第七章 こぼれ種 1
昼半ばまで厚い雲に覆われていた空は、アックシノンの沿岸の村の上の一帯でようやく細い白い陽を下ろした。嵐一過、廃れた村の広場通りのぬめった光に覆われた地面を、深く水の溜まった轍と多くの足跡に戸惑いながら、百姓夫妻は少年少女に伴われ一晩空けた我が家の方へ向かった。
キブの引いて来た荷車に載せる物は大して残っていなかった。百姓家はあるにはあったものの戸は蝶番が壊されて斜めに傾ぎ、泥に汚れた屋内へと開いていた。中に押し入った賊は夫妻の飼っていた母子の羊を殺して思うさま肉や貯蔵食糧を貪った挙句、食いきれなかったものや金目でない家財、衝立、納戸の中の道具類や鍋釜に至るまで床に引き出して壊していったのだった。
表から入って、荒れ放題の炉辺、帳の引きずり降ろされ長持ちの衣類を引っ張り出された寝室、棚をさらえ出された納戸と踏み場もないほど荒らされた台所を、百姓は頬をぴくぴくさせながら通り抜け、裏口から出てくると石段の上に精魂尽き果てように座り込んだ。
「あなた!」屋内から女房が鋭く呼んだが、百姓は何も耳に入らぬげにのっそりと面をあげ、生垣沿いに外を回り込んで庭に入って来、家には目もくれずに空の家畜囲いと菜園の間を忙しげに立ったりしゃがんだりして歩き回っているアニにぶっきら棒に声を掛けた。
「何をしている。」
「種を探しているのよ。持っていける種を」
百姓は呻きとも欠伸ともつかない声をあげた。屋内でがらくたを避けながら女房の歩く音とキブが遠慮がちに女房に掛ける囁き声が聞こえる。アニはひょいと裏口の軒を見上げて指差した。
「小父さん、玉ねぎは手つかずで残っているわ。敵はものぐさよ。それともただ暗いから気付かなかったのかしら。」
「残っているから何だというんだ。種があったらどうだというんだ、全部びしょ濡れじゃねえか。」百姓は絞り出すように吐き捨てた。「暮らしが立つとでも言うのか?ここを出て行くしかない―――だが、どこへ行く?」
アニは答えずに木に残っていた熟したスモモを少し摘み、ほつれた籠に入れたのを石段の百姓の傍らに置き、ひとつを取って頬張りながら隣家との境の編み戸を開けた。無人の庭は手付かずに鬱蒼と草木が繁り、夕べの雨をたっぷりと吸って勢いよく枝葉を張っている。
「土に植わったものは此処を動かないわ。人が移っていく時にも。」アニは呟いた。「木はずっとここにいる。どんな時にも耐えて。」
枝葉枯れ落ちても、虫に喰われ朽ちても、土に返れば肥やしは残る。
「その時までには何度も種を落して若木を残していくに違いないわ。そして種は根を下ろせばそこを動かないけれど、まだ芽吹かないうちは旅ができる。」
アニは梨の木の下の草を分けてしゃがんだ。嵐で落ちた青い実を脇に転がしよけて、湿った土の中を指でへこませると、隠しに仕舞ってあった金橘の種をいくらか埋め、少し考えてイスタナウトの実をも埋めた。そうして丁寧に土を両手でかき寄せ、押さえた。
「私が連れて来た種をあなたの仲間に。」
アニは立ち上がりながら、よくしゃぶったスモモの種を仕舞い込んで呟いた。
「そして新しい種は私と旅に出る。」
屋内から響きわたる鈍い打音と漆喰壁の剥がれ落ちる音、戸口から湧き出る土煙に百姓は飛び上がってうろたえながら中に向かって怒鳴った。
「どうしたっていうんだ?キブ、わしの女房はどうなってしまったんだ?」
返って来たキブの声はお道化たように高く短く消えた。百姓だけでなくアニもひとっ跳びに段をあがって屋内に急いだ。
「あなた、手伝って!」女房は振り上げて壁を割った小さい腰掛を脇に下ろし、額を手の甲で拭うと一部が落ちた漆喰壁の割れ目に華奢な手を掛けて引きはがしながら快活とも聞こえる声で命令した。
埃の舞う中でキブの目がはしこく百姓に合図を送った。百姓は突然合点がいったように小さく声をたてると勇んで女房の下ろした腰掛を振り上げ、家じゅうが揺らぐほどの勢いで壁を殴りつけた。そして割れた壁に取りつき、漆喰の大きな欠片をはぎ取り、下に落とした。二度目の打撃で入ったひびは大きく横に広がった。百姓夫妻は申し合わせたように壁に取りつき、一枚の大きな壁の破片を剥がし落とした。
落ちて来たのは漆喰だけではなかった。小枝を編み上げた壁の下地との間に塗り込んであった平たい幾つもの麻布の包みで、それらがあった場所にはそっくり同じ形の穴が空いている。
やや古い食糧庫のにおいが辺りに漂った。
「干物だ」
「保存食ね!」
アニとキブは同時に声をあげた。干果に干し魚、干した野菜、豆類の小袋、軽石のように固く焼き込んだ細いパンまである。
「隣が越して行った時、我々もいつどんな運命に見舞われるかわからないと言って、お前と一緒に暮れに埋めておいたのだったな。」ひと息ついて百姓は大人しく言った。
「今の私は賊に勝ったような気さえしていますよ、それが三日天下かもしれなくてもね。」
女房はさばさばと言ってスカートをひと払いし、床に落ちた物の中身を検めて拾い上げてはキブとアニに手渡し、夫には壁にまだ残っているものの回収を言いつけた。
「おかみさん、舟が入り用ならご用立てしようか?」
広場通りに面した表からサコティーがひょいと顔をのぞかせて声をかけた。
「まさか、サコティー、台所の流しの小さい川に舟が着けてあるんじゃないわよね?さすがにそんな幅は無いと思うわ。」
「そうじゃない」サコティーは眉ひとつ動かさずにいなした。「この村には至る所に暗渠になった水路があるし、通れないところが無いでもないが、今は水でいっぱいだ―――舟はクシノンさ。」
「ありがとう、舟頭さん。全部合わせても私らの背に担えるほどで収まりそうよ。」
鍋や鉢、無事な衣類一揃いに錘と糸と羊毛を行李に詰めながら、女房は一時の高揚も引き、思わしげにアニとその知り合いだというバグの首領を交互に見やりながら低い声で答えた。
「それに今はどこに行く当てもないし、舟賃に出来る物もないわ。」
夫の方はもっとあからさまに野良の手伝いに来ていた少年少女の怪しげな素性に改めて詮索の目を向けた。少女はバグの首領と前からの顔見知りのように話しているが、少年の方はおどおどしている。
アニは自分とキブに預けられた貴重な食料を麻袋に分けて入れ丁寧に口を括りながら、ひょいと床から腰を浮かせてサコティーの後ろを覗く仕草をした。
「で、そちらの話し合いは済んだの?」
話題を逸らすとともにそれは合図でもあった。明け方の拉致にも似た強制的な避難からわずかな休息を経、敵はもう近辺にはいないから村の家を見に行っても良いという許しが出てからも、ヤモックの口からは百姓夫妻を解放するという言葉は出ていなかった。アニとキブが百姓たちについて行って家を片付けるのを手伝うようにと促されたのは、明らかにふたりのいない間にヤモック達タパマとバグと呼ばれる舟頭達の間で込み入った話し合いが持たれようとしていたからだ。
ふたりがこの百姓家の夫妻の厄介になり、南北四里にもわたるアックシノンの南端近い廃村に留まっていた数日の間、アツセワナ城市とその麓の村々では何が起こっていたのか、ヤモック達はなぜ一斉に戻って来たのか、夕べの曲者たちの素性は何だったのか、アニにもキブにも何も知らされてはいない。それに、タッケマが度々脅しているように、自分達は彼らの都合によっては殺されるのもやむない立場なのか……。今欲しいのは物語ではない、半ば被保護者、半ば虜の自分達の明日の行方。明日なお同伴させておいても損はないとタパマたちの気まぐれが許してくれるほどの機知。機知をひねり出す元の情報だ。
「私は舟を村の東の大水路に持って来てある。」サコティーは繰り返した。
「あなた達は家財をそちらの方に持って行ける。知っての通り、そこにも昔からの舟番の小屋があるし中は味方が検めたから安全だ。ゆっくりこれからの事も話し合えるだろう。」
百姓とアニとは同じふうに首を傾げた。サコティーは頷いた。
「アニ、夕べヤモックと話したんじゃなかったのかい?」
「いいえ、違う事を。」
アニは素早く小声で答え、立って包みをキブに投げて預けるとサコティーに近寄り夫妻とキブにも聞こえるように言った。
「で、私とキブがここに置いておかれた間にヤモック達がどこで何をしていたのか、まだ知らないのよ。」
第五家を襲い、領主を殺めて地所を乗っ取った“青頭巾”の一党は、初めに占領したアツセワナのお城の門、旧市街の始原門と正門に続いて新市街の新門をも占領した。それで“青頭巾”によって耕地を追い出された農民たちは城郭の中に避難して第三家のアッカシュに保護を求めることが出来なくなってしまった。
かくしてヤモックとバグたちは、第三家を孤立させないため、残る丘の端の門キリ・シーマティを守りにアツセワナに向かった―――その間、アニとキブをアックシノンの旧第一家の所領だった村に近い管理官舎に待たせておいて。
アニは胸のうちで無言でこれまでのいきさつを浚え、サコティーを見上げた。
「それに夕べの人達が誰なのかも。」
サコティーは、アニの片方の肩に手をおいてちょっと押しやり、戸口から一歩中に入った。
「御亭主におかみさん。」
夫妻の方にやや不器用に会釈し、改まった口調で言った。
「あなた方が遭われた災難に対し配慮も無く不安な移動を強いて申し訳ない。もう一度言うが、昨晩あなた方を脅かし、この家を荒らした者達はもういない。彼らは、私達がやってきた時にクノンの西に逃げ去ろうとし、多くは水かさの増した水路に落ちて死んだ。」
女房は黙って目を逸らし、行李を撫でた。家を荒らした賊は死んだ。では、賊を死なしめたこの男達はより安心だとでもいうのだろうか?
「彼らは“青頭巾”の末端の手下だったが逃げ出して村々の間を彷徨い、強奪と窃盗を繰り返していた者達だ。おそらく第五家を襲い、その地所を占拠していた傭兵だろう。」
「誰が―――。」アニは皆を見回した。「雨宿りに入って来たみんなが?」
サコティーは首を振った。
「梨という男は―――アニ、あんたがつけた名前が気に入ったのかそのまま自分でもカシュルと名乗っている―――彼は他の事では正直に自分をイビスの家に長年雇われている職人で名人に学んだ者だと言った。彼とヤモックの話によれば、貂という男が“青頭巾”の脱走兵らしい。この家を荒らしたのは一緒に彷徨っていた彼の仲間だ。」
サコティーの傍らでアニは僅かに身を震わせた。
「そして当人は今朝には空き家でこと切れていた。」サコティーは素早く言った。
「バーリュは?走って出て行ったわよね。彼はやっぱり川に落ちたの?」
「私はそれらしい者を見ていない。」
サコティーはふと言葉を切り、百姓夫妻とキブを見回して手を振った。
「話は道々にも出来る。荷物の用意ができたら、御両人、ひとまずこの場を退いてかりそめにも味方の見守るところへ戻ろう。」
百姓夫妻とキブ、アニは急いで荷を持ち、百姓家を出た。戸口を出る時、百姓はたとえうち捨てて行く屋敷でも押し入られたままの姿に置いておくのは忍びないと言い、サコティーも賛成した。男三人は屋敷の窓と戸を全て閉め、外側を木切れで打ち付けた。結局載せる物のない荷車は生垣の内に入れた。それからがらんとした表通りの、昨晩の騒動のあった空き家とは違う広場の反対側の通りをまわってクノンに向かった。
サコティーの後にアニはぴったりとついて行き、その後に百姓夫妻、後ろにキブが続いた。生垣を出て間もなくバグのふたりの男達が家の両隣の垣の間から出て一行に加わり、キブはしんがりの位置から小走りにアニの傍に追いついて来た。
広場を通り抜ける前にアニは名残惜しそうに共同蔵の方を見やってサコティーに囁いた。
「ねえ、サコティー、向こうの角に蔵があるのだけど、そこは荒らされていなかった?」
「ああ、大丈夫だろう。」
サコティーは素早く振り返り、後ろの者達に公道を渡り右に行くように合図をした。
「やっぱり管理小屋には行かないのね?」
「御亭主とおかみさんにこれ以上荒くれ者の集まりに同席させ心労を負わせるには及ぶまい。―――なに、訳はすぐに分かるさ。アニ、そこでしばらく待っていれば。」
サコティーは合流した部下達を呼び、大水路までのクノンの道筋の前後に怪しい人影が無いか見張るように命じた。アニとキブ、百姓夫妻も恐る恐る辺りを見回した。雲の走る空の下には、真っ直ぐに伸びたクノン、その右手には今出て来た集落を囲むハシバミの生垣と奥に並ぶ楡の並木、左手にはクノンに沿って腰ほどの高さに積まれた低い石垣が続き―――昔、こちら側が第一家領、向こうが第三家領だった時の境界の名残だと百姓は言った―――その向こう側に、熟れすぎた麦と丈高い草に水滴の光る広い畑と点々と散る小屋らしき影が見て取れるが、他には何も見えない。しかし部下のひとりは耕地の遠く近くに目をくばり、一行の先をすばやく廃屋や垣の後ろを検めながらはるか先まで行った。もうひとりは一行から少し遅れて、彼らが辿った位置で視界に映るものすべてを改めて見直しているようだった。
前後の見張りを部下達に任せてサコティーは、クノンを東に向かって歩きながらアニの質問に応えた。
「あんたが紺と名付けた男は正に紺のマントの男、つまり歴とした“青頭巾”だ。ヤモックによれば、彼の名はウージフという。少なくともある一時期はそう名乗っていた。」
昔、アツセワナの始原門の近くで雇人の斡旋をしていたという―――。
「彼について言えば、夕べあなた方を襲う理由は彼には無かった。彼は彼自身の目的があって単独でここに来たので、カジマのようなごろつきと居合わせたのはほんの偶然だ。申し訳ないが彼はヤモックや私の一族には明らかに敵だ、彼もそれを知っている。だから、これからは私達と行動を共にしているとなれば彼からの攻撃を受けることになるかもしれない―――さあ、このくらいで」
サコティーはアニに振り返った。
「夕べの連中の事を尋ねるのはやめておいた方がいい。これ以上知ってもあなた方の得にもならなければ気持ちを軽くすることもないからな。」
「その中で私達と同じようにただ難儀しただけの人がいたとしても」アニは呟いた。
その人がヤモック達にとって敵でなかったとしても、また助けなければならないという事でもないのだわ。
「私はなるべく自分事にあなた方を巻き込むことなく無事に望む所に送りたいしヤモックも同じ考えだ。」サコティーは前を行く部下の様子に目を配りながら夫妻に言った。
「だけど、頭領。」百姓は後ろから大股で付いて行きながら厳めしく声をかけた。
「あんたの助言を受け入れる前に、わし等にも世の中の情勢というものを教えてくれんものかね?わしは、なるほど、世の趨勢に関わりなく土地さえ耕しておれば良いと思っていたよ、ゆうべ賊にちゃちゃくちゃにされるまではな。今でも村を捨てるなんてのは論外だ。だが、どこかに一時避難するにしても、つれあいの安全と食える仕事は譲れない線だよ。時節は容赦なく移るしな。」
「小父さんは昔コセーナに仕えていて耕地の一区画を監督していた人よ」アニは囁いた。「前の当主シグイーが亡くなった大雨の時にも荘園の再興に尽力したのよ。」
サコティーは深い敬意を込めて百姓を見返した。
「お尋ねの事は後ほど詳しく話そう。そして、あなたが方策を決められたなら、留まるにせよ移るにせよ相応の力添えをしよう。」
アニはクノンの先を見渡した。ハシバミの生垣と楡の並木に囲われた集落の前を過ぎると右側は小さな雑木の森、草の伸びた果樹園、菜園と続き、相変わらず石垣と麦畑の続く左側とともにずっと向こうには大水路の堤と思しき柳の並木が見えた。どれも幹の低いところで切られた切り株から細い枝を伸ばしそれが刷毛の列のように並ぶ。それらの途切れたクノンの左側に小さな小屋らしい影がある。
「向こうにあるあれが番小屋でしょう?」
アニは指差した。しかし一同が村の西端まで行きつく前にサコティーが止まれと言った。先の様子を探りに行っていた部下が向こうから大急ぎで戻って来るところだった。
「自作農の自治区から人がやってくる。青頭巾ではない。」バグの男は意味ありげにサコティーに言った。
「お前の目を信じるなら、誰だ?」
「コタ・セノイの“水の輪内”の家長、ドムルテとその連れだ。」
「ここを指して来ているのか?」
「むろん。」部下は頷いた。
「どのくらい離れている?」
「二町足らずのところだな。」
サコティーは思案するように少年少女百姓夫妻を見やった。
「私達が会ってはいけない人?」シアニは尋ねた。
「ドムルテの名ならわしも知っている。南自治区の議員だ。」
百姓は、アスドともあろう仁を怪しむ故由は無いとばかりにきっぱりと言った。
サコティーは件の自治区へと通じる低い雑木の森の入り混じった原へ目を移した。低く雲の連なる空の下で、時の止まったかのように静止して見えるその景色の前を、アックシノンの水は高く畝をたてて勢いよく横切って行く。
「私は時機の一致に驚いている。彼の来訪は彼自身の事情はさておき、私達には良い時だろう。というのは、今朝がた君たちが休んでいる間に西から客人が来たんだ。私の仲間がアツセワナの南、キリ・シーマティの辺りから舟で二水路を下り連れて来た。彼らは私とは顔見知りでアツセワナ、ニクマラ、そしてコタ・レイナの最近の情勢について詳しい情報を持っていると思われる。ご亭主、あなたにもこのふたりの客から話を聞くことは有益だろうとは思う―――私達のような怪しげな流れ者から話を聞くよりは。だが、アニ、君が会いたいと思うかは別だよ。」
「どうして?大人の男の人達の話だから分からないと思っているの?」アニは不平そうに言った。
「今朝、やって来た客のひとりはニクマラからの使者、もうひとりはコタ・レイナ州から遣わされた密偵だ。」
アニは飛び上がりかけ、ぴたりとサコティーと目を合わせた。
「そうね。難しそうだわ、いかにも退屈だわ」女房の方に情けなさそうに振り返った。「私はあの番小屋にいることにするわ。あなた方の話し合いが終わって小父さん小母さんの行き先が決まるのを待っている間に何かできる事は無いかしら?」
「何かしら旅に備えてすることはあるでしょうよ。私もそこで待たせていただくわ。」女房は答えた。「キブ、あなたは?」
「おれも」
キブは慌てて身をアニの方にずらした。後から追い付いて来たほうも含めてバグたちはにやりとした。エマがおっかないんだろう、あれは一刻で短気だからな。
「それで小父さんは向こうで話し合いに加わるのね?」
自分から舟番小屋のほうに歩いていきながらアニは言った。
「いいわ!でも後生だから戻ってきたら私達にもわかるようにすっかり話してくれないかしら?」
「私がここに残って話してあげる。君とキブがこのご夫婦に厄介になっていた間にヤモック達がアツセワナで何をしていたかを。また、西から来た客人のおかげで分かってきたことを。」
サコティーは水位の高い水辺に舫ってある舟を指して言った。
「ほら、私の舟が頼りになることを思い出したかね?それから橋の向こうを見てごらん。騾馬に乗り、こちらを指してくる三人連れがみえるだろう。あの先頭を来る立派な髭のある男がドムルテ、水の輪内の家長で南自治区の代表だ。アニ、君はおかみさんの後ろの方で娘らしく隠れているといい。キブは息子のように御亭主の傍にいればいい。私はこれから橋の袂に彼らを出迎えに行き、部下達に取り次がせ、管理官舎にいるヤモック達とニクマラの使者、そしてコタ・レイナの密偵ケニルに引き合わせることにしよう。」
女房とアニは焼け出された一家の親子を装い、クノン脇の境界の石垣の端にいかにもくたびれたように腰掛けた。アニは無事だった衣類の中から借りたショールを頭から被り、膝に下ろした荷をいじりながら、やって来た男達を観察した。
ドムルテは大柄な男だった。騾馬の背に揺られる上体は寄る年波にやや丸くかがんではいるものの、肩幅広く胸板は厚く、手綱を取る手は節くれだち激しい労働と大小の戦いの痕跡を記していた。一方で白髪交じりの赤茶の髪とそれより濃い色の髭が胸元まで覆い、厳めしい深い目元と寸のつまった太い鼻柱の他には表情を窺い報せるものは無い。袖も裾も大ぶりの服は黒と茶の羊毛の混紡で、晒していない亜麻色の縁取りが、頭から膝元までほとんど全て茶色の色合いに抑揚をつけている。ベルト、物入れ、帯びた短刀の鞘、長靴、鞍の代わりに騾馬の背に乗せた皮は全て手製のなめし革だ。
彼と親族の男ふたりは橋の向こうでこちらにいるバグたちに気付き、一旦歩みを止めたが、クノンの中央に出てきて真っ直ぐに彼らに向き直り待ちもうけるサコティーに気付くと、やあ!と声を掛け、歩調穏やかにやって来た。
橋を渡って来た相手にサコティーは声をかけた。
「水の輪内一族の家長ドムルテ殿。クシノンに囲われたこの荒れすさんだ土地を訪ねてこられたのはどういうわけだ?」
「面倒くさい名でわしの馬を止める奴はサコティーか?」
ドムルテは手綱を引いて馬を止め、言った。
「あんたから何か聞けるならわしの目的にも適うだろうが、それですぐ郷里に帰れるでもない。自治区の衆の代表としてわしは然るべき者の口からエファレイナズの情勢を聞かねばならん。かつての議員に匹敵する見識と指導力を持った者からだ。」
「我々は互いに情報を交換できるだろうし、同様な仲間を得てさらに詳しく知る事ができると思う。」
サコティーは、クノンの先の、昔からよく知られた管理官舎に彼らを案内するつもりだと言った。そこに放浪者の頭ヤモックと、折しも西からやって来たばかりのふたりの男がいる。彼らからごく最近のアツセワナの様子、それに西の領主たちの様子がいくらか聞けるだろう。
「そこへ行こう」
ドムルテはすぐに答えた。彼は道端で興味深げに彼らをみつめている百姓とその一家を鋭い目で見返した。サコティーは百姓を紹介した。
「この村で長年慎ましく暮らして来た一家だ。夕べ賊に襲われ、蓄えを奪われた。あなた同様に西の丘の動静を知りたがっている。」
「そのアートとイネは貰いっ子か?」ドムルテはじろりと少年少女に目をくれて言った。「顔が全然似とらんな。」
キブはおろか、アニでさえぽかんとドムルテを見上げたが、サコティーは構わずに続けた。
「この人を会合の仲間に加えてあげて欲しい。おかみさんと子供たちはここに残って私が守る。舟を守るのと同様に。もし、馬を繋いでおきたいならそこの柳に繋げば、下にはいい具合に草もある。」
ドムルテとその連れは馬を水路の堤の柳の並木に繋いだ。
「あんたは話には加わらんのか。」
サコティーは答えた。
「あなた方は互いに話しあい、情報を共有すればすぐに次にはどうすべきかの協議に移るだろう。私達バグはエファレイナズの陸地のことには関りはない。私と仲間は水の流れを守り、かつてシギル王の拓いた土地が渇かぬように、そして外には悪事の色が漏れ広がるのを止めようと主水路、二水路の二辺を見回っている。姉神の炎と灰が治まって以来続けて来たことだ。これからもそうするし、渡しを頼まれれば応じるが、土地の攻防には関わらない。」
「水のあるところならどこへでも舟を持ってこようとうそぶいている者の言いぐさが―――」
ドムルテはじろりと見返した。
「確かにあんたは敵だったことはない。なに、味方にする時がくればその時はその時、骨を折るさ。」
サコティーの部下達が会合に加わるドムルテ一行と百姓とを案内し、先ほどやって来たクノンを引き返す方に去って行くと、サコティーは舟を舫ってある岸の堤に女房と少年少女を誘った。そこで草を食む騾馬と川面の両方に目を配りながら、柳の木の長く延びた枝元の陰に彼らを座らせた。
「どこから話して欲しいんだい、アニ。」
「向こうで持たれる会合には、タパマたちと小父さんの他には、ニクマラの領主の使者、コタ・レイナ州から来た三郷同盟の密偵、それに自治区のアスド、ドムルテが同席するんでしょう?彼らに周知されるであろう話というのはどんなふうに始められるの?」
サコティーは手を首の後ろに回し、はるか水路の上に目をやった。
「とすると、少し昔に戻ったところから話すことになる。君が知っている事でもここにいる他のふたりは、そして、向こうでも御亭主とドムルテには分からない事情があるのだからね。」
十七年にわたり、アガムンとアッカシュは時に協力を装いながら互いにアツセワナの覇権を窺っていた。長らく闘争の火種は丘陵の周囲でくすぶっていたが、ついにこの春、その余波はコタ・ラートを越え、コタ・レイナ州にまで及んだ。コセーナに身を寄せていたロサリス王女自らが呼び寄せたのだ―――謀と知りつつ、長いこと心中を苦しめていた繊弱な希望に耳を傾けてしまったのだ。
然してアガムンが迫った交渉に王女は応え、コタ・ラートの橋の上にまみえることになった。
しかし、アガムンがコタ・レイナ勢と対峙した場において思い設けぬことが起きた。アガムンの長年の部下として勇猛な傭兵団を指揮していたグリュマナが反乱を起こし、背後を襲ってその戦力を壊滅させたのだ。そしてアガムンその人はコセーナのダミルによって討たれた―――私はコタ・ラートの水の目を借りてこう言うのだ。
さて、その主の兵を打ち果たしたグリュマナだが、本来ならばコタ・レイナ勢の反撃に備えた後方部隊としてアガムンに随行して行ったものだろう。が、命に従う心は微塵も無く、かねての準備のとおり主君を追い狙ったのだ。コタ・ラートの橋の上でアガムンとコセーナのダミルが勝負を付けた後には、自ら手勢を引き揚げて行ったという。その様子は訓練を重ねて鍛えた軍団そのもの、いでたちも揃いの青い装束を、なかんずく青い頭巾に紺のマントを着けさせ、一糸乱れぬ手綱さばきだったという。
この、青い装いの男達の軍隊はどこからやって来たのか?
彼らはシギル王の治世の末には城の旧市街に出現し始めていた。当時はほとんどがまだ若い男達で、元は昼間は堅気に働き、日暮れ時になると憑かれたようにある奇妙な思念に取りつかれては徒党を組んで人を脅し、乱暴を働いたという。トゥルカンによるイナ・サラミアス攻略の折にも彼らはアガムン指揮下の兵卒として働き、その後広くエファレイナズを跋扈してイーマ狩りを行った悪名高い騎馬軍団の面々も同じ者達だった。言うまでもなく、彼らの頭はグリュマナだ。街の人々、村人たちはアガムンの命令に従う騎士だと思っていたことだろう。グリュマナの相貌、名を知る者はエファレイナズの市井の人々の中にはまだそう多くはいなかったのだ。
その後、内乱による農地の荒廃に追い打ちをかけるようにべレ・イナの噴火により耕地が灰に覆われた。誰もが困窮する中、グリュマナらは暮らしに行き詰った者達を煽り、その憤懣に乗じて弱小の土地持ち達を襲わせ、獲得した家屋敷を支配し、傘下に加わった者達に収奪物を安堵してやった。
ところで“青頭巾”という匪賊団の仇名はここ数年で彼らの襲撃を恐れるようになったアツセワナ城市の
人々やその麓の村人たちの間に広がったものだ。強大にして残忍、出没自在と恐れられる“青頭巾”だがその実はにわかに賊に身を投じたあぶれ者で膨れ上がっているのだ。
グリュマナがアガムンの一隊を滅ぼした頃、第五家を襲い滅ぼしたのはこの下層の“青頭巾”一味だ。既に弱体化していた第五家を乗っ取る心づもりはグリュマナにもあったことだろう。だが、先ほどの第五家襲撃とそれに続く略奪はグリュマナの部下の過失あるいは下っ端どもの暴走、と我々は考える。
知ってのとおり、この襲撃は麦の収穫を控えたアツセワナの大穀倉地帯に恐慌をもたらした。民を守るべき第三家のアッカシュは家族もろとも城郭の上層へと逃げ、襲われた第五家の農民たちはもちろん、第三家の多くの農民たちも匪賊の襲撃を恐れて周辺に保護を求めて散ってしまった。
さて、ここからが君たちの知りたかったことの本題だ。アニにキブ、君たちはヤモック達が前に決めた方針を耳にしたことだろう、彼らとの敵対関係はともあれ今は内郭に立て籠もるアッカシュを孤立させないように城の南の門、子らの集う門を守りに行くと。彼らの目的を君たちは不思議に思うだろう。彼らの本当の敵とは誰なのか、アッカシュに味方をする理由は何かと。
実は私と彼とでは敵も目指すものも少し違う。彼の意図を支持するかしないかは別として、彼その人を尊重するゆえに君に彼の目的は言わない。しかし、彼らタパマと私達バグには紛れもなく骨の髄から同一の考えがあり、それに従う限り私達の行動はひとつになる。すなわち、地の占有と私欲ゆえの殺傷を憎み、水の滞りと大地の枯死を放置しないことだ―――この考えはドムルテのように一族の所有地を守るのを義とする者には馴染まぬ、敵は敵、敵に利する作用は敵と見るだろう―――が、私達はどこでも最後には己の中のその声に従う。
ヤモックは君たちに言った通り、城の南を守りに行った。彼が行った時、城の様子はこうだった。
第五家を襲った“青頭巾”は既に始め門、正門、新門の三つを占領していた。はじめ中郭の第二家の旧邸へと避難していたアッカシュは、正門から通じる正中門と新門から通じる小門の防備を固めていたが、外郭からの絶え間ない包囲に応戦しきれず中郭を捨ててさらに上層の内郭、第一家の邸へと移った。
中郭を守っているのは昔からの街の人々だ。彼らはふたつの門を閂で固め、外郭から登って来る坂道、ハノ・スージマを守るために新市街の“博労通り”を三叉路のところで障害物を積み上げて封鎖し、賊が入り込んでくるのを懸命に防いでいる。同様に中郭から内郭へと至るハノ・ラキルをも。そこでは石工たちが内外の城壁を横断する壁を築きはじめている。アッカシュが兵糧の補給をするにも、庇護を求めに来る者、あるいは戦力に加わりに来る者が出入りするにもキリ・シーマティが唯一の城への出入り口だからだ。
ヤモックは主に城壁の外を見張った。青頭巾、というよりはその名の威を借りた下っ端の匪賊等の狼藉によって刈入れ時の農地を追われた農民たちを公道から南の険しい七曲り坂に導き、収穫物ともども城内に入れてやるためだ。彼らは数日間、そうやって避難民と城のために働いた。そうしているうちに転機が訪れた。
ひとつは彼自身の目標が動いたからだ、これは君たちには関係ない。もうひとつは敵を含めた人々の動きだった。
先ほど私は、第五家を襲ったのはグリュマナ当人の意思ではなく、その下っ端の仕業であると言った。グリュマナ当人はアガムンとその麾下の兵力を滅ぼしに行ったのだと。だが、コタ・ラートの方面に出向いていたその総大将が帰って来たのだ。この時の様子はヤモックよりもコタ・レイナ州から来た密偵、ケニルの話に詳しい。
今朝がた早く、私の部下のひとりに誘われていまひとりの客人と一緒に二水路を下って来たケニルの話とは次のようなものだった。
「私は過日、コタ・ラートの岸に突如出現し、アガムン軍を殲滅せしめた青い装束の怪しい軍団の正体を突き止め、エファレイナズの情勢を偵察すべくコタ・レイナ州三郷連盟が遣わした者だ。命を受けた者は他にふたりおり、私はオトワナコスの斥候として主に北の方面から件の“青い印”の一団に近づいた。
「自分がついて行ったのはクノン・タ・ラートを途中で別れた軍隊の主だった方だった。彼らはクノン・ツイ・イビスを北自治区を抜けて行き、主水路の内に入った辺りで手下に下知し、何人かの使いを南へと走らせながら、村々にたむろしているごろつきどもを呼び集めた。そうして本隊はその周りに参集した者達で大きく膨れ上がりながら丘をタキリ・カミョ指して上って行った。道々に見かける田畑の荒れようは、十七年前の内乱、噴火の降灰の折と比べ見ても惨憺たるものだった。それは農民の丹精が中途で首をもぎとられる無残と同じなのだ。
「私は新参者で溢れている群れに少しずつ近づいて行った。その頃は馬に乗った本隊からは大きく引き離されていたが、徒歩の者たちが長く箒星のように連なっていた。皆、申し合わせたように藍染めのなにがしかを分かるように身につけている。それが仲間の印らしい。環状路の辻には見張り役が監視し、仲間で無い者を弾こうと目を光らせている。私はクノン・アクから合流してきた奴らのうち、あまり機敏ではない男から剥ぎ取った青い頬かむりをして雑兵に紛れ込んだ。そうして連中としばし賄いや野宿を共にし、群れのはるか先に軍を指揮している大将が誰なのかを探ろうとした。
「丘の麓から参集したこの青い軍団は一路、城に向かっていた。私は周りの者達の交わす言葉から、彼らがアックシノンの村、それも第五家の所領を占領し、略奪を働いていたことを知った。既に第五家は落ち、第三家も邸から逃げ出したとか。
「クノンを丘の方に上って行き、正門を目前にした広い高台に軍隊は集結した。門は既に攻め落とされて開いていた。ちょうど夜になっていたし、大将は城内の陣に迎えられ、我々下っ端はここで野営をし翌日には門から郭の内に入り、第五家と第三家がどうなっているか見に行けるだろうと思っていた。
「しかし、大将が向かったらしい門の辺りで激しい怒号が二言三言飛び、幹部格らしい男が三人、門の前から馬に乗ったままつかつかと三方の兵の群れに近寄って行き、留守部隊の責任者は前に出ろ、と命じた。
「私が忍び込んでいる隊の隊長らしき男が慌てふためいて前に出た。幹部の男が近づくにつれて私の周りで兵たちが恐れおののいて囁くのが聞こえた。イドゲイだ、イドゲイだ、と。馬でやって来た男は甲冑を着ていた。軽々と馬首を巡らしながら身を乗り出し、前に出た隊長を手にした鞭で殴打した。『蒼蘇の王の軍に賤しい匪賊は要らぬ』男は冷酷に言った。そして、第五家の地所で家人の殺害、略奪に関わった者を御大将の前に引き据えろ、出せぬならお前が代わりに制裁を受けるのだ、と命じ、馬上に居ながら命令が果たされるのを見守った。隊長はまさに私の目の前の与太者ほか何人かの男を選り出した。衛兵たちがたちまち彼らを取り押さえ、門へと引き立てて行った。ほどなくそちらの方でかまびすしい悲鳴と歓声とが湧きおこった。大将が男達の処刑を言い渡し、即座に縛り首が執行されたのだ。賭けてもいいが、もし私がもう少し前にいたなら、彼らの代わりに引っ張り出されたとしても何の不思議もない。
「翌朝、私達は新門に向かわされた。まだ内側から固く閉ざされ守られているそれを攻め落とすためだ。戦った相手は第三家アッカシュの兵、それに街の人々だ。門の櫓からは矢が射かけられるが、城壁の上からは市井の人々が石を投げ、梯子に油を浴びせ、火のついた粗朶を投げ落とす。背後からも襲われた。これは火の付いた手押し車で突進してくる農民だ。刈り取って積み上げた麦に火をつけてまでの抵抗だった。
「私はといえば、青頭巾らしいふりをする必要など全くない、自分の身を守るために必死だったのだ。私は落ちて来た粗朶を振り回し、荷車を奪い取った。櫓の弓手の矢種が尽きるまで盾にする物陰が必要だった。何人かの百姓に車をぶつけて茨のはびこった坂の下に転げ落としもした。終いには門にも向かって行った―――タキリ・ソレの門扉を打ち破った“蒼蘇王”とやらの軍勢に私も加担するところだったのだ、後から来た本隊が持ち込んだ破城槌の揺返しが私が門扉へと突進していった車を弾き飛ばし、気の毒な百姓たちを落した藪の中に私をも転げ落としさえしなければ。青い偽者としてはいい転がりっぷりだったはずだ。
「門扉の中心が割れ、閂をへし折ったらしい、門に群がった兵どもが門扉を押し開ける。待ち構えていた本隊の騎馬が流れるように門へと吸い込まれていく―――私は馬上の大将を見た。遠い年月を経て。白茶の長い髪が巻き、頬からあごにかけても髭に覆われた四角い顔。兜の下の青い目。まだほんの子供のころ内郭の円形広場で見た姿だ。そして後に私の最初の主の所領ハーモナを襲った男だ。」
コタ・レイナ州の密偵ケニルにとって、城壁の内に入るのはほぼ十七年ぶりだった。変わり果てた街で、偵察中の青い軍団に立ち混じって郷里の人々とまみえたのは、今になって振り返れば奇怪なことだ―――彼は言った。私にも分かる。恐らく、驚き怒り立ち向かってくる人々を受け止め、全力で戦うのは、そのものが快感なのだ。その瞬間、己の中に正義などは無い。
首領の正体を突き止めた彼の次にするべき事は城内に避難しているアッカシュの拠点と戦況を見極め、今度は出来るだけ早くコタ・レイナ州に戻り報告することだ。
「私は門の突破を果たした下っ端兵たちに再び集合の号令がかけられるのを聞いたが、そのまま騎馬の流れの最後尾から門の隙間に飛び込んだ。石造りの建物はそのままながら往時の住民の姿は見えず、寄せかけのあばら屋がこれもまたうち捨てられて、埃っぽい大通りを突入した騎馬隊が駆け巡っている。青い装束の騎兵は刀を抜き放ち、先ごろまで城壁の上から攻撃していたカヤ・アーキ兵と町の住民の別なく刃を振り下ろした。私は変装の青い頬かむりゆえに辛くも切っ先を手控えられたが、次の幸運も同様に見込めるとは限らない。そのまま切り捨てられた遺体に混じって伏せていたが、騎馬がひとわたり通り過ぎると青頭巾をかなぐり捨てて通りの空き家の物陰に隠れた。
「本隊の主流は大通りを駆け抜けて中門まで突進し、そこで中郭から押し返すアッカシュの息子、ビオロスの軍に締め出された。他の隊は通りを南へと下って行き、キリ・シーマティから伸びる“博労通り”が俗にべそかき坂と呼ばれる登り道との分岐点に差し掛かるところで、石やら瓦礫、廃材の有り合わせやらを道や家々を横断して積み上げた防塁に阻まれた。家の屋根軒は取り払われて壁の上には逆茂木様の杭が植えこまれている。そこでも街の人々が第三家の兵に混じって防備にあたっていた。
「引き揚げの合図がなされ、見張りに配置された兵を除く本隊は悠々たる趣で通りを北へ、旧市街の方へと行進していった。まるで我が家に帰るといったふうに。
「私は報告に加える事柄をもうひとつ加えようと―――ただ懐かしかったのも否めないが―――中央通りの向こう側まで行ってみた。途中で第三家の邸がすっかり彼らの兵営に当てられているのも確かめて来た。旧市街はもとより彼らの街だ。辻に歩哨を立てている他は普通に仕事をし、商いもしている。女子どもの気配がほとんど無いことを除けばありふれた街といっていい、子供の頃にかいくぐるように遊んだ店舗、工房の在処、そこで働くおやじの顔も同じ人間のものだ。そして旧市街の北の外れ、旧い城壁に囲まれたワナ・ダホゴイの丘にはいつしか堂々たる城砦が建っていた。その窓辺には旗が掲げられ、やがて日が沈むと灯りが灯った―――。」
ケニルの驚きは十七年来初めて城内に入った者の驚きだ。彼はべレ・イナの噴火後何度かアツセワナの界隈まで旅しているが、ワナ・ダホゴイがトゥルカンの引き立てと承認を得た新しい主を迎えた事はイナ・サラミアス滅亡とシギル王の死に続く事件として街の人々の記憶に残る。噴火の前のとりわけ暗い一年間のことを、丘と森と郷をつなぐ水の路を行き来した私は忘れまい。
ケニルは見て来たワナ・ダホゴイの丘をこう描写している。
「旧市街が属する城壁の大部分と同じように、その丘は大小の石を隙間なく積んだ堅固な城壁に囲まれる。その内こそが古のアツセワナの王の支配する城だったと街に育った者は教わって来た。私の記憶する昔と変わらず、城壁の正面の門に当たる口に門扉は設けられていない。
「往時、城壁の上に聳える丘は頂に焼け落ちた邸跡をそのままに据えて草木生し、トゥルカンが城壁の門口付近に設けた私塾や手工業の訓練所からも遠く奥にうち捨てられていた。今、そこに学びに来ていたかつての若い男達は衛兵に下知する士官になり、丘の地肌は普請が進められ、昔の遺構を基に建て増している城へと上りの階の舗装が進んで行く。その構えは由緒あるアツセワナの旧五家の規模を上回るものになりそうだ。
「そして、昔の住人が同じように仕事をしているとは言っても、今はそこに住む者はひとり残らず戦士なのだ。皆、城の主の呼び出しに応じて動く軍勢だ。」
彼は旧市街とワナ・ダホゴイの城を目に収めると、夜は篝火と見張りを避けながら、昼間はひたすら物陰に隠れながらまる二日もかけて門を占領されたばかりの新市街へ退いた。ハノ・スージマの三叉路の手前の防塁を越える時には少なからぬ危険を冒さねばならなかった。追いかけて来た青頭巾と中郭の城壁から見張っているカヤ・アーキの兵の両方から標的にされたからだ。
しかし、防塁を守る者達は北から逃げて来た者を受け入れた。そう、街の者でも百姓でもヤモック達の仲間でも、キリ・シーマティをアツセワナの出入り口として生かしておこうと考える者は誰でも、防塁を越える者を助けた。
彼が外郭の南側に出て来た時には、目の前を登っていくハノ・スージマに保護を求めて来る百姓の群れはずっと減っていた。坂の途中には精魂尽き果てた老人か女子どもがうずくまり、その間を時折、上の郭から買い上げられた家畜や穀類、青物が憮然と押し黙った農民に運び上げられていく。路面の荒れ、落ちて踏まれている野菜くずや麦の穂などが、暫く前には大勢の者がそこに詰めかけていたのを物語っている。
“博労通り”をキリ・シーマティの方へ向かうと、昔家畜の仲買人達の取り引き場のあったあたりには、ずっと前に人と一緒に追い込まれた羊や豚が道をはみだし、麦を積み上げた荷車や人の列と一緒にうろついている。通りに植わっている木々の下回りの枝は羊どもに喰われ、その下を家禽が歩きまわっている。
「何故、ここに留まっている。上に行かないのか?」そこにいる誰もが事情を察しているらしいことを、ケニルは尋ねてみたそうだ。案の定、鎮まって見える炭が風を感じて燃えることを思い出したとでもいうように、そこにいる百姓は憤然となって答えた。
「そりゃ、もうこうして何日もいるけどよ、上にいるカヤ・アーキの殿様は毎日お召し上がりになる分しか要らねえって言うもの。おれ達はおれ達自身が食べてくために働きたいんだ。上で兵隊として使ってもらうか、それとも下に下りて田を手入れするなら賊が手出ししないように守って欲しいんだよ。そのためになけなしの収穫を担保にしてお願いに上がっているというのによ。」
もう戻るべ、やり取りを聞いていた者の中でそう言い放ち、車をぐるりと下りへ返す者もいる。
ケニルは三叉路から少し南に行った城壁の庭園を備えた展望台へ行った。そこでも家畜の群れがたむろし、園生の草木の若芽は喰いつくされていた。彼は胸壁から丘の麓を打ち眺めた。
城壁のすぐ下に広がるのは旧第一家の所領であった森と田園だ。戦乱と降灰で荒れた後、はるかに劣る人手によって細々と営まれている田畑が斜面に沿って棚となり広がる。曇りがちの天候ゆえに視界は鮮明ではないが、彼の立つ位置からはぎりぎり左の奥から東へと延びるクノン・アク、丘を下り下りるクノン・ツイ・クマラとその下を横切る環状路、そして穀倉地帯の端を縁取る主水路の線がぎりぎり見える。見渡す景色の中に戦闘を思わせる煙の影や人の蠢く影は見当たらない。
しかし、むしろ彼の目を引いたのはクノンにまばらに散って城から農地に下って行く農民達の影の点だった。そして、その間をゆったりと行く騎馬だった。
羊の中に狼が混じっているようだった、ケニルはそう言ったし、私もヤモックも彼が見たものがよくわかる。このことで最も後悔するのはアッカシュだろう。タキリ・ソレが取られた後も私達はキリ・シーマティを開けておく努力をしたし、農民たちが城内に無事に行けるよう援護した。アツセワナが兵糧攻めに遭うのを防ぐためだ。だが、農民たちはもう、アッカシュを見限ったのだ。
アックシノンまで広がる穀倉地帯の様子を眺め終ると、ケニルは、食むものが無くなったためか服の裾や靴にかじりつこうとにじり寄って来る獣どもを追い払いながら、通りに戻った。
そこで彼はハノ・スージマを下りて来る、少し変わった身形の、均整のとれた体格と物腰の男を見つけた。ケニルはコセーナのダミルに仕えていた頃、エフトプ、ニクマラを介したコタ・サカの鉄の取引を通じて両家の家来の胴着の紋章を知っていた。この男に面識は無かったが、ニクマラの使者であることが察せられた。
アニ、君の察するとおり、今朝の客人のもうひとりの方だよ。
身分と名を明かして呼び止めたケニルに、ニクマラの使者は振り返り、彼の質問に答えてこのように言った。
自分はニクマラの家来だ。二クマラではひと月も前からカヤ・ローキから逃れて来た農民をはじめとする避難民が押し寄せ、食糧の確保と治安の維持が難しくなっていた。主ミオイルとその嫡子クオルトゥマは、エファレイナズの領主に協力を要請すべく三人の使者を遣わした。自分はそのうち第三家に遣わされた者だ。他にイビス、そしてトゥサ・ユルゴナスに向かった者がいる。
二クマラはもう大分前から各々に避難民を移すことを検討していた。しかし、アツセワナの丘の麓の状況は女子どもを含む難民が旅をするには悪く、保護を求める農民の反感も買い、なかなか事は進まなかった。
この度は切羽詰まっての事とて、自分は主から何としても先方の返答を持って来いと命じられている。避難民の四分の一を受け入れてはもらえまいか、さらに旧第五家領の農地の警備も我らで負担し見返りとしては利益を四つに分配しよう、という提案に対する返答だ。
彼は城の上から下りて来た。とすれば首尾は滞りなく運んだのか?ケニルは使者に尋ねた。
「いや」相手は首を振った。「私達がニクマラを出た時、農地を焼け出された農民たちが一部“青頭巾”に煽られて暴動を起こしたところだった。私は“二水路”に沿ってイズ・ウバールを通り、エノン・トゥマオイで仲間達と分かれて丘の南を上って来た。彼らが無事かどうかも分からぬ。その時はアックシノンで大きな衝突があった直後で耕地はどこも非常に荒れていた。キリ・シーマティに至るのは今よりもずっと難しかった。避難民と賊とが全ての門に押し掛けていたからだ。そのとき七曲り坂は何日にもわたり下から城内に入ろうとする農民と荷車でいっぱいだったのだ。
「私がようやくキリ・シーマティから入ったのは昨日になってからだが、ハノ・スージマの上に第三家が設けた関所に行けたのは日暮れに近かった。そしてそこは完全に封鎖されていた。カヤ・アーキの全兵力はタキリ・ソレとその上の中門を守るために差し向けられ、こちらを構っている場合ではないということだった。そうしているうちに新門はついに賊に取られてしまったという叫びが上の郭から次々と上がった。この報せさえ、私は身動きの出来ない中で聞いた。ハノ・スージマに詰めかけていた人々の落胆と怒りは大きかった。怒号が飛び、このままにしておけば坂の上の木戸と支え棒を押し破りにかかるのではないかと思われた。
「だが、怒った農民たちをなだめたのは、やはり農民の中の少し年のいった者達だった。『なあ、皆の衆、中に押し入ったとて何があるんだ?一緒にとじこめられて、それこそわし等にはろくに扱えねえ槍や弓を持つかね?何故そんな無駄なことをする必要がある。こうして囲いの中に取り残されてみれば殿様でもわし等よりももっと持たざる者だ。そんな者に何かしてもらうことがあるか?田圃に戻ろうじゃねえか。なるほど賊が跋扈しているかもしれんが、賊だろうが、野豚、蝗だろうが奴らが地面に下知したって食糧を生やすことが出来るものかね?出来るのはわし等しかいねえ。』
「田に帰ろう、畑に帰ろう。農民達は口々に言いはじめ、それは坂の上から下へと広がって行った。恐らくキリ・シーマティ、いや七曲り坂まで詰めかけている車と人が動き始めるまでには相当な時間がかかる。中にはやはり耕地に戻りたくない者も混じっている事でもあるしな。
「私は関所の木戸の向こうのカヤ・アーキの人々が落ち着くのを待つため、そこに一晩中とどまった。今こうして坂を下りてきてみれば通りは嘘のように空いている。」
ケニルは城壁から見下ろしたクノンの様子を思い出し、自分の見たものを相手に話した。それから、アッカシュ父子は中門で何とか“青頭巾”を食い止めたようだったが、その後、ハノ・スージマの木戸は開いてあなたは彼らに目通り出来たのか、と尋ねた。
「朝になってから木戸は開き、私は守衛に用向きを伝えたが、アッカシュ殿、ビオロス殿に直に会って主の伝言を伝える事は却下された。まして盟約を結ぶなど望外の事だ。」
使者は、まばらに坂を登っていく、野菜、穀物を積んだ荷車、あるいは羊、豚をつれていく百姓を、壁側に身を避けて通してやりながら難しい顔で見送った。
「私は主が望んだ通りの約束を第三家から取りつけることが出来なかった。この上は二クマラに戻り事の次第を報せ、別の方策が立てられるのを待つしかないが、今となってはアツセワナに別の局面が訪れたのではないかと恐れている。」
ケニルとニクマラの使者とはそれぞれコタ・レイナ州とアツセワナ南部の情報を交換した。彼らは今朝早くここに着いてから私とタパマたちにも同じことを話したし、彼らを二水路を使ってここに送って来た私の仲間達にもおおよその事は話している。
そして私とヤモックとは、ほぼ同時期に彼らと同じ場所にいたため、彼らが話した事に相違の無い事を認める。我々は同じ見解に至った。ここに先ほど訪れた“水の輪内”のドムルテの話が加われば、なお確かな裏付けでアツセワナの向かう先が読めることだろう。
べレ・イナの噴火後、王亡き暗い世ながらもエファレイナズは長年緊張と抑制による平穏を保ってきた。が、匪賊の頭領に過ぎないと思われていた男がその均衡を崩しにかかっている―――その野望はアガムンやアッカシュにも劣らぬ、大胆な領域獲得に向かっているのだ。
サコティーは淡々とした口調のまま言葉を結び、水路の上、北の方を眺めやった。その面にはいつもながらほとんど感情が表れず、姿勢を起こす動作も静かで僅かだったので、アニはその目の先を追わなかった。キブの顔は白く、黙りこくっている。
「分からないわ」アニは呟いた。「どうしてグリュマナはカヤ・ローキを襲った手下を……。」
百姓の女房は鋭くしっ、と囁き、心配そうにキブを見た。
「軍規を引き締めるための見せしめだ。」サコティーは振り返らずに柳の枝の奥を見たまま言った。
「グリュマナは初めはならず者の力と数を利用し、人々を恐れさせ、領主らの守備を揺るがせた。今は目指すものが違う。彼は暫くの間、農民を襲うまい。ことにアックシノンより西の、カヤ・ローキとカヤ・アーキの農民は。」
サコティーは柳の幹に手をかけたまま水路側に身を乗り出し、上に向かって大きく手を振って堤にしゃがんだ。嵩の増した川面は伸ばせば手が届きそうだ。
「私達がキリ・シーマティの近くで見たものは、保護を求めて行ったもののアッカシュに失望し、だが、自ら生業に立ち返っていった百姓達だ。彼らは長年耕していた場所に戻り、青頭巾は近くに居ながらそれを邪魔しなかった。これはどういうことだと思う?タキリ・ソレ占領時にグリュマナが手下に厳しい制裁を加えてまで兵に周知した新しい方針は、主を失った農民らを敵に回さずに味方にせよ、ということだ。怖れと恨みを早く忘れてもらい、彼らのために田畑を耕させ、兵糧を生ませることだ。図らずも農民たちはそれに沿う行動を取り始めている。」
「味方?味方になんか、なるわけがないわ。あれほど酷い目に遭わされたのに!」
アニは言いながら立ち上がった。
しかし、女房は膝の上に手を重ね目を伏せながら呟いた。
「でも、耕すのが私達の性ですからね。例え、気が付けば相手の思うつぼでも、ね。」
水辺に近づく静かな櫂の音にアニが駆け寄って行った時、サコティーは滑るように下って来た小舟の舳先を捉え、同時に漕ぎ手が櫂を置き舫い綱を取って堤に跳び下りたところだった。アニの後から来たキブは舟に乗っている男を見るとその場に立ち止まった。
舟頭は素早く綱を堤の法面の杭のひとつに巻きつけ、舟をサコティーの舟の隣に着けて言った。
「上のカヤ・ローキの村から来た客人だ。」
サコティーとアニはキブに振り返った。キブは訪れた男と目を合わせ、頷いた。
「クシノンの村の肝煎りだ。ラクドって人だ。お館にも時々来ていたよ。」
「館の執事のところで奉公していた内百姓の子だな。」
四十ほどの、赤錆色の髪をした農夫らしい男は舟から堤に下りると驚いたように呟いた。「あの恐ろしい火と災難を、よく生き延びてくれた。」
男を連れて来た舟頭は、主水路の見回りで下って来る途中、上の第三家の村の脇の堤を男が歩いているのを見つけて乗せて来たのだとサコティーに説明した。
「私は第五家の所領、アックシノンの南村から来た者だ。名はラクド。」
男は農民らしい直截な物言いながら、城にも出入りする世話人の風格を漂わせてサコティーに歩み寄った。サコティーは会釈し、答えた。
「私は水の番人だ。」
「王の御代から水路を見回っていたお人だな。」
「あなたの訪ねてこられた目的が私ならばまず用件を伺おう。」
サコティーと年格好が近いラクドはざっくばらんに切り出した。
「私はアックシノンの村を北から南へと巡り、同志を探している。一緒に相談し知恵を絞って村の生活を守る仲間が必要なんだ―――ここはもう、ほとんど人がいないようだ。丘の麓へも、また、クシノンの東の自治区までも訪ね行くつもりだ。」
「その方面に舟は役に立つまいが、私にはあなたにすぐにも案内できる場所がある。」
サコティーは腕を組んで言った。
「彼らがすぐにあなたの友になり得るかは分からぬが、会って話せば互いに益になろう。」
知らず知らずのうちに少年少女たちを傍らに引き寄せ、柳の落とす陰の中に固唾を飲んで成り行きを見守っている女房の手を肘からそっと押しのけて、アニは一歩前に出た。
「サコティー、私が案内してもいい?」
サコティーは注意を促すようにアニを見やったが反対はしなかった。
「この客人にこれから引き合わせる人達のことを分かっているかね?ヤモックの仲間や私の仲間は別にして。」
「コタ・レイナ州のケニルにニクマラの使者、自治区の代表ドムルテ、イビスの名工カシュルさん、うちの小父さんにこのお客様、つごう六名ね。」アニはすらすらと言った。「管理官舎の外の柵のところまでね。話し合いの邪魔はしないわ。」
アニは新たにやって来た男に丁寧に会釈をすると、男の先に立って舟番小屋の裏側の荒れた麦畑の中を、村の反対の端の方に向かって通り抜けて行った。
管理官舎の水辺の段のところではひとりのバグとタッケマが見張りに付いていた。アニが彼らに手を振ると、バグが蔦の覆われた垣の内に消え、やがてクノンに面した正面に現れた。アニと男は急いで橋を渡り、管理官舎への引き込みの小路に入った。アニは第五家のラクドの来訪を告げ、会合をしている人々に引き合わせてくれるように頼んだ。
ふたりの男が小屋の中に入ってしまうのを見届けると、アニは柵の反対側にぐるりと半周回ってかがみ、垂れ下がっている蔦の幕を少し掲げて柵の下から内側に潜り込んだ。垣の内側には低く切り詰められたまま枯れ、朽ちてしまった生垣の株が列になっていたが、いくつか枝を生やして膝より高いところに林をつくっていた。また、草の中には実生の小木がいくらか生えていたが、かき分け、かいくぐると程なく小屋の裏の菜園に出た。裏側は炉に繋がる石積みの煙突が丸く出っ張り、その他には壁があるだけだった。アニは壁に沿って少し戻り、北西に面した張り出し窓の横に立った。
窓は少し開き、中で話す声が聞こえていた。アニは思い切って覗き、その途端に壁に背をつけて身を縮めた。
談話室の円卓を七人の男達が囲んでいた。卓の一番遠い台所側には今案内されたばかりのラクドがおり、その隣に炉に近い奥から百姓、カシュル、窓の近くにはヤモックがいる。そしてラクドの左、戸口に近いところにはドムルテが居り、そのひとつ手前にアニの知らない三十過ぎかと思われる端然とした男、ニクマラの使者が居り、その手前、窓のすぐ脇にはケニルの横顔があった。
誰もが皆円の中心に顔を向け、アニに気付いた者はいない。真っ直ぐにこちらを向いて立っているラクドはちょうど自分の村で起こったことについて話しているところだった。
「私達の主家はひと月余りも前、逗留させていたアガムン殿の子飼いの傭兵団によって滅ぼされた。彼らが周辺の郷を荒らしていた“青頭巾”の賊だと分かったのは、館からアックシノンへ逃げて来た衆の証言からだ。賊はやがて我々の村を乗っ取り、村長を殺した。私達は時にカヤ・アーキの隣人のもとに身を寄せながら田を守った。そして収穫を終えようとする頃、村始まって以来の災難に見舞われた。村はカヤ・アーキとイビスの兵、賊の三つ巴の争いに巻き込まれたのだ。村の者達は離散した。カヤ・アーキの村につてを頼って行ったか、あるいは二クマラやイビスを目指したのか。御両人、もしやあなた方の郷の主が第五家の農民を保護したという話を聞かれなかったか?」
ニクマラの使者は、自分が旅立った頃には二クマラは新たに避難民を受け入れる余力は無かった、と言い、カシュルは丸い背をすくめてかぶりを振った。
「残念だ。」ラクドは無念そうに言った。「私達百姓が元の村で暮らしを立て直すには一刻も早くやりさしの仕事に戻らねばならないが、戻った者は僅かだ。再起はおぼつかない。仲間達は見捨てられた落胆から奮い立つことが出来ずにいる。―――他所の人に故郷を投げうってでも私の村を救って欲しいとまでは言わない。が、仕事と防衛、ふたつの点で協力を求めている。というのは」
ラクドは思い返して声を低めた。
「ほんの十日も前のことか、村に居座っていた“青頭巾”は突然全員引き揚げて西の方にむかってしまった。私にはこれが良い兆しとは思えない。引き方が速やか過ぎるのだ。遠からずより大きく手強くなって戻って来る、そんな気がするのだ。」
「村の衆のことを言えば」
ラクドが腰を下ろしたところでヤモックが言った。
「もし、無事でいるなら今にもあんたの村へ帰って来るだろう。が、青頭巾がより強い軍団になって戻って来るというのも残念ながら本当だ。」
「その訳を詳しく聞かせて貰えるならば……」
ラクドはヤモックのうらぶれた風体をやや警戒しながら求めた。彼の左隣のドムルテはヤモックを見やるとどっかりと卓に身を乗り出した。
「わしは西の丘と麓の情勢を知りたいという自治区全体の要請に応えてここに来ている。クシノン村の若いの、わしがここで先に聞いたところによるとだな、あんたの村をはじめ、麓の広い耕地の百姓たちの多くは“青頭巾”の下っ端どもの狼藉を恐れて一旦、領主達に保護を求めたんだ。だが、ほとんどが門前払いを喰らった。中でも一家でさっさと上の城に移って閉じ困ってしまったアッカシュには百姓衆はみな愛想を尽かしたんだ。彼らは一度見捨てた田畑に戻って来るだろう、他に行くところは無いんだからな。そして事実、彼らは城を下り始め―――この兄さん達がそれを見ている」
ドムルテは左隣に連なるニクマラの使者とケニルの方を目顔で示した。
「―――それを見ても“青頭巾”の奴ばらは邪魔をしなかったということだ。わしはこの話を聞いて大いに思い当たるところがある。わしが出て来た自治区でこのところ何があったのかを話すのはあんたがたがより詳しい答えを出すには有益だろうと思う。」
アニは窓の下にぴったりと肩を付けて耳をすましていたが、両手を窓の縁にかけ、少しずつ指に力をこめて顔を引き上げた。大きいが聞き取りにくいドムルテのだみ声は、深く埋もれた目と髯に覆われた口許を目を凝らして見つめていてさえ判読し難かったが、話し手が興に乗ってくるにしたがって言葉の音は滑らかに繋がるようになっていった。
わしの先祖は西の人々よりも古い。北の山々からコタ・イネセイナを伝ってやって来たのは間違いないようだが。丘の上で五つの家やら他の某やらが戦っていた時分にはもう、今の自治区に当たる場所で森や原を拓いて暮らしていた。
わしの家系は今の中地区、南地区の境の川に住み着いた一族に由来する。もっともその頃は今みたいに川道は固まっておらず、あっちくねりこっちくねりして、その都度畑を変えなきゃならなかったという。住まいを構えているところは昔から地面が固く小高いところだ。蛇みたいにぐるっと回り込んだ川の腹と腹がくっついて中の土地が団子をちょん切ったような格好で残ったところに住み着いた一族ということで、まあ、だいたいそこの五つあった家族―――今は三つだが―――は皆、似たような顔をしている。こう額が広くて四角い顎、寸の詰まった太い鼻柱で“水の輪顔”などと呼ばれている。
自治区の者達は第一家が再び興隆を見たアケノンの代から丘の通達を受け入れて共用の郷倉を備えた四つの自治区に割り振られ、各々代表を選んでその中でもひとりの頭を立て、議員として王の招集する会議に送り出すようになった。領主達には会議に出るひとりがわし等全員をひっくるめた顔だと思われているが、わし等一族の家長はそれぞれが己の主だ。年に一度二度の会議に出かける他は昔通り、家族が生きていくために暮らしを回すだけだ。たまに食糧や人手に不足があっても隣と融通し合えば何とかなる。丘のことが暮らしの差し障りになる事など無い。西の大きな領主達が揉めているからといって関わりになることも無かった。
だが、宰相だったトゥルカンがイナ・サラミアスに攻め入り、それを咎めようと追って行ったシギル王が弑された後、余波はわしらコムノイの在所界隈にも及んだのだ。殊にコムノイの最も北の地区はトゥルカンが買い占め、胡乱な地主共を入れていたせいもあるが―――ヨレイル狩り、イーマ狩りに事寄せてアガムンの部下を名乗る賊がひっきりなしに現れ、入会地も畑も、家屋敷にさえも押し入った。後でこの連中のことは嫌というほど知るが、この時に既にいくつかよく見かける顔はあった。
わし等コムノイの者達は“王亡き無法の世”が訪れたのだと理解した。日々の仕事は何ら変わらん。そこに賊から家を守るための工夫がひとつふたつ増え、アスドを選ぶのではなく互いの協力を求めるために寄合が持たれた。わし等は柵を頑丈にし番犬を増やしたし、日夜一族で当番を決めて土地を巡回した。
べレ・イナが火を噴き灰で長い暗闇が来ると―――あんた達も知ってのとおり―――誰もが生きるだけで精一杯になり、賊の奴ばらもとんと姿を消した。
灰が治まってひと息ついた八年前だ、アガムンとアッカシュが共同統治の宣言とやらを出した。わし等界隈では王女とその夫の生死もわからなかったが、コムノイの者達は皆、その報せに腹を立てた。何故といって、シギル王でさえ我々のやり方に口を挟まなかったものを、あの意気地なしふたりがどうして郷倉の中身や賦役のことで指図するんだ?またぞろ動き出した、それも前よりも質の悪い賊を取り締まることも出来んのに。
あの時のアガムンにはこのちんぴら共を賑やかしに使って、前に奴を袖にした領主達の臣従を迫ろうという腹があったんだろう。だが、噴火の前と同じだ。誓文は蔵の中で鍵を持たぬ者の命令など無効だ。それに不義不忠の者同士、どうせ協力も長く続かない。
結局、アガムンとアッカシュは喧嘩別れしたんだってな?その事情には詳しく無いんだが。
自治区でわしが見た事を話すんだった。そうそう……。
ひと月前に変わったことが起きた。北のコムノイの者がわざわざ後でわしを訪ねて教えてくれたんだ。その辺りでは内乱と噴火の後で俄か地主共がぱったりと減り、住んでいる自作農の衆はもう僅かしかいないんだが。
クノンを大勢の騎馬を引き連れ、めかした鎧に身を包んだアガムンがコタ・ラートの方へ向かって行ったのだとか。そしてそのすぐ後にだ、例の賊の軍団が追いかけた。これもびしっとしたなりで揃いの青い装束だ。青い頭巾に紺のマント、馬具をつけたいい馬に乗っている。
「ろくなことを企んでいない」北の者は恐れを押し隠した声でそう言った。その男は豪胆な男だったが。
「賭けてもいいが、あいつらは行ったそのままの格好で戻って来やせんよ。大将の首がすげ代わっているか、怒り狂ったコタ・レイナの殿に後を追われながら戻って来るか。わし等はすぐにも家々の守りを固めるようにコムノイの衆に報せたほうがいい。」
彼が自分の家に帰りつくかどうかという時、西の丘に火の手が上がった。クシノン村に近いエファ・コムノイの衆はクノン・アクの先だと言った。第三家か第五家が襲われたらしい、と。
一晩明けた頃には第五家の内勤めの者や内百姓がクシノン村の橋まで辿り着き、彼らの話から事情が分かった。つまり、第五家に居候していたアガムンの下っ端兵、その中身は匪賊という連中が第五家を襲って滅ぼし、隣の第三家アッカシュはさっさと尻に帆を掛けて逃げ出したんだそうな。
自治区の四つの地区はすぐに倅どもを隣同士に飛ばして連絡を取りあい、家畜を囲いに入れ、高い柵を閉めて家々の守りを固めた。
何日もしないうちにコムノイをめぐる公道を―――つまり、クノン・ツイ・イビス、クノン・エファ、クノン・アクの三つの道を、あの“青い軍団”が戻って来た。
わし等は取るもとりあえず熊手を握りしめて表へ出た。おどろおどろしい蹄の音が日暮れ時のクノンを伝って来る。やがて群れをなすその姿が森の端に現れ、わし等の土地、仕事の行き来のために内輪で使っている細道の入口にくいと馬の首を向かわせた。まだ何もしたわけじゃないが、わしは類のない気味悪さにとりつかれた。異様に馬の動きが揃っていたからだ、賊にしてはな。
「りゅう、りゅう!」
青い賊の群れは一騎二騎に分かれて細道に入り、狩りの勢子か祭りのお道化者かと怪しむような雄叫びをあげて、こう南北へずっと我々の自治区の中を突っ切って行く。行って消えたと思うと、おなじようにして向こうから別のがやって来る。
これ見よがしに槍の先に例の青いマントを括り付けた急ごしらえの旗を立ててな。何か紋章もどきの、殴り書きで字だか模様だかをつけてある。わしには下手くそな髑髏に見えたが、花に見えるという者もいた。
奴らは手にしたアガムン軍の鉄兜を棒でうち叩きながら呼ばわった。
「王が黄泉より帰り来られるぞ。地を耕す者よ、牧する者よ、汝の血の青き流れに応えよ。」
化物もあんまり近くに寄り過ぎるとかえって相手の目を覚ますことがあるもんだ。いい働き盛りの者が他に何もせずに馬を乗り飛ばし正直者を脅し付けている。わしは怖さもどこへやら、すっかり情けなくなって、倅たちにあんなものは見るな、とどやしつけて家の中に入った。
本隊がクノンの向こうにきれいに去った後に、青い頭巾を被った遣いが来た。わしの家にも、他のコムノイの頭のところにも。私は蒼蘇王の遣いだ、と家に来た奴は言った。
「王はこれからアツセワナの支配権を取り戻される。簒奪者どもは罰され、民は新しい主を得るだろう。汝らはこのまま地を耕し、王の保護のもと安穏と暮らすが良い。その代わり保護の見返りとして田と牧場の収穫物の半分を差し出し、成年に達した息子は五年の夫役を勤めるのだ。」
わしにはその顔と声に見覚えがあったので言った。
「わし等コムノイの者はひとりびとりが己の主だ。わしが耕して得たものはわしの物であり、隣人と難儀を助け合うことはあっても丘の誰彼の都合のために使うものではないわ。殿様方にとってわし等は物の数では無かろうけど、こちらだって知ったことかね。シギル王は評議員としてわし等に敬意を表して会議に招聘したものだった。寄越す遣いの格式が違いやしないか。お前さんはトゥルカンの短い天下の時期、うちの界隈に顔を出しちゃイーマ共のことを嗅ぎまわっていた。あの時とどう違う人間になったと言うんだね、鋳掛屋のクーフ。」
相手はわざわざ二度振り返って戻って行った。わしは薄気味悪かったので相手が帰ったあとも地所の境を息子達とずっと見回った。
奴らは脅し付けて行ったが、襲っては来なかった。コムノイに触れて回ったのは小手調べといったところだったのだろう。準備はこれからだ。その代わり言う事を聞かないとどんな目に遭わせてやるか、ということを目の前のクシノン村で見せつけたわけだ。
なあ、そうだろう、それでお前さんの話に繋がるわけだ、クシノンの、カヤ・ローキ南村のラクド。
ラクドは驚いた、しかし腑に落ちない顔つきで一同を見回した。
「村の衆は戻って来るが―――?」
「戻って来るが、主のいない、すぐに誰かならず者にかっさらわれる畑を耕しに戻って来るってこった。」百姓が口を挟んだ。「そうだろう?」
ニクマラの使者は屹と顔を上げた。「既に青頭巾の支配を認めるのか、第三家、第五家の領民は。」
「短兵急に決め付けなさるな。このご亭主の言葉は承認じゃない。」ヤモックが取りなすように遮り、疲れた声で言い足した。「何が肝心かがあんた達とは違う。」
円卓を取り囲んだ一同は沈黙した。
アニは腕が疲れたので暫く窓の下にしゃがんでいたが、ドムルテが話し終えて男達の短い不機嫌なやり取りの後に続いた暫しの静けさが気になり、もう一度中を覗き込んだ。
頬杖をついているヤモックの向こうで、カシュルは長く身動きもせずにかがんでいたに違いない姿勢をもぞもぞと動かしたが、温和な丸い顔を用心深く伏せている。百姓は口をへの字に曲げて横を向き、ついでやや潤んだ目で天井を向いた。ニクマラの使者は拳を顎に押し当て苛立ちをかみ殺している。ドムルテは一同の中に走った緊張を意に介さぬふうにゆったりと顎髭を撫で、何とは無しに目を窓に向けた。
アニはドムルテのその顔がはっきりとこちらを向くのを認め、すぐにも頭を引っ込めようとした。そしてそのまま掴んでいた窓辺も足元の地面も、後ろにあるはずの草藪さえも―――不意に消え失せたかのように後ろによろけたと思った。
こちらを向いたドムルテの風貌ははっきりと目の前に残っている。その顔は時ならぬ薄闇の中で今よりも若く、髭の色ももっと濃い。
辺りは日暮れ近い梢の影が覆い、見知らぬ農場の入会地の森の中と見える。その小道に彼は馬に乗って躍り出た。一騎の怪しげな影を重い槍を振り回して追い払ったばかりで、馬首を巡らせて、今度はこちらに向かって来る。
彼の命令一下、耳を聾せんばかりの犬の鳴き声がぐるりと遠くから近づき、薪束や柴を跳び越えて来る。赤いの、黒いの、灰茶のが周りを取り囲む。ドムルテは憤怒の火照りに顔をてらつかせて怒鳴った―――。
「今回だけは見逃してやる、若いの。さっさと行け!わしの土地をうろつく奴は誰であろうと許さん。」
アニはそのまま後ろ向きに落ちて行くのだと思い、四肢をこわばらせ、身震いをした。両手の爪は窓の下に掛かっていた。彼女はちゃんと窓の下にかがんでおり、我に返ると同時にもうひと振るい、肩の上に乗ったものを払いやった。窓の脇の壁に佇んでいるキブがばつが悪そうにアニの肩に置いた手を引っ込めた。
「あんた、いつの間にそこにいるのよ。」アニはしわがれ声で文句を言った。「驚くわね!」
「お前がいつまでも戻ってこないから、小母さんが様子を見て来いって言ったんだ。」
キブはいかにも心外そうに言い返した。「誰が来たいもんか。」
「そっと行きなさい。」アニは冷たく言った。
「嫌だよ、あいつが見張っている。」キブは目を見開いてまくしたてた。「もう少しで見つかるところだったんだから。」
アニはキブを無視して屋内に注意を戻した。さっきまでの目眩と幻は嘘のように治まっている。
あいつ?ははあ、タッケマのことね。別に疚しいところが無いなら放っておけばいいじゃない―――だけど、待てよ。
アニはちらりと少年を見やった。少年はチュニックの腰を結わえた上をそわそわといじっている。
この子はイズ・ウバールの鍛冶場の近くで何かを見たんだっけ?―――いや、きっと何かちょろまかしたのね。
ケニルが腕組みを解いて視線を一同の上にさっと走らせた。彼は穏やかな口調で切り出した。
「私達はそれぞれが遠く離れた郷から旅立ち、偶然にも出会った。これほど広く早く知見を交換出来るのは幸運なことだ!全員の話が終わったところで、我々が知り得たことを互いに確かめ合おう。肝心なのは事実の前にある惑わしや疑いの影を払う事だ。希望も恐れもこの際事実の前に掲げるべきではない。よろしいか?」
ニクマラの使者とラクド、ドムルテは頷き、ヤモックはゆっくりと瞼を瞬きした。百姓は上着の裾をひねり、カシュルはいっそう深く項垂れた。ケニルはさばさばと要旨を連ねていった。
「ひとつ。アガムンとアッカシュが覇権を争っていた時期は終わった。
「ふたつ。青い軍団を率いた蒼蘇王を名乗る男が現れた。この男はかつてアガムンの部下だった。名はグリュマナ。
「三つ。第五家は滅び、領民は主を失くした。第三家は存続しているが本来の領地から退避しており、領民はこれも庇護を失っている。
「四つ。今、エファレイナズで自立を保っているかつての評議員を擁する郷は、ニクマラ、イビス、トゥサ・ユルゴナス、そして自営農自治区―――第三家もまだ存続していることは確かだ。」
「ニクマラは避難民を領土に抱え、イビス、第三家、トゥサ・ユルゴナスに遣いを出したが、事実上第三家からは受け入れを断られた。」ニクマラの使者が口を挟んだ。「農民の心が離れ、補給路が断たれることが目に見えている第三家を数に入れていいものだろうか?」
百姓は振り返り、くどくどと繰り返した。
「さっきのあんたの話し方じゃ、なんだね、わし等百姓が“青頭巾”の配下の小作人になることを認めて、奴らの言いなりにみかじめ料を納めることに決めちまったみてえじゃねえか……。」
ケニルは手を挙げて遮った。
「すまない、ご亭主!暫くこらえてくれ―――それからコタ・ラートの向こうにはコタ・レイナ州の三郷があることをお忘れなく。」彼は窓の方に少し身をずらし、円卓の皆が視野に収まるようにした。「方々、ご承知か?我々がいる世界は私達が故郷を発った時とは違うことを。内乱と天災を経て各々の郷が個々に立ち、実権無き空の王座を巡って小者ふたりが相争うのを尻目に見ていた時期は終わったのだ。このエファレイナズに紛れもない野心家が現れたのですぞ。」
ケニルの陽気で通りの良い声は最後の言葉を極めて低く押し殺して言った。
前とは違う、もっと深い沈黙が一同の上に下りた。
「そうだ。」ややあってドムルテが頷いた。「いかにもその通りだ。」
「これから話さねばならないのは、おのずと“青頭巾”の次の動きをどう予測するかということではあるまいか。そして我々がここで別れる前に各々迷うことなく行けるよう、相談することではあるまいか。」
「流れで言うとそうなる。」ラクドは慎重に同意しながらも牽制するようにケニルを見た。「だが、私は自分の最初の目的とそもそもの立場を忘れてしまうわけにはいかないんだ。言っては何だが、ここに居る者はそれぞれに身分や立場が違う。そちら側とこちら側では」彼は卓上に左手を伸ばし、ドムルテとの間を切る仕草をした。「拠って立つものが違う。」
「違うのか?そこで分けるのか?」ドムルテは心外そうに声をあげた。「わし等は自分で自分の土地を守るだけだ。あんたたちもそうすればいい。」
「ケニル、あんたは既に情勢を探るという仕事を果している」ラクドは続けた。「後はコタ・レイナに帰り報告するだけだ。ニクマラの方、あんたも殿の元に帰るだけだ。他に何の義理がある?私は私で村に帰るしかない。間もなく人々が帰って来るというなら戻って迎え、長年親しんだ田畑を出来るだけ回復させるように努めるだろう。だが、そこに新たに支配権を主張する者が兵を引き連れてやって来たとする―――第五家にもう領主はいないのだから―――ドムルテ、あんた達コムノイや古の五家の王たちのように私達百姓は半農半武の戦士じゃ無いんだ。耕すことしか出来ん。この場に居ながらやるせないがあなた方にとっては裏切り者になる自分が見えるようだ。どれほど口惜しいことかあなた方にはわかるまい。」彼は言い終わると唇を噛んだ。
ケニルは卓の上に置いた両拳の上に身を乗り出した。
「その事も含めてだ、ラクド殿。私はなるほど、遣いに出された分の役目には目途をつけたが、私もあなた方ももう少し働けると思っている。
「何の慮りも無く今後の予想を言えば、グリュマナはやがて兵力を整え、第三家を倒すことに注力するだろう。その間、領土に残された農民に酷い狼藉は手控えるはずだ。一方で着々と脅しと安堵とを交互にちらつかせ、第三家、第五家の領土に代官を派遣して支配の下地を作るに違いない。そうして彼は徐々に潤沢な兵と食糧とを得る。
「お分かりの通り、後は順を言っても仕方がない―――グリュマナが目標とするのはエファレイナズ全土の支配だ。私はここで、諸公の誰もが成し得なかった試みを我々が試みることを提案したい。」
ケニルは一同を見回し、それから自ら無謀な提案を嘲るかのごとく苦笑を浮かべきっぱりと言った。
「かつて故シギル王の会議に連なった面々およびその領国同志で結束することを。そして“青頭巾”の首領、グリュマナとの戦いに備えることを。」
アニは窓の外で壁に寄りかかり、顎に拳をあてがって考えた。
小さなシアニが生まれ育ったコセーナで物心ついた時から、コタ・レイナの三郷とアツセワナとは交渉が絶えていた。アガムンとアッカシュは敵の名として口に上せられたし、やがてこのふたりとコセーナのダミルが敵対する理由は、コセーナに匿われているロサリス王女と王位継承を巡って争いが起こったからだと知った。だけど、そもそもどうして内乱が起こったんだっけ?どうして母さんは一度発ったコセーナに戻って来たのかしら?
(トゥルカンを討伐するためにシギル王は兵を挙げた。その時、母さんは知らずにハーモナを発ったのだわ。まだ女王として即位する前だった。そして、それから程なくしてシギル王は亡くなってしまったのだわ。)
屋内では男達が低い声で話すのが聞こえている。
「我が二クマラのミオイルもそうであったし、エフトプのキアサル殿、他の誰もがそれを根拠に同盟を断ったものがある。」ニクマラの使者が言った。
「アッカシュが王位継承の資格を匂わせて協力を要請してきた時だな。」ドムルテが軽蔑したように言った。「わしも断ったよ。アガムンの遣いにもな。あの時分は皆、それを盾にとり自治と自衛を保ったものだ。」
それまで黙って成り行きを聞いていたヤモックがふと顔を上げ、思い出したようにニクマラの使者に向かって言った。
「私はあんたと同じ用件でトゥサ・ユルゴナスに遣わされていたお人と七曲り坂を下りた下で出会ったよ。首尾はあんたと似たか寄ったかだった。つまり、トゥサ・ユルゴナスの庄長はこう言ったそうな。『難儀に遭った人々を助けるのが道ではあるが、当方ではもう手がいっぱいだ。しかし食糧の協力なら力の及ぶ限りするつもりだ。また、軍事的な協力については互いに誓約の主の無き間柄にはあり得ぬ』とな。彼はエマオイと一緒に二クマラに一足早く帰って行ったよ。エマオイの事は知っているだろう?」ヤモックは言い終えて手で顎を撫で首を傾げた。「その主の無い誓約とやらを有効にするのは、鍵なのかい?」
卓を囲む男達の身じろぎ、うむ、と口々に囁く声が窓を通して漏れ聞こえた。
「シギル王への忠誠を表す誓文」
「誓文、その他王権を表す品々を納めた蔵」
「その鍵だ。」
ケニルはニクマラの使者に振り返り、頷いた。それから一同を見て言った。
「これまで王位請求者が諸公に協力を求めた時に、彼ら―――つまり我々の主人―――が拒絶の根拠にしていた“門と蔵の鍵”が、これからは我らの主同士を結びつける絆になり得る。もし、私達がそれぞれ主の元に戻り、シギル王に捧げられた忠誠をその鍵の主に引き継ぐことに合意を得ることができれば、我らはエファレイナズの六人の領主、トゥサ・ユルゴナス、四区の自治区の同盟を取り持つことが出来よう。」
アニは飛び上がった。
鍵ですって?門と蔵の鍵ですって?それを持っているのは私だわ。
アニは唇を歪め、眉根をしかめて窓辺を睨んだ。
鍵が唯一の王権を表す物であることは、旅の中で拾い集めた物語の中で学んでいる。だが、その権威が未だ生きており、人々が求めていようとは思わなかった。育ての母ロサリスは、鍵がアガムンの手に渡りその野望を助けることを防ぐために、エフトプに旅立つ予定だった自分に預け、敵から遠ざけようとした。もはやコタ・ラート橋からは遠く、アガムンの企みは潰えたと思ったからこそ預かっていられたのだ。
(領主たちの同盟にどうしても鍵は必要なのかしら……。)
アニは窓辺に見える影を見つめた。窓の中の、ケニルとニクマラの使者のいるこの円卓の一同に私が鍵を差し出したらどんなことになるかしら?それとも、このまま窓から見つからないように卓の真ん中に投げ込んでみる?
アニはゆっくりと窓から後ずさった。
(母さんが私に預けたものを、容易く人に譲るわけにはいかないわ。)
何故なら、ここには母さん以上に鍵の所有を主張出来る者がいないのだから。
アニは向きを変えてキブに囁いた。
「もう、小母さんの所へ帰るわよ。」
キブはほっとしたように頷き、藪が音を立てないように気を付けながら壁の角を裏の菜園の方へと回り込んだ。アニはキブの後に素早く続きながら、突然訪れた四人の客の間で自分の事がひょんなことから話に上らないうちに、このアックシノンの南端の村からどこかへ旅立ってしまうことは出来るかしら、と忙しく考え続けた。
「鍵。」ドムルテが重々しく言った。「だが、それがそのまま妙案という事にはならんな。鍵には所有者が付きものだ。」
「我々が同盟を取り持つ役を務めるとしても誓文の主に当たる鍵の所有者の名は必要だ。」ニクマラの使者は年長者たちを見回して言った。「鍵の主は確かロサリス王女では?」
皆は長いこと忘れていた者の名を聞いたかのように見交わした。ラクドは遠くを眺めるように小首を傾けた。僅かにその頬に笑みがよぎった。「鍵は一双だったか?」
「ひとつだ」ドムルテが唸った。「内乱の昔から鍵を持っているのはロサリス王女ひとりだ―――そうして、このざまよ。」
「謀反の張本人のトゥルカン父子はもういない。そして今はアッカシュも王権を主張して孤立するよりは味方を求めるはず。」ケニルは思い出させるように語調を強めた。
「ならば、王女が我々に召集をかけるということになるか?」男達は見交わした。
ケニルは、はたと言いよどんだ。ヤモックはその様子を見て物柔らかに口を挟んだ。
「王女にはもう女王になる気は無いだろうな。だが、シギルの血筋だし、鍵の力が利くのはやはりその血筋だろうと思うよ。アッカシュでは駄目だな。」
「コタ・レイナのケニル。王女と鍵はふたつながら無事にコセーナにあるのだろうな。」ドムルテはずばりと尋ねた。
「コセーナにおられる。沈黙を保ったまま。」ケニルは提案が立ち消えになる事を案じながらも包まず答えた。「鍵をコタ・ラートに捨てはしなかったはずだ。ダミル殿はそれ以上問いただすのを望まなかった。」
「おれは高みの見物の身分だが」ヤモックは烏のように声高に切り出し、やや刺のある口調で続けた。「鍵を在る所に置いておいて何が問題なんだ?あんたらにはこの案を各々の主、または仲間の所に持っていく用が先にあるじゃないか。その先の悩みは彼らに預けるがいいさ。」
「まさにな。わしはこれをコムノイの寄合に持っていく。」ドムルテは言った。
ケニルは頷いた。「私はコタ・レイナの三郷の領主に報告と共に提案する。あなたの言葉があればさらに心強い、ドムルテ殿。」
「私は一旦二クマラに戻り、この旨を主ミオイルに伝えよう。その後もう一度カヤ・アーキのアッカシュ殿の所に遣いに行ってもいいし、朋輩もトゥサ・ユルゴナスに遣わされるだろう―――イビスに行った者が折り返し戻って来るには時間がかかりそうだ。」二クマラの使者は真っ直ぐに前を向き、懸命に肩を丸めて小さくなっているカシュルに言った。「イビスの方であったな。二クマラからの申し出に先立ってこれを主のカジャオ殿に伝えては貰えぬか?」
カシュルは膝の上で両手を揉んでいたが、気弱げに顔を上げた。
「ここを出してもらえましたら、な。」
ヤモックはその隣で小さく鼻を鳴らした。
「お前さんがこの役を引き受けてくれるなら、喜んで送り出してやろうさ。バグの舟さえ頼んでやろうじゃないか。」
「私はこの事を胸に畳んで村に帰る。」クシノン村のラクドは険しく眉根を寄せながらゆっくりと言った。「直ぐに打ち明けられる者は村にはいないかもしれん。間違いなく程なくして“青頭巾”が掌握しようと監視を送り込んでくるような所に暮らしていれば。村の衆は食うために“青頭巾”の無心や脅しを忍びながら働かなくてはならん。野心家の下で自立の希望を抱くことは危険なことでもある。それでも私はこの希望を隠して村に帰り、いざ人々が自ら立とうと思った時に拠り所を教えられるようにせねばならない。」
「では、今後別れた後で我々の同志を見分ける印を決めようではないか。」
ニクマラの使者は皆を見回し、ドムルテ、ケニル、ラクドは頷き、カシュルは目を上げ観念したように
また閉じた。
百姓は屹と顔を上げた。
「さて、わしにはもうここに長居するわけはないようだ。」彼は怒りながらやるせない気持ちをぶちまけた。「第三家アッカシュは小作人のわしから見れば主だ、アッカシュへの遣いはこのニクマラの旦那の前にわしが勤めて然るべきだろう。だが、アッカシュは百姓を城の門から締め出しているという事だし、わしは何の役にも立てまいよ―――アッカシュは村も、わしの家や田畑も守らなかったんだからこれで互いに済んだってこった。」
彼は火の気の無い炉の前から立ってラクドの後ろを回り込み、主の後ろの壁で控えていたドムルテのふたりの従者の前を横切って卓の反対側の戸口から外へと出て行った。ヤモックは部屋の隅に立っていたバグに合図をした。バグはそっと台所の方に下がり、裏口から百姓の後をつけるために出て行った。
煙突と菜園のある小屋の裏に回り、アニは、向こうの端の水路に面した台所にタッケマの姿がもう無いことを確かめた。台所の地下の倉庫にはキブと一緒にせっせと蓄えた麦がある。それは置いて行ってもいい。だが、旅に必要な道具、着換えを詰めた背嚢は棚の上に置いたままだった。アニはやきもきしながら辺りを見回しているキブに裏で待っているように言い、水路から上る石段を横から上り、閉まっている戸をそっと押して中を覗いた。
隙間から見える宿直のための寝室は空だ。戸の裏側に隠れた台所の暗がりは、蝶番の隙間を覗いて見る限り人のいる気配は無い。だが、バグがひとり部屋の境に立っている。
アニはそっと石段の角を戻ってキブを手招きした。
「あんた、ちょっと宿直室の窓の外から小父さんを呼んで中にいる人の気を引いてくれない?」
「嫌だ」キブはすぐに答えた。
アニがキブを言いくるめようと何か言いかけた途端、裏口の戸が素早く開き、室内の境を見張っていた男が出て来た。男は石段を少し下りた所から管理官舎の全体を囲んでいる蔦の絡んだ柵の外側に周り、水路の水際を柵の横木伝いに伝い、クシノンの内の村落に続くクノンの橋の方へ音も無く飛び降りて行ったようだった。
アニは隠れた壁の角から暫時その様子に見とれていたが、すぐさま木戸をあけて裏口から台所に滑り込んだ。思った通り、今そこを見張っている者は誰もいなかった。
棚には、籠に摘んで入れたままの髭の付いた麦がまだ残っていて、背嚢は奥の方へ押し込まれていた。棚は高く、アニが背伸びをしてやっと届くところに背嚢の底と肩帯の端があった。
アニは棚の端からはみ出ている籠の底を回すようにして左へ移動させ、背嚢の肩帯を引っ張って引きずり出そうとした。
「―――私の村が安全なら彼の一家を迎えてもいいと思うのだが……。」
談話室からラクドの声が聞こえた。
「それはもう少し後であんた方に相談しようと思っていたことだ。」ヤモックが低い声で言った。「ここは離れすぎていて、おれ達も含めてろくでなししか来ないからな。」
「家の界隈でも構わん。」ドムルテが言った。「男の子はよく働きそうだ。女の子の方だが、ちょっと百姓の子には見えんな。」
「ほう?」ケニルが軽く言葉尻に喰いついた。
ぐいと引っ張ると立てて置いてあった背嚢が倒れ、上部の広がった籠もまた一緒にぐらりと傾いだ。左手をあてがってとどめようにも虚しく、籠は上から滝のような麦穂を降らせながらひっくり返って落ちて来た。
ざざざ……。世界中の音が全て麦の雪崩れる音とそれより大きい心臓の音になった。
アニはやっとで掴まえた背嚢を右肩に引っ担ぐと、細く開いている戸の隙間から外の昼の明るみへと飛び出した。
「早く!早く!」
立ち尽くしているキブに菜園の反対側の角の、入って来た柵の方を指しながら、アニは畑の畝を三段に跳び越え、細枝の林立した藪の後ろから柵の下をキブに続いて這い出し、ふたりしてほとんど後も見ずにクノンからちょうど橋を渡って村の方へ戻って行く百姓の背を追って走って行った。
「隣で何か音がしたようだが」ニクマラの使者は近くの男達に問うた。「誰かいたのか?」
「なに、大したことはないさ」ヤモックは面倒そうに言った。「誰かが蹴躓いたか―――」
ケニルがさっと立ち上がり、つかつかと間仕切りの奥の薄暗い台所を確かめに行った。
「あの子供ふたりは夫婦の子じゃないな。」ドムルテは座ったまま気楽な世間話を愉しむように言った。
「全然別の場所からやって来た子で訳ありだ。」
「女の子なら先ほど我々の話している間に窓に雨蛙みたいに張り付いていたよ。」ラクドは大して気にとめるふうも無く言った。「女の子というのはちょっと珍しいが、子供が寄合を覗きに来るのはよくあることだ。」
「方々、私は同志の印をひとつ思いついたようですぞ。」
土間に散らばった麦の穂を眺め下ろしながらケニルが大声で言った。ニクマラの使者は立ってケニルのいる場所に行った。ひっくり返った背負籠の開閉する半月形の蓋の片側が外れて床に落ち、柄の長い麦の穂がひとつ横切っている。
「弓張月のようではありませんか?麦穂の柄が横切り、ちょうど月の文字にも見える。」
ケニルは炉から炭の欠片を拾い上げ、叩きの上に大きく半月に横棒の貫いた月の文字を描き、さらに横棒の上部に二本、斜に髭を書き加えた。「これで矢羽根にも麦穂にも見える。」
「簡単で良い。」ドムルテはすぐに言った。
「麦は第一家の紋でもある。これは理に適っている。」ニクマラの使者は感心して言った。
「平凡で目立たないのに限るな。」ヤモックは集まって床を見下ろしている男達の後ろに立ち冷静に言い、彼の傍らにしょんぼりと座っているカシュルの肩を片手で揺すぶり、見ろ、というふうに目配せした。
「私の提案が支持されたか、いま一度お尋ねする。」
ケニルは床から身を起こして立ち、一同を見回した。
「ここに居る我々はこれから各々の主、あるいは仲間に“青頭巾”の首領グリュマナの動きに備え互いに同盟を結ぶよう提言する。折り返して同じ者が使者に立つかもしれぬし、違う者が選ばれるかもしれぬ。また隠密に事を運び、静かに加わる新たな同志を判別するために、印としては月に麦穂の記号を用い、挨拶には互いに“月”と“麦”の詞を交わすこと。方々に異存はないか。」
ドムルテとニクマラの使者は即座に頷き、ラクドは「先に言ったとおり。印は覚えておく、が、私から進んで用いることはあるまい。そしてあの第三家の百姓に伝える気もない。」と述べた。
カシュルは顔を上げた。
「私は知ったからには―――」
「お前さんが知ったことはおれが知っている。」ヤモックは言った。「その事だけは覚えておけ。―――そして、皆も聞いてくれ。グリュマナはおれの敵でもある。が、おれ自身はこの記号は使わぬし言葉の取り持ちはしない。我々放浪者には誰かの縄張りを守る義理などはない。加えてあんた達を助けるかどうかは我々の判断による。」
それからヤモックは、会合の終わりにあたり遠方に旅立つ客人の健康と幸運を祈って酒を振舞おうと言った。
「おれは見ての通りみすぼらしいが、時々ひと様の幸運のおこぼれに与って良いものがやって来る。あんた達もびっくりするような上等な古酒だ。」
カシュルがおずおずと給仕を手伝おうと申し出、サマタフと一緒に台所へと立った。ラクドはもてなしを断って立った。
「目の前の事を思うと到底酒など口にする気にはなれん。」
彼はそう言って一同に暇乞いを告げた。
円卓に残った三人の客はしばし僅かばかりの宝石の滴のような酒を味わいながら、各々の使命に取り掛かるにあたって最も円滑な道筋を検討した。ケニルはニクマラの使者にクマラ・オロまで同行しようと申し出、舟と漕ぎ手をバグ達に頼んだ。
「イビスに出かけている朋輩が戻って来るまでの時間が惜しい。もし、イビスの彼が万一道中で仲間に出会ったら、遣いの結果がどうあれすぐに二クマラに戻るよう、促して欲しいと思うのだが……。」
二クマラの使者はカシュルの姿を求めて見回したが、カシュルは一度杯を客たちに出した後台所に消えたきり、戻って来なかった。
「あいつはこっそり出て行ったようだ。」サマタフは言った。
「放っておけ。」ヤモックは何でもない事のように言った。「我々の会に参加したことであいつこそが“青頭巾”に用心しなきゃならん身になったのだからな。」
ドムルテは従者ふたりに帰り支度を命じ、卓に集った男達は席を立ってそれぞれの旅路へと戻って行った。
今頃、管理官舎の中ではエフトプから逃げ出したコセーナのシアニの話が出ているんじゃないかしら?
小父さんはまだ知らないはずだわ。私が籠をひっくり返す前に小屋を出ていたのだから……。
キブがクシノン村への橋に差し掛かり、そのすぐ後を行きかけながら、アニの足は突然重くなった。
(小父さんがすぐにここを発つと決心したとしても、私は小父さんに迷惑をかけないために、先に違う方向に行った方がいいんだわ。)
もし、今後ろを振りかえり、すぐにケニルか二クマラの男が飛び出して来るのでもなければ、むしろ踵を返して小屋の前を通り過ぎ、そのまま西に向かって行ってしまったほうが見つからないのじゃないかしら?
橋を半ばまで行きながらアニは立ち止まりかけた。
橋を渡ってしまったキブはそのまま向こうの大水路のほとりの舟番小屋にまでクノンを真っ直ぐに駆けて行こうとし、突然何かに驚いたように横に避けたと思うと、こちらに向きを返し、前より一層慌てた風で戻って来ようとした。
道の脇から立ち上がったタッケマが獣のように石垣を飛び越して彼の前に立ちふさがろうとしたのだ。
(よりにもよって、何て間の悪い邪魔かしら!)
アニは拳に力を込め橋を渡り切ると、つかみかかる勢いで彼女の右腕をひきさらい背後に逃げ込んだキブを叱りつけながら、両肘を張って拳を腰に当て、小柄な身体を出来るだけ大きく見えるように背をそびやかし顎を上げた。藁にも縋る執念で右手にしがみついている手を面倒そうに振り払いながら、もともと自分よりも背の高いキブが膝と腰をかがめ、肩の後ろに縮こまるのが見えるようでアニは苛立ちながらも笑わずにはいられなかった。
(しかも、どう?)引き結んだ顎の下に皺を寄せ剣呑に目を細めて近づいて来るタッケマを見返しながら、アニは不敵に目を見張り笑みを浮かべた。しがみつきながらキブはアニの拳をこじ開けて、何やら疚しい行いの証拠になるものをねじ込もうとしているらしい―――すべすべした、重い平たい小さな石のようなものね―――。
アニは渡された塊をぐっと握るとキブの手をもぎ離し、素早くスカートの隠しに滑り込ませた。
クノンの真ん中をつかつかと歩み寄って来るタッケマの姿が、そのままの姿動作のまま天地ごとぐるりと回った。
目の前で蜘蛛の巣のように淡い靄が半回転し、眩しい白い光と林立する影が同時に視界の前に塞がっていた。アニは朦朧とした目を見開いて手を伸ばし、煙を払うように顔の前を二、三度払った。動かぬ幾重もの薄靄の向こうに、元通り正しい天地の位置でタッケマが立っていた。
若者はアニの奇妙な仕草に少しばかり意気を挫かれたように瞬きをしたが、たちまち後ろにいるキブに目を向けるといっそう疑いと怒りを募らせて言った。
「おい、今何を隠した?おれの目から何かを隠そうとして此奴に渡しただろう。お前」
ぞんざいな呼ばれ方にアニは屹となってタッケマの目を捉えた。
「大人しく受け取ったものを出せ。隠したりすると承知せんぞ。あの禁域から盗み出したものなんだからな。」
「出しますとも。怒鳴らないでくださいな。」アニは冷ややかに言い、隠しを探った。キブは凍り付いたように後ろに立ち尽くしている。手の中でふたつのほぼ同等の塊を確かめながら、アニはくらくらする頭を振って笑い声をあげた。
目眩のせいかしら、大きなはずのタッケマが不貞腐れた小さな子供のように見えたわ。
アニは引き出した手を真っ直ぐにタッケマに突き出した。タッケマはひるんだように少し後ずさった。
アニの手にあるのは平たく、小さなすべすべした黒曜石の欠片だった。昨日まで麦の穂刈をしていたのでちょうど隠しに入っていたのだった。
「これでしょう、エマ坊」身の内から他のもっと年かさの者が代わりに窘めるように、言葉がするりと低い囁きとなって飛び出した。「さあ、手に取って確かめなさい。分かったら癇癪を収めて。あんたよりも小さい子じゃないの。」
地中から泉のように湧いてくる見知らぬ人の言葉が自分の小柄な身体を通り抜ける感触を楽しみながら、アニはその発される声に僅かに凄みを加えようとした。言葉の終わりで声は太い唸りの余韻と宙返った甲高い細い尻切れとんぼの糸になって消えた。
タッケマは口をへの字に曲げて眉をしかめアニの手の中の石を見た。出しかけた手を引っ込め、そのまま所在無く拳を腰にやって凍り付いたように暫時立ち尽くし、「いや、違う。」ふとぷいと目を逸らすとキブの方を見てがみがみと言い立てた。
「逃げたり隠したりするから怪しまれるんだ。―――早く行け。人を見ればびくつきやがって、全く目障りだ。」
タッケマは自分の方からさっとふたりの傍らをすり抜け、そのまま背を向けて橋の方へと歩いて行った。
「キブ、小父さん達のところに戻りましょう。」アニは促し、キブの手を取り、黒曜石を滑り込ませた。
「あんた、いいもの見つけたわね。それで麦刈りが捗ったわけだわ!」
アニは遠ざかっていくタッケマにも聞こえる程度に声を弾ませキブに目配せした。そして目を丸くして手の中の黒曜石とアニとを見比べているキブの手首を掴み、ぐいぐいとひっぱって快活に道を歩いて行った。
公道を真っ直ぐ歩いて戻って行った百姓に追いつくのは簡単だった。百姓の後をつけていったバグの姿は見当たらず、がらんと開けた公道と境界の石垣、無人となった集落と麦畑がしんと広がり、重い雲の下に飄々と風がわたる。ぽつねんと歩く後姿に追いついたアニとキブとは両側からそっとその横に滑り込んだ。
百姓はキブに、アニにと順に目を遣り、次いでアニの背負った背嚢に目を留めると言った。
「さあ、行くか?」
キブは仕舞い込んだ新しい小刀の感触をチュニックの上から確かめながら大きく頷いた。アニはキブから押し付けられた塊の黒曜石よりも少し重い力を隠しの中に感じながら、それには触れず、百姓にもまたはっきりとは答えずに、足並みだけはしっかりとふたりに合わせながら、百姓の女房と、そしてサコティーの待っている大水路の堤へと向かった。
大水路の岸には百姓の後をつけていたはずのバグの男が、いつの間にか先を追い抜いて、堤の柳に繋いだドムルテ一行の三頭の騾馬の傍らに立ち、もう小半時もそうしていたふうに気楽な様子で番をしていた。それとは反対に、サコティーの小舟と、北からやって来た舟頭の小舟は今しも客を乗せて漕ぎ出すばかりに並んで岸につけられている。僅かな家財はすっかり舟に積まれ、女房はサコティーの舟を着けた岸辺に佇み、夫とその連れの少年少女たちを待っていた。
まるで私とキブが一緒に付いて来るのが当然のように。
アニは、ほっとしたようにこちらに頷きかける女房と、黙って舟の上の荷を見渡しサコティーの方へ舟賃の相談をしに歩いていく百姓とを見て、独り心の中で呟いた。
おかげでヤモック達との関りを言い訳することも、ひとりでここを抜け出す算段も忘れてしまったわ。
「わしにはあんたに支払う金子はない。」百姓はサコティーに言った。
「だが代わりにわしの村の共同蔵の中には収穫を終えたばかりの麦があることを伝えておく。他に誰も知らないし、わし等がそれを取りに戻ることはない。好きに使ってくれ。その代わりに四人をここから乗せて行ってくれ―――」百姓は言いよどんだ。
「南に下り、二水路から下れば二クマラに行く。そちらはやがて二クマラの使者とコタ・レイナのケニルも向かうだろうな。」管理官舎から戻って来たバグが馬の傍らから声をかけた。「少しクシノンを北に遡ってコタ・セノイから自治区の中を通って夫婦川まで出るという手もある。エフトプ、コセーナに行くならばその道だ。」
「コセーナには行けん。」百姓は首を振った。「今さらどの面下げて」
それは思いもかけず悔悟と悲しみを吐露した声だった。
「あるいはクシノンをさらに上のクノン・アク近くまで行き」
サコティーが手を挙げて遮った。彼はすっかり舫い綱を解いて巻き上げ、片手に携えたまま女房とキブを舟へ促しながら明朗な声で言った。
「百姓衆が戻って来つつある第五家の南村に行くか―――もうひとりの客と。」
アニは、もたげたサコティーの目と顎が素早く振れた方へ目をやり、会合からひと足早く戻って来たカヤ・ローキのラクドが真っ直ぐ舟の方へやって来るのを見た。
「それともさらに北へ遡れば、ウナ・ツルニナの近くで舟を下りてクノン・ツイ・イビスから歩いてイビスの領地に行くことも出来る。もうひとりの客と一緒に。」
言うと同時にサコティーは何とはなく堤から拾い上げた小石を舟番小屋の角目掛けて投げた。小石はうまい具合に壁の端の肩程の高さの辺りに鋭い音を立てて当たり、下の草藪に落ちた。
程なく草藪が控え目にざわめき、こちらに向けた掌がふたつ並んでゆっくりと差しあがり、その下から蒼ざめたカシュルの顔が現われた。彼がすぼめた口を開きかけ何かを言うよりも先にサコティーは百姓とラクドに言った。
「少し狭いがふたつの舟に三人ずつ乗って行ける。」
アニはカシュルに駆け寄り親しげに丸い肩を叩いた。
「イビスに帰るの?」
「そう出来るものならね」カシュルはサコティーを横目で見ながら諦めたように答えた。「時を丸ごと戻せるなら私はイビスの工房に戻り、そこで椅子やら車やらを直しながら朽ちるまで閉じこもっているよ。」
じゃあ、今はそう出来ないの?
言葉を途切れさせ肩をすくめたカシュルにアニがそう問いかける前に、決然とした面持ちのラクドが百姓とカシュルのちょうど真ん中につかつかと進み出てそれぞれに頷きかけて言った。
「私はこれからカヤ・ローキの自分の村に帰る。あんた方が行き先に迷っていて当座の宿を求めているなら一緒に来てくれ。襲撃で離散した者たちもやがて戻って来るだろうが、耕し手を失くした土地もある。村は働ける者を求めている。」
百姓は女房に振り返り、女房は頷いた。が、それよりも早くキブはラクドの前に進み出て言った。
「おれ働く」言葉よりもはるかに雄弁な真っ直ぐな目でキブはラクドに願い出た。
サコティーはもうひとりの舟頭に合図をし、堤に横づけた舟に皆を急かした。
「皆で北へ向かうなら分かれて乗ってくれ。」
「クノンの西のほうからドムルテ達が戻って来るぞ。預けた馬を引き取りに。」馬の番をしていたバグが一同に声を掛けた。「南自治区にすぐに戻るのでなければ彼らも水路の東を北へと他のコムノイへと報せに行くんだろう。彼らと話し忘れた事でも無いなら早く出たほうがいい。」
カシュルとアニとは同時に飛び上がった。
「―――同じところに長居すれば誰の目にも留まりやすくなる。」
百姓夫妻とアニとはサコティーの舟に乗り、ラクドとキブ、カシュルはもうひとりの舟頭の舟に乗り込んだ。
「漕ぎ手を手伝ってくれればもっと速く進めるぞ。」
真っ先に身軽に飛び乗り、夫妻のために舟の中ほどのいい席をあけて舳先の方へ移ったアニにサコティーは誘うように言った。
「転覆させないかな」櫂の重さに怯んでアニは呟いた。
後ろにつけていた舟は、見違えるようにきりりとした顔つきになったキブが舟頭を手伝い、ぎこちないながらも櫂をさばいて岸を離れるのに成功し、程なく水路を横へと移動してサコティーの舟を避けると、ひと息に櫂の勢いを上げて横を追い抜いて行った。
は、はは!―――
抑えきれない笑い声が横切り、水しぶきが舟縁にかかった。
「漕ぐ!」
アニは櫂を下ろしながら大きく宣言した。ぐっと舟首が水路の中心へと向き、舳先は滑るように大きく前に進んだ。サコティーの力だと分かっていたが、あたかも水に下知して舟を北へと滑り出させたような心地に満足を覚えて、アニは深く息を吸い込んだ。土を溶かした水の匂い、舟に積んだ干物の匂い、玉ねぎの匂い……。
たちまち追いつかれたキブの落胆の声、笑いながら励ますラクドの「そら!」という掛け声が横合いから追いつ抜きつして水面の上に飛び交った。
低く枝垂れた柳の葉が幾度か頭上をかすめ、それが途切れると左手にはうち捨てられた麦田が長い金色の整った筋目を描いて広がった。耕地の端の方ではすっかり熟れた穂は周囲の丈高い草に寄り添われ、同朋のように見えないでもなかった。麦は麦でそのまま種を落し、代ごとに祖先のしぶとさを取り戻して野の草の一員に戻ってゆくのだろう。百姓は長い溜息をついた。
側方から繋がる水路の合流の渦を避けると進路はやや東の方に向かう。第三家のやや大きな村をふたつ通り過ぎた先にラクドの村、第五家の南村がある。
「カヤ・アーキの村は大きいのね。」
アニはちょっと驚いて言った。広い耕地の麦はあらかた刈り取られ、その向こうに遠くかなり大きな集落が見通せる。後にして来たクノン・ツイ・クマラの脇の集落の三倍はあろうと思われた。
「昔からな」斜め後ろからラクドが答えた。「第五家が傾きはじめていた頃、第三家はアツセワナでは最も農地において富裕だった。」
「今もあの村は寂れた様子には見えないわ。ちゃんと人が住んでいて手入れはされているようだもの」アニは背伸びをして、整った生垣や藁葺きの屋根屋根を眺めた。集落の近くには、少ないが人の姿も見える。
「一旦離れた人達も戻って来ているという事かしら?」
「皆とは言わないが。ここ数日は数年来で最も村を荒らしに来る賊が減っているだろうから。」
“青頭巾”はコタ・ラートから戻って来た大将グリュマナの統率の元におかれ、末端の兵の引き締めにかかったから。カジマのような“青頭巾”のおこぼれに与る下っ端の盗賊は切り捨てられたから。
「留まり続けた者も城門から引き返した者も、変わってしまったものに気付いているとは思えない。皆、畑が心配で戻って来た。村は元のままあるように見える。その安堵すら仕組まれたものかもしれないのだが。」
ラクドは幸先良しと見える変化の先に潜む影を見通すように声を低めた。向いに座るカシュルが尻の居心地を直すように身じろぎ両手で舟縁を掴んだ。
農民たちは村へ帰った。一方、アッカシュはアツセワナの城に立て籠もり、やがて土地に引き返すことにした農民たちがキリ・シーマティから遠のいてしまえば自らの領土の恵みから切り離されてしまうだろう。
アニは、閉じこもった城郭の外回りを勇猛で無慈悲な精鋭の“青頭巾”の軍隊に囲まれ兵糧攻めに合う一家を想像し、身震いした。
(だけど、第三家に仕えていた農民や小父さんたちが悪いわけじゃないわ。)
アニは黙りこくって座っている夫妻をちらと振り返った。百姓が目を上げ、アニと見交わした。
「アッカシュは昨日まではわしの主人だったよ。ま、名目上はな。ちゃんとお目通りしてしげしげと話したりしたわけじゃないが」
百姓は、アニの心をよぎった思いを耳で聞き取ったかのように突然口を切った。
そりゃ、コセーナとは何もかも違うと思うわ、二クマラだって領民と領主が口をきくことなんてなかったもの。コセーナは領民の数からいって小さな郷だけど、それにしても毎日道端の誰それと言葉を交わす殿様なんて父さんの他にはいないと思うわ。
「わしは昔、コセーナを出たんだ。」出し抜けにばつの悪いものを突き出すように百姓は言った。
もう知っているわ―――アニが答えようと見返すのを遮るように百姓は続けた。
「敵に取り囲まれたコセーナを―――ちょうど今、アツセワナの城に立て籠もっているアッカシュを見限ったみてえにな―――敵っていうのは、敵っていうのはダマート様だった。」
どうして今、私に話そうと言う気になったのかしら?
女房は夫の前に静かに膝に手を重ねている。その目は折の良いところで話を補おうと意を決めているふうに夫に向けられている。
キブは他のふたりの男を乗せた舟を舟頭と一緒にずっと先まで進ませている。舟の浮かぶ水の上に、百姓の話す声の届く所にいるのは女房の他にはアニとサコティーしかいない。
アニは櫂を水面から引き上げ、舳先に背を向け百姓夫妻の方に向き直り座った。サコティーの櫂によって舟はゆっくりと水路を北東へと遡ってゆく。
「コセーナで昔、跡目争いがあったんだ。」百姓はちょっと傍らを見回し、荷の上にそのまま置かれていたスモモの籠からふたつ手に取ると、見習いの少年の日当を払うような手つきでひとつを女房に、もうひとつを若い聞き手に手渡して言った。「春から初夏に移ろうかという頃、苗を植えるばかりに田に水を張り、均したばかりだったよ。」
「その春は、ハーモナの領主になったばかりの緑郷の君と王女様がご結婚なさった春でした。」女房が話し手の口調になって言葉を添えた。百姓は頷いた。
「シギル様はアツセワナを空けて置くことを心配なさり祝言の翌日にはすぐに立たれた。王女はそのままハーモナに残った。西の方で鉱山の反乱のごたごたが起きたという報せも飛び込んで来たが、すぐに間違いだったという遣いが来た。王女は結局ひと月あまりハーモナで過ごした。その間に西の方ではシギル王が心配した通り、トゥルカンと取り巻きが良からぬ謀をしていた。そして東では大変なことが起こっていた。」
アガムンによるイナ・サラミアスへの攻撃ね。
アニは黙って、渡された少し萎びて温くなったスモモをひと齧りした。




