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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第六章 風の語り 『蝕』5  

 芽吹きの森を辿りコセーナを訪れた王の一行は、王女の婚礼の明けたその朝、花婿の新居に花嫁とその随行の者を残し、刻々と冬のまどろみから醒めてうごめきはじめる大地に乗馬の蹄を轟かせてアツセワナへと戻って行った。

 迅速にして密やかな婚礼を執り行った王の帰還は城市の市民の戸惑いと諸公の冷ややかな問い合わせで迎えられた。王は帰途の道なか腹中に企てておいたとおり、城門に着いたその瞬間に議会の面々の招集を行った。既に集まっていた人々に自身の供をしていたトゥサ・ユルゴナスの代表を加え、王は旅装もそのままに王宮の広間に一同を引き連れて入り、王女の婚儀の終了を告げ、自らの王位を新女王へ引き継ぐ日取りをひと月後にすると明言した。その場に領主の居合わせなかったニクマラとコセーナを除くコタ・レイナのふたつの郷には遣いを出した。

 その晩王は、宮中を手際よく取り仕切っていた王女の不在ゆえかどことなく殺風景な住居に戻り、枕に疲れた頭を載せ眠りに入るか否かのうちに城内の騒ぎの報に起こされた。城郭の三つの層のかしこで引きも切らずに喧嘩と破壊行為が持ち上がっているということだった。衛兵隊の出動を命じたものの隊長の応答は届かず、王は自ら指揮を執り兵を繰り出した。

 内郭を馬に乗り見回っていた王は、衛兵の一隊を見て逃げだした者たちの後を追って中央通りの北の円形広場の近くまで進んで行った。兵の多くを中郭外郭へ差し向け、王の周囲には数名が従うのみであった。悪党らが逃げ込んで行った小路にさしかかると、突然向こうに主の知れぬ騎馬の群れが立ちはだかった。鉄壁のごとく列をなして静止している彼らを守護にたのみ、逃げた狼藉者が奥から大声で王女に対する侮辱の言葉を叫んだ。その声は家々の壁に鳴り響いた。王は馬を止めた。下の郭からその讒言に唱和する複数の声が響き、静まった。王と騎馬の男達は暫し睨み合ったが、やがて騎馬軍団の頭領が合図をし、群れは闇の中に引き上げて行った。王は深追いはせずに、ただ同じ軍団が再び消えた通りから中央通りの方へ出現するか否かを見張るようにと小隊長に命じて引き返した。

 都の住民の動揺を来したこの騒ぎはしかし、その晩を限りに収まった。一晩まんじりともせずに城内の物音に耳をそばだてていた王は、翌日には乱暴者の追跡をやめて通常の警備に戻るようにと命令を下した。

 一方、ハーモナに滞在する王女のもとには、婚礼の日から十日ばかり経った頃に父王からの書状が届けられた。イネ・ドルナイルの赤い河(コタ・サカ)にある王の直轄の製鉄所が黒い河(コタ・バール)の者達に襲われたとの報があり、トゥルドが鎮圧に向かったとのことであった。

 新政に臨んで領土の草の根に潜む様々な困難の予想に戦きつつ、王女は取るもとりあえず帰り支度にとりかかった。しかし追って次の使者が到着し、出迎えた王女の前で口頭で王の伝言を述べた。

 トゥルドの援護のため兵力を差し向けイネ・ドルナイルに向かわせたが、後にトゥルドが使者を通じて間違いだったと報せに来た。心配は無用であるからハーモナに留まるが良い。穀雨が明け夏の兆す頃に戴冠式を行う故、それまでに都に戻れ。

 コセーナを預かるダミルは、アツセワナを長く不在にしていることと父王のことを案じている王女の様子を見て自分がアツセワナに赴こうと申し出たが、折しも領主を失って初めての春を迎えた領内では水路の整備や田畑の播きつけの指導に身を取られ、領土の外のことに目を向ける暇は無かった。また、オトワナコスからは双方の郷の境界の確認を問いあわせ、監視取締りを強化するようにと勧告する使者が再三訪れていた。ダミルは最後にはやや不機嫌に、水害からの回復に勤しむ我が郷に貴国の領域に彷徨い出る者などおらぬ、と使者を帰した。

 王女は夫の領地ハーモナの館に滞在を続けた。彼女がそのささやかな領土の耕地を訪れることは稀であったが、夕刻の見回りに同伴し、作人のいるところでは離れて夫の指導のさまを見守り、後でものを尋ねたりそっと助言をすることもあった。王女は日々景色を染めゆく新緑の色に癒しを見出し、近づくその日への心中の不安をなだめた。

 苗代に播いた種が芽を伸ばし五寸あまりの緑の濃い草に育った。春先に仔の増えた羊舎の囲いには柵の外に青草を嗅ぐ母羊の傍らに仔羊らが牧場に放される日を待っていた。ハーモナを含め、コセーナも、彼女の知るエファレイナズのどこも新たな時期を迎えようとしていた。

 彼女の夫はすっかり板に着いた物柔らかだが毅然とした物腰で作人達に指示を与え、自らも身軽に作業に加わっていたが、その日は要の手順を確かめた他は口数少なく、妻に付いて来させるままに所領の周りをそぞろ歩いた。王女は数日来、自らが先延ばしにしている決心に気を取られていたが、夫もまたいつもと違い、領土へ注ぐ細やかな愛着の表情が影を潜め、心がどこか遠くを探り、眼差しを凝らしている様子なのに気付いた。

「何を気に掛けていらっしゃるの?」

 前年夏コタ・レイナの洪水に破壊された堤を積んで直し、新しい田に水を引いたその汀の小高い丘の裾に立ち、王女は水面に移りゆく空の写しを眺めている夫の肘にそっと手をのばしそのままただむきを滑り下りて合わせた掌の先で指をからめた。作人達はとうに他の田に移り、土を均した時に水の下に掻きあがった濁りも鎮まって、その澄んだ一枚の鏡の端の隅々までもふたりが気兼ねをする人影ひとつ無かったが、彼女の夫は僅かに妻の方へ首を傾けることすらなく、微かに握り返したその手の内が同等に温まってくる他には妻に応える素振りを見せなかった。ふたりはそのままシアナの森を越えて来る風に吹かれた。

 しばらくして彼女の夫は突然口を開いた。

「日と風の報せから時節が変われば私達イーマは心の命ずるままに仕事を移った。峰から峰へ、見回り、狩、枝打ち―――今風は時節の変わりを告げているが、心に耳を傾けるまでもない、私の立場、私の務めは決まっている。変わることはない。私が留まり守る場所は此処だ。」

 王女は婚姻により夫を地に留めおけることを喜び、女王ゆえ同じ地に根付くことの出来ないことを悲しんだ。夫が真に問いに応えたのかという疑いにさえ気付かなかった。

「―――そして君はもう行かなければならない。」

 未練ではなく断固とした勧告としてその言葉は告げられた。

「ええ」

 当然の流れの了承として王女は短く答え、双方の枝が絡むように携えていた手をそっと放した。

 ラシースは初めて振り向くと、肌身離さず胸に掛けていた碧玉の護符を外し、王女の首に掛けた。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

 厳しい冬に見舞われた姉神(べレ・イナ)の懐ニアキは、毎晩のように襲ってきた吹雪がようやく吹き収まったその日、澄んだ早春の光のもとに白く凍てついた大地を見せた。雪の衣が日々温まる風に薄れるまでニアキが眠りの中に留め置かれることはなかった。家々を塞いでいた雪は脆く弾かれながら出口を開けわたし、出て来た五人の男達は申し合わせたように北の渓谷を指して行った。雪に記された足跡は一日中昼間の空の下に残り、夕刻に彼らはそのまま戻って来た。家々に引き上げる前に五人のタフマイの男達はちょっと短い相談を交わしたが、彼らは話のあいあいにそちらを見やっていた村の北はずれの林の傍の小屋には向かわずにそれぞれに引き取った。

 翌日、同じように澄んだ空に日が昇ると村の者はみな外へ出て来た。雪と氷に籠められて延期にせざるを得なかった葬儀を執り行うためだ。北のはずれからもうひとりが加わり、焚き木と粗朶を積んで弔いの火が焚かれた。

 三つもの立ち昇る煙のもとに項垂れ、タフマイの五人の男達が死者の魂をナスティアツに送るための詠唱を閊え閊え、交互に唱えた。乏しい粗朶の中を渋りながら昇って来た火は冷たい亡骸の抵抗に遭ってくすぶった。再度、焚き木が追加され歌唱(ヨーレ)がたどたどしく繰り返された。

 こうしてニアキは雪の衣を幾筋もの煙のもとに滲む汗に変え、冬の間に息を引き取った者たちを葬送の焚火の中に抱き取った。

 彼らと共に葬儀の準備を整えたハルイーは、長年それが習いとなったように、一同からは離れていたが、交代で火の番を務める彼らを、ただ霊送りのヨーレを共に唱えることのみ除き、なにくれとなく手伝ったが、その折々にはひとり仁王立ちになってベレ・サオの方を眺めていた。

 日が翳り、葬送の火も遺灰の小さな固まりを残して終に収まると、タフマイの男達はまだ熱い灰を集め、村の背後の山腹の森の中に灰を撒きに行った。男達が戻って来るとハルイーはもういなかった。ハンノと呼ばれる男が村から北へ遠く離れた小屋までハルイーを訪ねて行った。

「ハルイー、あんたに頼みがある。明日の朝、おれ達と一緒に北の渓谷へ来てくれ。」

 ハルイーは訳を問わずに承知した。翌朝、空の白む頃ハルイーは外衣の下に毛皮の具足に身を包み、かんじきを付けて小屋を出た。同じ装備に弓矢を帯びたハンノが林の処まで迎えに来ていた。裸の梢を透かして明るく開けた空の下の雪深い森には、既に四つの影が、静まった木々の間に蠢いていた。影はそれぞれにちょっと振り返る仕草をしたが特に待つ様子もなく、むしろ安心したかのようにたゆまぬ調子でどんどん北へと向かった。森を横切る開けた帯は凍った沢を覆い隠す雪の仮の橋だ。ニアキの上から来る水脈を渡り、姉神(べレ・イナ)の広い胸を一行は黙々と進んだ。

 ベレ・サオの裾の山脈と中の嶺の広い胸部との境の大峡谷へと近づくにつれ、風にさらされる山腹から雪は減り、相反して傾斜は厳しくなる。姉神(べレ・イナ)の喉元鷲谷(シグハマ)の上辺から連なる針葉樹林帯が朝の遅い山陰を一時更に暗く冷たくした。この先、針葉樹林を横切ると森はふたたび広葉樹を中心とした明るいなだらかな地面になるが、イーマの男達にはよく知られた地中深く亀裂の潜んだ危険な地帯に差し掛かってくる。

 すっかり一同に追いついていたハルイーとハンノは、他の四人と見交わして、森を貫いて流れるひとつの小さな沢を目安に下りて行った。その沢はやがて下の森の中で亀裂の中に吸い込まれていく。男達は腰に巻いた縄を携えていた。

「ハルイー、あんたはとうに気付いているだろうが、おれ達はこの二年もの間ずっと渓谷を見張って来た。」

 カマタドという男が口を切った。オクトゥルの父オロークと並んでオコロイの右腕だったこの男は、ハルイーよりもさらに年かさだったが、小柄で非常に敏捷であった。タフマイの男としてはオド・タ・コタへ渡って商売するよりも山の中を好み、猟師たちの中でも獲物の追跡にかけてはいまだに一目置かれている。

「コーアー達の弔いをしながらおれ達は相談をしたんだ。おれ達はどうやら南の村の連中からは見限られた。それでも北の守りを務めてやったものかどうか、とな。」

「このところ北にも南にも足が途絶えていたのは雪のせいだ。」オクトゥルの叔父のヨーロンが口を添えた。

「と言って春が兆して歩けるようになれば、やはり異変を放ってはおけん。それがヤール達の知りたいことなのかどうかは分からぬし逆にヤールがおれ達に隠したかったことなのかもしれん。」

「ガラートがいてくれたら、おれ達は今日ガラートに報告しただろう。新しい村で何を決めたか知らんが、おれ達には今もガラートはヒルメイの長だからな。」カマタドがきっぱりと言い、その傍らで大柄で無口なイヴェンが頷いた。

「だが、ガラートは冬になる前に発ち、ニアキには戻って来ていない。」

「彼は最後にあんたに会っていった。もしや彼から何かこの先の心積もりを聞いていないか。」

 ヨーロンが性急に尋ねるのを目顔で止め、ハルイーは言った。

「あんた達が見たものをおれも見ることにしよう。」


 タフマイの男達が示したのは小さな沢が消える件の亀裂に連なって渓谷の方に向かって点在する三つの穴のうち最も大きなものだった。ハンノが先導し、ハルイーはその後に続いて綱を伝って亀裂の中に下りていった。

 上から流れ込む雨水と川からの水の浸食によって山の中に穿たれた天然の洞窟は下の方に下りるに従って思いがけず大きく広がり、身体は壁の無い中空にさらされた。上に開いた三つの天窓と川岸側の一間強の間口から射しこむ光によってうっすらと穹窿状の地中の広がりが見て取れた。

「壁を掘り抜いて、しまいには天井を落としたな」ハルイーは呟いた。

 闇の底に下りたハンノの足元に水音は無かった。乾いた音の反響が柔らかに着地を伝えた。

 ハンノは何ひとつ余計な口を挟まなかった。続いて下りて来たハルイーのために脇にのくと、そのまま岩壁の片隅に身を寄せ、ハルイーが中を存分に検分するまでじっと動かなかった。

 底には平らに固められたしっかりとした足場が設けられ、隅に水を排する細い溝が通り、川から侵入して洞窟の中にたっぷり溜まっている水へと下っている。その下にためた水は船渠の役目を果しており、川に開いた入り口から入る舟なら六、七隻は侵入して来られるだろう。

「ここには昔、下りた事がある。」ハルイーは物柔らかに言った。「その時はこんなに広くはなかった。ここは()()()の顎で、落ちた者は容赦も斟酌もなく岩に噛まれた。三年前にも“黄金果”に紛れ込んだお道化者が落ちたらしいな。だが、ガラートの話では洞窟の中の様子に大きな違いは無かった。」

 ハルイーは嘴を当てて岩石を打ち欠いた壁の状態や松明の煤に素早く目を留め、平らな足場や壁に穿たれた天窓の下の足掛かりにはむしろ興味深げに覗き込んだ。

「いつからだ?」

「二年前の秋には舟が表の河から出入りしていた。オクトゥルはイネ・ドルナイルを行き来する舟だと言っていた。」

 上から覗くタフマイの男達の影が光をちらちらと遮る。訝しむように交わされる声と尋ねるかのような沈黙が交互した。朝の光に包まれた地上にいる彼らには穴に下りたふたりの姿は見えない。ハルイーは上を見て声を張った。

「今、そちらへ戻る。」  

 上がって来たハルイーを一同は亀裂から少し離れて待ち構えていた。

「舟着き場だな」

 ヨーロンは頷いた。

「どう思う?奴らはここから侵入してくると思うか」

 ハルイーは首を振った。

「表に喰い跡を見たら葉の裏を見ろ―――考えるのはその後だ」

「葉の裏とは?」

 カマタドが鋭く問い返した。ハルイーは真っ直ぐ手を上げ、源流の渓谷の向こうに横たわる“御髪の峰”を指した。

「どこの者であれ、我々の目を避けてイナ・サラミアスに取りつこうというなら、向こうの山はまことに都合が良い。イーマであそこに住む者はおらず、シギルは競技を行うために二度も道をつけたのだ。アタワンからも近い。」

「向こうに渡ればここに戻って来るまでに夜になるな。」イヴェンが呟いた。

 一同は森を東に進み、ベレ・サオと中の嶺とをつなぐ鞍部、姉神(べレ・イナ)のうなじの下に広がる“鷲谷”へと下った。

 “鷲谷”は雪に覆われ、かんじきを履いた足には雪の下の藪や凍り付いた沢は一枚のなだらかな敷物も同然だったが、ベレ・サオの頬の下のハイマツ帯からむき出しの岩場に移ると吹き付けられた氷雪はきらきらと輝く危険な刃の面になった。昼に融け夜に再び凍った雪が面に張り付いた僅かな草木を氷に閉じ込めていた。先頭に立ったカマタドが岩壁に楔を打って後に続く者のために綱を渡し、しんがりについたハルイーが綱を巻き取った。

 べレ・イナの瞼から太古の涙の道筋が幾段もの岩棚を縦に穿ち、遠目には見えぬ亀裂の筋目を広い岩石の山腹にいくつも刻み付けていた。そこを糸を辿る蜘蛛のように渡った果てに、いくつかの深い渓流が合わさり、全幅三尋もの陥穽となって口を開けているところに出る。サラミアの乙女が黄金果を投げた源流の滝口である。

 一同は涸れた滝の西側に移った。競技を催したアツセワナの男達が岩場に道を刻んだところを西に回って下りて行くと、山裾を深く切り分けた“御髪の峰”の基に当たるところで荒削りの道は大渓谷に沿って長く横たわる尾根を辿り、黒々とした針葉樹の森へと消えている。やがて上部の森から水に削られた岩肌が剥き出し被覆する草木に乏しい下部へと出、尾根裾から北側の涸れた河原を渡ってアタワンの丘へと通じていくはずだ。

 一方、山脈の裏側を探るにはアツセワナの者によって穿たれた道を通らず、山脈の分かれ目を、両脇に針葉樹の生い茂る深く暗い谷間に下りて行く必要がある。

 皆は言葉少なだった。イーマの男達の季節ごとの通い道にベレ・サオの髪の根を分け入る道は無かった。しかし、タフマイの男達はハルイーがイナ・サラミアスのあらゆる場を歩きうると心得ていたし、彼ら各々はかつてオコロイの密命を帯びて“御髪の峰”に潜んだことがあったのだった。

「さて、葉の裏に小虫どもがいるかだ。我々はニアキの同胞の誰にも言わぬが、この尾根の谷間のおおよその様子は知っている。」

 ハルイーが先に口を切った。皆は無言で耳を傾けることでその事を認めた。

「べレ・イナの髪の畝をなす峰の谷間にはそれぞれに浅い水辺と砂利の原、ほどほどの広さの草原がある。野営の天幕があれば、アツセワナの者でも数日は凌げる。また、風を防ぐ強固な隠れ家を求めようと思えば、背後の岩壁は切り立っているがさほど硬くなく、朝方見た向こう岸の洞窟同様、道具があれば容易く穴が掘れる。同等の月日を費やして根城を築いたとすると―――。」

 ハルイーが言葉を切り、沈黙の中に巡らす思いを推し量って皆は心地悪く身じろいだ。

「誰が、どんな奴が潜んでいるんだ?」イヴェンは気短に呟いた。

 イナ・サラミアスを領有しイーマを隷従させようと目論むトゥルカンの配下の兵か、山の鉱脈を狙うアツセワナのいずれかの領主の差し向けた者か、見知らぬコタ・イネセイナの向こうの零落した山の一族か。

「ともかくも見に行こう」カマタドが短く言った。

 針葉樹の森の間の雪の溜まった暗い谷間を半里ほども西へ下って行くと狭い急な岩がちな崖地をへて谷は広く開け、前方の眼下にさらなる森林を越して南北の山脈の間に横たわる長い谷あいの原が見えた。水は流れずに浅い雪の中に点々と池を作って溜まり、雪よりも多く岸辺を敷き詰めているのは細かに砕けた岩石の砂利だ。それが光りの乏しい谷間に白々と浮き出ている。

「遠い上に薄暗い」ヨーロンが言った。「下の森を抜ければ小半時とかからずに傍まで行ける。」

「待て」カマタドが遮り、目を長い山裾に据えたまま目配せした。同時にハンノとシムジマが鼻を皺めた。

「煙が上がっているな。」ハルイーが言った。「もうしばらく待てばやがて日が翳り、目立ってくる火影からおおよその棲み処の数が分かろう。」

「そして森の伐られ方だ」

 カマタドが手を上げて示した方に、皆はまろやかな山腹を覆う針葉樹(ツガ)の森の際に著しい穂先の乱れを認めた。

「千本の黒檜を喰い荒らして巣をつくる虫か。」

 イヴェンは眼下の森林へと落ち込んだ岩場の端を踏まえて覗き、唸った。一同は谷あいの敵との遭遇に警戒しながら、日の暮れるまでに森をさらに下っていった。

 森を抜けるまでもなかった。黒髪の峰の谷あいの原に、かつての秋のニアキの男女の集いをはるかに上回る賑わいが漂っていた。山腹の柔らかい岩盤を掘って棲み処にしている男達は、人目を避けようと警戒する様子すらなかった。藍色に染まりゆく空の下には、野営と炊事の火の他、鍛冶の火があり、木や皮革の加工作業の火があった。イーマには聞きなれぬ強い鼻に掛かった訛りで声高に声を交わす男達が、岩室に扉まで設けた住処の前で喋り、飲み食いし、昼に次いでまだ終わらぬ手仕事に勤しんでいた。男達の肌の色や体格は様々で革の胴着と山羊皮の尻皮を身につけていた。

 チカ・ティドの鉱夫だ、とハルイーは言った。そして、イネ・ドルナイルの山の民、ウヌマだ。

 ひと固まり離れて小柄な一団がいる。奥から運び出した砂礫を皆で囲み、検め、平たく無表情な面を変えず、淡々と河原に捨てている。薄黒い肌と肩にかかる髪は松明を横切る明かりのもとでは黄褐色と鉄色に見えた。

 ハルイーとハンノ、シムジマは尾根筋に沿って下に広がる野営地を見下ろしながら山腹の森を進んでみた。一町も行くと工夫たちの区域とは柵を設けて仕切り、アツセワナの兵士と見受けられる男達が見張りに立っていた。崖の下に長い軒をつけた営舎の窓から灯りが漏れ、戸口の壁に渡した横木には槍がずらりと並んでいた。

 黄褐色の肌の小柄なウヌマの数人が柵の内に入って行った。目の粗い籠に入った、あるいは擦り切れた衣服の端にくるんだ石を手に、素早く衛兵のいる中心の入り口に入って行く。

 シムジマが森の際で待つ三人に合流しに戻った後も、ハルイーとハンノは兵舎の先まで様子を見に行った。ふたりが凍った森の中を戻って来たころには一時も経っていた。

「奥の兵舎にいるのはアツセワナのいずれかの領主に抱えられた兵だ。甲冑の紋を隠し、あまり出歩かない。任を受けた家臣がひとりは中にはいるはずだ。」

「それが大将なのか?」カマタドは尋ねた。

「いや」ハルイーは首を振った。軽蔑の笑みが凍えた頬をよぎった。「大将はおそらくここから二里離れたアタワンにいる―――老練でなく贅沢好きだ―――石原のこちらからでも赤々と火が灯っているのが見えるぞ。彼は向こうにぬくぬくと留まり、遣いを行き来させて報せを受け取っているようだ。」しかしハルイーは一旦言葉を切り、眉間を険しく細めて一同を見た。「いっぽう、こちらの陣との間には傭兵の一団がいる。連中は報告を取り持ちもするが、彼らには彼らの頭がいるはずだ。」

「それはどういうことだ?」仲間の誰もが意味を測りかねているのを見てカマタドが促した。

 ハルイーは、速やかにここを引き揚げようという素振りで弓を負った肩を揺すり上げ、拳の甲でこわばった頬と口許を擦るとぴしりと言った。

「もし、ヤールがアタワンの大将かトゥルカンの使者と交渉し、戦わずに盟約を交わそうとも、戦を狩場に各々稼ぐ彼ら傭兵はそのまま引き下がることはあるまい。」

 

 “御髪”の付け根の谷間の森で一同は倒木の根元の窪地に樅の枝を葺いた小屋をつくり、持って来た炭で火をおこし、順に仮眠をとって夜を凌いだ。翌朝、凍てついた岩場に綱を張り、昨日渡った涸れた大滝を逆に辿ってハイマツと灌木の山腹を下り“鷲谷”の雪原を渡って“中の嶺”の肩口まで戻って来た。

「おれには何も惜しいものはない。」

 礫地の手ごろな石に腰をおろし、持って来た食糧を分け合って簡単に食事を摂っている時、沈黙を破ってイヴェンが口を切り、他の者が次々に頷いた。

「おれ達には息子に看取られる穏やかな死はないし、灰になって戻る森はない。分かり切ったことだ。」

 カマタドは言った。

「イーマが頼り、身を寄せる地は無くなる―――そこは姉神(べレ・イナ)ともイナ・サラミアスとも呼ばれなくなり、他の名で呼ばれるんだ。ハルイー、何が可笑しいんだ?」彼は見咎めて言った。「かつてあんたが言った通りになることをおれ達がようやく気付いたことか?だが、笑う事でもあるまい」

「おれは若い時に迂闊なことを口にし、オコロイやあんた達の心を波立てた。だが、おれが起した不始末にも拘わらずあんた達はアツセワナの連中と渡り合い、二十年の付き合いをもたせた。」

 ハルイーは穏やかに返した。

「今後は先のことについて見た(ふう)なことは言うまい。」

「気を持たせてくれるな。」カマタドは捨て鉢気味に言った。

「ひと泡吹かせてやれ。それでやられるならそれが運なのだろう。」シムジマが続いた。

「しかし子やその妻子の運を潰すのか?それを許せるか?」ハンノが言葉を添えた。「細い望みが無いでもなかろうに……。」

「それは何だ。シギルか、その娘か?」イヴェンが吐き捨てた。「いいや、良くてトゥルカン奴隷の身になり果てるのが関の山だ。」

「山の奥深くに隠れる途がある」ヨーロンは手を西にやった。「我らの父祖でさえ恐れた姉神(べレ・イナ)の背面にまでは誰も追っては来まい。」

「生きてたどり着けるとも思えん。」

「何かいい方策はないか、ハルイー。」ハンノが膝を進め、鋭く囁いた。

「おれは戦う」ハルイーは短く言った。

 一同は瞬時水を打ったように静まり、それから各々が同意の言葉を呟いた。

「むろん」

「おれもだ」

 ハルイ―は穏やかに言葉を足した。「方策を考えるのはこれからだ。」

「ぐずぐずしていては時間が無くなるぞ。」シムジマが言った。「雪が溶ければ何もかもいっぺんに変わる」

「すぐにでも取り掛かれることがある。おれひとりでもな。」

 ハルイーは落ち着いて答えた。聞いている者たちの面には懐疑と期待の色が浮かんだ。

「だが、道具が要るし、ニアキの方に戻ればあんたたちも人心地つけられる。」

「皆、おれの家に集まってくれ。」カマタドが言った。

 イヴェンが先に立ち、他の者も順次、礫と雪の溜りが入り混じった原をニアキの方角の森をさして歩きだした。 

 促すように振り返るハンノを気にも留めず、ハルイーはべレ・イナの貌を振り返った。   

 雪に覆われててらてらと光る頬の上の、水の止まった眼窩は虚ろに西方へと開いて見える。

「あの目が見るべきものを見ていてくれればな。ガラートも気苦労が絶えぬ―――いっそう、雪があの目を覆ったままであれば」


 二日続いた晴天は翌日には雪に変わった。乾いた細かい雪は霧のように渓谷の周りを包んだ。源流の上の斜面には、緩んでは凍てつき重い地の外殻となったひと冬の雪がイスタナウトのまだ若い木々を根元から拉ぎ、谷に迫り出していた。

 ふたりずつの班に分かれた男達が雪深い森の中で真っ直ぐな木を選りすぐり、斧を振るっていた。やがて木は慎重に方向を誘導されながら雪煙を上げて倒れ、枝を払って転がされた。間隔を置いて何本も倒された木は、次に四人の男達皆で引き綱をつけて徐々に斜面に水平に位置付けられながら崖の際近くまで下ろされた。綱を引く彼らの下、崖の下で太い木の根から命綱を下ろしたハルイーが声を張って、右へ、左へと吊り下がってくる丸太の位置を誘導する。

「よし、そのまま雪の上に置け」

「ハルイー、そこを退いてくれ」ハンノがしわがれた声で懇願した。

「もう一本。もう一本位置を決めないでは退くわけにはいかん。」ハルイーの不敵な声が応えた。「同じように根をこちらに向けてくれ。さっきとは違う向きだ。くれぐれも丸太につまづいてくれるなよ。」

 第二の丸太が雪の上に置かれると、ハルイーは綱を片手に雪に埋もれた崖から這い上がって来た。彼が上に進むほどにその周りで割れた雪が大きな塊になって崩れ落ち、斜面の雪の層を歪にえぐり、丸太を震わせた。

 上に登ってきたハルイーは男達に並び言った。

「ゆっくりと転がすぞ。雪と一緒に嵌めるんだ。」

 男達は掛声を交わしながら崖の際の丸太をひと押し、虚空の方へ進めた。雪の表層に張り付いた丸太は男達が渾身の力を込めるまでびくとも動かない。さらにイヴェンの声が高く鳴り響く。丸太は不意に下に敷いた雪を剥ぎ取りながら回り、ふたりがとっさに横ざまに反対側に転がって難を逃れた。勢いを得た丸太は崖の際で踊りあがって虚空に飛んだ。梢の側にいたシムジマの身体がもんどりうって投げ出される。

 直下で上がる雪煙とどんと響く鈍い音。

 男達は崖の際に駆け寄った。意外にも近くでシムジマの声がした。

「おい、手を貸せ」

 既に手近な木の幹に綱を巻いていたハンノがハルイーの支えを借りながら崖を下りて行く。

 雪で大きく撓ったイスタナウトの幹の根元に丸太の中央部が掛かり、梢側の枝を払った先端と石楠花の藪に挟まれるようにしてシムジマが崖に取りついていた。

()()()を蹴落とさんようにな」ほっとした男達から軽口が飛んだ。

「で、ようやくひとつめをやっつけたわけだ。」

 這い上がってきたシムジマは言った。雪の止んだ昼の明るみの中で目尻の皺が深まり、瞳が琥珀色を帯びてきらきら輝いた。切り倒された木はまだ斜面に沿って並んでいる。

「そうだ、序の口だ」ハルイーは頷いた。「次に転がす時には梃を使おう。」

 最初の何日かを男達はべレ・イナの“掌”から手先の方にかけて移動した。源流の大峡谷からコタ・シアナが湾曲して南に下り始める、その流れに面した斜面であり、古来細い通路が穿たれたところであった。

 十日も経った頃、カマタドは仕事の見通しがついて皆が気にし始めていることを尋ねた。

「ハルイー、おれ達はただ手をこまねいている事に業を煮やさずにすむ仕事があることをありがたいと思っている。これが効くかどうか疑うよりも汗を流しているほうが気が紛れるからな―――が、これは人手で操るにはちょっと難儀だ、おれ達は六人しかいない。せいぜい一度に操れるのは三つまでだ。この仕掛けの造りとあんたの言うところとを考え合わせると、これを動かすのは雪解けだ」

「ああ」

 ハルイーの単純な返答にカマタドはむしろ気を削がれたように見返した。

「雪解けは足が遅い上に、いつイスタナウトが起き上がるほどになるか、またいつ()()が外れるか誰にも分からぬ、しかしながら敵が下を通るのは一瞬のことだ、というのだな」

 ハルイーはカマタドに言った。

「そうだ」

 ハルイーは誰もが見慣れた、苦り顔とも微笑ともつかぬ読み取り難い顔を向けた。その後ろには遠く、ベレ・サオの水の涸れた大滝が虚ろな目を開けている。

「おれにも、たまたま()()が丸太ん棒を放す真ん前に敵がうまい具合に通りかかるとは思えん。やはりこの手でおれ達が落とすのかもしれん、とも思う。」

 カマタドは目を逸らし、周りで徐々に作業の区切りをつけて一服している仲間達に目を遣った。

「それならそれでいい。次に掛かるところはどこだ。」

 ハルイーは“御髪の峰”を指差した。

「敵の本拠地の上だな」カマタドは腕を組み、顎を落して考え込んだ。

 他の者達も周に集まってきて、ふたりを取り囲んだ。

「同じ仕掛けか?面白そうだがここと同じようにはなるまい。敵に近すぎて斧を打つ音が聞こえてしまう。敵も木材を得るために森に入る。丸太にする針葉樹(ツガ)には事欠かぬが仕掛けを留めておくイスタナウトの木はあそこには生えていない。」

「北側の峰の山腹を使う。急な崖が敵の宿営地の真上にある。」

 後ろで聞き耳をたてていたイヴェンがそれを聞いて獰猛ににやりとした。

「今度は綱を使って留める。切って落とすのはおれ達だ。」

「それはいいが」シムジマが口を挟んだ。「下からも丸見えだ。雪の上に足跡も残ろうし、向こうに行って木を一本伐るだけでも見つかってしまう。」

 皆は各々頷き、輪をつめてハルイーを見た。

「ならば、夜闇と雪と音の間に隠すだけだ。」ハルイーは面をぴくりとも変えずに言った。

「夕刻には雲が出て夜半にかけて空は荒れる―――そして明け方に雪が降る。」

 一同は岩のように静まった。カマタドが口を切った。

「ここ半月が正念場だな。三日以内にかからねば猶予は無い。」


 その晩、ニアキの集落をハルイルの息子たちが訪ねた。

「アー・ガラートの居場所を知っていますか?」

 兄は遠慮がちに切り出した。炉を囲んだ男達が身を乗り出すのを見ると、若者は秋の終わりごろアツセワナから戻って来たガラートがシギル王との盟約が解消されたことをヤールと幹部らに告げると、民を離れ南に去ったことを話した。

 冬以来、彼の隠遁している所がどこなのか誰も知らなかった。ただ、オクトゥルの受けた処罰についてその妻に伝えるために一旦ティスナに向かったという事だった。

 ハルイルの息子たちは晴天の続いた初春の朝、春先の木々の見回りのため、ウナシュの村から出立してティスナの北側を回って南の嶺に登り、ナスティアツと呼ばれる雲に覆われた高原の下のハイマツの原を辿って二日後には“南の高森”に入った。高木の育たぬ森ゆえ見回りの範疇ではなかったが、乾いた粉雪の吹雪に見舞われて視界が利かず数日足止めされた。忌み避けられている北面の岩壁帯を迂回し三里も下って行くと、狩人達が境界の目印にしている“天秤竿”と呼ばれる棚地の上縁に辿り着いた。その岩壁を下りて行ったところに岩の間に生じた天然の洞窟が幾らかあり、夜に備えて風雪を凌ぐ岩陰を探しているところ、岩壁の中から出て来たガラートに会ったのだという。南の物見から真っ直ぐに目算すれば聖なる川(コタ・ミラ)を越えて一里半といったところか。

「私たちが彼に出会ったのは偶然だ。」

 兄弟はその後オルト谷の村に立ち寄ったが、ガラートの居場所については誰にも話していないのだと言った。

「それというのも昨年暮れの頃からトゥルカンの使者が村に滞在し、アー・ヤールが手厚くもてなしているからだ。この使者という男を我々は微塵も信用せぬし、残念ながら同胞たちにも信を置くわけにはゆかぬ。袂の川口には頻々と伝令がやって来てこの男と会っていく。北から舟でやって来る者がほとんどだが、中には陸から来る者がいる―――長手尾根を越えて来たのではないかと思われる者もいた。」

「北の渓谷からか」カマタドが言い、兄弟は頷いた。

「アー・ヤールは彼らに気を許しはじめている。まだ村に立ち入る者を制限し、女達には近づけぬようにしているが、とうに川べりの見張りを止めている。もっとも警備に割ける男手はもう、そう残ってはいないが。」兄の方が言った。

「彼らの方では我々の(おも)だった者の顔から気性に至るまですっかり飲み込んでいるに違いない。」

 弟は陰鬱に呟いた。「私たちは村の者と顔を合わせる頃合いにも用心が必要だ―――新しい顔ぶれを見せないために。」

「こうしておれ達に会いに来たのも危ない橋を渡る覚悟でか。」ヨーロンが言った。「何か新しい話があれば教えてくれ。年寄りの無聊を慰めるつもりでな。」

 兄弟は飢餓が危ぶまれたこの冬も民に分配される食糧が細いながらも枯渇せずに続いていることを明かし、アツセワナから来る食糧だ、と言った。使者がヤールに会いに訪れる度に少しずつ村に運び込まれる物資がある。付いて来る人足の顔ぶれはいつも違うらしい。

「アー・ヤールはオルト谷の至る所で鉱脈の調査を許可した。今はまだやって来ないが、雪が溶ければ一斉に掘削が始まるかもしれない。彼らはウナシュの村の上の谷を掘りたがっている―――真っ先にその場所を言ったそうだ。だが、アー・ヤールは渋っている。聖なる川(コタ・ミラ)にあまりにも近く、ティスナにも近いからだ。」

「それでも使者はイナ・サラミアスの指導者、眠れる宝の管理者とアー・ヤールを持ち上げ、彼と取引を望むアツセワナの領主たちがいかに地位が高く権勢盛んであるか、所領の産物から何が見返りとして見込めるかなどを次々と言い立て、気を引こうとしている。」弟は言った。「私たちはアー・ヤールが長として民を守り切れるかどうか心配だ。」

 ヨーロンは兄弟に酒を勧めた。ハルイーが尋ねた。

「ガラートの様子はどうだ?お前たちとは何か話をしたか」

「少し痩せたがいつもの通り」兄弟は顔を見合わせ、思い出しながらそれぞれに言った。

「時々狩りをしながら慎ましく暮らしているようだった。」

 それからむっつりと口を閉ざした。男達は兄弟が民を離れたガラートに不満を抱いているのを見て取った。

 ハルイーは額の鉢巻きに拳をあてがい、しばし物思いに耽っているようだったが、ふとかぶりを振って顔を上げた。その険しい眉根と顎に浮き上がった皺はまだ記憶を追っていたが、若者たちの方を見るとごく穏やかに言った。

「あれのことは今は置いておけ。お前たちはこれから戻るのか。」

「北に見回りに行く」

「北はいい。おれ達が見る。」ハルイーはきっぱりと言い、他の者も頷いた。

「村に戻り、村の衆と同じように平静な顔で過ごせ。」

 兄弟は心外といった様子で炉端に乗り出した。

「私たちは他の者が忘れようとイーマの務めを忘れたくないんだ。」

 男達は誰ともなく目を交わした。

「お前たちがおれ達のことを忘れないでいてくれてありがたい。」カマタドが言い、ハルイーに向き直った。「彼らに頼めることはないか?」

谷分け川(コタ・ソガマ)の“合いの沢”に雪解けの兆しが現れたら、また訪ねてきてくれ。そしておれ達に教えてくれたことはガラートにも教えてやってくれ―――そうだな」

 ハルイーは少し考えた。

「もし、お前たちが遠からず彼を訪ねるようなら伝えてくれ―――折々“掌”の平岩(たいらいわ)に思いを掛けてくれと。そしてお前たちに言っておく。子を儲けそれが娘なら教えてやることだ、髪を梳かし膝の塵を払っておけ、とな。」

 そうして夜更けて徐々に強まる外の風の音に耳を傾けると炉辺から立ち上がった。

「お前たち、ここで泊まっていくがいい。」カマタドはハルイルの息子たちに言った。

「悪いがおれ達は夜の間に出かける。(ほし)餅でも燻し肉でもお前たちが要るだけ持っていけ。だが、発つ時には戸締まりをしておいてくれよ。」

 若者たちは驚いて顔を見合わせたが、何も問わずに大人たちが無言で身支度をし、壁から斧と鉈と縄の束を取って順に外へ出て行くのを見送った。

 北のベレ・サオから立ち昇って雲をかき立てた重い姉神(べレ・イナ)の呼気は、男達が出て行く戸に抗って膨らみ、屋内と外との隙で低い不機嫌な唸りをたてた。しんがりでぴたりと戸を閉めたハルイーの落ち着きはらった眼差しを最後に男達の気配はすっかり外の闇と、風、そして迫りくる雷鳴の中に消えた。


 イナ・サラミアスの体躯を形づくる三つの嶺のうち、南の嶺(ベレ・アキヒ)は高地の深奥に巫女の住まう聖地と女達の集落ティスナがある故に、イーマの男達は女の山と言い習わした。また聖地を源にする聖なる川(コタ・ミラ)を直に横切ることを避けるため、オルト谷の森から直に御脚の尾根(エトル・ベール)の麓の森に移ることは稀であった。

 伐採や狩猟に入る男達はコタ・シアナの岸辺から森に入った。麓の森は多種の木々が繁茂し鳥獣に富むが、その地の質は存外浅いところで岩がちであった。男達は主に木の大きく育つ低地で仕事をし、そこにも長くは留まらないのが慣わしだった。

 また、季節ごとに山を見回る任務を負った者は中の嶺(ベレ・エフ)から峰伝いに岩がちの荒寥たる高原を渡り南の嶺(ベレ・アキヒ)に入った。人界はおろか聖地さえも雲の下に覆われた神々の原(ナスティアツ)(きわ)を辿り、ハイマツ帯から針葉樹林、広葉樹の森へと南に下る。

 上から入る者も下から入る者も目印とするのが“天秤竿”と呼ばれる中腹の岩棚であった。ティスナと同じ高さにあるこの岩棚より上の森で仕事はしない。そこは女神と女達の領分である。

 秋の終わりにティスナにオクトゥルの妻を訪ねたガラートは、その後南の嶺(ベレ・アキヒ)の霜と赤くすがれた草の高原を渡り、エトル・ベールを下った。天秤竿まで下り、岩棚の亀裂の奥深くに天然の洞窟を宿に見出した時、初雪が地を覆った。

 冬へと季節が進むごとに寒気に曝される岩は命を脅かすほどの冷たさになるはずであったが、大蛇の抜け出たような曲がりくねった穴を少し進むと空気はティスナの岩室のように上衣で凌げるほどの温かさであった。ガラートはその先の丸く約まった小房に柴の枝を重ねて毛皮を敷き、外の荒れた日と夜とを過ごした。

 冬になる前にニアキで用意しておいた草の実を混ぜた乾餅や干し栗、僅かな燻製は全て置いて来た。手元に残されたのは山刀の他に少しの鏃、弓弦にする糸の束だった。ガラートはそれですぐに簡単な弓矢を作り一頭の鹿を仕留めた。肉は切り分けて岩屋根の下で燻し、冷たい風の吹き抜ける岩の間で干した。骨は分けて雪の中に埋め、洗い清めた皮は洞穴の入り口に掛けて雪が吹き込むのを防いだ。角は磨いて尖らせ、岩の上り下りを助ける鉤にした。腱は水につけて柔らかくし、薄くほぐした後に縒れば丈夫な紐になる。溶かし固めて灯心草を挿した脂が、闇の中でのその仕事を助ける灯りとなった。

 よく乾いた住まいの中には他に、オクトゥルの妻がティスナから持たせてくれた乾餅が藁で綴って吊るされていた。また、小房の奥の狭まった抜け穴の前にはレークシルの織った神蚕の錦が畳んだまま掛けられた。

 仕事の合間、僅かな明るみの端にそれらのものが目に映ることがあったが、思いに心が乱されることは滅多に無かった。

 自分が闇の中で静穏でいられるように、べレ・イナの眼が氷雪に閉ざされている間はあの子も余計なものを見ずに済む。淡々と繰り返す手仕事があればもっとよい―――。

 ティスナを訪ねた時、夫オクトゥルの働きとそれ故に受けた罰の顛末を聞いて内気で淑やかなその妻はうなだれてはらはらと涙を流したが、ティスナの北の出口から上の峰を指して登って行こうとするガラートを追いかけて来て呼び止めたのだった。

小さな守女(シシュナ)は」

 離れた背後から掛かった勇気を振り絞ったぶっきら棒な声が彼の足を止めた。

「私たちと一緒です。私たちをよく見てくれ―――私たちもあの子を見ています。」

 ガラートは振り返り、女を見返してごく静かに礼を言った。女は急に気後れに襲われてもじもじしながら、軒先からもぎ取って来た乾餅の綴りを差し出した。

「あの子は毎日何をして過ごしている?」ガラートが尋ねると、オクトゥルの妻は不意に背を押されたように熱心に話し始めた。

 シシュナは夏の長雨までほとんど“白糸束(ティウラシレ)”に籠りっきりだったが、秋の初めにすっかりやつれて下りて来た。田の世話や骨身の痛みについてこぼしていた年取った織女たちもその姿を哀れに思い、村に下りてきて自分達と暮らすように勧めた。

 田の作物の出来は良かったわけではないが十人にも満たない住民を養うのには十分で、皆働き手が増えたことに感謝をしている。今は保存食の準備もだいたい整った。稲藁を綯ったり、綿を紡ぐ仕事もそれほど多くはない。シシュナは賢く、教えた仕事をあっという間にこなしてしまうので。

「仕事の合間に子供たちをみてくれます。……何だか不思議な子守唄を歌って。」オクトゥルの妻は言った後で次の言葉を選るように黙り、目を逸らして言い継いだ。「私もシシュナに子守唄を教えます。ティスナの(ムエナ)達が歌う子守唄を。」

「そうか!」ガラートはふと声を漏らし、女を見た。

「あの子に文字を教えてやってくれないか?」

 オクトゥルの妻は狼狽に近い驚きを表して手を振った。ガラートは構わずに外衣の下の合切袋から小さな木の札を紐で綴ったものを二組出した。昔、イーマの少年達に文字を教えるのに使ったもので、一方には音を表す三十二の文字が、もう一方には数を表す十四の文字が記されている。

 ガラートは子供にするように女を手招いて傍に来させ、その前に一枚一枚綴りをめくって女がそれを読めることを確めた。

「それを見せて何かに書かせてくれ。石に炭の欠片で書くなり、何もなければ雪の上にでも」

 女はためらいながら、それらを刺繍の図案として服の裾や襟に糸で刺すことを教えてあげられる、と提案した。思いがけない手応えにガラートは喜び、是非にもそうしてくれ、と言った。

「でも、アー・ガラート、私は長い言葉は読めません。」

「心配いらない。」

 ガラートはもうひとつ、古い羊皮紙に墨でしたためた一編の詩を取り出し女に渡した。

「それを読む必要はない。ただ、あの子に渡してやればよい。そこに書かれたものは覚えていってくれ、長くはないから。」

 綴り方を教える謎々歌のような詩は三遍も繰り返すうちに女の口からすらすらと出て来るようになった。

 繰り返し礼を言うガラートに戸惑いながら、オクトゥルの妻は他にも出来ることがあれば、と言った。

「お前の知っている歌や物語を何でも」ガラートは熱心に言った。「(ムエナ)達が子の成長と共に話して聞かせる物語を全て聞かせてやってくれ―――あの子は魂に比べ、心は幼いのだ。」

「そんなことでしたら!」

 オクトゥルの妻は慎ましく言い、下がって会釈をした。そしてくるりと(こご)めた背を向けるとティスナの方へ戻って行った。

 夫の迎えを待つ妻と子の処に運の悪い報せを携えて来た男は、相手から少なからぬ慰めを得て村を後にした。

 その前の年の春、まだ見ぬ娘の在ることを確かめようと“白糸束”を訪れた時は頂に雪を被った屏風岩を登り谷分け川(コタ・ソガマ)の源流を越えて来たが、この時はずっと南、聖なる川(コタ・ミラ)の源の谷を北に迂回するようにして南の嶺(ベレ・アキヒ)の高原に入った。峰沿いに辿る高原のその西の際の落ち込んだ下に聖地“白糸束(ティウラシレ)”が隠れている。高原にまだ雪は無く、白い岩石と草紅葉の地面に漂う霧も無く、娘のいる谷間に下りて行くのはずっと容易げに見える。だが、あの時とは違い、彼には決してあの鉢の内のような斜面を下りて行くことはできない。

 アツセワナのシギル王に会いにニアキを発つその前の晩、ガラートはハルイ―にある無心をした。

 シギル王との盟約を解消したら自分は民を離れ、南にひとり人目を忍んで生きるつもりだ。だが、その前にもうひとつ、せねばならないことがある。ニアキには二度と戻らぬ故、無心になるが許して欲しい。

 しかし、一度は貸してくれたそのものをハルイ―は頑として渡さなかった。

(ぬし)から取り上げてもいずれもとの鞘に帰るだけだ。」

 ―――おまえも男親なら子に意見したらどうだ―――別れ際、ハルイ―は先ほどとは意味も口調も全く相反するふうに平然と言った。 

 会うことも叶わないというのに、どうしろというのか? 

 アツセワナへの旅の道中も、夜闇がエファレイナズを覆うとガラートは悶々と己に繰り返した。オルト谷の村での報告の時も、オクトゥルの妻に辛い報せを聞かせに行く時もその問いは胸の奥にわだかまっていた。

 しかし、聖地を下に“神々の集う原(ナスティアツ)”の際を南へと渡って行く彼の胸からその小さな黒い靄は消え果てていた。代わりに彼が耳目を傾けたのは慣れ親しんだ古来からの警告の声、長い冬の到来を告げる西の低い雲の群れであり、その雲がこの岸に至るまでに備えよ、という風の警告だった。

 それらは彼を冷静にし、思考を明瞭にした。

 自分はあの子の身を案ずるあまり誰でも無い者にしようとした。しかし、ハルイ―は(さが)は無くせぬ、育てながら正せと言ったのだ。

 自分が会いに行くわけにはいかないが、あの子はティスナで女達から学ぶことが出来る。言葉はあらゆる人知に繋がるために子が習得せねばならないことだ。易しくありふれた豊かな言葉が先ず入り口にある。それを与えるのが必ずしも男親でなければならないわけでは無い。

 冬は全てのものの動きを制限する。だからあれにはしばし平安が訪れる。私はその間にあれに伝える言葉を探しておこう―――しかしそうするには、好意であれ敵意であれ、あらゆる眼差しから安全な場所でなければならない。

 岩室を見出し冬ごもりの準備を整えると、ガラートは深い闇と静寂の中に座り、まだティスナにいてアー・タッカハルに引き取られる前の幼少の頃に教わった短い歌謡(ヨーレ)を始めとして、少年たちが大人から教わる森の掟、歌謡に詠みこまれた日常の作法や禁忌、古来の言い伝えを思い起こしてはその中身を吟味した。

 淡々と繰り出し唱える声は血肉と秩序の失せたいくつもの音の列に分かれた。その立ち返ってくる音と節を耳で確かめながら、彼は時々止めて考えた。改めて聞くその言葉の大半は、狭い居住地で一生を終える女には関りの無いものに思われた。果たして言葉が意味をなすものかどうかさえ怪しげだった。

 イーマが生涯のうちに蓄える知恵には男のものと女のものがある。聖地の守女の後継として老ルメイは少女に一人前の女の知恵にも増して高度な知識をも授けたことだろう。だが、それは全体の指南者でありながら永久の奉仕者でもある身分、不在の神人に隷属する者の極めて歪な視座によるものだ。

 あの子にはもう一方の自覚が欠けている―――。

 ガラートは心をよぎったその思いを押し止めた。それは自分の領分ではない。

 親である自分は、出来る事なら我が子に予測される将来に関わらず分け隔てなく教えるべきだ。思いがけぬ教え手がいるならなおの事だ。

 ガラートは音の消え果てた中で、今度は黙して意味による選別をした。長短さまざまな夥しい歌謡(ヨーレ)と箴言とを、森の掟と禁忌、始原の伝承、暦と連動する森羅の営みの三つの事に振り分けた。

 そして先ず、少年たちが始めて山を歩く時の心得のうちごく短いものを取り上げ、唱えてみた。

 闇は再びもつれた()()()に満ちた混沌に陥った。彼方の闇から波のように押し寄せるそれらは当惑の囁きのようでもあった。

 先人の遺した心得や警句を若い心に伝えようとする時には、相応しい場に於いて行動と合わせて伝授されるものだ。谷間の限られた森の中と洞窟の狭い世界の中にいる幼い子に、目の前に無いものを分からせ、興味に導くにはどうしたらいいのか―――死した人々のその言葉は新たに音にして発せられる時、誰の耳に呼びかけられ、その心に届くようにと残されたのか。

 ふと思い当たって冒頭に付け加えてみた。


   小さなイーは山を歩く 前には大きな兄弟 後ろに老人(コーアー)


 彼はさらに言葉を選り、簡潔にした句をその後ろに繋げた。


   コーアーの言うよう

   イーよ戯れに浮石を踏むな 上のひとつの剥落が下の大きな崩れになる

 

 山の深部の闇に向かって唱えた言葉は一筋に通り、砂地に吸い込まれるように消えた。

 そうだ、箴言の受け手としての人形を置けば、そこに人形をめぐる物語が出来、その人形の行動に心を寄せ想像することであの子も我が事のように学ぶことが出来よう。

 彼は静かな感慨と得心をえて何日ぶりかで洞穴から表へ出た。冬の最も厳しい寒さが引き、日足がゆっくりと洞穴の出口の岩壁に留まるようになったころだった。

 東西を横切る長手尾根の稜線の向こうでベレ・サオの切り立った側頭の下の山腹は厚い雪に覆われ、ややふくよかに見える輪郭に陽を受けていた。柳眉をなす稜線をも雪は厚く覆い源流を閉じている。べレ・イナは肘で顔を隠して安らかな眠りにあるようだ。

 岩棚の反対側から驚きと懐かしさを込めた若い声がふたつ、彼の耳に届いた。一本気で廉潔なハルイルの息子たちが偶然彼の姿を見つけたのだった。

「こんなところに閉じこもって、あなたはいったい何をしているのですか?」

「もう民のことを顧みず、河向こう(オド・タ・コタ)の言いなりに母なる山を傷つけるのを放っておき、女主も民も共に見捨ててしまうのですか?」

 彼の無事を見届けるや、若者たちは胸の内に隠していた憤懣を表した。実直な者達さえも欺かねばならないことにガラートは心を傷めた。彼は自分に真っ直ぐに向けられた目を見返し、偽りを避けうる範囲においてのみ説き聞かせた。

「私が長の立場から退きアー・ヤールに民の指導を任せることは、トゥルカンの信用を得るために必要なことなのだ。シギル王とはもはや友ではないと示すことが。私はアツセワナとの交易が始まって以来、ことに王と良好な関係を保つよう努力してきた。王とトゥルカンはかつてないほどの緊張関係にある。私の存在は民にとって新しい交渉ごとの妨げだ。」

「我らイーマは全ての男が集まる会議によって物事を決めてきたではありませんか」兄弟のうちの弟が言った。「皆が意見をたたかわせ決を採り、長が意見を述べるのは決を補うためだ。あなたが長を退いたからと言って何が変わります?あなたは依然ひとりのイーマであり、あなたの意思は無ではない。」

 いや、変わらねばならない。ヤールと大勢の者達が決めたようにイーマは生き方を変え、時にはひとりの長に従順にならねばならない。ヤールに民の庇護を任せたのは、トゥルカンが交渉ではなく併合を迫ったとしてもひとりの素早い服従によって犠牲を減らし生きのびるためだ。

「アツセワナでは(アー)は王、(アス)と同じことなのだ。」ガラートは静かに言った。「王の地位を追われた者には何の力もない―――故に私が去る事が肝心なんだ。」

 兄弟はそれ以上反駁はしなかったが、納得した様子でもなかった。その晩は道筋の森の木々の具合を話し、彼に少し助言を求めて、翌日には村に戻ると言って岩棚を去った。

 兄弟との邂逅はガラートの心を暫く揺り動かした。遠からず来る()()()に古い長や古い信仰に心を寄せて行動すれば、彼らは若い命を落とすことになる。

 ガラートは岩室に戻り、根強い寒さを感じて外衣を纏った。夕刻になると洞穴の外に近い壁は再び凍り付き、そこに新たに軽い雪が舞って張り付いた。深夜にかけて北の空はぐずる児のように雷鳴を轟かせた。ごく当たり前の冬の宵だ。

 昨日は“森の掟”をいくらか寓話に仕立てた。初めから物語の形をしたものがあるなら、今宵はもう少し気楽に語れるものから当たってみるとしよう。

 空の音に耳を傾けながら、ガラートは胡座の膝頭に両手を置き深く息を吸い込むと、心に浮かぶままに創世の物語を吟唱した。


   昔、大いなる火ありて……


 その昔、北の大渓谷の“掌”の平岩(たいらいわ)の上で滝の煙霧の中に読み取ったイナ・サラミアス、イネ・ドルナイルの姉妹神の誕生の模様を、彼は言葉に換えて語った。あのときの少年の情熱が紡ぎ出した言葉を、彼は人生をひと巡りもした老人たちが語るような平易で簡素な形に整えていった。吟唱は弓弦の糸を縒るかのようだった。感情は平静で昂ぶりは無く、もの慣れた心地よさだけが続いた。

 闇に閉ざされた目交にゆらゆらと明滅する光が見えた―――我知らず興に乗って来たのか―――ガラートは言葉を切り、目をこすった。闇の中に赤々と輝くのは二柱の光に包まれた姿だ。

 それが徐々に鮮明に形をとり、血と水に濡れた赤子になって産声をあげるのをガラートは茫然と見守った。彼の声の余韻が消え、沈黙が続くと幻の双子の姿も消えた。

 長い静けさの後、遠い闇の奥から彼の歌い聞かせた一節がためらいがちに返ってきた。

 ガラートは座りなおして耳をそばだてた。

 さもありなん。この物語はあれにとって最も幼い頃から親しんだものであろう、それを隷従する不在の主のものとして教えられたのだとしても。そして赤子の誕生のことは、あれはあの齢にして誰よりも知っている。彼は言葉をさらに平易に変え、ゆっくりと最初から唱え直した。

 闇の中に色が浮かび上がることはなかったが、闇に慣れた目が洞の中の微かな明暗を見分けた。山の奥に通じる、レークシルの綴織を掛けた穴の奥から細い声が彼に唱和していた。声は閊えなくなると節の終わりで止まり、静まった。

 ガラートはその日の仕事を仕舞い、横になった。

 あの子には聞こえるようだ。雪が治まったらどうにかしてティスナまで行ってオクトゥルの妻に頼もうと思っていたのだが。

 いつしか風の音は静まっている。また雪がべレ・イナの瞼に薄い覆いを掛けているのだ。目を閉じ、静寂と闇に身を浸していると、今度はたどたどしい声が水琴にも似て彼の耳の奥に節奏を刻んだ。


   (ダム)(イス)(ベレ)……(ピシュ)

   (トプ)(サム)……。


 音はふたつ三つと鎖のように連なり、短い言葉になる。


   (ベレ)永く (エノ)(ルミ)も|永く (イス)有ら(サイ)しめる

   (トプ)広く(オロ)(ピシュ)を生かしむ    

   (クシ)広々と(オロ)(トプ)高く(アー)満つるは(コタ)


 もうひとつ私には良い仕事が出来た。

 ガラートは寝返りを打って天井を見た。

 あの子はじきに読むことを覚える。紙と筆を都合せねばな。 


 ハルイルの息子たちのうち、兄の方が再びニアキを訪ねて来たのは前の訪問から十日あまりも経った頃だった。ニアキに積もった雪の嵩は沈み、下の森の南を向いた斜面では木の根元が窪み、沢を覆う雪は薄く、奥底に水を通しはじめていた。

 若者は凍てつく夜明けにニアキの集落に辿り着いた。戸締まりのされた戸口には吹き溜まった薄い雪が凍って張り付いていた。拳で戸を叩く若者に、北のはずれの林の方から懐かしげな複数の声が呼びかけた。

 男達の格好はさらにうらぶれ、雪焼けした顔は黒く、一様に半白の頭髪は鉢巻きからこぼれ左右になびいていた。手にした斧の刃だけが光っている。

「アー・ヤールはアツセワナにイナ・サラミアスを売り渡した!」

 若者は一同を見回すなり絞り出すように言った。

「村の者は頭を失った虫のようにうろたえている。我らの母が失われるのに残った力を尽くす途も分からないんだ!」

 男達はぴたりと立ち止まって若者を見たがさして驚く様子もなかった。

「中で詳しく話を聞こう」カマタドが戸を開け、促した。

 長い期間閉め切られ、暗く、外と何ら変わりなく冷えた屋内に入ると、男達は手早く窓から明かりを入れ 炉に火を熾した。若者は窓から尾根の蒼い影を越して雪の上に広がってくる外の様子を苛立ちながら眺めていたが、男達が炉の周りに集まると待ち構えたようにオルト谷の様子を伝えた。


 彼ら兄弟が森の見回りのためにオルト谷を出立した時にはコタ・シアナの岸の舟着き場からの道筋を含む集落の周りを警備していたのはイーマの若者達だった。だが、長手尾根から下って来た彼らが目にしたのは集落の下の耕地から舟着き場にかけて、昼の陽を浴びて不審にきらりきらりと輝く、そして鈍く動くものどもの点在だった。それらは谷分け川(コタ・ソガマ)の川口の原に多く集まっていた。

 集落の背後の森まで下りて来た兄弟は、そこで警備に就いているタフマイの若者から前の日、使者がアー・ヤールを訪ねて来た時のことを聞いた。

 使者はアー・ヤールに南の嶺(ベレ・アキヒ)の調査の要請に来たのだった。村の下の滞在地から物々しく登って来るその様相は以前よりもはるかに強硬であり、使者が伴って来たふたりの護衛兵は磨き抜かれた鉄の甲冑に身を包んでいた。彼らは長の館の戸口を守る者達に対峙するように訪問の間じゅうそこに陣取った。

 入り口の三和土(たたき)に留まるのが常であった使者は、この時は框に腰を下ろし、もの慣れた軽い口上でまず挨拶を済ませたが、ふいと面を変えて強腰に膝を進め本題に入った。南の嶺が有望な鉱山であると述べ、ウナシュの谷の奥地へ立ち入り採掘する許可を求めた。

 ヤールはその剣幕に驚きつつ威厳を取り繕い、郷里(くに)では目の鋭い者を鷹と称えるが、使者殿は千里眼とでも称すべきお方、と褒め上げた。

「しかるにその知恵の源は北からの舟によってもたらされるようだ。真の知恵者はトゥルカン殿か?」

 川辺の見張りは怠けてはいないぞ、という牽制を含ませて言ったものだったが、使者は平然と言った。

「サザール殿で」

 ヤールは嫌な匂いを嗅ぎつけたように鼻白んだ。使者は事も無げに言葉を継いだ。

「山相と岩石を見る達人でございましてな。かの仁においては父御オコロイ殿の砌よりイナ・サラミアスの秘められたる宝について良しなにお伝え申し上げていたはず。」

「昔のこと。父ももうおらぬ。」

 ヤールは首を振り独り言ちた。そして部下達に弱腰を見せまいというふうに膝の上に身を乗り出した。

「秘められたる宝とはやはり鉱床のことか?」

 使者は意味ありげに大きく頷いた。

「ひとつは鉱床の事。」

「して、もうひとつは―――」問いかけてヤールは唇を噛んだ。「まあ、いい。順に聞こう。その鉱床といいうのは、さぞ近寄りがたい険しいところにあるものでしょうな―――例えば我らが額の山(ベレ・サオ)と呼ぶ北の峰などは郷の者もおいそれとは立ち入らぬところだが……」

 使者はたとえサザールの知恵を借りずともこのようなもの知らずどもに話して聞かせるには自分で十分だというふうににやりとした。彼は村を訪れ若者達と言葉を交わす度に、自身は古い鉱山のある妹神(ベレ・イネ)の育ちであると言っていた。彼はごく気楽そうに言った。

「あのように激しく隆起している山は内がたぎって岩が融け、まさに金銀の精が呼び合い集いつつあるが、冷め静まり結晶するには遅く、人の幾世代を経てもなかなか地表に現れてくるものではありません。―――我らが目をつけているのは南の嶺だ。はるか昔に地の骨が固まり、幾星霜を経て削れなだらかになった山だ。あの山の根には良い粘土がとれる。奥の谷では雲母と金の砂子の混じった石が転がっているという。いや、これはもう二十余年も前から調査済みのことでして。」

 我知らず茫然としているヤールの気を引くように使者は咳ばらいをし、声音を低くした。

「かような岩には草木の生育に障る毒を出しているものもある。もし地表に広く岩が現れておればその場にはなおその毒に耐えうる希少な草花のみが見られるとか。イネ・ドルナイルは金銀銅の鉱山としても古いところでございましてな。多くの岩はこぼたれ形を失くし、流れる毒に加えて古に起こった噴火によって溶岩が昔の鉱床の上に覆いかぶさり、山の上に草花が芽吹くことも絶えて無いが、かつて鉱山の近くに多く見られた不思議な花について言い伝えが残っております―――ある希少な草は、そのその開花直前の茎から素晴らしい薬がとれるとか―――緑郷の民は本草学に優れていると聞き及んでいるが、どうでしょうな、それに類する草花に心当たりは……?」

 ヤールは苛立ちを隠さずに使者を睨みつけた。

「草だの薬だのは女の領分だ。」

「仰る通り、女の得手とするもので」使者は素早く言葉を継いだ。「女はよく病に悩むものですからな。薬の知恵者と言えば女だ。ところで件の薬草、その薬滴を内服するとたちまち心の臓の痛みを鎮め、心身に快楽と眠りをもたらすとか。」

 ヤールのみならずその場にいたイーマ達は思わず耳をそばだてた。

「しかもこの花は相方に勝るとも劣らない希少な蝶を呼び寄せるという―――お国の神蚕とも並び称されるべき蝶。黄金の蛹をつくる蝶。」

 ヤールは膝に置いていた手を握り、立ち上がった。一同を避けて壁に向けた頬がたちまち赤くなった。

「まさか……まさか……」

 使者はヤールの狼狽に頓着せぬふうにむしろ高らかに言った。

「貴国にこの秘薬に通じている者はおりませぬかな?またはこの薬草と蝶の生息する場所に詳しい者は?」

 ヤールは黙れというように手を振ったが、その端から頭をもたげる疑念に心を苛まれるかのように、炉の辺に控えて座している三人の部下たちの背後を行きつ戻りつ歩き回った。

 昼間から酒が入り過ぎていた―――あとでハルイルの息子たちに語った若者はそう打ち明けた―――使者をもてなすために繰り返した習慣にアー・ヤール自身が飲まれたのだ。食糧の確保に悩み、自尊心を曲げて使者の機嫌を窺いつづけた冬の暫くの間に、短慮になり疑い深くなった。

 使者は不意に話題を変え、そこに居る幹部や若者達相手に昨年暮れに都を賑わした王女の婿決めの話をした。候補にも挙がっていなかった男ふたりがいかに競技の決勝に進み出ることになったか、その勝敗についてシギル王がどのように決定を下したか。

「そういえば、シギル王の息女の婿君が誰かとはお国ではもうとうに知られた話ではありましたな。」

 使者はヤールを目で追うように言った。

 ヤールは足を止めて振り返り、彼と使者との間に注視する部下たちの影も目に入らぬげに突然言った。

「あいつが―――よもや我が国から金鉱の証になるものを持ち出したのか?それをシギルの処へ持って行ったのか?ガラートはそれと知ってあいつを庇っていたのか」

 使者はさも驚いたように目を大きくしてヤールを見返した。

「それはまた、誰のことで?何の話やら」

 ヤールは口許を引き結んだ。心中に湧きあがった疑念の波はトゥルカンの使者に気取られて良いものではない。

「件の不思議な薬草と蝶は、残念ながらイネ・ドルナイルではヌイマイと呼ばれる山師の一族の言い伝えに聞くばかり。」

 使者は話を戻した。 

「アツセワナでもチカ・ティドでも、よし誰ぞがそうであると申して持って来たとて、見て分かる者はおらぬ―――ただ、お国でそのような花なり蝶なり見た者があるとすれば、その場所は鉱脈の眠る有望な場所かもしれませぬな。イナ・サラミアスの長アー・ヤール殿、どうなされた?先ほどから何か胸につかえるものでもあるご様子だ。我らの見解を裏打ちする心当たりでもあればありがたいが。」冗談のように機嫌よく言い添えた。「南の嶺にそれを見た者がいると。このささやかな報せが第一にもたらされるなら、トゥルカン殿をはじめアツセワナの殿方は誰も悪い気はしますまいゆえ。」

 ヤールはびくりとして振り返った。そして声を押し殺して言った。

「悪い気はしない―――翻って言うならば、万一敵方に先にもたらされたとすると」

「当然それはトゥルカン殿には裏切りだ。」使者は冷ややかに言った。

「知らなかったでは済まぬ。恨まれましょうな。」

 ヤールは使者の言葉も耳に入らぬように首を振り、呟いた。

「だが、ガラートもシギルも金銀の採掘ゆえにイナ・サラミアスを開くことには長年反対していたのだ。だからこそ父の企ても二十余年も遅れたのだ。今、調査の報告を受けているおれと全く同じ見立てを、かつても言われていたというのに。」

「人は心変わりをする。さしたる故もなく」使者は訳を知ったように答えた。

「年月が重なればなおのこと。齢を取ると老い先の憂いから欲深くなると申しますからな。ちょうど折よい()()となりましょうが、トゥルカン殿がアツセワナの市場において下々の使う木銭を銅銭に変えてやりましたのでな、身分あるものも賤しき者もこの二年で金子には目が無くなったようで。シギル王も無論、あの黄や白や赤の光る塊が好きなのですよ。王こそはもっとも金鉱を欲されることでしょうな、銅銭の鋳造を賄うために―――かつてコタ・バールの鉄山を持つトゥルカン殿をうらやんでご自分の鉄山を持たれたように。」

 ヤールは壁を向き、軽蔑と苦い笑いを浮かべて呟いた。

「考えてみれば、彼こそが長年シギルと気脈を通じていたのだ。女神の御体に触れるなどもっての他と―――」声は絞り上げるように憤怒に高まった。「イーマの道を外れることはたとえ己ひとりになっても許さぬと言った、その裏でまさかシギルのために先に鉱脈を調べていたとは!」

 アー・ヤール、落ち着きなされ。部下たちは諫めるように囁いた。ことの証はおろか噂だに無いものを。

「王が調査を?」

 使者はじろりと確かめるように彼らを見やった。

「王が密かに宝を探っておられるところに我らが鉢合わせはしたくないものだ。」

 ヤールは身震いした。彼は間仕切りの帳の裏に控えていた若者を呼ばわり、使者殿に一献差し上げろと怒鳴った。しかし指図に従って酒を持って来たその手から杯をひったくるとひと息に呷り、そのまま足元に取り落とした。

「白糸束には守りの力がある―――男は入れぬ」ヤールは呟いた。頭に手をやり、ゆっくりとそこに身を沈め床に座り込んだ。若者は助け起こそうとその傍らにかがんで腕を貸し、使者は見ぬふりをして顔を戸口へそむけた。

「昔、年寄りどもは誰もがそう言った。アーラヒルが死んだ後でさえそう言ってティスナにも近寄るなと。大雨を封じる(まじな)いをしていた時、おれが遠ざけられていた時、父の部下たちはどこにいたんだ?クシュのメムサムが言ったように“白糸束”に近づいたのか?強いてティスナの上に行こうとした者は皆、血の泡を吹いて倒れたというが。シムジマは、イヴェンは……くそ、連中は訊こうにもここに居ないじゃないか―――」

 とりとめもなく口走るヤールの呟きを聞き取れるのは傍にいた若者だけだった。

「迷信だ。迷信にすぎぬ。が、ガラートは頑なに信じていた。民の方針を変え、女がティスナから出ることに応じた時も、男が聖なる川(コタ・ミラ)の源に近づくことだけは許さなかった……。」

 両手の中に埋めた頭の奥でヤールは沈思し、突然得体の知れぬ痛みに襲われたように呻いた。

「あいつが南のどこに出向いていたのか、誰が知ろうか?―――あいつが、誰を遣いにしていたか誰が知ろうか?アツセワナの誰かと気脈を通じていたとしても、無理のない話だ!」

「お国の長たちに二心はありますまいな。昨年暮れに王との長年の取引を解消したというのは間違いありますまいな?」

 長いこと応えを捨て置かれた使者は思い出させるように言葉を挟んだ。

「アー・ガラートにいま一度事を質していただきたい。」

 室内の人々は動じ、息を殺してヤールを見た。

 ヤールは歯を食いしばった顔を仰向け、叫んだ。

「汚い奴め!」

 それから、それまでの時と場を見失ったかのような様子とはがらりと態度を変え、床を拳で押して立ち上がるとつかつかと使者に歩み寄り、その框に腰を下ろした背後に立ちふさがった。

「使者殿、立たれよ。」

 使者は平静にヤールを見返すと、訪れるごとに持参している傍らの羊皮紙の図面を手にし、立ち上がりかけた。

「それなる絵図を拝借申し上げる」

 ヤールは炉端にかがんで木炭を拾い、左手に広げた図面の聖なる川(コタ・ミラ)の上流に印を書き入れた。

「ご覧あれ。この湖に流れ込む川、白い石で畳んだ道に伴われたこの谷川の上こそが“神々の集う野(ナスティアツ)”と呼ばれヒルメイの一部の者以外には禁じられた領域―――すなわちもっとも彼らが隠密に企みを行いうる所だ。既に鉱脈が発見されているならここを置いてない。調査されよ。私が許可する。」

 使者は思案するふうにひと息置いた。

「件の()()には巫女がいて山を守っているとか?」

「いや、守女(シュムナ)ルメイが居るだけだ。―――いいや、その小娘は守女ですらない。」

 ヤールは憎々しげに吐き捨てた。

「ガラートが隠している娘だ。我々皆に隠し、人目に触れぬ奥地に養っている。醜い、知恵おくれの娘だ。」

 彼は茫然と振り向く男達と興味深げに目を光らせる使者の顔を見回して言い放った。

「禁忌を盾に我々から隠していたのはあの恥さらしな娘だけではない。シギルにこっそり与えようとした山の富、鉱脈だ。」

 イーマの幹部らのみならず、冷ややかにヤールの様子を見守っていたトゥルカンの使者までもが、少し火照りを冷まし気を鎮めた方が良いのではないか、と宥めたが、ヤールは傲然と首を振り、自分はのぼせてはいない、むしろ心は重く冷たいのだと言った。

「さて、使者殿。亡き父がかつてサザール殿から打ち明けられたイナ・サラミアスの秘められたる宝のうち、鉱脈の在りかについてはお伝えしましたぞ。ところで、他にも何かがあるという口ぶりでしたな。お教え願いたい。」

「ああ」使者はすっかり忘れていたというように応えた。

「それは“髄石”と呼ばれる宝玉。お国では長葉の石(イサピア)と呼ばれ、刃の形に磨かれたものと伝え聞いております。」

「イサピアか」ヤールはむしろ意外なものを聞いたように呟いた。「それこそ女子どものまじないの石ころほどのものではないか。噂の他には見た事もない。」

「これはしたり、アツセワナの領主方の間では相応の噂に上っておりますぞ。まじないの効き目はともかくまさしく金鉱脈の証であるとな。」使者は手に握った図面を軽く振って声を落した。「王女の婿がその欠片と見受けられる玉石を首にかけておりますのでな」

「裏切り者の証拠ばかりが挙がるのはもうたくさんだ。」

 ヤールは遮り手を振った。

「気の済むように南の嶺を捜査されるといい。」

 使者は地図をマントの懐に差し入れ、顎をもたげた。

「二言はございませんな」彼は冷ややかに、顔を片隅にそむけているヤールに言った。「もうひと方、つい先ごろ指導者であられたアー・ガラートの意向を確かめずとも?」

「私が命令する」ヤールは声を荒げた。「いや、直に彼に訊くがいい」

 使者は館を出るとすぐに、待たせていたふたりの護衛の他に村まで来ていた部下を呼び、人員と物資の送り込みを命じた。

 翌日にはオルト谷の谷分け川(コタ・ソガマ)に沿って光る甲冑に身を包んだ兵士らが列をなして村の方へと登って来た。一隊は“鉄吹き沢”の辺りで左右に分かれて村の下回りを囲むように線を描いた。舟着き場の上の見張り台と村の上からそれぞれ見張っていた者は村に駆け込んで報告をしたが、ヤールは取りあわなかった。

 冬の間細々と供給されていた食糧などの何倍もの物資の梱が下の川口から運び上げられ、トゥルカンの使者は気前よくその中から酒などをヤールの館に運び込ませた。鉱脈を調査する目利きの山師たちがコタ・シアナの岸に着いたとの報せにヤールは長としての務めから出迎えに行こうとしたが、使者は屋敷内に引きとめ、調査は彼らに任せなさい、まず主トゥルカンと貴国との新たな絆を祝おう、そしてこの事業に参加を申し出ているアツセワナの領主方の分も含め、負担と成果の配分を相談しよう、と言った。ヤールは僅かな部下ともども屋敷に籠ってしまった。

 民の者達は村はずれに押し掛けてきた兵士等と対峙したまま残された。幹部らの不在の中、僅かな男達は話し合って彼らを見張れる高台に数名の弓手を残し、順に狩などの森の仕事に出た。

 半日後、聖なる川(コタ・ミラ)の方からウナシュの村の谷奥へと侵入していく別の小隊を見たという報せが高台で見張っていた者から村に密やかに伝わった。彼らは具足はつけず嘴を手にしていた。もう山を崩しに行くのだ。調べてもいないというのに。

「他にも“袂沢”の上の森で見慣れぬ風体の者が“ただむき”の側から降りて来るのが見られている」兄弟に事情を話してくれた若者は言った。「もしもあんた達が来るのが明日の朝だったら、おれ達は雪の上に影を見ただけで矢を射かけただろうな―――次からはそうしようと皆で決めた処だったんだ」

 兄弟が村に着いたのはその日の晩だった。ふたりはすぐに見張りに加わった。

 夜も更けたころ、村から抜け出してきた男達が兄弟に会いに来た。

 どうもヤールの知らない間に企みが進行している。

 彼らは性急に囁いた。使()()の呼び寄せた奴らがおれ達の暮らしや差配に口出ししてくるのは時間の問題だ。いつかは知れぬが()()()が来たら奴らはすぐにもおれ達を制圧する気だ。

「お前たちがここにいればすぐに見慣れない男が増えたといって詮索されるだろう。そうならないうちに村を離れろ。アー・ヤールにも会わぬほうがいい。」

 村の者達はさらに言った。 

「冬の間、娘たちは娘宿から一歩も出ず、女達の用にも警護が必要だった。が、もう限界だ。我々の手では女子どもを守りきれない。夜陰に乗じて少しずつ“南の物見”へ、そしてティスナへ逃がしたい。手伝ってくれぬか」

「だが、ティスナを含む南の嶺の調査をアー・ヤールは許可し、彼らはまさにそこに立ちいる準備をしているのでは」

 兄は確かめるように男達を振り返り、なかで年取ったタフマイのふたりの男が各々頷いた。

「かの地にはまだ女達を匿い守る地中の抜け道や不思議な力がある―――」

「我々が証言する。北のニアキに留まっているオコロイの右腕だったカマタドたちが知っているよ。」

 女達と子供をティスナに逃がし、弓を使える齢の者は折を見て分かれて山中に潜む。ウナシュ谷より上に行かせてはならん。

 ティスナに至る道中まだ夜の寒さは厳しい。さりとて雪解けを待っては手遅れになる。

 兄弟は話し合い、兄がニアキに、弟はガラートの処に報せることになった。

 弟は先ずウナシュの村に行き、村(おさ)に計画を話し、女達の逃げる道筋と隠れ場所を幾つか用意してもらう。数名の若者達と気丈な女達がウナシュ谷まで同行することになった。脱出の道筋を確保し援護するためだ。ウナシュの村から先は彼らとは別れ、非常時ゆえ聖なる川(コタ・ミラ)の渡渉を許してもらい、そこから一里先の“天秤竿”の岩窟にガラートを訪ねてゆくつもりだった。

 深更の闇の中、根雪の深く森を埋め、その凝って差し掛ける橋の下に谷分け川(コタ・ソガマ)その他大小の渓流を潜めたほの白い地面を、若い男女は辿って行った。

 兄の方は“袂沢”の中原から夜を徹して長手尾根(エユン・ベール)を越えて来たのだった。


「ヤールがトゥルカンの使者に返事をして丸二日経ったのだな」

 若者が話し終えると、男達の間には張りつめた沈黙が走った。

「出遅れたか」イヴェンがぶっきら棒に言い、ハンノとヨーロンが首を振った。「いいや」

 シムジマが黒く日に焼けた手で半白の側頭を掻き、カマタドは顎を撫で短く笑った。

大木(トゴ)達、聞いてください」

 再び口を切った若者は言いよどみながら言葉を継いだ。

「今では皆、間違いに気付いている。既に鉱山によって新たな暮らしに移行できるとは思っていない。大望を抱いていた若い者達の多くは異国に渡り、今も行方不明だ。

「アー・ヤールにもはや民を庇護する力はない。村の衆は女達を逃がしたら分かれて森の奥に隠れ、地の利を活かして抵抗するという。それは何日かかることだろう、誰にも見通しは立たぬ。

「私には行く手の闇が見えるばかりだ、そして母の死屍を食らう虫の蠢きが聞こえるばかり―――だが、女主(ミアス)はまだ坐し我々の命はまだ絶えていない―――何もしないでいられるものか。私は弟との別れ際互いに誓いの言葉を交わした、いつかニアキに集おう、と。」

 そして炉の前に手をつき、ニアキの男達の前に頭を下げた。

大木(トゴ)達、どうか力を貸してください!」

 男達は目を見交わし、一斉に立ち上がった。

「おれは“御髪”の陣の上を切って落とす。」イヴェンが先手に回るように宣言した。

 皆は無言でハルイーを見た。

 若者が一部始終を話している間、彼に代わって窓辺に立ち、外に目を向けていたハルイーは振り返った。

「日が射しはじめた。今日一気に雪は緩み切岸(きりぎし)では剝落が始まる。―――ベレ・サオの目の前も開ける。今日がその時だ。」

「良かろう」カマタドは素早く応えた。

 框に置きさしだった手斧を取ってイヴェンは先に出て行った。

 カマタドはその場に立ったまま指示を下し、男達は黙って準備に動いた。既に申し合わせ済みのことであるようだった。

「シムジマは渓谷からべレ・イナの懐内に潜り込む者を頼む。ヨーロンはおれと来い。アート、村の案内をしてくれ。ハンノはハルイーを手伝ってやれ。」

 男達は乱れた頭髪を結わえ直し鉢巻きを締める他には帰って来た時の装具を特に改めず、そのまま全員外に出た。

 集落を守る防風林の向こうには万年雪を戴き聳えるベレ・サオが陽を浴びている。新雪がその面を覆ってこのかた最も強い春の陽があたかもこめかみに薄っすらと滲む汗のように山の際を輝かせている。

 ずっと先に出かけたイヴェンの、北に向かう足跡が緩んだ雪の中に点々と沈んでいる。ハルイーはそれを辿るように行きかけ、ちょっと振り返り、ハルイルの息子にガラートには言付けを伝えておいてくれたな、と尋ねた。

「掌の平岩に思いを致すように、と」若者は答えた。「叔父上、あなたの言葉を無下にするものか。」

 ハルイーは無言で手を上げて背を向けた。ハンノ、シムジマがその後に続いて北に向かった。 

「我々は南に」ヨーロンは若者の肩を叩いた。

「さて、狡い鳥獣が荒らさぬように戸締りはした―――ささやかな財産だが後で若い衆が用立ててくれような?さ、出かけよう。」


 石窟に満ちる凛然たる大気にひと筋の温い風が紛れ込み、うつ伏した額に掛かる髪を撫でた。乾いた鹿皮の上に肘を起すと、その下に点々と記した文字の列が薄明かりに現れた。壁の窪みに置いた獣脂蝋燭の灯は消え果てている。その代わりに明るみの源の入り口には白い光の線が横たわっている。 

 前の晩遅くまでかかって三編の詩をなめして三つに切った革の上に書き上げた。その後すっかり日が高くなるまで眠り込んでしまったのだ。

 ガラートは詩をかき集めて手の中に掴むとこわばった身体を曲げたまま立ち、洞窟の中から巨大な岩が畳まって並ぶ間を抜け、平たい岩棚の上に出た。眩い光が前方から顔じゅうを射た。思わず目を覆うその耳を、天地にあまねく響く春蝉に似た音が満たしている。

 雪解けだ。眼下の針葉樹林は青黒い穂先を真っ直ぐに立てて並び、広葉樹は根元まで脱ぎ捨てた雪の重さから解放され、密な梢を広げている。谷間は撓んで沈み、ウナシュ谷の下の方では川が現われはじめている。

 ガラートは目の痛みが治まり、賑々しい雪の呻吟にも慣れるとひとつの岩の上に腰掛け、なめし革の紙を広げて読み返した。読み終えて北を見やると、針葉樹が峰を縁取る長手尾根とベレ・サオの山塊がくっきりと見えた。峩々たる額の岩陵は堅牢な雪に覆われている。しかしどうしたことか、ベレ・サオの頬をなす山腹の雪はそのままに眼窩はぽっかりと雪が抜け落ち、水の無い枯れた滝の懸崖が丸く開いていた。

「あの目は何を見るのか」

 言い知れぬ胸騒ぎを覚えながら彼はなめし革を畳んで仕舞い、洞窟に戻ると住まいを片付けて荷をまとめにかかった。ここを引き払うべき時が今なのかはわからない。だが、じきに日々居場所を移って行かざるを得ない状況になる。彼は、ヤールに民の統率が適う限りはトゥルカンは徒にイーマを殺しはすまいと思っていた。しかし、古い長は殺させるだろう。そしてもし、そこに近い血縁のある者が分かればその者をも。

 大事に食べて僅かばかり残っている乾餅の綴りを丸めて括り、作った弓矢と弓弦、筆記具を全て身に付けて持ち、ガラートは最後に窟の奥に掛けてあったレークシルの縫取り織を手に取りかけて、そのまま静かに置いた。

「誰の運命も分からぬ時が来た」彼は呟いた。「そのままに、サラミアの手に預けよう」

 “天秤竿”の岩棚から彼は南を回ってティスナに至る道を思案した。今では谷あいの沢はどこも雪の蓋の下に水の流れがあり、空洞を大きくしている。そして緩やかな勾配を求めて南面の山腹を回れば雪解けは早く進んでいて雪崩に遭うかもしれない。北面の山腹は険しいが日陰でまだ雪は堅かろう。

 ガラートは岩棚から水平に北に移動してまだ雪の重さに傾いでいる裸の広葉樹の森の中へと入り登り始めた。ほとんど直に上へ一時あまりも行くと、左右から迫り上へとまたがる針葉樹林に差し掛かる。あまり丈のないトウヒの森だ。山陵に沿って東にゆけば“白糸束”の上に出る。が、ここで自分の辿るべき道は南東にかけて長く連なる“弔いの岩群”を南に避けて上に出る途だ。

 トウヒの森を抜けると、ほとんど平らかに低木の茂みを雪の下に閉じ込めた雪原に出る。足元には身の丈以上に積もった雪が地の嵩を押し上げ、雪の色と同じそそり立つ岩壁と砂礫の原を遥か遠くに望む。岩壁の上の虚空には小さく鳥の舞う姿があった。ガラートは岩壁から目を逸らし、夜のための雪洞を掘る場所を探した。

 陽に曝された雪原の粗い雪の粒は集めた光を大きく膨らませながら水を生じ、層を薄く脆くしていた。夕刻に差し掛かり、遠く“長手尾根”の肘越しにベレ・サオの虚ろな瞳は大きく見開き、はるか西のベレ・イネの暗い項垂れた貌の肩先に沈みゆく入日の照り返しを受けて、万年雪を戴いた額はぎらぎらと焔の立つように光っている。

 ガラートは“白糸束”のある谷あいに目を転じた。麓のほうから湧いて来た霧が谷に落ち込む奇岩のその先を浸し、やがて稜線に沿った山腹を白い濃い幕の下に沈めた。

 見慣れた景色を突如覆う霧もまた見慣れたものであった。

 ―――なんという霧!―――

 若き日の王の驚きに満ちた声が、その時の少年そのままの鋭敏な耳に蘇る。

 ―――イナ・サラミアスを落すのは容易ではあるまいな―――

 霧の中に潜む者に慄くのはアツセワナの者ばかりではない。ガラートは呟き、目が見せるものが信用できるうちに腰を落ち着けようと、雪から半ば顔を出した灌木の脇に腰を下ろした。彼は幻に欺かれぬようにと瞼を閉じかけた。

 突如瞼の裏を白い光が走った。頭髪の逆立つような戦きが走り、前方から襲った突風が長い髪と小枝とをひとからげに吹き流した。ぴりぴりと引きむしられる痛みの奥で、うう、と男とも女ともつかぬ声が呻く。

 ガラートは目を開けて、霧の中に描き出された光景を見た。

 長い峰と峰の間に横たわる谷に、夥しい蟻の群れに似て兵士達が急変した空模様に慌て陣屋の周に走り寄って来る。陣営に面してそそり立つ急斜面の森めがけ一筋の雷光が落ち煙が上がった。

 ぴりりと蔓が断ち切られ、抑えを失った重力が山の岩根を衝いて湧きあがる―――轟く雷鳴の尾を引く余波が、人々の驚きの叫びをその内側に糊塗したままに、新たな鳴動を返して寄越す―――雪の飛沫が散り、山腹を跳ねながら転げ落ちて来る巨大な丸太が、行く手の立ち木を拉ぎ、へし折り、次々と陣地へと襲い掛かった。

 ガラートは手を振り、後ろにいざった。

「何とした!」

 彼は呟き、手を首の後ろにやった。頭髪はきちんと束ねて結わえらえたままだった。

 日はベレ・イネの後ろにすっかり沈み、ベレ・サオの貌の前に突如沸き起こった雷雲はいつしか解けて柔らかな霧になり、薄い藍色の空の下に漂った。

 何かが起こったのならそれを確かめねばなるまい。北の方へ何日かかけて自分で訪ねるか人に尋ねるか、それとも懸念が真なら他を訪ねる方が早いかもしれぬが―――ティスナで娘に愁訴があったとは聞きたくないものだ―――。

 ガラートは雪洞に毛皮を敷き、外衣にくるまって横になった。夜を通して温んだ大気は雪を溶かし続けた。水はさらさらと雪の壁を流れ、時折半溶けの欠片を降らせて浅い眠りを妨げた。

 夜半、彼は宥めようのない胸の苦しさを覚えて起き上がり、雪洞を出て、無数に丸い穴の開いた緩い雪原を少し歩き回った。はるか南東に連なる岩壁は雪よりも白く刻まれた亀裂の筋目は夜よりも黒い。反対の方向に踵を返すと、オルト谷に向かって突き出た“南の物見”の端の稜線が見てとれる。眼下に見下ろすその中ほどに横切るのは聖なる川(コタ・ミラ)を底に隠した細い渓谷であり、左へと下って行くその先の奥にウナシュ谷がある。ウナシュ谷の上部を縁取る崖の際に微かに揺らぐ赤い照り返しがある。さらに目を凝らすと夜目に白く煙の筋が上がっている。

「二里も離れてあの明るさ。大きな火だ」

 矢も楯もたまらず彼は崩れかけた雪洞に引き返すと僅かな手回り品をまとめて身につけ、まだ夜明けに遠い空の下をもと来たトウヒの森に沿って下った。木々の根方は大きくへこみ、雪は濡れて滑り、時に大きく崩れた。岩室の上の森に辿り着く頃には夜はすっかり明けていた。前の日よりもはるかに緩んだ雪の急斜面を、彼は根曲がりした木の反動の少ない根元をひとつひとつ辿りながら後ろ向きに慎重に下りて行った。

 こうしてほんの一日前に登って行った道を彼は戻ってきた。ウナシュ谷に上がった火の手の訳を知るに最も早い途は“天秤竿”をさらに北に下り聖なる川(コタ・ミラ)を渡ることだ。

 この段になって彼は躊躇した。自分に禁を犯してまでウナシュの村に駆け付ける理由はあるのか?許されるのか?あの火が急を告げるものでなくただの篝火である見込みのほうが高い。ヤールが自分の倍も早く出向いて事実を確かめたはずだ。 

 北の方から大声で彼を呼ぶ声がした。木々の間の平らな雪の上を歩いて来るのはハルイルの次男だった。

「アー・ガラート!待ってください。戻って!」若者は凍った雪の上で急ごうと泳ぐように大きく腕をかいた。

 ガラートは相手のために少し山腹を下りて行った。若者は追いつくと長に対する礼をし、口早に言った。

「私と一緒に来てください。イーマの民のために。皆があなたの指導をもとめているのです。」

 ガラートは相手を見返し、厳しく言った。

「お前たちの長はアー・ヤールだ。何故私のもとに来た。皆で一致して彼を盛り立てねばアツセワナの首長と交渉は出来ぬ。」

「もうその段ではありません。」若者は首を振った。「もう、始まったのです―――誰もアツセワナへの恭順など受け入れぬし、奴らもそれを期待すべきではない。」

 若者は自分はウナシュ谷の上から聖なる川(コタ・ミラ)を横切ってきたのだと明かした。

「あなたにもコタ・ミラを渡っていただきます。上に聖地を避けて行くなどと悠長なことは言われますな!今にも“南の物見”では女子どもをはじめウナシュの村から難を逃れ人々が集まっているのです。彼らは道に迷っている。安全な場所に導き、門の守に口をきいてくれる指導者がいないからだ!」

 それを聞いてガラートは思わず一歩前に踏み出した。たちまち、若者は踵を返しながら早くおいでなさいと彼を急かし先に立ってもと来た道を戻りはじめた。

 道すがら若者は四日前にアー・ヤールがトゥルカンの使者の要望を受け入れて南の嶺(ベレ・アキヒ)の調査を許可したこと、それと同時に武装した一団が村の中に続々と入り込み、アー・ヤールと村人との内部の連絡がほとんど不可能になったこと、村の男達が脱出を図り、同じようにウナシュの村に脱出を誘いかけようと自分に遣いを頼んだことなどを手短に話した。

「私と、女を含む仲間数名は谷分け川(コタ・ソガマ)から“石涸れ沢”を辿ってゆき、彼らはそのまま“南の物見”へ、私は途中から山腹を横断してウナシュ谷の上に出た。昔の崩落跡、古い粘土の採掘場の近くだ。上からは既に谷の口に詰めかける人の一団が見えた。」

 若者は森から村の背後に回り、厳重に戸締りされた家々をひとつひとつ訪ね歩き、ようやく会えた男に村長への取次ぎを頼んだ。村の肝煎のひとりである男は、若者を見ると他の二名の大木(トゴ)を呼んで来た。

「村長は今、粘土の採掘抗にいる。」トゴらは言った。

 先ごろやって来た鉱脈の調査をするというふたりの山師を案内しているのだという。

 実は持ち掛けたのは自分たち村の幹部だ。狭く暗い穴まで誘い込んでこのふたりを殺してしまおうと企んだ。他に大挙してやって来たのは見るからに寄せ集めの人夫で、数が村の男の倍もしない今のうちなら負かすことが出来ようという算段だった。

 だが、ふたりの山師は村長とその娘を連れて行った。先手を打たれ、人質に取られたのだ。

「今が好機だ」トゴらは苦渋の面持ちで言った。「司令塔が細く狭い暗部に入り、護衛の多くも狭い谷あいに集まっている。」

「攻撃するのですか!」

「いや」最初に会った男が首を振り、他のふたりを見て言った。「まず女衆の住まいに伝え、支度をさせよう。」

 彼は敵を油断させ、長く採掘場に引きつけておくために自ら出向いて行こう、と言った。もうじきに日が暮れる。松明を掲げていき、歓迎を装って谷の北側に篝火を焚こう。火明りの背後にはより暗い闇が出来る。その闇に乗じて女子どもから順に村の者を逃がしてやってくれ。

 ハルイルの次男と数人の若者が女達を援護しながら住居の後ろの森から谷の上へと回る山腹を登り始めた。篝火の火明りは闇も作ったが、その焔は雪の照り返しを生ぜしめ、未だ芽吹かぬ剥き出しの木々の間を動く人々の影を浮かび上がらせてしまった。

 村の下にいた人夫達の中から「人が逃げるぞ」と声が飛んだ。たちまち、谷あいに叫びが飛び交った。

 このような事態を最初から予測していたに違いない、彼らの中から弩を手にした者が横隊に進み出、山の斜面に向かって射かけた。しかし、ウナシュの者達も篝火の背後に十人余りの弓手を忍び込ませていた。矢、火矢交えた反撃で敵の弩隊の何人かを仕留め、兵ではない人夫の混成の群れにも火矢を射込み混乱を起した。

 採掘抗の方で叫びが上がった。村長とその娘が殺されたのだ。村人の脱出を援護しながら谷の上へと退却していた弓手のひとりは、眼下の谷あいに袋小路になった採掘場の中で渦をまく火の塊を三つ見届けた。それらは蟻の列を蹴散らすように周囲に小さな火の手を興していたが、ほどなくひとつ、またひとつと消されていった。敢えて敵の中に入っていった大木(トゴ)たちの最期の抵抗だったのだ。

 弓手たちの半分はまだ村境で逃げ出して来る少年や年のいった者を庇っていたが、力を盛り返した敵の群れが大挙して村に押し寄せて来た。垣を乗り越え、戸を打ち破り、彼らは容赦なく破壊を始めた。たちまちにして小路の隅々まで流れ込んだ敵は村のはずれにまで押し寄せ、逃げ遅れた者は捕まって惨い最期を遂げた。

 村を占領すると敵は破壊と略奪に夢中になり山腹に逃げた村人を深追いする者は少なかった。大部分の者は急斜面を登ることに慣れていなかったのだ。それでも追って来る者を、先に上を取った味方が石を投げて追い返した。やがて夜の闇と寒さが山の子であるイーマに味方した。しかし、それは雪の山腹にある時においてのみである。村人の多くは取るもとりあえず手にした武器の他のものを全て村に残して来、それらは敵の蹂躙のもとにあった。

「女達はこの先のコタ・ミラの“衝立”の下の原にいます。」

 それはウナシュ谷の上にあるコタ・ミラの細い渓谷であった。一時あまりしてガラートと若者とは雪の森を横切り、その南岸の切り立った懸崖の上に辿り着いた。

 渓谷に沿った長い蒼い陰の雪原に、幾群かの人の固まりがあった。ぐるりと人の垣を作るのは若い娘と子供たちで、喋りながら渦を巻くように少しずつ歩んでいる。輪の奥に座り込んで幼い子を抱える母親たち、あるいは力尽きてうずくまる者を庇っているのだった。彼女らの周りで励まし、指示を下し、倒れた者を解放しているのは若い三人の女たちだった。

「おお、イネたちが“物見”から下りて来てくれたのだ」若者が崖から下りに掛かりながらほっとしたように言った。

 若者に続いてガラートが下りて行くと皆は足を止め彼の方を向いた。ガラートは女達の方へと行きながら、夜を衝いて新しい村からやって来た三人の女達の名を呼んだ。

「この場に集まった者は何人か?」

「三十二人。大人が十九人、五歳未満が七人」ひとりの娘がすかさず答えた。

「病の者がふたり。ひとりでは歩けません。」もうひとり年かさの者が言葉を添えた。

 ガラートは初めに応えた娘と最も若い娘のふたりを指名し、他の元気な者達をティスナにまで連れて行けと命じた。ウナシュの女達はティスナを離れて久しいが、タフマイの女達は二年前までは住んでいたところだ。

 娘たちは寒さに蒼くなった顔で頷いた。コタ・ミラ沿いには古来から女達が通れる道がある。しかし、さらに上を“南の物見”の方から通う道と合流するまでの道筋はもう何年もほとんど使われぬ上、今はまだ雪が深く、幼い子には危険な道であった。

「子には命綱をつけよ。」

「背負っていきます。」母親たちは気丈に言った。「上の子供たちにも綱をつけます―――たとえひと足ごとに結び目をつくろうと、ティスナまで連れてゆかずにおくものですか。」

「ティスナにいる若い門の守女(シュムナ・タキリ)に女子どもを全て受け入れ、守りを固めるように伝えてくれ」ガラートは指揮を任せた女に言った。「―――いざという時には岩室に導き、コタ・ミラの水を増すように、と」

 賢い女は彼を見返した。

「アー・ガラート、シュムナはティスナの田を潤すために水門を開けて水を寄越させます。でもクマラ・シャコが水を受け止めればその下の水量は変わりません。」

 ガラートはもうひとりの年かさの女に何か命じようと目を逸らしながら素早く応えた。

「状況によっては皆を“白糸束”に匿ってもらうことになるだろう。その時にはティスナに至る参道を水で遮るのだ。」

 命をうけたふたりは早速女達のところへ駆け寄りながら出発に備えて荷をまとめるようにと告げた。

 ガラートはもうひとりの女に言った。

「これから私と彼とで雨風を凌げるよう、簡単な庵をつくる。それから私達は“物見”まで行き、誰かウナシュの若い者を三、四人選んで寄越す。助けが来るまで悪いが病人に付き添ってここに残ってくれ。人手が来たら、良いか、一刻も早く谷の隘路を抜け、物見からの通い道の上に出るのだ。」

 ガラートと若者とは岩壁の下に手早く柴と雪を重ねて壁を作り針葉樹の葉で葺いた庵を結び、病人を運び込んだ。

「火を焚いて温めてやりたいが、煙が上がるのは避けたい。」

 ガラートの言葉に女は頷き、彼が与えた毛皮を病人の背に掛けた。

 タフマイのふたりの女に導かれた女子ども達の三十人近い群れは“衝立”の下の原で休むために渡って来たコタ・ミラの薄氷の上を渡り、北側を細い列になって上流へと登って行った。雪に足を取られまろびながら子供を歩幅の内に匿うようにして歩く女達を、ガラートと若者は遥か後から来て追い抜き、険しい渓流の岸をはすかいに登って森に至った。

 森の雪は“天秤竿”の辺りよりもはるかに緩み、至る所に水の流れる音がした。北東に突き出て聳える“物見”の丘を指して一町と行かぬうちに林床の雪は多数の足跡にぬかるんだ土色の太い道筋を記していた。

「隠しようもない。」ハルイルの次男は入り乱れる柔らかい革の沓あとにいくらか混じる硬い靴底の跡を指差した。仲間達は兵士に後を追われている。「だが、追いつけはしなかったはずだ。追いつかれてたまるものか!」

 果して雪の上に点々とこぼれた血の跡が、一筋抜き出た足跡を辿って下っている。高台へと至るところどころ岩肌の現れた崖を少し上ると、行倒れている人影が下に広がる白い森に斑点をなしている。

「無益な死を森に残して行く―――」

「他の獣の死と何も変わらない」若者は刃向かうように吐き捨てた。「鳥どもを少し肥やすかもしれないが―――少なからず肥やすかもしれぬが、構っている時ではありません。」

 “南の物見”には弓矢を使えるようになったばかりの少年も含め、二十人余りが集まっていた。ウナシュ谷から上って来て、途中で女達をコタ・ミラの方へ行かせ、追っ手を引きつけながら応戦し、崖を登って一夜を越したのだった。食糧は乏しかったが矢は豊富にあり、皆元気だった。

 早速コタ・ミラの“衝立”の下で待つ病人のために、齢のころ十三から十五の三人の少年が救援に向かわされた。彼らはそのままティスナまで付き添って行くように言い遣った。

 物見の仮小屋は、到底彼ら全員を収容できる大きさではなかった。新村からさらに逃れて来るであろう者たちのためにも砦となる隠れ家が必要だ。

 物見の背後は広く平らで樹木はさほど大きくないがまだ豊富だ。食料となる獲物を求めてふたりが狩に行き、残りが防塁と仮小屋つくり、武器の補充に当たった。夕刻になるとウナシュの村を占拠している兵士達の一部が崖の下近くまで追撃に来たが、ほとんど脅威にはならず、ある者は屠られ、ある者は逃げ去った。

「ちょっとはしこい奴がひとりふたりいたが、ほとんどでくの坊の低地の者だ。」

 ウナシュの男達は長く眠っていた狩人の血が呼び覚まされたように意気軒昂として言った。

「彼らの目的が単純にここを襲うことだけだとは思えぬ」

 ガラートは生木の香のたつ防塁からコタ・ミラの渓谷の線がその前に差し掛かって見えるウナシュの谷を見て呟いた。

「それに彼らには我らを縛る禁忌は無い。」

 振り返って渓谷の源が登ってゆく線を追うと、物見からティスナの村に至る道のはるか上に小さく野営の火が灯るのが見えた。コタ・ミラの“衝立”を出た女達はゆっくりと順調に隠れ家への途上にあった。

「ハルイ―からあなたに伝言がありましたよ」

 見張りを交代し、ようやく己に少しの休憩を許したハルイルの次男が彼のところに告げに来た。

「時々“掌”の平岩の上に思いを掛けてくれ、と。」若者は己に理解できぬことを誠実に伝えようとぶっきら棒な口調で言った。「また、こうも言ってました。これは兄と私にも―――お前に娘がいるなら髪を梳かし、膝の塵を払うように言っておけ、とね。」

 ガラートが一瞬彼の従弟そっくりの眼で見返したのを見て、若者は黙って踵を返し他の男達のところに戻って行った。

 翌朝“物見”は霧に包まれた。霧だ、霧だ、と未明から見張りの者たちの囁きが背後で休む者の耳朶のあたりを飛び交った。霧は敵にも味方にも壁であり目隠しである。見えぬ故に偽りの安堵へと誘う魔物でもある。

 ガラートは小屋を出、ゆっくりと崖の縁に巡らせた防塁に進むと柵に沿って右を向き、北に目測を付けた。前の晩に霧の中に見た幻がハルイルの次男の言葉から呼び覚まされ、何度も眠りを妨げていた。

 “御髪の峰”の間の長い谷に置かれた敵の陣営、その真上に仕掛けられた丸太落としの留め綱を断ち切ろうとするイヴェン、振りかざした手斧に雷光が落ち目の裏を赤い光が焼く―――長い地鳴り。煎られたように谷底に蠢く丸太と人々。

 ガラートは手を振り、口元まで白く漂う霧を払った。

 “掌”の小さな瀑布の前の平岩といえば、昔その上に乗った人々は皆、女神の前で心を裸にされた。だが、女神の力を利用して自分の心に描くものを人に見せることも出来た。少なくともサザールはそうした。そしてシギルは女神の命令に対し女神のみに応えてみせた。

 彼は心の中に平岩の形とその周りを流れる瀑布の水を思い出し、描いた。

 あたかも彼の中にもうひとつの眼が開いたように、源流の渓谷を臨んで真向かいからの視界が現れた。

 早朝の蒼い陰の中に、渓谷を臨む平たい棚地の岩の上に立つハルイ―がいた。遠く小さい姿ながらその目ははっきりとこちらに向けられ、老いて削げた相貌に昔ながらの不敵な笑みを浮かべている。彼が左腕を振って指し示す方にはサラミアの喉元と呼ばれる渓谷があり、その底をゆっくりと水流に乗って下って来る六隻の舟がある。舟に乗っているのは漕ぎ手のみだが、コタ・シアナの民が使う小舟と比べはるかに大きく十人ほども乗れるかと見える。舟が向かって行くのはアタワンの丘の裾野に広がる原の岸辺だった。そこには甲冑に身を固めた兵士がびっしり五、六十人も待ち受けている。舟はまさに岸で待つその兵士達を迎えに行き、アタワンの岸で彼らを乗せて“手先”を回り、オルト谷からイナ・サラミアスの内部に攻め入るに違いなかった。

「何を見せる―――戦えと?あの子に……。」ガラートは幻を見せた霧の溜りから後ずさった。

 日が昇ると山の上は朦朧とした影に色味が注したが“南の物見”の際に築かれた砦から見下ろす下界は濃い白い綿にすっかり覆われていた。

 明け方に交代した見張りは視界が幾分払われたことに緊張を緩め、ぽつりぽつりと言葉を交わしていた。見張りの鋭い耳が敵の矢羽根の唸りを捉え、彼が叫び続く指笛で皆に報せた時には、矢狭間の厚く重ねた檜葉には四、五本もの矢が刺さっていた。朝霧に隠れての攻撃だった。

「出るな!」ガラートは取るもとりあえず弓を手に飛びだそうとした者達を止めた。

「切岸から離れて矢の準備を。霧が晴れれば上を取る我らが有利。柵を越える者のみ狙い射よ。誘いに乗るな。」

 矢の攻撃は通り雨よりも早く上がり不気味な静けさがあたりを覆った。ハルイルの次男がふと尋ねた。

「鳥どもの囀りが止んでいないか?」

 彼に応えるかのように南側を見張っていた者達が叫んだ。

「コタ・ミラの脇を何かが登って来るぞ―――大勢の兵士だ!」

 風が流した霧の切れ目からコタ・ミラの渓谷に沿って濃く蠢く線が垣間見えた。砦に放った矢は気を引き警戒させるためで、敵の本隊はティスナに向かおうとしているのだ。

「遠い。その上細い谷の奥には矢が届かぬ。」男達はガラートを振り返った。

 ガラートは皆とは反対側の砦の北の端で茫然と彼方を眺めていた。

 彼の目に映っているのは八里の彼方の目が見る五里の遠くにある光景だった。

 高い崖下の流れは隘路を解放された源に“御髪三峰”の水をも加えて勢い強く、そこに浮かぶのは輝く甲冑に身を固めた兵士らを乗せた舟だ。大将は父に似た相貌に傲慢と短慮の性分をそのまま表し冷酷な目を細めて正面を見据えている―――トゥルカンの息子アガムンだ。兵士らの帯びた剣は舷に沿って長く横たわり、弩はぴたりと一方向を向いて殺戮に備えている。

 娘に言え、膝の塵を払えと。

 音の無い言葉がハルイ―の声になって彼に命じた。

「奴らはティスナを襲う、アー・ガラート!」

 ウナシュの男達の何人かが彼に詰め寄って言った。ガラートは拳を握り、心に鳴り響く声に抗って声を出そうとした。

「弓を持て。我らもコタ・ミラに向かい、渓谷の上から彼らを待ち伏せよう―――いや、それでは勝てまい……彼らは追いつき、ティスナに攻め込む」彼は首を振って命令を半ばで打ち消した。「そしてコタ・シアナを下ってオルト谷に敵の舟が―――こうしている間にも!どうすればいい?」

 男達の呆れ、叱咤する声が遠のく。彼は額に手を当てた。

 いざという時にはシュムナ・タキリに言ってくれ。コタ・ミラの水を増すように。

 髪を櫛削り、膝の塵を払い……。

 ふと、ハルイ―の姿が脳裏をよぎった。額に玉のような汗を流し、丸太の端を持ち上げようとしている。その傍らにハンノもいる。ふたりして枝を落した丸太を下に転がし落とそうとしているのだ。丸太の重い方は既に片下がりに崖に向かって垂れ、片端を支えているのは僅か雪に撓ったイスナタウトの根だ。もう僅かに幹が持ち上がれば丸太を弾いて崖の下に突き落とすだろう。

 ハルイ―のいる“手先”の崖の下を、アガムンを乗せた舟がゆっくり回り込んで通り過ぎた。アガムンは後続の舟を急かし、怒鳴った。

「ミアスよ見そなわしたまえ」ガラートは呟いた。

「アー・ガラート、我々は行けばいいのか―――?あれを見ろ、奴らはもう間もなく“衝立”の下に差し掛かる、まだあそこから動けぬ者がいるというに。行くぞ、もう待てん。」

 業を煮やした男達は矢を取って砦の外へと駆けだした。ガラートは地に膝をつき背を屈めた。

 御身の“手先”を逃れ腹中に這い登ろうとする者共を、その手を以て打ち払いたまえ。

 ……見よ!頭の舟はもう過ぎた。

 二隻目の舟が“手先”を回りゆく―――。

「今、こそ!」ガラートは拳を握り鋭く囁いた。

 おう……。低い風の轟きが“南の嶺(ベレ・アキヒ)”の山腹を下った。刹那、弓を手に渓谷の方へ下りて行こうと物見の端へ走った者たちはもとより、生きとし生ける者全てが黙し立ちすくみ、ひとつの方へ目を向けた。見上げるティスナの下、聖なる川(コタ・ミラ)の流れを隠した細い渓谷に沿って激しい水煙が雲のように突如巻き上がり、轟音をたてて流れ下って来たのだった。

「ああ、まだ早い!」ガラートは両手を振りほどき立ち上がった。

 雪の混じった沸立つ水の盾は“南の物見”の背後から南の脇を横切り、崖に挟まれた狭い隘路に落ち込んで凄まじい勢いでウナシュ谷へ、そしてべレ・イナの長い裾野に横たわるコタ・シアナへと下って行った。

 そしてガラートの目は視界を漂う霧さえも消し飛ぶ白い飛沫の壁にまた違う光景を見たのだった。

 陽射しにぎらぎらと照り流れる水が“手先”の切岸のイスナタウトの根雪を剥落させる。起き上がった幹が閊えになっていた細い丸太の片端を突き放す。下方に滑り落ちた丸太はその下に同様に仕掛けられた罠を次々と解放し、雪と氷水の混じった恐ろしい巨大な矢となり、まさに下を通過しようとしていた舟を打ち砕いた―――。

「水だ。コタ・ミラの水だ」

 彼の肘を掴んで揺すぶりウナシュの男が慄く声で言った。

「見なさい、アー・ガラート。聖地から流れて来た水が敵も何もかもみんな流してしまった!可哀相に“衝立”に残った者は助からなかったでしょう。坊主(イー)どもも逃げおおせられなかったろう!我々は迂闊に近づかなくて正解だった。―――それにしても大勝利だ。」

 周りにいた者は興奮して囁きあった。駆け寄ったハルイルの次男は蒼ざめた頬に目を見張ってガラートを見つめ、やがてくるりと踵を返すと他の若い者を呼び集め、コタ・ミラに味方の生存者を探しに行くぞ、と告げると弓矢を手に屈強な数名を連れて南のコタ・ミラの渓谷へと下りて行った。

「敵は暫く迂闊に近寄るまい!」年のいったウナシュの男達は目をぎらつかせながら口々に言った。

「見ろ、異邦人どもめ」「サラミアが手討ちにしたのだ」

「アー・ガラート、わし等もひと休みできような?」

 ガラートは顔を背けてやっとで頷き、人目を拒むように低く枝を垂れた木立ちの陰へと歩き去った。


 四日もの間敵の追撃は無かった。ハルイルの次男は仲間と探って来たウナシュ谷の様子を報せた。敵はコタ・ミラの突然の出水によって約半分の者が死傷した。村に残る者の多くは兵士ではない。もし我々を攻めるなら人員の補充を得てからになるだろう。物見に立てこもる者達は砦の補強をし、順番を振り当てて数人が狩に出、木の芽を探して食料の足しにした。

 五日目になって北の峰伝いに、ニアキに住んでいた古強者のひとりヨーロンがやって来た。彼の合図の烏の声を聞くと、見張りに加わっていたハルイルの次男は仲間に弓を下げるよう言い、柵の横木を内から外して迎え入れた。

 待ちわびた味方の到来を期待して砦の内にいた者たちは集まって来た。しかし、ヨーロンはただひとりだった。彼は口々に尋ねる人々には応えず、大声でアー・ガラートはいるか、と尋ねた。

 ガラートが柵の北面まで出て行くと、ヨーロンはすぐに後ろを振り返って指差し、タフマイの新しい村にいた村民の多くは脱出し、集落の北、長手尾根の“袂沢”沿いの原のほか古い狩場のいくつかに分かれて潜んでいる、と告げた。

 ガラートは詳しい話を聞くためにハルイルの次男とウナシュの中では顔の利くふたりの男のみその場に残し、残りの者達をそれぞれの仕事へと去らせた。ヨーロンは柵を組むのに切り倒した白檜の切り株のひとつに腰掛け、足をさすりさすり話した。

 オルト谷の村では兵の到来からすぐに女子どもをティスナに逃がす決断がされた。未だ雪深く長い道のりであること、敵の目を欺かねばならないことを考え、計画はごくゆっくりと進んだ。自分とカマタドがハルイルの上の倅に連れられて村に忍び込んだのはまさにそれが行動に移される第一日めだった。有志の手引きによって五日間かけて三人から五人ずつが村を抜け出した。そして、そうしているうちに“長手尾根”の向こうでは()が起こったのだ。

 兵どもの噂によると、その夕刻まさに青天の霹靂といった雷があったのだという。そして“御髪の峰”の真下の陣営に雷電の一撃と丸太の雨が襲った―――イヴェンは時機を見て崖に仕掛けた丸太の留め綱を断ち切ると言っていた。だが、どうやら奴さんを犠牲にする代わりに雷がもっと首尾よくやったようだ。

 そればかりじゃない。

 女神の仕業か、人の策に偶然が重なったか、ともあれ陣地に災難が襲ったのはイーマのせいだとして、アタワンで駐留していた大将が報復のために兵を挙げた。北の渓谷の船渠に隠してあった舟を出し、コタ・シアナを下ってオルト谷に攻め入ろうとした。だが舟の一団は姉神(べレ・イナ)の“手先”を回り込む時に罠にかかった―――丸太の滑り落としは丁度奴らが通りかかった時に動いた。竪杵で突くようなものだ、二隻は粉々になり二隻が転覆した。鉄の鎧を着た兵士達の多くはコタ・シアナに沈み、アタワンの敵軍は六割がた壊滅した。

 このアタワンの大将の短兵急はオルト谷の村を仕切っているトゥルカンの使者には迷惑だった。騒ぎを村の者、わけてもヤールには知られたくなかったのだ。だが、おれとカマタドが背後の山から眺めれば村に詰めている兵の動揺は一目瞭然だった。

 兵は二手に分かれ、一方はコタ・シアナ沿岸を見張りに、一方は村の包囲に取り掛かった。

 我々はこの機が最後だと判断した。村の残り半分が逃げ出すのにな。奴らは慌てて大きな音を立てたくない―――ところで我々は包囲を待つなんて真っ平だ、早いが身上だ。

 この五日間、女達を逃がすにあたって村の衆は少しずつ取り決めをしていた。あんた達も知ってのとおり、あの村は広場を囲むようにして葉っぱの脈みたいに家々が繋がり、間に小路が通っている。いざという時には広場に通じる小路を板戸を立てて塞ぎ、繋がった家境を開けて通ろう、とな。奴らが村の周りを囲み始めた時、皆はすぐに家の中を隣へ隣へ移り東側の上へ出た。そこから一気に沢を渡って森の中に逃げ込んだんだ。

 運悪く村の西側にいた者はもともと兵が見張っていた広場を突っ切る事が出来ず残された。そして、アー・ヤールと三人の幹部がまだ村の屋敷の中に残っている。

 村は封鎖されたが今のところ敵は追って来ていない―――もう大きな獲物を囲んでしまっているからな。

「新しい村も敵に取られたか!」ウナシュの男は恨みがましく言った。「もっとも、もぬけの殻の村を取るのは容易かっただろう。勝手に我らの村に押し入るのを敵に許したアー・ヤールだからな、戦いもしなかったに違いない。」

「べレ・イナの懐はどこも我らの家」ヨーロンは微かに目を細め、優しい声で言った。「奴らが陣取っている村などべレ・イナの肌の染みにすぎん―――そう思ってそれぞれ家を捨ててきた者同士、共に忍んでくれんか。」

 ウナシュのふたりの男はまなじりを吊り上げ口元を結んだ。ヨーロンは穏やかに続けた。

「ヤールはお山の大将、いや、同じ山の隣の谷の衆にも意向を知らせられぬ、()()のようなものよな。―――だが当人はウナシュの反乱も知らず、新しい村の包囲も脱走も知らず、まだアツセワナと交渉できるつもりでいるだろうな。」

「トゥルカンは、まだ、交渉するつもりなのか―――?」ガラートは膝の上に組んだ両手に目を落した。

「人質を相手に!」ウナシュの男が軽蔑したように言った。「彼がトゥルカンに何を約束しようが、こちらはもう与り知らん。」

 ガラートは男には答えず、ヨーロンに尋ねた。

「アー・ヤールが敵陣を脱する見込みはあるだろうか」

「カマタドはそのつもりでいる。おれも」

 ガラートはその場にいる五人にさらにウナシュの若手をふたり加え、そのまま桂の木の下で会議を行った。

 敵はベレ・サオ、アタワン、オルト谷に多く見積もって二百五十ほど。対して包囲を脱出して深山に潜むイーマの民はこの“南の物見”の二十一人の他に、十八人の男と十人余りの女子どもがいる。

 女子どもはティスナに行かせよう。男達は機敏に動け、且つ戦力を削がず食糧の消耗を緩やかにするために三つの組に分けることにしよう。拠点は大まかに分けて“南の物見”“長手尾根の袂”“谷分け川源流”とする。敵の動向に合わせその周辺の古くからの狩場へ迅速に移動し攻撃をかわす。各々伝達、食料調達、拠点防備の係を当てよ。勝たず負けずを旨とし、長の帰来を待て。

 仲間を分割せねばならないことにウナシュの者たちは明らかに不満を表し、異を唱えた。

 それに女達をティスナに隠すというが安全なのか?五日前、敵は正にティスナを狙って聖なる川(コタ・ミラ)の谷を遡って来たのではなかったか。そもそも敵方の目的もまた“南の嶺”にあるという。村に送り込まれたウヌマは蜜を探し当てる虫のように岩石に詳しいが、戦う能力は大した事が無い。今すぐ全力を投じれば村を取り戻せるのではないか。

「奴らを全滅させてやる」ウナシュの若者は息巻いた。

「そうだ、アー・ガラートが山に念じてくれればまた雪崩のひとつも起きるかもしれんぞ」年のいった男が期待を込めて振り返った。「我々の先頭に立って村を取り返してくれ。」

「アー・ヤールがここへ来て私に代わって指揮を執るのでなければ」

 ガラートは村の奪還を否定した。

 会議の前からその場にいた代表格の男は顔をこわばらせてガラートを見返した。

(アー)、あなたはアツセワナのシギル王に援軍を頼みさえすれば済むというのに―――」

 ガラートは素早く手を上げて遮った。「その話は聞かぬ」

 ウナシュの男達は不承不承、北へ援護に送る七人を選ぶために砦の仲間達のところへ行った。

「明日の命も知れぬというに、人の欲とはしぶといものだ。」ヨーロンは彼らの背を見送りながら飄々と呟いた。「土の匂いを鼻の孔いっぱいに嗅ぎすぎて雨雲が近づく匂いが入ってこないのか?捨てるだけ捨てて細くならぬと、森はお前さんたちを匿い養うことは出来ぬぞ……。」

 そしてガラートに顔を向けた。

「おれは彼らと北へ戻る。仲間の処まで案内せねばならんからな、それをあんたがおれに望むならな。」

 ガラートは頭を下げた。

「だがアー・ガラート。おれと旧い仲間はヤールとは一度袂を分かったんだ。あんたはヤールを助け出したいと思っているんだから言っておかねばならんが、おれ達は生きるにせよ死ぬにせよ森に消える。それが出来ぬ者とはいずれ別れることになるだろうな」

「それでもあなたもカマタドもヤールを助け出してくれると?」ガラートは低く言った。「感謝の言葉もない」

 ヨーロンは期待してくれるな、というふうに悲しげに首を振った。

「アー・ガラート、あなたはどうなさいますか?」ハルイルの次男がふたりの方に身を乗り出し、声を低めて口早に言った。「ここを他の者に任せてさらに奥地に移られては―――いずれ北から逃げて来る女達をティスナに送らなくてはならないことだし。」

「皆の体勢が整わぬのに私が先に逃れるわけにはゆかぬ。」ガラートは穏やかに言った。

「皆との取次ぎを私か、それとも兄に任せて」若者は考えながらなおも言い継いだ。「あなたをここに来られるよう迎えに行ったのは私だが、果たしてよかったものか」

 若者はヨーロンと見交わし、そのまま肩越しにちらと背後に目をやった。広く円やかな南の嶺(ベレ・アキヒ)の雪を被った山頂は雲の無い空の下に無防備に横たわり、彼らの後ろの針葉樹の森の厚い帯の向こうに芽吹きを間近にしたイスナタウトの覆う山腹が細い谷あいの影を刻んでいた。


 翌日ヨーロンはウナシュの者七人を連れて“谷分け川(コタ・ソガマ)”を指して発った。彼らをガラートと共に物見の北の険しく狭い渓谷まで送ってきたハルイルの次男は砦に戻る途中でガラートに言った。

「さあ、ここから黒檜の森に沿って行けばご存知の女達の通い道に出る。どうぞご息女の安否を見守れる処へ。合図は亡き伯父ふたりのものを交互に使うことにしましょう。私が恐れるのはむしろ味方の臆病風だ。」

 ガラートは若者に黙って会釈をすると、言われた方に向きを変え少し背を屈めて黒檜の森の陰を登って行った。

 それから三日の内にヨーロンはオルト谷から長手尾根に分かれて潜む仲間を尋ねた。カマタドは新村を逃れてきた者達と一緒に“谷分け川”の上流の深く落ち込んだ谷の北側にいた。そして“長手尾根”の袂にはハルイルの長男が数人のタフマイの男達と共に峰の上をも警戒しつつ留まっていた。彼らは強健で若く、三つの拠点に分かれて連絡しあう事は承知したが“谷分け川”で一旦待機している仲間の追加の申し出は断った。

「ニアキのあなたの仲間たちが北での作戦の後で合流した。」ハルイルの長男はヨーロンに言った。

「順に“中の嶺”を監視しながら訪ねて来てくれる。姉神(べレ・イナ)の手先を回り損ねた後でアタワンの大将はアツセワナに早馬を送って援軍を催促した。が、トゥルカンは兵を寄越す様子は無い。私達は北の敵を見張り侵入する者がいれば仕留めよう、今のところはそう多くはないが。ご足労いただいたあなたにはここで暫く休んでいただき、隣への返答には他の者を行かせようと思う。」

 彼はその場にいる若者達に隣との伝達に出かけたい者はいるか、と尋ねた。

「おれが行こう。」休憩がてら耳をすましていた者の中から立ち上がったのは、ひとり半白の頭に痩せた背を屈めたシムジマだった。「若い者は若い者で力をあわせろ。おれはもうひと搾り足を使ったら休むことにするよ。」

 若者は老人に感謝の言葉と共に遣いを頼んだ。そして、長手尾根の向こうの広い森では雪解けと共に獣が姿を現わしはじめ狩の自由もきく、その上自分たちは少数だから食べる物に不自由はないと言って、仕留めて切り分け沢にさらしてあった鹿の腿肉を結わえて土産にし、持たせた。シムジマはそれを背にくくりつけて、狩場の原の南から谷分け川(コタ・ソガマ)へと合流する沢沿いに下って行った。ヨーロンはシムジマに代わってその場にとどまった。

 シムジマは沢が深い谷に差し掛かると南に渡り、山側を左にとってすっかり雪の緩くなった森をほとんどひと足ごとに膝の上まで埋まりながら進んだ。カマタドと新村から逃れた女も含めた二十人、ウナシュの七人が待つコタ・ソガマの谷奥に着いたのは日も暮れる頃だった。

 最も人数の多い拠点となった谷分け川の野営地では暗くなってもほとんど火の気がなく、避難民たちは息を潜めるようにしてひっそりと森の陰に潜んでいた。オルト谷の上部に位置するこの場所は麓の裾野に向かって谷の口を大きく開き、下にある新村の集落と耕地をほとんど一望にできる。しかし、敵に占領された村はその周りに見張りを立て、家々を営舎に用い、あまつさえ赤々と篝火を焚いて夜闇に潜むイーマ達を挑発し、その失望と怨嗟を煽るかのようだった。

 “南の物見”から勇み立ってやって来たウナシュの若者達は昼夜を分かたず燃される火を見て呟いた。

「無慈悲な、強欲な―――心持ちからまるで違う。彼らは戦人だ。村の奪回なんか到底無理なんだ!」

 シムジマは彼らの後ろを通り、崖の下に風を避け檜葉で葺いた女達の粗末な小屋の前を遠巻きに通り抜けて、一団の頭を務めているタフマイの若い男とカマタドの処に戻った。

「ヤールは村にいるのか?」彼は尋ねた。

 村を脱出するまでずっと長の家に仕えていた男は頷いた。

 アー・ヤールはかなり前から酒にやられている。醒めたくないからアツセワナの強い酒を勧められるままに呷る。だが日に何度か目を覚まし、トゴ達の名を呼ぶ。彼らが逃げられなかったのもアー・ヤールが大声を上げて敵の注意を引きつけてしまうからだ。

 シムジマは一寸声をたてて笑った。若者達は不謹慎を咎めるように彼を見たが彼は目を細めたままありふれた空模様を話題にするように言った。

「カマタド、ヤールは昔からこだわりの強いわっぱ(イー)だったな。他の者の気分まで悪くして悶着に巻き込むのでなければ放っておくんだが。」そしてごく真面目に言った。「おれを奴のところへやってくれ。トゴ達を奴の(もり)から放してやろう。」

 カマタドは、いつだ、と尋ねた。

「今晩さ。」

 シムジマは足元ほどに小さく近くに映る五つの炎の固まりと、そこから立ち昇る煙が夜空を白く濁らせるのに顎をしゃくった。

「アタワンのアガムンはどうやら父親に援軍を頼んだ。トゥルカンは何を思ってかまだ応援を寄越さないが、侵攻に手を染めた以上遠からず大挙して来るとハルイ―は言っていた。で、あの雲だ。」彼はちょっと手をあげてイネ・ドルナイルの頂上を隠し肩までずしりと厚く被さった雲を指した。「今夜半から久々に冷えて霧が出そうだ。イネ達をティスナに行かせるならぐずぐずしていられない。カマタド、すぐに準備を頼む。」

「ここを引き払う準備だな」

 男達は仲間を呼び、女達のところに出立の準備を促しに遣いをやった。それから素早く示し合わせると

シムジマは谷の下手で村に点る火を眺めていたウナシュの若者七名を呼び寄せた。

「あれを見て何か思い出しでもしたか。」シムジマは若者達に尋ねた。

「松明を振りかざして敵に突進し、最後には自ら火柱になって崩れていったトゴ達を」ひとりが答えた。

「私達はウナシュの村を脱する際、敵に抵抗し戦った」もうひとりが隠しきれぬ憤りを込めて見返した。「それなのにタフマイの者達は無傷のまま村を置いて来た。ご覧なさい、敵はぬくぬくとあの村に住み、余った家は壊して焚き木にしている。それも我々に見せつけるための篝火に。よくもこんな屈辱を我慢できるものだ!」

「あれを我が物と思えば口惜しかろうが、捨てたものだと思えば何でもない。」シムジマは素っ気なく言った。「それに見方を変えれば、あれは誂え向きの明かりだ。今度はこちらの番だとな。」老人が痩せて削げた顔に犬歯を見せて笑ってみせたので若者達は黙り込んだ。

「お前たちは七人、あの村に残る者も七人。誰か向こうに行って彼らの平生の“鳴き”を訊いて来い。そして下から見えない窪地で火を熾し炭を作れ。他の者はおれの言う通りにちょっとした毬をつくってくれ。」


 夜更けからオルト谷は何日ぶりかで濃い霧に包まれ始めた。村に駐屯する兵の多くの者が休憩に入り、残りの見張り番達は集落の外に迷い出るのを恐れ、包囲の環を解いて火勢の衰えてきた五つの篝火の周りに集まった。彼らは暖を取りつつ、退屈しのぎに遠い郷里の夜に聞き覚えた物語や不可思議な逸話などを語っていた。

 星の無い夜は歩みを止めてしまったかのように見え、くたびれて座った者はほどなくして鼾をかき始めた。睡魔を払いに火の周りを歩く者は漂う霧のいや増す白さとうねる()()の向こうを時々足を止めて検めた。

 二十日近い滞在の間に幾度となく自らの怯懦が見せた影が、より一層近くに見受けられるのは何とも業腹であった。しかも先ほどから梟の鳴き声を初めに様々の鳥の声、真夜中に囀るはずもない鳥の声までが方々から聞こえて来ているのだ。光の無い雲の中での鳴き声は異様な不可解なものであった。仲間たちはいつしか横になり死んだように静かだ。

 存外な近くに応える鳴き声があり、ほどなくして集落の内の長いこと閉め切った住居のある方から密かに戸の軋んで開く音があった。

 彼の立つ篝火は村の南西の端にあった。村を包囲した日、ほとんどのイーマが逃げ出した日に彼らは取り押さえた者達を長の家から放した一軒に追いやって閉じ込め、接収した家の他は取り壊した。この篝火の焚付はそのうちの一軒だ。

 トゥルカン様の命令だとかで、捕まえたイーマどもにはほどんど手荒な真似はしていない。毎日、もうひとりの長の居場所と髄石とかいう石の在りかを訊くだけだ―――ぬるい尋問、効果などありゃしない。警戒の対象は集落の外に潜んでいて攻撃するかもしれないイーマだった。が、見ろ、奴らめ大胆にも出てきやがったぞ……。

 彼は眠った者を罵り、その丸まった胴鎧の背をひとりひとり足で小突き、続いて襟首を掴んで揺すぶろうとかがみかけた。ふと、彼の目の端を何か薄明るいものが空をゆっくりと滑って行った。目を上げると

丸い目玉のような火の玉があちこちから宙を転がり、弾み、音も無く火花を散らして砕けている。

 離れたところにいる夜警の仲間が上げる驚きの声に、彼は不覚にも一度ぞっと総毛立ち、次に腹を立てた。足元まで転がって割れた火の玉は、ただの灌木の枝を丸めた球に炭火を詰めたものに過ぎなかった。

「気をつけろ!イーマが逃げるぞ!」

 イナ・サラミアスにはイーマ達が“集会場”と呼んでいるちょっとした広場以外には平らに均した地面など無い。集落の中でさえもだ。ちっぽけな家を取り払った跡には膝丈ほどの段差や坂にしょっちゅう出くわす。平らではない地面を視界の無いまま踏み出すのは得策ではない。手火にする薪を一本取ろうと腰を低めたまま上体を巡らせたところを横ざまからばさりと風を切る音、そして腰にぶつかる猛烈なひと蹴りが襲った。火の反対側に転がって起き上がろうとした目に、真上にぎらりと輝く黒い一双の瞳が映った。

 あっ―――!

 急を告げる声を発する前に聞いたのは己の眉間の奥の砕ける音。

 刹那の驚き。火の玉の弾け、割れ、明滅し、ちりちりと笑い、闇に帰る―――。


 高らかな鳥の鳴き声にヤールは夢うつつの境から呼び覚まされた。瞼を開くと夜闇の只中にあり、仰臥した顔の上には薄赤い環が浮かんでいる。それが弱った灯火が宙に吊るした火皿を赤く縁取っているのだと悟ると、ヤールは度重なる不覚に怒りの声をあげ、手足を床に擦って悶え、痛む頭を持ち上げようと右へ左へ振った。

 ほとんど口に付いた順で彼は幹部たちを呼んだ。ようやく起き上がって座りなおすと、表の鳥の声が春の日の初音ではなく、幹部たちの合図の呼び声だと気付いて彼は困惑し、何事が起きているのかと考えようとした。

 窓の隙間から見える外が夕陽のように明るい。これには見覚えがある。

 昼夜を分かたず道を整えているのです―――手探りで引き寄せた酒杯を傾けて啜り、そこに残る滴の味わいが舌の根まで伝わると、アツセワナのトゥルカンの使者の声が耳朶に蘇った―――篝火を焚いて普請を続けているのです。やがてここに山を拓くために私財を投じるアツセワナの領主方の遣いが大勢の人員を率いてお越しになりますので。 

「イナ・サラミアスは我らの国だぞ!」ヤールは拳で床を叩きつけた。

 イーマは所有せず。イナ・サラミアスは未だイーマのものであったことはない。

 頭の中で聞いていた使者の声がふと真面目な、悲しげな穏やかさで応え、彼の目を向けていた方、炉を切った奥の帳の端が前に押し出るように動き、音も無くひとりの男が入って来た。

「使者どの、それは誰の受け売りだ?」ヤールはからからと笑った。「その言い方はまるで―――」

 唸って腕で目をこすり、改めて相手を見た。入って来た男は彼の前に片膝をついて腰を落とした。半白の頭、非常に痩せて外衣は古び、みすぼらしい。

 突然の不安に襲われ、ヤールは幹部の筆頭の名を呼んだ。

「ミオフ!」

「アー・ヤール、ここに」目の前の男は平静に言った。

「誰だ?」ヤールは後ろにいざりながら尋ねた。「おれはミオフを呼んだ」

「おれはイーマだ。森から生まれ、森に消えるイーマだ。」

「なら、消えてしまえ。」

 ヤールは軽蔑を込めて言い、ごろりと背を向けて横になった。

「ミオフはもう行ったからな。」

 男は念を押すように言った。幾ばくかしてヤールが振り返ると男は夢のように消え去っていた。

「くそ!」

 ヤールは罵ったが、頭蓋を闇底へと誘う重さに抗えず、苦しげな鼾をかき始めた。

 大勢の者達の歩き回る音、号令する声。

 ―――ついに始まったな、山を切り開く工事が―――

 ざくざくと鶴嘴で山肌を掘る音、土砂を掻いて籠に詰める音。号令をする男の声。

 オルト谷の西裾の森を流れる小さな沢の、樹が切り倒され土手が大きく切り取られてゆく。これから炉を築いて鉄の生成がされる。父オコロイが長老たちを説き伏せ、鉄師を招いての実演に漕ぎつけたのだ。

 ―――そうだ、後に“鉄吹き沢”と呼ばれるようになった―――

 あれは昔のことだと年取った自分が心の片隅から囁く。記憶の前後に惑う彼の耳になおもありありとひとつの声が甦る。それは今も昔も、彼の心中の喪失を埋めて膨らもうとする誇りを翳らせる声だった。 

 女主(ミアス)を傷つける!

 一度きりで終わるといい……。

 彼は不満を口にしようとしたが声が出なかった。代わりに目が開き、天井に吊った火皿の絶え絶えな赤い環を映した。やはり、あれは昔の事だったと悟ると同時に、古く遠い不幸と不名誉の記憶が染みのように彼の心に広がった。

「トルトフ―――トルトフ!」

 ぱっと風の立つほどの勢いで帳が跳ね上がり人影がのしのしと入って来た。男は仁王立ちに彼の傍らに立ち、見下ろした。

「アー・ヤール、ここにいるぞ」

「誰だ―――?」ヤールは目を見開いて男を見つめた。「おれはトルトフを呼んだ」

「彼は行った。イーマに戻るため」

「裏切り者め」ヤールは腕にうつ伏し咳き込んだ。目蔵滅法に床を探り酒器を探した。 

「やめておけ。アー・ヤール」男は一寸片足を進めてヤールの手と酒の瓶の間を遮り、窘めた。「我々と共に行くか?」

「あんたは親父の部下だったじゃないか。」ヤールは詰った。「裏切り者」

「もうあまり時間が無いぞ」

 男は作業の音というよりも喧騒に近い表に耳を澄まし、さらに促そうとかがみかけた。

 表の戸口を拳で叩く音がし、具足の鳴る複数の音の中でトゥルカンの使者の声が呼ばわった。

「アー・ヤール、村で暴動が起きましたぞ。御身の護衛に参った。館の入り口を開けて下され」

 それを聞くと男は帳の後ろに隠れた。ヤールはようよう身を起こし座り震える手で頭髪を結わえ直した。戸がかたかたと揺れ、外でふた言ばかり交わされたと思うと、ずしんと閂をかけた戸が鳴り、館にみしみしと震えが走った。

 やめろ、とヤールは叫びながらふらふらと戸口に出て行き、閂を外し戸を開けた。四人の護衛を従えた使者は開け放った戸の一歩中に入り、背後から照らす松明と篝火の光で屋内の様子を窺った。

「身辺に怪しいことはありませんでしたか」使者は慇懃に尋ねた。「側近の方々はどこに?」

「皆、去った。」ヤールは答えた。「知らぬ―――出払っている。」

「もうひとりの長のところにでも参集したのでありましょう」使者は苦笑した。「()()調()()が終われば主トゥルカンがアツセワナから出向いて来る予定でございましたが、現地で思わぬ抵抗にあって手間取っておりましてな。」

 ヤールは口を突いて迸りかけた悪態をうつむいて片手で塞いだ。使者は笑みを浮かべたまま淡々と話し続けた。

「件の嶺の麓の小さな村にわが調査隊を差し向けたところ、話も交渉もあったものでない、一晩にして反目の意を表し代表者を罠に陥れようとした挙句、村じゅうこぞって逃げ去った。山の崖上に砦をつくって立てこもり、鉱脈の調査を妨げている。アー・ヤール、あなたはトゥルカンとの約束を反故にしたのか。それとも彼らが長であるあなたに謀反を起こしたのか。」

「裏切りだ」ヤールは呻き、使者の背後の赤い影の揺らめくのを見た。「そして、何だこれは―――おれの村、タフマイの眷族はどこに行ったんだ?オクソヴも行ってしまったに違いない。」

「主トゥルカンは民の長と約束を交わしたはずだが」使者はさも当惑した口ぶりで言った。

「あなたがもはや長でないのならトゥルカンは民が頼って行った別の長と交渉をし直すことになりましょう。」

 彼は護衛達の方に目配せをした。開け放った戸の外に、護衛らは甲冑に火影の照り返しを受けながら両手を腰に厳めしく立っている。彼らの後ろで村の家々は燃え上がり、駆け付けた兵が、味方が五人殺されたが、村人を三人、襲撃を仕掛けた他村の者と思われる者を四人殺した、と伝えた。

「―――さもなければ、これほどの敵意を見せられた後だ、イナ・サラミアスの者、悉くトゥルカンの敵とみなして成敗するまでだ。トゥルカンも引き下がってはおれぬ、なにしろ鉱山を開くために第三家、第五家、イビスと錚々たる家柄の領主方の資力を預かり注ぎ込んでいるのですからな!」

「私が約束を反故にしたと?心外だ」

 己の困惑の増すほどに相手が油を得た火のように勢いづいて難詰するのを、内心の失意に楯突くようにヤールは声を荒げ、より度を失してむせんだ。

「私こそ裏切られたのだ。部下に、民に。」

「ヤール、情けない奴だ。お前の親父の代わりにおれが泣くぞ。」不意に帳の後ろでしわがれた声が囁いた。「お前を頼れないばかりに皆出て行ったが、お前を見捨てずに助けに来ているというのに!」

 ヤールは大きく身を震わせると左腕を大きく後ろ手に振りやって叫んだ。

「そこだ。その帳の裏に裏切り者の間者がいる!私の敵、我々の敵だ。」

 使者は首をひと振りして左右の護衛兵に合図をした。三人の者が館に踏み込み、部屋の奥の三方に掛けられた間仕切りの帳を跳ね除けて裏の外側の小部屋に躍り込んだ。

 無言の間にばらばらと床の鳴る足音、飛び交う低い声、帳の打ち合い、柱に当たる刃が一度、二度と鈍い音をたて、「それ!」掛声と三度(みたび)刃の唸る音。

 奥の帳がはらりと落ち、抜き身を携えた後ろ姿がふたつ暗がりに浮かぶ。

「鼠か。」

 使者はヤールの脇から室内に上がり、ゆっくりと歩んでいって護衛らの頭数を確かめると、振り返って奥の闇に背を向けて框にうなだれて腰をおろしているヤールに言った。

「立派な館を汚してしまいましたな。我々の陣営に移っていただこう。」


 谷分け川(コタ・ソガマ)の上流で村の様子を見守っていたカマタドは、下界を包み込む霧の綿の下で弱まっていた篝火の明かりが、栗の皮から這い出た虫のようにじりじりと位置を変え勢いを増しながら村の中に燃え広がるのを認めた。

「火の勢いが強すぎる。シムジマがしくじった。が、奴のせいじゃない。ヤールは我々のもとには帰ってこない。イーマを捨てたのだ。」

 彼とタフマイの男達はじりじりと時が削られるのを感じながら暫し下から脱出して来る者を待った。余程待ったかと思えた頃、下の方からヤールの側近の三人の合図の鳴き声が霧の中から聞こえ、もう少し近づいたところで作戦に行かせたウナシュの若者の呼び声がした。

「奴らがここを追ってきます。大勢の兵士を向かわせて!」 

 若者は仲間四人を失い、村から四人を得たと言った。

「アー・ヤールと老人はどうなったか分かりません。兵士らは一部が麓の方に下って行き、多くがこちらにやって来ます。この沢沿いに!」

「皆、出発だ。」戻って来た者の顔を確かめ喜ぶ間も無く、タフマイの若い頭は号令した。「トゴ達、我々について来てください。皆で南の砦へ行こう。」

 二十人もの群れは谷分け川(コタ・ソガマ)の河原に沿って上へと登って行った。オルト谷の中でも最も深く険しい渓流沿いを一里も登れば、長手尾根からなだらかな山腹を水平に通るティスナへの“女道”に出る。そこで南岸に渡り、道伝いに“南の物見”まで行こうというのが予め決めておいた道筋だった。

 しかし、行程の半分とゆかぬうちに振り返った女達の間から怯えた囁きが漏れた。夜目と手探りで進む彼らの後ろに迫るのは兵士らが手にした松明の列であった。その火が霧の帳さえも薄く裂いてその合間から鉄の具足の煌めきを垣間見せていた。彼らは迷うことなく雪の上に残るイーマ達の足跡を辿って上って来ているのだった。

「このままでは追いつかれる」先導していた若者は足を止めて、トゴ達とカマタドに相談した。

「幾つかに分かれて森の中に隠れよう」

「そうして夜が明ければ奴らの狩が始まる。」カマタドは首を振った。

 止まれ、止まれ!

 遠くの背後から嘲笑う声が聞こえ、谷間の岩場に跳ね返りこだました。

「何を怯える」戦きその場に座り込もうとする者にタフマイの若者は叱咤し励ました。

木霊(ヨレイル)こそは我らの言の葉の唱和者だ。奴らにお株を奪われて何とする。」

「連中を良い機嫌のまま裏をかいてやるには、アート、お前さんの先ほどの意見にも取るところがあるようだ。」カマタドは下からの追跡者に気を付けろ、というように目配せをして声を低め、言った。「この先が“合の沢”で雪の蓋の下に流れはふた方から合わさっている。我々はここでふたつに分かれよう。」

 彼はまず女子ども十四人を沢の横の離れた藪に連れて行き、残った男達に言った。

「ここで我々に試されるのは雌雉の勇気だ、イネ達を南のティスナに行かせるまではな。刀を抜かずに忍んで戦う、イナ・サラミアスの御体を頼みに。どちらがより高潔か名誉かと思い煩うな!子らを死なせればミアスはお前たちを暗い彼岸に遣ってしまうぞ。」

 彼はウナシュの生き残った三人とタフマイの若者三人を先に女達の方に行かせた。後にはカマタドと村から脱出してきた三人のトゴとひとりの男、そしてタフマイの若い頭が残った。若者は意気込んで言った。

「さあ、連中を我々が引き受けて、その隙に彼らを南の物見に行かせるのですね!」

「違う」カマタドは首を振った。トゴら年長の者たちは粛然と耳を澄ましている。

「お前は作戦を聞いたらあちらで待つ者達の頭になり、言われた通りに確かに先導してティスナに送り届ける役だ。イネ達と一緒に物音ひとつ立てんように藪に隠れているのだ、そう長い時間は取るまい。おれ達はアツセワナの兵士達の気を引いておびき寄せておく。連中を上手く引きつけて“矢筈谷”に誘い込んだら、お前は皆を連れて沢を南に渡れ。すぐには登るな。山沿いに南に行き“石涸れ沢”から上に行け。もし、己の身の上の他におれ達を思いやってくれるなら、目論見がうまくゆくようにヨーレを唱えて祈ってくれ。」

 若者が抗議しかけると、カマタドはしっ、と言って目顔ですぐ下で揺れる若木の梢と溶けた雪を踏む音に注意を向け、若者に藪を指差した。若者は音も無く楓の幹の陰に滑り込み、霧の漂う中を少しずつ後ずさって藪まで下がった。「いつかニアキで。」微かな囁きが老いた男の耳に残った。

 カマタドは残った四人の方に振り返り、静かに言った。

「同志ら、行くか?」

 四人の男達は笑みを浮かべあるいは決然と頷いた。


   夜霧よ まだ暫し我らに味方せよ

   彼は誰時の過ぎて   

   暁の陽が 卑小の身を暴くまで

 

 カマタドは両手を差し上げ唱えると髪を束ねた紐を解き、外衣の腰に結わえていた帯を解いた。長い半白の髪と外衣の両翼は大きく広がり、風をはらんで身幅の三倍にも膨らんだ。

「こうして両手を大きく打ち振って歩けば霧の中で三人四人に増えて見えよう、おれ達のいい女(レイナ)は一張羅を派手に仕立ててくれたんだからな。」

 三人のトゴ達もカマタドに倣った。


   夜霧よ 露を結び 火明りを鎮めよ

   夜を夢の彷徨う時に 丈夫(ますらお)の安らう時に 


 藪に隠れた女達の声が細雨のように渓谷の内に囁いた。一旦薄れた霧は再び濃く、厚く立ち込めた。

 沢の下から近づいてきた兵士等の足音は今、彼らの前を通っていた。粗い雪と濡れてぬめる岩石を踏まえる足は、霧と湿気に弱った松明の火に視界を鈍らされ、進みあぐねているのか、いつまでも遠ざかっていく気配はなかった。

 女達は祈りさえ凍り付いた唇を結びその顎の下に幼子の頭を抱えた。子供らは両手で口を押さえ、霧の中を動く足を百足の通り過ぎるよりも不吉なもどかしさをこらえて眺めた。滞る足並みはしまいには彼らの目の前でぴたりと歩みを止めた。

「そら来い、べそかき(スージマ)しっかり歩け。山の岩っ子(ダンマ)の鬼どもがお前を捕まえて食うぞ。」

 コタ・ソガマに合流する南寄りの沢の上流の渓谷でカマタドの声が響いた。兵士の何人かが弩を構え、まだらに漂う霧の中に放った。はっは、と谷の中を歩く男達の笑い声がこだました。

 さらに二、三の矢が飛んだ。弩兵の足は完全にその場に止まっている。

「―――早く進んでくれ」藪の端にかがんだ若者は拳を握りしめて呟いた。

「道が分かれているぞ!」

 先に進んでいた兵士達は“合の沢”の合流点の先でに足を留めていた。そこからイーマの女子どもと付き添いの若者達の隠れている低い崖下の藪まで隊列は動かずに止まっていた。

「霧が深い。一度列を直せ。」隊長らしい男が命じた。

「我々が上って来た中心の谷の右に分かれてもうひとつ谷があり、そこはまだ凍った雪が地面を覆っています。僅かだが雪の上に足跡も見られます。」

 先に行って調べていた兵が報告した。隊長は命令を下した。

「イーマの数は僅かで我々は大勢で武装もしている。二手に分かれよ!右の隊、南の谷を行け。左の隊はこのまま先を行く。形跡が無ければここに戻れ。」

 やがて二列に並んだ兵士らは“合の沢”を動きはじめた。それぞれその先に分かれたコタ・ソガマの奥地、そして“矢筈谷”へと向かうのだ。


   来い 来い 下手な短弓撃ちめ

   真っ直ぐ来い 伝令(はしり)に寄越した矢尻の先の先までも 


 もう遥か離れたカマタドの声が霧の向こうから伝わってくる。

 イーマめ!味方の動き始めるのを待っていた兵のひとりが奇妙に心そそられたかのように呟いた。

 合の沢に滞っていたしんがりの方の足はその呼び声に急かされて進み、やがて濃い霧の中にその姿も、具足の触れ合う音、足音も遠のいて行った。

「さあ、イネ達。トゴ達が作ってくれた逃げ道だ。今のうちに行こう!」

 カマタドから先導を任されたタフマイの若者は促した。女達は小声で子供を急かし、冬の眠りから覚めた蜥蜴のようにゆっくりと藪から出て来た。一刻前に後にしたものに未練も恐れも無かった。彼女らの目の前にはなだらかながら未だ雪に覆われた広葉樹の森があり、夜の白む前にそこを歩き抜かねば新葉の乏しい梢の下の影も雪に残す足跡も、いつ戻って来るとも知れぬ敵に見つかるかもしれぬのだ。

「このまま“石涸れ沢”まで山腹に沿って歩く。沢を上がり物見の切岸の下に着いたら、ウナシュの同胞、新しい砦に案内を頼む。」

 頭の若者は、タフマイの三人に女達の護衛を命じておいて、藪のはずれにぽつりと佇む三人のウナシュの若者達をひとりひとり列へと押しやった。彼らは肩を丸め、それぞれ拳で目のあたりを拭っていた。

「目を開けろ。進め。次は誰が友の踏み石になるかも知れぬ―――しかしむざむざと敵に得はさせぬぞ。」

 タフマイの若者は先頭に立って歩きだした。ウナシュの者達はしんがりの護衛を引き受けた。

 一行は密な列を保ちながら雪の森の中を進んだ。片手で捉える前の者の外衣の端すらよぎる霧の断片に隠れる。左に聳える山腹は見えぬが細い水の流れがその肌を伝う音は微かに聞こえる。冷たい朝霧の中でも春の日は進み、雪解けは進む。

「沢の上を渡る。雪を踏み抜いて足を落すな。」

 先導の若者の注意が低い囁きに換えられ前から後ろへと伝えられる。

 足の下には透いた古い氷雪のかさぶたの下に流れる水、面に滲み出る水。


   そら来い べそかき(スージマ)しっかり歩け

   山の岩っ子(ダンマ)の鬼どもがお前を捕まえ食ってしまうぞ  


 遥か遠くの上の谷奥に、カマタドとトゴ達の声が脆く重なり、ずれ、前後して響き渡る。


   真っ直ぐ来い 伝令(はしり)に寄越した矢尻の先まで


「矢羽根の跳ねから抜けるぞ」列の末尾でウナシュの若者は子供の背を押しながら囁いた。「もうじきに“石涸れ沢”だ。足跡が消せる。上に登って行ける。」

 雪に見紛う白い砂礫の沢にさしかかった時、一同の中に思わず歓喜の溜息が漏れた。いつしか霧が薄れ、辺りは蒼い朝の明かりの中に包まれていた。足元ばかりでなく、上へと続く沢筋もはっきりと見渡せる。振り返る森の白い地表にも彼らの後を追ってくる敵の影は無かった。

 しんがりの子供がはしゃいで左前方を指差した。

 日の出は双方の嶺の鞍部から始まった。山の端を黒く縁取って現れた日は白い光を放って暫時視界を奪ったが、やがて高く昇るにつれて漂っていた僅かな朝霧をも消し去り、イナ・サラミアスの姿形を天の下に顕していった。

  

  

 




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