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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第六章 風の語り 『蝕』4

 雨雲がようやく去った空にはもはや実りを促す晩夏の陽光は留まっていなかった。濡れて倒れた草は起きずに凍えて朽ちはじめ、土砂と小石に埋まった沢は周囲に広いぬかるみを作り、拓かれた新しい田を沼地に変えた。水が捌け、残ったのはのっぺりとした土砂の丘だった。男達は何日もかけてそこから稲の押し倒された棚田を掘り出した。

 タフマイのアー・ヤールは大きく崩れた村の上流を避け、長手尾根を南西に大きく迂回して高所の峠からニアキに下りて行く昔ながらの道を辿って、アー・ガラートを訪ねた。

 ニアキは大勢が去り、集落の中心部にだけ残した数軒の家と、狭く円を切り取った集会の原の他には膝丈ほどの草がふさふさと生し、見る影もなく小さく侘しげだった。北東の森の沢の近くの、もとはハルイー父子が住んでいた家にガラートはひとりで住んでいた。

 ガラートは草の中に稗や粟の小さな穂を探し、摘んでは草の上に置いた平たい籠へと投げていた。ヤールは集会場の方から大股に歩いて来て、遠くからガラートを認めると呼びかけようとしたが、その様子に目を遣ると草の中を静かに歩いて行った。

「それを何にする?」ヤールはわざと訊いた。

 ガラートは振り向き、両手に穂束を上げて見せ、籠へと投げた。

「鳥がそうするように、昔から我らの父祖が食していた種子だ。」

「おれはそんなものを食った覚えはない。だが、来る日も来る日もあの空模様を見ていると、あの昔の大雨の時の父の焦燥がわかるような気がする。」

 ヤールは少年の頃を思い返すように呟いたが、用事を伝えるために改めて相手を名で呼び、新しい村の被害の状況と後片付けの進捗、当てにしていた収穫はほぼ無になったことを伝えた。

「ティスナにいる年端のゆかぬ方ひとりでは天候を安らわせることもかなわぬか。」

 ヤールは冗談でも言うように軽い口調で言い、横目でガラートを見た。

「ティスナにいるのはシュムナのルメイ。彼女がサラミアの心の事に係ることはない。」

 ガラートは毅然と言った。

 ヤールは籠の中にたまったわずかばかりの草の実に目を移し、オルト谷の村にイーマのほとんどが集まって耕作に力を注いだために、以前のように別行動の集団の狩の獲物やティスナの収穫物も当てに出来なくなったことを、苦々しく打ち明けた。

「私はここにオクトゥルを寄越すつもりだった。だが、あいつは雨のあとからさっぱり姿を見せなくなった。」

「私のところにもだ。とりたてて頼むことも無いが」

 ガラートは言葉を切り、少し背をむけて手近なところから少し遠くへと草の実を求めて見回した。

「君の意思を受けて」ヤールは言葉を強めて言った。「我々は誰ひとりティスナに様子を見にやらせてはいない。年若いシュムナがどうしているか知る由もない。亡くなったアー・ハルイルの息子たちの報せによると南の嶺の森が荒れているのは増えすぎた神蚕の仕業だということだ。オルト谷の北からも南の嶺の空を折々乱れ飛ぶ様が見える。のみならず、コタ・シアナの下流では蝶の死骸で一時水面が埋まるほどだったそうだ。まさに、あの時と同じだな。」

「私は二十三年前には違うところにいた」ガラートは静かに言葉を挟んだ。「悪いが君がここで見た大雨を見てはいない。」

 ヤールは何か裏切りにあったように口を歪め、屹とガラートを見た。

「アー・ガラート。私が訪ねてきたのはこの事を確かめるためだ。小童の蚕は多くは孵らなかったと聞く。絹は十分な量を用意できなかったし、それを受け取りに行ったはずの者は消え失せた。今年のシギルのとの交易は仕損じたとみてよいのだな?」

「そうだ」ガラートは応え、草の中に腰を下ろし、自問するように呟いた。「他にどう言える」

 それから、沈黙が続く事を恐れるように「君が新しい村の会議に私を呼び出さず、ここにひとりで訪ねて来たという事は、既に向こうで皆の意見の一致を見たのだな。君は私と並ぶ長として来ただけではなく皆の意思の代表としてここにいる。」

「その通りだ。」

「話を聞こう。」

「シギルと続けて来た絹と鉄の交易はもう互いに長く続かないことは分かっていた。此度の大雨で双方酷い損害を受けたのだ。コタ・レイナの洪水でアツセワナでも穀物の値は上がっているに違いない。加えて鉄に変える絹は無く、もしあったとしてもろくに値はつくまい。ティスナの絹の値は既に地に落ちた。シギルの鉄もだ。アツセワナでもどこでも、皆が欲しいのは食糧だし、食糧に代わる金だ。」

 ヤールは前に回ってかがみ、両手でガラートの肩を叩いた。

「交渉の相手を変えるときだ。私に交易の采配を任せろ。」

 ガラートは顔を上げ、ヤールを見た。

「トゥルカンとの交渉に軸足を移すのだな。」

 ヤールは手を放し、ガラートが通って少し草の倒れかけた辺りを歩き回りながらトゥルカンから望める援助の数々を並べ立てた。

 相手は、イナ・サラミアスに天災や年々の気候の不順などに揺るがない健やかで堅固な村を存続させたいと望んでいる、息の長い交渉には相手の健全であることが欠かせないからだ。故にこの度の危機に対しては、冬越しの食糧に村の修理の資材、道具、人手、来年の夏のための穀物の種も得られるだろう。それに、もうやがて農場で学ばせている若者たちも暮れには年季明けで帰って来るだろう。彼らの人並みの報酬は約束されている。

「ハマタフをまた遣いにやって様子を見に行かせよう。」ヤールは安心させるように言った。

「隣の友を助け、共に栄える」ガラートは口を切った。「それはシギル、シグイー兄弟こそ信条にしていたものだった。トゥルカンが同じことを思っても不思議ではない。にしても、ただいまのところ主たる交渉の相手ではなく、むしろトゥルカン個人には敵の友というべき我々に援助をしてくれるものだろうか」ガラートの声は真に懸念を帯び、低く重かった。

「そして、ヤール、トゥルカンは見返りに何を求めているのだ?絹が無いのと同様に差し出せるものは何もないのだぞ。」

「そうかな」ヤールの声音は目論見を阻止される警戒心と不機嫌で大きくなった。

「あるものか無いものか、調べて見なければわかるまい?私は調査を認めるつもりだ。」

「鉱床の調査だな?もう約束をしたのか、シギル王を見限り、トゥルカンとの取り引きとに応じると―――。」

「それで今年の冬が助かるものならな。ガラート、まず皆に食う道をやってくれ!去年出かけた者も帰って来ぬうちから出て行く者が後を絶たない。既に妻や子に食わせるにも事欠いている。狩と山の生り物で凌げるのはこのニアキに住む者だけだ。」


 イナ・サラミアスの夏は冷たい雲の下に過ぎ去り、秋になって朝晩の濃い霧の合間に青い冷ややかな空と風を透かして射す鋭い陽光を取り戻した。コタ・シアナの向こうで森の中に出来たぬかるみは灰汁のような泡を浮かべた湿地になり、やがて乾いて泥のめくれ上がった醜い地面になった。

 被害の大きかったコタ・レイナ州の中でもコセーナは領主を失う厄災に見舞われた。

 アツセワナの王シギルは手厚い支援を手配したものの、自らは城に留まり、領主シグイーの葬儀は嫡子ダマートの不在の中、実の兄の弔問さえも省かれて簡潔に運ばれ、埋葬は速やかに行われた。次男ダミルが領主代理として郷の再建の指揮を執った。 

 クノン・エファ、クノン・エファコスにはアツセワナから絶えずやってくる人足と支援の物資を積んだ車が徐々に道を固め均して、コタ・レイナ郷に迅速で手厚い手当てをし、回復を助けた。エファレイナズ西部の被害は甚大であったものの、予定されていた婿決めの競技の準備は粛々と進み、その秋霜降の頃“最後の競技”と称される試合が執り行われた。

 三年にも及ぶ紆余曲折の末、ようやく本来の、宰相の息子アガムンとコセーナのダミルとの戦いに戻ると目されていた。

 “最後の競技”はアツセワナの丘の麓の十字路を始点とした駆けっくらで火蓋が切って落とされた。

 競技者、従者及び補助員を含めた総勢三十五人もの者が、最終の御前試合の競技場、内郭の円形広場を目指した。城の中心を貫く街路を三つの門を経て王の御前に到着したのは、主眼の敵同士、アガムンとダミルでは無く、その従者であった異国人のグリュマナとイナ・サラミアスのラシースであった。なんと主であるアガムンとダミルが途上での負傷により出場できなくなってしまったのである。

 審判員は両者を代理競技者として認め、王の御前での試合が執り行われた。

 王の御前に到着するまでの道中の点の加減が算定され、アツセワナ城市内外の見物人が見守る中で、的落とし、槍試合、角力が行われた。 

 力の拮抗した戦いが繰り広げられる中、グリュマナは、競技者としての自分の正当な権利、すなわち王女の婿となる資格を主張した。王女の承認のもと婿の候補はアガムンからグリュマナに移った。

 グリュマナの刃によってダミルの代理を務めるラシースは負傷した。シギル王は競技の続行を命じ、角力で相手を地に倒し、御前の地面に据えられた黄金果を得たものこそが王権を手にするであろうと宣言した。

 見物人の誰の目にもグリュマナの勝利は目前と見えた。しかし、負傷によって欠場していたコセーナのダミルが突如決勝の場に飛び込み、グリュマナを組み伏せてしまった。

 ダミルの勧告により、王女は自ら黄金果を手に取って割り、中から王権の象徴である唯一の“門と蔵の鍵”を取り、女王となる自分の夫はヒルメイのラシースをおいて無いと宣言したのだった。

 城内の大部分の者がその場を目にしていたとはいえ、噂が津々浦々まで広まるにはいくばくかの日数を要した。凛として御前に宣言した王女の柔らかな声は白砂の撒かれた競技場の青天と人いきれに吸い取られ、聞き取ったのはわずか競技の当事者たちと櫓に座す貴賓、審判員、周辺を守る警護の兵たちだけであった。

 競技の補助員として見物を許された者の中では家に戻ってその時の様子を話す者がいた。

 王女は自らイーマの若者の他に夫はあり得ないと言い放ち、競技の審査を得て若者の勝ちは認められたのだ。負けの判定を受けてグリュマナは世にも恐ろしい形相になり剣を取り上げた。しかし櫓から身を乗り出したトゥルカンが「さがれ」と命令し、グリュマナは主に叱られた猛犬といったふうでけろりと怒りを隠すと肩をいからせて競技場から出て行った。トゥルカンは顔をしかめてグリュマナが命令に従うのを見届けると手摺越しに下を覗き、目を細めてさも憎々しく王女に捨て台詞を言ったという。

「その王権の鍵を大切に保管されよ。」

 それに対して王女は恐れげも無く、唯一の“門と蔵の鍵”を肝に銘じて所持する所存であると答えた。

 トゥルカンは王に婿殿について納得のゆく説明を賜りたいものですな、と言い、取り巻きの三人の領主らを連れて立ち去った。

 この噂は次の日には往来で燎原の火のごとく駆け巡ったが、三日目になると噂の輪にこっそりと歩み寄って、口外するとろくなことが無いぞ、と囁く者が現れはじめた。根も葉も無い噂だ、王の婿がイーマだなどとあり得るものか。

 こう言われて、噂のもとになった者は反発した。競技の熱がかき起こされたように街中で喧嘩が起き、そして翌朝、この者がタキリ・カミョの門扉に打ち付けられた死体となって見つかるといった事件によって、競技の決勝の物語は城内では下火になっていったのだった。


 櫓の前に設けられた階を、風をはらんだ鮮やかな緋と純白が両側に広がり、駆け下りていった。

 王女は裾を打ち払って王の玉座の前に直り、跪いて両手で黄金の毬を取り、頭上に押し頂いて割った。

「私はエファレイナズの王権を受け継ぐ者としてこの鍵を収受いたします。」

 取り出した白い華奢な指の間に、とろりと水面が光るように真新しい鉄が光り、それは王女の宝冠の裏の、編んで巻き上げた長い髪の房の間に挿しこまれた。重々しく裾を引く衣装がそれを包んだ身の慄きを隠し、面に見えるのは向こう見ずな情熱と堅固な意思だった。

「エファレイナズの王シギルの継嗣ロサリスが契る夫はヒルメイのハルイーの子、ラシースをおいてありません。」

 御前の競技場では見事な体格の男がふたり、濃い影を白日の砂の上にうずくまらせ、微動だにせず組み合っている。コセーナのダミルがグリュマナを獲物を捕らえた猛虎のごとく四肢の下に組み敷いていた。王女の言葉が終わるとダミルの頭が待ちかねたようにひょっこりと上がった。もしゃもしゃに乱れた栗色の髪の下の桃色の顔にえくぼが浮かんでいる。

 オクトゥルはへたへたと座り込んだ。彼とは反対に周りの者たちは身を乗り出し、隣と見交わし、我が目と耳を確かめるように声高に話している。

 よし、よし―――オクトゥルは独り言ちた―――コセーナの若殿の気持ちがおれにも分かる。全くこいつは一見に値する。あいつ、ついに女の子を真っ直ぐ見るようになったじゃないか。しかし、郷里でこれを知っている者はおれだけか。

 心の奥で何かが苦く疼いた。

 背後では俄かに櫓が軋みをあげはじめた。不興げに囁く声と身じろぐ気配、立ち上がる気配がぎしぎしと高い床板を鳴らしているのだった。

「彼の身分は?」当惑した声が飛んだ。「恐れながら、王、王女のお言葉は無効では?」

 静かながら王の厳めしい声が静まるように求めた。

「競技の経過に違反がなかったか検証せよ。ここにいる民の皆が証人である。」

 角笛の合図がされ、まもなく円形広場の外周の小路から、競技の印の紋章を縫取った仕着せの胴着の審判員が中心に向かって集まり始めた。

 王女の前にラシースは折れた槍を杖に立っていた。高揚していた顔色は徐々に蒼ざめ、王女を見返す目は伏し目になってきた。競技場の医師の勧めにより、王はラシースを競技場から王宮の施療院に運ぶことを許した。

 櫓の上と下では王と審判員の大声のやり取りが交わされ、その中にダミルの明朗で力強い声が割り込んだ。

「彼の身分ですと?伯父上、先に申し上げた通り。彼はこの夏ハーモナを得ました。」

「承知だ、ダミル」王が短く答えた。

「従者は?競技に望むにあたり取り決められていた条件ですぞ」風に紛れそうな細い声が、それでも心外だと言わんばかりに繰り返し抗議している。

 櫓の下に競技係のひとりがやってきて、決勝の見物を許されていた助っ人たちを手招いた。

「お前さんたち、王の御厚意で競技の労をねぎらう宴が用意されている。すぐに王宮に案内するから点呼をした柏の下に戻って待っているがいい。」

 ダミル陣営の助っ人仲間の羊飼いが振り返ってオクトゥルの肩を叩いた。

「お前さん()()()()だよ、行こうや。」

 助っ人一同の中で最も若い少年が口笛を吹いて腰を上げた。ラシースが競技で乗った粕毛の馬をここまで連れて来た少年だ。オクトゥルはこっそりと背を向けた。こいつはいいさ、ご馳走に与る資格がある。だがおれには王に合わせる顔が無い。

「待てよ、小父さん。決着を聞いてからだっていいだろう?」少年はオクトゥルの袖を捉えてませた風に言った。「何か上で揉めてるのはどうしてさ?」

「我々の側には資格不足で判定がつかないのじゃないかということさ。」羊飼いが言った。「緑郷の若い殿(ロサルナート)には従者がいないんだとよ。」

「ええっ!」

 少年は係の者に詰め寄った。

「あんた、何を勘定していたのさ。いいかい、この小父さんたちは助っ人さ。消えた()()()を入れて五人。おれは助っ人の頭数には入らない。おれがロサルナートの従者で馬を届けたんだ。審判さまにそう言ってくれよ。」

 コセーナのダミルはこちらを振り返った。

「そこの若いの(アート)、何か言いたいことがあるならここに出てきて王の御前で申し上げろ。」

 少年は恐れげも無く前に出た。ダミルは少年の背中を押して王の前に向かわせた。王と審判員、貴賓たちの前で少年は見よう見まねで跪き、私、問屋通りの具足商の倅ケニルがラシース・ハルイーの従者でございます、と言った。

 王は手を上げて左右に居並ぶ領主らを見渡し、審判員らに頷き、宣言した。

「競技の勝者はヒルメイのハルイーの子、ラシースである。」 

 医師に付き添われてラシースが場を退き、判定に殺気だち、瞬時辺りを凍り付かせたグリュマナも立ち去った。見物人たちは少しずつ腰を上げ、櫓の下や競技場周りから引き上げはじめた。

 コセーナのダミルは王の前に進み出ると跪き、別れの挨拶をした。

「ラシースは私が連れて帰りましょう。自領で療養をするのが一番ですからな。姫、わがコセーナは彼の領土の門口。来春、水のぬるむ頃にお待ちしておりますぞ。」

 ダミルはきびきびと言うと、怪我を理由に競技を辞退したのをすっかり忘れたかのようにすたすたと担架に付き添い、広場を出て行った。

 従者の名乗りをあげた少年は歓声を上げ、羊飼いや他の仲間と一緒に出口の柏の木の元へと詰めかける人の群れへと連なった。

「あなた」

 思いがけぬ若い娘の声に親しげに呼び止められ、オクトゥルは振り向いて飛び上がらんばかりに驚いた。まさに、王女が彼の前に立っていた。

「イナ・サラミアスの“絹の使者”殿。」

 勝利の喜びが大胆な気分を与えたようだ。競技が果て砂の上の勝負の痕跡を足跡で消しながら往来する人々の間を抜けて来、王女は櫓の前のオクトゥルに声を掛けたのだった。

 オクトゥルは王女に挨拶を返す前に、額にしわを寄せて斜め上を盗み見た。櫓の手摺の向こうで王が冷ややかにこちらを見下ろしている。

 オクトゥルは弾かれたように向き直り、飛び退く人々の足元に平伏した。

「緑郷の稀人。交換はあるのか」穏やかだが冷ややかな声で王は尋ねた。

「あいにくの天候でございまして」

「そうか」王は顔を背けて階の方へ行きながら言った。「せっかくの来訪、ゆるりとしてゆけ。」

 王女はオクトゥルにお立ちなさいませ、と促した。

「この度のべレ・イナの災禍、難儀をされたことでしょう。競技への力添え誠に有難く存じます。是非にも王宮へお越しになりもてなしを受けてくださいませ。宴の支度が整っております。」

 王女は僅かに寂しげに櫓の左側、ラシースが、またダミルが退場して行った方に目を向けた。独特の低いかすれた声は繊細さと柔らかさを帯びていた。

「主賓はお帰りになりそうですが。」

 オクトゥルは立ち、すっかり失念していた大事な用を思い起こして丹念に外衣の塵を払った。彼は羊飼いと少年の向かった出口へと黙ってついて行った。王女は父王を迎えに行きながら、一度振り返ってオクトゥルが向かった方を確かめ、頷いて見せた。


 決勝に臨んだふたりと闖入したひとり、そして途上で消えた者たちを除き、競技に与った全ての者は主郭の中心にある広間に通され、酒と食事、休憩のもてなしを受けた。蝋燭を灯した燭台が、卓の周りにこじんまりと集められ、冬に向けて早まりつつある夕刻の窓辺よりも明るく、食卓に載った魚や肉、鳥料理や山形に高く積まれた菓子、磨かれた酒器を照らし出した。

 王女は料理や酒が十分にいきわたるかひと通り見渡すと王の横の席に着いた。昼間の競技場での高揚と大胆さは幾分影を潜め、慎ましく微笑む面は賓客に向けているようでありながら、燭台の光の輪からこぼれた空席に思いが飛ぶようであった。

 領主たちに当てられた上座にはオトワナコスのカマシュ、エフトプのホサカ、ニクマラのミオイルの三人のみ、トゥルカン父子はもとよりイビス、第三家(カヤ・アーキ)第五家(カヤ・ローキ)の主はいなかった。空いた椅子は食器の用意がされたまま、卓の端に陰に浸って並んでいた。

 ひとつ下の卓には、決勝に間に合わなかった三人の競技者と従者がいる。補助員たちの卓には十人ばかりついていた。

 王は十字路から三つの門を通り、円形広場に至るまでの経過を、競技者を助けて走り回ったひとりひとりに詳しく問うては、興がる様子であったが、最後に皆にねぎらいの言葉をかけ、夜が明けるまで十分に休むがよい、と言うと、もてなし役をニクマラのミオイルに託し給仕係に後の接待の指図をし終えると、王女に目配せをして席を立った。

「随分と寂しげじゃないか」王が席を外した後で羊飼いがこっそりと囁いた。「集まったときにはざっと二十人以上もいたのによ。わし等のとこじゃ、ひとりは怪我で抜けたが……」

「途中で抜けたのは()()()だよ。」大きな魚の包み焼きを切り取ってパンの上にさらえ寄せながら仲間の男のひとりが言った。「あいつはグリュマナ側と示し合わせていたに違いないや、ダミル様がちょうど中央門を越えるのに梯子を登っておいでの時だったよ、向いで支えていたおれの向う脛を蹴りやがって逃げたのは。」

「そうなのか!」羊飼いは驚きの声をあげて隣の卓の男に声を掛けた。肉の煮込みを頬張っていた男は振り向いて頷き、急いで飲み込むと相槌を打った。

「これでもしグリュマナが勝っていたらわしらはここでご馳走にありつけたかわからねえな―――他のところで違った面々の集まりがあったかもしれんし。」

「そうだな、このご馳走はおれたちには多すぎるくらいだが、」羊飼いは首をひねった。「本来王様と王女様のお隣にもうひと席、それに官人のお歴々の席がずらっとあって、賑やかな楽士の演奏がもっと下座で催され、おれ達は良くて廊下でお下がりを貰っていたんじゃないかな。」

 一同は同意の印に頷いた。

「今日の決着をうけて十日後だか、ひと月後だか、それとも来春だかにもう一度本式に婚礼のご馳走となるか……」

「そりゃ、ちょっと心許ないな」隣の卓の者たちは次々に見交わし、首を振った。「ま、わしらが呼ばれることはないだろうがよ。」

 お前さん、あの緑郷の君(ロサルナート)の知り合いなのかい?姫君と祝言となったら呼ばれるだろうかね……。ダミルの助っ人の卓の面々が、競技の開始の十字路で飛び入りの仲間入りをしたイーマの若者に尋ねようと席を振り返った。が、変わった外衣をまとった赤銅色の肌の若者はいつしかその場から消え、干されぬままの盃が卓の上にぽつんと残されていた。

 オクトゥルは王が王女を連れて広間を退出した後から、食事と話に没頭している男達をそっと窺いながら椅子を斜めに滑り降りて、燭台の燦然と輝く後ろの陰に身をかがめて紛れ込んだ。それから、王女が

出て行った側廊のほうへ素早く抜け出た。

 王女の後姿は広間の周を湾曲してめぐる側廊に沿って奥の王の居室の方へと消えて行くところだった。ほどなく王が人払いを命じ、護衛が入り口から離れて行くのが見えた。オクトゥルは前の年に密かに王に謁見した室の外で、漏れ出る灯りに掛からない陰の中に身を置き、王女が出てくるのを待った。

 またと無い好機、この上ない危機―――王女だけに会えればよいが王に見つかれば手討ちになるかもしれん―――オクトゥルは広間を出入りする給仕と庭を見張る番人の両方に気をつけながら室の様子に聞き耳をたてた。その鋭い耳には、閉めた戸の内からさえも王の重く苦渋を含んだ声が漏れ聞こえてくる。

「……王とは国を泰平に保つ者でなくてはならぬ。国、それは土地、人、気候の巡りがもたらす恵みが相互に支え合う大きな家族だ。」

「承知しております。」説きつける父のその声に毅然とした声で王女が応じる。

「分配は公平でなくてはならず、強き者は弱き者を守らねばならぬ。お前は母であると同時に父でなくてはならぬ。力を持て余し相争う息子たちを説き伏せ、時には力で罰せねばならぬ。そのすべてをひとりで負う事ができるか?」

 重ねて問う父に王女はしばし考え、ゆっくりと答えた。

「ひとり、と仰いますか。私はひとりではありません……。」

 不意に王は辛抱のたがが緩んだというようにため息をついた。

「あの若者か!」

「何故、父上はあの方を真っ直ぐにご覧にならないの?それでいて眼中に無いわけでもない」

 王女の声は父と同じように性急な囁きになったが、細くとも執拗に言葉を継いだ。

「あの方の働きには目を留めておいでのはず―――父上もトゥルド様も目にかけておられた。それでもグリュマナに与えるほどの報酬も与えないとは」

 卓を叩く拳の音の中に王女の声は途切れ、代わって絞り出すような怒りの声が戸を震わせた。

「ロサリス!主旨をすり替えて私を侮辱しようというのか―――あのどこの馬の骨ともわからないアガムンの代理を受け入れると言ったのはお前だぞ。もしあの男が勝ってお前を要求するようなことがあれば私は後がどうなろうが自ら剣を取ってあいつを切り捨てる……。」

 続く長い沈黙の中に、オクトゥルは戸の向こう側に、父王の正面に居て端座する王女の頬を流れる涙を見た。

 王は疲れた声で自ら主旨を戻した。

「イーマは我々アツセワナの人間が伴侶にすべき存在ではない。」

 王女の潤んだ声がそれでも抗うように言った。

「父上はあの方の母上をめぐってヒルメイのハルイーと競われたのでは……。」

「誰がそのようなことを」

 不意を打たれて声は高まり、瞬時に冷ややかに低く抑えられた。

「あの場に居た誰もが知るごとく、最初の“黄金果の競技”は約束を破ったハルイーを懲らしめるためだったのだ。」

 そう言い切った声は尊大に、硬く冷たくなった。

「今のお前よりも若くして即位し、トゥルカンに牛耳られ事業の財源も思うに任せなかった私に、ハルイーはコタ・サカの製鉄の可能性を示唆し、取引相手がトゥルカンでもシギルでも構わんとうそぶき、鉄の代わりに絹を用意すると誓ったのだ。私はトゥルドに赤砂(サカサ)の鉄の生成を命じ、一方で一介の使者を装ってイナ・サラミアスに出向いた。若気からの軽率な行動だった。

「イナ・サラミアスとの交渉に熱中するあまり国を空けた私の不注意をトゥルカンは廃位の好機ととらえ、議会の面々に手を回しはじめていた。イナ・サラミアスにいた私にその動向を謎に包んで便りを寄越し、注意を促したのはニーニアの機転だった。叔母たちの嫁ぎ先のつてを頼りに急ぎ国に帰った私を、ニーニアは実家の意に背いてまで庇おうとしたのだ。己が身を盾として私の傍に終始付き添い、長年仕えた料理人の食事さえ警戒し、遠ざけた。庭の木陰、綴れ織の裏、窓の外に潜んでいるかもしれない刺客の前に私を置かぬよう立ち振る舞っていた……。あれこそはふたりと無い妻の鑑―――。」

 とりとめのない追憶へと揺蕩い、また抗い、王のその声は居丈高になる。

「国交開始の暁にイナ・サラミアスから贈られる絹。妃の労に報いうるものは他にはない、それをハルイーは裏切った。約束の期日に絹を届けずに、何人(なんぴと)も直に見る事も能わぬと言われていたサラミアの神人(よりまし)を連れて逃げた。私は彼を罰するために競技を行い、彼の分別を奪ったものを取り上げようとしたのだ。」

 オクトゥルは壁に背をつけたまま、眉をしかめ口許を曲げて聞いていたが、くるりと戸のほうに背を向けた。こんな恥ずかしい弁解を聞いていられるものか。待つ時間が報われるどころか、どんな手酷い報いが降りかかるか知れたものじゃない。

「私がハルイーを許したのはハルイーが力で勝ったからではない。レークシルがハルイーを選んだからだ。」

「―――私もあの方を選びました。」

 オクトゥルは両肘の間に耳を埋めた。娘が無理無体なものをねだるよりも怖いのは父をいらないと言う時だ。それも危なっかしい崖っぷちで。おれはこれから長い年月をかけてそれを知ることになるだろう。

「イナ・サラミアスで初めてお会いしたときにはあの方は高い峰の上におられました。しかし、今は私と同じところにいます。」

「そう思うか?お前には湖底に横たわる水の層ほどの隔たりが見えないのか?しかし、彼の方は分かっているようだぞ―――解せぬのは彼が何故イナ・サラミアスを降りて来たかだ―――。」

 王の声は疑念を帯びて途切れた。

「父上」なお可憐でありながら非情な声が迫った。「お言葉を、誓いを守ってくださいませ。」

 王あるいは王女のさらに立って近づく気配があった。

「お前が自ら王になるというのか?」深い懸念を込めて王の声は説きつけようとした。

「もし政を誤り民を危難に陥らせしめるならお前は王であってはならぬ。一度王になった者が退く時は死ぬときだ。もし失政によって王が退くなら、その責めは血族の末端まで負うことになる。第四家(カヤ・ユツル)が滅びた例は正に王が誤った時に下される運命なのだぞ。」

第四家(カヤ・ユツル)を滅ぼしたのが第一家(カヤ・ミオ)である以上、同じ危険があることは承知でございます。私は父祖が取らざるを得なかった厳しい道を採らずにすむものならそういたします。」

「謀反人の成敗は王が決して柔弱に臨んではならぬ事だぞ。」王は嘆息を交えて言い継いだ。

「女に生まれたお前はその重荷を夫に譲る道が残されている。」

「その仰せようはトゥルカン殿と同じです。」

「ロサリス、頼む。私の最後で最良の贈り物だ。ダミルと一緒になってくれ。私にはどうやってお前を守ってやったものかわからぬ。」

 王女の小さな失望の声が遮った。

「―――承服致しかねます、父上」

 近づく足音にオクトゥルは戸の前の廊下を後ずさり、側廊から近くの木の陰へ飛び移った。

 戸が開閉し、王女が小走りに側廊に出て来、吊り燭台の下がった柱の陰に回って指で目元を拭った。その手が下りる前に、王女の目は同じく明かりのもとを避けて木陰に佇むオクトゥルを認めた。

「使者殿。」

 王女は笑みをこしらえて静かに声をかけた。

「先ほどにも、訳のありげにお見受けしましたが、何か私に用でも―――?」

 オクトゥルは木陰から出て会釈をし、囁いた。

「王女様、折り入ってお願いが」

 王女は周を見回し、庭に下りると手招きした。

「ついていらっしゃい。」

 王女は西の奥殿の裏庭に回り、静まっている侍女たちの部屋の脇を通り、生垣の内側から裏口に入った。誰もいない石造りの迫持ちの縁はうっすらと明かりに縁どられている。中へと進むと通路の内には灯火を持って待っている小柄な娘がいた。丸い顔に円らな黒い目がオクトゥルを見返した。

「ハヤ、イナ・サラミアスの客人よ。私の裁縫部屋に灯りを入れて火を焚いてちょうだい。」

 娘は会釈をすると先に立って狭い木の階段を上って上の階に案内した。いくつかの小部屋、大きな機を並べた部屋を過ぎ、広い作業台を置いた部屋に娘は案内し、室内のいくつかの燭台に火をともした。それから熾火を取りに廊下の奥の部屋へと出て行った。

「ご用向きを伺いましょう。」卓を回り込んで暖炉の前の椅子をすすめ、王女は言った。

「では失礼を―――」

 オクトゥルは腰元の娘が戻って来たのを確かめてから少し下がり、外衣の腰を結わえていた帯を解き、膝の上に長めに下ろしていた外衣を両手でたくし上げて後ろに脱ぎ去った。

 その下には上衣の上にもうひとつ、縄を綴ったような膝までの長い胴着がある。それは僅かな揺らぎをうけて薄明かりの中で霜のように光っている。オクトゥルはそれをも脱ぎ、丁重に両腕に抱え、王女に差し出した。

「どうぞ明かりのもとにご検分を。ここに日の光がないのは誠に残念ではありますが。」

 王女は椅子にかけた膝の上に取り上げ、素早くオクトゥルに眼差しを向けた。

「これは―――?」次いで灯火を寄せて丹念に眺め、ゆっくりと確かめるように言った。

「父にではなく、私に?」

 それは白い滑らかな絹糸と強い張りと光の反射をもつ薄緑色の糸の束を縄状の縒り合わせ、着丈に折りかえしては綴り合せてあるものだった。

「ふた色のうち一方は例年献上している絹糸でございます。もう一方は神蚕の繭を紡いだ糸でございます。アツセワナの市場ではおろか、イナ・サラミアスの郷でもヒルメイの一部の者を除いては人々の用にされたためしの無い糸でございます。」

 王女は傍らの娘を振り返り、急き込んで囁いた。

「見て、ハヤ。これなら織ってもきっと十分な長さがあるわね?」 

「はい、姫様」娘は可愛らしい声で応え、我を忘れて糸束に見入る女主人の代わりに用心深くそっとオクトゥルを見た。

 オクトゥルには手応えを感じる余裕は無かった。彼は厳しい見通しを己に言い聞かせて王女の注意を促した。

「恐れながら姫君、私は御父君との約束を違え、その怒りを恐れて御身の温情にすがりに参ったのです。―――王は約束に厳しい方でございます。」

 競技の櫓の前で見逃してもらったからと言って二度目の情けがあるとは限らない。その上、この度は無断で交渉相手を娘に替えようとしているのだから。

「今年は大水と寒さの害もあり、通年の絹の目方を準備することが叶いませんでした。私どもには王の鉄を買う力はないのです。そこへもって僅かな作物も枯れ果て、このままでは故国は冬を越すこともままならぬ有様です。そこで私は不遜ながら、御身が以前お尋ねになった繭を紡いだ糸のことを思い出したのでございます。これは、イーマの間では希少な糸でございます。しかし、アツセワナの目の肥えた方々には破れた繭を紡いだくず糸でございましょう―――この糸の価値を私が決めることは出来ません」

「私が買いましょう」王女は即座に言った。

「どうか安心なさってくださいな。私から父に口添えし、望みなら鉄に替えることもできましょうし、父が絹を受け取らないなら私がもらい受けます。代価には鉄よりも食糧が良いのですね?」

 驚くオクトゥルをよそに王女は糸の嵩と重さを目と手で測り、値を考えた。

「繭はおよそ三千個ほど?」

「三千は下りませぬ。」

「ではひとつにつき椀に一杯ほどの穀物に替え、麦三石に相当する穀物を差し上げましょう。我が荘園からニクマラに送り、舟でイナ・サラミアスに届けましょう。ハヤ」

 王女は娘の方に振り返った。

「ニクマラにまだクシガヤに向かう舟はあるかしら?」

「藪入りの者たちを送り届ける舟がございます。クシガヤの身内の舟が。」娘は言って目を伏せた。

「大きな荷舟はある?」

「明日にもニクマラに行く者に言伝て頼んでおきましょう。」

 王女は晴れ晴れとした顔をオクトゥルに向けた。

「お聞きになりましたね?これで取り引きは済みました。私にはあなたのお友達への手前、決して約束を破ることは出来ないのだという事を覚えておいてくださいな。」

 オクトゥルはひと月もの間ずっしりと重く肩に掛かっていた神蚕の帷子が消え、卓の上で王女の手によって解かれて長い紐になっていくのを茫然と眺めながら再び纏った外衣の上を撫でつけた。

「タフマイの兄さん(アート)、広間まで私がお送りします。」

 小柄な娘が傍らに歩み寄って囁いた。円らな瞳が恐れげも無く親しげに見上げている。

「ご馳走は夜どおしお振舞いがありますし、夜はそのままお休みになれます。」

 夜半を過ぎて戻った広間のさんざめきはすっかり静まっていた。領主らは宿泊所に引き上げており、ご馳走の卓について談笑していた者たちも、ほとんどが炉の前に敷かれた毛皮の上に場所を移していた。羊飼いと少年は競技の疲れと酒の酔いですっかり眠りこけている。卓を動かぬ者も盃を前にして突っ伏している。オクトゥルは陰の中を通って炉の前の人々の隅にそっと身を滑り込ませ、横になった。

 暖炉の前で酒を飲みながら話している男たちの声が一寸途切れ、彼の影を見やったが、特に気にする様子もなく世話ばなしをつづけた。

「あの、イーマのアートはお姫様と結婚するだろうかね」

「だが、そうすると王様になるっちゅうことか?」

「いや、ならんだろうよ」ひとりが言い、空の玉座を顎でしゃくった。「だって考えてもみろ、異国の者が、それも王様も戴いたことのない無法の地から来た者が国を治めるなんて、道理の分かった者なら承服出来んよ。」

「へえ、じゃあ、アガムンの方がましなのか。」

「ああ、アガムンの方がましだね。」男はちょっと声を潜めた。「駄目な奴でもどこが駄目か分かっている者のほうが全く分からない者よりは安心だからな!おれがこう思うってことは下々がだいたいこう思うってことさ、まして偉い人が納得するわけはねえ、今頃親子で揉めているこったろうよ。」

 寝返りをうちながらそれとなく耳を傾けていたが、首の下にたくし込んだ外衣にうまい具合に姿勢が落ち着くと男達の声はたちまち真綿に包んだように遠くなり、オクトゥルは瞬く間に眠りに落ちた。


 翌朝、宴に招かれた者たちは各々の家へと帰って行った。表門が開く前にオクトゥルは王女の侍女の娘に呼び止められた。

「タフマイのアート、このままイナ・サラミアスまでお帰りになるのだったら裏門までおいでください。姫君がニクマラに向かう荷馬車に乗ってお行きなさい、と―――。」

 王宮とニクマラとの間を通う荷馬車が裏門から出ます、私も王女の言付けを預かっているので第一家までは一緒に参りましょう、そのあと馬方に申し付けますのでニクマラに行き、舟に乗りなさい。

 地味な生成りの毛織の長衣に身を包んだ娘はますます小柄に見える。昼間の光のもとで頭巾を被らず簡単に束ねた娘の髪はしなやかに黒く、肌は滑らかな小麦色だった。

「イネ、あんたはクシガヤから来た子だろう、あのサコティーと幼なじみの?」

 舗装された道の両脇に、小さな白い箱のような家々が、がらがらと音をたてる車輪と同時にゆっくりと揺れながら遠のいて行く。荷馬車の荷台に男と並んで腰掛け、娘はこのような遣いにはごく慣れた様子でくつろいで景色を眺めている。娘の落ちつきぶりが促したのか、オクトゥルは長い不安な日々を費やしたことを少しずつ忘れ、中郭の長い通りを何町か過ぎるころには持ち前の気さくさを取り戻して娘に話しかけた。娘ははにかんで頷いた。

「あんたは郷には帰らないのかい?奉公に出ている子たちも冬至の頃には一度郷に戻るんだろう」

「ずっと帰ったことがないわ。」娘は呟いたが言葉を打ち消すように小さく笑って言い足した。「私はここにいるのが好き。」

「今は帰ってもお互いに不自由が増えるものな。王女に仕えていれば着るものにも食うものにも困らず、後々のために給金も蓄えられる。何か故郷のためにしたいなら、帰る時にその金が助けになる、そうだな?」

 娘は額の髪を側頭へとかきあげ頷いた。

 オクトゥルは水没した集落を逃れてシアナの森の端に仮住まいをしている水の民と、そこで集めた神蚕の繭のこと、そしてそれを持ち込んで糸紡ぎの仕事を頼んだ娘たちのことを思い起こして言った。

「クシガヤの娘たちは働きものだ。随分世話になったよ―――あの糸だってクシガヤに流れ着いたのをあの子たちが紡いでくれたんだ。王女が下さる紬糸の報酬の半分はあんたの郷に贈る。約束するよ。」

「約束はしないでくださいな。」娘は言った。「その通りにならなかったらお互いに余計に気を揉むもの。」

 第一家の屋敷がそそり立つ城壁の下でハヤという娘は荷馬車を降り、馬方に、ニクマラについたら是非この方の帰る舟と荷舟とを確保するように、と念を押し、蔵から麦三石に相当する穀物を都合して二クマラの舟着き場に送り届けよという王女の命令を第一家の執事に伝えるために頬杖の門(キリ・チャフトゥ)と呼びならわされる坂道を登って行った。

 オクトゥルを乗せた荷馬車は他の商人たちの集団と一緒に新門(タキリ・ソレ)から城外に出、丘陵を公道(クノン)ツイ・クマラを辿って下って行った。年取った馬が一頭で牽く荷馬車の足はオクトゥルが徒歩で行くよりもむしろゆっくりと歩んで行き、午後にはようやく主水路(アックシノン)のふたつの水路に挟まれた村を抜け、ニクマラに着いた頃には夜になっていた。

 ニクマラには馴染みの馬方は城壁の西側の百姓門から入り、内郭の門までオクトゥルを連れて行き、門番に執事に取り次いでくれるように頼むと、自身は馬を預けた百姓区の家に泊めてもらうために道を戻って行った。 

 つい一時前にアツセワナから戻って来たばかりの領主を迎えに出、晩餐と寝所の支度に駆けまわっていた執事は、主から競技の結果をゆっくりと聞き出そうとしているところを呼びつけられて不機嫌だった。オクトゥルを見知らないわけではなかったが、使者の肩書のない名に心当たりが無かったと見え、胡散臭そうに出てくると、目を細めてすっかり旅に汚れた姿をじろじろと見つめた。

「イナ・サラミアスの“絹の遣い”では?」

「この度の用は違います。」

 オクトゥルは手短に第一家から荷が届くことと、イナ・サラミアスに行く舟を用意してほしいという用件を伝えた。

「王女から?イナ・サラミアスへ―――」執事は口の中で繰り返し、詮索を気付かれまいとするように目をそらして舟着き場の記録係を呼びつけ、二クマラの持ち舟と雇い舟の出入を確かめにやらせた。

「折も折、今朝一番にイナ・サラミアスに行く舟を出したところだ。それが戻ってくるまではコタ・シアナまで下る舟は無い。」

 執事は報告を聞いて横柄に言い渡した。

「ひとつも、でございましょうか?」オクトゥルは戸惑い、口ごもりながら尋ねた。「私はともかく、後で来る荷は運んでもらわねば困るのです。」

「王からの早馬が来て至急イナ・サラミアスに書状を送り届けよと命ぜられた。その時舟着き場に残っていた舟はたったひとつきりだった。」オクトゥルが知らぬのを訝るように執事は言い足した。「―――幸いにも当方とイナ・サラミアスとの行き来には慣れた者だったので遣いを兼ねて向かわせたのだ。」

「その舟は戻って参りましょうね?」オクトゥルは心配しながら尋ねた。

「戻って来るはずだ、人を迎えにやる命令だそうだからな」執事は苛立ちを隠そうともせずに言った。「お館様がお戻りになる前でこちらにも寝耳に水の命令だったのだ。お前さんの心配の先に私が対応に障りはございませんでしたでしょうか、と殿にお伺いをたてるところだ。―――荷舟ならアックシノンの方へやった舟が二三日もすれば順次戻って来るだろう。」

 執事は舟を待つまでの間、丘の北の森の中の“絹の遣い”のための宿駅に泊まるがよかろう、と言った。既に長年勝手知った場所ではあったが、異国の来訪者である身分をわきまえて、オクトゥルは案内があるまで内門の外で待った。

 しばらくすると執事が幾分慌てた様子でひとりの中背のがっちりとした大人しい若者を伴って戻ってきた。先刻とは打って変わった丁重な口調で主の賓客として当方に滞在いただきたい、と述べ、内門から領主のいる館へと案内した。

 領主ミオイルはアツセワナから帰宅し、息子と一緒に晩餐を終えたところであったが、オクトゥルのために食事を用意させ、居室に招くと息子を同席させ酒を振舞いながら、ひとつふたつものを尋ねた。

 今年、絹の交換に訪れなかったのはあの天候不良による絹の不作のせいか。不意に競技に参加したのはどういう成り行きからか。一時王に仕えていたあのイナ・サラミアスの若者とはよく知った仲なのか。

 オクトゥルにはうっかりと憶測を差しはさまれるほど調子に乗って喋り過ぎない限りは、ごく正直に答えても差し支えないように思われた。そこで慎ましく、郷里の不作ゆえ仕事を求めていたこと、偶然誘われた競技に助人として参加したところ、同郷の者と出会ったことを答えた。

「ニクマラに立ち寄ったのは舟を求めてと聞いているが?」

「はい」

 金を持たぬ者がどうして舟を雇おうというのか、どうして荷舟いっぱいに積むほどの穀物を手に入れうるのか、と尋ねられたら正直に言って良いものだろうか?王女との取り引きの詳細まで問い詰められたらどう答えたものか―――。

 しかし、領主ミオイルはせっかくなのでもう数日滞在していくが良い、今宵は侘しい晩餐となったが近々宴を催すゆえ馳走の振る舞いを受けてから郷里に帰るがよい、と言った。

 室を出ると案内をしてきた若者が手燭と籠を持って待っていた。その姿形に見覚えがあったオクトゥルは宿泊所までの門の外の暗い道すがらそっと話しかけてみた。

「よう、あんたには前にも案内をしてもらったね―――アツセワナからトゥサ・ユルゴナスまで」

 若者は目を上げてちょっと頷いた。

「今度ある宴っていうのは何の宴だい?」

 若者はちょっと考えて知らない、と答えた。が、森の中の小さな六角形の小屋には灯りが入り炭火が焚かれていること、敷布や毛布が用意されていることなどをおっとりとした口調で言い、腕にした籠をちょっと持ち上げてみせた。

「殿様の前では満足に食えなかっただろう?」

 “絹の遣い”の宿泊所に着くと、若者はオクトゥルを中に通し、炉の火加減をみて籠の中身を出し、自分の住まいへと戻って行った。 

 ニクマラに滞在して四日後、コタ・レイナとニクマラを行き来している荷舟が何隻か戻って来たという報せが入った。オクトゥルは早速一隻雇い、翌日届いた穀物を舟に積み、急ぎしたためた手紙を一緒に舟頭に託し、故郷に送り出した。

 彼はよほど領主に暇乞いをして荷物と一緒にイナ・サラミアスへ行こうと思ったが、折角、舟着き場に並んだ数々の舟や次々と積み込まれる荷の間で、ひと際立派な嵩のある王女からの贈り物が執事や領主などの目を引かないうちに水の上に送り出してしまおうと考えたのだった。出発を待たされるのは腑に落ちなかったが、王女との取引を勘ぐられ詮索されているわけではなさそうだった。

 荷を見送った舟着き場から丘を登る小道を辿りながら振り返るとエフトプへと向かう舟に混じって大きな湖(クマラ・オロ)を突き進む荷舟が見えた。さらに遠くから一艘、さほど大きくない舟が一路こちらを指して進んで来る。

 あれはサコティーの小舟だ。オクトゥルは足を止めて眺めた。思った通り、イナ・サラミアスへ遣いに出ていたという舟は彼の舟だったんだ。おれはあいつに乗せて行ってもらって荷舟を追いかけることができる。あいつがここに着いたら、宴を辞退して発たせてもらうかあいつを宴まで引きとめておくかしなければ。オクトゥルは登りかけていた山腹をまた湖畔めがけて駆けおりて行った。

 サコティーの舟の細長い影とやや反り返った舳先の形が見て取れるほど近づいてくると、オクトゥルはニクマラの舟着き場の責任者にも良く顔を知られた友人がどんな用向きでイナ・サラミアスへ遣わされたのかを今更ながら思い起こし、襟首を掴まれたように立ちすくんだ。王シギルの命令に従ってイナ・サラミアスへ書状は届けられ、その要請に応じて招かれた人はサコティーの舟に乗ってやってきたのだ。

 波止場の番人が慌ただしく山腹の見張り台を見上げ、怒鳴っている。素早い応えとさらに命令を下す声が飛び、間もなく鐘楼の鐘が鳴った。

 櫂を漕ぐサコティーはもう友人の姿を見つけて手を上げ、合図を送っていた。オクトゥルは荷を下ろし終わったアックシノンからの舟が桟橋を通り過ぎ、舟渠の方へと移っていく後ろで、舫い綱を巻いた波止場の杭の間で逃げ隠れも出来ずに茫然と立ち尽くした。サコティーの後ろに、ただひとり舟上の人は真っすぐな姿勢に黄金色の外衣をまとい、まぎれもなく鋭い眼差しをこちらに向けていた。

「しばらくぶりだな、オクトゥル」

 ガラートは舟から下りてくると真っ直ぐにオクトゥルの前にやってきてその肩を軽く叩き言った。

「アツセワナのシギル王から、過日の競技に闖入したイナ・サラミアスの者の身元を説明せよと要請をうけてな。お前もここにいるならちょうど良い、私と一緒に王の御前に来てくれ。」

 舟を舫ってふたりに近づいてきたサコティーはオクトゥルに頷いたきり、ガラートの命令を待ってそこに立っている。

「お前のことではない、ラシースのことだ」ガラートは山腹の木の階段から下りて来る出迎えの者に会釈を返しながらオクトゥルに囁いた。

「私が出て来なければ誰も応じる者がおらぬので」

 オクトゥルは上へと登っていくガラートの後に従いながら素早く外衣の形を整えた。サコティーは舟着き場に留まった。

 領主父子は内門の外で待ちもうけていて客を出迎えた。

「これはヒルメイのアー・ガラート。以前お越しになった時には絹の値の見直しの時でございましたな。その頃あなたは主幹でおられ、伴って来られた若い者たちの指導をしておられた。三、四年に一度、此度が三度目か。回を重ねるごとに年月の重みに感じ入ったものだ。少年のようであった若者が今や長とは。思えば長きにわたっての付き合い。今宵は宴を催し歓待いたしましょう。さ、どうぞ奥へ入りなされ。」

 ミオイルはガラートの後ろに控えているオクトゥルに素早い目をくれ、さらにイーマの長の従者たちを探すようにその向こうを見回した。

 ガラートは端然と立ったまま礼の言葉を返した。

「お心遣い誠に有難く存じますが、私は王のお召しを受け一刻をも早くと道を急ぐ者でございます。何卒お構いなく。こうして御前に参ったのはただ供を連れて暇乞いする勝手を許していただくためでございます―――失礼のお詫びにお納めいただきますよう。」

 ガラートが懐から取り出し両手に捧げて差し出したものを、ミオイルはひと目見るなり首を振った。「さまでの窮状にある友から好意の見返りを得ようとは思わぬ。元に収められよ。しかし、食事くらいはして行ってくれぬか。その間に馬も整えようし、私もアツセワナに向かう支度が出来る。用向きから察するに、あなたが王に会われる時には我々エファレイナズの郷の主も皆その場に居らねばならぬようだからな。」

 ガラートはミオイルの勧めを容れてアツセワナまで同行することにし、サコティーには三日後にはキリ・シーマティを下った麓近くまで舟を進めておくようにと言伝た。

 ミオイルは出立の予定を早め、宴を取りやめて簡素ながら心尽くしの食事でもてなした。午後に二クマラの門を出た一行は夜になってから王女の領土である主水路(アックシノン)に挟まれた村に辿り着き、そこで宿を取った。

 翌朝早く出立した一行は開門の時間には新門(タキリ・ソレ)に辿り着いた。イナ・サラミアスの背後から昇った日の光が後にして来た道程の田園を薄赤く照らし、門扉にぬるい手を届かせた時だった。

 門が開くと、彼らと前後してクノン・ツイ・クマラを上って来た青物、卵、魚などの行商人は城壁の脇から腰を上げて次々と中へ入って行った。馬に乗った者は大きな扉の開いた片側から入った。通りの両脇に並ぶ、宿の取次ぎの小さな店舗は皆窓を下ろしていた。城壁の内側はまだ蒼い陰が居座っているが、高所の二階家の漆喰壁や石造りの鐘楼の壁には陽が照り映え、徐々に明るさを強くしている。

 外郭の通りではまだ家々の窓や戸は閉まり、起きて用に出かける者たちも黙々と歩いていた。中郭に上がると、辻ではぽつりぽつりと小さな行商人たちの陣取りがはじまり、中央門の前の通りでは、戸の閉まった大きな店舗の前に所狭しと陣取り、背負い籠を下ろして店を開く物売りが並んでいた。軽い食事を出す屋台もある。

「イナ・サラミアスの稀人だよ。」

 オクトゥルには聞きなれた人々の囁きにも、もうひと息感嘆の響きが混じる。

「ごらん、たまに来られる主幹か長だよ。」

「ロサルナシルに似ているね。」

 青物を広げている女達は囁きあった。ガラートはあまり慣れぬ馬上で馬に行かせるままに揺られていた。少しうつむいた顎を肩までたくし上げた外衣の襞に埋め、左頬の傷痕もあまり目立たなかった。

 半時と経たずに王宮の門に辿り着いた。

 門番は一行の姿を認めると速やかに二クマラの領主とイナ・サラミアスの長の来訪を伝えに遣った。案内の者が来るまでの間にミオイルは自分は都をもうひとまわりしてから、と門番に伝え、ガラートを促した。

「アー・ガラート、では後ほど王の御前で。イナ・サラミアスへの帰途にはまたわが郷に寄ってもらえような?」

 ガラートは厚意に対して礼を述べ、帰途は舟を待たせてある故ご心配には及ばないと断った。 

「王の御前を罷る時には私はもう(アー)ではありませぬ。」

 ミオイルはさほどその言葉を重くとらえた様子は無かった。またしてもイーマに独特の万物の間に上下はないという観念から来る言い回しと受け止めたようだった。しかし、オクトゥルはガラートを振り返った。その言葉が自分が郷里を離れている間に起こったことを示唆しているように思えたのだった。

 ガラートは自らが言った言葉ほど涸れた心持ちでも悲壮な思いにとらわれているようでもなかった。外衣の下に肩から吊った包みを携えているようだったが、それを確かめるように腰に手をやると、堂々とした優雅な物腰で門の内へと入って行った。


 王が招聘したアー・ガラートと王、王女との会見は、宰相トゥルカン、アッカシュ他、順次つめかけた領主らの入室を待ち、広間で行われた。

 既に席についた王並びに諸侯らの前に、アー・ガラートとオクトゥルは案内された。

 王と王女は立って出迎えた。

「アー・ガラート、昔日以来の友よ。」王は手を伸べて呼びかけた。

「この秋も鋼を用意してイナ・サラミアスの稀人を待ちもうけていたのだ。が、その段ではなかったようだな。」王はオクトゥルの方に一瞥をくれ、ガラートに差し向いの椅子に従者と共に掛けるが良い、と勧めた。

 王、王女を正面に据え、椅子のみを並べ全てが顔を合わせる席の配置はイナ・サラミアスのニアキで古来行われてきた集会のようでもあった。

 王の右には王女、王女の右隣には競技の後も滞在を続けていたオトワナコスの領主カマシュ、その隣に二クマラのミオイル。一方王の左には宰相トゥルカン、腰を曲げ深く掛けたサザール、第三家のアッカシュ、イビスの当主カジャオ、そして第五家の当主がいる。居並ぶ列席者の顔は一斉にその円弧の内に集束した扇の要に位置するふたりの方に向かう。

「他でもない、そなたに来てもらったのはある若者の身元を尋ねたいがゆえだ。」

 王は席に戻り一同を見渡すと口火を切った。

「知っての通り、私は三年前、娘の良縁をかけてイナ・サラミアスの懐を借り受け“黄金果の競技”を催した。判定の基となる黄金果は候補の者たちの手を免れ、埒外の者により娘の手に返された。つい先ごろ三年の時を経てこのアツセワナにて再度の競技を試みた。が、やはり最後に娘に黄金果を示したのは候補として意図されぬ者。この結果を託宣とは思わぬ。しかるに娘自身が黄金果を取り、この若者を選んだ。私はこの結果を容れた。私は娘の選んだ者が誰であるかを知り、臣下にも知らしめねばならぬ。」

「その者の身元については直ちに御前において一片の曇りも無く明らかにされましょう。」

 ガラートは一同の好奇と右側から伝わる冷ややかな威嚇の眼差しにも気づかぬげに真っ直ぐに澄んだ眼差しを王に向け淀みなく答えた。

「その者は生まれはヒルメイ。父は(ハル)、母は(ヒル)の流れを汲み、母方の曾祖父に神事の司アーラヒル、父方の祖父に指導者アータッカハルを持ちます。

「さらに申し上げれば、王におかれてはこの者の父母共にご存知のはず。父は誰もその(いさおし)を口にすることとてありませぬが、畏れながらコタ・サカの鉄を見出し、王のご厚情をもってイナ・サラミアスの絹との交換を果たしたハルイーでございます。母は後に一介の女としてハルイーに嫁ぎ麗しい水の子(レークシル)の名で呼ばれるようになりましたが、もとはサラミアに最も近い神人としてつとに知られる巫女でございました。」

 王の面持ちがいささかも動かぬうちから、ガラートの右側を囲むように居並ぶ面々の間に澱のごときどよめきが湧いた。

 齢六十も越えた老人でいささかも関心の無い様子でそこにいた第五家の当主は、突然不快な音に揺り起こされたように鈍い顔の中で目を見開いた。カジャオのうつむけた顔が不意に四角くこわばった。

 不覚にもついそちらに目をやりかけたオクトゥルの脳裏に、耳を打つ風の音、そして白昼の砂の上に横切る白刃の閃きと大きな影がよぎった。サザールが上体を前に折り胸元を掴んで、おう……と呻いたのだった。

 魔性の女の―――。アッカシュの呟きにイビスの領主カジャオが頷き、左隣を見やった。第五家の老人は熱心にその口元に耳をそばだてた。

 ガラートはいささかも心を乱される様子も無くひと息に言い切った。

「ふたりの子は初めの“黄金果の競技”の翌年生を受け、母により麗しい若木(ラシース)と名付けられました。三年前に掟を破り黄金果の神託に介入せんとしたため、イナ・サラミアスより放逐いたしました。今年齢二十二となったはず。仰せの過日の競技の者が彼ならば、相貌に両親の面差しを受け継いでいるのがお分かりになりましょう。」

 トゥルカンは冷ややかに曖昧な笑みを浮かべて言った。

「我らから見るに、イナ・サラミアスの者の貌にさして各々の差異は感じられぬ」サザールの左側に居並ぶ者たちから乾いた忍び笑いが興った。「―――まして二十余年から前に一度見たきりの囚人(めしゅうど)の貌などは。」

 王女の少しかすれた涼しげな声が物柔らかに差しはさんだ。

「アー・ガラートにおかれましては彼の方ととても近しい親族と伺っております。こうしてお会いしても初めてのような気がしませんもの」

 王女は僅かに身を乗り出し、義憤にかられたと言ったふうに頬を紅潮させ言った。

「ほら、ご覧くださいませ―――このように私が何度同じ方だと申しても皆信じようとはしませんの。それで私の申し上げることを証し立ててくださるようお願いいたしますわ。私が三年前、あの“黄金果”の前夜お見受けしたときには、あの方は八芒の日輪を中にして萌える枝を刺繍した鉢巻きをし、萌黄と朽葉色の地に橙と浅葱色の緯糸の柄を差した外衣を身に纏っておられました。今も同じ装いを好んでおられる。」

 ガラートは顔を上げて初めて王女を見、了承の合図にうなずいた。

「―――また、上衣は若葉色の強い糸を基にした緑。いつも母上から賜ったという護符の石を首から下げて大切にしておられる。この護符こそはその人を証すものでなくてなんでございましょう。」

 しかし、王女が期待し、オクトゥルが得心したようにはその言葉は皆の心を動かしたようではなかった。レークシルの名を聞いた時には敵意を垣間見せたトゥルカン以下の者たちの間には狡猾な目配せが交わされ、その末尾で老いて零落した老人はあからさまな欲望を面に表した。

「翠玉の、金の沈んだ石か―――!」

 王は厳しい面持ちで手を前に伸べて一同を見渡し、静まれ、と命じた。水を打ったようにあたりは音を消したが、口をつぐんだ領主たちの面皮の下には少し前のやり取りから掻きたてられた感情の色がくすぶっていた。

 ガラートは失望の念に首を振ったが、手を上げ声を大きくして言い切った。

「王女の仰ることに相違はありません。」

 王は間髪おかずに問いただした。

「いずれの時もハルイーの子に相違ないか」

「はい」 

「ならばその縁の吉凶はともかく、我が運命に縁のある者には違いない。」

 王は言い、拳の上に顎を預けた。

 アッカシュは顎をめぐらして王の方を向いた。

「王、我々は御代の後継となる者がどのような者であるかを尋ねているのですぞ。」

「王となられる方のことだ、アッカシュ殿が尋ねておられるのは」トゥルカンが口を挟んだ。

「かの若者について言うならば」オトワナコスの領主カマシュは進まぬ話に焦れたように頭を傾げてやり取りを聞いていたが、ふと姿勢を変えると波紋を呼ぶように軽く言葉を投じた。

「我がオトワナコスならば喜んで一家に迎えましょうな。人品賤しからず、我が郷の風土にも親しみ気骨もある。残念ながら我が家は男ばかりだが。」

「アッカシュ殿、いかがかな」

 トゥルカンは軽い皮肉を込めて水を向けたが、アッカシュは面を下げて黙した。

 ふと、深く掛けていたサザールが空を手繰るようにして身を乗り出し、立てた杖に肘を預け、口を切った。

「イサピアだ」

 尖った頭頂が禿げているが、薄い砂色まじりの白髪の両脇に垂れた、小さな目の寄った平たい顔は男とも女ともつかず、老いながら幼い顔にも見える。その顔がこちらを向くたびにオクトゥルは滅多に覚えぬほどの気味の悪さと苛立ちを覚えた。それはティスナの岩窟の奥に迷い込んだ幼い日の恐ろしい記憶のようでもあり、たまさか見かけた老ルメイが前を通り過ぎる時に醸す“無”の空間のようでもあった。

「かの者の血筋が神人の流れを汲む者であれば賤しき者ではない。」

 サザールは高いかすれた声で意外にもはっきりと言った。

神人(よりまし)の血筋を証しだてる第一のものは髄石、お(くに)では長葉の石(イサピア)であろう。イサピアはいずこにある。巫女のただひとりの子であればイサピアを引き継いでしかるべきだ。」

 トゥルカンはその傍らで俄かに身構えた。平静な面の下に露わな興味が口調を性急にする。

「そうだ、サザールの口より度々耳にしていたそのイサピアとは?聞くところによれば翠玉を磨いた刀子の形をしており翠の石の中に金が脈になって嵌入していると聞く。是非とも詳しく知りたいものよ。それはイナ・サラミアスの深部より彫り出されたものか?」

 トゥルカンの脇でサザールが口許をにやりとさせた。

 オクトゥルはガラートが小さく嘆息するのを聞いたが、その声は簡潔に答えた。

「それは巫女当人でなければ目にするものではございません。それは相応しい憑人(よりびと)が所持することによって人と森羅の間を取り持ち、双方に益をもたらすと伝えられております。が、ハルイーに嫁いだ時にレークシルはそれを失っていました。」

「失っていた!」トゥルカンはことさらに声を高くして繰り返した。「身上を証し立てるものを、それも国の命と言われるほどの宝玉をな」

「ハルイーにとって何らレークシルの価値に関わるものではなかったのです。」

 ガラートは王の顔のみを見つめて言った。王は僅かに顎をうなずかせた。

 周囲には軽い談笑めいたざわめきが起こっていた。

「金銀の鉱脈か!」端の老人は羨望を隠さずに口走った。「我が第五家はその昔、イネ・ドルナイルに有数の鉱山を所有しており申した。今ではすっかり無くしてしまい申したが……」

「羨ましいことだ」イビスのカジャオが相槌を打った。「金銀があれば何人の心も、いや、怨恨をさえ慰め得ましょうな。我が郷で黄金と言えば麦ばかりよ。」

「麦穂のその黄金に事欠かぬことをこそうらやまぬ者もありますまい、カジャオ様」

 王女は穏やかに言葉を挟んだ。

「あの方の母上が夫君を選ばれた時に恐らく玉石は大地の身に還られたのですわ―――そしてその失われた玉の刀子の名残はあの方の胸にございます。」

「イナ・サラミアスの地にあるのであれば失せたわけではありませんな。その稀有な質、形もあらたかな力も」トゥルカンは同意するように柔らかに言葉を添え、次いで潜めた声で鋭く囁いた。

「しかし亡き王妃の兄御アッカシュ殿が気を揉まれているように、その日に仕える者(ヒルメイ)という(うから)、果たして王女の婿に相応しい身分であるか、宝玉も無いとなると認めるのは難しゅうございますな。まして、あのようにみすぼらしい(なり)をしているのでは。」

 弧をなす面々の、その視線が織りなす扇面に沈黙が広がった。第五家の当主だけが白昼夢に耽るように、かの地の鉱脈はなかなかのものであろうな、と繰り返した。

 オクトゥルはちくちくと自尊心を苛まれながら、うつむけた面の下からガラートの様子を知ろうと眉根にしわをよせて横目で覗いた。が、ガラートは山のように泰然とトゥルカンを見返したのみであった。彼は静かに席を立って王の前に進み出、跪いた。オクトゥルもその傍らに従った。

(イーマ)であるうえは我らの中に上も下もございません。」ガラートは念を押すように言いおくと外衣の下から厚いしなやかな包みを取り出した。

「ただ、彼の生まれが(ヒル)の中で最も神人に近いことを表わす物はここにございます。彼の他は誰ひとり身に纏うことを許されぬ織物―――神蚕(しんさん)の生糸で織った錦でございます。」

 ガラートがそう言って王の前に捧げた包みの覆いをはねのけた瞬間、オクトゥルは身の震えるような誇らしさと得意さを覚えた。ガラートの古傷にこわばった口辺でさえ、ちょっと微笑んだかに見えた。慎ましく顎をひいているものの、その瞳が木陰の水面のようにきらりと光った。しかしオクトゥルがそうと見て取るや否やその面は恐ろしい過失を犯した者のように瞬時蒼白に変わった。ただ、その佇まいに何ら動じた様子はなかった。誰もがその手の上の錦に目を奪われていた。

 オクトゥルは妹からその織物の糸が準備され機にかけられた時の色あいや質について聞いたことがあったが、織り上がった布を見るのは初めてであった。

 濃い臙脂の地に鬱金のイスタナウトの枝葉柄を織り出した縫取り織りの錦であった。僅かな傾きに従ってその地色の上に光をとらえた紫の波紋が漂う。王がその腕に受けて外明かりの射す天窓のもとに行くと、鈍く静まっていた金糸の文様はにわかに光を受けて地色を溶かし冴えたあかがね色に輝いた。

「何と素晴らしい縫取り織でしょう」

 王の傍らに立った王女が嘆息した。目を輝かせて見惚れるその手が知らず知らずのうちに父の腕からしなやかに垂れる織物を受けるように差しのばされる。不意に牽制するように鋭いガラートの声が飛んだ。

神蚕(しんさん)こそは巫女の他には何人たりとも触れることが出来ぬものであり、彼の母のみがこれを生糸にすることが許されたのです。」

 王女は不面目を取り繕ってそっと身を引いたが、その目は変わらず賞賛を込めて織物の上にとどまった。

 オトワナコスのカマシュをはじめ、数名の領主らは立ち上がって王が両腕に広げ示しながら戻って来た織物を眺めた。王は席に戻ると王女に錦を渡した。

 長年絹の鑑査を務めてきた二クマラのミオイルは、その意匠を褒め讃え、同じくエフトプのキアサル殿もこのような逸品を目にする幸運を得たかったことであろうと言った。

「貴国の男子の外衣に用いる錦地とお見受けする。イナ・サラミアスでも幅広の錦を織る時には高機を用いると聞き及んでいたが、この布のしなやかさは―――」

「レークシルはどんな布をも腰機で織りました。」 

「臙脂、そしてこの金は―――?」

「それは高嶺に生まれ、稀有な薬草を喰い育つ蝶の黄金の蛹の被膜を用いるのだと伝え聞いています。」

「サラミアと呼ばれたかの乙女は蝶を殺すことなく糸を採ったというが……」

 ミオイルは興味深げに尋ねた。

「中の虫を殺すことにはならぬか?」

「神蚕三千頭はもとより、(わた)(あかね)蝶、臙脂虫を生かしてこの錦を仕立てることは出来ません、いかにレークシルであっても―――そしてレークシルはかつての技を失っておりましたので。」

 ガラートは声を低く、面に僅かな感情をも表さず言った。シギルが僅かに頷いた。

「ああ、」訳を知る者のようにサザールが高く細い声をあげた。「それはそのはず、虫ごときに憐憫の情をかけてはおられぬ仕事に掛かってのことゆえ」しかし、誰もこの老人の独り言を気に留める者はいなかった。

「おお、しかし惜しいことだ。この錦は半ばで断ち切られている。」

 わざわざカマシュと席を入れ代わって王女の隣でその膝の上に繰り出される錦を眺めていたミオイルは、突然半ばで全幅を斜に断ち切られている反物を見て言った。

「これでは外衣を仕立てるには不十分だ。」

 サザールがからからと笑い、横を向いて何事か揶揄するように呟いた。

「そうそう」不意に思い出したといったふうにトゥルカンは尋ねた。「かのサラミアと呼ばれた巫女、その若者の母御は今はどうしておられるか?」

 その目がサザールの方を見やったのをオクトゥルは見逃さなかった。トゥルカンは既に噂で知っていたか予測していたことを確かめようとしているのに違いない。

「三年前の“黄金果の競技”の最中に身罷りました。」ガラートは答えた。

「それでそのただひとりの子は民から放逐されておる―――」トゥルカンはゆっくりと繰り返した。

 既に訳を言ってあるものを、二度繰り返す由は無い。

 トゥルカンは話題に誘うように続けた。

「かの地のヒルという血族には芳しからぬ噂を耳にしたことがあった。近い身内での婚姻を重ねるとな。」

 オクトゥルは面を震わせまいと唇を噛んだ。イーマの代表として自分が侮辱を受けるのは慣れっこだが、従者として主が侮辱されるのはまた別の話だ。

 卑怯だ。こうして本人のいない所でその身内を呼び、迂闊に口をきけばその言葉が、短気に振舞えばその心象が件の者の利害を左右するという場で、一堂の者どもに示唆を与え罠へと誘いをかけるとは。

 大体、親戚で結婚するのは何もイーマに限ったことじゃあるまい。イーマの婚姻は父祖の掟に従って一族の血を保つためになされるが、アツセワナでもどこでも、結婚は土地の保持のためにされる。

 ガラートは忌むべき疑いを裏付けるような素振りを一切与えなかった。しかし、彼の無言に代わって他の声が答えた。 

「姉神は己が意を叶えるためにより気脈の通じた者を選ぶ。その憑人の血が濃いほど力は強い。」

 言葉を発したのはサザールだった。思いがけぬ力強い声に皆の目がそちらを向いた。トゥルカンでさえも意外の面持ちでサザールを振り返った。

「一族の中で婚姻を結ぶのは血を強めるには理に適ったしきたりだ。高貴な血筋を自負する族でなければこのようなしきたりは持たぬ。アツセワナの五家も然り。かのイナ・サラミアスの四族にはそれぞれの役目を守るため古より一族の中でのみの婚姻が固く守られて来た。なかんずくヒルメイの者は子がごく幼いうちに()()を付けておくという―――。」

 どうだ、この尾羽打ち枯らした老人、敵側のくせにアー・ガラートの代弁者を気取っている。真面目くさった顔で滔々と―――オクトゥルは驚きながら聞き耳をたてた。

「また姉神は己が寿命と若々しい繫茂を永らえるために自ら(つま)を選ぶ」

 老人は両膝の間に立てた杖に両手を重ね、背を起こしてこちらを見ている。オクトゥルはまたぞろ背筋に蠢くものを覚えた。ふと横を見やるとガラートの傷痕のある頬は土気色に褪せている。そうだ、ガラートの方を見ているんだ、もちろんおれじゃない―――。

 一同の輪に連なりながら、老人は内密の話をでもするかのように囁いていた。

「選ばれた者はしばしば心身優れた者の夭折により庶人にそれと知らされる。」

 猿のように皺に縁どられた丸い小さな目が見開き、薄く横に引いた唇から吐かれる声は、山懐の風穴を鳴らす風のようだ。

憑人(よりびと)であった兄姉(はらから)は聞く力を強めんがために意図され契り、その娘はかの女(タナ)の力を高めんと図った」

 ガラートはサザールと目を合わさぬように視線を床に落としている。

 オクトゥルは素早く一同を見回した。王は拳を当てた顎を深く胸に埋め、考え込んでいる。が、トゥルカン以下の者たちはサザールの不可解な独り言に慣れていると見え、さほど気にとめる様子も無く各々の関心事に思いを巡らせ、あるいは隣と囁きかわしている。

 ただ、王女は老人の言葉の中に気になる節でもあったのか、膝の上の見事な錦から顔を上げ、耳を傾けていた。

憑人(よりびと)は人に山の心を伝え“取次ぎ”ヒルメイを介してイーマは山の意志を行うとか。」

 カマシュが朗らかに言葉を挟んだ。

「我が郷にもその話は伝わる。古に郷に嫁いできた山の女人の話が。」

「神を騙って境を侵す輩の言いぐさよ」カジャオが呟いた。

 王女は僅かに半身をガラートの方に乗り出した。周りから心を閉ざしたように沈黙をつづけていたガラートは王女の気配に気付き、面を上げて見返した。

「アー・ガラート。ヒルの方々がそのように早くから行く末を配されておられるのでしたら……もしや、あの方にも既に許婚が―――?」

 王女はためらいがちに言いかけたが、新たな議論を呼ぶことを恐れてか口を閉ざした。

 ガラートは答えようと開きかけた口を結び、右手をちょっと上げて押しやる仕草をした。

「こちらの事に掛かり合いは無用」次いで素早く首を振って呟いた。「いや―――()()にあたる娘はおりませぬ。」

 サザールが仰向いて背もたれに身を預けた。疲れたと見える。

 緑郷の子(ロサルナシル)が独り者なら気兼ねは無用でございますな―――カマシュが王女の気をそそるように言った―――身ひとつの者を家に迎え入れるかどうかは家の度量のこと、本人の器量とはまた別のことだ。

「それに民の中でも技の粋を凝らしたこのような布に身を包める身分なのだ。」

 ミオイルは王女が矯めつ眇めつ技巧を学び取ろうと見つめている錦に手を振り、注意を促した。王の左に並ぶ面々でそれに応える者はいなかった。

「王族の婚礼衣装にも相応しい品だ。」ミオイルはもう一度賞賛の言葉を加えた。

「王女、どうかお返しいただきたい。」

 ガラートはオクトゥルの知る限りガラートが女に言葉をかける時としてはためしの無い冷淡な口調で言った。王女は驚いて顔を上げ頬を赤らめたが、膝の上にうち眺めていた錦を丁重に取り上げ、進み出てガラートに返した。

「大切な形見の品をお留め申し上げ、失礼いたしました。」

 王女はしおらしい声で詫びた。オクトゥルは王女を気の毒に思って、裾を翻しやや横向き加減に素早く椅子に掛ける、その横顔を見やったが、赤い頬と目の輝きは恥ずかしがっている様子には見えず、胸の内の企てをどうやって叶えたものかと心奪われているようであった。

 トゥルカンの目が光った。

「神人の血を大事に受け継いできたヒルの家にはもはや巫女を産む男子も女子もいない、そう申したな?」

 ガラートは片膝をついたまま真っ直ぐに背を起こした。ニアキの集会ならば相手と同じ目の高さになる。彼を取り巻く者は皆、彼よりも高い位置から見下ろしていた。彼は王を、それからトゥルカンを見た。

「ヒルの血のみを受け継いだ者はレークシルを最後に絶えました。」 

「イナ・サラミアスにサラミアは在さぬのか?」

「イナ・サラミアスはサラミアそのもので在られ、憑人(よりびと)はただその心と通じる者、それだけのことでございます。」

「して、」トゥルカンはガラートを指差し、声を高めた。「女神の業を指導するヒルメイはイナ・サラミアスの王族では無いのだな?」

 ガラートは大きく息をついた。その場のほとんどの者にとって周知の術中に陥ることを知りながらも、事を曲げて言葉にすることは出来なかった。

「イナ・サラミアスは未だかつて人の()()であったことはない」きっぱりと言い切った後、苦々しく付け加えた。「ご存知のはず。」

「ということは」トゥルカンは左に追随する面々に顔を向けた。「王女はかの者と契りを結んだとてイナ・サラミアスを結納に貰い受けることは叶わぬということであるな。」

 王がトゥルカンに振り返った。

「無礼が過ぎるぞ。」

 しかし、ガラートは答えた。

「仰るとおり、トゥルカン殿。かの者はもはやイナ・サラミアスとは縁の切れた者だが、さにあらずともイナ・サラミアスが人の()()となることは決してない。」

 彼は王の方に直り、頭を垂れた。

「シギル王、ヒルメイのガラートがイーマの(おさ)のひとりとして御前に罷り越すのはこれが最後でございます。同時に長の年月、貴国とイナ・サラミアスの間で取り交わされていた友好の証、鉄と絹との交換もこの度の私の暇乞いをもって終いでございます。この場を去る時には私はもう長ではありません。私は王のお召しに応じると同時に郷里(くに)からは盟約の解消の任を帯びて参ったのです。」

 王は面を上げるように命じた。

「イナ・サラミアスは元の、シギルとは知らぬ仲に戻ったというのか。」

「古いイナ・サラミアスがその最後のイーマと共に別れを告げに参ったのです。」

「相分かった。盟約の解消の申し出に応じよう。」

 王は手を上げて記録係に合図し、重々しく言った。王の両脇で王女とトゥルカンはそれぞれ目を伏せて端座している。

「二十三年の昔“黄金果の競技”において勝者となったハルイーにこのシギルは褒美としてレークシルに加え麦を付与し、レークシルは亡き妃ニーニアの温情への感謝と称して紗の領巾を贈った。アツセワナとイナ・サラミアス間のこのやり取りこそが“鉄と絹の交換”の始めである。

「コタ・サカの鉄とティスナの絹は長の年月にわたり両国の人々の安寧と繁栄を支えたが、時の移り変わりとともに双方の価値は変わり、民の求める所ではなくなった。個々の約束に拠る交換は個々において終わりとすべきである。

「この日、アー・ガラートの申し出をシギルが受けることをもって、互いに恵み助けることを旨とする両国間の盟約を解くものとする」

 王の言葉を記録係が文書に記した。

「かの地にシギルの知己はあれどかの地とアツセワナとの間にもはやいかなる同盟もない。」

 筆がおかれたのを見てシギルは言い足した。

「イナ・サラミアスが我らの与り知らぬ国となり、件の若者との縁も切ったと―――」カマシュが一同を見回して言った。

「我らエファレイナズの者が霞か幻のような噂を当てに欲をかいたところで、彼は一介の男というわけですな。女神の息子でも無く、むろん王の息子でも無く」

 イビスのカジャオは口許を堅くすぼめたままじろりと目をくれた。

「それで婿決めは延期か……」第五家の老人は弱々しい笑い声をたてた。

 自尊心が身上のアッカシュも、しかしこの段に来て我慢しきれなかったものか大きく身を乗り出した。

「王の縁戚に男子がいないわけではない。婿を世継ぎにすることにこだわらず、王家に近い男子に後継を求めるのがより望ましいのではなかろうか―――」

「するとコセーナの子息ふた方が有力ですな。」

 カマシュがすかさず指摘し、アッカシュは口をつぐんだ。

「アッカシュ殿にもご子息が」

 トゥルカンは冷ややかで丁重な口ぶりで言葉を挟んだ。

「どの方も王の直接の御子である王女に比べれば遠くなる。果たしてそうまで男子にこだわる必要がありましょうや?」

 カマシュは日焼けした精悍な顔の濃い眉の下から人々の面持ちを観察しながら言い継いだ。

「我が郷では女とても指導者の器を備えているのが望ましいとされる。姫が王の治世を引き継がれるのも一案でありましょう。オトワナコスはオトワナコスゆえ。」

 椅子に掛けて円弧に居並ぶ皆の間にしんとひと息、沈黙が下りた。

「王、何卒ご判断を」

 ミオイルは一同の了承を確かめるように見やった。カマシュが今や遅しとばかりに頷き、トゥルカン、イビスのカジャオ、アッカシュは頷きこそしなかったが、王の決断を聞き漏らすまじと振り返った。

 王は敢えて誰とも目を合わせず正面を見据えて立ちあがった。一歩踏み出すとすぐ足元には跪いているガラートがいる。王は静かに目を落とし、ガラートに言った。

「友よ、立って席に戻るがよい。客として招いたそなたを差し置いて、先ず内輪の事を決定するのを許してくれ。このまま暫し待ってくれぬか。(くに)に帰す前にひと言申すこともある。」

 ガラートとオクトゥルとは会合の席から遠く下がり、列柱の前に立った。一同はサザールひとりを除いて椅子を立ち、円弧の輪を絞って王の前に連なった。

 王はひとりひとりを見回し、誰ひとり聞き漏らしている者がいないのを確かめると、広間の端のふたりにも十分に聞こえる声で宣言した。

「私はここにわが後継を定め、諸公の前に宣言する。わが第一家の血を受け継ぐロサリスは女王として私のあとに政を引き継ぐ。黄金果の勝者である故である。また競技の黄金果によって示されたごとく、配偶者(つま)を選ぶ権利はロサリスのものである。夫の名はロサリス自身が告げるであろう。」

 王女の頬は喜びと緊張に紅潮した。しかし王は厳しく遮るようにして言葉を続けた。

「ただしその夫について、彼の所有する領土に係る権利の他には一切与えぬ。彼がロサリスの右腕としてアツセワナの政に携わることは認めぬ。私は彼の中にアツセワナの業をよく知り差配しうる質を見出さぬ。政においては審議に与る諸侯の下である。ハーモナはコセーナに属する領地ゆえ。しかし、将来においてロサリスが子を儲ければその子は王家の子である故、王位を継ぐ資格を得るであろう。」

 王は一言一句の誤りも無く記載するように記録係に命じ、直ちに伝令をしてこの場に不在の領主および議会の面々の処に向かわせ、世嗣発表と新王の政を支える顧問の選定などの協議を取り急ぎ行う旨を伝えよと命じた。

「トゥサ・ユルゴナス、コタ・ラートの代表は明日にも来ようが、コセーナ、エフトプは三日は要しよう。皆が揃った時に会議を再開するとしよう。今日ここに集った皆には国許に帰るのを暫し待ってもらいたい。」

「我ら城内に住まう者にも屋敷に帰って骨を休める(いとま)はいただけまいか?」

 トゥルカンが尋ねた。シギルは首を振った。

「いや、無聊は気の毒だが、王宮に留まってくれ。歌舞など催しもてなそうほどに。」

 王はこの会議がイナ・サラミアスの長との会見の間に急遽設けたものであったことを強調して一旦解散を宣言した。そして、諸侯らの宿泊と宴の準備を命じようと席を立ちかけた王女を留め、代わりに女中頭を呼びつけて所用を指示するように、と命じた。

 諸侯らは憩いを求めて広間から順次出て行った。

 トゥルカンは柱廊に控えていた従者を呼び、そのついでにガラートに歩み寄り、微笑を浮かべながら言った。

「して、古き長の去ったイナ・サラミアスはアツセワナの諸公と新たな交渉を持ち得ましょうな?」

「アー・ヤールがその問いに応えることでしょう。」

 ガラートは答えた。トゥルカンは慌てたふうに両手を差し上げた。

「おお、それは急がねばならぬ。食糧を買い付ける相手を探さねばこの冬を越すのに難儀されようからな。」

 やって来た女中頭に指示を与えるために席を立って柱の傍まで来ていた王女が振り返り、気丈な面持ちでトゥルカンに言葉をかけた。

「トゥルカン様、父はイナ・サラミアスとの盟約を解消したかもしれません、しかし、継嗣が父の志を引き継がぬとも申せますまい。新たな糸口がふたつの地を結び、アツセワナの黄金の穂(トゥサ・ユルゴ)を積んだ舟がコタ・シアナを遡る日も近いことと存じます。」

 トゥルカンの眉間が蒼くなり、口の端が下がった。オクトゥルは息を殺して王女とトゥルカンを見比べた。しかし、ガラートははっきりと懸念を面に表し、王女を振り返った。

 王女はそれ以上トゥルカンに示唆を与えて追及されることを得策ではないと思ったか、女中頭の方に向き直り、宴の用意について指示を出していたが、トゥルカンは去り際に王女につと寄り、通りすがりに囁いた。

「勇み足な取り引きは思い止まった方がよろしい。それに、あなたはまだ女王ではない。」 

 女中頭は恐れおののいて一礼し、王女に命じられた用をしに小走りに去った。トゥルカンは館に戻れない不自由を大声で従者にこぼしながら庭園の方へと出て行った。

 誰もが立ち去った会議の席で、サザールがひとり椅子に取り残され、膝の上にうつ伏している。

 王はもどかしげに腰に拳を当て声を掛けた。

「サザール、そなたは帰るがよい。広間を出て待て。誰かに送らせよう。」

 サザールは身体を傾げ、床に落とした杖を拾おうともがいた。身体が前のめりに転びそうになる。オクトゥルはとっさに駆け寄ってその身を抱えた。両手を泳がせて倒れ込んだ老人の胸が腕にぶつかった。奇異な感触に呆然と固まるオクトゥルをよそに、サザールは急に力を得て立ち上がった。片手で襟元をくつろげ、意地の悪い様子で目を細めてオクトゥルを見やると、そのまま、両手に握った杖の石突で床を掻きながら芋虫のように這い出て側廊の方へと去って行った。

 王は記録係を呼び寄せ、文書の内容を改めると印を押した。そして王女に向き直り、この文書を蔵に納めて来るように、さらに衛兵隊長に来させるように、と申し渡した。

 同席した者たちが全て広間から去ると、王はガラートを振り返った。

「ハルイーは達者か」

「はい」

 ガラートは一度は仕舞った錦を取り出し、恥じ入るように差し出した。

「あのように人々の前に曝すものでは無かったものを―――この神蚕の錦は不完全なものながらお納めくださいますよう。ハルイーの言葉と共に預かって参りました。」

「いや、これは受け取れぬ。」

 王はきっぱりと言った。

「謎多き事ながらこの錦の由来を考えるに、ハルイーは知らず私が所有するのが正しいことには思えぬ。ハルイーは恐れを知らぬ者ゆえ気にとめぬのだろうが―――これはそなたが保管するのが一番だ」

 ガラートは頭を垂れたが、これが最後の使命とばかりに告げた。

「古いイナ・サラミアスは王に別れを告げました。しかし、新しいイナ・サラミアスが御前に挨拶に参ることはありますまい。」

「そなたの他の(アー)たちはトゥルカンを選んだということだな。」

 王は言った。 

「それが明らかなら私も若い日の思い出に心惑わされずにすむ。ヒルメイのガラート。従者と共にすぐに城を出、(くに)に帰るが良い。そなた達が行くまで南の通用門を開けておく。キリ・シーマティからアツセワナを出よ。衛兵隊長が来れば主郭から順に門を閉めるゆえな。」


 正殿を巡る柱廊には、王宮に足止めをされた領主らが入れ代わり立ち代わり現れては従者を呼びつけていた。家への言伝を誰かに頼みに門へ走らせる者もいれば、宿泊室を下見してくつろげるように整えて来いと命じる者もいた。

 トゥルカン殿はどこだ?そこに居る誰もが一度はその人の所在を尋ね、誰かが応えた。中庭を散策されている。いや、街の見晴らしを求めて城壁に登ることを願い出、護衛兵に伴われて行かれた。

 カマシュは、馬の支度を解け、帰郷は延期になった、と命じながら朗々と通る声で従者にこぼした。

「やれやれ、アガムンを王にという流れにでもなっていればいっそのこと主従の契りを反古にしようものを。心許ない舵取りを見守ることになるわい。一刻も早く帰って境界の守りを固めたいものよ……。」

 アッカシュは足止めに怒りをあらわにしながら、他の者と連れ立つこともなく、豪放に振舞うカマシュを冷ややかに見つめている。

 ガラートとオクトゥルは柱廊の脇の杜を目隠しに庭園を横切り、もの慣れた様子で待ち構えていた宝物庫つきの役人に案内されて奥殿の裏に抜け、西の通用門から台所の出入りの荷車と一緒に内郭の外に出た。

 間口に店舗を備えた小さな家がまばらに並んだ通りを外郭へと通じる坂のほうへと下りながら、オクトゥルはそっとガラートに尋ねるともなく呟いた。

「昨年の交換の時と同じだ。裏口から誰の目にも触れるようにそっと出される。だが、今、我々が王宮から出された理由は……。」

「昨年は保護、今年は慈悲だ。」ガラートはごく低く言った。「敵の側に付くと言った我々に去る猶予を与えたのだ。」

 ああ……オクトゥルは呻いた。おれがもたついている間に故郷ではなにがあったんだ?

「お前が姿を見せなくなった秋の初めから、ヤール達は交渉の相手をトゥルカンに変えることを検討していた。そして四日前、シギル王の書状を受け取った時にはヤールは回答に難色を示した。私が行こう、と申し出た時、ヤールはすぐに大木(トゴ)等を集めて会議を開いた。そして、王との交渉を終わらせる任務を限りに私を長から退けることに決めたのだ。」

「シギル王と決別するためなら、アツセワナに出向くのを許そうと―――?」

「そうだ。それほどに我々は困窮している。私がサコティーとイナ・サラミアスを発つと同時にハマタフも発った。領主たちのもとで働いている若い者たちの待遇を確かめ、出来うるならその報酬を前貸ししてもらえまいか、と頼みにな」ガラートの声は微かに震えた。「交渉相手など、どこにいる。私は民の若者に物乞いをさせてしまった。」

 オクトゥルは居心地悪く黙った。自分が王女との取引を試みたこと、それを果たしたことを皆が知っていさえすれば、物乞いなどさせずに済んだものを。しかし、ハマタフが今どこにいるかもわからない。そして王女との取引は来年も続く類のものではない。トゥルカンと交渉するということは、イナ・サラミアスに彼の遣わす山師たちが入ることを承知するのか?

 不意に、オクトゥルの頭にある男の顔が思い浮かんだ。

「あのサザールという男はトゥルカンよりも老けて見えるが……。」

「おそらくもう少し若いだろう。」ガラートは答えた。

「あの男だろう、昔“鉄吹き谷”でタナと言い争って山から落ちた石を食らい、不自由の身になったというのは……」

「そうだ」オクトゥルの身震いを見逃さずにガラートは尋ねた。「彼がどうかしたか?」

「先ほど彼に手を貸そうとした時、身体に触った。胸が亀の甲羅みたいに盛り上がって硬かった―――しかもそいつは奴さんの皮膚なんだ。この目で見たんだ。黄色い硬い(やに)の固まりの上に血管が透けてた」

 ガラートは何も聞こえなかったのかと思うほど落ち着いた静かな目で見返した。が、通りを行き交う人々に憚るように声を低めて言った。

「彼は石の下敷きになった時に彼自身が首から下げていた玉石の刀子が胸にめり込み、どうにも取り出せなかったのだ、とハルイルが言っていた。仕方なく、刀子を繋いでいた鎖のみを切った。無理に剥がせば骨まで剥がしかねなかったと。」

 その口調は季節ごとの草木の変容を語るのと同じように淡々としていた。

「それで彼はもともと肌身離さず持っていた石の刀子を、二十三年前から彼自身の身体の中に持っているのだ―――二枚貝の身に刺さった刺の周りに珠がつくられるように、石の欠片の周りを脂が包んで身体が傷つくのを防いでいるのだろう。今や彼と玉石はひとつだ。」

「全く、気味の悪い男だったよ!」オクトゥルは当の老人から離れた安心からあけっぴろげに言った。

「ことにあの目、あの目ときたら。」

「私には彼が直に見る目の方がましだ。」ガラートは言った。「他の者があのような目つきをしているよりはな。」

「他の者とは?」

 ガラートはちょっと後ろを振り返る仕草をし、黙って城壁の重なる間の坂を下った。

「彼はイサピアの在りかを知っているし、私の様子から確信を得たことだろう」オクトゥルの先に立ちガラートは口早に呟いた。「彼にとって何であれ、トゥルカンの気をそそるために()()を話すだろう、金鉱床の証として―――シギルの鼻を明かすため、いや、シギルとの長き闘争の戦利品として」

 坂の上の木戸が閉められる音がした。まだ夕刻には早いが、下の通りでは帰途を急ぎ足を早める物売り、用足しの馬方などがキリ・シーマティの方へと向かって行く。

「サザールは帰されたし、トゥルカンは残りの領主らが到着し、会議が終わるまで足どめされる。が、同じだ。遅かれ早かれ、サザールはトゥルカンに取らせるために在りかを言うに違いない。」

 城壁の陰を出るとガラートはぴたりと口を閉じた。彼らの先を行く人影も減り、ずっと減った民家やがらんとした家畜市の囲いの前を通る時にも黙ったままだった。

 キリ・シーマティを出、合図のように門扉が閉ざされると、ふたりは普請された七曲坂(ニョドキャマハノ)には見向きもせずに松やイチイが覆う斜面を下って行った。僅かに混じる広葉樹は葉を落とし、透いた空から細く射す赤みを帯びた光線が日の傾きを教える。青黒さを増す陰の中でガラートの金褐色とオクトゥルの樺色の外衣が風に乗って降下する木の葉のように滑らかに、静かに左右に振れながら下った。

 エノン・トゥマオイの橋の下流になる丘の麓でガラートはようやく息をつき、木陰に留まったまま目の前に横たわる水路の舗装された岸を見回し、カワセミの鳴きまねをした。

 程なくして水路脇の通路の向こうからひょっこりとサコティーが顔をもたげた。彼は軽く辺りを見回し、ふたりに向かって手招きした。ガラートとオクトゥルは素早く木陰から通路へと渡り、水路の端にサコティーがつけてある小舟に乗り込んだ。

「どこまで行きますか?」

 水かさの低い、穏やかな流れの真ん中に舟を進めながらサコティーは尋ねた。

主水路(アックシノン)の近くの村で宿を取るなら日暮れ前に着ける。」

 ガラートは首を振った。

「人には会いたくない。イズ・ウバールのどこでも良い、風を凌げる木立ちと窪地があれば。」

「暗くなってもニクマラの近くまでは行けますが」サコティーは慣れた水路を見渡して言った。「その先を真夜中に通るのは御免こうむりたい。下流では夏から水路が壊れ荒れています。泥が流れ込んで川底が埋まり、両岸は森の中まで沼だ。切れた路をみつけるのに舟を何度も泥の上に上げなければならない。もちろん、自分の足元が安全か分からぬところで」

「二クマラの麓まで」オクトゥルは提案した。「領内に入るが、丘の宿駅はいつでも我々に開かれている。」

「絹の遣いには、な」ガラートはやや冷ややかに言った。

 サコティーは櫂に力強いひと漕ぎを加えた。トゥサ・ユルゴナスの整った常盤木の木立ちが右側を流れ去って行く。トゥサ・ユルゴナスを過ぎると、針葉樹林のたてがみが夕陽を照りかえす樫の丸い波がしらの上に黒々と屹立する、イズ・ウバールの広大な丘陵地を背後に控え、灌木の混じった原が右の岸に続く。

「下流でそれだけ難儀したとなると」オクトゥルはサコティーに声を掛けた。「エノン・トゥマオイまで舟を持って来るのはだいぶん骨を折ったろうな?」

「二水路は僕からすると君が芽吹き時の平らな森を散歩するようなもの」鼻歌のようにサコティーは答えた。「水路を荒らす奴と会わなければ順調に行くし、人に会えば無駄話もする。」

「へえ、お前がね。」オクトゥルは軽くうそぶいた。「それじゃあ、おれ達を待ってさぞくたびれただろうという心配も」

「同様に無用」サコティーは素早く言い、ガラートに振り返った。

「王との会見は?王はどんなことをお尋ねでしたか。あなたが行ったのだからラシースの分が悪くなるようなことは無かったでしょうね?」

「もともと良くないのだからこれ以上悪くなることもない。」ガラートは不機嫌に言い、額に手をやった。

「私がこの邂逅に喜べない以上にアツセワナで歓迎されるわけもない。」

 オクトゥルとサコティーは目を交わした。オクトゥルはサコティーのために、ガラートがラシースの身元を明かすために領主たちに求められた証拠のもの、それに対してガラートが示したものを話し、しかし、若者とイナ・サラミアスとはもはや何の縁もないことがガラートによって明言されたことを話した。それから、最後に王の下した決断について言った。

 シギル王の後を継ぐのはロサリス王女であり、配を選ぶのは王女の意志に委ねられる。しかし、その夫に婚姻によって新たに地位、権力を与えられることは無い。ただし、王女との間の子は王家の血筋を認められ、世継ぎの資格を得るであろう。

 この決断を周知させ、新女王の代の補佐を決めるために直ちに全ての会議の面々を召集する早馬が出された。

「しかし、トゥルカンは強硬に反対はしなかった。」オクトゥルは思い起こして言った。「アッカシュよりも。長年、息子を王女と娶せるのに執着していたというのに。奇妙だ。」

 サコティーは黙って聞きながら、それが習慣のように左の岸をくまなく見張っている。

「いや、彼の様子は理にかなっている―――恐ろしい。」ガラートは手の下で呻いた。

 今宵は静かだ、サコティーが持ち前の穏やかな声で呟いた。

「どこか陰にやってくれないか―――あの山が見えないところに。」

 ガラートの求めに、サコティーは夕日を飲み込んだばかりの北西の山塊を見やった。

「雲が広がってきている。まもなく山頂をすっかり隠してしまいますよ。」

 太陽の消えた下面を茜に染めた青黒い雲がイネ・ドルナイルの背後から迫り、陰に入った山の表に回り込みはじめていた。サコティーは二クマラの丘陵から流れ出ている小川の口でしばらく小舟を止め、木陰で休んではどうかと勧めた。

「舟に酔ったとは思えないけれど」ガラートの夜目にも蒼ざめやつれた顔を見、自負を傷つけられたようにサコティーは呟いた。

 ガラートはそうではない、という合図に首を振ったが、岸のハコヤナギの元に腰を下ろすと、幹にぐったりと身を預けた。

 オクトゥルは自身、昼間の会見の疲れと奇妙な体験から胸が騒ぐのを覚えた。そこで、少し休んだらやはりもう少し舟を先にやってもらってニクマラの宿に泊まろう、と再度勧めた。

「僕になら気兼ねは要りませんよ。今日などはいつもから見れば遊んでいるようなものだ。」サコティーは気楽に言った。「だけど、べレ・イナに暮らすあなた方にしてみればアツセワナの気も水も淀んでいて疲れるのだろうな。」

 ガラートは不承不承頷き、外衣の端で顔を隠し、呟いた。

「風、水、いや、そんなものは流れてゆけば清められる程度のことだ。それよりも人―――なんと人とは欲深いものか。トゥルカンだけではない、イビス、第三家、第五家、誰もかも。王女さえも―――!今日は私はもう疲れ果てた……。」

 空がすっかり藍色に染まり、エファレイナズの広大な田園の上に星々が灯りはじめると、サコティーはガラートを促して小舟を出した。オクトゥルはふた月も離れた故郷を思って空を仰ぎ、深く息を吐いた。平野では木々が色づき始めるのはこれからだ。それも故郷のように鮮やかな変化は無い。葉は赤く染まる前に茶色く朽ちて落ちる。

「今年のべレ・イナはあかがねの錦を纏わなかった。」

 オクトゥルの心を聞いたかのように、ガラートがかがめた胸に手をやって言った。

「イスタナウトが長雨と蚕食で弱ってしまったため、葉が青いうちに枯死してしまうのだ。」

「サラミアが赤い衣を纏わなかったのだから、人が赤いものを欲しがっても駄目だな……。」

 サコティーが呟き、ふたりの客の目に気付くとはにかんで笑った。

「豊作の時には誰にも叶うささやかな望みだったはずだが……。それにしても、滅多に物をねだらない()はありふれているように見えてなかなか無いものを欲しがるものだね。」

 どうもそのようだな。年上のふたりは頷いた。

「ガラート、差し支えなければイナ・サラミアスにいた頃の父の話をしてくれませんか?」

 孤独な想念に浸りがちなガラートの気を紛らわすように、サコティーは朗らかに言った。

「父はクシガヤに下りてからは決してイナ・サラミアスの話をしませんでしたからね。兄たちも父の前では自分たちの思い出さえ口にしなかった。しかし、クシガヤで誰よりも下に家を構え遜っていた父のことをコタ・シアナの民は敬意をもって接していました。そして、直接には言わないまでも、クシガヤの風習には古のクシュの合図により初めていたという儀礼がいくつも残っているのです。たとえば、春先の娘たちの水浴びです―――年上の女達は言っていました、雪解けの頃、イナ・サラミアスの峰からクシュの鳴らす葦笛の音が聞こえる、それはサラミアが目覚める春の証。その音を聞くと、乙女たちは長い舟を仕立て、聖地から来るコタ・ミラの水を浴びに行くと。今でも七つになると女の子たちは水を被りに行きます。さすがに昔のように泳いで川口の岩に触れに行ったりはしないそうですが。」

 ガラートは身を起こした。大田園地帯を過ぎ、自営農の農地が点在する森の脇に差し掛かり、水位の低い堤の内からは岸の木々に阻まれてイナ・サラミアスの輪郭も隠されている。ガラートの目は舟の進む暗い水面を見つめた。

「トゴ・メムサムは代々のクシュがそうであったように沢を渡る達人だった。私たちヒルメイは少年の頃に必ずクシュの手ほどきで春先の危険な沢を歩く訓練をする。私たちが芽吹きを見回るより先に彼らは雪解けの最初の兆候を捉えに山に入るからだ。メムサムその人は天候を読むのに長けてもいた。が、読むのに長けていても天候を意のままにすることは出来ぬ。読める故にその力を混同され、責任を負わされることにもなっただろう……。」

 サコティーは遮るように首を振り、知っています、と囁くと強いて朗らかに言った。

「私が知りたいのは、父が本当に雪解けの峰の上から葦笛を吹いたのか、ということですよ!たとえば、距離にして五、六里もある南の嶺からクシガヤに葦笛の音が届くというのは変な話ですからね。」

 ガラートはちょっと笑って思い起こし、言った。

「私はメムサムについて春の山に登った時、彼が笛を吹くのを確かに見たよ。だが、それが麓まで届いたとは思えない。それにメムサムはつれづれの折にいたるところで吹いていたから」

 サコティーは笑った。ガラートは若者の様子に僅かの落胆を察して言葉を添えた。

「だが、春の陽に峰々を覆う白い衣が燦然と輝き、程なくして溶解し、厚い層が一斉に水を通しながら締まってゆく音―――水の産声だとメムサムは言っていた―――細い水の産声が森を満たすのに合わせて笛を鳴らすことはあったよ。クシガヤの人々が聞いたのがどちらかは分からないが、双方ながら同じ音に感じるところがあったのだろうな。」

 ガラートは、若者が何か他の逸話を求めるかと待ってその顔を見た。しかし、若者は満足したのか、それとも自らの心の中に生じた他の事に思いを奪われたか、黙々と櫂を漕ぎ続けた。 


 二クマラの宿泊所で一夜を過ごしたガラートとオクトゥルは、翌朝早くサコティーが小舟を隠している森まで下りて行き、舟に乗り込んだ。

 前の晩順調に下ったサコティーの小舟は、翌日の半分を“夫婦川”の河口に加わる水路の出口を探し当てるのに費やした。

 夏の洪水は夫婦川の両岸をも荒らしていた。水路の舗装は破壊され、土砂が流れ込んで埋まり、両脇には沼が出来ていた。遡って来たよりは楽だ、サコティーは気軽に言うと、皆に岸に上がるように言い、葦の伸びた砂州に舟を引き上げた。

「昔ながらの葦原だ。」

 ガラートは湿地を見渡して言った。

「私は昔、ハルイーと一緒にトゥルド殿の仕上げた鉄を受け取りにイズ・ウバールに行った。仕上がったばかりの絹を持って。そこで待ち構えていたトゥルカンの兵たちに襲われたんだ。トゥルド殿が、そして彼を助けに行ったハルイーと別れた後、私も。」

 ガラートが頬の傷を負った時の話をするのは初めてだった。

「私はトゥルド殿が鉄を荷に忍ばせた馬を確保していた。だが、兵たちに中身を調べられそうになって、湿地に馬を放したんだ。沼に足をとられて溺れると分かっていて―――このあたりにはあの哀れな馬の死骸と、トゥルド殿のつくった最初の鉄塊が泥の中に埋もれているはずだ。」

 二度三度と皆は舟を下りて押しながら、葦の間を進んだ。やがてサコティーは泥の山の果てにふた方から綯い合わされた流れを見つけ、ふたりに舟に乗るように言った。それから、艫を水に押しやりながら弾みをつけて岸を踏み切り、流れに舟を乗せた。

「それで絹は?」

 櫂を取り、淀みの中にいくつも入り乱れた流れの向きを見極めて川下へ下りながらサコティーは尋ねた。ガラートは苦々しく顔を歪め、手を上げかけた。

「私の傷を縛るために台無しにしてしまった。トゥルド殿と会えたらその場で鉄と交換するはずだったのに!絹が必要な日は三日後に迫っていた。ハルイーはレークシルが織っている絹を当てにしてイナ・サラミアスに向かった。」

「その時の、最初の目論見がうまくいっていたら―――。」

 サコティーは物思いにふけりながら言った。ガラートは詫びるように若者を見た。

「しかし、どうも日数を考えると、どのみちイナ・サラミアスでいざこざは起こっていたでしょうね。やはり父は山を下りたはずだ。そして、僕が河で生まれ舟と逢う巡りあわせなら、これで良かったんだ。」

 一旦“夫婦川”に向かう流れに乗ればサコティーの舟は飛ぶように進んだ。土砂の落ち着いた川面は澄み渡り青空を映していたが、冬に近づく風は切るように冷たかった。ガラートは慌てるには及ばない、二日のうちにイナ・サラミアスに着けば十分だ、と言ったがサコティーは櫂を漕ぐ手を緩めず、もし許してもらえればピシュティの市に寄りたい、そこもまた桟橋でできた町は流されてしまったが、近頃また商いをする者たちが集まってきているという話だから、と言った。

「あなた達がそこで食事でもして休んでいる間に、僕はちょっとエフトプから来る物売りを冷やかしてきますよ。」

 “夫婦川”の河口の中州に古くからあった交換市ピシュティは流木と砂、壊れた桟橋が堰となって河の西側をすっかり埋め、溜まった水が低い滝になって島の東側にざあざあと流れ落ちていた。サコティーは奔流を避けて湿原に深く入り、そこに舟を泊めると()()を取り上げ二尺もほどもあるウグイを仕留めた。それから小高く隆起した岸を登り、元の中州の町と同じくらいの広さの高台の河寄りの端に新しく出来た交換市にふたりを連れて行った。入り口の窪地で竈を築いて火を焚いている老女に小銭を一枚渡すと、魚を料理して客に食わせてくれと頼み、ふたりを窪地の端に座らせると、腰に綴ってある銭の束を握りしめて、休憩している荷舟の舟頭や売り物と一緒に乗って来た小物売り達たち、そこで彼らを相手に店を広げている者たちのいる上まで駆けて行った。

 オクトゥルは魚をたらふく食ったあと、立ち上がって丘の際を歩いた。サコティーが舟を泊めたところよりも上流の岸にはエフトプの商舟が二隻、泊まっていた。ひとつは食糧や家禽を運ぶ舟だが、もうひとつは奢侈品も扱っている舟だ。サコティーがひとりの商人を伴って上から下りて来、そのまま丘を下りて行った。恰幅のいい年配の男があのすばしっこい奴についていくのはなかなか骨だな、オクトゥルは珍しそうにその後ろ姿を見守った。男は待て待て、と叫びながら、チュニックの裾をからげて追って行く。

 小半時もして、サコティーは今度はゆっくりと戻って来た。思いなしか頬が上気している。口を堅く縛った革袋を両手に大事そうに持っている。腰に下げていた小銭の綴りはすっかり無くして、綴り紐が軽くベルトの脇に揺れている。

「さあ、行きましょう」

 サコティーはそれだけ言って手にした袋と同じように口をぴたりと閉じ、ほとんどふたりと目も合わさずに先に立ってさっさと丘を下りて行った。素っ気ないふうをしているが、背後を下りて来るふたりの気配を鋭敏に感じながら足取りを加減しているのは間違いなかった。舟に着くとサコティーはエフトプの商人から買った品を胴巻に入れ、上衣の上からベルトを締め直した。

 ピシュティの岸に沿って下って行く時のサコティーは遡って来た時よりもむしろ細心だった。滝のしぶきが掛かり、奔流に舟が傾ぐのを恐れるように、とっぷりと浸かった高台の岸すれすれに舟を寄せ、漂流物の堆い帯の横を抜け“夫婦川”の本流に乗った。

 こいつは二年もの稼ぎを何に使ったのかな―――オクトゥルはやや気が咎めてきてサコティーの頑固に目を合わさない横顔を見た。こいつにも川の民にもおれは借りがあるんだ、王女の小さいお付きの娘に言ったように。おれはイナ・サラミアスの岸に着いて王女のくれた神蚕の糸の代価がちゃんと届いているのを見届けなければ口に出してそうと言うわけにはいかないのだが、この若者(アート)は川の民の困窮を救うために身銭を切って何か高価な買い物をしたのじゃなかろうか?

 ガラートもまた膝の上に両肘を預け、もの思わしげにサコティーの様子を見ている。彼にももうサコティーの労に報いる銀が無いのだ。二クマラのミオイルへの贈り物に母の形見の装身具を差し出そうとしたほどなのだから。

 しかし、先に沈黙に耐えられなくなったのはサコティーだった。彼は砂で浅くなった川底が舟の腹を擦り葦が視界をふさぐ心配の無い広い“夫婦川”の河口に出ると、舟にゆっくりと腰を下ろし、両側の支流を得て勢いを増す奔流に乗せてクマラ・オロに向かわせた。

「どうしたんです。そんな気の毒そうな顔をして」

 ぶっきらぼうだが柔らかい声で、呟くとも話しかけるともつかぬ調子で若者は口を切り、それから大急ぎで言いきった。

「誰のためでも無い、僕は自分のために買い物をしたんですよ―――それもずっとそうしてやろうと思って稼いだ分をはたいてね!愚かかもしれないが、心配されるほどじゃありませんよ。」


 シギル王との会見を果たしたアー・ガラートがオクトゥルと共に舟でクマラ・オロを東に向かっていたのと同じ日、アツセワナの始原門(タキリ・カミョ)にひとりのイーマの身形の若者が、周旋人イドゲイの請宿を訪ねてやってきた。

 丘陵の頂に冠する城壁の輪の中でもタキリ・カミョの辺りは最も古く築かれたもので、門からすぐ右に迫る石垣は古の人々の手によって成り、不揃いな大小の石が漆喰を用いずに巧みに組み合わせてある。草生し、蔦がはびこる壁はそう高くは無かったが、内に高く孤立した丘と旧家の廃墟を囲み、城市の南西に集まる(うつつ)の賑わいから遠く退いている。

 若者は古い石垣に沿って並ぶ間口の小さな差掛け小屋の店舗のひとつを覗き、主が留守なのを見てとると、同じ作りの小屋を奥へと尋ねて回り、請宿の元締めだと教わった、すこし大きな店舗を訪ねた。

 店先には手代あるいは界隈の同業者と思われる男達がたむろをしていて、暇を持て余してか、おはじきか籤当てのような遊びをしてはしゃいでいる。大きな背を丸めて顔を突き合わせ、興奮して叫び、時には相方を罵り、手や足が飛び出たり退いたりする。若者にはそれが獣のひと群れか、躾けの悪い悪童が戯れているように見えた。

 ふとひとりが顔を上げ、おい、と仲間の注意を引いた。

「そろそろ交代だ、次に行くのは誰だ?」

 ひとりが軽く手を上げ、傍らに丸めた外套を取って腰を上げると遊びの輪を抜け、やおら外套を肩に掛けながら寂れた通りの方へと出かけて行った。

 面を上げた顔ぶれを見ると、界隈の店先で見た覚えのある顔も二、三混じっている。彼らはこの辺りの請宿を営んでいる者達のようだ。怠けているのかと思えば、男達は時間を確かめながら順に仕事が回って来るまでの暇つぶしをしているらしい。

正門(タキリ・アク)新門(タキリ・ソレ)には行かなくてもいいかな」

 少し若いのが言うと、一座の頭といったふうの髭をたくわえた男が首を振った。

「金輪際!見張られているのはこちらだ、迂闊に中郭に近づくなよ!―――なに、今日は良くて百姓道だの大池道から田舎議員がやって来るくらいだ。それよりもコセーナの兄貴を現場に近づけるな。奴さん、例の競技の翌朝にここに来てイドゲイに作人のことで文句を言ったらしいからな、()()()明けのイドゲイによ」

「作人だって?」

「イドゲイが割り当ててやった奴らが気にいらなかったと。」

 男達は薄笑いし、顔を見合わせた。

「いい殿様じゃないか!」「時機をあつらえたみたいによ」

「コタ・イネセイナで入れ替えが済んだら奴は戻って来る、そうしたら、いいか、少し寝かせてやれよ!大仕事続きだからな。」

 髯の男は親分肌を見せつけると、次の勝負を促した。

 若者は思い切って一歩踏み出した。

「もし」

 親分は不意に顔を上げると少し離れて立っている浅黒い珍しい風体の若者と目を合わせた。彼の隣にいた若いのがちらりと目をくれ、仲間に囁いた。

「取りこぼしだぜ。」

「まて―――」髯の男は窘めると、腰をはたいて立ち上がり、顎をしゃくった。

「旦那、何か用ですかい?」

 若者は侮られぬよう背筋を伸ばしながら慇懃に、私はイナ・サラミアスの長から遣わされた者だが、ここで仕事の周旋人をしているイドゲイというお人には会えないだろうか、と言った。

「イドゲイは仕事の真っ最中だよ」彼とそう齢の変わらない男が若者を睨みつけた。

 若者の面に落胆の色が広がり、急いで呟いた礼とくるりと背を向けた仕草が焦りを表した。髯の男は大声で引きとめた。

「まあ、そう言うな。おれ達で聞いてやろうじゃないか」彼は鷹揚に言った。

「兄さん、用向きを言ってごらん。おれ達が肩代わり出来ることなら処理するし、そうでなくても、ちゃんとイドゲイに言付けるからな。」

 ハマタフは相手を信用しかねて言いよどんだ。四日前のオルト谷での会議の明けた早朝、アー・ガラートと同時に発ち、コタ・シアナを下る彼とは別に北部を行き来する商人の群れに同行し、クノン・ツイ・イビスからは徒歩で昨日、北の旧い荘園に辿り着いた。しかし、田園は閑散とし、そこで働いているはずの朋輩の姿は無かった。

 ハマタフは農地の主に名を連ねている三つの領主の地所を順に回り、留守を預かっているという屋敷の家令に尋ね雇人の宿舎を訪ねてみたが、会えたのは夏から病に臥せっているという主幹ひとりだった。

 主幹は離れた室をあてがわれ、もう長いこと表に働きに出ていないと言った。日に二、三度、若い者が世話をしに来てくれていたがそれも一昨日からぱたりと来なくなり、見慣れない顔が代わりに出入りするようになった。病人はやせ細り、衣類も清潔ではなかった。

 ハマタフは怒って家令に領主に訴え出たいと言ったが、主には誰にも会わないと申し渡されている、今日は王宮で会合があるそうなのでそちらにでも出向いたのではないか、とすげなく断られた。順に訪ねて行った屋敷も皆同じであった。王宮の門の前までも行ってみたが、昼間から門は閉まり、門番には厳しく言い渡された。

「今日は出るイーマは出すが、中には入れぬ」。

 仕方なく新門の近くで宿を取り、今朝は先にイドゲイを訪ねて事を訊きただそうとやって来たのだった。彼が故郷を出る時に帯びて来た任務は決して相手に対して強気に出られるものでは無かった。郷里の困窮を訴えて、預けている者たちの藪入りを延期し、その上その者たちの賄いを差し引いた報酬を前借できないかという恥を忍んだ要求なのだ。だが、相手が派遣された者達を不誠実に扱っているのなら、務めを後に回してでも事実を正さなくてはならない。

「私は郷里の者を探しに来たのですが」

 ハマタフはにやにやしている男達を見返して言った。

「彼らを預けた荘園に姿が見えない。どうしたことなのかとイドゲイに問いただすつもりで来たのです。」

 髯の男は、昨年からイナ・サラミアスの者がウナ・ツルニナの周りの荘園に働きに来ているというのは知っている、そこを世話してやったらよかろうという助言をしたのはおれ達だ、ともっとらしく頷いた。

 確かお前さん、去年もそう言って訪ねて来て、連中の元気な顔を見て帰ったんだろう?ありそうなところ、荘園の主が年俸をやって藪入りさせたんだろうよ、冬の間は仕事も無いしな。お前さんの見間違いではないかね? 

 男が地べたにしゃがんで上目づかいに様子を見ている仲間たちに顎をしゃくると、男達はばらばらと立ち上がった。

「イドゲイに伝えてやってもいいが、もし濡れ衣を着せられたのだったら奴に気の毒だからな、ひとつ確かめに行こうや」

 髯の男は提案し、馬を借りて来いと若い者に言いつけた。馬は得意ではない、少々走ることになっても徒歩で行きたい、と主張するハマタフをなだめて馬に乗せ、男は店の前に交代の者を何人か残し、自身と他に四人を連れてウナ・ツルニナに向かうべく始原門(タキリ・カミョ)を出た。

 王家の基となった五つの家の台頭よりもはるかに昔、覇権を争った英雄たちが本拠地としたのは丘陵の北であった。初めに道が通ったのはタキリ・カミョを門口にしてやはり古くから拓かれた穀倉地帯イビスに通じる道であった。北からコタ・イネセイナの岸で耕作を始めた人々は河の氾濫を避けて高台に居住地を求め、戦の砦を勾配の険しい丘の北端に求めた。丘陵の南の大部分をイズ・ウバールの一部に留めたまま、古のアツセワナは北の頂上を中心に政が始まり、丘の城と平野を繋ぐ道は長く主要路として使われた。後に第一家の王が丘を巡る環状路と五つの公道を整えた時に“イビスに至る道(クノン・ツイ・イビス)”とよばれるようになったが、タキリ・カミョから環状路までの稜線上の道は古の世から様相を変えず、丘の裾野の変化を眺めつづけて来た。

 自分の足ならば問題にしない道脇の急勾配の景色も、慣れぬ馬の背に乗せられてのことでは勝手が違う。ハマタフはこの先の方策を立てることも出来ず、ただ、連れて行かれるままに揺られていた。前後で交わされる無遠慮な言葉が否応なく耳に飛び込んで来る。

「御目の命令でシギルの早馬と駆けっこで東に遣いを出したのが四日前だ」

 先を行く頭が勘定した指を差し上げた。

「で、イナ・サラミアスの長が都に着いたのが一昨日の夜で昨日が会見。なあ、兄さん」

 男は振り返った。

「お前さんが出た時は、郷里(くに)にシギルの招聘の使者が着いてからだったかい?」

「ええ」ハマタフは答えた。

「別だての遣いも行っただろうな?」

「はい、トゥルカン殿の遣いが」

「歓迎されてないようだな?」若者の短い返事を聞いて男はくるりと馬上で振り返った。馬の尻が大きく振れて、蹄が道のはずれを打って、小石を転げ落とした。

「正式な回答はやがてアー・ヤール自身が」ハマタフは答えた。「私が応えることではありません。」

 アー・ガラートがシギル王との盟約を取り消したことを確認して後、アー・ヤールがトゥルカンと新たに盟約を結ぶ。これが、トゥルカンの使者が王の便りと前後してコタ・シアナの岸に着いた時に緊急に開いた会議で決めたことであり、アー・ガラートが順序を譲らなかったことだった。トゥルカンの援助は近くのアタワンで今かと準備されている―――気をそそるように言う使者を長たちは向こう岸に留め置き、返事を待たせた。

「仲良く行きたいもんだな。」男は前を向くと、大声で背中越しに後ろの者達に、昨日からまだ変わった合図は無いな、と尋ねた。

「あれきりで」ハマタフの後ろの者が応えた。後続の者がくすくすと笑った。

「あんなにはっきりと分かる合図はありゃしない。胸壁の上んところで御目の上衣が、こう、くるっと裏返しになってよ。」

「白から黒へな。」

「ありゃ、当人でなくお供だ。」

「見張りが厳しいらしいな。」髯の男は言い、右手で彼方を指さした。「御目は何もかもお見通しだ。で、東からの報せは?」

 後ろの者は、ふたりばかり仲間の名を言い、アタワンは遠い上にコセーナとオトワナコスの見張りを避けねばならぬので連絡を繋げるのが難しいと言った。何を言ってる、オトワナコスは領主が留守だし、コセーナもじき王に呼び出されて留守になるだろう、頭は言った。

 オトワナコスは昔から男きょうだいの多い家系だ。誰ともなく言い、それからコセーナの兄弟仲に話が移った。

「アッカシュはこの頃ダマートに冷たいんだ。」聞きつけた頭が前から大声で言った。

「で、昨日からの成り行きで言うと、増々アッカシュは王位継承で分が悪くなる。腹いせにダマートを追い出すかもしれん、そこで、肝心なのは奴さんをコセーナに帰しちまってはいけないんだ。兄弟の仲を裂いたままにしておかねばならん。」

 ハマタフは背を丸め、馬の肩の下の、下りに差し掛かった急勾配の道と、右側の禿げた岩がちの斜面を見た。後ろの沈黙に背に刺さる嘲笑の眼差しが感じられる。

「大事な味方だからな」頭は優しい声音で言った。「それでもってアッカシュも。」

「まさかあの高慢ちきふたりをとりなせとは仰せにならんだろうな!」後ろから若い者が不平を言った。「そんな上品なことは?」

「上品なご機嫌取りはイビスのカジャオがする。そしてアッカシュの方は今頃もう御目が手を打っているさ、たっぷり時間があるもんな、おれ達と違ってよ。」

 急な坂を下りると少し緩い勾配のかかった道の行く手には環状路との交点が見え、その裾野の下に、すっかり枯れ色になった草地と黒っぽい土の耕地、葉の落ちた林と大きな百姓家の点在する田園が広がっている。田園を横切る一本の線は北はコタ・イネセイナ、南はイズ・ウバールまで通じる主水路(アックシノン)だった。

「ほれ、もう目と鼻の先だよ、旦那。」髯の男は振り返ってにやりとした。「あれに間違いないだろうな?」

 ハマタフは蛇に睨まれた蛙だった。そうです、と言った言葉に音は無かった。

 いやおう!

 頭は雄叫びを上げて馬に鞭を当てた。背後で相次いで同じ叫びが上がり、ハマタフを乗せた馬は背後をぐるりと囲われたまま、先頭の馬を追って恐ろしい速さで駆けだした。

 あっと叫んで転げ落ちそうになるのを馬の背にへばりついて鬣をつかんだ。左から回ってきた一騎がぴたりと脇について取り落とした彼の手綱を取り、馬が物凄い勢いで突っ込んで行った十字路の脇の、売り子が飛び退った青物の露店の店先から馬身を引き離した。

 一行は道行く徒歩や荷馬車の者が慌てて外れの草地に避けるのを尻目に公道(クノン)を下り、丘の麓の荒れ地から灌木の垣で囲まれた農地に差し掛かってくると、やがてぐるりと馬首を巡らせ田舎道に入って行った。その頃には、馬の脇にしがみついているハマタフの力も限界だった。馬足が緩み、取り囲んでいる騎馬がそれぞれに離れ、最後に傍らの乗り手が彼の馬の手綱をぽいと放した時、手足の力が失せ、ハマタフはどさりと背から麦の植え付けを待つ掘り返された地面に落ちた。

「兄さん、大丈夫か?目が覚めてるか、兄さん!」

 見当よりも遠くで声がする。

 男達は少し離れたところでもう馬を下りて柵に繋ぎ、横木に寄り掛かって面白そうに彼を見ている。

「寝ぼけてなければな、起きて向こうを見ろよ。お前の言っている仲間ってのは連中だな?行って挨拶したらどうだ?そうしたらイドゲイがちゃんと仕事をしたことが分かるぜ。」髯の男は言って笑った。

 ハマタフは畑の向こうに固まっている何人かの作人を見た。背をかがめて立っている作人たちは、遠くゆえか、足元が土の中に沈んでいるゆえか、寸がつまった小人に見え、動作がのろかった。ハマタフは少し前に歩み出た。素足で野良に出てぎこちなく歩き回っている者の着物はくすんで硬そうで短く、痩せた腕と腿から脛がむきだしだった。髪は束ねておらず短く、埃っぽく褪せた色だ。

 ハマタフはさらに駆け出して見た。彼に気付いた向こうも各々顔を向ける。後ろでげらげらと男達が笑った。振り向いた作人達の各々の顔は浅い黄褐色で平たく、その目は茫然と、あるいは胡散臭げに見返している。

「違う!」ハマタフは衝撃のあまり、警戒も忘れて後ろを振り返って叫んだ。「どこへ行ったんだ、同朋は、おれの兄弟は?」

 男達は柵を離れて近寄って来た。

「何を言っている。」髯の男はとぼけた。「これがお前の兄弟分だろうが」

 それから両側の手下たちに顎をしゃくり、自分は仁王立ちに足をとめ、腕組みをした。

()()()だぜ、こいつは」ハマタフの顔を覗き込んだ若い男が冷笑を浮かべて言った。

 不意に鋭い号令が飛び、左右に分かれた影が襲い掛かると、ハマタフのみぞおちと側頭に同時に固い拳が飛んだ。不覚を知る間もなく身体は前にのめって倒れた。男達の長靴の残像と口の中に入った土の味を最後に彼の感覚を深い闇が飲み込んだ。


 ハマタフが目を開いたのは深い闇の中だった。覚醒に気付くと同時に彼は狂気に陥らんばかりの恐怖に襲われた。どれほど目を見開いても何も見えず、背を下に身体が怪しく漂う気配、そして時折恐ろしい間近に轟く雷鳴のような音。

 彼は恐怖のあまり叫んだ。彼の傍らに生温かい濡れたものが触れ、唸った。

「うるさいぞ!」くぐもった声が怒鳴り、途端に、雷が一斉に落ちたような轟音が罵声と共に浴びせられた。

 思わず丸まって両耳をふさぐ姿勢をとると、手を何か硬い木のようなものにしたたかにぶつけ、肩を擦りむいた。顔の下にはぐにゃりと冷たいものが押し付けられ、ぴくぴくとして溜息とともに静まった。それが人の剥き出しの腕だと気付き、慌てて身をずらすと背と踵が背後の板に当たった。

 ぴたりと音が止み、ずるずると柔らかく重い袋ようの物を引きずる音が天井で鳴り、顔の上に細い明かりの亀裂が現れた。その闇の外側からみしみしと軋りをたてて目が覗き込む。

「気が付いてやがる」目は呟くと引っ込み、またどすんと大きな袋が置かれ、明かりは遮られた。

 ハマタフは手を伸ばし、自分の閉じ込められた木箱の大きさの見当をつけた。身体が十分に伸ばせる長さはないが、幅はもう少しあるのかもしれない。天井は低い―――ハマタフは自分の隣の、生きているのか死んでいるのか分からない者の身体を乗り越えて箱の幅を測るのをためらった。が、音の籠り具合からするとやはりごく狭いに違いない。そして、殴られた怪我のせいばかりじゃない、やはり揺れている。ここは水の上だ。舟の中だ。

 どんどんと足音が彼の上を通り抜け、「よし、出せ」と号令がかかった。

 これは艀の船倉の中に積まれた木枠の檻だ。上に板を渡して重石で塞いであるのだ。

 様子が分かるにしたがって新たな絶望が彼を襲った。目は見える。耳も聞こえる。そして匂いはもっといろいろなものを教える。下が濡れているのは隣から流れてきたもののせいだ。彼は天井を引っかいてすすり泣き、喘ぎ、もう一度気を失った。

 夢の中で彼は激しいうねりに乗せられていた。時折、男の声が弱々しい間の抜けた唸りをあげ、蚊のように耳にまといついた。呻き声はやがて口の開いたごうごういう鼾にかわり、ああ……という音を最後に絶えた。彼の身内に細い悲しみが通り抜け、慰めの潮が押し寄せるように彼を包んだと思うと、さらに深い眠りに引き込んだ。

 冷たい夜気に触れ、彼は目を覚ました。斜めにずれた板の上に藍色の空が見えていた。舟の底は小さな波に揺れている。こん、こん、と船縁が桟橋にあたり、少し離れたところで誰かが性急に話をする声が聞こえている。舟の傍らにいる者もその向こうにいる相手も、ハマタフには全く声に聞き覚えが無かった。

「最後の便だとさ。」

「中身は?」相手は不機嫌に言った。「そいつらは自分で歩けるんだろうな?」

 舟頭は、さあな、と言った。

「冗談じゃない、もう、チカ・ティドに行く荷車は出ちまった。歩けないやつなら置いて行くぜ。」

「そう言わずに檻を下ろすのを手伝ってくれ。要らなきゃ置いて行けばいいが積んだままにはしておけん。」

 舟縁に渡り板がかかり、手鉤が檻の柵に掛かる気配がするとぐらりと底が傾いてハマタフの身体は転がり、冷たい身体の上に覆いかぶさった。

「死んでいる」板に引き上げながら荷役が唸った。「下に流れると漁をしている奴らに見つかるから捨てられないんだ。」

 話していたふたりの男、それに他の者も加わって木の檻は縄で桟橋から砂地の岸、そしてまばらな草と灌木の生えた地面へと綱で引きずって行かれた。

「皆行っちまってろくな道具が無い。掘る前にちょっと休もう」

 ぐずぐずしていては生き埋めにされてしまう。ハマタフは動かぬように気をつけながら、檻の継ぎ目の緩みを探した。さっき落とされた時の振動で背中の後ろの板の片端が釘が緩んでいた気配だった。逆向きに寝返りさえすれば、懐に隠し持っている刀子を梃にもう片側も緩めることが出来るだろう。

「東に行った連中の帰りはまだかな?」

 少し離れて話している男達がこちらを見ているかどうかは分からない。ざっ、ざっと砂を蹴る足音が近づき、ばさりと檻のうえから無造作に筵が被さって、その覆いの向こうに足音は去って行った。運の良い予兆かどうかはともあれ、ハマタフはすぐに向きを変えて板の隙間に刃を差し入れた。

「帰って来るどころじゃねえや!」

 新たな声が加わった。耳慣れない強い訛りがある。どこか分からないがこの船着き場の付近には彼らの仲間が何人もいるようだ。

「とは、また何があった?」

 そこに居たものの他に、まだ話を聞こうと幾人もが駆け寄って来た。

「やけに寒い、火を焚こう」

 集まった男達の中で新しい報せを運んで来た者は声を低めて、トゥルカンの命令で五日前にイナ・サラミアスに向かった四隻の艀船がどうなったかを話した。

 トゥルカンは、シギル王がイナ・サラミアスに長の招聘の早馬を出すと、即座に別の道筋から、食糧の援助を見返りに盟約を迫る使者を遣わした。その約束の真実味と魅力を効果づけるため、艀にはよく見えるよう行李や()()のついた麦の詰め込まれた袋などを山と積んであった。

 イーマらは長たちの話し合いの帰結を見るまでは返答を保留にすると言い、使者を待たせた。荷を積んだ艀はよんどころなくコタ・シアナ河にうかんだままだった。が、アツセワナに出向いた長の帰りを待っている間に、コタ・シアナの下流から侵入してきた大きな荷舟があった。

 それはニクマラからあらゆるところに出てゆく喫水の深いしっかりとした舟で水郷(クシガヤ)の腕扱きの漕ぎ手を何人も抱えていた。

 因縁の連中だ、主水路(アックシノン)ではいつもおれ達と会うと()()()()になる水鳥(ヤル)どもだ、男は言った。

 王女の遣いを名乗るその舟はイナ・サラミアスの舟着き場に入ろうとして、待たされていたトゥルカンの使()()()()を積んだ艀と喧嘩になった。

 相手は一隻だったが重さも速さもある。こちらの仲間は曳き舟を切り離して四つが四つとも向かって行った。相手の積み荷と舟夫をやっつけてやろうと思ってな。ニクマラの舟夫のひとりが指笛を吹いた。すると、川下から水鳥(ヤル)の奴ばらが舟でやって来て反撃し、こちらの曳き舟ばかりか艀までみんな沈めてしまった。むこうの積み荷にもいくばくか報いてやったということだったが!

 グル、ソヴ、セトル、みんな戻らねえよ。命からがら戻って来た連中はアツセワナのお屋敷に直訴に行ったとか。トゥルカン様が戻ってきたら仕返ししてもらおうとな。

「イーマの奴らめ、裏切りやがって。シギルの娘と密約してたのか!」聞いていた舟夫は大声で言った。

「御目はおれ達の訴えを聞いてくれるのか?」

「馬鹿言っちゃいけねえ」報せを持って来た男が言った。「下っ端の“丘”の奴らのもっと下っ端など、御目の知るところじゃねえ。」

 焚火を囲む男達の中から憤懣の声が湧き上がった。中のひとりが、がばと立ち上がり叫んだ。

「それじゃ、おれ達で復讐してやる!」

 ハマタフは這いだした檻から、枯れた灌木の茂みへと移り、こじ開けた板の釘先で傷つけた手の傷をすすっていた。彼は葉のまばらな枝の間に、つかつかと歩み寄って来る男の姿を認め、とっさに両手で頭を覆って伏せた。

 ぱっと火の粉を散らして炎が夜闇に尾を引き、燃えさしと一緒に落ちてくると、ふっと唸りを立てて檻に掛けた筵に燃え移った。

「ざまあみろ!」

 足蹴にした檻の上で筵は炎の固まりになって砕けて沈み、煙を吐きはじめた。ふらりと後に加わった者が火の移った枯れ木を踏んで砕き、新たな火の餌にした。

 悪行の炎と騒ぎは大きく膨れ上がるほどにその周の闇と沈黙をより深くする。見咎める法とて無い荒れ果てた河原で火と煙は天高く立ちのぼり、取り囲む無法者らを沸かせ、その足元から去るひとつの影を見逃した。亀のように地を這い、それは長い時間をかけて水の涸れた小川の窪みにたどり着いた。そして肉厚の葉を茂らせた常緑の低木の陰に潜み、遠くの火の気と(ひと)気が消え果てるのを震えながら待った。

 やがて、人買い等は遠い西の山麓の鉱山の町を指して発ち、舟夫は舟に乗って河の下へと去った。広い夜空の下は矮小な草木がまばらに点在する地が平らかに静まっていた。

 人の住む地上の灯りは空の星々よりもはるか遠くに見え、それは見慣れぬ巨大な水の帯の向こうにある。身を切る乾いた風は草木の乏しい野を荒々しく野放図に駆け、黙して両肘を南北の果てに構えて座す山容の冷厳な佇まい、聳える山頂の面にかかる雲の不動と対をなす。

 若者は窪地から身を起こした。両腕で我が身を抱き、異なる女神の領分に置き去りにされたイーマの子は焼け跡へと歩いて行った。灰に残る温もり、灰の下の名残、埋もれた道具への期待―――どれをも彼は切に欲していた。


 “最後の黄金果”の競技が決着を見て八日後、王は全ての議員を召集し、新女王の政の体制を整えるべく協議を行った。

 先ず官人の長を会議に加え、事務官と領主の中から三名の顧問とふたりの補佐を選定することが検討された。それから議員たちの協議により顧問として領主の中からニクマラのミオイル、エフトプのキアサル、第三家のアッカシュの名が挙げられた。しかしエフトプの名代として出席していた娘婿ホサカは舅の意志を確かめるまでは、と返答を遅らせ、シギル王のたっての希望で補佐に指名されたダミルも、アツセワナの政務でコセーナを空けがちにすることに難色を示し、兄、ダマートがコセーナに戻るなら自分がアツセワナで官職に就いても良いが、それにも調整に日数を要するだろう、と述べた。そして、ダマートはコセーナに戻る意を即座に否定した。

 王女は後ろ盾に誰を望むという素振りも無く、厳然と協議を見守った。男達の動機はすべて領地の保全と親族の利害に関わり、彼らの関心事に慎み深く目を背けていては提言の真意を見誤る。その好意を受け入れ、無垢な信頼を根拠に責務を預けることは、埒外に置かれることと一対だ。思いを政に映そうとするなら、自ら立っていなくてはならない。

 合議を旨とする政に親密な相談役は要りませぬ、王女の意向を王は沈黙で受け止めた。が、事務官の勧めにより、ミオイルとアッカシュを相談役とし、当面父王と共同で政務を執ることで父と娘は合意した。

 王女は会議に参列した領主、長官、城市の商工の代表、名主らを前に、父王の敷いた体制を基に善政に努める所存を表し、父王の治世と変わらぬ忠誠を求めた。

「エファレイナズの安寧は諸公の領土の繁栄、隣人との友好によって長く保たれましょう。今日の友のため明日の己のため糧蔵の蓄えを怠りなく。また、全き会議を行おうとする時、いざ手を携えて大事を処さんとする時には速やかに女王の招集に応じなさい。」

 諸公らは会議の席を立ち、順に王女の前に進み出、誓いの礼をした。

 最後に王女の前に来たトゥルカンは長身を恭しくかがめて、御代の栄えんことを、と言った。

「戴冠式はいつ頃になりましょうや?」

 王女は父王に向けかけた視線を強いてトゥルカンのにこやかな顔に向けた。王女は遠くを見るように睫毛の下に目を細め、ひと呼吸あって言った。

「来春、水温み、昼と夜の等しくなる頃に。」

 会議が明け、諸公は各々の領地屋敷への帰途に就いた。そしてそれと同時に王宮の門から触れ係が馬を駆り、城市の内外の通りに王の宣言を触れてまわった。アツセワナの人々はその日が暮れるまでには、三年間取り沙汰してきたシギル王の継嗣が王女その人となったこと、そうして王女の婿となる者の名を知った。遠国の領主たちはそれより遅れること二、三日後、主の帰宅を出迎えに門口に集まった領民に、留守中の労をねぎらいつつ自ら会議で決定された旨を語り聞かせた。 

 津々浦々に女王立つの報が行き渡ると、エファレイナズじゅうがおよそ三年分の収穫祭を終えた後の疲労の吐息のように静けさに包まれた。人々は身近い暮らしの悩みに目を向け、本格的に冬ごもりの準備に勤しみはじめた。

 人々は家屋と納屋の補修に精をだし、これが最後と獲り入れられたカブや林檎は荷車に、あるいは人の背に積まれて市に行き、慌ただしい掛声の飛び交う中、毛の服地や油や靴に変わった。麦、豆の播きつけの終わった広い畑には、林の葉をしごき落とした木枯らしが行く果ても知らぬげに天地を駆けた。そして頑丈な囲いに追い込まれた肥えた家畜は長いこと不平の鳴き声に包まれ、外に引き出された数頭の仲間の風に引きちぎられる悲鳴を聞くことは無かった。

 コタ・シアナでニクマラの荷舟が、コタ・イネセイナを中心に往来する商人らの一団と小競り合いし、商人らの舟と荷が転覆させられた、との噂は辻で出会う人々のやり取りの中で付け足しのように囁かれた。ニクマラのミオイルは戻って来た荷舟の舟夫から事情を訊き、双方の荷の主を探した。

 報を聞いた王女はトゥルカンを呼び、コタ・シアナに現れた舟の元締めを尋ねたが、トゥルカンは下々の商いの事など与り知らぬ、と押し通した。

 王女はイナ・サラミアスに使者を送った。イナ・サラミアスの長アー・ヤールは幹部ら数名と河の中の小島、契りの島(コス・クメイ)で王女の遣わした使者にまみえ、詫びと共に舟荷の穀物は正当な取り引きのもとで交換されたものゆえお納め頂くように、という言葉を聞いた。アー・ヤールは苛立ちと怒りを面に漂わせ、品の収受については否とも応とも応えなかったが、王女がシギル王の後を継いだ暁には新たに交渉を申し入れるという言葉にははっきりと拒否の意思を表した。

「イナ・サラミアスがアツセワナの第一家(カヤ・ミオ)の王と交渉を持つことは無い。それは先の長アー・ガラートが申し述べた通りである。そして、王女の言う取り引きとやらはこちらには与り知らぬこと。わが国にとって恥である野蚕の抜け殻を勝手に商った者は只今懲らしめのため河の向こうに放逐している。その者が役務を果たして戻って来たとて、この度の不始末が軽減されることは無い。」

 王女の使者がイナ・サラミアスを去った後、コタ・シアナの北から主の名を伏せた別の使者が訪れ、同じコス・クメイでアー・ヤールと短い会談を果たして帰って行った。それから長きに渡る冬の間に、しげしげと 北の道筋に沿ってコタ・シアナに向かう人と荷駄の小隊が見受けられた。夏の長雨の痛手から来年の作付けまで農地を整えるのに忙しく、コタ・レイナの三郷の人々が森を抜ける旅人に注意を向けるのは稀であった。さらに、一昨年前にシギル王の手入れによって引き払われたアタワンの様相に注視する者などはいなかった。夏に暴れたコタ・シアナは秋には例年にも増して流量を減じ、舟影もぴたりと消えた。寂しい河原にさらに雪が降り、夏秋の旅人の足跡を消し、冬に彷徨う者の足跡をも消した。


 アツセワナの城郭の上層に籠る人々は、往来に伸びた苑の木々の芽吹きによって春の訪れを知る。また城壁から望む彼方にトゥサ・ユルゴナスの、またはアックシノンの大農場の甫場の()(きれ)を成すひときわ鮮やかな若い麦の緑を見る。そして、郭の外に住まう人々はそれより早く、孕んだ羊を追い立てる牧場に白いいきれが澄み、芝の萌えるのを見る。

 淡い雪の覆いと明朗な光とが交互に大地を訪れた。ひとしきり空を荒らした雷雲が去ると、藍色の幕の切れ目から澄んだ水色の高い天が覗き、絹雲が艶やかな陽光を反射した。やがて冷たい足音が遠のくのを待ちわびて小さな草花が春の報せの先陣を切る。繊細な裸の枝が茂る林に、藪に、黒ずんだ大地に突如熱い陽光の雫が落ちたように、冴えた黄の花々が蕾を開く。花々は幾度か雹に打たれたが、その間にも木々の芽は膨らみ爆ぜつづけた。

 主水路(アックシノン)の川べりに植わった柳がそろって芽吹き始める頃、アツセワナの正門(タキリ・アク)から十騎あまりの一行が東を指して発った。人々は足を止め脇に退いて、護衛の兵を前後に貴人とその従者が成す行列を慎み深く見送った。

 三年前の“黄金果の競技”前夜と比べ、それははるかにささやかで慎ましい行列だった。列はクノン・アクから丘陵の田園を巡る環状路を経て、粗い網目に森が切り開かれた中に自作農の地所が散在するクノン・エファを辿り、背川(コタ・ラート)を渡った。

 夜間の強行こそなかったが、一行を前に進める力は粛々と静かながら力強い。コタ・ラートを越えればエファレイナズの森には百姓家に出会うことさえ稀であったが、夜になると、高貴な旅人たちは焚火で暖を取りつつ語らい、随行の者達の仕立てた天幕の中に毛皮を纏って休んだ。

 古くからコセーナの領主が支配してきた森には近隣の力のある自作農との商いや労働者の行き来に使われた道がいくつも分岐していた。それらの道はコタ・レイナに進むほどに、剥落した路肩に盛られた異なる土の色、補修した石積み、枯れた葉をつけたまま道脇によけられた木々など洪水の爪痕を伴っていったが、一行を率いる主は気に留めることなく馬を進ませた。

 森の中の薄暗い道程を経て、次の日の夕刻に一行はクノン・エファコスへ出た。北の高地の郷オトワナコスとコセーナを繋ぐ広い公道である。針葉樹の繁る緑濃い森へと道が伸びるオトワナコスとの分岐を過ぎる頃、彼方に横たわる妹川(コタ・レイナ)の下流に小高い丘に築かれた丸太の高柵の城が望める。コセーナの郷である。河に架かったコタ・レイナ橋に差し掛かる頃、コセーナから迎えの一隊が手火を携えてやって来た。

 西のアツセワナの旅人たちとコセーナの出迎えの者たちはコタ・レイナ橋の上で出会い、折りかえす先導者の松明に従って一本の列になって、洪水で流された後で架け直された橋を渡った。

 護衛兵らを後方に下がらせ、先頭に馬を乗り入れたのはアツセワナの王、シギルであった。毛皮を裏打ちしたマントの下には革の具足の上に紋を縫い取った陣羽織、銀色の筋の波打つ豊かな頭髪には略式の王冠を戴き、峻厳な面を高く上げて蹄の音も軽やかに行く。

 その後ろに続く王女は、頭巾のついた長いマントにその下の装いを包み込んでいたが、横顔は自信に満ちて美しく、華奢な手に握った手綱さばきは鮮やかであった。

 王女の後ろには、コタ・シアナの郷士といった風貌の年配の男が馬丁に轡を取られた馬の上に畏まり、続いてその妻と見える女、王女の腰元の少女、そして十五、六の、手回り品合切(がっさい)を背負って意気揚々としている少年が橋を渡った。

 暮れゆく空の下を、松明に先導された騎馬の行列は橋を越えて堤を下って行った。すると一行の去った道端の、栂の幼木が固まって生えている森の影から、大きな翼をたたみ忘れた鳥のような影がためらいがちに立ち上がった。

 無造作に外套を被ったその男は、王の一行がコセーナに向かう道へと曲がってゆき、灯火の瞬く門を指して坂を登って行くのを見送ると、素早く道に出て辺りを見回した。それから走って橋を渡り、そこでも冬枯れた白い草群の中にしゃがんで、木の高柵にぐるりと囲われた城の方をじっと窺った。やがて騎馬がひとつひとつ門に飲み込まれ、最後に跳ね橋になった門扉がゆっくりと引き上げられていくのまで見届けると、ほっとしたように立ち、またとぼとぼと道を歩き始めた。

 王の一行が到着した翌朝もコセーナの郷はいつもと変わらぬ朝を迎えた。夜明け前に城の東側の門が開き、背筋をのばして馬に跨ったダミルが朝の散策と領内の見回りへと出かけて行った。それから外仕事の者達が菜園や牧場、森へと繰り出して来た。

 コセーナとハーモナの間の森に野宿をしていた男は、門から出て来た樵や百姓たちに知られぬままに徐々に追いやられながらも、安全な森の奥深くへと逃げ込もうとはせず、彼らのたわいもない話に耳を傾けるふうであった。

 百姓たちは台所でかき込んできたばかりの朝飯のことであけっぴろげに不満を言い、それから少しばかり遠慮しいしい、夕べの王を迎えての晩餐に不足は無かったかと心配そうに話し合った。

「ほんとによ」羊飼いは柵から追い立てたばかりの羊を見て首を振った。「今朝になっても()()()()の頭数が揃ってるのはどこかおかしくねえか。」

 今頃、ニンニクと浅葱を被って皿に盛られているか、練り粉の布団にくるまっているか、出汁の風呂に浸かっているはずじゃないかな。いや、とうに皆のお腹に収まってるはずじゃないかね!今のうちに一、二頭も選っておこうかね?

 さあな、ダミル様はいつも通り行っちまったしな……。

「いやいや、心配するな」

 後から百姓頭らしい男が大声で言い、つぎつぎと立ち話している者たちの背中をどやしつけた。

「後で振舞い酒が出るそうな。酒蔵を空にしてやろうじゃないか、とダミル様が仰っていたぞ。さあ、皆、精を出して仕事に行こうじゃないか。」

 男は独り頷いてこっそりと森の中を下って行った。 

 ハーモナの常盤木の暗い緑と落葉樹の霞のような梢とに覆われた小さな丘の麓には、小さな掘立小屋がいくつか建ち、浅黒い顔の小柄な男達が朝飯を食っていた。 

「仕上がったかね?」通りかかった樵がヨレイル達に声を掛けた。

 ひとりが素朴な賞賛をこめて頷き、答えた。

「綺麗な館だ。」

「だが、何にもねえよ」もうひとりがいい、くすくすと笑いが興った。

「部屋のぐるりに露台をつけてよ、窓はきれいな編み細工だ。だけど中身はな―――。蛇みたいにくねった長椅子がひとつに切り株みたいな椅子が幾らか。吊り棚、壁に()()掛けが付いてるきり。昨日、奥方が点検に見えて、あんまり調度が少ないと花嫁が気の毒だ、緞帳をひとつふたつ、それに長持ちをあげる、と仰ったよ。」

「そこで、そこでだな」樵は大きく遮った。いったい、祝言は今日なのかね?

 ヨレイル達は顔を見合わせて首を振った。

「さあな」ひとりが若い樹木に覆われた丘の方を振り返って言った。

 二年前よりも木々が育ち密な枝が全体を分厚く覆っているが、さすがに冬の間に葉を落とした樹木の陰には丘を巡る切り通した道の段や、分岐に設けられた揚戸が薄っすらと透けている。丘の頂近くを簪のように白い花をつけた木蓮が彩り、その陰に平たく潜んで、かなりの長さに渡って真新しい茅葺の屋根が艶やかに透かし見える。

「ロサルナートはいつもの通り、今朝も仕事の割り振りをしてぷいと行っちまった。いつもの服装(なり)でな。」

 樵はどこへ、とも聞かずに仕事に戻り、男達は飯の続きをさっさと済ませるとめいめいの用をしに別れた。離れて見ていた男は外套の裾を身体に巻きつけるようにして、湿って細かく砕けた朽葉の地面を足音も立てずにさらに南に下って行った。

 コセーナの城とハーモナを繋ぐ通用路の界隈には以前よりもずっと雇人たちの住居が増え、女子どもたちの出入りする姿も見られた。男はいっそう身を隠すようにしてその場を離れた。そうしながらも時々ためらうように懐からつかみだした掌を開いて眺めては仕舞うことを繰り返した。人家の周りには朝飯の粥を炊く匂いと焚火の煙が立ち込めていた。

 男は道を巡るようにして森を行き、やがて清らかなせせらぎの脇にかがんで水を飲んだ。水面の向こうにすっと影が下りた。

「オクトゥル!」

 男は後ろにのけぞって、真ん前に覗き込む顔を見、外衣の端で口元を拭った。

「サコティー」

 若者は何か尋ねる前に相手をじっと眺めると、浅瀬に一歩踏み出して手を伸ばし男を助け起こした。そして背後に広がる清閑な森を指した。

「舟をコタ・レイナに面した川口に繋いである。誰も来ない藪に囲まれた林があるからそこでひと休みしよう。」

 サコティーはオクトゥルを小さな流れが網の目のように走るなだらかな森の中に案内した。柔らかい苔に覆われた水辺には星が灯るように春先の花々が咲き、古木の林床には種々の幼木が育っていた。

 サコティーは足早にむしろ急かすように先に立っていたし、オクトゥルのさしもの好奇心も空腹と疲労で大人しくなっていたので、ハーモナのはずれのこの秘められた古い森についてあれこれ尋ねたり、見回したりする暇は無かった。森はもうひとつの大きな瀬を挟んで終わり、その先にはコタ・シアナの河の縁に沿って重なるように長く築かれた林と繁みを備えた堤が横たわっていた。

 高い波をなすように盛り上がった堤を素早く登ってサコティーは手招きした。オクトゥルはため息をつきながら後に続いた。なんだ、なんだ、お前さんの舟は山に登るのかい―――。そう文句を言おうとした彼に若者は振り返り、穏やかなコタ・シアナの流れの向こうを指し、堤を駆けあがった熱意に比してごく淡白に言った。

「ラシースの仕事だよ。」

 上流の橋と同じように対岸の堤にも補修が施されていた。河岸には新しい石組が施され、陸の方へ開いて行く堤の下回りには筵を打ち付け表土を護っている。今にそこに樹を植えるのだろう。堤の内の耕地は真新しい畔を立て、その中には何人もの作人が並んで作り直した田を耕している。

 オクトゥルは白く枯れた芝草の上に座り込んで両腕に顔を埋めた。サコティーはもう一度、今度は性急でなく促して堤を下り、南側を流れる川がコタ・レイナに注ぎ込む近くの窪地に連れて行き、陸に上げた舟から運び出した食べ物でオクトゥルをもてなした。

 オクトゥルは人心地がつくと、昨年の暮れからどうしていたかをかいつまんで話した。

 コタ・シアナでニクマラの荷舟がトゥルカンの遣いが待機させていた艀とぶつかり、諍いが起きた後でガラートとオクトゥルはイナ・サラミアスに帰って来た。ヤールはオクトゥルが勝手に王女と取引したことを非難し、トゥルカンとの交渉に応じ協力すれば食糧の援助を受けられるはずだったのだとなじった。

「で、トゥルカンの犬と言ったのが奴さんの怒りを買ってな。」

 オクトゥルは笑いを浮かべようとして顎を震わせると、両手を差し上げた。サコティーは黙って、すっかり塵で汚れたオクトゥルの外衣の膝の上に、新たに焼き上がった魚を石蕗の葉を添えて乗せた。

「ずっとハマタフを探している。」

 迷いながら片端から手に取っては置くように、オクトゥルはどの辺から切り出したものかと言葉を探した。

「トゥルド殿を知らないか。あの方は何を思ってあのように言ったのか―――おれは彼が忠告していたことを聞き洩らしていたのか?」

「シギル王の忠臣だという?よく名を伏せて旅に出ると言うが、僕はそれらしい人には会ったこともない。」

 サコティーは力を貸す余地を吟味するようにじっと耳を傾けていたが、首を振り、訳を問い返す代わりに他になだめようも無い者がするようにごくさりげなく言った。

「オクトゥル、僕と兄達はクシガヤを追い出されたよ。コタ・シアナで喧嘩をしすぎるといってね。実のところ、三年前に頭領から最初の舟を沈められる仕置きを受けてから、コタ・シアナで騒ぎを起こした事などないんだが。アックシノンやクマラ・オロでならともかくね。だが、イナ・サラミアスから苦情が来ればそれは僕が何かをしでかしたのだろうということになる。」

「すまないな」オクトゥルは頭を下げた。「クシガヤのイネたちにも。」

「あの娘たちの手仕事を知る者は少ないし咎めも無かった。それに郷もそんなに迷惑を被った訳じゃない。喧嘩の怪我など茶飯時だし、コタ・シアナから流れて来るものは河の恵みだ。騒ぎの結果であれ。」

 サコティーは立って舟からさらに毛布を取り上げ、オクトゥルに投げた。

「あの子たちの仕事の仕上げを王女は上手にやったかな?」若者は気楽そうに言った。「ラシースに会っていく?」

「よせやい。」オクトゥルは毛布をひったくって被り、梢の網目の上から輝きを増してくる陽光を遮り、不機嫌に言った。「おれはここでひと眠りさせてもらったらイネ・ドルナイルに渡る算段を考える―――どうもそこを放っておけないようだ。」

「僕はコタ・イネセイナには近寄らないよ」サコティーは言った。「アックシノンでなら喧嘩で済むが、コタ・イネセイナでチカ・ティドの子飼いの舟と出会ったら、逃げきれればお慰みだからな。」

「もしおれが目覚めてそこに居るのがお前ならイネ・ドルナイルまで行ってもらうからな。」

 オクトゥルは柔らかい朽葉の上に倒れ込み、満足な溜息をついて毛布の下で転がった。それを眺めやってサコティーは舟を水辺へと押そうと艫に手を掛け、ちょっと意味ありげに振り返った。

「一昨日の晩、王と王女の一行がクノン・エファを通ってコタ・ラートを渡ったという報せを聞いた。」

 サコティーは誰に話すともなく言った。オクトゥルは寝言のように唸った。

「で、エフトプから来たんだ。王女と共にいる小舟(ハヤ)を追って」

 朗らかな声が睡魔が覆う耳の向こうで話している。

「あん?」

 若者はもう川砂の上を押して舟を水に浮かべていた。ハーモナの森の泉から来るせせらぎ、シアナの森に発しコセーナの南を横切る川、またそれが加わる妹川(コタ・レイナ)の流れ。それらの水音すべてと交わって若者の声は子守歌に抗って覚醒を誘惑する魚のように無意識の水面に飛び上がった。

「春だ。(ヒル)が燦然と炎をまとって東の彼方から訪い、サラミアの雪の衣に手を伸べる。稜線を覆う白雪は凍てついた細石の面におのおの虹の色を帯びて応え、溶融し、光を繋げながら深部に雫を下ろして行く。

「水の産声が聞こえる。やがて父の葦笛が聞こえるはずだ。土との間に生じる穹窿、谷に集まる流れ、コタ・シアナを指して下る水を告げる笛の音が。

「クシュの笛の音を聞いたクシガヤの娘たちは舟を仕立て、聖なる川(コタ・ミラ)の水を浴びにやって来る。」

 ―――ああ、そういえば王女のお付きの可愛い娘はクシガヤの子だったな……。

 オクトゥルは最後にひとつ寝返りをうち、眠りの淵に落ちて行った。


 オクトゥルが目覚めた時には空が薄っすらと紅を帯び、宵の明星が灯っていた。サコティーの舟は戻って来ていなかった。オクトゥルは毛布を被ったまま立ち、堤をもう一度登ってみたが、目で見える限りコタ・レイナにサコティーの舟は浮かんでいなかった。そこで来た道を辿ってハーモナの方へ戻ってみた。

 ゆっくりと眺めながらゆくと森のなかには広い水盤を設けた泉があった。地面の花々はつぼみはじめていたが、花がなす列がうっすらとハーモナの方を指す道をかたちづくっているのが見て取れた。楡の林があり、そのむこうに丘がある。丘の上には灯りがともるように木蓮の白い花が浮かびあがっている。

 オクトゥルはうっかりと森の際から、通用路の端に佇んでいる百姓の鼻先に踏み出すところだった。彼はほんの数歩後ずさり、様子を見守った。黄昏時ならこれだけで見つかる心配はいらない。しかし、気が付くとそこここに同じように道に佇んで、あるいは連れだってゆっくりとコセーナの方へ歩いている者がいる。どこか南にある耕地から戻って来たところらしい。誰も皆、ハーモナの丘を眺めている。

「なあ、見たか?」目の前の男がそう言って彼の方へ手を振ったが、ただ傍の者に奥の森を指し示したのだった。

「ロサルナートを?ああ。」話しかけられた者は低く囁くように言った。「ひとりで身支度してたんだな―――まるで秋の盛りの夕陽みたいだ。館に向かって行ったから、そろそろ祝言をあげるんだろう。」

「王様と姫君は東のほうから丘に登って行ったとよ。」相手は囁き返した。

 オクトゥルはじりじりと森の中に後ずさり、百姓たちの姿が見えなくなると楡の林を通って丘の南側を河の方を指して歩いた。

 先ほどまでその端の麓で眠っていた長い堤は泉のある森の後ろに長く横たわり、河に向かって重なる堤がもう二重(ふたえ)、奥を横切っている。河の氾濫を緩やかにする古来からの工夫だ。どれも麓に沿ってゆけば河の岸に行く。サコティーがどこに舟を泊めたかは知らないが、まだ近くにいるはずだ。

 楡の林を抜けると、拍子抜けするようにからりと開けたところに出た。オクトゥルは鼻白んで右側に迫る蔦に覆われた丘の壁と灌木と茨の藪に囲われた小さな庭を眺めた。イナ・サラミアスの森では方々に見られる“母なる樹”と呼ばれる古木の周りに生じる庭に似ている。地面は滑らかな苔に覆われ、春の花々が小さな背丈に大きな蕾を上げている。が、そこには曲がった桜の木があるきりだ。紅く染まった枝先に花が幾らかほころんでいる。オクトゥルはその中心を通るのを避けてそっと楡の林の際から奥の藪へと身を滑り込ませた。

 しかし、茨の藪の間を幾らも行かないうちに人の気配と声が彼の足を止めた。サコティーだ。だが、普段の彼に似せず当惑し、しかも怒っている。相手の優しい声が辛抱く、しかし恐れに揺らぎながら絡む。

「僕が手に入れた染料をあげたって―――それも王女のために。お前は初めからそのつもりで僕に頼んだのか。」

 声を震わせるサコティーの前にいるのは王女の腰元の娘だった。

「あんなもの―――お前のリボンでも染めればよかったんだ。そうだ、王女にとってはほんの些細なものだ!だから、お前が使ってこそ価値があったのに。どんなに僅かでも!」

「私にあげられる一番良いものを差し出したのよ。」娘は両手を前に出した。

「それが何の足しになったって?浴びるほどの臙脂にほんのひと差し―――。」

 サコティーの声は刺を帯びた。娘の声がふっと柔らかくなった。

「そんな風に言わないで―――あの出来栄えを見たら兄さんだって満足するはずよ。あの方が纏ったところを見たら」

「やめろ」

 厳しく遮り、顔を背けたサコティーの態度に心を拉がれたように娘は手を上げて目を拭ったが、なおも気丈に言いつのった。

「心を込めて捧げたものが無駄だとは思わないわ。お日さまが見ていて、風が見ている。あったことはあったことだわ。花が朽ちるように忘れられても、なにも変わらない。」

 オクトゥルは口元を曲げた。この殊勝な娘を褒めてやるわけにはいかん。好意を献身の形代にすげ替えられ茫然としている若いのをおれが見ているからって、誰が報われる?彼は藪の中で向きを変えようとした。

 サコティーは娘に振り返り、切羽詰まったように何か言おうとしかけてむっつりと口を閉じた。が、その目は娘の目と互いにひとつの意志で据え付けられたように動かなかった。

 娘は緊迫のひと波を越えると、むしろその面に不安を表した。それから不意に悟り囁いた。

「私、兄さんにとても悪いことをしたわ。」

「いや」サコティーはぶっきら棒に言い、情けなさそうに手の上に顔を伏せ、地に座り込んだ。

「私、赤い色のものが好きで、今に自分で稼いで買うんだと決めていた。」娘は胴着の前を軽く叩いて呟いた。「姫様のお傍ならいつでも染料の問屋に会える、容易いことだと思ってた。ところが去年からどんどん値が上がるし、姫様も臙脂は無いと言われてそれはがっかりなさっている―――。」

 娘はその時の同情と失望を思い出し、次いで陶酔の眼差しで空を見た。

「その時、自分の願いなど小さなものだと思ったわ。兄さんがくれたものがどんなに貴重か分かっていたからこそ、差し出そうと思ったの―――私は私にとって二倍の価値の物を捧げたのよ。」

「もういい。」サコティーはうつむいたまま口早に遮った。「それに僕はお前の兄じゃない。」

 少しのぼせを冷ますがいいさ。たっぷり一晩はあるはずの時機に色よい流れに舵を切るのはサコティーの仕事だ。

 オクトゥルは茨の刺が闖入者の袂を捉えて藪じゅうに詮索のさざめきを引き起こさないように、毛布をぴったりかき寄せて、楡の林の方へと戻って行った。

 日はとうに西の果てに沈み、丘は藍色の空の下にこんもりと静まった影になった。頂にある館は丘の西側からは遠く、慎ましい婚礼の行われた気配さえうかがい知れなかったが、その後ろに控えるささやかな領土の森にはまだ春の陽の温もりを含んだ風が漂っていた。 

 薄闇の差した箱庭の空に白い花が点々と浮かび、その下に寄り添って佇む男女の人影があった。競技の日と同じ女の長衣はしなやかな白い影になって浮かび、傍らの男の外衣は僅かな動きを捉えて炎のように揺らめいた。

「これを覚えていて?」

 低く柔らかい女の声に、静かな驚きに打たれる男の声が応えた。

「木の実を―――初めて会った時の……。」

 ここに埋めましょう、今宵この地に。より低い囁きが交わされ、ふたりは手を重ねて地の上に跪いた。

 白い大きな花弁がひとつ、彼らの上を越して楡の林へと舞い降りていった。

 丘の上には確か、大きな木蓮の木が白い花をつけていたっけな―――。

 地面にも降りず、枝にもかからず空を滑ってゆく白いものを見送ってオクトゥルは呟いた。


「神蚕だ」

 サコティーは警告するように囁き、手を上げて藪に迷い込んで来た白い大きな蝶を払おうとした。

 蝶はサコティーの大きな手を逃れて、娘の胸元で羽ばたき、ふいと木苺の細枝にとまった。

「こんなところに……。翼にどんな凶報を運んできたのか。」

「凶報だなんて」娘は意外そうに言った。

「昨年の大雨の前に、太陽を隠すほどの群れが空を飛んだ。僕が生まれる前、父が山を下りるもとになった大雨にも。神蚕が人の目に触れるのは良いことではないんだ―――殻の中に生きている奴が混じっていたかな。きっと水郷(クシガヤ)で羽化してしまったんだ。」

 サコティーは苦々しく言った。娘は首を振った。彼女はサコティーの傍らに腰を下ろしていた。

「神蚕は女主ミアスの遣い。私たちクシガヤの女達にとって神蚕が不吉だったことはないわ。」

 娘は真面目に言い、胸の前に手を組んだ。

「私たちはあなたの親族のいたべレ・イナの(しも)の民だわ。水郷(クシガヤ)は山が恵む水で生きている。私たちは女主(ミアス)の業には口出ししないの。ただ、下さるものを恵みとして全て受け取る。同じように、あなた方が厳しい掟から外れたり理に沿わないと判断して山から下すものも、私たちは(かみ)から来たものとしてお預かりするの。いつか山の御子にお返しするために。」

 娘は遠い憧れを込めてそっとサコティーを見やったが、若者は濃い眉をしかめて、再び飛び回り始めた蝶を警戒している。

 神蚕はふたりの頭の上高くで気儘に風に乗っていたが、程なく下りてきて羽休めを探し、娘の振り分けた艶やかな黒髪に下りて来た。 

「こら、離れろ」

 サコティーは手を伸ばしかけて引っ込め、ただ蝶を追い払うように鋭く囁いた。娘は両手で口元を抑え、息を殺している。

 蝶は羽ばたきを止めた。娘の黒い円らな瞳が側頭にかしいでとまった蝶の羽根を追い、丸い滑らかな顔が少し仰向いて口が小さく開いている。娘は両手をゆっくりと膝の上におろし、蝶からサコティーに目を移した。

 サコティーは神蚕の目を睨み返しながら、ぐいと手を伸ばして娘の手を取った。

「ハヤ、踊ろう。」

 若者は唐突に言い、そして耳を疑うように目を見開く娘を立ちながら引っ張り上げた。

「河の方に下って行けば川砂が平らに積もったちょうどいい空き地があるよ。」

 ハヤは丘を振り返りながら口ごもった。

「もしも……もしも姫様が呼んだら―――。」

「そこの柳の下に舟を泊めてある。あの丘が気になって歌ったり踊ったり出来ないならもっと下にいくさ。」

 サコティーはさばさばと言ってのけると、表情を変えて娘を見、透る声で低くひと節歌った。


   東の空より(ヒル)が下り来りてべレ・イナの白き衣を輝かしむ 

   クシュの鳴らす葦笛が春と共に水の(きた)るを報せる

   

 娘は若者の手を見、もう片方の手をその上に重ねた。そして、おずおずと詞を繋いだ。


   疾くゆく流れに舟は末まで従いゆかん


 星の瞬く空の下に、せせらぎよりも木擦れよりも密やかに足音は堤の間を下って行った。そして小さな杜には古から種々の芽吹きの産声を聞いて来た土地の精霊が留まり、新たに地の床に迎え入れた種子を護っているのだった。


 翌朝、姉神(べレ・イナ)の上に太陽が訪れる前に、オクトゥルはコセーナからおよそ半里下ったコタ・レイナの渡し場を訪れた。

 年を取った渡し守はもう起きて住まいの小屋の脇の小さな菜園にいたが、朝早い仕事に文句をいいながら舟を舫った桟橋まで下りて来た。

 オクトゥルは外衣の下でなけなしの銭を探った。左の小脇にはサコティーに返し損ねた毛布を丸めて抱えている。恩知らずの度合いが増えるわけでないなら、これを舟賃に向こう岸まで渡してもらおうか―――。彼は迷いながら、老人がかがんで綱を解くのを眺めた。

 上流から軽く水面をうつ音が、ゆったりとした間隔をおいて、しかし素早く近づいてきた。オクトゥルは振り返り、サコティーのほっそりとした小舟が桟橋をさして近寄って来るのを見た。

「ちょっと待ってくれ」

 オクトゥルは老人に声を掛け、水上の舟頭に手を振って合図を送った。

 若者は桟橋の脇にぴたりと舟をつけると、前に据えた精悍な面からほとんど目だけを彼に向けた。すこし口許をすぼめ、いっそうその頬は尖って見える。

「よう」

 オクトゥルは優しく声を掛けた。

「お前さんにお星さまをねだった女の子はどこにいるんだね?」

 サコティーは上流に首を振った。

「僕は(ヒル)に使われるが、ハヤには日も夜もない。」

 それからオクトゥルとその小脇の毛布を見て言った。

「舟賃を温存したかったら乗るといいよ。漕ぎ手を交代してくれるならどこへでも舟を向かわせるから。」

 老舟頭は幾年月の風雨にさらされた舟を桟橋に舫い直して自分の小さな領地に戻った。

 ふたりの男を乗せた舟は木の葉のように河の流れの中心に吸い寄せられ、日の明け初めた空の下を下って行った。そして同じ頃、アツセワナの王シギルは僅かな供と護衛兵を伴い、コセーナの正門を発ったのだった。

 

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