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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第六章 風の語り 『蝕』2

 雪解けの増水に合わせてコタ・シアナを流れ下る丸太の筏も、新しい年季奉公のためクマラ・オロに向かう娘たちを載せた舟も途絶えた初夏の頃、オクトゥルはヒルメイの長アー・ガラートの書状を携えて河を渡った。

 イナ・サラミアスからの時ならぬ訪問を受けた領主は、広間の奥の居室に客を案内させ、奥方と次男と共に出迎えた。王との謁見にも慣れたオクトゥルはアツセワナの流儀に従って跪き、ガラートからの伝言を伝え、書状を手渡した。

「アツセワナへは息子を遣わし、あやまたず兄の手に届くように図らおう。」

 兄王に風貌が似てさらに豪放な領主は、オクトゥルに立つように促して真っ直ぐにその目を見て言うと、息子を招き寄せ、日取りを打ち合わると王に伝える文言をその場で確認した。

「昔のよしみもある、申し入れの中継ぎは引き受ける。それはさておき、ここから緑郷に取って返したら早速にもガラートに伝えてくれ。穴熊の侵入を見過ごすな、前に言ったはずだぞ、泥棒に容赦は無用だ、とな。」厳めしい面持ちの上に茶目っ気を垣間見せて領主はオクトゥルに言った。

「そなた等の郷は我々とは流儀が違う。境界を巡る交渉は成り立たない。我らにそれを守護しろと言うのは筋違いだ。我等エファレイナズの者は辺境に彷徨う者に保護を与えぬがわが領土を害せぬ限りはとがめもせん。自衛に勤めよ。―――他に彼から託された用件は無いかな?」

 オクトゥルはためらいながらそっと目を室内に巡らせ、子息と奥方の他に誰もいないのを確かめた。

 領土の息子は父の傍らで旅のついでの所用を細々(こまごま)と尋ねながら、書状が託されるのを待っていたが、オクトゥルの様子に気付くと振り返って親しげに言った。

「ラシースとは顔なじみだったか?残念ながらつい先ごろ伯父上に召し出されてアツセワナに発ったよ。アー・ガラートから彼に何か伝言があれば伝えておくが。」

「―――つまらぬ事ゆえ」オクトゥルは口ごもった。

 奥方と子息は顔を見合わせて笑った。奥方は物柔らかな口調で声をかけた。

「大きなロサルナシルに伝えてくださいな。彼は元気で良く勤めておりますと。あなた、後であの子の手掛けた庭を見てやってくださいな。」

 賓客として泊ってゆくようにとの勧めを辞退し、オクトゥルは明朝には発つという子息に案内されて城の東から森の中の藪に隠された細い通用路を辿って南の小さな丘、ハーモナの周を周った。

「彼はこの中にも見えないように道を作っている。」

 さらに一本奥の小道へと導きながら、子息は既に隙の無いほどに繁茂した森の方を指して言った。「僕が入れば迷ってしまうがね。」

 丘の裾野を巡り、道は四方天井果てなく濃淡さまざまの緑の中を細々と続いている。丘に向かって急激に盛り上がった森の深部は暗く静まりかえり、丘の東面、南面、西面と周って来てもいっかな上に登る道があるようには見えない。

 しかしオクトゥルのイーマの目は、道の縁を埋めるほとんどの木が根付いて一、二年の成長の早い木であり、まばらな老いた高木の纏う裾野の長い衣が蔦の類であることを見抜いた。子息が大股に闊歩して通り過ぎる脇から時折わずかに枝が揺れ、蔦の帳が持ち上がって浅黒い顔が覗くのをオクトゥルは幾度となく見つけた。

「ご苦労、ご苦労」

 ヨレイル達の居所に頓着せずに子息は大声で声を掛けた。

「私は明日、アツセワナに発つ。しばらく来られないが、お前たちのロサルナシルに会って、ここでの皆の働きぶりを伝えてやれるだろう。彼は今に戻って来るんだから手を抜いてがっかりさせるなよ。食事は城に取りに来い。」

「私らが行くと皆さん怪訝な顔をなさいます。」慎ましい声が応えた。「不自由はございません。ここなら気兼ねなく飯が食えますので。」

 子息は声の聞こえたところまで戻って行き、かがみながら片手で無造作に藪を分けた。小柄な男が片膝をついて控えていた。

「それなら小屋の中に酒と食べ物を届けさせよう。だが、七日に一度は母上に進捗を報せてくれ。」

「はい」

 男は大人しく応え、オクトゥルを見て目礼し、後ずさるように藪の中に隠れた。

「これは驚いた」オクトゥルは思わず呟いた。「上品な真似をしたもんだな」

 子息は笑みを浮かべ、男の消えた蔦の幕をつかみ、さらに大きく引き上げた。木の枝を編んだ格子の揚戸が持ち上がり、その奥に緩やかに登っていく細い小道と小走りに去って行く男の後姿が見えた。

「これを下ろしてしまうと私自身やっとで見つけた通路をまた見失う事になる。」子息は言いながら揚戸を下ろした。「こうしてハーモナに忍び込もうとする者がどんな風に欺かれるか我が身で確かめながら、もと来た道に立ち返って来るという訳だ。君には分かるか?」

「梢が概ねこちらに枝先を振っています。そして左手には若干湿り気を好む草木が多く見られる。こちらはコタ・レイナから遠からぬ丘の西側でしょう。だが、先ほどのからくりはそうと知って目を凝らすのでない限りはなかなか。」

「一年かけて彼は道を整え、丘の斜面の隙間に木を植え付けた。地中に水が留まりやすくするために何列もの木杭を斜面に沿って水平に打ち、仕込んだ柵を覆い隠すように草木を根付かせた―――冬の間は葉の落ちた木の間から少し仕掛けが見えていたが、春が過ぎればご覧の通りだ。」

 畑の作柄を自慢するかのように大きな手が麦穂ならぬ繁った葉を撫でた。

「彼は自分の事をあまり語らないが、ヨレイル達を懐かせ動かす力はなかなかのものだ。大勢に号令し指導する家柄だったのか?」

「昔から指導者を出すヒルメイの者であって、アー・ガラートと同じく神人を出すハルの血筋でもあります。」オクトゥルは恭しく答えた。「が、郷にいた頃本人はむしろ孤独を好む質でした。」

「それはここへ来てからもあまり変わらぬな。」

 コタ・レイナから吹くひとわたりの風が丘の木々の葉を翻らせ、その間から林立する幹の奥の色を覗かせた。斜面に段を穿って水が流れて来る。流れは地の中に潜り、道の下に埋まった暗渠を通ってさらに麓の方で吐き出される。オクトゥルはあからさまな関心を表さぬように気をつけながら、先導する大らかな若者の後ろから、丘の上辺に、木に囲われながらも広く切り開かれた場があり、さらに上に真新しく作られつつある建物があるのを、色合いと匂いから察し取った。

「もう少し君の来るのが早ければ、彼にこの書状を伯父上に届けてもらうのだったな」子息は振り向き、鷹揚に言った。

「それは望ましい方法とは申せません。」

 オクトゥルは用心しながら言った。その者が故郷から追放された身ゆえかの郷の使者となり得ないことなど、おくびにも出せない。

「私も道中出来る限り人目に触れぬよう忍んでまいりました。」

「そうであった。」若者は明るい茶の瞳の上の濃い眉の間を寄せ、面を引き締めた。

「父は自衛に勤めよ、と言ったが、コタ・シアナ沿岸の防備とエノン・トード・シレの保全はコセーナにとっても大事なのだ。君たち東の旅人の通る道筋には、商いを当て込んで活発な東西の行き来が行われる。我等コタ・レイナの郷はこのようにして南北だけでなく東西の物のやり取りによって昔より豊かになったのだ。旅人の安全が守れず交流が廃れれば、暮らしは貧しいものになる。そして弱いコセーナでは王と東とをつなぐ動脈にはなり得ぬ。私は父の名代として王に会いに行くのだ。」

 若者は自らに語るように呟くと、今度は他の考え事に心奪われたかのように黙然として、コセーナの方へと戻って行く丘の北側の残りの道を歩いた。


 オクトゥルはそれから三日のうちにニアキに戻り、ガラートに旅の首尾を報告した。

「領主は自衛に努めよ、侵入者に容赦は無用と言った。が、おれがコセーナから折り返し戻る頃には、もう道筋の見回りを増やし、公道の交点で行き来する者を見張っていた。同時に子息が書状を携えてアツセワナに向かった。子息は間違いなく王に届け、王はしかるべき手を打つだろう。」

「シギル王は必ず応える。ただ、それが我等の望む応えとは限らぬし、その行いが何をもたらすかは長く彼の治世を知る私にも分からない。」

 ガラートは穏やかな陽の射す集落のはずれでオクトゥルを迎え、広場との境の栃の木陰に一服している男達を眺めやった。

 急な使者の派遣を決めた先の集会の後、ヤールはタフマイの若者の半分を引き連れて北の渓谷に出かけ、彼の部下の大木(トゴ)に連れられた残りの半分は新しい村を作るため、オルト谷を検分に出かけた。掟を変えることに慎重な大人たちは、昔ながらのしきたりに従って組に分かれて狩に出かけていた。少年たちは父に、あるいは兄に従ってついて行った。

 ニアキに残っているのはその他のもっと年のいった者、身体や気性のあまり達者でない者たちだ。

 オクトゥルが出かけた後、ガラートは必要な家を指定したうえで、集落の外縁部から主のいない家を解体するように命令した。アー・サタフら昔の長たちが住んでいた家は集落の中心にあり、構えも大きく頑丈であった。既に幾人かの身内の者たちが移り住んでいる。残す家はその辺りに数棟で事足りる。

 オクトゥルは、広場に積み出された煤で黒く光った柱や梁、垂木などの山を申し訳なさそうに横目で見た。かつて若い花婿が妻を迎えるために建てた家だ。彼の子供時分にその間をかいくぐるようにして遊んだ家々だ。いずれも木の成長の遅い高地で手を合わすようにして一本ずつ伐り出して来た木材だ。一方で、オルト谷の木々は太く立派だが、畑を拓く時には大小の別も無い。その一帯は皆切り払われる。

「オクトゥル、お前の家は残してあるからな」

 木陰で休んでいた男のひとりがからかうように声をかけた。オクトゥルは慎ましく手を上げて応え、ガラートに小声で言った。

「ラシースには会えなかったよ。アツセワナに行ったとか。だが、やがて戻って来るということだった。コセーナの領主はあれを家の者として受け入れたようだ。」

 オクトゥルはハーモナの丘の新しい木材の匂いと、粗削りに整地された斜面に植え付けられ、競い合って繁茂する木々を思い出しながら言った。勢いよく育つもののことを思うと、年老い衰えゆくものへの同情の痛みは風が霧を払うように和らいでゆく。

「あいつは自分に合う水を得たようだ。」

 ガラートは何も聞こえないように背を向けると、北東の森の方へ歩いて行った。オクトゥルはついて行った。男達は彼らがどこに向かうかに気付くと、そっと顔を背けて互いの世話ばなしに戻った。そちらにあるのは村はずれの森にひとり住むハルイーの家だけだ。そこに手をつけようとする者はおろか、近寄る者さえいない。

 ガラートは森の入り口の水源で柄杓に水を少し汲んだ。森を少し入ると、とある大木の前に跪き、供養の水を捧げた。オクトゥルはその後方で木に向かって足を止め、一礼した。数日前にハルイルが身罷り、残った者たちで火葬も終え、遺灰を木の根元に葬っていた。

「アー・ハルイル、もはやニアキに留まるヒルメイは私だけです。」ガラートは囁いた。「あなたの息子たちはオルト谷の新しい村に行かせることにしました。彼らとこのオクトゥルは、ニアキに留まる者がいる限りここを見捨てることはありますまい。」

 オクトゥルはちらりと木を見上げて頷いた。ガラートは立って広場の方に戻り始めた。

「ガラート、おれが出かけている間にヤールと和解はできたのかい?」オクトゥルは追いかけて尋ねた。

「和解?」ガラートは意味を確かめるように訊き返した。「私たちの間に諍いなどない。私は過去を踏襲し、ヤールは未来を拓こうとしている。道の分かれ目がイーマを分けたのだ。」

「ふたつの村で仕事と実入りの配分をどうするのか話は出来ているのか、ということだよ。」

 オクトゥルはやや苛立ちながら言った。

 長として民に集会を呼びかけ、ヤールと協議し政をするのをやめるのか?あんたの心に掛かる仕事だってどうやって続けるのだ。残る者への責任は?

「ヤールには絹のことは分からない。ティスナとのやり取りと絹に関するシギル王への応答は引き続き私が務める。アツセワナでの鉄との交換、その後の品の受け取りはタフマイの者がする。お前もやってくれるだろう?荷はオルト谷に上がる。配分は新しい村でしてもらう。」

 ガラートは考えるように少し言葉を切った。

「鏃と短刀の修理を少し。ティスナで獲れる穀物を少し。あとは時々、交換に応じて貰えれば。」

 向こうは己の都合でここを見切って出て行った者たちだ、すぐに物が回って来なくなるぞ―――オクトゥルが言いかけるのをガラートは目顔で止め、男達の方を見やった。

「私の頼みでお前を煩わすのも、シギル王の治世限りのことだからな。」それから大声で話の終わった事を告げ、自ら作業に加わろうと行きかけた。

「もうひとつ」

 オクトゥルは別れがけの挨拶を装って素早くガラートの傍らに回り込むと、そっと囁いた。

「女房と妹が例の子に会えた―――大丈夫。万事問題ない」

 ガラートは分かったというように手を上げ、肩越しにちらりと感謝の眼差しを寄越した。


 不穏に始まった春は終盤穏やかな気候を得て表土の回復を促し、夏には地揺れと大雨で痛めつけられた山肌にも徐々に薄っすらと草花が緑の覆いを掛けはじめた。

 春にニアキを出た男達が秋を目指して手入れに戻って来ることは無かった。彼らは順次、南の谷間を開墾する仲間に加わった。

 新しい村には、先にオルト谷に開かれたウナシュの村から見て、中心の源流の下にあたる、谷が開けてなだらかな裾野になってゆく土地が選ばれた。南の嶺から発する渓流のひとつ“鉄吹き沢”を含む西側に広く畑地を見込み、中心の主流を挟んだ北側、長手尾根の麓の水脈ふたつの間の小高い土地が集落に見込まれた。舟が行き来するコタ・シアナの岸からは従来よりもずっと近くなる。

 ヤールはコタ・シアナへと注ぎ出る川口を広げて舟着き場と荷下ろし場を整備し、村への道を整え、村の中に穀物や品物を納め配分する蔵を置く事を主幹らと相談した。

「これまではアツセワナからの荷の確認と配分の決定はニアキで行っていた。今も長のひとりはニアキに留まる。取りまとめの場を移すだけでなく配分を決めるのもここにするのか?せめて長の出そろった会議の場を持つべきではないか?」

 オクトゥルは幹部らが話し合っている“鉄吹き沢”の上の仮の集会場に出向いて行き、ヤールに言った。

「もうひとりに応じる気があるかどうかだ。」ヤールは言った。

「私には話をするつもりはある。だが、見ての通り忙しくてここを動くことは出来ん。お前がニアキに行って返事を聞いて来い。作業の日取りもある、十日と待てぬ。」

 数日後、オクトゥルは村の建設計画をガラートに伝えに行った。そして委細承知するという応えをヤールに持って帰った。狩りから戻って来たハルイルの息子たちもニアキに暇乞いをしたのちにオルト谷にやって来た。

 暮らしの軸をニアキから新しい村に移すことに意を固めてから、人々は(アー)大木(トゴ)のみならず集会の発言権の無い少年に至るまで、暮らしを持ちこたえさせる方策を腰を据えて考え始めた。冬の間のみならず大勢の者が一か所に留まるとなると、食糧の確保は喫緊の大事だった。森から村へ移ったように、狩から耕作へ軸足を変えねばならぬ。

 広くなだらかな谷の口は雨が降ればたちまちにして川になるところでもある。また長手尾根の高みから来る水を二方に振り分ける峰は固く切り崩し難い地盤であった。また、全ての域にわたって大木が深く根を下していた。夏の間に何とか畑地を拓いたとしても耕せる部分はごくささやかなものとなろう。

 ウナシュの村の田が順調に青々と育ちはじめると、女達に後を任せてウナシュの男たちが開墾に加勢に来た。土を手懐けることを使命に生まれついた彼らは、先達としての知恵と豊かな人力とを貸し与えた。

 上方に集落をつくる段を切り、下方に広く裾を切り広げながら棚状の畑を築き、両側の水源の岸辺を整え、樋を通して集落と畑にいきわたるように水を引いた。初めに伐り払われた木が家になるには乾燥を待たねばならなかったが、均した地面には仮小屋が並んだ。田畑と集落の粗い景色が見えてくると人々の面には安堵と自負の思いが表れた。この冬ニアキに戻ろうと考える者はいなかった。

 新しい村には生木の匂いと掘り返された土の匂いが満ちていた。しかし豊かな森林を知るイーマであり、かつアツセワナの肥えた農地を見た者たちは一様に首を振った。この匂いは耕地の匂いというよりは山が崩れた後の匂いであり、穀物の生い育つような土壌では無かった。硬い滑らかな灰色の地面には尖った小さな草芽が点々と芽吹いたが、それは荒廃の兆した土地に現われる類のものだった。

「アツセワナの真似をしてすぐに上手くいくとは思えん。」

 オクトゥルはヤールに忠告した。

 開墾した田を起し麦を撒きつけるのだ―――ヤールは、例年通りアツセワナに遣わす絹の交換の頭にオクトゥルを任命したあと、自らの息のかかった主幹と同行させる者たちとを指名し、種用の麦を買い付けて来るように命じたのだった。

「あんたが耕地と呼んでいる地面は切り株とそれをえぐった跡しかない。小石と粘土の塊だらけ。肥やしっ気もない。準備だけでももう一年はたっぷりかかる。今年は麦を撒くような段階ではない。」

 ヤールはその場で主幹に振り返り、麦作りを学ばせるために派遣する者をタフマイとウナシュの若者たちの中から数名選ぶよう命じた。

「どこで学ばせると良いだろうな?手に入れる種麦となるたけ同じ場所がいいと思うが…」

 オクトゥルは首をかしげた。

「ここは土も風の強さも違う。麦にも色々な性のがあるそうだ。コタ・レイナ州のオトワナコスならいくぶん気候も似ているし、相性のいい麦があるかもしれん。収量は少ないが寒さと飢えに強い、おれ達によく似た麦を作っているらしい。」

「オトワナコスという郷につては無いからな。」

 コセーナを介してオトワナコスを訪ねればアツセワナに寄るよりも早い。エファレイナズの中では辺鄙と言われるが、肌の色の差別はむしろ少ないと聞くぞ…。

 言いかけたオクトゥルには目もくれず、ヤールは主幹に振りかえると、派遣する若者たちの代表として行き、アツセワナに着いたら彼らの行き先処遇について交渉せよと命じ、声を落としてひと言ふた言囁いた。部下への指示が終わると、そこに立ったまま待たされていたオクトゥルに言った。

「お前は絹の出来と王との交渉に専念しろ。アツセワナから得る物の全ての代価をその絹で賄うのだからな。来年の収穫が見込めないというならなおのことな」

 目上の者にも遜る手間をかけないオクトゥルではあったが、真心からの忠告にあてこすりを言われてさすがにむっとして言った。

「それで、出発は?一緒に行くのじゃないのかい。」

「先に行け。こちらでまだ詰めねばならぬ話もあるしな。」

 どうやらおれは本当に切られてしまったようだ。この先の相談は聞かれたくないようだしな。

 オクトゥルはすぼめた口元を隠すように深く頷くと飄々とした身振りでその場を離れた。


 オクトゥルはひとり、厳しい鑑査を経て仕上げられた極上の絹織物と王女への献上品の生糸を受け取りにティスナまで出かけた。

 威厳ある面持ちの手練れの織り女が、手づからふたつの品を携えて境界まで出迎えた。

「数は少なくとも価値に劣りはありません。」女は包みの端を跳ねのけて反物を見せた。

「承知している。謹んでお預かりする。」

 オクトゥルは丁重に品物を受け取ると、暇乞いをしたい故、妻を呼んでもらえないだろうか、と尋ねた。女は痩せた肩をそびやかして立ち去った。

 冬の前の移動がひと秋ぶん早まったかのように、岩山の麓に佇むティスナの村は人気に乏しくひっそりとしていた。孕み女と年寄りばかりの村の者たちに気兼ねしながら、オクトゥルの妻は息子の手を引いてゆっくりと境界の森にやって来た。

「人は一旦心を決めると早く動くものね。」妻は村の方を気に掛けながら寂しげに言った。

「風がひと吹きすると鳥が渡ってしまうのと同じ。あんなに固く守ってきた掟は何だったのかしら?行く手の見えない空に急かされて飛び立っていくようだわ。」

 ティスナでも女達の心は徐々に古い慣習から離れ、新しい村での暮らしに向かいはじめていた。オルト谷に拓いた村は到底この冬に女子どもを迎えられるものではなかったが、身軽で意思の強い若い者の中には、夫が仮小屋を建てて開墾に勤しんでいる谷へと下りて行く者も現われはじめていた。

 特にこの夏は育てる繭を制限したため、秋蚕の世話から解放された女達は若い健康な身を持て余していた。夏の終わりには、アツセワナの王女に献上するえり抜きの繭千個、さらに交換用の上等の絹地を織るための繭三千個余りが揃っていた。生糸を念入りに仕上げてしまえば、数名の手練れの織り女の他に仕事は無い。

 ティスナにだってまだ仕事はある、稲田にはまだ青い穂があり熟するにはまだ間がある、子供を抱えた女達はそう言って諫めたが、出て行く者たちは収穫を待たなかった。後に残る者に収穫を譲って構わないと言いおいて湖の村から下りて行った―――行李ひとつ背負い、後も振り返らずに足早に去って行く後姿はこう言っていた。ティスナの田の実りは年々乏しく手を掛ける甲斐もない、谷に下りれば男達が絹と取り換えて来る鉄を売って米でも麦でもどっさり買って来る。自分で働いた報酬を受け取って何が悪いの?

「去年はアツセワナはひときわ豊作だったからな。土産に少し贅沢に金を使った。同じつもりでいるとがっかりするかもしれぬ。」

 オクトゥルは疑わしげに今年の見込みを勘定しながら呟いた。

「例の子は?」

 妻は穏やかな風が目のあたりに乱す髪をかき上げながら峰の方に目をやった。そのスカートの足元に纏わる息子は点々と咲く白い撫子の間を歩き回っている。

「慣れてきたわ。私たちを見舞いに下りてきて一緒に食事もする。寝る時は上に戻るわ―――可愛くなった」 

「ほう」オクトゥルは素早くあたりを見回し、妻を引き寄せて接吻し、腰にしがみつき円らな瞳で見上げる息子をひょいと抱き上げた。

「お前も大事にな。離れて暮らすのも来年までの辛抱だ。来年の秋にはおれ達の家も建ち、村もしっかりしてくるだろうよ。」

 耕作がうまく進めばいいが―――栽培法の習得にはどのくらいかかるだろう?果たしてアツセワナの農民たちは快く技を伝授してくれるだろうか?

「あの子がティスナから下りて来なかったら、どうしたらいいかしら?」

 妻は夫の腕を離し、眉をひそめた。

「来年だ。来年にはしっかりした家にお前を呼べる。このイナ・サラミアスで麦が獲れるようになるまでもう二年―――もう三年」オクトゥルは呟いた。「今年は西へ東へと走り回されるだけで終わりだ、慌てても始まらん、とは言っても、お前のお産だってせめてウナシュの村の方が安心だ。ここは寒いし、年寄りばかりだしな。なあ、移るのを考えるなら今かもしれんぞ。」

「だからよ。だから余計下りて来られないのよ。」

 妻は鋭く囁き、ぽかんとして見返す夫を笑いながら押しやった。


 夕刻の翳りが早まり草の色が濃い青みを帯び始めた頃、オクトゥルはオルト谷の北の舟着き場からクシガヤの舟を雇い、ひとりの若者を供にしてアツセワナに絹を運ぶ旅に出た。例年よりもひと月早い旅立ちであった。

 静かに素早く舟を岸に寄せた舟頭の姿を見て、オクトゥルは嬉しげに声を掛けた。

「サコティーじゃないか。コタ・シアナで見かけるのは久しぶりだな。」

「僕を見て喜ぶのはあんたくらいだ、オクトゥル」

 はにかんだ上目づかいで若者は低く言い、舟べりをオクトゥルの足元まで寄せるために岸に伸びた柳の枝を片方の手で手繰った。オクトゥルと絹の包みを胸元に下げた若者は舟に乗った。

「どこへ行く?」

「アツセワナに。絹の交換だ。」

 サコティーは客に素早く目をくれた。

「随分早いな。それに慎ましい頭数だ。」

「あまり目立たないようにしたいのさ。」

 オクトゥルはクシガヤのある河下を見渡した。

「仕事の具合はどうだね」

「ここにはほとんど無いよ。」若者はあっさりと答えた。「少なすぎて、渡しの頼みを待つ者もいないくらいだ―――僕がここに来ていたのは偶然さ。」

 舟の舳先は滔々と流れる水を突いて進み、すっぽりと草木に覆われた切り立った岸とその下に現われた葦原と砂の州に緩やかに湾曲しながら近づいて行った。

「またアツセワナに行くけれど?」

「悪いな。いつも通り渡って下ろしてくれ。道順だけは守らないといけないんだ。」

 向こう岸に着くとオクトゥルは渡し料を払って舟を下りた。サコティーは几帳面に金子を腰の紐に通した。

「だいぶんため込んだじゃないか、え?」オクトゥルは兄貴ぶって軽くからかった。「いつ使うんだ?」

「それを売ってくれる?」サコティーは若者の首から掛けた包みに目配せをした。

「冗談じゃない。」

 オクトゥルはぎょっとして言った。サコティーは笑い、生真面目な顔になった。

「本当にふたりだけ?年に一度の遣いに。」

 オクトゥルはオルト谷の村の事をかいつまんで説明した。もうじき白露の頃だ。アツセワナでは麦蒔きの準備にかかる。ヤールが麦の栽培を学ばせたいなら、すぐにも若い者を習得のため遣わせるはずだ。コタ・シアナを下って彼らを送ってくれる舟があればいいが。

「北から渡るのかも。僕たちの仕事ではなさそうだ。」

「お前はこの頃コタ・ラートよりも西で仕事をしているそうじゃないか。稼ぎ時に何故ここに戻った。」オクトゥルは尋ねた。

水郷(クシガヤ)の女こどもを(さと)に戻すために。」サコティーは眉を曇らせて言った。「夏からこのかた、アツセワナの家々から突然解雇される者が出始めている。娘たちが路頭に迷えば良くない誘いや前よりも待遇の悪い仕事に引っ張り込まれる。そんな子たちを何人見たことか。僕が通る水辺だけでもう六人も見つけて連れて帰った。郷にも暮らしを立てる術はないかもしれないが。」

 オクトゥルは頷きながら訊いた。

「それは心配だな。で、お前の可愛い子は?」

()()は居場所がはっきりしているし」サコティーは無愛想に呟いた。

「便りが無いのは元気な証拠って言うらしいな。」オクトゥルは軽く言った。

 サコティーは櫂を取ると滑るように静かに流れに舟を出し、あっという間に迫り出した岸の向こうへ消えていった。

 糸を商う道(エノン・トード・シレ)はコタ・シアナを渡ったシアナの森から始まる。その始点は沿岸のどこからでも発し、道筋は網の目のように入り組み、霞のように途切れ、木々の間に、湿地に紛れる。土地のヨレイル達と獣とが行き来して繋いだ、それら迷いやすい藪の中の道を、イーマの“絹の遣い”は敢えて行き道に使った。彼らはヨレイル達から教わった幾通りもの枝道を変えながら、それでも王の命を受けた領主の保護下にある宿駅を指して、シアナの森を南北に一筋横断している公道へと徐々に近づいていく。

 古のアツセワナの王とコセーナの領主が協力して開いた公道ははじめ、アツセワナとコセーナ、コセーナとコタ・レイナの南北の郷をつなぐためのものだった。コセーナと時に交渉を持ち、互恵の間柄であったタシワナの村との間には一本の細い道が存在していたが、アケノン王の頃からタシワナへの道は公道として定められ、王の使者や役人を通すために普請がなされた。荷車が通るほどの幅の叩いただけの道は、ヨレイルの通り道同様、両側から迫る森の草木が押し寄せ、半年も経てばすっかり枝葉や蔦に覆われてしまうのだが、二十年来の交易の行き来とコセーナの領民の努力によって保たれていた。 

 タシワナの近くからコセーナにまで延びる公道の半ばに大きな農家がひとつある。背後に栗、ハシバミ、松などの林があり、母屋の前には林檎の大木が二本、広い木陰をつくっている。たわわに結んだ実はまだ青い。

 この木を赤や黄に色づいた実が飾る秋になると、子沢山の夫婦は宿を営んだ。東の旅人を待ち受ける宿駅の使いや、旅人たちの用に応えて稼ごうと集まって来る行商人らが宿を乞う事が多かったためだ。

 しかし今、ひと月以上も早いためか、母屋と庭先を見通せる低い柵の戸は閉じられ、陽の翳った表には主の女房がひとり、密かに森を抜けてゆく旅人に気付くこともなく、干し物を取り込んでいるのが見えるきりだった。

 オクトゥルは農家の近くの小川で水の補給だけして、公道から森に深く戻ったところで野宿をした。

宿()()とかいうところに泊まらないんですか。」はじめてコタ・シアナを渡った若者はぼやいた。

「今回ばかりはいつもよりも絹に気をつかうんだ。」

 オクトゥルはゆっくり泊った時に出される竈料理や低地の酒、人懐こく寄って来る子供たちの事を思い浮かべてまなじりを下げかけたが、素っ気なく答えた。

「それに宿もまだ開いていない。誰もいなかったろう?収穫祭の頃には道筋からあの林檎の木の下まで店を広げる連中で埋まるんだ。」

「家の傍の木の陰から覗いている娘がいましたよ、ひとりかふたりか」若者は囁いた。

「あの家は坊ずと()()ばかりさ。」オクトゥルは若者の丸い真面目な顔をまじまじと見つめ口元をひん曲げた。「早く寝ちまえ。」

「河辺の者の風体でした。」

「生意気だぞ。」

 オクトゥルは燠の火をかき起こし、羊歯を重ねて枕にしつらえた上に置いた短刀を検めるふりをしてぱちりと音をたてた。

「いい加減にしろ―――そりゃ、見てはいけない奴ってことさ。ことに木の陰から覗くような奴は」

「まだ年季の途中だろうに。」若者は寝返ってオクトゥルに背を向け、呟いた。

 翌日の夕刻にはコセーナの宿駅に着いた。宿役は慌てて出迎え、領主に報告した。やがて館の内に取り次がれると、領主自身による絹の鑑査を受けた。

 領主は今晩はこのまま館内に泊まるように、と勧めた。

「緑郷の客人の訪問があまりに機敏で不覚にも宿の準備が整っていないのだ。」領主は口元にわずかに笑みを浮かべたが目元から頬まで厳めしい表情を変えなかった。

「加えて、巡視の者から怪しい一団がシアナの森を通るのを見たという報告を受けた。―――それがそなた達自身でなければ、今宵は高柵の内に留まった方が良いぞ。息子も警戒と見回りに繰り出す。小競り合いが始まったら流れ矢が来ないとも限らないのでな。」

 翌朝早くオクトゥル等が護衛と舟を世話され、エフトプに下るために城壁の河辺の舟着き場に下りて行った時、後からエフトプの領主への報告を言付かった若者が追いかけてきた。

「殿様からキアサル様へ急ぎの報告だ。」

 一行と同じ舟に乗り込んだ使者が護衛の者に訳を話した。

 コセーナの領内で目撃されていた小一団はゆうべ、シアナの森の中の農家を襲った。

「家の者は?」オクトゥルは尋ねた。

 使者は驚いて振り返った。

「賊は蓄えには手をつけなかった。が、主と女房が殺された。良かったな、あんた達の来るのがもう一日遅ければ疑われるところだったぜ。」

「心外な」オクトゥルの連れは憤然と見返した。相手の若者はちょっと怯んだように言った。

「曲者は客のふりをして宿を取り、その晩仲間を引き入れたということだった。」

「下手人かもしれん、はたまた狙われていたかもしれん―――とな」

 護衛の者がイーマ達を見やって言った。若者は頷き言葉を継いだ。

「そうだ。エフトプからニクマラ、アツセワナの王のもとに“絹の遣い”が無事に辿り着くように警護を手厚く頼む、と殿様の仰せだ。」

 オクトゥルと連れの若者とは顔を見合わせた。それからタフマイの若者は腹が痛むかのようにむっつりとふさぎこんだ。

 護衛のひとりが引き立てるように話しかけた。ふたりは長年“絹の道”を通っているオクトゥルには顔なじみだった。

「あんた達は生まれた時から絹を着ているのかい。」

「王様に持って行くようなものを着ているわけじゃないよ。親きょうだいの着ていたものを解いては織りかえし、継ぎ足して着ているんだ。獣の毛を紡いで緯糸に混ぜることもある。だが、羚羊はあんた達のコセーナの羊のように長い毛は持っていないからな。」

「だけど、上に着ている外套はきれいなものだな。」

「一生に一度のことだもの。」オクトゥルは若者の方を顎でしゃくってみせた。「こいつなどはまだおふくろの織ったものしか持っていないが。」

「絹などおれ達には一生縁がないな。」男はしみじみと言った。「アツセワナの市でそこそこの値で売られていると聞いたが、あんた達の持っていくものはそこに並ぶのかね?」

「偽物だ。」若者が即座に言った。オクトゥルはやんわり言葉を添えた。

「王が買い上げる絹はそのままおれ達の郷を一冬養えるほどの価値があるんだ。一介の街の衆にそんな御あしがあったら驚きだな。」

「あの行商のおやじの法螺かな。」男は仲間を振り返って言った。

「見間違えだろう。」相方は首を振った。「そんな上品なものの良し悪しなどおれ達にはわからぬもの。」

 コセーナの男達は、絹の遣いの中継地でありながら領主と補佐の目利きの者の他に絹の検めの場には立ち会えないのだと言った。

「考えてみれば、木にくっついて葉っぱを喰っている虫の()()を縒って外套をつくるなんてご苦労な話だ。なるほど、おれ達には羊がいる。むすめも女房手織りの衣装に相応の器量だものな。」

 “絹の遣い”のイーマふたりと護衛ふたり、そして使者の若者を載せたコセーナの舟は、正午を過ぎた頃、背川(コタ・ラート)妹川(コタ・レイナ)が合流する上の丘に建つエフトプのコタ・レイナ側の舟着き場に着いた。

 使者の若者は河番に取り次ぎを請い、ややあって出迎えた執事の案内を受けてイーマ達とその護衛は通用門から領主の館に通された。

「前もって王より、必ず領主本人が絹を検めるようにとの命を賜っている。」

 領主キアサルは居室にイーマのふたりを招じ入れ、北面を望む窓辺に反物を広げて鑑査し、丁寧に巻き取ってオクトゥルに返した。

「ニクマラに向かう一隊の荷舟の中に場所をあけた。待たせてあるゆえ、食事が済みひと休みしたら発たれよ。」

 舟旅に疲れた若者はため息をついた。オクトゥルは恐る恐る伺いをたてた。

「私どもは毎年、主に陸路を辿ってアツセワナに向かっておりました。此度は格別に配慮を要する旅とは心得ますが、地面の上を歩いてゆくわけには参りませんでしょうか?険しい山を一日駆ける事をいとわぬこの身も、無為に水に揺られているのは辛うございます。」

「山の民らしい事を言う。」キアサルは笑った。

「水に酔ったか?すまぬがここは王の前に行くまで我慢してもらおう。新たな策を講じる時には用心にこしたことはない。そして、道中間違いがあってはならぬのだ。」

公道(クノン)筋になにか不都合がございましたか?」

 キアサルはコセーナの者と交代して戸口に控える護衛に目をやり、ふたりに近寄るように手招き言った。

「王が公道筋の市を手始めに絹の取り締まりを命じた。そなた達の来訪は予想よりも早い。道筋を分け、経路を明らかにしておかねばならぬ。ニクマラには先に報せの遣いをやった故、安んじて我らの舟団と行くがいい。」

 控の間で食事をもらい、召使に案内されて館の裏庭を通って城の反対側に回り、高い窓の下の狭い通路と城壁の外の長い石段を下りて行くと、そこは水辺を囲った広い舟着き場であった。いくつもの桟橋が並び、その先にはコタ・ラートへの導入口があった。コセーナ、エフトプの産物を載せてニクマラに下る荷舟は三つ舫ってあった。

 舟団の頭は一同を見ると、顎をしゃくって中央の舟を示した。オクトゥルと若者は渡してある板の上を用心深く歩いて舟に移った。

「その梱の陰にでも座っていな。」

 荷番は胸に絹の包みを大事に抱えた若者を見てにやりとした。護衛を言い遣った男と舟頭はひらりと飛び乗った。

 舟の一団は夫婦川を下り、夕刻近くに下流の中州に作られた市と宿場のちいさな町を左手に通り過ぎた。町の賑わいと匂い、家々と市の色合いに惹きつけられ梱の陰から身を乗り出す若者の前に荷番は立ちはだかった。

「若いの、中に引っ込んでその黒い頭と目を見られないようにしろ。お互い嫌な思いをしないようにな。」

 オクトゥルはむっとして言い返した。

「こいつは町を見るのが初めてなんだ。珍しがるのは仕方ないだろう。あんた達のお館が舟に乗れというから乗ったんだ。おれたち(イーマ)は二十年このかたこの(なり)公道(クノン)を歩いていたんだぜ。今さら面相風体に驚くこともなかろう?それに、おれとあんたとどちらが色が黒いとも言い難いじゃないか。」

「去年までとは事情が違うんだよ。」男は背を向けたまま独り言のように言った。

「ま、大人しくしていてくれ。確かにニクマラのご当主のところまで連れていくからな。」

 広い河は中州を中心に上りと下りに分かれ、さらに舟の大きさに応じて航路を分けられている。水上の小さな町は次第に細り、木の露台にまばらに並ぶ小屋の集まりになり、矮木と草の狭い原、そしてしまいに細い砂州になって水に浸ってゆく。その向こうを、同じように舟主の印の旗を上げた舟が上へと遡って行く。

 荷舟は中州から離れた西岸に近い葦の繁った中に止まり夜の闇の中を過ごし、夜明け後まもなくニクマラの舟着き場に着いた。

 岸の崖下に穿たれた荷揚げ場に水夫(かこ)らが梱を下ろす傍らで、オクトゥルと若者とは所在なく石で舗装された埠頭の端に佇み、穏やかだが広大な水面に見入り、また切り立った丘の上から迫り出すようにそそり立つ城壁を肩越しに見やった。

 五、六年このかたずっと絹の遣いとしてニクマラの宿駅を訪れていたオクトゥルでさえ、湖の側からこれほど領主の館を近くに見たのは初めてだった。東の旅人のために用意された宿駅は、ニクマラの領土でも館の丘側の周囲に広く配された農地のさらに外縁部の森の中にある。オクトゥルは未だ領主の館そのものを見た事は無かった。

 イーマ達の護衛を任じられた水夫は、荷揚げ場にいる人夫に家の者への取り次ぎを頼み、自分は同じ舟でエフトプに戻るために荷の積み替えに取り掛かった。声を掛けられた者は、イーマ達に作業の邪魔にならないようにどいていろ、と言いおいて丘の斜面を刻んで渡された木道を駆け上がって行ったが、仕込みの終わったエフトプの舟が岸を離れてクマラ・オロへと再び漕ぎ出して行くまで、そこで忙しく立ち働く者たちは彼らに一顧だに与えず、荷積みが終わってからは倉庫の奥の通路からどこへともなく消えてしまった。

 小半時も経ったと思えて、丘を上がって行った男が下りてきてついて来るようにと言った。木道を上まで登りきるとぐるりと巡らされた城壁の小さな門があり、そこには家令の風体をした者が待っていた。男は丁寧に挨拶をしてふたりの案内に立った。

 城壁の内はよく手入れされた清閑な木立ちを備えた草地で、遠くの杜に向かって縦横に畝を描いた菜園が広がっていた。左手には土を固めた通路が湾曲しながら杜の奥に入っていた。城主の館と思しき城郭は、今入ってきた通用門からまっすぐ左にあった。

「さ、どうぞこちらへ東の方々。」家令はやや強い口調で促し、杜を指してふたりを連れて行った。

 杜の中の道の一方は城の方へ延び、もう一方は三、四度大きく曲がりながら北東へ向かっていた。木立ちの梢の中ほどの空を正面に横切って城壁が走り、さらに近づくと道の突き当りに門構えが見えた。

 案内人は道の左側から引き込まれた小径にふたりを誘った。ひときわ蜜に植え込まれた杜に隠されるようにして小綺麗な石造りの小屋が建っていた。草花の植わった小さな庭と水を湛えた掘割が側方に備わっている。

「こちらでお待ちのほどを。鑑査役が参りますゆえ。」

 やがて執事に伴われた領主の代理の目利きが小屋を訪れた。絹の検分が終わると、執事はアツセワナ行きを急ぐかと尋ねた。

「大事の品ゆえ、行きばかりは滞りなくすませたいものでございます。」オクトゥルは答えた。「ご検分の品に障りが無ければすぐにでも発ちます。宿のお気遣いにはおよびません。」

「そう、急かれるな。」執事は覚書を取り出し、用足しの予定を確かめると言った。

「明朝にはアツセワナに向かう車が出る。そこそこの人数が同伴するし、護衛もつく。今晩はここに泊り翌朝、第二の鐘の鳴る頃までに正門を出た道の出会いで待たれよ。」

 オクトゥルは返答に迷った。執事はその様子を見て言葉を添えた。

「舟で水路を遡ることもできるが」

「舟の旅は当面は沢山でございます。」オクトゥルは急いで言った。「私は“絹の遣い”としてもう五年もエノン・トード・シレを己の足で旅して参りましたが、此度のように厳しく道筋を分けられたことはございません。どのようなわけで、私どもの足を公道から遠ざけるのでしょうか?」

「そなた達の長は王に保護を求めたのだったな。」ニクマラの執事はいくぶん険しい口調で言った。

「王はイナ・サラミアスの絹を守り、それを運ぶ者を守る。得心されたら指示には従われよ―――交換後の帰途についても王の指示があれば逆らわぬが良い。」

 執事は召使に世話を言いつけ、鑑査役を伴って戻って行った。ふたりは召使に勧められるまま食事を取り、汚れを洗う湯や衣類、敷布の支給などの世話を受けたが、夜には自分たちだけにしてくれるように頼み、これまでの晩もそうしてきたように交代で絹の番をし、眠った。


 ニクマラの城郭の正門から延びる道は、耕地を有した丘陵の領内を北へ下って行き、広い水路を橋で越す。北から大きな湖(クマラ・オロ)に向かって流れ下る背川(コタ・ラート)、夫婦川が(いにしえ)から彫り出した見通しの良い小高い堤の上で道は東西の公道に分岐する。堤の分岐からはアツセワナの丘陵に展開する城市とその下の田園の棚が一望できる。東から北へと堤の上を通る道はクノン・タラートである。西へ分かれた道は、森と自営農の農場の点在する広い平野へと下り始める。目指す都の丘は木立ちの中に一旦沈み、道を進むに従って再び開けて来る視界の中で大きくなりながら南側の麓を現わしてくる。この道がアツセワナの側から見て、湖に向かう道(クノン・ツイ・クマラ)と呼びならわされている。アツセワナから延びる五つの主要な道のひとつであった。

 ニクマラからアツセワナの城市に向かう荷車は大小あり、市場へ向かうもの、王宮へ届けられるもの、途中の小さな村に寄るものなどが集まっていた。それぞれには主にニクマラの産物が積み込まれ、中でも多いのは魚の樽だった。塩漬けもあれば生きた魚もいる。その他にコタ・レイナの郷からの品々が積まれていた。

 旅人もまた多く混じっていた。行商の途上の者、奉公先を求める者、家畜の仲買人などがニクマラから発ち、道筋から加わり、別れて行った。大抵の者は大きな車の後からひと固まりになってついて来た。

 オクトゥルと若者は一隊に合流してすぐに車の前後を守る護衛と商人たちとの間に混じるように言われたが、道を進むごとに車の間は延び、人々の出入りするうちに列は緩み、護衛もふたりに構う様子はなかった。旅人たちはイーマのふたり連れを物珍しげに一瞥したが、彼らに話しかけるでもなくそれぞれの用に思いをしていた。

「ヨレイルだ」

 道を行く者たちの間からどこからともなく囁きが漏れた。

 オクトゥルの傍らで若者はやや気色ばんで振り返った。旅人らの目をやる先に、草地の低い木の下に座り込んでひと休みしている、褐色の肌のひと群れがいた。擦り切れ汚れた服、わずかな手回りの道具を入れた頭陀袋、足には履物もない。間もなく南のほうから始まる刈り取りに向けて、季節雇いのヨレイルたちは移動を始めていた。ここにいる者の多くは年を取っていた。 

「連中と同族だと思われるのは嫌だ。」今さらのように見比べるように何度も振り返る者がいることに苛立ち、若者は苦々しく呟いた。「どうしてこちらを見るんだ!」

「まあ、ざっくりと見れば同じなんだろうよ。」オクトゥルはなだめながら言った。「そう言うな。」

 ふたりは荷車の列の陰になるように脇に移った。徒歩の群れは静かにふたりの脇を通り過ぎ、追いついて来た小さな荷車の列が次々に舌打ちに似た鋭い音を発して車を牽くロバの向きを右へと逸らせた。

 東の自作農の郷から途中で一向に加わって来ていた車力が話しかけた。

「あんた達はあの連中の()()()かね?」

「いいや、私たちはイーマで“絹の遣い”だ。」若者は即座に答えた。

「もちろん、そうだけどよ。すると、ご先祖が同じというわけでもないのか。」

「当たり前じゃないか。」

 若者は足を速めて男の質問から逃げたが、オクトゥルは人の良さげな男の横に並んだ。

「長年エノン・トード・シレを歩いているが、そんなことを訊かれたのははじめてだな」彼は気さくに話しかけた。「あんただって長いことこの道を通って仕事をしているんだろう。その質問はおれ達にするのが初めてかい?」

「ヨレイルは珍しくないし子供の頃から知っているよ。」車力はやや恨めしげに言った。

「昔の連中の方が今のあんた達に似ていたね。おれのおふくろは旅をして周って来るヨレイルの母子連れから薬を買ったり、ちょっとした用を頼んで代わりに泊めてやったりしたもんだ。その頃は小綺麗ななりをして強気で、よく歌っていた。連中が大人しくなり、羊の群れみたいにあっちこっち大勢で働きに移って歩くようになったのはほんの十年も前からだ。」車力は遠慮なくオクトゥルの顔を眺めた。

「よく見るとやっぱり違うな。」

「いや、似ているんだと思うよ。」オクトゥルは言った。「あんたとおれよりは。」

「ヨレイルの娘たちはきれいでよく働く。郷の年寄りなんかは進んで嫁にもらえという者もいたほどだ。」男は懐かしむように言った。「おれが用聞きで周る家の婆さんなどはヨレイルだったな。」 

「ヨレイルの若い者たちは今じゃ主水路(アックシノン)の輪の外の貧乏百姓の家になど行かないよ。」横合いから行商の男が言った。「アツセワナから仲介人がやって来てイビスからニクマラの間の公道の辻でヨレイルを集めて大きな領主さまの家の監督がたと話をつけて順に連れて回っている。」

「そうそう、遣いの帰りにはおれ達の寄る市で、その子たちが木札(キーブ)を入り用な物や土産に代えてもらっているのを見るものな。」オクトゥルは相槌を打った。「皆、小さいうちから働きに出ているもんだ。」

「可哀相によ。」

 話の途切れた道中に、車の軋む音とぱたぱたと埃っぽい音をたてる足音だけがしばらく続いた。野菜や豆を積んだ小さな牽き車はしばらくオクトゥルの横に並んでいたが、やがていくつか民家の固まった集落の方へ下りて行く小径へと下りて行った。行商人は軽く咳ばらいをして少しずつ足を速め、ふたりを抜いて、前を歩いていた馬方の脇に並んで歓談をはじめた。

 後にして来た二クマラの頂が遠のき、目指すアツセワナの丘の上部に巡らされた城壁の三つの層が高く見えるところまでくると、平野の大きな木は減り、低く切り揃えられた森と広い畑、大きな構えの農家が増えてきた。公道(クノン)は少しずつ広がり、合流する小道も出入りする人もしげしげと見かけるようになった。道の行く手に聳える丘の城郭と裾野に広く拓かれた棚状の農地をその上にして水平に横切る線は、アツセワナの丘の東側を通る主水路(アックシノン)の低い堤だった。間に広い田畑と村を挟んで二重に巡らされた水路はここではまだほとんど高さを一にして重なっており、その間に、垣をした整然とした家々の群れが覗いている。田にはコタ・レイナの郷よりもはるかに早く熟れた稲穂が黄色い帯をなしていた。

 初めてアツセワナの農地を見た若者は密かに感嘆の息を吐いた。オクトゥルは小さく頷いた。初めて来る者は皆、クノンを主水路までやって来ると同じ顔をするんだ。誰であろうと、気位の高いヤールだろうとそうしたに違いない。

「農事を学びに来る者たちはもう河を渡ったでしょうか?」若者は期待を込めて囁いた。

「この景色を見ないで田をつくろうとするなんて、考えられません。なんて濃い色をした穂だ。それがあんなに分厚く実って。」

「まだまだ。本格的に熟れると薄っすらと橙色がさしてくるほどだ。それを田の端から大勢で一斉に刈り取る。男も女も子供もない、それこそ総出さ。それでもまだ手が足りないので、監督に連れられたヨレイルの子供たちがやって来て刈り取りの仕事を手伝うんだ。この辺りは穀物が最も先に熟れる。ここは王の直轄の耕地だが、それが済んだら王の義弟の領土カヤ・アーキ、カヤ・ローキと北の方へと順々に収穫が進む。」

「こんな穀物倉を持ったところと対等に付き合おうとしていたなんて。」若者は素直に畏まって呟いた。

「だが、我々も今にこの栽培法を学ぶんだ。種籾を買ってから帰るんですね?」

「今年は到底無理だよ。」

 ふと、オクトゥルは疑わしげに口を閉ざした。

 もう徒歩で行くほとんどの者が彼らを追い越していた。荷馬に牽かれた大きな荷車はとうに先に行ってしまい、三々五々間をあけて続いて行く小さな車の尻とその脇を歩く者の後姿が見えるだけだった。先には舗装された水路の上に橋が掛かり、一行の先頭はもうそれを渡り終えて、主水路(アックシノン)の内の端然とした田園と村の間に入って行くところだった。頑丈な木製の橋は車が通ると音高く鳴った。若者は欄干の無い端からそっと青黒い水を眺め、足音を潜めて橋の真ん中を足早に進んだ。

 アックシノンは舗装された低い堤に側路を備え、それは橋の下を通り抜けている。水路番が通り、村の住民が水位の調整に通り、時には流れに乗って下るときの舟着き場になった。水路を荷舟が遡る時など、牽き具をつけた馬がこの側路を歩く事もあった。

 オクトゥルは幾度か遣いとして訪れたアツセワナの主要な五つの門と五つの公道のうち、最も人の出入りの多い正門(タキリ・アク)とそこから延びるクノン・アクを思い起こした。クノン・アクは主水路(アックシノン)のはるか上流でやはり橋でその上を横切っている。年々、金を手にして豊かになって来た人々はより自由に商売をするようになり、城門の外であっても村人の多く集まるクノン・アクの沿道では橋の上に至るまで持ち寄った品を広げて商いをしている。

 ガラートがもし厳しく止めていなかったら、オクトゥルもアツセワナの大通りで商売したいところだった。絹の交換の時季外なら、エファレイナズでも辺鄙なところの俄か市なら、もう幾度も物の仲立ちをやっている。そこの無愛想な百姓の親父や、かしこの気の弱そうな娘、疲れた顔の寡婦の仲を取り持ってやって、野菜から卵を卵から苧糸をとひねり出す。相方をうまく選べば元の主に利を出してやり、微笑と駄賃を引き出せる。帰りに土産がもうひとつふたつ増えるわけだ。

 オクトゥルの気楽で野放図な想像は“絹の遣い”のしかつめらしい表看板の奥から、抑えても抑えてもひょこひょこと頭をもたげた。 

 もし、取引所で鉄と替えてもらうのが木札でなくて銀か銅だったら?

 もし、入り用の道具を作ってくれる鍛冶屋から余る鉄を自分で値をつけて売れたら?

 いや、もし絹そのものを自分で売れるとしたら―――?

 オクトゥルは絹を抱えた上に外衣にぴったり身を包んでじっとりと汗ばんでいる若者を見、首を振って不届きな空想を払いやり、両肩の上にまくり上げていた外衣の端をばさりと暑い上体の上に下ろした。

 橋を渡り終えるというころ、オクトゥルは吸い込んだ風の中に微かに残る淡い刺すような香りに鼻と口をすぼめた。

「や、絹を焼く匂いだぞ。」

「え、」若者は外衣の上から内側に胸元に掛けた絹を押さえた。

「違う、違う」

 オクトゥルは風の吹いて来る北東の方に手をやった。空は澄んでいて煙の気配も無い。

「何日も前の残り香だ。風に乗って来たな」 

「絹を焼くだなんて」若者は憤慨して言った。

 オクトゥルは、いつもより早く始まった旅の道筋に生じた、ささやかだが心地の悪い変化に思いを巡らせた。ガラート自身が言ったように、彼がオクトゥルを遣わしてコセーナへ伝えた王への訴えがひと巡りしてエファレイナズにどんな影を投げかけるものか推し量れるものではない。彼はちょっと肩をすくめ、気楽そうに言って見せた。

「偽物なんだろうよ。」

「それでも同じ匂いがするんですね。」ややあって若者はむっつりと呟いた。

 二本目の水路を越えると土地はまた緩やかに上りはじめ、田園の形も()ぎ合せた帯のように整然としたものから地形に従った大小様々なものに戻った。田畑の境界の小さな雑木の林のほかに森は無かった。横に広く枝を張り出した大きな木があればそこには大抵休憩所の広場や水場、小屋があった。建物は主水路(アックシノン)の外側によく見られた百姓家ではなく、点在する倉や納屋、または使用人の宿舎であった。

「ここは王の第一家(カヤ・ミオ)の領内だ。見ろ、季節雇いのヨレイルたちだ。」

 オクトゥルは、色づいた稲田の間の道を列をなして行く一団に顎をしゃくって見せた。

 それは陽気に歓談している無邪気な少年ばかりの一団だった。彼らの方も荷車の一隊に注意を引かれたらしく、こちらを振り返り、立ち止まり手を振った。

「おれ達に挨拶しているようだな。」

「どうするんです?」

「手でも振ってやれよ。」

 少年たちは田舎道の端から身を乗り出さんばかりにしてこちらを見ている。若者は郷里でまだ集会に出る前の少年たちにするように肩をそびやかしちょっと頷いた。

 二クマラから発った荷車と商人の群れは方々の脇道へと少しずつ分かれて行き、アツセワナを環状に巡る道との交点では城の正門に回る右の方へ半分もの者たちが分かれた。羊を引き連れた仲買人たちは左へ行く。

 右に折れるなり馬足を速め、車輪の音を轟かせて去って行く車の群れを指してオクトゥルは言った。

「これから夕方にかけて道沿いの市に女たちが買い物にやって来る。買い手が逃げないうちに大急ぎでものを運ばなきゃならんのだ。」

「あの獣の群れは?」若者は左に向かった一群を見て言った。

「トゥサ・ユルゴナスに持っていく種だろう。他のは“七曲りの坂”を上って郭の取引所に行く。そこから方々の牧場に婿入りするのさ―――うっかりついて行くなよ、おれ達の行く方向はほら、向こうに見える坂を登っていく道だ。」

 仲買人に連れられた山羊や羊の群れ、日用品を積んだ荷車などが埃っぽい乾いた道を水平に左に回り込んで行き、その上を急勾配に丘の斜面に作られた田園の間を道が登っていた。一方、イーマ達が取ったなだらかな坂道を右へ、丈の低い植え込みに伴われて小半時も歩くと、広い池を備えた休憩所があり、さらに上へ急勾配を登ると、夕刻の光を吸い込んでこんもりと茂った葉の中に農園を隠している生垣とその奥に高く立ちふさがる城壁が左側に続いた。

 車が一台と小物の行李を担いだふたり連れの商人が何組か、旅人が数人、オクトゥルと若者の前後を歩いていた。商人たちの一行と先に行ってしまっていた護衛は、新門(タキリ・ソレ)まで登る道をもうひと曲がり、ふた曲がりした先でふたりを待ち構えていた。彼は小言を言って彼らの前に立った。

「日が暮れると門が閉まってしまう。」

「馬鹿に早いじゃないか」オクトゥルは驚いて言った。「去年は夜も通してくれたぞ。」

「去年までは去年まで、今年は今年だ。」商人の連れがふたりの脇を通り過ぎながら口を挟んだ。

「あんたが言うのはどの門だ?」

「どこもかしこも。中郭の門も内郭の門も。」

「なんだって」オクトゥルの代わりに若者が声を上げた。「城はすぐそこに見えているのに、入り口はまだなのか?」

「新門まではもうほんの少しだが、王宮の門まで、道にしてまだ一里あるんだ。」

 ふたりを尻目に先を行く男に代わってオクトゥルは囁いた。


 湾曲した先の長い傾斜で馬足も徐々に弱まる坂の先に城壁は深い影を落として一旦切れ、その奥に両開きの扉を備えた立派な門があった。門の右側は既に閉まり、片側に道を登って来た列を留めて門衛が城内に入る者を見張っていた。ふたりのイーマは二クマラの荷車の後ろで順を待った。

 通す者と通される者と、互いに慣れた様子で列は進み、我知らず項垂れる若者の横でオクトゥルは真っ直ぐに門衛を見返した。ふたりの前にいた護衛の男が言った。

「イナ・サラミアスからの“絹の遣い”だ。」

「早いな。」門衛は険しい顔つきで物々しく言った。

 しかしオクトゥルは、この顔を忘れたか、と言わんばかりに睨みつけ、門衛はそれ以上の質問もせずにふたりを通した。

 門を入った通りの両脇には店舗を備えた煉瓦造りの小さな家々が立ち並び、宿と厩の取次ぎをする帳場に旅人らがつめかけ、さしもの門の広い間口を狭めていた。

「早く来い、置いていくぞ。」

 二クマラから同行していた荷車の護衛が振り返り、怒鳴った。ふたりは込み合う人々の間をかき分けるようにして、ふたつ先の辻を右に曲がって行く車を追った。

 賑やかな掛け声と足音、衣擦れ、火の熱気、様々に入り混じった匂いが鋭敏な若者の周りを包んだ。

 夕刻の通りには人が多く行き交っていた。沿道に並ぶ市にはもう畳み始めている店もあったが、野菜や穀類などの物売りが籠をまとめ車を牽いて引き上げる傍らで、魚売りはいよいよ声を張り上げて売り出しに精を出し、道具の修理、細工物や日用の小物の店は空に留まる夕刻の明るみと順次灯る屋台の明かりとの境にまだ粘っている。屋台は熱い食べ物やパンを売り、仕事を終えた職人や屋敷の雇い人、百姓の形をした者が買い求めていった。 

「集会でもあるんですか」

 若者は恐れをなして囁いた。

「いつもこうだ。大したことは無い、あの中にはもっとたくさんいる。」

 オクトゥルは露座の商い人や屋台の列の奥に()()()立ち並ぶ、灰色の小さな煉瓦造りの家々を指して言った。到底人が入っていられるものではあるまいと思える狭い二階家の張り出しにもたれて涼む女の姿があると思うと、暗い窓から覗く子供の顔もある。

「この辺りはカヤ・アーキに近いから人も多く集まる。だが、クノン・アクの向こう側は静かなものさ。」

 家々の列が途切れると、通りに開けた奥に泉と木陰のある石畳の丸い広場があり、憩う者の談笑や、家畜の取り引きをする者の声高なあるいは低くしぶとい掛け合い、馬のいななきや家畜の鳴き声が往来まで溢れていた。広場の向こうには石造りの城郭があり、上部の歩廊には見張りの姿がある。亡き王妃の兄、第三家(カヤ・アーキ)のアッカシュの屋敷だとオクトゥルは言った。

「静かなところがあるというなら行きたいものですよ。」

 若者は目先に行き交う車輪や人々の足、横切る家畜や家禽の群れに酔ったように呟いた。

 すれ違う人々、通り過ぎる人々の中で、ふたりの姿に目をとめたある者は避ける身振りをし、ある者は足を止めて物珍しそうに眺めた。微笑する者もいる。イーマだ、と囁く者もいる。子供などは数人で固まってしばらく付いてきた。

「小父さん、ロサルナシルの仲間かい?」尋ねる男の子に、「多分な」オクトゥルは面倒そうに言い、若者は子供が捉まえようとした外衣の裾を引き寄せて足を速めた。

「弓を見せてよ」

「けち!」

 口々に呼ばわるのにオクトゥルが何かからかいの言葉をかけようと振り返ると、家から顔を出した女達が子供たちを叱って呼び戻した。

「山からウヌマやイスマが出て来てさらっていくよ!」 

 子供たちは目が合うと身をくねらせて笑い、走り去った。そうしている間もいくつもの人の塊が広場から通りの向こうから流れてきて彼らを押しのけて行った。

 二クマラから一緒に来た車と護衛は二叉路に分かれたもうひとつの方を行ったものか、目の前から消え果てていた。オクトゥルは平気そうに言った。新門(タキリ・ソレ)から真っ直ぐ中郭の小門まで上った方が早かったのにな、だがここからは正中門に行くに決まっているよ、内郭に入るには中央門を通るんだから。

「何故、こんなに人が多いんです?」

 呟く若者を横合いに押しやって、揃いの仕着せを着た奉公人のひと群れが小路から流れ出て来た。通りの向いからは別の連れが来る。「早く行けよ」後ろから不機嫌な呟きが足音と同時に詰め寄る。オクトゥルは突然囁いた。

「いけない、もう門が閉まりかけているぞ」

 クノン・アクから続く通りの上り坂の上では正中門の開いていたもう片方の門扉がゆっくりと閉まり始めていた。城郭よりもなお高く遠いイネ・ドルナイルの肩越しの空にはまだ鮮やかな光線の名残がとどまっている。駆け出したオクトゥルとそれを追い抜く勢いの若者の後ろから横をすり抜けて車力の牽く空車が強引に回り込んだ。牽き棒の腕木が胴中に当たり、つんのめる若者の外衣の端を車輪の輻が絡め取った。

「とまれ、とまれ」オクトゥルは叫びながら遮二無二車力にむしゃぶりついて押しとどめようとした。倒れ掛かった身体の上に、片方の車輪が回転を妨げられながら引きずられ、跳ね上がって横断しようとしていた。

 車引きは突然、牽き棒を放しオクトゥルを突き放した。

「この野郎」

 オクトゥルはそこに居た者とぶつかり、構わず再度向かっていこうとする、と、後ろの者は彼を羽交い絞めにしずるずると後ろへと引きずっていく。

 城壁の脇の屋台でものを食っていた男達が声を聞いてこちらにやって来る。轢き殺されるのをやっとで逃れた彼の連れにやおら襲い掛かると、外衣の下に抱えている包みを奪い取り、一散にクノン・アクを横切って逃げ去った。

 城郭の南西の高台から日没を報せる鐘が鳴り響いた。街のそこかしこから閉門を告げる号令と門扉の軋みが鳴り、通りの家々は表の騒ぎを尻目に次々と戸を閉めた。だが、窓からはいくつもの顔がのぞいて成り行きを見守っている。オクトゥルを壁に押さえつけていた者は、絹を奪い去った者たちが舗装の割れ草生した旧市街のほうへと遠のくのを見ると手を緩めた。オクトゥルはそいつを振り切って、とうに小路に捨て置かれた荷車を乗り越え、襲撃者の後を追って行った若者を追いかけて走った。

 住民の少ない旧市街は古い燕の巣のごとき街だった。城壁の下と通りに面した数軒にのみまばらな灯火がともる。奥へ行くほど建物は長く連なり、屋根の落ち、がらんどうの窓の空いた壁の中から内庭から這って出た蔦や庭木の枝がところどころ小路を遮っている。通り沿いの戸口には筵の下りているものもあったが、助けを頼めそうな様子ではなかった。

 正中門から一町も走ると、街の中の廃れた広場で、五、六人の者が興奮して声高に騒ぎ立ち回っていた。

 襲撃者が逃げて見せたのがただイーマ達をおびき寄せるためだったのは明らかだった。彼らは広場のぐるりを押さえて追いかけてきた者を待ち伏せし、いたぶったあげく制裁を加えようと勇んで準備をしているところだった。ひとりが焚き付けを集め、近くの家から持ち出した炭火から火を起こそうとしていた。枯れ草を積んだ焚火のほむらが、オクトゥルを捉まえて壁に押し付けていた者と車引きの顔を照らし出した。他の者は中心に囲まれた若者を見、横ざまに左右に身体を揺らしながら、時折甲高い声を上げて逃げ、縦横に位置を代わった。

「偽物を燃やせ」雄叫びが上がった。

「偽物じゃない―――」

 怒りと恐怖に喘ぎながら追いすがる若者を挑発するように輪が縮まり、腕の下からかいくぐった手が、その背後の手へとひょいと投げ、嘲笑しながら呼ばわり差し上げた手へと、また包みが飛ぶ。

「王の命だ」

「なに!」オクトゥルはかっとして怒鳴り、男達の間に飛び込んだ。「シギル王が絹を焼けと?」

「王に成り代わり“絹の遣い”の(かた)りを懲らしめるのだ。」

 受け止めた者が焚き火のすぐ脇の礎石の上に上がり、手の内で少し弄んでふいと高く放り上げた。緩んだ片側から解けた反物の端が薄墨の空に白く尾を引き、艶やかな渦をまいて男の手の内に落ちてきた。横合いから他の男が棒杭を出してその先端で火の上に手繰り寄せようと待ち構えた。

 顔面が熱くなり、全身に震えが走った。自分に絹を差し出した織女の歪んだ指、感情の無い厳めしい面が目交に浮かんだ。一冬の民の糧を贖うのよ―――妻の声が耳に聞こえる―――男のあんたは見た事がある、あのたくさんの蚕を?ティスナに暮らしていた小さい頃にだって…。

「誰か来てくれ!」オクトゥルは手を伸ばしながら虚しく叫んだ。

 まだ()られていない、と知覚できる瞬間とはこれほど長く苦しいのか―――。

 城壁の上からごく聞きなれた弦の音が鳴った。彼の目の前で絹を振りかざしていた男の上着の脇腹と袖とを、長い矢柄が貫き肘の動きを封じた。

 ぽろりと落ちる反物を飛びついて懐に庇い、オクトゥルは火の傍に倒れ込んだ。彼のおこした風が炎と灰とを巻き上げる中、オクトゥルは周囲でばらばらと敵意の声が上がり、それに応えるように、すぐ上の柴葺きの屋根、板の庇、崩れた剥き出しの煉瓦壁へと変わり下ってくる柔らかな音を聞いた。

「助けてくれ!」

 オクトゥルは上を見ようともがきながら叫んだ。矢で袖を縫い留められた男が覆いかぶさり、膝で彼の脇腹を蹴り続けていた。

 壁の上の者は逡巡するように足を止めた。男達が順に身をすくめる。オクトゥルには弓矢の先の描く軌跡が見えるようだった。息を殺す一同の耳に、城郭の内側の通りを近づいて来る複数の騎馬の蹄の音が響いてきた。騎馬の音は城壁に沿って門の方へと移動してきている。蹄の音が近づくにつれて、乗り手の装具が鳴らす音が入り混じる。男達は得たりとばかり囁きかわした。連れの若者は彼らに捉まえられているらしい。

 上にいる者は弓を控え、男達はどよめきかけた。若者は小さく短い声をあげたが、空を切った礫を喰らって後ろに倒れたのは彼ではなかった。自由になった若者は次の瞬間、猛然と男のひとりに飛びかかっていた。

 オクトゥルは上に乗った者から逃れ出ようと必死だった。この瞬間、全員が自分の庇っている物を奪いに来るのを悟った。若者は彼を助けようとふたりと揉みあっている。彼は突っ伏したまま三(たび)叫んだ。

「助けて!絹を…」

 しゅっと軽い風を切る音が頭上の空を巻いてすり抜け、のしかかる者が身をすくませた。

 彼の前に飛び降りた人影がかがみ、彼の脇をつかむとするりと懐から絹を抜き取り、通りに抜ける小路へと走り去った。

「追え」

「いや、無駄だ」

 男達が言い、茫然と立ち尽くすのを聞いてオクトゥルはにやりと口を歪めた。その途端、ひと際大きな一撃を喰らった。

「この野郎」彼と連れとが仲間の手によって、とうに火の消えた焚火の横に引きすえられたのを見ると袖を射抜かれた男は腹立たしげにようやく引き抜いた矢をひねりまわした。

「こいつでくすぐってあいつを呼ばせてやろうか。」

「へえ、誰だよ?」オクトゥルは言い返した。「顔を見ていない者を呼べるかい」

 却ってむかっ腹をたてて彼は言いつのった。「そいつは()()()()の一味でもないのかね?ご挨拶もなしに人の懐から取って行きやがって」

 正中門の開く音がクノン・アクの通りから微かに響いた。男達はこそこそと囁いた。

「首領に渡すか?」

「証拠がない。奴も逃げた」

「お役人!」すかさずオクトゥルはわめいた。「曲者だ、追剥だ、災難だ!」

 騎馬の音は絶えていたが、やがて石畳を踏む足音が近づいていた。革鎧を打つ小枝の音が足音の主が向かう方向を報せた。イーマ達と彼らを捕えている男達はどちらとも固唾を飲んでこちらにやって来る者を待った。

 クノン・アクの通りからの狭い小路から広場に入って来たのは大きな体格のふたり連れの男だった。衛兵や役人ではなかった。革鎧の上に纏っているのは役職や家名を示す胴着ではなく、黒っぽいマントだった。先に立っている男は、まだ秋の初めというのにすっぽりと頭巾を被っている。男が近寄って来るとそれが覆面だということに気付いてオクトゥルは鼻を鳴らした。顔も出せない奴に話せる奴がいるものか。

「お頭」オクトゥルを捕まえていた男が機嫌を取るように声を掛けた。

「絹の遣いを騙る奴を捕まえた。お上に逆らう者だ。誅伐してやりましょう」

 覆面の男は無視をして近づいて来、囚われているふたりを見ると、連れを振り返って低い声で言った。

「見ろ、ヨレイルか?」

 連れの男は手を伸ばしてオクトゥルの顎をつかもうとした。オクトゥルは自ら顔を上げて男を睨み返した。

「これは生粋の奴だ。」男は、イーマ達を捕えている者たちの顔ぶれを冷ややかに検分している覆面の男に振り返って言った。

「なら、放してやれ。」覆面の男は命じた。「悪戯の度を越すとお前たちこそ反逆者だ。」

「おれはトゥルカン様にお仕えしているぜ」

 若者を捕まえたまま矢をいじくっていたひとりの男が心外そうに文句を言った。

「おれと同様にな。」覆面の男は矢をひったくると鏃から矢羽根に至るまで眺めた。

「下手な事をして主の邪魔をするな。」

「本物だぜ。あいつの仲間だろう?褒美は―――」

 覆面の男はぴたりと手を止め振り返った。男が怯んで言いよどむのを蔑むように見やると、軽く手先を振った。

 男達はイーマ達を放して、覆面の男の身振りに従って後方へ少し離れた。

「来い」

 もうひとりの男がふたりを促した。

「門の内まで一緒に来い。離れると連中から守ってやれないからな。」

 オクトゥルは若者を促し、足早にマントの影を追った。小枝の枝垂れた小路、まばらにあばら家の建ち並ぶ通りと、石畳の上をついて行くイーマ達は完全に男達の足音に紛れ、少しも物音を立てず、夜風ほどの気配をも消していたが、先を行く男達はついて来ている者を気に掛ける様子は無かった。

 正中門は少し開いて灯籠の明かりが漏れていた。門の内には男達の乗馬の他にもう一騎が待っていた。門扉の内に入ると覆面の男は振り返って、オクトゥルと若者を順に捉まえて他の者に引き渡した。

「身体検査をしろ」

 部下の者たちが順にふたりを門脇の壁に押し付け、外衣を剥ぎ取り、帯につけた物入れと短刀を外し、上衣の襟の合わせ、袖、籠手、脚絆の内を調べ、前から後ろと身体の向きを変えて全身を探って調べた。

「物は無いようだ。」部下は覆面の男に言った。

「絹を調べる時はな、身体に巻いていないか見るんだよ。」オクトゥルは毒づいた。「上衣は脱がなくていいのかい?」上衣の下の胴巻の中には王女に献上する撚糸がある。

 男は答えずに、横柄に外したものを身に着けるようにと命じた。男が返したものの中には三つの郷の絹の鑑定証もあった。

「あんたの仲間が盗ろうとしたくせに。」オクトゥルは言った。

 覆面の男は彼に顔を向けた。白く光る淡い色の眉が眉間で繋がり、深く切り下がったその奥に淡い青い色が光った。

 オクトゥルはちょっと身を震わせた。肌の白い人々の赤みがかった髪や薄い目の色には長年の間に見慣れていた。だが、こんな色は初めてだな。だいぶん前になるが、サコティーは何ていっていたかな?そうだ“黄金果の競技”の後で―――そんな男がいるものかと思ったものだったが。

「王の命により」

 覆面の男は皮肉な声で言い、顎をしゃくった。部下の者たちはふたりを通りに押し出して解放した。

 後ろの門番の詰所の戸を叩く音がし、微かな軋みと石畳に投げられる小袋の中で金子の籠ったさざめきが聞こえた。

 オクトゥルは呆然としている若者の腕を取り、背後でじっと見送っている青い目を感じながら人気のない石畳の大通りを歩きだした。今さらのように膝が笑い、もどかしいほどに身体が前に進まない。

 三十間ほども歩いたと思えた時、オクトゥルはそっと後ろを盗み見た。覆面の男はまだこちらを向いている。オクトゥルは若者を急かして少しずつ左へと湾曲して緩い上り坂になっていく道を急いだ。

 一町も行くと、通りの両脇には裕福な商人や役人の立派な構えの家が数軒並び、門灯が通りに淡く明かりを落としていた。用をするために出入りする使用人の姿もある。通りに面した邸は果樹などが植わった庭を備え、低い煉瓦塀で囲った地所の向こうで、通りは横合いを貫く道と交差していた。もう一町も真っ直ぐに行けば上の郭に通じる中央門だ。門の両脇に灯された灯りが見える。

 オクトゥルは大息をつき、若者は辻の脇に倒れ込んだ。後にした正中門から三騎の蹄の音がとくとくと石畳を響かせて近づいて来、辻の木陰へと身を伏せるふたりを尻目に騎馬は通りを右へと曲がり、さらに馬足を速めて去って行った。若者は木の根元に座り込み、外衣で覆った両膝の中に顔を埋めた。オクトゥルは同じ幹に背をつけ、蹄の音がすっかり消えてしまい、足元の草の間から虫の音が上りはじめるまで動かなかった。

「中央門はちゃんとしているはずだ。絹の遣いを通してくれる。」

 オクトゥルは精魂尽きたといった様子の若者を促すように言い、応えが無いのを見て頭を掻き、次いで顔を撫で両腕をさすった。

「お前、見たか?」

 若者は頷いた。

()()()だったか?」

 若者は顔をこちらに向け捨て鉢な調子で言った。

「姿は確かにそう見えたが、暗くて顔を見たわけじゃない。もしそうだとしても絹を奪って行ったのも彼だ。味方だと思ったのに。」

 オクトゥルは辺りを見回した。交差する左右の通りは広く舗装されて小綺麗な家が立ち並び、縁石で囲われた植え込みの木々は小さく刈り込まれ、月明かりでもほとんど二町も先まで見渡せる。夜の見回りに歩いてるらしい灯りが揺れている。

 オクトゥルは若者を叱りつけて立たせると真っ直ぐに中央門に向かった。門扉はぴたりと閉ざされていたが左の扉の中に備えられた小さな戸を叩くと内側から格子のはまった小窓が開き、門衛が応えた。

「イナ・サラミアスから参った絹の遣いだ。内郭への立ち入りを許されたい。」

「絹の遣いならば世話役の領主の署名が三つ揃った書付を持っているはず。」

 オクトゥルはコセーナで渡され、エフトプ、二クマラの署名が連なった羊皮紙の鑑定証を懐から取りだし、広げて見せた。小窓の内からは明かりが漏れている。

 小さい通用口の戸が開き、灯籠がいくつも掲げられた明かりの中に、オクトゥルと若者はむしろ急かされて引き入れられた。

「そうだ、このふたりでさ」甲高い声が門の脇の陰から叫んだ。「二クマラからずっと警護していたのに新門(タキリ・ソレ)ではぐれてしまったのは。」

 灯籠を掲げる衛兵たちの一隊が門の内に並び、ふたりを取り囲んだ。門衛の番小屋の前に、旅の形のままのニクマラの護衛が憔悴した体で立っていた。彼の声を聞いて兵たちの間から出て来たのは王家の紋の上衣を纏った大蔵所の役人だった。

「確かに絹の遣いか?」

 役人は尋ねた。二クマラの護衛は不機嫌に言った。「私は主からそう言い遣って守って来たんだ。証拠は本人たちが持っている。旦那に渡した以上、私はここでもうお役御免にしてもらいたいものだ。」

 役人はイーマ達に振り返った。オクトゥルはすかさず言った。

「私は長年この役を務めてきた。案内役なら一度ならずこの面相に見覚えがあるはず。だが、そうでなくとも三つの領主の印を押した証書はここにある。」

「絹の遣いの出迎えを任じられるのは初めてだ。」役人は素っ気なく応えると、二クマラの護衛を解放し、イーマ達について来るように言った。

「王の命により」

「たくさんだ。」オクトゥルは呟いた。

「イナ・サラミアスの遣いの方々、宮中まで案内申し上げる。」

 役人は衛兵らに合図を送り、静かに左右から寄って来た王の紋を押した革鎧の兵はイーマらを中にして彼らを灯籠の光の輪の中に封じ込めた。風に揺れる火影と煙を吐く灯火は、ほのかに街の輪郭を見せていた月明かりをさえ押しやり、眼前に延々と広がる夜闇の中を一行は進んだ。

挿絵(By みてみん)

 内郭は、中央門から入った左側の区域には施療院や施薬所、王家の抱える家臣や直属の職人の家々が多く集まり、右側の区域には宰相トゥルカンの邸と彼が贔屓にする職人や商人、家臣、奉公人の住まいが集まっている。その間を貫く中央通りは、昼間ならば真新しくこじんまりと整った家並みと闊達な人の往来の様子が見られるものを、今は静まりかえり、傍らを過ぎて目に映るものはみな命無き石の建造物だった。人影ひとつ、さまよう生き物の姿ひとつなかった。大きな通りと交差する辻を二度越すと通りは左手へと大きく曲がり、整えられた緑地へと入って行く。その頃には右手に高く主郭の城壁が聳え、高い矢狭間から歩哨のものと思われる灯りが明滅しているのが見える。

 オクトゥルは左右の兵らの注意を引かないように気をつけながら、通り過ぎる物陰ごとにそっと目をやったが、やがて予測を裏付けるものを見出す淡い期待を捨て、本当にこのまま空手で王の眼前まで連れて行かれたならば自分はどう振舞ったものかと思案し始めた。

 中央門から主郭の門にたどりつくまで小半時と無かった。中央通りは門前の通り、両側に青々と葉を茂らせた若い樹木に伴われ、石畳と苔が斑を織りなすロノ・ニーミアと出会い、城門の前で終わった。案内の者は一行を待たせ、門衛に命じ、通用門を開けさせた。

 門の内には小柄な男がひとり待ち構えていた。大蔵所の宝物庫の管理をする者としてオクトゥルとは絹の引き渡しの折に何度か顔を合わせている者だった。男は役人に付き添われたイーマ達を見ると会釈をした。

「お待ち申し上げておりました。主君のもとに案内いたします。」

 わずかな護衛を残して衛兵の群れはさっと門の前から引き揚げていった。案内の男について歩きはじめたふたりの後ろからふっと灯りの翳りがよぎり、ややあって静かに通用口の閉まる音がした。

「道中にはつつがなく…」男は尋ねるともなく呟いたが、オクトゥルは背後に耳をすませ、答えなかった。

 堅固な城壁の内には清閑な前庭があり、中心を貫く通路の両側には、柱廊を備えた優美な宮殿が長い翼のような弧をなして闇の中に両端を浸して静まっている。両翼を繋ぐ迫持ちの内部は吊るされた灯火に照らされ、その下をくぐり抜けると中庭へと導かれ、正面に位置するのが正殿であり王の住居であった。

 入り口に常夜灯を灯し、交代の夜番が守る暗い広間の側廊を左へと行くと灯りのともった室があり、その前に控えていた近侍の者が彼らを中に取り次ごうとした。

「待て」オクトゥルはそこに立ったまま声を張った。

「私はアツセワナの城内に入ってから再三、()の命によりという掛け声のもとにかしこの門へと連れてゆかれ、尋問を受けた。国の仲を取り持つ絹の運び役ゆえ、その安全を図るための方策に従うのは致し方ない。しかし、品定めの場にはこちらにも一言ある。通例によると、絹の検分は王御自らが白日の光のもと行い、臣下、商人にその価値を保証するもの。このようなか細い灯りのもと密室でなされるものではない。」

 小柄な男はとりなすように言った。

「今宵はもう遅いゆえ、ここで品をお預かりした上で客人にはお寛ぎいただき、明朝にも正式に受納の運びとなりましょう。」

 戸口の近侍は室内の主を慮るように声を低めて言った。

「貴国の申し入れを容れてのことだ。」

「然ればこそこのような半闇の中では渡せぬ。」

 息を殺している連れの若者を尻目に、オクトゥルはさも外衣の胸の下にものを隠しているらしく腕を組んだ。

 低い笑い声がして戸口の壁に映る火影に大きな影が重なった。

「品は確かに預かりおく。ものがまさしくそれならば。」朗々たる声が室の奥から響いた。

 オクトゥルは習慣づいた緊張に身がすくみあがるのを覚えながら気丈に言い切った。

「相手がまさしく王と存じ上げるなら懐の内を預けもしようが。」

 灯火が一旦翳り揺らぐと見えて近づき、それが灯る燭台を手にした厳めしい王の顔をくっきりと照らし出して戸口から現れた。

 服装は日頃の好みの通り簡素ながら、家紋を模った上衣をまとい、白髪混じりの濃い髪の上には熟れた麦の穂を編んだ冠を戴いている。オクトゥルは次第に腕がほどけて下がり、頭が項垂れるのをこらえきれなかった。その瞼を伏せる前にオクトゥルの目に映った王は眉を少し上げて親しげな灰色の瞳を見せた。

「シギルと見知るなら求めに応じよ、友よ。」

 オクトゥルはその場に跪いた。

「王、お許しください。絹は―――」

 説明するももどかしく外衣を脱ぎ、その下に何も荷を所持していないことを示した。横にいた若者はすぐさま彼に倣い、健気にも彼に代わって事の次第を説明しようとした。

 しかし、王は姿勢を変えずただふたりの背後に目をやった。顎を上げ、何かを促すように微かに首を振った。

「絹はここにあります。」

 若い、良く知った男の声がした。柔らかな足音と外衣のおこす青草の香の微風が彼の横を通り、黙って手を差し出した王に巻きの緩く膨らんだ絹の反物を渡した。

 オクトゥルと若者とはそこに両膝をついたまま、王が絹の運び手が入れ替わった訳を追及し、そこに現われた者が王に応えるのを聞いた。

「ご命令にことよせて取締りを騙る者があるのです。」

 若い男は真っ直ぐに王の前に立ち、低く囁くように言った。

「私にこの任を賜ったお心がご存知のはず。狼藉者のほとんどは夏から騒ぎを起こしている者と同じです。しかし―――」その声は一瞬イーマ達の上をよぎった。「彼らを狙う者はひと所から出たものではありません。動機も様々…」

 男が一層声を低め、オクトゥルの耳にさえ、言葉をなす音の半ばが聞こえるだけだった。が、王はむしろ語気強く問い返した。

 して、彼らの主は?動機とは?お前は知っていて王に言えぬというのか。王の手に負えぬ事を己ひとりで始末する所存か?

 若者は口を結び、厳しい叱責に耐えているかに見えるが、その眼差しは王に向けられてはいても己の内の思念を矯めつ眇めつしている。

 昔のとおりだ。ラシースが言わないと決めたら相手が誰であろうと関係ない。ただ、奴はそれを決めるのにいつもちょっと間が悪いんだ。その先から言わない方がましだったことに気付くのが遅すぎる。

 王は問い詰める口調ほどには相手の答えを期待してはいなかったようだ。言葉短かに何事か命じると若者は踵を返して柱廊の奥へと音も無く去った。シギル王はイーマ達に立つように促すとオクトゥルの手に絹の反物を返した。

「要らぬ心労をかけたな。アー・ガラートの忠告を受けて市中に出回る絹のまがい物を取り締まっているのだ。そうと知らずに買ってしまった者もいる。代わりのものと交換できる場を設けはしたが民は咎められる怖さが先に立ってか、偽物を隠そうとし、そのために厄介ごとがまた増える。さ、客室に案内させるゆえ、ゆっくりとくつろいでくれ。これは明日の鑑査まで手元に置いておくがいい。私は長年絹を見てきた。手に置かれただけでこれが本物かどうかは分かる。」


 王の室から中庭を巡る回廊でつながった棟の一室が“絹の遣い”に用意された室だった。室内には既に火が焚かれ、飲み物と食べ物が卓上に用意されていた。オクトゥルは奥の長い鎧戸のついた窓を開けた。裏側の奥の殿との間の庭に面している。初秋の風は程よく炉の熱気と混じって心地よく、使われることの少ない古い石造りの室の澱みを和らげた。ニクマラに造らせたようなイーマの住まいに似せた六角形の宿舎をシギル王の宮殿は持たなかったが、広い庭には種々の樹木が育ち、城市の壁の内に入ってからずっとかしこに籠っていた街の匂いを遠ざけていた。

 オクトゥルは若者を促して炉の火で羊の肉を炙りなおし、酵母で膨らませたパンを切り取り、その上に肉と添えられた酢を載せると、果物と酒の杯を窓辺に腰掛けた傍らに置き、夜気の中に草木の香を嗅ぎながらアツセワナの食物で渇きと飢えをなだめた。

 案内人が灯りをつけて立ち去った後で、静まっていた庭の草むらから徐々に虫の音が湧き上がった。オクトゥルは、しばらくその音色に耳を傾け楽しんでいたが、順繰りに黙してはまた鳴きはじめる音色の波のうねりが窓の外まで密かに寄せて来、一時ぴたりとなりを潜めたと聞き取るや、

「よう」

 外を覗いて声をかけた。

「友達の顔を忘れたかと思ったぞ。」

 槻の木の幹から影が分かれ、秋草の茂みを跳んで窓の外に立った。オクトゥルは明かりを遮る自分の影を避けて下がった。

「まだ任務がある。」ひと言の挨拶もなく旧知の男は口を切った。

「なんだと」オクトゥルは腹を立てて言った。「なら、何故顔を出した?謝るか、せめて言い訳でもしたらどうだ。」

「すまない」

 だいぶん言いよどんでからラシースは言った。誰もこいつに謝ることを教えなかったから当然だ。きっとこいつは口にするときさえ何故詫びる相手がいつもおれなのか不思議に思っているに違いない。

 オクトゥルは窓から離れて手招いたが、ラシースは鎧戸の内に身を滑り込ませて窓枠に沿うように掛け、室には入らなかった。

「コセーナにいないと思ったら、晴れて王の御家来という訳だ。」

 食い残した残りを置いた卓の端に腰掛けて、オクトゥルはアツセワナの街中で聞き覚えた口調でちょっと冷やかした。相手は誰のことやらと言ったふうだ。おやおや、言い訳をする奴の糸口をこちらがつけてやらなきゃならんようだな!

「お前が郷里(くに)を出る前からおれは“絹の遣い”を務めている。」オクトゥルは道中を思い返しながら言った。

「今年の出立が早かったのは本当だ。そのことでは宿役のご領主たちを驚かせもしたろう。だが、時季が違うだけでは合点の行かないことが多い―――」

 人々のよそよそしい様子、強引に変えられる旅程、風に混じる匂い…。目の前で閉められる門―――。

 オクトゥルが次々に思い起こせる屈辱にむっつりと口を閉ざす横で、ラシースは夜風に促されたとでもいうように、低い穏やかな声で間断なく話し始めた。

「僕には家来というものがわからない。王もそのつもりではないと思う。ただ、コセーナを訪れたトゥルド殿が領主から僕を預かりアツセワナに連れてきて王に引き合わせ、その命に従い懸命に仕えよと言われた。それで僕は王自身が任を解かないうちはコセーナであれどこであれ勝手に行くわけにはいかないんだ。」

「王の命か!」堰を切ったようにオクトゥルはまくしたてた。

「今日は()()()とやらにかこつけて、誰彼なくおれ達を引き回すやら閉じ込めるやらする。けっこうな前からおれ達をつけていたんだろう?お前がとっくり見てたことを話してもらおうじゃないか。あの覆面で馬に乗った偉い奴もお前さんの仲間なんだろうよ、王の命によって仕えているんだからな。」

 少し言い過ぎたぞ、ラシースの目が大きく見開き次いでふっと曇った眉の陰で鋭く光るのを見てオクトゥルは内心離れておいて良かったと思った。相手の姿の全貌を視野に収めている方が互いに冷静になれる。ラシースは身体の向きを変え両脚を内側に下ろすと、何事もなかったかのように続けた。

「夏の頃から夜の市中にならず者が出るようになったので、王は日没には門を閉じ、衛兵を巡回にさしむけて街の平穏を図っている。日没の鐘を合図に、市内の門はもちろん宿屋を別として店、屋敷の門口は全て閉じられる。中央門の鐘楼に鐘撞と共に上がって正門(タキリ・アク)との間の通りを見張るのは、王から任じられた僕の務めだ。

「何を見張るか?王の他に宰相トゥルカン殿、第三家(カヤ・アーキ)のアッカシュ殿、その他市中の大きな商家などがそれぞれ見回りを出している。ひとつには彼らが夜目を見誤って互いに諍いをはじめないように見張り、境界を超えることがあれば通達し、兵を向かわせるよう要請することだ。もうひとつは見回りを装って騒ぎを起こす者を突き止めること。彼らの身分、職はさまざまだ。昼は相応に働き、その晩の機嫌や酒の具合で夜の彷徨を企て騒ぎに加わることもある。」

 オクトゥルは連れの若者を見やった。先ほどから憮然と椅子に掛け、膝の間に組んだ両手を預けて聞いている。

「君たちを正中門の前で襲ったのはこの類のものだ。」ラシースは少し気遣うように若者に目をやった。  

「ガラートの申し入れを受けて王は市中の絹の売買を厳しく取り締まった。それまで絹として通っていた物が偽物とされ取り上げられ、始末される。これを恨みに思うものが王の役人を騙って乱暴を働く―――王に対する反感を煽るためだ。

「イナ・サラミアスの“絹の遣い”が例年よりも早く訪れたという報告は、少し前に王のもとに届いていた。王は必ず“絹の遣い”の安全を守り、王の前まで送り届けよ、と命じた。君たちがタキリ・ソレから入るだろうという察しはついていた。ただ、思っていたより一日早かったんだ。それでその日も時間通り全ての門が閉められるという命令に変更は無かった。だが、日没の少し前、僕はいつもと様子が違う事に気付いた。ひとつは街の子供たちが歌う声だった。農場で働くヨレイルの子供たちが歌うのを街の子も真似をする―――イーマを見かけると」

「そうかい、好かれているじゃないか」オクトゥルは目を眇めて唸った。

「それが新門(タキリ・ソレ)からロノ・クロに沿って正門(タキリ・アク)に移って行った。そして旧市街(アクス・タ・コエ)の方を見やると早々と店は閉まり、家々も表を閉ざしていた。」

 薄暮の空の下に聞いた幼い声の余韻から城郭の内に濃くなりゆく陰へと、その目は辿った。

「残念だが、そのいくらかの住民は昼間の堅い仕事とは違う用事を持っている。鐘撞が門に上がる前に僕は下の郭に行った。城壁に登れば裏通りを通じて連絡しあう彼らの行き来を覗けるところがある―――彼らがいつものとおり仲間を集めに行くのが見えたので、王の衛兵に報せた。」

「奴らはお前を知っているようだった。つまり連中との小競り合いは珍しくないという訳だ。なのに何故、いっぺんに奴らを捕まえてしまわないんだ?」

 腹立ちを思い出してオクトゥルは言った。

「僕には王の兵たちに命令する権限は無い。王に報せ命を受けるのは衛兵の隊長だ。騒ぎを起こす者たちは彼ら自身が気付かぬほどに変わり身なんだ。捕まえてみたところでどこに非があるとも言い難い。それにとても数が多い―――」

「それで、絹は救い出してくれたが、おれ達を殺すかもしれない奴らの手に残したまま、お前が助けを呼べないまま姿を消さなけりゃならないというのはどういうわけなんだ?」

 貧乏蔓でも手繰るようなあんばいに次から次へと繰り言が出てくる。

「そりゃ、殺されはしなかったがな―――あの覆面の男が来て、放せと命令したからだ。あの騎士も王の命で市中を巡視しているのか?」オクトゥルは言い、ちょっと考えなおした。「いや、トゥルカンの仕え人と言っていたか。それにしては紋章もつけず―――気味の悪い奴だな。」

 正中門の身体検査から放免された後に石畳に鳴り響いた金子の音を思い出し、身震いした。

「門番を買収しているようだった。だが役目をみるところ、お前と似たり寄ったりだな!あいつの手に預けられて無事だったのだし。」

「静かにしてくれ」

 牽制するように言い、ラシースは背を窓際に回して外の闇に目をやり、眉を寄せ口を結んだ。素早く、しかし真剣に考えているようだ。王の前にいた時よりもその面を繕う守りは脆い。

 どうだ、忠誠を捧げる主よりも昔馴染みのおれのほうに考えを話したい虫が動いているようだぞ。

「グリュマナ―――」

 猛々しい青い目。覆面の陰にほんの一瞬見えたその色を言い当てられ、オクトゥルはラシースを見返した。それはそのままあの男の通り名でもあるようだ。

「あの男の探しているものは違う。絹ではない。だから君たちを調べた後で放した。僕も疑われているが―――」

「何をだよ。」

 ラシースは応えずに手を襟元にやると、何かを探りちょっと指にからげてみて戻した。子供の頃から下げている護符だ。女の子でもあるまいし、考え事をするのに何かをいじらなくちゃならんか?

「絹でないなら何だ、金、銀か?お門違いもいいところだな。トゥルカンが探させているなら」

 軽口のように言いかけてオクトゥルは言葉を飲んだ。まったく見当外れとも言えない。それどころか冗談ではすまない話だ、トゥルカンが、シギルを訪ねてゆくイーマがベレ・イナが産した鉱石を懐に忍ばせているかもしれないと疑っているとしたら。騙して搾り取る相手と、二股をかけた腹黒い裏切り者と、どちらと思われるのがより酷いことになることか!

「グリュマナの主はトゥルカンでもアガムンでもない。サザールだ」

 ラシースは友達に付き合って口を滑らせた(てい)に言い、全く昔のとおりの謎めかした目でじっと見返した。

「誰だ、それは?」

「明日、君たちは正式に広間で絹の鑑査を受け、鋼と交換をするだろう?僕はその場には入れないが、王自身が検めるほか、より厳しい審査の基となる絹を見に宰相のほか彼の腹心、そして彼に近しい領主たちが立ち会う。この度の王の令によって最も痛手を被るのがトゥルカンであるためだ―――王が警戒し、牽制せねばならない者たちこそが明日の立会人だ。その中にサザールもいる。」

 ラシースはそう言うと身体を回して窓から外へと下りた。

「引きとめて悪かったな。」

 オクトゥルは声を和らげて言った。この気位の高い唐変木から言い訳は聞き出したが、彼が人目を避けて訪ねて来た訳を聞いていなかった。ラシースは辺りを気にするふうをして目を逸らしながら素早く尋ねた。

「皆は変わりない?」

「ああ、ハルイーは元気だ。」オクトゥルはすぐに答えた。「ハルイルはこの春亡くなったけれどな。アーキヌイ、アーサタフは去年亡くなった。そうそう、ルメイも。覚えているかい、ティスナの上に住んでいたあの怖いコーナを。」

「ああ」虚を突かれたようにややあって声が応えた。

「いちどきに代替わりをしてヤールもガラートも今では長だ。」

 この新しい報せの中には芳しくない内実もあるが、故郷を出た者にはもう関係の無い話だ。まして多少とも新しい長たちの諍いの元になった者、そして今では最も弱点を知られてはならないアツセワナの王に仕える者でもあるからな―――オクトゥルは話題を早々に移した。

「そういえば、ガラートからお前に伝言があったよ。こう―――」

 これも思えばわざわざ相手に言うには酷い話だ。本人が一番分かっているものを。もちろんガラートは面目のために強がってそう言ったんだ、そんなつまらないことよりも、もっと身内らしい、当たり障りの無いことを…。黙って言葉を待つ若者にオクトゥルは年上らしく言った。

「新しい主に良く仕えろ。それにいいかげん、おふくろが着せた外衣よりもいいのを用意してくれる娘を見つけて身を固めろ、ってな。」

 ラシースは明かりを避けるようにさっと一歩下がった。

「それでまだどこを見て回るのかね?」

「護衛を命ぜられている―――気付かれぬように」

 目の前で油を売っていて気付かれぬようにもないもんだ―――言い返そうとしてオクトゥルはその眼差しがふっと左へと流れたのを見た。奥の殿は庭の闇に紛れて静まっているが、オクトゥルは、部屋に案内される時に渡った回廊から覗いたその上階の一画に灯りが灯っているのを目にしていた。

「王女か?」

 驚きつつ連れを慮って声を潜めるオクトゥルに応える間もなく、ラシースは窓辺から壁を縫うように闇の中に溶け入り、姿を消した。


 絹と鉄の交換は翌日の午後、王宮の広間にて行われた。

 客室に食事を運んできた少年は、王に目通りかなうのはいつごろかと尋ねるオクトゥルに、世間話でもするように気軽に答えた。

 王は開門と同時に城内の各所の報告や市民の謁見に応じられる。だいたい一時もたつと休憩され、城内の見回りを兼ねた軽い散策をされるが、今日の見通しでは午後の交換の式にあわせて着換えあそばし、先んじてお越しになる宰相ならびに殿方を迎えられる見通しだ。

「宰相に殿方だと?これまで宰相殿が立ち会われたことなど三に一もなかったじゃないか」

 オクトゥルはもう少し聞き出すために驚いたふりをした。

「大勢来ていますよ。」少年は籠に残ったものを合切詰め込みながらながら言った。

「出仕のお役人や家来衆が来るよりも前に門前に着いて待っておられましたからね。」そして肩をすくめた。「もし外の空気など吸いたければ回廊の外の庭においでなさい。」 

 昼頃には謁見に訪れていた人々の気配は一旦引き、広間を整える使用人たちの密やかな慌ただしい出入りがしばし続いた。やがて物々しい静けさに包まれた正殿に向かい、石畳を渡る粛々とした足音をイーマの鋭い耳は捉えた。まもなく先の少年が、朝とは全く違う面持ちでやって来て“絹の遣い”の案内に立ち、広間へといざなった。

 広間の入り口で少年は“絹の遣い”の到着を告げ、少し声高に廊下から入り口辺りにかけて詰めかけている見物人に通り道を開けるように促した。そこに居て物珍しげに中を覗き、触れを耳にして振り返る群れは城内の通りを用事で歩いているような普段着の者たちだった。少年が入口を押しのけるように通るとその先は、六人の衛兵が群れを左右に分けて立ち、真っ直ぐ奥の王座へと向かう通路を守っている。見物人が許されぬ広間の奥は、絹と鉄との交換の場であり、献上と受納の式に立ち会う鑑査役の者と賓客とが並んでいた。

 遣いを通すため敷物をした路を中にして右の方には城内に店を持つ富裕の商人、その(かみ)には第三家、第五家、イビスの領主、そして王座のある上段の右に宰相トゥルカンが座している。

 対して左の方には大蔵所の三人の役人が絹の鑑査役として座し、その後方に御用の鍛冶師が控えている。

 交換の式に立ち会う者は通常よりもはるかに多い。王の臨席するところ必ず現れるというトゥルカンも、近年は内心の侮りからきた怠慢か己の商売に腐心していたゆえか、イーマとの交渉の場に顔を出すことは稀だったというのに。ラシースが言っていたように、これも絹の格を上げ、取締りを厳しくした故なのか。多いといえば、領主らの従者と見える者たちまで奥の列柱の陰に並んでいる。

 中でも筆頭にいる奴、いい体格だな。隣にいるのが椅子に掛けた小柄な老人だから余計に目立つ。もしもあの深い眼窩の奥の目の色が見えるものなら―――。

 オクトゥルは掌に汗をかいてきた。敷物に足を取られてか彼の傍らで若者がつまづき、辛くも手にした反物を抱えなおした。

「山の者は平らなところが不得手とみえる」領主らの席から意地の悪い囁きが漏れた。

「おれに貸せ。後ろに付いて来ればいい。」オクトゥルは足を止め、田舎者らしく恐れ入ってお辞儀をするふりをして若者に囁いた。それから品を引き受けると別人のようにまっすぐに顔を上げた。

 王は長衣の上に前夜と同じ紋を縫い取った上衣をまとい、今度は麦の穂ではなく、麦の穂を模った黄金の冠を戴いていた。肩から袈裟懸けにした紗の領巾が天井の明り取りからのわずかな光をとらえてきらめいている。王の傍らには白い絹の長衣をまとった、すらりと背の高い若い女が佇んでいた。

 オクトゥルは速やかに進み出、王座の正面の台に証書と反物、撚糸を献じ、数歩下がって跪いた。

「アー・ガラートの命を受け参りました。以下が(アー)より託された言葉でございます―――アツセワナの友、王シギルにイナ・サラミアスの変わらぬ誠を誓言し、蚕糸を献上する。また富の交換を願い絹一反を呈する―――宿役三方の証書とともにお確かめのうえお納めください。」

 王は眼差しを正面に据えたまま口辺に微笑を浮かべて言った。

「姫、緑郷の友情の絹だ。受納せよ。」

 王の傍らの若い女が壇を下り、会釈をして撚糸を手に取った。

「謹んで受領いたします。」

 王女が傍らに戻ると王は右を見やって手を振った。

「証書の印を検め、品を審査せよ。」

 紋章係が立って証書に記された三つの郷の領主の署名と印を確かめ、鑑識係が反物を計量、計測すると席に戻り、ふたりながら上座の大蔵所の司に所見を伝えた。大蔵所の司は王に証書と絹が優良な品であることを伝えた。

 王は自ら玉座を下り、絹を手に取ると天窓の下に立って反物を広げ、検めた。  

「イナ・サラミアスの礼と恵みを受け、アツセワナもこれに応えよう。絹に代えて何を望むか」

 王は形式どおりに速やかに述べた。

「通常のとおり鋼に」

 蔵の役人らの後ろに控えていた鍛冶師が鋼をオクトゥルの正面に据え、「ご検分を」と促した。しきたり通りに鋼を検め受領の意を述べるオクトゥルを尻目に、広間の下座に陣取っていた見物人たちが囁きながらぞろぞろと腰を上げて立ち去って行く。領主たちの下にいた商人らも王に恭しく礼をし、引き上げて行った。

 王女に供物の蚕糸を早速機屋に持っていくように、と命じ、王は立ちあがった。

「鍛冶の用命と余剰分の交換は我が家の者に任せてくれような。」

 王は大蔵所の司に自ら客を案内する意を示し、イーマ達を促した。これから奥殿にある大蔵所の事務所へ移り、入り用な数量を受けて鉄器の製造を鍛冶に命じ、余剰を穀物や日用品、あるいは金子に替える手続きをするのであった。

「小鍛冶まで共に行こうぞ。」

 オクトゥルは鍛冶師に続いて立ちながら、思わずそっとトゥルカンと領主たちを窺った。彼らはこのまま付いて来ようというのだろうか。毎年交換される鉄の量に大差はないものの、武具や食糧の量を知られるのは心地の良いものではない。

 王よりも豪奢な長衣に痩せた身を包んだ老宰相は、丸くなった上体を乗り出し、白い髭を蓄えた顔をしかめていたが、オクトゥルに気付くと声音優しく言った。

「お国では未だ田を拓いておられぬか。」

「近々、このアツセワナの優れた技に学び(くに)でも田を作る所存でございます。」

 オクトゥルは思わず答えた。

「左様か」トゥルカンは言い捨てると、領主らを見回し、広間から先に立って出ようとする王を呼び止めた。

「王、早速の交換に赴かれる前にいま一度お考え遊ばされよ。辺境より持ち込まれた絹とやら、果たして鋼十貫目に相当するものであろうか。年々鉄山が涸れてゆく中、鉄の値を上回る勢いで蛮族の布ばかりが高値になっておる。わが国の産する毛織物、亜麻布が月毎に喰いつくされる飯と同様、庶民の札でやり取りされるというのに。」

「絹の値が上がったのではない。市場に出る我がコタ・サカの鉄へのそなたの評価が下がったゆえ、釣り合いを取るために嵩を出さざるを得ないのだ。」

 王は素っ気なく答えたが、近侍に持たせていた絹の反物を取り上げるとトゥルカンに向き直り差し出した。

「東の遣いが絹を我が国にもたらした当初、そなたは同じ重さの金と引き換えに手に入れようとしたのではなかったか。手に取って検分せよ。」

 老人は熱いものを差し出されたように手を引っ込めかけたが、厭そうに両手に取った。

「羽振りの良かった頃の酔狂な道楽だ。我ながら血迷ったものよ!」乾いた笑い声をたて、しばらく弄んでから脇の第三家の当主アッカシュに差し出したが、領主らは皆手に取ることを辞退した。「―――もう昔の話だ。王もお人の悪い。」

「そなたは奢侈品に通じている。手が覚えておろう?」王は微笑みながら鋭く言った。

 宰相は反物を王に返し、軽蔑したように両手を挙げた。

「思い出せませんな。仮に思い出したにしてもそのような儚い後味を愉しむよりも御代の行く末を憂う気持ちの方が優って安んじてはおられぬ。」

「冗談はやめてくれ、互いにもう老人ではないか」王はぴしりと言った。「言いたいことがあるなら申せ。」

「辺境の民に思慮なく富を施し与えるのは大概にされよ―――互いのためにならぬ。」トゥルカンは頭をうなずかせて言った。「彼らにとっての親切はまた別のものでなされるべきだ。」

「客に対する礼儀を、今さらながら言って聞かせねばならぬか、当人を前にして。」

 王は重い長衣の袖を打ち振り、厳しい面持ちで壇上から領主たちを眺めやった。

「イナ・サラミアスからの遣いは我が国にとっては賓客である。例え諸公から見てかの地が王の統治する国とは映らなかったとしてもだ。かの地は女神の領域であり、イーマが掟を守り自由に住まうところだ。その暮らしが容易かろうとは思わぬ。しかし、我々が思いあがった同情から我らの流儀慣習を押し付けるものでもない。かの国の事柄に無知なのはこちらも同様なのだからな。私は年に一度女神の子らに会い、相互に恵みあうことにしているのだ。それ以上には求めず、何も与えぬ。そしてもし、私の不興を買ってまでもかの地に侵入する者がいたとしても」

 王はオクトゥルを見やって滑らかに続けた。

「かの地は人の統治する国ではない故に、私がその者の身を請け合ってやるわけにはゆかぬ。宜しく女神の裁定に従わせることにする―――万事は“黄金果の競技”の規則に倣うと心得よ。」

「王ご自身が女神とお付き合い遊ばされるのと、臣民とかの地の者が関わり合うのはまた別というのですな。」トゥルカンは猫なで声で言った。

 王は手真似でイーマ達を促し、王座に向かって左奥の、私室に近い出口から回廊へと進んだ。

「宰相、この先は遠慮してくれ」

 トゥルカンは領主らに頷いて退出を促し、広間の(かみ)の隅の柱の陰に椅子に掛けていた老人とその脇に佇んでいた男に手招きをした。いかにもがっしりとした体つきの男は、杖を引き寄せて大儀そうに背を丸める老人の脇を支えて立ちあがるのを助けた。

 その男の風貌と物腰を見るにつけ、オクトゥルの心中で疑念は確信へと変わって行った。

 ここでも薄暗い物陰にいるあの男の顔が見てとれるわけではないが、もし近々と寄ってあの目が真冬の谷底のような青い色をしていたとしてもおれはちっとも驚かんぞ。

 王に続いて広間を出、庭に面した明るい回廊を奥殿へと渡りながら、オクトゥルは大きな男と彼に付き添われた老人の出て行く時の様子を思い返した。中でも老人の、さほどの高齢でもないのに弱々しく痩せて曲がった身体、禿げた頭の周りに垂れた薄い砂色の髪と薄い髯に覆われた平たい顔、そして石を突く杖と交互する足を曳く音が長く胸に留まった。

 何か思い出しかけたぞ。トゴ・オコロイの最後について、タフマイの年寄りが何か言っていたな。いや、似たような話だが違うことだ。ラシースの母がサラミアと呼ばれていた頃、アツセワナの使節としてイナ・サラミアスにやって来た男がいたそうな。今でもタフマイとウナシュの中で密かに囁かれている、山中に金銀の鉱脈があるという噂の発端はこの男だった。この男の言葉か行いか、それとも男そのものが気に入らなかったのか、巫女は怒り山の石を落としたそうな。

 奥殿の中心の出入り口を繋ぐ大廊下から右の通し廊下に入ったところに大蔵所の事務所があり、その奥には宝物庫の役人の詰所がある。そこには先ほど広間で印章の検め、絹の検めをした者がそれぞれ戻っていた。王は、昨晩イーマ達を大門で出迎えた男を呼び、鋼十貫の値の範囲で客人の用に応えるように、と言いつけると、儀式の服装では何も出来ぬゆえと着換えに奥に入り、オクトゥルが帳場の台の上に乗り出すようにして勘定と書き込まれる文字に相違が無いか神経をとがらせている間に、すっかり身軽に着替えて出て来た。麦の穂をひと房耳の上に挿している。

「緑郷では人々は豊かになり子は増えたか?」

 申し込まれた鏃、短刀、日用の鉄器と穀物、塩、羊毛などの品目に目をやって王は気さくに声を掛けた。

「ひとえに王のご厚情のおかげでございます。」

 オクトゥルは畏まって答えた。広間でのやり取りから、王が絹の代価として支払う鋼が決して容易く用意されたものではないと察せられたからだった。二十年の昔には大事に倹約して使っていた鉄は、狩に樵にと(さと)で用いられる量は減り、鉄の価格の低下と共に増えた供給と相まって、大方となった余剰が、穀物に変換され民の口を養っている。―――気がつけば、アツセワナの穀物無しでは冬が越せぬほど頼るようになってしまった。  

 そういえば、アツセワナに農事を習いに遣わされる者たちはいつやって来るのだろうか?ヤールは主幹をどこかの家に遣わしたはずだ―――先ほどトゥルカンについて来ていて王と険悪な様子になっていた領主らの内の誰かではなかろうか?滞在する者たちが居心地の悪い思いをするだろうな。そういえば鉄器のうちどれほどの農具が必要になるかヤールと打ち合わせていなかったな、今年は種蒔きまで間に合わないとしても畑は鋤きかえしておかねばならないだろうに。

 そわそわと落ち着かぬ様子のオクトゥルを見て王は言った。

「大仰な出迎えの上にあのようにけんもほろろにあしらわれてはな。なに、少し損をさせられた宰相が焚きつけているだけだ。サザールが来た事だけは解せぬな。あれは石や砂ならともかく、絹に関心を持った事など無いものを。」

 サザール、そう、サザールだ。

 王は短く笑い、さらに帳簿を取り上げて言った。

「まだ金子にして四セラばかりが余る。このとおり金子で払われるのを望むか?」

「はい」オクトゥルは顔が赤らむのを覚えながら、若者の手前、大真面目に答えた。

 帰り道に市を覗きながら買い物をする楽しみは“絹の遣い”の役得だ。女達への土産、縫い針だとか鋏だとかリボンや果物、野菜、そんな些細なものは王宮の台所で引き換えてもらうわけにもいくまい。それにオクトゥルはアツセワナの市の活気が好きだった。彼ら東の旅人を当て込んで商売に来る者もいる。半ば客、半ば異国の見世物役を買って出て客を集めてやるのも内心まんざらでもないのだった。これだって互いに恵みあっていることじゃないか。

 王もまた至極真面目に答えた。

「此度は来たと同じように真っすぐに帰るのだ。」

 そして絹の検分をした男に王女はどこかと尋ねた。男は、王女は賓客たちに酒肴を差し上げるように台所に指図に行かれた、儀礼の衣装の手入れをし仕舞うためにこの場に戻って来ると申しおいて行かれた、と答えた。

 王は苦笑いをした。

「宰相と顔を合わせる用件がもうひとつ残っていたな。宝物庫に鍵をかけねばならぬ。不覚にも王女に預けぱなしだった。まあ良い、ふたりながら待たせておけ」そうしてオクトゥルに振りかえると、 

「王女に相応のものを見繕わせる。帰りは二クマラから舟に乗るか。客人の舟出まで荷を預かってくれるよう申し伝えておこう。さあ、では鍛冶場へ参ろう。」

 御用鍛冶の工房は主郭の西の端にあり、河畔の崖を望む城壁の一隅にしがみつく小郭の中にあった。王の身内、家来の住む奥殿の裏側の庭に目隠しの垣を施した細い道を通し、その入り口を庭の表からは隠してあった。

 小さな戸の内はすぐに下へと下りる階段であり、崖に掛かった燕の巣のような格好のその砦の内の庭へ下りて行く。下に中郭を望むその庭の南側は休憩所のように芝草が敷かれ木陰が作られていたが、崖と分厚い城郭に面した北側は地面が固く普請され、広い作業場があり、水場があり、鍛冶場があり、皮革、木工、小鍛冶の工房があった。王自らが要望し手回り品を作らせるための工房であった。

 用命に応えるために先に工房に戻っていた鍛冶師が狼狽した様子で作業場へと下りて来た王とイーマ達を出迎えた。

「恐れながら申し上げます。炭の不足により、お言いつけの仕事に掛かることが出来ませぬ―――客人のご到着はひと月後と見込んでおりました故、炭の注文がまだでございました。のみならず、あったはずの蓄えも失せているのです。下の郭へ取りに遣らせておりますが、折悪しく別の筋から賊が出たという話を聞いたところでございます。」

「炭を奪う賊でもあるまい。」王は不機嫌に言った。

「…残念ながら、さようでございまして。」

 鍛冶師は悔し涙を浮かべ、炭が無いために火床を十分に熱する事が出来ないのだと言った。王はひとわたり思案すると、鋼を寄越せと男に命じた。仕事場から鉄塊を運びだして来た男に二頭分の馬の荷に作って台所の通用口まで運んでおくように、と言い渡し、別件の仕事を新たに言いつけるとイーマ達を呼んで言った。

「そなた達に別の鍛冶師を世話しよう。残念ながら私みずから案内は出来ぬが、信用できる者を遣わす。再び黄昏時に旅をさせてすまぬが今宵の宿はそなた達の気に入るはずだ。では事務方に戻ろう。王女もそろそろ戻っているはずだ。」

 王宮の庭へ戻る階段を先に立って登る間、王は無言だったが、外に見張りを待たせた戸を開ける前にオクトゥルを近くに手招いた。

「人の欲は奇怪な恐ろしいものだ。獣ならこうまで貪欲になるまい。かつて絹の価値を認め、私にこの宝が渡るのを羨み脅威にさえ思っていた者が、模倣して価値を貶めたのみならず、その存在を憎み、殲滅しようとする。そして代替の物にさえ攻撃の矛先が移る。」

 異国の一使者に過ぎぬ若輩の自分に王の密かに述懐するのを少なからず不穏に覚えながら、オクトゥルは、外の郭の鍛冶屋、もしくは城外の鍛冶屋で結構でございます、と申し出た。しかし、王は首を振った。

「いや、ならぬ。王の命を何と心得るのだ―――?勧めを聞き入れてくれ、友よ。」


 奥殿の事務所では儀式の衣装を片付け終わった王女が王の命に従って待っていた。

「姫、宰相と待つように申し渡したはずだが。」

 王は眉をひそめて言った。王女は臣下のように一礼して答えた。

「宰相殿は宝物庫に赴く気もお待ちする気も無いと申されました。それで先にひとつの錠をかけてお渡しし、換えをお預かりしたのでございます。」

 王は厳しく口元を歪めたままだったが、オクトゥルにはその面がわずかに和らいだように見えた。王は王女から鍵を受け取ると、東の客の要望に応えてやるように、と命じて大廊下へと出て行った。

 王女は親しげにオクトゥルと若者を順に見つめ、郷里(ふるさと)に持って帰りたいものがあれば遠慮なく言うように、と促した。

「と言っても、青物などは出立までに萎びてしまいますわね。それにここの台所などよりもトゥサ・ユルゴナスにはもっと良い品もございます。二クマラからお発ちになるのでしたら、ここから先方に言付けて吟味した品を舟まで届けましょう。小物などは私が見繕っておきましょうね。」

 オクトゥルが口ごもりながら金物の台所道具や裁縫道具、女達が珍しがり見本にするような細工物や装飾品を挙げると、王女はいちいち頷きながら聞き入れた。王はその様子を一瞥すると、午後の第ニの鐘が鳴る前に客人を裏の通用門まで案内するようにと言いおいて、今入って来た裏の方へと戻って行った。

 王女はイーマ達を伴って事務所の奥の物品の倉庫に行き、係の者に目録を渡して取りに遣り、持ってこられたものを熱心に品定めして選んだ。それから二クマラに送り、客人の出立までに厳重な保管を要請するようにと命じた。

 次に奥殿の西側に女達の仕事部屋を訪ねた。生垣を巡らせて囲った庭の低い木戸を叩くと露台に出て作業をしていた女達が応えた。女達が木戸の後ろから差し出す細工物を、王女はひとつひとつ順に受け取ってイーマ達に見せた。留め具のついたベルトや刺繍のあるリボン、釦のついた小さな胴着などをいくつか見て選ぶと、オクトゥルはそれを真似て作りたいという女達のために道具も譲っていただけまいか、と申し出た。王女は願いの品を全て籠につめるように女に命じた。

「これで合わせて三セラ。残り一セラは穀物の発注と合わせてトゥサ・ユルゴナスで青物を用意させますわ。」

 裏庭を囲んだ生垣を離れ、庭木越しに城壁の上の太陽の位置を見やって王女はほっとしたように言った。

「時間までまだ少々ございます。これから門においでということは、この度のご滞在は王宮の外に―――?」

「鍛冶の都合で今宵場所を移らなくてはならなくなりました。郷里(くに)に発つのは鉄器が出来上がってからでございます。」

「では二クマラに着き次第、領主ミオイル様を通じてトゥサ・ユルゴナスに使いを。一両日中には荷が二クマラに着きましょう。」

 申し分のない差配を終えて安心した様子をみせながら、王女はまだ立ち去りかねるようにしている。 

 郷里(くに)では夏の気配の残るこの時節に女と会う事などない。まして人気の無いところで言葉を交わすことなど。オクトゥルはよんどころなく付いて来る若者の徹底した無言に同情半ば、むずがゆく覚えながら、一方、王女が淑やかな笑みをうかべたまま木々のほうに目をさまよわすのを、何か尋ねたげな印と見て待った。

 簡単な白い長衣をまとった王女はますます痩せて長身に見える。父親似の額と眉、深い灰色の眼は色白の小さな顔には少々映りが強すぎる。アツセワナでは美人なのだろうが。

「あなた方の緑郷からおいでの方が―――」何でもないことのように切り出そうと苦心している。

「誰でしょうか?」農法を学びに来ている者かもしれぬし、自分の身分が分からぬ奴かもしれぬ。

「父の傍に仕えておられます。」名前を言う気がないらしい。王女はつかえながら早口で言った。

「お国の良い服を着ておいでですが」濃い睫毛を瞬き、王女は素直な賞賛を込めてオクトゥルの明るい樺色の外衣と野葡萄色の上衣を見やって言った。「もうだいぶん傷みがきております。アツセワナの衣類は肌に合わないようですわ。と、いってもあなた方がここに持って来られる絹とも違う様子。何とか替えを用意したいと思うのですが、どうしたらお国でお召しのようなものを作れるものでしょうか?」

 オクトゥルは思わず声をたてて笑いかけた。

「王に献上するものとは別です。郷里の者は羽化の終わった繭を紡いでまとう。今も昔も変わりません。―――()()の着ているものはまた特別です。(あれ)の母が神蚕の糸を混ぜて織っている。」

神蚕(しんさん)―――」王女は目を大きくし、何か思い当たったように目を伏せた。「それは特別な、違う蝶の糸ということですか?」

「我々男はもちろん、ティスナで蚕を育てる女でも神蚕を見ることはまず、ありません。」

「それほど貴重なものでは、よし羽化の後の繭でも手に入れるのは難しゅうございますね?」

 王女は小さな声で言った。

 オクトゥルの心の中で人の良い好奇心と自制心の小さなせめぎ合いが起こった。

 よもや御山の神々の原(ナスティアツ)の事柄に関わろうとは思ったことも無かったが、おれは今、生涯でも一番神蚕を手に入れやすい立場にあるかもしれない、しかもそれは高値で売れるんだ―――ティスナで女房が世話している女の子は神蚕を知っている。繭を集めるなど造作もないだろう。女房を口説いてちょっと頼んでもらうだけでいい。大した害も無いはずだ。中に蝶が入っていなくても構わないと相手は言っているのだし…。

 彼の後ろで辛抱強く待っていた若者が、はっと溜息をついた。オクトゥルは鉢巻きの下に手をやり、汗を拭うふりをした。

 いや、ともかくも禁忌は禁忌だ。娘っ子が坊ずの着物のほころびを繕ってやろうというのに何故神蚕の糸でなくちゃならない。そしておれもまた、そんなもので自分の懐具合を温かくしようなんて恥ずかしいことを考えたものだ。

「―――何なりと、お国にある糸をお与えになっては。」

 分別らしく言い、王女の心遣いに礼を言った。王女は恥じ入るようにうつむき、イナ・サラミアスの女達への土産物の籠をオクトゥルに渡し、機屋へと戻って行った。

  

 王女が去ってほどなく台所の給仕係がやって来て、夜の旅の前に軽く食事を摂っておくように勧めた。ありがたく頂戴するがアツセワナの酒は苦手だ、今朝がたから喉が渇いて堪らぬ、新鮮な水が飲みたいと答えるオクトゥルに給仕係は少し面倒そうなそぶりを見せたが、庭園を正殿の方に戻り泉へと連れて行った。

「おお、冷たい!」

 正殿の内庭の四阿(あずまや)に備えられた小さな水盤から水を汲んで飲んだ若者は驚きの声をあげた。

公道(クノン)筋のぬるい水とは大違いだ。」

「あまり長居せず、はやく台所に食事においでなさい。顔を合わせない方がいいお人もおられますからな。」

 給仕係がそう急かしたところへ、回廊の向こうの庭園から召使いを呼びつける声がし、男は慌ただしくイーマ達に台所への道筋を教えて、呼びつけた貴人の要望に応えに走って行った。 

 広間での“絹と鉄の交換”の立ち合いを終えた後で北の庭園で酒肴のもてなしを受けながら談話の続きをしていた領主らがようやく帰るところであるらしい。

 顔を合わせぬ方が良いとは尤もな言い方だ。少し酔いの入った声高な暇乞いの挨拶が交わされるのを聞きながら、オクトゥルはそっと引き上げようと若者に手真似した。

 回廊へ戻ろうと四阿を出かけたところへ、北の庭園の方から聞き覚えのあるトゥルカンと男の声が近づいて来た。四阿の北面に開けた、泉から浅い水路を経て水を引いた蓮の池の向こうに既に回廊をそぞろ歩いて来るトゥルカンと大柄な男の姿が見える。オクトゥルはとっさに身をかがめた。若者も彼に倣って直ちに柱の陰に隠れた。

「あの男、誘いには乗らぬようだな」

 トゥルカンの話しかける相手はさらに後ろにいるようだ。大柄な男が振り返り、手を貸そうとするかのように戻りかけた。オクトゥルは繁った大きな蓮葉の陰に入るように池の端に近づきながら首をもたげた。高く伸びたいくつもの花托の間からもうひとり、深く背の曲がった人影が覗けた。杖をついてゆっくりと追いついたサザールは首を振った。大柄な男が短く言った。

「あ奴と仕事はできませぬ」

「もともと使いよい材ではなかったとな―――そうだな、サザール。」

 杖の老人が何か答えたのか、オクトゥルには分からなかった。

「良い。かの地の事を尋ねるには他の口を当たれば済むことだ。客人を懇ろにもてなす手筈は出来ている―――あとは(あれ)が我らの敵と決まれば決して会わせぬことよ。」

「今宵も奴は城内の賊に手を焼く。北の界隈に目は届くまい。」大きな男は呟いた。

「そなたの差し金か、グリュマナ」

 オクトゥルの背筋に震えが走った。紛れもなく夕べの男だ。男は宰相の意外の問いにも動じる様子もなく見返した。

「滅相も無い。王の施策に不満を持ち、手向かおうとする者が増えている。それだけでございます。」

「そうか。お前はわしの門下、そしてわしは王の臣。ほどほどに抑えておけ」トゥルカンは長衣の裾をたくし上げて回廊の端にまで繁茂した秋草を避け、顎を正殿の出口の方へ向けた。男は後ずさって路の脇に控えた。

「さて、手飼いに出来ねば始末せねばならぬかの―――あの者の身分についても少し分かればな、サザール?」

「―――何でございましょうか」池の上にかがみ込むようにして何かに見入っていたサザールが白昼夢から覚めたとばかりに手で払う仕草をして顔を上げ、トゥルカンを見上げた。ふと奇異なものを目にしたようにトゥルカンは顔をしかめ、辛辣に言った。

「泥の中に黄金(こがね)か翠玉でも透かし見えたか?呆けおって。」

 トゥルカンにも山を動かす力があったらこの男を潰したかもしれない。

 思いがけぬ感情の針がトゥルカンの温和に装った面貌からほころび口を開けたように、癇癪の波に押されて腹の内が述懐され、オクトゥルの耳の中に事情の分からぬ言葉がそのまま流れ込んで来る。

「山を裸足で彷徨(さまよ)っていた時分の洟垂れの貴様の方がよほど重宝だったわ、石をくらって跛になり、用にも使えぬ。その()()()()()とやらもどうせ靄がかかっておるのであろう?このところの貴様には辛抱ならん。だしぬけに黄色い声をあげるわ、べそかき女のような顔をするわ―――。良いわ。貴様がまどろんでいる間にも時は移る。まもなく“初穂納めの儀”を期限に競争の判定が出る。王権は独り王女のものとはならず、形ばかりながらチカ・ティドのどこの馬の骨とも知れぬ男の手に落ち王女の不名誉に変わる―――」

 トゥルカンはふと言葉を切り、グリュマナという男に目をやった。その仕草と声音はオクトゥルに既に覚えのある、ちくりとした胸を刺す痛みを呼び覚ました。

「悪かったな、グリュマナ。領主たちや市民の鼻に皺をよせるには他の馬の骨でも良かったのだが、にわかには使えぬ奴でな、此度は憎まれ役はお前が務めるのだ。―――これで我が愚息にも立つ瀬があろうというものだ。それにしても、相も変わらず気になるのはコセーナの小倅よな。」

「―――逢わせてはならぬ…。」かがんだまま呻くように言い、サザールは腹の前で衣をかき合わせ手で石畳を探って杖を探した。大男がその脇を支えて立たせ、杖を握らせた。

「無論だ。」トゥルカンは気短に言ったが、何かを思いついたように声を和らげて呟いた。「おお、ここにも駒がひとつ。兄の方は迷い出て来たのだったな…。」

 宰相とその連れの者たちが正殿の方へと回廊を渡って行ってしまうや否や、オクトゥルは半ば身をかがめたまま池の脇から四阿まで飛んで戻り、若者を促した。

「さてさて、どうあれ王の勧めに従って直ちに発つのが正解だ。」 

「客人とは、()()()()とはどういう意味です?」

 若者はどもりながら囁いた。

「そりゃ、おれ達がふだん言うのとはだいぶん心持ちが違うだろうよ。」オクトゥルは若者の顔色に頓着せずに早口に答えた。「北に構って欲しくないんだから、そこにお呼ばれなんだろうよ。北、北といえば宰相の館か、いずれにしても旧市街(アクス・タ・コエ)のどこかさ。肝心なのはおれ達がまだそこには行っていない、他へ行くってことだ。さあ、急ごう!」


 教えられたとおり台所へ行くと、だいぶん前から待っていた給仕係が彼らを捉まえると下働きの少年に包みを持って来いと言いつけ、地下の食糧庫へと引っ張って行った。

「日の入りまで時間はあるが、通用門の出入りは今日はもう済んだことになっている。そこを出て行けば目立つというのであなた方は他の出口から出る。今、案内を呼びますからそこにいなさい。」

 男はそう言って少年の手から食べ物の包みを取ると、若者の腕の中の王女からもらった籠の上に押し付けた。

「鉄は?」

「先に出ましたよ!」男はもどかしげに言った。「とにかく、エノン・トゥマオイ、エノン・トゥマオイで落ち合えます。」

 案内に来たのは御用鍛冶の徒弟のひとりだった。

「トゥサ・ユルゴナスに帰る野菜売りの衆が背籠に入れて運び出した。キリ・シーマティから出て今ごろは七曲の坂(ニョドキャマ・ハノ)だ。」小柄な男は彼らを見るなり言った。「ご存じと思うが、あの道は馬にはなかなか難所で。」

 男は、壁を腰ほどの高さに迫持ち状に穿ったいくつもの貯蔵庫の穴のひとつにふたりを招いた。

「滅多に人に教えられんが」男はしわがれ声で言った。「大事に備えて、台所と鍛冶場はここでつながっている。」

 穴のなかにはやっとで立って歩けるほどの通路があり、灯りの無い中を手探りで真っ直ぐ行ってほどなく男はかがむように、と言った。目の前に小窓が開いて淡い光が入り、夕刻の空を上辺に丸く囲んだ城壁とその下の工房の屋根が見えた。男は後ろ向きになって窓からずり下がるようにし、端をつかんだ両手いっぱいのところから飛んで下りた。窓の直下は昼間王に伴われて下りて来た階段の狭い足休めだった。

 人気のない作業場を横切り、工房の棟の裏を通るとさらに板塀の仕切りがあり、板の一枚を外すと鍛冶場の炉裏の石壁と城壁との間に出た。滑車でつり上げられた大きな鞴をよけて行くと城壁に先ほど抜けてきたのと同じほどの大きさの窓があった。小さな窓から見えるのは虚空であった。

 男は窓の下に丸めてあった縄と細い木の足掛かりを繋いだ梯子を取って繰り出し、窓の外に垂らし、先に出るように促した。高い幹の洞から巣立つ雛鳥のようにオクトゥルは窓にとまって外を眺めた。遠い遠い河岸へと下ってゆくまばらな低木と草の藪、葦原が見晴らせた。葦原が縁取る堤の反射とイネ・ドルナイルの山塊が投げかける夕刻の陰との間に太く、巨大ゆえに静止しているごとく見え、コタ・イネセイナが横たわっている。

「そこから下りなされ、さあ」男は言った。

 ベレ・サオの一枚岩よりものっぺりとした切り立った城壁をオクトゥルと若者、鍛冶の徒弟は梯子を頼りに下りた。

「こう、壁を左に見て南へ行くとやがてエノン・トゥマオイに差し掛かる。」男は高く聳える壁の根元に立ち、いくぶん心細げに踏み跡もない、細い草の覆う乾いた斜面を見下ろした。

「そうか。ありがたい。」むしろほっとしてオクトゥルは言った。

 少しずつ傾く日が赤みを増してくる中を三人は粗い藪をかき分けて西へと回り込みながら下りて行った。五十尋ばかり向こうの葦原の中を一本の水路が、丘陵の裾から徐々に逸れコタ・イネセイナの河岸へと繋がっている。トゥサ・ユルゴナスと同時に拓かれた二水路だ。

「エノン・トゥマオイはあの二水路の上の橋を渡る。橋を渡った先はわしには分からん。」

 鍛冶の徒弟は時折背後を振り返って方向を確かめた。外郭の上にそびえる主郭の壁が左手に遠のき、コタ・イネセイナが背後に回ったあたりで男はそこから急勾配を下りるのだと言った。

「よし、よし!」オクトゥルは若者と見交わして言った。もう公道の一部はそこから見えている。 

「あんたの用はここまでだ。まだ日があるうちに戻りなさい。」

「鉄を預かっているのはトゥサ・ユルゴナスから来た兄弟だ。一刻前にキリ・シーマティから連れの百姓衆と発った。橋の手前でふたりで残って待っているはずだ。」

 城壁の方へと戻りかけながら鍛冶の徒弟は囁いた。「ではご無事で!」

 アツセワナの丘の裾野を巡る環状の公道(クノン)は城の五つの門とエファレイナズ各地へ向かう六つの道とを繋いでいる。百姓の道(エノン・トゥマオイ)は中では最も新しく、トゥサ・ユルゴナスと城との通い道として、農産物の運搬や農民の行き来に使われていた。城への出入り口として南の門キリ・シーマティに通じている。 

 キリ・シーマティは庶民の出入りの門であり、日が暮れても開閉が緩やかで、終いの遅い百姓、樵、迷った子供をも余さず通してやるという。一方では、門の下に至るには丘の南端の丸く突き出た山腹の七曲り(ニョドキャマ)の急勾配のために人も馬も休み休み坂を登って来るので、門番は閉めるのを待ってやらなければならないのだとも言われていた。だが、このところの厳しい閉門の命令のせいか、とうに前から門下の道に人のいる気配はない。

 くすんだ残照の下で日没の鐘が鳴った。薄青い陰に沈む中で、オクトゥルは自らの影が突き出ないように気をつけながら、同じように潜む相手を探した。

「―――絹の遣い?」

 坂の口の藪から声を掛ける者がいた。オクトゥルは動きを止め、目を凝らして声を発した藪陰を見た。そこにいるのは顔つきの似た、若いふたりの男だった。

「王の鉄を預かっているか?」

 年かさらしいひとりが頷いた。

「では、行こう!」オクトゥルは即座に言った。「で、鍛冶場はどこに?」

 兄弟は顔を見合わせた。農夫といった身体つきの兄が言った。

「鍛冶場へ行くというのなら、トゥサ・ユルゴナスの小鍛冶に案内できるし、弟は二クマラのに連れていけるけど、王の命令はそうではなかった。あんた達を人に会わせろ、ということだった。」

「それが鍛冶屋なら構わんさ。」

 実直そうな兄弟は戸惑いながらも下ろしてあった背籠を担ぎ、イーマ達を手招いてエノン・トゥマオイへ下りて行った。兄が先に立ち、兄よりもいくぶん体格の小さい職人ふうの弟が一行のしんがりを務めた。

 道に従って丘を西の方へ下って行くとハンノキの林を経て目の前は開け、舗装された細い通路をともなった水路が横たわる。その上に木の橋が掛かり、エノン・トゥマオイは向こう岸のひと群れの木立ちの間へと入っている。丘の上から見下ろした二水路だった。

 兄弟は通い慣れた、微塵の警戒も抱かぬ様子で水路に渡された橋の上へと渡って行った。コタ・シアナの速い流れに見慣れたイーマの若者に、ほとんど流れているように見えぬアツセワナの水路の水はいっそう不気味に思えた。映す空の無い日暮れ時はさらに水は底知れぬ闇の溜りと思えた。

「誰か川の中にいるぞ。」オクトゥルは橋桁の下に揺らめく長い影を見て鋭く囁いた。兄弟は足を止めた。

「誰だ?」

「わざわざ日暮れて橋を渡る、そちらこそ誰だ?」若い男の声がした。

 ふいに桁の端に縄のついた鉤が掛かり、みっつと数えぬ間に縄を手繰って黒い頭と山猫のような精悍で敏捷な身体が這いあがり、一行の前に立った。

 オクトゥルは後ずさって構え、

「なんともはや」驚き呆れて声を大きくした。「サコティーか?」

 相手は少し回って一行の風体を眺めた。オクトゥルが気付くよりも早く同伴の兄弟はこの男に気付き、しかも顔見知りなのかさして驚いた様子も見せなかった。

「声を聞いてそうかと思ったが、まさかこんな時間に通るとは思わなかったので。」サコティーは脇に退き、一行に橋を通るよう手招いた。

「お前さん、ここで何をしているんだ。」 

「これも仕事」サコティーは習い性となった素っ気ない手短な口調で言った。

「夜の水路の見回りさ。二クマラとトゥサ・ユルゴナス両方から雇われている。仲間と交代で、荷を運んだついでに何日か勤めていくんだ。主に橋を見張っている。夜に荒らす者もいるし―――喧嘩があれば時には水に落ちる者もいるからね。そちらは?」

「諸事情あって王の命令で場所を移るのさ。」

 オクトゥルは橋を渡りながら、コタ・シアナの岸で別れてからの道中の話をした。

 片方が()を変えれば相方も()を変える、相棒との間で息を合わせるのも難しいが、敵なら返って来る一撃は大きいかもしれん。絹の安全のためにいつもよりも早く出かけたつもりが、先々の準備が整わなくて歩調が乱れた。いや、それよりも王が絹を保護しようと取締りを厳しくしたことで、トゥルカンらに思いの他に反感を抱かせたらしい。彼本人の差し金ではないようだが、王と我々の取り引きを邪魔し、嫌がらせをする者を煽っているようだ。

 サコティーは周囲に目を配りながら聞いていたが、突然手を上げ、王宮のある主郭の城壁を指差した。

「日暮れの少し前になると時々あそこから合図があるんだ。城内に怪しい者が出た、橋を見張れという合図が。」

「それも雇われてか?」

「いいや、だが仕事がやりやすくなる。」サコティーはさばさばと答えた。「今日は合図が無かった。あんた達を通してしまえば今夜は安心して休める。」

「そうありたいもんだな!」

 エノン・トゥマオイが辿るのは、トゥサ・ユルゴナス開墾の折に一旦伐り払われた後再び生い育った若い森だった。陽が沈んで間もない西の空はアツセワナ随一の穀倉地があるその上から河岸にかけて開け、宵の星を灯していた。そして若い森の背後から東の二クマラの方角にかけて小高く広がるのは、空よりもはるかに早く闇に包まれた黒い森、イズ・ウバールだった。

 サコティーは橋のたもとで足を止め、一行が下りるのを見守った。

「道中の無事を祈る。」

(さと)には帰らんのか、寒露の頃にも?」

「縁があれば。」サコティーは手を振り、橋を振り返った。「だけど、ここにはいくらでも仕事がある」

 橋を越えると道はゆるく下り、左手に二水路の堤を見ながら南へと回った。やがてイズ・ウバールの黒山のような森影が迫って来ると再び西へと湾曲していき、平坦でまばらな林に入った。薪を取り、粗朶を集めるための林だ。木々の丈はどれも三丈とは超えない。

 道の右手の林の様相は少しずつ整い、オクトゥルは歩きながら若者の肘を軽く突いて顎をしゃくった。

「トゥサ・ユルゴナスの庄の外囲いだ」

 道から間をとって地面は高く平らに盛って石積で覆われ、成長の早い常盤木が高い生垣を巡らせている。それに沿って行くほどに、びっしりと密に組み合った枝葉の内側にはおそらく櫓が組まれ、広大な土地のぐるりを囲む見張り台になっているのであろうと察せられた。

 淡々と進む兄弟ふたりの間を大人しく歩きながら、オクトゥルは、連なる樹木の遠く近くの葉群の中に灯火の火影がちらちらと見え隠れし、踏板の軋みを聞いたように思った。兄弟はどちらからともなく掛声を始めた。

 ござーい、ござーい

 頭の上を灯りがよぎり、はっきりと櫓の上を足音が通り抜けた。

「おれ達が行くのはここか?」彼は先頭を行く兄の方に訊いた。

「今夜は。会わせたいお人はそこにいる。」

 生垣が切れ、丸太を組んだ柵の門の前に出た。裏側の櫓から下りて来た見張りの者が兄弟に目を留め、柵の内から道の先の方を差して、裏へ回れ、と囁いた。そして物珍しげにイーマ達を見た。

 門を過ぎるとエノン・トゥマオイは細い田舎道に変わった。常緑樹の生垣は同じように続いていたが、その根元は灌木が覆い、間隔の緩やかな樹間を抜ける風の匂いは徐々に変わって来た。人里のものから草原に似た、しかし青い苦みを圧して優しげな甘い香りを含んでいた。その香りは主水路(アックシノン)の橋の間を通った時に嗅いだものと同じだった。エノン・トゥマオイの細い線はその内側に広々とした健やかな田を持っているようだった。そしてその外側は夜闇とひとつになり静まっている暗黒の森(イズ・ウバール)だった。イズ・ウバールから流れ出た小川のひとつが狭い湿地をつくり道を巻いてコタ・イネセイナのある北の闇へと下っていた。

 道の果てが近づいてきたのか、案内に立つ兄弟の歩調は心持ち勢いづき、垣の内に再び灯火が近づいたと思うと、それが止まった先には門とは申し訳ばかりの、細枝を編んだ小さな開き戸をひとつつけた入り口があった。先ほど門のところで合図した男が内側から横木を外して戸を開け、一行を通した。

「ふたり、急な客だ。イナ・サラミアスから」兄は言った。

「へえ」男は意気込んで囁いた。「どこに宿を用意しようかね?飯はわしらと同じものでも大丈夫かね、早速、親父さんに伝えて相談を…。」

「いやいや、」若い兄弟は素早く見交わして言った。「このふたりを客人に会わせ、その後のことはあの方に任せるように、とシギル様から命じられた。おれがそこまで案内するし弟は夜が明けたらすぐに二クマラに戻る。親父に会っている暇は無いよ。それにここが肝心なんだが、この人たちが来たのは口外無用だ。いいか、夜回りの皆にもよく言っておいてくれ。」

 それなら、と灯火を持った男は先に立った。

 正門から少しずつ下っていた道のとおり、トゥサ・ユルゴナスの庄はコタ・イネセイナの側のほうに傾斜していた。一行が入って来た裏口はその中ほどよりも低い位置にあったが、エノン・トゥマオイ沿いに巡らせた櫓の内側の道をすこし戻ると、中ほどの高さのところを通る道があり、それが庄の中心と農家の地所、田畑との行き来を繋ぐ表道らしかった。

「足を取られんように」

 男が持つ灯籠の明かりに、青草に縁どられた道の、荷車の轍の跡のみ白く透けた地面がちらりと見えた。

「ここの衆は皆朝が早いのでな、陽が沈むと明かりがひとつも無くなる。殊に今の忙しい盛りは夜なべなんかしないでさっさと寝るからな。」

 道の右側の高くなっている土地には黒々と耕され麦の蒔きつけを待つ広い耕地があるようだった。ところどころにある林の影はその辺りに土地の主の農家があることを示していた。上へ下へといくつか分かれ出た道の先には低い生垣を巡らせたまとまった集落もあり、倉や広場とみえるものもある。

 一方、目を左へと移せば、道に沿って下方に水路が走り、ごく穏やかな流れながら静まり返った庄の田の中で軽やかなせせらぎを奏でていた。稲田は数段にわたってコタ・イネセイナの方へ広がり、渡る風に穂先を撫でられた緩やかな波がしらが月明かりのもとに裾野の方から寄せてくる。甘い香りはそこから漂って来たものだった。

 広々と稲田を見下ろすところに垣を巡らせたひときわ立派な在所があり、幾棟もの家屋や厩、庭木が穂波の原の中にひと固まり立ち並ぶさまは堅固な築地の島のようだった。

 道が分かれて下って行くところで夜回りの男は兄弟に挨拶の声をかけて戻って行った。兄弟は母屋の他に蔵と納屋、その他、菜園を挟んで奉公人の宿舎と見える簡素なひと棟が収まる屋敷へとイーマ達を案内して行った。菜園の脇の小さな作業小屋から明かりが漏れている。明かりは畑に面した小窓と、風を通すために少し開けた戸から漏れていた。兄は既に開いている戸に近づき、叩いた。

「おはいり」

 明朗な壮年の男の声が応えた。兄はそこで待つようにイーマ達に頷きかけて、戸を開け、中に入った。

「おお、早く戻ったじゃないか」中の男は親しげに言った。

「またお出かけになる前に、と新たな用を言い遣って参りました。」

「ほう」

 中で書状でも受け取ったらしい、包みをひらく微かな音がしたと思うと、男はさも愉快げに唸り、悪戯を打ち明けるかのように囁いた。

「なかなかに際どい時機であったようだ。」

「さあ―――存じません」男は当惑して答えた。己の分を越えぬように顔をそむけているようだ。相手は頓着せずに続けた。

「緊急に開ける必要があったが、それがこちらの必要も満たしてくれたわけだ。慣行の儀式の繰り上げでもあったか。」

「東より“絹の遣い”が到着したのです。実はトゥルド様、シギル様からもうひとつ用を言い遣っております。」

 相手の名を聞いてオクトゥルは思わず戸口に歩み寄った。戸が大きく開き、男が彼と連れの若者を小屋の内へと招じ入れた。彼らを促すように押し込んだ弟がそのあとから滑り込み戸をぴたりと閉めた。

 小屋の中にいた男は窓辺に向かっていた作業台の上から身を起こし、狭い戸口にひしめいている、いずれも似たような年格好の若者たちの顔ぶれを興味深げに見た。オクトゥルもまた郷里でも知られた名の男の顔をそっと窺い見た。

 中背のがっちりとした血色のいい男で、明るい柔らかな赤毛が頭頂のつやつやした地肌の周りを炎の輪のほうに囲んでいる。服装は仕立ての良いものだったが、何日もそのまま寝起きしているのか、皺くちゃだった。男は機嫌よく丸い目をイーマ達に向け、軽く鼻で唸り、手を上げて耳の下を掻いた。置き換わるように台の上に載せた手の下に何か細く黒い金属片が隠れた。

「私に用かね?」

 トゥルドと呼ばれた男は、台の上の手を握り込むと、ちょっと身をかがめて台の下を覗き、足元の甕の中から粘土の塊を取り出し、水に濡らした右手に取り、こね始めた。

 跪く場所も無い小屋の中でオクトゥルは少しかがんで会釈をした。

「イナ・サラミアスより“絹の遣い”として参りました。私はタフマイのオクトゥルと申す者でございます。本日王御自身による絹の鑑査を賜りまして鋼との交換に相至りましたものの、折悪しく御用鍛冶の準備が整わず、鉄を預けることが適いませんでした。王の御心遣いにより紹介いただいたのがこちらでございます。」

「トゥサ・ユルゴナスの鍛冶を紹介したのか?」

 トゥルドは台の上の短い蝋燭を立てた皿を向こうに引き寄せ、くるりと背を向けた。台の上には色々なものがある。正確な角に切った木切れ、油の皿、布、糸―――。

 イーマ達を連れてきた兄はためらいながら言った。

「王は東の客人をトゥルド様に引き合わせるように、とお命じになり、私と弟に他言は無用と厳しく仰いました。」

 トゥルドは答えなかったが、聞こえていないわけでも無視しているわけでも無かった。丹念に捏ねた粘土をふたつに割って二本の木切れの間に押し込み、良く撫でて均したあげく、左手に握り込んだものを素早く粘土の塊の中に埋め込み、さらに積んだ木切れの間に残った粘土を詰めて蓋をした。

 それから極細い絹糸を繰りだすと、丸い顔を台に摺り寄せんばかりにして、方形にまとめた粘土片の上下の枠の合わせ目の周囲に巻きつけ、端をゆっくりと引き絞った。そのままそこに置くと、トゥルドは突然立ち上がり、てきぱきと言った。

「夜半まで眠らせてくれ。それまでに客人に食事を出して休ませておくように。タフマイのオクトゥル。鉄はどこにある。」

 兄弟が背から籠を下ろし、それぞれオクトゥルと若者とに託した。

「ご苦労だがそれは君たちに運んでもらう。ひと休みしたら私についてここを発つのだ。ノマオイ、悪いがその時私を起すのも兼ねてもう一度ここへ来てくれ。」

 トゥルドはそこに居る者たちはもはや目に入らなくなったという風に背を向けると、数歩奥の作り付け棚と梯子の下の小さな寝台にごろりと横になった。

「客人、行こう、荷はそのままおれが番をしているから。エマオイがあんた達を寝るところに案内するよ。」兄は囁いて、弟に頷きかけた。

 

 イーマ達は母屋の端の一室に案内され、そこでエマオイとともに少し休んだ。王宮の台所でもらったもので食事をして少しうつらうつらしたと思った頃、兄が三人を起しに来、小屋まで連れて行った。

 小屋には蠟燭が灯っていた。トゥルドは窓から菜園の脇までやってきた三人を覗き、ちょっと頷いてみせた。作業台の上の小さな槌と木切れを片付け、粘土の欠片を屑入れに始末しているところだった。そして丁寧に包んだ包みのうち大きい方を背嚢の上に仕舞い、小さい方を傍らで後始末を手伝っているノマオイに渡した。

「なるべく早く王にお返ししてくれ。」

 背嚢を背負うと戸口の壁に掛けてあったマントを纏い、杖を持って小屋を出た。

「では行こうか。」

 トゥルドは外で待っていたイーマ達に声を掛けた。小屋から出て来たノマオイがエマオイに灯籠を手渡した。

 エマオイが先に立ち、トゥルドとふたりのイーマを庄の西の門の外まで案内した。

 門の番をする者さえも眠りについたのか、灯籠の映し出すエノン・トゥマオイの一点を除き、トゥサ・ユルゴナスの庄はすっかり夜の闇に包まれていた。そして月の光がほのかに治める夜空をも尖った梢の先に押しやって、イズ・ウバールの影が前方に塞がっていた。前に通った時の記憶と、そこから聞こえる水の音、湿性の草むらのさざめきと匂いから、その前に横たわる谷と湿地を察することができる。

 中背ながら頑健で極めて姿勢のよいトゥルドは杖の先を軽く上げて明かりの外の闇の中を指した。

「これよりイズ・ウバールに入る。しばらくはトゥサ・ユルゴナスの衆も出入りするところだが、その先は里人は立ち入らぬ。イナ・サラミアスの森を歩きなれているそなた達は光なきこの森に私について来るのをいとわぬか?」

 一行を案内して来た大人しい若者は首を振った。

「私はこのままエノン・トゥマオイを行って水路の脇から二クマラに帰ります。どうかお許しを。」

 トゥルドは頷いた。若者は自分の灯火を差し出そうとしたが、トゥルドはそのまま帰途を照らして行くように言った。

 若者の姿が垣に沿った道を二水路の方へと遠ざかり、手にした灯りも消えると、トゥルドはわずかな月明かりの中で静かにふたりに振り返った。オクトゥルと若者は顔を見合わせ、頷いた。

「大丈夫、見えます。」

「前に浅い沢がある。沢にむかって谷の左手をゆっくり上がっていこう。日が昇る前に森の中に入ってしまえば良いのだ。精を出して歩くのは夜が明けてからで十分だ。私の足でも昼には着くのだから。」

 湿地の脇のハンノキの林を道沿いに辿ると、薪伐り場との境に優れて大きな椎の木がある。トゥルドはそれを目印に森へと入って行った。もはや月の光もとどかぬ闇の中であった。

「トゥサ・ユルゴナスを拓く時に、古の木の何本かは残してある。毎年下枝を払うが谷沿いに並んでいる。この木ばかりは二十二年も前から変わらずイズ・ウバールへの道を示しているのだ。この間を歩けば沢に落ちることも無い。」

 男は、たくさんの切り跡が瘤になって盛り上がった太い幹を叩いて言い、盛り上がった根に沿って勾配を登り始めた。

 夜の森の匂いを胸いっぱいに吸い込み、草を踏む音を聞いてオクトゥルの胸は高鳴った。

「イズ・ウバールのどこへ行くのでしょうか?」

「私の鍛冶場へ。」

 穏やかな口調の中に誇らしげな響きを込めてトゥルドは答えた。

「シギルさえも知らぬ私の鍛冶場へ。」


 

 

  



 

 




 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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