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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第六章 風の語り 『蝕』3

 雨は一枚の壁を隔てて降り続いている。

 天を泣かせしめる意思は遠く他の主のもとにあり、その手には届かない。その陰鬱が天候の予兆を知らしめ、雨により打ち据えられる万物(もの)の痛みを己の身にのこしてゆくが、天を手に差し上げても風雲を西の彼方へ押し返すことは能わない。

 悲憤の念はもう長いこと身から抜け果てている。しかし雨音は耳の中にまつわり続け、休息をさまたげた。髪も衣服も重い水を土間に吐き続ける。かじかんだ手で鬢をなでつけると毛束から首筋に背に新たに冷たい水が送られる。水が身体の温みを奪って抜けると隙間風が肩のすり減った衣を冷やしに来る。

 手足を縮め、目を閉じて身を噛む寒さを味わっていると、膝の上に厚い毛布が落ちてきた。しっかりと底の厚い革の靴を履いた、しかし小柄な足が踵を返して戻って行った。

 背の低い垂木と藁に覆われた天の下で雨は止み、奥の弱い明かりを中心に温まった水のいきれが立ち込め、小さな世界の主であるかのように、小鳥の囀りに似て少女の声が話している。

 いつもとは違う歌唱(ヨーレ)―――川下から風に漂ってやって来た、麓へと差し招く歌。

 凍え飢えて座り込んでいた身体は使命に従い、ヨーレの要請に応えようと立ったのだった。長い道を、下って行ったに違いない。もう辿り着いたに違いない。何故なら、人がいて火が焚かれ―――。

 碾き臼が回り、微かな匂いがぬるい風に乗って、濡れた闇の中へと漂ってきた。穀粒の煎られた芳しい香―――暗闇の奥にわずかな火影が踊る。

 火の前に集う人々は皆見知らぬ顔だ。してみると、実に容易く蘇った感覚に騙されかけたように、彼方に残してきた短い幸せは幻、長い苦しい生の方が現だったのだ。


 高く青い空の下にベレ・イナの三つの峰は連なる。頭部は青黒く針葉樹の髪が畝立ち、肩は黄金に橙を注し、腰部は夏の緑に彩られた裾野を長く南へ引きながら、なだらかな頂より生じる襞は金色に変わりつつある。寒露の頃である。

 ひと月前にアツセワナへと旅立った“絹の遣い”は、クシガヤの舟頭の漕ぐ帰りの舟の後に堂々たる荷舟を一隻従えて、オルト谷の川口の舟着き場に帰って来た。

 真新しい木の桟橋に降り立ち、舟賃を隠しに探しながら、オクトゥルは留守にしていたわずかの間にすっかり様変わりした辺りの様子を口を開けて見入った。

 堤の上は広々と刈り払われ、川の北側の山腹を登る道が、勾配を和らげる切り返しと段とを幾重も設けながら見通し良く整えられていた。

「おれはアツセワナに送り返されたのかな?」

 冗談ではなくつぶやくオクトゥルに舟頭は目配せをして銀を受け取った。舟の到着を報せる角笛が頭の上で鳴った。新しい見張り台の露台が木々の間に覗いている。

 やがて荷下ろしを手伝いに男達が桟橋へと下りて来た。荷の説明と指示を連れの若者に任せ、オクトゥルは跳躍を交えた韋駄天走りに新しい道を駆け上がり、すれ違った男のひとりをつかまえた。

「おい、この道はどこまで続くんだ?新しい村まで真っ直ぐに通っているんじゃあるまいな。」

「行ってみるといい、(はかど)ることうけあいだ。前とは半里ばかり道行きが助かるものな。」

 得意げに答えるのを遮り、オクトゥルはヤールはいるかと尋ねた。

「村だ。荷が着いたのを報せにひとり遣った。」

「ガラートへは報せたのか?彼も長だろう。」

 男は訝る様子もなくあっけらかんと答えた。

「荷を運び込んでからヤールが報せるのじゃないか。」

 男は荷下ろしの始まっている桟橋へと下りて行った。

 オクトゥルは河岸から二度ほど折り返しながら真っ直ぐ正面を上った見張り台まで行き、コタ・シアナを一望する欄干から覗き、下にいる若者に口笛を吹いた。彼と同じようにむっつりとして働いていた若者はちょっと振り返り目を丸くしたがすぐに背を向けて仕事を続けた。

「こりゃコセーナの殿様に笑われるな、イーマの巣が頭も尻も隠さずとは」

 オクトゥルは呟き、外衣を脱いで肩に掛けると、大股で、峰を切り均し窪地に木橋を渡して平坦になった森の中の道を村に向かって進んだ。

 オルト谷は幾多の沢が中心に向かって下る椀状の広い谷間であり、森の中は小さな谷や峰の起伏が多く、峰を迂回し浅瀬を渡って通らねばならなかった。しかし新しい村までの二里もの道のりは大幅に橋や切通しで平坦になり、オクトゥルはまるで林を突っ切る鷹にでもなった心地であった。快感と同時に自分の目に映るものを天敵の目にも映るものと捉え、不安に思った。伐った森の際は藪が育っていないためにすいすいと林床が開けて見える。

 かつて鹿などが下りて来る良い狩場のひとつであった長い沢の浅瀬は、その東に小さな沢をひとつと昔ながらの森を残して開け、勾配に合わせて細かく分割された棚田が、少しずつ段を刻みながらオルト谷の中心に向かって裾野を広げている。棚田の上、長手尾根の()()()()から下りてくる峰の端を切り均したところに集落がある。

 村はぐるりに土盛りをして石垣を築き、その高さはオクトゥルが出かけた時よりももう二尺ほど高くなっている。逆に、村と田の間にもう少し残っていた木はほとんど切られてしまい、まだ生々しいしっとりとした切り株になっていた。日陰が田に良くないからな。石垣の脇に涼んでいた男達が、オクトゥルの問いに訳知り顔に言った。

「へえ、田圃の師匠はそう言うかね?」オクトゥルは呟いた。「アツセワナで聞いて来るんだった。」

「冬越しの恩人が帰ってきたぞ。」

「冗談はやめてくれ、そんな気分じゃないんだ。」オクトゥルは言った。「ヤールは?」

 ひとりの男が村の集落の方を指差した。

 石垣を巡らせた環の内に入ると前面にすぐに民家が並ぶ。六角形の家を三、四連ねた区画がそれぞれ中心を指す光芒の輻のように配された間の通路を、オクトゥルは真っ直ぐに進み、中心の広場を横切って、奥の正面にある長の家まで行った。

 旧いニアキの長の家よりもなおひとまわり大きく、二枚扉にした正面の入り口は広く開け放たれて、背面に長手尾根に連なる山を控えているため前面に明り取りの窓を多く備えている。

 ヤールは高く作った床の端に掛け、肝煎(トゴ)らを呼び集めて、荷を運ぶため下にやる人数を検討していた。

「アツセワナで賢くなった男のお帰りだ。」オクトゥルの後ろから付いて来た男が戸口で怒鳴った。

「ほう、車の作り方でも習ってきたのかな?」

 ひとりのトゴがこちらを振り向いて言った。

「遣いにやった鳥が手ぶらで飛んで戻ったが、土産を押して帰って来てくれればなお助かったに、な。」

 絹はいい値で交換できた。食糧も鉄具も王女の心尽くしもあってたっぷりと嵩もある。それを揶揄されるとは。

「ご苦労」ヤールはオクトゥルに言った。

「ヤール」長旅であった様々なことを思うにつけ、からかいで迎えられたことにオクトゥルは失望したが、ぐっと口元を引き締めてこらえると声を低く抑えて言った。

「おれはあんたに挨拶を済ませたらすぐにガラートを呼びに行くつもりだ。彼はおれの遣いの実質の責任者だし、おれが見たり聞いたりしたことをあんたに報告する時には彼の見解をあんたに聞いてもらいたいんだ。」

「お前は目の前にいる私には自分の見て来たことの報告を出来ないのか?」

「おれは誰の前だって同じようにしゃべるよ。だけど相手が終いまで聞いてくれるか分からないからね。トゴ、あんた達にも聞いて欲しいんだ。おれはこの通り帰ってきたよ。だけど、あんた達が農事を学ばせに行った者たちはいつ帰るんだ?どんな約束になっているのかね?もうひとりの長にも言っておくべきだと思うね。明日の夜にはガラートを連れて来る。そしたらおれは旅の報告をするよ。」

 ヤールは顎を持ち上げてオクトゥルを見返し、良かろう、と手を振った。

「喜んで、もうひとりの長を歓迎しよう。ニアキに留まるご老体の冬越しのことも相談せねばならんからな。」

 オクトゥルは少し休んでいけ、という勧めを辞退し、ニアキへの道中の食べ物だけをヤールの妻から受け取って長の屋敷を出た。

 飛び出すように広場に出、ぐるりを見渡して首を振った。中の嶺と南の嶺の間の深い谷間の下部オルト谷にあり、長手尾根(エユンベール)の南麓に位置するこの村からは、()()()()の稜線に重なってわずかに抜きんでたベレ・サオの頂が、万年雪の白を空にひと掃きはすかいに描いているのが見えるだけだ。集会を行う広場は家々に囲まれ、その間に埋もれている。

 この村ではもう会議は人々のものだ。女神の眼前から隠れている。

「本当におれはアツセワナに舞い戻って来たんだったかな」

 オクトゥルはもう一度寂しげに呟いた。家々に囲まれた広場はアツセワナでは見慣れた景色だ。故郷とは違うものを異国で面白がりはしたが、帰って来て同じものを見ようとは思わなかった。

 もうこの村の者はニアキとは心を異にしているのだ。古来イーマの会議は女神の臨席のもとに行われてきた。集会の持たれる広場は集落から離し、ベレ・サオの目前に曝すように設けられていたのだ。

 おれはそんなに信心深いわけではない―――オクトゥルは正直に呟いた―――だが、ここにガラートを連れてくるよりもヤールをニアキに連れていくべきだという気がしている。ガラートは女神に隠し事をするのを嫌がるだろうからな。


 夜半に立ち込めていた霧は早朝には収まり、零れ落ちそうな星の煌めきが白む空に溶けゆくのと相まって地の草々は大きな露を結ぶ。雪渓の蓄えの尽きつつある滝音さえ絶えず聞こえるしじまの中に、家々は固く戸を閉ざし静まっている。

 中で眠っているのはもう手足の力の衰えた老人の家だ。だが他の多くの者は罠の見回りか、下の森の中に狩に出かけている。

 ガラートは集落を出、北の森の下になだらかに広がる野へと歩いて行った。森の辺から丈高く伸びた草の影が野へと広がり、それは昼の陽射しと夜の冷たい風にさらされる開けた中では早くも白く細くすがれているものの、行き来の絶えた広場と斜面をおりた作業場をすっかり覆っていた。火を焚くところと矩形の腰掛けの辺りがやや窪んでそれと分かる。

 ガラートはそれらを眺めやった。これから民の帰って来ない冬を迎えるのだということが今さら感慨をさそったわけではない、初夏の決定が速やかに民の者の足を遠ざけ、集会のほか狩りの間の休憩やこまごまとした相談や交渉の場としても足が途絶え、人が見放したそれを既に感知したかのごとく、緑の眷属がこぞって女神の衣の下に人々の営みの傷痕を覆いつくそうと動き始めていること、そのあまりの素早さに感じ入ったのだ。

 だが、それでもそっくり返済とはいかないものだな。この二十年、草木の相は変わり、オド・タ・コタの低地に生える草がこの高原にも持ち込まれ、居つき、繁茂してしまったようだ。河を行き来する風によって運ばれた草の種だ。

 ガラートはかがみ、白金色にすがれた低地の草の間を分け、点々と小さな青い葉を潜ませた高地の矮木を薄青い朝の明るみのもとに出した。

「頑固者め」

 お前はやがて来る冬に生き残りを賭ける。己の身をも痛めつける風雪の中に大きな競争相手を道連れに持久戦にもちこみ、遅い春に屍の傍らにさらに小さくなって新芽を上げ凱歌にしようというのだな。だが、恐らく負ける。このままでは負ける。

 引きちぎる草は簡単に根元から切れたが、地の下では硬く土を掴んでいる。ガラートは手を払い、立った。

 イーマは生き方を変えてしまった。女神に返納した地も変わってしまった。無理に戻そうとしても地の肌を傷つけるだけだ。土が受け入れたものはもはや女神のものだ。これもイナ・サラミアスの新しい姿だ。新しい女主のもとの…。

 ガラートは集落のわずかな住民が通ってつけた野の道のなかのいくつかを通り過ぎた。朝早く狩に出かけていった者たちの道はニアキの下の広大なイスタナウトの森へ向かう。一方、ハルイーは狩にせよ逍遥にせよ、決まった道を使い続けるという事は無い。彼は相変わらず集落とは離れた古い家にひとりで暮らしている。他にも昔オコロイの部下だったタフマイの古参の猟師らがしげしげと通う道がある。ガラートは少し考えた。彼らが各々の順や日の間隔まで相談して出かけるのは訳あってのことだろう、時が来れば明らかになる、そう決めて追及しないことに決めたのは自分だ。それがたとえ途中まででもこの跡を辿ることはすまい。彼らを信用しようと決めたのだから。だが、彼らが見張りに行く北の源流には自分も行ってみたいものだ―――。

 姉神のかいなの内に寄り添っている深い陰の中に沈むニアキは、朝は長い蒼い陰の中に閉じ込めらる。陰から仰ぐベレ・サオの側頭の雪は朝日をうけて眩く白く、日輪の運行の度合いを報せる。雪の下の貌は夏の間に低い樹木の生育を見てやや回復したものの、依然痩せて、このニアキのはずれの野を見下ろす左目は乾いている。

 安らいで笑っている眼に見えないこともないな。南側の斜面はどうだろう、頬は―――少しは肉付きが良くなったか。

 ベレ・サオの上に高く晴れやかに広がる絹雲を見て、ガラートは簡単に装備を整え、家の戸を閉めてニアキからイナ・サラミアスの肩口にあたる東北の峰を指して登りはじめた。

 村の水源の北側にある森は急激に勾配がかかり、丈の低い根曲がりした樹木には早くも赤い葉が混じる。陰の中をさらに上へ進むとほどなくして矮木は低い針葉樹の森に代わり、一時余りすると高く昇った日のもとにすっかり現れたベレ・サオが、丈の鎮まったハイマツの向こうに臨める。ガラートは蒼白い礫地の現れたベレ・イナの肩口を頂きに近い岩塊の根元にまで登って行き、足を止めた。

 岩根の陰に先に座ってベレ・サオの方を見ている者がいる。ハルイーだ。ふたりの男は互いに驚くこともなく目を交わし、ハルイーが少し空けた場所にガラートは上り傍らに立って、南からベレ・イナの貌を拝した。

 雪を冠した山頂から長々と西へと下る針葉樹に覆われた山脈はたなびく髪の畝、光をうけた南の斜面は、痩せた頬を短く覆う矮木と草が金色に色づいている。この中の嶺からその山塊へとつなぐ尾根はやはり春の嵐の痛手から痩せている。左目の大滝は枯れたまま、周囲に生じた細かな割れ目を伝い西面を下る水と、首筋の痩せ尾根の下に開いた鷲谷に集まる水が合わさってコタ・シアナの源流となる渓谷へと落ちる。目で見て取れるその水脈はごく細く、対岸に現れた河床が見えるほどだ。

 ガラートは自分と同じように山を見つめる男に声をかけた。

「あなたも会いに来たのか―――レークシルに」

 ハルイーはちょっと眉をあげこちらに目をくれると、淡々と言った。

「レークシルはもういない。あの女は変わらずあそこにいるが、違う顔だ―――だが、あの相が日々違ってくるのを見るのは飽きない。おれのようにもう子のいない者には他に楽しみにするものもないしな。」

 ガラートはベレ・サオから目を落とし腰をおろしてハルイーに尋ねた。

「以前のサラミアの顔ではないとすると、あなたから見てベレ・イナの相はどう見える―――健やかか?気性は穏やかだろうか。」

「あの女の心根がどうかと訊かれてもおれにはひとつの答えしかない。あいつには心はない。生きているがそれだけだ。生きて、死を喰らって産みつづける。一期を終えたものはもちろん、元気なものも死に陥れるほど貪欲だ。永く、ああしているためにな。」ハルイーはガラートの知っている頑なに抱き続ける女神への嫌悪の情を吐露し終えると、肩をゆすりあげ、改めてベレ・サオに顎をしゃくった。「あれは若く痩せている。」

「やはり、あなたが見ても―――」ガラートは言いかけ、自らも山を眺めようと顔を上げかけ、ふと手を眉間にやった。

「あの目は若い獣のように考えなしで無頓着だな」ハルイーは優しく言った。

「レークシルがあの目から遠くを見ることはほとんど無かった。あれの心はいつも内を向いていた。それにごく幼いころから男を恐れていた。何か一枚帳をおろさなくては会うことも出来ぬ、そうだったろう?」

 ハルイーは一度黙って考えた。

「レークシルが冬の間おれの傍らにいるのが当たり前になってからは、おれはここに来てもそうしげしげと()()の貌を見たりはしなかった。あれはあの女の貌だがレークシルではないと知っていたからな。おれはイサピアをレークシルから奪って白糸束の滝の真ん中に捨てたんだ。あの女とレークシルはもう切れたと思っていた。おれにとってはあの山の貌こそが抜け殻だった。見ても仕方がない。

「だが、あれが死んで灰を家の裏の森に撒いてしまってからも寂しくてな―――おれのレークシルはそこにはいない。あの女しかいないんだ。それで、こうして来るようになった―――。あそこにあるのはレークシルとは違う顔だし、あの目は違う目だ。もっと詮索好きでもっと油断している。おれの知らない者の目だが、水で隠されていないあの目が何を見ているのか、おれは時々考えることがある、年取って動くのが億劫だからか―――ここに座ってそんなことを考えながらあの目の先を追っていると面白い物に気付くことがある。」

 ハルイーはベレ・サオの頬から、左下方に広いすり鉢のように窪んだ鷲谷の深い崖へ落ちる滝口、そしてその滝の水が落ちてゆく源流の渓谷の縁へと指差した。ふたりのいるべレ・イナの“肩口”の、眼下に広がる森の裾野の一端がそこにかかり、谷沿いのほとんどの部分を覆っているが、地中深くまで割れた亀裂の走っている“喉元”は木もまばらで渓谷に臨む棚状の端がわずかに見てとれる。ごく小さな人影が二三、その端から渓谷の中を見ていた。

「タフマイの連中だ。」ハルイーは言った。「おれと同じ古狐で、知ってのとおりオコロイの部下だった。ああやって毎日のようにベレ・イナの喉元を見張っている。」

「分かっている。」ガラートは答えた。「オクトゥルがその事について報せてくれた。」

「あの連中は昔もコタ・シアナの河辺を見張っていたものだ。トゥルカンが差し向けた密偵を陸に上げるためにな。おれはその時、連中を見張っていた。密偵が舟頭に託した手紙を、連中の目を躱して追って行ったこともあった。奇妙なものだ、いま連中はあの時のおれなどより律儀に守りについている。オコロイの息子ヤールからは冷たくあしらわれながらな。―――あの連中は好きにさせておけ。ただ、その時が来たら彼らの報せを待ってはおれぬぞ。」

 ハルイーは、ベレ・サオのかつての大滝が注いでいた、源流に沿った渓谷の懐内から“長手尾根”の末端の“掌”までを見渡す目を指した。

「あの目がちゃんと働いてくれていたらイナ・サラミアスの守りになるだろう。神人(よりまし)が見、ヒルの導師がその言葉を(アー)たちに伝え、防備を整える。だが、レークシルの時もそれが肝心な時に見ていて民に警告を発したことは一度もなかったし、新しい目も役には立たん。見方が分からぬのかもしれんし、見ているものが分からぬのかもしれんし、それを伝える相手がいないのかもしれん。」

 ハルイーは横目でガラートを見やったが、いきなり手を上げてその眼前を横切るように西を指した。彼方に屹立するイネ・ドルナイルの峰がある。ガラートは思わず左の肘をあげ、外衣の端で顔を隠した。

「雲を被らぬ妹神(ベレ・イネ)とは珍しい。」ガラートは動揺を隠すように呟いた。

「で、お前は顔を隠すのか。あの妹の山が火傷の痕を現すようになったのに。」

 ハルイーはちょっと面白そうにその様子を見た。

()()()に見慣れぬものだから―――肝の据わらぬ、恥ずかしい。」ガラートは苛々と呟いた。

「あのがらんどうの口はまだ息をしているが、眼は永の昔から朦朧としている。」ハルイーは妹神(ベレ・イネ)の相貌を眺めたあげく大胆に言った。

「ここで見ていてもそうだが、ごく懐近くに行っても死んでいるようにしか見えん。おれなどはイネ・ドルナイルのどこで暮らしている者たちとも一緒だ、()()はただの鉱脈の残骸くらいに思っているが、この頃、ここであのように雲を纏わぬベレ・イネの貌を見ていると、あの目に何か心が宿って見える。殊に、こうして姉の方の目もあちらを向いて見える時はな。」

 ガラートは立ち、外衣の両翼を広げ、はるかに遠く巨大な目を遮るかのように両手を上げた。

「どうした」ハルイーは尋ねた。

「何にも」

 ハルイーはゆっくりと立ち、先に岩の下へと下り、礫地の間に身の丈ほどの平たい天蓋をつくっている木々の間へ戻っていこうとするガラートに言った。

「お前が尋ねぬことを進んで言おうとは思わんが、おれは問いに応えたのか。」

 ガラートは立ち止まり振り返った。

「私が何か尋ねましたか」

「あのベレ・サオの相は健やかに見えるかと尋ねた。おれは見たままに言うだけだが、おれの意図せぬものをお前は見て取るのかもしれん」

「それでも、あなたはレークシルとの関わりの断たれた山の相には魂が無いと言われた。」

「そう言ったか?」ハルイーは穏やかに問い返した。

 訝しげに見返すガラートにハルイーの鋭い目が待て、というように応え、ゆっくりと慎重に足元に気を配りながら下りて来た。

 ハルイーが追い付く前に、ガラートはそのまま北西の鷲谷のほうへ、ハイマツの根方の岩根に刻まれた深い溝に沿って下って行った。縦に下りる溝が“首筋”の鞍部から下りて来る枯れ沢と出会うところに小さい礫混じりの原があり、より下方に近づいた鷲谷の鉢の内から渓谷に向かって広く切れ落ちた滝口、その向こうに長い渓谷を伴って流れる水脈が望める。左岸の縁にあった小さな人影は、近づくほどに大きくなった森の樹木にすっかり飲まれてか、見えなかった。

「せっかく、ここまで来たんだ、ベレ・サオまで登ろう」

 ハルイーは機嫌よく誘った。

 峰の鞍部に沿った鷲谷の上辺は崩れ落ちた岩石の欠片が広がる原で、その間をしみ出した水が低い草木の群落を伴い、いくつもの細々とした流れを紡いで谷にむかっている。峰の岩壁を右手に見て進むと、壁に近づき高さを詰めてゆくほどに岩石は大きな塊になり、足の下で浮いた。

「おれはここが好きなんだ。ベレ・サオから下りて来るあの沢のうねりがな。」

 ガラートは岩に手をついてハルイーの言ったものを見た。それはベレ・サオの側頭と襟足の間に生じる首筋から顎にかけてのうねりに見えた。ちょうど高く昇った陽が山頂から連なる峰の線を浮き立たせ、首筋と頬の山腹にかけてはなだらかに丸く映し出していた。ガラートは目を伏せた。

「私はニアキの北から拝する貌が好きだ。それとも掌の上から」

「掌から見る顔は偉そうだ。ニアキから見る顔はすましている。」

 ハルイーは言った。

「主が変わろうとも、場所によって見える顔つきは似たようなものだ。―――夏の雨で尾根が少し痩せたな。沢に近づき過ぎると崩れていて危ない。この上の壁を登って尾根筋に出よう。」

 鞍部になった尾根を渡り、下から見上げていた細い渓谷の脇を遡ってゆくと、その沢が尽きる前に金色に色づいた短い草と苔類の他には何も生えていない蒼白い岩石の湾曲した原に差し掛かる。沢を越えて開けた岩場の上を左の傾斜に気をつけながら西へと回り込んでゆくと、背後にしてきた鷲谷が再び左前方に開ける。右手には広い岩の山腹が急傾斜を描いて聳え、ところどころに細かい亀裂の入った岩の表面はしっとりと濡れていた。見上げるとこめかみの褶曲した三重の波の頭を縁取って万年雪が横たわっている。

「あれが大滝の方に水を送っていたのだ。相が変わって滝に水が来なくなった。山脈の向こうに行くようになったのかもしれん。」

「コタ・レイナの源に加わったのか。」

「そうかもしれんな。」

 ベレ・サオの目元は急峻な切り立った岩場で、西面に落ち込んだ崖をつたって落ちた水がコタ・シアナの源流を作る。その中心をなし最も深いものが大滝の滝壺だ。

 主な水流の途絶えたその深い縦の亀裂の周りには大きな洞が出来ている。その滝壺に望んで前に張り出した岩棚のひとつに登り、ふたりは眼下の水源の峡谷を見下ろした。

「眼が眩む。」ガラートは呟き、膝を折った。

「ここへ来たのは初めてだろう。」ハルイーは取り立てて言うほどの事もないと言った調子で言った。

「なに、シギルやアツセワナの連中も見た景色だ、もっとも、もっと低いところからだがな。お前も見るがいい、昔レークシルが見た景色だ―――そして今お前の娘が見ている景色だ。」

 澄んだ秋の午後の光がこのうえない展望をエファレイナズにもたらした。眼下から左右に渓谷を穿ち真っ直ぐに下るコタ・シアナの源流は、正に目の前に開いて差し伸べた“掌”の右をまわり込んで後ろへと流れて行く。

 山頂から右側に下る細長い山脈の背を三つ越して北西の方に孤立した高い台地と見えるのはオトワナコスの郷だ。低く横たわる妹川(コタ・レイナ)さえ、シアナの森の陰にきらめきを垣間見せる。アツセワナの丘はさすがにその間に広がる広大な森と耕地に阻まれ、塵に煙り、背後に控えるイネ・ドルナイルの威容の前ではおぼろけに低くその上辺をわずかに覗かせている。イネ・ドルナイルは端正な座した姿ながら、その裾野の森を大部分失い、北の肘先の山脈の内側から腹部にかけてを削り取られていた。古の噴火で損なわれたというその貌には一片の雲さえかからず、かしいだがらんどうの眼窩が、朝見たとおりこちらを向いている。

「霧の帳が下りてベレ・サオを隠してくれたら!」ガラートは声を押し殺して囁いた。

「誰から?」ハルイーは尋ねた。

「ベレ・イネの眼、いや、あの眼を通して見ている者の眼から。」

 ハルイーは解せぬうわ言を耳にしたかのように眉をしかめ、微かに首を振った。

「己の目が見るものを見ろ。霧がかかる前に見ておくのだ、アー・ガラート。このベレ・イナの目は所詮、岩に過ぎないからな、()()()()目もだ、そんなものは横へ置け!源の岸を見ろ、左の岸、底に洞のある岸だ。」

 ハルイーが言ったのは源流の南岸の水位の下がって現れている河床だった。岸辺の天然の亀裂と洞窟の前にあたる一帯の河床が深く掘り下げられ、水を溜めて大きな舟が着けるようになっている。切り立った河岸に縦に入った亀裂は、上の平らな地上にまで及び陥穽を生じしめているが、河辺でその間口は遠目にも大きく掘り広げられていた。その周囲に人のいる気配はない。

「お前にあれの説明がつくか?」

「今年の春に河向こうの(オド・タ・コタ)の何者かが侵入し、あの川岸の洞窟を広げていた。」

 ガラートは長年村との付き合いを断ち、集会から遠ざかっている男に応えた。 

「オクトゥルがこのことを集会で報告し、ヤールはここにいた侵入者を追い払ったのだと言っていた。」

「それをそのまま信じたのか」

「―――いや」ガラートは声を低くした。「シギル王との交易を続け、トゥルカンとの交渉は持たないという私の意を通すため、ヤールに対応を任せた。私はヤールを信じたいと思った。……だが、信じてはいない。」

「信じぬと決めれば自由がきく。」ハルイーはぴしゃりと言った。

「おれは去年の夏から暇々にここに来ている。チカ・ティドの鉱夫どもがあそこに出入りするのを幾度か見た。この夏からは見かけぬからヤールは約束を果たしたのかもしれんな。オコロイの昔の朋輩どもは舟の出入りを見張り、中に潜り込もうとする奴がいないか目を光らせている。彼らはお前の代わりにヤールが約束を守るかどうかを見張っているようだぞ。そしてもうひとつ、お前が見るべきものがある。」

 ハルイーの手は、水位も流れの速さも減じた渓谷の水の帯を横切り、谷の右手の、青黒い針葉樹の森が尾根を覆い、その下に岩がちな山肌を横たえている“べレ・イナの御髪(みぐし)”の山腹をたどり、それが果てる先に指の先を止めた。

 「源流の北の峰の山腹には細い谷川を越えて向こうに出る道がある。二年前に“黄金果の競技”でアツセワナの者たちがそこに道をつけているからな。今もその道が生きている事は驚くにはあたらない。ところで、あの先にあるのは昔オコロイらと会って交渉していた商人どもの根城だ。」

「アタワン。それはアタワンと呼ばれている。」ガラートは言葉を添えるように言った。

「トゥルカンが交易を目的として拓き、そのうち売り物の細工や機織りをする工房を作った。交換の遣いが持って帰る土産にはアタワンで換えた品もある。」

「そのアタワンだが」

 ハルイーは注意を促した。 

「まだ夏の盛りだった。あの丘の上を黒い煙があがった。イナ・サラミアスの誰も見ていなかったのか?水気の多い生き物を大慌てで焼いたような、いやな黒い煙だった。おれもその時はただの火事かもしれんと思った。人が集まって住むようになるとちょっとした火の不始末から大火事になることもあるからな―――だがその後、今に至るまで日々の当たり前の火さえもあの丘からは絶えている。住民の飯を炊く火や、湯を沸かす火、灯火さえもな。あそこに人の住む気配はあるか、アー・ガラート、どうだ?おれには長いことあの丘に暮らしていた勤勉な連中の気配は感じられない。突然静かになったあの丘をお前はどう見る?」

 ガラートは額にあてがった手の下に驚きと戸惑いを隠し、奇怪な火事の理由を考えた。シギルに申し入れをした後だ。アタワンで焼かれたのは養蚕場と機屋に違いない。シギルの命令だろうか、トゥルカンが自ら焼かせたのか。絹の価値と織子の娘たちを守るためにと申し出たことが、シギルとトゥルカンの対立を深めることになったのだろうか?

「ハルイー、ここを下りませんか。」ガラートはやっとで囁いた。「やはり、あのイネ・ドルナイルの目の前では私は何も答えられない。何かを考えることすら恐ろしい。」

 ハルイーは同意するように頷いた。

「何も答えられぬ、というお前は嘘つきよりも手に負えん。山のように動かなくなるからな。」

「相手があなただけなら隠すことなど無いのだが。」ガラートは呟いた。

 午後の霧がベレ・イナの頸部の後ろから湧き立ち、冷たい風に乗って広い岩がちの頬を滑り下りはじめていた。ふたりは吹きさらしの尾根を渡り、枯れ沢の脇、震える枯れ草の絨毯が丸く急な傾斜を描いて谷底へと誘う荒寥とした原へと、浮いた岩が触れ合ってたてる乾いた鈍い音の他には音も無く、松やナナカマドの樹林が人丈ほどの覆いを姉妹神の間(エファレイナズ)の空の下に掲げているところまで下りて来た。

 ベレ・イナの背後からゆっくりと掛かった雲は、紅く染まった枝のその先もベレ・イネの貌を視界から隠した。ガラートは細い曲がった幹に背をつけ、後から来たハルイーに振り返った。

「ベレ・イナの目から見たことについて先ず、あなたの見解を聞かせてください。」

「長年、村の者とも河の外とも付き合いを断っているおれから―――?」

 ハルイーは尋ねた。

「身内の軽率や油断は認めたくないものだ。そして長年の交渉や商いでの慣れ親しんだやり取りから突然の損失や裏切りを予想するのは難しい。親しみが生み出す余計な情や期待は物事を見る目を狂わせる。その点あなたは正確に見ているはず。」

「おれは郷里(くに)に忠義もない男だが」

 そう言いながらもハルイーは頷き、目下に広がる霧の下に、ベレ・サオで見た景色を重ね見るように黙って眺め、口を切った。

「チカ・ティドの鉱夫どもが入り込み、ベレ・イナの喉元に穴を掘って行った。これは、再びイナ・サラミアスに金・銀・銅、あるいは価値ある石の鉱床があるとトゥルカンあるいは他の誰か有力な領主が目を向けはじめたという事だ。そして、アタワンを焼いた火はトゥルカンとシギルの不仲と無関係ではあるまい。」

 ガラートは深く息をついてハルイーを見返し、その場に腰を下ろすよう促した。

「長い出奔の後、あなたがアツセワナから戻って来てすぐにニアキの集会で告げたのは、イナ・サラミアスは森と鉱床を有すると目されているためにアツセワナの征服をうけるだろうという事だった。しかし、あなたは恐れているようには見えなかった。あなたはアツセワナの支配を受けながら生き永らえることは出来ると言い、その言葉よりもはるかに豊かな友好と交易をアツセワナとの間に取り結んだ。」

 ハルイーは両膝の間で手をさすりながら薄く笑った。

「おれがシギルと対等に話せたとでも思うのか?あれはシギルの温情による決定だ。今が既に庇護を受けて永らえている状態なのだ。」

「その指摘は会議でもあった。」ガラートは苦々しく打ち明けた。「そこには恩恵を享受することへの感謝も無い代わりに羞恥もないが。―――ヤールはまるで昔のあなたの言葉を言ったのが自分であるかのように言う。シギル王の力は弱まり、新たな交渉相手と新たな品による取引が必要だと。」

「それでトゥルカンと、というわけだな。浅はかな奴だ。馬が主を乗り換えようと言うようなもの。」

 ハルイーはにやりとしたが、不意に若い頃の冒険を思い出したかのように真顔で言った。

「二十年前にはシギルはほとんど力を持たず、トゥルカンもシギルを慰み者にするほどに油断をしていた。ベレ・イナの鉱床への欲も焚きつけた当の男の負傷で頓挫する程度のものだった。シギルが自ら鉄山を開き、絹との交換をイナ・サラミアスと取り結んだ、そのことにトゥルカンが一目置いたからこそ戦が避けられたのだ。ところでシギルはその後トゥルカンと拮抗するほどに成長し、双方ともに均衡を保ちながら年月を重ねた。二十年来双方が蓄えた資力、人力とその怨念は、今ぶつかればその煽りが及ぼす力は昔とは比べ物にならん。」

 ガラートは面をぴくりともさせずにその眼差しを受け止めたが、左の頬は白く褪せていた。   

 ハルイーは瞬き、ふと首を傾げ眼差しを遠くへやった。尾根を越えた雲の塊はもうすっかり、ふたりが下りて来たばかりのベレ・サオの山塊を隠していた。

「おれには実のところもう関りの無い話だ。」軽く手を振り、彼は口調をやわらげて言った。「お前は(アー)だ、だから言ってみただけだ。お前でなければおれは話してみようとは思わんが。」

「私には民を率いる力がない。名ばかりの長だ。」

 ガラートは頭を垂れ、吐露した。

「私の言葉は民に届かなかった。皆がヤールの言葉に耳を傾け、大きな塊となって私から離れていくのを見ると、いっそ私の思念や信仰など何ものでもなく、皆の向かう方こそ正解であり真実であると思いたい。そうであれば、古い朽ちた枝が落ちて離れるように、私の方で用を終えて去るのだと思うことが出来る―――そうできるならば、民を彼らの決定のままに自由に行かせ、私はベレ・イナのもとにいたい。私はただイーマでありたい。」

「そう思うなら民の事を全てヤールに任せるがいい。」ハルイーは簡単に言った。

「その方がいいかもしれぬぞ。主を変えても同じ関係でいられるかどうかは奴に学ばせるが良かろうし、主を変えるならシギルにもトゥルカンにも分かるように直ちに変えることだ。その方が獲物を互いに引き裂きあう余計な戦をせずにすむ。殊にシギルにはその方が良かろうな。」

 ガラートはそれを聞くと身を起こし、ハルイーを見返した。

「民にとってもだ。戦いの血を流さず、属領として落ち着くことは。―――そうなったところでお前に何の関係がある。イーマは国をもたない。イーマに国はない。ベレ・イナは切り拓かれ、坑道が穿たれるだろうがお前の責任ではない。イーマというのは山に生かされているだけのちっぽけな奴だからな。」

 ハルイーの声は少し昂ぶり、ふいと切れた。二年前と比べてもめっきり白髪の増えた側頭に手をやり、疵だらけの節くれだった指を立てて二、三度撫でつけた。口元に浮かんだ苦い笑いが徐々に沈黙する硬い頬の中に溶け去っていった。

「お前は娘をどうするつもりだ?」

 ハルイーは突然尋ねた。

「お前が自分の生き方を貫けずに迷っているのは、ひとつにはヤールに民の命運を負わせるほど冷たくなれないからだ。民の中でも声の大きくない者たちはまだお前を慕っているからな。彼らが民の大方の方針に従いながら、しかしお前という手綱がまだヤールに効いているだろうと望みをかけているのがわかっているからな。もうひとつはお前の娘のことだ。父として娘の行く末が案ぜられるからだ。」ぶっきら棒に言い、ちょっと肩をすくめた。

「民の誰もがお前に娘があることを知らず、ただ、ティスナの守女(シュムナ)ルメイが新たに現れたと思っている。―――これはこのままでもいいだろう。()()()()は媼たちが死んでしまえばやがて廃れ、女達と一緒にお前の娘は村に下りて来られる。当たり前の女として生きられる望みはある。」

 ハルイーはちょっと言葉を切り、ガラートの応えが言葉なり面持ちなりに表れるのを待った。が、その目がただ畏れを込めて見返すのを見るとゆっくりと言葉を継いだ。

「しかし、娘の(さが)の現れているところを見ると、違う呼び方をした方がいいかもしれん。」

 ガラートは激しく首を振った。ハルイーは落ち着いて言った。

「血筋の上ではあり得ることだ。」

「そんな―――」ガラートは息と一緒に言葉を吐き、堰を切るように言った。「そんなはずはない。私の母はあなたの従姉で二代前にヒルの流れを受け継いでいるがごく当たり前の女だった。そして妻はハルの一族でもヒルとはもっとも繋がりの薄い血筋だ―――レークシルとは違う。」

 ハルイーはもう一度、指で側頭を掻いた。背を丸め、慣れぬ思考をまた言葉に置くことを苦にしているように口元を曲げた。

「お前はアーラヒルの子だ。」ハルイーは傍らに誰もいないかのように呟いた。「ともかくも。彼自身は神人(よりまし)ではなかった。アーラヒルは“読む”だけだった。だが、彼も最後に読み違えた―――読む手立てがなかったのか、もう娘はサラミアではなく、()()は生まれたての嬰児だったという事になるからな…」

 何のことを言っているのだ、ことを分けて話してくれ―――ガラートが手を上げて問いを挟もうとするのにも頓着せずにハルイーはガラートを見て言った。

「男と女では役割が違うのだろうな、ヒルであっても。」

 ガラートの目に我知らず怒りと侮蔑の色が浮かんだ。ハルイーは、それに気づき宥めるように言葉を継いだ。

「おれを勘で動く男だと思っているだろう?狩ではそうだ。身体は長年見聞きして腹の中で整理された状況に倣って動くことに慣れている。それはそれで危険が迫った時に余計な考える間を助ける。嵐の最中でおれが止まれ、伏せろ、と言ったらお前はその通りにするだろう?獣の狡猾さと同じ程度にはおれを信用していいと思うからだ。だが、今この晴れた空の下で、腰の短刀が震えたら山を下りろと言ったらお前は何故、と問うだろう。おれには説明ができん。自分が勝手にそう感じることを人に話すのはおれの領域じゃない。おれはこんなふうに、はっきりと理屈が通りもしなければ証拠も見せられない事を説明するのは嫌いだ。思い付きや夢物語を話すのはまるで女みたいだからな。」

 ハルイーは遠い過去を思い返して目を細めた。

「女ならそれを上手にやる。女はそれを()()()。腑に落ちないが大筋で間違うこともない。男にはない()を持っているのかもしれんな。見える者は見えない者が不自由しているとは思うまいしな。」

 ガラートは膝の上に両肘をつき、拳に顎を預けた。

「私が父の血を受け継いでいるとしても、父のヒルとしての役割を教わったわけではない。」

「誰も導師アーラヒルがどのようにして女神と()()()か知らなかった。彼が女神の意を伝え、それをもとに(アー)らは協議をしたというが、おれはまだ子供だったからな。」

 “読む者”そして“語る者”そして民と女神を取り次ぐ者。

「タナが見せるものを私は読んだ。」ガラートは遠い昔の感触に浸りながら呟いたが首を振った。

「あの“掌”の水に囲まれた岩の上ではタナが見せるものは皆にも見える。ヒルの血筋の者だけではなく、オコロイもシギルもサザールも。どこに私だけが特別だと思える点がある?いや、タナ、レークシルでさえ“掌”の上の人々の心を意のままに曝すことができたわけではない。まるで思念で戦い消耗したかに見えた。」

「オコロイと長たちは嘘つきでシギルは意思の強い男だからな。」ハルイーは頷いた。

「だが、お前はレークシルが見せたものを読んだ。」

「レークシルが見せたものだけではない。シギルの見せたものも。」

「それはレークシルの挑発をシギルが受けて立ったからだろう。」

 ハルイーは言い、迂闊に意見を差しはさんだことに気付いてちょっと肩をすくめた。ガラートはそれに目をやり述懐した。

「ハルイー、私に見えるから、読めるからそれが何なのだ?サザールが見せたものも―――彼は私に読むように求めた。私は人形のように命じられ、おそらく彼が自分でも出来ることを彼のためにしてやった。私は異邦人の彼と比べても自分にヒルの血筋ゆえの力があるなどとは思えない。」

 ハルイーはけものみちの面倒な足跡の交錯に追跡を邪魔されたように唸ったが、手を振り先を促した。

「まだあったはずだ。時と場を違えてレークシルの見たものをお前が見た事が」

「鉄吹き沢での鉄の生成の時―――熱い鉱滓が水に流れ込み……。だが、それはレークシルの力だ。いや、しかしアーメムクシらの記憶を暴いたのは―――」

 言いよどみ、沈思に浸ってゆくのを留め、「他には?」淡々と尋ねた。

「コタ・レイナの水上で。サザールのうわ言の中で私にもそれは見えた。サザールが見、レークシルが見ているものが。」ガラートは相手の記憶に訴えかけるようにハルイーを見返した。

「神蚕の蝶に誘われるようにしてレークシルは“白糸束”からティスナへと夜の参道を駆け下りて行き、繭の煮られる匂いを嗅ぎ、機屋の奥の岩室へと向かっていった。」

 そうしてぎこちなく左手を上げ、頬から顎にかけての傷痕を隠した。

「お前は娘の見ているものをそうやって見た事は無いのだな?」

 ハルイーは尋ね、考えた。

「おれはレークシルの心をそんなふうにあいつの目を通して見たためしは一度もない。また、見たとしてそれを言葉で表せるかどうか。ただ、おれはあいつが翠玉の刀子(イサピア)を持っていたころ、山の雲行きや天気を見ればあいつがどんな心持ちでいるか察せられたものだ。そして、」ベレ・サオのほうに手を振って言った。「ここしばらく、()()はだいぶんやんちゃな気性をしているからな。レークシルのように淑やかでも陰気でもない。」

 霧は峰の間を通る風に払われ、ベレ・サオの厚い雲の下の静かな頬の線を見せた。

「長年()()()が大きな悪さをすることはなかった。あれは幼い者を使い手にする時にはその機嫌に振り回されるが。」

「しかし、あなたの見解を考え合わせると、神人(よりまし)の存在だけではベレ・イナが揺り起こされることはないと……。」

「そうだ。」ハルイーは山のほうに顎をしゃくった。

「あれは眠ってはいないし、時には動いている。」

「しかし、イサピアは―――」

「おれはレークシルから奪ったイサピアを“白糸束”の奥の滝壺に投げ込んだ。」

 ハルイーはきっぱりと言った。

「あれ以来“白糸束”には行っていない。洞窟の奥にも一度行ったきりだ。お前もあの中に入ったからにはわかるだろうが、暗がりで見えないが亀裂や穴、それが通った道がいくつもある。壁の中ではかしこに水の通う音が聞こえ、地中に川となって流れているものもある。奥の滝の水も絶えずどこかに流れ出している。ところで、巫女の住まいは岩窟の背後の山壁から流れてくるものもあるが、もっと多くの水が勢いを変えながらいつも周りの堀を満たしている。滝に繋がる水の出口があるのかも知れぬ。」

 ガラートは目を閉じて“白糸束”の荒れた森で見た少女の姿を思い出した。汚い大きすぎる服、痩せた体躯、伸び放題の乱れた髪の間に覗く、小さい血の気のない顔の中にきらりと大きな瞳が見返す―――。

「思い出すのもつらい。」

 ガラートは呟き、初めて少女とまみえた窟の闇の中に記憶を探った。突然の余所者の侵入に怯え、広い洞窟の隅へと身を潜める音。ごく軽い足音、衣擦れ、岩壁にぶつかる肉体、そして肉体と岩の間で鳴る微かな硬い石の反響―――。

「あの音は……いや、石などいくらもある。洞窟の足元にさえも」

 傍らでハルイーは皮肉に笑った。

()()だ。逃げるな、ガラート。二十年か、もっと短かったかは知らん。だが、時が経ち水の流れに少しずつ動いて幼い者の手に渡ったのだ。」

 それから同情するように言った。

「父のお前が先に知るのは悪くはない。しかし、本人にどれほどの事が分かろうか。」

「どうすればいい?」

 思わず口をついて出た言葉を恥じてガラートは両手の間に頭を埋めた。

 霧に包まれた山は鳥や風の音まで飲んでしんと静まり、よほど間を置いてベレ・サオのまさしく額のあたりに纏わる雲から遠雷の呻きを返した。

「何はさておき、雨に足を取られる前にニアキに戻った方が良い。」

 ハルイーは立ち、ガラートを促した。ベレ・イナの頸部を濃く覆った雲はベールの裂けめに一瞬西からの強い光線に崛起したこめかみの峰を見せ、その次に強い風に押し出されて懐の稜線に沿って渓谷の方角を白く塗りつぶした。低い樹林を分けて南へと進むふたりの行く手にも果てもなく霧が覆い、同じように見え続ける三尺先の下は奈落かもしれなかった。

 細く撓った根元のイスタナウトの木立ちが黄色く色づいた枝を頭上にさしかけはじめ、ほどなく身体に馴染んだ弾力のある地面が足の下に顕れた。ざっと耳を打つ雨音がふたりを捉えた。まばらな枝葉のもとに身を屈めると大粒の雨が肩と背に砕けた。しかし、たちまちにして肌へと突き抜けた水が衣服の背の温もりを奪う前に雨雲は通りすぎた。森を南西へと下ってゆくと樹間に霧は薄れてゆき、やがて露に濡れた草におおわれた広場の端に辿り着いた。

 ハルイーは村境で足をとめ、空を見やった。一里離れた長手尾根の方角は晴れている。

 ガラートはハルイーに倣って耳をすませた。尾根の上から微かに指笛の音が響いた。

「オクトゥルが帰ってきたようだ。お前に用があるらしいな。」

 集落に残るわずかな家から年取った男たちが出てきたのを見て、北の森の自分の家に帰ろうとしながらハルイーは言った。

「今晩もてなすのに肉がいるならおれのところに明け方獲ったのが少しある。あいつは女房にも会いに行きたいだろうしな。」


 オクトゥルは出迎えた男達に、ニアキの住民が受け取る物資を持たずに訪ねて来た訳を説明しなければならなかったが、年寄りたちはやがて自分たちのもとにいるアー・ガラートが配分の話をきちんとつけて来るのだということを承知すると、自分の家からあり合わせの酒や食べ物を持ち寄って一緒にガラートの家までやって来た。

 “絹の遣い”の帰りを出迎えてねぎらうのは(アー)の仕事、料理をするのはそろそろ帰って来る女達、薪を割って風呂を沸かす石を焼くのは男達と決まっていたものをよ―――。長いこと火の絶えていた村の共同の竈に火を起こし、行水の少しの湯を沸かし、羹を仕込んで、慌ただしく(アー)の家を出入りしている男達をオクトゥルは申し訳なさそうに追いかけて呼び止め、懐に少しばかり持っていた土産を配った。それはトゥルドがわずかな暇に鋼の端切れを鍛えて造った小さな環や目打ち、縫い針などだった。

 ささやかな酒宴から村の者たちが引き上げて行くと、オクトゥルはガラートにハルイーを呼んでもいいかと尋ねた。

「私たちの方から彼を訪ねた方がいいだろう。」

 ガラートはすぐに答え、ふたりは料理されたものをいくらか包み、酒をも土産に持って集落から離れたハルイーの家に訪ねて行った。

 ハルイーは炉に火を焚き、待ち受けていたように整った屋内にふたりを通した。オクトゥルは土産の中でもとっておきの蝋燭を取り出し、天井から釣った火皿に立てた。

「男やもめの所帯に贅沢なものを出すな。」ハルイーは素っ気なく言った。「女房の土産にしてやるといい。針仕事の助けになるからな」

 オクトゥルはにやりとしたが、ハルイーの向いに腰を下ろし、暮らし向きを気遣う言葉をひとつふたつかけると、左側に座ったガラートとハルイーを見比べながら、旅の首尾の仔細を話した。

「シギル王の意思は見事にあんたの言うところと一致していた。」

 オクトゥルは神妙に言った。

「自分の治世の続く限りはイナ・サラミアスとの交渉を続ける、と。だが、イナ・サラミアスをイーマの領土とは見なさない、とも言っていた―――これもあんたの言い方と同じだ、ガラート。ニアキの集会でヤールは正反対の解釈をした。イナ・サラミアスを河向こう(オド・タ・コタ)のどこの郷とも同じ、国だと言った。だが、トゥルカンは―――ガラート、あんたが予想したとおり―――国ではないと言う。おれにはトゥルカンがシギル王の言質を取り付けたように見えた。」

 ハルイーはちょっと笑ってガラートを見やり、ガラートは面を変えずに静かに聞いている。

「シギル王は義理堅いお人だよ。だけど真っ直ぐ過ぎて、領主のつまらない強欲や民の臆病さが分からない。弱い者がちょっとした風にもなびく事が許せないんだ。アツセワナの庶民は王の厳しさに恐れをなしているし、トゥルカンは黙っていても王への反感を煽ってくれる悪党を抱えている。アツセワナの衆のイーマを見る目は去年よりも冷たいよ―――おれにはちょっとこれが応えた―――ま、それは本題じゃない。シギル王とトゥルカンは仲違いしているどころじゃない、敵同士だ。おれはこの目で見て来た。今日明日でなくてもいつか戦うだろう。」

 オクトゥルは言い、杯をとってぐいと一口飲んだ。

「トゥルカンは、もう王の邪魔をしはじめている。おれ達が交換してもらった鋼を加工する小鍛冶に手を回して仕事が出来ないようにしていた。王は都から離れたトゥルド殿の鍛冶場を世話してくれた。おれとハマタフは夜中に案内されて鉄塊と一緒にそこに行ったんだ。おれ達はイズ・ウバールの鍛冶場で胸をなでおろしたよ。てっきりそのまま王宮に留まればトゥルカンの手下に拉致されたに違いない、と思っていたからな。」

 オクトゥルは首をふり頭をかいた。

「だけど、思い違いだった。ちっとも有難くはないが―――。」

「何が思い違いなんだ?」ガラートはわずかに面白がって言った。「お前は無事にここに帰って来て、しかも初手から狙われてもいなかったのなら有難がればいいだろう?」

「ガラート、ここに来たのはこれから伝えることのためだ。」オクトゥルは屹として言った。

「笑い話ですむならいくらでもあんたに笑ってもらうさ。」

 ガラートは促すように頷いた。

 オクトゥルは炉の中の燠に目を据え、口許を引き結んで、イズ・ウバールの青黒い針葉樹林の中の小さな鍛冶小屋でトゥルドと交わした言葉を思い返した。


 トゥルドは他の仕事を抱えてその仕事場に移ったのだったが、王の頼みとあって、イーマのための飛び入りの仕事を先にすることを引き受けてくれた。

 トゥルドは“絹の遣い”が人目を忍んで自分のもとへと案内されてきた訳を訪ねた。オクトゥルは“絹と鉄の交換”の時の王とトゥルカンのやり取りから、王宮の鍛冶場での加工が出来なかったこと、また、城内に滞在することを恐れねばならなかった理由として、王宮の庭園で偶然耳にしたトゥルカンとその家臣との会話を順を追って話した。

「トゥルカン殿は()()()の事を聞き出すために客をもてなす準備がある、と―――。」

 トゥルドは火床を熱するための火を熾しながら高らかに笑った。

「生憎、その言葉のように上品な意味には聞こえなかったもので」オクトゥルは口ごもりながら言った。

「無論、そうだろうとも。」

 丁度その前の晩にトゥルカンの配下の男達に襲われたところだったので、これもてっきり自分たちのことだと思ったのです、オクトゥルは弁明した。

「ふーん―――」

 トゥルドは僅かに首を傾げた。

「トゥルカンが“絹の遣い”を王宮でさらうような、たちまち発覚する、しかも利の薄いことはするまい―――?」

 トゥルカンが配下の者を市中のあらゆる職の場に抱えていること、それは実に驚くべきことだ。彼はいかに熱心に人を育てたことか。貧しい家の者、身寄りのない者の手に職を付けさせた。一方で仕事の斡旋にも熱心だ。アツセワナの請宿には配下の周旋人をたくさん置いている。もし、トゥルカンが彼らにそうと言い渡しておけば、イナ・サラミアスの者であれ、誰であれすぐに見つけ出して(あるじ)のもとへ連れて行くに違いない。

「イナ・サラミアスからアツセワナに集団で仕事を求めに向かった者たちがいるかね?そういう者たちこそはトゥルカンの狙い目だろうね。」

 トゥルドを手伝って鞴を押していたオクトゥルの手からすとんと把手が滑り落ちた。

 彼がアツセワナ指して発つ時、ヤールはタフマイの若いのを農事を学びに行かせると言っていた。そして、滞在が短かったとはいうものの、彼らの消息を一度も聞いてはいないのだ。

「もし、私の思ったような意味だとしたらトゥルカン殿は()()に何を訊き出そうというのでしょうか―――」

 トゥルドは赤めた鉄を軽やかに打ちながら即座に答えた。

「今も昔も変わらずトゥルカンがイナ・サラミアスに関心を持つ理由は、そこがチカ・ティドに匹敵する鉱山になりうるかどうか、大勢の人員を移民させるために土地の者と戦わなければならないとしたら、どれほどの準備が必要だろうかという事だけだよ。」

 それからごく気楽な口調で、シギルが若い頃に着手したコタ・サカの鉱山の運営がどれほどささやかな人数から始まり、二十年を経て大勢の人員を抱える村に成長したか、砂鉄の採掘から生成、加工、輸送に関わる者のそれぞれの暮らしぶりを話して聞かせた。

「もっとも、コタ・バールの規模はこの比ではないし、わけても金銀の鉱床は山の根深く潜らねばならぬ。私の考えるところ、トゥルカンがイナ・サラミアスに期待を寄せている鉱物は金銀だ。故に、君たちを追い使うだけでは足らぬ、大勢の手練れの鉱夫と熟練した技師をチカ・ティドから送り込もうとするだろう。多くの人間を移動させるには舟や馬、食糧や労務への報酬を準備するのに莫大な資力を要する。トゥルカンとて無駄な力は費やしたくない。―――もし、土地の者を詮議してでも訊き出そうとすることがあるならば、ひとつには金や銀の露頭を見た事があるかということ。もうひとつは首長の力と居場所、敢えて付け加えるなら巫女は今もいるかというところだな。」

 それで、誰のことを案じているのかね?とトゥルドは尋ね、オクトゥルは自分と同じ頃、アツセワナに向かった郷里の者たちがいるはずなのだと答えた。

 赤い髭を蓄えた口許が一瞬厳しく引き締まったが、穏やかに言葉を継いだ。

「その者たちが自分でも信じている通りに農事を学びに来たのだと言えば、たとえトゥルカンに捕まっても、あまり得るところは無しと見なされて放されるだろう。」

 それからトゥルドは諸国を巡って見聞した土の質や特産の作物、郷ごとに異なる農法について話して聞かせた。

 イナ・サラミアスで作物を育てようというなら気候の似ているオトワナコスで学び、かの地の種を譲り受けるべきだな―――。

 オクトゥルは悪夢を払うように手を振った。


 森林の松脂の匂いと厚く熱された鉄の匂いがもたらした冒険の昂ぶりはすっかり消え去っていた。帰って来た郷里には年老いた無垢な人々が穏やかに自分を迎えていた。

 オクトゥルは居住まいを正してガラートに向き直り、言った。

「アー・ガラート、頼む。明日おれと一緒にオルト谷の村に行ってくれ。」

 ガラートは若者を見返した。

「おれは、ヤールにあんたを連れて戻ると言った。もうひとりの長として民の大事はふたりで腹を割って話して欲しいんだ。冬の食糧、鉄の配分のことはもちろんだが、タフマイの長アー・ヤールを諫めてやってくれ。」

「諫める。私に何が言える」

「民に嘘をつくな、と諫めてやってくれ。」オクトゥルはガラートの鈍い面持ちに苛立ち、突然泣かんばかりの情けなさに襲われて言った。「ヤールは若い奴らに行き先を知らせず、何を学んで欲しいかも言わずにアツセワナに行かせた。農事を学ばせたいなどと言っていたが、ここで栽培できる作物が何かということにもてんで無関心だった。―――ヤールが知りたかったのはチカ・ティドの町の様子だったに違いない。彼が若い者たちを誰に任せたか心配なんだ。」

 ガラートは思わしげに目をそむけた。

「ヤールは私の言葉にも耳を貸すまい。」

「それなら、せめて一緒にきて、おれがここで話した事を嘘隠しだてなくその通りにヤールと皆の前で言うのを聞いていてくれよ。」オクトゥルは憤然と言った。

「おれは、ヤールに直ちに若いのを行かせた場所を明らかにするよう申し入れるつもりだ。」

「分かった、行こう。」

 ガラートは言い、ハルイーに振り返り、苦笑した。「私を説き伏せるのにわざわざあなたの家に連れて来ようとは……。」

「そういうものかもしれん。」ハルイーは片膝を手で叩きながら言った。「ひとりの時でさえ何かしら証人が欲しいのはな。」


 オクトゥルに案内されてニアキから下りて来たガラートを、ヤールは丁重に出迎え、まだ新しい木の香の漂う広い炉辺で幹部らを交えて交換品の配分と冬越しの相談をした。

 予め受け取っていた目録から、ヤールは新旧の村への配分を住民の頭数からごく公平に割り出して当てていた。また、老人の多いニアキへの輸送や住居の修繕の手助けの人員や日程をも示した。ガラートは感謝を持って提案を受け、仔細を検討した。

 下座で形式どおりの協議と決定が進むのを框に掛けて聞きながら待っていたオクトゥルは、ガラートに呼ばれ、主幹らが身体の向きを変えて開いた炉の正面に立った。

 ヤールは立てた膝に片膝をついた気楽な姿勢のまま振り返った。

「オクトゥル、待ちかねたぞ。旅の報告を聞かせてくれ。」

「前の広場まで出てきてくれ、(アー)大木(トゴ)達、それに主幹の衆。」

 オクトゥルは長の家の戸口を大きく開け放って外に出、広場の中心まで行って振り返り、声を張った。

「ニアキのように空の下で集会をしよう。ここからもべレ・イナの目は拝めないが、閉め切った家の中に隠れているよりはましだ。」

「ヤール、聞いてやってくれ。」

 ガラートは、訳問いたげに振り向く幹部らに目顔で頷き、ヤールに口調穏やかに言った。

「私は彼が仔細偽りなく述べるよう見張らなければならないからな。」

 そして先に膝を起し、ヤールを促して立った。

 ヤールは目を逸らした。「ヒルメイの君がタフマイの若輩の弁を補佐するのか。」

 外で普請をしていた者も、屋根葺きをしていた者も彼の声を聞きつけて様子を見に広場に集まり、僅かな女達でさえ、そっと家の陰から遠巻きに佇んでいた。

 オクトゥルはぐるりと周りを見回した。矩形の席の無い広場で皆は立って彼を取り巻いている。訝しげに隣と囁きかわす者の姿が見受けられ、それぞれは聞き取れるほどではないが、草むらのざわめきのように彼の声をその中に吸い取ってしまう。

 ちょうど連れだって出て来た長たちに衆目が集まり、ヤールがアツセワナから帰って来た遣いの報告を聞け、と人々に告げた。

 オクトゥルは少し見回して、寄せて置かれた石積みの上に乗り、皆より頭ひとつ抜きんでた高さを確保した。

「おれは“絹の遣い”としてハマタフと共にアツセワナに行き、シギル王の前で交換を果たして帰って来た。成果の品は舟からここに運び込まれたものを見て承知していただけたと思う。絹と鉄の値の比率は近年と同じに据え置かれている。が、この比率を維持するために、今年はより努力が必要だった。王にも我々にも。」

 皆の注意が自分に向かったのを確かめると、オクトゥルはコタ・シアナを渡ってから王宮を抜け出すまで道中で見聞きしたことを順を追って話した。

「なるほど、アツセワナとの付き合いには一層の注意と努力を要することは分かった。」

 ヤールは言った。

「我々のイナ・サラミアスの絹を王が特別に保護しようとした結果、不利益を被った者が少しばかり騒ぎを起こし、王と宰相トゥルカンの不仲が進んだ。王はこの鉄を我々にくれるために過分の苦心をしたのだ。だが、そこに方針を変えねばならないほどの要素はあるか?むしろ絹の価値だけを頼りにする危うさがはっきりし、他に民を養う手立てを用意することが肝心だと分かっただけではないのか?」

「そのことなんだ、ヤール。あんたはこの村の衆には田を拓き、穀物を作るために若い者(アート)らをアツセワナに遣わし、農事を学ばせるんだと言っただろう?」

 ヤールは一瞬睨みかけ、警告するように笑いを浮かべた。

「私は以前から鉱物の採掘をも含めて、将来の民の生業(なりわい)を考えている。派遣した者たちには何であれ辛抱して進んだ技を身に着けて来いと言って聞かせた。」

「だけど、彼らを行かせる時に言ったかい、」さすがにガラートにさえ言わなかった懸念を口にするのに一瞬オクトゥルはひるんだが言い切った。「もうひとつはるかに大きな河を渡ってイネ・ドルナイルに渡って鉱山を見て来る勇気はあるか、と。」

 たちまち皆はしんと静まった。ヤールは外衣の片裾を打ち振ってガラートを振り返った。

「予め相談ずみか!」

「いや、聞いてはいない。」ガラートはオクトゥルを向き戒めた。「疑いを事実のように話してはならない。懸念を心中に養っているうちに自ら騙されることがあるものだ。お前が心配する訳を見聞きした事実をあげて説明せよ。」

 オクトゥルは、白日のもとではまるで一夜の夢のように思える、旅の経過では話していなかった部分、トゥルカンとその部下との庭園でのやり取り、それを森の奥の鍛冶場でトゥルドに話した時の様子を、だいぶん話の道筋を削がれた格好で話した。

「思い付きも甚だしい」

 ヤールはゆっくりと笑みを浮かべた顔から抓りあげるように言った。

「察するところ、お前はトゥルカンの邸にただの訪問者のあることを早とちりして、他所の鍛冶屋に喋り、そこで鍛冶屋でさえ大丈夫と言ったものを、自分でもうひとめぐり臆病風を吹かせたのだ。」

 オクトゥルは長のあからさまな反駁と突然の侮辱に返す言葉を失い、茫然と相手を見返した。

「オクトゥルはアツセワナでは派遣された同輩たちに会えなかった故、心配しているのだ。」

 ガラートは前に出てふたりの間に入り、ヤールをとりなした。

「彼の懸念に答えてやってくれ。ここにいる家族の者たちも安心するだろう―――彼らを誰に委ねたか、その名を私も知りたい。」

 ガラートの言葉にざわめきかけていた広場は再び静まった。長らのほうに身を向け、頭をうなずかせる者もいる。輪の外で手仕事を下げたまま立ち尽くしている女達もいる。

 ヤールは腕を組み幹部ら一同を見回すと、声を張り上げてタフマイの主幹と若者達の案内を任せたアツセワナの商人の名を答えた。

「イドゲイ。アツセワナへの案内を頼んだのはイドゲイという者だ。長年、取り引きをしている男でタフマイに顔見知りの者は多い。アタワンを拠点のひとつにして常に手代を置いている。直ちに遣いをやって行き先を確かめさせよう。」

「アー・ヤール、息子らの行き先はいつ教えてもらえるんだ?」

 ひとりの男が尋ねた。その周りにいた数人も同意するように頷いた。オクトゥルが話をしている間に、息子をアツセワナに送り出した男達は目を交わして少しずつ互いに集まっていた。

「秋の感謝の共食と歌垣の宴までに。」

 ヤールは背をそびやかせて言った。

「宴は次の満月を見越している。そう長い期間ではない。その間に遣いは事実を確かめて十分行って帰って来られるだろう。行き先は明らかなのだからな。」

 男達が黙るのを見ると、ヤールはガラートに「一件が片付いて感謝の祭りの宴の晩まで我が家に滞在してくれ」と申し出た。そしてオクトゥルには一顧だにせず幹部らに手振りで付いて来るように合図し、くるりと踵を返すと屋敷へと戻って行った。

「おれの家で休んでいくか?」

 広場から引き上げて行く男達のひとりが親切げにオクトゥルに声を掛けた。

「やっと草鞋を脱ぐにも屋根も框もないところじゃな。」

 旅から旅へと追われていたためにオクトゥルの家は梁を上げたきり途中になっていた。

「框はあるが床は無し、垂木を抜けて天から地へと雨が通う。」

 オクトゥルは肩をすくめた。

「お前のところに泊まるって?仲睦まじいのを見せつけられてか?いや、それよりもおれはティスナに女房に会いに行ってくるよ。ちょうど訪ねたい用事もあるしな。」

 相手は顔を寄せ、真面目な顔で声を低めた。

「可哀相に、ここに呼んでやれば良かったんだよ。ティスナは友達もいなくて寂しいだろうに。息子もだよ。」

「来月には月が満ちる。無理をさせると早産になる。」オクトゥルはきりりと眦を決すると、ちょっと手を振って新しい路地の方へすたすたと歩きだした。

「行って戻ってくれば返事を聞くのに間に合うだろう?その間に(アー)と顔を合わせる面倒も無いしな。」


 翌日の昼過ぎにオクトゥルは“南の物見”を経てティスナに着いた。道の途中で冬越しの移動をする最後の女子どもの一団と出会い、彼らが語ったようにいっそう侘しげな様子になった湖畔の景色をすり鉢の縁から一望したオクトゥルは、心急きながら境界よりも思い切った中に入り、指笛で女房を呼ぶと、乾いた風のわたる村の口の道を見張った。

 女房は黄色から橙へとすっかり色づいた樺の林の向こうからゆっくりとやって来た。いつも何かしら籠に仕事道具を入れ、あるいは道々栃の実や椎の実を拾いながら来るのが常だったが、この日は何も待たず、少し反るようにして立ち止まりながら歩いて来た。

 オクトゥルは素早く周りを見回して駆けて行き、うっすらと道のついた村はずれの間際で女房の腕を捉まえた。

「とまれ、待て―――」

 古い木の根方が苔むして盛り上がった瘤になっているところに妻を導くと、外衣を脱いで広げその上に座らせた。

「ここは入れないところよ。」

「そんなどころじゃない、馬鹿。村まで帰るのに何かあったらどうするんだ―――腹が張るんだろう?」

 妻は後ろを振り返った。湖に近づくにつれて森が開け、集落の影が木立ちから透かし見えるティスナは背後の岩壁までのがらんとした道の辺に燦々と秋の陽が注いでいる。

 ティスナなんかこのまま廃れてしまえばいいんだ―――オクトゥルは腹立ちまぎれに呟いた―――ガラートでさえそう思っている、一体、誰がこんなしきたりに従って幸せだっていうんだ?媼たちだって不自由している。不自由している本人たちが、理不尽の上にせめてひっ被せておいた名誉の被衣を剥がされた哀れな自分を見たくないばっかりに意地を張っているんだ。

 女房は外衣にくるまれた下から手を伸ばしてオクトゥルの腕を叩き、その手をちょっと上げて目元を拭った。そして、何かあったの、と尋ねた。

「いや、いや」オクトゥルは首を振った。

「旅は順調だったし、姉さん(イナ)達の織った上等の絹は良い値で鉄と交換できた。」

「アー・ヤールと喧嘩したんじゃないの?」

 オクトゥルはむっつりと口を曲げた。

「喧嘩?おれは喧嘩なんかしないよ。ヤールともガラートとも。彼らがおれに半端に心配をかけてもそれはおれの問題で、彼らが何でもないと言えば問題じゃない。喧嘩っていうのは釣り合いのとれたことを言うんだからな―――」

「ちょっと黙って。」

 妻は鋭く囁いた。朗らかで無邪気な顔からいつもの笑いは消え、真面目な眼差しは虚空の中に胎内の闇を見張り、鼓動に耳をすましている。オクトゥルは両腕の中にふたつの命を抱えてじっとかがんでいた。乾いた涼しい風の吹く木の下で、外衣の内が温もり妻の身体から緊張が解けてゆくのを待った。やがて妻は顔を上げ、収まったわ、と囁いた。オクトゥルは大きく息を吐いた。ゆっくりと身を起こし、妻の真向かいの、色とりどりの枯葉の積もった草の上に腰を下ろした。

「それはそうと、倅はどうしている?来なかったのか、土産を持ってきたのに。」

「喧嘩になるようなものじゃないでしょうね?」

 それは把手の輪のところにきれいな彫りと彩色を施した、鈴のついたがらがらだった。得意げに取り出しておいて、オクトゥルは面倒そうに呟いた。あいつ、隠しておけるかな?いや、見せびらかした挙句取られるのが落ちだろうな。いっそ、鈴を切り離して()()どもにひとつずつ配るか―――へっ、そんなものもらって何が面白いんだ、せっかくこんな豪勢なものを。

 妻はわずかに首を動かして村のほうに目をやった。

「今は守娘(シシュナ)が見てくれてる。坊やもあの子によく懐いているわ。」

「じゃあ、良く面倒をみてくれているんだな。」

「さあ―――」妻は言葉を濁した。

「この間、おれが出かける前はいい子だって言っていなかったかい?」

「そうよ。だけど、私たちの誰もがティスナで育つように育った子じゃないわ。」

 夫の面持ちに賛成しかねる気色を見て取ると、妻はティスナの女達がシシュナと呼んでいる少女のことを話した。

 亡くなった先代の守女(シュムナ)ルメイが残していった後継の少女は、夏の兆した春の終わりにティスナの妊婦たちの呼びかけのヨーレを聞きつけて“白糸束”から下りて来た。

 首を傾げ、その時の事を詳細に思い出そうとしばし黙って考えてから、妻はゆっくり言葉を継いだ。

 歌の詞を何と言ったらいいのか分からなかったのよ。誰も産気づいたわけではなかったし。

   来よ 来よ 深山をくだり…… 

   赤子の生かんと来る道を……

 産婆を呼ぶ時の決まりの(ヨーレ)から“赤子”の詞を抜く者、抜かない者、道を“援けに”と言う者、言わない者。歌はばらばらになったけれど、とにかく皆は「来い」という言葉だけは、はっきりと強く歌ったの。

 だからまるで、皆でこれから生まれて来る赤子を呼び寄せる歌を歌ったみたいになったわ。その赤子というのは山のお腹から“白糸束”の参道を通ってティスナに生まれるというわけよ。おかしな歌だけど、皆それが面白くてお湯や産着や重湯をこしらえましょうか、なんて言いながら下りて来る娘のために準備をしたのよ。

 白糸束に女の子がひとりで住んでいるとは媼たちから聞いていた。水を呼ぶヨーレを歌えば田に張る水も下りて来た。誰もその子がいることを疑ってはいなかったが、果たして誘いに応じて下りて来るものか分からなかった。皆、仕事に戻って時折参道の方を気にしていた。手仕事をしながらもいい加減待ちくたびれた頃、子供たちが沢縁の林から、来た、来た、と騒ぎながら下りて来た。

 白い石で畳んだ参道を下りて来たのは子供の身体つきをしたお婆さんだった。

 オクトゥルの妻は、腰掛けている木にさえも聞かせまいとするかのように囁いた。

 私たちがその娘を村まで案内したのは、その子の目がやはり老人というよりは赤子に近かったからよ。

 こうして十二、三と見えるその少女に食事をさせ、きれいに洗ってやり、清潔な衣類を与えると、夕方には見違えるように元気になって山に帰って行った。こうして毎日日が高くなると娘はやって来て女達と食事を取り、その傍で仕事を少しして夜には“白糸束”に戻る。

 数日たつと、女達はシシュナの一風変わったところに気付きはじめた。少女は老ルメイその人のように本草、療治の知識に長けているが、一方、三つの子供よりももの知らずなところがある。暮らしに必要な衣食住の管理、整頓、修繕、またそれらの習得を容易にするために誰もが知っている作法、慣習、言葉を一切持たないのだった。「教えて」も「ありがとう」も知らなかった。ただ、女達は自分たちの傍に置いて暮らすうちにそういったものは追い追い身に付くだろうと考えた。

 シシュナは怠け者ではない。ふた月もすると骨と皮ばかりだった身体の肉付きも良くなったが、長年厳しく課されていた守女の務めから解放されたわけでは無く、ティスナの気難しい老女たちの要求に応じて産婆とも療治師ともなり、田畑の助言者として求められると同時に若い修行者として作業にも加わった。

 この無口な娘が強い興味を示したのは、草木虫から繊維と染料を取り、織り、染める技能であった。

 同じ年頃の娘たちは喜んでシシュナを迎え入れやり方を教えた。若い娘たちはふたり、三人と組になって製糸、染色、織りと技能を学ぶ。熱心で気の利く相方は歓迎される。痩せてだんまりな山の少女は仲間を得て少し慣れた様子になり、お喋りの輪に加わったり、自分からものを尋ねたりするようにもなった。

「困るのは」妻は少しためらいながら言った。「あの子には赤ん坊とそうでない者の区別がある他は何もないのよ。」

「それはなかなか思い切った分け方だが」オクトゥルはちょっと笑った。「我々の父祖が数だの勘定だのに汲々とする前はそんなものだったさ。何か不都合かね?」

「子供にしてはいけない話を女の子たちにするし、大人にはとても口に出せないようなことを尋ねるわ―――無理もないことだけれど。あの子は幼い子供であって産婆でもあるのだから。」

「なんだって―――そうなのか」

 誰もが物心つけば当たり前に見知る父の顔を母の顔を知らず、男があり女があることを知らず、やがて慕いあって夫婦となることを知らず―――。一も二も無いところに順番が逆さだ。

「そんなのは良くない」オクトゥルは憤然とした。

 しきたりを守って暮らしていたティスナの村はもうちゃんと暮らしが立っていない。営みが回るほど元気な者の人手が足りていないんだ。だが、どこにこんな暮らしを我慢する必要があるんだ―――その子には立派な実の父がいるというのに。

「どうだろう」唇をなめて、オクトゥルは訪れる度に繰り返す問いをした。

「どうだろう、お前のお産が無事に済んで、赤ん坊が旅に耐えられそうになったら、その子も一緒にオルト谷に下りて来たら……」

 妻が眉をよせて考え込むのを見て、オクトゥルは心配して言い添えた。

「すぐに答えなくてもいいさ。生まれてからでも。新しい村から誰かお前の友達を手伝いに行けないか頼んでみるよ。」

 妻は小さくうなずいたが、当てにしているふうではなかった。

「そうだ、お前にも土産がある。鏡だよ。」オクトゥルは懐の合せから大事に小さな飾り彫りの枠にはめ込んだ手鏡を取り出した。「皆にも、刺繍針に銅の釦。鏡はおまえがとっておいてくれよ、その彫り模様はおれが手本にしたいんだから。」

 オクトゥルは妻を村に返すのに誰か付き添いを頼もうと唇に指を当てかけ、そのまま目を丸くして、村の方から走って来る小さな息子を認めて立ち上がった。その後から、一つになる子を抱いたオクトゥルの妹が走ってくる。

 オクトゥルが子供を両脚の間につかまえてひょいと抱え上げた時に妹も傍に追いついた。妹は兄への挨拶もそこそこに義姉に言った。

「シシュナが坊やをほったらかしにして行ったわ。」妹は腹を立てながら言った。「もう少しで灰汁の甕に真っ逆さまに落ちるところだったわよ。」

 妻は胸に手を当てて息をついた。「上に戻ったの?」

「いいえ」妹は力を込めて言った。

「染め場の流しにいた。あの子の番じゃないのに。他人(ひと)の場所で、他人(ひと)の煮だした染料でね。誰のも黙って使うのよ、呆れたものだわ。」

「染めや織りのことになると夢中になるものだから……」妻はとりなそうとしかけて口許を震わせ、手をのばして息子の足をさすった。

「熱心というよりも気ままなのよ。」妹はとげとげしく言い、オクトゥルを見やった。「見てなさい、思い通りに染まらないと放り出して他の事をしだすから。」

「エマ坊、お前、染め場に近づいたのか?」オクトゥルは息子を捉まえたまま怖い顔をした。「染め場は泥沼と同じだ。甕に落ちると溺れて死んでしまうぞ、母さんの顔を見ろ、心配で真っ青だ。」

 女達ふたりは黙りこくった。オクトゥルはきまり悪く口ごもった。

 まじないにもなりゃしない。ただ、訓戒を垂れておれの体裁を取り繕ったに過ぎない。おれが帰った後も倅は好奇心いっぱいで怖いもの知らずだし、子守の手が増えるわけでもない。

「煩わせているようだな」妹のふくれっ面に恐れをなしながら、オクトゥルは言い添えた。

「そうですとも」

 いつの間にこいつはこんなに強気になったのかな。もう子供時分のように兄貴風を吹かすわけにもいかない、女は結婚すれば夫のものだからな。身重と年寄りしかいないティスナに人手を貸すために、頼む、妹を妻と一緒に留まらせてくれ、と、こいつの夫に頭を下げなくちゃならなかったんだ。

「子供に手がかかるのは仕様がないわ。年寄りがしまいには子供に戻るのも」

 抱いた赤ん坊を片腕であしらって抱えなおすと、妹はオクトゥルの息子の手に空いた右手を差し出して目配せした。息子は父親の首に両腕を回してかぶりを振った。妹は自分も首を振った。

「おかしな()()()()()()よりましだわ。」

「その子はそんなに面倒をかけているのか」

 妹はむっと口を結び、少し考えて言った。

「気味悪いくらい賢いわ。人の何回りもよく働くわ。―――馬鹿のように気が利かなくて、石ころか木切れのように鈍いのよ。あの子が傍にいると誰も油断ならないし、気が休まらない。」

「悪いことはしないわ。」女房が口を添えた。

「悪気なんか無いんですものね!」妹は同意した。「ただ、人の気持ちや都合のことがまるきり分からないだけで。」

 気を落ち着けると妹は兄の旅の様子を尋ねた。オクトゥルはアツセワナの旅の順調な部分だけを伝えた。王はティスナで織られた絹を褒め、高値で買い、その価値と栄誉が他の模倣品によって横取りされないように保護を約束した。相当な鉄と交換してくれたが、その大部分は食糧に変わったよ。新しい村ではまだ収穫はほとんど無いし、狩をする者は減ったので鏃は少なくなり、鋤や鎌などの農具が少し入った。

「ここで織った絹の代が向こうにいくのね。」

 ちょっと皮肉を言うのをオクトゥルは手を振って宥めた。 

 今年は土産に気の利いたものが色々と手に入った―――なんと、王女が手ずから選んだんだからな。

 オクトゥルは鏡を取り除けておくようにと妻に目配せした上で、土産を広げて見せた。

 妹は皆に先んじて選べる特権に気を良くしながら、丸い図案を明暗二色の絹糸で縫い取って切り抜いた布飾りを選んだ。

「上衣の胸につけて周りをかがるわ。」胸に当ててみ、続いて側頭の細い鉢巻きの上に当てた。

「感謝の宴と歌垣遊びに出られるのだったらここに飾るのに。良人の目から見たらいい位置だものね。」

「なんだい、瘤つきでまだ遊ぶのか」つい、オクトゥルは言った。

「何よ、出られないから言っているんじゃない。」たちまち妹は言い返した。

「わかったよ、わかった!」

 オクトゥルは這う這うの体で謝り、いつもの通り霜降の頃に感謝の宴を行うのだったら、ヤールが若者たちの安否を確かめ、村人たちに返事をするのに十日も猶予が無いな、と考えた。

 ガラートが仕来りを固持して禁じたのでなければ、おれはむしろここにいるんだがな。

「あんた、やっぱり、アー・ヤールとうまくいってないのね。」妻が心配そうに尋ねた。

「いいや。そんなことは無いさ。ただ、おれは今年の感謝の宴になど出なくてもちっとも構わんのにな、と思ったんだよ。お前もいないのに宴に出てもしようがないじゃないかい?だけど、おれはよんどころなく宴の日にはオルト谷の新しい村に戻っていなきゃならない。それも“はい”か“いいえ”かお伺いする相手が愛しい娘(レイナ)でなくて、男ときているんだからな。」

 息子が身をよじり、ばたばたと足を振って降りようとしたのでオクトゥルはそちらに振り返った。妹が素早くくるりと向き直り、呆れたように声をあげた。

「あの子よ。道のこちらに来てはいけないと言っておいたのに!」

 妹に見つかった人影は、色づいてまばらになったガマズミの藪の向こうでさっと樺の幹の後ろに身を隠した。長い編み下げがしなり、隠れた華奢な身体に弾いた。ほとんど周りの色と紛れてしまっている麻色の上衣と白茶の地色に蘇芳の細い縞の入ったスカートの端が幹の陰から覗き、ほとんどおおっぴらに揺れ動いた。続いて赤黒い小さな痩せた顔と肩とが突き出てこちらを見、のろのろとまた幹に置いた両手の向こうに引っ込んだ。

 痩せている。―――オクトゥルは心ならずも己の顔がこわばり、目が見開くのを感じた―――よくも、元気に動いていられるものだ。

 弓なりのくっきりとした眉の下の大きな瞳が、あからさまな興味を示してこちらを見た。

「坊やをちゃんと見ていなかったね。」妹は厳しく言った。

「染め場にお戻り。片付けもまだなんだろう、後でイネたちが使えるようにきれいにしておくのよ。早くお行き!坊やは私がみるから。」

 娘はすっかり木陰から出てきた。重ねて急かすとくるりと踵を返して村のほうへ一散に駆けていった。思いがけぬ俊足だったが、その姿はあたかも巻物に細枝が生えたようだ。

 あれが、そうか。

 あっという間に遠くなった後ろ姿を見ながら、オクトゥルはほんの一瞬見た顔を思い返そうとした。

 痩せているし、暗いので顔色もよく分からなかったな。案外色白なのかもしれない。誰に似ていると言えるほどはっきり見えたわけではないが……。あの目つきの不躾なことはどうだ?こちらの方が初心の娘っ子みたいだ。

「きっとさっきから立ち聞きしていたわよ。」

 妹はじろりと兄に目をくれた。

「あの子は、誰なの?兄さん、知っているんじゃなくて?」

 妻と妹が口外しないと誓ったとしてもおれが言っていいことじゃない。そうだ、おれだって憶測しているに過ぎないんだ。ガラートがはっきりそうと言ったわけではないのだし。

「知らん。」オクトゥルは押し返すように答えた。

「だが、世話をしてやってくれ、気の毒な子だろう?―――おれだって門の守女(シュムナ・タキリ)なんてやめちまえ、って思うけどな。」

 後の方は口の中で呟いた。 


 オクトゥルが旅の報告を終えた翌日、ヤールはイドゲイというアツセワナの商人のもとにハマタフを遣いに出し、預けた若者たちの消息を問い合わせた。

 ハマタフは数日のうちに戻って来た。折しもアツセワナでは収穫祭の行われた直後で、二年越しの競争となった“秤の審査”が行われた頃だった。ハマタフは使いを果たしたついでに新しい報せも仕込んで、意気揚々とクシガヤの小舟に揺られて新しい舟着き場に降り立った。

「皆のいるところがわかりましたよ。」

 舟着き場から村までの道々に、仕入れて来た話の面白い方の半分を友達にしてやり、ハマタフは村に入ると襟を正して長の屋敷に行き、ヤールとガラートに商人からの手紙を渡した。

「彼らはタキリ・カミョから城内に入り、ちゃんと行き先を世話されています。周旋人はウージフという男で、紹介した先はいずれもアツセワナの名家ですよ。」

 ヤールは手紙に添えられた覚書をガラートに渡した。「コセーナの子息の名がある。」

 若者たちはそれぞれの領内に分宿し、働きながら学んでいるのだということだった。

「私は屋敷を訪ねてみましたし、何人かには会ってきました。少し痩せてはいましたが、元気でした。今年は帰ることができないが皆に宜しく、とも」

「イビス、コセーナ、カヤ・ローキ。これらはそれなりに地所が離れているはずだが?」

 ガラートは尋ねた。

「コセーナはコタ・レイナにあり、カヤ・ローキはアツセワナでも古くからある土地に昔から屋敷を構え、イビスはアツセワナの丘とは別の北の丘陵に屋敷がある。コタ・レイナはむしろ旅の途上に通る。オクトゥルとも行ったはずだ。これらを順に回れば十日以内には収まるまい。」

 エファレイナズの主だった家の所領に不案内なハマタフは当惑したように見返したが、記憶を辿りながらゆっくりと答えた。

「ウージフは私に馬方を世話してくれ、本人が案内してくれました。先方の主に使いを出して用向きを伝えるのに一日待ちましたが、次の一日で三つがとも周れましたよ。どれも主水路(アックシノン)の上流でクノン・エファとクノン・エファコスの間にあります。」

「領主の館からは離れている。」ガラートは腕を組んだ。

「子弟の所領はまた別なのだろう。」ヤールが口を挟んだ。

「私もそう詳しいわけでは無い、ただ昔、人づてに聞いたことを記憶しているだけだが―――その界隈は王家の家老か、古くからの重臣が封土を持っていたところではなかったか。」

 ハマタフはやっと腑に落ちたというようにほっとして言った。

「それぞれは前の年から新しく売りに出されていた土地です。ウージフの話では、旧家の主らが老いて持ちあぐねていた飛び地の地所をまとめて買い付けてあったのを新しい主に振り当てたそうで、そして彼らの耕地はまだ主のいないわずかな野をはさんでほぼ隣り合っているのです。」

 ガラートはヤールに振り向いた。

「いずれ、それぞれの領主に書状を出し、懇ろに頼んで状況を確認してもらうと良いだろう。」

「私に任せると言ったはずだ。」ヤールは気短に呟き、ガラートの前の書状を指差した。「人数も確かだ。」

 ハマタフはふたりを見比べた。

「請宿で待っていた間に台帳の名も見ました。皆が名をきちんと書いていたわけではありませんが」

「会えたのだな?」

「はい」

「達者なのだな?」

 ハマタフは頷いた。

「ご苦労だった。」ヤールは手短に言い、行けという合図に手を振った。

「明晩には宴を催す。皆にもそう伝えて準備をさせよう。トゴに言って若い者の親たちに来るように知らせてくれ。私から直に話す。」

 ハマタフは役目からひとまず解放されて長の屋敷を出たところ、戸口の角に杖代わりの枝切れに両手を重ねて佇んでいるオクトゥルに会った。ほとんど“絹の遣い”から戻ったままの旅装で外衣も皺み、髪は乱れ日焼けと埃と汗にまみれていた。オクトゥルは顔を上げ、目を丸くして見せた。

「よう、よう、間に合うように戻って来られたようじゃないか。えらく早いな!一度従者を務めて正式な遣いとはこれまた早い出世だよ。」

「アー・ガラートから見れば、合格点の遣いじゃなかったみたいだ。」ハマタフはちょっと頭を掻いた。

「後で色々と聞かれましたよ。こちらも準備不足だったらしい。だが、あの石と狡そうな()のひしめいている森のなかで迷わずにいるだけで大変だ。殊にこの前とは違う門だったし。」

「報告は済んで解放してもらえたんだな。」

「はい、アー・ヤールには。」

「良かったな。」オクトゥルは親しげに若者の背を叩いた。「何しろお前、今年の歌垣ではひとりつかまえなくちゃ。」

 首をすくめて逃げ出そうとして、ハマタフは朗らかに振り返った。

「そうだ、アツセワナでずっと噂になっている王女の婿の話ですが」

 オクトゥルは面倒そうに振り返った。ハマタフはさっきはたっぷり聞き手を沸かせた二年がかりの“秤の富くらべ”の様子と勝敗の顛末を、無愛想な相槌に勢いを削がれながら聞かせた。

「そうかい、まだ決まらないのかい。」

 オクトゥルは手を振った。

「さて、おれは親父たちと一緒にヤールの口から聞くことにするよ。こちらが啖呵を切ったんだから相手の答えをしかと聞かなくてはな。」

 息子たちの行く先と様子を尋ねにやって来た年取った男達の後に続いてオクトゥルは屋敷に入り、ヤールの返事を聞いた。然るべき領主のもとで修業をしているという報せに大方の者は安心して帰って行った。オクトゥルは、彼らの帰り際に、皆が安心した分だけ心配させられたことの当て擦りを言われたが、自分の思い違いなら皆の責めもむしろ自分の気分を軽くするだろうという期待もいっかな心を晴らさなかった。

「いつでもここに証拠がある。主の名も分かっている。」

 ヤールは言った。

「お前が確かめに行くのは構わん。自分の意思でも、また、他の長の命なり、老人の頼みなりな。」

 オクトゥルをそこに置いて、ちょうど集まって来たトゴらとヤールは感謝の共食の準備の相談を始めた。

 祭壇の設え、かがり火の準備、供物の獲物の捕獲、処理などの役をはじめ、民人のもてなしのための沐浴の湯沸かし、憩いの場の整備、食べ物の調理の指揮などの役が、老若を問わず優れた者への誉の意を含んで割り振られる。それは寄合の発言力、狩の腕や樵仕事を認められていると同じだ。

 オクトゥルは自分がどの役からも外され、女か年端のいかない少年と同じ扱いにされたことを知った。

「長旅帰りだからな。ひとつ風呂を使って、小ぎれいになって客になっているといい。」

 ねぎらうように言うヤールの口ぶりから、オクトゥルはもう、自分には狩であれ商売であれ人と組んでする仕事は回ってこまい、と覚悟した。


 夏の間に女神により与えられた恵は、念入りな下処理と加工を得て保存され、冬から春にかけての貴重な食糧や生活の資材となる。

 村の位置は変わっても例年の通り、霜降の頃を目安に冬支度は進められていた。保存用の食料の加工や住居の補修が行われる傍ら、ヤールが宣言した通り、秋の感謝の宴は満月となる翌日に行われることとなった。

 その日には朝早くから各役目を言い遣った者が、数名の手伝いを得て祭礼の準備に取り掛かった。夜が明けるよりも早く、狩の役の者は供物に捧げる羚羊あるいは鹿を求めて出かけた。また、ほぼ同じ頃から沐浴役は、少年たちや老人をも動員した焚き木係を森に遣り、浴場に定めた沢の近くでは浴槽の水を温めるための石を焼く火を焚かせた。

 日が昇り村が陽射しに包まれはじめる頃、(アー)ヤールに指名された大木(トゴ)らによって広場の北の一画に祭壇が築かれた。備えた獣の脂や穀物の穂を祭礼の後にそのまま焼き、共食から余興まで夜通し篝火として燃し続けるために、壇は薪で枠どった中に粗朶を積み上げる。別に中央に設けられた集会のための篝火台とは聖別するために、祭壇の四隅には慣例に従ってイスタナウトの幼木が、根に土をつけたまま埋め込まれた。

 正午をまわってくると、広場には篝火台に対して集会の腰掛けの丸太が矩形にならび、その他にもこの日ばかりは男女を問わず大勢の者が座れるように共食のための腰掛けが、丸太や刈って束ねた葉の密に繁った杉や檜の束などが用意された。

 この頃になると調理場に女達が入り、運び込まれた焚き木や饗宴のための獲物を巡って、調達してきた男達との間で軽く難癖が飛びかう。

 こんな湿った焚き木はいらないよ

 湿っているのはお前さんのしかめ面さ くべればからっといい音がする

 節だらけの穴だらけ 爆ぜる音だけかしましい

 空っぽ頭の吹く法螺のよう

 それは夜に行われる若者と娘たちの歌垣の初心な緊張を解きほぐすような、年のいった者が気楽に見本を示す前哨戦のようなものだ。

 そのうち夕刻が近づくと、この日の作業の切り上げが言い渡され、冬支度の支度をしていた最後の者たちも片付け、一旦引き上げる。人々が向かうのは沐浴と着換えであった。

 さっぱりとして晴着で着飾った人々は、谷あいゆえに早い入日と霧のかかっているため煙った肉色の空のもとに広場に集まった。

 自身の屋敷から出て来たアー・ヤールは既に人々が待ちもうけている広場に進み、設えた祭壇に向かうと、今は亡き長たちが宣したと同じように北の方角にあるベレ・サオの峰に礼をし、恵みに感謝を述べ肉と穀物をとりわけ、祭壇に火をつけた。

 供物を下げた食材は調理場へ運ばれ、すぐに予め料理してあった肉や特別な数種類の餅や菓子、粥に調理された穀物、酒が広場に持ち出され、老いも若きも同様に腰を下ろし、飲み食いした。

 共食の宴が終わると、男達はすっかり暗くなった鈍い曇り空の下で集会の篝火を焚いて一年の経過を振り返り、冬の仕事の見通しを簡単に話し合った。

 女達は片づけをしつつ、調理場のもうひとつの炉の煌々とした熾火の残照を囲みながら、世話ばなしに興じていた。

 亡くなったアー・サタフの縁者の息子たちも立派になった。去年、一斉に片付いたからね。もう独り者は?ウラオクの息子たちに、アーの息子たち。もうそんな年頃だったかしらね。

 女達は、少し離れて働いたり立ち話をしている娘たちを見回した。

 ウナシュの村からもだいぶん来ている。見た事がない娘もいるわ。

「さっき、供物の下がりの肉が少し失せてね。」料理の監督をしている女が声を潜めた。

 行儀の悪い娘もいるという話だからね。

 しかし、もう同じ一族の中では連れ合いは見つからないのだ、とある女は言い、どの娘がウナシュの血を引いているか、タフマイとクシュの血かと言い、しかし良い娘だと言い添えた。

「ヒルメイの亡くなったアーのふたりの息子たちは?」

 女達は顔を見合わせ首を振った。ヒルメイの年頃の娘はもういない。少しいた子も去年タフマイに嫁いだよ。それに当人たちにその気は無いようだからね。宴にも来ていないだろう?

「それじゃ、ウラオクの息子のハマタフが歌垣の一番の古株だね。」

「今晩決まるかしら」

 女房達のほうへちょっと頷きかけると、調理場を手伝っていた娘たちはひとり、またひとりと明かりの外へ抜けて行った。

 若い男女の縁を結ぶ歌垣の遊びもまた、女神の嘉する行いであった。若い娘たちは装いに最後の花を添えるべく、三々五々と連れだって待ち合わせに友達と取り決めた家へと一旦引き揚げていった。

 男達の集会が終わるのを、娘たちは広場のはずれの家々の間の小路に固まって待っていた。佇む姿の裾が揺らぎ、髪や肩に飾った金糸をあしらった縫取り飾りが遠い火影をうけてちらちらと光り、その影に隠れた眼差しを代弁するかのようであった。

 ヤールとトゴ達は、集会の席から若者たちがそれぞれ一定の間をおいては遠慮がちに肩越しに広場の一画を見やるのを、口辺に笑みを浮かべ、気付かぬふりをしながら翌年の仕事の配分を検討していた。待たせに待たせた会の終わりの宣言をしようと終にヤールが手を上げかけた、が、(アー)ヤールはふいとその手を握って引っ込め、大声で言った。

「この新しい郷はこれからますます大きくなり豊かになる。若い者は元気に働きどんどん子をなさねば。いつまでもひとりでいる恥ずかしい者は今宵を機に身を固めろ。先に門出を祝ってやろう。酒を持て。」

 若者たちの中から正直な落胆の吐息が漏れた。

「酒などいりません。」少し大胆にハマタフは答えた。「酒ならアツセワナで水のように飲みました。渇いて頭が朦朧とするばかり……。それでは伴侶を選ぶ分別も失せてしまう。このまま私たちを集会から放免してください。古どおりに、樹木に囲われた場所に行って自由に遊びたいと皆で言っていたのです。」

「生意気な奴め。昔どおりだと?」からかうように装いながら内心機嫌を損ね、ヤールは声を険しくいした。

「新しく民のために広い場所をとった。そこで遊ぶがいいだろう。」

 若者たちは首を横に振った。広場の暗い隅から娘たちの一群も無言のまま、少し、また少しと懇願するようににじり寄り、横に広がり、しかし決して宴の終わった、杉の葉の踏み散らかされた地面には入って来なかった。

「好きにしろ。」ヤールは手を振った。

 若者と娘の群れの間に、素早く柔らかい歓声が上がった。彼らはまだ慎ましく男女の群れに分かれたまま、歌垣をする場をどこにしようかと相談しながら、家々の間の小路に消えて行った。 

 集会の間に霧は治まり、空高く昇った月は研ぎ出された刃のように明るく照っていた。

 

 その晩、明るいうちに沢の脇で温かい湯を使い旅の汚れと疲れを流したオクトゥルは、妻が織った一張羅に身を包む気にもなれず、古い外衣をまた纏い、共食の終わった広場を出た。湯を使った沢の脇には、掘った穴の底にうずくまる石がまだ熱気を抱えて灰の中に色めいていた。堰を外して通わせたせせらぎの中に足掛かりにひとつ石を置き、オクトゥルは沢を越え、森の木々の下に入った。そこでひとつ深呼吸をすると、にわかに懐かしい山肌に全身で取り付きたい衝動に駆られて、無鉄砲に夜闇と藪に包まれた険しい山腹を北東に直角に登った。

 沢を谷の底にした見晴らしの小高い良い峠に足を止めると、ようよう晴れてきた霧の間から新しい村と田畑が見晴らせる。下から響く声はまるで隣り合わせのように響き、ヤールの声高な宣言、指図が言葉そのままに聞き取れた。

 オクトゥルは腰を下ろそうと外衣の裾を手で払って整え、その時に少し上から誰かが自分の名を呼ぶのを聞いた。声の主が誰か気付いたのでオクトゥルは振り返り、同伴の許しを請うた。

 ガラートは特に気兼ねすることもなく、ヤールに勧められて留まっていたのだが、新しい村での祭礼は自分には馴染まず、所在なく宴から抜け出して来たのだ、と穏やかな口調で打ち明けた。

「おれもだ。」オクトゥルは呟いた。「まるでおふくろが留守の家でおふくろの長寿祝いの酒盛りをやっているみたいだよ。」

 ガラートは肩越しに後ろをそっと見やり、静かに語り始めた。

 この谷間は姉神(べレ・イナ)のただむきの陰に入り、今宵ベレ・サオがどんな貌をしているのか見えない。

 ベレ・サオの眼下に見守られていたニアキでは、日々の女神への礼拝はその貌が拝める故に、誰からともなく途切れも無く朝に晩になされていたが、オルト谷では少しずつ皆が忘れてしまったようだ。

「そのように祭礼の手順、おのおのの行いの場の位置も違えてしまっている。」

 ニアキは女神の懐であるが、その中でも何処で何をどんな順でなすかは厳密に決められている。神聖な行いほど女神の目の方角に近い方で行われるのだ。()()も不浄なもの、煩わしいものは遠ざけられる。

 冬支度は女神も喜ぶところであるが、作業は女神の御霊を招こうという時にはすっかり場から片付けねばならぬ。またその場所は女神に対し集落の前でもよいが、通常の集会の場より低くなくてはならない。

 さて、いざ祭りの場を設える段では、祭壇を築き供物を捧げる場は、女神に向かっては集落よりも前であり共食の場はその正後である。共食の後の集会は、濁った煙を避けて場を祭壇より前に取り、新たに清らかな火を焚いてベレ・サオの眼前で行う。集会の後、歌垣の遊びはより女神の近くでもよい。

 祭礼に望んで人々は身体の不浄を落とすために沐浴をするが、言うまでもなく浴場は全ての場よりも下に遠ざけて設けるべきだ。

 ガラートはベレ・サオから見たニアキの村でのそれぞれの場の位置を手振りで説明し、オクトゥルは新しい村での広場と祭壇、調理場の配置を思い起こし、唸った。

「おれはよりによって、女神に対して何よりも真ん前に据えられた桶で一番風呂を使ったわけだ。―――いいじゃないか。どのみち全部、ニアキよりは下だ。」

 事後に間違いを知らされて赤面しているのがおれひとりなのは不公平だが、だからといって仕方がない。ここに移って来た大半の者は女神などいないと言った者たちだし、祭りの作法を違えたって痛くもかゆくも無かろう、そうして来年もその先もこのまま行くのだろう……。祭りなどは変わってゆく事どものうちのほんの小さなことだ。

「そうだな。」ガラートは額に手をやってそのまま膝に両肘を下ろした。

()()()()娘さんの事だが」

 オクトゥルはガラートの様子を見ながら切り出した。ガラートは面を伏せたまま黙って聞いている。

「おれは、あんたが名乗りをあげて手元に引き取るのが一番だと思う。そうでなければ、身重でない、元気な女に預けて育ててもらうんだ。あの子自身がまだ小さいんだからな。」

「小さい?」ガラートは目をもたげて訊き返した。

 オクトゥルは口ごもった。「たしかまだ、十二、三だろう?」そして腹を立てて付け足した。「どこにそんな小娘のうちから赤ん坊を取り上げる者がいるんだ?」

 ガラートは両手の上に顔を伏せた。暫時そうして考えるのも疲れ果てたようにうつ伏し、それから、オクトゥルがまだ何か言う前に外衣を払って立ち上がった。

「ガラート」当惑しながらオクトゥルは気遣って言った。「待ってくれよ、足元が良くない。下は谷だよ。登ってくる時にそこの下がえぐれていたんだ。」

「月が出てきた。足元ならよく見える。」

 思いの他陽気な声音でガラートは返した。

「ほら、村から大勢出て来たぞ。若い者たちだな―――歌垣をするのに木に囲まれた開けた場所を探している。新しい広場を用意したのにと窮屈な縁組を強いようとする大人たちの理屈に説き伏せられもせず、生来の獣のように心地よい遊びの場を探しているのだな。」

 ガラートはオクトゥルを手招いた。

「若者たちの(つまどい)は神聖だ。どれ、彼らに上を譲ってやろう。」


 雲を抜け南に高く昇り一段と冴えて来た月の光のもと、焚火で煙った広場と集落を抜け出して若者と娘の群れは北東の小高い山腹に向かった。それぞれに間をとりながら、若者たちは娘たちは、静かに高揚しさざめいて歩いた。村の上に少し切り開かれた田に稲穂の代わりに茂った草を分けながら、田に水を振り分けて寄越すはずの沢、沐浴の湯を沸かした沢へと上って来、渡渉するとその向こうにしんと広がる森の中に開けた場を探し求めた。

 木の小さなニアキと比べ、オルト谷のイスタナウトの木は太く高く、真っ直ぐで森の懐は深かった。娘たちの間には恐れと興奮の混じった声が漏れた。昼間の陽射しと夜の冷たい風でからからに乾き、葉を落とし始めた灌木の藪を分けて奥へ進むと、すらりとした若木の群れが立ち並び、その向こうに幹がひとかかえもある古木が四、五本、柔らかい幼木と朽葉、苔に覆われた広い地面を囲んでいた。

「ここにしよう」

 若者たちを先導してきたハマタフは、娘たちの方に尋ねるように言った。娘たちは空を見上げ、月の光が梢の隙間から下りるのを見て頷いた。

「そうしよう」先導の年かさの娘が言い、ちょっと笑った。思いもかけず歌垣の作法に適った初手の掛け合いで始まったからだった。

 若者たちと娘たちは、やって来た時のまま、それぞれの固まりに分かれて無言で空き地の中に入ってゆき、空の月を真ん中にして向かいあった。

 若者達の中で“詠みかけ”を務めるハマタフは、周りで静まってゆく足音の度合いを測りながら歌垣の前置きとなる言葉を詠唱した。


   かれは誰の姿か?愛しい乙女の樹の下に現るは  

   夜目をくらませ 水凍り霧が成す形か?


 娘たちの固まって佇む中から梢のさざめきのように笑いが漏れた。


   いいえ、いいえ!


 若者たちは一斉に問いかけ、娘たちは一斉に答えた。


   いるのか?

   いる!

   聞こえるか?

   聞こえる!

 

 両者の間で一くさり問答がされると、今度は娘たちの“詠みかけ”が同じように詠唱した。


   かれは誰の声?愛しい若人の樹の下に呼ばわるは

   風が耳を欺き 実のない言の葉を鳴らすのかしら


 性急な声が節回しを先に飛び越えて怒鳴るように答えた。

   

   いいや! いいや!

 

 娘たちは笑いながらかぶりを振り、手を振って正しい節を教えながら、若者たちがしたと同じように一斉に問いかけ、今度は若者たちの方が応えた。問答は少しずつ言葉を変えて交互に繰り返される。節回しが揃い、合いの手が素早く入るようになると、誰からともなく「月を見よ!」と声がかかった。

 “月の尽くし”が男女の間で交わされる。片方が疑念を提示すれば、片方が安堵で返し、月の二面の性を言いつくす。

「見守りの月」と男が言えば、「雲隠れの月」と女が返す。

「誠実の月」、「面変えの月」。「(まどか)の月」、「身欠けの月」……。

 そぞろ歩きながら、やがて男女はそれぞれに向かい合う一列の輪を作った。輪が出来るや否や、男の中で最も素早いものが言った。

「結びの夜をあかす月に懸けて」 

 すぐにひとりの娘が応えた。

「今宵一期の伴侶(つま)を得ん」

 男女それぞれの輪は、先に宣言した者を先頭に回し、歌で問答を始めた。

 決められたおよその旋律を守って交互する歌の問答は、一方がつまづけば右に流れて抜け、相手は新たに回ってきた者と問答を続ける。敗者は歌の輪の下手にもう一組輪を作り、新たに歌垣を続ける。先頭がひとり勝ちを続ける輪では、後続の者たちは相方の意中の者が脱落するのを見れば無言で自分の輪を下りて下の輪に加わった。こうして三、四対の中で問答は続いた。

 歌問答の中で手ごたえを感じ始めると、大抵は男の方から婚姻の日と“結びの樹”について切り出す。度胸のある者は否か応かの返答をそのまま歌にして返し、はにかみ屋は「雲の過ぎるまで」と保留の詞をかけて輪を抜け、分かれた木陰でゆっくり考える。


 谷沿いから森の縁をまわって下りて来た大人ふたりは、歌垣の賑わいは漂ってくるが若い者たちのぎこちない懸命な囀りをうっかり拾い上げずに済む、少し離れた若木の林の傍に来て足を止めた。沢を渡って新しいイーマの領域に戻るよりも、宴が果てるまでべレ・イナとイスタナウトの森に守られた若者たちの遊びの場の側にもう少し留まっていたかったのだ。

「ハマタフの奴、決めたかな。」

 オクトゥルはまばらな灌木の枝を分けた分けた下の地面に滑らかな苔を探り当ててそこに腰を下ろし、呟いた。

「今年は夏から娘たちも戻って来ている。皆早くから目星をつけているだろうに、良い時季に他所に連れて行っていたからな、おれは……。」

 丁々発止の鋭い掛け合いのある一方で、今年を諦めた者、緊張の緩んだ者たちの輪からはお喋りや単純な古謡の合唱も湧き上がってきている。

 オクトゥルは若木にもたれてさざめきに耳を傾け、追憶に浸った。

「おれは早くから女房(あれ)と決めていた。おれはお喋りだがあれは恥ずかしがり屋でだんまり。歌となると花も葉もない棒杭のようになっていた。おれはわざと負けて脱落し、一番尻尾の輪まで下がって行った。そこで意外に苦戦したんだ。周りの男達は皆うすのろで、()()ともそこそこに掛け合いになっちまう。仕様がないから、水引草を束にしてあいつの胸元に投げたんだ。いい調子でとろとろ続いていたふたりは何だろう、って顔で歌を止めた。赤い糸の花みたいのが白い襟飾りにとまって、()()はきょとんとしていた。それでおれはつかつかとあれに寄って行き、手招きして輪を抜けたんだ。ちょっと相談、ってな。」

「私は相手をただ褒めた。」

 少し離れて佇んでいるガラートの声が低く夢見るように言った。

「名を挙げず、ただその佇まいを歌った。後続の列にいて意中の人は私を察し、なお楚々たる中にも艶やかになり、紅潮が兆し、遠くから眼差しで応えた。」

 オクトゥルは振り返った。その声から微笑の気配を聞き取れたが、その姿は彼方を眺めていた。

「私に相対する娘たちは、己のことではないと悟ると順に次の輪へと離れて行った。」

「あんたは酷い。」オクトゥルは呆れて非難した。

「反則だ。あんたの方が黙って負けるべきなのに、先頭を譲らずに何の失敗もない相手を下がらせ続けるなんて。」

「いや」ガラートは穏やかな調子できっぱりと言った。「相手が追い付き、正しい位置で結婚を申し込むまで先頭を守るのが正しい作法だ。」

 オクトゥルは鼻を鳴らし、腕を組んだ。相手は言い添えた。

「歌垣の作法も世につれだな。」

 長い掛け合いが続いたために歌声は細く枯れがちになり、対して周辺での気楽なざわめきが増え、歌の輪は終わりを迎えつつあるようだった。

「奴さんまだ頑張っているな」声の主に注意をむけていたオクトゥルは驚いて言った。「可哀相に、今年も決まらなかったらおれのせいだ。」

 掛けの旋律の出だしと高音の峰に差し掛かるたびに力み込む若い男の声がただひとつ、形式どおりの旋律を守っていた。受けの旋律にあたるものは聞こえて来ず、離れて耳をそばだてるふたりの男には若者がコオロギの音を相手にひとり歌うかと思えた。しかし、その虫の音は単独の長い旋律を歌っており、その節回しは独特で旋律は形式を持たなかった。

 若者に相対する声は細く引き伸ばされた綿のように儚く、極めて小さいが錆びた刃のように硬い響きを持ち、また異様に幼く少年のようだった。

「相手の声が先ほどから変わっていない」指摘するガラートの声は悲しげだった。

「私はもうニアキに帰っているはずだった。ヤールが引きとめたからと言って、お前からティスナに居る子の消息を聞けるからと言って、それらは留まる大した理由にはならない。ここでの宴を見れば不愉快になることが分かっていたからだ。それなのにぐずぐずと留まってしまった。今、私の心はそのことを言い訳しようとするが―――これを予期していたわけではないのだ。そして確かめるわけにもいかないのに―――歌い手が誰なのかを」

「どうしたんだ?」オクトゥルはびっくりして言い、空を見上げた。

「ガラート、あんたの言ってる事はちっともわからないし、あれに気付いて誰も嬉しがりはしないだろうけど―――心配いらないよ。例えあんたが自制心を無くして若いのの歌垣の様子を覗きたくなっても、見えやしないんだから!雲がかかったと思ったがそうじゃない、月蝕がはじまったよ!」

 空に磨き抜かれた鏡のように上っていた月は半分ほど影がかかり、森の地面を照らす光はものの色の形とを急激に闇の中に溶かしていきつつあった。 


 “詠みかけ”として仲間を先導しながら“月尽くし”の直後に歌垣の先頭を切れなかったのはハマタフにとって痛恨事だった。彼は男の輪の中ではるか後ろに回り、先陣を切った者たちが次々に相手を決めてゆくのを拳を揉み絞りながら見送った。

 互いに右へとずれて移る輪の、自分と出会う見込みの強そうな娘たちを数え、ハマタフは年格好もよく器量も良い娘がもうふたりほどで一旦区切れ、痩せているか小柄な娘が数名続くのを残念そうに見やった。彼は即興で歌うのは得意では無かったから、下の輪に下りる不名誉を真っ先に引き受けるのでなければ、小娘たちをやり過ごすのに手間取りそうだった。

 美人ふたりとその相方とが「雲の過ぎる間」の休憩の木陰へと去った後、脇の下から通り抜けてしまいそうな小柄な娘がひとり相手を下し、また交代した者に敗れて下へとよけた。

 ハマタフは自分の前で虫の音のようにかぼそい声が切りつけるように呼びかけを繰り返すのを聞いて我に返った。いつしか彼の前に付いていた男前ふたりは敗退して下の輪に移り、彼に歌の先頭が回ってきたのだった。

 目の前に立っている娘はあまり背も無く、一見して子供が紛れ込んだかのようだった。女物の外衣の代わりにむらのある粗い糸で編んだ長い貫頭衣を纏い、その袖口から恐れをなすほど痩せた両腕が下り、スカートの色と柄行から、さながら枯れ草の草群に浮かんでいるかのようだ。

 折から影ってきた月明かりは小さい瓜実顔を赤黒い色合いにぼかして輪郭を紛らわせていたが、その髪に留められた丸い月の縫取りの白い繻子の半面をとらえ、気を引くように反射している。鉢巻きの無い額の下に完璧な蛾眉が曲線を描き、大きな黒い瞳が水面のように冷たく光っている。

 ハマタフは気を取り直し、気軽な調子ではじめた。


   白花を挿頭(かざし)に 風切り羽根に葦毛差し

   白鳥に混じり遊ぶ雁の子 汝の棲み処は何処  

   闇の片羽に隠れて遊べど 雲居の月は見逃さじ 


 娘は眉をいからせ、錆びた高い細い声で返した。

  

   我こそ我が月   

   我ただひとり 幻を求む   

   疾く返せ 言の葉を 言の葉返し ()を送れ

 

 ハマタフは子供と見下して軽くあしらった相手の高飛車にむっとして繋いだ。


   綺羅吹く風 綾吹く風 河向こうに聞かせん

   里の子の繰る糸 織る白絹

   吹きて返りて黄金になりてむ

   汝手に技あれば 玉のかんばせにも優らん


 少女は両手を顔の前に上げ、面を伏せた。しかし、輪を出ようとはせずに両手の内に切々と唱えた。


   繋がばや 寸々の糸 

   餓えた蝶の虚ろの衣

   我が身の衣に織るものを

   我にこそ許さるらん

   (ひる)に背かれし我にこそ


 ハマタフは相手の歌の詞に気を取られるあまり、自分の次の者が娘たちの輪に目配せをして少し下にずれ、新たに歌垣を始めたのもほとんど気にとめなかった。少女は指の陰から彼に目を置いたまま少し闇へと後ずさった。

「待てよ、」言いかけてハマタフは急いで歌にした。


   乙女が織るべきは丈夫の衣……


「あの人、何をしているの?」

 木陰で休んでいた娘たちが隣の木陰の若者たちに尋ねた。

「あんなに手間取って、どう見ても相手は子供よ。」

「見かけない娘だな。」

 若者たちは顔を見合わせて言った。彼らは()()()者も保留の者も、皆順に休憩を取りに木陰に集まってきて、少しずつ月の陰ってきた林床の片隅に佇み問答を続けるふたつの影を見守った。

「ちぇ、本腰いれるならあんな子供を相手にしては駄目じゃないか。」ひとりが歯がゆそうに呟いた。

「だが、ちょっと可愛くなかったかい。」ハマタフの前に少女に敗退させられた若者が言った。

「痩せすぎだ」聞かれたほうはにべもなく言った。「色も黒いし、生意気だし」

「もう少し肥えればうりざね顔かもしれない」

 相手は首を振った。「婆さんの顔を見て若い頃を想像しろと言われても無理だ。」

「だが、弓なりの眉だし、目が綺麗だ。」

 何事かと後から集まった者たちが周囲から顔を覗かせて聞き耳をたてている。

「そりゃ、悪くないよ。なかなかいい顔だよ。」注目を浴びてうるさくなった若者が、寄って来た者たちに顎をしゃくって応えた。「―――だけど男顔だ。」

 たちまち若者たちは互いに見知らぬ者になったようにぱっとその場を散った。

 歌垣でいい具合に相手を見つけた者は恋人のところに行き、「雲が通るまで待って」と言われた者も、もうひと押し風を送りに行った。相手のいない者も、三々五々連れ立っている娘たちの傍に気楽な談笑をしに近寄って行った。

 ハマタフと少女はまだやり取りをしている。

「離れろ、離れろ。」

「おれたちは邪魔だ。」

 まだ、歌垣の場でそぞろ歩きながら好きに古謡を口ずさんでいた者たちは、ふたりの傍らから距離を置いた。

「蝕がはじまったわよ」娘のひとりが警告めかして注意を促した。「見張りと護りの力が弱まるわ。」

「小半時ほど休みましょう」先導を務めた娘が落ち着いて提案した。「私たち女は栃の陰にあなたたち男は朴の陰に。」

 闇が濃くなる頃には歌の輪はほどけ、若者と娘の一団は林の下に座った。


 ハマタフはいつしか少女とふたり、他の者たちとは離れて空き地のはずれに移っていた。広がった古木の枝の梢が届く末端の窪地で、旺盛な蔓草が地面から周辺の樹にかけて青黒い幕を掛け、その奥の森の見通しを悪くしていた。月の位置する南側にはまだ若木の集まった林が透かし見え、そこから射す弱い明かりが薄赤く娘の斜め下から覗く顔を映しだしている。

 到底、褄の相手にするような娘ではないと承知していたが、その奇妙な形、身元の知れないこと、謎めいた歌に興味がそそられ、ハマタフはついに歌でなく直に話しかけたが、娘は歌でしか返さなかった。


   昼に夜に夢に見しや

   あてなる梢の玉の枝


「おれに話しかけずに違う事を歌い続けるのは失礼じゃないかい?」

 娘は口の中で低く笑い、細い指を何かを繰り出す手振りで回し、調子を変えて歌った。


   小虫よ回れ 糸を捌いて

   くるると縒って若枝に絡げよう

   あの女がしたじゃないか

   燃えるような赤に染め


「―――ふん!」

 娘はつぼめた両手をぱっと宙に突き放した。そして放った先の闇を見据え鋭く呟いた。

「許すまじ、月の眼を隠れ逢いつる者」

 ハマタフはちょっと肩をゆすり、首の後ろに手をやった。娘の声は再び懐疑の気味を帯び、低く翳る森の底に沈んだ。


   宵闇は眼とざし 霧は形をたばかる 

   今は昔か 現は夢か


 少女はふと顔を上げ、窪んだ眼窩の底に光る眼を向けてハマタフを見、尋ねた。

「顔に傷のある(ひと)、いる?」

 なんて奇妙な事を訊くんだろう?

「アー・ガラートの事じゃあるまい?ヒルメイの長だよ。―――君はどこから来た娘だ?」

 娘は幼い当惑した顔をうつむけ、口許に手をやった。

「―――それじゃ傷の無い(ひと)は?」

「一人前の男なら大なり小なり疵くらいあるさ。」ハマタフは腕組みをした。「それで?イーマの男共を目の前に打ち並べて歌垣でもするのかい。あいにく河向こう(オド・タ・コタ)に修行に行っている者もいて全部は揃わないよ。」

 娘は弱い赤みを帯びた月光のもとにうち重なる木蔦の帳を手繰って行き、蔦の絡んだ若木の幹に手を当て、呟いた。

 

   誰ぞ知るや 我のみ知るや?

   おりて地に捧ぐべきを 


「蝕が始まったわ!」思いの他に離れた場所から聞こえた声と、仲間たちのどよめきにハマタフは我にかえった。足元は澱みに浸かったように闇に沈み、見上げれば月は細い茜の影を残したきり、黒い蓋を被っている。

「イネ、見えるかい、こっちへおいで。暗がりで歩き回ると危ない。」

 ハマタフは声を掛けた。少女のいた方向はもう闇に包まれていたが、蔦の葉擦れと柔らかい足を摺る音がした。仲間のいる空き地のほうでは、男の木と女の木に分かれて落ち着いたようだ。

「ハマタフ!」遠くの木の陰から友達のひとりが呼んだ。「どこだよ」

 娘が彼に追いついたので、ハマタフはその手を探り自分に引き寄せ、そのため返事の間合いを逃した。

 向こうで笑い声がした。ハマタフは舌打ちして肩から脇腹に柔らかくぶつかって来た身体を肘で押しやった。腕の長さに突き放した先の闇の中で少女は黙って息を殺している。

 これで今年も()()だ。この小娘は五年たったら出直せばいいが、その時もおれが褄の歌垣に出ているなんてのは御免だ。

 向こうではまた違う遊びを始めたらしい。謎々か恋人の声当てか。離れた下の沢でぱしゃんと足を落とす者。男女の笑いの混じった囁き。ちぇ、月の隠れている間に抜け駆けした者がいるな……。


 オクトゥルは、ガラートが若木の幹に片手を預けながら石と固まってしまったかのように立ち尽くしている足元で、ほんの少し離れた木立ちの陰に近づいてきてやり取りされる、ふたりのはぐれ者の言葉に我知らず聞き入っていた。

 一度も聞いたことの無い声だが、間違いない。間違いないが、幼い足でおれと変わらぬ速さで山を下りて来たのか。

 娘の主題の定まらぬおぼろけで奔放な歌と、ぶっきら棒な言葉を訊くうち、オクトゥルは奇妙にもアツセワナの王女のもの問いたげな瞳と低い遠慮がちな声を思い出した。

 繋がばや……繋がばや寸々の糸。蝶の虚ろの衣。

 こちらに糸を紡ぎたい娘がいて、あちらにも糸を織りたい娘がいる。

 一度は頭から追いやった考えが、他に気を紛らすものも無い闇の中でしつこく頭にまとわりつく。オクトゥルはよんどころなくしゃがみ込んでいる間の暇つぶしに気楽に思索を愉しんだ。

 小虫が回って糸を捌く。

 この子が取る糸は神蚕(しんさん)だ。歌によれば空の繭もあれば生繭もあるんだな。白糸束で紡いで取ってある糸はどれくらいあるんだろう?紡いだ糸で自分の服をつくりたいと言っているが、守女に許されるのはティスナの小さな蚕の紬じゃないか、堂々と着るわけにもいかないんだ。()の棲み処には満足な機も無かろう。

 それよりも糸をもっと良いものと換えてやれば?アツセワナで手に入れた、例えば結構な毛織の肩掛けとでも引き換えてやれば、おれも欲得ずくで取り引きしたと自分を責める故もないんだ。相手の欲しいものを交換してやっただけで自分は手数料を取らないんだからな―――。

 蝕によって月の消えた空の下で若者たちは男女に分かれて休憩を取り、近くの歌のやり取りも途切れていた。

 やがて歌垣に代わって謎解きが始まり、とっぷりと闇に浸った森はしばし遊びのさざめきによって広らかさを取り戻したが、交わされる若々しい呼び声も闇が続くにつれて間合いが長くなり、途切れがちになり、調子が狂い始めた。お道化る声と窘める声が交互し、突如しんと沈黙が下りた。

 すぐ近くの若木の木立ちの中で藪が鳴り、ハマタフの驚きと狼狽の悲鳴が上がった。月を塞いでいた影はようやく細い赤い光の縁をのぞかせて移りつつあったが、森の中はまだ墨のように暗かった。しかし、オクトゥルはガラートの外衣が林床の藪を打ち払い、声の上がった方に飛び出して行ったのが分かった。

「静かに!」

 若者たちはたちまちに狩人の分別を取り戻した。すぐにでも動けるようしゃがんだまま、互いににじって寄り集まり、小声で点呼を済ますと、同様に静まった娘たちと共に闇の底に潜んだ。

 彼らから離れた若木の林で、無言の細い唸りと着衣の草を擦り肉体の衝突を伝える音が駆け巡った。

 オクトゥルはガラートが引き分けて林の外に押しやったハマタフを姿勢を低くして受け止め、腕をつかんで空き地に引っ張り出した。

 オクトゥルにぶつかって二度目の悲鳴を上げかけたハマタフは相手に気付くと喘ぎを飲み下し、後ずさって外衣の上の帯を締め直した。「まるで蛭みたいに―――またぐらに手を」

「何があったんだ?」まったく違う沢の方から大声で尋ねるヤールの声がした。

 月はすこしずつ姿を現わしはじめていたが、それよりもなお明るく松明が近づいて来ていた。

 ヤールに引き連れられた数名の幹部の男達が若者たちの様子を見に来たのだった。若者と娘たちが立って見守る中をヤールはつかつかと歩み寄って来た。

 ガラートは娘の腕をつかみ、若者とは反対に林の奥へぐいと押しやっていた。娘は掴まれた肩の高さに抑え込まれたように背を丸め顔をうつ伏していたが、ガラートの腕に爪を立てた両の手指は白く震え、闇に溶けいる下で両足は攻防の力の均衡の隙を狙いじりじりと弧を描いて横に動いた。

 娘のうつむいた顔から鋭い威嚇の声が漏れ、ガラートは左手を上げて娘の頬を平手で打ち、肩を突き離した。

「恥を知れ」ガラートが歯を食いしばって言うのをオクトゥルは聞いた。

 娘は蔦の帳を裂くように仰向けに倒れ、細い手足を泳がして葉の落ちた藪をつかみ身を起こした。すぐ傍にやって来たヤールと若者たちはガラートの後ろに足を止めた。

「この有様はどうしたことだ?」ヤールは両者を見、言った。松明の火影が彼の後ろに集まった。

 娘は爛々とした目を見開き唾を吐いた。そして上に飛んだ飛沫を我が身に受けた。

「醜い」

 半ば倒れ込んだまま、懐に何かを探ると、思いもよらぬ素早さで礫をとばした。

「嘘つき―――嫌い」

 ガラートをかすめて飛んだ礫はオクトゥルの足元に落ち、小さな丸い面に梢を透かして空に顕れた赤い欠けた月を映した。

 ガラートは娘の前に仁王立ちに立っていた。彼は後ろに集まった者たちには一顧だに与えず、肘を張って真っ直ぐ背を向けていたので、すぐ後ろに立つヤールと、ちょうどかがんで朽葉の上に落ちた鏡を拾い上げたオクトゥルの他には、地面の上に居る娘の姿は見えなかった。

 誰だ?どこの娘なんだ?後ろで若者たちは囁いている。

門の守女(シュムナ・タキリ)ルメイ。」

 ガラートは峻厳な声で言った。全てのものはぴたりとさざめきを止め、耳をそばだてた。

「汝は月に仕え、豊穣と安産を守る。先代ルメイが与えた運命に背くなかれ。」

 オクトゥルは、ああ……と自分の漏らした息が言うのを聞いた。ガラートにもヤールにも聞こえたに違いなかった。ヤールは後ろ手に手を組んで黙って様子を見ている。

「ティスナに戻って守護の務めに戻れ。」

 娘はこみあげる叫びに抗うかのように両手指を口に押し込んだ。そのまま横に寝返ってうつ伏し、いざるようにして立つと、振り向きもせず、肩で蔦を押しのけて木立ちの奥へと消えて行った。

 風が草を鳴らす音が林床から谷あいを抜け、追うように梢が強くしなり、尾根の上の空で鈍くごうと大気が唸った。

「シュムナ―――ルメイ?」

 当惑した若者たちの声が囁きかわし、ややあってためらいがちに、ティスナに送らなくて良いものでしょうか、と伺いをたてる声が上がった。

「追わずに、構うな。―――誰も行くな。ティスナには()()がひとりで行く。」ガラートは言い、ふと口許を覆った。「ルメイが」

 ヤールは一同を振り返った。

「夜半も過ぎた。蝕は間もなく終わるが風も変わった。祭りは終わりだ。皆、村に戻れ。」

 もう木陰から立っていた若者と娘たちは、弱い月光と揺らめく松明の火影に見知った顔を確かめながら

少しずつ沢のほうへ下りる列に順次加わった。

「アー・ガラート。長といえどもシュムナ・タキリに指図を出来る立場であったかな」

 ヤールは少女が去った後も皆に背をむけてひとり佇むガラートに低く声をかけた。ガラートは一瞬、かぶりを震わせ拳を握った。

「―――同様に、誰も()()には近寄らせぬ。」

 一段強まった風が下りて行く松明の炎をとらえ、横ざまに走らせた。悲鳴が上がり飛び退る者たちの上に突如雷鳴がとどろいた。ひたひたと近づく雨脚はちょうど沢を渡る一同に追いつき、小石のような氷の礫を浴びせた。

「痛いわ!」

 手で顔を庇う娘たちを若者たちは長い外衣の翼で庇った。雹を降らせた雲はたちまち通り過ぎ、空をなお青い雷光で切りつけながら、なおも収まらぬ怒りのやり場を求めて麓へと、夏を生き抜いて今は疲れ弱った草木をさらに傷めつけに下って行った。


 祭りのたけなわを襲った嵐は少しの干し魚、干し果に被害を出し、若者たちに少しの擦り傷を負わせて通り抜け、西に傾いた煙った月を残して去った。

 アー・ヤールは翌日、ニアキの村に配分する食糧と鉄器を数人の人足に担わせ、アー・ガラートを送り出した。

「アツセワナに修行に出した者たちの息災を時々確かめにやってくれ。」ガラートは念を押した。

「年が明けたらいずれまたハマタフを遣ろう」ヤールは答えた。「あれは今年もひとりで終わることになるからな。君のほうで“絹の遣い”を出すなら、件の農地を回らせてみると良い。」  

「田が良い収穫をあげることを祈る。」ガラートは嵐で窪んだ地面に水を溜め、まだらに青天を映している田に目を遣った。

「ここへ移って手伝ってはくれぬのか?」揶揄するように懇願の口調でヤールは言った。

「ニアキで本式の礼拝をするのに急ぐのだろうな。」

「民を上げて一度行ったものを、二度行えばそれこそ礼を失することになる」

 ガラートは言ったが、もてなしの礼を述べると、もうニアキを指して長手尾根のほうへ登り始めている男達の後に続いた。


 ふたつの村に分かれた冬越しは降雪の少ない穏やかな気候のもと過ぎた。水ぬるむ頃になるとオクトゥルの妹は僅かな家財を背負い、幼い子の手を引いてティスナからオルト谷の新しい村へ下りて来た。

「兄さんに娘が出来たわ。もう二月になる器量よしよ。」

 新しい家に寂しく過ごしていたオクトゥルの戸口を軽やかに叩いて、女は顔を出した兄に言った。

「お前は()()が上に行くような時期に下りて来たのか。」習い性となった兄貴風を吹かせてオクトゥルは言った。

「どこに()に行くような人なんているの?」妹は事も無げに返した。「義姉さんだって秋には下りて来るわ。その時には兄さん、迎えに行かなくては駄目よ。」

「おれは絹の出来を聞きに一、二度は行くよ。」オクトゥルは言って難しい顔をした。

「上にはもう何人残っているんだ。」

「この冬にお弔いがふたつ。」妹は顔をしかめた。「かあさん(コーナ)達が後始末をしたわ。あんなお勤めを年取ってするのは真っ平!私はもう二度と戻らないわ。上にいるのは腕利きの織子が五人。そして義姉さんと子供たち―――そしてあの泥棒娘」

「やめろ」オクトゥルは顔を険しくして言った。

「説明無しに世話を引き受けた子に手を焼かされて、ねぎらいも無しにこれですからね。」

 妹はオクトゥルが上げかけた拳を軽蔑したように眺めた。

「確かにお産の時には助かったわ。去年よりは大人しいし、()()良くなった。もう義姉さんの鏡を盗む気遣いはないわよ―――水溜りよりも満足な器量が映るわけじゃないと分かったみたいだからね。」

 しかし、さすがに眉をひそめて言い足した。

「あの子がずっとあそこにいるのは良くないわ。冷たい洞窟で眠っている虫と死んだ人のお守りをし続けるなんて。でも、村に下りる気はなさそうね。最近はティスナにだって滅多に下りて来ないもの」

 春にはティスナより早く咲く種漬け花を合図に、村の新しい田には水が引かれ、稲が植えられた。狩場が遠くなり、去年までの長期で遠出の狩の慣わしを変えざるを得なくなった男たちは、夏になると田を喰い荒らしにやって来る獣に手を焼いた。

 息子をアツセワナに送り出している老人たちはヤールの所に行ってこぼした。

 息子たちから何か便りはないのか。こちらにだって人手は足りていない。今年こそは新しい田で麦を育てようと準備したのに、秋になるのに肝心の種籾も教える者もいないとは。

「あの田を見てくれ、アー・ヤール。女達が見ても稲の花は少なかったというし、穂が肥えてくる様子もない。どうやってもう一冬越す?」

 ヤールは追いすがる年寄りたちをかわすように表へ立ち、田を見に行った。老人たちは後から付いて来た。

「暑い。」首筋を手で拭いながらヤールは苛々と呟いた。「羽虫も増えて―――嫌な夏だ。」

 白々とした方角の無い陽射しの中で風は凪いでいた。腕を上げて籠手で額の汗を拭っていた老人のひとりが南を見上げて頓狂な声をあげた。

「何だ、あの雲は?」

「蝕か?あの影は日蝕か?」

 白い空の中に暗い陰の固まりが浮かび、塵のように明滅し揺らぎながら太陽の姿を覆い隠していた。


 麓の森に薬種を探しに出かけていたガラートは、辺りの重苦しい沈黙と淀んで湿った空気に気付き、濃く茂った梢を見上げた。空と接する葉には夏の光がつくる明快な陰影は見えず、時が止まったように森のあらゆる生き物は動きと音を止めていた。

 彼は脱いだ外衣と薬草を入れた胴乱を持つと、見通しのよい稜線に出るまで少し山腹を上った。頭上の梢は次第に開け、凪いで影も光もない奇妙な空の正体を明かした。

 右側にあたる北の空に巨大な雲が白く湧きあがり、ベレ・サオより向こうの世界をすっかりその下に覆ってしまっていた。

 ガラートは急ぎニアキに戻り、同じく長手尾根の北側から狩りを切り上げて戻った男たちと合流し、一緒に古い集会場の原に向かった。

 集会場には既に北の森の棲み処から出て来たハルイーが中央に立って南の空を見ていた。一同は足を速めた。白々と凪いでいた周辺の草木は、今や背後のベレ・サオの上空で唸りを上げる大気を感じて戦き、見下ろす森は遠く波立っている。 

 ハルイーは南の空に手を上げ、渦を巻くように日輪の前にはためき、動き回る黒い影を指差した。

「あれは蝶だ。」

 彼は駆け寄って来た者たちに言った。

「南の山にいる神蚕だ。北に立ち上がるあの雲を敵と思い、恐れて光の方へと寄り集まっているのだろう。」

「聖地の蝶が?四里も離れているに、なんとも恐ろしい大群だ。」

 タフマイの男達は口々に言った。ハルイーは茫然と日輪の芯を黒く穿つ影を見つめるガラートの肩を強く叩いた。

「見ろ、ベレ・サオでは激しい雨が降っている。ここにも来るぞ。」

「皆、このまま私の家に集まってくれ」ガラートは一同を見回した。「一緒なら知恵も力もひとつにできる。私の家は谷口から離れ、土台も古く堅い。」

 長の家の裏手のイスタナウトの林は強く撓り、逆なでに煽られた梢は葉裏を見せてぱちぱちと鳴った。清水の流れる小さな沢は風に跳ねて散った。皆を家の中に通すと、ガラートは最後にハルイーを入れ意を決したように囁いた。

「戸口を守ってください。私にはひとつすることがあるので。」そうして外から戸を閉めた。

 ガラートが嵐の迫る中外に出て行ってから、一同は嵐の大きさと被害の予想をすこし話し合い、やがて聞こえて来た雨音の調子に耳をすましながらガラートは何をしに行ったのか、と囁いた。おれ達誰にも頼めぬことなのだ、と誰ともなく言い、皆はそれが何かは知らず同意した。

 皆は戸口に立っているハルイーを見た。三年もの間付き合いを避けほとんど口もきかぬ男に、ひとりが話しかけるでもなく言った。

「おれ達に出来ることなら彼が頼まないことでもやるよ。」

 ハルイーは半ば戸の外に耳をそばだてながら目をそれとなく一同に向けていたが、男の言葉に顎を小さく頷かせた。

「同意だ」彼は外を包む激しい雨音に厳しく眉を寄せたが、穏やかに言った。「では、しばらくおれに代わってここを見ていてくれ。あいつの試みがうまくいかなかったならもう切り上げ時だ。探してくる。」

 水煙に白く視野の閉ざされた集会の野の外れに、ガラートはベレ・サオを拝する方角に頭を向け突っ伏していた。山肌を下へと洗う水の流れがかしこに窪みの草を押し曲げて小川を生ぜしめている。

「溺れてしまうぞ」ハルイーは脇を抱えて起こし、耳元に怒鳴った。「駄目なんだな?戻ろう!」

()()は耳を貸さない。」

 顔を覆った手の間から憔悴した声がむせぶように答えた。煮え立つように撥ねの上がる大地に絶え間なく天から雨の矢が射かけられる。ガラートは両手で膝元の水に覆われた大地を叩いて叫んだ。

「どうしたら伝わるのか!」


 イナ・サラミアスを襲った雨は夜の間に収まったが、渓谷の口に拓いた田の半分は出水に襲われ、高台を切り均した集落は辛くも助かったものの、森の崩れ落ちた土石が境の石垣や築いた倉庫を打ち倒し、拉いでしまった。水が捌けると男達はいくつかに分かれて古来の道を辿って谷の水脈の周りを視察に行き、オクトゥルはすぐにティスナへと出かけた。

 ホシガラスの鳴き声に応じて出て来た年配の織子に妻と子供の様子を尋ねるとともに、オクトゥルは今年の絹の出来具合を尋ねた。もともと作物の少ないところに田がやられてしまった。誰も言わないが、絹の出来に一縷の望みをかけているはずだ。

「昨年より育てる量を減らしておりまして」織子は無表情にオクトゥルを見返した。「どうしても人手がありませんのでな。質は昨年に勝るとも劣らず、しかしながら羽二重に織ると丈も目方も足りませぬ。」

「秋蚕の繭が出る見込みは?」糸になるにも間に合うまいな、オクトゥルは思いながら尋ねた。

「蚕種の孵化を控えましたので。」女は繰り返した。

「献上する撚糸は?そちらのほうは先に取り掛かれたろうか。」

「用意がございます。」

「それなら全部撚糸にしてくれ」

 素早く考えてオクトゥルは言った。中途半端なものをふたつ出すよりも、上等なものに絞って十二分に出すほうがましだ。

 中秋の頃に糸をとりに来るから、と念を押して、オクトゥルは遠慮がちに女房の様子を尋ねた。女は僅かに微笑んでそのまま待つようにいい、村に戻って行った。

 娘を抱き息子の手を引いてやって来た妻を見てオクトゥルは安堵の胸をなで下ろした。妹が言った通り、若いシュムナ、ルメイは安産の護り手らしい。半年を過ぎよく肥えた娘は父を見ると人見知りをし、妻に似た色白な顔を真っ赤にして泣いた。オクトゥルは娘をあやしておろおろと歩き回りながら、雨の具合を尋ねた。妻はオルト谷にもたらされた被害の多さにおののきながら、ティスナではさしたることはなかったと言った。

「コタ・ミラを流れる水が少し多かったけれどもそれだけ。」

 ひとわたり夫に抱かせた娘を受け取って、息子の髪を撫でで父のほうへ促しながら、妻はふと見咎めて、息子を窘めた。

「置いておくように言ったのに、拾ってきてしまったのね。」

 息子はひょいと上げた目に警戒の色を浮かべ、かぶりを振って弄んでいたものを手の中に固く握り込んで隠した。

「なんだ、どんぐりか、それとも虫か」

 父に叱る様子がなく、母の両手が塞がっているのを見ると子供は少し下がって上目づかいににんまりしながら掌をあけて見せた。薄緑の丸い物が小さな手の中でころりと動いた。

 オクトゥルは身内から自分の声が、これだ!と叫ぶのを聞いたと思った。しかし彼はちょっとぴくりとし、それすらも隠すように曖昧に言った。

「蛾の繭かな―――こら、中に蝶がいたら可哀相だろう、放してやれ。」

「いないよ。」息子は口をとがらせて両手にひとつずつ、がらんどうの穴になった繭をつまみあげて見せた。

 神蚕の繭だ。王女が欲しがっているやつだ。

「コーナ達は神蚕の繭だと言っているわ。誰でも触っていいものではないのよ。この子は子供だからサラミアは大目に見るだろうというけれど」

「これはたくさんあるのか―――」性急な質問をして気取られまいとオクトゥルは唇をなめた。「こいつがそこいらで拾ったのだとすると……」

「雨が降って川の水が増えたときに上から流れて来たのだと思うわ。」女房は困ったように言った。

「湖の方にも少し……あらかた流れに乗ってコタ・シアナまで流れて行ったのじゃないかしら?雨が盛んな時は誰も川まではいかないし、知らないわ。普段水が流れるところより離れて落ちているのよ。酷い雨だったのが分かるわ。」

「そうか、そうか―――置いておけよ、じきに飽きるさ」

 オクトゥルはうわの空で応えた。妻は寂しそうに見ている。

「今年、もう一度アツセワナに絹の交換に行って帰ってきたら、お前を迎えに来る。約束したからな。」

 いつになく境に立って長いこと見送っている妻の目をちょっと気にしながら、オクトゥルはティスナのすり鉢状の斜面を北の出口でなく湖畔を西に回る方に森の中を横切った。

 ウナシュの村の上の険しい切り出しの崖の上を周ることになっても、一刻も早くコタ・シアナに辿り着きたい。それもコタ・ミラの合流点より下だ。クシガヤの渡し守は見つかるだろうか。大水が出た時の常で、向こう岸のずっと陸に上がった高台に皆で避難していて、指笛が届いたとしても舟は出せないかもしれないな。はて、それにしてもさほど信心深くないおれだとしても、男に禁じられたコタ・ミラを横切る度胸があるかだな……。

 ティスナを出た途端、オクトゥルは南の物見の方から上って来たハルイルの息子たちと鉢合わせた。

「その先は“女道”だぞ」

 軽く冷やかすのには取りあわず、オクトゥルはふたりがティスナの縁までやって来た訳を尋ねた。

「去年あたりからこの上のイスタナウトの森の色がおかしいんだ。枯れ木が広がっているようなんだ。」

 ふたりは“白糸束”を指差して言った。春から夏にかけて緑が冴えず、あっという間にくすんでしまった。根から病に侵されているか、さもなければ相当の木が小虫に喰い荒らされているに違いない。

「神蚕の世話をする者はほとんどいないからな。」

 オクトゥルはティスナで息子が遊んでいた(から)の繭のことをそれとなく話した。嵐の前のあの影は蝶の群れだという事だったからな。兄弟は顔を見合わせ目配せした。

「あんた達はそれで、これからあの険しい道を上って“白糸束”の近くの森を調べてみようというのかい?この雨の後だ、思い止まった方がいいと思うな。」

 兄弟はまさに三日前に調査のために中の嶺と南の嶺の間の“背の尾根”を渡ったところで天候が荒れ、高原の岩陰に避難せざるを得なかったのだと言った。

「災難だな。」

「雨雲も雷も我々の下だったさ」兄のほうが言った。

「夕べウナシュの村に泊まって、今朝出直すつもりだった」弟が言った。「そこで珍しい奴がやって来て出鼻をくじかれたんだ。」

「誰だい?」オクトゥルは急き込んで尋ねた。

 サコティーが親の里のイナ・サラミアスの民を心配して来てくれた。ウナシュの村は概ね無事だったし村人はクシガヤで生まれたこの若者によそよそしかったので、彼は村に長くは足をとめず兄弟とだけ少し話していった。

「雨は上流で多く降ったのだ。思いもよらぬ速さでコタ・シアナの水かさが増えて、クシガヤの者は取るもとりあえず高台に避難していたそうだ。彼は雨が止んだあと真っ先に舟を出して集落の被害を見に行ったが、多くの家が土台からもぎ取られて流されていたそうだ。タシワナの先の沼地にまでな。流された屋根のほか、皆の大事な家財が流れ着いていたらしいんだが」兄は少し声を低めた。「蝶の繭らしいものがその辺りにたくさん浮かんでいたらしいんだ。」

 オクトゥルはぴしゃりと膝を打った。

「奴さんはもう帰ってしまったか?」彼は喰いつくように尋ねた。「サコティーだよ。」

 兄弟は知らない、という風に肩をすくめたが、ガラートを尋ねて行ったかもしれないな、と付け足した。

 挨拶もそこそこにオクトゥルは兄弟と別れ、大急ぎで山を下りた。コタ・ミラの北側を“女達の道”を避けて下るにはたっぷり残りの半日を費やしたが、まだ十分に日のあるうちにコタ・シアナの岸にたどり着いた。オクトゥルは指笛でカワセミの鳴きまねをしてしばらく待った。有難いことにそう待たないうちに上流から一艘の小舟が流れにまかせて下って来た。オクトゥルはもう一度軽く、ホシガラスの声を真似て、呼んだ主とその位置を知らせた。

「やあ」

 彼を認め、手を上げて応じたその固い面持ちを見てオクトゥルは、訪ねて行った郷里の者たちが若者にどんなにすげない態度を見せたかを察した。彼はお道化て言った。

「有難いなあ、殿様の鷹だってこんなに早く飛んできてくれやしないだろうよ!」

「ここで、わざわざ僕を呼んでくれるのは君くらいだと思ったからね。」

 珍しく声の下に刺を忍ばせてサコティーは答えたが、素早く舟を岸によせ木の枝を掴んで、オクトゥルが乗るまで舟を安定させた。

「下の沼まで連れて行ってくれ。タシワナの下まで」オクトゥルはすぐに言った。

「理由を聞いてよければ」サコティーは冷ややかに言った。

 オクトゥルはちょっと言いよどんだ。

「いいさ、舟賃をくれるなら」

「おれが舟賃を渡さなかったことがあったかい?」

 オクトゥルは少しむっとして言った。若者は口を結んで櫂を取り、流れの中に舟を進めた。

 水かさと幅の大きく増したコタ・シアナの中に、クシガヤの家々は残った屋根をところどころのぞかせて泥水の中に沈んでいた。サコティーは列になって突き出た屋根先と岸の低木の頭の間をゆっくりと通り抜けた。

 タシワナの西の麓に近づいて来ると、そこにあった沼地は太ったコタ・シアナの腹の澱みになり、流れ着いた流木や家の屋根の残骸、家財の櫃などが撓んだ網代木のように、長い罠となって迷い込んだ漂流物をせき止めていた。

 傾き始めた光は低く垂れた柳の枝を透かして目の上にちらちらと踊り、水面は陰の底に黒ずんで見えたが、その表面にびっしりと浮かぶ繭はほの白く内から光を発しているかのようだった。手に取って見ると、まさしく息子が弄んでいたものと同じ、羽化を終えた虚ろの繭だった。

 オクトゥルは啞然として、噂に高い薄緑の繭が水面を埋め尽くす様を眺めていたが、気を取り直して泥にまみれた漂流物の上から手に届くところにある大きな籠を取った。

「サコティー、手伝ってくれ。」

「いやだ。」若者ははっきりと首を振った。

 オクトゥルは、若者の剣幕に戸惑いながら自分の考えを言おうとした。お前の(さと)が大変な目に遭ったというのに申し訳ない。イナ・サラミアスでも作ったばかりの田がやられた。この冬を越すには去年と同様“絹と鉄の交換”に頼るしかないが、あいにく訊きに行ったところ、ティスナの絹も不足しているということだ。そこでコタ・ミラを繭が流れて来たという噂を聞いて、この繭がひょっとして助けになるかもしれんと思ったのだ。

「君がシギの真似をするのを止めやしないが、僕の舟をそのために貸すのは御免だ。」

「足の立つ瀬があるならシギにもなろうさ」オクトゥルは情けなさそうに言った。「これが絹の不足を助けてくれるならな。アツセワナの王女がこれを買い取ってくれるかもしれないんだ。」

 サコティーが櫂をひったくるように掴み、面を下げて黙りこくった様子から、その言葉がいっそうの後押しになるとは思えなかった。しかし、サコティーはおもむろに櫂を水に下ろして進め、流木の折り重なったところに寄せると、自らは舟を下り、櫂をオクトゥルに渡した。

「終わったら呼んでくれ。」

 刻々と夕闇が迫る中で粘れるだけ粘って籠にかき集めると、オクトゥルはほとんど闇の中を怪しげに櫂を操りながら、サコティーの招く方に寄せた。サコティーは舟を引き寄せると身軽に飛び乗り、櫂を持ち替えるとたちまち滑らかに水上に漕ぎ出した。

「交換は王と長との間の約束なんだろう?繭なんかで絹の代わりになるだろうか。」

 上に向かって櫂を漕ぐサコティーは、流れを遡る力の込め具合とは裏腹にごく穏やかで朗らかな口調になって問いかけた。

「シギル王自身が応じるとは思えない。」オクトゥルは交渉の困難を思って腹の底に重石が下りるのを感じた。「約束の物では無いし、これに絹と同等はおろか、いくばくかの価値があるのかどうかさえ我々は知らないんだからな。だが、王女はこれを欲しがっていた。」

「どういう風の吹き回しで。どうして神蚕の繭を知ったろう?門外不出のはずなのに。」

 サコティーの声は独り言というよりは歌のひと節のようだった。オクトゥルは歌を聞き流すようにそれには答えなかった。

 タシワナの丘を上へ少し遡ってコタ・シアナに注ぎこんでいる川の水口にサコティーは舟を乗り入れた。その上に奥へ遡ったところにクシガヤの人々が難を逃れてきている高台がある。

「仮住まいの粗末な小屋だが、今晩は泊って行ってくれ。」

 サコティーは岸の、小舟がたくさん立ち木に舫いつけてある中に舟を入れると、オクトゥルに籠を持って付いて来るように言い、さらに丘を登った上の男達の庵の方を指して見せ、それから軽く手招きして林を挟んだ反対側へオクトゥルを案内した。

「助けになりそうな()を紹介するよ。」

 サコティーは女達の小屋のひとつに声を掛け、年配の女を案内に請うと用のある娘の名を言い、その小屋を教えてもらった。

 クシガヤの未婚の男女の関わりはイーマのそれほど厳格ではないらしかった。女は小屋を教えるとすぐに自分の小屋に戻り、サコティーは教えてもらった戸口でひと声掛けて応えを聞くと、戸口に掛けた筵をさっと上げて、薄い明かりの漏れる中へオクトゥルを招きいれた。

 狭い小屋の中に筵を掛けた粗朶を枕に、三人の娘が座るやら横になるやらして休んでいた。

「イネ、客だよ。」サコティーはひとりひとりの名を呼んだ。

 奥のひとりの娘が身を起こし、天井に吊るした火皿の影を避けるように頭を巡らせてオクトゥルをじっと見た。

「覚えているかい?去年の秋、一緒にニクマラから帰って来たろう?」

 娘は頷いた。オクトゥルは思い出して言った。

「アタワンで働いていた子だな。王女に世話されてニクマラで郷里(くに)兄さん(アート)達が迎えに来るのを待っていた子だ。」

「そうだよ。」サコティーは手短に言った。「イネ、この人が君に頼みたいことがあるそうだ。」

 オクトゥルは息を深く吸い込んで籠を前に出したが、先ず、ふたつみっつ手に取った繭を差し出して見せた。

「イネ、これを綿にのばして紡いで糸に出来るかい?イナ・サラミアスの娘たちのように。」

 娘は頷いた。両脇の娘たちも繭を見てうなずいた。少し年かさの娘たちだった。

「アツセワナの修練所で習ったわ。」

「それじゃ頼む。」オクトゥルは丁寧に言った。「これを紡いで糸にしておくれ。中秋の頃までに。今年も“絹の遣い”を務めるのはおれだ。行く時にここへ寄る。サコティー、お前はアツセワナまで舟で行けるだろう?」

「宿駅を通らずに?」サコティーは確かめるように言った。

 あの大雨だったんだ、コセーナ、エフトプ、ニクマラではコタ・レイナの水が溢れて領地に被害が出たに違いない。絹の遣いを泊め、護る余裕なんかあるまい―――いや、本音はそうではない。絹を検分されては困るのだ。

 オクトゥルは迷いを断ち切るように頷いた。

「これで足りない絹の目方をなんとかしてくれるよう、王女に頼むんだ。」   

   

 

  

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