表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
20/25

第六章 風の語り 閑話1

 暗黒の森(イズ・ウバール)は前後もない闇に閉ざされていた。

 若者が仇を求めて森の境界へと行ってしまうと、ヤモックとサマタフはそれぞれにアニとキブの手を引いて日の暮れた森を進んだ。

 目隠しをしていようがしていまいが何も変わらなかった。ヤモックとサマタフは恐ろしいほどの速さで闇の中を進んだ。シアナの森を歩きなれたアニでさえイズ・ウバールの分厚く高い屋根の下では足がすくんだが、やがて、この暗い森ではかえって林床を埋める若い草木が乏しいために行く手を妨げるものは少ないのだと気付いた。それにタパマたちの案内は巧みだった。ヤモックたちは時折低い枝を分け、顔を伏せるようにふたりに注意を促したが、厚く茂った硬い葉が頭の上で跳ね返って鳴っても、決して小枝一本アニとキブには触れさせなかった。

 アニの上等の靴とエマオイが作ってやったキブの新しい靴の下にあるのはいつも深く積もった腐葉土とシダだった。タパマたちが履いている靴はずっと簡単なものだ。彼らは猫のように静かに歩き、どうやり過ごすものか、大木の浮き出た根でさえどこかに消えてしまったかのように、歩みのおぼつかないふたりの連れの爪先にかからないように導いた。

「見えないよ、怖いよ!」

 キブがうわ言のように言い続けていた。案内人から容赦は期待できなかった。キブは間もなく静かになった。文句を言えば言うほどサマタフは相手を振り回したし、どうやら手間を増やして怖がらせることを面白がっている節もあった。

 一時ほどしてやっとでタパマたちは休むことを許した。低い谷を越え、鍛冶場のまわりに漂っていたどことなく金臭い匂いはすっかり消えていた。

 アニとキブは大きなナラの木の下に腰を下ろした。アニは隠しに残しておいた甘くない菓子の欠片を探した。手で割ると粉々になって落としてしまいそうだったが、半分かじり取れば何とかなりそうだった。キブは幹のまわりを手探りでアニを探していた。手が触れると言い訳のように手を引っ込めた。アニはその手を捉まえ、菓子を握らせた。

「ほら、あんたのぶん。」

 からり、とキブの口が鳴り、ややあってちゅうちゅうと鼠の鳴くような音がした。

遠からぬ所に尻を落ち着けたらしい。

 タパマたちがどこにいるのか全く見えない。だが、アニはヤモックがふたりのいる木の幹になにか目印の紐を結び付け、それを繰り出しながらそっと腐葉土を踏んで遠のいていく気配を察した。アニは手を伸ばし、それをつかんでちょっと引っ張ってみた。ややあって短く二度、合図のように震動が伝わって来た。

 心配するな、置いて行きはせんからな―――。ヤモックがそう言っているかのようだった。

 しばらくすると張りつめたままの紐は引いても何も返事を寄越さなくなった。近くの立ち木に巻きつけてさらに遠のいて行ったようだ。

「キブ!」アニは囁いた。「あんた、一体、鍛冶小屋の畑で何を見たの?」

「何にも。」意外とすぐ近くに恨みがましく口をとがらせた声が応えた。

「畑なんて嘘ばっかり。スベリヒユしかないや。」

「近くに大きな朴木が無かった?」

 アニは尋ねた。キブは闇の中で息を潜めた。相手が気を緩めるのを待つ間に、アニはイズ・ウバールに入ってからこのかたすっかり馴染みになった胸の痛みと動悸がゆっくりと訪れるのを感じた。

 それは自分の与り知らぬ者の手によって心臓の入った箱がかたかたと揺さぶられるかのようだった。

 健康な身体が成長に応じてもたらす痛みだとか、学びの痛み、好奇心を満たす代償の痛みをアニはほとんど気にとめたことがなかった。それでこの陰鬱と孤独を自分が引き受けるいわれのないものと感じ、怒りを覚え、恐れた。

「煮え切らない()()ね」アニは引き寄せたマントの下で両腕をさすって唸った。「何とか仰い」

 キブがびっくりして飛び退る音がした。

「あんたじゃないわよ。」なだめようと苦心しながらアニは囁いた。

 キブのいる闇から返事とも溜息ともつかぬ声が応え、ひょろ長い腕で抱いた膝と脇腹との間で何か小さな硬いものがぶつかりあう音がした。三日前に着の身着のままで二クマラから抜け出したきた少年の懐から起こる音としては意外な、硬い澄んだ音だった。途端にアニの胸から背中にかけてするりと抜けだすようにして痛みが消えた。

 アニはちょっとその効果に驚き、ひとり得心した。好奇心の盛んな男の子が捨てられている鉱滓の欠片を珍しがって宝物のように隠していたとしても何の不思議もない。ヤモックは私にお守り代わりに持っていけと勧めたけれど()()()()だわ。

 ところで、一方、タパマたちがあんなに怒った理由はといえばはっきりしない。キブが何か大事なものを取ったかもしれないと思ったのなら持ち物を調べるはずだ。多分、何を見たか見なかったは知らないけれど、その場に行かれるだけでも都合が悪かったのだわ。

 アニは幹に寄り掛かり、背中越しにナラの木に話しかけた。

 あなた、音に驚いて行ってしまったの?

 何の気配もない。

 私が十二歳の時、あなたが誰なのか分かったと思った。それ以来、あなたは私の前に姿を見せなくなった。でも、ずっと私と一緒にいたはずだわ―――コセーナを抜け出す時も一緒だった。地下の通路の中でも一瞬あなたを見たと思ったけれど。

 アニは両手の中に頬を埋め、ゆっくりと思い返した。

 あの時、灯りの無い通路の中を恐れを感じずに走った。曲がり道もあるのに。まるで見えているように周りが分かったからだわ。私ではなく()()()がそれを出来るからよ。

 ……もしも今も私に憑りついているなら、よ、あの時みたいに暗闇のなかで()()が見えたらいいのに。

 タパマたちはなかなか戻って来なかった。少しずつ緩んできたキブの身体がアニの方にゆっくりと倒れ、もしゃもしゃの頭を肩に預けた。安らかな寝息は途切れずに続いている。膝から解けた片手が脇腹の上を押さえている。

 私に寄り掛かっていたことが分かるとこの子、機嫌を悪くするわね。でも今離れるときっと起こしてしまうから……。

 アニは暗黒の虚空を眺めた。主な移動は夜だという事だったが、今、眠る時間があるのなら眠っておくほうが得だ。暗闇に長いこといると目の調子も悪くなる。明るさが変わって、何か霧のようなものや色が見えたような気がするもの―――。

 アニは瞼を閉じ、また開けてみた。雨の降る前の土の匂いと冷気が気になって眠気が遠のいたのだった。そして開けた目には何かが見える―――。

 動くものと影、わずかだが光のゆらぎ。

 ヤモックたちだろうか、それとも誰か他の者が近寄ってきたのか?アニは片手をあげ、前方に突き出した。誰もいない。タパマたちでもなければ、見知らぬ人でも獣でもない。

 アニは上げかけた声を抑え、目を凝らした。

 見える()()はそこにある物ではない。いま居る森のものではない景色が眼前にあり、それもひとつではなく、方向も距離も判然とはしなかった。ただ、分かるのはそこもやはり夜であるということだった。そしてあるところの少なくともひとつには鈍い月影が射していた。

 ぱらぱらと音を立て、梢の方からナラの葉に当たる雨音がした。濃く葉の繁った木の下ではよほど激しい雨でない限り雨が直接当たることはない。だが、その中で雨は降っていた。

 わずかに閃いていた月の光は失せ、雨は正面から射るようにアニの顔を襲った。砂をまぶしつけたような靄が周辺から溶けて濁り、耳から顔のうえへと溢れ出た。濁流を透かしてまだ降り注ぐ雨が見える。そしてまた、アニはイズ・ウバールよりも密な森の中にいた。周囲を取り巻いているのは木ではなかった。樹木のように巨大に林立する草だった。その葉先が撓み、アニの頭上へと大きな真新しい震える玉の雫を落とし、四方に砕け散った。

 アニは手を上げ、髪に触れてみた。ナラの木陰に守られたアニの髪は霧でしっとりしてはいるものの、小さな雨のしずくひとつかかっていなかった。

 そして幾重にも重なった動かぬ視座全体を、なにかしなやかな撓んだ分厚い靄がくるみ、至近から生き物のように呼吸の節奏にしたがってうねりを繰り返していた。

 雨の音は少しずつ激しくなってきていた。眼前に降り注ぐ雨の落下を強まった雨が横へと流す。黒い雲が流れ、あいあいに月光が覗いた。頭頂で砕ける雫はどんどん大きく速くなり、泥の渦が流れ去る。

 ―――ひとつ、ふたつ、みっつ……。よっつ……やっぱりみっつ―――?

 映る景色はそのままにアニを包む靄の天地がぐるりと回った。

 キブが唸って反対側に寝返り、転がって飛び起きた。ナラの梢から枝元に集まって来た水が幹を濡らしはじめたのだ。

「雨が降ってる!」

 キブは立ちあがって、上を見た。ナラの天蓋は少しずつためた雫を大きくしてその内側にもゆっくりと落としはじめていた。

「雨だわ。」アニは用心しながら立ち、頭巾を下ろした。「ヤモックたちはどこかしら?」

 ナラの木に結び付けた紐にさわってみるとそのままある。小さな水の撥ね音と腐葉土の踏まれ泥水を吐く音が近づき、矢継早に雫を落としながら紐が緩んだと思うと、すぐ脇でヤモックの声が呼んだ。

「ひよっこ共、いるか?」

「ひどい降りだわ。小父さん、小母さんは無事にトゥサ・ユルゴナスに着いたかしら?」

 ヤモックは紐を枝から解き、小さく巻いた束を括って腰に挟み込み、ふたりの肩をつかんで自分の方に向かせた。キブは宙に目をさまよわせ、ヤモックは交互に確かめるようにふたりの方に首を振り、心持ちうつむき、言い含めるようにゆっくりと切り出した。

「エマオイがついている。後にした者のことは考えるな。この雨はもうやがておさまる。だが問題はあんた達ふたりの行く先だ。」

「私たちを“水の輪内”というところに預けるんでしょう?」アニは聞く用意があるのを示してヤモックの言葉を待った。

 ヤモックは感心したように微かに頷いたが説明にかかるとぐずぐずしなかった。

「そこは第三家(カヤ・アーキ)の領土のはずれでアックシノンから分岐した水路に囲われたところだ。噴火の時に灰がひどく、以来、アッカシュらの干渉もない。三軒ばかりの自営農が細々と暮らしをたてている。おれ達やバグたちとも顔見知りだ。そこへあんたたちを送り込み、預かってもらうつもりだった。

「この雨で敵も味方もしばらくは休止するだろうと踏んでいた。刈った麦を濡らしても得にはならんし、青頭巾が農民を襲う理由もなかろうと。水の輪内まであんた達を送っていくことができるだろうと。だが、タッケマが戻って来て報せた。あいつはすぐにサマタフと一緒に取って返した。青頭巾の一味が雨の中を突いて新門(タキリ・ソレ)を占拠したんだ。」

 アニは息を飲んだ。

「カヤ・アーキを―――?」

「カヤ・アーキに目標を定めたんだろうな」ヤモックは頷いた。「ともあれ、城内から丘の耕地に通っていた農民は仕事に出られず、田に出ていた者は戻れない。焼け出された百姓たちも、カヤ・アーキの小作たちもキリ・シーマティから城内へ入ることを目指している。百姓は守ってくれる城壁と大将を求めているし、カヤ・アーキのアッカシュ父子には食糧と人手が必要だ。サマタフたちはキリ・シーマティを確保しに行った。城を孤立させないためだ。その他にも取り急ぎアツセワナの方に向かわなくてはならない用が出来た。おれも行かねばならん。急を要するが、言うまでもなくあんた達をそこに連れて行くわけにはいかない。」

「行く先を聞いてもいい?」アニはびくりともせずに尋ねた。

「ここからの方角をいう訳にはいかんが」ヤモックはアニの表情をさぐるように顔を二、三度傾けた。

「森を下れば間もなく主水路(アックシノン)二水路(ツルクシノン)の合流点に着く。そこを渡り主水路を少し遡るとクノン・ツイ・クマラに行きつく。」

「大きな橋のあるところね」

「そうだ」ヤモックはちょっと手を振った。「―――シギルの治世に建てられた古い管理官舎がある。あんた達にはそこで何日か待ってもらう」

「分かったわ」

 アニは背嚢をマントの下に背負い、キブの手をつかんだ。

「そこへ案内して。」

 今は案内人はヤモックひとりしかいない。キブは大人しくうなずいた。ヤモックは水の中を掻くようにしてアニの方に手を伸ばした。アニはひょいとその手を取った。

 思いの他時間が経っていたのか、それとも知らない間に眠っていたのかもしれない。夏の早い夜明けがもうはじまっているのだ、闇の濃さがずっとやわらぎ、()()の形が見てとれるもの。

 老いた森は朽ち落ちた部分に虚空を覗かせ、さらに奥の迷路の口をいくたりも示していた。ふたりの休んだナラの木の林床には柔らかく葉先を巻いた羊歯が伸び、腐葉土はびっしりと雨露を含み、ギンリョウソウの花群がそこここにほの白い小さな噴泉のように頭をもたげている。樹間の間を縫うように渡り下ろうとする、ひょろりとしたヤモックの影が見える。空を探る手は翼のように軽く優美だが、抜き足差し足して慎重に素早く動く四肢は女郎蜘蛛のようだ。

 ヤモックの指す方角が分かると、アニは地面を這う根の脈や雨水の流れに気をつけながら、ヤモックを前に押し、キブを後ろに引き寄せるようにしてどんどんと下って行った。  

「おいおい、雀!」ヤモックが驚いて呟いた。「ひと休みしてから目を取り換えて来たみたいじゃないか!鳥は鳥でもまるで梟だ」

「小父さんは見えているのじゃないの?烏のヤモックでしょう。」

「見えるもんか。雲のせいで先よりも見えないくらいだ。」

「もう夜明けが近いのじゃないの?」

「いいや!」

 アニは黙った。何かが目の当たりで閃いて消えた。思わず目をこすろうとヤモックの手を放しかけた。

「どうしたんだ?」ヤモックが尋ねた。

「何も。目の前を何かが飛んで行ったの―――蛾かなにかよ。」

 一度目を閉じても目の前に見える景色は変わらなかった。アニに目配せをした黒い瞳はそのまま夜闇を見とおす力を彼女に貸し与えていた。


 イズ・ウバールの小高い丘を下り、灌木を伴った落葉樹の森に差し掛かる頃には、いよいよ兆して来た夏の夜明けがヤモックの目を確かにしてきたようだった。アニとキブにも見覚えのある、きれいに均された二水路(ツルクシノン)の堤が藪の向こうに見えると、ヤモックは立ち止まり、瘤の突き出た古い槻の木の幹を少し上って水路の上を見回した。それは既に長年にわたってタパマたちの物見台の役目を果たして来た大木のようだった。ふたりを下に待たせ、ヤモックは低木の梢を越えた先を見晴らすと、空に顔を向け、烏そのものになったように声を放った。

 アク、アク、アク……。

 アニとキブは好奇心と恐れを込めて目を交わした。ヤモックの烏の鳴き声は青頭巾の仲間たちにも知られているはずだ。タパマたちに送る合図かしら?それとも、まさかとは思うけれども相手に聞こえても急には襲って来られまいと高をくくった上での愚かな挑発かしら?

 途端にふたりの上からびっしりと無数の音が天蓋をなすようにして烏の鳴き声と羽音が起こった。続いて身をすくめるふたりの耳に、水路の上から応えるようにシギの声が上がった。

 ヤモックは木から下りてきてふたりを急かした。

「急げ。あそこにヤマナラシの木が並んでいるだろう?あの木の後ろで待つんだ。」

 ヤマナラシの下に行くと、既に堤の下の水辺に小舟をつけた小柄な男が待っていた。

「派手に吹聴したもんだ。」

 男はヤモックを見ると文句を言った。

「おれが近頃この辺りにいることはどうせ奴らには知れたことだ。目下夢中の悪さからちょいと手を控えてくれるならその方が望むところだ。」ヤモックは言った。「青い首領は戻って来たか」

「昨日環状路(クノン・カマカイ)にいれば、グリュマナの一味の堂々たる行進が見えただろうよ。奴の部下を名乗る三下も、それとやりあってた百姓もない、どちらも大人しく荒れた高地の物陰に潜んでしまった。グリュマナは何の抵抗にも遭わずに新門(タキリ・ソレ)を取った。」

 男は少年と少女にちらりと目をやった。

「客はその子らか?あんたか?」

「両方だ。主水路(アックシノン)を昔の管理官舎まで遡ってくれ。」

「ほんの一時前もあんたの倅とサマタフを渡してやったところだ。奴さん等はキリ・シーマティの方へ行った。」

 男は堤に打った杭をつかんで舟を寄せた。 

「雨で増水して“夫婦川”の方に流れていく力が強い。向こうには何とか渡してやるが、そこから先は歩きな。官舎までは半里もない。」

 男が手を放した途端、小舟は恐ろしい勢いで流れの中心に引き寄せられた。渡し守は顎の下に深いへの字の皺をきざんで櫂を漕ぎ、舳先を対岸へと向けた。小舟は少しずつ下流へと流されながら岸に近づいた。左の堤の先には主水路(アックシノン)の水の合流点があり、その先は流れを倍にして流れ下っている。

 左から加わった水の流れが舟をさらう前に、ヤモックは艫のほうから岸の杭めがけて投げ縄を投げ、渡し守も櫂を引き上げると同時にもやい綱を投げた。

 アニとキブは先に舟を下り、ヤモックは男が差し出した台帳代わりの木の札に小刀の切っ先で(アーキ)を表す三角と“オロ”という文字を刻んだ。

「おれはしばらく二水路からは姿を消す。」舟頭は不機嫌に言った。「いずれ、青頭巾の手下たちがここに手を回すだろうからな。渡しが入り用だったら頭領を呼んでくれ。」

「頭領はどこにいるんだ?」ヤモックは口元をにやりとさせて訊いた。

「コタ・ラート、コタ・イネセイナ、クマラ・オロの中の?」

「今なら主水路、二水路、コタ・イネセイナの三角の中さ。」

 男はもやい綱を解き、舟をそのまま二水路の下流、夫婦川そしてクマラ・オロへと向かう方へ流れに漂わせて行った。

「小父さん、グリュマナを挑発するために烏の声で呼んだの?」アニは非難した。

「私とキブを安全なところに匿うと言いながら、よく賊を呼び寄せたわね。」

「呼び寄せた?グリュマナをか。いや、来るもんか」

 ヤモックはわざとらしく()()を切り、白髪交じりの頭を掻きむしりながら横を向いた。

「そりゃ、グリュマナにも分かるように鳴いてみせたさ―――来るもんかね。奴の手下がちょっと浮足立つのが関の山だが、今はそれで充分なんだ。奴が来る?へん、グリュマナにとっておれが何だね?お前さんやキブが何だね?安心しな!」

 二水路の堤とその上を通る管理通路の向こう側は、かつてイズ・ウバールの一部だった名残りの森が上流に沿って続き、雲に隠れて昇ってきた日の光をも遮って堤と水辺を蒼い陰の中につつんでいた。しかし、ずっしりと石を積んで固めた主水路(アックシノン)の堤は広く、その面は平坦に空の下に開け、目の届く限り遠くに続いていた。

 キブとアニはむしろ嬉々として、広々とした堤の上に上がった。水路は話に聞いた通り、大きな荷舟が楽に通れるほどの幅がある。通路の端まで行って覗くと、雨で増水した澱みの下に一段低い側路が沈んでいた。整然と切り通された水の帯の向こうには、シギル王の時代に水路の建設と同時に拓かれた農地がある。

 アニは伸びあがって向こう岸を見た。かつての第一家の所有する穀倉地であった麦田が、高く生い茂る種々の草と穂を交えて弱い朝日を受けて実っていた。

「麦が実っている。」

 二クマラの麦田を凌ぐ耕地の広さと、その荒れた様子とに驚いてアニは静かに呟いた。

「あんなに荒れた中に実っていて、それもたくさんあるのに、ちっとも刈り取られていないわ。」

「それはそうだ。」

 ヤモックは不機嫌に言った。

「あの田を世話する者はもう何年もいない。あそこは第一家の所領だった。主だったシギルが亡くなり、王女もいなくなり、火山灰が収まった後にアッカシュが王女から取り上げて嫁に与えた。その嫁も死んだ。主が変わる間も変わらず耕地を守って来た者たちも年老いて死んだ―――。さあ、あと半里頑張って歩くんだ。夜も明けたし、見ろ、天下開けっぴろげときたもんだ。堤の上を真っ直ぐに行きゃあいい、だが、賊に見つからんうちに頼もう。」

 ヤモックが追い立てるように声を上げ、キブはほとんど勝手知ったる様子で駆け出した。アニはその後を追いかけた。 

 広い戸外を思う存分に駆ける喜びが足の力を呼び覚ました。驚いたことに程なくキブに追いつき、抜かれる少年の悲鳴を心地よく振り切ったころ、左手の森を抜けて視界が開け、遠くに広がる丘陵地が現れた。アニは一瞬足を止めてそちらを見た。

 弱い茜の陽光が頂に冠した城市の三層の城壁を縁取り、畳なづく裾野の田園は熟れた麦田の淡色の縞模様をところどころ浮き出している。未だ遠く、その街の大きさをつかむのは難しい。そして開けた空と後背の山塊の前にあるそれは、むしろ小さく見える。アニの背筋に乾いた喘ぎのような笑いが走った。背後に峩々たるイネ・ドルナイルが前日と同じ姿を見せ、鈍色の空を背にそびえている。

 キブが横で息を弾ませている。アニは飛び跳ね、キブの横をかわすようにして再び駆けた。心の奥でそうしなさい、と囁きが聞こえたのだった。

 アニは後ろのふたりを振り返りも待ちもせずに、時折拍子を変えて駆けた。今ではもう遠くに見えている、緑の垣に囲われた石造りの、大きくはないがしっかりした構えの建物をそれと見定めて駆けて行った。

 もう目的地も近いと見てようやく歩きはじめた時、アニは今度は水路の向こうの農地を丹念に眺めた。何軒か家の固まった集落らしきものが見える。行くての遠くを横切るクノン・ツイ・クマラのあたりに沿って集まっている。これまで草むらの間に覗く納屋をいくつか見ていたが、人のいる様子はなかった。集落もまたそうだった。近寄るごとに明らかになってくる農家の様子は、あるいは屋根の落ち、あるいは藁葺きに青草が芽吹きこれも穂をあげ、戸のとれてがらんどうの屋内を表わしていた。追いついたキブもまたほとんどアニと変わらぬ関心を寄せて見つめた。

「ここももう終わりだ」

 キブの後ろからあからさまに大息をついてヤモックが言い、少年の肩を手で叩いた。

「なあ!ここは青頭巾にはやられなかったが、その前に主に見捨てられた。終わったものをそんなに見るな―――お前の今日の宿はこっちだよ。頑丈できれいで安全だ。」

 クノン・ツイ・クマラはもう目の前に横たわっていた。その向こうに通りから奥まって、蔦の纏いついた垣にぐるりを囲まれた、石造りの小さな建物があった。

 ヤモックは先に立って垣の蔦を持ち上げた。その下は煤けた丸木の柵の骨組みだった。生垣に見えたのは蔦の繁茂した柵だったのだ。ヤモックは柵の横木を一本外し、開いた隙間から入るように促した。アニが、続いてキブが入り、ヤモックは入ると横木を戻さず柵の内に立てかけておいた。柵の下には枯れた木の枝がまだみっしりと網目を残している。柵の内側にはきれいに均して石を敷いた前庭があり、藁葺の屋根の石造りの家がある。

 公道と主水路の交点に置かれた水路の管理官舎は、十五年前の噴火の灰の汚れと傷を残しているものの、旅人の宿としては申し分なかった。

 シギルとトゥルカンが協力して事業を行った平和な時代の建物は、当初ごく当たり前の町の家屋のつくりで建てられた。正面に入り口と窓を広くとった帳場を備え、扉の内には暖を取る炉を備えた談話の間、その奥に壁で仕切って簡単な煮炊きをする土間の台所と宿直の者が泊まる寝室が備わっていた。やがて家屋の裏には役人の休憩と手慰みの園芸のために小さな庭園が設けられ、後年にはそれらは頑丈な柵で裏打ちされた低い生垣でかこわれた。不穏な世情への備えとして設けられた生垣だったが、初夏には可憐な花を咲かせたのだった。

 戦乱の折の攻撃とその後の降灰によって木は枯れはて、黒く煤けた柵が残り、内側の小さな家の盾となっていた。

「きれいね、きちんと掃除をしたみたいだわ。誰も住まないの?」

 中に入ったアニは、新しい宿を訪れた時の習慣で、中を隅々まで見て回って戻って来た。

「いちいち尋ねることに事欠かない奴だな」

 ヤモックは屋内に入ってから一刻たりともぐずぐずしなかった。もの慣れた様子で室内と三つの出入り口に目をやると、中央の卓のそばで武器の状態と持ち物を素早く点検し、食糧袋の口を覗いてお決まりの菓子を無造作に二枚つかみだしてアニに渡した。

「―――ここに戻って来るまでの食糧だ。お前たちを飢えさせないという約束は出来ないかわりに、お前たちが気をきかして自分の口を救った場合、支払いはおれがしてやる。少々後になってもな。窓は鎧戸が閉まるし、戸には掛け金もある。柵の横木も中に入ったらきちんと渡しておくんだ。もしも―――もしものことがあったら台所の裏から水路に下りていける。逃げるには泳げなきゃならんがな!」

 いつ帰るの―――?思わず尋ねそうに身を乗り出したアニを遮ってヤモックは手を振った。

「ところで、一方、この家はなるべくきれいにしておいてくれ。この家は誰のものでもないが、お前たちはここに匿われるんだからな。」

 アニは胸に手を置き、頷いた。その目は台所にある箒を見つけていた。


 ヤモックが出かけた後、ふたりはすぐに柵から抜け出し、公道まで駆けて行ってクノン・ツイ・クマラを見渡した。ぼろぼろの黒い外套をまとったひょろりとした人影は長く延びる道のどこにも無かった。すぐにどこか物陰にはいってしまったのだ、森のように深い木立ちもなく、家々の壁も無い、開けた空の下の野で。

 アツセワナの方に向かう道脇に広がる景色は灌木の混じった原に見えたが、これもまた小道を巡らせた農地なのだった。

「ひでえ」キブは呟いて顔をそむけた。茅、イタドリ、蓬、アザミ…これら麦に立ち混じっている草木は畑でみつかれば怠惰と恥の印とされている。

 ふたりは水路に目をやり、申し合わせたようにそちらに走って行った。水路の内側の農場の方へ掛かる木製の大きな橋は、年月と風雨と戦乱にさらされ、ひび割れ泥にまみれていたが頑丈で危なげなかった。

「あの麦を刈り取れる。」

「あんたもそう思う?納屋に道具が残っているかしら。」

 沿道の農家に人の住んでいる様子はなかった。通りから集落の間の細道に入って行くと、草生した小さな広場があり、もうひと群れの農家の間を抜けると、広い農地に出る。ここでも丈高い草の間に髭を白く光らせた麦が実っている。

 アニは畑に分け入って穂首を捉まえ、摘んでみた。昇った日に雨露もだいぶん払われ、乾いた穂は難なく摘めた。

「もう刈り取らなきゃ」 

 鎌が要る。アニは納屋を探して辺りを見回した。仕事を見つけたからには取り掛からないわけにいかないのはキブも同様だった。ここに何日留まることになるかは関係ない。鎌が要る。脱穀用の殻竿も、碾き臼も。

 もっとも近い納屋は、今出て来た集落のはずれのほうにひとつ見えた。ふたりは早速行ってみた。

 扉が開いたままになっていた納屋の中はきれいに空だった。造り付けの棚には道具はおろか、箕や籠の類さえ残っておらず、吹き込んだ朽葉や塵の他には藁縄ひとつ床に落ちていなかった。

「泥棒が入ったのじゃないわ。」アニは考えて言った。

「―――引き払って行ったんだ。」

 キブが考えを言い、アニは頷いた。引き払って行ったのだからちゃんと使える道具は何ひとつ残っていないわけだわ。道具が無い中でどうやって仕事をしようかしら……。

 きれいさっぱり何も無い土間の真ん中に立ち、腕を組んでアニは考えた。

 納屋の裏で草が鳴り、何か柔らかく鈍く重い物が締め切りの反対側の板戸を押した。下の方で続けてやや堅い物が当たる小さな音が続けて鳴った。

 キブが、続けてアニが開け放した側から続けて表に滑り出、草の生い茂った側面を周り、音の聞こえた裏手を除いた。

 納屋の裏手には寄せかけの薪小屋があり、風除けに植わった樫の木立ちに沿うようにして蔦に覆われた家畜小屋と家畜囲いがあった。どちらも壊れ、草が伸び、茨の蔓が這っている。

 薪小屋の手前にかしいで土と草に埋もれた板戸があり、ちょうどその前に、もつれた亜麻の塊のような大きなものがむくむくとうごめいていた。奥に向かって震える鼻先が持ち上がり、低い両耳が開いて二、三素早くはたいた。向きをかえようとする肩と蹄が板戸に当たり、音を立てたのだった。

「羊だ」

「雌だわ」

 アニとキブとは同時に同じことを思い、値踏みするように羊を眺めた。

 ふいに草の中からか細い赤ん坊に似た声が聞こえ、白く艶やかな綿に似た毛色の子羊が顔を出した。

「やっぱり」アニはキブを見やり、にやりとした。

「さて、桶があれば乳を搾るんだけれど」

「先に囲いに入れよう!」

 キブは躍りかかるように母羊に首の後ろの毛をつかむと、納屋と薪小屋の隙間から引っ張り出し、苦労して向きを変えると、ちょうどアニが横木を持ち上げた囲いの隙間から中へと追い込んだ。子羊は鳴きながらその後を追って行った。

 家畜囲いの内は固く均した地面からもまばらに草が伸び、羊の腹を擦るくらいの丈になっていた。間もなく羊は落ち着いて草を食みはじめた。

「毛を刈ってやらなきゃ」キブは羊の顔の前にもしゃもしゃと垂れた毛をかき上げて言った。「蹄も汚れている。」

「鋏ならあるけど、羊の毛を刈るには小さいわ。」

 要る道具は増えるばかりだ。

「鎌も殻竿も臼も欲しいけれど、今はなによりも桶が欲しいわ。ほら、乳が張って固くなっている。子羊にはもうあまりお乳がいらないのよ。―――納屋に無いなら、家の中をひとつずつ見て回りましょう。誰も住む人がいなくなったのなら、使っても構わないわよ。」

 キブは返事をせず、石になってしまったかのようにすぼっと立っている。アニは顔を上げ、キブのそばかすの散った、骨ばった色白の顔が当惑して見ている先を見た。

 家畜囲いの外に、むつかしい顔つきをした小柄だががっちりとした年配の男が立ってこちらを見ていたのだった。


「誰だ?」

 男はふたりを眺めたあげく、尋ねた。アニは立ち上がりながら相手を真っ直ぐ見返し、両手でスカートを払うと答えた。

(アニ)よ。それに木っ端(キブ)。」

 男は難しい顔のままわずかに片頬を歪めたが、同じぶっきら棒な調子で尋ねた。

「どこから来た?」

 アニは大きく息をついた。このふたり連れではどう見てもきょうだいには見えないし、嘘には負債がつきものだ。それに辺鄙なところで行きずりにであった農夫に大して隠すこともない。

「二クマラから来たけれど、もともと私はコセーナから来たし、キブはカヤ・ローキから避難してきたのよ。」

 コセーナと聞いて男はいっぺんに様子を変えた。柵を乗り越えかけ、思い止まってもどかしそうに手招きし、自分でも柵を周って近寄ろうと茨の蔓を押分けた。

「この羊は小父さんの?」アニは尋ねた。

「そうだ」男は顔を赤くして頷きながら答えた。

「ここは小父さんの家畜小屋?」

「ちがう」男は首を振った。「うちの庭から逃げたんだ。」

「じゃ、畑の小道のところまで連れて行くわ。村から真っ直ぐ下りてきたところね。」

 キブが母羊を苦労して草むらから引き離して柵から出し、アニが子羊を連れて行った。

 男は羊を受け取ると、ふたりに向かって来い、という風に顎をしゃくって村の方に向かって歩いた。

 アニが何か尋ねはじめる前から、男は次々と質問を始めた。

「コセーナからって?聞くところによると、コタ・ラートの向こう岸には長い長い壁が出来てるっていうが本当か?」

「そうよ。ご存じのように十六年前にベレ・イナの噴火があって、コタ・レイナ州は長いことイナ・サラミアスの灰の始末に苦しんでいたの。ひとりのイーマのおじいさんが、火山灰に焼いた石灰と水を入れて混ぜると固まると教えてくれたのよ。それで三つの郷は協力して火山灰で煉瓦を作り、アツセワナから攻めて来る敵を防ぐために壁を作ったのよ。」

「アツセワナから攻めてくる敵っていうのは誰だ?」

 男は白髪交じりの濃い眉をひそめ、胡散臭げに訊いた。

「アッカシュとアガムンよ。」

「アッカシュ様が―――」男は気色ばみかけたが元気を無くして言い足した。「まあ、そうさな。敵に回っていたのは事実だからな。」

「事情によっては味方しないこともないわ」アニは上目づかいに見返した。「そうね、昨日あたりから変わって来たわ、私としては、アッカシュがちゃんと頼めばね!―――アガムンはもう死んだけれど。」

「アガムンが、死んだんだと?」

 男が大声をあげたので、アニは警戒して男を見返した。

「小父さんはアガムンの家来だったの?」

「まさか、さあ!」男は首を振った。「で、死んだのか?」

「そうらしいわ」アニはさすがに声を小さくした。「私がちょうどコセーナを出たころよ。コセーナに長年匿われていたアツセワナのロサリス王女をアガムンは無理やり娶って王位を手に入れようとしていたの。コタ・レイナの同盟の三つの郷の男達は、王女を迎えに来たアガムンとその家来たちをコタ・ラート橋の上で待ち伏せしたの。そして、コセーナのダミルが―――」

「待て、待て―――」男は慌てて遮った。

「こいつは後でゆっくりと聞かせてもらわにゃ。で、お前さんはそこを越えて来たっていうのかい?」

「そうよ。」アニは男と同じくらい目を丸くして聞いているキブにも構わずしゃあしゃあと言った。

 男は改めてアニの容貌と身形を眺めると几帳面な調子で尋ねた。

「コセーナの、荘の(もん)かね?シアナの森の大きな百姓か?父親は誰だ?」

 アニが領内の丘の上で暮らしていたと尋ねると、男はだいぶん年寄りの重鎮の名前を五、六人挙げ、同じくらいの数の、聞き覚えのある名と知らない名前を挙げた。それから気付いて、思い出すのに苦労しながら、先に挙げた年寄りの息子たちの名前をいくつかゆっくりと挙げ、他にも誰それのアートだの、誰それのイーだのと領内の百姓や羊飼いの老人の名をあげた。

 どうして子供に親の名を訊くというと男親しかいないみたいに訊くのかしら?

 アニが男の質問に面倒になり、綿々と連ねる名前のひとつに生返事で応えようとしたとき、男は苦々しく何かを思い出して顔を歪めた。

「エマートの奴は死んだんだった。生きていたら嫁を貰って子供のひとりふたりももうけていたろうになあ。」

 男が言葉を切ったのを潮に、アニは攻めに回った。

「小父さんは私たちを羊泥棒だと思ったの?」

「他にどう思うんだ、余所者が村に黙って入りこんでりゃ?」

「私は羊が迷い子だったら欲しいと思ったわ。村に人が住んでいるようには見えなかったし、納屋は空だし、柵は壊れて」目を細めてキブに目配せし、男の連れている羊を指差した。

「汚れていて毛も刈られていないわ。」

「わしの羊だよ!」男は怒って言った。「お産の時季からこのかたずっと寒かった。わしの神経痛が治まったら刈ってやるつもりだったんだ。」

「雌しかいないの?子羊は?」

「村の最後の者が引き払って行った時に、うちに残っていた雌二頭に種をつけてもらったんだ。もう片方のは死んじまった。」

「じゃ、盗らないでお家の庭まで送って行くし、桶を貸してくれれば乳を搾ってあげるけれど、椀にいっぱいずつ私とキブとに振舞ってちょうだいな。」

 男は唸り、渋々頷いた。アニはキブの方に大きく振り返り、手を振った。

「キブは羊の毛を上手に刈れるわ。もし、毛刈り用の鋏を貸してもらえれば―――」

 キブが手桶の水でも浴びたというように顔をうなずかせるのを男はじろりと見た。

「ひとりで羊を押さえてすっかりやれるわ。」アニは言葉を添えた。

 男が顔を巡らし、何か言いかけるのをアニは気付かぬ体でぐるりと背中を向けて麦田を振り返ると、後ろ向きに歩きながら声を一段と大きくして、

「すっかり熟れているわねえ」と言った。

「村じゅうが引き払ってしまって、小父さんはまだここに残っているんでしょう?」

「しようがないだろうが。」

公道(クノン)の向こう側の人達も行っちゃったの?」

「ああ」

「それじゃあ、残ったものの面倒を見られるのは小父さんだけだわ。」

 男は黙り、それから畜生、と呟いた。

「私たち、今朝、水路の向こうの管理官舎に着いたの。」

 アニは前に向き直るときびきびとした口調で言った。

「二クマラで起こった騒ぎを逃れてきたの。一緒に逃げてきた連れが追い付くまでそこに居るけれど、出発が何日後になるか分からないわ。当面食べていく術が欲しいの。私もキブも百姓家でするような仕事なら大体できるわ。―――小父さんの家にはまだ鎌があるかしら?箕や殻竿、突き臼はある?もし、貸してもらえたら」

「あんたはだいぶん生意気だな。」

 ついに男は言った。

「ちょっと遠慮をしてりゃ、いちいち人の前を取ってよ―――誰があんたらを泥棒呼ばわりした?ひとをけちんぼの情け知らずに仕立てやがって。誰が、あんたらをしょっ引いてひどい目に遭わせると言った?誰がひもじいまま返すと言った?全部あんたが自分で勘ぐって言っているんじゃねえか。うちに是非寄って行って女房に会ってやってくれ。話も聞きたいし、手伝ってくれるなら、飯のもてなしもしてやろうから!」


 男は集落の広場を囲んで建っている農家のひとつにふたりを連れて行った。裏に回って庭に作った小さな囲いに羊を繋ぐと男はそこで女房を呼んだ。

 菜園にいた小柄な華奢な女が垣の戸を開けて出て来た。洗いざらした前掛けをし、広いひさしと日よけのベールをつけた頭巾をきちんと被っている。

 女房の様子物腰はコセーナの女達よりもむしろアツセワナの貴人の邸に長年仕えたアドルナに似ていた。肌と髪には年月のもたらした染みと色褪せが見られたが、品よくきれいであった。アニは道すがら亭主を悩ませた減らず口を引っ込め、事情を説明する亭主の後ろで大人しく待った。

「アートはカヤ・ローキから?それは災難だったわね。この頃の時世では誰も皆同じ、仲間だわ。―――イネはコセーナから?まあ懐かしい。」

 女房は菜園で獲れたわずかなエンドウ豆と間引いた青物を台所の洗い場に置きに行き、代わりに桶を持って戻って来た。

「搾ってくれる間に食事を用意するわね。一緒に食べて、それから話をしていってくれるでしょう?」

 アニは女房から桶を借りて羊の乳を搾り、その間に女房は料理をした。

 男は用心深く戸口の前に立ったまま、キブが第五家(カヤ・ローキ)の農場でしていた仕事を季節を追って事細かに聞き出し、次いで二クマラでのふたりの仕事ぶりをキブとアニから交互に聞いた。

「家にはわしの使う道具はある。だがそれきりだ。村じゅうを家探しすれば何かあるかもしれんが、わしなら泥棒みたいに人の家に入るのは嫌だね。」

 搾った乳を台所に運び入れてきて、アニは通用口の段にぴょんと跳び下りた。久しぶりに小ぎれいな台所で作られている料理を見、匂いを嗅いできたところで早くも軽やかな気分を取り戻していた。

「私は入るわ。空き家に主はいないし屋根は屋根、道具は道具で人を待っているもの。だけど、それで時間を取られるのは嫌ね。」

 アニは腕組みして男を見上げた。

「麦は穂さえ摘み取ればいいんだわ。荒れた畑の麦藁には草が混じってしまう。私とキブは残された麦の穂を摘む。小父さんは自分の麦田で欲しいだけ藁を刈り取ればいい。」

「どれだけできる?」

「ここにいられるだけ、雨が降らない間だけよ。」

「あんたには女房の手伝いもして欲しい。倍の口に食わせにゃならんからな。日に二度の飯、それから宿は……。」

「要らないわ、日が暮れる前に向こう岸に帰るもの。」アニは首を振った。「それに、出かけることになったら夜中だって私たちは出かける―――挨拶に来られないかも。」

「挨拶には来るもんだ。」

 男はふとこれまでとは違う厳めしい面持ちになって言った。

「互いの利益のためにもな。わしはこれでも昔は五、六人の大の男を使っていた。あんた達がほんの子供だからといってただ働きはさせられん。とは言ってもどれだけ役に立つか見ないことにはわからんし、働いても実入りがたっぷりという保証はない。」

 捨てられた農場は広大で、荒れているゆえに作業はより煩わしく、労働の成果は上がりにくいだろう。アニとキブには自分たちの拾い上げる穀粒が雀のそれと変わらないささやかなものであろうことが分かっていた。

「残った田は半分は小父さんのもの、半分は雀のもの。」

 アニは厳かな顔つきで男を見返し、節をつけるようにして唱えた。

「私たちが小父さんのために働いたらその日の日暮れに日当をちょうだい。穂を摘んだら半分は小父さんのもの、半分は私たちのもの。脱穀をしたら半分は小父さんのもの、半分は私たちのものよ。」

「上手いことを言っているようでなかなか判じ物だわい。」男は呟いた。

「初めのうちはあんた達は来る日も来る日も髭付きの種ばかりもらうわけだ。そのうちパンが欲しくなる。うちの臼を挽きに来、うちの竈でうちの薪を使ってパンを焼くことになる。わしが同じようにあんたに言ったとしたら、だ、あんたはもらったものが半分に目減りする。」

 アニは肩をすくめ、キブを見た。「粉が欲しくなったら臼を借りる時に文句を言わないわ。それに籾は籾で上等よ。種になるもの。」

 キブはアニの横で百姓を見返し、頷いた。男は手を打ち、言った。

「あんたがそれでいいというなら決まりだ。」


 こじんまりとしているがきちんと片付いた家の中で夫妻と一緒に食事を振舞われた後で、キブは貸し与えられた毛刈り鋏を手に庭に降りた。

 男は通用口の下り口の石段に立ち、キブが狭い庭の中で、何度か逃げ出されながらも羊を両膝の間に押さえこんで伸びてもつれた毛を刈り取るのを眺め、満足すると、段に腰をおろして女房と一緒に杏の実を選っているアニを相手に身の上ばなしを始めた。

 男は先祖からずっとコセーナに仕える農民で、そこそこの齢になると一区画を監督する立場に昇格した。エファレイナズの内乱の初期、コセーナの家に跡目争いが起こり、シグイーの息子たちのうち、兄ダマートの後を追って郷を出たのだという。

 女房は先代シグイーがコセーナに婿入りした時の従者の娘で、若い頃はコセーナの館で領主の奥方に仕えていたのだと言った。ダマートの守り役だった兄の要請に従って郷を出、ダマートの仕えていた第三家(カヤ・アーキ)を訪ねて行ったが、カヤ・アーキのアッカシュは既に亡き王への背信の廉でダマートを罷免、放逐した後であり、兄の行方も分からなくなっていた。そのままカヤ・アーキの内働きに入り、後でやはりダマートの行方を追って来た男と同郷のよしみで一緒になった。

 わしにはもったいない女房さ、と男は言い添えた。女房(これ)は教養もあるし、アッカシュの子息が嫁をもらった頃までずっと邸で仕えていた。女房のほうが少し年上でふたりの間に子供はいない。内乱と噴火の大変な最中で、だいぶん遅い結婚だったしな。

 夫妻がこの水路の内の農場に移って来たのはほんの七年前だった。この土地はもともと第一家カヤ・ミオの領地で、開墾以来シギルに仕える百姓が住んでおり、噴火の後でさえ、飢えと病に少しずつ数を減らしながらも農地を守っていた。イビスからの嫁の輿入れの時に、アッカシュは正当な後継者の不在を理由に第一家の所領を支配地の中に組み入れ、中でもロサリス王女のものであった農地を花嫁のものとして配下の農民に監督させた。

 わしら、コセーナから来た新参者はその手先に当てられた。主を失くし、先からの耕し手が押しのけられた空きの家に住まわされたんだ―――男は言った。もともとの村の者たちの恨みを引き受け、新しい主家には誠心誠意仕えて小作料を納めるんだ。そうでなきゃ、置いてもらえん。

 三年前にアッカシュの息子の嫁はお産で亡くなり、嫡男の誕生に期待を寄せていた領主の邸は悲しみに包まれた。しかし喪が明けるや否やという時に、アガムンが亡き人の地所であったこの地域に兵士を差し向けてきた。

 もともとはロサリス王女の土地であったのをアッカシュが掠め取ったのだ、怪しからん、というのがアガムンの言い分だったが、その実は第三家の不幸に付け入ってのことだ。八年前にはそんなこと、おくびにも出さなかったのによ。大体、自分は前に王女を殺すためにコセーナを襲わせたと言うじゃねえか―――男は首を振った―――情けないのは、アガムンが遣わした兵の中には昔ダマート様の後を慕ってコセーナを出、お家騒動で敗退した後でイビスや第五家に転がり込んだ連中がいたということさ。身を寄せた先で粗末に扱われたことではわしら以上だったね。わしら、監督の呼び出しを受けて境界に助太刀に出たがよ、道沿いにぐるっとお出ましになった面々と鉢合わせた時の間の悪さときたらなかった。かつての朋輩の成れの果てよ!

 アッカシュは自尊心に懸けて境界の防備を怠らなかったが、農場の収益は衰え、二クマラとの取り引きが滞るようになったため領民の暮らしはますます乏しいものになった。そしてアガムンの表立った挑発は減ったものの、領内にアガムンの配下を名乗る匪賊が現れるようになった。

 去年あたりから、いよいよアガムンとアッカシュ様の仲違いは一触即発のところまで来たんだ、と噂が立っていた。アガムンがしばらく鳴りを潜めているのは何か奇策を用意しているからだ、とまことしやかに話す者もいる。どこからどうやって聞いてくるものか、よ。

 警備の巡視に回ってくるのが減り、邸から兵士の召集がかかったという噂が流れると、村の者の心配はますます募った。若くて身体の利くものはそのうち戦に駆り出される。イビスからも第五家からも、気の利いた者は皆、家財のほか、監督の手薄な家畜、農具や金目のものを持ってこっそり逃げるんだと。―――この話をした男はそれが言い訳になるとでも思ったか、二日後に女房子どもを連れていなくなった。それを皮切りに、未練の薄い者から順にどんどん出て行った。村を出た者たちがどこへ行ったのか、誰も確かな事は口にしなかった。東の方か、南の方か。自営農の土地に行ったのか、コタ・ラートの向こうまで行ったのか。

 後に残った者は年のいった者、第一家の頃から仕えていた、土地が愛おしくて離れられない者だ。

「だが、しょせんここは新しい村だからな。年寄りたちもやがて、子供時分に住んでいた丘の麓の方に移って行った。」男は垣根の向こうの草の生い茂った隣家の庭に手を振って言った。「あちらも入って使ってくれと言われたがな、自分のところだけで精一杯で構っている暇もないよ。」

 アニはひょいと首を伸ばして垣の向こうを見た。

「梨の実がなっている。どう見ても多すぎね。あとで少し摘んでおくわ。熟れる頃には私たちはいないでしょうけれどね―――小父さんたちは帰ろうとは思わなかったの?コセーナに」

「今さら、なあ。」男は女房を見て言った。

「皆、ここを新天地と思って頑張ったがもとには及ばなかった。今のわしらは年をとり、次に移っても今にさえ追い付くのは難しい。コセーナに?どの面下げて行ける?わしらは出て来た者たちだ。」

「そうね」

 アニは杏を両手に持ってしゃがんだまま、もじもじと物を探すように腰の帯のあたりを見、顔を上げた。

「私も同じよ―――特にバギルには合わせる顔が無いわ。小父さんたちについて行って口添えをしたいくらいだけれど。」

「バギル?」男は首を傾げた。「まさかトゥサ・ユルゴナスの庄長だった仁じゃあるまい。」

「そのバギルよ。顔見知りでしょう?」

 男は首を振り、尋ねるように女房を見た。アニは気付いて言いかけた。

「その頃にはまだコセーナにはいなかったのね―――」

 女は慎重に声を低めて言った。

「王様と王女様のお供でコセーナに一度訪ねて来られたことはありましたね。トゥルド様もご一緒でした。」

 男は少し考え、はん、と声をあげてキブの方に振り返り、羊を囲いに入れたら毛をまとめて鋏と一緒に返せ、と言った。

「お湯と石鹼があればここできれいに洗えるわ。桶も貸してもらえれば。」アニはすかさず言った。「もちろん、薪はキブが割るから」

「代金は?濡れた毛か?」男はぶっきら棒に訊いた。

「洗って垣の上に広げて干したら後で取り込むわ。」アニは立て板に水と言った調子で言った。「雨の日は毛を梳いて糸を紡ぐの。もし糸がすっかり仕上がれば半分もらうわ。晴れた日は麦で雨の日は糸紡ぎ。ご飯は毎日食べなきゃだけど、毎日晴れるとは限らないものね。」

 男はあっけに取られながらもちょっと面白そうに言った。

「今日麦にかからないなら駄賃には何を持って帰るんだ?」

「今の話よ。」

「話だと?」

「そうよ」

 アニはつかつかとキブに歩みよって丸めた羊毛の塊を受け取ると、段に腰掛けて広げた。

「私が仕事の報酬にもらうのは、雨露をしのぐ屋根にご飯に物語。そうそう、仕事のかわりに物語をすることもあるけれど、お代は物語でもらうことにしているわ。私は小父さんに噴火の後のコセーナの話をしてあげられる。アガムンがハーモナを焼き討ちにしようとしたことや、火山灰の煉瓦の壁やコセーナのダミルが橋の上でアガムンを迎え撃ったことは話してあげられる。だけど、順番でいうとそれはずっと後の話よ。私は小父さんと小母さんがコセーナに居た頃の話をもっと知りたいわ。」

 アニはそれだけ言うと膝に広げた毛の上にうつむき、絡まった塵や草の実を取り除けにかかった。キブは黙って鋏を納戸に返しに行き、かわりに斧を持って来ると、一抱えの薪を持ちだし、黙々と割り始めた。

「で、わしに話をしろってか?」男は声をあげ、両手で腿を擦った。

 アニは得たりとばかり顔を上げて尋ねた。

「シギル王とロサリス王女は何故訪ねて来たの?それはいつ?」

「春の初め、ごく親しい友人、家臣を同伴されましてね」

「夏の終わりだったか、おふたりで忍ぶようにしてな……。」

 夫妻はそれぞれに言い、顔を見合わせた。妻が言った。

「二度おいでになりましたよ。」

「そうだ。」夫は言い、声を低めた。「それを言うならまず、あのイーマのアートの話をせねばなるまい。もとを辿ればあいつがコセーナに来たことがはじまりなんだからな。」

「いいじゃありませんか。」妻は穏やかに言った。「ここで聞かれて困るような相手はいませんよ。それにずっと昔のこと、済んだこと、年寄りなら誰もが知っていることですしね。」

「その話を聞くわ」アニは元気に言った。「その若者はイナ・サラミアスから来たヒルメイのラシースのことじゃないの?」

「そうよ。」女房はアニを見返し、自分が取り掛かりを引き受けた、というように夫に頷きかけた。

「もう二十年も前のことよ。知っての通り、今のコセーナの主ダミル様には兄上がおられ、それは仲の良い兄弟でいらっしゃいました。おふたりとも申し分ない偉丈夫でいらっしゃいましたので、順序通り兄上が家督を継がれ、いっそう気骨があると評判のダミル様は王の婿となられるであろうと、郷の者たちは期待を寄せておりました―――。」 

  

 “黄金果の競技”は、期待に満ちて息子たちを姉神の山(べレ・イナ)に送り出したコセーナの殿と家臣のもとに、不和と悲しみの影を返してよこしました。亡くなったのは、若様たちと兄弟のようにして育った家臣の子でございました。ダマート様はご自分の処分についてしたためられた命令書と王女の婿決めの競技の顛末を記した書状を王より賜って戻って来られ、ダミル様は、婿の座を得る幸運を逃したものの、王と王女の御一行を王宮までお送りするため、アツセワナに寄って回られるということでした。

 殿様はダマート様に厳しく謹慎を申し渡したきり顔を合わそうともせず、奥方は心配なさって若様にあれこれ尋ねるものの、若様の方はふさぎ込んでそのうち母上を避けるご様子。そうして、失意と悲しみの冷めやらぬご領地に、ほどなくイナ・サラミアスからあの若者がやって来たのです。

 若者ははじめ季節雇いのヨレイルのように仕事を求めて参りましたが、季節はすっかり冬支度の蓄えも終えたところ、細々と仕事をしながら冬ごもりに入っていくところでしたので、田園の監督は所作優れて壮健な若者の遣り場を考えあぐねて殿様のところに連れて行ったのでした。

 奥方は昔、彼の地から預かったアー・ガラートの少年の頃にこの若者がよく似ているのを見て驚かれ、そのまま呼び名を緑郷の子(ロサルナシル)とし、人質の身の上だったかの少年の手慰みに与えていた軽い仕事に加え、領内の庭園や森林の手入れをさせることにしました。

 やがてアツセワナの王宮からダミル様が戻って来られました。ダミル様は若者を見ると驚くと同時に喜び、競技の詳細を知りたくて焦れておられた父上に請われるまま、その日の晩餐の席で競技の日の出来事を語って聞かせたのでした。

 偽の黄金果で勝利を主張なさろうとしたアガムン様の企みを暴いたのは、まさしくこの若者が姫君に渡した黄金果だったとか。そして、この若者は他の方々の与り知らぬ場でダミル様と争って黄金果を得たのだと。しかし、その他では急峻な山肌や他の競技者からダミル様を守ってくれたとのこと。

 もっともそれが全てとは申せません。ダミル様が天真爛漫に若者に「そうだったな?」と尋ねられても、若者の方は慎重に相槌も渋る様子でしたから。一方、久々にご家族と同席されたダマート様はさもそこに居るのが辛いご様子。母君は母君でそこに語られない部分に深い懸念を覚えておられる様子ながらも、若者の助力に感謝を述べられました。そうして殿と奥方のおふたりは若者に、望むだけ領内に滞在するように、もし差し支えなければ、手入れをされずに荒れてしまったハーモナに住んで丘の手入れと南の森の番をするように、と言われました。

 その時、黙然とうつむいておられたダマート様が憤然と顔を上げて言われました。

「このような、突然やって来た素性の知れぬ者に代々から続く地所を任せても良いのですか?」

 殿は非常に厳しいお顔でダマート様に降り向かれましたが、譜代の家人郎党、重鎮の老人たちも同席する宴の席とて言葉穏やかに答えられました。

「奥津城の守りであった館主夫妻が亡くなって以来、久しくあの場所には誰も立ち入らず荒れるに任せている。縁あってこの家に入った身として不徳を恥じるばかりだ。祖先への義理ばかりではない。西を中心に世相は変わりゆく。領土を正確に掌握し、放置されているものに適宜に人を入れ手を入れて将来のために整えておくことは必要だ。」

 こうして若者は館主のいなくなって久しいハーモナに森番として移り住んだのでした。

 私ども内住まいの女達はハーモナに行く事など滅多にございませんでした。奥方のお部屋の掃除に参りますと南に面した露台からこんもりと瘤のように盛り上がった森の頭が見える、ただそれだけのことでございます。夏になると緑に包まれますが、それが樹木の梢なのか、宿主を覆い隠してはびこっている蔦の類なのかさっぱり見分けがつきませんもの。城門の外の野良や牧場、南東の森に樵に出かける者たちの話によると、丘は藪に覆われ、邸は破屋と化し、庭木は弱って荒寥たる様であったとか。

 しかし若者は確かに癒しの手を持っていたのでしょう。そういえば、木霊(ヨレイル)とも呼ばれる、森の住民たちとも親しみ、彼らの方もロサルナシルを慕っておりました。ロサルナシルの言う事には、ハーモナを生かすには、程よく森を利用し森に報いる術を知っているヨレイル達を直に住まわせるのが一番というのでございまして、これは殿様の意向にも則したものでございました。殿様は見た目はいかにも森に覆われた丘のように、中はいざという時の避難所とも砦ともなり得るように拵えておくことを望んでおられました。

 こうして若者は丘に信用の出来る働き手を何人も得て、雪の降るまでの短い間にはびこりすぎた藪を払い、木の枝を切り詰めて、雪が降ってからは墓所と館の手入れに勤しんでいたということです。

 残念ながら、こうしたことが全ての者に快く思われていたわけではありません。若者のやり方はコセーナの昔ながらの仕来りや作法と相容れないところも多く、城内ではごく従順で慇懃ではあったものの、一刻な気性ゆえ(かしら)たちの指図に従わないこともあり、家人の一部には不満を持つ者もおりました。

 ダマート様はあからさまに若者と彼が集めたヨレイルたちを嫌がっておりました。何か不都合があると頭から彼らを疑い、面と向かって罵ることもありました。羊を盗んだ、と父君に訴えられたこともありましたが、牧童の数え間違いだったのです―――ロサルナシルは生き物(ノマ)の中では珍しく羊を嫌っておりました。珍しいといえば、この重宝な生き物の事をほとんど知らなかったのです。ともあれこの場合は無知が身を証したのでした、憶測が空耳を聞かせたか幻影を見せたか、盗みを証言する者もおり最後には殿様も疑いの目で若者をご覧になりかけたのでしたが。

 昔から仲の良かった評判のご兄弟が、この頃から傍目にもよそよそしく映るようになったと、少し噂されておりました。ダマート様が例の“黄金果の競技”で不正をなさるところだった、ということも下々の中ではもう知られておりましたけれども、皆は大方、トゥルカン様方の誰かの口車に乗せられてのことだろうと察しをつけておりましたし、王と御父上の不興を買った事に同情していましたので、この異国の若者の陰の功績を、誠に間の悪い、と口に出して言う者もおりました。

 ダマート様は、ほどなく謹慎の期間が過ぎたのを幸いに、アツセワナで伺候するのだと言われて早々にコセーナを発たれました。奥方の坪庭は確かに成長されたお子様方には手狭でした。


 女房が滑らかに話始めると、男は聞き耳をたて、頷いたり顔をしかめたりし始めたが、そのうち、自分にも言っておくことがあるのだった、といわんばかりに腰が浮きはじめた。

 女房はひと区切りついたところで夫に振り返り、あとはあなたの方が詳しいでしょう、と水を向けた。

「女房は奥方のお傍仕えをしていて話しぶりも上品だが、わしはそんなわけにゃいかんわ。」

 男は一応断ってみせ、妻に言った。

「ちっと言葉が汚くなっても堪忍してくれよ?」


 あの若いの(アート)は本当に羊が嫌いだったね。まるで人間のような声が嫌なんだそうな。可哀相に、生まれつきに罪は無いのによ。羊泥棒の騒ぎ以来、肉も絶対に食わなかった。疑いが晴れても羊なんかこの世のどこにも居ねえ、て顔をしていたね。

 ハーモナに移り住んでほどなく、あのアートは殿様に内々にお目通りを願い出た。ダマート様が行ってしまってから分かったことだが、屋敷跡の地下に部屋と古い通路を見つけたのでこれをきれいにしたいのだとか。

 コセーナのご先祖の墓と大昔の通路があることは、代々仕えている者なら野良に出ている者でも知っているよ。わしらも子供の時分には南の小屋の下の穴ぐらを出たり入ったりして遊んだからな。だが、暗い暗い先に行ったことはねえ。ハーモナに抜けるんだっていう噂はあったけどな。

 殿様は手入れを許可なさったそうだ。アートは他にも何か申し出たそうだ。殿様は好きにするがいいと仰った、それで丘にあんなにヨレイルたちが出入りするようになったんだ。丘を掘り、木も何本も伐った。連中だけでこっそり森の中でやっていた。ただ、ダミル様は見回りのついでにまだ通路も開けていないハーモナに馬で寄って行かれ、アートの仕事ぶりをご覧になってはひとり興がる様子で戻っていかれたそうな。ダマート様が面白いはずもなかろう?

 ダマート様は翌年の収穫祭が終わると、供をひとりだけ連れてアツセワナに行き、第三家(カヤ・アーキ)に伺候することになった。世間知らずに大事に育った若様だったが、親元を離れ庇ってくれる召使もいないところで腹をくくって真面目にお勤めをなさったんだろうよ、翌年には小さいながらも封土を賜った。

 他所の領主に仕える苦労もしたことだ、この辺で殿様も戻って来いと仰れば良かったものをよ。もし、そうして家督をダマート様に継がせるとはっきり仰っていたら、色々な間違いが起きずにすんでいたんじゃないか?あのイーマのアートだけどよ、あれは冬にやって来て滞在なさっていったトゥルド様が連れて行ってしまってた。いい頃合いで、親子水入らずで話し合って、わだかまりも解けていたんじゃないのか?ダマート様が跡継ぎとなりゃ、ダミル様は王女の婿になることにも少し本気になっただろうしな。

 あのアートはハーモナの仕事をやりさしにして行ってしまった。丘にはまだヨレイルたちが住み着いて()()()()と土を掘ったり石を動かしたりしている。わし等の仲間うちで血の気の多い奴らは、つまみ出しちまえ、って言ったね。あの小僧はもう戻ってこないんだろう、連中も用済みのはずだってな。だが、奴らはヨレイルたちが仕事をしているところまでもたどり着けなかった。どれだけ探しても、どこから丘を登り始めても、丘の周りをぐるっと回ってもとのところに下りて来ちまうんだ。上の方でヨレイルの奴らの話し声が聞こえているっていうのによ。しまいにはぴしっぴしっと石礫が飛んでくる。襲いに行った奴ら、足を棒にして下りてきて、二度とハーモナには近寄らなかった。ヨレイルはただ木霊(ヨレイル)と呼ばれているわけじゃない、イーマはたしかに連中の親玉だ、手懐けた上に術まで授けてさ、いや、気味が悪い。皆はそう言いあったもんだ。トゥルド様はあいつを連れて行ったきりにしてくれないかな、それでダマート様が戻れば元通りに収まるじゃないか。

 だが、ダマート様はその頃にはコセーナには戻るまいと決めておられたのだろう、夏に兄上に会いに行かれたダミル様は帰って来ると家督を継ぐ見込みも考えなすったらしい、大人びた神妙な顔つきで戻ってこられ、わし等代々から嫡男に仕えることになっている者共を呼び集めて、アツセワナに行って兄上を援けようと思う者は行ってやってくれ、と言われた。

 わし等はびっくりし、皆少なからずその事で気をもんだね。物事の塩梅が狂うとそのうち天地がひっくり返る。コセーナはどうなるのだろう、ってな。

 ダマート様の力になりたいのはやまやまだが、ここでの役割もそれなりにある。結局、その時は若い者が何人か行くことになった。

 コセーナで兄弟仲がおかしな具合になったのと同じ頃、アツセワナではいよいよ王様とトゥルカン様との仲がこじれてきたらしい、という噂が、郷を訪ねて来る牛や羊の仲買人や行商から聞かれるようになった。と、言っても目下取り込み中の婿選びのことじゃない。シギル様が二十年このかた贔屓になさっているイーマとの取り引きの眼目、絹の扱いについてだ。

 イーマの持って来た物の他は作ることも売り買いすることも禁じるという法令を出し、これにトゥルカン様が面にこそ出さないが相当腹を立てられたそうな。

 そりゃ、希少な高価なものにしておけば、シギル様の可愛がっているイーマの懐に儲けがたくさん行くわけさ。少ないほど価値が出るっていうのはわし等でもわかることだ。それにしても、トゥルカン様がかなり前からアタワンで絹を作っていたのは周知のことだよ。これではほとんどトゥルカン様を狙い撃ちにしたようなものだ。

 ダミル様がアツセワナに行かれたのも兄上に会いに行くほうはついでで主な目的はイーマの訴えをシギル様に届けに行くというものだったらしい。あのアートと同郷の()らが殿様を訪ねて来るのは仲間うちでもちょいちょい見られていたな。今も昔も黙ってこっそりやって来る奴らだけどよ。

 シギル様は始めたことは終いまで通される方だよ。後から聞いた話だが、かなり強硬なことをなさったらしい。まず、王宮で禁止令を出し、伝令が領主方のもとに走るのと同時に街道筋に役人を遣わして市場に出ている安物の絹を摘発し、取引の監視をさせたそうな。

 トゥルカン様は鼻の利く方だ。鼠が足元をかいくぐるようなものさね。配下の商人たちは足がつく前に事情に疎い者たちに売りさばき、後から訳を知った買い手が慌てて相手を探すといった具合だそうだ。クノン・アクの市で実際に見た者の話によると、取り調べの役人が馬で乗り込んで来る姿が遠くに見えると、したたか者はそこに店を広げている者に一抱えもの絹を安値で押し付けて引き上げたそうな。泡をくったお人よしは、悲鳴みたいな声をあげて買い手を求める、通行人の袖を引く、あげくは向いの野菜売りの女の筵に放り込み、地面に転がったその中のを「布は布」と乞食が持って逃げる、そこへやって来た役人が兵に命じて全員縄にかけたのだと。取り上げた絹は即、衆目の中で燃やさせたそうな。

 商人衆の怖がるまいことか。そんなふうにしてみたところで、トゥルカン様の息のかかった者はひとりも捕まらなかったそうだがな。

 後でいっしょにカヤ・アーキで働いていた者の話だけどよ。そいつは城にお勤めしてた若い頃、役人のお供でアタワンにあった工房を取り調べに行ったらしいよ。わずかな時間の間に絹や生糸の現物はもちろん、証拠になる機も織子もみんなどこかに行ってしまって、強面の留守番の男達が何人かいるだけ、がらんとした機屋と宿坊に睨みをきかせていたそうな。

 何か小さい生き物を焼き払ったらしい焦げ跡と匂いが残っている他は、小さい白い蛾が、いくつか焼け跡にもがいていたそうな。そいつが件の絹を吐く虫かどうかなんか、イーマでもなければわからないしな。

 この絹の取り締まりで誰が得をしたかね?イーマの評判を上げなかったのは確かだろうよ。それに、クシガヤからアタワンやアツセワナにたくさん働きに行っていた娘たちはどこへ行ったろうな。もっとも、コセーナでは上質な羊毛の取り引きは増えた。

 嫁をもらう結納にひょっとしたら絹を、なんぞと考えていたかって?絹なんか誰が着る?イビスの家令がまだ禁止令の出る前に買ったアタワンの絹を仕立てることが出来なくて困っていたそうだ。元から持っていたものにお咎めは無いといったところでどうやって見分けるね?得意になってめかしていた者もじきに恥ずかしくなって脱ぐに決まっているよ。わし等の身体には絹なんか合わないんだ。今になってみると、見ろ、高貴な方だって着る用なんかありゃしない。あの時だって、深窓のご婦人がたがちまちまと刺繍やらリボンやらといじくるのが関の山だったんだ。

 巷で下々の者たちが右往左往しているというのに、トゥルカン様はどこ吹く風といった権勢だ。鉱山だって持っていたし、金子の材料にする銀や銅はシギル様だってトゥルカン様に頭を下げなきゃどうにもならない。シギル様は絹を守るために無理をし過ぎた。トゥルカン様は平気な顔でも根に持つお方だからな。

 ダマート様がコセーナを出てから丁度一年経った秋のことだった、郷の収穫祭が終わり、シグイー様とダミル様はアツセワナへと出発された。王女とトゥルカン様の部下との二年間の競い合いの判定、例の“秤の審査”がされるというのでな。それに合わせて供をする格好で、ダマート様に仕えて新しい家を盛り立てようと、何人かの若い者たちが出立した。

 わし等郷で留守番の者たちは、一行が折り返し戻って来るのを今か今かと待っていたよ。アツセワナの方からやって来る旅人をつかまえて尋ねても、勝負がついたのかいっこうに分からん。姫様が負けたのだ、だが相手が勝ったわけでもない。シギル様とトゥルカン様は今度こそお終いだと言うが、じゃあ戦になるのかと訊けば、そうじゃないと言う。

 ダミル様が姫に結婚を申し込んだということだ。今さらだけどな。ダマート様が家を出、王様とトゥルカン様が仲違いしているという時に!

 そして、ダミル様は、あのイーマのアートを連れて帰って来た。


 キブが薪をひと山割り終わると男は斧を片付けるように言った。

「麦を刈りに行くの?」アニは急いで言った。

 男は首を振った。 

「いや、先ず道具を揃える事だ。わしの鎌と、それからあんた達も刈るというなら―――」

「私たちには()か籠がひとつずつあればいいわ。あと、私は石の小刀を持っているけど、キブは―――」

「おれだって持っているよ。」キブが素早くいい、ちょっと得意げに歪めた口元を隠すようにくるりと背を向けると、薪を腕いっぱいに抱え上げ、戸口の脇に二、三往復で積み上げた。 

 男はふたりを集落から羊を見つけた共同納屋よりもずっと南にある畑に連れて行った。

「ここがわしが長年耕している畑だ。手入れがいいとはいえんが去年種を蒔いた。」

 金色の帯をなして遠くまで広がる穂の髭のきらめきを見て、アニは肩をそびやかせた。

「大きな犂で耕していたのね。犂と馬は?もう無いの?」

「犂はもうひとつの納屋にある。馬は出て行った連中が持って行ったよ。要るからな。」男は面倒そうに応え、少年と少女を見やると声を張り上げた。

「どうするね、刈るかね。」

 アニは両手で穂をかき分けて麦田の中に踏み出し、靴の先で身体の前の幅を順に蹴ってみ、喜んで大声をあげた。

「条播犂を使ってあるわね、歩きやすいわ!株の間を歩いて穂だけ刈り取るわ。」

「それじゃ、手の届くところでな。」男は言った。

「右と左とで合わせて四尺くらいかな。キブならもう少し届くけど。」

 アニとキブ、そして男は並んで麦の中に入り、高く揃って延びた茎が支える中に籠を置き、手に当たったところから、すっかり熟れた穂首を摘み始めた。


 シグイー様は例の“秤の審査”に立ち会った後で、他の殿様方ともども何か大事な用で城に留め置かれ、内密の用向きが終わった後で帰って来られた。ダミル様よりも三、四日後だったかな。お疲れになった様子でゆっくり馬を進めて来られたが、城門の前に迎えに出た中にダミル様とイーマの若者を見つけると、馬丁に手綱を若者に預けるように、と言い、そのままダミル様をも伴って領内を見回りに出られた。

 仲間うちから聞いた話によるとぐるりと主に耕地を見て回ったそうな。わざわざまたコタ・レイナの橋をわたってな。

 そんな時期には麦田は種蒔きを控えて広々と鋤きかえされているし、言うまでもなく稲はすっかり収穫が終わっているし、要は地上に残っている穀粒なんか何もないまっさらな耕地と休耕田があるだけだった。

 コタ・レイナを望む西の田の脇でシグイー様は馬を下り、若者を傍に呼んだんだと。

「兄はひと手間煩わされたと小言を言っていたぞ。なに、大したことではない。鮮やかに撃ち落とした手並み、なかなか興であったよ。それはさておき、お前が威嚇した相手に匹敵するかひとつ見てやろう。」

 何のことやら。だが、幾日もたたないうちにわしらは殿様が若者に麦田と稲田を合わせて二町歩の耕地を貸し与えたと聞かされた。話によると、王女とトゥルカン様の部下とはそれぞれがそっくり同じ大きさの村を富ませる、という課題を与えられていたそうで、殿様は若者に対してお前が食ってかかった相手と同じだけの働きをしてごらん、と試してみたのだと。

 若者はまだハーモナをきれいにする仕事を抱えていた。そのために殿様の許しを得てヨレイル達を雇い住まわせていた。季節雇いを入れるだけじゃなくて、おれ達がしていた領分まで奴らが入ってくるのか、我慢できん、そう言う者もいた。が、殿様はあのアートを川西の南に与えた田の監督に任命し、部下を指名した。もう年取って身体はあまり利かんが、顔が利いて知恵もある年寄りだったよ。その年寄りが口をきいて作人を世話した。公正に手伝ってやれという殿様の厳しいお達しもあったしな。

 若者は冬のうちに水の回りが良くなるように田の測量をし、高さを加減して、水路を直した。水を汲み上げる水車の調整も大工に頼んだ。わし等、高みの見物さ。放っておこうぜ、という声もあった。せっかく耕してあった麦田をあいつに盗られたもんな。が、爺さまが怖い顔で顎をしゃくるとその場に行かないわけにはいかん。行くとアートは真面目にどうしたいかを説明する。わしらも一人前の男だもの、誇りはある。聞いてて無理筋だと思えば黙っちゃおられんし、面白そうなら放ってはおけん。不思議だが、その場に行ったら最後、何かしら手伝っていくことになる。あいつは黙って文句を聞き流し、自分とこの用が済めばいつともなくわし等のとこへ来て作人達に混じって手を貸して帰って行く。知らず知らずにそうやって日が過ぎたんだ。

 わし等には他にもあのアートの指図を黙って聞かなきゃならんことが何度かあった。シグイー様、ダミル様のどちらか、あるいは両方が館を留守にすることもあったからな。

 アツセワナでは王女の婿を決める最後の競技の準備が進められていたそうだ。いくら何でももう雌雄を決めなきゃならん、誰が見ても文句の出ないように規則を決めねばならん、というので領主方は何回も会議を持ち、競技場から規則から審査の方法から協議したそうだ。競技に関わる当人だというので、シグイー様やダミル様が行かれるのは諸々が本決まりになる前の調整の会議だけだったというけどな。だが、しげしげとご不在の日はあった。

 で、奥方はお館の男ふたりが出かけている時は、息子に次ぐ立場として若者を頼りになさった。奥方は台所では申し分のない采配を振るわれ、領主の代理として隣の郷の使者にも会われたが、領地の警備や天候への備えに人を配したり号令する時には心許なかったんだろう。

 夏が来てシグイー様は若者が監督した麦田の出来映えを満足げに見た。明らかに前の年よりも豊かに実っていた。いや、わし等の世話した他の田だって豊作だったんだ。それはそうだ、皆が互いに力を貸したんだ。わし等は誇らしいいっぽうでちょっと気にしたね。シグイー様は何か若者に褒美でも考えておられるのかな、とな。


 麦の髭が突っ張って籠はすぐにいっぱいになる。麦田の端に広げた筵の上に空けると、アニとキブはちらりと見交わした。ふたりの集めた分の半分が今日の報酬になる。

「今は日が照っているからしばらく広げて干しておけば早く乾くわね。」アニはかがんで筵の上に麦穂をざっと均した。

「後ですこし揉んでおこうよ。」キブは言った。

 ふたりは空になった籠を抱えてまた麦のなかへと分け入っていった。


 夏至が過ぎた。麦は豊作だった。そろそろ皆、件の“最後の競技”はいつ始まるのだろうかと気にしていた。稲はもう青々としていよいよ花も咲かせようかという頃になっていたしな。

 朝も夕も明々と長く、短い夜が寝床に突っ伏しひとつ瞬いたら終わる、そんな夏の日のことだよ、まだるい朝が恥ずかしがりの娘っ子みたいに延々と紅と藍の間の光で空を染めている西の方から、馬に乗り、わずかな従者を連れた王と王女の一行が一路コセーナを指してやって来た、という報せが門の櫓で見張りをしていた者から届いたのは。

 明け方から領内の見回りをするシグイー様はもう起きてはおられたものの、驚いて自ら門の外まで迎えられた。

「兄上!本当に兄上か、朝靄が見せる悪戯ではなかろうな?夜をついて、わずかな供で……不用心にもほどがある。」

「留守はアッカシュに任せてきた。」王はにやりとされた。「細心で几帳面な義兄にな。」

「信用できぬ。兄上、疲れを癒したら長居せずに帰られよ。」

 シグイー様は本気で怒っておられたよ。普段は冗談の好きな方だったがね。シグイー様が怒り、シギル様がのんきにしてるなんて、それこそ尋常じゃねえ。

 シグイー様は取るもとりあえず、広間に王と王女を通し、手を叩いて端女を呼び、奥方を起して客人をもてなす手筈を整えるように申し伝えよ、と命じられた。わし等家の者はおろおろと椅子を出すやら火を起こすやらした。殿様は自ら飲み物と杯を取りに行き、王と王女に勧めた。その間もずっと苦り顔だ。

「二十余年前、政務の席を空けすぎて排斥されるところであったのを忘れたか。」

 王様の若気の過ちは有名な話だよ。よもや本人の目の前で語られるとは誰も思わなかったけどな。

 王は目顔で弟君を遮り、傍らの王女を見やった。

 王女はきれいな方だった。コセーナの女とは全く造作(つくり)が違う。慎ましく淑やかだった。だが、どことなく抜かりの無い―――もちろん出しゃばりじゃないが―――遠慮しながらきょろきょろしているとでもいうような様子だった。もちろんシグイー様はすぐに気付かれた。

「姫君、かような強行軍にも凛としておられる様子、強くなられましたな。そして日ごとに美しくなられる。」昔から褒めるのもけなすのも開けっぴろげな方だよ。

「当館は古い。王宮と比べればみすぼらしいがコセーナの起源はアツセワナにも劣らぬ。我が家のようにお寛ぎなさい。ここにいるのは年寄りだが、館には若い健やかな者もそれなりに居りますぞ―――ダミルはどこにいるのだ?探して呼んで来い。」

 王女はまるで男の近侍のように自分は此度は王の従者に過ぎないから、と答えた。若い娘にしては低いぶっきら棒な声だな。王様は苦しゅうない、叔父と話をしている間、気晴らしに散歩でもしてくると良いと言われた。その言い方もまた、ここにいられては困る、という調子に聞こえなくもなかった。王女は、では館の回りをでも、と言って表へと出て行かれた。

 ちょうどそのすぐ後で奥方がお出ましになり王にご挨拶なさると、急な王のご訪問にてんやわんやになっている台所に入り指揮を取りはじめたので、わし等は本来の自分の畑へと戻って行った。


「今もコセーナの城は変わっていないだろうな?屋敷まわりはぐるっと高い丸太の柵で覆われていて正面と東に門があって?」

 田の脇に腰を下ろし、男は女房が運んで来た飲み物の瓶を回してくれながら言った。

「そうよ。」

 ごくりと飲み込んだ満足な息がそのまま言葉になって迸った。

「正面の門の外には堀があって堀の外側には段々に下がって麦畑があるの―――これ、煎り麦のお茶ね!甘いわ。蜂蜜が入っているの?」

「そうだ」

 男は頷いて、ちょっと考え、東の門の外はどうなっている、と尋ねた。

「高柵の南まわりには果樹園と菜園があって下って行くと門の下の道沿いには馬場があって、南のほうに曲がって行くとまた畑―――ほら、ハーモナに抜け道の繋がった小屋のある畑よ。」

「あんた、あの下の穴を抜けてみたのかい!それは、それは―――」男はアニを見直し、言葉を継いだ。

「うん、大して変わっていないようだな。門から野良にいくのにわし等はあの道を毎日のように通ったね。道はやがて分かれる。一方は薪や木材を取る森の中に入って行って、もう一方は―――。」

「ハーモナの方に入っていく。」


 ハーモナは外から見ると森に覆われた丘になっていて、その頃には随分きれいに葉が繁っていた。丘の中に穿った代々の墓があると言われていたし、上にあるという館も小綺麗に手入れされたとは言われるが、そこに上がる道なんて見えやしない。相変わらずわし等には少し気味の悪い場所だったんだ。わし等はだいぶんあのロサルナシルに慣れていたし、一緒に仕事もするようになっていたが、あのアートが雇っているヨレイル達とはさして親しくもならなかったからな。

 王と王女が館に来た日、わしは高貴な方々のてんやわんやを避けて昼時にも城内には戻らず、畑の休憩所でちょっと一服して、そのままぶらぶらと散歩に出たんだ。畑のはずれの森までな。

 薪を切りに来ていた樵が、わしを見つけて斧を下ろし、いかにも耳よりの珍しい話があるという風に大きく手招きし、森のほうにしゃくってみせた。

 そちらを見ると―――おやおや、叔父の家といったところで初めての土地を、遠くまで歩いて来たもんだ、若い女ひとりの身でよ。けっこうな心臓だね―――王女だ。

 白に赤を添えた長い衣装は繁った森の中でもそりゃあ目立つ。おまけにこちらにもすっかり聞こえるくらいの声で言い立てているんだ。だがいっぽう相手の方は、するりとかわすところでも見なけりゃどこにいるか分からない、森と同じ色ときている。

 樵は仕事をしさしのまま、わしのところまで歩いてきて囁いた。

「あのアートは皆と仕事をしていたんだよ。王女が目を留めて声をかけられた。そこへ居合わせた出しゃばりめが、殿様があのアートに与えた仕事のことを喋ったんだ。姫君が関心をよせると、アートはそもそもだんまりだったがはっきりと不機嫌になってよ、おしゃべりどもはこっそりと逃げるし、アートはあまつさえくるりと背を向けてすたすたと去る。ところが姫はここまで追いかけてきてご覧の通りだ。」

 それから、しばらく熱いのと距離をおいて涼んでこようと思ったか、樵は森の奥のヒノキの林の方へ行ってしまった。

 わしだってこんな面倒なところに置いていかれるのは御免だ。野良のほうへ戻っていこうとすると、館からの一本道から、こともあろうにダミル様が、誰かを探している風にあちらを見やりこちらを見やりしてやって来る。そのままご挨拶してひょいと退いて行けば良かったんだが……。ちょっとの事で出遅れたよ。

「あなたを特に指名し、田を貸し与えたのは試しているからよ。」

 王女が大きな声を出したので、ダミル様は気付いて振り返り、少し足を速めた。

 アートの方は先から、何も特別な事はない、自分はシグイー様に仕えているのだから信頼に応えるのが務めだ、と繰り返していた。だが王女はもう聞いちゃいない。

「叔父に勝ってね―――考えあって難しいことをさせているんだわ。」

 アートは首を振った。うるさくなったんだとしても道理だ。が、横柄なのは良くない。家に抱えられる我が身が大事ならな。

「課題が示されれば片付けるだけだ。あなたの父上の要求にもそうやって応えてきた。要望が厳しく、理不尽であろうと、だ。」

 アートはちょっと言葉をきつくしたが、元通りのしれっとした調子で、いつでも同じ、と言った。天運がもたらすものを迎えるだけ。それが難しいものなら自分には誇りだ、とな。

 王女はもう叫ばんばかりだった。で、その言葉はダミル様にもすっかり聞こえたのに違いない。

「人の差配に任せたままでいいの?自分で運を切り開こうとは思わないの?ごらんなさい!叔父はあなたに自領の運営の一部を任せようとしているわ。受けて立たないの?あなたが軽蔑する身分という武器だって、無くては立てない土俵があるのよ。」

 アートは王女の顔も見ずに振り切って逃げた。そりゃ、若い娘がああきつくては敵わんものな。で、ダミル様がそこに来ているのも見なかった。だが、王女の方はダミル様に気付いたんだ。お互いはっきり顔を見たはずだ。で、森の際から畑の中の細道に飛び込んで館の方へと走って行った。白い着物の裾がふらふらしておったわ。そしてダミル様はと言えば、若者がぷいと行ったハーモナのほうへすごい剣幕で走って行ったよ。

 

 むっと暑い薄暗い戸外から戸を開け放つと、唯一の薄い明かりの入る窓から台所へと風が流れた。女は果物を漬けた甕を仕舞い込んだ貯蔵穴から身を起こし、戸口に立っている少女を見てゆっくりと立ち上がった。

「アニ、今日はあなただけ?」

 少女は空の雲の厚さと屋内の暗さを見比べている。

「キブは小父さんと納屋で脱穀をしているわ。ふたりでじゅうぶんだって。だから私は小母さんを手伝うわ。」

 女は居間の棚の上から、洗って梳いてある羊毛の籠と錘を持って来た。

「糸紡ぎはどう?」

「お話を聞くのにぴったりね。」

 アニは戸を大きく開け放ち、戸口の明るみにまで背もたれのついた椅子を据えて女を座らせ、自分は石段の上に立って、糸を紡ぎ始めた。軒の下には収穫の終わった玉ねぎの束が下がり、ふとした拍子に頭につかえてごろりと揺れた。

「キブがいないのに話しても構わないかしらね。」女は思案するように言った。

「管理宿舎に帰ったら私がすっかり話してあげるわ。それともキブにはあまり興味のなさそうな話がいいかしら―――」アニは思い出して言った。「王女が出てくる話はあまり得意じゃなさそうね。」

 昨日、麦の穂を摘む合間に、亭主が芝居気たっぷりに話して聞かせた若者と王女の(くだり)で、キブは途中からもじもじしはじめ、麦藁色の羊の毛そっくりの髪をかきむしっていたが、「ああっ」とひと声あげると、ほとんど話の中のラシースが王女を振り切って森に消えるよりも早く、麦畑の中へと逃げて行ったのだった。

 気持ちを言葉に表すのが苦手な男の子がそんな風になったらとっても厄介だわ―――言葉でなくて他の音だとか動作にそれが出るし、また、騒々しいときている。その後の仕事ぶりは、まるでアニの一歩前を進んでいないと命に係わる、とでもいった勢いで、おかげで一夜明けた今朝は少し疲れたふうでぼんやりとしている。今日はどうやら雨が降りそうな空模様だと分かってほっとしたようだった。

「家の中でじっとして、話し合いしかしない話はつまらないものね。」

 女は頷いて言った。「私の居たのはたいていお邸の中だから人が話しているところばかりだわ。」

 だからこそ、野良で働く男達が聞かなかったような話も知っているに違いない。アニは期待を込めて尋ねた。

「それなら、コセーナに訪ねて来たシギル王がコセーナの当主シグイーとどんな話をしたのか聞いた?」

「ええ、聞いたわ」女は錘を一度膝の上に置いて答えた。

「人の耳とはおかしなもの。聞くべきでないことに注意を奪われ、大事なことを聞き逃す。王様とお館様が世話ばなしから核心にうつるあの時、奥方様は確かに私ども給仕に退出するよう促されたはずよ。それなのに、その事が思い出せないのよ。気がつけば私は広間の隅にただひとり、その会談の場に取り残されていた。だけど、王様もお館様も、その後入ってこられたダミル様も、どなたの目にも私の姿は映らなかったようだわ。ええ、私はすっかり聞きました。召使にとって大事な命令は聞こえなかったと言うのにねえ。」


 王女様が父上と叔父上に促され、広間から外へと散歩に出られた後、王様は弟君シグイー様に、ご子息ダミル様と王女様との縁組に同意されるかを改めて確かめられました。というのは五年前に初めて王様からシグイー様にこの話を持ちかけられた時はシグイー様はご子息が王家に入られることを渋っておられたからでした。その後、次男であられることや、ダミル様ご自身が姫に好意を持っていらっしゃることなどからご子息が婿候補に連なることに承諾なさったのでした。

 “黄金果の競技”が芳しい結果を出さなかったこと、またダミル様の兄上が事実上廃嫡となったこともシギル様が弟君のお心に変わりが無いかとお尋ねになる理由でございました。

 シグイー様はきっぱりと一度決めた事に異存はないと答えられました。アツセワナで兄上を支えるよりは一地方の郷の主になることを選び、息子に恵まれてからは血族で郷の結束を強めようと心積もりしていた。だが、ダマートは自分同様生まれた家を出、ダミルは家を嫌がるのではないが、真っ直ぐに気持ちの向かう方が外にあるという。私の目論見はもう成り立たなくなったのだ。ならばいっそ、自分がそうであったように若い者たちに道を選ばせればよいではないか、という思いに至ったのだ、と。

 ダマート様は椅子に深くもたれて顔を上げ、このように兄上の問いかけを一笑に付されたのでしたが、ふと卓上に片肘を乗せて身を乗り出し、そのようなことを今さら確かめに訪ねて来られたのではあるまい、と言われました。

 するとシギル様は、両眼を伏せてその通り、という合図をなさいました。

「競技の勝利は自明のことだ。何の心配もしてはおらぬ。その後のことなのだ。」

 シギル様は穏やかに口を切りました。

 シグイー様は笑みを禁じ得ないようににやりとされました。息子を褒められて嬉しくない男親はおりますまい?

「分からないではないが、兄上、若い者を信じて任せなさい。子の将来を導こうとしてはならぬ。姫は賢い立派な女だ。これ以上望むべくもない。」

「子らに残す負債のことだ。」シギル様は低い声で言われました。

「私の世は盤石であり得たろうが、宰相への猜疑心と小心ゆえの野望、遠い宝に焦がれたことにより、少しずつ軸を狂わせてしまったようだ―――。」

 シギル様は、ふと何かが気になったように目を上げられました。いつの間に入っていらしたのか、ダミル様がおふたりの着かれた卓の傍らに来ておられ、恐らくご挨拶の声をかける間を測りながら伯父上と父上の話に耳を傾けていたのでした。

「ダミル、お前はここで何をしている。」シグイー様は大声で言われました。「伯父上に挨拶をせぬか。」

 ダミル様はお小さい頃から快活でおよそ静かに現れるなどということはございません。それでシグイー様はいっそう不意を突かれたご様子でした。ダミル様は非の打ち所のないご挨拶をなさいました。

「姫には会わなかったか。」王様は尋ねられました。

「いいえ」

 シグイー様はやや苛立った様子で姫はその辺りに居られるはずだ。領内を案内し、終わったら広間へお連れするように、とお命じになりました。

 ダミル様が出て行かれると、王様はご治世に生じた影の部分をお話しになりました。トゥルカン様との確執は言うまでもなく、若気の情熱が取り結んだイナ・サラミアスとの関わりが年月を経て負担となってきていること。また、以上の事が無関係とは思えない、ご領内に広がっている反感と奇妙な迷信のことなど、耳を傾けていればそこはかとなく怪しい心地に誘われてくるようなお話でした。

「盤石であり得た?何を言われる。今より小さな国、与えられた地位に満足し、大人しい姫を宰相の意のままにその息子に嫁がせる―――あの息子に。兄上、良くてその運命だったのですぞ。得心がゆくか?」

 シグイー様は厳しい顔で言われました。

「今言われたことは負債には違いない、それは子らに引き継がれ試練となろう。我々が取り除くものではない。それとも兄上、王家を廃されるか?トゥルカンを退けるよりは簡単だぞ。」

 王様はゆっくりと首を振りました。私のように身分の賤しい女の身には測りがたいことですが、それで片がつく事ではないのだ、それでは自分が譲歩したと思ったよりもはるかに多くのものを取られてしまうのだ、という素振りでした。そして、やはり男であり王族であられるシグイー様はそれを理解なさったのでした。シグイー様は腕を組んでうーんと唸りました。それから打って変わって気さくな調子で尋ねられました。

「それではどうされる?」

 シギル様は決然と仰いました。

「ダミルに王位を譲る。」

 それから後のおふたりのやり取りはまるで若い王子時代に戻ったかのように、将棋を指しながらあれこれと策を披瀝すると言ったような調子でした。

 “最後の競技”でダミル様が勝利なさったら、時、場を移さず花婿の承認をし、トゥルド様が仕上げることになっている()()()()を授け、競技の決勝を見守るために一堂に会している全ての領主方、家臣方に新王を発表し、主従の宣誓の儀式を行うのが肝心というのです。

「これを滞りなく行うために」

 シグイー様はにこやかに仰います。

「イビス、第三家、第五家にトゥルカンにすり寄らぬよう徹底して教えてやろう。ちょうど絹を取り締まったところで彼らも消耗していようからな。罰金でも税でも理由をつけて、トゥルカンに味方するものの負担を増やしておやりなさい。」

「彼らの消耗はさほどでもない。」シギル様は苦い笑みを浮かべました。「トゥルカンが傘下の領主らを庇って余りあるほどに資力を持ち、こちらはやがて息が切れそうだということが分かっただけだ。」

「アタワンと同様、チカ・ティドも調査の名目で差し押さえればいいのだ。」シグイー様は無頓着に仰います。

「馬鹿なことを申すな。」シギル様は即座に窘められ、コタ・イネセイナの向こうの鉱山の町は先代よりも昔から既にトゥルカンの王国とでも言うべきものだ、と言われました。

「我がアツセワナの法が届かぬことではイナ・サラミアスと何ら変わらぬ―――それに兵力も足らぬ。」

「それではその国に追い払ってしまおう。」シグイー様は言われました。 

「競技は秋分の頃、クノン・カマカイの内から城内を場にするのだったな?私はこれからコタ・レイナの同胞と協議し、その日を指して、アタワンをはじめ領土の界隈はもちろん、シアナの森などの境界に潜入している敵方の根城を残らず掃討し、北の三つのクノンを上ってコタ・レイナの同胞ともどもアツセワナに参上しよう。城の警備兵の配備を教えてくれ。トゥルカンの配下の兵力にこちらの兵力を集中させねばならないからな。カジャオ、アッカシュの麾下の者は離れた位置で警備を申しつけ、連絡をつけさせるな。主らの見物席も同様に離しておくのですな。特にアッカシュはトゥルカンと離しておけば大人しい男なのですから。」そして、何か苦みが走ったかのように口許を歪められました。おそらくトゥルカン様に翻弄され、アッカシュ様のところにいるご子息ダマート様のことが心をよぎったのでしょう、すぐに打ち消すようにからからと笑われ、

「トゥルカンの席を考えられよ!彼が早々にキリ・クシモあたりからチカ・ティドへ逃げられるようにしてやるか、それともとっくりと新王の決定まで見せつけてやるか。見栄を気にするあまり掃討の好機を逃さぬのが良いと思うがな―――兵力で圧倒出来ねば将の首を取る―――そうそう、私も決勝に間に合うように席に辿り着ければよいが!」

 それから手を叩いてトゥサカ様を呼ばれ、水をくれと仰いました。

「―――ははは、いつぞや見たような景色ではありませんか。視座の主が変わっただけ。蛇の道は蛇と言ったところだな。」

「新王の承認まで事が運べば、即日、婚礼の儀を行うことにしよう。」

 シギル様は重々しく言われました。その時、私にはそのお顔が思いもかけず冷酷に見えたのです。

「裏切りに重なる裏切り」シグイー様は昔からの、兄上よりは高い朗らかな声で仰いました。

「どちらが悪いとも言いかねる。トゥルカンが兄上を嫌う訳がよくわかる。」

「何の話でございますか?」

 ちょうどその時、給仕たちと一緒に入って来たトゥサカ様が優しいお顔を曇らせておふたりを見比べました。しかし私はほっとして陰から彼女達の後ろに回り立ち混じりました。

「年寄りの余生を賭けた喧嘩よ。」シギル様は静かだけれども深みのある、そして少し怖い声で笑われました。

「だが、もう終わりにしよう!」

 私はそれを杯を下げてくれという合図と間違えて卓に近づきました。王様はまだ杯を手に握っておられ、遠い目をされたまま呟かれました。

「ニーニアの機転無くして私は今こうしてここにはおらぬ。」

 そうして私に気付くとぐいと杯を干し、目で下げるようにと合図なさったのでした。


「小母さん、それはシギルとシグイーがトゥルカンを追い出す謀略を巡らせていたということ?」アニは目を丸くして尋ねた。

「そして、今そのふたりがもういないという事は、小母さんはその事を知っているただひとりの人ということなのかしら!―――いいえ」アニは考えて言った。「本当に()()()が起こったのなら、その時に生まれていた人は皆、知ってることになるわね……。」

 女は首を振り、その問いには答えずに新たに毛束を縒り出していちど膝に取り上げた錘に繋ぎ、ふたたび回転させた。


 その晩、ささやかながら王様と王女様のお越しを歓迎して晩餐の宴が催されました。その頃のコセーナでは、賓客と同席されるご家族に次いで古株の家臣や頭の席も設けられておりました。そしてシグイー様はロサルナシルも席につかせよ、あれも家の者だから、とトゥサカ様にお命じになっておられましたが、呼びにやっても若者はどこへ行ったのか―――恐らく黙ってハーモナに戻ったのかもしれません―――姿を見せませんでした。

 そういえばダミル様の方もだいぶん遅れておいでになり、姫をご案内して広間にお連れするようにとお言いつけだった父上と伯父上の両方からお小言を頂戴しました。そして、ダミル様よりもずっと前にひとりでお戻りだった姫君は、コセーナの田舎をあまり楽しまなかったのか、悄然としておられました。

 私ども下々の楽しみと言えば、未来の王様、お妃との噂の高いおふたりの揃ったところを拝見することでございます。たしかにそれぞれはご立派な男女であられる。それなのに、お互いの心様はなんとちぐはぐでいらっしゃるのでしょう。

 殿方がダミル様に次の競技の自信のほどを尋ねられますと、ダミル様は不敵にも哄笑なさり、その日初めて王女様の方に振り向かれました。そしてごく砕けた口調でお尋ねになりました。

「この次の競技の私の競争相手は誰ですか?」

 王女様はため息をおつきになり、もう誰もが飽いているアガムン様ほか何人かの名を口早にあげられ、不意に席を立って出て行かれたのです。

 王様は厳しく甥御様に目配せなさいました。後を追え、という合図だったのでしょう。しかし、ダミル様は椅子に深く座り、口許を引き締めて動じる様子もありません。

 そして翌日朝早く、それは訪れた時と同じように早く、王様と王女様はアツセワナへと発たれたのでした。


 その日は昼間の短い時間に雨が降ったが、上がった後に空はからりと晴れ、アニとキブの取り分の麦はびっしりと粒の詰まった袋三つ分になった。ふたりは夕飯を振舞われ、まだ明るいうちに橋を渡って管理官舎に戻った。アニは地下の倉庫に袋を仕舞い込んだ。

 翌日は良い天気で午前の半ばには乾いた心地よい風が吹き、三人は麦刈りに精を出した。

 麦の穂首は簡単に折れたが、やはり小さな刃で切るのが早く、圧倒的な量をこなすために消耗してくる手の力もほとんどいらなかった。アニは、自分の良く切れる黒曜石の刃に満足しながら、ふと、キブは何を使っているのかしら、と不思議に思った。で、何とはなく尋ねてみたのだが、キブは得意そうにしながらも用心してか道具を手の中に隠して見せなかった。

 途中から百姓は田を抜け、しばらくして袋を積んだ小さな荷車を引いて来た。男はキブに手伝わせて、筵に広げて乾かした穂を箕で掬い取って袋に詰め、納屋まで運んだ。口を開けたままの袋を納屋の中に並べてくるとキブはまた田へと戻って穂を摘んだ。

 一日であげた収穫は目覚ましいものだった。日の傾くころには百姓の持田の二反の麦はすっかり摘み取られていた。荷車には五つの袋が載っていた。納屋に並んだ袋は十二もある、とキブは興奮して囁いた。 

「あとは他の田ね。」

「そう欲を出すな、雀さんよ。」

 男は田の縁に腰を下ろし、残された乾いた茎の群れを眺め、呟いた。

 アニは気付いて言った。

「藁を刈るのが必要なら、私とキブとで交代で手伝うわ。屋根の修理に要るでしょう?屋根の下でご飯を食べてお話を聞いているんだから、当然、手伝うわ。」

「いや」男は首を振った。「具合を見ながら追い追いわしがやるさ。」

 開けた空の下には東のイナ・サラミアスも西のイネ・ドルナイルもほとんど等しく遠く見える。雲のベールのない剥き出しの灼けた山肌、水の涸れた相貌、片や横たわり片や座す姉妹神がともにエファレイナズを眺め下ろしている。

 男は思い出したように不意に物語を始めた。


 王と王女は一晩泊まったきり、わずかな供を連れて帰って行かれたという。わし等百姓が朝飯前のひと仕事を終えて来た時には、皆そのことを話し、王様と殿様はどんな話し合いをなさったのだろうと不思議がっていた。その朝ふた方をお見送りされた後、殿様は馬の用意をお命じになり、ダミル様を伴って領内の見回りに出られた。

 午後にはコタ・レイナの橋を渡って西の河辺の耕地をもご覧になった。馬に揺られておふたりはゆっくりと南へ下って来られた。一番川下にはロサルナシルに任された田がある。わしらは丁度、前に手伝ってもらったお返しに草取りに入っていた。そこへ殿様とダミル様は通りかかったんだ。

 殿様は馬を下り、田の間の畔を通ってこちらへと来られた。その時、段々に裾野を河のほうへと広げていく田の中ほどの畔に立ち、若者は、青々とした稲の先に霞のように細かい花が咲いたのを眺めていた。

 殿様はご子息方になさるように若者の傍らに立ち、話しかけられた。

「初めて手掛けた作物が花をつけるのを見る感慨はまたひとしおであろう。」

 若者は素直に頷いた。

「コセーナは古い家柄だ。アツセワナの私の家系などより起源は古い。だが、時代ごとに様々な血筋を受け入れ、時には私のように新しい指導者を受け入れて来た。故に常に若い、新しい顔を持つ郷だ。兄も私も若い国の主だった。死後も自分の生前と同じ国を堅持しようというのは老いの迷いから来る強欲だ。国は新しい担い手に任せるべきだ。自分がそのように譲り渡されてきたように。」

 殿様は稲の葉群れに手を伸ばし、花をつけた穂を手の内に引き寄せて眺めた。

「―――兄も私も、そのようなことを考える時期に来ているのだ、とはいえ、手塩に掛けてようやく得た実はまだ青い、このまま圃場を譲るのは辛い……。」

 若者は真っ直ぐに殿を見て―――と言っても気持ちはそこまで真っ直ぐじゃねえ、性急な挑みかかるような言い方をするということは迷いをごまかしている証拠だからな―――言った。

「私の任を解かれますか?ご命令とあれば後任に譲り、ここを離れ、どこにでも参りましょう。」

「いいや!」シグイー様は不機嫌に大声で遮って若者を見据えた。

「任を離れるだと?言語道断だ。預けた田で収穫をあげろ。昨年を五割上回る収穫をあげたなら貸し与えた耕地、及びハーモナをお前に与えよう。」

 その時のアートの顔は一見に値するものだった―――何かたちまち様子が変わったとか、驚いた者が普通にやるようなことを言ったりしたりしたわけじゃないが―――強いて言えば、ひとつも動かねえが、血が巡り始めたというのか、水を吸い上げ始めたというか、そうそう、はじめて年相応の男に見えたね。だが、気の毒に。それが奴さんにはことのほか消耗することだったのか、茫然と立ったまま、何も言えずに田を見つめていたよ。

「肥えた二町歩の田にハーモナの丘。森に泉、畑も牧場もついて立派な領主さまだ!」

「ご領地に移ったら()()()()をしてくれよ。」

 わし等からはちょいとからかいの声も出た。なにせ、見たところ殿様が出された課題はもう仕上がったようなものだったからな。手伝った恩を売っておくぐらいなら、目前の仕上がりへの励ましになるだろう?

 ダミル様は少し離れて父上と若者のやり取りをすっかり聞いていた。で、そこに来てから終始大人しく黙ったまま、父君が馬へと戻られるのに合わせてお供をしてそこを一緒に立たれた。


 夜露を避けるために一度納屋に取り込んだ麦は翌日、あるだけの筵の上に並べられ、引き続き乾かされた。午後にはアニとキブが殻竿で打って脱穀した。百姓はそれを箕で集め、袋に詰めて、キブとふたりで荷車を引き、広場の端にある蔵に入れた。ふたりが車と一緒に戻ってくるのを、手を止めて眺めながら額の汗を拭ったアニはふと、一陣の冷たく重い風を感じて空を見た。西の方から北にかけて低く暗い雲が湧いていた。

「雨が降るわ、嵐が来そう!」アニは荷車まで走って行って急かせた。

「急いで運ぶのよ、それに蔵の扉を閉めなくちゃ。折角の収穫が湿ってふいになってしまうわ。」

 百姓とキブは一切合切入るだけ袋に詰め、後は筵ごと車に上げた。アニはその上に殻竿と箕を放り投げ、荷車の後ろを押して農道から村の中の蔵へと急いだ。

 風が強まり、ひとつふたつと雨粒が顔に当たった。家の方から百姓の女房が急いで走って来た。

「車じゃ重くて遅いわ。袋を運びましょう。」アニが言い、男とキブはすぐに袋を担いで走った。アニと女はふたりで袋の両端を持った。雨粒はどんどん大きく、増えてきていた。

「蔵の戸を閉めてしまって!」

 袋を置いて駆け戻って来ようとするふたりにアニは叫び、女を促してすぐ近くの空き家になった百姓家の開いた戸口から袋を運び込んだ。蔵の戸を閉めて来た男ふたりはすぐに荷車を押して百姓家の軒の下に入れた。その途端に外に赤い閃光が走り、ぴしりと大気を切り裂く音、どーん、という轟きが小さな家の外全体に轟いた。

「どこかに落ちたな。」百姓は呟いたが、それに応えるように滝のような雨が降り始めた。

 百姓とキブは黙って既に雫を垂らしている荷車から袋を引っ張り下ろし土間に置いた。ふたりとも同じように全身濡れそぼっていた。まるで夜が来たような湿った闇の中で四人ともが考えていたのは、この大雨はどのくらい長引くだろうか、ということだった。

 百姓は尋ねるように女房を見た。女房は落ち着いて答えた。

「羊は小屋に入れたし、戸も窓も閉めて来ましたよ。」

 アニは炉を探し当ててわずかな燃えさしを集めて火をおこし、明かりを頼りに焚き付けと乾いた衣類を探しはじめた。

「こいつは駄目だ。傷んでしまう。」男は運び込んだ麦を指して首を振った。「そのうち芽を出しちまうよ。」

「そうしたら飴を作ればいいわ。」

 なんとか古い毛布と麻布の切れを探し出して来たアニが言った。

「あんたはただじゃ起きない奴だな。」

「そうよ?」

 その目はもう、棚や床に残された藁籠や壊れた腰掛け、抜けた卓の足などをどんな順で焚きつけようか考えを巡らせている。女房は小さく声をたてて笑い、素早く布切れで髪を撫でつけ、服の上を拭うと、男達に濡れたものを脱いで毛布にくるまるように言いつけ、台所の棚を調べ始めた。どこかしら壊れているが使えないこともない鍋、すり鉢、篩、甕、杓子などが出て来た。

「水なら盥でも置いておけばすぐに手に入りますからね。」

「覚悟がいいな。」百姓は唸った。

「こんな雨が降ったのは初めてではなかったでしょう?」

「そうだな。」

「私は少し心配だわ。」黙っているキブを見やってアニは言った。「こんな音を聞くのは初めてだもの。それに、この村は水路に囲われているでしょう?水が着かないかしら?―――橋が流されたら?」

「さあな。」

 男が真面目に言ったので、アニはむしろ黙り込んだ。女は鍋と籠を持って土間に降り、袋を開け、手早く湿った麦と乾いた麦とを選り分け始めた。

「今日の分とその後の分を分けるのよ。」女は言った。

「私たちのお腹は蛇よりは栗鼠に似ているものね。」アニは自分も鉢を持ち、女の横にしゃがんだ。

「小父さん、火を見ててね。キブ、濡れたのを分けたら、今日食べる分をすり鉢で突いて殻を剥くのよ。」


 シグイー様が、イーマの若者に貸し与えた田で麦と稲の収穫を五割上げればハーモナを与えよう、と約束してからほんの二、三日のことだった。

 わしらは昼時の休憩で広間にいた。シグイー様は大きな炉の傍の上座の席で、何人かの顧問の爺さまを集めて、オトワナコスとエフトプに送る使者について意見を訊いていた。何でも、郷の収穫祭をいつもより少し早めて行いたいとのことで、後で行われるアツセワナの祭りや、例の婿決めの“最後の競技”が控えている事を考えてのことらしい。で、コタ・レイナの領主がたと全体の足並みを揃えたいのだと。

 イーマのアートは少し離れた片隅で田の監督の爺さまと農作業の手順を相談中だった。米が実って熟れるまでの見込みと、いつなら皆の手が空きそうか、一度に何人の人手が入り用かを話し合っていた。ダミル様は少しの供を連れて馬で領内の見回りに出かけていた。

 その日は暑かったが、休んでいる間も気味が悪いくらいだらだらと汗が流れてくる。皆、話をしながら、中途で手をあげて汗を拭わないわけにいかない、って調子だった。いいかげん昼過ぎの仕事のために出て行かなきゃいけなかったんだが、ついつい腰が重くてよ。馬鹿に暑いもんだな、と皆言いながらそのうち誰ともなく()()と静まった。

 こんな変な間合いがあったら動物の様子を見るのが一番だよ。奴らは人より敏感だからな。だが、わしはロサルナシルの方を見た。奴さんは窓の外に顔を向けて何かに耳をすましている。確かに変だ。やたら外の陽がぎらぎらと白いんだよ。

 殿様がその様子に目をとめて、どうした?と尋ねた頃には、年寄りからばらばらっと立ち上がって、それから若い者たちがそれを追い抜いて外に飛び出したね。

 外は白くて眩しくて、そのくせ狭く重苦しいんだ。広場に出て高柵のぐるりと見渡すと、西はイネ・ドルナイル、妹神(ベレ・イネ)の左肩の峰から北を回り東の姉神イナ・サラミアスの額の嶺(ベレ・サオ)にかけて嫌な雲の影が並んでいる。その雲が天の果ても分からんくらいに高く聳えているんだ。

 お館様も外に出て来られた。いちばんの年寄りがその横でこう言ったんだ。

「恐ろしい大雨が来ます。御代の七年目と同じ雲行きでございます。だが、はるかに大きい。あの時のコタ・レイナの水位は南の川を川口の堤幅いっぱいにしました。今度のは想像もつきませぬ。」

「雨はいつ降る?」シグイー様は尋ねられた。

「一時もあれば。オトワナコスでは既に降っておりましょう。」

 シグイー様は既に南北の郷に送るために選んであった使者を呼び、用向きを変更し、エフトプに天候の急変と注意を呼び掛けるように命じて送り出し、道中の危険と行き違いとを考慮し、オトワナコスへの使者の派遣を見合わせた。それから櫓の鐘を鳴らして領民を招集せよと命じられた。

 わしを含め頭たちは、部下を高柵の外の持ち場と居住地に走りにやらせて雇人の家族の避難を命じ、男達には広間に集まるようにと言いつけた。そしてそのまま広間に留まり、シグイー様、年寄りと共に卓を囲んで緊急の会議を開いたんだ。

 水が着く恐れのある場所を見極めて人を送って堤を築かなきゃならん。食糧、資材、道具のある倉庫は概ね高台に据えられている。が、場合によっては行き来を断たれるかもしれん。柵の内に少し移しておこうという事になり、三つほどの班が先に荷馬車を出した。森に松脂を取りに行った班もある。

 表が引き上げて来た連中でざわざわし始めた。殿は女子ども、年寄りをひとまず宿舎に引き取らせ、奥方に世話を頼まれた。まだ雨が降る前だったからな、皆、暑いやら怖いやらで興奮していたが、やがて台所からは炊き出しの匂いも漂ってくるし、寄り集まった安心もあってか、聞いていると何やら祭りの前のような、奇妙な気がしたもんだよ。

 夜通し踏ん張ることになるのは分かり切ったことだ。会議の卓の傍らで男達は松明を作る、石籠を編む、枠木を切る。

 南の最寄りの蔵から食糧を積んだ荷馬車が東門に着くころに雨が降りだした。のっけから大粒の雨がばらばらと来たと思ったら、たちまち天が抜けたように降り始めた。

 わしはすぐにほんの小僧のころに覚えのある、昔の大雨のことを思い出した。あれも嫌だったが、今度のはそれどころじゃない。それにあの時はもう稲刈りもとっくに済んでいたしな。

 ダミル様はびしょ濡れになって戻って来られた。つい戸の外で馬を下りられたといった体で、雨が降り始める前からシアナの森に見慣れない小川がいくつも現われている、と大声で言われた。

「川の水かさはどれも急に増えた。既にコタ・レイナの水は堤いっぱいに広がり、舟着き場は水の下だ。」

 会議はダミル様を交え、最初の決定を下した。領土の南には河沿いに幾重もの上流域に開いた堤がある。最下流の堤は南川の下にある。流れがこの堤を越すことをある程度許せば氾濫は南川の向こう側で持ちこたえるだろう。

 ダミル様が申し上げるには、

「領地の近隣の自作農を見捨ててはなりません。南川はやがて森にあふれて渡渉が不可能になりましょう。私は彼らのところに行ってやります。」

 シグイー様は躊躇しかけた。それはそうだ。今ではいざという時、殿の代理ともなるべき方が五つ六つの家族のためにご領地そっちのけで行かれると言うのだからな。だが、シグイー様はすぐに行くが良い、と言われた。領土を守るには高柵を築くよりも隣人の土地を保つ方が有効、とは常々シグイー様が座右の銘としているところだ。ダミル様はすぐに土砂降りの表に出て行かれた。会議の間もずっと戸の前のところで立っていたんだ。

 日暮れごろ、オトワナコスから使者が来た。日暮れごろと言ったのは飽くまでもだいたい、の話だ。もうずっと昼も夜もねえくらい真っ暗だったからな。馬に乗って表の道を走ってきたっていうのにまるでその姿は溺れる寸前ってところだ。

「私がオトワナコスを出たのは雨が降り始めるよりも前、昨日のことです。」奴さんは息も絶え絶えに言った。「同胞に危険を報せよという主の命を帯びてのことでした。我がオトワナコスはご存じのようにトル・タワンの上に建っており、その両脇をふたつの河の水源が通っております。昨日の朝、そのコタ・レイナの方の源が濁っているのが報告されたのです。水源の発端、ベレ・サオで既に雨による崩壊が起きていると見られます。私は直に谷筋を見て参りました。東の山側が崩れ、なおもトル・タワンの崖から覗く|渓谷(カマ)の水面ははるかに上に迫り、四倍の幅にも膨らんでいるのです。我らは麓の農地からトル・タワンに集まり凌いでいます。」

 シグイー様がさらに詳しく尋ねたところ、コタ・レイナの水源、及びベレ・イナでの雨が殊に激しいのだと分かった。コセーナは天から来る雨のおまけにコタ・レイナの上流、シアナの森から次々生まれる川、盃の口いっぱいに溢れてもうひとっ垂らしも御免こうむるっていう下の夫婦川の四方から水攻めにされるわけだよ。

 会議はやり直しだ。だが、命令によってコタ・レイナの両岸の畑の際を、南川の北岸を守る作業は続いている。守る地点を間違えると田畑どころか人を大勢死なせることになる。

「コセーナ始まって以来、もっとも高く水が浸いた時にはどれほどに達したか?」殿様は尋ねられた。

「およそ二丈と伝え聞いております。」一番の爺さまが答えた。

「今の城の基礎はよくその教訓に適っている。」殿は頷かれた。「丘の段は水を遅らせ、城の前面は丸く湾曲して水勢を逃がし、堀は土砂を沈める。垣の内の人命は守られる。よし上から水を被っても下に向かって水は捌け、速やかにハーモナの西側の堤からコタ・レイナに戻される。―――しかし、わがコセーナは六百あまりの民を抱える所帯だ。何とか田を守りたいものよな。」

 それから拳の上に顎を預け、呟かれた。

「だが、果たして南川は持ちこたえるのか。」

 ダミル様は出かけて行かれたっきりだ。川を渡れずにいるのかもしれんが、もちろん誰も口に出しては言わねえ。

「水勢が激しくなる箇所はコタ・レイナ橋の上、城の舟着き場の下、そして対岸の下流です。」

 口を切ったのはイーマのアートだった。

「もし上で堤が切れれば前面の田はひとたまりもありません。」

 殿様は大声で、南川へ遣った者たちを呼び戻せ、と命令した。もし上のどこかから溢れたら下に居る彼らは背中から水に襲われてしまうからな。

「上の堤を守ることに専念しよう。全ての班を表に回せ。」

 皆が思ったことだが、雨はいつまで続き、コタ・レイナの器はどれくらい余裕が残っているだろうか、というのが殿様の判断の分かれ目だった。川沿いの堤を盛ってでも水を防ぐのか、少しずつ流れ込むのを許しながら田の縁を守るように堤を築くのか。

 そこへ河番の男が飛び込んで来た。コタ・レイナの水面はもう堤きりきりのところまで来ているというのだ。

「田にそって堤を築け。」

 殿様は命令を下した。既に十二に分かれて待機していた班は、鍬に鉈、斧、槌を手に外へと出て行き、袋や石籠、留め枠、板戸やら筵を積んだ四つの荷車が後に続いて門を出た。

 会議に残るのは殿様と年寄りだけだよ。わしら頭たちももう動く時だと立ちあがった。櫓から合図があるまでは持ち場を動くこっちゃない。

 ロサルナシルはその時、相棒の爺さまに何やらひと言告げると、広間に避難してきている雇人の中から日頃使っている数人の男を呼び、鍬を取って自分について来てくれ、と言った。

「ラシース、お前はどこへ行くのだ。」殿は見咎めて尋ねられた。

 若者は振り向くと、初手から梃子でも動かぬ、という面持ちで言った。

「西岸の下の堤を切りに。水が西の低地に流れ込めばコタ・レイナの器にゆとりが生まれ、こちらが溢れることはありません。」

 西の下の堤ってのはアートの稲田の傍だよ。シグイー様は怒って言った。

「小癪な奴め。私の命令を何と心得るのだ。」

 だが、アートは橋が無事なうちに行かせろと言う。シグイー様にしても迷っている時間はない。若者に許しを与えると、自ら席を立ち、前面の作業の陣頭指揮を執ると言われた。年寄りたちには、南川から引き上げて来た者に交代で櫓から河を見張らせ、異変があったらすぐに報せてくれ、と言い渡した。

 外に出ると、松明の火もたちまち弱っちまうような雨風だ。ぬかるむわ風に押されるわで荷車もなかなか進まん。明かりと言えば、そう、聳える雲からひっきりなしに擦りだされる稲妻で、皆、すぐにそれを頼りに仕事にかかった。

 初めはコタ・レイナの東岸に沿った堤の一部切り下がったところを心ばかし土嚢を盛り、岸に筵を打ち付けて補強した。はるか下にあるはずのコタ・レイナの水が三倍もの幅、目と鼻の先を物凄い速さで流れるんだ、怖いったらない。ずっと上流から流れて来たんだろう、黒檜やモミの木が溺れかけの犬みたいに斜めになって真ん中を流れて行くんだ。

 シグイー様はすぐに、もう良い、下りろ、と叫ばれた。田を守ろう、と。

 堤を下りる時に何とはなく橋に目をやると、ちょうど若者と五、六人の者がざぶざぶ水を被っている橋を渡っているところだった。先に通った若者が橋の上に縄をぴんと渡し、それを手掛かりに後の者たちが渡る。しんがりのひとりがあとちょっとのところで転んだ。被った波が、まな板の魚をすーっと流すみてえに床板の上の人間を腹這いに滑らせていく。すんでのところで仲間ふたりが両腕を掴む―――他の三人も腕を鎖みたいにがっちり組んで低く構え、波をやりすごしている。

 堤から田へ下りた時、わしの耳の中で心臓が鳴っていた。あの連中はわずか六人で厚い堤を切り崩しに行くんだと?水がなだれ込んだ時に自分たちはどこに逃げるというんだ?

「あいつめ、渡りおったな」

 殿様は、わしら全員が堤から下りるまでそこに居られた。

「ダミルも私もあれに命を預けることになるか。しかし、間に合うかな、下の堤まで八町もあるぞ」 

 わしらは皆そうだが、シグイー様も危機に瀕してにんまりされた。

「コタ・レイナがどこまで持ちこたえるかだ。さて、もし河が溢れるならば橋の袂からだな。公道(クノン)沿いに水が上がってくるとすると、いちばん裾のこの三町歩を犠牲にして済むか、さらに二町歩―――さすがに手痛いことよな」

 シグイー様は二段目の田の境界に沿って三尺の高さに土嚢を積むように命ぜられた。必ず河側を少し高くしてな。もし水が入って来てもそいつは速やかに低地に逃がしてやらなきゃならない。荷馬車は三段目のところに待機させた。間もなくシグイー様は十二の班の内七つを上の段に遣り、同じように積ませた―――もし、二丈の高さに水が浸くんだとしたらそれでもまだ五尺足りねえ。雨の勢いは心持ち落ち着いたようにも思えるが、それはただ、わしらが雨に慣れてきたというだけかもしれん。

「天を相手の根競べよ。」

 それからわしらは正味二時も働いたか。あんまり雨に打たれてわしらは皆少し大胆に、それとも馬鹿になりかけていた。とにかく櫓の方からはなんの合図も聞こえなかった。

 わしと仲間とはとっくに積んだ下の田の堤が気になって直しに下りたんだよ。明け方が近かった。少し白んできた空に気付いて東を見たら、ベレ・サオの頂からはもう雲が吹きはらわれて山影が黒く表れていたのが見えていたからな。

 突然、みりみりという音を聞いて皆すくみ上った―――と、ばーん、という音がしたか、あるいは殴られたか、わしはそう思ったし、傍にいた者もそうだったが、気が遠くなりかけて倒れ、後は無我夢中で手足をかいていた。口許には水が溢れていて腹と膝の下にはぬらぬらっと泥が湧いている。さっき積み上げた土嚢は団子みてえにずり落ちて水の中で足を挟んでた。やっとで天地が分かったものの顔を出すのがやっとで抜け出せねえ。

「コタ・レイナが溢れた」

 誰かが叫んでいた。橋が流された、という声も聞こえる。そのうちまた後ろざまに引き倒されるような波が来て、どうだ、気が付くと、わしは足を挟まれたまま泥と稲にもみくちゃに混じって田んぼに寝そべっていたよ。上から跳び下りて来た奴らがわしと仲間を助け起こした。雨は相変わらず降っていたがずっと弱まっていた。わしは面食らって水の中が本性の魚みたいに口をぱくぱくさせた。だって水が嘘のように引いていたんだ。

 わしを介抱してはくれたが、皆は他にもっと大変なことに心を奪われていて、大した怪我も無いとわかると慌ただしくまたどこかへ走って行った。

 水は田から引いてクノンの周りの窪地にわずかに泥水を残している。だが、その辺りには流れて来た木やら何やらが散らばり、田の上から見えるコタ・レイナは、ぐっと水かさを下げたもののまだ濁った水が速い勢いで流れ―――あろうことか、橋は崩れかけた石積みの脚と台だけを残して木の橋桁もなにも丸ごと無くなっている。

 仲間たちは水の引いた田から河辺の方へ移り、堤の下を覗き、茫然と河面を眺めていた。誰かが館のほうへ走って行き、しばらくして今さらのように櫓の鐘が鳴った。わしが近づいていくと命綱をつけた何人かが堤を下り、堤のえぐれた穴や流れ着いた木や枝の塊の間を探している。わしは足を引きながら仲間のところに走っていった。そしてコタ・レイナに何が起こったか見たんだ。

 靄のたちこめた下にコタ・レイナの白茶けた水が滔々と流れ、その向こうで対岸の牧草地はしゃんとした緑色をしている。こう、下へと目をやると、耕地の真ん中の道のあるところに沿って植わった並木の後ろを()と舟が漂っている―――舟着き場に舫ってあった渡しの小舟が流されているんだ。そこには淀んだ湖が出来上がっていて、ひょろっとした畝と小高い平たい島が顔を出していた。コタ・レイナの水はそこに渦をまいて流れ込んでいるんだ。


「シグイーはどこにいるの?」

 アニははっとして叫んだ。選り分けてとってあった濡れた麦粒がひっくり返った盥からぱらぱらと土間にこぼれた。百姓は唸って火の傍から首をもたげた。

「気をつけてくれ、泥の付いたのが混じると黴が生えやすい。」

「水が流れ込んで来た時、小父さんたちと一緒にいたはずだわ!」

 アニは心配そうに百姓を見た。


 その時、櫓から見ていた者によると、ひと際強い流れが押しよせて来て橋を脚からもぎ取ったんだと。橋は台から離れて縦になる時に回った拍子に袂の堤にぶつかってそこをえぐった。

 その少し前から、向こう岸の下流で水が堤を超えはじめていた。ただし、まだそれほど強い勢いじゃなかった。

 もともとあそこにはある程度河の水を陸に流れ込ませ、河にゆとりをつくって時間を凌ぐために、端を閉じない幾つも堤を並べている。が、ロサルナシルは重なった堤の胴中を先ず切り、それから(かみ)の側の堤を河に向かって直に削った。奴さんの言う通り、そこは水勢が強いので堤は太く頑丈に造ってある。そこの舗装の石積みを剥がし落とし、土を切り崩すんだ。

 上流で橋が流れ、水が溢れたそのちょうど同じ時、下流で文字通り堰が切れたんだ。水はたちまち堤と堤の間を埋め尽くして遡り、耕地を水の下に飲み込んだ。ロサルナシルの青い穂をつけた稲田もな。

 そこで働いていた者の姿は、夜明け前の薄暗がりと雨と、そしてさすがに遠いので櫓からは見えなかった、が、ほどなく上流から流されてきた橋が、がーんと堤の水口に、床板の側を表に横ざまに突き刺さったんだと。そしてまるでそこを指して河の水を招くようにすいすいと水を通しはじめたんだ。で、上に溢れかけた水が捌け、郷の主力の田畑、牧場は守られたんだ。

 夜が明け、半日も経ったころ南川の向こうに出かけておられたダミル様が帰って来られた。やはり水かさが増して一帯が湖沼のようになり、四つの世帯を連れてもっとも高台の農家に避難しておられたのだという。

 その時もちろん館は上を下への大騒ぎだった。殿の行方は分からず、壊れた橋の近くや河岸を探してみるものの、溺れかける者が出る始末だ。皆、死んだように疲れているが休むわけにはいかん。奥方は何とか采配を振り、捜索と後片付けと日々の仕事とに人を振り分けようと苦心されていたが、何ひとつちゃんと前に進んでいかねえ。無理もないけどよ。

 ダミル様はこの体たらくに終ぞ見た事もないほど苛立って、父上とラシースはどこだ、と怒鳴った。年寄りたちを集め、目に付いた頭を集め、櫓の見張りを呼ばせるとご自分の前にずらりと並ばせ、片端から質問していった。ふたりはどこにいる?いつ出かけた?何をしに行った?それから何が起こった?

 成り行きが飲み込めるとダミル様は全ての者を集め、怪我人を除き仕事を振り当てると、三分の一の者を休ませるように、と命令し、年寄りに時間を守らせて交代させるよう監督を頼み、ご自分は捜索隊を率いて水の浸いたところを見に出かけられた。

 それからもう一度、コタ・レイナの岸の見回りだ。皆、命綱をつけて、片手で仲間が支える梯子にすがり、片手に長い棒を持ってよ、岸を探るんだ。一度など、手掛かりがあったというので引き上げてみたら動物だったそうな。オトワナコスとか高地にいる山羊だったってよ。

 交代時間が来て、ちょっと元気を取り戻したわしは、休みに行った三分の一の者に代わって捜索に加わった。ダミル様はだいぶんげっそりしておられたが、引き続き指揮を執っておられた。自分の夕べからの働きは皆には及ばないから、といって休もうとはなさらん。

 館の北側の捜索が終わり、城壁の直下は流れが速すぎるというので、西岸の南を探そうという事になった。ぞろぞろと道具を持って一旦河岸から上がった時だ、細いがはっきりとした口笛が聞こえて来た。

 ロサルナシルの指笛だ。わし等はそれのいくつかの意味を知っていた。一度、高い音で注意を引いた後、二度に短く分けて繰り返す。助けてくれ、と言っているんだ。わしら、一生懸命に耳を傾けていたもんだから、すぐ後にがんがん鐘をついた櫓番が邪魔に思えたくらいだった。大事な用事だったんだけどな。

「なんだ!」ダミル様が怒鳴った。

「対岸の水が引きはじめています。」櫓番も負けずに怒鳴った。「人がいます。六人。」

 舟は大方流されてしまったし、まだ矢のように流れている水を漕いで渡れる手練れは郷にはいない。で、残された橋の石の脚の上に何とか間に合わせの橋を掛けようということになり、休んでいた者も皆残らず加わって工作班がつくられた。脚の上に順々に梯子を掛け、材木を渡して繋ぎ、繋がると後を任せてわし等捜索班はコタ・レイナを渡った。

 向こう岸はクノンの周りにはまだ水が溜まっていたが、麦田だった耕地と牧草地は無事だった。だが、川下に向かうとどんどんと土地は水を被り、間の道の辺りでは膝のあたりまで水に浸かった。それでもまだしも水は引いていたんだ、漂っていた舟が木の根方に乗り上げて止まっていたんだから。わしは舟を引っ張ってきて一行のしんがりを追いかけた―――中の水を空けるのにちょっと手こずったからな。

 こう、コタ・レイナの方を見ると、どこに境があるなんてわかりゃしない、真っ直ぐに城の横っ腹まで一直線につながって見えたね。強いて言えば堤が沈んでいるところに藪の頭がしょぼしょぼと細く出て、木が突っ立っているくらいで。

 中にちょっと高くなっている平たい丘があって、そこにはまあ、五反もあるかという耕地があった。その時は休ませてあったか、豆でも植えてあったんだったかな?草が繁ってくると山羊を放したりしてたが、それだけが島のように水から出ていて、その岸の草の斜面に人が六人、何かを囲んで座っていた。

 渡って堤を切りに行った六人だ。だが、近づくと連中は間にもうひとり、草の上に寝ているのを囲むようにしているのだった。

 ダミル様は水をざぶざぶ言わせながら駆け寄った。他の者もだ。そりゃそうだよ、その横になっているお人に掛けられたマントの色は皆が探していた方の物だったからな。シグイー様は行方知れずになったコタ・レイナ橋の袂からはるか下流に流されておいでだったんだ!

 向こうから真っ先に立ち上がってこちらにやってきたのはロサルナシルだった。濡れそぼって青黒く、目のぎらぎらした幽霊みたいだった。奴は黙って水際からダミル様の腕を掴むと連行するみたいに引っ張って行った。ダミル様が坂を登り始める時には多少足がふらついたからな。だが、間近まで来るとダミル様はアートの手を振り切って、蒼白だが威厳に満ちて横たわっておられる父上の横に跪いたんだ。

 言うに及ばずだが、ダミル様も父上とそっくりで、生まれつき嬉しいにつけ悲しいにつけ静かにしてることなんてねえ。両手を揉むやら冷たいお顔を撫でるやらして男泣きに泣いた。それから気丈に父上がここにおられる訳をそこに遠慮しながら立っている者たちに尋ねた。

 ロサルナシルの部下でその場の代表格だった男が、事の不思議さに戸惑いながら見た事を話した。

 西岸の農地の下流に設けられた幾重もの細い短い堤はもともと氾濫の時に少しずつ川の水を越流させるためのものだ。だが、ロサルナシルは増水の勢いが激しすぎて上が持たないだろうと考え、河の水を直に流し込もうと決めた。だが、本当にいきなりそんなことをしたら全員お陀仏だ。それでせめて時間を稼ぎ水勢を削ぐために、まず陸の中の堤の胴中を切って水を溜める箇所を繋ぎ、それから上流の厚い堤の石をひとつひとつ剥がし、土を切り崩しにかかったんだ。下の方ではもう水がはいりはじめていたし、上でも水が切れ目から噴き始めた。仕事はますますやりにくいし、逃げ場はなくなってくる。

 ロサルナシルは残りひとつと決めた石に梃子を使って組み付きながら、皆に先に高台に走れと命令した。ふた言と言わせない厳しい口調だったと。それに全員が全員、背筋がぞっとするほどの恐ろしさに駆り立てられたのだという。それでアートひとりを残して駆け出した。すぐに水が追いかけて来た。

 一町あまりは走ったし、後は這って、泳いで、這い登った―――。そうして今いるこの島までたどり着いたんだ。振り返ってみると水はどうどうと高い畝をたてて流れこんでいる。顔の出てる地面なんてひとつも見えねえ。ロサルナシルの姿は無く、皆、すっかり奴さんが流されて溺れてしまったものと思った。

 水勢が弱まり、水口が平らかになってくる頃に夜が明けた。そして皆はその場所に横倒しになった橋が刺さっているのを見たんだ。皆は肝を潰し、これでコセーナは終わってしまったに違いない、と思った。だが、橋の上に何か動くものがある。昇った日の光が届くと、それが突っ立った桁のてっぺんに掴まっている人の姿だと分かった。ロサルナシルが水からそこまで這い上がって行き、こちらへ来て来れ、と叫んでいた。

 半分泳ぐようにして皆で行ってみると、ロサルナシルは水の中に下りて殿の上体を抱えるようにして支えていた。手を放すと沈んでしまうんだ、と言っていた。例の長い鉢巻きを桁に渡して結わえ、それにしばらく御身体を預けて上に登り、皆を呼んだんだ。

 皆は順に水に潜って殿の身体を解き放し、外れた床板の上に載せて島まで引いて来た。

 殿がどうしてここに来られたのかは存じません。だが、ほぼ橋と同時に来られたのでしょう、男はそう言ってむっつりと口を閉ざした。

 わしらは百姓だし、()の察しのいいほうじゃねえがよ。それでも気付いちまったことを誰も口にはしなかった。つまり、橋は上流で殿をさらって命を奪ったが、流れついた下流で桁の懐内に若者を匿い、命を救ったのだとな。

 ダミル様は話が終わる頃には落ち着いておられた。だが、もっと詳しいことを聞きたがっていたのは明らかだ。男の話が終わると立ってロサルナシルを探した。あいつはダミル様を連れて来た後、そこを離れて島の裏へ行ったんだ。 

 アートは水浸しの田に降りていってへたり込んでいた。

 水の中の砂は沈んで収まり、澄んできたところに日が射して、水の下に青い稲穂が重なりあっているのが見えた。横倒しの茎が渦巻き模様を描いてよ。見渡す限りそんな景色だ。おそらくまだ生きているのかもしれねえ、だが、どうするって?水がすっかり引くまでは三日はかかる。そこにあるものはみんな、刻一刻と死んでいってるんだ。

 誰の心が一番痛いなんて言っても仕方のない状況だ。わしら、自分じゃねえ、って事は分かってるが、だからってアートに遠慮しろとは言えねえ―――ま、言えなかったんだ。

 ダミル様はその後ろに足を止めた。じっと黙ってその様子を見ていたが、なにかご自身の腑に落ちたというように頷き、呟いた。

「家の長というものは、身命を投げうってでも家と家の子を守らねばならんのだな。父上の死に様、というよりも生き様がここに顕れたのだ。―――こんな事態は避けたかったし、父が果たすはずだった約束がおれに引き渡されるのは何とも辛いが、おれがそれを否定しては父上に対する非礼だ。」

 そして若者に立て、と命じたが、若者は根っこでも生えたように動かねえ。皆と一緒に被った河の水は髪の先までよく沁み込んでしまっていたが、ひっきりなしに雫が湧いて顔から落ちるんだ。頑固にうつむいていたがね。

「父上の遺志だ。ラシース、ハーモナを受け取れ。」

 ダミル様はそう仰るとくるっと若者に背を向けて、父君の方へと戻って行かれながら、大声でわし等に指示を出した。城に報せて担架を用意させ、担いで河を渡れるよう、橋を一層強化させろ。母上には必ずお連れすることを伝え、そのまま城に留まっていただくように。

 それで、わしらは取るもとりあえずご遺体を整え、舟に移して上のクノンの脇の草地までお移しした。


「ロサルナシルはどこか奴さん自身、水か風みたいなところがある。わし等がそうやって走り回っているうちにいつの間にかちゃんと戻って来て、殿が館にお帰りになるにあたって道を整え、担架に手を副えてダミル様とわしらを手助けした。だが、わしらは密かに若者がコセーナから出て行くんじゃないかと思った。酷い言い方かもしれんが、出て行くのを待っていた。だって、殿の血を分けた嫡男ダマート様がおられるしな。表向き縁を切ったと言っても、故郷で父上が亡くなられ、一部なりと領土が余所者に渡ったとなったら、そりゃ()()()()が起きるに決まっている。」

「でも、ラシースは出て行かなかったのね。」

 アニは利いた風に軽く合いの手をいれた。百姓はむっとしたように横目をくれたが、言い訳をするようにつけつけと言葉を継いだ。

「ダミル様と奥方は、ハーモナをお館様の眠るにふさわしい奥津城に仕上げよ、と命じた。あの依怙地者には褒美で気をそそるよりも命令のほうがいいんだ。ちょうど雨で傷んだハーモナにはたっぷり手当が必要だった、で、アートは先のようにハーモナに籠って働いたんだ。わし等の目にはあまり触れなくなったし、ダミル様はそのことを好ましくないと思っていたようだがな。会議に事寄せては皆の前に呼びつけていた。」

 アニは分け終わった麦の乾いた方を見つけた麻袋に入れ替え、大事に閉じた。

「シギル王は悲しみ、力を落としたでしょうね」

 濡れた麦からいくばくか取って入れた鍋をキブに渡し、アニは腕組みをして篩の上に山と盛り上がった湿った麦を眺めた。

「それに途方に暮れたんじゃないかしら、何故って―――」

 百姓の女房が目顔でアニの言葉を止めた。アニは言葉を探して取り繕った。

「コセーナがそんなに大きな被害を受けたのだったら、援助に人手も費用もかかるし、王女の婿決めの競技がまた延期になるでしょう?」

「いや、実は洪水にも関わらず、その年の収穫は前の年よりあったんだ。」

 百姓はちょっとにやりとし、表で続いている雨音に耳を傾け、首を振った。それから記憶を手繰った。

「収穫の終わった麦は安全に蔵に仕舞われていたし、稲も水を被らなかった田は三、四割余計にあった。全滅したのは河西のアートの田だけだ。競技が少し日延べになったのは本当だが、コセーナでの葬儀が終わるとシギル様は“最後の競技”の日取りと競技者の資格とを発表した。」

 百姓は湿ったごま塩頭をしきりに撫でつけた。雨音と、キブがすり鉢の中で麦を揉む遠慮がちな音がしばらく続いた。

「競技者の資格は領主であること、馬と武器が扱え、従者をひとり連れていることだった。」

 ややあって百姓は言った。

「それで、葬儀のあとに慎ましい収穫の祭りを終え、ダミル様はロサルナシルを連れて、アツセワナへと向かったんだ。」

「コセーナのダミルがようやく“最後の競技”に臨むのね!」

 アニは女房と一緒に火の傍に移った。薪の用意の無い炉辺の火は小さい。雨が止めばすぐにももっと心地の良い百姓家で休めるという気楽な見通しと、不測の災害に備えよという警告とが心の中でせめぎ合っていた。

 百姓の女房がキブから鉢をうけとり、麦の殻の取れぐあいを指で確かめ、先に取り除けておいた煎り鍋を手にすると火の傍に腰をおろした。

「雨が止んだとしてももう夜遅いわ。今晩をここでしのぎましょうよ。」

 女は鍋に麦粒をあけ、火の上にかざした。

「直火で焙れば茹でるよりも早く火が通る。臼で挽いて煎り粉を作りましょう。こんな日は余計にお腹が空くからね。」

「早く火が通る。焚き付けは節約できるわ。だけど、挽くにはたっぷり時間がかかる。」

 アニは暗い室内を透かし見て石臼を見つけ、その前に陣取った。

「……だから」

「だから、なんだ?」百姓は呆れたようにおうむ返しした。

「わしはもう疲れたし、今度こそ何も出ないぞ?わしは“最後の競技”について行ったわけじゃないし、どうしても知りたいっていうんなら―――」

「ちょっと待って。」

 アニは首をもたげ、耳の上の髪をかき上げた。

 間断ない雨音に混じり、風の震動とは明らかに違う規則的な戸を叩く音が、繰り返し響いていた。細く呼ばう声も聞こえる。

「誰か、外にいるわ。」

 百姓と女房の顔に警戒と困惑の色が浮かんだ。村人たちが去って半年、夫妻は西の都の麓を荒らす匪賊の影に怯えながら暮らしていた。ニクマラから来たという少年少女と仕事と食事は分かち合っても、すっかり心を許しているというわけではなかった。

「―――こんな荒れた夜に、よりによって誰もいない村によ。」百姓は呟いた。「こんな()れ屋に―――」

「広場の方に表が向いているし、前には荷車が置いてあるもの。それに煙の匂いがしたんだわ。」

 アニは冷静に言った。

「お前さんの連れとかいう者かい?」百姓は疑り深く尋ねた。

「そうじゃないわ。女の人だもの。」

 百姓は立ち上がると慌ただしく梁に掛けてあったチュニックを着こんだ。その顔は完全に腹を立てていた。

「ひとりか?」

「そうよ!」

 百姓の女房は鍋を置いて立ち上がり、静かにふたりの間を通ると戸を引いた。

 蝶番の緩んだ戸は湿った框につかえ、ごとごと音を立てながら渋るように細い隙間を開けた。女房はちょっと手をあげて吹きこんでくる雨風を避ける仕草をしたが、風はたちまち炉の弱い火をさらい、ふっと屋内の陰を濃くした。それでも女房は戸の奥の濡れた夜闇に声を掛けた。

「おはいりなさい―――イネ。」

 戸の脇によけた女房に、より高く鳴る雨音と控え目な濡れた衣擦れの音が応えた。濡れた薄いショールをぴったりと被った頭がかがむように沈み、水を含んだ裾を踝に纏いつけるようにして戸の影からゆっくりと入って来た。

「早く閉めてくれ。」百姓はちらとそちらを見やり、再び炉の前に腰をおろすと、鉈を手にして木切れを割り、弱った火にくべながら苛々と言った。

 女は戸を閉めた。痩せて背が高く、長いショールの下に中高の顔だちが見て取れる。暗いので肌は蒼白く見えるが、もしかしたらもう少し浅黒いのかもしれない。

「こちらへ寄って火に当たるといい。」

 百姓はちょっと声音を和らげ、手で招いた。

 女は手をあげ、戸口の脇の造り付けの棚の下を指した。

「そこでしばらく休ませてもらえれば。」

 百姓と女房は顔を見合わせた。

「それが気楽ならね、イネ、そうなさい。」女房は声を掛けた。「毛布をお使いなさい。そして、私たちの食べる物を一緒におあがり。」

 アニは百姓が脱いだ毛布を拾い上げてくるりと腕に抱え込むと、入って来た女にそれを渡しに行きかけ、ふとにやりとして陽気に言った。

「ねえ、小母さん。もっともっと麦を煎らなきゃ。小父さんは火を燃して、キブは麦を揉むのよ―――だって」腕を差し上げて戸口を指した。

「ほら、まだ外に誰かが来ているわ。」

 アニの他にそれを歓迎している者はいなかった。百姓は姿勢を変えずに鉈を持った手を止め、聞き耳をたてた。女房は立ち上がる前に腹を決めたように面を引き締め、キブは梁に掛けたままの濡れた着物を見上げたものの、毛布を体に巻いたまま、奥の間仕切りの陰へと隠れてしまった。今、入って来た女でさえ、片隅に身を縮め、沈黙している。アニは女に毛布を手渡し、戸口に歩み寄って閂がわりに差した横木に手を掛けた。

 少し小降りになった表で水を撥ねる足音と荷車の周りで何か言いあう二、三人の男の声がしている。果たして空き家ばかりのこの村で人が住んでいるのか、と議論しているのだ。

「どうするんだ?」百姓は囁いた。「こんなにいちどきに。もし危険な奴らだったら―――」

「でも、私たちも同じですよ。空き家の屋根を借りているのは」女房は穏やかに言った。

「ほら、向こうだって怖いんですよ。」

 やがて戸を拳で叩くどんどんと力強い音がした。アニはこちら側から横木を掴み、百姓に振り返った。

「開けるわ。いい?」

 百姓は細く割った木切れを次々と燃えさしの上にくべていくと、厳しい顔をあげ、頷いた。

 

 







 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ