表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
2/23

第二章 火の語り 1 


 二度の赤い稗(トゥサカ)と蕎麦、一度の麦の収穫を経て、コセーナの荘は徐々に生命を吹き返してきた。羊や牛、馬は豊かになって来た餌に促されて子を産み始め、屋敷の補修は間に合わせのものから頑丈な新しいものへとひとつずつ置き換わりはじめていた。年ごとに耕地は広げられていった。しかし、どうにも始末のつかないのが火山灰であった。

 灰をそのままにしておけば作物の育ちが悪い。地面から剥いで囲いの内にためておいても風が吹き、雨が降れば、散り、流れ出る。男たちは噴火の前の三倍も水路をさらった。取れた藁も筵を織るほどの余裕はない。牛馬の飼料になり、寝藁になり、土を回復させる肥料になるだけだ。灰には茅の筵が被せられた。山は大きくなる一方だ。コタ・レイナの浚渫を本格的にすればさらに灰は出る。一体どうしたものか。ダミルは荘園の順調な回復を喜ぶ一方、灰の処理に頭を悩ませた。

 イナ・サラミアスが鎮まり、陽光がふたたび世を照らしてその変わり果てた姿を暴いたとき、地上に帰って来た活力は以前よりも荒々しく、騒がしく、未熟であった。

 目覚めとともに急激に回復する食欲に大地が生み出す糧はなかなか追いつかず、人も獣もいらだっていた。内乱と噴火を経てコセーナの領民は以前の六割にまで減っていたが、土地の受けた痛手はさらに大きかった。森林は広く懐深く、噴煙の灼熱と火山灰の闇の災禍を力強く引き受けたが、回復には時間がかかる。人が手を入れる畑地よりもはるかに時間がかかる。ダミルはそれに気づき、屋敷の改築を一度中断させた。

 いま一つの悩みは、荘園の境や、自作農を襲う夜盗や賊の跋扈であった。何とか命を拾った者同士が、無から暮らしをこしらえあげる苦労に疲れ果て、わずかな衣食を奪い合うことも多かった。コセーナに命からがら逃げこんだ者同士が、時に顔を合わせたとたん目を背けて押し黙る様子を見てダミルは時々ため息をついた。が、ともかくもその者たちが落ち着くまでは一歩たりとも囲いから出さなかった。

「あれから二年経つが、オトワナコスはまだ砦と高垣の修理は終わらないのか。エフトプの上下の運河はまだ通じないのか?」

 荘の巡視班について領内の北部を見回って来たニーサに乳清に酒を加えた飲み物を勧め、報告を聞きながらダミルは呟いた。

「行き来するには以前よりも良くありません。」ニーサはすぐに言った。

「私たちは三人組で武装して見回りをしていますが、外で夜を迎えたくはないものです。賊ばかりではありません、北で見かけた一団はそこそこの集団で、あちらも馬に乗り、剣を持っていました。北東の丘陵をさして列になって去っていきました。」

「北の丘陵だと?以前アタワンと呼ばれ、アツセワナのトゥルカンが東の監視の拠点にしていたところだ。イナ・サラミアスの滅亡をもたらしたが、自らも壊滅した。我が領土の外とはいえ面白くないな。二郷の耳に入れた方が良いかもしれぬ。聞いておこう。」

 日暮れの後の虫の音を楽しんでいたのだが、夜風がだんだんに寒くなって来たので、ダミルは立って窓をすべて閉め、灯火を引き寄せた。その間にニーサは喉を潤した。

「そろそろオトワナコスの耕地が近いという境界地でした。あちらは原を横切るようにして北をさしてゆくところ、こちらは森から出ようというところでした。西日で影が濃く、よく見えなかったのでしょう、警戒して遠巻きにしていたので、こちらの古参の者が知恵を利かして大勢いるかのように仲間に続けざまに叫ばせたのです。木霊(ヨレイル)がよく鳴るように。抜き身を下げて、どこかで狼藉を働いた帰りのようにも見えましたから、三人しかいないと知ったら襲い掛かって来たかもしれません。ともあれ、その時はこれ見よがしに剣を見せつけながら去って行きました。」

「このコセーナの巡視の者と向こうには知れたことだ。慌てるのはあちらの方だ。」ダミルは呟いたが、ニーサの報告に続けて注意を傾けた。

「装備から見て、西部の大きな荘園の者です。またはアツセワナの者です。百姓ではなく戦を生業として来た者でしょう。揃いの胴鎧、馬も十騎はおりましたか。」

「かつてのトゥルカンの雇われ兵の生き残り―――騎行で集落やヨレイルを襲うたちの悪い奴らかもしれん。昔、よく苦しめられた。イナ・サラミアスから逃れてきたイーマ達はそれでほとんど助からなかったんだ。」

「かつて彼らがその一味だったとすると、今はさらに統制の取れた集団だと言わざるを得ません。彼らには遠くから命令を与える主人がいるはずです。」

「わかった。近いうちによく調べよう。」

「また、近頃、他にも怪しいことが―――」

 ニーサが迷いながら別の報告を切り出しかけた時、南の巡視班の報告を持ってきたケニルが入って来た。ダミルはふたりともに並んで掛けさせた。共に主人の身近に仕える少し年かさの仲間が来たことに勇気を得て、ニーサは話しだした。

「東の方は荒れようがひどく、今年に入るまでは大きく出て調査したことはありませんでした。皆家族のある者で仕事も忙しく、長い巡視は嫌がっていましたから。が、組み合わせがたまたま独り者ばかりの時です、丸一日かけて出かけたことがありました。麦の収穫の後、続けざまに二軒の自作農が襲われかけたと報告がありましたので、様子を聞き調べるために。どちらの家も同じことを言っていました。夜、馬に乗った者が家の周りを今にも襲ってきそうに二、三騎うろうろしていたが、いざ押し入る前に急に掻き消えたように静かになる、という具合だったそうで。家の周りに残った跡をたどって調べてみたのです。あの、件のアタワンに行く道の南側の森からぐるりとシアナの河岸の丘地の裾野を南へと下って来たところです。森の中をみっつの小川が並んで走っている、あの辺りですよ。」

「大体の場所はわかる。が、それで?」

 ニーサはケニルをちらりと見た。

「人の討たれた跡があったのです。」

 ケニルは思い当たったように声を漏らし、ダミルは「討たれた?」と聞き返した。

「どういう意味だ。狼藉を働こうと農家を狙う者同士が鉢合わせで殺しあったのか?だがそれとも違う言い方に聞こえるが。」

「ものを奪った跡や争った時の乱れがほとんど見えないのです。」

「まるで宙に消えたようだな。ではなぜ人が討たれたとわかる?」

 若い部下の顔がわずかに引きつった。

「ごくわずかな血痕。地上に足跡すらほとんど残さず、よく茂った森の中なのに折れた枝ひとつ、樹皮のかすり傷ひとつなく、獲物は弓矢か、短剣か、素手か…。」

「それはきっと消えた賊とは関係のない出来事なんだ。誰かが木を伐りに来て怪我をしただけかもしれん。動物の血かもしれん。農家を襲おうとした賊は思い止まって去ったんだ。」ダミルは苛立ちながら言った。「いい加減なことで人を脅すな。」

「しかし、きちんと埋めた跡があるのです。」

「掘って調べたのか?」

「よし、それが賊でもそんな冒涜は。」ニーサは首を振った。「しかし、その上に置かれた剣を確かめました。アツセワナの職工がつくった兵士のための長剣です。」

「殺しはしたが鉄を奪わなかったと言うのか?」ダミルは叫んだ。「いよいよ不思議だ。」そして顎に手を当て、考え込んだ。

「騒ぎもせず、抵抗もせずにかき消されるように討たれたのだとすると、よほど予想も出来ぬ不意討ちだったのだ。手練れのアツセワナの兵を殺めたのは誰だろう?だが、誰彼かまわずに殺すような狂人ならば、相手を埋葬するのも奇妙だ。」

「そんなものを見た後なので空耳だったのかもしれませんが…。」ニーサは宙に目をやり、ふと眉をひそめた。「何か嘆いている人の声のようなものを聞きました。」

 隣で聞いていたケニルがくすりと鼻を鳴らした。

「おい、坊主。ような話をするなと言われたろう?おれも似たようなことを聞いたところでなけりゃ殿に代わってお前をどついてやるところだよ。」そして、ダミルの方を見た。

「しかし、私も今朝ちょうど帰った見回りの話を聞いているときに、一風変わった人物を見たという報告を受けましたよ。ニーサの言った地点の近くです。我々の巡回路の重なる部分ですよ。」

「見たと!それは面白い。話せ。」

 ダミルは自ら立って酒を温め、部下たちに振舞った。

 ケニルは話しだした。

「私が行かせたこの連中は野宿に慣れた独り身ばかりで、日番の班とは別の者たちです。それで二晩の猶予をやってシアナの丘地を南から行かせてみました。あの辺りは三軒がまだかつかつ暮らしています。そのうちの一軒に投宿し、決まり通り穀物を宿代に置いてきました。北の方で農家を襲う奴らの話を聞いたことがあるかと尋ねたところ、アツセワナの騎馬が彼らの在所のすぐ脇を通ったことがあると言っていたそうです。そして遠征隊は翌日件の場所で両方を見たのです。」

「アツセワナの者と遭遇したか」

「領地の境ではしょっちゅうですよ。」ケニルは平然と言った。

「今はまだ互いににらみ合っているだけですが。しかし、あちらはどの郷の領内にもかからない森の中では人を見下し、我々よりも大胆で非情です。仲間たちはその晩は火を焚かないことに決めたと言いました。黄昏時にさしかかり、賊や例のアツセワナの騎馬との遭遇を警戒しながら、南北に走る穏やかな流れを北に遡ってゆくと行く手に人影がある。」

「例の者か?」ダミルは急き込んだ。ケニルはわずかに勿体をつけ、かがみこんだ。

「若くはない、むしろ老人のようだと言っていました。しかし機敏で―――。」

「順を追って言え―――初めから」

「わかりました。その人物ははじめ、川辺にほど近いハンノキの林の下に座っていました。しかし明らかに穏やかではない様子で、彼らが気付いたのも、地を掻いて叫んだり、自分の身を打って嘆いているからなのです。行動は狂人そのものだが、声といい居住まいといい、奇妙に威あって心を打つそうな―――。いや、事実彼らはしばらく茫然と見ていたそうです、自分たちは亡者に遭遇したのかとね。すると偶然にも徘徊しているならず者の一党がやって来て、例の男は大声を上げているし、藪に潜んでいる我がコセーナの者たちには気付かずにその男に近づこうとしたのです。おそらく気のふれた老人と見て、いたぶってやろうとでも思ったのでしょう。ところが―――非情にものっけから嘲りの言葉を浴びせ、馬上から槍で小突こうとした、それをこの老人は逆手に掴んであっという間に相手を馬から引きずり落とし、組み伏せてしまった。」

「本当か?」ダミルは興奮して言った。「すごいぞ、見たかったな!」

「組まれた奴の仲間が剣で襲いかかると、膝の間に先の奴を抑え込んだまま槍棒で応戦し、突然ものすごい声で放っておけ!と怒鳴ったので、馬が二頭とも駆けだした。」

「おれを担いでいるんじゃないだろうな、ケニル。酒を勧めすぎたか?」

「報告通りで。話を盛れるような連中じゃない。」ケニルはちょっと気分を害したように言った。

「馬はあまりに驚いてあたりを踏み散らかしてすっ飛んでいったそうですが、紙一重の差で老人は蹄から免れた。しかし、彼に押さえつけられていた者は踏まれてしまった。老人は敵が死に、仲間に見捨てられたのを見ると、今度は地に突っ伏して泣いたそうです。」

 ケニルは、すっかり惹きつけられ、穴が開くほど彼を見つめて続きを待つ主人に対し、強いて淡々と報告を続けた。

「―――やがてその男は実に手際よく遺骸を川辺の開けたところに引っ張っていくと、枯れ木を薪に割り、柴木とともに壇に仕立てて遺体を載せ、さらに上を覆って、一晩かけて火葬したそうです。火の前で男はまんじりともせずに見ていた。歌い、舞うように見えるそぶりもあったようですが、よく聞くとそれは嘆きと女を罵る言葉で、片肘を引いてぴたりと止まる所作は、弓を引くか、石を投げるかのようだったと言います。」

「感心しないな」ダミルは呟いた。「どんな立派な男でも女を罵っているのを見ると嫌になる。しかし、火葬はイナ・サラミアスの北部でされる葬送だ。その男はイーマだろうか?」

 ケニルはすぐにうなずいた。

「それはもう。見た者たちが口をそろえて言っていました。遠目で見てもわかる風貌、いでたち、もっとも、風雪を経てうらぶれてはいたそうですが。」

「彼らは夜通しその男の近くにいたのか?朝になってからどうしたのだ?行方を見きわめたのか?」

 ダミルは立て続けに尋ね、立ち上がり、腕を組んで室内をうろうろしながら、向こう数日の日程を頭の中でさらった。ケニルは落ち着いて主人を見上げ、言った。

「彼らは、老人が遺灰を埋葬し、焚火の跡をきれいにしたあと、わずかな所持品を持って小川を渡り、まっすぐ東の方へ向かったのを見届けましたよ。それが昨日の朝で。」

 ダミルは勇んで部下たちに振り返った。

「よし、ふたりともすぐに帰って休め。明日夜が明けたら馬で出かける。ニーサは弓矢を持て。旅装を整え、東門に来い。」


北の高台(アタワン)から南の湿地に接した瀬丘(タシワナ)まで横たわる森の中を、ひとりの老人の行方を尋ねて回るという無謀な心づもりをダミルは腹心のふたりの他には漏らさなかった。今は麦の播種の監督と作人たちの食事の台所の指揮、増え続ける荘に身を寄せる人々の面倒見のためコセーナに滞在しているロサリスにも仔細は話さず、森に点在する人々の安否の確認とコタ・シアナの水の調査のためとだけ伝えた。

 イナ・サラミアスの灰がやんで二年半がたつが、東の森はコタ・シアナ河畔の緩やかな丘地を高みから川側へと斜面を下り始めると、三度どころか一度のかそけき春も来なかったのかと思われた。木々は芽吹きも散りもせず立ち枯れたように並んでおり、ダミルは馬の蹄がぐぐっと鈍い音をたてて深々と沈み込む地面を見て唸った。

「駄目だ。人の手では全くどうにもならんというのか。」

 二晩ほど夜の焚火を避け、冷たいものを食べ、金臭い水を飲んでいることも気の滅入る原因だった。

「とてもここまでは手が回りませんよ!」

 ケニルは言った。

「灰をどこにやるというんです。草木に任せるしかありません。ほら、葦はよく育っているようですよ。」

 彼が指さす方に、木立ちのまばらな影から葦の原とその奥の葦原の帯が見えた。さらに下ると小石の散った広い河原があり、進むごとに遠くへと何本もの水の筋が重なってゆく。そしてそのはるか向こうに岸があり、ハーモナの高台で見るよりもイナ・サラミアスの山の貌はくっきりと迫り、高くそびえている。なだらかな背の線はもはや手前にそそり立つ山脈に阻まれて見えない。

「ああ、目の前のが長手尾根(エユンベール)だ。思いのほかアタワンの方に来た。」

 ダミルは右から左へと長く下る尾根筋を指さした。肘の湾曲と艶めいた隆起、なだらかな傾斜、ニーサばかりかケニルまでため息をついた。だが、姉神がかつて秋の頃にはまとっていた黄金に照り映える衣はない。噴石と灰にささくれ、尾根の南の奥は大きく崩れ、痛々しい溶岩のかさぶたが盛り上がって固まっている。そこに傾いた光線が赤黒く色を塗り上げ、姉神は恥辱の中を黙して横たわっている。

「―――だんだん思い出してきた。ここはいわくつきの場所なんだ。今は水量が少なくなり分かりにくいが、あの大きな中州は誓約の州(コス・クメイ)。この上流で十二年前に“黄金果の競技”が行われた―――。」

 ダミルは馬上で揺られながら目を細め、ふたりの部下は顔を見合わせ、黙って主人の言葉を待った。

「コス・クメイにはいつも二重の誓いの意味があるんだ。アツセワナとイナ・サラミアスの交渉の場であり、男女が誠意を誓う場だ。ここで両国は二度誓約を交わし、一度裏切った。アツセワナの一部の勢力がイビスと謀ってイナ・サラミアスに攻め入り、滅ばした。我々は報せを聞いて取るもとりあえず駆け付け―――戦い、退却した。これももう九年も昔のことだよ。お前たちが子供の頃の話さ。」

 わびしく水の涸れた河原と、夕刻の風にざわめく葦原を見やり、ダミルは肩をすくめ、馬首を巡らせた。

「戻ろうか、気分のよいものでもないし。」

 裸木の群れがまばらに連なる森の際から緩い斜面を上り始めた時、突然ケニルが鋭く囁いた。

「あそこです!いました。例の男らしい者が」

 ダミルは、ケニルが目配せした方を見た。

 灰の中に両膝を折って座り込み、両拳を地に押し付け、食い入るように東のイナ・サラミアスを見つめている男がいる。怒った獣のように丸めた背は、その全体を包む外衣を通しても決して貧弱には見えない。その上を腰まで届こうかという半白の髪が垂れかかり、岩の上の滝のような縞目を描いている。肩のわずかなおののきと、髪の際を吹き散らす風がなければ生きた人とは気づかないほどだ。が、男は外見に見えるほど心中が静かなわけではなかった。やがて両の手指は灰を掴みしめ、地に叩きつけ、上体が激しく揺れだした。

 ダミルは冷静にじっとその様子を見つめていたが、ふたりに囁いた。

「なるほど、あの装い、容姿、確かにイーマだ。」

 よろよろと立ち上がったところを見きわめて言った。

「アツセワナの人間を手にかけ、武装を奪わない道理はイナ・サラミアスの者にはもっともなことだ。イーマが人を手にかけるとすればサラミアが侮辱された時だ。その死は汚れているために所持品を奪うのは恥なんだ。」

 ダミルはそっと馬を進めた。

「用心を」ケニルは慌てて言った。

「話が通じる相手かわかりませんぞ。」

 その声を聞いてか、男はいきなり振り返るや、仁王立ちになり、叫んだ。

「おけ!」

 威ある声であった。男たちは歩みを止める前に、ふわりと跳ね上がり、後足立ちになろうとする馬をなだめねばならぬほどだった。

挿絵(By みてみん)

「どう。どうどう」

 ダミルは馬を落ち着かせると同時に敢えて声を張って男に自分の声を聞かせた。

「皆、止まれ。この先に出るなよ。」部下たちに言って少し下がらせると、

「やあご老人(コーアー)、騒がせて申し訳ない。」と丁寧に声をかけた。それでもまだ馬を下りなかった。

 男は手で遠ざける仕草をした。しかし、ダミルは構わず尋ねた。

「イナ・サラミアスの民の方とお見受けするが、ここで何をしておられる?このように寂しい場所で。」

 男はそれを聞くとつかつかと大股で近寄って来た。

 ぴたりと額に巻いた鉢巻きの下から鉄色の髪が痩せた鋭い相貌の脇で風になびいている。頭を通して被った独特の外衣もまた肩から大きく風をはらみ、旗のように広がっている。イナ・サラミアスの名高い野蚕の糸で織られたそれは、灰に染まってか暗い灰色になっていたが、間近に見れば、絡んだ紡ぎの筋目の入った絹地で、著しい汚れの下でも時折きらきらと輝いていた。

 痩せて背が高いが明らかに老齢にさしかかっていた。悲しげに頑なに眉間に引き寄せられたまっすぐな濃い眉もほぼ白く、深い眼窩の奥の目は黒く炯々としている。やや鉤状の高い鼻梁の下の真一文字の

口の辺に深くしわが刻まれている。

 その口が身中の痛みに耐えるかのように歪み、目がどんよりと暗くなり、突然激しい口調でしゃべり始めた。

「どこも灰だ。灰だ。アーラヒルの息、高潔な子、お前にふさわしい場はどこにもないぞ。眠るべき地は焦げ、帰してやる術はおれにはない。見ろ、お前を包む衣はこれか?熱いか。冷たいか。金臭く、きな臭く、どれもお前に似つかわしくない。あの女め、なぜもっとましなものをやらんのだ!」

 ふと気づいたようにその目に光が戻り、まっすぐにダミルを見た。

「離れておれ。ここにはヒルメイのアーガラートが眠っている。奴の墓の上をふたつ足も四つ足も踏ませぬぞ。」

「アーガラートの墓と?」ダミルは男を見返し、素早く周に目をやった。

「九年前のコタ・シアナの戦いで、盛りもこれからという新しい長にして不運にも果てたという―――。かつてここであった戦いに私も戦った。長い災厄の間顧みなかったが。確かか、ご老人。」

 男は凄まじい笑みを浮かべた。

「あんなものをおれは戦いとは言わん。罠と言い、屠殺というのだ。済んだことは済んだことだ。だが、奴の眠りを乱す事はおれが許さん。」

「そんな気は微塵もない。」

 ダミルは馬を下り、部下たちにも下りるように命じた。ダミルは胸に手を当て、男に礼をした。

「どのあたりか」

「そらそこに」老人の指さした方には一本、川寄りに孤立しているハコヤナギがあり、根方には川石を組んできれいな錐形につくられた墓標があった。ダミルは跪き呟いた。

「高潔なヒルメイの長がこんなところに埋葬されたとは。」

 男はふんと鼻を鳴らした。

「おれが来るまで奴は野ざらしだったわ。一年か、二年か。そこの木に屍がかかっていた。あれの母が織った外衣が骸が散らぬように包んでいた。あれを着せてやった時はさぞ自慢だったろうが。」寄せては返す苦しみをこらえて拳が固く握られた。その拳をいきなりイナ・サラミアスに突き出した。

「おれはあいつが火を吐いた後でコタ・シアナを渡って来た。あそこに縛られる言われはもう無くなったからな。だが、それまでガラートを埋葬してやろうという者はいなかった。おれが来るまで奴はひとりだったのだ。」

 ダミルは言葉を失い、ただ墓前に頭を垂れた。好奇心に駆られて跡を追い、憐れみをかけようと近づいたが、この老人に対し自分は何ができるというのか。無理解に満ちた問いを投げかけ、苛立たせ苦しめる他に?また、葬られた男の運命は、長く顧みなかった行方知れずの友の運命にも不吉な暗示を与えた。

 しかし、男は、先ほどまでの狂人のような様子とは打って変わって、ダミルが祈りを捧げるのををじっと見つめていた。そればかりか、彼の小指にはめられた亡き母トゥサカの指輪に、興味深げに目を留めた。

「コセーナの者か」男は尋ねるともなくつぶやいた。

 時機を得てダミルは立ち上がり、老人に向き直った。

「私はコセーナのダミルだ。ここから西のコタ・レイナの岸に居を構えている。かつてここは自由の地だった。エファレイナズがアケノン、シギル父子の代に統一されていた頃も、ただ森の子ヨレイルが行き来し、年に一度のイナ・サラミアスの絹とアツセワナの鉄の交換のために用いられた糸を商う道(エノン・トードシレ)もこの辺りは森の民のみに知られた道をたどった。私の子供の頃はそうだった。コセーナはみっつの宿駅を持ち、彼らの安全を担っていた。アツセワナのトゥルカンがこの北のアタワンに交易所を装った出城を作り、イナ・サラミアスに攻め入るまでは。」

「コセーナには行ったことがあるぞ。」

 老人はぶっきら棒に言った。

「三十余年も前だ。その後で川向こう(オド・タ・コタ)で何があったかおれは知らん。あいつは半分身内に殺された。」墓の方を顎でしゃくり「だがあいつを殺した連中も皆死んだ。あの女もだ。」

「ご老人、ひとつ尋ねても良いか。」ダミルは思い出して言った。

「このシアナの北部の森でアツセワナの者を何人も殺めたのはあなたか?」

 老人は凶暴な目つきになって押し黙った。しかし、それは隠そうとしてではなく、怒りのあまり言葉を失ったからなのだとダミルには分かった。やがて老人は手をイナ・サラミアスの方に上げ、目元を緩め、撫でるように空を滑らせると言葉を絞り出した。

「あの女は気に入った者から奪う。わがままな奴だが仕返しだけはしてくれる。その石礫は鋭い。サザールを不具にし、トゥルカンを殺した。そしてその後で死んでしまった。灰すら止めた。だがおれはガラートの墓を侮辱する者は許さんのだ―――。」

「わかった、わかった。申し訳ない。」ダミルは手を上げてなだめた。

「私はコセーナの領主として家の者と一帯を通る者の安全に気を配る責務があるのだ。怒りを鎮めてもうひとつ答えてくださらんか。今はどこに住まい、どうやって暮らしておられる?ここはまだ水もよどんでおろう。我が家ではイナ・サラミアスの者を縁あって迎え入れていた。―――彼はもう長いこといないが―――もし、あなたにその気があるならコセーナに迎えもしようし、領内に住まれても良い。名を尋ねても良いか?」

 突然老人は数歩あとずさり、大声で笑い出した。と、くるりと背を向け、その場にあぐらをかいて座ってしまった。

「早くいけ。空があれるぞ。あの女め、生きていても死んでいても泣きむせぶ時間はいつも同じだ。」

 なるほど、移ろいやすい秋の空はイナ・サラミアスの焼けただれた稜線の上に厚い雲を発し、広がりつつあった。強くなりゆく風の中で、老人は枯れ枝に打たれ、砂粒に打たれて微動だにしない。

「我々もう行くが、あなたをいつでも我が家に迎えよう。」

 ダミルは念を押すように言い、部下たちに目配せし、再び馬上の人となった。

 木立ちの中へと馬首をめぐらせた時、ダミルは、座った老人が一瞬こちらを振り返ったのを見た。


 ダミルが帰って来た時には、麦の播種はロサリスの采配のもとにすっかり終わり、仕事に関わった者には小さな子供に至るまで心付けが配られたところだった。彼は食事の後で年寄りたちと警護班の責任者を呼んだ。

「噴火で壊滅したアタワンにアツセワナの傭兵と思われる者共が出入りしている。」

 ダミルはてきぱきと言った。

「馬も武装も揃い、統制も取れている。衝突は起きていないが互いに認識はしている。我々は三郷で連絡を取りあい有事に備える必要がある。コタ・レイナの事業の約束のこともある。使者を送り、連携を呼びかける。何人を向かわせ、誰を頭とするか。防備を怠りなく。ニーサとケニルは今回はやれん。明後日の夜までに選出してくれ。」

 指示を下して年寄りたちを帰してしまうと、ダミルは小女を呼び、ロサリスに臨席を請うた。

 ロサリスは、鉢を手にして奥から現れた。この二年の間に肉付きは戻り、髪は量と艶を増し、年齢にふさわしい容色を取り戻していた。亡きトゥサカの形見をこしらえなおした服に身を包み、物腰には家政の長の落ち着きが備わり始めていた。彼女は水瓶と杯を運んできた小女に子供部屋の見回りを頼み―――亡き奥方の住居は、今は中を仕切り替え、シアニと身寄りのない幼い三人の子の寝室になっている―――卓の上の鉢をダミルに勧め、静かに椅子に腰かけた。鉢の中にあるのは心付けに皆に配った菓子だ。今年はともかくも皆にこれを配れた。来年にはこの倍もの量を。乾果や木の実、徐々に増える花々に集まる蜜蜂が巣箱を満たすくらいに蜜を集めたら、甘く味もつけて―――。ロサリスの胸にはすでにその心づもりもあった。

 ダミルはまず、東の森の中で暮らす農家について話した。

「一軒はタシワナに近い、コタ・シアナ下流の一家だ。長年の灰が今年になって家屋の半分を壊し、耕地もまだ半分は埋もれたままで、苦労した実入りは冬を越すのが精いっぱい。財産は山羊が五頭だ。これを買い取り、領内の耕地を貸し与えることにした。冬までに移り住んでくる。二家族は家も耕地も大丈夫だ。昨年までは収穫が十分でなく、冬はここに身を寄せていた。今年はやっていけるという。だが、夜盗や無法者を心配している。こちらは公道に近い方だから見回りの範囲を広げることにした。残る一家は働き手を失った寡婦だ。ハーモナのすぐ南だ。ようやく乳離れした子ふたりを抱えて途方に暮れている。山羊を一頭飼っているが他は何もない。胸を病んでいて―――。」

「その方と子供たちは私の仕事ね。」ロサリスは穏やかに言った。

「明日にでも迎えに行きましょう。馬と車をお借りします。そして力の強いものをひとり。その馬も。」

「かたじけない、姫」ダミルは胸に手を当てて礼をした。ロサリスはわずかに微笑みかけて横をむいた。そして改めて振り向くと重々しく、「他にも何か?」促した。

 ダミルはシアナの森に住まう老人について、旅を思い立った理由を打ち明けながら詳しく話した。

 半ば恐れていたとおり、ケニルの報告の段階からロサリスの顔は真っ白になり、瞳を大きく見開き、食い入るようにダミルの口元を見つめて聞いていたが、コタ・シアナでの顛末を聞くに至って、立ち上がった。

「ロサリス、落ち着きなさい―――。」ダミルが言いかけるのを遮って、ロサリスは叫んだ。

「その方に会わせてください。」

 それ見たことか―――ダミルは臍をかんだが、強いて落ち着いて言った。

「ロサリス、座りなさい。話はまだ途中だ。どうしようというのかね?そんなに取り乱すのだったら馬にも乗せられないよ。」

 しかし、ロサリスは立ったままだった。ダミルは噴火の直前からの五年間を毛の逆立つような心地で思い出した。それでも、さっきまで真っ白だった顔はむしろ生気に満ちてダミルを見返している。

「アーガラートの墓を守っているということはヒルメイ族では?アーガラートはあの人の大叔父で再従兄―――。」

「ロサリス、落ち着いてくれ。その老人はほんの数年前にイナ・サラミアスを離れたようなんだ。他に界隈で生き残った者はいない、あの暗い世界でたったひとりで生きていたんだ。どんな男か何ひとつわからないのだよ。冷静に話ができるような状態でもない。名前すら言わないんだ。そしてアツセワナを憎んでいる。」

「私もよ。私もアツセワナが憎いわ。」

 ダミルは首を振った。

「それは本心じゃない。彼とは違うよ。―――もっと言おうか、彼にとっては君はアツセワナの王女に他ならないということさ―――。イナ・サラミアスを滅ぼしたアツセワナのね。」

 ロサリスの顔からさっと生気が失せた。ダミルはため息をついて目を手元に落とした。

「それにラシースの妻だということもイーマにはよい感情を与えまい。彼は民を追放された身だった。君の父上が彼の身元をイナ・サラミアスの長たちの問い合わせた時もアーガラートの他には誰も応じようとはしなかった。」

「私は罪人の妻でイナ・サラミアスの仇というわけね。」ロサリスは吐き捨てるように言った。「そして叔父アッカシュには身持ちの悪い、王位にしがみつく姪。コタ・レイナの郷には和平を脅かす厄介な旗印。このコセーナでは―――。」

「コセーナの者があなたに非礼をしたか?」

 ロサリスとダミルは卓越しにきっとにらみ合った。ロサリスはやがて拳をゆるめて奥方から譲り受けた服のスカートを撫でつけ、冷ややかに言った。

「―――用事のことを忘れていたわ。ダミル。先ほどの母子の住まいはハーモナの近くだったわね。安心なさって。確かに迎えにいきますから。」

 そしてついと顔をそむけると奥へと出て行った。

「しまった。言う必要もなかったことを。」

 ダミルは杯をつかみ、腹立たしげに呟いた。そしてつまむ間もなかった菓子をひとつ取ってぽりぽりとかじり、残りを手でつかんで自室へと引き上げた。


 コタ・レイナの二郷に使者を送った後、ダミルは、日々の巡視をさせる一方で、三日に一度は部下のひとりを伴って、領内と東の森の自作農の家を見回った。

 豚や山羊の数が増えたのもつかの間、昼夜の別なく現れる盗賊に、荘園の牧童も自作農も困り果てていた。新しい世界の夜明けは旧い道理の通らぬ無法の世界の始まりを告げるかのようだった。

「こそ泥を働くのはヨレイルの若いもんだね。」

 見回りの折に寄った農家の主は柵を直す手を止め、馬を下りて様子を尋ねるダミルに気兼ねそうに言った。

 「仕方がないんだよ。あの子らは子供の時分に親をなくして仕事を覚える暇もなかった。わしらもひとりふたりくらいなら何とかしてやれんでもないが、十四、五にもなるのが五、六人もうろついているからな。」

「そいつらを捕まえられないかな?」ダミルはニーサに言った。

「見回りでは見当たりませんね。」ニーサは首を傾げた。

「隠れているんでしょう。ケニルと相談して何人かこの辺りに張りこませてみましょう。」

「腹は立つが、怖いのはその子たちじゃないんで。」

 男は申し訳なさそうに言った。

「いちばん怖いのは馬に乗って徒党を組んでくる奴らで、ヨレイルの子をさらっていくこともあるんだ。」

「何だと?」ダミルは怒って声を荒げた。

「ちょうどうちのウズラを盗んでいった男の子を追いかけて道の近くまで行ったときに、二頭の騎馬に挟まれてあっと立ちすくんだその子を馬の上に引きずり上げて北の方に走っていくとこを見たんだ―――怖くてそれ以来うちの子も外へ出していない。」

 男は補修中の柵を叩き、折れた生々しい横木を指した。

「ね、ここも破られそうになったんだよ。馬が越せないように一段高くしたとこだった。だが、家を見つけた以上、いつかは来るだろうね。」

「そいつらはそこを壊したときに何故押し入って来なかったんだね?」ダミルは指摘した。

「武装もしていて略奪もほしいままだったろうに。」

「それが不思議の物語で」男はちょっと秘密めかして言った。

「連中が柵を壊しかけた時、いきなり何か柵の下に潜んでいたものが、おうっ!とかいうすごい声をあげて立ち上がって、馬を驚かせたんだ。そこへがーんと石の一撃で、先頭の奴がやられて落ちた。あいつだ、あいつだ、と声が聞こえて、もうひとりが落とされたときに、残りの奴らは後も見ずに逃げて行った。と、柵のところにいた白髪交じりのぼろを着た年寄りみたいな奴が、手に奪い取った相手の獲物をぽいっと柵越しにこちらに投げ捨てて、ふたりの死体を引きずって行ってしまった。長い立派な剣だよ。うちに置いてある。ご覧になるかね?」

「いや、いい。」

 ニーサと見交わしながらダミルは言い、馬に乗った。

「こそ泥の子たちを捕まえようとしたら、私たちもあの老人に殺されかねませんね。」

 囲われた牧場と森の中に隠すようにある農家、小川沿いの明るい土地にある小さな耕地を東側に回って、ふたりは浅瀬に沿って南に下った。もう一軒同じような農家と、もう廃屋になってしまった一軒に怪しいものが入り込んでいないかを見てくるつもりだった。

「お前もあの老人だと思うか」

「他に誰が考えられます?」ニーサは他のもっと大事なことに心を奪われている風に答えた。

「戦いたくない―――味方なら味方とはっきりさせたいなぁ。」若者は呟いた。

「イーマは彼らの掟と道理に従う。」ダミルはしかつめらしく言った。「誘っても乗るまい。」

「だからですよ!」ニーサは声を高くした。

「彼の個人的な復讐が我がコセーナで行われたとき、我々は本来かかわりのない敵意を引き寄せてしまう。逆に、彼に我々もヨレイルの子をさらうのだと思われたらどうします?彼が所用あって出て来たコセーナやコタ・レイナの者と鉢合わせになって誰かを殺したら大変なことになります。」

「その時はコセーナの掟に従ってあの男を処罰する。」

 ダミルは横目でニーサを見て言った。

「そんなことにはしたくないんです。」ニーサは急き込んで言った。

「お互いに生き延びるためにはひとつ話し合いが必要だな。」ダミルは肩をすくめた。

 まず、うろつきまわる浮浪児たちを捕まえる。コセーナで食わせ、身ぎれいにし、一人前に育ててやりたい。そして復讐の鬼になっているあの男だ。―――そしてこうしている間にも北の怪しげな者たちは攻撃してくるかもしれないのだ。

 もう一軒の農家を回り、ふたりは小川の湾曲に従って南西へと下り、公道を西へと渡り、すでにコセーナの領内となるハーモナに近い森の中に進んだ。そこに先ごろコセーナの荘に移り住んだ寡婦が残してきた家屋があるのだった。

挿絵(By みてみん)

 ハーモナの付近では大分灰が片付けられ、森は美しさを取り戻しつつあった。コセーナをコタ・レイナ下流に下ったハーモナを含む一帯の森には、三百年もの昔から少しづつ人の手が加わっていた。丘の頂の巨樹の元にその起源が置かれてから、そこに代々住まった守り人たちは、コタ・レイナ河畔の堤に上流に向かって緩やかに開いた水路の袖を幾筋にもわたってつなぎ合わせ、その盛り土の畔に木々を植え、コタ・レイナの氾濫をやんわりと鎮めるとともに、その恵みの水が伏流となって湧く泉を巧みに網目のように林床に導いて小川やせせらぎを生じさせた。

 ハーモナの南部の森には均整のとれた若木が多く育ち、浅瀬の明るいところには種々の花を咲かせる低木が枝をさしかけ、岸にはアヤメの群落が、終わった夏の名残の乾いた花茎を掲げている。

 ダミルは顔を上げ、ハーモナの丘を見上げた。丘はすっぽりと木立ちに覆われ、人の住む気配は全く見えない。

 うまく隠したものだ。実に、ハーモナに人の住む住居があり、コセーナの領主の隠れ家にもなり得ることなど余人の知るものではなかった。先王シギル父娘とこの地を直に手入れした若者の他には。九年前、兄ダマートが敵に教えるまでは。今も入り口は容易に見つかるものではない。

「ああ、殿!」ニーサが奇妙に嬉しげに囁いた。

「何と、あの老人(コーアー)ですよ。」

 ダミルは驚いてニーサが目配せした先を見た。

 葉が黄色くなったニレの木の下に黒っぽい外衣をはためかせて大股に歩いている影がある。

「この辺まで出てきていたのか!」ダミルは驚きあきれて言った。「私の勧めを覚えていてくれたということか?それにしても堂々としたものだな。あの尊大な歩きぶり。むしろイーマらしくない。」

緑郷の君(ロサルナート)もあのように強靭で、そして優美でした。」

 ニーサは思い出しながら言った。

「あいつはすぐに消える奴だった。」ダミルは遠くからこちらに気付き、手で払う仕草をして足を速める老人を見て苦笑した。

「あの男もそうさ。ほら、もう見えない。イーマはその気になれば森の中に溶けてしまえるのだ。」

 そういう間にも、あれほどはっきりと見えていた姿は忽然と消え、凪いだ森の中の小藪ひとつ揺れなかった。

「しまった、逃がしたよ。だが彼は空手だった。この辺りで留まる気があるのかもしれん。」

 瀬の際でダミルはあきらめて手綱を引いた。

「泉の方へ行く方角だったな。」ふたりは少し北へと戻り始めた。

「彼にはもうひとつイーマらしくないところがあります。」

 ニーサは遠慮がちに言った。

「何だ。」

「女を罵るところ―――いえ、特にサラミアを罵るところです。こんな事ってあるでしょうか?」

 意外そうに見返したダミルにニーサは慌てて言った。

「だって、あの女などと言っていますが明らかにサラミアのことです。イナ・サラミアスを手で指していましたし、火を吐いたのもアタワンに石を降らせたのもサラミアじゃありませんか。イーマがサラミアを侮辱するなんて考えられますか?」

「いいや」ダミルは強く言った。

「おれが“黄金果の競技”でラシースと初めて会った時、なかなか姿を現さないあいつを誘い出すためにわざわざサラミアを侮辱して聞かせてやらなきゃならないほどだった。お前はあいつに弓を習ったんだったな。」

「はい」ニーサはにこりとした。

 ダミルは口をつぐみ、考え込んだ。領内に入り込んできたあの男は住民には害を与える気はないようだ。どうやって暮らしを立てているかは知らないが、盗みをしたという話も聞かない。ニーサの言うようにこちらの味方につけ、この南側の監視を任せることは出来るだろうか?森の中でイーマを敵に回してその目から逃れることは出来ぬが、イーマを探し出すのは容易ではない。逆に味方につければ潜む敵を見つけ、追跡の目は欺いて隠してくれよう。

「しかしだ、一体、どこから手をつける?」

 初めの問題に立ち返り、ダミルは思わず声に出して唸った。

 ちょうどさしかかった廃屋になった寡婦の家は、葦葺のごく小さな小屋だった。泥壁の東面の灰がたまり、屋根は潰れ、引っ越すときに戸を外した入り口から内側の崩落の様子が見て取れる。家財など運び出す物もほとんど無かったろう。樫の木立ちに囲まれた家から南に小さな耕地。そして小川。この辺りはコタ・レイナの伏流の恵みが薄く、東のシアナとコセーナ、ハーモナの東側の斜面から少しづつ流れ下って集まったものだ。

「ここは壊そう。使える資材も無し。」

 ダミルは馬から下りる手間もかけずに簡単に言い、帰る合図をした。主人が馬首をめぐらすのを待って、ニーサは思い切ったように言った。

「殿、ここに住んでいた寡婦は昨夜身罷ったそうです。ロサリス様は埋葬が済んだら子供たちを連れてハーモナに戻ると言っておられます。」

「そうか。わかった。」

 ダミルは短く答え、ハーモナを左手に、東門に至る道へと軽く馬を急がせた。


 二度目の会議を呼びかけてオトワナコス、エフトプへと送った使者はダミルを落胆させ、一方では心を波立たせた。違う方向から戻って来た返答はどちらもほとんど同じ内容であった。コタ・レイナの浚渫などしている場合ではない、それぞれの郷の防備が肝要だ。西の脅威が迫っている。アタワンにいたトゥルカンは死んだが、灰がやんだ二年前にはすでに、先王の義弟アッカシュと宰相トゥルカンの息子アガムンがコタ・ラートの西に王権を主張する共同声明を出している。アツセワナとイビスはほぼ力を取り戻し、噴火前の問題に目を向け始めている。アッカシュがエファレイナズ全土の統治権を主張してくるのは時間の問題だ、と。

「アッカシュさまに灰を年貢に納めてやるよ!」

 ダミルは報告を聞いた翌朝、やってきたハーモナの卓で毒づいた。

「でも、彼らの言う通りだわ。」

 少し蒼い顔になりながらロサリスは落ち着いて羊毛を梳き上げ、錘を取って針の先に梳いた羊毛を引っ掛け、紡ぎ始めた。

「年寄りたちの言ったとおりになった。同じ水を飲んでいるだけで絆が戻るものでもない。同じ敵の方が大きな問題だということだ。彼らは領土を背川(コタ・ラート)に接し、このコセーナよりも西の脅威は大きい。―――そして、問題はすぐにここにも波及する。」

 ダミルは申し訳なさそうに言った。

「あなたはこのハーモナにいて良かったのかもしれない。」

「まだ何か言われたのではなくて?」ロサリスはふっと笑いを口元に浮かべ、引き出される糸にかかってゆく縒りに目を凝らした。

「あなたは何故、コセーナに先王の娘を住まわせておくのか。八年前もアッカシュは過ちは正せば良いと言ったのではないか。今なら彼の息子もほどよい年齢になり、一方、女のほうはぐずぐずしていると婚期を外れ、和平の目途も立たなくなると。」

 ダミルは立ち上がって言った。

「私がどんな返事をするか見ていてくれ。」

 戸口でマントを着けていると、奥の部屋からシアニが走って来た。肩まである栗色の髪にフードを被り、胴着を着け、靴を履いている。全て新しいもので、赤糸で縁をかがり、胴着の胸には刺繡の花が二列に並んでいる。

「よう、なかなかのご令嬢だな。」ダミルは微笑んだ。が、「これから見回りだ。母さまを助けて留守番をしているんだよ。」と、そそくさと出かけた。

 番小屋の前でダミルは不機嫌なバギルに捕まった。

「殿、なんで姫にイナ・サラミアスの男の話なんかなさったんです!あの方には東の話は禁物なんだ。今日の帰りはハーモナに寄ってらっしゃい。そしてコセーナの話をたっぷり聞かせてやって。自分の務めを思い出すように。全く、ハーモナに帰ってくることなんかなかったんだ。」

「いやいや、バギル」ダミルは首を振った。「今にここにいて良かったと思うかもしれないよ。ハーモナは入り口がよく隠されている。夏になって葉が茂ると私でもまごつくくらいだからな。」

 そうして先に行こうとした時、ダミルは、バギルが慌てて横を見て「また、この子は!」と叫ぶのを聞き、同時に薪小屋の陰からきちんとマントを着て出て来たシアニに気付いた。

「父さん、私もお馬に乗せて」

 シアニはダミルの足元から訴えかけるように言った。

「だめだ、だめだ、」バギルはシアニを馬の足元から離しながら言った。

「ロサリス様はこの子には良いものを次から次へと作ってやるが、この子は新しい羽根が手に入るといちいち外に飛び出していくんだ。」

「母さんもイナも赤ちゃんたちのお世話ばかりだもの。」

「そうか。」ダミルは、腹を立てているバギルから目をそらし、空を見やって口早に言った。

「なら、弁当を持っておいで!自分の分を自分で用意して下の道の戸のところまで降りてこられたら見回りに連れて行ってやる!」

 シアニが勇んで薪小屋の裏の階段から畑の方へ登っていくのを見て、ダミルはバギルに目配せした。

「行ってくるよ。可哀相だがここで引きとめておいてくれよ。帰りは叱られに戻って来るから。」


シアニは畑を突っ切り、水場から台所へと続く段を登り、裏口から台所へ入った。そして布をかけてあるパンを棚から引っ張り下ろし、ナイフで皮を少しばかり切りつけて後は引っ張って剥ぎ取り、布にくるんで隠しに入れた。それから庭の栗の木の下に潜り込み、その根方から丘の斜面の中ほどまで根伝いに這い下り、畑の裏の鳥小屋からウズラの卵を三つばかり拾い上げ、さらにシイの木の下で掌いっぱいに実を拾い、これも隠しに入れた。

挿絵(By みてみん)

 シアニは階段を下りて薪小屋の方に行こうとしてふと木の間にしゃがみ、番小屋の前でゆっくりと大工道具を広げて仕事に取り掛かったバギルの様子を見つめた。

 本当に自分をバギルと行かせるつもりだったら、もっと落ち着きなく待ち構えているはずだ。仕事をしているのは忙しいふりをしてとぼけるつもりなのだ。見つかったら行かせてもらえない。ここから下りてゆくものか。

 シアニはもう一度丘の斜面を登った。そして横ばいに右に伝い、しばらくして番小屋の前から道が十分に回り込んだのを確かめると、そっと道まで下りた。すぐ近くに館の正面に至る道の揚戸がある。それをやり過ごしてまっすぐ行くと、道はまたゆるやかに下り、一段下に合流する。そこから折り返して行っても番小屋よりも下の位置だし、揚戸をひとつ隔てていることになる。ダミルが待っていると約束した道だ。

 しかし、揚戸の前にはダミルもニーサもいなかった。シアニはもう一つ先の折り返しを行ってみた。さらにもうひとつ先を行ってみた。右も左も人の気配はない。

 左の道を行けはコセーナに行くことは知っていた。歩いて行ってみたことはないけれど。道はしばらく行くとまた急に左に曲がり―――あとはシアニは知らなかったが、やはりハーモナの東半分を大きく巻いてコセーナの東門の道に合流するのだった。

 この未知の一本道を大きく左へ曲がったところで、シアニは探すことも待つことも止め、ぽんと道から下りた。行く手には全く人も馬も見えず、本当に裏切られたことに気付いたからだ。とぼとぼとこのそっけない道を、バギルや母さんに叱られに戻るなんてありえない。

 葉が落ち始めた地面にも日が射すところにはまだ小菊が咲き残っている。シアニはそれを手にいっぱいに摘み、草の茎で結わえた。ちらりと振り返ると道からよほど森の中に入ってきている。

 庭の際から家の戸口―――。畑の端から端―――。家の端から端―――。シアニは知っている限りのものさしをその距離にあてがって考えた。

「遠くへ行ってはだめよ。」自分を諭すロサリスの声がマントの重みになって両肩を優しく押さえている。シアニはぱっと両腕を跳ね上げてマントの裾を払いやった。

 私は家の中の端と端を全部合わせたくらい遠くにだって歩ける。

 林床はゆるい隆起を帯びて魅惑に満ちていた。南に行くほど起伏は少しづつ増し、木立ちの柱を帯状に連ねた長い島とその間を流れる浅い小川や窪地の繰り返しになった。シアニは日当たりの良い木立ちの縁できれいな木の葉を拾い、木の実を拾い、それを仕舞う場所に困ったので、隠しの中身を引っ張り出して代わりに詰め込み、出した中身のほうは木の根元に腰かけて食べ始めた。

 シアニはウズラの卵を手に取り思案した。ダミルかニーサが、焼くかゆでるか何とかしてくれると思っていたのだ。巣に置いておけば親鳥が温めて孵していたかもしれないのに。

(私にちょうだい。)

 シアニは、座って卵を見つめたままその声を聞いた。

 藍色の影を下辺に帯びた雲が空を流れ、さあっと森の上に影を落とした。木々の色はくすみ、ものの輪郭は薄くなった。シアニは目をつぶり、卵を三つとも掴むと、そっと後ろ手に根の間の窪みに置いた。そして目を開けると振り返らないように花束を手にして立った。

 木々の間に光の溜りが見え、広がり、強くなった。まぶしさを伴った温かさが頬を包み、肩を包み、秋の葉の色彩と木々の姿形の線がくっきりと起き上がってきた。

 風がフードの下の髪を通り抜けた。

 浅いせせらぎの向こうの木立ちの中に姿形の定まらないものが手招いた。それは夜は寂しさに寄り添い、物語り、怖い夢を払うもの。時には姿さえ見せるものだが、昼間の光のもとでは決して相貌を現わさないのだった。

「モーナ」

 シアニは呟いた。風がふたたび額にかかり、今度はフードを後ろに飛ばした。陽光がきらきらと顔にかかり、シアニは笑い声をたてた。そしてさっと遠くに目を据えて駆けだした。

 浅瀬の石、斜面から段をなす木の根、茨は刺のないアーチの門を示す。躓かず、滑らず、刺されず、ただそこは彼女の通るためにしつらえられたかのようだ。そして平らかな林床と面白いほど勢いのつく下り坂、また小川、少し急な坂、木立ち…。

 広々と黄や橙の葉の散る林床に、雲の影が通っては過ぎる。そのあいあいに、シアニには前方で確かめるようにこちらを振り返る眼差しが感じられるのだった。右へ右へとシアニは誘われるままについて行った。

 やや西に動いた日が開けた場所を教えていた。シアニはその場に立ち止まり、嬉しげに声をあげた。

 ニレの木々がずらりと奥に控え、その前を広々とした浅い水の帯が草地を伴ってきらめいている。さざめく水の源は石組で囲われた水盤になっており、切り下がった水口から水が流れ落ちている。その脇に石段が組まれ、水汲み場が設けられていた。シアニは段を登って水盤を覗いてみた。

 水底は細やかな白砂と小石で、ゆらゆらと揺らぐその下から、小さな泡と砂、水の渦が呼吸をするように時折ふっと湧き上がってくる。

「泉だ。」シアニは呟いた。

 時折ロサリスが話してくれるハーモナの物語の泉だ。

「この地に生い育つ者、訪れる者。人も鳥も獣も、草も木も。みんなで水を分け合うようにと…。アサルの弟イルガートは泉と森の番をしました―――。」

 水盤の脇に大きな木の杓がある。シアニは花を置いて杓で水を汲み、ごくごくと水を飲んだ。杓にはまだ半分残っている。

「私は誰と分けようかな、モーナ?」

 モーナは石段の端に腰かけていた。

 束ねたしなやかな髪が耳の後ろでたわんで長く背に沿って垂れ、ほっそりした身体を包む白いと見える衣が蜻蛉の羽根のように揺らめいている。それらはシアニが見たと思った瞬間にはもう万物の中に紛れ、ただこちらを見た瞳の印象だけが残る。が、その目がふっと北西のひと群れの木立ちを指したのをシアニは捉えた。

 シアニは杓を両手で支えて石段を下り、そちらに歩いて行った。

 堂々と立ち並ぶニレの木立ちは、細やかな樹冠からもうあらかた赤くなった葉を落とし、中心部にぽっと火影のような明るみを残している。近づいていくとその中には大樹が大昔に倒れて出来たらしい空き地が陽だまりをつくっていた。そして、柔らかい灰白色の樹皮に包まれた、幹の太さがやっとシアニの腕くらいかという若木が、互い違いに二、三重の円形を描いて植わり、ごく小さな杜をこしらえていた。

「素敵な木の子(イシル)

 シアニは駆けて行って、先頭の木に水をやり、滑らかな銀灰色の樹皮に手を触れ、頬ずりした。そして、「みんなにあげなきゃ」と杓を引っさげて泉に駆け戻った。

 全くいい仕事だった。杓を泉に戻しに行ったとき、もう日はとうに西に傾いていた。

「モーナ、どこ?」

 杓を水辺に置き、花を手に取って段を飛び降り、シアニはあたりを見回した。モーナの姿はとうに無かった。

 シアニは考えた。水のこちら側の森から出て来てこの泉を見つけたんだから反対に行けばいいのよ。しかし、木立ちの下に入った途端にたちまち方角が分からなくなってしまった。いくつも木立ちの島を越え、小川を渡った。でもどれだった?どの端もどのせせらぎのみな同じに見える。そして疲れて空腹なシアニには、ひとつひとつの坂、小川が前よりも大きく、広く、難儀に思えるのだった。

 知らず知らずのうちに、シアニはよりゆるやかな方、下りの方を選んでいた。南東の方へ、南東のほうへ。

 木はまばらになり、開けたとみると目の前は白い綿毛をつけた茅の原であった。水音がする。が、川の姿は見えない。一歩踏み込むと思いのほかの傾きに身体が前にのめり、草むらの中に転がり込んでいた。立ったが顔は出ない。草丈はシアニの背より高かった。

「モーナ…。母さーん」

 シアニは茅をかき分けながら叫んだ。微かな水はねの音がし、靴が泥に沈み、水が入って来た。シアニの小さな心はその冷たさとともに恐れに浸された。

 葦原の下には湿地があり、近くに川があるに違いなかった。だが、今やどこに向かって歩いていけば水辺から遠ざかることが出来るのかわからなかった。

「母さーん、母さーん。」

 シアニは立ち尽くしたまま叫んだ。

「ミアース、ミアース!」

 声は、日が陰り、光が横滑りしていく空の中に吸い込まれていった。と、

「おい」

 突然、上のほうで草をかき分ける音とともに、低く太い声がした。シアニは叫ぶのをやめ、声のした方を見上げた。

 蒼い逆光の中に男の顔と肩が見てとれた。長く肩に垂れた銀色の髪が異様であった。男がこんなに髪を長くしているのは見たことがない。

「待て、動くなよ。」

 男はそう言うと、しなやかな足つきで下り、二、三歩のうちにシアニを泥の中から救い出した。

 茅原から出ると男はシアニを明るい方に向けて立たせ、かがんでじっと顔を見た。子供もまた男をしげしげと見返した。一風変わった(なり)だ。

 擦り切れてすっかり色の分からなくなったチュニックのような膝までの服に毛皮の胴着と尻皮をつけている。顔だちも非常に目を引く。厳しいが澄んだ眼差しが濃いまっすぐな眉と深い眼窩の奥から見返してくる。高い鼻梁の上の眉間にのみ消えない縦のしわが刻まれている。しっかりした顎ににこりともしない一文字の口。

「コタ・シアナの顔だな。親はどうした?水鳥(ヤル)の子がどうしてここに来た。」

 シアニは口を尖らせた。

「私はヤルじゃない。(アニ)よ。シアニよ。」

「家にいるはずのひなだろうに。」男はぶっきら棒に言った。

「家は?父親の名は?」

「ハーモナで母さんと住んでる。父さんはコセーナのダミルよ。」

 男は堤の上の刈り取った茅を二束担ぎ上げ、子供について来るように言った。

「ハーモナは歩けばすぐそこだが、おれには行けぬし、じきに暗くなる。早く帰るには馬のある奴を呼ぶことだ。」

 男の足は速かったし、ふたつばかりそこそこ広い小川を越えなくてはならなかったので、シアニにはよほど歩いたように思えたが、まだ日の光のあるうちに、粗末な家が木陰に見える開けた小川の岸辺に出た。

 岸辺に泥を被せた塚のような山がある。シアニの目は丸くなり、暗くなり始めた地面を見回した。

 丸く掘った穴。木の舟のようなもの。白い塊、黒い塊…。コセーナの工房の一画のようだ。

「離れてろ。何も触るなよ。」

 男は茅の束を置きに行ってシアニに命じた。それから塚の上部を引きはがすと、そこにあらわれた粗朶のてっぺんにさらに枯葉を積み、茅の穂に移した火を載せた。

「お前は運のいい奴だ。炭を焼こうという時に来るとは。」

 泥の覆いをさらに剝がしながら男は言った。

「火を焚けば遠くでも見えるが嫌な奴も呼ぶ。来るものは来させるがいい!お前の父親が早く気の付く男ならいいが。」

 ほどなく薪の山は、上の方から激しく炎を上げ、巨大な松明のように暗くなりゆく空と対比をなしてあたりに橙の光を振りまいた。

 男は火がごうごうと燃えるに任せて、仕事の続きを始めた。シアニはそっとその後をついて回った。

 男は触ろうとさえしなけばシアニが見ているのを嫌がらなかった。が、穴の中の白い粉を覗いた時だけは厳しく、下がっていろ、と命じた。シアニは大人しく少し離れ、丁度そこに置いてある丸木の切れ端の上に腰かけ、老人の仕事の一部始終を見守った。

 小半時もしないうちに、地面にあたる蹄鉄と藪を分ける音がし、小屋のある方角からダミルの声が響いた。

「何者だ?我が領内で戦の狼煙でもあげているのか。この住居の主はここを引き払ったはずだが、後に住まう者でもいるのか?」

 男は、地面にかがみこんでしていた仕事から顔を上げ、軽くシアニに顎をしゃくった。

「ほら、お前の父親だという者が来た。早く帰れ。」

 ダミルは駆けてくるシアニに気付いて驚いて馬から飛び降りた。

「シアニ!どうしてここにいる?母様は?」

「早く連れていけ!」

 男は長い棒を使って焚火を崩し、火を消しにかかりながら怒鳴った。

「すんでのところで川に入っていくところだった。母親に巣から出すなと言っておけ。イタチがうろついているからな。」

 礼を言おうとして近寄って来たダミルは、火明りが衰える直前に照らし出した地面の上のものに目を留めて老人に言いかけた。

「ご老人、あなたがここでしているのは…。」

 老人は燃えている薪を一本取り、傍らの粗朶に移し、薪の山から散らした残りの燃えさしを踏んで消した。

「これは火山灰か?」

 老人は火の消えた薪を再び組みなおしながら、微かに口元をにやりとさせた。

「コセーナのダミル。アツセワナに行った者ならあの城壁を見たろう?あの坂の舗装も。あの壁はあいつの妹が吐いた石と灰から出来たものさ。あいつだって同じだ。毒を出せばそれを薄める薬も寄越す。最後にはつじつまをあわせるのだ。あいつは…。」

 そして急に悲しげに押し黙ると、手を南東に向けた。

「すべてはあそこにある。あいつの骨を焼けばいい。木の灰も効く。あいつの子だからな。」

 シアニは、ぴったりダミルの横にくっついて老人を見ていたが、帰りを促そうとダミルがその肩に手を置くと、するりと老人のもとに駆けて行って、ずっと手に持っていて半ばしおれた小菊の花束を差し出した。

 老人はたった今初めて子供に気付いたかのように戸惑いの表情を見せ、呟くとも応えるともつかぬふうに囁いた。

「ああ、行ってこい。自分で行くんだ。ガラートは優しい奴だからな…。」そして差し出された花を掴むと、暗がりに積んである煉瓦の山の上に載せ、後は一同に見向きもせずに、小さな焚火のもとで仕事を続けた。

 ダミルは、鞍の前にシアニを乗せ、自分も乗った。

「シアニ、どういうことだ。」

 先導するニーサに続いて慎重に馬を出しながら、ダミルは、怒っているらしく声を低めて言った。シアニは振り向いて言い返した。

「だって、父さんが約束を破ったのよ。」

 ニーサの押し殺した笑いが聞こえた。ダミルは咳ばらいをして急に声の調子を変えた。

「ニーサ、灰の始末が出来るかもしれんぞ。」

「火山灰のことですか?」

「そうだ。」ダミルは勢い込んで言った。「なあ、シアニ。あの老人(コーアー)は焚火のそばで何をしていた?」

「煉瓦を作っているみたいだったわ。」

 シアニは生真面目に思い出しながら言った。

「でも、コセーナで作っているのを見た時と違っていた。藁も土も入れてなかった。白い灰みたいな粉に水を入れて火山灰と砂利を入れてこねるの。それを木の枠につめて出して乾かすの。私もやりたかったな。コセーナで上手にできたのに。でも白い粉には絶対に触るなって。はじめは小石か何かのかけらに見えたけど、おじいさんが水を混ぜたら、しゅうっと湯気をあげて崩れたの。」

「あの積んだ薪で何を燃やしていたんだろう?」ダミルは興味深げに言った。

「炭を焼くんだって言ってたわ。」シアニは非難めかして言葉尻を上げた。「父さんを呼ぶために蓋の泥を剥がして火が大きく見えるようにしたのよ。」

「それで炭焼きが初めからやり直しになってしまったというわけか。」ダミルは申し訳なさそうに言った。

「すまなかったな!今夜あの火に呼び寄せられてならず者が寄って来なければいいが。」

「あの男が火を焚いているところには誰も近づくことも出来ませんよ。」

 ニーサは感嘆して言った。

「火を意のままに操るかのような身のこなし。怖いような男前ですしね。他にもいろいろと役に立つことを知っているんだろうな。味方になってくれたらいいのに。」

「この子を助けてくれたんだ。私にとっては既に味方だが、コセーナとコタ・レイナの味方になってくれるかどうかは話しだいだ。どうやらここに居を構えるようだから、いよいよ話し合いが必要だな。力のある男のことは、敵もおそらく放ってはおかんからな…。」

「父さん、お腹が空いたわ。」

 土を固めたハーモナへの道に乗り入れた時、シアニは安心して言った。ダミルはふーっと息を吐いた。

「先ず番小屋に寄ってみよう。バギルはいるかな?母様の前に行くまえに今回のことに関係のある奴らの辻褄を合わせておいた方がよさそうだからな。」


 ダミルは翌朝、早速ニーサを伴って老人を尋ねて行った。前の晩に彼はロサリスにこの冬の見通しを話していた。

「あの老人の言っていたことを考え合わせると、火山灰を固めれば石材となり、固めるのに必要な石灰はイナ・サラミアス南部にある。石灰を焼くには木が必要だが、その木の灰もまた火山灰の毒消しになるということらしいんだ。」

「イナ・サラミアスから石を切り出すの?」ロサリスは眉をつり上げた。「―――まるでかつてアツセワナがやったように御体に楔を打つと?それに木を切ると?サラミアは死んだと皆は言うけれど、たとえ亡骸にも傷をつけることなどできるものかしら、母である方に対して。」

「すべてはイナ・サラミアスにあると老人は言った。」ダミルは落ち着いて答えた。

「我々を苦しめるものがかの地から発したならば、それを治すものもまたあるというのだ。ロサリス、どれほどのものが前進するかを考えてごらん。立ち枯れた木にも火山灰にも途が付く。足踏みしているコタ・レイナの協力関係も前進するかもしれない。厄介者の火山灰が、コタ・ラートの防塁になると知れば、資材の調達と川の浚渫が同時にできることがオトワナコスにもエフトプにも分かるだろう。―――

冬までにタシワナに拠点をつくりたいものだ。石灰石を焼いた後で、水で石灰にもどすまでを当地で出来るようにするんだ。が、まず明日はあの老人に会ってやり方を教わって来るよ。」

 ダミルが出かけて行った後、ロサリスは五人の幼い子供たちの面倒を小女に任せ、いつもより多く量を取ったパン種をこね、窯に火を入れ、シアニを呼んだ。

「今日は父様があなたを助けてくださった方にお礼をしに行ったから、明日は私たちが行きましょう。あの、裏に畑と小川のある、カシの木に囲まれた家ね?」

 シアニはロサリスをじっと見返して首をかしげ、言った。

「あのおじいさん、ひなは巣から出すなって言ってたわ。イタチがうろついているって。イタチって何かしら?」

ロサリスは一寸喘いだが、意を決したようにパン種をふたつに切り、寝かすための籠にそれぞれ分けて入れ、布にくるんで窯の上の棚に置いた。

「子供をさらう悪い人がいるということよ。母さんと一緒なら大丈夫。明日、馬で行きましょう。」

 ダミルは一日老人の作業に食い下がり、成果に満足して報告に寄った。

「石灰と火山灰。砂利のあんばいと手順は分かった。明日年寄りに言って暇をもらう。ケニルと若い者をふたりほど連れて石を採りに行く。首尾がうまくいったら、ケニルにそのままタシワナに交渉に行かせる。石灰石を持ち帰ってこのコセーナではじめに少し煉瓦をつくってみよう。冬にはみんな忙しくなるぞ。」

「イナ・サラミアスに行って帰るには随分日数がかかるでしょう?」ロサリスは糸に縒りをかけながら言った。「あなたがコセーナにいなくても大丈夫かしら。」

「見回りの報告によってはケニルに行くのを任せるかもしれんな。」ダミルは認めた。

「我々は人に見慣れてきた。悪いことばかりでもない。口過ぎのために悪さをしていたヨレイルの子たちを保護できるからな。石灰石が滞りなく入ってくるようになれば彼らには堂々とうちの飯を食えるだけの仕事が出来るというわけだ。一方、悪い奴が増えたのも事実だ。シアニ、しばらくは馬に乗せてやることはできない。森に入るのも駄目だ。危ないからな。」

 シアニは、ロサリスの横で糸を玉に巻きながらそっとその顔をうかがった。しかし、ロサリスは口元に不思議な微笑を浮かべたまま、言葉を挟まずに糸を紡ぎ続けた。

 昼間の光のもとで舗装された道から行くと、老人の住んでいる場所はあっけ無いほど近かった。ダミルの押し掛けの手伝いで煉瓦造りのほうはあらかた終えてしまったらしく、老人は川のそばの空き地にはいなかった。ロサリスは小屋から少し離れた立ち木に馬を繋ぎ、シアニを下ろした。

 以前訪れた時の溜まった灰は片付き、代わりに崩れていた入り口と奥の壁は煉瓦に置き換わり、屋根の茅はすっかり葺き変わっていた。入口に戸はまだついていない。ロサリスはシアニを近くに引き寄せたまま逡巡した。

「誰だ?」

 さほど大きな声ではなかったが、ロサリスは一瞬身を固くし、相手と目を合わせるよりも先に身をかがめて会釈した。

「ヒルメイの方。私はアツセワナの王にしてエファレイナズの盟主であったシギルの娘ロサリスです。」

 男は西側の森の境の草の中に立って微動だにしなかった。

「一昨日助けていただいた子の―――母です。」

「そんなはずもあるまい。」木陰の中から奇妙に柔らかな声だけが返って来た。ロサリスは言葉につまったが勇気を奮い起こして言った。

「心ばかりの礼でございます。私どもの育てた食物をお受け取りくださいますよう!」

「暮らしなら自分でたてている。」男は言った。

「コセーナの掟に基づいて狩りの許しは昨日領主から得た。コセーナと己の身を守るための他には人を殺めぬことも誓った。得心したなら行かれるがいい。子供をこんなところに来させるな。」

 それきり男は亡霊のように黙して答えず、動かなかった。

 ロサリスは身をかがめたまま、持ってきた籠を抱え込んだ。どうしてもそれを差し出すことが出来ず、ようよう顔を上げると男の姿は既に無かった。

 ロサリスは小さく傷ついた笑い声を漏らし、傍らのシアニに囁いた。

「シアニ、おじいさんはいなくなったかしら?」

「ううん」シアナは木立ちの中をじっと見つめながら言った。

「見えないけれど、いるよ。」

「そうだと思ったわ。シアニ、行きましょう。道まで戻ったら―――わかるわね?あなたを下ろすから、おじいさんに籠を届けてちょうだい。」

 ロサリスは馬を繋いであった木から放し、背に乗り、シアニを後ろに乗せ、ゆっくりと道に戻った。

 シアニはするりと馬の背から下りたが、

「母さん、叱られるよ。」心配そうに言った。ロサリスは籠をシアニに渡した。

「もう叱られているわ―――大丈夫、あのおじいさんは子供には優しい。ここで待っているから届けて来て。」

 シアニは籠を抱えると、二、三度飛び跳ね、さっと道から下りるとさくさくと森の中を駆けて行った。

 老人は小屋と小川の間の土地を歩きながら測り、時折目印に煉瓦を置いていた。地面には生乾きの煉瓦がいっぱい並んでいる。シアニは爪先立ってその間を歩いて行った。老人は子供を見ると素早く周囲に目を走らせた。

「来るなと言ったろう!」怒ったように囁き、近寄って来た。「ひとりで寄越すとは」

「だって、母さんと一緒だとおじいさん出てこないもの。」シアニは指摘した。

「母さん、泣きそうになっていたよ。おいしいパンを持って来たのに。食べ物は大事に分け合うものよ。」

 突き出した籠からはいいにおいがする。


   半分は私に 半分は雀に

   半分は雀に 半分は私に


 香気に誘われて、ふた回りも調子の高ぶった歌が飛び出した。シアニは、老人にもっと近づけるようにと籠をひょいと頭の上に乗せ、ちょんと跳んだ。

「待て待て、」老人は籠を抑え、その下からシアニを見た。

「お前は若雀(シアニ)だったな。なら、半分よこせ。」

「もう半分になっているわ。だからそれ全部よ。」

 シアニは跳ねながら言った。

「私もおじいさんの名前知ってるわ―――男前(ゴロイ)でしょ?」

 ニーサの感じ入った口ぶりを真似たので奇妙な低い唸り声になった。老人は咳を押し殺したような音をたてて、その顔を籠の上に消し、と見ると、シアニの頭の籠の中はすっと軽くなった。

「もらったぞ(アニ)。もう巣に帰れ。母鳥を待たせるな。」

 老人は受け取ったパンを小屋の中に仕舞いに行き、また戻って、ぶつぶつ呟きながら地面を測り始めた。

 シアニはロサリスが待っている道まで籠をぶら下げて飛び跳ねながら戻って来た。

「受け取ってくれたのね。」

 ロサリスは籠を取り、シアニを馬に引き上げてほっとしたように言った。シアニがロサリスの腰に両腕を回して掴まると、ロサリスはゆっくり北向きに馬を出した。

「ねえ、シアニ。ここから帰るまでに道を覚えるのよ。この道もコセーナに通じているの。ここからしばらくでいつもの九十九折の道と合流する。そこからハーモナに戻る道はわかるわね。」

「わかるわ。」シアニは目印の木を唱えながら答えた。

「あなたに仕事を頼むわね。」ロサリスは木々に紛れ込ませたジグザグの道を手綱で操って馬を進めながら、人目から隠されながらも皆無ではなかったハーモナへの襲撃を思い浮かべ、次いで恐れを押し殺して言った。

「これからパンを焼いたらあのおじいさんに届けに行ってちょうだい。母さんは小さい子たちのお世話で馬を出せない日もあるから、歩いて行ってもらうことになるわ。母さんが言った日だけよ―――。」

 しかし五日後にパンを焼いた翌日は、ロサリスは、シアニはおろかハーモナの全員に揚戸の外に出ることを禁じなければならなかった。

 ケニルと若者ふたりをイナ・サラミアスに発たせ、自らはコセーナに残っていたダミルは、地下通路を通ってその夕方やって来た。

「北の見回り班が、イビスからオトワナコスへの公道を武装した者共が列をなして行くのを見たそうな。騎馬は十騎もいなかったそうだが、先頭からしんがりまでで中の道が一時端までいっぱいになったという。あの道は三町ほどだ。領土北西を巻く道にも常に人がいて警戒していたそうだ。今も何人かがとどまっている。何がきっかけかは知らんが、明らかにオトワナコスを襲いに行ったのだ。」

 ダミルは、迎えて居間に通そうとするロサリスを押しとどめ、祭殿の隅で声を潜めて言った。

「それが本当ならオトワナコスの領民の半分もの数だわ。」

 ロサリスは蒼ざめ、今は幼い子供たちが小女に寝かしつけられている、脇の部屋を見やった。

「既にこちらも急襲に備えている。ケニルが戻ってきていないが、ニーサも他の者も九年前の襲撃を覚えている。要所に人を割り当て、武器も与えた。見張りは続けている。あなたは皆にここを出ないように伝えてくれ。―――やあ、バギル。私は報告に来ただけだ。すぐに戻るよ。」

 居間から駆けて来たシアニがバギルの脇をくぐり抜け、ダミルの傍らに来ると、そっとそのひんやりとした籠手をつけた腕に触れた。

「エクミュンがいるといいのにね。」

「大丈夫さ。」

 シアニの肩を叩きながらダミルはロサリスを見て言った。

「シアニ、イビスは敵ではない。我々と同じ土を耕す農民なんだ。結局人なんだ。ヨレイルを食べたりなんかしない。残念ながら昔からオトワナコスとは仲が悪いが。今もどちらが先に仕掛けたのか知れたものじゃない。この騒ぎの訳が分かるといいんだが。」

 二日後、命からがらコセーナまで逃れて来たオトワナコスの里人ふたりによって、イビスとの戦いのあらましが伝えられた。

 八年前の噴火から、イビスの荘はコタ・ラートの東側の耕地を放棄して西側に閉じこもり、収量の落ちた食糧を身内で独占して飢餓をしのいだ。耕地とともに捨てられた作人と自作農の一部はコタ・レイナ州の郷のいずれかに逃れ、残りは放浪者となった。あるいはもっと豊かなニクマラ・ガヤかアツセワナに行ったかもしれぬ。オトワナコスでも可能な限り受け入れ、見捨てられた耕地にも手を貸し、種子や労作の支援をし、再び人々が居住出来るようにした。

「灰がやんでイビスの領主が東の耕地を見た時に境界が変わっていたということだな。」

 ダミルは災禍の折に情けをかけたことを悔やんでいる高地の男たちに炉のそばで食事をさせながら横を向いて呟いた。

二年前に灰がやんで、イビスの領主は再び小作人を耕地に戻しはじめた。逃亡していたと思っていた作人、放棄したと思っていた自作農、あるいは見も知らぬ高地の人間がそこに住まっているのを見て、彼は新たに彼らを配下に置きなおそうとした。耕地の新しい主をめぐって作人同士で小競り合いが起き、新たに入ったオトワナコスの民人は追い出された。自らの耕した土地が警備の兵に囲い込まれるのを見て憤慨した作人たちは、オトワナコスから領主に無断で仲間を連れて取って返し、復讐を果たした―――。人数の少ない折を見計らって、鋤鎌を得物に皆殺しにしたのだ。

「イビスの古い耕地など、恩を着せて捨ててくればよかったものを。」

 イビスからの道とエフトプからの道をつなぐ中道をおよそ一里遠くに、正門の左の櫓の窓から見張りながら、ダミルは呟いた。あちらでもイビスの兵がこちらを見ている。昨日から時折逃れてくる者を受け入れているのを見たはずだ。

 オトワナコスは小さくても堅牢な砦だ。里の者は情けに篤いが血の気も多く、勇敢だ。イビスも落とそうと思っての攻撃ではあるまい。

 もともとの因縁があるのだ。灰が止んだとなれば誰もが遅かれ早かれ挨拶をしないわけにはいかない。すなわち、境界の、掟の、主君の確認だ。友好的に再開するわけもないのは知れているのだ。互いの威嚇から始まるのだ。

「無論、来る。このコセーナにも。」

 高柵の内側に組んだ足場は、九年前にも備えられたものだ。見張りが交代で上がる他、その足元には時間ごとに詰めている射手たちがいる。若い顔が少し増えているが、全体としては四割ほども減ってしまっている。

「イビスはオトワナコスとの長年の敵対関係を確認したんだ。これは耕地を巡る争いだ。」

「コセーナとイビスが境界でぶつかったのじゃないのに、割にあわないなぁ。」足場の下で当番が終わるのを待ちながら、少年のひとりが友達にぼやいた。

「今は、オトワナコスに肩入れしたことに怒って威嚇しに来るんですね?」話しかけられた少年が膝を抱えてダミルを見上げた。

「そうだ。境界を越えて一町の距離まで近づいたら射てやれ。深追いをする必要はない。」

「それじゃ、僕たちが子供の頃にあったイビスとの戦いは何だったんですか?」

 側にいた年配の男がぴしゃりと少年の腕を叩いた。

「坊主、昔のことは昔のことだ。今はちゃんとするときにする事をやりゃいいんだ。」

 コセーナとイビスとは長いこと敵対などしていなかったのだ。共に王に血脈を与えた家系であった。コセーナとアツセワナとの婚姻はエファレイナズの流血なき統一に資したのだ。だが、戴く王が異なった時、コセーナはイビスと敵対した。いや、他の全てと敵対し、コセーナ自体も割れたのだ。今まさに砦の内側に備えられた射手の足場は、九年前にダミルが兄ダマートの攻撃に備えて用意したのが初めだったのだ。

「今は威嚇だ。間違いない。」ダミルは自身の武装を身支度しながら呟いた。

「だが、すぐに王権を認め、忠誠を誓えという使者が来るだろう。今日戦うかもしれないあの若い奴らは自分が戦う理由も知らないのだ。」

 長い戦いの再開を思ってダミルは深く息をついた。

 二日後、オトワナコスの攻撃から引き揚げる途上のイビスの一団が、コセーナの前面を襲った。

「嫌がらせだ。オトワナコスから逃げて来た者たちを匿った腹いせさ。麦畑が蹄で少し荒らされた。少し出て行って追い払ったよ。あちらの代償の方が軽いとは言えないな。」

 その夜、地下通路を通ってやって来たダミルは、鋲を打った重い革の胴着はそのまま、兜を脱いで拳で汗をぬぐった。

「エクミュン、来てくれた?」

 シアニは寝室から起き上がって迎え、期待を込めた目でダミルを見上げた。ダミルは面白そうに言った。

「いいや、エクミュンはいなかったよ。イビスも鬼になって爪を投げつけたりはしなかった。」

 そしてロサリスの方を見た。

「だが、あの老人は弓を使える。ほら、あのシアニを助けてくれた男さ。」

「イナ・サラミアスの者であれば。」灰色の瞳に微かに自尊心の閃きが走った。ロサリスは椅子に掛けるよう勧めたが、ダミルは暑い炉辺を避け、立ったまま口早に言った。

「敵が北面の耕地に姿を現しはじめた時、彼は高柵の外側に沿って近づいてきた。敵かと思い矢を射かけてしまうところだった。いや、下手な若いのが一本飛ばしてしまったんだ。するとこちらに言う言葉がいいじゃないか。『おれには弦のなる方を寄越すんだよ。』それを聞いてニーサが矢筒と弓を柵越しに渡した。彼は堀から射た―――ニーサの弓は矢飛びは良いが正確に射るのが難しいんだ。だが、誰の出る幕も無かった。あの老人の矢は耕地の端まで飛び、乗り手を射落とした。我々が門から飛び出して畑を踏み散らかした奴らを追い払う前に、彼は司令塔を片付けたんだ。」

 様子を聞きに番小屋から駆けつけてきたバギルにあらましと被害の程度を知らせてから、ダミルはすぐに地下通路へと戻った。

 暗い祭殿を灯火で照らしながら先導してきたロサリスは、通路への揚戸のある倉庫の前で灯火を下の方に下ろし、ダミルを前に通すと尋ねるでもなく言った。

「あの方はずっとあの農夫の家に住むのかしら。」

「そのようだ―――門の内には入らぬ、と彼自身が言った。名をなかなか言わないのはイーマの常だな。私の方では彼にコタ・レイナ以東、東門の柵より南の森を自由に歩くことを認めた。私はハーモナの森は番人を得たと思っているよ。」

ロサリスは翌日、小さな平たいパンを焼き籠に入れてそっとシアニを老人のもとに行かせた。

 イビスとの小競り合いから二日後、イナ・サラミアスにケニルとともに送り出した若者ふたりは、馬の背に石灰岩を積み、自分たちは馬を引いて元気いっぱいに帰って来た。その翌日にはタシワナに交渉に寄っていたケニルも戻って来、首尾よく食糧の援助と引き換えに協力を取り付けてきたことを告げた。


 ダミルはすぐに職工頭を呼んだ。これからすぐに持ち帰った石灰石を手順に従って焼き、火山灰の煉瓦を試作する。うまくいけばこの冬からタシワナに拠点を置いて石灰の供給を軌道に乗せ、このコセーナで煉瓦を作ることが出来るだろう。

「殿、それはいつまでかかる見通しだね?」職工頭は腕組みをして言った。

「わしら工房の者はいちおうの肩書の他の仕事もする。鍛冶も皮なめしも車大工も皆、足りないところに都合しあっているんだ。その用事が無くなるでもないのに、終わりのはっきりしない仕事は引き受けられんよ。」

「親方たちには人選を頼む。」ダミルは落ち着いて言った。

「一番手は手元に置いてくれ。鍛冶も大工も専門に精進すればいい。二番手を寄越してくれ。炭焼き、樵、土こねがひと通り出来る奴を各所からひとりずつ。」

 職工頭にはそこまで説明して帰し、ニーサとケニルを呼んだ。

「うろついていた連中を捕まえたと言っていたな。食わせて少しは落ち着いたかな?点呼して全員連れて来い。」

 彼らと入れ替わりに、ほどなく職工頭に選ばれた三人がやって来た。

「なるほど、いい顔ぶれだな。お前たちがこれから第一人者だ。新しい建材、灰煉瓦の熟練工になってくれ。猶予は十日。うまくいけば二回目にはお前たちそれぞれに弟子をつける。」

 まだ若い職工たちは弟子と言われ、顔を見合わせた。

「ひとりにつき五人ずつ―――やって来たようだな、よし、入れ。」

 ニーサとケニルに挟まれてぞろぞろと入って来たのは、肌の浅黒い、やや怯えた目をした少年たちだった。一様に痩せて薄汚れ、ぼろを着ていた。

「十五、六歳の力の強そうな子はいないのか?十五人ほどいると良かったんだが。」

「十三歳に年を下げて七、八人ですよ。この子たちにきつい力仕事は無理だ。」ケニルは言った。

 ダミルは立って卓を回り、一列に並んだ少年たちをひとりひとり見て行った。直ちにまっすぐ見返してくるほど度胸のある者はそう多くない。が、ダミルが見ていないときには、ひとりの例外もなくこちらを観察している。これで良い。

「ゆうべは眠ったか?食事をして腹にしっかり収まったか?」

 子供たちはばらばらとうなずき、身じろぎ、ある者は白い歯さえ見せた。

「今からお前たちがこれから暮らす場所を見て回る。昔コセーナに住んでいたものはいるか?」

 年かさの三人が前に出た。

「山が火を噴くまで、親と荘園を渡り歩いていて、冬の間は丘の下にあった宿舎に住んでいた。」

 ひとりの少年が言い、他に年下の子をひとり押し出した。「弟も。覚えていないけど。」

「そうか。」ダミルは素早く言った。

「では、頭はすぐに炭焼きにかかってくれ。後で弟子たちを連れて見に行くからな。」

 若い職工たちは、古株の親方たちに気兼ねせずに働けるように、八年来耕されていないコタ・レイナ西の古い耕地の端に作業場を構えた。

 立ち枯れた木が慎重に選び抜かれて切り出され、小山に分けて炭が焼かれた。ここまでは皆が出来る仕事だ。次に出来た炭を使い、強い火力で砕いた石灰石を焼く。職工には鍛冶の心得のある者もいる。ダミルの言葉と身振りの説明でたちまち意を汲んで、地中に穴を掘って炉底を作り、その上に筒状の炉を粘土で築いた。下部に覗き穴と羽口をつける。そこに炭を積み、砕いた石灰石と炭とを交互に重ね、火をつけ、鞴で風を送る。炭が白く輝くほどに焼く。冷めた炉の下部を割り、焼けた石を取り出す。穴を粘土で固めた練り床に焼いた石を入れ、水を入れる。たちまちに水は湧き上がり、もくもくと立ち昇る蒸気の中で石は跡形もなく崩れ去り、挽いた麦粉よりも細かな白い粉が残る。

 石灰石を焼きはじめてからは三人の若い職工は誰も眠りもしなかった。炉の燃えるさまを見ながら、ダミルに煉瓦の寸法を訊き、やおら木切れを切り、ほぞを掘って木枠を作りはじめた。ダミルはそれを見ながらうつらうつらと眠り、目が覚めると炉の番を代わり、見よう見まねで木枠を組み立てた。ダミルについてきた子供たちも皆、その周りで眠り、見かねた女たちが運んできた食べ物を食った。驚いたことに少年たちは職工たちの仕事を見る傍ら、堤の灌木の枝や茅などを石片で切り取ってきて掘立小屋のようなものまでこしらえて、代わる代わる出入りしているのだった。

 夜明けの寒さに身震いして起きたダミルは、薄ら暗い地面に青白く並んでいる四角い石を見て駆け寄った。疲労に目が真っ赤になり、肩も首も垂れた職工たちが黙々とその横に新たに並べている。

 しまった。おれは眠さで夢うつつに灰の配分を訊かれ、答え、こいつらがその通りに働いている間に、寝てしまったのか。ダミルは、石の列を素早く勘定した。百八十ある。立派なものだ。

 ダミルは、傍の職工の肩を叩いた。職工はよろよろと振り返り、寒さと疲れでこわばった口元でぎこちなく笑った。

「ご苦労だった。ここはこのままでいい。早く宿舎に戻って寝ろ!」

 その日と翌日を休ませ、はじめの三人を頭としてその下にヨレイルの子供五人、荘内の若者七人を加えて二回目の煉瓦つくりを行わせた。

 順調な滑り出しだ。二度目からは自ら口を出すこともなく、若い頭たちがはじめの倍ほどの手際の良さで作業を指導しているのを確かめて、ダミルは、タシワナに人足を送る計画を練り始めた。協力の返礼の食糧も都合せねば。養う口も増えた。

ダミルはロサリスに相談し、タシワナの援助に割ける分を蓄えから計算した。これを来年の収穫があるまで分割し、交代で派遣する人足とともに定期的に送り出す。

 二度目の試作が終わった段階でダミルは若い頭三人を呼んだ。今ではこの三人は全ての工程を理解している。 

 お前たちの下で働いた者たちを、炭焼き、石焼き、煉瓦つくりの三つに振り分けよ。得手、不得手が少々あっても良い、いずれは交代し、全てを習熟するだろう。このうち炭焼き、石焼きの者たちにはタシワナに行って仕事をしてもらう。頭は月に一度、その下は半月に半数ずつ交代させる。

 初めに選ばれた十人と食糧を積んだ三頭の馬が、ケニルに先導されてタシワナに向かった。残った煉瓦つくりの者は、石灰に粘土と糊を混ぜ、漆喰を作り、出来上がった四百個ばかりの煉瓦で作業小屋の土台を作りはじめた。ヨレイルの子供たちは嬉々として手伝った。高柵の内の宿舎よりも気兼ねなく入れる屋根への期待が芽生えてきているのだ。回復の営みは自然に動き始めている。ダミルは煉瓦の使い途をしばらく彼らに任せることにした。どのみち先の長い仕事だ。灰はいくらでもあり、まだ害であり続けている。


 タシワナへ二度目の隊を送り出したのは冬も目前の頃であった。日足の短くなった夕刻の見回りから戻り、厩に馬を入れ、水場で手と口をすすぎ、そのまま自室へ行こうとしていたダミルは、詰所と住居との間で待ち構えていた年寄りふたりに呼び止められた。

「殿、各部門の頭と長老が会見を申し入れております。」

「若い者もです。話を直々に伺いたいと。」

 ダミルは、並んで立ちふさがったふたりを前にして苦笑した。

「若い奴は遠慮せずに声をかければいいものを!皆で申し合わせ済みのようだな。いっそ会議としよう。話のある者も聞きたい者もみんな来るといい。イーマも一族の集会では若い奴らに初めから終わりまで大人の話し合いを聞かせるそうだ。そんなやり方をおれは良いと思っているんだ。―――明日の朝仕事の後で広間に皆を呼んでくれ。」

 翌日、広間には年寄り、頭の他に、作人や職工、若者たちが集まった。顔ぶれを見てダミルは心中でうなずいた。父祖の代からコセーナに住まい、忠誠心の自負も強い者たちだ。仕事に通じ、黙っていてもきちんとしきたり通りに働いて荘を動かしていける者たち、領主がたとえ名ばかりでもそこにいる限りは居場所の揺るがぬ者たちだ。ここには女も、ヨレイルも、新しい煉瓦つくりに没頭するような者もいない。それらは変わり、移り、不確かなものなのだ。女の意向を聞き、ヨレイルの子を集め、いつ終わるとも知れぬ煉瓦つくりに舵を切ったおれのやり方に平常心を乱されるのだろう。

 ダミルは長い話に備えて炉に火を焚き、飲み物を用意させた。長たちを卓の上座に座らせ、若い者たちは目は届くが窮屈でないところに好きに座らせた。話の向き次第で、この者たちにも年寄りには尋ねられないことを直に耳にする機会が巡って来よう。

「皆の話を聞こう。まず誰からいくべきか?代表が決まっているならまとめて言ってくれ。」

 前の晩にダミルに話を持って来た年寄りたちは、先々代から仕え、ダミルの父のもとでは長年それぞれ作人と職工の頭を務めていた者だった。彼らは互いに見交わし、ひとりが口を切った。

「殿、私どもは実務を退いたあとは忙しいあなた様に成り代わって、働く者の話に耳を傾けてまいりました。年寄りには暇もあれば答えのよすがにする経験もあるのでな。―――この頃の殿の様子に皆は不安を覚えておる。」

 皆は黙って聞き耳をたてている。 

「先ず、コセーナの主としての務めを一から思い出して頂きたい。領民を食わせること、守ること。」

「もちろん承知している。」ダミルは驚いて言った。「それを片時でも忘れたらおれにはここにいる資格はない。」

 長老を含め、二、三の者は笑いを漏らした。端にいたひとりがなだめるように言った。

「殿が懸命にしておられるのは分かるがやり方なのだ。ようやく作物の収量も増えた。牛馬羊も子を産んだ。若い者も所帯を持ちたいだろう。ようやく昔通りになった暮らしを大事に守るべきだろうに…。」

「なのに、あの煉瓦だ。」はじめの者が言葉を次いだ。

「あれをいつまで続けるおつもりか。万事を差し置いて傾注するほどの価値はあるのか。春になれば他の事に人手を取られるというに。年端もいかぬ腕もまだまだの者に作らせ、タシワナに大勢で出かけるなど道中も危険きわまりない。」

「灰をあのままにしていては麦の収量も頭打ちになることは皆もわかっているだろう?あれを減らせるただひとつの方法なのだ。やることがひとつでもわかっている以上おれはやるし、皆の迷惑にならぬように職工を育てるつもりだ。タシワナに拠点をつくれば人手を借りられる。」

「コセーナを養う貴重な食糧ですぞ。」

「計算はした。」

 やれやれともうひとりが首を振る。

「ほれ、このように!この頃は会議にも出さずに何でもわずかな人数で相談して決めてしまわれる。」

 ざわざわと皆の頭が動き出した。ダミルは卓の上に拳を握り合わせて鎮まるのを待った。

「以前にも申し上げましたな。確かに蔵の鍵をお持ちの方は良くやっていなさる。が、その方の立場がおかしい。奥方であるべきだ。」

「意見の聞き方が足りなかったようだ。申し訳ない。」ダミルは素早くかわした。

「皆に平常にしていて欲しいと思うので煩わせないようにと考えた末だ。皆はおれが藁のように頼りない主でも切り回せる熟達だ。個々の仕事を頼む。だが、煉瓦はしばらく任せてくれ。成果が見えるには時間がかかる。」

 家族同様に暮らしてきた家人たちは、頭を下げられて表情をやわらげかけた。が、もともと言うつもりで来た事は言わずに済むことではない。

「何よりもコセーナに危険を招くことだけは避けて頂きたい。煉瓦を玩具するのはまだしも諍いに巻き込まれるような事があっては。オトワナコスもエフトプも己のことで手いっぱいなのだ。荘の外を構うのはおやめなされ。」

「構ってなどいないじゃないか。」ダミルはあっけにとられていった。「オトワナコスから逃げて来た者を庇わないわけにはいかないだろう?イビスがそれが気に入らんと言って帰り際にちょっかいを出すなら始末もするさ。」

「家に余計な者を入れなさる。」年寄りは呟いた。「殿は父君に似た大らかな良い気性だ。だが異邦人に肩入れするところまで似なくても…。」

 途端にダミルの顔にかっと血がのぼった。

「誰のことだ。」

 一瞬、卓の上にも、下で聞いていた年配の者たちの間にも水を打ったような静けさが降りてきた。若い者の目だけがその下で不安げに行き来している。

 不意に扉が開き、門番が一同の様子に驚きながら、オトワナコスから使者が到着した旨を伝えた。三年前にも訪ねてきた領主の甥が従者を伴ってやって来たというのである。

 ダミルはすぐさま通せと命じ、慌てる人々にはそのままにと命じた。主に政について説明せよと求めてきた者たちである。運命が何を運んできたか見せるがよい。思わぬ援軍が来るか、ここで主の座を降り、はからずも先に言ったとおり切り盛りを皆に任せることになるかは分からないが。

 領主の名代だというオトワナコスのオロルトは、床の上にまで座っている並み居るコセーナの家人たちにもひるむことなく、まっすぐダミルの正面まで歩み寄り、勧められるまま近くの椅子に掛けた。そして、イビスとの諍いで里人が保護されたことへの礼を述べ、迷惑を詫びるとともに、改めて西の勢力に対して連携することを提示してきた。 

 ダミルは黙ってその文言を聞くと、予め打診のあった事柄を了承したかのように微笑んだ。

「前もってエフトプにも使者を出しました。」

 まだ若い名代は、ダミルに丁寧ながらも抜け目のない時機にさっと告げた。

「応えを受けてから出立して参っております。私がこちらの道に下りてくる時に西回りの道を半里ほど遠くに見えましたので、そろそろこちらに着かれるはず。」

果せるかな、再び門番が戸惑いを隠しもせずに、エフトプの領主キアサル自らがふたりの従者と共に訪問してきたことを告げた。

「皆、立って壁に引いて場所をあけよ。エフトプの主をお迎えする。」

 家人たちがうろたえながら立ってぞろぞろとあけた中を大股で通り、自ら館の外に老領主を迎えに出る傍ら、ダミルはそっとニーサにロサリスの助力を請うてくるよう耳打ちした。潮の変わり目かもしれぬ。小さな波ならコタ・レイナ間の繋がりは強まる。大きな波ならおれは舟を転覆させるかもしれない。船頭を皆が疑い始めれば。いずれにせよ三郷の集会はそのまま宴と客の幾晩とも知れない宿泊へと続くはずだ。

 ロサリスは東門からそっと台所に入り、女たちに食卓と客室の準備を指示した。また、家人たちが順次集会から中座して食事や休憩を取れるよう、作業場の隅に休憩場を作った。

 ダミルは席に戻ると家人たちに座るよう命じ、上座に導いたエフトプの領主が口を開くのを待った。

 三郷のうちでどこよりも西に位置し、コタ・レイナのみならずコタ・ラートとも領地の接するエフトプは、水運を通じて北のイビス、南の湖畔、ニクマラ・ガヤと昔から交流があった。独立の気風を重んじるオトワナコスと比べ、交易によって立つ部分の大きいエフトプは西とも事を荒立てるのを嫌う。コセーナとのよしみから、コセーナと血縁のあるアツセワナのアケノン、シギル父子がコタ・ラート以西を統一するにあたって援護し、次いでコタ・ラート以東の統一にも協力してきたものの、シギルの娘とその母方の叔父アッカシュとの王位継承をめぐっての分裂では早々に中立を表明し、どことも表向きの交渉を避けてきた。一方領地の生命線、妹川、背川の水に乗ってやって来るものが人でさえなければ領域を通ることを許し、時には陸に上げ、商いを続けた。

 エフトプの望みは一日も早く自由な交易を再開することであるはずだ。アッカシュは、既に概ねの同意を得て西を治めている。父王亡きあと庇護を求めてコセーナに身を寄せたきりのロサリスは分が悪い。本流を導く見込みのないのに流れを滞留させる小石なのだ。オトワナコスの呼びかけに応じて、コタ・レイナ州の連携を図るためにコセーナに来たと?双方の間にまだ合意はなかろう。エフトプの腹の内などわかるものか。

 丸い風貌の小柄な老領主はにこやかに口を切った。

「この立派な炉の前に座るのは先代の頃にご訪問して以来だ、ダミル殿。あなたはまだお小さかった。」

 型通りの、冷やかしで始まる挨拶だ。ダミルは心持ち背をもたげた。どうだ、年月の長さは体格を随分変えただろう。

「その後、“黄金果の競技”の折にコタ・シアナでお会いしております。あの頃から殿にはお変わりもなく。」

「あの時も兄上とご一緒だった。仲の良い兄弟と記憶にあった。」

 その直後、兄との仲がどうなったか知らぬではあるまいに。おれの顔色を見て心根を測ろうというのか。ここにはちょうどいきさつを知りたがっている若い連中もいる。さっさと答えを出してやろう。

「ご存じのように兄とは仕える主君が異なることが分かり、訣別いたしました。有体に言えばトゥルカンが企てたイナ・サラミアスへの卑怯な侵攻に加担したのに怒り、私の方で兄を捨てたのです。」

「兄上は負傷され、イビスで亡くなられたと聞いた。」

「哀れには思います。他の者と同様に。」

 思いがけぬ先王の死と混乱、逃れ、隠れるイナ・サラミアス、コタ・レイナの難民。追撃。新しい命の誕生、そして襲撃―――噴火。兄の死を伝え聞いたのがどの最中(さなか)のことであったか、とっさには思い出せないくらいだ。

「キアサル殿、本題に入りませんか。オロルト殿はコタ・ラート以西に対して手を携えて対抗すべしと言ってこられた。コセーナはこれに返答する前にまずエフトプの意向をうかがいたい。それぞれの立場はまた違うものですからな。つい先ごろまでは各々の領土の保全を優先させるというお二方の考えであったはず。西に急な変化でもあったのですか。」

「アッカシュが再び王権を主張する声明を出したことは知っておられよう。」

 キアサルは口元に笑みを浮かべて言った。

「灰が降る前と同じだ。」ダミルは軽蔑したように言った。

「目が覚めると腹が減ったというようなものですよ。」

「灰が降っている間も時が流れた。小さな子も育つ。アッカシュの息子は十八になり、イビスの娘との婚儀を決めた。―――ときにダミル殿、あなたは依然ここに先王シギルの姫を匿われておられるか。コタ・ラートの西の諸国では真偽を訝しんでいる。我らコタ・レイナ州の郷の者でもこの九年もの間姿を確かめたという話は聞かなかった。噴火の直前に密かに放たれた刺客に夫、子と共に殺されたとも、遠くに逃れたとも噂されているが。」

「噂ですか!噂のままならばありがたいですな…。」

 ダミルは笑い飛ばそうと顎を上げかけ、卓のはるか遠くから固唾をのんで聞き耳をたてている若者たちの姿を目にすると、ぐっと顎を引いてエフトプの領主を見返した。

「いいえ、姫は生きておられる。我がコセーナに兄弟として迎え入れたヒルメイのラシース・ハルイーに任せた地所に、妻である姫が住まうのに何の不思議がありましょう。」

 キアサルは面を変えずに訊き返した。

「して、夫君と子の生死は?」

 ダミルは答えなかった。キアサルは面を変えず軽く唸ったが、その目から既に笑みは消えていた。

「ふたりが死んだものとしてあなたの妻におさまっておれば、姫はまだしも安全であったろう。アッカシュもあなたが相手ならいっそコタ・ラート以東を諦めたであろう。アッカシュは当初シギルの姫を息子と結婚させ、シギルの忠臣を封じ込めようとした。が、今やその時期は終わった。息子に別の妻を娶らせ後継に指名したことで、先王の血筋は全て邪魔になる。万一、子が生きており、姫が再婚を拒んでいるとなれば―――。」

「このコセーナに攻めてきますか。」ダミルは言った。「アッカシュ、アガムンが直に。もう兄を利用は出来ぬからな。それとも先のように刺客を送り込む気か。」

 キアサルは、その目をダミルから少し下で黙って聞いていたオトワナコスのオロルトに移した。

「ここまでが、我々が留意せねばならぬことなのだよ。コセーナは依然、三郷のうちで最も敵の耳目を集めるところなのだ。そこと手を携えるかということだよ、オロルト殿。また、その自覚がおありかな、ということだ。ダミル殿。」

 年若いオロルトが端座していた姿勢からこころもち身を乗り出して何か言おうとした時、広間の左の戸が開き、酒器を携えた小女ふたりを従え、ロサリスが姿を現した。つややかな黒髪を編んだ頭を高く掲げ、前に進んで言った。

「皆さま、ここで一度休まれては。」

「姫、かたじけない」ダミルは一寸頭を下げた。ロサリスはつとまっすぐにエフトプの領主の前に進み、会釈した。

「エフトプのキアサル様。お久しゅうございます。」そしてオロルトに向き直り、

「オトワナコスのキアサル様、ラシース・ハルイーの妻、ロサリス・ニーニアでございます。」

 オロルトはにこりとした。

「夫君とは私がまだ子供の頃、伯父の家にしばらく滞在されていた時にお会い致しました。十年にもなりましょうか。」

 ロサリスはダミルに振り返った。

「ダミル殿、ここで客人おふたりに昼食をあがっていただきます。皆に休憩を取らせてくださいませ。長い集会に疲れておりましょう故。」

 ダミルは立ち上がり、家人たちに、食事をとり用を済ますために一時の休憩を取るように、と告げた。ロサリスは家人たちを退出させると、客とダミルの杯を満たし、料理を取りに小女たちを連れて広間を出た。

「無事でおられたか。」キアサルはその後姿を見送り、呟いた。「噴火の直前の襲撃は苛烈をきわめたと聞いていた。が、娘の頃とご様子は変わらぬ。」

「家人に聞かせたくないような話なら今のうちにお願いしたい。」ダミルはやや気が緩んだために不機嫌な声音で促した。

「折も折、家の舵取りについて俎上に載せられたところだったのですよ。彼らの相手は昼過ぎにも残っている。ここはおひとりずつで頼もう。」

 オロルトは、キアサルに振り返った。

「ではちょうど私が尋ねられたところだったように思いますので先に答えましょう。荷がひとつ片付くかもしれませんしね。―――仮にコセーナが西の全てとエフトプを敵に回したとしましょう。だからと言ってオトワナコスがイビスと手を組むことはあり得ませんな。もともとエファレイナズを女王が統治することにもオトワナコスは反対ではなかった。郷の自治を認可され、租と役を分担するだけのことであれば。オトワナコスの上に合意なく支配を及ぼそうとする者がいれば、その者こそがオトワナコスの敵だ。」

「聞くまでもないことであったな。」キアサルは笑った。「オトワナコスは誰が来ようと返事は同じだ。」

 丁度、料理の皿が運ばれてきたので、話は一旦途切れた。伝えるべきことは伝えたと言わんばかりに、オロルトはせっせと食べはじめ、耳だけはしっかりとエフトプの老領主の話に傾けていた。

「姫の境遇を気に掛けるには訳があるのだ。アッカシュが息子の結婚を決め、後継として発表したことだけが懸念の理由ではない。我がエフトプは少しづつ噴火の前と同じほどの物資のやり取りをアツセワナやニクマラ・ガヤとも始めている。コタ・レイナから大きな湖(クマラ・オロ)に注ぐ河口、ピシュ・ティには西の者も漁をしたり河畔で商いもする。その者たちの話によると、アガムンは父トゥルカンの残党を集め、騎馬の一団を作り、ヨレイルを狩っているそうな。アタワンの廃墟を根城に森の中を探し回り、イーマと疑われた者たちを殺しているらしいと。トゥルカンが抱えていた刺客、このコセーナを襲ったというグリュマナの一党も放たれ、アツセワナからニクマラ・ガヤの間を跋扈し、のきなみヨレイルの血を引いた子を調べているという。」

「このあたりでも十歳ばかりの子をさらわれた。」ダミルは呻いた。「まさか、殺すためだったのか?」

「この所業の意味を考えるには別の動きも聞いておかねばな。」

 オロルトが食事を終える頃にも、キアサルはわずかに手をつけたばかりで、声を低めて話を続けた。

「ピシュ・ティまで荷を運んでいった者がそこで会ったニクマラ・ガヤやアツセワナ南部の者と話をしていると、霧深いクマラ・オロの沖に筏の群れが通り過ぎるのが見えたとか。またある者は、夜に音もなく列をなしてコタ・シアナを下る丸木舟を見たとか。コタ・イネセイナの南部ですら目撃されている。聞くところによると、クマラ・オロの彼方へと姿を消したと思われていた水の民が戻ってきているらしいのだ。あのイーマの若者と行動を共にしていた水守(クシュ)の一族が率いるコタ・シアナの民だ。」

「サコティーの仲間か?いつもラシースの求めに応じて舟を出してくれていた、クシュのサコティーの?」

 ダミルは呟いた。キアサルは頬を緩めかけたが、たしなめるように声を強めた。

「同じことを敵が耳にしたなら何と思うか。あからさまに動揺を見せるのは好ましくありませんな。ダミル殿。あなたが見た兆しは薄い望みかもしれんが、敵にとっては警戒すべきことであり、その警戒が我々に大きな災難を招きかねん。むろん、アッカシュ、アガムンはアツセワナの第一家とイナ・サラミアスのヒルメイ双方の血を引く者の存在を警戒しているのだ。これは姫には実のない希望かもしれんのだが、その身には確実に危険が及ぶ。あなたにもだ、ダミル殿。父子が生きているならば、まず、あなたが匿っているものと第一に思われるのですからな。」

ダミルは、言われて初めてそれに思い当たったかのように呆然としたが、そのことに長く頭を悩ませることはせず、改めて行方不明の父子が生きていることがあり得るだろうかと考え始めた。キアサルはもうひとさじふたさじ食事を進め、穏やかに言葉を次いだ。

「そろそろ休憩も終わる。皆が終わるまでにコセーナをどうするのかを考えておかねばなりませんぞ。わしも答えは保留にしていますのでな。家人の説得は一筋縄ではいくまい。最後に薄い望みの味方になるかもしれぬ話をしよう。アッカシュ、アガムンのふたりは武装団の装備のため、イネ・ドルナイルの採掘を再開した。彼らに縁の第五家が所有する鉱山だ。ところが南部、コタ・サカでは山の民の鉄つくりの集団と共にシギル王の腹心、あのトゥルドが密かに鉄を作り続けていた。シギル王の死後も、噴火の後も、イネ・ドルナイルに留まり続けていたようだ―――むろんこの事は何ら味方になることでもないが…。」

 広間の扉が開き、腹を満たし、生気を取り戻して来た家人たちが戻って来始めた。若者たちは卓から離れた陰に居心地よく収まり、頭たちは卓の下辺を囲んで立ち、年寄りは領主らのすぐ下に陣取って掛け、皆の後からロサリスが入って来て、小女に卓の片づけを命じた。

 ダミルはこわばった首をめぐらせてロサリスに振り返り、立って差し招いた。

「姫、どうかこちらへ。私はあなたの臣下であり夫の友人だ。」そして自分の隣に席を作らせた。

「さて、会議の続きだ。どこで区切ったのだったか―――。」

オロルトが手を上げた。

「私がオトワナコスの意向を伝えるところですよ。ここの皆はまだ聞いていない。」

 若者はにこやかに言った。

「コセーナが西の全てとエフトプを敵に回したとて、オトワナコスがイビスと手を組むことはあり得ない。我がオトワナコスは郷の自治と味方への忠誠を第一の信条とする。―――ここで改めてコタ・レイナの盟友であるおふた方にお願いしたい。コタ・ラートの西の勢力に対し、連携して防御するための協定を結ぶことを。」

「これで振り出しに戻った。」ダミルは呟いた。

「だが、皆の知っていることは少し変わった。」キアサルは微笑んだ。

 ロサリスは表情を固くして聞き耳をたてていたが、キアサルの呼びかけに振り返った。

「あなたの立場をはっきりさせる時が来た。ここで迷う者に糸口を与えてほしい。先代のシギル王はあなたを女王として後継者に指名したが果たせずに亡くなられた。アッカシュはあなたがイナ・サラミアスの者に嫁いだ故、王権を放棄したのだと主張している。あなたは依然、父王から引き継ぐはずであったエファレイナズ全土の統治権を主張されるか。」

「私がエファレイナズの女王としてすべきことは。」

 ロサリスは広間の隅にも通るようにはっきりと言った。

「イナ・サラミアスと友好を保つことと、アツセワナ、コタ・レイナ州の平和と繁栄を図ることでした。イナ・サラミアスが滅ぼされ、エファレイナズが分裂し、父の所有した地所に戻れぬ今となっては、私に残されたものはただこれだけでございます。父の血筋、夫と子への生涯の務め、亡きトゥサカ様から引き継いだコセーナの人々への義務、ダミル様への感謝でございます。」

「王権にはこだわらぬと言われるのですな。」キアサルは念を押した。

「これら私に属することを侵す者がいれば」ロサリスは顔を上げて言った。「私なりに全力をあげて戦うことでしょう。」

 しんと静まった中で長老が顔を上げて言いかけた。

「しかし、あなたの居場所がコセーナの台所ならば―――」

「言わなかったかな、前に。」ダミルが強い声で制した。

「我が兄弟に任せたハーモナに彼女が住まうのに何の問題もない。そしてロサリス、あなたが女王の位を辞するにしても妹への私の義務は変わらない。」

 ダミルは広間にいる家の者をぐるっと見回した。

「今、おれはここでオトワナコスの求めに返答するつもりだが、異論のある者は今、ここで言え。」

 声をひそめて話をしていた作人の中からひとりの男が立った。

「それじゃわしらはお上から見て謀反人ということになるかね。」

「お前のいうお上がアツセワナにいると思うなら、気の毒だがアッカシュが理由をつけてここを攻めれば巻き込まれような。だが、おれは先王の決定を覆し、争いを起こしたのは奴だと思っている。」

「コセーナの主人は違っていたかもしれなかった…。」男の隣にいた若者は、コセーナを二分した兄弟の争いの顛末を休憩時間の間に聞かされ、動揺から立ち直り切れずにどもりながら言った。

「そうだな。それが十年越しの誤りだとしても、お前に選ぶことは出来なかった。」

 ダミルは若者に目をやり、一同を見回して言った。

「私の代わりにコセーナの政務をとってくれるものがいたら名乗り出てくれ。」

 頭や年寄りたちは顔を見合わせ、やがて首を振った。

 エフトプのキアサルは高らかに笑い声をあげ、皆の注目を引いた。

「コセーナが弱者を門の外に締め出したらわしはいたく失望するだろう。わしとしてはな。だが、どうやって西からの侵入に備える。ダミル殿、何でもいいが手だてを示されよ。コタ・ラートには橋が架かり、沿岸も長い。防塁を作る手立ては?守りを固めるために武器もいるぞ。鋤、鎌を鋳つぶす訳にもいくまい。どうやって揃える?それさえ目途が立てばエフトプは今この場で協定を結んでも良い。」

 ダミルは、はたと膝を打って立ち上がった。

「皆、コセーナはオトワナコスとエフトプと協定を結び、西の侵入を阻止するぞ。何故なら防塁は作れるし、武器を仕入れる途もあるからだ。煉瓦工を呼べ―――。」

 そしてキアサルに振り返り、急き込んで言った。

「エフトプのキアサル殿、協定の調印のご準備をなさい。あなたは持ってこられたはずだ。最後の最後まで人の悪い。イネ・ドルナイルで故王の腹心トゥルドが造った鉄をエフトプは手に入れられる。武器の目途もついて、オトワナコスの求めにはじめから応じる心積もりで来られたんだ。それなのに黙っておられたとは。」

 キアサルは、従者に目配せし、文箱と印を出させた。

「決めごとに迷いがあってはいかん。いよいよの時に心が揺らぐ友では心もとないのでな。長の年月にコセーナのダミルがわしの知らぬ男になりはしなかったか確かめる必要があったのだ。姫の無事をこの目で確かめたくもあった。」老人はロサリスに微笑んだ。「トゥルド殿が気にかけて尋ねておられたからな。すぐにイネ・ドルナイルに戻って行かれたが。時にダミル殿、防塁を築く手だてを先に説明されよ。さもなくばわしは協定に印を押さぬからな。」


挿絵(By みてみん)

火山灰の煉瓦を用いて、コタ・ラートの岸に防塁をめぐらし、同時にコタ・レイナの浚渫をするという事業と、いずれかの、或いはすべての郷が攻められた際の連絡と協力の手段について、三つの郷は会談を行った。タシワナへの人足の負担、鉄の配分の割合、技能の交換の日取りをおおよそ決め、煉瓦つくりの様子を見た後、オトワナコスのオロルトとエフトプのキアサルは、職工と弟子をひとりずつ借り受けて、領内の冬の支度に間に合うように大急ぎで帰っていった。

 ロサリスはハーモナに戻り、年寄りたちはダミルに三郷のいずれかの中から妻を娶ることを考えよ、とちくりとくぎを刺したものの、後は何事も無かったように日常に戻り、若い者も年寄りも、一時覚えた世情の変化への不安も忙しい日々の中ですっかり消化してしまったようだった。

 妹川(コタ・レイナ)の西岸の新しい作業場にはこざっぱりとした煉瓦の宿舎が出来、少年たちはそこで進んで煮炊きを始めた。ダミルは感心してその様子を眺め、柵の内の職工や作人の頭でさえ心を動かされたようであった。灰は少しずつ確実に減っている。土地も改善されていくはずだ。春にはあの子たちに野良仕事も教えてみよう。いつも誰かしら手の足りない荘の中で二つ以上のことが出来るのは、家の者には助けになるし、あの子たちの身の助けにもなろう。食糧を作り出せるというのは分かりやすい価値だからな。

 冬至の頃、タシワナから職工たちと一緒に帰って来たケニルは、エフトプがタシワナに人足を送り、独自に煉瓦造りを始めたことをダミルに報告し、代わりにコセーナで思いがけなく行われた会談と協定のいきさつを聞いた。

「ヨレイルの子たちが狙われているって?それじゃもう連れて歩くのは危ないかな」

 ケニルは心配そうに言った。

「あの子たちはもの覚えもいいし、よく働くのにな。しかしアツセワナの兵たちはイーマの血を引く子を、十歳くらいの子を探しているのでしょう?緑郷の君(ロサルナート)とロサリス様の御子が生きていると思われているのでしょうか。」

「わからん」顎に手をやり、心地よく燃えている炉の薪を見てダミルは軽く床を蹴った。

「馬鹿な連中だな。」ケニルは気をそらすように言った。「ヨレイルとイーマは顔だちが違うのに。」

「茶色で飛ぶから雀も鷲も鳥なのさ。違いなんか分かるものか。」毒づいた後でダミルは呟いた。

「長い間、私は探そうともしていなかったよ。あまりにも絶望的に思えて。」

「タシワナの行き来はもう他の者が覚えた。」ケニルは荷札の綴りを卓の上に置いた。

「今度エフトプに行く用でもあったら私を遣ってください。クマラ・オロまで足をのばして様子を聞いてきましょう。」

 煉瓦は冬の間に順調に作られた。火山灰はいくらでもあるが、遠くから運ばれる石灰は貴重で、時もまた貴重だ。ダミルは九年前に戦った者たちを呼んで、少ない数の煉瓦で取り掛かって、敵に見えにくく、しかも効果的な障害物を設ける方法を考えさせた。道をふさいでしまうのではなく、横合いから森に侵入しようとする者を邪魔する構造物だ。

 ひとりの若い職工が木切れを組んだ見本を見せた。三尺あまりの、顔に穴をあけた人形のようなものだ。これを一体ずつ作って森に運び、道より少し入ったところに並べて置く。数は増やせるし綱を穴に通せば即座に障害物となる。必要が無くなれば他所に移したり、他のことに使えばよい。

 職工の他に手の空いた者たちが入れ代わり立ち代わりやって来ては手伝っていった。冬の終わりには早くも、秋にアツセワナ兵の侵入した前面の植え込みの内側にずらりと煉瓦人形がならんだ。

「木になってしまったイーマみたい」

 手伝いに来ていたシアニが離れてみて呟いた。

「何だか怖いみたいね。」

 年上の女の子が相槌を打った。十字に突き出た手、上部を透かして開けた窓は顔であり、目であった。

 シアニは少しかがんで、その窓から北の方に広がる未知の森を透かし見た。


 木々の銀色の芽が爆ぜ、滑らかでつややかな毛皮の服を脱ぎ捨てて開き始めたころ、早速アツセワナから使者がやって来た。

 報せを受けてロサリスは、灰の汚れに染んだ古い服を着、黒いベールを被って来、ダミルが使者を待たせておいた広間に入ると、それきり一歩も進まずに立ったまま使者にまみえた。アツセワナの第五家とイビスの血筋だという年若い使者は、これも広間の端から慇懃無礼な口調で、王を僭称するアッカシュからの伝言を伝えた。

 王の血を分けた姪である姫は、望むならアツセワナに戻って来ても良い。亡き父王の第一家の領土に限り、相続を許す。耕地の収益も領民も、一定の税を払えば所有できる。ただし身ひとつで戻るように。誤った過去に未練は許さぬ。

「良縁を世話しようと仰せられております。」木偶のように諳んじるのを、

「親切でいらっしゃいますこと。」冷ややかに言い捨て、「ダミル様、この方の馬が十分に休んだ頃合いに、私に代わって送って差し上げてくださいませ。」

 ダミルに会釈し、ロサリスは厩に指示をしに出て行った。

 灰が止んで四年目の年の春は、穏やかな気候と共に始まった。鋤返された耕地の広さは前の年の倍にもなった。冬の間に整備の終わった水車は順調に水路に水を送り、新たに二か所が十年ぶりに稼働して広くなった耕地を潤した。

 黄の、白の花が、木の上に、地の上に咲き水がさざめいた。人々の間には静かな活気が満ちていたが、朗らかににぎわうことはまれであった。古くからコセーナで生きてきた者たちは、最盛期に迫る耕作地の拡大に喜び、働き手が育っているのを喜ぶ一方で、新たに増えた養い口と労働の負担、世情の雲行きには口が重くなるのであった。

 ロサリスもまたハーモナの畑を少し広くしたが、もともと人目を凌ぐための隠れ里故、あまり多くの収量は望めなかった。そこで限られた技能を役立てるため、この春コセーナに嫁いだ小女(イネ)に代わって引き取った十二歳ばかりの娘ふたりに、子守をさせる傍ら糸紡ぎと機織りを教えた。

 シアニの仕事は鳥小屋と山羊の世話、そして時折南西の森に住む老人にパンを運ぶことだった。パンのない日でもシアニは卵を持って訪ねて行った。

「お前はいくつだ?」珍しく老人が尋ねた。

「八歳になったわ。」

「身体は小さいが言葉が達者なわけだな。」

 老人は寡婦の耕地だった荒れた草地を小川の方に向かって眺め下ろして言った。作り終わった煉瓦は隅にきちんと積み上がり、片付けられた炉の地面は焼けて窪み、固まっている。老人は鼻歌のように軽く唸ると鍬を手にし、すぐ脇から丸く土地を囲んで線を掘り始めた。

「これが当たらないように離れていろよ。」シアニにそう言ったが、しばらくすると手を止め、

「お前、手が使えるなら、その草を少し抜いてくれ。」振り返って囲いの外側をさらっと撫でてみせた。

「青草はいい。枯れた丈の高い奴だけだ。」

 シアニは言われた通り、冬枯れてからからに乾いた草だけを抜いて輪の内側に放り込み、その根元から生えている緑色の草は残しておいた。

 小川に近い砂地まで来ると老人は掘るのをやめ、はじめの地点から反対側も同じように掘り、シアニを呼んだ。

「もう少しすると東から風が吹いてくる。火を焚くとするとお前はどちらを向いて火をつける。」

 シアニは少し考え、東に背を向けた。老人はうなずいた。

「先ず、当然のことだな。しかし、まだ風は吹く前だし、どのみち水の際で止まる。なら、こうするとしよう。」

 老人はシアニを連れて囲いの北西に回り、火口を置き、ヒノキを削った火切り臼に火切り棒を立てて錐揉みし、あっという間に火を点けた。

「火は大きくなるとそのものが風を帯び、少しの境界なぞ越えてしまう。森を燃やしたくないだろう?」そう言って今度は北東へ回った。

「お前、火を点けたことはあるか?」

 老人はかがみながら言った。シアニはその横に並んでかがみ、

「無いわ。見たことならあるけど。」

「八歳ならそろそろ覚えておくといい。これを使え。」

 老人が取り出したのは火打石と鋼だった。

シアニはロサリスやバギルのやり方を思い浮かべたが、さっぱり火花が飛ばなかった。

 老人はシアニの手を取り、握り方から教えた。何度も打ってやっと出た火花を老人は火口に受け、小刻みに吹いた息であっという間に火を起こした。

 西側から点けた火は既に端から端まで広がり、勢いを強めながらこちらに向かっていた。炎が吐き出す熱風と煙にシアニはたじろいだ。こちらから点けた火さえもが、先の火にあおられてこちらに炎の舌をのばしてくる。老人は低く笑った。

「仕事はさっさと始めぬと時機を逃す。」

 不意に小屋を囲むカシの梢の葉が鳴り、後方から吹いた一陣の風に炎は丈を一瞬すくめ、大きく西へと伸びた。そして足元に燠火を含んだ紫がかった灰を残し、一息に西の方へと広がっていった。

 炎と炎とがどこまで広がっているのかシアニの背丈では全くわからない。辛い煙がまとわりついた顔をしかめ、目をしばたたかせて、それでも見つめていると、炎の地平は中央がふっと割れ、左右に引いてゆき、右側は地面を掘った境界の端で、左側は川辺の砂地で消えた。炎の幕のあったところの向こうは、端の境界まで延々と灰で覆われた地面が広がっていた。

 老人は足元の熱い灰の中にシアニの持って来た卵を埋め、その手を上げて先に火を点けた地点を指し示した。

「ここで火を点けた時、あそこの火はついていたか、消えていたか。」

 シアニは一寸考えた。自分は小さいから見えてはいなかったが、

「消えていたわ。燃えるものがもう無かったから。」

「そうだ。燃えるものがある方へどんどん広がった。じゃあ、何故ここまで来なかった?」

「風が吹いたから。それに、こっちから点けた火がもう燃やしてしまった後だったから。」

 老人はうなずいた。

「向かい火を焚けば、向こうから広がる火を出会うところで食い止める。が、覚えておけよ。灰はまだ熱いからな。」

 老人はそう言って掘り出した卵をシアニに渡した。シアニはそれを前掛けで受け止めた。

「これをやる。お前はいつもパンをくれるからな。火口は自分で探せ。」

 老人がくれたのは火打石と鋼だった。シアニの目は丸くなった。剥きかけの殻と灰がこびりついた熱い卵を口の中に放り込むと、両手で恭しく受け取った。

「私の物がまた増えたわ。」そそくさとその場を立った老人の後を追いかけてシアニは嬉しげに言った。

「種と櫛と裁縫道具よ。」

「種か。そいつは役に立つかな?」

 シアニは口を尖らせた。老人は一寸右頬を震わせ、くるりと背を向けて鍬を取った。

「ここに田と畑を作る。面白ければいつでも見に来い。お前の種も増えるかもしれんぞ。」

シアニはすっかり老人のところで時間を食ってしまったことに気が付いた。年上のふたりの少女に休憩を取らせるため、昼には戻っていなければならない。

 シアニは道の近くまで急いで戻った。そこからいつも通り北の合流点まで走って戻ろうと、木苺の茂みをくぐろうとした時、両側からしなやかな枝の刺が服の袖と脇を捉えて後ろへと引き戻した。傍らに、戒めるように眉根を寄せ、かぶりを振って、モーナはシアニの肩に腕を回していた。そしてくいと顎を上げ、杏仁形の目を細めて前方に目を向けた。

 道の向こうからぶらぶらと道草を食いながらやって来るのは大きな少年ふたりだった。昼の休みの散歩なのか、道の際から森へと何度も飛んでは戻り、遊んでいる。

「ここに昔、宿泊所があったんだ。」ひとりが言っている。「季節雇いと行商人の。」

「あの後家さんはそこの丘の上に住んでいるっていうんだろ…。」

 シアニの腕をモーナは強くぐいと引っ張った。それは下枝の枯れ落ちた株に引っかかっただけかもしれない―――。それでもシアニはモーナの姿が見えていたし、モーナはシアニにうなずき、差し招き、西の方へと走った。

 冬の間に落ちた朽ち葉は細かく砕けて窪地へと吹き寄せられ、その上に若草が頭を出しはじめ、隆起した林床は柔らかい苔が覆い、シアニの小さな足音を吸い取った。シアニにはそれが泉に至る方向だと分かった。

(水をやって―――。)耳に鳴る風が囁いた。

(水をやって―――私の若木に)

 シアニがニレの木の列と石組の水盤を認め、連れてこられた場所に確信を持った時、その視界にいるはずのモーナの姿はすっかり消え果てていた。しかし、シアニは戸惑いもせずまっすぐに水盤に歩み寄り、杓を手にした。

 ニレの木立ちの中の銀灰色の幼木の杜は、春の光を通し、林床が朽ち葉の淡い黄金色に包まれていた。そこにスミレの群落が若い葉を出し、白や青の蕾を控えている。

 幼木は上方に差しのばした枝にびっしりと鋭く天を突く芽をつけ、そのいくつかはほころび、シアニの頭よりもずっと高いところで、細かい産毛の光輪を帯びた鮮やかな若葉を空に掲げていた。

 シアニは全ての木に水をやった。水は土の中に呟きながら吸い込まれていった。地中の歓喜と満足の呟きが収まるまで何度も泉まで往復し、走った。

 シアニは杓を置き、戻って来て、しみじみとこの小さな杜を眺めた。二度も水をあげたのだから、この木の子供たちは私が世話をする。私の子供だ―――。シアニの胸に自然にそんな思いが沸き上がった。

杜の北端には根元から二股に分かれた桜の枝が、一方は頭上に天蓋を作り、もう一方はシアニの胸の高さに湾曲して長椅子をしつらえたように横に伸び、傍らから絡んだスイカズラを衣のように引き上げてあずまやを作り上げていた。

「ここで見るとちょうどいいわ。」シアニは木に背をもたせかけて呟いた。

 円形に若木を囲むニレの木立ち、左の奥に泉、右側には九十九(つづら)に曲がった小さな流れにイチリンソウの花群。

 シアニは流れに沿って振り返った。すぐ後ろは傾斜の強い斜面だ。ここを登っていけばハーモナの西側のどこか…。誰にも見つからずに家まで戻ることは出来るかしら。

「シアニがまたいないって?」

 丘の上から響いてきたバギルの声にシアニは頭をすくめた。

 右上が番小屋だわ。畑をまわっていっても、家の周りじゅう皆が探していると見つかってしまう。

 シアニはどうしようかと丘の裾野に目を走らせた。西の方に回れば傾斜がゆるく登れそうだ。しかし、すぐ前の、びっしりと草に覆われた土壁の足元に冷たい風が吹きつける。垂れかかったキヅタの蔓が揺らいでいる。丘の麓に穴が開いている。

 シアニはかがんで中に入った。靴は朽ち葉と小枝を踏みきしんだが、その下は均されて平らかだ。

内側は木材を組んで支えてある。穴は通路になり、奥の方までずっと続いているようだ。シアニは両腕を広げてみた。楽に両脇の壁に届く。天井はシアニには全く気にならないが、大人には窮屈そうだ。

 行けばいいのかしら?

 目が慣れても光の届かぬ奥は真っ暗だ。

 ほの白い姿が横切った。

(私について来て。)

 振り向いた唇がはっきりとそう言った。指先が地面から奥へとなぞるように上がった。シアニは、極わずかに左側に湾曲した緩い上り坂を、モーナの速さに合わせて走った。途中でやや左に折れた時には息が切れ、心臓がどきどきと鳴った。右へ右へと回り込んでいくと、目の前が筋交いに丸太で塞がれていた。

シアニは四つん這いにその下をくぐった。

 目の前は壁で塞がり、道は左右に伸び、天井はさらに高かった。シアニは知らなかったが、館の貯蔵庫の下からコセーナの南東の番小屋まで通じている、ダミルが時折通ってくる通路だった。シアニは右に行った。そちらにモーナが放つほのかな明るみがあったし、もう見えるところに梯子がかかっている。

 シアニが右の道を取ったところでモーナの姿が消えた。身体じゅうがすっぽりと闇に包まれたが迷うことはなかった。にわかに聞こえてきた上の騒ぎが正しい方向を教えていた。すぐに木を組んだ梯子に手と膝が当たり、痛みに構う暇もなく手探りでよじ登る。頭が板に当たり、構わずに身体を引き上げながら頭で押し上げると、少しずつ開きはじめた。

「今日は外に出ちゃいないんだろう?」

 バギルが怒って遠くで叫んでいる。シアニは、頭と肩を丸めながらさらに押した。板戸は重く、少しでも気を緩めればシアニを弾き落として閉まりそうだ。眩しい光と舞い立つ埃。バギルの妻がとりなす声、おろおろと言い訳をする少女。胸が縁までついた。両拳を床に押し付けながら腹這いに進むと、身体が少しずつ板の下から出、足を抜き切るとバタンと音をたててしまった。

「まったく、姫とあの子の母親とは、昔からつるんで悪さをしたものだったよ。」

「あら、そうだったかしら。」ロサリスの声は落ち着いていた。「ふたりで一人前ですものね。だからこの子たちを叱らないでやってちょうだい。」

 貯蔵庫の戸は開いていた。調べた後だったのだ。シアニは悠然と、屋根の取り払われた祭殿の、昼下がりの光の差し込む墓標を通り過ぎながら、ぐるりの開け放った戸からひとつひとつ覗いていった。

 東側の広い子供部屋で泣いている赤ん坊をあやしていた少女が、シアニを見つけて叫び声をあげた。

「まあ―――汚い。」

 居間からバギルとその妻、叱られていた少女、そしてロサリスが出て来た。シアニは皆の顔を見、煤で汚れた手と前掛けに気付いた。

「鳥小屋の掃除の後で灰を畑に撒こうとしたら転んだのよ。」

 すらすらと出まかせを言いながらシアニはロサリスを見、一寸心配になって口をつぐんだ。ロサリスの眼差しは、シアニがもっと幼い時に見たことのある、虚ろな遠い目だったのだ。が、瞬く間に女主人の落ち着きを取り戻すと、

「家の周りにいたのならいいわ。だけど時間を忘れては駄目よ。姉さん(イナ)達も昼には休まなければならないのだから。」シアニに着替えるように命じ、少女らには休憩を取るように言い渡し、赤ん坊を受け取ると、子供部屋に寝かしつけに行った。

 ロサリスはその日の午後に少女たちに教える予定だった機織りを休むことにし、庭で遊ぶ暇をやった。代わりにシアニを呼んで、居間の、祭殿との境の戸を閉め、自分の前に立たせた。

「皆がどんなに心配したかわかっているでしょうね―――。」

 バギルが満足したように出て行き、その妻が一寸微笑んで後について出て行ったあとで、ロサリスはさっさと説教を切り上げて、かがんでシアニに目の高さを合わせた。

「おじいさんのところに行っていたのね?」

 シアニはうなずいた。

「じゃあ、いいわ。危ないことはしなかったのだから。どこにいても影がいちばん短くなる前にはここに戻っていなさい。」

 ロサリスはシアニに、子供たちに着せている服が小さくなってきたので、それぞれ袖や裾の折り込みを出したり、脇や肩を足したりしなければならないのだと言って、糸をほどく箇所を教えた。シアニは椅子に掛け、鋏を取り出して縫い目を切りにかかった。

「イナ達に新しい服を作るわ。あなたは去年作ったばかりだから今回は我慢よ―――でも、いいものを見せてあげる。」

 卓に布を広げ、焼き鏝で印をつけて二対の身頃に針を打ったところでロサリスは作業を中断し、シアニを隣の小部屋へと招いた。シアニがもっと小さい頃寝室にしていた部屋だ。奥には昔から大きな長持ちがある。夜に目覚めた時など、シアニはモーナがその上に腰かけているのを目にしたものだった。

 今、ロサリスはその前にかがみ、鈍く黒ずんだ鉄の留め金を外し、両手で重たげな蓋を持ち上げた。樟脳の香りに驚いて立ちすくんでいるシアニに微笑みかけ、ロサリスはそっと両手を差し入れ、中から畳んだ厚い布地を取り出した。薄闇の中でもきらきらと細かな光る筋が水のように動いた。

 ロサリスはそれを大事に抱えて窓辺の明るみに持って来、窓の下の長椅子に腰掛け、シアニを傍らに呼んで膝の上でゆっくりと広げた。

 濃い臙脂の絹地は光を受け、傾けると紫にも赤銅色にも輝いた。

「きれいでしょう?イナ・サラミアスの男の人が着る外衣よ。これは私が織ったの―――昔、イナ・サラミアスの女の人が織ったという布を真似てね。本物にはとてもとてもかなわなかったわ。ごらんなさい、この模様を入れるのに私は金糸を使ったの。でも本当は、金色の蛹の膜を絹糸に縒りつけた糸で柄を織り、その上からかがって縫い取りする。」

 シアニは息を飲んで見つめた。臙脂の地色の上には、横糸を金糸に差し替えて柄を織りだした、楕円の葉の文様が斜めに連なっている。整った葉脈に丸い鋸歯に縁どられた華やかな形。

 枝に互い違いにきっちりと並んだ葉、春から夏へ、若葉から盛りの青葉になるにつれ、深く刻まれる葉脈とうねりを帯びる鋸歯。あの小さな杜の幼木の葉も、秋には赤く染まるのだろうか?

「この木は?」シアニは葉の模様を指さし、囁いた。

「イスタナウトよ。」ロサリスは答えた。

「そう、これがイスタナウトの葉よ。見たことがなかったわね。」

 シアニは黙っていた。ロサリスは一度そっと布の面を撫でつけ、畳んで長持ちに仕舞った。休憩は終わった。ふたりは居間に戻り、仕事の続きを始めた。

 地下通路を見つけた後も、シアニはそれを逆に辿ってみようとは思わなかった。もし、モーナがいなければ、あの場所は鼻がつままれても分からない暗闇だし、こちらの都合に合わせてモーナが現れるとは思えなかった。それでも南の森の老人のところには三日とおかず訪ねて行き、その帰りには必ず、泉と若木の杜に寄った。

 老人は焼いた土地を耕して畑を作り、小川の脇を少し掘り下げて縁を煉瓦で舗装し、水を引き込んで田を作った。

「これが芽を出すかどうか。随分前に取った種だからな。」

 老人は両手に収まるくらいの、奇妙なもつれた繊維をのばし拡げた袋に入った種籾を掌に出してシアニに見せ、また仕舞って、そのまま田の中の水に漬けた。

「その白い花が咲くとイナ・サラミアスの女たちは種籾を水に漬けた。」

 老人は草に交じって咲く小さな野草を指差した。

「母さんが種を取ってお茶に入れてる。」シアニは花を見て言った。

「咳が出ると薄荷と混ぜていれてくれる。」

「お前の父親と母親は一緒に住んでいないのか。」老人は不意に尋ねた。

「そうよ。」

 シアニは、今さら老人が尋ねたことに驚いて答えたが、ふと、考え込んだ。

 館の軒の下に巣を作りはじめた燕のつがい。たわむれ飛ぶ一対の蝶。バギルとその妻。コセーナに嫁いだイネ。だが、一緒にいる者ばかりではない。家畜は分かれて住んでいる。馬も、羊も。

「父さんも、母さんも、きっと普通より大きいからだわ。」シアニは、自信無げに呟いた。

 尋ねたくせに聞いていないかのように老人は田の向こうに起こした畑を目測しながら言った。

「お前の種も畑に蒔いてやる。半分だけ蒔いてみないか。取れたら全部やるから。」

「半分よ」シアニは訂正した。「そうじゃないと話がおかしくなるわ。」

「ふん、どんな風にだ」シアニの渡した袋の中身を見ながら老人は言った。

「独り占めにする欲張りはすっからかんになって、正直者に全部返ってくるの。」

「それが本当とも思えんが、おれひとりの身に百倍に返っても迷惑だ。よし、半分でいい。」

 老人は赤稗と蕎麦の種を半分取り、イスタナウトの種子をしばらく見つめて袋に戻した。

 シアニは老人が種を蒔くのを少しだけ手伝って、泉の方に若木を見に行った。

 すっかり開いた葉は、日光を透かして目に痛いほど鮮やかな黄緑だ。丸みを帯びた楕円に優しい丸い縁の刻みが葉脈の整った並びと相まって華やぎを醸している。下から見上げると、きれいに互い違いに並んだ葉が一枚も重なることなく空を埋めている。

 蒼い陰のような模様を秘めた灰白色の滑らかな幹をシアニは惚れ惚れと眺めたが、滅多に手を触れることはなかった。ただ、時折自分の腕と並べて比べてみて、どちらが太いだろうかと考えた。

 花々の上に蜂が飛び交い、燕はしげく巣を出入りし、ウズラは気難しく喧嘩早くなった。

 赤ん坊たちは走り回って娘たちを手こずらせた。ロサリスはコセーナの作付けが始まると、ハーモナに留まった。コセーナとの行き来は稀であった。物資のやり取りには年配の男が任され、羊毛や食糧などを運んできては、ロサリスが紡いだ糸や織った布を持ち帰った。男は館ではコセーナの仕事の進捗を話し、番小屋では、長老たちがダミルの縁組を相談しはじめたことを喋った。

 ダミルは荘境の巡視を増やし、防塁の補強を命じた。春先以来、アツセワナからは何の使いもやって来なかったが、北部を中心に、騎馬が出没することが増えていた。

 一度エフトプから戻って来たケニルは、コタ・レイナ下のピシュ・ティの交換所で、ニクマラ・ガヤの商人からアツセワナで行われた婚礼の模様を聞いて来、ケニルがダミルに淡々と話したその内容を、ハーモナに用聞きに来た男はさも悔しげに熱弁をふるってロサリスに伝えた。

 ロサリスが父シギルから相続するはずであった第一家の地所は、そっくり花嫁の所領として譲り渡され、婚礼当日には境界の杭が花嫁の銘で打ち込まれた。そればかりか、アッカシュの息子には東のいずれかの土地、特にコセーナかエフトプが新たな所領として見込まれているとか。 

 ロサリスはただため息をついただけだった。九年前に内乱が起こったときには幼子であった新郎新婦にもこうして血と怨恨に汚された遺産が受け継がれてゆく。敵対を親の代で留めることはかなわないのだ。

 男はもうひとつ腹立たしげに囁いた。うちにいた十五歳になるヨレイルの子がさらわれた。煉瓦の、腕のいい職人だったのに。

「噴火の前までこのハーモナの近くに住んでたっていう子でさ。」

 ダミルは、ケニルからクマラ・オロに現れた小舟と筏の群れが、間違いなく長年姿を消していたコタ・シアナの水の民である、という報せを受けた。ただ彼らは陸の状態を警戒して、女子供の筏を決してニクマラ・ガヤの岸に近づけようとはしない。交渉の男たちの小舟だけが行き来しており、二艘の舟が一カ月前にエフトプからクマラ・オロに出て行ったという。

「我々が協定を結んだ頃から、西の方では我々との交渉を禁じました。ニクマラ・ガヤは水路を通じてならわずかにエフトプと取引してくれますが、やがてアツセワナから監視人が来るだろうと言っていました。少し小競り合いがあったようです。耕作にも精を出せず、エフトプは困窮しています。」

「鉄を先にこちらへ回してくれと言いたかったが…こちらから手を貸さねばならんか。」ダミルは唸った。「何が必要だ?人足、食糧か―――兵か」

「兵になり得る人足を。そして食糧の支援を。」ケニルは言った。「エフトプは敵の目に触れるのも構わずに防塁を築いています。コタ・ラートがすっかり敵にさらされるのですから。その代わり今度来る鉄は全てコセーナに譲ると。」

「ニクマラ・ガヤと交渉が断たれたのにどうやってイネ・ドルナイルの鉄を手に入れる?」

「水路です。エフトプからクマラ・オロに出た水の民の舟はニクマラ・ガヤを南に避けてイズ・ウバール(暗黒の森)を彼らのみ知る水路を経て、コタ・イネセイナに出、イネ・ドルナイルに渡るそうです。舟の主はクシュのサコティー。」

ケニルは報告をし終えると、休む間もなく、支援の食糧と人員の準備にかかった。

 農繁期に男手を他所に貸さねばならないことに家人たちは難色を示した。ダミルは結局荘の守備を後回しにせざるを得なかった。タシワナ、エフトプ、今では多くの者がコセーナの穀物蔵に頼っているのだ。

 女たちはエフトプに出た者たちの代わりに畑に出、まず麦を無事に収穫した。脱穀を終え、タシワナ、エフトプにそれぞれ支援の分を届けた後、ダミルはしばらく煉瓦つくりを中断すると宣言した。石灰石の運送とその護衛に割ける人員はもう残っていない。

 耕地での仕事を守り、食糧を確保し、家畜を世話し、守る。それだけで精いっぱいだ。森の見回り、水路の保全は手が回らない。高垣の外で青々と枝葉が繁り獣が闊歩するのを女たちは時折不安げに眺めやった。そろそろ牧の草を刈っておかねば。通路を塞ぐ枝を落としておかねば。だが蕎麦の二度目の播種もある。順調に生育する作物への期待が高まる一方で、草は繁り、飛び出す蝗は大きく太っている。守るべき営みの重心が大きく偏りはじめたことに女たちは気付きはじめていた。

 



 

 


























 











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ