勢していてください。配置を伝えて来ますから。どうやら南に集中しそうです。いったん上層に上がれば侵入口も多い。」

 一つ上の層からダミルは道沿いに南に走り下って行った。そのあたりは既にもくもくと煙が漂って、木立ちの中の視界を一層悪くしている。が、ニーサの予想通り、麓には騎馬が五、六騎も集まっているようだ。等間隔の蹄の音が、西へ西へとが流れる。おそらく放った火が下藪を焼いて暴いた、上層への右に折れる道に気付いたのだ。狭いが舗装され馬も通れる。ダミルが今いる場所だ。

 しまった。長い剣を持つアツセワナの騎兵を相手にひとりで戦うのは無理だ。だがこれを見過ごせば、さらに上を行く道を許し、東の揚戸を守る者たちの背後を晒すことになる。近づきつつある音を絶望的に聞きながら、ダミルはやむなく短剣を抜き、道に立ち塞がった。が、細い短い悲鳴と、騎手の何かを見つけた叫び、わだかまり乱れ、速度を落とす蹄の音が違う恐怖の淵に彼を引き込んだ。あのふたりはどこにいる?この防衛は徒労に終わるのか?

「いたぞ、女だ。」

「藪だ。」道の西端から下へと叫ぶ声。「隠れているぞ。下からあぶり出せ。」

「イーマのつれあいだ。」侮蔑を込めた脅しの声。

「ロサリス!」ダミルは叫んだ。「ティスナの方角に進め。」

 煙が広がり、道の上さえも霞んでいる。藪を分ける音と微かな咳、道の下の方だ。

 ロサリスが飛び出してくるのと、騎馬が姿を現すのがほぼ同時だった。ダミルは短剣を振りかざした。

駄目だ、間に合わない。

 パシッ!何かが地面の上から太い鞭のように跳ね上がり、ロサリスと騎馬の間の宙を横切った。驚いた馬が棹立ちになる。次々と生き物のように放たれたしなやかな枝が、後に続く馬の脚とわき腹を払い、後続の馬脚を乱した。ダミルはやっとのことで道の脇に倒れこんでいるロサリスのそばに駆け寄り、引っ張り起こした。馬の脚を逃れるためにはこの混乱の間に上の斜面を登るしかない。だが、ロサリスを立たせるのがやっとだ。

 不意に目の前に火花が飛び散った。皮膚を焼く熱さに飛びすさる、その視野の向こうに、狂乱した馬が縁を踏み抜いてどうっと斜面の下に倒れこむ光景が映った。

 粉々に砕けた茅の松明のかけらが紅玉をこぼしたように輝き、しゅうと白茶けて消える。その上をものともせずにさくさく踏みながら、老人はさらにもう一本の松明を振りかざして馬を退けている。

「教えたはずだぞ、おれの声を」あたかも歌うように、声は熊蜂の唸りの緩急をつけて響く。

「荷物をしょってとっとと下がれ。それとも灸をすえて欲しいのか?」

 アツセワナの兵は棹立ちになる馬の上でこらえながら罵った。

「イーマの死にぞこないめ!」

 が、斜め上から飛んで命中した矢に弾き出されるように手綱を握ったまま落ちる。そこを、どっと横面を松明で殴られ、馬は向きを変えて味方の方へ突き進む。

 上の斜面の木立ちの間に立ったニーサは、わずかに身体の向きを変え、二の矢でもう一騎を仕留めた。

「これで五人。」

 老人は炭を焼いていた時のように鼻歌のような軽い唸り声を漏らした。その口元に明らかな笑みを認めてダミルは戦慄した。

 ニーサはその場で素早く言った。

「加勢が来ました。北から入っています。南にも回ってきます。弓手が射かけるので館へ避難を。」

 老人は黙って手にしていた松明を地に叩きつけて消した。

「殿、早く。」ニーサが促した。

 ダミルは、ロサリスに言った。「ロサリス、行こう。」ロサリスは突然激しく首を振った。

「シアニが。シアニがいないわ。」

「お前―――この役立たずめ」

 老人はやにわにねじり上げるような勢いでロサリスの手首をつかんだ。

「やめてくれ」

 ダミルは老人の腕に手を置いた。その手をもう片手でぴしりと叩いて老人はロサリスに怒鳴った。

「わからんのか。奴らが狙っているのはお前だぞ。」

 途端にロサリスは全身の力を振り絞って、老人の手を振り払った。そしてさっと木立ちの中に身を沈めると目の前の斜面をまっすぐに、最後の揚戸のある道へと登って行った。

「あいつは歩き方くらいはつれあいに教わったらしい。」老人は冷たく言った。「また分別を失くすようだったら、いいか、どこか中に閉じ込めてしまえ。」

 ダミルは憤りを飲み込むと、身体を老人の前に割り込んでロサリスを追って館へと向かった。


 丘のそこここから上る煙と夜闇に閃く火影、人馬の叫び。押し掛ける人々を受け入れきれず塞がる通路。けたたましい悲鳴と前後して呼ばわる声。彼女のことを呼んでいる。高貴な称号と敬愛の響きで呼ばれていた名が、侮蔑を込めた呼び捨てで口にされ、同時に挙げられる夫については名すら口にされない。

救いを求めて来ていたはずの者の中に、襲撃者の脅し問いただす声に従い、手を上げこちらを指差す者がいる。その者に他と違う情けをかけることもなく、冷酷な青い目は彼の途上にあるものすべてに刃を突きつけていく。なかんずく赤子を抱く者を執拗に追い―――彼の目的はもう遠くに去ってしまった―――私はそれを告げ、脅しが殺戮に代わるのを止めるべきだ。このままこの場に留まり、あの刃を受けるのだ。

 うずくまる彼女の傍らに、いつものように敏捷な小柄な影が近寄り、小麦色の小さな手が腕に添えられた。

(ミアスがついておいでです。)

 そして勝ち誇る天の雲雀のように高らかに叫ぶ声。

(若君はここにいます!)

(玄室に―――私が存じています。)

 彼女を放して、グリュマナとその手下は祭殿の奥へと小さな姿を追って行った。彼女の目の前で閉まる扉―――扉―――火を掲げて飛び込む男たち。後を追う彼女の前ですべてがあの穴に飲まれ―――鉄の扉がぱくりと口を閉じる。


 館に駆け戻ると、入り口と燃え尽きた茅の灰との間を二、三の男が落ち着かない様子で待ち構えていた。

「全員戻ったな?」ダミルは尋ねた。男たちはうなずき、ダミルに続いてニーサと老人を慌ただしく招じ入れた。「バギルと女房も?では扉を閉めろ。ニーサ、弓手に合図しろ。」

 居間、祭殿―――。ダミルは境の戸口に立っている男に尋ねた。

「ロサリスは?どこにいる。」

 男は、亡霊の名を囁かれたように即座に手を上げ、祭殿の奥を指差した。「たった今あそこに入って行かれました。」

「地下室だぞ!」ダミルは男に言い、急ぎ駆けつけた。

 揚戸は開いており、ダミルの耳にばたんと梯子の倒れる音と鈍い落下音が聞こえた。

 ロサリスは梯子の下の床に突っ伏して倒れていたが、這い出して立ち上がり、梯子の背後にあった扉、ダミルの足の下にある玄室の扉の把手に取り付いた。倒れた梯子の足が扉の下を押さえている。ロサリスは呻き、把手にむしゃぶりつき、いきなりぱっと離れると、両の拳を固めて身体ごと扉に打ち付けた。

「ハヤ―――ハヤ、ハヤ!」

 拳で打ち、次いで頭を扉に押し付け、肘を押し付け、肩を震わせて声の限りに叫んでいる。

 ダミルは縁から滑り降り、後ろから抱きとめようとした。恐怖と怒りの声をあげ、その身を振りほどくと梯子がずれ、わずかな反動の揺らぎから扉が開きかけたのを見て遮二無二また把手に取り付いた。

 ぱっと扉がはじかれたように開き、よどんだ土の匂いの充満した暗黒の穴が口を開いた。

「やめて!罪のない者を―――手にかけるなら先のを追うがよい。私の夫は、ヒルメイのラシース・ハルイーは、コタ・レイナを南に行った…。」

 玄室の三百年もの沈黙と闇が、放たれる苦悩の声を吸い込んでいった。ロサリスは開いた扉の内に座り込んだ。そして両腕の間に頭を埋めた。

「私は、何ということを…。」

 呻きの奥からとどめようのない嗚咽が湧きあがり、そして、ダミルが二度とは見たくなかった九年前の光景が、同じ姿と言葉とで再現された。

「あの人を裏切ったわ―――」 

 ダミルは、かがみ、ロサリスの両肩を押さえ、そっと揺さぶった。「ロサリス」もう九年前とは違う。状況も、人々も、自分も。

「ロサリス、しっかりしてくれ。」

 ダミルは立って上を見た。降り口の縁に老人が立って見下ろしている。黙って、微動だにせず、戦いの間は峻厳であった面は、しかし奇妙に不器用な子供のように、怒りながら悲しんでいた。

「殿―――」

 祭殿をダミルを探しながら足早にやって来たニーサは、仁王立ちになっている男と中の様子に戸惑いながら、縁に膝をついて報告した。

「援護隊が敵を五名捕らえました。ハーモナの敵は一掃されました。しかし、麓の南西部の鎮火が遅れています。番小屋の屋根に着いたために火勢が増したのです。」

「皆で行け。小屋は壊せ。木に火を移すな。火はどこまで広がっている」

 ダミルは梯子を掛け直しながら尋ねた。

「番小屋の西の麓。泉との間の森です。」ニーサが答えた。

 梯子を上りかけたダミルの後ろで、ロサリスは微かな声をあげて息を飲み、起き上がるや、身をひるがえして地下通路の暗闇の中に駆け込んでいった。

「追え、あいつを。」

 イーマの老人はダミルを促し、ニーサに言った。

「灯りをくれ。外の火を消せ。ここが煙出しになる前にな。」

 そして、梯子を飛び降りてロサリスの後を追って行ったダミルに続き、地下の闇へと下りて行った。

 ロサリスは、暗がりの中を封印された脇道を探して、左手でなぞりながら早足に進んだ。右手の中には萎んだ白と黄の百合の花弁がある。立ち上がる時に地下の床に見つけたのだ。闇の中に同じ花の香がまだ漂っている。微かな風が横合いから、わずかな花の香の残りをも押しやって煙の匂いを運んできた。筋交いの封印が手に触れた。

「ロサリス!ロサリス!」声と足音が追ってくる。が、ロサリスは組んだ丸太の隙間に横向きに身体を滑り込ませ、壁と床、両方を掻きながら脇道に這い出た。掌に、柔らかい、叩き均されていない土の地面が触れる。

「ミアース、ミアース!」

 細い細い澄んだ声が闇の奥から伝わってくる。あれはハヤの娘―――シアニだ。私の子になったシアニだ。ロサリスは闇の中で目を凝らした。シアニはこの先にいる。あの森にいる。イスタナウトの種子を埋めたあの庭に。九年もの間封印され、誰も訪れなかったあの庭に。そしてそこには火の手が迫っている。


 シアニはその日、泉に行くのにずっと南寄りに小川沿いの窪地をたどって行った。老人が畑に戻って来るかもしれないと思ったが、今朝、モーナが丘の巻き道を通るのを厳しく止め、地下道を通ることを指示したことも気にかかっていた。モーナがあの道を初めて教えた時は、コセーナとの連絡路に男の子たちがうろついていた時だった。今朝も聞きなれない馬の声がしていた。今日にだけ、丘の巻き道には近寄ってはならない悪いものが潜んでいるのだろうか。エクミュンが退治した蛇や、イービスの鬼のようなものが。だけど父さんがずっと前に言っていた。蛇は人よりも強い川の水の力のことで、鬼の正体も乱暴を働く人のことなのだと。道に潜んで待ち構えているような危険なものは人なのだ。悪い人に気をつけなければ。ヨレイルの大きな男の子をさらってしまうような恐ろしい人。悪い人ってどんな顔をしているのかな。見たらわかるのかな。

 少し暑いくらいの良い天気だ。シアニは水やりの前に泉の縁石に掛けて、いつもの通り先に一口飲もうとした。

 途端に一声、気味の悪い声が丘に響き、膝の上に水がこぼれた。シアニは杓を両手に支えて立った。

「どうしよう?」

 丘に近づいてもいいのだろうか。

(若木に水をやって)

 ニレの葉を透かした光の中でモーナが言った。

(私の若木に水を。いつもよりたくさん)

 シアニは突き動かされたように杓を抱えて杜に向かって走った。モーナの声が鼓動の拍と同じ速さで繰り返される。

(若木に水を。若木に水を。)

 夏の盛りの青々とした葉を広げた若木の根元にざあっと水をあける。もう一度。そして次の木のために汲みに走る。泉に向かって走るたびに、

(早く、早く水を!) 

 モーナの声は高く鋭い警告のように心に命じる。そして胸元できらめきながら跳ねる水を抱えて杜へと戻る時には、緑の枝葉を広げた若木が一心に呼んでいるかに思えるのだった。

 いつもの二倍もの水をやり終えた時、シアニの服は胸元から裾まですっかり濡れていた。若木の林床の苔は一面にびっしりと水玉を宿し、草の葉先はやや水に打ちひしがれて垂れている。

 漂ってくる煙の匂いにシアニは驚いてあたりを見回した。

 東の方からニレの木の間、藪の上を白い煙が漂ってくる。桜の木の裏側に回り、丘の麓に近づいてみると、東寄りの斜面は煙に覆われ、耳をすますと草の爆ぜる不気味な呟きが、遠くから漏れ聞こえる。

 シアニは飛び上がって杓を取り、泉に行く方に駆け出しかけ、もっと近くの東の林床からちろちろと低く這って来る赤い炎の列を見て立ちすくんだ。

「もっと水を?モーナ!」

 モーナの返事はない。シアニはぎゅっと杓を握りしめ、それを若木の根元に放り出し、働き始めた。

 杜の際から、丘の麓の地下道の出口まで、一直線に草を引き抜きにかかる。草を向こうに放り、出て来た土を両手でこちら側にかき寄せ、固め、防火帯を作る。

 顔を上げると火の帯は丈を増し、森の下草を燃やしながらこちらに向かってきていた。

(向かい火を)

 モーナの声が老人の声に変わる。

(早くしないと時機を逃すぞ…) 

 シアニは積んだ草の中に火口を置き、老人の、手の上に副えた手つきを思い出しながら火打石と鋼を打ち合わせた。

 一回、二回―――ついた!両手を口にあてがって吹き、炎が上がり始めると、穂先に火のついた草束を取り、左右に移して広げては、前掛けを両手で持ち、扇ぐ。杜の端にたどり着く頃に、先に点けた辺りの火が、ようやくまだらに前に進み始める。だが、襲ってくる火の方がはるかに速い。もう地下道に戻ることも出来ない。シアニのいるところからは、入り口のある見当のところの前を、既に火の列が抜いているように見える。泉との間も。急いで杜の際をさらに掘って溝を広げる。小さな火はのろのろと頼りなく、向こうからくる熱風に押しやられてしまいそうだ。

 進め!進め!飛んでくる辛い灰が目に、唇に張り付く。放り出してあった杓を拾い上げるが中には一滴の水もない。シアニはそれを振り上げて、森の際に残る火を叩いて消した。若木の青葉にも白い煤がついている。風に乗って飛んで来ては地面にふわりと落ちる火を、シアニは猛然と叩き消した。

 このきれいな若木は私が守るのよ。

「ミアース、ミアース!」

 シアニは叫んだ。辛い煙が喉に流れ込む。シアニは若木と防火帯との間に立ち、前掛けで口を塞いだ。


 脇道を遮る筋交いを、老人の力を借りてようやく外し、ダミルは後方からの灯りを頼りに、両肩がつかえそうな狭い通路を進んで行った。

 灯りもない中、ロサリスはどうやって歩いて行ったものだろう?コセーナへのまっすぐな通路と違い、こちらは左へ左へと湾曲していき、途中で一度右側に折れる。そしてまた左へと回り込む。コセーナに向かう通路ではあんなに怯えていたものを。

 ダミル自身はこの道を通るのは初めてだった。子供の頃、コセーナとハーモナの間を地下道に潜り込んで遊んだ時にはこんな道は無かった。この脇道は後でラシースが造ったものなのだ。

 前方にわずかな衣擦れの音がなかったら、ロサリスが狭い闇の宙に消えてしまったと思ったことだろう。だが、前を行く音は静かに素早く移動してゆく。 

 後方で老人が鋭く息を吸う。空気には煙の匂いが混じり始めている。

 ダミルは呼びかけようと口を開きかけた。が、老人が囁いた。

「待て」 

 遠くからか弱く、しかしぴんと芯のある少女の声が聞こえてくる。

 ミアース、ミアース

 前方でロサリスが走り、ダミルと同時に老人も駆け出していた。出口は目前だった。走るロサリスの影を縁取る光は同時に白い煙をも送りこんで来た。

 眩しさと痛さで目が開かない。が、丘の土壁を出た途端、ダミルは両手を大きく掻いて探り、穴の脇に立ち尽くしているロサリスの腕をしっかり掴んだ。どうなっている?火はどこまで来た?にじむ涙の上に張り付く灰…。

 目蓋のあわいに、弱まってゆくほむらの影が映った。足元は焼けてはいない。青草の地面だ。前に大きく張り出した枝も、スイカヅラの蔓も煤を被ってはいるが。

 火線は出口の近くから南西に、はすかいに黒く地を焦がして止められ、その奥の最後の揺らめきが、背後の楡の木立ちとの間で消えたところだった。消えた炎の奥に、華奢な若木のひと群れの前に、木を守るように立ちはだかる煤だらけの小さな姿がある。

「シアニ!」

 ダミルは呼び、その顔が振り向くのを見た。

 子供は両足を踏まえ、その場から動かない。絶体絶命の危難が風のひと吹きのもとに消え去ったのが信じきれないように、きょとんと見返している。ダミルの横で、ロサリスが歩き出した。まっすぐに吸い込まれるように、杜の方へ、子供の方へ。掴んだその手にぐんぐん導かれて、ダミルは、次第に安心したように、終にはいくぶん誇らしげに顔を上げ、見返してくるシアニに歩み寄って行った。

 ようやく安全を確かめたと見え、子供はぽんと陣地から青草と焼け焦げの入り混じった地面に下りて、父と母と頼るふたりのもとに駆け寄って来た。

「モーナがいつもよりたくさんの水を、って言ったのよ。」

 シアニはふたりを交互に見て言った。

「私の若木に水をって…。」

 ロサリスはうなずき、シアニを抱き寄せた。膝をつき、両腕を回し、小さな肩の上に首をあずけ、決して放すまいというふうに両手を組み合わせた。

 シアニは、ダミルの後ろにいる老人を見て、ロサリスの腕の中から腕を引っ張り出すと、その手を振って得意げに言った。

「向かい火を焚いたわ!」

「ああ、まったく」ダミルは呟いた。「寿命が縮んだよ。」

 丘の麓を焼いた火はシアニの防火線で止まり、南に広がった分は窪地の中で弱まり消えた。東の方では、侵入者を下し加勢に駆け付けた家人たちの、聞きなれた元気な声が連絡路沿いに近づいてくる。火は消し止められたようだ。それにしてもやけに賑やかじゃないか。下草がすっかり払われた木々の間からちらちらと覗く人々の、やや緩んだ列の向こうには馬も何頭か集まっている。アツセワナで育てられる、背の高い精悍な馬だ。今回の戦利品か。それに、どうやらケニルがエフトプから戻って来たな。

 老人はゆっくりとダミルの脇を通り抜け、円形をなして植わったイスタナウトの杜に近寄って行った。

儀礼に臨む正装の外衣がその身を包んでいるかのように、長い髪を後方に束ねるように払い、木々の前にぴたりと足を止めると右手を胸に当てて礼をし、顔を上げて木々を眺めた。

 ロサリスは、身体をねじって老人を目で追っているシアニを胸の内に抱いたまま、畏れを込めて老人の後姿を見つめた。年月と労苦が体の幹を拉ぎ、衣服は摩耗し火に焦げ、戦いの痕の刻まれた手足、半白の髪を束ねる紐すらなく、本来あった完璧な姿から著しく損なわれたであろう線を、ロサリスはその姿の上に重ね描いた。

 老人の嘆息が低く、その耳に届いた。

「おれの愛しい若木は拉がれてしまったのか。」

 シアニはロサリスの腕から抜け出て老人の傍らに走って行った。

「おじいさん、私、向い火を点けたの。」シアニは言って不満げに老人を見上げた。

 老人は手を上げ、シアニの頭の上にその掌を置いた。

「よくやった。―――アニよ。おれの畑に実ったものは残らずお前のものだ。翌年から自分で蒔いて育てるんだ。そして、母鳥のもとから離れるんじゃない。大人になるまではな。」

 くすぶる灰に覆われた地面を何人もの男たちが枝で叩き、足で踏みながらやって来た。コセーナでの一戦の模様を互いに語り合い、意気揚々としている。

「殿、馬を儲けましたぞ。器量のいい奴で。」

 ひとりが後方の連絡路の方をしきりに指しながら枝を振って叫んだ。ダミルは丘の裾野を調べながら、同じように灰を踏みつけて行き、出会った男たちに状況を聞いていたが、振り返って叫んだ。

「ロサリス、シアニ、ひとまずコセーナに帰ろう。ご老人(コーアー)、あなたも来てください、是非。」

 シアニは老人のもとからたちまちダミルの方へと駆けて行った。老人は振り向きもしなかった。ただ、ほんの一瞬、その肩を落としたかのように、髪の脇が揺らいだ。

 ロサリスはその後ろでうち震えた。うっすらと白い灰が漂う中を、中天を過ぎた陽光がニレの枝葉を通して斜めに差し、さらに内に穹窿をなす若木の葉をも通して、円形に立ち並ぶ滑らかな幹元に、澄んだ陰影を与えている。

「ハルイー」ロサリスは両手を握り合わせ、声を絞り出した。「どうか…どうか許してください。」

「お前には二度と会わない。」

 男は静かに言った。そして杜から顔をそむけると、泉の方へと立ち去って行った。

 その日を最後に、老人はコセーナの領内から姿を消した。


 







 












評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ