第五章 土の語り 4
長い夜明けの紫色の空が、黒々とした梢の上に横たわっている。東の方から射す光線がイネ・ドルナイルの額を飾る雲の冠を緋色に燃え立たせている。風は強く、吹き乱された髪は重い湿り気を帯びた。
男は返事を待つように小屋の戸の閉めた前に立っている。
「皆に聞く前に私が決めなくちゃならないのね。」少女は山を見つめる目を細め、尋ねるともなく呟いた。
「そうだわ。決まっていないのは私だけだもの。―――小父さんについて行くわけにはいかないのでしょう?」
「あんたはおれ達の役には立たんし、あんたには危険を招くことになる。どうしても来るなら追い払いやしないが、面倒は一切見てやれん」ヤモックは答えた。
雲の立ち込める朝とヤモックのかすれた声が、二クマラの湖畔で聞いた、アク、アクの烏の声と奇怪な姿を執拗に呼び起こす。湖の遠い煌めきと遠のく小舟の影がまなかいをよぎる。高い鼻梁と黒い目、黒い長い髪が毛皮を纏った黒っぽい肩を流線型に覆った姿はすぐ傍に立っている。シアニは少し横を向いて視界をずらし、考えようとした。
食糧が尽きているからここに留まるわけにはいかない。年取った兄妹にこれ以上の旅はさせられない。だが、自分だけでトゥサ・ユルゴナスの先へ旅をつづけようとするなら、危険の少ない行き先を見つけておかねばならない。
「とにかく、すぐに食べられるものが何も無いから、食べていける仕事が欲しいわ。」
シアニは背嚢の中の札と、二クマラを後にした時に見た熟れた麦の田を思い起こして言った。
「麦の刈り取りはまだ済んではいないでしょう?一番近い自作農はどこ?アツセワナの第三家まで行かなければならないかしら。」
「麦刈りはどこも遅れている」ヤモックは答えた。「賊と領主、百姓たちの間で麦の取りあいが起きているからな。コタ・ラートの方に行けば自営農が幾らか生き残っているが、藪とやんちゃな若い森の中を訪ねていくのはシアナの森を歩くよりもよほど危ない。住人がいなくなったところに賊が潜り込んでいることもあるし、半分自分が賊のようになった百姓もいる。」
「二十年前は美田だったところも噴火の後で荒れてしまったのね。」シアニは呟き、ヤモックを見た。
「城郭の外の丘陵の田、アックシノンの脇、コタ・ラート側の自作農の田、北から南までで麦の熟れる順に教えてくれない?」
ヤモックは少し感心して言った。
「概ね南から北へ行くが、熟れる時期に差があるというよりは慣わしだな。雇人は南から北に動いたんだ。方角の他で言うなら、アックシノン、丘、コタ・ラートだ。アックシノンは何と言っても良く獲れ人手も要る。丘はそれよりも収量が劣り、麦の種類がまちまちだし収穫時期も田による。家内で抱えている百姓だけてやり繰りすることが多い。コタ・ラートは家族やせいぜい親戚で切り回しているから昔からほとんど雇人を入れない。顔を知っている者しか家に入れないんだ。」
「アツセワナの領内で安全な家を順に言うと?」
「イビスにカヤ・アーキの内働きだ。だが、邸の門の外からきた者にそんな仕事などありゃしない。」
「邸の外の農地の仕事だって賊から逃れて来た人たちが先に詰めかけているわ。」シアニは真面目に言った。「顔見知りのいる彼らにさえ、入り口は狭い。」
自分がどのように最も安全なコタ・レイナを抜け出し、二クマラを抜け出したかを思い起こし、シアニは重々しく言った。
「家と保護を求めていては進めない方に、私の旅があるということね。」
「それはまた大仰な。」ヤモックは目を丸くしてみせた。
「雀のお宿に石造りの壁や番兵の控えている門構えは必要かね?通行人の台帳を置いてある関所を必ず通らなきゃいけないわけがあるかね?銀の皿に乗った料理は必要か?―――そりゃあんたは他の目でみれば、そんなものを望めるだろうが、だったらもと来た道を返すがいいだろうね。」
「止めてよ、その話は。」
シアニは遮った。
頭髪に混じる銀色の筋、古びた服の黒ずみの奥に隠れた柄、本当の齢が良く分からないほど皺の深く刻まれた痩せた顔の中に浮かぶお道化た表情。―――かいつぶりの大将が雀の事を宜しく頼む、ですって。何か他の雀の話だわ。私の旅の支度は新しくて上等だし、烏に世話されるほど尾羽打ち枯らしているわけじゃない。
「私に一晩軒先を貸せて、ご飯一椀くらいの仕事をくれる家があれば訪ねていくわ。」
シアニはやや無鉄砲に、早口に言った。小屋の中で物音がしはじめた。皆が少しずつ起き出している。
「小父さんがついて来るなと言うなら、ついて行かないわ。それでもたまたま方角が同じで道で出会うことくらいあるでしょう?小父さんたち烏の一党は“青頭巾”と出会えば戦いになるんだから、もちろん、私はそうなる前に離れることにするわ。せっかく小さくて目立たなくて、愛嬌はあり、義理は無し、って拵えなんですからね。」
戸が細く開き、キブの目がのぞいていた。シアニは身繕いをする櫛を探すふりをして隠しを探りながら戸口を離れた。隠しの中で、朝が来たら播いてみようと思っていた金橘の種に触った。シアニはヤモックの横を通り過ぎながら囁いた。
「少し考えさせて。」
小屋から起き出して来て鍛冶場の軒先に集まって来た人々に、ヤモックはアニの旅の行き先が皆とは違う方向になりそうだということを伏せたまま、昨晩仲間が探り出して来たアツセワナの様子について手早く説明した。
“青頭巾”の手下たちが占拠していたカヤ・ローキのアックシノンの村で収穫物を巡る争いが起き、騒動は第三家の領土や二クマラの近くにも及んでいた。
賊の報復への警戒と、避難してきた農民の受け入れに対応するために第三家は、主水路と公道に配置していた兵を新門から城の中郭あたりまで引き揚げ“青頭巾”の本拠、旧市街との間に防衛線を張っている。二クマラも二水路の南から門の周辺の警備をいっそう厳しくしている。アツセワナの丘から主水路にかけて広がる農地には生育中の稲と刈り取られるばかりに熟した麦が残され、その間にさまよっていた農民は徐々に集まって保護を求めにクノン・ツイ・クマラを南北に移動している。うろついている賊は単独か小集団のはぐれ者で、むろん出会いたくは無いが、大したことはない。この騒ぎの発端であり中心の“青頭巾”の一党は第五家の領内の邸と村に集まり、なりを潜めている。
「今は嵐の中の小休止というところだ。動くなら早いとこだな。むろん、本格的なのは後でちゃんと来るからな。」
ヤモックは上目遣いに空を見やった。
「それであんたたちの行き先だが」
アツセワナの西に位置し、王亡きあとも常にどの郷とも中立を貫いて来たトゥサ・ユルゴナスは、庄の自治と和を乱すものを厳しく警戒し、他所からの出入りを拒んでいる。
「だが、そんなことはあんたたちは出発前から承知のことだし、エマオイの口利きでぎりぎり入れてもらえるかもしれん。」
「トゥサ・ユルゴナスまではどれくらいかかるの?」アドルナが尋ねた。
「あんたたちの足でも丸一日もあれば。エノン・トゥマオイに続く正門まで行きつける。」
ヤモックが答えた。
「だが、正門には難を逃れて来た者たちがつめかけているだろうし、そいつらと一緒にいては到底中まで入れまい。悪くすると押しつぶされるかもしれん。他の入り口に回った方がいいだろうな。それに、思ったよりも風が強い。イネ・ドルナイルから湧いた雷雲がこちらに向かってくる。昼前に一雨来るな。」ヤモックはエマオイに振り返った。
「エマオイ、あんたはトゥサ・ユルゴナスの西のはずれの森まで行けば皆を案内できるだろう?」
「西の門が今も使われていれば。」エマオイは答えた。「西側は少し低地で雨が降るとぬかるむから、もし昼に雨が降るならすぐにでも出なければ。」
「キブはどこなの?」
アドルナが、アニから回された水筒を手に、辺りを見回して言った。
「何か食べ物がないか探しに行ったわ。」
アニは石壁の向こうを指差した。今朝、山椒の木の傍らに三粒の金橘の種を埋めに行った時に、明け方の蒼い明るみの中に小屋の裏の切り立った丘の下が見えていた。薪を取る雑木の林があり、ゆるい谷を形作りながらナラの森が広がり、斜面に飛び地のように木立ちの抜けたところがあるのに気付き、そこが畑に違いないと見当をつけたのだった。昨夕、小屋の後ろまで回って辺りの様子を見た時に、盲目の案内人が不審な気配を嗅ぎつけた犬のようにこちらを見上げていたことなどすっかり忘れていた。
「夕べの豆は畑から取って来たんでしょう?そんなに遠くないところに畑があるはずだって言ったら、裏に下りて行ったわ。」
「ひとりでか?」ヤモックは狼狽して呻いた。「ひとこと言ってくれよ。どうせ、何も見つからないだろうけどな。」
「そう言われると思ったから訊かなかったのよ。お腹をなだめるのにお小言くらいじゃ効き目が無いもの。自分の目で確かめなきゃ納得しないわ。」
「出かけてからどれくらい経つんだ?」
「まだ小半時も経っていないわよ。」
ヤモックは空模様を見ながら軒の下を出、小屋の南側の方に見に行った。
「出発が遅れる。」エマオイは温厚な顔に困惑を浮かべて呟いた。
「少々の雨ぐらいは凌げるよ。」キームルが穏やかに言った。「この日、かつてカヤ・ローキに暮らした誰もが雨の下にいるのだと思えば。キブには自業自得だしな。」
アニは軒下にさっさと腰を下ろすと、アドルナを振り返り微塵の気後れもなくねだった。
「帰って来るのを待つ間に話の続きが聞けるわ。」
シギル様は若者が頑固に名を言わないでいる間、少し意地悪をして襤褸を着せ、馬番や門番をさせておりましたが、染物屋の騒動の後にはご自分の従者として連れて歩くようになりました。服装も元に戻り、それがとても良く似合って、若者を知らなかった者も、すぐに王に付き従い、身体に備わった翼のように長い弓を負った姿を見知るようになりました。
城内の務めについては存じ上げませんが、シギル様は、城外へ若者を伴っては様々の施設、殊に民の暮らしを支える水路、水車、分水の仕組みや管理の方法、あるいは水運を利用した輸送の様子などを、トゥルド様を指南役として説明をし、時には若者に問いに答えさせ、作業もさせてみるのでした。
その風景は少し前まで王女様が父王の跡取りになるべく傍らに従っていた様子と似ていました。シギル様のお考えの中に家臣の教育以上の意味もあったのかどうか。真実のほどはわかりません。若者に国を見せると同時に、民に若者の姿を見せ、双方の度量を推し量っていたのかもしれません。
ただ、それははるか時の経った今振り返ってみればのこと。
例の主水路のふたつの村の審査の期日が近づいておりましたので、姫の縁談については誰もが、内心の関心とは裏腹に話題にするのを控えておりました。
夏の初めにコセーナよりダミル様が、イナ・サラミアスの長の伝言を王に届けに来られたことがございましたが、アツセワナではゆっくり姫君と顔を合わせることも無く、イビスに滞在しておられる兄上、ダマート様を少し訪問されて帰っていかれました。
姫君は、もう夏の頃には秋の祭りの采配を取るために準備に追われ、王のお供はなさいませんでした。
「やっと男の真似事をやめて元のようにおとなしくなった」と言う者もおりましたが、穂波の上に出ている案山子と下に隠れている作人と、どちらがより働いているか、身を持ってわかりそうなものではありませんか。
ロサリス様が城内に連れて行った三人の娘たちがどうしているか、私は上の郭に行く用のついでや母親たちからの言付かりものがある時には様子を訪ねて行きました。
テポケナの入った職能修練所の指南役の話によると、仲良くなったハヤが時々訪ねて来るのだとか。テポケナは生糸を縒る方もなかなか筋が良く、機織りも習い始めたそうでした。格段の上達ぶりをみせておりましたので、これまでならアタワンの工房から声がかかった事でしょう。しかし、シギル様は夏の初めの事件を受けて、修練所からアタワンに織子を向かわせるのを一旦禁じられました。そのしばらく後でしたが、イナ・サラミアスの交易の責任者から申し入れがありまして、絹の技能者の新たな育成を見合わせることになりました。それでテポケナは絹の製法について最後の研修生となったのでした。秋の“初穂納めの儀”の後に王女様はテポケナをハヤ同様お引き取りになりました。
さて、あの元気な愛すべきスクヌーは、失敗せずにうまくやっているかしら?台所の料理長が気長な人ならいいけれど。
スクヌーが城の台所で働きはじめた間もない頃、私が母親の言付かり物を預かってアックシノンの村から出たところで、隣村の若者に呼び止められたことがありました。ずんぐりとした無口な子でしたが、腕に見事な遅咲きの菖蒲の花を束ねて抱えておりました。「ちゃんと咲いたよ。伝えてくれる?ほら、この花をいっぱい育てていた子に。」そう言ったのがやっとで聞こえました。
私が訪ねて行くと、スクヌーは初めのうちは畏まってしかつめらしく働いているふりをしていましたが、男の子がくれた花を見ると俄然おしゃべりになり、習っている料理のことだの、秋の収穫祭で貰えるはずの休暇が待ち遠しいだの、豆を撒くほどの勢いで話しました。そして、珍しい干果の入ったお菓子を「子供たちに」と沢山包んでくれました。
「随分気前よくくれたけれど、大丈夫なの?」私は心配になって尋ねました。新入りが勝手に食べ物を持ちだしたら、年かさの人たちに何と言われるかわかりませんもの。スクヌーは首を振って、
「子供たちに数が足りなかったらそれこそ大変だわ。喧嘩にならないように、食べ物だけは公平でなくちゃ。」
確かに、この頃はいつも隣の村の子達も南側の村に来ているのです。思いやりを無にしない様に、これは私が直々に見ることにしましょう!
ホアジは、施薬院の薬師の助手として働く傍ら、薬草について学んでおりました。また施療院でも、看護人として頼りにされているということでした。心の優しいだけでは挫けてしまうような恐ろしい手術に立ち会ってもひるまず、長い苦痛から心を閉ざしてしまった患者の不機嫌や意地悪にもびくともしなかったのです。私が村の近況や母親の様子を伝えた時も、仕込み中の薬の点検の手を止めず、淡々としたものでしたが、最後に長く胸を患っているテポケナの父の容態を尋ねました。
「一旦咳き込むと止まらなくてね。」
ホアジは薬師に倣って自分で作っている薬の瓶の中から選び取って小瓶に水薬を注ぎ分けてくれました。
「発作がひどくなる前にこれを。一度にひと匙だけ、日に二回までね。」
私は、館の年寄りの薬の分のお金を払ってしまった後でしたので、つい、お代が無いわ、と言いました。
ホアジはつんとした手厳しい調子で、「私は見習いで、薬は余りものよ。」と、答えました。これが、ただだという時のこの娘の言い方なのです。
いけない、いけない、もうすっかり何でもお金でないと片がつかないと思うようになってしまったわ、私は十以上も年下の娘の前に恥じ入りました。
患者の苦痛と生きる時間には支払いの猶予などないのだと、ホアジは片時も忘れてはいないのです。
「効き目がどうだか教えてちょうだい。」
ホアジはぶっきら棒に、しかしとても強い眼差しで私を見て言いました。必ず、と私は約束しました。
「小母さんが通った頃は修練所ではまだ絹織物を教えていなかったけれど、王女とハヤは習った―――絹織物を教えていたのはどのくらいの間だったの?今織れる人はどれくらいいるのかしら?」アニは尋ねた。
「絹織物を教えていた期間はだいたい十年ほどね。」アドルナは答えた。
「ロサリス様の他はほとんどがクシガヤから来た娘たち。ロサリス様は王家の女子の務めとして儀式の供物にする絹を織るために習ったのだけれども、クシガヤの娘たちは生活のためだった。故郷にいては手に入らないお金のためだったの。テポケナはアツセワナの村の娘としては最初で最後の生徒ね。アツセワナの娘にとって、普段着用の毛織こそが必要な技だからね。」
「どうして、絹織の技法を教えるのをやめたの?イナ・サラミアスが反対したということ?」
「そうだ。」キームルが言った。
「三年前からアツセワナでの絹の値は下がりはじめていた。だが王は身を削って鉄を提供した。それでも彼らも市に出回っているものには気が付く。タフマイのアー・ヤールは以前から抗議をしていたが、トゥルカン様は取りあわなかった。が、この年はヒルメイのアー・ガラートが直接王に申し入れをしてきた。かの地に侵入し蚕種と織子を脅かす者がいたとして抗議し、取引の内容を見直したいと申し入れてきたのだった。実際、発見されたクシガヤの娘以外にもさらわれ、チカ・ティドに売られた娘や子供がいたのではあるまいか。」
アニは眉をしかめて考え、腹立たしげに言った。
「王女も誰も彼も―――半分も気付いていないのね。グリュマナがどこに現れて何をしたのか。」
「自分のいる辺りに翳りを落とすものが単に空を流れている雲のこともあれば、近づいて来る猛鳥の影のこともある。物事に気付くには時間がかかる。この二十年で私たちはもうたくさんだというくらいあの男の事を知ったが、それでも未だにあの男の素性は分かっていない。」
私は、第三家の執事が宰相から羊を受け取ってけろりとしているのを怪しからんと思ったが、彼がさらに賄賂のあることを匂わせたのと、彼と比べて我が館の執事の悩みようがあまりにも大きいのを見て、羊一頭の事では済まないものを受け取ったのではないかと懸念が募った。そこで、思い付きに過ぎなかった事を執事に提案した。
蔵の中には一年半も前にシギル様から頂いたイナ・サラミアスの絹がある。羊の返礼の贈り物としてはどうだろうか、と。
私はその話を帰って来てすぐに執事にした。執事は自分でも一度ならずその事を考えていたらしく、難渋の表情を浮かべた。彼は私も気に掛けていた事を主に気にしていた。つまり、安易に羊の返礼として贈ると本来の絹の価値を大きく下げてしまう事になる、と。
翌日にはクシガヤの娘の事件がアツセワナじゅうの噂になり、続いて王女が誘拐されかかったの、衛兵同士の喧嘩で街に被害が出たのと、王とトゥルカンとの間で鎬を削る睨み合いが続いたので、執事はこれを腰の重い理由にしてなかなか出かけなかった。
もともとは正直な人だから、王女の身に危険の及びかねないほどに競争が拡大するのを危ぶみ、このまま唯々諾々とトゥルカン様の側に組み込まれ、シギル様に不忠をすることを潔しとはしなかった。それでも第五家の軛となっているトゥルカン様からの借りを返済しようと腰をあげたのは半月も経ってのことだった。お館様は無関心でトゥルカン様の言いなりに不正をしているという自覚もない。彼は私にさえ悩みを打ち明ける事は出来なかった。また、私もそうまで深刻な事になっているとは思っていなかったのだ。
執事は朝早く反物を包んで徒歩で出かけ、そして人目を凌ぐようにして帰ってきた。宰相か、その執事かに冷たくあしらわれたに違いない。顔を隠してすぐに自室に引き取ったが、頬を大きく腫らし、足を引きずっていた。
後でその近くに住んでいた指物師と金細工師に聞いた話によると、執事は宰相邸の裏口から帰され、旧市街でもとりわけ古い、あの染物屋のある通りでワナ・ダホゴイの門前の通りを住処にしている男たちに絡まれたのだそうだ。
「トゥルカン様のとこの塾を出た若いもんでさ。」指物師は気に食わないという風に目配せして言った。
「みんな手に職があって腕もいいけどよ。話をしてみても一刻というか、雨樋みたいな一方通行の奴ばかりで。あいつらの同輩には兵隊もたくさんいるよ。」
さらに金細工師が、二度とは聞かないでくれよ、と言ったうえで話してくれた。
トゥルカン様は最後には染物屋の損害分を全額支払い、傷物になった染物も買い取った。シギル様からも賠償を受け取っていた染物屋は、結果、大儲けをしてほくほくしていたが、何日もしないうちにぽっくりと死んでしまった。ワナ・ダホゴイの職人が何人かで染物屋の店舗を丸ごと女房から買い取った。女房と息子には意に染まない取り引きだったか、泣く泣く出て行ったね。
ちゃんと染物をし、商いをやっているかどうかは知らない。が、隣にいた織物屋も仕立屋も皆、引っ越してアクス・タ・ソレに移った。彼らの居たアクス・タ・コエのあの一帯はワナ・ダホゴイの者たちで新興の街になっている。見ればすぐわかる、皆どこかしら青いものを身につけているから。分かりやすいのは青い頭巾だね。
執事は結局、トゥルカン様にイナ・サラミアスの絹を受け取ってはもらえなかったのだ。彼は長いこと黙っていたが、先代様が亡くなられた後、高齢を理由に職を辞した。何年も後で蔵を整理した時、私は絹がもとの棚に戻されているのを見たのだ。
「可哀相なおじいさん。」
軒先の向こうの暗い雲の中にしきりに閃く蒼い光を見ながら、アニは呟いた。
「私は二クマラに着いた時、親切にしてもらったわ。門の中に入れるように口添えしてもらったもの。私にとっては悪い人じゃないかったし、臆病な人でも無かったわ。」
「遠い国の女の子に親切に出来て嬉しかったのじゃないかしら。」
アドルナがなだめるように言った。
「心を塞いでいた二十年ちかくの闇が払われて、アツセワナが最も栄え、生き生きとしていた頃の事がよみがえったのよ。カヤ・ローキに若い人たちがたくさん働きに来ていた頃の、まだ自分に威厳があり、温情をもって奉公人の世話をしていた時の事をね。」
せわしない稲光の合いの手のようにヤモックの短い罵声が小屋の後方の下から、横あいから、前からと近づいて来、それに追い立てられるように大股に飛び跳ねるようにしてキブが鍛冶場の軒下に飛び込んで来た。草を噛んでいたのか、唇や爪が緑色に汚れている。
「ぼうず、ここに目隠しで来た訳をその頭でよく考えろ!」
ヤモックは軒先で追いついたが、キームルとアドルナの間に逃げ込んだキブをそれ以上は追わず、ますます烏のように見える怖い顔で睨みつけた。アニは少し庇うようにキブの前に割り込んだ。
「私が言ったからよ。この子だけのせいじゃないわ。―――そんなに頭ごなしに決め付けたら、この子だって小父さんと話そうとする気を無くすわよ。」
ヤモックは荒々しく鼻息を吹いて背を向け、あっという間に暗くなった空を見やった。
やがて大粒の雨が重い空気を引っかきながら続けざまに降って来た。冷たい風が雨を軒の中にまで運び、皆は作業場の奥の方へと逃げた。一同は自然と炭火の熾った火床を囲み、入れ替わりに、ずっと火の番をしていたエマオイが抜け出し、腰に両手をあてて空模様を見ているヤモックの傍らに行き、昼には回復しそうかと尋ねた。ヤモックは面倒くさそうにうなずいた。
「もちろんさ、すぐさ!」
そして膝の上に頬杖をついて火を眺めているアニを指差した。
「見ろよ、どうせあいつがすぐに動きやしないよ。」
「正しい人でいるのは難しいことね。」
アニは物語に思いを移し、考え込んだ。
「叩かれたりしたら、誇りを踏みにじられたら―――。父さんに叩かれたことが無いわけじゃないわ。私は立ち直れないほどへこんだりはしなかった。父さんはちゃんと手加減したから。でもすぐに心の整理がつくわけじゃないし、とてもとても腹が立ったけれどね!それでも、」アニは声を低めた。「もし、父さんが本気の手加減無しだったら、それが正しい心からであろうと何だろうと私は身も心も木っ端微塵になってしまうわ。おじいさんは悪者に屈服させられて本当に辛かったでしょうね。」
「男が耐えるのは自分の痛みばかりではない。」
キームルはもの思わしげに付け足した。
「責任を負う人や家を質に取られたなら、屈辱に耐えてでも守らねばならん。」
アドルナがちょっと首をかしげ、アニが異論を唱えようと口を開きかけた。
「男が、かね。」
鍛冶場の軒下で雨の様子を眺めていたヤモックがふらりと身体の向きを変えて近づいて来、炭火の具合を見た。身体の前面に雨の粒が光っている。雨はごうごうと音をたてて振っていた。キブは所在無げにもじもじと両膝を掻いている。
「それはむしろ女の戦いだ。雌雉の戦いだ。巣にこもって卵を抱いて、近寄る敵の目を欺き、最後には身を挺して卵を守るが、結局全部取られるのさ。」
火を囲んでいた人々は薄暗がりの中で目を上げて彼を見た。ヤモックはちょっと笑った。
「いや、いいさ。立派だよ。雄は無鉄砲の自惚れ屋で、大きな相手に向かって行きあっという間にやられるのさ。雌が残っていれば何とかなる。それでカヤ・ローキは二十年間、安泰とはいわずとも持っていたんだ。」
「あんたは古の戦士の魂を持っておいでだ。」
キームルは、ヤモックの半白の長く伸びた束ねた髪や服の上から毛皮をそのまま纏った装いに静かに目を当てた。
「アツセワナはもう何百年もの昔から、男が戦士に生まれるとは限らない国だ。戦うのは王族と忠誠を誓った領主、兵士。土地持ちの百姓たちが武器を取るのさえ稀なのだ。私たち内勤めの者は、他の凌ぎ方を知らないのだ。あんたから見れば何ら女と変わらぬだろうが。」
「気を悪くしないでくれ、おれは自分の故郷の負け戦を思い出しただけさ。」
ヤモックは申し訳なさそうに早口で言った。「男も屈辱を凌んで場を守ることを知っていれば、誇りも名も無くしても、もっと大事なものが残ったかもしれないと思ってな。おれは弓矢と小刀を玩具に育ったというに、巣も女房も守れなかったのさ。恨みっこなしだ。」
アニが振り向いた。
「小父さんが烏になった話をまだ聞いていないわ。順番はまだだけれど、忘れていませんからね!」
「分かったよ。それが返事なんだな?そう急ぐなって」
ヤモックは顔を背けて言い、そそくさと小さな炭をもうひとつ足した。激しい雨音は去り、戻った明るみの中に細かな雨粒の矢がまばらにきらめいていた。空に残った一片の雲が風に流されて行く。ヤモックは言い訳がましく新たに火の移り赤い光を放ちはじめた炭をあごでしゃくった。
「ほら、それが燃え尽きるまでが待ち時間だよ。雨が上がって地面の水が少し捌けて歩きやすくなるまでのな。それが灰になったらトゥサ・ユルゴナスまで一切休みなしだ。それこそ喋っている暇なんて一瞬だってないぞ。お喋りのしたいやつも、聞きたいやつも全部ここで済ませていくんだ。」
「それじゃ、やっぱり、私は小父さんたちと―――」
アニが声を大きくして言いかけたのを、ヤモックは大きく咳払いをして黙らせた。
「なあ、昨日からあんたたちは何かえらく懐かしい話をしていたな?おれがここにいるのが嫌でなかったらついでに聞かせてくれよ。黄金果の競技の後で、アツセワナの村の田んぼの競争があったんだって?そんなものがあったとは初耳だね。それを戦ったのは誰だ?」
年取った兄妹は互いに尋ね合うように見交わしたが、どちらも口を切らなかった。
「王女とグリュマナよ。」
「驚いたな!王女に座って糸を繰ったり機を織ったりするほかに何か出来たとは」
ヤモックはけしかけるように語尾を強めた。
「あら、出来るのよ。とても勇敢よ―――時には。」アニはむきになって言い、アドルナに振り返った。「小母さん、話して。王女が二年間の取り組みの後でどんな風に競技に臨んで、結果がどうなったかを。」
「実は、私は競技そのものは見ていないのよ。」アドルナは残念そうに言った。
「祭りの間台所に籠りっきりでしたからね。結果は後で聞いたけれども、それを私が言ってしまうよりは、実際にその場で見ていた兄さんに話してもらう方がいいわ。」
「私が競技を見たのは本当だが」キームルは少し考え、これまでよりも妹に遜るような丁重な調子で言った。
「私がその始まりから終わりまで順を追って話すだけでは、どうしてそんな奇妙な成り行きになるのか、狐につままれたような気持になるだけだろうよ。何しろ、夕べからアドルナの話を聞いてようやく秤の皿が動いたわけがわかりかけて来たのだからね。」
アドルナは雨の上がり、軒の影を際立たせる光が外に漲ってくるのを眺めて言った。
「私に話せるのは、あとほんの少し。見聞きしたことがあるだけですよ。随分昔の話だし、私の他に知っている者はいないのだから兄さんの先に話してしまいましょう。それならちょうどいい順で話が進むのじゃないかしら。」
秋も初めの頃には、二度目の大きな収穫を控え、アツセワナは城内に漂う風にも稲の穂の熟れる甘い香りが混じってまいります。私はテポケナとスクヌーの母親から娘たちに渡す毛織の暖かい上着を預かって届けに行ったところでした。ホアジには施薬院では会えなかったのですが、ちゃんとテポケナの父親のための薬は取り分けて用意されておりました。今ではこの薬は欠かせないものになっておりました。
混雑している中央門を避け、ロノ・ニーミアを通って第一家の前の通りの方に抜けました。その辺りは大きな荷を積んだ車が通ることも無く、日用の物を商う小さな店舗と住居が軒を並べているところを女や年寄りがのんびり歩いて用を足せるところでした。
城郭はどの層にも方々に眺望の良い緑地を設けておりましたが、最上層には特に庭園が多く、名だたる家々の所有する庭園の他に王は人々が自由に休める園を設けておられました。そうしたところには通りの目から気兼ねなく腰を下ろせるよう、広い木陰と目隠しの生垣、造り付けの長椅子や泉が備わっておりました。
第一家の前から、城郭の東に張り出した、そうした民のための苑に向かって行きますと、門とも呼べない狭い壁の隘路を経て中の郭へと下りて行く坂道がございます。右へ左へと緩やかに下るにつれ視界が開け、なかなか清閑な趣がありますのと、苑から壁伝いに伸びて来たモッコウバラが下り口を飾る様から、昔から恋人たちの坂と呼びならわしておりました。徐々に丈の低くなる石垣がまた、寄り掛かったり、腰掛けたりするのにおあつらえ向きなものですから、待ち合わせの門または頬杖の門などと年寄りたちは呼んでおりました。もちろん、本物の若い恋人たちはそこで落ち合うことなど絶対に避けたものです。
私などはもう行き遅れもいいところでしたので、大人のような顔をして堂々と下りて行こうとしました。するとどうでしょう、壁の間の狭い坂道の両脇に、ホアジと隣村の男の子が立っているではありませんか。
男の子は、普段から朗らかな人懐こい、回転の速い子でしたが、この時はどういうわけか、空の色がどうだの、どこの小路のスイカズラが甘いだの、耳を洗う時にはどうしているだの、当たるを幸いにどうでも良い話を延々と続けているのでした。
ホアジは、男の子の要領を得ない話しぶりやもじもじ服のお腹の辺りを握る仕草や、黙って立っているだけの自分自身や、普段の彼女なら一刻も我慢できない状況に辛抱強く耐えていました。ただし、浅黒い顔には燠のような赤みが兆し、伏し目の下で瞳が星のように光っていました。
私は結局中央門の方へ向かいました。ふたりの様子を見るに、話が肝心のところに行くにはまだたっぷり時間がかかりそうでしたし、どうせ遠からず、咳ばらいをして間を割って通り抜けるお年寄りが現れるに決まっているのですから。
そうして待ち合わせの門をどうやら邪魔せずにやり過ごし、私は朝からの用事で少し疲れましたので、帰り道のひと歩きの前に木陰で休んでいこうと庭園の中へと入って行きました。通りからは木立ちで隠され、麓の方に視界の開け、近くに泉もあるあずまやの方へ行こうとしました。
厚く葉の繁った深い陰と、青みの強く出た初秋の草の中で白い軽やかな長衣の姿が目に入りました。この頃ずっと祭りの供物の絹を織るのに機屋に籠っていた姫君が、仕事の合間に田園の見回りに出られ、休憩に立ち寄られたのでした。
姫のいる槻の木陰の幹にもたれ、やや浅い緑の人影が浮き出ておりました。姫がおっとりとした優しい調子で話しかけておられるのに対し、若者は伏し目がちに、少し神経質に側頭から衣服から塵を払う仕草をし、言葉少なに答えていました。
私は遠慮と好奇心のちょうど折り合いのつく辺りに腰掛けのある木陰を見つけ、なんとなくおふたりが視野に届くあたりに腰を下ろしました。
おふたりは何か互いの仕事のぐあいについて話していて、そうしているうちに少しお互いに晴れやかになってきたようでした。その様子はと言えば以前第一家の庭園で見かけた時とはまるで逆さで、姫が丁寧に言葉をかけるにしたがって若者のぎこちなさが徐々にほぐれ、おふたりの間によどみない風が通い出すかのようでした。
聞き取れるやり取りの中で、私は若者が故郷のイナ・サラミアスから下りて来たときに意外なものを知らなかったことに驚きました。若者はコセーナで暮らしはじめたばかりの時、車輪というものを見た事が無かったのだとか。必要も無かったしあっても役に立たなかっただろう、と言いました。
ところがそれで話が他に移るのかと思えばそうはならず、ふたりして車輪の働きを応用した滑車の装置のことやら水車のこと、車輪の輻の放射の並びや、果ては円形をしたあらゆるものの形―――花の形や木の年輪の出来かた、水の波紋や円形に運動するあらゆる物という物にまで話が及んだのでございます。
「主水路から引いて来た水を東西に等しく分けるあの仕組み、知っている?」
「水路の分水の丸い筒ね。下から流れ込んで来た水を上に沸き出させる仕組みよ。」
「イナ・サラミアスのただむきの滝、それにいくつもの泉は皆、同じ仕組みなんだ。地の中を通ってきた水は、出口の条件が同じなら等しく分けられる。ハーモナの泉も。」
「城内の多くは水を賄うのに水車でコタ・イネセイナから上げたものを分けているの。ここの水もよ。泉のように見せかけているけれど汲んだ水なの。河の岸から何段も水車でくみ上げた水を高い樋に移して丘の上の貯水槽に上げているの。広場の丸い大池の水よ。それでも古くから掘られた井戸は底から湧いているのよ。第三家、第五家、他にも旧市街には多いわ。でも、実は主郭の中にも井戸はあるのよ。」
「どこから来ている水だろう?主郭よりも高いところから来ているはずだ。」
どうやら、馬で耕地の見回りをしながらのトゥルド様の学校が面白かったものとみえます。
その他、若者がアツセワナに来てから見た色々な道具や装置について尋ねますと、姫が仕組みや働きの説明をなさいます。若者は少し耳を傾けて考え、草木や動物の身体のつくりや動きになぞらえたり比べたりして、このようなことだろうか、と問い返します。姫は村で子供たちに何かを教えるのと全く変わらない口調で相槌を打ったり、逆にそれは何、と尋ねたりと、互いに飽きずにそんなやり取りを繰り返しているのでした。
私はつい先ごろやり過ごして来た方の若いふたり組の方も思い起こし、近頃の年頃の子たちはこんなふうにすぼっと立ちん坊のまま、とりとめもなく話し続けるのが楽しいのかしら、と思いました。それでいて、おふたりの声音、調子はごく真面目ながらも時折どんな様子かしらと覗いて見ないではいられない気味があったのです。
「宿舎の居心地は、それに食事や水は口に合うかしら?」
姫は少し気掛かりそうに、若者の以前よりは少し痩せた顔や、さすがに少しくたびれ、擦り切れやほつれの見える服に目をやりました。
「アツセワナは人が多い。」
若者はただそれだけ言いました。
「羊を見に行きましょうか?」姫は気晴らしを提案するかのように言われました。「どのみち、見回りに行かなければならないの。このまま林を抜けて花園の奥にいるのよ。」
「羊も―――好きじゃない。多すぎる。」
若者は明らかに興味を失くしたようでした。
「そこにいるのはたった一頭だけよ!供物用に肥育しているの。多いだなんて、イナ・サラミアスの草木の方がずっと多いのに。」姫は笑いかけ、「―――人も?」
若者は少し背を向け、こらえきれなくなったか手を口元にやってあくびをし、根方に腰を下ろしました。姫は同じ木の少しずれて回り込んだ根元に腰を下ろしました。少し遠慮はしているものの、立ち去りがたい様子。
「父は“初穂納めの儀”で供物の羊を屠るわ。恵みに対して感謝を捧げる。それが王族の務めよ。古来自ら育てた羊を自分の手で捧げたの。でも、今はアツセワナでは普通に潰すときも育てる者と殺す者は別だわ。情が移ると仕事に差し障るから。父は手を汚すことは自分でやる―――。でも育てるのは別の者に任せるわ。父は何度か育ち具合を見るだけ。」そして若者の突然の不機嫌が承服できないように付け加えました。
「イナ・サラミアスでも、収穫に感謝はするでしょう?」
「多すぎる。」若者は木にもたれかかり、目を閉じました。
姫は聞いているかいないかもわからない相手に頓着せず、もしかしたらそれが子守唄になるならそれも構わないとでも思われたか、淡々と、ご自分が準備なさっている仕事について話しはじめられました。
“新穂納めの儀”は無論、一年の農事のはじまりを表す“水入れの儀”と対になっているのです。田に入れる水を水路に呼び込む儀式に始まり、水を止め、収穫を終えた田で捧げものをし、大地と人々の間で収穫を分かち合って一年を結ぶのです。これはまず、各領内で饗応という形で行われ、それに続いてアツセワナではこの他に王の執り行う供物を捧げる儀式と領主たちを招いての饗応。そして余興としての競技や技能を競う会が催されます。
ロサリス様は十五の歳から王より供物の準備の任務を仰せつかっておられました。ひとつには主郭の中の供物用の田の管理と、収穫の儀式の執行でございます。さらにその収穫物を、祭壇に供える生の穂束と田に捧げるパンとに分けて用意すること、第二には子羊の肥育の役を任命し、監督すること、そして第三には絹地を織ることでした。シギル様のお妃、ニーニア様は初め、昔ながらの風習に従って羊毛を織って奉納しておられました。が“黄金果の競技”以来は、毎年イナ・サラミアスから友好の証として提供を受けた生糸をもとに、絹地を織って奉納するようになったのです。先に申し上げたように、ロサリス様は十二の歳から織りの技法の訓練を受けておられました。
姫は若者の方を少し気にしながら小声でこう付け足しました。生糸は素晴らしいものだが、イナ・サラミアスの人々は羽化したあとの繭を紡いで織物にするという。自分も是非ともその技を学びたい。蝶を小虫から育ててみたいとも思うが、蚕はイナ・サラミアスの大切な財産だから分けて貰えるとは思わない、でも、もしか蝶が破って出た後の繭を分けてもらえないかしら、チュニックの着丈にするくらいの糸をとるのに―――姫が若者の服の傷みを気にとめているのは間違いありませんでした。
槻の根方には無造作にあの美しい外衣が置かれていましたが、一見ひわ色に見えるその織物は近くでみると様々な細い色糸が複雑な細やかな柄で織られ、アツセワナの石で舗装された路以外ではそれを纏った若者の姿をいつも周りの景色に溶かしてしまうのです。若者は目を閉じたまま外衣を引き寄せかけ、また不意に押しやりました。
姫は、少し居ずまいを正して、初穂納めの儀に行われる主水路のふたつの村の競争のことを話しました。
父王と宰相のふたりの前で、女王になる資格を自ら勝ち得ないうちは夫を迎えるつもりは無いと宣言したこと。またその暁には宰相を退け、その権威の証の鍵を譲り受ける所存である、と。それに対し、課題と二年の期限が与えられたこと。課題はふたつの村のうち、担当する村をもう片方よりも豊かにせよ、という内容であること。そして、次回の初穂納めの儀の後にその審査がなされるということ。
まどろんでいると見えた若者は、身を起こし、初めて知る事情に耳を傾けるようでした。そして、姫が先から度々若者がアツセワナに来た訳を尋ねてもいっかな応じなかったというのに、突然度を失ったように言ったのでした。
「故郷を出てからすぐに僕はコセーナに学ぼうと思い、向かった。ダミルが訪ねるよう誘ってくれていたしコセーナなら父や大叔父から少し話に聞いたこともあったので。領主と奥方から、ダミルは王とあなたに随行してアツセワナまで行ったのだと聞かされたが僕は驚かなかった―――“黄金果の競技”であなたはダミルを選択したものだと思っていた。」
「決めてはいないわ。」
ロサリス様は意外そうに仰いました。最も思いもかけぬ相手に決め付けをされたことに傷ついた風でした。
「この二年間、何も決まってはいないわ。見ての通りよ。ダミルにはほとんど会ってもいないのに。」
「ダミルをどう思っているの?」
若者は似つかわしからぬあけすけな物言いで尋ねました。
姫は苦手な計算問題を出された子供のように当惑した顔になりました。
「ダミルは従兄よ。初めから大人だわ―――若い父上がもうひとりいるみたい。私がおかしなことをすると、いつも決まって見ていて笑うの。いつも、私が気付くより先によ。」
若者は何か思い当たることでもあったのか、姫と同じ神妙な顔つきになりました。
「コセーナはアツセワナの有力な家のほぼ全てが認める家柄で、叔父上が引き継いだ家風も父の理想に近いものだわ。ダミルが父を継ぐのには何の不満もないわ。彼なら強く慈悲深く、立派な王になるに間違いない。―――だけど、伴侶は力を合わせて家族をつくるのよ。補い合う部分が同じように尊重され、役目が同じでなくても立場が同等でなくてはならないわ。自分が子供としか思えないのに、ダミルを夫として見ることは出来ないわ。少なくとも、今はまだ。」
「ああ」
若者は理解の声を漏らし、目をはるかに遣りました。
「それで、この課題をやりおおせれば、何かそれまでに自分には無かった力の証なり、資格が得られると……。」
「資格―――いいえ。ただ、分かりたいのよ。」
「誰に分からずとも、自分に?」
若者には姫の言葉が我がことのように思える心地を体験したことがあったのかもしれません。しかし、姫に目を戻すと、いたわりと牽制を込めて言いました。
「あなたは男になろうとしている。」
「女の功績は男に使われ、消えてゆく。」
姫は憤然と見返し、言い返しました。若者は言われた言葉を含むように考え、丁重に、しかし、断固として返しました。
「男と女の役割が違うからといってそこに優劣があるとは思わない。男はそれを忘れないが、役目を取り換えることはできない。」
私は陰で聞いていて姫同様に気が揉めてまいりました。男は忘れない、ですって?立場の強い人が心にも無いねぎらいの言葉を投げ与えるのは、それはもう簡単なことです。下々の者は空っぽのお支払いでどれだけ使われたことか。
姫は、私の思ったことをもっと遠慮会釈なく仰いました―――思えば他の誰に対しても、この若者に対するように仰ったことはございませんでした。それは、お立場に課せられる厳しい自制心の殻がほんの少し緩んで顕れた、素直な失望と不平だったのかもしれません。王女という身分から遜って接したというのに相手は男であることを嵩に懸かる物言いをしたのですもの。
「宰相もアガムンも自分では何もしないわ。身体を張った男の仕事も、女の仕事さえも。」
「母は弱かった―――普通の女のする仕事が出来なかった。機を織る他はなにも。」
全く関係が無い事まで持ち出して話を拗らせるなんて、一体何をしているのでしょう。これでは自分で口にした対等の意味さえ打ち消してしまうではありませんか。
姫君はもう唯ひとりの味方さえ失くしたように悄然となさって、あくまでも女は守られるべきものだと主張する若者を、向こう全部の男共の方へ選り分けて話をお終いにしようと思われたようですが、若者の方は今さらながらすっかり目が覚めたようです。
競技の進捗についてひとつひとつ詳細を問いただし、なかんずく、トゥルカン様の選んだ男の方策に対して姫があまりにも無為なのに不安を募らせたようでした。
「あの男があなたの相手に?」
若者はもたれていた槻の幹から身を起こし、姫の方に乗り出すようにして口調にも厳しさを増していましたが、競争相手の男というのがあのグリュマナだと聞くと、相手が王女だということも忘れたように難詰しました。
「あなたはトゥルカンが失敗の代償について含みを持たせているというのに競争を承知したのか?」
私はこの場に長く居すぎた事を後悔しました。お天気の雲行きはどう流れるか分からないもの。それにしてもこれほど急に気象が変わるなどと想像できたでしょうか。
思えば王の供人が姫と語らうのを咎めず、面白がって聞き耳をたてていた私が悪いのです。ここで気を取り直して割って入るべきなのでしょう。しかし、幸いにも私の出る幕ではありませんでした。
「あの人は代理人なのよ。」
姫君は立ちあがって若者に向き直り、落ち着いて答えられました。
「宰相と父の競争の。私は父の方の代理人だわ。父は私の戦う場を自分の陣地を精一杯譲って設けてくれたのよ。男と同等の条件で戦うことを一度に限り。宰相も、そして民の多くも結局は私が善戦しても勝ちを認めないかもしれない。私はやはり父の面目を潰すのかもしれない。それでも父さえ私を認めてくれれば満足だわ。」
姫のこのような、父君が身を挺して賜る庇護ばかりか国土と民への責任を投げうつような言葉は私としても受け入れがたいものでした。しかし、若者は何を思ったものか口をつぐみ、眼差しは厳しいながらも姫に目礼すると、下に置いてあった外衣を拾い上げて、静かに通りの方へと去って行ったのです。
「なるほど」キームルは呟いた。「初穂納めの儀の競技では誰にとっても少し番狂わせが起きたようだが、それはトゥルカン様よりも、シギル様をより揺るがせたということだな。」
「兄さんの番よ。」アドルナが促した。「意味ありげな独り言は後にして、競技の事を話してくださいな。」
米の収穫と脱穀が終わり、それぞれの領地では収穫の祭りと饗応が順次行われたが、我が第五家では例のアックシノンのふたつの村の審査が終わるまでは、と饗応を延期していた。お館様は家内の行事においても意欲を失くされていたので、宴会を取り仕切る執事としては、村の決着がつき、判定が下るまでは賄賂の羊には手をつけまいと精一杯の抵抗をしようとしたのではあるまいか。羊は見事に太り、毛並みも良く、肥育場にやって来た時のふた回りも立派だった。
稲田の刈り取りに入った辺りから、アックシノンの村の周りには徐々に注目が集まっていた。村の水路を越した西の草地に審議の場が定められ、草を刈り、地を均し、砂を入れて叩くなど整地が行われ、村の成果を測る方法が七名の審議員によって発表されたからだ。
二年に渡って蓄えられた村の資産は全て穀物の重量に換算されて、用意された秤の上に載せ、より重い方を勝ちとする。
アツセワナの家の雇人、商人たち、コタ・レイナの郷の者たちまでが、それぞれの主の馳走に舌鼓を打った後、さらに面白い見世物を求めて、主水路の沿岸へと詰めかけた。二クマラから荷舟が出され、木枠やら、腕木やら、土台やらのほぞを切った部位を山のように積んで、二水路から主水路へと北へ遡り、審査場まで運ぶのだ。ダミル様が冗談のように仰った案だったが、シギル様、トゥルカン様はトゥルド様や大工たちの意見も交えて慎重に検討し、二村の産物を載せる巨大な秤を用意することに決めたのだった。話によれば二年前から既に、資材は二クマラ領に運び込まれ、入念に乾かされ、計量されたのだとか。
二村の百姓たちが、わき目もふらずに脱穀作業に勤しむ水路を隔てた反対側では、エファレイナズ全土から抜粋された腕利きの大工たちが、名人の指示に従って秤の組み立てに従事していた。アツセワナの祭壇では王が初穂納めの儀を執り行い、耕地にもパンが捧げられた。例年催される体技の競技や手工芸の審査は行われず、その分、秤の設置と調整に全ての力がそそがれた。王女によってコタ・イネセイナの水に感謝が捧げられると王宮での儀式は終わり、参列した領主らは一路クノン・アクを東に向かった。村の審査の準備は全て整っていた。
二年前の“黄金果の競技”を思わせる日よりだった。砂で整えられた審議場の周りには黄色や紫の小菊が咲き乱れ、空は高くさえわたっていた。
ふたつの村の入り口からちょうど水路を挟んだ正面に据え付けられた巨大な秤は、実に三百貫もの重さに耐えるとされていた。
秤の前に、王と宰相、七人の審議員の席が据えられ、村を監督した王女と青い目の男、グリュマナがそれぞれの村の側に立った。貴賓たちの従者は少し下がって主たちの後ろを守っていた。その中には、あのイーマの若者とダミル様も混じっていた。衛兵が守る円の外側の、正面に向かったところでは身分ある人々が見物し、我々館の家人たちは両脇、さらにその後ろや水路の際には他所の百姓たち、あるいは雇人の若い者や子供があいだあいだに覗いていた。
この年の会議の議長は第三家のアッカシュ様だった。アッカシュ様はそのまま、審査の進行を務められた。
グリュマナの見る北の村と王女の見る南の村は、それぞれの庄長の指示によって村人たちが並んでいた。
城の大蔵に勤める役人がふたり、橋を渡ってそれぞれの村に入って行き、生垣で囲われた村の外側からはなかなかわかりにくかったが、刈り取りの終わった田を確認しながら中を通り、奥の蔵に入って穀物の袋の数を数え上げた。
数え上げられた蔵の中の穀物はそれぞれ百分の一の重さに換算され、あらかじめ一斗、一升、一合に用意された穀物の袋が秤の木枠に積み上げられていった。予想通りこれは互いに遜色のない出来栄えであった。両者ともに一斗袋が四十と一升袋が幾らかが積み上がり、秤は誰が見ても釣り合っていた。
「次は金子だ。」
アッカシュ様が言った。
「金子を前に出せ、穀物の袋に換算する。」
村方が携えている袋に、村の金が入っていた。蔵の役人が袋の中身を机の上に空け、銀貨と銅貨に分けると、銀貨一枚に一斗銅貨十枚に一斗という具合に換算し、これも百分の一の目方で別に用意されていた穀物の袋を積み上げた。
袋の中から出て来た銅貨を見ただけで先行きは明らかだった。南の村の者たちはむっつりと顔を下げ、その前に立つ王女は気丈に毅然とした姿勢を保ちながら、敗北の雲行きに刻一刻と顔色を失っていた。
隣村にやって来ていた行商人とクノンの交点に突然現れた“ひと山十分の一セラ”の市の正体が今や明らかになったのだった。男は遠慮を忘れてあからさまに王女を眺めていた。そして宰相は満足げに椅子の上でくつろいだ姿勢を取った。
北の村の台に積まれた荷はみるみる重くなり、とうとう秤は大きく傾いた。
アッカシュ様は、空になった村の中で秤に載せる物が残っていないか点検をするように命じた。
「蔵の中の新しい収穫物、昨年の余剰分は全て数え上げました。他に家の櫃の中にはまだ残っているものがあります。」中を調べて来た者が言った。
「おお、そうだ。」
アッカシュ様は声を高くした―――その時、トゥルカン様の方を見やったと、後で言った者もいたが、私はその時、近くに居た執事が必死の面持ちで前に出ようとしているのに気付いた。
「そうだ、蔵にため込んだものばかりが豊かさではないぞ。村人が暮らしの中で遠慮なく用立てられるものが多ければ多いほど暮らしは豊かなのだ。手のついた食料も、そして羊毛やそれで織った物も例外ではない。全て運び出し、袋に入れて積め。羊毛は梱にまとめ、地面に積め。ひとつにつき一キーブとして換算する。」
「―――どうか、お待ちを!」執事は叫んでいた。「百姓の櫃の中まで浚えるのは止めて下され。それぞれに台所の具合がある。元の通りに返せるものでなく後で諍いのもとになります。」
アッカシュ様は雇人風情が審査のやり方に口を出したことを咎めようと、不機嫌な顔で振り向いた。が、それに先立ってトゥルカン様がこちらに恐ろしい顔を向けた。―――私が恐ろしい顔というのは満面の笑みということだ。
「よろしい。貧しいものは櫃を開けて見せるにおよばぬ。役人たちを下げよ。」
そして王の方を振り返った。
「わしの出した課題はより豊かなキーブを村人に与えた方ということであった。ただ、蔵の中の穀物と金子のみで豊かさを測るのは心の狭いやり方だ。村人の幸のあり方はまた違うかもしれぬ。彼らに尋ね、その結果も秤に積もうと思うがどう思われる。」
「存分にするがよい。」王は顔色ひとつ変えずに言われた。
トゥルカン様は温和な笑みを浮かべて一歩前に出、触れ係を手招いて、彼らに村人への言葉を伝えた。
「空の袋を持て。村人たちに渡すのだ。さて、男衆、そなたらは手まめな女房に恵まれ幸せであろうな?女房の手仕事は宝ではあるまいか?また、その女房に与えた羊毛はそなたたちの甲斐性があってのことではないか。秤に積めるものがあれば袋に詰めて乗せろ。さて、女衆は、我こそは福の神に見初められた幸せな女子だと思うならば、これと思うだけ櫃の中身を袋に空けて持ってくるが良い。ここに無為にとどまるのは恥だぞ。夫婦の信頼は一セラにも値する。」
大部分の北の村人はくるりと踵を返して村の中へと駆け込んでいった。南の村でも少し混乱が起こった。数人が走りかけ、「馬鹿!」と他の者が止めようとした。
南の村の者たちはうなだれたままそっと王女の様子を窺い、王女は村人に顔を向け、辛うじて微笑んだ。
村の仲間との信頼、夫婦同士の信頼などは互いが知っていれば十分ではありませんか、そう諭されているようでもあった。
「おお、忘れてはなるまい、仲睦まじい夫婦に祝儀の銀貨を」
トゥルカン様が銀貨を掴み蒔いたが、村人たちの居る場所は秤の向こう、七、八間も離れ、さすがにもう 七十も過ぎて力も衰えておいでだったので、銀貨はばらばらと審査員と貴賓たちの見守る秤の手前に落ちた。
王が椅子に身を起こしたが、声音は努めて穏やかに言われた。
「宰相それはさすがに出過ぎた行いだぞ。」
「豊かさのあり様はひと通りではありませんな。」
トゥルカン様は審査員の面々と地面の銀貨を交互に見ながら言われた。そう、確かその時だったが、審査員のひとりが腕組みをして空を睨んで見せたのが奇妙に心に残っている。あれは、トゥサ・ユルゴナスの庄長だったな―――シグイー様でさえ言葉が見当たらないような状況だったが。
そうして、誰も地面の上の銀貨を拾って加算しようとはしなかったものの、地に降りた北の村の皿はびくとも動かないほどの様子になっていた。
アッカシュ様は王女に振り向いた。
「姫、もう秤の上に積むものはありませんかな。なければこれでもう判定を下すのみとなりますが。」
王女は顔を上げ、結んでいた口を開いた。
「豊かさのありようはひと通りではない。まさしく。古老の積み上げた知恵。年若い者たちの青草のように伸びる才気。それらの価値は一セラの銀に置き換えるようなものではない。とは言え、それを見える形にするのが勝負というもの。秤の上に載せるものはもうこれきりでございます。」
王女はそう言うと居並ぶ村人の方に向き直り、深く礼をされた。
「このように過分の負担のかかる中、例年にも優る収穫をあげられた皆さま、さすがでございます。この村の宝ともいうべき勤勉の徳を形に出来なかったこと、私の不徳といたすところでございます。」
男も、女も子供もむっつりと項垂れたまま、目だけは上げて王女の礼を見届けた。拳を握る者、会釈をする者、茫然とする者、立ち尽くす村人たちの中で、突然、ひとりの女が声を上げた。
「ああ、馬鹿馬鹿しい!」
しかし、それ以上何も出来るわけもなく、一同は黙り込んだ。
トゥルカン様は膝の上に何かを取り上げ、差し上げようとした。今度は銀貨ではないようだ。
従者たちの中から誰か大股に回り込んで私の目の前を横切り、審査員たちの間に入り込んで来た者がいた。ダミル様だった。ダミル様はひょいとしゃがんで、そのまま地面に散らばっていた銀貨をちゃくちゃくと手早く手の内に重ねていった。
「どうして、トゥルカン殿、これも数えましょうよ。収入をきちんと見ないのは良くありません。こうなったら徹底的に数えましょう。秤は立派だ。まだまだ載りますよ。」
そうしてつかつかと会計の方に歩いて行き、銀貨を差し出した。
「十枚だ。」それから、両方の村人たちの方に向いて、衛兵隊に号令を下すような大音声で命令した。「向かい合って一列に並べ。」
ダミル様は庄長をはじめとして、互いの村人たちをひとりひとり突き合わせる格好で並ばせて言った。時折、夫婦ものを確かめ、冗談を言いながら順番を変えた。
「いい服を着ているな。毛織だろう、女房の手作りか?なら、横に来てもらえ。仲が良いのは周知にしておく方が得だぞ―――これは穴が開いている、いかんな。そうだ後ろへ行け、縦に並ぶんだ。」
情け容赦もないやり方だったが、シャツだけの者、服のみすぼらしい者、夫に擦り切れた服を着せている女は後ろに下がらせた。そうして並べ替えると、ダミル様は後ろに下げた者に言った。
「お前たちはこの冬をどうやって過ごすのだ?銅貨を纏うのか?梱の中から服を出してちゃんと着ろ。」
それから袋を積む人足らに言った。「数に偽りありだ。解いた梱の数だけ袋を下ろせ。」
少しの荷が北の村の天秤から降ろされた。まだ台は下りたままだ。
「また、何をされることやら」トゥルカン様が声を張り上げた。「勝負がついたものを。」
「いえ、ここからが本題ですぞ。」ダミル様は村人の列の間に仁王立ちになって言った。
「今、秤の上に載っているのは養い代に過ぎない。騎士の財産が馬なら飼い葉といったところだ。ところで国の財産は民だ。ここでは村人こそが財産だ。この中で私は怠け者と馬鹿者を取り除けようと思ったんだが、それはまあ、我慢しましょう。見たところ、両方の村は人数の釣り合いもとれているようですね。どれ、見てみよう。」
ダミル様は村人の頭数を数えた。南の村の方が子供が多かった。もともとの子も多かったが、北の村の子供がかなり紛れ込んでいたのだ。だが、子供たちは手を繋いでぴったりとくっつき、離れようとせず、親が目配せしてもしわがれ声で呼んでも知らん顔だった。ダミル様は頭数の余った子供たちを抱え上げて、秤の上に載せた。浮いていた秤は少しずつ下がりはじめた。
北の村の若者でもじもじしている者が何人かいた。やがて意を決して若者がふたりと娘がひとり、南側に移って来た。それぞれ好いた相手のもとに駆け寄ったのだった。無口な若者が行ったのは、花を育てていた娘だった。この時は城から暇を貰って帰って来ていたのだ。
「お前はどうしたんだ?」
移って来たものの、ひとりで突っ立っている若者を見つけて皆は尋ねた。若者は照れながら答えた。
「おれも心に決めた娘がいるんだ。ここの村の子で、今は城に奉公に行っていて仕事が忙しくて帰って来ていないけど、一緒になろうって約束している。」
ダミル様は言われた。
「良かろう。伴侶を得てこの村に入る者も皿の上に乗れ。」
新たに加わった三人が皿の上に載ると、皿はすとんと地面に降り、反対側が持ち上がった。
おかしかったのは、皿が落ちた途端に乗っていた子供が不平そうに、今度はあちらに乗るんだと言い始めたことだった。
「行くな!」恋人が城にいる若者は子供を膝の上に捕まえて言った。「ぎっこんばったんなら後で作ってやるから。」
王が手を上げ、秤の前に立っているダミル様に、退け、という合図をした。
「ダミル、勝手な真似をするな。」
王は厳めしく面を取り繕いながら言われた。
「秤の錘は全て百分の一になるように調整してある。違う基準の物を取り混ぜてはならぬ。」
「どういたしまして。」ダミル様はしれっとして答えられた。
「この者たちの目方はだいたい均してみると十三、四貫目というところでしょう。」
秤の上の娘を含め、南の村の女達はくすくすと笑った。
「それを百倍に考えるわけですから、一人当たり年間六キーブの給与で五十年働いたのと同じ重さになるわけです。村はこの二年間でむこう五十年分の働き手を得たわけですから、それと同等の重さが載っただけですよ。」
ダミル様はぐるりと周って従者たちの列に戻られた。
「審議を続行し、判定を急げ。」王は審査員たちに命じた。
審査員たちは集まって相談を始めた。判定の地点をどこにするべきか。村人を入れるのか。遡って審査し直すならどこまでか。
オトワナコスのカマシュ様は最後の秤の状態で決めれば良かろうと言った。シグイー様は発言を差し控え、人を載せる前で良いと言ったのはアッカシュ様とイビスのカジャオ様だった。二クマラのミオイル様は、村人の家財や食料まで混ぜるべきではなかったと指摘したが、おそらくそれを差し引いても、金子の収入を穀物に振りかえれば皿は下がるだろうと言った。トゥサ・ユルゴナスのバギルは作物の収量だけを見るべきだと言った。
「引き分けだ。」
自分が自信を持って言えるのはそこまでだ、と彼は言い足した。
北が三、南が一、引き分けが一と出たところでエフトプのキアサル様は、グリュマナの方をご覧になり、村人の得た金子は何に由来するものか、と尋ねられた。
「原資に手を加え、それを売った利鞘でございます。」グリュマナは答えた。
「原資とは村で産出したものか?」キアサル様が重ねて尋ねた。
「さようでございます。」
私の耳には近くにいる執事の嘆息が聞こえた。
キアサル様はしばらく考えておられたが、村人たちの様子を打ち眺めると、
「民の心身ともに壮健なることは金子には代えられぬ。」と仰って、南の村に票を入れられた。
アッカシュ様は審査員一同の意思を確かめると、北の村の勝ちである、と判定を下された。
この競技のきっかけを知る者、及び審議に参加した領主たちにとってどんなに重要な意味があろうとも、村人と見物に集まった民人たちにとっては大掛かりな余興の閉幕であった。北の村の勝鬨と、南の村の落胆のどよめきの後、王の、天秤を解体し、皿の上の計量用の穀物の袋を全て等しく各村の蔵に納めるように、との気前のよい差配を耳にすると、ふたつの村はその場で二年間の敵愾心を水に流して和合した。
しかし、審判がもたらした騒ぎはそれだけでは収まらなかった。
トゥルカン様は裾を打ち払って席を立ち、表ばかりは王に礼をしたものの、領主の面々のみならず、その場に居合わせた見物人らの注意を引くように手を差し上げた。その手に握られた物を見ると、事情を知る者は皆はっと身を固めた。トゥルカン様が手にされているのは、為政者の印である“門と蔵の鍵”のうちのひとつだったのだ。
「この度の競技は、王女が所望されたこの鍵をお譲りするにあたって課した主題に基づき行われた。」
トゥルカン様の声に往時の張りは無かったが、私は、見物人たちの前に何人もの触れ係が立って宰相の言葉を復唱しているのを見た、いや、先んじて触れている者もいたかもしれない。
「わしは王女に、競技の勝者に自分の鍵を譲る、と申し上げた。この一双の鍵はふたつあってはじめて働くものである。王女は父王の所持しておられる方と合わせてふたつながらお望みだった。政の補佐としての宰相の職を排除せんためだった。そうして全権を手になさろうとした。」
王女は真っ直ぐに立ち、そこに内包される非難と蔑みをも耐え忍んで聞いておられた。王は何も言葉を発せられぬ。だが、恐ろしくてそちらを見られたものではなかった。
「今、王女の望みはどうなった?ここに評議員の方々がおられる。約束は守っていただかねばならぬ。わしは勝者に鍵を譲ると言った。王女には鍵の獲得者を統治の協力者として受け入れていただくとしよう。」
その言葉を民は訝しんで聞き、領主らはその意味を推し量って驚愕した。宰相はグリュマナを手招き、鍵を差し上げて言った。
「勝者グリュマナよ、鍵と汝の権利を受け取れ」
その時、王の後ろに控えていた者が王のその手から何かを奪い、折しもグリュマナの手へ落ちゆく鍵を、手から放ったそれで以てうち落とした―――鍵で。
イーマの若者だった。周りじゅうの者が凍り付いたように注視しているのも目に入らぬふうに、いや、己がどこで何をしたかも知覚せぬように、その場に拳を固めグリュマナを睨んでいた。
「この男は王女に相応しくありません。」
蒼白な面とは裏腹に若者はごく静かな声で言った。
「無礼者。」
王は一顧もせずに言われた。それから立ちあがり、若者の眼前を横切ってトゥルカン様に対峙されると、注視を促すように民の方へ手をやった。
「私はロサリスに鍵をやるつもりは無かった。判定を見るまでもなく、その行いを負けと見たからである。領民を慈しみ見守ることは出来ても、敵の策謀、侵入に対して防御の方策を全く持たぬ、このような統治者を認めるわけにはゆかぬ。」
民は耳をそばだて、近辺に聞きただそうとする者もいなかった。
「同時に、宰相、私はそなたの持つ鍵をも無効にしようと思ったのだ。鍵の両方を持ってしか開かぬ一双の錠に対し、ひとつで開けられる鍵をトゥルドに命じて作らせている。娘が伴侶を得て私が位を譲る時には、そなたの息のかかった補佐役をつけることはもうあるまい、とな。」
王は再度若者の方を振り向いた。
「お前は相手に欠けていたもう一方の鍵を与えた。」
そう言われた若者がどのような様子だったか、私には思い出すことが出来ない。私自身、皆と同じく王の言葉に驚き、茫然となっていたからだ。
皆を我に返らせたのはトゥルカン様の笑いだった。内で燃え上がった憤怒を瞬時に焼却しつくし、乾いた灰が巻きあがるように虚しくも恐ろしい笑いだった。
「王よ、あなたは父君がわしとの友情の証として敢えて分け、もとの親鍵を潰したものを、それを反故にしたというのだな。だが、あなたの愚かな従者が再び我らを対等にしたというわけだ。ただ、以前と違うのは門を開ける時に互いの合意が必要だったものが、今はより早い者、より強い者に機会が与えられる。どうなされる?今すぐ互いに門を押さえに参ろうか?」
その場に居合わせた領主たちは、すぐに隣にいる者の顔とその利き手を心に思ったに違いない。
私たち、近くに居た内働きの者たちは皆目を丸くし、身動きの取れない人混みの中でなんとかして少しでも下がろうと身じろいだ。秤の向こうでは百姓や見物人たちが、事情を呑み込めずにこちらを指差し、のんびりと尋ね合ったり、関係の無いことで談笑している。
しかし、その場にいる領主たちの大半が王の側であることをトゥルカン様はわきまえていた。
「王よ、折角ふたつながら賜った鍵だが、わしはこれに手を触れぬことにする。新しい鍵の仕上がりを待つことにする。」
トゥルカン様は両手を差し上げ、領主がたを見回した。
「かたがた、そう剣呑な顔をされるものではない。わしは今後も含めて鍵を手にするつもりはない。政にかかわるには齢をとりすぎているのだ。王の考えに同意する。鍵を手にする者がいるとすればそれは王女の伴侶でなくてはならぬ。」
本気であれ冗談であれ、次の言葉を恐れ無しに待つことなど出来ようか?しかし、次になされたのは皆が予想したよりも穏当な問いかけであった。
「勝利を収めたこの男にはどう報いるべきであろうか。約束の鍵が無効になったこの上は?」
審査員の多数が勝ちを認めた者に対し、王は某かの報酬を与えて、この場での戦いを思い止まった宰相の面目を立てる必要がある。最も無難なのは婿選びの口出しを認めることだろう。しかし、王の方からそれを申し出るような事は到底我慢できるものでは無かったであろう。
「お前。」
トゥルカン様は頭を巡らし、イーマの若者を蔑むように一瞥して言われた。
「勝者に異を唱えるのは何故か?」
若者の出過ぎた行いを諫めた後、ダミル様が、王と宰相の一触即発の応酬の間じゅうグリュマナを厳しい目つきでじっと見つめておられたが、若者に向けられた意趣返しを引き受けるかのように傍らから答えられた。
「宰相殿、ご推薦の男の勝利と報酬については私から異議を申し上げます。」
「評議員の審査による判定だ。」
トゥルカン様はすげなく言われ、それに対し、ダミル様は即刻言い返された。
「こちらは女神の御前でのことで。だが、この男が忘れたというなら、もう大分前の話だ、分かりやすくいこう。」
ダミル様は王女に向き直り、つかつかとその前に進み出、恭しく礼をした。
「姫君、私は改めてあなたに結婚を申し込む。もし、私と同じ望みを持つ者がいるなら、再度の戦いをいとわない。」
ダミル様の言われた言葉は短かったが、意味を考えれば、お前がきちんと勝ちを収めていないことを知っているぞ、ということになる。私の知っている限り、二度の冬至の会議の場に居合わせた事を除けば、ダミル様とグリュマナが出会った事はないはずだ。だが、トゥルカン様はたちまちに矛を収め、王の方に顔を向けた。
「では、新たに競技を?」
「そうだ」王は言われた。「来春か、秋までに。コセーナのダミルに勝る者がいればな。」
グリュマナは終始不動の姿勢で落ちた鍵を見下ろしていたが、再度の競技の開催を宣言する王の言葉を聞いた時のみ、面をぐっともたげた。反対側に位置するイーマの若者も同じであった。両者とも呪縛されたかのごとく佇んでいたが、動きはそっくり同じ流れの中の石のように呼応していた。グリュマナが動けば若者はそれを妨げようと身構えていた。
王が散会を告げ、評議員たちを領土に帰る前のしばしの憩いにと王宮へ誘われた。トゥルカン様はグリュマナに、その場を退出し先に館に戻るようにと命じた。
身分の高い人々が退場すると、見物に集まっていた雇人や百姓たちは家へと戻り始めた。その中で、私は執事がいち早く人混みの中から抜け出して館に戻ろうとしている姿を見た。この度の競技がひと区切りついた今、二年間に及ぶ心地の悪い借りを清算しに行こうと意気込んでいたに違いない。
私は館へ戻る途中で、見物していた百姓のひとりに袖を引かれた。
「姫の婿さんが決まったのかい?」
「いや、まだだ。」
百姓はしきりに首をかしげながら言った。
「わしら、宰相さんの言われる意味が分からなくてよ。てっきりあちらの村を監督していたあの青い目の男がそうだと言われたのかと、皆びっくりしたんだ。そうなったら、えらいことだけどな……。それにあの緑郷のアートは何を言ったんだ?」
何を言ったかそのまま伝えればまた要らぬ憶測を呼ぶだろう。だいたい、あの若者がどちらの意味で言ったのかも正確なところは分からない。グリュマナは王女の夫として相応しく無い、と言ったのか、それとも政の補佐、あるいは臣下として相応しく無い、と言ったのか。
「再度競技が行われるかもしれないよ。ダミル様が直接姫君に結婚を申し込まれた。」
私は気休めのようにそう言ったが、百姓の私を見る顔がそう語っているように自分で言ったその言葉は私自身の気休めにもならなかった。
大半の見物人たちが正道から城やそれぞれの村へと帰って行く中、我々カヤ・ローキの使用人は領内の通用路を通って住まいへと戻った。始門を見上げる丘の下の牧場に差し掛かった時、牧童たちが大騒ぎをして羊の囲いに集まっているのに出くわした。その中で、惨たらしく殺された羊の横に、身も世も無く泣きむせんでいる執事の姿があった。牧童たちの話によると、少年ふたりに番をさせていたほんの一時ほど前にタキリ・カミョから馬に乗り青い覆面をして下りて来た男たちの仕業だということだった。
執事が宰相のもとに返すつもりでいた羊は、結局、領内の饗応に用いられることもなく、執事の最後の誇りを懸けて召使いたちに命じたとおり、手つかずで埋められるはずだったが、後に聞いたところによると旧市街の乞食たちに持ち去られたということだ。
キームルは重々しく口を閉じ、物語を結んだ。
キブが溜息をついた。お腹がぐうっと鳴る音がし、少年は口をへの字にして横を向き、膝をきつく抱えた。
「なんだ」アニはがっかりして声をあげた。
「一大宣言をして二年かけて、結局もとに戻されただけなのね。」
「本来、元通りで済む話では無かったのだよ。」
キームルは警告するように言った。
「勝ちが全てを決める勝負に出、負けという判定が下されたのだから。」
「少しも前に進んで見えないのに、損しなくて良かったね、と言われるだけじゃ物足りないわ。」
アニは小声で文句を言った。アドルナが首を振り、おっとりと控え目に口を挟んだ。
「それは、元に戻っただけというのはその通りでしょうし、二年間を何に費やし、何を得たのかというのは競技の判定だけでは誰にも分からないことでしょう。」
野良の陽射しが褐色に肌に焼き付いた華奢な手が、スカートの裾の乾いた泥を払い、撫でつけた。
「私は、子供たちやホアジやスクヌーの許婚が載った秤がぐんぐん下がっていくところを想像して愉快でしたけれどね。この十八年間誰も話さず、知らなかったことですもの。ダミル様お得意の頓智がどんな風だったか、ロサルナートがどんな風にグリュマナが鍵を手に入れるのを止めたかも。それにね、他にも何か変わりはしなかったかと思うのよ―――その後に私たちに来た運が何であれ。」
兄妹が長い話を始めた時には火床の傍らに立って聞いていたヤモックが、いつの間にか場を離れていた。だが一同は、すぐに軒の下に、喉から鼻にかけて短く息を吐いて鳴らす微かな音を聞いた。
「確かに、お前の話を聞いた後だったからこそ私も腑に落ちて話せた部分がある。」
キームルは目を上げ、こちらに背を向けて軒下に腕組みをして佇んでいるヤモックを見やり、低い声で妹に言った。
「ロサルナートがグリュマナを阻止しに出た事こそ、シギル様には番狂わせだったのだ。この競技はロサリス様の父君への抗議だったといえるし、父君は姫が己の力量に見極めをつけて落ち着くところに落ち着くのを見届けることさえできれば待った甲斐があったと思えただろう。父君と姫の思いは一致をみたのだ。しかし、皆に予想の他の事が起きたのだ、ロサリス様にもダミル様にも。殊にシギル様は王女をダミル様と娶せて宰相を排斥する時機を逃してしまった。若者が出た事で鍵が完成するまでの時間稼ぎを失ったのだから。幸いにもあの時戦にならなかったのはトゥルカン様にまだその準備が出来ていなかったからだし、シギル様も決して武力をもって宰相を退ける事を望んではいなかったからだ。」
「王は鍵を新しく作った事を黙っていれば良かったのよ。」アニは指摘した。「相手を出し抜くつもりで作ったくせに自分から話すなんておかしいと思ったわ。」
アニの横でキブが勢いよく頭をうなずかせた。
「シギル様は鍵を作り直すことに決めた時にはもう、トゥルカン様に宣言することを決めておられたことだろう。」
アニとキブとはふたりながら膝を抱えてキームルの前に尻を進めてきて座り、アニはまじろぎもせず、キブは上目で窺って、その訳が説明されるのを待った。
「鍵は民が認める王権の証であり、平和裏に政が行われている証なのだ。」
キームルはふたりの顔を見比べた。
「門を破り、錠をうちこわしてでも蔵の中身を手に入れる事は出来るだろう。だが、そうやって領主らの誓文を手にしたとして真の忠誠を得ることは出来るだろうか。同時に、約束を違えて作った鍵も民を欺いたことになる。新しい鍵を作ってもそれが民に承認される手順が必要なのだ。」
「じゃあ、蔵の中にすごい武器とか宝物があるわけじゃないのか!」キブは拍子抜けして言った。
「開けても勝てるわけじゃないのか」
「むろん宝はある。」
キームルは少年の関心事に素早く答えながら、鍵の意味を説き聞かせようとした。
「お前の言う宝とは、歴代の王が戴いた宝冠や剣、王笏のことだ。それらは戦う理由となり得る宝だが、身に帯びたからといって勝利をもたらすというものでもない。さらに賤しい見方をすれば素材そのものが高価ゆえに争奪の対象にもなる脆弱な宝なのだ。
「他に蔵に収められているものでもっと崇高なものがある。王に忠誠を誓った領主たちが署名した誓約書だ。これは臣民の心をつなぎとめる力を持ち、良心に力を及ぼす。その点で先の宝よりも力を持つのだ。だが、これもやはり賤しい心に対しては縛りの力を持ちえない。
「さらに他には献上を受けた品などがある。中にはイナ・サラミアスとの友好の証の神蚕の紗もある。高価でもあり、高潔な心に訴え、イーマの間ではそれ自体が力を持つとも言われるそうな。だがこれも人を王にするというものではない。
「ところで鍵ははるかに力を持つものなのだ。」キームルはキブを、それからアニを見た。
「王の権威の証は封印され、鍵を持つ者によって保たれていることで信頼と安寧という宝が存在する状態になるのだ。」
キブが当惑してアニを振り返った。
「―――どこに何が出来るんだって?」
「鍵をかけて開かないでいるのが正しいってことよ。」
アニは唸って首を振り、我慢しきれずに叫んだ。
「それじゃ、今のところは誰もどの鍵も使ってはいけない状態になったというわけね。それで古いふたつの鍵を潰して、新しい鍵を認める儀式なりとちゃんとしたのでしょうね?」
「そうだ。その年の収穫祭の結びに、王は前年の鍛冶の名人に命じて古い二双の鍵を議員たちの前で潰させた。そして、トゥルド様には最終の競技の準備が整うまでは新しい鍵を持って来てはならぬという命令を使者を通じて下された。」
「その使者はトゥルカンの刺客に襲われたりしなかったでしょうね?」アニは獰猛に尋ねた。
「トゥルド様の鍛冶場がどこにあるのか知る者はごく限られていたという。―――四十年余前、新穂納めの儀の後で初めて開催された技能者の競技で、トゥルド様は初めて手ずから作られた鋏をご披露なさったが、その時から今に至るまでトゥルド様の鍛冶場は知られてはいない。」
軒の向こうに高くから陽光が射しこみ、草木に宿った雨粒がいっそう外を明るくした。森の奥でヤマガラのさえずりが聞こえる。だが、誰も顔を上げなかった。キームルの次の言葉を待っているのだ。
「トゥルド様は、翌年の同時季、最後の競技の前夜に忽然と鍵を持って現れたという。」
キームルは言葉を切った。
アドルナは炭が燃え尽き、赤い光が灰の中に沈み込んでいくのを黙って眺めている。
「鍵は?門と蔵は無事なの?」アニは低く鋭く尋ねた。
「十七年前、蔵と門は閉じられた。」キームルは言った。「以来、開かれたことはない。」
「じゃあ、今は平和なの?」疑わしげな声が畳み返す。
「主と共に鍵がアツセワナを去ったのだ。鍵は王女が持っている。」
アドルナは、これで話は終わりよ、と低く囁いた。
キブは、さらに尻を進め、キームルとアドルナの顔を見比べ、おずおずと尋ねた。
「その、最後の競技っていうのは誰が勝ったんだ?」
キームルは、くしゃくしゃの麦藁色の髪の下から覗く丸い目と小さく開いた唇を見返すと、おもむろに手をあげて、頭の上に置き、優しく叩いた。
「キブ、最後の競技の様子を私たちは見ていないし、結果がどうなったかは第五家の者は決して語らないんだ。十七年間そうやって口を閉ざして来た。恥じずに自由に語れる物語はその間、我が館には生まれなかったのだよ―――カヤ・ローキが無くなった今、せめてこの不名誉が忘れ去られ、お前たち若い者を自由にしてくれるように。」
ヤモックが出発の時間が来たと言い、エマオイが泊った小屋と荷の点検をすませ、軒の下に立って待っている兄妹とキブのところに戻って来た時、アニは鍛冶場の裏の森からさほど大きくは無いものの、身内の不安を誘う生き物の声を聞いた。
「何の声かしら。人?それとも獣?」
アドルナは、首を振って耳をすまし、キブは疑いから不安へと表情を移した。
その声がもう一度さらに近づいて聞こえた時は、周りの誰もが気付いて互いに見交わしていた。ヤモックの姿が消え、すぐに裏でしわがれた声が呼んだ。
「どうした?静かにしろ!」人の言葉と夜鷹の鳴きまねの入り混じった声でヤモックは叱っていた。
誰もが盲目の案内人の事を思い出した。アニとキブとは作業場を西に回り裏の様子を見に行こうとして、若いタパマに遮られた。
「戻れ。」キブの腕を捉えて、ヤモックの息子は厳しい顔でふたりを睨みつけた。「何かやったな、お前たち。」
キブは恐ろしさのあまり凍り付いたように、大人しく若者にひきずられて兄妹のもとに戻った。きつく掴まれた腕を放され、キブがこらえきれずに泣きはじめると、アニは若者を咎めるように見た。
「強くつかみすぎよ。いったい、どうしたの?」
若者は裏に向かって顎をしゃくった。ヤモックが慌ただしく誰かと話している。その相手が気味の悪い甲高い声でまくしたてている。
「侵入された。誰かが朴の木のそばまで来た。昨日案内した坊主に違いない。きっとこうなると思った。ああ、信用するんじゃなかった!烏、烏め。」
「馬鹿いえ」ヤモックが癇癪気味になだめている。「落ち着けよ。ちぇ、何も知らない者に自分からしゃべりやがって。信用できんだと?失礼なやつだな……」
「ここへ入れてはならん。入れてはならなかったんだ。ああ、主人が、主人が知ったら……」
「静かにしろ。」
ヤモックはやにわに恐ろしい声で唸り、それきりぴたりと一切の物音がやんだ。やがて短く小屋の横の藪が鳴り、厳しい顔つきのヤモックがつかつかと一同のところに戻って来た。
「あの人は?どうして静かなの?」
慌てて尋ねるアニに答えず、ヤモックはキブに目を向け、きびきびと言った。
「心配した通り、お前は余計なところに立ち入ってしまった。そのことで何を見ていようがいまいが関係ない。お前には我々と一緒に来てもらう。ヨーンマイが生きてはここを出さないと息巻いているからな。お前をトゥサ・ユルゴナスに行かせるわけにはいかん。」
「そんな、一体どういうわけで?」
アドルナがうろたえて言い、キブの肩に腕を回し、痛くない方の腕にすがった。
「場を見た以上は、世間に放す訳にはいかんのだ。」ヤモックは断固として言った。
「何も見ていないよ。」キブはしゃくりあげながらやっとで言った。「ほんのすぐそこに出ただけで……」
「どこへ連れて行くの?まさか、これだけのことで命を奪ったりはしないでしょうね。」
アドルナは蒼白になりながらも守る構えで言った。
「ここへ置いていったら、ヨーンマイと仲間とがそうしかねないぜ。」ヤモックがちょっと意地悪く言ったが、すぐにごく真面目な表情になって言った。
「イナ、おれだってこんな子供を連れて長旅はできん。おれはおれで仕事があるからな。カヤ・アーキの農地から城内まで麦を運ぶ百姓を“青頭巾”から守ってやらなきゃならんし、水路がきれいに通るようにしておかなくちゃならん。この子はおれの仕事中、顔見知りのところを訪ねて預けることになるだろう。コタ・ラートの東ならどこかの郷に入れてやってもいい。だが、アツセワナにいる間はだめだ。」
アドルナはキブを兄の方に押しやりながら後ろ手に庇った。キームルは妹に手を貸さなかったが、ただ、妹とそっくり同じ形の目をヤモックに向けた。
「この子はカヤ・ローキが襲われた時に家族をなくしました。戦乱に巻き込まれるところは駄目よ、炎と血を見ると正気でいられないの―――だから、悪いことも出来ないわ。どうしてもというなら私が代わりに行きます。」
アドルナは震える声を励ましながら言った。
「いや、こればかりはだめだ。」ヤモックは首を振った。「あんたが薬を飲んだってこいつに効かないのと同様、解決になりゃしない。」
若者が腰に手を当てて場を見張っているその前で、アニは成り行きをじっと見守っていたが、顔を上げ、真っ直ぐにヤモックとアドルナの間に進んで行った。
「小母さん、私がついているわ。」
アニはアドルナの肩に手を置くと落ち着きはらって頷き、ヤモックに向き直った。
「小父さん。私は、いずれ、アツセワナの街と村とを順繰りに回って物語を集めて回るのだけれど、当面はコタ・レイナ州に行く親切な人と出会い、小父さんと別れるまでの途中の道をご一緒することにしたわ」
ヤモックはぐるりと不機嫌な顔を巡らせてアニを見た。アニは自分越しにその顔が向いた方にいる若者に気付かれないように、肩ひとつ動かさずに、にこりとヤモックに返した。
「なんですって、アニ」
アドルナがうろたえて言った。
「私がキブについているからといって、小母さんの心配が減るわけでは無いわね。」
アニは、アドルナの手を握って真面目に言った。
「私も初めはトゥサ・ユルゴナスに行くつもりだったのよ。でも、順番を変えることにするわ。他を回った後にする。理由はいくつかあるわ。
「まず、トゥサ・ユルゴナスには今、大勢が目指して行こうとしている。作物が豊かで、働き者に親切で、戦をしないと言われているから。家を失くし、幼い子を抱えた親、戦えない者は助けを求めようとするでしょう。だけど、トゥサ・ユルゴナスだって皆を受け入れる余裕があるわけじゃない。私とキブの分は小父さんと小母さんに譲る、その方が望みがあるでしょう。
「それにね、私はコタ・レイナ州から逃げて来たの。私を探しにエフトプから使者が二クマラに遣わされたそうよ。私はすぐ捕まるのはごめんだわ。連れ戻されたら二年のうちに嫁に行かされるのよ。」
アニは眉をひそめた。
「誰もが満足し、いい縁組だというのは私にも分かるわ。でも、頭で分かるのと心が承知するのとは違う。それに許せないのはそれを母さんが決めたということよ。母さん自身、親が英知と愛情を尽くして会わせた伴侶を認めていながらどうしても承知できなかったというのに、私には同じように愛情と知恵の籠で閉じ込めてしまおうとしたこと―――。今も、他に自分に途があったとは思えないの。両親に心配をかけ、その盟友を裏切り、家の者にも迷惑をかけて、自分自身が思いもしなかった危険な目に遭ってもよ。そしてその報いとして母さんが無事かどうかもわからない。」
アニは振り切るように言葉を継いだ。
「私は物語を探しているの。アツセワナに出て来なくては見つからない、失われた物語を集めて回るのよ。それがひとつに繋がったら―――きっと私は無理やり連れ戻されなくても、自分で帰って行くと思うわ。」
力を込めたアニの手の中で、すっかり冷えたアドルナの手が我に返ったように握り返し、キブをも引き寄せ、ふたりを両腕に抱きしめた。そして名残り惜しみながら身を離した。
「アニ、あなたに会ったのは二クマラの門の前が初めてよ、間違いないわ。それなのに初めから、どこかしら、あなたには前から知っていると思わせるところがあったわ。あなたの中に懐かしい仕草、眼差し、物言いを感じるのよ。それでいて誰と似ているのかもちっともわからないのだけれど。」
アドルナはしみじみと言った。
「ほんの一瞬、火花が散るようにわかりかけるのだけどね―――あなたを見れば見るほど、閃いた印象とは違うように見えて」その目はアニの赤い胴着の刺繍に落ちた。「あなたがコタ・レイナから来たと聞いてなぜか私はコセーナのような気がしたけれど、どのみち私はコセーナに行ったことがあるわけではないしね……」
タパマたちは、子供の域を出ないふたりが道連れになることを承知したわけでは無かったが、ヤモックは特に仲間たちに弁明もせず、何気なく消えて行った森の中から杖に手ごろな長さの枝を二本切り取って来、小刀で形を整えて、兄妹に手渡した。
「トゥサ・ユルゴナスは赤ん坊から年寄りまで男女の別なくみな百姓で、女でも二斗の袋が担げて当然というところだ―――おれも女房にそんな荷物を担がせたことはない。あんたたち兄妹はもう若くないし体格はアツセワナの者にしては華奢なほうだ。仕事なら第三家まで行った方が望みがあるかもしれんが―――」
「これから先おれの他にふたりの案内人がいないというなら、カヤ・アーキまで行けとは言わないでくれ。」
キームルの靴の具合を確かめ布で縛って補強しながら、エマオイが釘を刺した。
「途中で賊に遭う危険は増えるし、カヤ・アーキの門前ではおれも難民の頭数に入れられるよ。」
「私たちに居場所があるならどこへでも行きましょう。」アドルナは兄を見遣って言った。
「昔語りは私たちにもものを教える。第五家はふた月前に主を失くし、私たちは仕えていた家を失くした。けれども振り返れば、私たちの家はもう二十年も昔に頭を失っていたのよ。カヤ・ローキの名はあれど、空っぽな家を百姓衆と使用人たちが黙々と切り回していた。屋根と壁を失っただけ。おかげでもともと無かったものがはっきりした―――何も失ってはいなかったのだと。」
「トゥルカンの亡霊に仕えていたのさ。あんたたちは」ヤモックが横を向いて呟いた。
「だったら」アニが割り込んで言った。
「本当は自分たちの物だったってことも忘れていない?主がいない間にせっせと働いて保っていたカヤ・ローキの財産は使用人とお百姓のものだってことも。家も、畑も。すくなくとも青頭巾のものでも他の領主のものでもないわ。」
年取った兄妹は首を振った。
「誰のものだと皆が言いはじめると、それは恵みではなく災いのもとになる。」キームルは言った。
「もったいないわ!」アニは言った。「食糧はじきにどこにも足りなくなる。麦は刈っておかないといけないのよ。」
「それでも私たちにはどうすることもできないからね。」アドルナは言った。
「カヤ・ローキの耕地に残された作物はそれが必要な人が取ればいい。私は自分に残されたこの身体を使い切れるところへ行くわ。つましい労働がその日一日の糧になるところに。願わくばこの乱世にあってもトゥサ・ユルゴナスがそのような場所でありますように。」
「そうだわ、待って。」アニは飛び上がり、背嚢を下ろして中を探し、カシの板で作った札を取り出した。
「小父さんと小母さんでこれを取っておいて。トゥサ・ユルゴナスの手形よ。向こうに着いたら役に立つかもしれないし、それにね、これはコタ・レイナでもまだ使えるのよ。」
アドルナとキームルは顔を見合わせた。キームルは思わず本物かと確かめようと伸ばしかけた手を握って引っ込め、顔を背けて首を振った。
「アニ、こんなに大事なものを貰えないわ!」アドルナは手でアニの手を押し戻して囁いた。
「いいえ。」アニはきっぱりと言った。
「これは物語のお礼よ。ニクマラに残ったカヤ・ローキの執事のおばあさんにもあげたの。私の行く方向には当面これが役に立つところは無いし、もし、これを使うなら一、二年のうちだと思うの。」
そして、アドルナに囁いた。
「二クマラの赤稗の収穫の四分の一は私とキブが貰うけど、許してね。」
「ええ、」アドルナの顔がふと何か思い出したように明るさを取り戻した。「待っているわ。あなたはいつか必ずトゥサ・ユルゴナスに来るものね。」そして、キブに振り返り、その頭と頬を両手で撫で、もう一度抱きしめた。
「あんたにはきっと当分会えないわね。でも約束よ。大人になってからでも会いにきてちょうだい。」
キブは顔を歪め、頷こうとしかけたがそのまま嗚咽の中にくずおれた。
盲目の案内人の代わりにふたりのタパマたちがエマオイと兄妹をトゥサ・ユルゴナスの西のはずれの森まで案内していった。ヤモックは一行が出発し、その姿が森に隠れ完全に見えなくなるまでアニとキブを小屋の戸の内に閉じ込めて、出発点が周囲のどの方角なのかも見るのを許さなかった。
「タッケマとサマタフが帰って来るまでそこにいろ。」
ヤモックは命令したが、木の実と挽いた穀物をかためた堅い平たい菓子のようなものを割ってふたりに渡した。
「飛ぶ種?細い風?それ、本当の名前なの?」
戸の隙間ぎりぎりに詰め寄って訊き返すアニを押し戻して、ヤモックはうんざりしたように言った。
「ああ、そうだよ!あんたらと一緒にやっていかにゃならんときに名前が無いと不便だし、他のに変えても咄嗟の時に忘れそうだしな。大人しく中に入ってろ。」
「いつまで?」
「移動はいつでも夜だ。」ヤモックは答えた。
「そんなに時間がかかるなら水浴びしに行きたいわ。」
ヤモックは舌打ちしたが、すぐに物置から盥と水差しを出して来た。
「今、水をやるから待て。」
戸が閉まり、しばらくして何かを引きずるような音が小屋の傍に近づいて来た。ヤモックの声と、聞き覚えの無い男の声が短く何か言葉を交わし、空の桶が地を打って鳴る音が重い足音と交互に響き、藪と裏の森へと下って行った。
キブは恐る恐るアニに振り返り、アニは足音を潜めてさっと戸口に寄り、外を覗こうとした。
戸はぴくりとも動かなかった。ヤモックの後ろ手にした大きな手と背が、戸をしっかりと押さえている。
かなり長いことかかって戸が揺れて開き、ヤモックが水桶を押し込み、代わりにキブを掴んで引っ張りだした。
「ぼうず、出ろ。まず雀のお嬢さんから沐浴だ。」
「あの目が見ているみたいで嫌だな。」アニは壁を指差した。
「馬鹿も休み休み言え。」ヤモックは怒鳴った。「見ている訳がないだろう。―――それを描いた奴は自分を見させないために描いたんだ。魔除けだよ。」
アニが使い終わった盥を引きずり出して来て水を空け、どうしてもひとりで閉じ込められるのが嫌だというキブが戸を開けたまま慌ただしく袖とズボンをまくり上げて、服の外に出ている部分だけを拭い始めた。アニは戸口に背を向けて腰かけているヤモックの横に並んだ。
「出掛けるのは夜なんでしょう、じゃあ、物語を聞けるのは昼間?」
「今日は、半日じゅう尻に根っこを生やして聞いていたんだろう?」ヤモックは呆れて言った。
「よくも飽きないものだな!どうしてそんなに聞きたがるんだ?」
「ここに足止めになってるのは私のせいじゃないもの。」アニは言い返した。
「物語じゃなくても訊きたいことならたくさんあるんですからね……」
途端にヤモックが警告するように人差し指を立てて、アニの鼻先につきつけた。
雨上がりのごく軽い風が、ぴくりとも動かぬ針葉樹の間を抜けて行ったが、小屋の背後の森には時折、低い藪を鳴らす音がためらいがちにあがった。一か所、二か所、三か所。特に近寄って来るでもなく、小屋を同心円として少しずつ動いている。しかし、アニにぴたりと目を据えながら、ヤモックのその手が腰の短刀の柄に掛かる様子は無い。
ヤモックは念を押すように指をもうひと押しして引っ込めた。軽く小屋の横の藪が鳴り、ヤモックの息子と仲間、タッケマとサマタフが戻って来た。
ふたりはそこにいるアニと慌てて飛び出て来たキブに構うふうもなく、ヤモックに首尾を報告した。
エマオイはカヤ・ローキの兄妹をトゥサ・ユルゴナスの西、庄の者が昔、イズ・ウバールに木を伐り出しに行く通用口として使っていた小門の方へ案内して行った。彼は兄妹を送り届けた後、一刻も早くニクマラに戻りたいと言っていたが、トゥサ・ユルゴナスに留まるように忠告しておいた。
「二クマラの丘にも火の手が上がった。城外の麦田らしい。城壁から矢が射かけられ、怒った百姓たちが城門を取り囲んだといいうことだ。」
サマタフの報告にヤモックは答えた。
「避難してきた奴の一部の乱暴者に城の者が報復したのかもしれんが、紛れ込んだ“青頭巾”の扇動かもしれんな。城内の者と避難民を仲たがいをさせて力を削ぐ。」
「トゥルカンもよく使った手だ。」サマタフはぽつりと呟いた。
コタ・ラートからアックシノンと見回っているバグたちの報告によるとクノン・エファを丘の北部指して辿ってゆく騎馬の列が目撃されている。青頭巾の首領グリュマナの率いる本隊がアツセワナに戻ってきていると考えられる。
「コタ・レイナ州とは事を構えずに引き返したのか。」
ヤモックはアニの横から立つと、タパマたちの前をふらりふらりと行き来しながら、口早に呟いた。
「まだダミルと戦う自信がないんだな。―――長年の屈従の末アガムンを片付けた。次にグリュマナが狙うのはカヤ・アーキのアッカシュ父子か。イビスも、ニクマラもグリュマナが好きではあるまいが、恐れているはずだ。味方につけた方が早い。いや、何よりも百姓たちを味方にするんだ。穀物のほとんどが城外にあるんだ。カヤ・アーキを兵糧攻めにするのが最も効くはず。」
「それなら我々のすることは、カヤ・アーキが食糧を運び込むのを出来るだけ助けてやることだな。グリュマナの敵が弱らないように―――ただひとつの強い敵を残さないために、敵をふたつみっつ生きのびさせる。」サマタフは苦笑した。「ところで、アガムンの死んだあとも、グリュマナは我々と同じくあれを追っている。」
「グリュマナの奴はいつでも主だったアガムンよりは当を得た事をする奴だった。あれを追うにはアガムンよりもまともな理由があるんだ。」ヤモックは思案した。
「むろん、邪魔にして絶やそうと思っていることは間違いない。だが奴の心持ちとしてはアッカシュよりもダミルよりもあれが都合が悪いらしいんだ。」
「分かった。」サマタフは面倒そうに遮った。
「我々のすることが何も変わらないなら、まず、行き先を決めてくれ。月の出までには丘を下りておきたい。さもないと連中」その目が伏し目に左右に移り、素早く瞼が上がってキブと出会った。「本当に我々を襲うぜ」
ヤモックは、おけ、という風に手を振り、立ち止まって北の斜面、薄闇に染まりつつある森とその向こうにあるはずのアツセワナの方を眺めた。
「我々のすることは何ら変わらない。水の流れを保ち、百姓の道中を助け、探すものを探し、敵と戦うことだ。だが、若干これまでよりアッカシュに利になるように動く。忙しくなるからまずこの子供たちをクノン・タ・ラートの水の輪内に預けに行く。それからバグたちも交えて集会を開き、みっつの家を支える方策を話し合う。さて、まずここを下りよう。今晩はクノン・ツイ・クマラとクノン・タ・ラートの分岐まで行ければいいところだな」
アニは、ヤモックの様子を見てぽんと立ちあがった。キブがアニに続いて大人しく立った。
それまで少し離れた木立ちの下に立ち、黙って聞いていたタッケマが口を切った。
「父上、父上には義理も情けもあってすることだろうが、おれにはどうでも良いことだ。おれの中では故郷を奪い母上を奪った者に区別も罪の差もない。カヤ・ローキの者だろうと、グリュマナだろうとヒルメイのラシースだろうと。」
その切れ長の鋭い目がこちらを向くのを見て、アニとキブとは思わず身を寄せあった。ヤモックは額の皺をくっきりと浮かべて口を引き結び、ふたりを見たが、すぐにくるりと顔を背けて低く言った。
「ほう、この子らを連れにしたことでそこに差がついたというのがお前の解釈で、それが気にいらないと言うんだな。」ヤモックは手を上げ、北の下方に広がる森を指差した。「頭を冷やす暇が要るなら行ってこい。」
若者は父親に振り返りもせず、そのままさっと下の斜面の藪のに身を沈めると日暮れの薄闇の中を下って行った。
「狩に行ったんだ。」ヤモックは振り向き、冗談のように言った。
「戻って来るまでに食える獲物を仕留めることを思い出してくれるといいんだがな。」




