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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第六章 風の語り 『蝕』6

 それは細やかな雨音に似る。

 それはまたクシュの人々の言うところの水の産声のようでもある。

 遠い山裾から来るようでもあり、背後の岩壁から囁かれるようでもある。極めて小さく重なり捩り終始の別も無い音が語り続ける。知らず追い続ける音の列にやがて親密な配列が聞き取れ、心が言葉の形で知覚する。


   夜霧よ露を結び 火明りを鎮めよ


「ギーナ、あれは祈りだ。」

 ガラートは呟いた自分の声を聞き、未明の薄闇の中に目を覚ました。

 まだ歌謡(ヨーレ)は聞こえている。それは鮮明でありながらどこから聞こえるとも知れなかった。

 ガラートは半ば身を丸めたまま岩の縁を探り灌木の藪を分けて穴から這い出た。

 十日ぶりに濃い霧が立ち込めている。彼の背後には黒々と尖ったトウヒの頭が急な山腹をなぞって立ち並び、右手に奥まって連なるのは峩々として聳える屛風岩の列。屛風岩のその奥に空に接する山稜の影はほの白く浮かび南の嶺(ベレ・アキヒ)のなだらかな頂へとつながっていくのが見て取れるが、前へと返り見れば、足元からほんの数歩先にえぐれて長く遠く落ち込んでいる谷間は霧の下だ。

 五日前に仮住まいを置いた場所は小さなふたつの沢の間にある。それは少し下で合わさり長い谷を下っていく。真っ直ぐに通るその流れ(コタ)(サシー)に例えられ、下流に奥行き深く開いた谷の形から“矢筈谷”と呼ばれる谷へと下って行く。

(霧が晴れていれば見えるはずだ)

 渓谷を埋める白い雪の上に動く点があるならば―――。ガラートは霧の中に目を凝らした。白い濁りの只中に全身が吸い込まれ沈んでゆくと感じるまでに目を凝らした。

 依然としてヨーレは聞こえている。しかも前よりもはっきりと切々たる心情をこめて懇願していた。


   夜露よ霧を結び 火明りを鎮めよ

   夜を夢の彷徨う時に 丈夫の安らう時に


 同時に彼の耳は違う気配も捉えていた。冬の夜、洞穴の静寂の中に、彼の声を待って耳を澄ます者の息遣いを。

 ―――あれが聞こえるか?

 己に自重を促す深奥の声に反して心はその耳に語ろうとした。

 ―――女達が祈っているのだ。追っ手の松明を露で湿らせ、弱らせよと。霧が濃く立ち込めて敵の目をくらますことを。

(ヨーレだ。お前に助けてくれと祈っているのだぞ)

 心に浮かぶその言葉を振り切るようにガラートは一歩下がった。山腹の岩根が彼を受け止めた。ずんと冷えた大気が辺りを包み、掌に触れる岩の表面に付着した霧は苔に宿って露を結び、脂汗のように岩肌をぬめらせた。

 後ろに控える岩の他には彼の周りは全て霧だ。

 ―――お前には何が見える?

 濃く立ち込める霧の間に真綿を裂くように薄くのびた隙間が生じ、その奥に動いているものを見せた。

 “矢筈谷”の中を五つの点が左右にぶれながらじりじりと登って来る。

 その後ろ一町足らずの処を点々と密に列をなして追ってくる影。手にした松明が霧を通して彼らの頭と肩の鉄の防具の煌めきを生ぜしめている。その炎の色はしかし、迫りくる勢いに反して次第にくすみ、弱まってゆく。

 先を行く五つの点の先頭が後方を振り返った。後に付いて来る列を確かめているのだ。カマタドだ。髪を解き、外衣の裾を大きくたなびかせ、左右に細かく向きを切り替えながら登っている。

 カマタドは後方を振り返り、調子づけるように腿を打って拍子を取りながら声を張った。


   来い来い下手な短弓撃ちめ

   真っ直ぐ来い 伝令に寄越した矢尻の先の先までも


 はっはっは……。同じように外衣の端を振って後続の男達が笑い、唱和した。霧の奥で鉄の色が光る。アツセワナの兵士達が近づいて来るのだ。松明の明かりが弱まったというのに、反して空の色は暁を控えて白み始めている。霧の間に見えてきた獲物の影に勢いづいて追い上げるその足取りは早まってきている。


   真っ直ぐ来い 矢尻の先の先までも


 矢尻の先とは“矢の川(コタ・サシー)”の源だ。ガラートは背後の岩に押し止められ、身をすくませた。眼窩の奥に光る薄い色の瞳―――左頬の古傷が骨の深みにまで痛んだ。

(来させるな!)心の中で言葉が閃いた。

 ぐらりと天地が動いたかと思え、目に感じる落下の感覚に四肢はこわばった。依然、彼は山腹の岩を背にしていたが、遠くに眺めていた男達は今、彼の目の前に歩いていた。

 カマタドの黒く焼けた顔は黒い瞳と相まって露と汗でぎらぎら光り、半白の髪は風と打ち振る両腕の反動で肩を打ち、霜の針のように顔の脇に突き立っていた。その踏みしめる足の下で根雪の蓋がみしりと鳴った。

 彼らが歩いているのは雪渓の中央だ。隠された沢の中心部に向かい、谷の両脇の透けた氷の下を水が縞を描いて流れる。

 そして、ひたひたと滲んだ水を踏む百もの足音が、薄れかけた霧の向こうにその正体を現しつつある。

 抑えがたい恐怖が震えを誘った。心の中に満ち溢れる叫びをガラートは自分の不覚の叫びと思った。

 カマタドがひたと足を止め、両腕を差し上げた。


   夜霧よ まだ暫し我らに味方せよ 


 一期を遂げた充足の笑みが老いた男の面に浮かんだ、そのすぐ後に、遅れて舞い込んだ便りのように切々とした祈りが耳元に届いた。


   暁の陽が 卑小の身を暴くまで


 外衣の両翼を広げたその上体を、山際から下りて来た正面の光が包んだ。谷間に差し込んだ朝日が霧の帳の最後の一片を消し去った。カマタドに続く四人の男達も歩みを止めた。

 おっ、という叫びが後方の兵士達の中で上がった。短弓の放つ矢が二、三飛び、イーマ達の広い外衣の旗を貫いた。が、同時に彼らの中から全く違う声音の叫びが上がった。誰かが足の下の古い氷雪の層を踏み抜いたのだ。

 ひと塊の氷の蹴落とされた穴の底から一間あまりも下を流れる渓流の冷たい唸りが湧き上がる。どぶんと最初の音を誰が聞く暇があったか。 

 みりみりと低い軋みが谷じゅうに鳴り響いた。南の嶺(ベレ・アキヒ)の頂から差し込んだ光の刃は白銀の雪渓の中心を縦に切り込んだ。そして春の進行とともに内部に養っていた隧道の屋根の残骸を、その上を渡っていたひと群れの兵士、そして彼らの前に倒れたイーマ達もろともに冷たい雪解け水の流れる奥底へと沈めてしまった。


 オクトゥルは再びウナ・ツルニナの農場を訪れていた。総管理人とかいう男に会って今度こそハマタフとタフマイの若い同胞たちの行方を訊きただすつもりだった。

 男は出て来た。痩せてひょろ長い腕を振りながら女郎蜘蛛みたいにふらりと歩いて来た。立ち止まった途端に棒きれみたいに気配が無くなるのも女郎蜘蛛そっくりに薄気味悪い。会った時からどこか気になって仕方のない、見覚えのある顔が頭巾の下から覗く。男は小馬鹿にしたように彼を見返して言った。

「また、お前か。郷里(くに)に帰れと言っただろう?」

 なんだこいつ、()よりも横柄になっていやがるぞ。彼は自分の鼻に皺が寄るのを感じた。

 男は笑って言った。お前にはお前にぴったりの奴らに相手をさせよう。

 男はいつの間にか馬に跨っていた。その顔はずんぐりとして日焼けしている。振り上げる逞しい腕に長い鞭。これもどこかで見た。だが、男は―――?これはさっきとは違う顔じゃないか?

 ひゅうっと口笛が鳴った。ああ、こいつだ。痩せた青い蜘蛛男め。遠くでにやけて口笛を吹いている。

 や、犬が駆けてくるぞ。納屋の後ろから、林から、屋敷から……。

 呼びやがったな!今度はおれ達を襲わせるつもりだぞ。サコティー!

 サコティー、どこだ?

 犬は猛然と、喉元を庇おうと後ろざまに転げながら彼が差し上げた腕の肘に食らいついた。

 駄目だ!もう駄目だ!

 情けないほど身体が利かないことに驚き嘆きながら、彼は機運と技量の祝福を受けた名を持つ自分の最期とはこれほどあっけないものかと思った。

「オクトゥル、オクトゥル!」

 犬は彼の肘をくわえ頭を振りたてて、そう吠えた。

 オクトゥルは目を覚ました。サコティーが彼の腕を掴んで揺すぶっていた。

 オクトゥルは、ゆらゆらと尻の下にのたくる水の動きに慣れぬ心地悪さを呼び覚まされながら身を起こした。これはサコティーの小舟の中だ―――彼は己に言いふくめながら差し迫った問題をひとつひとつ取り除いた。犬はいない。今のは夢だ。

 サコティーは彼の腕を離し舟縁から身を乗り出して、堤の柳の古木の根の又から枝垂れた枝を通して見える外の明るみ―――夜明け間もない頃か―――を見つめ、何か囁いている。水音がしている。それだけだ。奴にはわかる違いがおれにはわからない。

 ―――もうクマラ・オロからアツセワナに入って十二日経つ―――

 オクトゥルは奇妙な夢の余波を鎮め平静に戻るためにゆっくりと旅の記憶を顧みた。

 コセーナの領内、ハーモナで行われた王女とラシースの結婚の翌日、オクトゥルとサコティーは小舟に乗ってコタ・レイナからエフトプ、クマラ・オロを経て二クマラの岸に戻った。行方知らずになっているハマタフ等をアツセワナから大河コタ・イネセイナを渡り、イネ・ドルナイルへと探しに行くためだった。

 異国での望まぬ冬越しを味わったばかりのオクトゥルにはアツセワナの春がどのような風情かは分からぬ。しかしサコティーは、商舟がさかんに出始める頃だというのに主水路(アックシノン)に舟影が少なく、公道(クノン)を行き交う人々もまばらなのが解せぬと言い、用心のため二水路(ツルクシノン)の口の森の中に小舟を隠した。そこからふたりは徒歩になった。

 すぐにもイネ・ドルナイルに渡ると言い張るオクトゥルをサコティーは説きつけた。

 もう一度領主らの農地を訪ねて行って調べてみては?ふたり連れはひとりよりは侮られにくい。それに自分は信用のおける舟頭としていろんな家の主計や出入りする商人たちからそこそこ覚えられている。誰かの口添えを得られるかもしれない。

 ふたりは環状路に沿って順に領主たちの農地を訪ね歩いた。侘しい景色であった。若い作人の姿は少なく、農場を移り歩く季節雇いの集団に出会うことも無かった。第三家(カヤ・アーキ)でも第五家(カヤ・ローキ)でも、監督はもうヨレイルは雇わないのだと言った。

 北の農地ウナ・ツルニナに赴く前に、ふたりは始原門(タキリ・カミョ)に立ち寄った。

 始原門(タキリ・カミョ)には門口から近い請宿の帳場を訪ねるつもりだった。しかし門扉はぴたりと閉ざされ、城内の者と約束の無い限り中に入ることは許されぬと言われた。

「王宮で会議だよ。」門の外で商いをしていた行商人がふたりを横目で見て言った。「お姫様の祝言に問題があるってな。」

「もう落ち着いたことじゃないか」

 行商人とやり取りをしていた若い農夫ふうの男が真面目な優しげな口調で言った。

「親父の言うには鳥っこ(フレ)が巣をかけたら放っておけと」

「ちゃんとした巣ならな。」行商人がやり返した。「どこで蛇が見てるかわからねえってのによ。」

 しかし、話しかけられた農夫は話の中途から、はたとこちらに目をとめて鼻の上をこすった。

「クシノンの渡し守(タッド)。それに兄さん(アート)、あんたは……。」

 オクトゥルが思い当たる前に農夫は自ら名乗った。彼は、一年半前にオクトゥルとハマタフをトゥルドのもとに案内してくれた兄弟の兄のほうだった。

 この男ノマオイは門番の顔見知りで、界隈の百姓の作物を取りまとめて城内に売りに来ているところだった。彼は荷馬車を率いてきた仲間に後を任せると、ふたりに付き添って門の内の店舗まで行ってくれた。ところが店は看板を下ろしていて、その辺にたむろしている男達に尋ねても周旋人のことは知らぬというのだった。

 ノマオイはとっくりと三日もかけてふたりに付き合ってくれた。北のウナ・ツルニナにはコセーナのダマートとカヤ・ローキの領主の弟が地所を持ち、秋から屋敷に住んでいるという話だった。が、行ってみれば僅かに麦が育っている半ば原のような耕地には人っ子ひとりおらず、ただ、林に囲われた母屋や納屋、田園の境の生垣のかしこから湧いてくるように犬どもが吠えながら飛び出してきた。

 ノマオイとサコティーが大声を立てて犬を追い払った。農場の管理人だという男はよほど経ってから出て来、犬を彼らの周りにうろつかせたまま、何の用だ、と尋ねた。ノマオイは南の自作農の農場の(ゆい)の代表だと名乗り、種苗や農具、働き手の手配について協力を持ちかける(てい)であれこれと尋ねた。

「ここは間に合っている。」男はしれっと小馬鹿にした顔つきで答えたものだ。「用はそれだけか?」

「いい若い者が大勢働きに来ていると聞いたのでね。ここの手がすいたらうちにも来てもらおうかと思ってね。」

「他に移されたと聞いている。私の来る前のことさ。」

 イビスでも全く同じことだった。有数の穀倉地帯であるこの郷にも働き盛りの男の姿はとんと見えなかった。

 その後、ノマオイは父親の()()を通じてイネ・ドルナイルのコタ・サカの村と物資や人のやり取りに使われる“通い船”を世話してくれた。しかし、いざ出ようという時に拝水の門(キリ・クシモ)からやってきた役人に船が召し上げられてしまった。

 イネ・ドルナイルで暴動が起こり、コタ・サカ、コタ・バール間でも抗争が持ち上がったという報が入り、船舶はすべて王の出動命令に備えるのだという。

 サコティーは自分の小舟を出す決心をした。王がイネ・ドルナイルに船団を遣わしてから遅れること二日後、サコティーとオクトゥルは夜を待って二水路(ツルクシノン)から大河コタ・イネセイナに北に向かって漕ぎ出した。

 しかし、流れを遡って幾ばくも行かないうちにどこからともなく現れた幅広の舟の群れに周りを取り囲まれてしまった。

 敵だ、サコティーが言った。チカ・ティドの商人らの用心棒、奴隷を捕獲する人さらい、アツセワナのクシノンをも荒らすという集団だ。

 サコティーは小舟を河の中心の流れに乗せて振り切ろうとした。敵は両脇前後へと迫り、舟体を押し付けてくる。漕ぎ手の他に戦闘員を乗せ、組織だった追い込みに長けていた。サコティーは舟の上に立ち、舳先から側舷、艫とほとんどオクトゥルの上を飛び超えるように足場を変えては櫂で相手の得物を薙ぎ払い、水へ叩き落とした。時に敵の舟に飛び移って格闘を始めると、オクトゥルは舟を任される恐ろしさに総毛だった。右へ左へと相方の言うままに懸命に櫂を操るものの、舟は時にぐるりと回転し、かち合い、横倒しすれすれに傾き、上も下もあったものではなかった。

 サコティーの奴、奮闘しながら敵に―――たぶんおれにも、どさくさに紛れ色々と―――罵った。川での喧嘩は茶飯事だと言うが、大体は彼の方から買って出たに違いない。

 やっとで連中のどの舟よりも速い足を生かせる流れを捉まえ包囲から逃れ出た、その時だ。

「王の遣いの船だ!」

 河下を指して敵の舟団から叫びがあがり、たちまち蜘蛛の子を散らすように十艘を越える舟は両岸の闇に姿をくらました。

 灯りを掲げ、護衛兵を載せた船は河下から粛々と遡り、拝水の門(キリ・クシモ)の船着場の方へと岸に寄せて行った。イネ・ドルナイルから王に新たな報せが届いたらしい。

「援軍の申し入れだろうか、それにしては急ぐ様子もない。」

 サコティーは小舟をキリ・クシモの上の岸に泊めた。流れが岸をえぐって出来た窪みを柳の枝が隠しているところだ。

 そうだ、それが夕べのことだった。

「それで」欠伸をしながらオクトゥルは尋ねた。「どうしたって?」

「コタ・バールの口から大勢の者がコタ・イネセイナを渡った。」

 サコティーはすくい上げた掌を見つめて答え、水面ですすいだ。

「二里も(かみ)じゃないか!」オクトゥルは目をこすって舟べりから水に身を乗り出している若者の背に言った。

「流れて来る土と草からわかる。」

 サコティーは木の根が岸辺を包んだ出っ張りに降り立って舫い綱を柳の株から解き、舟を淀みから流れへと押しやろうと艫に手をかけ、オクトゥルに確かめるように言った。

「イネ・ドルナイルのチカ・ティドにハマタフ達を探しに行きたい気持ちは僕も同じだ。だけど、本当にこのまま行ってしまっていいのか?」

「何故、そんなことを聞く」オクトゥルは面倒そうに言いかけ、若者を見た。「何か気にかかる事があるのか?」

「王の船団とチカ・ティドの船団が入れ替わりでコタ・イネセイナを渡るのが。淵に棲む魚が入れ替わる―――アツセワナに睨みをきかせていた有力な兵のひと群れが減ったところに別のひと群れが密かに入って来る。王の監視は届いているだろうか?チカ・ティドから渡ってきた集団はアツセワナを襲うのでなければ何処に行くのだろう?」

 オクトゥルはあっと声をあげて小舟から飛び上がりかけた。サコティーは船縁をしっかりと捉まえている。オクトゥルは黒々とうねる流れを返り見、えぐれた険しい段丘と葦や蒲の原を伴った砂州を繰り返す河岸を見た。

「僕は何処にでも行くよ」サコティーは言った。「コタ・バールの川口でも主水路(アックシノン)二水路(ツルクシノン)、それにクマラ・オロに流れ込むどんな水の源にも。」

 オクトゥルはありがとう、と小さく言い、腕を組んで暫く考えた。それから改まって言った。

「サコティー、おれはまだしばらくお前の可愛い舟の足を借りるよ。おれは水の上じゃてんでぶきっちょだからな。まず、(かみ)に遡ってお前の言ったとおり船がアックシノンの口に行ったかどうか確かめよう。あそこはそんな沢山の船が入り込めるほど広いわけじゃない。人を下ろすにせよ、水門をぶち壊すにせよ暇もかかれば悪さをした跡も残る。チカ・ティドから来た群れが傭兵なのか鉱夫なのか見極めたら―――ひょっとしてハマタフ達もいるかもしれないしな―――彼らの行く道を見ておいて王に報せるんだ。」

 報せるだけだ、助けるわけでも助けを請うわけでもない。

「―――誰か、信用の出来る者に頼んで。それから奴らの後を追い……。」

 我知らず彼の声は細り、途切れた。それから、彼に何が出来るだろう?

「それが水の上なら追い越すよ。だが、陸かもしれないな」サコティーは静かに口を挟んだ。

「承知したよ。先ず北へ上ろう、そして不運にも僕たちの予想が当たっていたら、それは僕たちにとってはまっすぐ故郷に駆け付けるための赦しになるわけだ。」若者は寂しげに呟くと勢いよく艫を押して小舟に飛び乗った。


 早朝から屛風岩で相次いで起こった雪崩は裾野の谷に漂う霞の残りを襲って吹き払い、また新たな白い靄を宙に噴き上げ続けた。太陽が中天にかかる頃には、からりと澄んだ空の下に樹木すら剥ぎ取って崩れ落ちた巨岩のような白い塊の溜りが“矢筈谷”をはじめ“谷分け川”の支流をなす渓谷の新たな景色となって現れた。雪解けによって現れた銀線は瞬く間にもっと重く厚い雪の下に押しつぶされた。

 夕暮れ時、ガラートは麓から呼ぶ大鷹の声に応じて南側の沢を渡り針葉樹林(ツガ)に沿って“南の物見”の方へと下りて行った。物見からティスナへと横切っていく女達の“通い道”に近づいて来るあたりで黒檜の幹の陰に立って待っていたハルイルの次男が呼び止めた。

「あなたがティスナに行く時が来ました。」

 若者は単刀直入に言い、道から五十歩ほども離れた森の中へ彼を連れて行った。若者が呼ぶと、窪地や倒木の根方、藪の陰から十五、六人もの女と子供たちがほとんど音も無く出て来た。今朝、この森をずっと西へと下った崖の下の“石涸れ沢”を遡って来たのだ。

「今朝の雪崩は“物見”の北の端さえもかすめた。このような事ははじめてだ。」

 若者は砦を出た時に固めた意思を告げようと、長とも兄とも慕った再従兄を真っ直ぐに見た。

「彼女達は物見の下まで辿り着いた時に雪崩に遭った。しかし、砦は守らなかった。何も問わずに、力になってくださいアー・ガラート。彼女達の口には、ティスナのシュムナに守りの戸を開けてくださいと言う言葉だけが残っている。」

「及ぶ限り力になろう」ガラートは答えた。「私に何を望む?」

「連れて行ってください。暗くなったら鉢の上に向かってください。」

 若者は岩と砂礫の地肌に矮小な樹木が張り付く急斜面を指差した。そこには身を隠すのに十分な繁みが乏しい。それでも敢えてそちらを行けと言う。

「ここで私と別れたら、いいですか、下から来るどんな男をも相手にしてはなりません。呼ばれても、話しかけられても答えてはなりません。あなたとイネ達を見た者は、敵だ。例えそれが私でも。」

 若者は念を押すと、日を西の果てに飲み込んで次第に翳る中空からさえ身を隠すようにして低い樹木の陰伝いに麓へと下りて行った。

 空が藍色に染まり、見上げる山影がひとつの色になるまで待ち、ガラートは一行を伴い、幼蚕の湖(クマラ・シャコ)をその奥底に秘めた鉢の北西の外縁になる斜面を登った。

 夜が更けるにつれ、風は激しくなった。林をひとつ抜け、峠の樺の木立ちに近い岩がちな険しい山腹をガラートはひとりひとり順に手を取って上へと導いた。黒々とした麓の針葉樹林から興った波がしらが足元に押し寄せ、傍らを、頭上を芽吹きの梢を削らんばかりに打ち震わせる。一行は寒さと脆く砂礫のこぼれる足元、目の利かぬ暗さに慄いた。

「あれは夫の身内の者です。」寡婦になって間もない女が足を止めて耳を澄まし呟いた。

 風の音に混じって男の声が途切れ途切れに聞こえる。

「答えるな。」

 ガラートは左手で山側の木の株に掴まり、右手を伸ばして冷え切った手を掴み、女を広い岩根の足場に引き上げてやり、先に行った女達が待つ樺の木立ちへと促した。その後には子供が何人か続いた。小さな子は抱いて連れて行き、少し大きな子は手を副えてやれば彼の膝を足掛かりに身軽に四つん這いになって登っていった。

「何人いる?」彼は峠に向かって尋ねた。

「八人です。」ためらいがちに女達が答えた。風の音に差し挟まる声は途絶えている。

 ガラートは残りの者を急がせた。十人……十三人……。女達は粛然と無言で彼に手を預け、傍らを通り過ぎた。そして手を放すとふいと突かれたように峠を指して駆け上がった。前にのめり、膝をつき、手をつきながらだった。

「ヤココ。」

 残りのひとりが低い木立ちの陰から現れるまでに間が空いた。ガラートはもう一度名を呼び、さらさらと砂がこぼれ落ちる音を頼りに林まで戻った。曲がった古木の枝陰に背を丸めた低い影が立っていた。

 ガラートは動きを止めた。相手はおずおずと寄って来て左手を差し出した。その手をぴしりと払いのけると相手は一瞬ひるんだように身をのけぞらせたが、すかさず両手を伸ばして飛び掛かり、ガラートの外衣を掴んで手繰った。もぎはなそうと肘を振りながら相手の骨ばった右の手首を、そしてもうひとつを捉え古木の幹に押し付ける。不意に頭上の枝元が震え、ばさりと枝がしなり下りて来ると同時に、背後から激しい体当たりが襲い、彼を前の敵もろとも太い幹に叩きつけた。ふたりはふたりながらもんどりうって地面に倒れた。

 老いた男は彼の下で呻き、もがいた。ずれた鉢巻きと長い髪の下に顔が隠れている。ガラートは両手を放し、後ろに飛びのいた。

 藪の中を何かを引きずる音が林の下の方へと離れて行く。

 はっと物音のほうへ目をやろうとすると、立ち上がった男は短刀の鯉口を鳴らし、へっ、と息を吐いた。思わず手が腰の短刀へと走りかける。彼の右前にもまた、枝の上から襲った男の影が匕首を構えて立ち塞がった。

「アー、寄越しなさい―――イサピアとやらを」しわがれた声が囁いた。

 ガラートは背をそびやかし両拳を固めた。

 囁いた男は短刀を前へ泳がせた。ガラートは外衣の左裾をひと振りして払い、もう一方に向き直り、右から低い構えで突進してきた刃の腕を下からすくい上げて背後へ払い飛ばした。そのまま襟首を捉まえると左拳をみぞおちに打ち込んだ。男は声も無くその場に倒れた。

「いいのか……女に、守ってもらうか」痩せた小柄な男は後ずさりながら喘ぐように言った。

「なに―――!」

 男はぽとりと短刀を落すと背を丸めて逃げた。男がまろびながら細枝をかき分けて行く音の他には山腹を下る音は何も聞こえなかった。

 ガラートが一度下りて来た岩と礫の山腹を登って行くと、女達は峠の樺の林の中で待っていた。はぐれた若い女のことを誰も敢えて尋ねなかった。峠を越し、若蚕の湖(クマラ・シャコ)を広い鉢の底に臨むところに来ると、ひとりの女が誰に言うともなく言った。

「ウナシュの村の方から、オド・タ・コタの男達が和議の使者を立てて来ようとしていました。」

 つられたように他の女が言った。

「あの人たちは見張りの弓を下げた―――私達が来たことをアート達が先に砦に報せに行った時には下げなかった弓を。」

 雲を纏った月光の下にしんと冷気が通う。

「見えなかったのよ―――味方だと分からなかったのよ。」

 堰を切ったように口々に声が上がった。細い絹糸をかき鳴らすような声の応酬はどんな雨よりも心を苛んだ。が、その全てを聞き収束を待つ時間はない。

「すまない。私に最後の務めを果たさせてくれ。」ガラートは女達の間に割って入った。「村の境まで行き、ヨーレを歌い門の守女(シュムナ・タキリ)にティスナに入れてくれるように頼むのだ。村の周囲には守りのためにどんな仕掛けがされているか分からぬ。」

 女達は冷たく沈黙し、二三囁き交わして子供たちを引き寄せて固く寄り集まり、ガラートの先導に従ってティスナに向かった。

 ヨーレに応じて出て来たのはふたりの年取った女達だった。ひとりが女達を引き受け、一列になって寸分たがわず自分の後について来るようにと命じた。

「すぐに“白糸束”に行きますぞ。道を逸れると菱で足を突き、水に足をすくわれるぞ。」

 女達が行ってしまうと、残った老女はガラートをティスナの中へと案内すると言った。

「存亡の時でございます。」躊躇するガラートに老女はきっぱりと言った。

 二十四年前に先代の守女(シュムナ)ルメイに警戒を呼び掛けるために彼が駆け抜けて行ったのと同じ道を辿り、湖畔からは人気の無い村の道を抜け、東の岩壁の方へと案内して行く。古くから産屋として用いられている岩室と機屋の前を過ぎ、林に隠れた奥へと回り込んで行くと、彼の幼い頃の風景には無い場にさしかかる。

 蚕の亡骸を捨てる深い亀裂があり、それをまたぎ越えると小さな入り口の洞穴がある。

 老女の手火に照らされたその場にしばらく佇んだ後、ガラートは呟いた。

「この場所を知っている―――来た事はないが。」

 老女は引き付けたように短く笑った。

()()が来ても小さいシュムナがあの子たちをお護り下さろう!ヒルの血をひく方はお強うございます。」

 老女はガラートに洞穴の奥に開いた低い穴に入って行くよう促した。

「アーラヒルのご子息、あなたはここから出て行かれるのです。穴は奥へと繋がっております。右へと心掛けて行けば迷うことはありません。」

 山の胎内には数多くの洞穴が通っているが、その中でも歩けるように整えられたものは限られている。ティスナの年取った女達の間で伝えられた道はふたつしかない。ひとつはティスナで死んだ者を鳥葬の岩棚に運ぶための道、もうひとつは“白糸束”で死んだ者を弔いに行く道。

「登り道が多く、老いた膝には応えますがあなたにはそう遠くはありますまい。さあ、灯りをお持ちなさい。夜が明け、鳥どもが目覚める前に岩棚を出られますように。」

 老女はそう言って小さな火の灯る、油を入れた火皿をガラートに手渡し、袖で目元を拭った。


 コタ・バールの川口を出たとみられる船団はコタ・イネセイナを遡り、主水路の水門の(かみ)の岸に乗り込んで来た大部分の者を下ろして何処へともなく姿を消したようだった。サコティーが小舟を上げた岸には濡れて踏みしだかれた草と泥の上に残る夥しい足跡がクノン・エファコスの方へ上っていた。

 サコティーは小舟を主水路の橋の下に隠しに行き、オクトゥルはしばらく足跡を辿って行き、それが予想通りクノン・エファコスを西のほうへと向かっていったのを見届けると走って戻って来た。

「もう十分だ。イネ・ドルナイルから渡って来た者が大勢で公道(クノン)を西に行った。どこに行ったにしても怪しいことに違いはない。誰か水路か街道の役人に言付けてコタ・シアナに行こう」

 その辺りはウナ・ツルニナの耕地の北の端に当たるところで、田畑はすっかり原に戻り、木も伸び、公道(クノン)の上から見渡す限り人影は無い。

「それなんだ」サコティーは水路沿いの小道、橋の番小屋と指差した。「水門、水路と番をしている者が誰もいない。この辺りはもともとチカ・ティドの舟夫が幅を利かしていて番人は当てにならないが、それにしても誰も見かけないんだ。敵もいないが、王の番兵もいない。城壁の上にも拝水の門(キリ・クシモ)にも歩哨はいなかった。」

「待て。」

 橋の袂から伸びあがって公道(クノン)を城市の方へ見ていたオクトゥルは水辺の通路に跳び下りてサコティーに並び、舟と共にもっと橋の下奥にゆけ、という風に手振りした。

環状路(クノン・カマカイ)から大勢やって来る。」

 ふたりは橋の下の枯れ草の陰に身を潜めた。程なく橋板を轟かせて人と馬、馬車の群れが長い列になって通り過ぎた。屈強な体格の男達はほぼ無言で行進している。

「見て見ろ、あの馬、馬車、乗り手の姿勢。商人の(なり)をしているがそんなことがあるものか。」

 オクトゥルのその言葉が聞こえたかのように隊列は一度歩みを止めた。が、橋の下の囁きを聞きとがめたわけではなかった。先頭の馬上の男の号令に従い、歩いていたものが騎乗し、列を整えなおしたのだった。馬車の横に歩いていた男が粗末な天蓋の帳をあけて中の者に何事か告げ、御者台の横に飛び乗った。先頭から出発した騎馬の群れは徐々に速度をあげてゆき、その中ほどに位置する馬車の御者も二頭の馬に鞭を当て、車輪はごうごうと音を立てて走った。揺れる天蓋は今にもまくれ上がり消し飛びそうだった。

「馬車に乗っているのは大将だ。それに年寄りだ。」

 オクトゥルはサコティーが引っ張り寄せた小舟に飛び乗り、小舟は橋の下をくぐって下に出た。

「どうだ、後ろも振り向かずに行くぞ。どこでチカ・ティドの軍勢と合流するんだろうな?」

 サコティーの小舟は主水路を南に下り、公道を横切る橋の下をさらに二度くぐった。クノン・エファの下の水路沿いの村落群にさしかかるまでにほとんど人っ子ひとり遇わなかった。

 クノン・アクの大橋にさしかかる頃、サコティーは橋の袂の舟着場に休んでいるひと群れの舟夫を見つけた。水路を上り下りして農作物を集めて城市に行く荷馬車に渡したり、村に物売りや鋳掛け、継ぎ物の職人を届ける舟夫達だった。

「サコティー、お前の兄弟たちは南の自作農のところのクシノンに行ったよ。」

 彼らは嫌味でなく声をかけた。

「アツセワナの旦那達は水郷(クシガヤ)の者とみると仕事をくれないのでな。だけど、おれ達も同じだよ。春になったというのに荷物ひとつ来ない。もっとも、クノンを荒らす奴も来ないけどな。」

「ああ、アックシノンを荒らす暇のある奴はいない」サコティーは苦々しく言った。「他に行っているから―――あんた達の中で、都に行く用のある商人と知り合いはいないか?城内に入り、王の家来衆と話の出来る者は?」

 ひとりの舟夫が、ちょうど橋の袂の取り引き場にひとりいる、何ならすぐそばの管理官舎に詰めている役人もいる、と言ってサコティーとオクトゥルを案内した。

 ふたりが舟着場から岸に上がり、クノン・アクの脇に設けられた管理官舎前の広場に行った時、ちょうど市場での売買や商取引に来ていた者達が、ちょっとした人だかりをつくっていた。

 官舎の傭人が、息を弾ませ鞍を置いたままの馬を水場へと引いて行く。呼ばれて戸口から出て来たばかりの管理官が、人々が取り巻いているアツセワナの伝令のもとに出向いて行く。ふたりは人々の間をかいくぐるようにして前に出た。

 若い伝令は役人を認めると立ったまま素早く礼をして声を張り上げた。

「王より水陸の行き来を見張るすべての関所に命令が下った。通行人を検め、逆臣トゥルカンとその子アガムンを捕えよと。」

 わっと驚きの声があがり、人々はたちまち目をぎらつかせ身構え、あるいはおろおろと己の身を案じて行き惑った。

 静まれ、静まれ、役人は手を振り、事の詳細を確かめようとさらに前に出た。

「そして全ての領主、忠誠を誓った家臣は王の元に馳参じ、誓いの証をたてよ、と。」

「一体何があったんだ?」男達が伝令に向かって怒鳴った。

 伝令は顔を赤くして怒鳴り返した。

「宰相はイネ・ドルナイルに暴動ありと嘘の報せを王の耳に入れさせたということだ―――詳しいことは分からん、が、今朝がた王が偽の報せの件を審問せんと迎えを遣った時にはもう、屋敷を上げて抜け出した後―――もぬけの殻だったのだ。」

 水路の水辺にいた舟夫達が騒ぎを聞いてやって来た。管理官は検問所を設けるために警備兵を呼び集めたところだった。伝令の話を聞きに集まって来た商人や農民たちは、早速、道の封鎖に掛かった。

 伝令は馬を替えてもらうとクノンをさらに先のコタ・ラートの方目指して駆って行った。

「聞いてくれ、おれはトゥルカンの一行を見たかもしれないんだ……」

 オクトゥルは、橋を遮るために市場の屋台や官舎の柵を物色し始めた男達の周りに付きまとい、声を高めて言いかけたが、興奮した男達の怒鳴るように言いあう声にかき消された。

「なんだ蓑虫めが」彼らはうるさそうに袖を振りはらうだけだった。

「駄目だ。こんなことをしていては徒に時が過ぎるばかり」

 サコティーは呟くと、少し川側に離れ、鋭い口笛をひと吹きして舟夫達を呼んだ。舟夫達はすぐにやって来た。

「トゥルカンはおよそ一時前にクノン・エファコスの橋を渡って行った。僕たちが王に報せたかったのはこの事だ。水路は間もなく閉鎖される。僕たちは待っていられない。今すぐにここを下って小クシノンから“夫婦川”に抜ける。心あらばあんた達は主水路(アックシノン)に沿って行き、関所でこう伝えてくれ。トゥルカンは北をイナ・サラミアスに向かっていると。」

「お役人に捕まる方が早く伝わるってわけだ」ひとりが橋の前の人だかりを見て言った。「ここにいても舟を取られ、防塁にされるのが関の山―――よし、ひと走りしてやろう。」

 他の者も素早く水路の脇の通路に跳び下り、舟着き場のめいめいの舟へと走った。

「こら、お前たち何をしている。お役人のお調べがあるまで待つんだ!」

 橋の上からクシノンの村の肝煎が叫んだ。しかし、五艘の舟は一斉に蜘蛛の子を散らすように岸を離れ上流へ、下流へと別れて行った。

 そしてその先頭に抜きんでた一艘が、鈍い水路の流れの中心を鋭く切り開き、たちまちアックシノンを下って行った。


 手にした火皿の明かりは漆黒の闇の只中に絶えた。小柄な女がやっと通れるほどの通路は外衣の肘を引き寄せたくし上げねば両脇が擦れ、思わず手をつくほどの勾配もあって、ガラートはすぐに火皿を傍らの岩壁の孔に置き、そのまま手探りで右を取りながら進んだ。とうに疲れているはずだが、壁に一瞬もたれて休むことさえ己に許すことはできない。ここは禁じられた場だ。ただひたすらに抜けるまでに進み続けねばならない。

 闇の中を歩くうちに時も方位も定かではなくなり、奇妙に色彩が目に見えて、朦朧としながら洞窟を歩き続けているのか夢に捕らわれているのか惑いながら、彼の知覚は浮かび上がった景色へと引き込まれていった。

 やはり岩がちな勾配を登っている。大した山道ではないが歩みは意に反してのろく弱々しい。黒い衣が踝にまつわる。杖の先が石を滑り、よろめき倒れ、地についた手は寸の詰まった曲がった指で痩せ皺んでいる。

 目に映るのは昼間の空の下にあるものだ。色がそう教える。べレ・イナの山中の針葉樹(ツガ)の暗緑色、河辺の白石、灰色に浅い緑の靄のかかる森。

 しかし、そこには拉がれ割かれた樹幹に混じり累々と横たわる屍がある。雪崩に持ち去られえぐれた切岸がある。深々とかがんだ姿勢は、否応なく日にちを経た骸の顔を覗くことを強いる。白い肌の者、黄味を帯びた肌の者、浅黒い肌の者……。

 また、その視座の所在はかなり長い時間、狭い四方に下りた帳の内に揺らされた―――輿の中ででもあるような。

 そして今度は陣幕の中にあった。篝火の鮮明な光が映す景色のみならず明瞭な音までも。

 占領した村の生き残りを拷問している。尋問している男は山に潜む男達の人数を訊きただし、主な村と拠点になり得る狩場の位置を聞き出し、長や主幹の名、その子女の名を問い、居場所を問い詰める。

「新たに来た兵を三つに分けろ。北の渓谷からしらみつぶしにイーマどもを狩り出し心臓(ニアキ)とやらに攻め上れ。この陣営に三分の一の補強を。残りは例の川を上って隠れ家を制圧しろ。おっつけ親父も到着する。今度こそはおれの手際を見せてやる。」

 男はこちらを振り返った。トゥルカンの息子。未だ会わずしてそうと知っている。

「奇態な爺よな。」傲慢な顔が蔑むようにこちらを見下ろし、眉をしかめて言う。「この見世物が面白いのか。鉱脈を探しに来たのではないのか。」

「この目に見せているのでございます。」

 頭のなかであのかすれた高い声が鳴り響き、痩せた拳が胸をとんとんと叩いた。

 ガラートは叫び、その手を振り払った。手は闇の中で空を切り、彼の憤怒と苦痛の音色を殷殷と隧道に響かせている岩に当たり、皮膚を切った。つぶった目から熱い悔し涙が落ちた。

 夢の名残か、アガムンの尋問に応えていた怯え震える声が、不意にはっきりとした意識を持って言った。

「雪崩を起したのはアー・ガラートだ。」

 それが闇に戻った彼の脳裏を追いかけ、頭蓋の内に響いた。

 ガラートは手の上に顔を伏せた。

 私は長のくせに民を見捨て、自分だけが生き長らえようとしている。ハルイルの子が促し、ティスナの老女が促したからと言ってその言葉に甘えるべきであったか。常に民の見える所に姿を留め、共に在らねばならない立場ではないか。長とはそのようなものだろう……。

 だが、一方、私が留まることは何かに資したか?私は民の指導において無能であったし、戦において指揮者になり得なかった。誰もが知っているとおりだ。

 ―――見よ、お前に戦の何たるかを正視出来たか?―――私に目を貸した者は、そう意図して()()を見る。私は()にいたぶられている。

 お前が見せるものに怯えるのが、私だ。

 醜いものは嫌いだ。死に怯える人の顔、怯えるあまり死を以て死から逃れんとする行い。多すぎる骸が草が萌え出るのさえ阻む。清めの草が追い付かぬのは(イーマ)が生命の環の緒からほつれ出て調和を壊したからだ。

 そして恐怖という試薬に晒されて顕れてくる卑しさ、浅ましさから無事な者がいるだろうか。

 いっそのこと皆―――。

 すんでのところで口を押さえた両手が溢れかけた言葉を抑えた。彼は地にうつ伏してこみ上げる波を収めた。

 私は弄ばれながら一方では敵の内情も見たではないか。私には何も出来まいと高を括って見せたにせよ。

 敵は援軍を三つに分け、北の渓谷からニアキへ、オルト谷へ、コタ・ミラへ攻め上らせようとしている。拷問された男はそれぞれに山中に退避している人々のおよその人数を答えた―――それよりは実際は少ないが。アガムンは皆殺しを目的に作戦を指示するつもりゆえ、侵攻は執拗だが足は鈍く兵にとって負担の重いものになるだろう。

 ―――“掌”の平岩に思いを致してくれ―――

 ハルイーの言付けが再び思念の端をよぎった。

 おそらく()()の目を借りればハルイーの姿を見ることが出来るかもしれないが、伝える術が無い。

 ガラートは娘の名を心中秘かに呼んだ。それからべレ・イナの胸元の森から長手尾根の手先までを思い描きそれらを彼女のもうひとつの目で見渡すようにと頼んだ。

 ハルイーはちょうど掌の、小さな瀑布の作る流れに囲まれた平岩の上にハンノと共に座り、彼の方、ベレ・サオの貌の方を見ていた。

 彼に見せることが出来るだろうか。思念の上に描く画を―――。

 彼はハルイーの目を捉え、それが動かず自分の方を向いているのを確かめた。そして思いをイナ・サラミアスのコタ・シアナに接する稜線に集中させ、アタワンから蠢く兵の群れが端からほぐれその点が糸筋を三方へ伸ばしていく様を描いた。ハルイーの方へ注意を移すと、ハルイーはゆっくりとひとつ瞬き、傍らのハンノに振り向き、何かひと言声をかけ、ふたりして西へと向きを変えて渓谷沿いに歩いていった。

 ガラートは景色を見送りながら、確信の無い安堵と自嘲がこみ上げるのを感じ、岩壁に背を預けかけた。

 目の前に洞窟の闇は戻らず、まだ白昼の下の色彩をとどめている。目の前にはイナ・サラミアスの山容の全体が、エファレイナズの広い森と間に散らばる郷、すぐ膝先にある城市と広がる耕地の彼方に横たわっていた。強い詮索と関心の眼差しが稜線を克明に追っている。その眼差しはベレ・サオの虚ろに開いた無防備な目の奥を捉えて覗き込んだ。

「ギーナ、我が子よ。その“繋がり”を切れ。あの目に見せるな。」彼は思わず口走った。

 ふっと目の前に、片頬を掌に受け茫然と目を開いた少女の顔が浮かんだ。可憐な瞼は少し腫れて睫毛が濡れている。口許を含ませるように歪め、それ故記憶にあるよりも痩せた頬が丸みを帯びている。

 切れかかる景色の中に様々な小景が去来し、その中のひとつが潤んで宙に留まった。

 薄暮の小さな庭に佇む若い男女の姿があった。向かい合うふたりの掌は契りの印に重なり、男の外衣は焔の色をして煌めいて女の純白の衣装の肩の上に纏いかかった。

 景色の枠取りから溢れ上がる涙の波紋がその像を包み飲み込んで闇の芯奥へと落ちて行った。

 そしてガラートの前には真の闇と弔いの岩棚へと通じる上りの隧道が続いていた。


「手の先に何かあるのか、ハルイー」ハンノが尋ねた。

「おれが何かを見たと言えるほど、確かな証はないのだが」ハルイーはそそくさと西へ向かいながら言った。「気になるものは確かめておくに越したことは無い。」

 ハルイーは“掌”の小滝群の前を通り過ぎると長手尾根の“手の先”の方に向かって少し山腹を登り、さらに手先を巻くように回り込んでいるコタ・シアナの方へと崖側へ近づいて行った。丸太滑り落としの罠と雪崩によって崩れた山腹ははるか下方に水平に刻まれた古来の道をも数か所にわたって崩し落とし、上から覗き下ろした切岸の傾斜をさらに直下の河岸まで急にしていた。

 対岸のアタワンの丘の上には焼き払われた遺構の上に真新しい城塞が築かれているところだった。その前には大小の天幕が散り、奥の西からの道につづく開けた坂から丘の上にかけてびっしりと蟻のごとく兵士が詰めかけている。コタ・シアナの下流から舟で漕ぎつけて来た伝令がその脇の坂道を駆けあがって行く。伝令は城塞の前の陣幕のひとつに飛び込んだ。程なく指揮官と思しき男が数名の部下を伴って現れ、それぞれの指揮下に入る部隊の選別を行った。部隊は丘の上下を暫時入り乱れて代わったが、やがてひと塊になり丘の上で指揮官の命令を受けると、きれいな二列になって丘を下って行った。その手順は三度にも及んだ。

 先に城塞の後ろに回り北から砂礫の広い原に出て来た一団は源流に沿って東に移動し始めた。次の一団は坂を下りてコタ・シアナの河原を下流の方へと進軍しはじめた。最後の群れも同じ方向へと続いて行く。それぞれが二百人は下るまい。

 ウナシュの村の蜂起を端緒にイナ・サラミアス征伐の兵を進めたアガムンは、度重なる山の災厄によって十一日間の苦戦を強いられたが、アツセワナの城市に留まっていた父トゥルカンはついに援軍を差し向けたのだ。

「山に潜んでいるイーマをしらみつぶしに殺しに行くんだ。」ハルイーは人ごとのように言い、指差した。「はじめのは大渓谷から上がって平の森の中を進み、ニアキに攻め上る。次のはオルト谷、三つ目のはティスナを襲うのだろう。これはトゥルカンの作戦ではない。投入する兵よりも成果の薄い戦のやり方は。さっきの伝令はオルト谷にいるアガムンの命令を伝えるものだったに違いない。」

「何とも大層な軍団だ。こちらはもう、女子どもを合わせても八十人いるかも分からぬのに」

 ハンノは茫然と呟いた。

「だが、おれ達はどうしたものかな。この上何が出来るだろう?ともかくも長手尾根の向こうにいるアート達はまだこの事を知らないんだ。挟み撃ちになって手遅れになる前に報せてやらなくては。」

 偶然にもその時、烏の鳴き声が上の針葉樹(ツガ)の森の上から聞こえた。ヨーロンが長手尾根の袂川の原から“手の先”までやって来たのだった。

「おとといの晩、オルト谷の新しい村の方でひときわ大きな火の手があがった。おれはどうも、カマタドとシムジマが逝った気がするよ。」

 ヨーロンはふたりのところまで下りて来ると言った。彼はここに来るまでに対岸の敵軍の様子も見ていた。

「もともと勝負になる戦いではない。生き残れば勝ちだ。」ヨーロンは言った。「だが、若い者達をどう納得させよう。あいつら熱く燃える事で生きているようなものなのに、灰の下でくすぶって残っていろと言ったら死んでしまう。それに、敵はどこまでやれば治まる?」

「気が治まるなどということはない。」ハルイーは言った。「戦いなどはいつでも失敗かもしれぬし勝ちかもしれぬ。」

「おれ達のことは後において」ハンノがゆっくり口を切った。「おれはやっぱりあいつ(アート)らに逃げろと言う。」

「食うものも無い、満足に水も無い、冷たい風の吹く高原へ。草木も育たぬべレ・イナの背面へ。」ヨーロンは顎に手をやった。「民の若い者(アート)たちにはそんな鍛錬は出来ていない。それに敵は補充には事欠かんのだ。」

 しばらくの沈黙の後、ハルイーが言った。

「速やかに動けば敵がコタ・ミラより北にかかずらっているうちに屛風岩の上を渡り、白糸束を上に周って南のエトル・ベールに出ることが出来るだろう。ハルイルの息子たちは行き方を知っている。ヨーロン、すぐに行ってくれ。あんたが報せればあいつらの足なら敵が上って来る前に“南の物見”に行ける。」

 ヨーロンはふた言と待たず尾根めがけて登っていく素振りを見せたが一度尋ねるように半身を向けた。

ハルイーは僅かに顎をうなずかせ、手で己を指すように胸に当てた。

「あんたにはとりあえずここで別れだと言っておこう。おれは若い奴らみたいに、いつかニアキで、何ぞとは言わないが。今からそこを目掛けて来る敵がなるべく梃摺るように荒らすのがおれの仕事だからな。」

 ヨーロンがもと来た針葉樹(ツガ)の森の方へ戻ってゆくとハンノが呟いた。

「彼の翼がふたつの嶺の頂を越えて行かんことを。おれはあんたを手伝うよ、ハルイー。おれの方が先にへばるだろうがな。だが、おれはいつおれをお務めから放してやったらいいか見当がつかないんだ。あんたの心積もりを聞かせてくれ。あんたはいつなら弓を置けると思うんだ?」

 ハルイーはそう言われて暫時考えた。

()()()なら自分で戦える。あいつがこうして在る限りはあれに負けなどない。だが、あれにおれを助けるいわれはないからな。」

 彼は穏やかに独り言ち、次いで答えた。

「おれはおれの勝ちをこう決める。ガラートとヤールが逃げおおせれば勝ちだ。」

「どうして?」ハンノは何かなしに尋ねた。

「あれ等の父親が憎い。」ハルイーは苦いものを噛んだように口許を歪め、言い足した。「―――そしておれは最期を前にそのことに嫌気がさしたんだ。」


 “袂川”の狩場に戻ったヨーロンは、その場に留まり村の様子を見守っていた若者達からヤールが村の中からもっと下った敵陣に移されたようだと知らされた。

「我々の舟着き場の見張り台を砦に仕立て、後ろに陣屋を建てた。日々建て増しを続けていて周りを見張りが囲み、とても近寄れない。」

「村に大火事の起きた晩、使者がひと塊の護衛と村を下ってそこに入るのを見た。」

 その晩、村の上の台地まで見張りに出ていたという若者が言った。

「アー・ヤールはそこにいると思う。そして、昨日から大将と思しき男がコタ・シアナからやって来て村に入った。輿に乗った老人もだ。」

「老人?それはトゥルカンか?ヤールと交渉するのかな。」ヨーロンは思わず身を乗り出した。

「分からない」ハルイルの長男は首を振った。

「だが、もはやアー・ヤールはどんな単純な問いにも否も応も答えられないほど正気を失っていて話にならない。それに大将に続いてやって来た老人というのはトゥルカンではなさそうだ。身形も貧しく風貌も話に聞く宰相とは違う。大将が宰相の息子アガムンだというなら、その顔とは似ても似つかぬ醜い小男だそうだ。」

「そうか」ヨーロンは呟き、ひとり頷いた。そして改まってそこに居る五人を見回した。

「なあ、アート達。お前さんたちがこの年寄りと別れる時が来たよ。」

 若者達は特に驚くこともなく、ただ神妙に彼を見返した。

「今、おれが長手尾根の“手の先”から帰って来るときに見たんだが、コタ・シアナの上流から向こう岸をどんどんと二百の軍勢が南下して来てオルト谷の川口を目指している。おそらく、その砦の作られた舟着き場のあたりで艀を繋いで向こう岸から渡って来、イーマの生き残りを掃討しながらイナ・サラミアスを征服しようとするだろう。

「ハルイーの読みでは北の平からニアキにかけても同じだけの兵がやって来るし、同様にコタ・ミラを登ってウナシュ谷を足掛かりにティスナ、そして聖地へと向かう兵もいるだろう、という事だ。

「ここに留まればお前たちは“長手尾根”を越えて来る北の軍勢とオルト谷の軍勢に挟まれてしまう。だが前もって知っているからにはお前たちは奴らよりもはるかに早く動けるわけだ!

「今のうちに峰伝いにオルト谷を越え、出来うるなら“南の物見”にいる同胞に報せ、彼らと共に南の嶺(べレ・アキヒ)の上から回って御足の峰(エトル・ベール)へ逃れてくれ。」

「さようなら、トゴ・ヨーロン。」

 ハルイルの長男は簡潔に言った。

「私はタフマイの同胞(はらから)をヒルメイの責務として無事に南に導かねばならない。懇ろな言葉とてない薄情な奴のまま、心が弱らぬうちに行かせてください。」

 そうして他の四人に振り返った。

「炉も庵もそのままでよい。旅の装束、短刀、弓矢の他に食料を乾いた物で持て。」

 暫く後には若者達の五つの影が、沢がその裾を縁取る丸く膨らんだ“ただむき”の急斜面を登り、若葉が覆いはじめた森の中へと順次吸い込まれていくのが見えた。

「ヨーロン、敵が来るに決まっているここに止まり続けているなら、おまえは阿呆だ。」

 ヨーロンは岩の端に座り、独り言ちた。

「だが、もう若い者たちについて屛風岩を登るなんてとても無理だ。ハルイーとハンノにはもう別れも言った。―――それにヤールがまだ敵のところにいる。カマタドかシムジマに奴さんが何と答えたか、おれは聞いていない。……やれやれ、ガラートに約束してやったことを忘れたまま、先にくたばっておくのだった。」

 彼はやおら腰をあげると飄々と若者達の行った方とは反対に沢の下の森のなかへと入って行った。


 ティスナの老女が言ったとおりに右へ右へと洞穴の道を取って登って行ったはずだったが、空の下に開けた岩棚に出る気配は無かった。闇の中のまま、時がどれほど経ったのかという感覚も定かでは無くなっていた。

 気は澱み、道は平らに広くなっていた。道を取り違えて白糸束に向かう弔いの道に入り込んでしまったようだ、ガラートがそう気づいたのは足の下に敷かれた砕石の感触と彼方から響く水の轟き、そして目眩に始まり、徐々に身体に襲い掛かる締め付けるような怪しい苦痛だった。

 彼は引き返そうと向きを変えた。それすらも休み休みしなければならなかった。彼は方向を違えないように壁に手を副え、老人のように前のめりに背を傾けながら、数歩歩いては止まり、歩いては止まった。

 断食には慣れていたが渇きは耐え難いものになっていた。岩壁の奥に囁き続ける水音が渇きを一層煽った。

(たとえ水溜まりに出会ったとしても、ここを出て岩棚の上に出るまでは何も口には出来ぬぞ。)

 己に言い聞かせ、さて、死者の骸を葬る岩棚にある水とは?と思いが飛ぶのを生唾と一緒に飲み込んだ。

(森にさえ下りれば―――)

 柴の葉に下りた朝露、春の樹木の皮下に巡っている樹液。平らな森ゆえせせらぎに出会うにはかなり歩かねばならないだろう―――。

 彼はふと、ひとつの場所、目立った地形を考え続けることの危険に思い至った。無論、()が探ろうと試みる思念がそのまま繋がるわけではない。しかし、こちらが意図して語りかけた時以外にあの意識がこちらを向かないとは限らない。

(今は夜だろうか、昼だろうか)

 夜なら不用意に何かを見てしまう危険も減るだろう。

 彼は努めて何も考えぬようにし、闇を出ようとあがくことさえ止め、ただ、左手に案内を任せて前進と小休止を淡々と繰り返した。

 どのくらい経ったか。ぶるっと身内を震動がはしり、隧道を包む岩の塊が軋み、刹那、獣の緊迫を帯びて固まった。彼の眼前に浮かんだ景色がその訳を見せた。

 コタ・シアナの三か所の岸から這い登って来た点がいくつかの塊に分かれ、新緑の森の下をじわじわと登って来る。そして、オルト谷に待機していた軍からはその行くてを先んじて“合の沢”の上流の斜面を登って行く隊がある。

 ガラートはそのはるか上の谷あい、木々の丈低く新緑の乏しい森の上の岩がちな乾いた荒野を南に向かって横切って行く五つの点に気付いた。

長手尾根の向こうの目は、彼にはむしろぼんやりと西を見ていると思えた。イナ・サラミアスの像を眼中に収め裾野を見張っている目は別の目だ。

 ―――はたき落とせ!―――心中をよぎった命令をガラートは半ば口を押さえて止めた。

 山体が前より大きくぶるっと震えた。ガラートは目を閉じ、暫くして開けた。

 谷あいを横切る五つの点は一寸止まったが、すぐに元気に動き出した。彼らの左手にはまだ雪の張り付いた屛風岩が高く聳え連なっている。少し崩れたところが白く生々しく光っているが行く手を遮るには程遠い。一方、麓の方でも軍隊は木々の下に一度動きを止めたが、すぐにまた上に向かって登り始めた。

 何を見ても動じてはならぬ。見ようとしてはならぬ。

 渇き、痛み、恐れはもとより見えないことも見せてはならぬ。

 ガラートは闇が完全に闇であることを願い、また前へと足を摺って進み始めた。


 “長手尾根”の袂を発って一日半後に、ハルイルの長男とタフマイの四人は“矢筈谷”の源流の小さな渓谷に辿り着いた。ティスナとは半里と離れておらず、南の物見までも一里ほどだ。

 コタ・ミラから上って来るという敵の足の速さを危惧しながら、一同はこれから一度“南の物見の砦”まで下り仲間に急を報せるべきかどうかを話し合った。一日余りも経った今では、敵はもう物見の近くまで来ていて、ウナシュの者を主とする砦の者達は戦うか退避するかの決断をしているかもしれぬ。

「彼らが戦うとした場合、我々は彼らを見捨てられるか」タフマイの若者のひとりが問いかけた。

 ハルイルの長男は面ひとつ変えずに言った。

「その場合には、私は戦いを置いてついて来いと命令する。なぜなら私には君たちを南の嶺(べレ・アキヒ)に導く責務があり、その務めゆえに私には戦う選択が残らないからだ。」

 一同は黙した。ハルイルの長男は下を指差した。

「下って様子を見に行けばいい。南の嶺には多くても二十人ほどしかいないはずだ。それより多くの人の気配があればそれは味方ではない。敵に占領されたのだ。この谷を登り、屛風を登って“白糸束”を上に周って南に出る。」

「ティスナにいる女子ども達は?」先に妻子を逃がしていた男が尋ねた。

「聖地の力を信じることにしよう―――我々が逃げ道を準備しておかねば彼女達も行く場所がない。」

 しかし、彼らが夕刻もせまる麓へと下りてみようかという時、谷の左側の森を十一人もの男達が上ってくるのが見えた。それぞれの村から逃れ、南の砦に立てこもっていたタフマイとウナシュの男達だった。

 向こうの方も気付いて足を早めるのを、ハルイルの長男ははじめに抜き出て迎えに行きながらも半ばで足を止め、陽を背にした影の中に弟の姿を見分けようとした。

 男達は近づくにつれて、足取りを鈍らせ、暗い顔を苦くうつむけながら一同の前に登りついた。

 ひとりのウナシュの男が進み出た。

「ヒルメイの主幹、あんたの弟は死んだ。和平を持ちかける振りをしてウナシュ谷からやって来た敵になびいた者がいて仲間を裏切ろうとした。ちょうどオルト谷から女子どもが同志五人と一緒に逃れて来た時だった。交渉道具に女を使おうとし、それが仲間に知れて内輪の争いになった。あんたの弟は片時も揺るがなかった。我々のうち誰もが心揺らいだ時も。我々は砦から離反して出て来たのだ―――だが、どのみちあそこにもうイーマはいない。偽者のイーマさえも、な。」

 そう言って男は頭を深く垂れ、後ろの者達もそれに倣った。それからさらに進み出ると声を落した。

「あんた達は砦に行くつもりだったのか?むざむざと敵に奪わせてしまってすまぬ。だが、あそこに行ってはならん。」

 兄は男達の登ってきた沢縁を駆け下ろうとするかのように身を乗り出し、両手を天に差し上げ短い苦悩の叫びをあげた。それから両膝を落すと自嘲するかのように、この運命は予想し得たことだ、と吐き捨てた。彼は砦の方に灯りはじめた野営の明かりを見、立ち上がった。

「来てくれ。」彼は砦から来た男達に言った。

 何人かの者達は僅かに躊躇を見せて顔を見合わせた。

「ヒルメイには秘密が多い」ひとりが恨めしげに呟いた。

「見限られたと思った者の気持ちも分かる―――アー・ガラートは去った。敵が言っていることは何のことだ?彼が隠している女とは。」

「知らぬ。」若者は言った。

「だが、疑いの心がこの度の事を招いたとあんた達は言った―――同じ愚行を断つため、同じ問いを口にしたその時に私はその者を置いていく。屛風岩を登り、嶺の上からエトル・ベールに抜けるまでは、あんた達は私に信を置く必要があるのだ。」

 十六人の男達は渓谷を上へと、五人がやって来た方、矢筈谷の源流に戻る方向に登った。分岐の南にはティスナに至る岩がちな急な山腹が見えていたが、彼らは西に聳える屛風岩を指した。日が暮れるとその根元に広がる草木の乏しい原に出、短い睡眠を取った。

 はるか未明、彼らは百尋の一枚岩の衝立に見える岩根の下に着いた。ヒルメイの若者は下から見上げた岩盤の表からは隠された、足掛かりとなり得る亀裂、張り出し、小棚の在りかを言い、全員が立てる棚地に至るまでの登り方を説明し、岩登りの得意な者三人をそれぞれの班の先頭に選んだ。

「しかし、その先五十尋はまさしく一枚の壁。氷を穿ちながら進む。時間が経てば溶けて滑りやすくもなる。後に続く者ほど難儀かもしれぬ。」ヒルメイの若者は全員を見回した。「皆、鉢巻きを預けてくれ。結び合わせればちょうど命綱に出来る。棚地に着いたら私が先に登って道をつけ、上で綱を固定する。それを頼みに上って来てくれ。」

 男達は頷いた。下の砦では夜通し燃される野営の火が順次小さくなってはまた盛り返す。敵がまだ眠りについていることを念じ、ハルイルの子を先頭として初めの班が屛風の根に取りつき、登り始めた。


 小さい手が裾を、袖を引き、幼い声が空腹を訴える。

 胸に抱えなおす児は軽いが、腕の間から抜け落ちそうに痩せた身体に頭だけが重く、肩へとまどろむ小さな顔を支えた手首はずっと痛み続けている。泣く子らの声は頭の中でひとつになってがんがんと鳴り響いた。

 ―――水をくれ……食べる物をくれ……。

 あらゆる(トゥマ)の声がそう訴える。

 水?水ならどこにでもあるではないか、周りじゅうに。腰まで浸かってみるがいい、あの凍てつく水の中を。水門の沢山の小窓を水の中で開く把手の重いこと!

 服は生乾きだし傷はいつも濡れている。

 そうだ、食べる物をくれと言っている。

 子ども達に待つように言い、手探りで洞穴の大扉を開け、中に入り、暗闇の中の()の死んだ木になっている果実をむしり取る―――夢中でむしり取る。前掛けに集めて来たそれを厨に運び、綿を剝ぎ取って中身を、古くなった灯り油を空けた鍋の中で炒る。

寄って来る口にひとつずつ入れてやる。小鳥が雛の口に入れてやるように。

 口の中に唾が湧いて来る。小さな口に配る合間に自分の口にも頬張る、噛み砕く。だが、飲み込まない。腕に抱いた児に口移しに与える。吸い付く唇が柔らかい。頬が温かい。いい匂い―――食べてしまいたいくらい。

 表から甲高い悲鳴が上がる。何人もの足音が石の床の上を詰めよってくる。いったい、今度は何をしたっていうのかしら?

「このろくでなし!子供に何を食わせるの」

 子供をかき分けるようにして伸びて来た手が襟首を掴み、炉の前から引きずり出す。腕の子を庇って丸める背に飛ぶ拳、腰に脚に飛ぶ固い踵。

 後から分け入って来た者が左右に立ちふさがる者達をとりなし、前へと出てきて庇い、傍にかがみ、肩を包んでさする。耳に囁く息の音。肩に落ちる涙―――その訳など分からない。自分にはもう長いこと涙さえ湧いてこない。

 赤子を母の腕に返し、その優しい声を振り切って大扉の中に逃げ込む。誰もが恐れる闇の中だ。

 子ども達と一緒にいるのはいい。領域が重なっても互いに構う事はない。だが今は彼らは昼の光のもとにいる。彼らは彼らで遊ぶ。そこらじゅうにたくさんある空繭の綿を引きのばして大きな膜をつくることを教えてやった。重ね張り合わせれば枯れ木の下に小さな天幕を張って、そこで遊べる―――繭のように。

 闇の中に腰を下ろすと、様々な痛みが全身に湧きあがって来る。殊に腹の奥を締め付けじわじわ引きちぎるような痛み。そして、女達の怒号が止んでも耳の中に鳴りつづける様々な声。

 飢えを訴える声がある。そして渇きも。おかしなことだ。水ばかり飲んでいるというのに、渇いているのは自分だと心の声は訴える。本当に渇いて感じられるくらいだ。

 水、水―――そう、水なら洞窟のずっと奥の方にだってある―――。


 左の溝に沿って登れ。目の高さに横ざまに這っている根があるだろう、横ざまにそれを伝え。

 端に着いたか。折り返し右へゆくぞ、そのまま岩の方に腹を向けたまま、左の出っ張りに手が届くか?それを掴んだらすぐに右手を溝の外縁に置き換えて外側に出てこい。よし、姿が見えたぞ。あとはゆっくり登って来い。もうすぐ棚に着く……。

(アー・タッカハル……。)

 ガラートは記憶の中に声の主を探した。

 アー・タッカハルなら問題ない、もうこの世から去った人だ。自分がその声に迷いうろたえることがあっても、相手に力を及ぼす気遣いはない。

 彼は腕の中に頭を埋め、暫くその懐かしい声に耳を傾けた。

 ―――皆、揃ったな?では綱を頼む。程合いを見て繰り出してくれ―――

 しかし、あの声はもっと若い。

 ―――上に着いたら呼ぶ。そうしたらひとりずつ登って来い―――

 ヒルメイの若い再従弟、ハルイルの上の息子の声だ。どうして彼の声が聞こえるのだろうか?何が彼の元にこの声を伝えているのか。

 闇の中に目を凝らすが、目に見える景色は無い。してみると、どちらの目も彼の姿を見ているのではなさそうだ。彼の声を捉えたのは私だ。

 彼は立ち上がろうとするのをやめ、そのまま四つん這いで前に進んだ。渇きと飢えの苦痛に全身を任せたまま、そこから逃れるための動作なのだと信じさせて四肢を働かせ続けること。接触の過ちを犯さず時が全ての事を運び去るのを待つこと。出来ることは他に無い。


 かしこに通う水の音を聞きながら狭い孔に身を擦りながら進む。全身を包む火照りは皮膚の表層で灼けるような痒みに変わる。やがて一点白い光が見え、ざんざんという轟音に包まれながら天井から繰り出される白糸の束に行き当たる。細かな跳ね返りの霧が伸ばした手に顔に下りて赤い斑の皮膚の痒みを和らげる。滝の裏に穿たれた細い通路を行く。水には届かないが涼しい風が来る。通路は再び地中の孔に繋がる。滝の音は彼方に轟く銅鑼の余韻となり、死の静けさと匂いが辺りを支配する。

 彼女は孔とその先に交わる通路の脇の小房を抜き足して通り抜けた。死者とその伽をする者の場に身を横たえるには身内に巡る血は熱すぎる。そして砕石を敷いた床はあまりに痛い。彼女は次の分かれ道を右の広い方に取った。

 渇きは嘘のように治まった。水を求める声が何も聞こえないではないが、それはありふれた獣か草木の呻き、それらの()()がもともと運命づけられている渇きと飢えの声、生命のむずがっている声に過ぎない。

 雨が降るまで待つがいい。他に何が出来るというの?

 彼女は袖で乾いた目をこすった。足の下は砂のように細かくなり、やがて平たい岩の感触になった。身体のあちこちで発する疼きにも優って疲れに押し切られ、彼女はそこに腰を下ろし、壁に寄りかかってまどろみはじめた。  


(今は確かに昼間だな―――)

 闇の薄らぐ喜びの感覚が心をよぎり、虫のように這うなかで封じていた言葉と思考が甦る。

 道がくびれて急激に左に折れた先に出た途端、上も下も無い闇は遠くの岩盤の隙間から漏れる昼の光によって描き出された広い廊下になった。それは先に行くほどに右壁の岩の重なり合う節々から入ってくる明るみへと繋がっている。彼のすぐ右手の壁には狭くて低い洞穴があり、中から続く隧道が斜に交わっていた。

 ようやく出口が分かった。自分は一度この隧道から出て来たに違いない。だが、夜だったため、ほとんど後方に向かって折れている道に気付かず、そのまま真っ直ぐのつもりで左を取ってしまったのだ。

 ガラートは四つん這いでこわばってしまった身体を起こし、立ちあがった。彼を元気づけるものは薄い視野をくれる明るみのみだったが、速やかにこの禁忌の場から逃れるには何よりも有難いものだった。彼は外衣を身体にぴたりと纏い付け、自分の足跡がなるべく少なくなるよう静かに真っ直ぐに出口を指した。

 途中で岩盤の亀裂がややずれた道の折れを通り過ぎた時、彼は湾曲した右側の壁面の前に横臥する人影を見つけた。

 ただの驚き以上に彼の胸はたちまち強く重く鼓動を打った。

 倒れているのではなく眠っている。不穏な夢の中にいるのかもしれないが、呼吸は正常だ。

 一年半の間に身体は大人の長さに近づいている。狭い骨格に目鼻が秀で、釣り合いの欠いた細い首に繋がる屈めた胸が衣の襞だまりをつくって窪んでいる。

 ガラートは暫く根が張ったようにそこに立ちつくした。

 見初め慈しんだ姿形の痕跡、うち捨てた土壌に生うていた脇芽。時は失った宝を醜く萎ませ彼の前に返した。しかも、もう彼の手には負えぬ、触れてはならぬものとなっている。

 弧を描いた睫毛がぴくりと瞬いた。長い指が襟元を搔き、膝を擦って脚が伸びる。

 彼はようやく思い出して懐から鹿のなめし革を探し出し、その上に記された文字を検めて重ね、ひとつに丸めるとそっとかがんで、少女の胸と手の間に挟み、目覚めさせぬように立ち去ろうとしかけた。

「ちくしょう」

 彼の後ろで小さく声が呟いた。振り返ると少女は仰向けに寝返り、顔をしかめて悶えていた。

 ぎしぎしと音をたてて岩壁が軋み、立っておられぬほどの揺れが足元をすくった。思わず手をついた岩肌から、小石と砂の筋がつと亀裂の端々を垂れ落ち、砂埃を立てる。

(屛風岩の若者(アート)らは……。)

 よぎった思いに応えるように脳裏にありありとべレ・エフの鞍部の景色が映る。

 谷分け川(コタ・ソガマ)の源流と矢の川(コタ・サシー)の間の森林の雪解けの終わった萌黄色の地面を妹神(ベレ・イネ)の山岳地帯の傭兵が蟻のように駆け上っている。度々起きた雪崩に削られた山腹の傷は更なる震動で割れて土石を流し、彼らの何人かを押し流し埋める。その上をまた兵士は跳び、踏んで登る。襲い掛かる揺れは彼らの足を挫くには何の妨げにもならない。彼らの意思はただ一つ標的に向かって走れという命令のみに従う。

 傭兵の群れの先端は森の上の岩石の荒野に達し、屛風岩の裾に達する。裾に達したある者は弩を構えて岩壁を狙い、ある者は岩根に取りつき、登りにかかる。

 屛風の一枚岩を登っていくイーマの若者らがいる。ひとりが続く揺れに投げ出され、細い命綱のみに吊られて途中の空に浮いている。

 屛風の天辺からハルイルの長男が顔を出し、下の岩棚の者と叫び交わす。下の棚まで戻れるか? 

 岩棚の者が叫び返す。綱の端を失った、もう戻る事は出来ぬから引き上げてやってくれ。

 屛風の上の者達が綱を引きはじめる。吊り下がる若者は怯えて両手の先の張りを見つめている。壁の下の傭兵達が弩を引く。怒声と共に上から石礫が降り、綱が揺れる。

 ガラートは思わず我が子に駆け寄り、かがみ込んだ。少女は痛みに苛まれるように横に寝返り、石の床を掴むように手で掻いた。開いた瞼の先がひたと前を見据え、唇から鋭い息を吐き何事か呟き、両腕が胴を抱え込み右手が脇腹を掻きむしった。岩が軋み、遠い轟きを兆して大気が唸った。

「ギーナ、やめろ」

 ガラートは娘の肩を掴み、その耳に急き込んで囁いた。もがく手を掴み、両手のうちに握った。

「お前は母の胎内に守られ安全だ―――そして母なる山の根は人智よりも深い。」

 一点から凪ぎ鎮まるように少女の眉間から口許から力が抜けた。父の手に預けた両手は冷たく、華奢な身体が質素な衣服の襞の中に埋まり横たわった。

 そっと下ろそうとした手の中で手が微かに動いた。瞼が半ば開き、長い睫毛の下に眼が光っている。と、ふっと睫毛の影が下り、柔らかく開いていた唇が片端に引いた。

「アー・ガラート―――いたぞ」 

 涸れた声が唇から漏れた。

 ガラートはそのまま両手を娘の胸の下に置いた。そしてゆっくり数歩下がった。

 少女は今や目覚めて身を起こし、石の床の上にぺたりと座りなおしていた。当惑し幾分怯えたように彼を見返している。はらはらと胸元から膝に床に落ちた三片の革を不思議そうにかき集め、それを見、彼を見た。

 ガラートは娘の目の中から覗く彼方の目がひとつの目的を得て微賤な役目を果しに行くために暫し逸れたのを見てとった。彼は娘に頷きかけ、ひと言、最後の命令を与えた。

 少女は瞬きもせず彼を見返した。ガラートは娘に背を向け、岩盤の隙間から射す明るみが案内する外へと進んで行った。

 壁をつくっていた巨岩の列が右側で離れ、途切れて彼を山の胎内の孔から“弔いの岩棚”の上へと導きだした。

 東から回り込む陽はまだ岩場を照らすほど高くはないが、旋回する大きな影が辺りの景色に暗色を差す。

 まだ慄く山肌は岩の間に砂利を吐き続け、ティスナを奥に隠した畳なづく森の波がしらは風のためばかりでなくざわめいている。南の物見の突き出した台地の先で針葉樹(ツガ)の尖った穂先は入り乱れ、さらに山裾へと下ると、コタ・ミラの渓谷の屹とした稜線の影は失せ、その背後にぼんやりと黄土色の濁流が靄になって広がり、ウナシュ谷の村落のあったところに新たに大きな溜池を生じている―――。


 袂川の狩場から若者達と別れたヨーロンはコタ・シアナに向かって森の中に刻まれた無数の天然の溝を辿って行った。コタ・ソガマの川口、イーマ達が“河向こう(オド・タ・コタ)”との交易の玄関口として設けた舟着場の北の高台には敵の大将アガムンが自陣の砦を置いていた。イーマ達が村の建設の時に築いてあった橋の構造物の下に潜りこみ、三日もの間、昼を敵陣の床下で過ごし、夜が更けると宿営地よりも遠く離れた谷奥まで遡り、分隊が駐屯している村の廃墟の周りを歩き回った。    

 村のはずれの立ち木には責め殺された捕虜の骸が曝されていた。五日間の追撃が功を奏さないことに苛立ったアガムンが命じたのだ。アガムンはその後下の砦に移り、番を言い遣った兵士等は腐臭を嫌って距離を取っていた。ヨーロンは骸を下ろし、焼け跡にまだ残る家々の燃えさしを集めて積み上げ、火葬にした。夜番が怪しい炎と煙に気付いたが、大胆な所業の深追いはしなかった。ヨーロンは森伝いに朝になる前に麓の砦に戻った。

 彼が潜んだのはアガムンが指揮を下す陣屋の下に当たる細い渓谷の中であった。櫓の下支えの柱に渡された貫に止まり、地面よりやや窪んだ岩の間から覗くと、櫓の前の段梯子を上り下りする者の足元が見える。彼は足音に耳を傾けながら、時折その主を確かめるために外を覗いた。

 尖った棒の先の閊える音と軽いが明らかに床を擦る、癖のある音を聞きつけて、ヨーロンは貫の上に立ち、岩に手を掛けて足音の主を覗いた。

「おや、あいつか!輿に乗ってやって来たという……。なるほど、おれも年取ったものな。しかし、老け込んだものだ―――その上ひねこびたものだ。悪い顔をしている。昔よりも悪い顔をしている。」

 杖をついて長い粗末な衣を纏った人影は大儀そうに梯子段に手を掛けて上を見上げ、杖を持ち直すとこんこんと段の端を叩いた。たちまち櫓の上の番兵が気付き、下に下りて来ると老人をおぶさって陣屋の中へ運び込んだ。

 ヨーロンは身を縮めて貫の下に潜り、渓谷の深みに一旦もぐり、老人が行った方に見当をつけて斜面を登り、腐った切り株の並んだ湿った地面と床の間の狭い隙間に腹這いになって目当ての声を探した。

 歩哨の足音、談話、頭の上を縦横に音が過ぎてゆき、渓谷を流れる水音が高くそれに立ちはだかる。

 不意に段梯子の方から慌ただしい足音が駆けあがって来るとまさに彼の真上の床の隙間からはっきりとした取次ぎの兵、続いて伝令の声が響いた。

「アガムン様に申し上げます。南の駐屯地から急ぎの報せでございます。」

「南の部隊からの遣いでございます。今朝がたの地揺れにより、件の女村のある湖の岸が崩れ、下流一帯を突如大水が襲い、兵およそ三十人を失いました。怪我人も多く出ております。」

 報告を受けた大将はたわけめが、と怒鳴ると南に駐屯する部隊の分隊長の名を挙げ、奴はどうしていると訊いた。

「かの山岳部隊は女村を押さえ、イーマの聖地とされる地を指し進軍を続けております。」

 アガムンは伝令に応えず、傍らにいるらしい別の者に当てこするように言った。

「お前の言う吉報か?」

「滅相もない」しわがれた高い声が応えた。

 ヨーロンは声の主を見るために身体をずらし、仰向けになって床の隙間を目でなぞった。アガムンの足越しに壁にもたれるように床に座った男の丸い肩が見えた。

「親父が間もなく来るというのに、同じ場所で二度も兵を失う失態を―――その男は魔物か?」

 男は肩をすくめるように身じろぎ一寸両手をもたげた。

「御前の爺同様の、一介の山人でございます。恐るるに足りません。」

 アガムンは男に背向け、大声で副将を呼びつけた。

「北の掃討に向かわせた兵を見張りの小隊のみ残して引き上げろ。アタワンで親父の出迎えに一中隊残し残りを南に送れ。明日じゅうにイーマの聖地とやらを制圧しろ。それから上の山に行かせたウヌマばらの部隊に遣いをやってすぐに南に行くように言え―――」

姉神(べレ・イナ)の膝元の森を下から包囲しなされ」老人は床にうずくまったまま声を張り上げて遮った。

「件の場所には身共の子飼いを直接に向かわせましょう。御父上にお伝えなされ。もうひとりの長の居場所が分かった、と」

 命令に従って移動するいくつもの足音が頭上を行き交った。

「あ、なんてこった」降って来た泥を唾に混ぜて吐き飛ばしながらヨーロンはぐるりと向きを変えて床下を這い出し、橋桁の下の暗い渓谷に下りて来た。「ヤールもまだ見つかっていないというのに。」

 老いた男は谷の底に止まって薄くなったごま塩頭を掻きむしった。

 よしんばヤールの居所が分かったとしても彼ひとりで救い出すのは無理だ。と言って一日でハルイーとハンノを呼びに行けるだろうか。

「だが、他にお前に何が出来るんだ?」

 ヨーロンは呟き、渓谷を遡り始めた。老いた足でも夕刻には袂川の狩場まで戻る事は出来る。攻め上がって行った兵隊はもうじき呼び戻されるんだから発見される気遣いは減るだろう。頑張れば長手尾根の峠にくらいは行ける―――そこで誰が早いかだ。

 正午近くにはイーマの掃討に出ていた兵らを呼び戻す角笛がオルト谷のかしこに鳴り響いた。

 長手尾根の裾野に散っていた小隊の兵が森を下って行く。未だ退却の理由を知らぬ彼らの中には思いがけぬ反撃の兆しでもあるのかと訝る者もいる。流れの変化を喜ぶ者もいる。

 ヨーロンは窪地や藪、渓流の脇を飛び地に身を潜め、人影がなければ駆け上った。長い夕刻の最後の日の沈む頃には長手尾根の峠に辿り着いた。

 翌朝、曇天の中に明けた空の下に、ヨーロンは長手尾根の“ただむきの峰”でも最も高い峠から南の嶺(べレ・アキヒ)を望んだ。雲の纏わり繋がる空間を、遠く何かが、他の物音を排してただひとつ、微かに細く聞こえて来た。それは大鷹の鳴声の合図だった。

 あれはハラートの合図だったな、もう四十年以上も前に亡くなった―――。

 空耳かと疑いつつ、ヨーロンは故も分からずそうせねばならぬと心が命じるままに、北に向き直るとハルイーとハンノの名を念じ、そっくりに同じ鳴声を送った。

 鷹の鳴声は長手尾根の北側の中の嶺(べレ・エフ)のかいなの内のニアキへ、そして胸元の広い森へと吸い込まれて行った。


 麓で相次いで起こった退却の角笛の音が鳴りやむと、ハルイーとハンノはニアキの上の森から、古い村落の下回りを囲んでいたアツセワナの一部隊がばらばらと潮が引くように退却して行くのを見届けた。

 集落に今も人が住まうかのごとく見せかけて夜ごとに炉に火を焚きつけ、野営の周りを矢で脅し、追撃から五日間ニアキへの侵入を防いで来たのだが、不意に敵が背を向けて去る事には懐疑の念の他は無かった。

 彼らは直ちに引いて行く敵の部隊を追った。敵軍は森の中を点々と伐って構えた陣をすべて引き払って下りながら合流し、長手尾根の北斜面からも捌けて一点、上陸してきたコタ・シアナの源流の渓谷に向かうようだった。

「奴らの引き上げの舟を駄目にしておくのだったかな」ハンノが言った。

 ハルイーは首を振り、下りて来た北側の斜面からニアキを振り仰ぐと、矢筒に残った僅かな矢数を確かめそのまま南にむかって縦走をはじめた。ハンノは黙って従った。村の上に置いて来た僅かな食糧や鉄の道具などが心をよぎったが、それをも後にした。彼はハルイーとの間が開きそうなときだけ「待ってくれ」と言った。ハルイーは少し休憩を取ると前よりはずっと歩幅を小さくしたよどみない調子で森の中を長い歩きで横切り、長手尾根に向かった。

 夜も余程遅くなったころ、手探りで進む足取りもおぼつかなくなるのを感じてハンノは言った。

「頼むハルイー、あんたがひとりで行けるとしてもおれを置いて行かないでくれ。ここでひとりにされればおれは捨て石以下だ。夜が明ければまた目もきくし足に力も戻る。」

「いいだろう。夜は誰にとっても夜だからな。」ハルイーは答えた。

 早朝、外衣にくるまって背中合わせに眠っていたハルイーが起き上がり、矢筒を背負う音を聞くとハンノも起き上がって、ナナカマドの藪の上に続く羊歯や苔に覆われた岩がちの斜面を登り始めた。長手尾根の掌の小滝群の上に当たる山腹だった。

「昨日からどうも()()()の目が気にいらんのだ。」

 ハルイーは昨夜の滑らかな足取りからは遠い重い大きい歩幅で登りながら呟いた。

 白々と出所の曖昧な日が明け、姉神(べレ・イナ)の姿は綿々と連なる厚い霧の後ろに隠れていた。漂うのは霧ばかりではない。暗いうちから騒ぎ始める小鳥どもでさえ黙っているというのに、微かに大鷹の声が伝わってくる。

「いま、鷹の声がしなかったか」

 ハンノが尋ねかけた時、ふたりの上に連なる峰の上から今度は紛れようもない鷹の声が届いた。

 峠に至る小さな岩の段の途中で上に手を掛けたまま、ハルイーは足を止め、大きくぶるっと震えた。咄嗟に後ろに回った手が弓と矢羽根の上をよぎった。そのまま拳を握ると、足元から勢いを得て跳ぶように四肢を駆って上へと登って行った。

 ハルイーの名を呼びながらハンノは後を追った。青黒い森の上の白い空の際からハルイーの影は瞬く間に稜線の向こうへと滑り込むように消えた。


 コタ・シアナはクマラ・オロに注ぐ流れの中に太い濁流の筋を放っていた。それはクシガヤの村々のあったところで湿地を覆って広がり、桟橋の上の家屋を沈めたばかりかほとんど跡形も無く集落を流し去っていた。タシワナの上はさらに岸辺に打ち上げられた木々や土砂が流れを細く塞ぎ、イナ・サラミアスの岸から剥がれ落ちた岩石がかしこに不安定なうねりや渦を生じていた。

 サコティーが夜が明けるまでは舟をタシワナの上にやれないと言ったので、オクトゥルは彼に櫂を任せて水没した湿地を漂う舟に身を横たえていた。眠りに落ち切らぬ耳に、サコティーが出会った里人とすれ違いざまに交わす話が聞こえていた。

「何があった?」

「地揺れだ。」男は答えた。大き目の舟らしい。家財と家族を載せているようだ。

「知っている。だがそれだけじゃないだろう」

「コタ・ミラが溢れた。」

「高台の村は?」

「それも沈んだよ。(おか)に避難した者もいるがシアナの森はずっと前から安全じゃない。」

 男の舟は他のいくつかのクシガヤの舟と一緒に湿地の奥へと離れて行った。

 クマラ・シャコの縁が崩れた―――ティスナにいる妻や子はどうなった?

 少しずつ闇が薄らいでいく中、本流のうねりの紋様をじっと窺っているサコティーにオクトゥルは懇願した。

「サコティー、後生だ。何とかお前の着けられる場所でおれを向こう岸に下ろしてくれないか。ニマ谷よりも下でいい。イナ・サラミアスの側にさえ下ろしてくれればおれは自分の足で行くよ。」

 サコティーはニマ谷よりもずっと先の小さな谷の陰にオクトゥルを下ろした。短い谷筋は幾らもかからず抜けた。夜はもう明けたに違いない。山の端は雲がかかり、すぐ上の峰にも霧がかかって視界が悪いが、この上には切り立った懸崖の稜線が長くよこぎり、その中心の谷の上には“天秤竿”と呼ばれる水平な長い岩棚がある。オクトゥルは峰のはるか上から鷹の鳴声が鳴り響くのを聞いた。

 ヒルメイの誰かが急を報せている。

 オクトゥルは崖を登りきり、しばらく続くなだらかな森を上に向かって駆けた。小一時間もせずに前よりも小さな崖をふたつ登り“天秤竿”に続く棚地に出た。狩の班が“天秤竿”より上で仕事をすることは無い。ティスナと同じ高さにあるそれは女神の領域だ。北東へと伸びる稜線に従って行けば南の物見へ、そしてティスナへと近づいて行けるはずだが―――。

 オクトゥルの躊躇は数歩進むうちに消え去り、半里も行くと左側に開けて来たコタ・ミラの渓谷を騒がせる太い水音とべレ・イナに似つかわしからぬ大勢の人の気配、外縁部が崩れ落ち長い幹の剥き出しになった針葉樹(ツガ)の森が彼の鼓動を不穏に高鳴らせた。

 谷越しに遠く見える南の物見ははや彼の知っている姿ではなく櫓を備えた砦になり、そこに立つ者はアツセワナの兵だ。コタ・ミラの谷内は大きくえぐれて削れたものの、敵は長い梯子で足場を繋ぎ、谷の両側の行き来を克服していた。既に羊歯の踏みしだかれた痕が彼の前の地面にはっきりと道筋を描いている。

「オクトゥル、オクトゥルだ」

 森の奥から囁きに似た低い声が飛び交った。郷里の者の声だ。女の声もある。少し離れた物陰に散って隠れている者達がいた。妹の呼ぶ声を聞いてオクトゥルは駆け寄った。

 妹は何人かの男女と一緒だった。オクトゥルは彼らを見回し、尋ねた。

「今朝の合図は誰が―――鷹の鳴声は?」

 タフマイの男が前に出た。

 合図をしたのはヒルメイの主幹だ。彼は昨日べレ・イナの腰の屛風岩越えに我々を導き、丸一日かけて聖地の上を迂回し、女達が弔いを行う岩場の上を周って今朝早く下の森に出て来た。そこで待ち構えていた敵に出会ったのだ。妹神(ベレ・イネ)の山人。我々と同じように山を駆けるに慣れた兵士達だ。

 彼らの目的は我々では無かった。彼らは我々を物の数に数えていなかった。彼らはもうアー・ガラートを捕らえて連行して行くところだった。ヒルメイの主幹はそれを妨げようと飛び出していき、敵に斬られる直前に鷹の鳴声で告げたんだ―――べレ・イナに忍んでいる同胞たちに、長が捕まったことを。

 奴らは森をすぐに北に向かった。コタ・ミラを越えて南の物見に行ったに違いない。あんたはここに来る途中に見ただろう、奴らに取られた物見を。コタ・ミラが溢れ、谷を崩しても奴らには何の障りにもならなかった。

「なんだって、あんた達は―――」

「アー・ガラートが我々に引くように命令した。」タフマイの男はオクトゥルを睨み返して鋭く囁いた。

「この身ゆえに殺めることを許さぬ、と。」

 オクトゥルの妹は男が話している間、ほとんど兄の方を見ずに黙って立ちつくしていたが、傍らに割り込むと口を切った。

「この人たちがいてくれなかったら私達はうろついている傭兵達のいい慰み者になったでしょうよ。」

 連れの女が、それっきりふっつりと口をつぐんだ彼女に代わってこれまでの事を説明した。イナ・サラミアスの全ての女達は初めはティスナに避難し、それからアー・ガラートの勧告に従って“白糸束”に移った。だが五十人もの女子どもが暮らすには手狭でたちまち食糧にも困窮した。

 そのうち、ティスナがアツセワナの兵たちに占拠され、皆はこれまで幾度も経験したように逃げ場を無くすことを恐れた。話し合いが持たれ、出て行きたい者と留まりたい者に意見が分かれた。年寄り(コーナ)達から聞いた聖地の守りの力を保証できる者はいなかった。

 そして昨日の朝、地揺れが起きた。子供のように若いシュムナ・タキリ、ルメイは洞窟の奥に入ったきり丸一日以上姿を見せていない。巫女の住居の入り口が崩れかけていた。敵が来ても洞窟の中は隠れ家にはなり得ない。もともと出て行くつもりだった者たちに加えて留まるつもりだった者も、南の険しい岩の山腹を通り南の森へ逃げようということになった。

「そしてその日の終わりには、コーナ達の言う事が正しかったと分かったわ。」

 敵は参道を覆い隠して滝のように溢れる水の(きざはし)の脇を山蟻のように這い上がって来た。そしてどちらから来た者も聖地から一定の域にさしかかると、一斉に弾かれたように躊躇い、身を捩り、地上と言わず水の中と言わず這いずり回って悶えた。血反吐を吐く者さえいた。

「聖地の守りの力は敵の身に効いた。けれどそこから出て来た私達は庇護を失ったことを思い知ったのよ。」

 その場を離れ得た多くの敵はすぐに回復し、森に出て来ていた彼女ら女子どもを襲った。

「この先ずっと登って行けば、敵と私達の身に起きたことが分かる。」女はティスナの方へ手をやった。

 女の話を聞いているうちにオクトゥルは胸が苦しくなり、同時に居ても立っても居られないもどかしさに四肢が疼いた。彼は目の間の僅か五、六人の男女とその辺りの藪や岩陰に慌ただしく目を走らせた。

「おれの女房は……。子ども達は……。」

白糸束(ティウラシレ)にいるわ」妹は目をそむけながら息を吐き出し、叱りつけるように囁いた。

「義姉さんは初めからそちらよ―――食べる物が無くても洞窟が崩れかけても、敵の雄叫びが聞こえても黙って耐えるだけ。」彼女はちらりと目を寄越し、オクトゥルが心ならずも漏らした安堵の溜息を見ると再び伏せた目から大きな涙をこぼした。

 そこに居た男達はなにか囁き合い、ふたりがそれぞれ離れた物陰へと分かれていった。残ったひとりがオクトゥルに言った。

御足の峰(エトル・ベール)へ逃れよというのが、トゴ・ヨーロンの言葉だったし、生きのびよというのがアー・ガラートの命令だった。イネ達を守って南へ移るにはあんたの助けも必要だ。我々と一緒に来てくれ。」

「ま、待ってくれ。」

 オクトゥルは慌てていい、唇をなめた。

「おれは女房を迎えに行かなきゃ。去年の秋にはそうする約束だったんだ。ティウラシレには他に何人残っているんだ?そこに置いておいたらすぐに飢え死にしてしまうだろう……。」

 妹は気短に傍らの男に振り返り、先に“天秤竿”まで皆と行ってくれと頼んだ。それから腰を上げるとオクトゥルについて来るように言った。

「日が高くなれば隠れる場所さえなくなってしまうわ。敵はティスナに入ってから森を丸坊主にする勢いで木を伐って、山を削り始めているんだから。もし運よく今朝の奴らの残りに出くわさなければ、鉢の縁から下を覗いてみるといいわ。私達の村と森の残骸の上に敵がうじゃうじゃといるのが見えるから。ティスナの北でツガの森を抜けてイスタナウトの森に出たら、その先は私に義姉さん達を呼びに行かせて―――兄さんは、自分が何なのか忘れているわよ。」


 クマラ・シャコの東側は南から回り込んだ切り立った岩壁の上に丈の低い針葉樹(ツガ)の森が広がっている。森の基礎を成す岩盤が割れて外縁から湖になだれ落ち、まばらな細い木々の林床を暴露している。そこからは下のティスナの様子が覗けた。

 青い水を湛えていた幼蚕の湖(クマラ・シャコ)は水位を大きく下げて濁った小さな水溜りになり、相対してせり上がった湖畔の集落の下にえぐれた湖底の環と崩壊し流れた岩の堰を現している。うち捨てられた村の上部には陣幕が張られ、伐採された森の跡に天幕が立ち並ぶ。そして、オクトゥルの立つ崖の下の方からは岩石を打ち欠く音が絶え間なく響いている。

 山の中、彼が幼い頃恐れ避けていたあの岩室の深部にも、もう敵は入り込み始めているのか。

 先を行く妹が振り返り、木の陰に隠れるように合図をした。

 白糸束(ティウラシレ)に近づくにつれて、草の乏しい地面の上に点々と倒れている死骸がある。それはチカ・ティドの山人で成る傭兵らであった。奇怪にもみな一様に足の側をティウラシレに向けてうつ伏しており、あたかもそこから逃れ出て来たところ力尽きて息絶えたようだった。オクトゥルは根が生えたように立ちつくした。

「そうよ、兄さんはそれ以上来ないで。」妹はこわばった笑いを浮かべて囁いた。

「そこに隠れていらっしゃい。動かずに待っていて―――私の他に誰が出来るっていうの」

 後の言葉を己に言い聞かせるように呟くと、彼女は唇を噛み、慎重に徐々に森の相が薄緑に移り変わっていく北東の方へと登って行った。

 妹の姿が消えてからオクトゥルは上下ともに見張れる藪の陰に腰を下ろし、ひたすらに彼自身の記憶にも経験にも無い、妹の通る道筋を思い描きながら待った。

 ティスナから白糸束までは半里くらいかな?小半時とかからぬ道筋だと言わなかったか?奴が小娘の時、苗代に播く種籾を受け取りに白糸束の参道を駆けて登って行った時、「あっという間に上に着いた」と言わなかったか?だが、女房の奴は一寸ぐずだからな。坊主は言う事を聞かない年頃だし、娘はまだひとりで歩けまい。

 いや、コタ・ミラの氾濫は湖の下だけか?いつもの参道は使えなくなっているのじゃないか?どちらにしても道の無い山も通らなければならんのだ。

 あいつらが下りて来たら娘はおれが背負ってやろう。息子は妹に任せよう。子供は親よりも一寸離れた大人が意見する方が良く聞くからな―――。

 “天秤竿”に先に行った連中に今晩までに追いつくことは出来るだろうか。そこに降りて行くには険しい崖を下る必要があるし、それまでだって子供には背の立たない段差がいくらもある。

 何とか女神の結界を抜けて来い。そうすれば今度はおれが守ってやるから。

 オクトゥルの高ぶった鋭敏な耳は小さな枝のこすれる音と砂利の軋みを聞いた。彼は妹の行った上の森に目を走らせた。が、音が聞こえたのは背後の方だった。音は人声と混じって複数に点在する。

 オクトゥルはかがんだまま身体の向きを変えて振り返った。

 “白糸束”を攻めに行き、守りの力にやられたチカ・ティドの傭兵の残党だ。精鋭の一隊がガラートを連行して北に去った後にもうろついていたのだ。

 彼らは方々で立ち止まり、思い思いに仲間の死体から装具や鉄など金目のものをはぎ取っている。間に合わせの袋に背負い込んだ金物が動くたびに音を立てる。すぐ近くの者などは自分の傷んだ革鎧を脱ぎ捨てて、骸の着ているものを剥がしにかかっている。

 オクトゥルの背筋にひやりとしたものが走り、瞬時手足が凍り付いた。上の方から高い澄んだ息子の声が彼を呼んだのだ。声はすぐに途切れ、辺りには恐ろしい沈黙が漂った。

 残党兵は獲物の匂いを嗅ぎ当てたように顔を上げていた。

「お、おーっ!」

 オクトゥルは立ち上がって雄叫びを上げ、手近のひとりにいきなり突っ込んで行った。不意を突かれた相手は容易く倒れた。上に下にと縺れる格闘の最中に鋭い女の悲鳴、そして細い祈りのような哀願の声―――。

 馬鹿。何だって出て来るんだ……。

 妻の命乞いの声を聞きながら、オクトゥルは無我夢中で短刀を抜き、上になった相手の脇の隙間から胸へと逆手に刃を突きたてた。死に至る苦悶と血肉の重みが彼を地面に押し付け、(くう)を飛ぶ声の中で彼が聞き取る妻の声は力を失い、彼の上に覆いかぶさる男の絶命の間際の大きな喘ぎの音に紛れた。

 疾走するほどの力を振り絞ってオクトゥルは骸の下からもがき出、転がって直ると、短刀を握りしめ震える両足を踏まえて立った。

 彼の上に広がるイスタナウトの森との境界の前にこちらを背に立ちふさがるふたりの男がいた。彼らの足の間に妻はぐったりとした児を抱え、朽ち葉の上に座り込んでいる。木陰でさえ隠せぬ褪せた顔色、大きく見開いた目と呆然と開いた口、その貌にはもう一片の柔軟さも無かった。男達は立ったまま振り返り彼に目をくれた。

 オクトゥルは閊えながら妻の名を呼んだ。妻は夫を見返すと大きく震えた。瞬時燃え上がるように力を得て立ち上がると、娘の骸を胸に抱き、一直線に山の下へと走りだした。ティスナの北面の崖へ―――。

「ミアス、ミアス、どうぞこの身を闇の中にお納めください!」

 捉まえ損ねた彼の腕の間をいまわの細い叫びがすり抜け、昼の陽射しが矮木の新芽に注ぐその向こうの虚空へと落ちて行った。


 森の境の藪が鳴った。大きな岩の輪郭が淡い陽光に縁どられ、寄り添う藪の若枝が頷くように遠慮がちに振れた。虫の触角のように、近づく人影を認め藪はなり止んだ。しんとした暗がりに息を潜める目が彼を見つめている。

 岩に背を預けて、妹は眠るようにこと切れていた。その手が握っていた刀子は下手人が取り落とした戦利品の中から草の上に飛び出て来た。彼は岩の前に跪いて妹を横たえると、取り返した刀子を再び握らせ胸の上に置いた。

 妹が背にしていた岩と藪との間にぽっかりと小さな闇が口を開けている。オクトゥルは跪いたままそっとにじってそちらを見た。藪陰にかがんで固まった影が動き、固く拘束したいたその両腕をぎこちなく解放した。幼い子供はその膝から立ち上がり、目を瞬かせながら茫然と父の方へと歩み出た。口の周りから顎にかけて赤く指の痕が残っている。オクトゥルは両手を伸ばして息子を引き寄せ、生乾きの外衣の中に抱きしめた。

「ルメイ―――」

 息子を彼のもとに返した闇に向かって差し出した手に、返って来たのは、しゅっ、という激しい威嚇の息だった。オクトゥルは唇を湿し、まるで耄碌した老人のようにぎこちなく言った。

「ここにもう仲間はいない。皆、南へ、エトル・ベールを越えていこうとしている。おれは“天秤竿”に一旦寄る。ここを尾根に沿って南へ下った、崖の下の大きな岩棚だよ。あんたも―――」

 小石がひとつ、彼の膝元に飛んだ。

 オクトゥルは息子を抱いてその場を離れた。こらえた嗚咽が彼の背後から漏れ、離れるにしたがってむせびしゃくりあげる声に変わった。彼の周りを、梢を移る影が短い羽音を下へ下へと近づけて来る。烏が集まってきているのだ。

 オクトゥルは針葉樹(ツガ)の森のなだらかな斜面で息子を下ろし、尻を叩いて走らせた。息子の影のようにぴたりと後ろにつけて駆けおりながら、彼は烏の呼び交わす声を聞いた。


 イナ・サラミアスの三つの嶺の里を押さえたアガムンの軍はそれぞれの地に駐留する兵を置き、残りはアガムンと数名の指揮官に率いられて舟でコタ・シアナを上り、北のアタワンへと移って行った。アツセワナから抜け出し、シギル王への敵対を天下に表した総大将、トゥルカンを出迎えんためである。オルト谷の口からは総勢二百あまりの兵が次々と河面に連なる舟に運ばれて行き、それは日暮れまで続いた。

 夜半を過ぎた頃、一隻の舟がオルト谷の舟着き場に近づいた。大将を送り出した岸辺は見張りの影も少なく、水辺の篝火の前を一瞬横切った影に気付いた者はいなかった。

 桟橋から這い上がった男は、イーマが作った新しい道を村の方へと登って行こうとして、その途上の見張り台の上に築かれた砦を前に途方に暮れたように足を止めた。歩哨の目から身を隠すことさえ忘れていた。が、歩哨よりも先に彼に気付いた者がいた。砦の楼の梯子段の下にうずくまる、ひとりの老いた男が先から顔をあげ、彼の背格好をしげしげと眺めていたのだった。

 男は外衣の片端をぱたぱたと地面に打ち付けて、立ちよどんでいる者の注意を引き、苦労をしながらしわがれた声で囁いた。

「坊主―――オクトゥルじゃないか」

 呼ばれた男はぎょっとしたように振り返り、たちまち駆け寄ってうずくまる人影の傍らに跪いた。

「叔父上」

 ヨーロンは手真似で静かにするように合図し、外衣の足元をまくってみせた。裸足の足首を捉える枷に太い鎖が通り、梯子段の裏の太い柱に繋がっていた。

「奴らこれを作るのに半日とかからんのだ。」老人は苦しげに笑った。唇も舌もすっかり乾いている。

 オクトゥルは腰の水筒を老人の唇にあてがい水を飲ませ、手拭で顔を拭った。それから他にも食べ物を出そうと隠しを探った。

「要らん」老人は首を振った。「奴ら、おれを飢え死にさせるつもりなんだ。おれもそのつもりだ。だが水をありがとうよ、おかげでお前と少し話が出来る。」

 ヨーロンは辺りを見回して歩哨がいないことを確かめた。

「先ずこれを受け取ってくれ、中は見るな―――今はな。」

 かがめた胸の内に抱いていた固く縛った包みを両手で渡し、手を副えて外衣の内に大事に隠すようにと急かした。

「今、それの事を話す」

 口を切ってからヨーロンは少し喘いで額を拭い、囁いた。

「聞いたらお前はすぐにここを離れろ―――その時には、お前にはもう郷里(くに)も名もない。」

 老人は長く息を吐き、コタ・シアナの上に広がる闇を眺めながら話し始めた。


 お前に北の渓谷の敵の巣窟を見せてからもう二年になるな。お前もご苦労なことだ、わけても性の合わぬふたりの長の間を取り持ち、アツセワナに遣いに行くのはさぞ骨が折れただろう。

 ()()()はアツセワナ相手に態度を変え、赤子ほどの脅威も無い我らイーマに対し(くに)の面目を安堵してくれた王の庇護を失くしたんだ。初めは絹の質を上げる故、取引の相場を守ってくれとシギルに頼み、後ではトゥルカンに鉱山を()()に国をつくる手助けを頼ったんだからな。昨秋からお前はどうしていた?長いこと見なかったな!だが、おれにはもう、おれの最後の話をする時間しかない。

 トゥルカンから送り込まれた援軍を得て、アガムンは三つの山に総攻撃をかけた。その時からおれはずっとこの砦の下に潜んでいた。そしてほんの四日前だ。アガムンの陣にいたあのサザールがガラートの居場所が分かった、と言ったのは。

 おれはずっと敵陣のどこかに閉じ込められているに違いないヤールを探していた。が、ガラートを捕らえたという報せが入ると、アガムン自身が陣屋にもうひとりの長アー・ヤールを連れて来いと命じた。

 おれが若いのから聞いた話によると、ヤールは村が占領されるずっと前からガラートに疑いをかけ、それを気に病んで酒に溺れていたらしい、だが、連れて来られた時の様子を見ると素面(しらふ)に見えた。

 お前も知る通り、我々イーマの間でもアガムンは父トゥルカンほどではない、不肖の息子ということになっている。ヤールはまた胸の内がそのまま面に出る奴だ。アツセワナの者からは野人と蔑まれる口惜しさが選ばれしイーマの誇りと成り代わるのもまたヤールらしい性だ。

 ヤールはトゥルカンの使()()という名目でずっと奴を見張っていたサザール子飼いの部下に案内されてアガムンの陣にやって来ると、さも当然のように、父君と我らが盟友の三家の方々にはいつ目通り願えるのか、と尋ねた。

 アガムンが初めからヤールを、いや、それどころかイーマを嫌っているのは明らかだった。アガムンは捕虜だと思っている男から傲慢な顔つきをされ、何も聞こえぬように返事をしなかったが、目を細めてヤールを眺める顔つきにはだんだんと質の悪い獣じみた相があらわれた。

 アガムンはヤールを連れて来た男の方に向き、この男と分け合う利益なり損失なり、何かあったら言え、と横柄に言った。使()()はヤール以外の誰もが知っている事を取り澄まして言った。

「鉱脈は未だ見つからず、件の“聖地”とやらに遣わしたチカ・ティドの山人及び傭兵どもの隊にはかの地の呪いによって著しい損失を被りましてございます。」

「ならばこ奴には借財の分け前をやるくらいのものだな。」

 アガムンが言い、その場にいた者―――おそらくトゥルカンとつるんでイナ・サラミアスを占領しようという三家のゆかりの将たちだろう―――は面白くもなさそうに笑った。

 アガムンは入って来た衛兵に何かこそこそと耳打ちをすると初めてヤールに顔を向けた。

「アー・ヤールとやら、その方に会わせる者がいるぞ。アー・ガラート、シギルと通じ、鉱脈の在りかををその耳に漏らしているそうだな。そ奴に口を利いてもらおう。おれと一緒に表へ出ろ。」

 ヤールは既に顔色を失っていた。あいつが信じようとしていたことが、自分でもわかっていたのに頑固に認めようとしなかった嘘が張本人の敵によって暴かれたんだ。

 ヤールは嫌がっているみたいに後ずさりかけた。だが、アガムンもそこに居た者達もみな砦の外へと出て行く。

 おれも床下から谷伝いに砦の前に行こうとした。いくらも行かないうちに砦の楼の階から下りて来たヤールがあっと声をあげるのが聞こえた。

「何と、何という非礼。長であったものを縄にかけるとは……。」

「裏切り者ではないのか」アガムンはせせら笑った。

 おれにはただそこに居る者の声しか聞こえない。何故って、いつの間にか砦に詰めていたほとんど全軍が砦の前から舟着場にかけての道筋をびっしりと並んで埋め尽くしていたからだ。彼らは舟でどこかに移動するための準備を整えていたんだ。おれはそこの―――ちょうど今おれが繋がれている柱の下に穴がみえるだろう、下を通っている小川の土手の端だよ―――穴から這い出して来た。誰も気づきやしない、そこで出立の命令を待っている兵どももイーマの虜を見物してやろうとそちらを見ているんだから。おれは汚かったが奴らも同じようなもんだ。おれは奴らの後ろから透かし見たりしゃがんだりしてガラートを見ようとした。

 見えたのはサザールだ。奴は程よい石の上に腰掛けて見物していた。他におれに見えたものはアガムンの足くらいのものだ。

 イーマの長ふたりを捕らえたというものの、アガムンは陣屋の中で見せた様子よりは内心焦っていたのかもしれん。これから総大将たる父を出迎えに行くという時になってさしたる戦果をあげていないことが気になったのかもしれん。ひと通りの尋問は終えていたのだろうが、たぶんガラートがあまりにも落ち着いていたので、恐ろしい父親に対面する前にもうひと搾り手をかけようとでも思ったか。とにかく、アガムンはガラートに尋ねた。鉱脈はどこだ?シギルにその在りかを話したか?

 ガラートは簡単に、自分は知らぬし誰にも言わぬ、と答えた。

 ヤールの奴、ぶつぶつと独り言を言っていた。そうだ、彼は知らぬ、シギルに言う訳もない、べレ・イナに触れるはずもないのだ……。

「イサピアとかいう宝玉はどこだ?不思議な力によって鉱脈の在りかを教えるとかいう―――」

 ガラートは微笑みでもしたんだろうか?

「可笑しいか?」アガムンがかっとして怒鳴ったが、おれに見えるところからじゃサザールはもっとほくそえんでいた。その訳知り顔を言葉にすれば、イサピアはそんな類のものではないというのに馬鹿な事を尋ねるものだ、というような。

「イサピアは」ガラートはあの、真面目に答えながら上の空といった声で言った。「人の手に負えるものではない。べレ・イナが始原から終わりまでそうであるように。」

 サザールにも気にいらない返事だったか。奴はたちまち剣呑な顔になり、アガムンを見やった素振りがそのまま次への合図になった。

「舟に長をお連れしろ。」

 アガムンは嫌な声で言った。ばらばらと足音がして輪の内のガラートと、そしてヤールを取り囲んだ。

「無礼者。おれに触れるな。」ヤールが叫んだ。「アー・ガラートの縄を切れ。」

「目を覚ましなされ。あなたはずっと前から我々の捕虜なのですぞ。」

 ヤールを連れて来た男、サザールの部下の男が囁いた。ヤールは連行されることを拒み、叫び暴れた。

「縄目を切れと言っているぞ。切ってやれ」

 アガムンは前に出て何かを引き寄せた。白に朽葉と金の錦の紐。悪党どもめ、ガラートの鉢巻きでその手首を縛っていたんだ。

 奴らは命令を待ち構えていた。

 おれはガラートがあんな声をあげるのを聞いたことが無い。いつでも辛抱強い子だったからな。だが、ヤールの声の方がずっと大きかった。やめろ、悪霊め……後は言葉にも何にもならん。奴の狭い心臓は自分自身が負わせた罪の大きさに耐えきれなかった―――身より先に心が壊れてしまったんだ。だが肺臓に溢れた息もすぐに魂を追って(くう)に飛んで行ってしまった。アガムンはヤールをその場で刺し殺し、死体を村にさらしておけと言った。

「痛いか。怖いか。アー・ガラート、男のくせに涙を流すのか。血を流してもまだ流れるものが残っていたか」

「―――悪しき感情も、共に流れ去り、土に返るなら返るがいい」ガラートは囁くように微かな声で言った。

 おれはもう我慢ならなかった。それでおれの合図でもあり正義と裁きを意味する言葉でもある声を叫んで飛び出したんだ。

 奴らは一寸びっくりしただけだった。おれがガラートの前に駆け寄り、その切り落とされた両手をひろいあげるかどうかというときにはもうおれを捕まえて引き据えていた。

「驚いたものだ。次から次へと獲物が飛び込むとは。」アガムンは有頂天になって叫んだ。

 奴は、捕虜としての価値はだいぶん落ちると踏んだらしい、おれをここに繋ぎとめて水も食い物もやらずにおけ、と命令した。そして虜を舟に乗せろ、アタワンに向かう、と全軍に号令した。

 おれが両手につかんだままのものを離さなかったので、足枷と鎖が出来るまでの間、奴らはおれを両腕の上からがんじがらめに縛り上げた。おれは地面に転がったまま、ガラートが連れて行かれるのを見ていた。その間じゅう、ずっと馬鹿みたいに鳴き続けていた。

 アク、アク―――アク、アク、と。

 行列はぐるりと輪を描いて砦の前から桟橋へと続く道を下りて行く。アガムンの後ろにガラートが行く。兵どもが両脇を抱えているんだ。

 アク、アク―――。

 砦の上の山から木霊のように応える声がする。ひう、と何かが唸ってアガムンの首の後ろをかすめ、つづらに折れる道の下の山腹に飛んだ。ガラート以外の誰も気付かなかった。這いつくばっているおれにはガラートが振り返った先が見えない。だが、二度目、もっと低い位置から射られた時は矢はアガムンの横の立ち木の幹に刺さった。行列が止まり、護衛兵たちが一斉に砦の端めがけて矢を射かけた。

 アク―――。

 鳴き声は途中で詰まって止んだ。アガムンはそちらを見上げ、憎々しく言った。

「やい、今度おれを邪魔したら此奴を斬る。次に縄をかけるところを見ておけ」

 アガムンは血まみれの鉢巻きをガラートの首に輪にして掛けた。

 おれにはアガムンの見た者が、ガラートの見た者がどんな様子だったか、見えなかった。が、そいつと彼らの間に凍り付いたみたいに時間が止まったのがわかった。

 アガムンが、結局時の流れを握った。奴は単に人質を盾に舟着場まで下って行き、舟に乗り込んで親父の待つアタワンへと出発したんだ。いちばん訳の分からん奴が時を動かす。いつでもこんなものだ。


 ヨーロンは何度も唇をなめながら声を搾ったが、話し終えると目と口を閉じた。オクトゥルは老人の口を湿してやることもすっかり忘れて茫然と呟いた。

「ハルイーは……。」

 ヨーロンの閉じた瞼と口が震えた。

「可哀相に、よ。」

 そして老人は薄く片目を開けて甥を叱りつけるように囁いた。

「お前が行け。ガラートに返してやれ。もう駄目だろう―――ああ。」

 楼の上を灯りが移動してくる。歩哨がこちらの方に歩いてくるのだ。オクトゥルは水筒の中の水を老人の口元に注いだが、老人は口を開かなかった。

 歩哨が、襤褸に包まれた瘦せこけた身体が階の下に横たわるのを覗いて確かめた時、老人の繋がれた柱の後ろに開いた闇の穴にひとつの影が滑り込んだ。それは砦の床下の溝を、貫の下を這うようにくぐり抜けて小さな渓谷に出、やがて合わさる大小の谷の中心を選ってコタ・ソガマの川口まで下っていった。


 オクトゥルがヨーロンに託された使命を果たすには、北のアタワンに行く必要があった。だが、彼を待っていたサコティーはすぐに彼を舟に乗せ、コタ・シアナを下った。南のエトル・ベールの山中にはオクトゥルが息子を預けた仲間達がいたし、サコティーにもクシガヤの仲間の元に帰らねばならない事情があった。コタ・ミラの氾濫によって村を失くした水郷(クシガヤ)の民には、コタ・シアナ沿岸を南下してくる戦禍を逃れるために舟と屈強な漕ぎ手、戦士を必要としたのだ。

 シギル王の追及をかわしてアツセワナを抜け出したトゥルカンは、オトワナコスとコセーナとの境界の森を秘かに抜け、シアナの森の北東のはずれアタワンの丘に入った。そこで息子アガムンの軍と合流し、イナ・サラミアス侵攻と第一家(カヤ・ミオ)王家への叛心を声明した。

 同じこの日、シギル王はトゥルカン討伐の兵を挙げ、アツセワナを発った。

 エファレイナズでは時まさに田に青苗が植わり、農民の新しい年期が始まろうという時節だった。王に忠誠を誓った諸国の主は、屋敷の執務室で、あるいは領国の美田で王の召集の報せを受け、初夏の装いを具足に換えて戦いに赴かんとした。

 以後長年に渡って続くエファレイナズの内乱はこの日に始まった。

 しかし、イーマ達にとっての故国存亡の戦いは既に終わっていた。生まれ故郷であり信仰の拠りどころであった|べレ・イナを失っただけではない。長アー・ガラートの死によって、イーマの矜持、生き方、名もまた失われたのだ。


「どうしたね、雀っ子。黙りこくって―――ちゅんとも言わんじゃないかね。」

 痩せた鼻梁に掛かる半白の髪の陰で細めた目が瞬いている。その口許の半分は峻厳に結ばれ、半分は笑みを含んでいる。

「うん―――。」

 アニは目を焼くほど眩しいものを見たように瞼を伏せた。相手は片肘を卓に預け、待つように、それとも石になったように姿勢を変えずに掛けている。アニはためらいながら囁いた。

「私、たくさんの事を、色んなふうに思ったわ。だけど、結局、私には何も言う資格が無いと思うのよ……。」

「そうかい!」

 ヤモックはいつもの通りの飄々とした柔らかい声音で合いの手をいれた。

 暖炉の前でしきりに寝返りを打っていたキブはこんもりと毛布にくるまり、嵩の大きな山になったカシュルに並んで影の山並みをなしている。死んだように深い眠りに落ちている。

 アニはぴくりと口をへの字にした。

「だって何を感じたとしても、本当に痛いのは私じゃないわ。それに―――。もっと怪しからんふうにも考えるわけよ……。」

「ああ、」ヤモックは額から髪を掻きあげ、そのまま顎を拳に預けた。

「色んなふうにな。それは大事なことじゃないかね?おれだって時にはふっと考えるのさ。オクトゥルの奴、頭勘定では()()()に持ち込んだじゃないかってな。女房、娘、妹。で、奴さんは相手を三人やったんだからな!」

 アニは膝の上に置いた拳の中でスカートを握りしめ、首を振った。

「それは本人よりも他人の方が考えそうなことだけど、誰が彼に言えるかしら?百歩譲っても()自身しか彼に言えないことよ、そうじゃない?そして、変わり種がひとつ出る前に何百と同じ芽が生えるように、よ、違う考えが彼が彼の中に芽生え、その中でも慰めになるものが出て来るまでに、どれほど苦しく思い出すのかしら!」

 後の方は声に出さずに口の中に消えた。

「そりゃ、お前さんに考えて貰ったって、彼の救いにはならんだろうよ。」

 ヤモックはちょっと冷たく言った。

「お前さんが聞いて損しただけだな。」

「いいえ。」

 やがてアニは顔を上げると生真面目にヤモックを見返した。

「でも、何も言えないわ。―――どんな言葉を言えばいいかわからないの。ちゃんとお礼をする私でもね……オクトゥル。」

 ヤモックは急に立ち上がり、一緒に立ちあがったアニを追い払うように手を振り、眠っているふたりの横をよろめきながらすり抜けて窓の方へ行こうとした。

「生意気な雀っ子め。お前さんにわかってたまるか。金輪際、金輪際!」

 ぶつぶつ呟きながら窓を少し外へ張り出し、昼の光を細く屋内に入れた。雨は止み、弱い光が冷たい重い空気と共に入り込んでくる。ヤモックは背を屈めて外を覗いた。彼の息子はサマタフと見張りを代わって外に出ている。

()()()が外にいるのを、おれは内心ありがたいと思っている。ふたり顔を突き合わせていればいつかお互いに言うかもしれんからな―――相手が一番よくわかっていて、言われたくない事をな。」

「私だってもよ。」アニは呟いた。「母さんと一緒にいたらいつか憎むようになっていたわ。」

 外の柵の辺りで男達の話し合う声が聞こえてきた。見張りから戻って来たタッケマとサコティーだ。

「さっきの名は―――この場限り。内緒だぞ。」ヤモックは窓を下ろし、声を低めて言った。

 声高なタッケマに短く応えるサコティーの声は戸口の外にまで近づき、やがてあまり気遣いのない勢いで戸が開いた。

 アニは頷き、胸に手をおいた。

「持っていくわ、ここに、皆一緒に。」



  


 

 







 


 


   

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