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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第五章 土の語り 3

 暗黒の森(イズ・ウバール)はその名の通り、昼なお暗い森であった。深部へと斜面を登るにしたがい、びっしりと厚い梢で空を覆うカシとナラの領分に入り、時折、丈高いモミの柱が立ち並ぶ隆起が帯のように横切った。

「ずっと西に向かっているようだけど……。」アニは自信無げにヤモックに話しかけた。

「気のせいかしら。暗いから太陽の向きが分からないわ―――それに寒い。」

 アニ自身はマントを着ていたが、ニクマラの村から一緒に来た連れの者たちは外套を持っていなかった。

「今日の宿でちゃんと火が焚けて暖まれたらいいんだけど。」

「そこは大丈夫だ。」ヤモックは即座に言った。

「言った通り、そこはこまめに使われて手入れも行き届いている。火が焚けるかどうかで言えば、そこで火が焚けないようならどうでもいい所さ」

「悪い人が荒らしに来ない?」

「来てたまるか」ヤモックはきっぱりと言った。「だが悪い奴らから隠しておくためにはそれなりに気を遣うんだ。だからあんた達にも心してほしい。これからどこへ行っても口外は無用だし、安全のために面倒な通り方をしてもらうが黙ってついて来て、そして詮索しないでもらいたいんだ。」

「小父さん自身がしゃべらなければね。」

 ヤモックは例の烏の声を張りあげようとするかのように口を開けかけ、しいっ、しいっと苛立たしげに囁いた。「黙るんだ。おしゃべりな雀め。」そして、本当に気に障ったかのように黙り込んでしまった。

 しばらくしてアニが尋ねた。

「雨が降るのかしら?」

「いや、振らない。」ヤモックは頬を傾けて風を見、言った。

「何か様子がおかしいか?」

「匂いよ。土の匂い―――やっぱり雨の匂いとは少し違うみたい。金物(かなもの)が濡れた時のような匂いだわ。」

 ヤモックは答えなかった。

 木々の丈は少しずつ低く落ち着き、樹種の様々な梢から明かりが射しはじめた。金臭い匂いはほんの少し強くなり、細い小さな谷間を過ぎるとまた弱まった。再び登りに差し掛かりカシの大木の間に入ったが、盛りを迎えた花々が、栗、朴、シナと合い合いに立ち混じる木々の名を教える。

 ヤモックは足を止めたが、目的地に着いたようには思えなかった。

 黙って少し背を屈めると、猫のようにごろごろと低く喉を鳴らし、やがてそれは少しずつ小刻みに高くなり、突然途切れたと思うと、続いて短く鋭いふぃ、ふぃ!という呼び声に代わった。それが時間をおいて何度か繰り返された。

 慎ましげに藪が鳴った。ごく静かな音だったが、タパマたちの他は、エマオイでさえもびくりとして身を固めた。

 不意にそこから湧いたように現れたのは背のかがんだ、痩せた中背の男だった。半ば白い薄い髪が禿げた頭頂をのぞかせて額に長くかかり、ほとんど開いていないように見える目とは反対に、鼻腔はいかり、口元が少し前に尖り、開いている。

「道案内をしてくれ。連れが沢山いるんだ。」

「いいですとも」男は囁くように言った。「目を閉じていて下されば手を引いて差し上げます。」

 キブが後ずさったが、キームルは一歩前に進み出た。

「私は承知だよ。だが、女子どもは堪忍してやって欲しい。妹は何であれ口外するような女ではないし、このふたりはまだほんの子供だ。」

「アートは駄目だ。この年頃は目端がきくし将来どちらに転ぶか分からん。」ヤモックはすげなく言った。「ぼうず、目をつぶって後ろを向け。」

 顔をしかめながら目をつぶったキブに、ヤモックは取り出した鉢巻き様の布で目隠しをし、その左腕をキームルの右腕に組ませた。

「お前が案内するのはお前より十ほど年上の男だ。少し背が高く肩幅があるが痩せている。その右側を十二、三のぼうずが腕を組んでいる。背は男より小さい。ぼうず、お前は主人に肘をつけて歩くんだ。脇が前にいったり後ろにいったりしちゃいけない。離れそうになったら、待て、と言うんだ。じゃあ、案内を頼んだぞ。」

「目が見えないの?」アニが驚いて声をあげた。「目が見えない人に目隠しをした人を案内させるの?」

 男はそれを聞くと少し顔をあげ、今度ははっきりと笑みを浮かべ、右手でキームルの左手を取り、左手を身体の前方に掲げ、時折木の幹や枝葉に触れなが来た時と同じように、ゆっくりだが静かでよどみない足取りで、木々の間に消えて行った。

「全く、問題ない。彼はこの辺のことは見えている者以上に心得ているんだ。」

 ヤモックは息子と仲間を振り返り、怪しい者が川の周りから近づいて来ないか見張るようにと言いつけ、アニとアドルナに振り返った。

「あんた達は目隠しはしなくてもいいが少し面倒な遠回りをしてもらう。アニ、あんたがその気じゃなくても目にし、心に仕舞った景色を、誰かがその言葉の端切れか、言葉の裏から掬い取るかもしれないんだ。あんたは幸いこれからあらゆるところを歩き回り、退屈な暗い森の中のことなんかすぐに忘れるだろう。だが、なるべく周りを見ないで欲しいんだ。」

「目が開いているのに見たり考えたりしないのは難しいわ。私は目を開けていればいいの?閉じていればいいの?」

「おれと手をつなぐかい?」ヤモックはにやりとした。

「結構よ。」

「じゃ、おれの背中と足元だけ見て、後はおれに尋ねること以外のことを考えておいてくれ。大きな声でなければ互いに話をするのも構わん。―――あのふたりはああ見えてとても早い、確実な道を行ったんだ。おれ達よりずっと先についてひと休みできるさ。」


 ロサリス様がトゥルカン様から“門と蔵の鍵”を得るために遂行すべき課題を出されてから一年が過ぎ、二年目の初夏が訪れました。

 主水路(アックシノン)の隣り合うふたつの村の農地はどちらも例年と出来栄えに変わりなく麦の穂を結び始めたということでした。

 もともと互いに遜色なく作られた田でしたもの、そこに住む者は皆、長年の経験から田の性質を良く知っておりましたし、全体としてあまり豊かでない第五家(カヤ・ローキ)の所領の中では唯一他と遜色のない収量の出る耕地だったのです、今さらその上に何が出来るでしょう?何か差が生じることがあるとすれば、それは片方がより実った時よりも片方がより災難に見舞われた時にあり得るのではないかしら?

 姫にはお気の毒でしたが、まともな方法で勝つ手などはなく、最後には狡猾なトゥルカン様の狙い通りに、手ひどい恥をかかされて、ロサリス様の受け持たれた村が敗れるのではないか、と女中たちは噂しあいました。皆、気の毒がるふうはしておりましたが、心の奥底では高みの見物だったことでしょう。姫の望みはお立場からいってあまりにも無謀でしたし、女達はダミル様を好ましく思っておりましたので、この上何を望んでおられるのか、と、少なからず不満の声もあったのです。

 しかし、残り半年というこの時期になっても、特に相手方が攻勢をかけてくるという事は無いようでした。相方の男は時々村を訪れているようでしたが、ロサリス様以上に何かをするということもなく、百姓たちにはむしろ、手も口も出さずにいてくれるのでありがたい、と評判がいいくらいだったのです。何かふたつの村の間に変化が起こっていたとしても、それは私ども内勤めの召使に分かるほどではありませんでした。

 その年は、内輪の召使たちの中では多少浮ついた気分が漂っておりました。前の年が豊年だったお陰で、勤めに対して分配される麦が多く、しかもそれに相当する金子の値一セラと十分の一が他に品についてもあてはめられ、その頃はもうアツセワナとイビスのほとんどの家の内勤めには年俸は金子で支払われておりましたので、倹約上手な者はたちまちのうちに自由に出来る小金を貯め込み、女中たちの中では近隣の市に出かけて十分の一セラの金でいかに上手に買い物をするかがちょっとした流行りのようになっておりました。

 エファレイナズはどこでも、まあ、よほど辺鄙なところは別でしょうが、下々が自由に売買できるものの中では、生活の柱となる麦、米、油、羊毛の値は決められておりました。が、それ以外のものであれば、例えば野菜や果物、細工物、それに先の四品にせよ菓子や色糸や織物などに形を変えてあれば、概ね自由に値をつけることができたのです。

 内輪の台所では、日ごろ邸内の菜園で獲れた青物を使っていましたが、虫にやられたり病気が出たりして不足することもございます。そんな時は、手近に交換できる品があれば取るもとりあえず籠につめて、無ければ金子を持って、内の百姓家を訪ねるか、もっと近いお隣の第三家(カヤ・アーキ)の台所を訪ねるのです。

 商売をしたりものづくりをする男たちが時に境界を超えて仕事の()()で助け合うように、女中たちは女中たちで()()や助けを融通し合う仲間を近隣にたくさん持っております。―――兄などは私を含めてムクドリの群れなどと呼んでおりましたが―――噂話を仕込むばかりが能ではありません、この仲間のおかげで、どこの野菜が良い、どこが安いという話がすぐにはいってくるのですもの。それに加え、細々(こまごま)とお金が使えるようになり、食材の調達がずいぶんと便利になったものですから、私もうちの女中たちも、時には他家の者と連れだって評判の市に出かけたものです。

 手持ちの銅貨一枚で、ふた所以上の売り手の間を行ったり来たりして値切り、並んでいる品を見定め、あれこれと抱き合わせていかに良いものを上手に手に入れるかを仲間うちで競い合う。それはとても楽しいことでした。兄の言うように、一年と立たぬうちに懐に残っている銅貨のことばかり気にする者が増えたのも本当でしたが。

 それでも金子は正直な代価には思えました、交換の時の大小の不公平だの、借りっぱなしにしがちな者への不満もずっと少なくなったのです。その場で決まったものを払えば清算できますもの。その代わり、我が第五家(カヤ・ローキ)の台所のように売るよりも買うことが増えてしまう家もありましたが……。前にも申したように、他の家に比べ産物には弱い家でしたもの。

 その日、私はアブラムシにやられてしまって不足しているそら豆を買い付けに行こうと、ロバと荷車を借りに行きました。途中で兄に出会い、どこへ行くのだと訊かれました。

 私は、隣のカヤ・アーキ、その他、市街のご家来や商人の邸の女中たちといっしょに往復に一日かけて買い出しに行く予定でした。クノン・アクを下って行って沿道の市を冷やかしながら環状路の交点を下って行き、主水路(アックシノン)の橋のたもとの市を訪れるつもりでした。ロサリス様とトゥルカン様推薦の男が競争をしているあのふたつの村の近くです。話によるとその近くに開かれる市では銅貨一枚で色々な品物が格安で売られているのだとか。

 友達の話によると、城内の女達が噂を耳にしたのは随分後だったということで、もう昨年のうちから近隣の村から女達が沢山買い物に来ているということ。百姓衆が菓子や総菜や古着を買い、内住まいの台所女が格安の物を知らずにいるなんて、こんな事があるかしら?

 競争中の例の村には援助であれ邪魔であれ手出しは無用と言われておりましたものの、とにかく村の外の公道脇の自由市で買い物をするのですもの、何の遠慮がいるでしょう?それに、何が売られているのかも気にはなります。銅貨一枚の値にしてはちょっと信じがたいものも置いてあるということでしたもの。

 しかし、兄は私の話に何か穏やかでないものを覚えたらしく、不機嫌、というよりは狼狽したように、人目もある厩の前でいきなり叱りつけました。

 クノン・アクを通って主水路(アックシノン)まで行くと片道二里にもなるじゃないか。家の中を監督しなくてはならないお前が丸一日開けるとは何事だ。それに物の出入りの多い時期に荷車を台所の買い出しには貸せん。歩いて半日で戻れるところにしろ。

 やはり、どれもこれもひと山十分の一セラ、というのが兄の気に障ったに違いありません。私は、正門(タキリ・アク)のところで待ち合わせをした()()()()達に断りに行くのに、ひとりで籠を抱えてとぼとぼ歩きながら、つくづく自分で思い返して恥ずかしくなりました。

 黄金を食べる山の巨人が代わりに麦を食べて弱くなってしまったという話があったが、同様に人間だって麦を同じ量の黄金に代えて幸せになれるだろうか?高価なものが沢山あることが人を幸せにするとは限らない。黄金には鉱夫たちの危険で苦しい労働が、絹には何千もの虫の命と、育てて同時に殺す者の苦しみがある。そこにはどこかに見過ごされた不正義、打ち捨てられた者たちがいるはずだ。

 人を惹きつける宝には犠牲があり、その犠牲を重く見るならば、希少である方が正しい。

 とは言え、皆のつまらなそうな顔を見るのはやはり苦痛でした。そして私は、大分買い物への意欲も落ちていたのですけれど、手近で青いそら豆の手に入りそうな第一家(カヤ・ミオ)の菜園に行くために新門(タキリ・ソレ)の方に向かったのでした。 

 折しも時節は夏の初め、エファレイナズのどこの領地でも麦の収穫の人手を補うために季節雇いを沢山雇い入れる時期でした。ヨレイルの若者たちは刈り取りの始まった家を順次移り歩き、秋の米の刈り取りと脱穀、中秋の収穫の感謝の饗応までアツセワナの近隣で働くのでした。そして公道(クノン)の交わるところには、この時期、宿屋や彼らを見込んだ市が開かれたのです。

 中心を走るクノン・アクはどんなにか賑わっているでしょう。私のムクドリ仲間たちはどんな楽しい思いをするのかしら?

 新門(タキリ・ソレ)は丘の南、新市街の方にありました。この良き時代、城に配された五つの門は終日開け放たれておりました。タキリ・ソレはニクマラへと伸びる公道、クノン・ツイ・クマラへと続いています。エファレイナズを横断するクノン・エファに通じる始め門(クノン・カミョ)、城の中心に通じる正門(タキリ・アク)ほど人の通りは多くはありませんが、この時期はまた、生糸にする新しい繭が取れはじめる時期でもあり、アツセワナの技能修練所の織物工房へ行く少女たちの姿も見られました。

 クシガヤから来る黒目黒髪で小麦色の肌をした娘たちは、おそらくニクマラまで故郷の男の人たちの舟で送られ、そこからクノン・ツイ・クマラを徒歩で二日、タキリ・ソレからアツセワナの城内に入ったのでしょう。当時は最も少女たちの安全が守られていた道でしたから。そして彼女たちの姿を見るにつけ、私は一瞬でも物見高く何もかもひと山銅貨一枚の市を見に行ってやろうと思ったことを恥ずかしく思い、それを思い止まって良かったと思うのでした。彼女たちの給料はキーブで払われることが普通でしたから、銅貨一枚の恩恵を感じることなどほとんど無かったことでしょう。どうにかするとこの年の相場を知らないままごまかされることの方が多かったかもしれません。

 五、六人の少女たち、そしてニクマラからアツセワナの城内へと入っていく、木材、塩漬け魚、皮革や染料などを積んだ荷車が三台立て続けに通った他は、公道(クノン)から誰かのやって来る気配はありませんでした。

 クノン・ツイ・クマラの西側は王の直轄領であり、丘を中ほども下りますと大きな灌漑用の池を備えた園地がございます。そこからアックシノンまで引いた水路の西側は第一家の所領であり、丘の裾野のその多くはトゥサ・ユルゴナスを含め、新しく拓かれた土地でございます。この二十年ほどの間に王の直轄の農地は五倍もの広さになっておりました。

 さて、丘の上の方、環状路あたりまでのところは旧来の地所でございまして、タキリ・ソレを出ましてすぐのところに王女ご自身の田園がありました。そこでは年取った百姓頭の夫妻が数名の作人を使ってゆっくりと面倒を見ておりましたが、もとは几帳面な人々であったのが、なべて寄る年波で昔のように体が動かなくなり、気性も寛容になったとでも申しましょうか、剪定の手の回らない草木ののびのびと茂った中に、一緒に花や野菜や果樹が育っておりました。

 私は、長年の間にその雑然とした園が何となく好ましく思えておりました。道と庭園を仕切る柵の上や下からは植え込みの枝が伸び放題、その中には雀か何か小鳥が落としていった種が芽吹いたのでしょう、蔓バラや野イチゴが枝垂れて柵に橋を掛け可憐な花を咲かせておりましたし、田園のそれぞれの一画には荒々しい枝ぶりの大木が涼しく静かなあずまやをつくり、その下には冴えた緑の苔がうねった敷物をひろげていました。果樹園と菜園の丈高い草の間に育った実物、葉物は、見つけるのこそ大変でしたけれども、虫食いもほとんどなく、味も濃く、香りも高かったのです。

 ひと足その大らかな園の中に入ると私はたちまち趣旨を変えて、目的のものを安く沢山手に入れるのではなく、その日で手に入るもので献立を工夫することを楽しむことにしました。私は老人を見つけて気楽にお喋りをしながら彼の足の赴くままに畑をついて回りました。

 百姓頭の老人は生涯第一家の菜園の中だけで生きて来た人でしたから、雇人に払うキーブはともかく、銅貨一枚で何をどれだけ交換できるという相場にはてんで関心がありませんでした。それに、野菜はどれもこれも少しずつしかならなかったので、私は青いそら豆の他にチシャやら二十日大根やら香草やらイチゴやらあれやこれや少しずつ籠にぎっしりと、それに花までつけてもらって、受け取りを面倒がって渋る老人になんとか銅貨一枚受け取ってもらったのでした。

「こんなもの、何にするんだよ、え?」老人は心底困ったように言ったのでした。奥さんに何か買ってあげたら、と私は申しました。

 何を買うんだよ。絹の着物でも?

 老人の言うことがとても奇妙に思えたので私は思わず声に出して笑いました。

 私は買い物に満足したので、老人と、畑の中で出会った作人たちに挨拶をして、帰ることにしました。あまり早く片付いたとは言えませんでしたが、兄の不機嫌は主に私がアックシノンの市に行こうとすることだったのですもの、帰りを特に急ぐつもりはありませんでした。

 農園の中の小径を抜けて公道へ戻ろうとするとき、王女様の馬が園の内の木に繋いであるのが目に留まりました。老人の話によると、柵に近い小さな区画に、姫君が時折世話をしている畑があるのだとか。

 アックシノンの村では、村人たちが嫌がって姫に作物を触らせることは決してありませんでした。姫はご自分に課されたの仕事の末端で、百姓たちがどんなことをするのか知らないのは恥ずかしいと思っておられたようです、一年目の春から自分なりに内緒で土いじりをなさっているという事でした。

 それは、作男たちの世話している奥の畑へと続く小径の下の、生垣に囲われた一画のようでした。柵の上に咲き誇っている蔓バラの先が回り込み、日当たりの良い内側へと枝垂れて、昼下がりの光を受けて揺れていました。

 表の公道の方から、舗装された道に当たる蹄鉄の音が軽やかに聞こえていました。荷車でなく騎馬の音であるのを珍しいことだと思いながら、私は、ふと生垣の向こうから漏れ聞こえる、草を手繰り、引きちぎり、その合間に思わず漏れた失望と嫌悪の声、そして静かに息をすする声に注意を引かれたのでした。

 姫君の、恨みがましく、それでも控え目に罵る声でした。誰もいないところで気が緩み、やりきれない思いが口を突いて出てしまったのでしょう。姫は顔を手に埋め、かがみ込んでしまった様子。

 このように投げやりになっているところを誰にも見られたくは無いもの、まして姫は生涯を賭けた勝負をなさっているのですから、それがどんなに見込みの薄いことであろうとも、最後まで誰にも気取られるわけにはいかないのです。

 私は音を立てないようにそっと立ち去ろうと、とっさに二歩ばかり後ずさりました。

 何かを踏みかけ、それがすっと避けたためによろめき、背後にぱさりと緑色の影が動いて、私は何か真っ直ぐなしなやかなものに後ろ向きに倒れかかりました。

 こんなところに木があったかしら?

 枝が揺り戻すように誰かの腕が私の背を支え、助け起こしました。低く素早く詫びると声の主は浅黒い色合いの中でとても鋭く輝く目で私を一瞥し、何事も無かったかのように前へ、音も無く植え込みの中へと消えていったのです。

 私はすっかり茫然として、ようやく姫君のひとりでおられるところに誰か、それも見も知らぬ若い男が入って行ったのを見過ごしたのに思い至り、籠をそこに取り落とし、慌てて後を追いました。

 生垣の繁った枝にはどこにも通れるような隙間は見当たりません。私は入り口を探しました。右へ右へと回り込むと、やがて二重に重なり合った列があり、その間を伸びた若枝をかき分けて入って行くと、不意に

横合いから遅い午後の眩しい光が射し目の前に小さな庭園があるのが見えました。

 姫は私からほんの一間も離れていない、短い不揃いな畝の間にこちらに半ば背を向けて片膝を起した姿勢で静止しておられました。驚きに打たれたように顔を向けたその先には、どうでしょう、私には隙間さえ見えなかった生垣の壁をそのまま突き抜けてきたかのように、あの黒い目に黒い髪、冴えた琥珀色の肌をして風変わりな服をまとった若者がいました。その衣服はとても周りの色と似ていましたので、もし正面からの光が、その織物の張りのある光沢を反射し、背後の木々から容姿の輪郭を浮き立たせていなかったら、そこにいることがわからなかったことでしょう。

 私は主の家において見知らぬ者に誰かと尋ねるのには慣れておりましたが、この場所の女主である姫は大変驚きながらも、ご自分の目の方が間違っているとでもいうように、そんなはずはないわ、と声に出して呟かれました。そうして侵入者を誰何しようともう一度顔を上げて立ちあがり、今度は近寄って来る姿を見るとはっきりと後ずさったのです。

「誰か?ここが王の庭と知っての無礼か。」

 私はそう叫んで急いで姫のもとに行こうとしました。しかし、若者は私などそこにいないかのように、繁茂した草の間を抜け、不格好な畝に植わっているものをよけながら畑の中にやって来ました。そして、若者と私の間で、姫は今やすっかり狼狽した様子で立ち尽くしておりました。

 姫の仕事がうまくいっていないことは素人目から見ても明らかでした。

 姫は、主水路(アックシノン)の整然とした農地を手本に、百姓の仕事を模倣し、彼らの知恵を汲み取り学ぼうとしたのでしょう。しかし鋤や鎌を一度も手にしたことの無い姫にとって、猫の額ほどの小さな菜園でさえ手に余る広さだったのです。

 庭は繁茂した草が占拠した大部分と、それらが慌ただしく引きちぎられ、枯れ萎びた箇所、そしてその間に島のように突き出た痩せて乾いた畝に、弱々しく横たわる玉葱だとか、虫に食われてぼろぼろになったカブや甘藍がようよう植わっておりました。姫はどこか自分のやり方が良くないのだと気付いておられるのですが、自領の老農夫の草の繁った畑にもそれなりに()()が育っているというのに、努力してアックシノンの農場のように草一本も生やすまいとしている畝の上でさえものが育たないことにすっかり打ちひしがれておいででした。

 熟達した指導者であるトゥルカン様は掌握する民の力を背にして気軽な遊びのように手駒のひとつを押し出したにすぎません、対する姫はやっと二本の足で歩くことを覚えようとする幼子のようなものでした。残された期限に対して、追いつかねばならぬ目標はあまりにも遠く、手立てを講じる、というよりも、ようやく目が開いてその遠さが見えたばかり、という具合だったのでしょう。

 驚いたことに、姫は相手を見分けると、いるはずが無い、と自ら思わず言葉にして発したにもかかわらず、若者がそこにいることを受け入れ、そればかりか再び畝の上にかがみなおすと、胸の内を包まずに語りはじめたのでした。

「どこからいらしたの、イナ・サラミアスの方。クシュの舟でクマラ・オロから?もし陸路をクノンを辿っておいでになったのなら、主水路(アックシノン)からこちらの耕地をご覧になったかしら。あなたが想像もつかないと仰ったあの景色を。私には見慣れたものであるはずの、あの水路と田園について、あなたに語れるものは何もないわ。」

 若者は大小まちまちに傾いて植わっている甘藍を不思議そうに眺め下ろすと、さっとかがんで葉に手を触れ言いました。

「虫を育てているの?」そして、姫君の顔が赤らんだのを見て間違いに気付くと詫びるように言い直しました。「いや、育てているのは葉だ―――こいつはティスナの蚕のように甘やかされている。」

 姫はそれを聞くと笑い出し、笑いながら目を拭い、口を歪めてうつむくと目をしばたたかせました。

 若者は黙ってちらと庭の隅の梢に目をやり、何気なく手をひと振りしました。

 どこからともなくムクドリのひと群れが地面に舞い降り虫を拾い上げて行ってしまうまで、若者の穏やかな澄んだ眼差しと優しげな口元は少しも変わりませんでした。

「あなたはここで何をしているの、ロサリス。」

 なんてひどいことを訊くのでしょう!しかし若者は何の悪気もなくそう尋ねておりましたし、姫君はたちどころに生真面目にそれに答えられました。

「私のしようとしていることは、作物を育てる()()よ。」

 若者は黙って耳を傾けていました。どちらかと言えば言葉の意味を判じかねて続きを待つ、といったところでした。

「とてもそうは見えないでしょう?」

 姫は苦々しく言われました。

「私にもこの庭はとても荒れて見えるだけですもの。私はここに育つ()()の何にもまして植えたものを勝たせねばならない。そのために、数と強さで勝る他の草を取り除くのよ。強く薫り高い草。私にはわからなくても東の人ならたちどころにその名と効き目を言い当てるはずだわ。それを仇のように引きちぎって取り除くの。生きている美しいものを醜い死んだものに変えてしまうのよ―――そうまでして競争相手を減らしてやるのに作物は弱くて育たない。私の家族、私の民の食料になるはずの作物がこれよ……。虫がついてぼろぼろになったこんなもの、私は見向きもしなかったはずだわ。それでも今の私は虫に譲ってやることも出来ない。―――それで私のしていることは殺すことよ―――どちらを向いても、育てることではなく、殺すことよ。」

 そして何かとても大切な箴言の一語一句を引くように真剣に言われました。

「生は死を積み上げた上にあると仰ったわね。」

「何をしようとしているの?」若者は同じ問いを繰り返し、言葉を継ぎました。

「絶えず何かは育ち、何かは死んでいる。それはいつもどこかで繰り返し起こり、競争の勝者の名を変えるだけだ―――公平な偶然によって。」

「作物を育てるのは偶然ではないわ。同時に私がこの小さな花々の上に落としている災難もよ。意図したものよ。」姫は言い返しました。 

「作物を喰う小虫にとっては?」

 これでも彼には少しも意地悪のつもりは無いようなのです。そこにいる私の姿が全く彼と姫の目に入らないのと同様に。そのくせ、若者は木立ち越しの、年寄りの百姓がつくっている青草の繁った畑の方に、あたかも見えるかのように目をやりました。

「あちらでは何も取り除かずに一緒に育っている。仲間の中の勝者がその場に現われてくる。―――だが、ここは地滑りが襲ったようだ。天地が覆り、洞の中に淀みが溜まっている。」

 若者の手は畝に触れ、土を砕いて梳き整えました。さらにハコベやサギゴケなどの株を土ごと取り分けて来て剥き出しの土を覆いました。

「土は肥えていて水もこれで逃げて行かない。あの草は生やしておいても構いませんよ。競争相手は良い友になる。人が家に住み、隣人に助けを頼み、共に戦うように、作物の隠れ家になり、賓客の蜂や小鳥の宿舎になる。ただ、あなたがこの光景を気に入っていないのにそれを頑なに続けようとする訳が分からない。」

 若者の手際に見とれるように顔をほころばせかけ、しかし姫は再び下りて来た不安に顔を曇らせ首を振りました。

「あるものは誰かの教えとなり糧となり、その誰かも後に続くものに身を捧げる。全ての生き物は大地の負担を増やさぬために身の丈に合ったものだけをとる。イーマの教えですわね。あなたの仰る通りに出来たらどんなにいいか!でも駄目。それでは少しも間に合わないの。私の大きな家族は百姓ばかりではないの。職人も鉱夫も商人もいるわ。伝達や記録を仕事にしている役人もね。そして、それこそティスナの蚕のように甘やかされた者たちも。彼らの口を養うには手回りの土地で出来る限り収益を出さなくてはならないの。アックシノンの村ではそのようにして作物を育てているわ。そこに植え付けられ、確実な収穫を約束する作物だけ―――他の草は一本だって生きるのを許されないの。」

 若者が立ちあがって例の読み取りがたい真っ直ぐな眼差しで姫を見つめたので、姫ははっとなって顔を背け、「そうではないかもしれない。」と呟きました。「豊かさとは。」

 姫が廃墟のような畝の上で目を閉じて心の内を顧み、再び目を上げた時、若者は足元の混沌も姫の恥ずかしがりようも何も見なかったかのように朗らかに言いました。

「ニクマラからの道すがらアックシノンの畑は見て来ました。それに丘の上に広がる沢山の田畑や牧場を。丘を登るにつれ近づくあの城壁も。ここからも見える。」

 そうして南西の方、陽光の射しこむ生垣の向こうから丘の上へと目を移しました。

「都を見るのは初めてです。」

「本当に、あなたはどこからいらしたの?」姫は夢から覚めたように最初の問いを問いました。

「イナ・サラミアスから絹を商う人たちと来たのですか。でも、まだその季節ではないはず。」

 イナ・サラミアス。しかしその遠い物語の中の土地を聞いて若者は静かに首を振り、答えました。

「私は一昨年前の秋からコセーナにいたのですよ。」

「コセーナに?」

「コタ・ラートを越えてからの景色は、コセーナを見た驚き以上のものでした。森はまだら模様に切り開かれ、切り揃えられ、ほとんど手の入らぬところがない。殊にあの二本の水路の間に横たわる田園は青天の下に直に織物を広げたような―――あれを作った力と意思に感服しながら、私にはまだ自分の見たものの意味がわからない。あのもとに行き、人々の受け取る歓びとは何かを知らないことには。あなたと同じです。」

 姫はもっと何か尋ねたいようでしたが、若者は軽く手を上げて遠くに耳をすませる素振りをし、道の下から近づいてくる、早足の蹄の音を聞き取ると、初めて私の方に振り返り、「イナ」と会釈をしました。

 新門(タキリ・ソレ)の前の通りは切り石で舗装された立派な道でしたけれど、古くからあるクノン・アクよりも道は曲がり勾配もございます。そんなところではあまり馬を飛ばす者もおりません。狭い道で馬をとばすのを好むのはトゥルド様かダミル様くらいのものです。―――私の中ではどちらかといえばダミル様への期待が大きかったのですが、近づきつつ少し歩調を緩めた蹄の音とともに、懐かしく明朗な、しかしはっきりと主としての厳しさを備えたトゥルド様の声がこちらに向かって呼んだのでした。

「―――イス!」

 若者は身を翻すと、三つと数えぬ間に木立ちの奥に走り去り、すぐに蔓バラの絡んだ柵の上を鮮やかに越えました。柵の向こうの道を、ほどなく二騎の蹄の音が遠ざかって行きました。

 姫君は私に振りかえると、今の今まで目の前で繰り広げられていた若者との語らいなど無かったような顔で丁寧に挨拶されました。それで、私も姫の旧知とのたわいもない語らいに偶然居合わせた風にすましていたものです。それでもひと言尋ねてみないわけにはいきませんでした。

「あの方はどなたなのですか?」

「知らないわ」姫は無邪気に答えられました。

 私は、自分の心が望むようにそれを安堵の印と思おうとしました。まさか名も知らぬ若者が()()()の訳がない。カワラヒワの女房になるとでも仰る方がまだしもでしょう。それは綺麗な若者でしたが、見慣れぬ東の風貌ゆえかあまり男のようには見えず、人である気さえしませんでしたもの。

 しかし姫はそっと付け加えました。

「名は知らない。―――ハルイーの子よ」

 姫にとってはそれはただの手掛かりの言葉でしかなかったでしょう。しかし、一度目の“黄金果”を記憶する者にとっては違います。黄金果はイナ・サラミアスとの交易の道を開き、大きな恩恵をもたらしましたが、競技に関わったものには少なからぬ災難と悲しみをもたらしたのです。


 ヤモックが案内している間、アニは思い出したようにふっと顔を同じ方角へ二度振った。同じ枝ぶりの朴の木を距離をおいて二度通り過ぎたのを確かめ、そっとヤモックを盗み見たが、ヤモックはすぐ前を歩きながら後ろのふたりを気にする様子は無く、むしろアドルナの話に耳を傾けているようであった。アニはほどなく小屋の位置を探ろうとする試みを忘れた。お喋りなふたりは物静かな語り手のこの上ない大人しい聞き手であった。ほどよく話の区切りがついた時に、ヤモックは小屋に到着したことを告げた。

 到着を告げてからヤモックは若いナラの木々が密に生い茂った鞍部から北へと少し急な斜面を登り始めた。さっきから再び漂っていた金臭い匂いはもう気にもならなくなっていた。無言で急ぐ後姿を追いながら、アニは、目の見えない三人組がもしや違う方角からもっと緩やかな道を辿るのが見えるのではないかしら、といぶかるようにナラの森に目をやった。

 上の森の根方からこそげ落ちた剥き出しの地肌を回り込み、針葉樹の森に入っていくと、坂の果てた上に幹が一抱えもあるモミとイチイの大木が立ち並び、その広い枝の下に視界が通り、ぐっと近づいたイネ・ドルナイルの左肘の山塊が垣間見えた。そしてひとつがいのイチイの大木のもとに濃い逆光の中に沈んで低い石積みの壁と柴で葺いた屋根があった。

 ヤモックは壁の右側を西へと回り込んだ。壁を包むように藪が生い茂り、その間に細い小径が通って、石壁に続く粗末な掘立小屋、その先に作り足された丸太小屋へと回り込んでゆき、西に開けた正面へと出た。

 裏から見えた石積みの壁は三方を囲って屋根を掛け、間口の開いた作業場になっていた。鉄を鍛錬するための炉があり、叩き固めた赤錆色の地面には煤に混じってきらきらと光る塵が染みていた。壁には鞴を備えた小鍛冶の火床があり、石と粘土で作った空の作業棚があった。

 盲の案内人に導かれてきたキームルとキブはとうに前から辿り着いたらしく、火床の前の切り石の台の上に並んで腰掛けていた。

「見ての通り、ここは鍛冶場だったんだ。炭があの小屋の中に残っている。寝る部屋の中に暖炉は無いがきれいで風も湿気も防いでくれる。」

 ヤモックが棚の壁の裏にあたる掘立小屋を指して言った。

 粗末な小屋は物置と見えたが、ここで仕事をした最初の鍛冶師が寝泊まりするために初めに建てたもののようだった。丁寧に補修され、新たに丸太の小屋を建て増し、ほんの少し前まで住んでいたように整っていた。

 ヤモックは丸太小屋の外側の戸を開けて入り、内側から窓を開けて光と風を入れた。良く叩いて均した土間は乾き、柳を編んだ寝台があった。奥にもう一つある一間は漆喰壁だった。

「見てのとおり炉が無いんだ。物置に毛布があるが取って来ようかね?」 

 薄暗い奥を覗いたアニは後ろに飛びのいた。

「どうしたの?」アドルナが尋ねた。

「何か獣が奥にいるのかと思ったわ。」口元を押さえてアニは囁いた。

 漆喰壁の床に近いところに寝そべった犬ほどの大きさの薄黒い姿があり、その正面を向いた顔の辺りには爛々としたふたつの瞳がこちらを見ている。

「炭で描いてある。山猫かしら。他にもいろいろな目があるわ。そして影。梟かしら?鉤爪だけの絵も、人の目も―――目と落ちくぼんだ陰だけ―――どれも壁の下の方にある。」

 アニは肩を縮めて後ずさり、境の掛け布を下ろした。「どの目もこちらを向いている。キブじゃなくても御免だわ。」

「どうしたね、雀っ子。宿が気に入らんかね。」

 ヤモックが取って来た毛布を投げてよこした。

「奥の部屋以外は満足よ。」アニは受け止めて寝台の上に広げかけ、そのままアドルナに渡してそそくさと出て来た。

「外で火が焚けるなら私は外の方がいいわ。あの絵を見たら何だか脇腹が痛くなっちゃった。」

「ああ、そうかもしれんな!」

 ヤモックは例の烏に似た声で言い、今度は炭をひとつかみ抱えて出て来た。

「おれもそこに入るのは苦手なんだ。」

「エマオイはどこ?」

「ヨーンマイが迎えに行っている。あいつにもここを見せたことは無いからな。目隠しで歩いてもらう。そのうち来るだろう。」

 ヤモックは大鍛冶の炉の、何度も焼いて崩した跡のある鉄の取り出し口に炭を入れ、暖をとるための火をおこしにかかったが、切り石の上に座っていたふたりを追い出した。

「そこは金敷を置く場所だ。そりゃ、もう何年も使ってはいないけれどな!鍛冶の母、イネ・ドルナイルにかけて、その石を尻の下に置いちゃいけない。」

 アニは小屋を出ると、そっと裏の藪の間の道を戻ってみた。モミの大木の下の切り立った坂の下には低く整ったナラ、白い花をつけた栗、シャラが林を作っている。小屋の裏を端の方まで回って見下ろすと下の林のはずれには切りそろえて積んだ薪の山が切り枝の屋根に覆われて保たれていた。

 林の木々の間を見え隠れして、あの盲者の案内人が目隠しをしたエマオイの手を引いてやって来る。その顔が微細なにおいをかぎ分けたようにぴたりとこちらを仰いだ。アニは抜き足差し足戻った。

「薪置き場に林。炭も近くで作るんだわ。」アニは石壁の藪まで戻ってから呟いた。

 作業場の間口の端のところに腰を下ろして、キブは炭の欠片を持ち、イネ・ドルナイルの右肩越しに届く桃色を帯びた弱い陽光のもとで、平たい石の上に文字を書く練習をしていた。

(ミオ)(ツル)(アーキ)は数と同じだけ画がある。(ユツル)は二がふたつだから頭に小さなツルが付く。(ローキ)はアーキの上にツル、(ハムカ)はアーキが二連になり、(ニョドキ)はアーキの上にユツル。(トヨツル)はユツルがふたつあるから小さいツルが上に付く―――違う、それはハムカじゃないんだ。そこは覚えてくれ。(ユアーキ)はアーキの中にアーキを書く。これもハムカの意味じゃない。覚えろ、それだけだ。(トル)は全て満ちた数だ。広い(オロ)と同じように輪を書く。順にもう一度一から十まで書くんだ―――冬の間の練習が足りなかったな。」

 キームルが伸ばした背筋の上から見下ろし、気短に小言を言う横で、キブは身体をふたつに折るように、抱えた筆記具の上に覆いかぶさるようにして不格好な三角でアーキの文字を書いていた。

「キブは計算は出来るわ。」アドルナが庇った。「後は書き方だけね。」

「数字だけでは記録が出来ない。」キームルはそっけなく言った。

「知っているよ。文字なら全部覚えたんだ。ほんの三十個しかないや。」

「じゃあ、お前の名はどう書くんだ?」

 キブは膝の上の石を両手でつかんでその上に赤くなった首を垂れた。

 アニはキームルの傍らに近づいた。

「小父さん、それは名前を表す文字が無いからよ。(ダム)(フォー)(マナ)(ピシュ)(ワナ)……。文字になっている言葉があるのに、キブという文字が無いからよ。文字にはものの名前がついているのに、それひとつで(ピシュ)と呼ばないのが変だからよ。」

 アニが覗き込むとキブは頬を膨らませて石を尻の下に隠した。

「だけど、キブ。あんたの知っている鮒だの鯉だのマスだの、ウグイだのヤマメだのナマズだのにみんな文字があると思ってごらんなさいよ―――あんたなら覚えるかもしれないけれど私は無理だわ。だから、三十個だけでやり繰りするというわけ。組み合わせを覚えるだけですぐに書けるようになるわ。」

 アニは亡くなった老人の妻からもらった袋を腰に探した。先が擦り切れて使い物にならない筆と滑石の石筆、こげ茶になった薄い木の板が入っているきりだ。だが、当面はそれで充分だった。

「文字はものを表すのじゃなくて音を表すの。だからこれは―――」

 アニは板の上に石筆で「(クシ)」の文字を書いた。

「初めの音のクッ、としか表さないの。言ってごらんなさい。」

 キブは口を開けて咳払いのように喉をならしかけ、「馬鹿みたい」と呟いた。アニはじろりと見た。

「後悔するわよ。それで」続いて(イス)と書き、「これは読む時はただ、イ、とだけ読むの。それでクッ、とイ、を組み合わせてようやくキ、と読めるわけ。」

 (クシ)(イス)と続けて書いた次にアニは、(ベレ)、と書いた。

「これは何と読むのだと思う?」

「―――べ、かな?」

「ブ、よ。それで最初から続けて読んだら?」

「キブ!」

 キブは大声で叫び、その途端にアドルナの喜びの嘆声と、キームルの満足げな「よし」という声に飛び上がり、モミの幹の裏に逃げ込んだ。隠れ切らない肩と腕、麦藁色の髪がそわそわと震え、突き出した肘先の揺れが、幹の上に何度も何度も繰り返して指先で文字をさらう様子を伝えた。 

「私にはあんたと同じくらいの齢の弟がいるのよ。」

 ようやくモミの裏からそっと顔をのぞかせて、黙って待っている三人の人々と目が合い凍り付いているキブに、アニはその真ん中でしかつめらしく言った。

 だから何だよ、幹の後ろから覗く影が顎を突き上げた。

「あんたは気前があるからもっと早く覚えるわ。ルーナグは三日かかったけれど。」

 アニは板に描いた字を手布ではたいて消し、新しい文字を書いた。

(コタ)(クシ)広い(オロ)(トプ)高い(アー)よ。」

 アニは、一度文字を見せてから消し、同じように書くように言った。キブは恐ろしく時間をかけて不格好な文字を書いた。書いた後で、自分は全て文字を覚えているから空書きでも十分だとまくしたてた。 

「それでコタ・レイナもコタ・ラートもすぐにわかるわ。」アニはキブの書いた文字をはたいて消しながら言った。「レイナは麗しい()永劫(エイ)()。ラートは麗しく、高く()素早い(ハシュ)(イス)、それに―――。」

「嘘つき。」

 うわの空で続けるアニをキブが遮った。

「ハシュとイスで若い()だ。アーにならないじゃないか。アーはこう書くんだぜ。」

 キブはアニの手から板をひったくると、アーの文字を書き、上に濃く往復して線を引いた。

「ごめん、ごめん、うっかり間違えたわ。あんたが正しいわ。」

「それで、お前はエフトプから来たんだろ?」板をつき返しながらキブは得意げに言った。

長い()―――長生きの(フォ)(トプ)大きな(オロ)(ピシュ)に、喰われてお陀仏。」

 アニはキブの腕をぴしゃりと叩いた。

「上手!早いわ。」

 アニはキームルに振り返った。

「小父さん、この子はもう読めるわ。後はたっぷり書き取りをすることよ。この子は頭がいいものだから書くのが物憂くなると全部覚えてしまえばいいと思っているのよ。それじゃ例え知っていても使えることにはならないわ。苦にならないくらいすらすら書けなきゃ。キブ、あんたが良ければ―――」

 板に残った字の跡を拭き取って石筆と一緒に差し出そうとしかけ、アニはふと思い止まって石筆だけをキブに差し出し、板を隠しにしまった。

「これをあげる。板にも石や煉瓦にも書けるし、こすれば何度でも使えるわ。」

「ありがとう、アニ。」アドルナが言ってキブを促した。「あんたもお礼をお言い。」

 キブは素早く礼の言葉を呟き、早速何を書こうかというように鍛冶場の周囲を探し始め、ほどなく、焼けた鉱物の混じった粘土の欠片を見つけてきて、大分暗くなってきた外明かりのもとで熱心に練習を始めた。

 小屋に辿り着いたエマオイはヤモックを手伝って、アニが持って来た最後のパンの欠片と乏しい食材とで食事の支度をしようとしていた。ヤモックはエマオイに火を任せると裏の森へと出かけて行き、小半時もしないうちに莢の黄色く乾いたエンドウとササゲを両手に摘んで戻って来た。

「畑があるのね。」さっそくヤモックの横で豆の鞘をむしりながらアニが言った。

「以前にはな。」ヤモックが答えた。「今は草っ原でこいつはおれと同じ野生さ。雀っこ、こいつは乾いてからからだもんで煮て柔らかくするにはなかなかだよ。もし、お前に分かったらな、小屋の西側の鉄滓捨て場の向こうに山椒が生えているからな、少し葉を積んできてくれ。」

「男同士の話ね。」

 アニはしかつめらしく言って豆をそこに下ろし、外に飛んで行った。

「息子たちは?」

 エマオイがヤモックに尋ねた。

「バグたちに様子を聞きに行っている。二水路ですぐに出会えなければ明け方までに戻って来られるかどうか。」

 ヤモックは痩せた鳥そっくりな背を丸めて火床におこした炭火の上にかがんでいた。結局、料理の鍋を火にかけるには小鍛冶用の火床が使いやすかったのだった。

「トゥサ・ユルゴナスまでは目と鼻の先だ。早く彼らを無事に送り届けたいし、おれもニクマラに帰りたい。報告を待った方がいいと思うか?」

「あんたとカヤ・ローキの三人は待たずに発ってもいいと思う。あんたはあそこにつてがあるし、おれ達にとってはあそこの門はどことも同じ、閉ざされた門だ。だが、あの()がな……。そして、エマオイ、あんたの帰り道の付き添いはしてやれんよ。その時にはもう北のどこかに行っている。」

「あんたの口外無用の用事か。」エマオイは察しをつけたように言った。「あの()にも関係があるとでも?」

「いや」ヤモックは口をへの字に曲げて言った。「普通に考えればそうとは思えない。おれはエフトプに近い知り合いは無いしな―――」

 アニはもう暗くなりかけた茂みの中で山椒を探し出し、一枝摘み取り、足元に用心しながら戻って来た。

 キブは書き取りに疲れて鍛冶場の隅に足を投げ出して座り、キームルが時々思いついて言う言葉の綴りを声に出し、空に書いていた。

(イス)切る(ヴィ)(サイ)―――イビス。こんなの簡単すぎるよ。」

「文字にしても意味が変わらないな。」キームルがうなずいた。

「そういう言葉の方が少ない。どんな取り合わせでも書けるようにしておくんだ。仕事では()()が自分の知らない事であっても記録し、伝えねばならないことがある。仕事の橋渡しを誠実にするにはともかくも正確に間違いなく記録せねばならない。そして知識は自分だけのものではない。分け与えるものだ。文字が読めない人のために書いてやり、読んでやるのは、いわば手立てを分け与えるという恩恵を与えることだ。」

「読み書きが出来たらそれが仕事になって、食べていけるんだろう?ただでしてやったら損じゃないか。」

 キームルはため息をついて少年を見つめ、考えこむように言った。

「お前のように噴火の後に生まれ、見返りや損得を金に換えて考えることなど知らないはずの者までがそんな言い方をするのだからな。あのわずかな期間が人々の心をどんなに変えてしまったことか。キブ、お前は金などほとんど見たこともないだろうに。私の言うことは、見返りなど考えずに、自分の技はどんどん人のために使えという事だ。それが鍛錬になり、大いに磨けば、そうだな、生業にできるかもしれん。だが、言っておくが、今のお前程度読み書きが出来たって、私が給与の支払いをしてやったヨレイルたちの役にも立たないよ。彼らは、自分の用事の分くらいは読み書きが出来たからな。」

「ヨレイルが読み書きが出来たなんて噓だろう?」キブは横目で見ながら半ば懇願するように言った。

「出来たのよ。」アドルナは同情を押し隠し、いつになく厳しく言った。

「昔、うちに来ていた若いヨレイルたちはね。王の命令もあり、心ある雇い主はなるだけ教えようとして、邸の中で読み書きを出来る者に教えさせたの。そうでなくとも、二、三十年も前にはその前とは仕事の様子が随分変わっていて、商人の下で品物を買い付けに出たり、道中の荷運びをする若者も大勢いた。その子たちは文は無理でも自分の名と帳簿の品目と数は書けました。そうでないと仕事ができないからね。季節雇いの子達も織子たちもよ。お給料をごまかされるかもしれないもの。」

 山椒の枝を豆を煮ているヤモックに渡し、アニは腰の隠しの中を探しながら三人のところに舞い戻ってきた。山椒を摘み取った時の香からふと、ニクマラから持って来た金橘の種を傍らに植えてみたら育つかしら、と思い立ったのだった。もう植えに行くには暗いが、夜が明けたら、発つ前に宿のお礼として植えて行けるのではないかしら?

 隠しの底にたまっている種を取り出してみようとして、アニは上に無造作に入れておいた板を引っ張り出した。さっき仕舞う前に気になっていたことを確かめるために、もう一度眺めたが、さらに暗くなってしまった外では、先以上に分かることは無かった。 

 こすり取られた滑石の白い粉が板のこげ茶の表面の浅く掘られた溝に溜り、掘り込まれた細かな文字列を浮かび上がらせていたのだった。品物の目録と金額のようだった。

 アニは炉を振り返った。ヤモックがおこしておいた火が赤く光を放っている。アニは三人に火の側へ行きましょう、と声を掛け、先に火の側に寄ってそっと明かりに向けて照らしてみた。

 

 以下の品十セラ相当量必ず返済すべし

 米、麦、油、

 三十セラ相当の羊

 他 アタワン産絹十反


 さらに端に記載された文字は上から小刀の傷で消されていた。


 イナ・サラミアス産の絹をこれに充当 


 兄妹と少年が火の側にやって来たのでアニは板をスカートの襞の間に隠した。

「豆が煮えたよ、アニ。そこで目を白黒させてないで運んでくれ。」

 ヤモックが向こうの火床から声を掛けた。

 アニは鍋を運んできて、エマオイとキブが卓代わりに運んできた平たい石の間に置いた。ヤモックは見張りをすると言って下に下りて行った。

「東から来たイーマ達は文字の読み書きができたのかしら?イナ・サラミアスで文字を使わなくても、商いをするには必要だったはず……。」

 ヤモックの黒っぽい姿が音も無く消えて行った木立ちの彼方に、薄墨の空に燠のごとく輝く星が見えた。イネ・ドルナイルの肩に掛かる星だ。

「出来たわ。少なくとも王と直に交渉をなさりに来られた方々は文が書け、計算が出来ました。三年に一度来られる主幹と呼ばれるその方は、後々のために身内の方々にも教えておられたようです。」

 キームルが答えようとする前に、アドルナが夢見るように言った。

(ヒル)(イス)(ルミ)に遣わし、(ルミ)深く(ウー)見守る(マイ)(イス)を。(ベレ)永く(エイ)(ルミ)永く(エイ)(イス)有ら(サイ)しめる。麦や稲の色づきにあわせて順に刈り取りに周って来た子達は、ある時からこう口ずさんで仕事をするようになりました。第一家で働いていた時に覚えたのだとか。それまではキブのようにただ文字の形が分かるだけだった子供たちが上手に読むようになったのです。そこで一緒に滞在していた若者が教えてくれたのだと。」

「ラシース?」

 アドルナはうなずいた。

「ヨレイルたちは緑郷の子(ロサルナシル)と呼んでいましたし、私たちも後に緑郷の君(ロサルナート)と呼ぶようになりました。名が分かったのはずっと後でした。」

「トゥルド様がコセーナから連れて来られたあの若者は、次の主人となったシギル様にさえなかなか名を言わなかった。」

 キームルが静かに相槌を打ち、アツセワナの方角に目をやった。


 二年目の初夏、私は一年ぶりにわが主の第五家(カヤ・ローキ)の牧場に出かけた。秋の収穫祭ではそれぞれの家が家人、領内の百姓、季節雇いを招いて饗応する。それに備えて羊を選び、特別に肥やしておくためだ。

 その春は子羊があまり生まれず、肉に潰せる羊の数がは心もとなかった。豊かな家では若い牛を屠るところもあったが、カヤ・ローキでは貴重な乳牛が一頭しかいない。アックシノンの村が王女と宰相の名代の男の競争に使われているため、課題の期限が来るまでは小作料を取るわけにもいかない。やり繰りは前年にもまして厳しかった。羊飼いは頭数は足りるとは言っていたが、あまり年取ってみすぼらしい羊を供物にするわけにもいかない。

 ところが確認に行くと、羊囲いの、新参者を慣らしておく囲いに若い立派な羊がいる。羊飼いに訊くとトゥルカン様から贈られたという。執事に問い合わせると、主人からの通達も無かったらしく、慌てふためいて囲いまで確認に来た。

 贈り物には贈り物を返さねばならぬ。執事は私に、即刻この羊の仲買人に羊の値を問い合わせるようにと命じた。私はロバを借りて乗り、同じ郭の南西に一里はなれた、仲買人たちの住む区画に行った。

 カヤ・ローキの牧場に羊を届けた仲買人にはすぐに会えた。

「あれはいい羊だった。わしの目にかなった奴だもの。トゥルカン様はけちじゃないしな。言い値の倍下さったよ。」

 幾らだと訊けば三十セラだと答えた。他に同じほどの等級のを第三家にも持って行ったということ。私は帰りに第三家に寄ることにして新門(タキリ・ソレ)から中の郭の小門へと通じる公道を横切ろうとした。

 新門は昼の休憩を取るために出入りする通行人のために開いており、界隈で顔の知られた門番の他に、見習いと見えるほっそりとした浅黒い若者が立っていた。

 心煩わされていたためか私は新門の外のクノン・ツイ・クマラの急な坂道から、さほど早くないものの二頭の馬が近づいて来るのに気付かなかった。

 城外の視察から戻って来た王と王女のふたり連れだった。私の乗っていたロバは大人しく利口だったが、急に方向を変えようとしたため、放心していた私は不意を突かれて危うく転げ落ちそうになった。

 門の脇にいた若者がすかさず近づいてロバの轡を取り、低い声でなだめながら緩い円を描くようにして城壁の脇へと導いた。申し訳無かったが私は身体の位置を直すために若者の肩に手をついた。その時私は彼がアツセワナ人でもヨレイルでもなく、イーマだという事に気付いた。

 シギル様は馬足をゆっくりにしながら門をくぐるとそのまま通り過ぎようとしたが、ロサリス様は若者の声に注意を引かれたように振り向き、手綱を引いて馬を止めた。シギル様は姫の様子に気付くとぴたりと馬の歩みを止めた。門番の若者はロバを安全なところまで牽いて行き、私が無事に下りるまで轡を取っていた。姫君が馬を降りて歩み寄る気配に静かに頭を下げ胸に手を当て礼をしたが、顔を姫の方に向けようとはしなかった。

「父上、この方はここで何をしておられるのです?」

 姫君は驚きをそのまま声にして言われた。

「知り合いか?」シギル様は馬上のまま声を掛けられたが、長年存じ上げる身としては聞いたことの無い、意地の悪い調子が含まれていた。「名を言え。」

 姫も若者も黙っている。後でわかったのだが、姫は若者の名を正確には知らず、若者の方ではシギル様がこの鉢合わせを仕組んで仕事を配置したらしいことに気付きつむじを曲げていたのだ。

 王は馬が私の乗ったロバを驚かせたことを詫び、少し足労をかけるが上の郭にある第一家で一緒に休もうと招待してくださった。王は若者に、門番はもうよいから客人のロバを牽いて行き馬と一緒に厩に預けよ、そして第一家の者に王の来訪を伝えよと命じられた。

 ありがたい招待ではあったが、王が思召した以上に私には手間だった。私はロバの背に乗って小門までの坂を登り、さらに狭くて急な上の郭への坂、ハノ・ラキルを登らなければならなかった。その間、若者はずっと傍らでロバの轡を取ってくれた。

 勝手知った気安さで王は第一家の邸の中に私を招き、奥の庭へと誘った。城壁の南東に向かった眺望のよい張り出しに緑地をとり、小さな杜とあずまやがあった。

 ひときわ齢を取った、確かに九十は越えていそうな背の曲がった老僕が、足を摺りながら危なかしく飲み物を運んできた。王は懐かしげに自ら杯を取りに行き、ひとつを私に勧めて座った。

 顔をよく知っていると言っても、一召使を道端で見かけたからと言って誘うものだろうか?もしやとは思うが、トゥルカン様から第五家に届いたあの心地の悪い贈り物の事を王はもう存じ上げていて、その事について詮議されるのではなかろうか。今さらながら私はそんなことを気にし始めた。だが、王は単に、懐かしい景色を楽しみたかったのかもしれない。柱廊に備えた椅子にかけて小さな庭を眺めながら、私に話しかけたのは、単に二年越しの競争で迷惑をかけてはいないか、という心遣いの言葉だけだった。杯の中身は冷たい井戸水で割った杏と蜂蜜の酒だった。庭の木に生ったものだ。

「トゥルカン様の鉱山(やま)はまた以前のように繁盛しておられるそうですな。」

 老僕が高齢のため震える声で、しかし、機嫌よく言った。

「耳ざといな、お前の耳はベレ・イネに置いてあるのか?それでここでは聞こえが悪いのか?」シギル様は若君に立ち戻ったかのような横柄さで答えられた。

「銀と銅の使い途が増えたのだ。だがベレ・イネにも無尽蔵に鉱物があるわけではない。やがて尽きるものへと民の欲求をどこまでも煽り―――宰相の負けず嫌いも困ったものだ。」

「相手になるからですよ。」

「私のせいか?」

 老人は笑った。

「爺は人生を二度楽しみましたわい。さすがに三度目はありませんな。」

 第一回の“黄金果の競技”の発端はトゥルカン様とシギル様の水面下での競争が明るみに出たことだった。イネ・ドルナイルの製鉄を一手にしていたトゥルカン様に対し、シギル様は密かにコタ・サカの製鉄所を開発していた。そこで作られた鋼をもとにイナ・サラミアスと交易し、王家の財源としようとしたのだ。

 トゥルカン様がイナ・サラミアスを宝の山と考えていたのは間違いない。サザールというベレ・イネの生まれの山師だか占い師だかがそう言ったそうだ―――。トゥルカン様は理由をつけてイナ・サラミアスを占領したかったのだ。無論、それは後で明らかになった事だが。

 シギル様が取り引きの相手に見込んでいた男は鋼と交換する品物、絹を用意するのが間に合わなかったそうだ。この男が女神サラミアのよりましとされる巫女を連れて逃げているのを捕まえたシギル様はとっさの賭けに出た。この女を褒美に“黄金果の競技”をはじめたのだ。ご自分が勝つつもりでイナ・サラミアスを賭けた。思えば何という暴挙か―――。勝ったのは件のイナ・サラミアスの男だった。そして翌年には交易が実現した。

 その後二十年の間、運命はややシギル様に味方したようだ。製鉄ではシギル様のコタ・サカはトゥルカン様のコタ・バールを凌駕した。主水路(アックシノン)の開発、学校の開設、競い合うおふたりの間でアツセワナは大きく栄えた。我が主の第五家(カヤ・ローキ)がベレ・イネの鉱山の運営をトゥルカン様に譲り渡し、どんどん貧しくなっていったのとは対照的だ。

 もともとチカ・ティドで使われていた鋳物の銀貨、銅貨がアツセワナで多く使われるようになったのも“黄金果”の後だ。そしてこの度の一キーブ一セラと十分の一―――。年が変わってもトゥルカン様はこの割合を引っ込めなかった。余分にかかる銅貨を賄うため、シギル様が金子の鋳造を命令するには、材料となる銀、銅をトゥルカン様から買い取る必要がある。キーブの相場決めで意地を張った事がシギル様には痛恨事だっただろう。

「私は二度目を勝てるものか分からなくなった。」

 シギル様は苦く呟き、姫の姿を探すように辺りに目をおやりになった。姫はどこにおられるのか、初めからこの庭園までは下りて来られなかった。代わりに、次から次へと年寄りの召使たちがやって来て王を相手に世間話をして行った。

「トゥルカン様はベレ・イネでだいぶん荒稼ぎをしておいでのようですな。だが、ろくに食べさせも休ませもせずに追い使うのにたまりかね、穿場から逃げる者が後を絶たないのだとか。それもおおかたコタ・サカの方へ行く途中で捕まるのだそうで。年端もゆかぬ少年や、ヨレイルの若者が多いそうですよ。」

「アタワンでもそのようで。()()()()()()を真似して作っているアタワンでは織子たちがこき使われ、里へ帰る暇ももらえないそうな。道筋で人さらいに遭うこともあるそうですよ。」

 第一家は言うまでもなくシギル様寄りの家だ。家人たちはご機嫌を取るつもりでどうしてもトゥルカン様を悪く言いがちなのだろうが、宰相家と縁の深い第五家に仕える身としては少々居心地の悪い話題となった。シギル様もそう思われたのかもしれない。

「人買いなど言語道断、すぐに取り締まる。」

 憤然として短くそう言い、この話題についてこれ以上は無用、という風に手をひと振りされた。

 そして、ふと私に目を留めて言われた。

「絹は何かの用に役だったかな。」

「我が主の家宝でございます。」私は咄嗟にそう答え、王が一昨年前の秋に賜った見事なイナ・サラミアスの絹は、トゥルカン様からの言われも無い贈り物の返礼としていかばかりの力を持つだろうか、と考えた。

「それは良かった。」

 シギル様は腰を上げ、暇を告げると改めて姫の姿を探した。

 外に出てみると、姫君は邸のぐるりを囲む外壁のはずれの木陰に立ち、主の合図を待ちもうけている若者に話しかけようとしておられた。若者は通りから邪魔にならないように壁と城壁の間の窪みに、三頭の獣と一緒にきちんと収まっていた。姫の問いにはほとんど答えず、私に気付くと手綱を取ってやって来た。着ているものが良くないが、改めて見ると非常に整った顔立ちだった。眼差しは落ち着き、所作には無駄が無かった。若者は王が出てくると面を引き締め、王と王女が騎乗するのを手伝った。そして、坂道を下らなければならない私のために、小門の坂の下まで送ってくれた。

 帰り道、私は第三家(カヤ・アーキ)に寄ってみた。第三家の執事はあっさりと羊を受け取った事を認めた。そればかりか、このような事は決して珍しいことではない、と言い、アツセワナの他の家、イビスやニクマラなどもともと羊の沢山いる家には他の物が用意されているのではないか、だの、第五家(カヤ・ローキ)には無理を頼んでいるのだから、贈り物は羊だけでは済まないだろう、だの、いろいろ胸の悪くなるような話をしたあげく、尋ねるように私を見返した。私は出納係として働きはじめてこのかた初めて喧嘩腰で他家の門を出た。多少はしばらく前に別れた若者の気分に引きずられていたのかもしれない。

 ロバの上でよろよろと揺られながら家までの残りの通りを帰る私の目に、街角や店舗、工房の一画で、商い人や職人、女達がそれぞれ集まって何やら興奮して噂話をしている様子が映った。どこまで行ってもこのような様子なので、私は終いにロバを下りて聞き耳をたてた。カヤ・ローキに辿り着くまでに私にもどうやら街の人々の話している噂のおよその内容が飲み込めてきた。

 北の地区、クノン・ツイ・イビスが主水路と交わる橋の下で、乱暴された上に殺されたと思われる若い娘の亡骸が見つかったのだという。ヨレイルかクシガヤの織子らしい。

 当然だが皆憤っていた。ワナ・ダホゴイの奴らに違いない、とも言っていた。そんなことは分からない。

 正門(タキリ・アク)の門前の賑わいを過ぎるとにわかに静かになった。アツセワナの中でも丘の北東の旧市街(アクス・タ・コエ)は古い居住区だ。いにしえの王たちが政をおこなっていた古い都は城郭に囲まれた小高い丘で、かつての支配勢力の終焉を表して強者の破れし丘(ワナ・ダホゴイ)と呼ばれる。奇しくも今は無い第四家(カヤ・ユツル)の邸跡があり、クノン・ツイ・イビス沿いの没落した家の所領を、ウナ・ツルニナを含めて軒並み買い取ったトゥルカン様が、この第四家の邸をも買い取り、ここに私塾を建てられたのだ。この頃にはそこで学んだ者を中心に、新たに商工業者の居住区が出来ていた。無愛想者が多いせいか、女達にも、新市街の職人仲間からもすこぶる評判が悪い。私たちの第五家(カヤ・ローキ)はそのひっそりとした区画の端にある。

 第一家で耳にしたこともあり、私は物思いに沈みながら主家の門をくぐった。お館様は執事に行き先を告げずにお出かけで、弟御はご自分のお部屋に籠っておいでで、家のやり繰りに少しも関心をお持ちにならない。我がカヤ・ローキがトゥルカン様に隷従しているという世間の見方は正しいのかもしれない。存外、羊だけではなく他の物品も受け取っているのではないか。蔵の中にいつの間にか物が増えているということも無かったが……。私は気の毒な執事にシギル様から頂いた絹を羊の返礼に充ててはどうかと提案することを本気で考えていた。もちろん、イナ・サラミアスの絹は本来羊一頭どころの価値ではない。下手に贈り物にすると絹の値を貶めてしまうことになる。ただでさえ、トゥルカン様がアタワンで織らせている絹は、市場に出回って絹の価値を貶めているのだから。

 私は第一家で使われていた若者の、シギル様の横柄な命令に黙々と従っている姿を思い浮かべた。百姓か馬方のようなみすぼらしいチュニックを着ていた。毎年東からやって来る、美々しい絹の外衣をまとった気位の高い人々と同じ顔だちをしていながら。だが、一体何人の者がそれと気づくだろう?

 ヨレイルは奴隷ではない。クシガヤの若者や娘たちもだ。だが、わずかな金で雇われ、唯々諾々と従う姿を見て、おのずと我々アツセワナの者はそれを彼らに相応しい位置とみなしはじめてはいないか?彼らの報酬と同じくその仕事は軽視され、蔑みの烙印を見慣れて視力の衰えた我々の目の前で、一度落ちた彼らへの敬意、手仕事の価値、意に染まぬ強いられた模倣によって貶められたイナ・サラミアスの絹の価値はもう二度と戻らないのではないだろうか。


「兄さんは私にものを尋ねるけれど、自分ではちっとも話してくれなかったのね。」

 アドルナは静かに非難を込めて言った。

「いろいろ言い訳はおありでしょうけれど、結局は信用していなかったのね。」

「言ったところで何の役に立つ?お前と他の女達とを分けて考えていいものかもわからないし。」

「羊がトゥルカン様からの頂き物だったなんて……。私は牧場の方には行きませんからね、あの年も何とか収穫祭が出来てありがたいと胸をなで下ろしただけ。執事はいつもやり繰りに苦労しておいでだったわ。でも、カヤ・ローキへの賄賂はあの羊だけではないかしら。私も兄さん同様、菜園と台所周りから出入りする物は見張っていましたからね。」

 アニがもじもじと腰の帯を探りながら座りなおした。五人の囲む炭火の周りだけが赤く、今や星の照らす空の方が地上よりも明るい。

「確かに、私の目を盗んで蔵を出入りした物は無かった。だが、地所のどこかでやり取りが行われていても追いかけきれない。例えば、主水路(アックシノン)の村は私が見ないところのひとつだ。」

 アドルナは口元に指を当てて考えた。

「女はお喋りだから聞けるだけ聞き出せ、女はお喋りだから何も話すな―――兄さんの考え方はこうね。私のカヤ・アーキの“ムクドリ”は確かに、お話をかき集める翼と、どんな小さな獲物をも拾い上げる鋭い嘴とを持っていたわ。彼女の話をよく考えればトゥルカン様が本当はどこにお金をつぎ込んだのか分かります―――。最後には秤の上に積み上げなくてはなりませんもの。」


 あなた、とうとう市に来なかったわね、アドルナ。遠いから、近場で買い物をすることにした、ですって?その割には随分ゆっくりなお帰りだったのじゃない?あなたがタキリ・ソレの方から帰って来るのを見たわよ。とにかく私、あなたを気の毒に思うのをやめたわ。何か面白いものを見たんでしょう、早足ですたすたと歩いていたもの。夢中で考え事をしている時に、あなたすごい寄り目になるものね。

 例の市のこと?開いていたわよ。行くたびに場所が少しずつ変わっているけど、ちゃんと見つけたわ。

 前に行った時はね、とにかく大勢で行くといいと思ったのよ。何でもひと山十分の一セラでしょう。

 パンがひと山、お菓子がひと山、揚げ物がひと山、靴下がひと山、手鍋がひと山、どうするのよ、安くてもそんなに沢山は要らないわ。それに一種類しか買えない。五、六人で行ってちょうどというところね。

 今日行ったら、もう一工夫してあったわ。それぞれ少しずつの抱き合わせで十分の一セラ。他にも大きな声ではいえないけれど、脱穀して粗く引いた粉一升十分の一セラ、毛糸百匁十分の一セラ、油に漬けた魚がひと甕十分の一セラ。(キーブで買ったら半分も無いわ!)

 道すがら練って来た作戦もどこへやらよ。皆、ぱあっと散ってしまってそれぞれ欲しい物のところに行って、あっという間におしまい。でも考えてみると、ふたつみっつ、要らなかったものも混じっているのよね。それに物も前よりは良くなかったわ。

 ちょっと落ち着いたところで市の主が古着を売り始めた。一揃い出して見せたのが、それは珍しい色を合わせた刺繡の服でね。少ししかないから競り売りにするって言うのよ。もう私たちはほぼ買い物に気が済んでいたので見物していただけだったけれどね。若い子がどうしても欲しいんだと言って。すると、店主ときたら、ばらばらに売り始めたのよ。襟飾り、胴着、袖、帯、リボンって具合にね。そんなものにいい値で買い手がつくのよ。あの子はがっかりしていたけれど、片方の袖だけでどうするっていうの?それに胴回りが小さすぎる。

 市の終わりの方になると大方が見物人だったけれども、店主は少し値の張るものを出して来た。無理すれば買えないこともないのよ。ほんの一セラですもの。でも一セラと言えば一季分のお給料だし、そんな大事な一セラでも、本当はとても買えるものでは無いものが並んだの。

「アタワンの絹だよ!アタワンの絹が一反一セラ!」

 それだけじゃない。

「粗鋼だよ!粗鋼が鍛冶の手間代と合わせて一セラ!」

 するとね、私のすぐ近くで鍛冶屋の男が怒鳴ったの。クノン・アクの道路管理舎の近くで鍛冶屋をしている男よ。第三家(うち)から仕事を頼んだことが何度もあるわ。

「そりゃ、どこの鉄だよ。」

「コタ・サカの鉄だ。」店主が答えた。目を見て応えなかったわね。

「嘘をつけ。あんなくず鉄がコタ・サカの鉄だなんて、シギル様への侮辱だ。」

 その場には他に、鍛冶屋はいなかったのよ。ただ見物人がいるだけ。どうして店主がわざわざ店先に鉄を出したのか分からないわ。絹もよ。誰も買わずに冷やかしているだけ。だけど絹が一セラだと言われれば、皆足を止めて覗くわよ。店は道の北の空き地にあったけれど、人だかりは道の方まではみ出していた。誰かが帰り始めないと身動きも出来ないほどだったわ。

 そんな中、誰か人だかりをかき分けて鍛冶屋に近づいて来た者がいた。大きな怖い顔をした目の青い男だった。その男、買い物に来たふうではなく、少し離れたところから客たちの様子を眺めたり、店主と話したりしていた。

 男は鍛冶屋をいきなり捕まえると、殴りつけた。あの腕っぷしの強い鍛冶屋が傍にいる人もろとも倒れ込むほどだったのよ。歯が折れたんじゃないかしら、気の毒に。男に、何をする、やめなさい、という者がいない訳じゃなかったけれど、男はそこにいる者みんなを睨みつけて行ってしまった。その前に店主に目配せをしていたみたい。男がいなくなってから、周りの者は鍛冶屋を介抱するし、店主はあとを取り繕ってひとつふたつ他の品物を見せてからさっさと店じまいを始めたの。

 ああ、怖い。アドルナ、あなた行かなくて良かったわね!血を見るの、嫌いでしょう?怒った男の顔もね。

 後で帰ってから買って来た者を良く見たの。野菜やらパンやら小物が柳の籠に盛ってあるの。あの籠にも揚げパンにも見覚えがあるわ。例のカヤ・ローキの村の北側にそんなものを作るのが得意なおばあさんがいたもの。出来がまちまちだから作った人は同じじゃないわね。でもその村で作っているのは確かよ。それにね、お菓子やパンを買いに来た人の中には南側のお百姓が少し混じっていたわ。本当におかしなことね。昔だったら、生垣越しに何かと交換すればすんでいたのに、売る方も買う方も一里も離れた市で用を足すなんて。

 あの店主は商いの大将じゃないわね。あの人はあそこで売るだけの人よ。品物の仕入れは他の人がしているわね、少なくともひとりはアクス・タ・コエで顔を見たことがある行商人だわ。でも丘の上では商売をしないみたい。お百姓を相手に周っているのよ。きっと目の青い男が大将よ。藍染めの染料を仕込んでいる甕の、一番先に上がって来る色みたいな、薄い青い目よ。そんな人、見たことある?どこから来たのかしら。

 

「今ではアツセワナではその男を知らぬ者はいない。その時顔と名とを知っている者は冬至の会議に居合わせた者だけだったが。もちろん、その男はグリュマナだ。」

 キームルは言った。

「グリュマナですって?それが名前なの?―――初めて聞いたわ。」アニは言い、キブはあっけに取られたようにその顔を見たが、何も言わずに膝がしらの上に組んだ腕の中に顎を埋め直した。

「耕地の収量を上げても良し、産物を売って収入を得ても良し、トゥルカン様は課題を出した時こう言われた。より豊かなキーブを贈った方に鍵を授ける、つまり原資をもとにより豊かな分配をした方を評価するということだ。」キームルは繰り返した。

「そして穀物、羊毛、油も手を加えれば値は変えても良い。トゥルカン様が青い目の男に授けた策は、村の産物に手を加え、キーブの値に手間賃を加えたものを手下の行商人に買い取らせ、同じく息のかかった者に市で売らせることだった。」

「それをキーブの値よりも安く売ったのでは儲けが出ないでしょう?」アニが指摘した。

「トゥルカン様は勝つためなら何でもする。」キームルは言った。

「ご覧、この勝負に勝つにはただ、二年間の表向きの村の収入さえ上げれば良い。村人から買い取ってやるだけでいいんだ。トゥルカン様の負担した分は、アタワンの織物工房とベレ・イネの鉱山で働く者の報酬を抑えることで解消される。こうして格安の値で売れば物は売れるし評判も呼ぶ。同時に絹と鉄というシギル様にとって最も大事な商品の模倣を出し、安値をつけて侮辱し、公の市場での本物の価値を貶めようとしたのだ。」

 話をすすめるうちにキームルの声は鋭く震えた。キブはそっとその様子を覗き込んだ。

「ロサリス様が鍵を要求したのを幸いに、トゥルカン様はシギル様にも個人的な復讐をしようとした。」 

「カヤ・ローキの邸に来た羊とアタワンの絹は私たちへの口止め料ね。」アドルナはため息をついた。

「あの頃はそんな事とは露知らなかったけれど。」

「他に何が領内に持ち込まれたものやら。それでもカヤ・ローキが負った負債には違いあるまい。執事はさぞかし気に病んでいただろう。」

「でも、トゥルカンが王に復讐しようと思ったのはそうとして、王女とグリュマナの競争とは別でしょう?」アニは興奮して言った。

「競争は理屈の通るものでなくちゃ。他の領主たちも見ている前で、グリュマナはどんなふうに元手を増やしたか説明できるの?」

「材料を持ち込み、仕事を依頼するのは何ら間違っていない。仕事に値をつけるのは交渉の問題なんだよ。」

「でも―――馬鹿馬鹿しいわ。」

「何をいくらで取り引きしたとまで問いただす審査役はいなかった。」

「こんな事で王女は勝つことができるの?」アニは唸った。「こんな(ずる)が通るような勝負で?」

「もし、姫が、多くの人がそう思い込んだようにトゥルカン様のなさることを“力”だと思い込んだら、そしてシギル様がそうであったように同等の力でもって制しなければと思いつめていたなら、駄目だったでしょうね。」アドルナは兄に目をやり、なだめるような口調で言った。

「姫の場合はこんな罠のことを知らない方がご自分らしく振舞えました。そしてそんな姫を好きな人は大勢いたのよ。彼らは決して誰が見ても分かるように姫の味方をしたりはしません。だけど、小さく揃った針目の糸が布を大きく接ぎ合せるように、知らず知らずに強い力に耐えるようになるの。」

「望みを事実のように言ってはいけない。ダミル様の他に姫の味方はいなかった。」

 キームルが小言のように言った。

「それも最後に機転を利かしただけだ。」

 ほらね、と言うようにアドルナはアニを見やった。

「確かに頓智のきくところはダミル様の力ですとも。だけど、それだって何もないところで揮える力ではありませんからね。」


 あの風変わりな若者に出会った後、姫はアックシノンの農法をご自分で理解しようとすることに見切りをつけたようでした。ご自身がそうやって養われている田畑がどれほどの負担と努力、そして大地の女神の寛容からは程遠い生命(トゥマ)の排除によって発展し、保たれてきたかに気付き、だからといって意に染まぬ方に舵を切ることもやはり出来なかったのです。若者の助言は姫の最初の目的において助けにはなりませんでしたが、姫が抱いた疑念を直視することを助けはしました。―――大きな実を取るために小さな者を切って捨てる、支配者に必要とされるこの冷徹さはご自分の質の中に求めても無いものだ。無いと分かったならば同じ土俵に上がるものではない。

 考えてみれば、相手方の男は何か百姓たちのやり方に口を挟んでいるでしょうか?そもそも相手だって農事は門外漢なのです。それぞれに好敵手の駒を持っており、彼ら百姓は当たり前に彼らの戦いをしているのです、任せておけば良いではありませんか。彼らはいわば自ら勝ち残っている花なのですから。

 こうして姫は出発地点に戻り、時間を除けば失われたものはほとんど無いのだということをご自分で飲み込まれました。

 もう男乗りで馬を駆ることは大分上手になっておいででしたし、服装も工夫なさって、アツセワナの中を軽やかに移動なさっておられました。先の一年が我慢の冬だったとすると、この年も半ばになって姫はようやく芽を出されたようでした。

 麦も米も順調に育っている農地の方は一旦百姓たちに任せ、腰を据えて新しい学びをなさったのです。

 学校で年下の男の子達を教えてみたのが姫に暗示を与えたようでした。アツセワナの家々には姫に教わった男の子たちがいて、彼らは知らず知らずのうちに、その姉妹や家に仕える使用人の子達との垣根さえも姫の前から取り払ったのでした。一年経ったころには、姫は新市街(アクス・タ・ソレ)のほとんどの家族の事情を知るようになっていたのです。そして、ご自分の心が何を望み、どんな力を持っているかを考え始めたのでした。

 第一家の麦の刈り取りが終わり、大勢雇われていたヨレイルの若者たちは第三家、第五家へと移って行きました。丘陵の段々畑と棚田とが上下に沿道に連なる環状路(クノン・トカイ)を歩く若者たちの移動は長い列を作りました。一季分の報酬を保証した木札(キーブ)を懐にし、意気軒昂として仲間たちとお喋りをし、退屈を紛らわすために歌い、時には筆記具が無くても出来る計算や綴り方の練習をしたり、教え合ったりしていました。一群のまだ幼げな少年たちは声を揃えてこう唱えていました。 

(ヒル)(イス)(ルミ)に遣わし、(ルミ)深く(ウー)見守る(マイ)(イス)を。(ベレ)永く(エイ)(ルミ)も|永く(エイ)(イス)有ら(サイ)しめる。」

 興味を引かれた姫はひとりの男の子に尋ねられたそうです。その歌はあなたがつくったの?と。少年たちは緑郷の子(ロサルナシル)が言ったよ、と答えました。

「あなたたちはこれからどこへ働きに行くの?」

「カヤ・ローキだよ。」

「カヤ・ローキでもその歌を歌うかしら?」

「―――書き方ならもう覚えているよ。」男の子は自尊心を傷つけられたように言いました。

「いいのよ。」姫は励ますように言いました。「知らない人がいたら教えてあげてね。」

 姫は翌日にはカヤ・ローキにお出ましになりました。少し長い逗留をするつもりで、腰元の娘を連れて

主水路(アックシノン)の脇の農家のひとつに宿を取られたのでした。母子ふたりきり、女ばかりの所帯に間借りなさったのです。

 主水路(アックシノン)の二度目の夏の麦刈りが始まりました。姫は前の年のように麦刈りの作業を訪ねて行くようなことはなさいませんでした。その代わり、刈り取りもしつつ、賄い方にも回る女達を手伝い、中でももう赤子ではないけれど畑の手伝いをするには幼すぎる子供たちの面倒を見、その姉妹たちの勉強を見たのでした。

 しばらく前から私どもの心をざわつかせていた、ふたつの村に仕掛けられた青い目の男の策略のことを姫はご存知ではありませんでした。女子どもたちはしばらくで王女がおられることに慣れ、遠慮なく仲間内の話をするようになっていたのですけれど、長年の村の日常と近々の椿事の違いさえ、姫にはなかなか区別がつかなかったことでしょう。

 女達は重労働で疲れ切った身体で賄いを見る煩わしさを口にし、何人かが、総菜ものを売るあの行商人が来てくれたら、とこぼしました。たちまち耳に挟んだ何人かが食って掛かり、話に加わった者たちでその場は沸き立ちました。

「もう来ないに決まってるよ。絞れるだけ絞ったあとだもの。市にはまだ卸しているのじゃないかね、買いに行けば?」

「馬鹿馬鹿しい。隣のおばさんが作った揚げパンにお金を出すなんて。」

「隣は大儲け、こちらにお()()は無し。勝負がついたわね。」女達は、姫君が聞いているのに気付くと目配せしあい、黙りました。

 隣村から交換で手に入れられたものが一里も離れた市でないと手に入らなくなったらしい、ということを胸にたたまれて、姫はその行商人の事について尋ねてみました。

 他の物売りとは違うのか。どこから来たのか。いつ頃来るようになったのか。

 女達は顔を見合わせ、そういえば長年来ていた他の物売りたちはめっきり来なくなった、と申しました。

 男がどこから来ているにせよ、売っている物の半分は村の誰もが作れるようなものだ。残りは他の行商人が売るような小物が少し、それと珍しいがここでは何の役にも立たない物。どれも物のわりには値が高い。

 腹立たしいのは、一里離れた市ではそれが馬鹿馬鹿しいような安い値で売られているらしいということ、そのくせそこで売っているパンだの菓子だの手芸品を作っているのは明らかに隣の村の女達で、噂によると、例の行商人がいい値で買い付けていくそうだ。

 もう皆あきれ果て、もう男がやって来てもあまり買わないようになっていたのだけど。

 そうそう、一度だけこの男、儲け話を持って来た。城内でよく売れるから作ってみないかと。何かって?()()()()とかっていう菜っ葉に、百合の根っこのような、大きいの小さいの色々の花の球根。それから節のいっぱいある、なんだか気味の悪い根っこ。そんなものがアツセワナで流行っているんでございますか?ご存知でない?そうだろうと思っていましたよ!

 何人かこの行商人の口車に乗って、()()()をはたいて買い込み、畑の隅にこしらえてみた。山わさびの方はこわい菜っ葉に不細工な()()()()みたいな根っこがついたけど、辛くて食べられたものじゃない。球根の方だけどね、芽が出ると近くに植えてあった浅葱と混じってしまってね、うっかり食べた者が死にそうな目にあった。気持ちの悪い根っこは春になってもうんともすんとも芽をださなかった。それでも辛抱強いというのか、馬鹿というのか、育てた()がいましてね。もちろん、行商人は買い取りやしなかったよ!ほら、まだあそこに咲いている。春先から咲いたのは時期が済んで枯れて、またぞろ球根をどっさりつけているけど。遅くから芽の出たあれはまるでお化けのように伸びているね。気味の悪いくらい蕾をつけているよ!

「その子の他に花や野菜の株を買った人はいないの?」ロサリス様は尋ねられました。

 女達は声をひそめて、そんなこと、亭主の前では言わないでくださいましね、と言った。実は騙されて花の球根を買った者は少なくは無かったようでした。が、そこにいる農婦達は、もう痛い目にあったので二度とあの行商人から仕事の種は買わない、と申したそうでございます。

 姫がこの行商人のことをご自分の競争相手の手先だと気付かれていたかどうか。それはさておき、責任を負って見守るべき村に、耕地の農作物とは別に細かな損害があることを知り、姫はその傷がいかほどのものか、どのような手当てが出来るものか調べにかかりました。

 花を育てている、という娘のことは私も存じておりました。子沢山の百姓夫婦の末っ子で、賑やかな中であまり構いつけられずに育ったせいか性急で万事に荒削りではありますが、元気で善良な娘でした。この娘は他の者が投げ出した花と野菜までも引き受けて世話をしていたのですが、中には、彼女が滅多に人に嫌とは言わないのをいいことに、あんたはいつか一儲けできるのだから、と元手の負担までもこの娘に押し付けた者さえいたのです。

 姫君は、スクヌーというその娘の話を聞き、事の成り行きよりもこの娘に興味を持たれました。というのは、この娘が育っている花はもちろん、終わって枯れてしまった花の球根をもきちんと取り分けて、何とかこれを役に立つものに出来ないかと考え続けていたからでした。

 スクヌーは何度となく隣村の入り口まで出かけて行き、行商人を待ち構えて話を繋げようとしたのだそうです。

 村同士が争っているからと言って、本人は故も無く人を嫌うことなど出来ない性分でしたから、人に何と言われようが、時々は村境まで行って向こうの者と話そうとしました。球根を見せて、これを知っている?と尋ね、あんたたちのところではどうしてそんなに商売がうまくいくの、と尋ねたりもしました。

 向こうから帰って来る言葉と言えば、馬鹿、とか何を企んでいる、とか酷いものでした。ほとんどの者は返事すらしませんでした。ひとりだけその球根を分けて欲しいという者がおりましたので、間違って食べないように注意をしたうえで球根を分け与えました。

 時にはこの娘も、人の狡さや我儘を受け入れ続けることが辛くなることがあるのでしょう、村人たちが明日の仕事に備えてさっさと休みに帰った後、長い黄昏の時間を、隠れ家を失くした青い蛙と一緒にぽつねんと麦の刈田に座り込んでいるのでした。

 ロサリス様は健気さとは別の孤独な姿をその姿の中に見たのでございますが、それでもこの娘に何が必要なのか見極めるまでは努めてそっと置いておられました。その間も大きな菖蒲の蕾は次々と上がり、太りつづけていたのでした。

 次に姫が関心をお持ちになったのは、スクヌーとは全く対照的な娘、テポケナでした。父親は小柄で病弱な男で、母親は苦労の故か人付き合いが悪く、齢の離れた姉が嫁いでしまった静かな家の中で、テポケナは仲間からはいじめられがちの恥ずかしがり屋でした。手先が器用で毛糸を細く縒るのが得意でした。

 家の中に籠りがちなテポケナをロサリス様の目の留まるところにまで連れだしたのは、ロサリス様のお腰元のハヤでした。村に滞在の間、ハヤはいつもテポケナの横に並んで座り、一緒に仕事をしていました。意地の悪い者は姫君がいらっしゃらない時はそのふたりの様子を見てヨレイルのようだ、などと言ったそうでございます。ハヤはクシガヤの娘だったのですが。

 姫は最後に、滞在している家の娘、ホアジに目を留めました。早くに父を亡くし、しっかり者で頭は良いのですが、そろそろ年頃というのにお洒落をしようともせず、人に会ってもにこりともせず、鋭い刺すような眼差しをしておりました。

 母親は若い頃からそこそこの器量よしでした。娘が大きくなってもまだ村の者たちから結婚を勧められていました。そろそろ一人娘にも縁談が来ようかという時にも、母親のほうには、子持ちの男やもめだの、蓄えはあるものの身寄りのない年取った男だのに娶せようとする話が絶えませんでした。ホアジがいつもきつい、人を寄せ付けない顔つきで背をそびやかしているのは、絶えず母親について回る好奇と威圧の目のせいだったのかもしれません。

 ロサリス様は滞在している家の狭い庭先でよく子供たちに読み書きや歌を教えていましたが、ロサリス様の目の前でさえ、ホアジは「子どもは嫌い。」と口に出して言っていたものです。「考えなしで、ずるくて、すぐに泣く」というわけです。

 女達は「ひどい子だ」と言っていました。「愛想なしで不器量な」とも言っていましたが、これは違います。無愛想なのは本当でしたが。

 このホアジが、ハヤが子供たちを遊ばせる時にはいつも、そのおおらかな優しさを皮肉っていたものでしたが、ある時、突然激しくハヤを叱責をしたことがありました。

 後でハヤがロサリス様に話したところによると、ひとりの良く小細工をする子がスモモを摘みに行くと言って、すこしぼんやりとした仲間の子を連れて水路の方へ行こうとしていたのだとか。ハヤがうっかりその子のことを信じて行かせていたら、子供は小舟のところに行き、もやい綱を解いてしまうか、悪くすれば水に落ちて溺れていたかもしれません。

 ロサリス様はホアジが、決して本人の言うように子供が嫌いなわけではないのだ、と悟りました。子供の成長に従いついていく知恵は、往々にして狡猾さが分別に先立つものでございます。ホアジは賢いゆえに、年上の者の負う責任の重さと難しさを知っており、故に子供が好きとは言えなかったのでしょう。あまり構いこそしませんが、実はその場にいる全ての子に目を配っていたのです。

 一度、ロサリス様が怪我をした子供の手当てをした時、治療に使った薬や包帯の巻き方、食事の摂り方について母親に与えた指示を見てとても興味を持ち、質問をしたということです。

 村のほとんどの娘がそうであったように、ホアジも読み書きはほとんど出来ませんでした。一生涯を同じ村の中か、近隣の嫁ぎ先の農地の中で暮らすことを運命づけられた娘たちは、生まれ故郷を離れて奉公に行くヨレイルの若者や娘たちほどにも文字を学ぶ必要があるとは思われてはいなかったのです。ロサリス様が子供たちに教える文字にホアジはとても興味を示しました。ロサリス様が物語や歌謡を書きつけた本をお見せになると、あっという間に文を書くことを覚えてしまいましたので、ロサリス様は後にホアジに子供たちの勉強を手伝わせました。宿代の支払いの他に、この助手としての労賃が支払われ、それが母子の暮らしにささやかながらゆとりを持たせたのでした。

 ロサリス様の滞在を村の百姓たちがどう思っていたかは私には申せません。女達の手を取る子供たちの面倒を姫が見ていることにすら気付いていたかどうか。もともと彼らの肩に掛かる負荷でない限りは、良きにつけ悪しきにつけ物の数ではありませんもの。前の年と比べ、百姓たちと姫のどちらが変わったと言えば姫君のほうでした。城の中で譜代の年寄りの家臣たちに接するのと同じように、どのお百姓にも丁寧に挨拶をし、その他はなるべく邪魔をしない様にそっとしておいたのでした。

 件のアックシノンの隣り合う村との境には昔から境界の生垣が作られておりましたが、そこには長年常に通用口が保たれており、人や物の行き来がありましたものを、この二年の期間は競争相手だからということで、村人たちは自然と互いに口もきかなくなり、隣村との境の生垣は通用口もいつしか枝が伸びて塞がっておりました。敢えてそうする者すらいなかったのですが、隣村にも訪ねて行くには、村を囲う水路を渡らなければならなかったのです。

 しかし、子供たちは別でした。手を取り合って枝の隙間をくぐり抜けて行き来をしておりました。隣村の小さな子が食事どきにも入り混じっていましたが、姫君が一緒に世話をなさっているのに帰れとも言えず、そのうち女も男も、まあまあ子供の行き来を許すようになりました。

 もう少し大きな少年少女、それに年頃の若者や娘たちが仲の良かった友達に会えないことをどう思っていたか。でも、今思えばきっと何か理由をつけて水路を渡り、村の外で会っていたのでしょう。

 だいぶん後のことになりますが、私は村の外で煎じ薬にする十薬を摘んでいるホアジが隣村の若者と一緒なのを見かけたことがありました。第一家から麦の刈り取りに周って来ていたヨレイルの子達が北へと移って行った後で、彼らが口ずさんでいた歌を聞き覚えた子供たちが、両方の村の境の生垣を出たり入ったりしながら歌っており、水路を超えたむこうの草地にも聞こえておりました。


   (ヒル)(イス)(ルミ)に遣わし (ルミ)深く(ウー)見守る(マイ)(イス)

   (ベレ)永く(エイ) (ルミ)も|永く(エイ) (イス)有ら(サイ)しめる


「あれ、何の歌かな?今年になってやたら耳にするようになったけれど」

 若者は子供たちの方に手をやって言いました。

「特に意味は無いのだと思うわ。」ホアジは彼女一流の素っ気ない調子で言いました。

「ただ、言葉の書き方を覚えるための歌よ。それだけ。―――あの歌はこう書くのよ。」

 ホアジは、土手に上げられた砂混じりの湿った土の上に指で、歌いながら“日”と“月”と“山”と“木”を書いてみせました。

「ああ、なるほど、そう書くんだ!」

 若者はホアジの横にかがんで、土の上の文字跡を手本に綴りを書きました。ホアジは周囲を素早く見回し、水路の向こうの畑に出ている者が誰も見ていないことを確かめると、肌から刺を引き抜くような細心さで、そっと若者の脇から身を引いて立ち、振り返りはしなかったけれど、いつもより余程静かでしとやかな足取りで離れていったのでした。

 私はロサリス様にいいお土産話が出来たと思いました。そのあとしばらくして、ホアジが村から出て城内に働きに行くことになった時には、私はこの隣村の男の子とはどのくらい親しかったのかしらと考えて惜しい気がしたくらいでした。   


「その三人の女の子たちが糸目になりそうね。」アニは半信半疑で呟いた。「それでもまだ力の兆しが表れているとは思えないわ。特に、スクヌーとテポケナが。スクヌーはまるで私のようにそそっかしいし、テポケナは……小さい頃の母さんをもっと意気地なしにしたみたい。」

「あなたとあなたのお母様なら、きっと十分王女の支えになれたでしょうに。」

 暗がりの中でぴくりと跳ね上がり、窺うように耳をすませた後、アニは厚かましく答えた。

「そうよ。とてもね」


 姫君は、その効果の現れるのはいつとは知れないものの、村の中でのご自分のお仕事を楽しんでおられましたが、一度王のお召しに応じてアツセワナに戻られたことがありました。三、四日の短いお帰りでした。

 丁度、カヤ・ローキではトゥルカン様の贈り物の羊の扱いに執事と兄とが頭を悩ませていた時期ではありますまいか、城内ではウナ・ツルニナの痛ましい事件で持ち切りになっていた頃でございますから。シギル様は姫と城にご到着の後、即刻、事件の調査と衛兵の巡回を命じられたとか。

 その翌々日のことでしたが、私は、館の年寄りの薬を貰いに、施薬院のある上の郭へと行きました。その時、とても奇妙なものを見たのでした。

 宰相の邸の前で人だかりがしています。何事があったのかとそちらを見ますと、私のムクドリ仲間のひとりがしきりに手招きをしておりました。邸の門が解放され、衛兵が警備する中、前庭の様子が通りから町の者にも見えるようになっておりました。私の他にも女中仲間がおり、私たちは通用門からちゃっかりと台所の脇を通って、宰相邸の使用人たちに立ち混じり、前庭で起こっていることをかなり間近で見ることができたのです。

 前の晩、旧市街(アクス・タ・コエ)で喧嘩騒ぎがあったということで、店が乱暴者に押し入られ、品物に被害が出たとして、染物屋が訴え出ていたのでした。

 その騒ぎがあった地区というのは、アクス・タ・コエでも特に古い、職人たちの工房の集まった地区で、トゥルカン様の邸の裏手の城壁の切り立った下にある、空き家の多い街区でございます。

 トゥルカン様は、王の衛兵が城内に見回りに出るようになってからも、アクス・タ・コエはご自分の管轄とて、アガムン様に命じて配下の者たちにこの地区を巡視させておりました。どうも一部、アガムン様の部下の者と王の衛兵がぶつかって喧嘩騒ぎとなり、染物屋の店を壊したようでした。

 トゥルカン様の言われるには、その晩の夜が明けぬうちからお邸の衛兵を加勢に差し向け、騒ぎの中心となった者を捕えたとのこと。

 シギル様はこの件の片方の責任者として和解のためにお出ましになったのでした。姫もご一緒でした。

 姫君は、珍しく気持ちの高ぶった様子をしておいでで、それは必ずしもお気持ちが弱っているというわけではなく、久方ぶりに顔を合わせるアガムン様の明らかに不機嫌で高圧的な御自身への態度にも丁寧に目礼を返しました。しかし、トゥルカン様の命令で庭先に引き出された者を見ると明かな動揺を面に表されました。喧嘩騒ぎを押さえたということなのに、捕らえられた者はたったのひとり、それも、新門(タキリ・ソレ)の脇の庭園で会ったあの若者だったのです。

 シギル様は若者の顔をご覧になると、トゥルカン様に若者の尋問を任せられました。若者は問いに対してすらすらと答えました。―――アツセワナにやって来て半月と立たぬ間によくぞ大通りの名から街区、小路の隅々まで覚えたものでございます。

 若者によりますと、王の命令で城内の巡回に加わっていたところ、同じようにアクス・タ・コエを歩き回っている数人組に遭遇した。おそらく夜目のせいもあり、相手方を怪しみ質問しようとしたが、相手は答えずに一斉に解散し、夜陰に紛れたのだと。仲間たちは深追いしなかったが、明らかに意図された散り方だったので、自分は彼らのひとりが物陰から動き出すまで待ち、これを追ってみた。彼らはじきに小路の出会いで集まりはじめ、最後にふた固まりに結集し、ある一点を目指して行った。

始門(タキリ・カミョ)を指して通りを行く娘さんがいました。そして、その後を追う娘さんがもうひとり。後の方が追い付き、ふたりは立ち止まって何か言葉を交わした。そうしてふたり連れになったところを隠れていた者たちが襲い、かどわかそうとしたのです。」

 騒ぎを聞いて、住民、王の衛兵が駆けつけ、娘たちを襲った者の大半は彼らを惑わすために逃げたということです。アガムン様は駆けつけた中にはご自身と部下もいたのだと主張されました。若者はわずかに眉をつり上げ、肩をいからせました。

「あなたの声は聞きました、アガムン殿。その命令が味方だと思えるものなら良かったのですが。」

 アガムン様はお顔の真ん中に泥が命中したかのようでした。

「仲間は逃げた乱暴者を追い―――私は娘さんふたりを安全なところに連れて行こうとしていました。」

 そう言って、若者はやや面を王女からそむけました。王がそれを見とがめてか、お尋ねになりました。

「その娘は?どうした?」

「私が宰相殿の衛兵の縄に掛かる前に新市街(アクス・タ・ソレ)のロノ・ニーミアの辺りまで送り届けました。本来なら彼らがすべきことでしたのに。」

 若者は涼しい目で真っ直ぐにトゥルカン様を見て言いました。

 アガムン殿は、嘘をつくな、と若者に言われました。

 女がかどわかされた場所からロノ・ニーミアまで随分と離れているうえ、荒らされた染物屋の方角から外れている。送り届けたというのは嘘だろう、はなから娘たちを襲ったのはお前だったのだろう―――その他、とてもここでは言えないような事を口になさいました。

 その時、ロサリス様が屹となって顔を上げられましたが、トゥルカン様が、染物屋を呼ぶように言われました。しかし、連れて来られた染物屋はそこにいる若者を見ても、訳が分からないというように首を振り、言いました。

「店を荒らした奴でございますか?もっとがっちりとした男で。」

 それもひとりふたりではない、床下から潜り込む者、壁を破って押し入る者―――藍を仕込んだ甕には壊れた壁の木切れや漆喰がなだれ込み、もう使い物にならなくしてしまった。しまいには染めて干してあった布を引きずり下ろし、すっかり駄目にしてしまった、と。

「頭から引っかぶるわ、引きずり回すわ、どうしてそこまでせにゃなりませんかね?えらい損害ですよ。」

 男は周りじゅうを見回してそう息まき、ふとぷつりと糸を切ったように黙ると、アガムン様の後ろに控えている男たちのひとりを穴のあくほど見つめたのです。

 姫君は染物屋の目を追い、その者を見つけると、一瞬呆然となさり、それから今の事態も忘れたように声を押し殺して笑われました。

 その男は背丈もありがっちりとした、まさに戦士とでもいったところの男で、しかし、どういうわけか何となく陰気臭く、幽霊のように蒼白い影をまとっていました。深く窪んだ眼窩の奥の目は、すこし離れたところからでさえ良くわかる薄い青色をしていたのです。―――ええ、私にはとても笑ってなどいられませんでした。

「グリュマナ殿、あなたもここにおいでとは。お忙しい方ですね。」

 姫君ははっきりとその男に顔を向け、同情をこめて男にそう声を掛けられました。その時、男は一瞬、哀れともいうべき表情を浮かべ、それを見ると私はいっそ胸騒ぎがするほどでした。

 若者はその男を見、互いに目が合った途端素早く顔を伏せたものの、そこによぎった驚きと穏やかならぬ感情は、私が心に抱いた思いがそのまま面に表れたかのようでした。そして、若者と男とは、伏せた目の陰から、油断なく相手の様子を窺い続けていたのです。

 アガムン様はふたりの様子に気付くと荒々しく男を後ろに押しやり、染物屋に、お前の見間違いだろう、そうでなくてもこの男が店を荒らした者のひとりには違いあるまい、よってお前の受けた痛手はこの者に払わせるがよかろうと言われました。

「そこの者、どうなのだ。」トゥルカン様は若者にお尋ねになりました。

「お前は染物屋の言う場所にいたのか?女ふたりも一緒だったのか。」

 若者はびくともせずに答えました。自分は確かにそこにいたし、追っ手に応戦しているうちに屋内を荒らした。同行していた娘たちについてはこれ以上自分から言えることは無い、と。

 アガムン様は王の御前にも拘わらず、日頃思い通りにならぬ召使にしているように振舞おうとなさいました。若者の襟首をつかんで、部下のひとりに鞭を寄越せと言いました。痛い思いをさせてご自分の望むことを言わせようとしたのです。アガムン様の指に何か若者が首から掛けていた紐が絡まり、引き出してみるとそれは小さな碧玉の輪を通した紐でした。

 シギル様がそれを見て制するように手を上げられました。そして、柱廊の見物人の中から奇妙な声が上がりました。

 シギル様がアガムン様に対して行き過ぎた詮議を止めるようにと警告を発する前に、姫君は決然と前に進み出られました。

「もう、結構でございます。この方が狼藉者の責めを負うというなら私も共に。なぜなら、私たちを襲い、しつこく追ってくる者たちをかわすために、私がこの方を旧市街(アクス・タ・コエ)の入り組んだ小路へと案内したのですもの。アガムン様、この方は確かに夕べ私と腰元の娘を王宮の門まで送ってくださいました。それにこの方は知らぬ方ではありません。」

 姫君は父王に振り向かれました。そして、その声はとても静かでしたが、裁きを見守っている者みなにはっきりと聞こえたのでした。

「二年前の“黄金果の競技”で金の実を私に下さったのはこの方です。」

 シギル様は顔色ひとつ変えずそれをお聞きになると、若者に顔を向けられ、命ぜられました。

「名を言え。父と家を。」

麗しい若木(ラシース)。父はハルイー、ヒルメイの生まれです。」

 王が密かに拳を握ったのが私の目に映りましたが、その面は全く変わらず、ただ、ひと言冷淡に言われました。

「名乗るのに時間のかかることよ。」

 そして染物屋に振り返り、損失の計算が済んだら申し出よ、と言い渡し、トゥルカン様には、この度の事は双方の過失である故、若者を引き渡し、染物屋への賠償を折半にして支払うようにと要求されました。トゥルカン様は王女に狼藉を働こうとした者が誰か分からぬことを理由に支払いを拒否しようとしました。王は姫に意見を求められました。姫は詳細を語ることをいとわないと仰いましたので、トゥルカンは王の申し出に応じる素振りを見せられました。この値切り、とでも言いましょうか、交渉は長引きそうだったので、私たち他家の庭に潜入した使用人たちは、家の上臈たちに見つからないうちにこっそりその場を抜け出しにかかりました。

 引き上げる人たちが、歩廊から庭から流れ込んで、建物の間の狭い通路にあふれていました。その流れの中にしこりのように留まる一点があり、避けて通る人々の間に、介添えの者に支えられ大儀そうに進む、てっぺんの禿げた尖った砂色の頭が見えました。

「サザールよ。」横にいた、第三家(カヤ・アーキ)の女中が舌打ちしかねない調子で囁きました。

 私のすぐ目の前を、アガムン様と部下の者たちが押しのけるようにして通り過ぎました。

 アガムン様があのようにぎらぎらと火照ったお顔を見せたことは今までに一度としてありませんでした。競争相手と目されていたダミル様に対してさえ。それほど“黄金果の競技”での失敗は屈辱的なものだったのでしょう。

 あの青い目の男も一緒でした。そのとき近々とその顔を見た者は姫がなぜあのように笑われたのか合点がいったのでございます、事はあきらかでした。男の灰茶色の髪と顔にはうっすらと青い藍の色が残っていて、それがあの目の色と相まってその風貌をより蒼白に見せていたのでした。そのことについて私たち召使たちはほんの短い間だけ噂しあいました。

 そして姫がアックシノンの村にお戻りになる頃には、この男についてもうひとつの事が明らかになり、この日の奇怪な隈取の藍の色は、その後ずっとこの男の悪行の印として恐れられるようになったのです。


「サザール?イナ・サラミアスで巫女を侮辱して落ちて来た石で大怪我をした人?」アニは尋ねた。

「さあ……。」アドルナは戸惑いながら兄を見、キームルは「そうだ。そのサザールだ。」とうなずいた。

「胸に確か髄石が―――。」言いかけて、アニはイネ・ドルナイルの山影に背を向け、炭火に身を寄せた。

「四十年近くも前だから―――もう死んでる?」

「いいえ」アドルナは言い、キームルもすぐに言った。

「今も当時と同じ、タ・ス・ミラシーカに住んでいる。青頭巾がカヤ・ローキに陣取っているように。」


 ロサリス様がアックシノンの村にお戻りになったころ、こちらの村でも奇妙なことが持ち上がっておりました、と言ってもそれを知っているのは村の一部の女子どもだけでございましたが……。

 あの内気なテポケナが、姫君がお帰りになった途端やってまいりまして、みすぼらしい住まいゆえ普段ならハヤ以外の誰かが訪ねて行くのを渋りますものを、病気の父が臥せっておりますあばら家へ姫をお連れしたのでした。父親はもう長いこと咳の出る病を患っておりましたので、村人たちも余程の用がない限りこの家には近づく事はありませんでした。

 テポケナはロサリス様とハヤを表からすっかり隠れたあばら家の入り口まで連れてくると、人を匿っているのだと打ち明けました。夕方遅く帰って来る母親にも知らせず、布一枚で仕切ったきりの家の中をあちこちと隠れ、居場所を移りながら一晩凌いだということでした。

 テポケナが連れて出て来た娘を見て、ハヤはあっと声を上げんばかりになるのをこらえ、そのまま両腕に抱きしめたそうでございます。ハヤの郷里のクシガヤの娘で、絹織物の修行を終えてアタワンへと旅立った一行に混じっていたそうでございます。

 娘が姫の前に自ら語ったところによると、例の殺された娘と一緒にアタワンの絹織物の工房に雇われたものの、待遇があまりに酷かったので逃げ出した。シアナの森に逃げ込んですぐに、出入りを見張っていた者に捕まってしまった。懲罰のため留置されている間に、工房の監督が、面を隠した得体の知れない男たちを呼んだ。この男たちは前にも何度かアタワンにやって来ており、そのたびに同輩が二、三人ずつ行方知れずになるというので恐れられていた。娘と友達とは、一旦シアナの森まで連れて行かれ、待ち受けていた彼らに引き渡された。イネ・ドルナイルのチカ・ティドに売り飛ばしてやると脅され、馬の背に載せられ、西へと向かう途中でふたりして力を合わせて縄を切り、橋の上から主水路(アックシノン)の水に飛び込み逃げた。すぐに友達が捕まり、その叫ぶ声を聞きながら逃げて来たのだと。

 テポケナのほうはその翌日の夕刻、村の意地悪な娘たちに泣かされて村を飛び出し、水路沿いを北へとさまよっていたのでした。日の暮れた薄闇の中、水路の土手を這い上がって来た人影を見て肝をつぶしたものの、自分よりもはるかに哀れな娘の身の上を聞いて心を奮い立たせ、勇気の火を熾したのでございました。

 ハヤはハヤでまた、姫君に同行してアツセワナに戻ったあと、例の噂を聞いて居ても立っても居られなくなり、父王にお任せしなさいと姫君が諭されるのも聞かず、クノン・ツイ・イビスの通りという噂だけを手掛かりに友達の行方を捜しに行こうとしていたのでした。その後を追った姫君が思いもかけぬ冒険をする羽目になったのは先に申し上げた通りでございます。

 姫は、村での滞在の期間に心に留め置かれたことをアツセワナにお帰りの短い期間中に考えあわせ、既に答えを出しておいででした。そしてそれはすぐにも実行に移して良いのだと判断なさいました。

 まず、クシガヤの娘の安全を何よりも早く確保せねばなりません。姫は娘にハヤの服を着せ、逗留先のホアジの家まで連れ帰りました。ハヤならばテポケナの家に一晩くらい泊っても怪しまれません。それからホアジとスクヌーをまずお呼びになりました。

「スクヌー、あなたの育てた花は見事に咲いたこと!見たこともない大きな菖蒲ね。あれを明日の朝までに切り分けて根を水を含ませた水苔に包んで籠に入れておいてちょうだい。アツセワナの人々があれを庭に植えたいと思うかどうか尋ねてみるとしましょう。あなたが大切に取り分けておいた他の花の球根もね。私はこの子を連れて明日、アツセワナに行きます。明後日の午後には花を売った成果を持って帰るからそのときまでにね、あなた方に考えておいて欲しいことがあるの。」

 ロサリス様は、スクヌーとホアジのふたりに、村を出て百姓とは違う仕事で暮らしを立てる気はあるかと尋ねられました。

 思いもかけぬ問いかけに、スクヌーは理解が追い付かずぽかんとし、ホアジは返事をする前に訊きただすべき事をすばやく揃え、耳を研ぎ澄ましました。ロサリス様はさらに詳しく話されました。

 城内には、富める者から貧しい者まで救済するためのいくつかの施設がある。その中で施薬院の薬師が助手を求めている。ゆくゆくはその知識を伝授して後継を任せられる意思の強い賢い者が望ましい。ホアジにこの助手になる気持ちはあるか。

 さらに城の台所の備蓄食料を司る部門では、長期の旅や天災、飢饉に備えて食料を保存する方法が伝授され、新たに研究されている。ここでも若い助手が求められている。スクヌーはここで働く気持ちはあるか。

 たちまち、ホアジは質問を浴びせました。

 私たち村の娘は、村にとっては食べる口かもしれないけれど、働き手でもある。この三人はようやく十六、七というところで、村にとってはようよう働き手が食べる口に追いついて来るというところ。そのうえ、嫁になって家の事をさせ、子を産ませ、これから価値が出てこようというものを、村を出て行くことを男たちが承知するだろうか?

 もちろん、ホアジは自ら村の男たちの価値ある女になろうと殊勝に思ってこんな問いをしたわけではありません。王女の引き立てが必ずしもその者を、家族を村を幸福な気持ちにはさせないだろう、時には王女には直接向けられることの無い嫉みや不満を、娘本人が被るのだということを、この娘なりに訴えようとしたのでした。

「村の働き手としてのあなた方の価値をそれでは男の人たちに尋ねてみるとして、その他に住まい衣食の心配の無いように計らいましょう。」

 姫はそう言って、明後日までに気持ちを固めて置くように、と念を押して、翌日にはスクヌーの用意した花の籠とクシガヤの娘を馬に乗せてアツセワナへと帰って行かれました。

 姫が道々配って歩いた大きな菖蒲の花は、アツセワナに辿り着くまでに沢山の野菜や果物に姿を変え、姫と一緒に下って来る時には、村の男たちが三人の“のけ者娘”の価値として認めたのと同等の銀貨に代わり、姫が三人の身元を引き受けた証として村に支払われたのでした。その他、村に残る父母には手当が支払われたのでした。

 私は後日、スクヌーとホアジをカヤ・ローキから迎えに行き、城内まで付き添いとして送って行きました。 

 姫はハヤとテポケナを連れて帰り、テポケナを技能修練所に入れ、絹の織りと染色の技法を学ばせました。そして、クシガヤの娘の方はニクマラに預け、秋の初めに訪れる東の国の人々の帰郷に合わせて郷里クシガヤに帰らせたのでございます。


 毛布は十分にあったが、地面の堅さと夜気の冷たさを和らげるのに十分ではなかった。旅人たちは鍛冶小屋に入り、年取った兄妹は寝台を使い、キブとエマオイは床に横になり、アニは奥の部屋からなるべく離れて戸口に横になった。錆びた鉄の匂いと針葉樹の森の匂いが闇の底に交互にただよった。  


 クノン・アクの北の旧街区で逃げ散った四人の姿は、まばらな家々の陰、あるいは廃屋の壁の陰にぴたりと吸い込まれた。微かな足音も同時に止んだ。仲間の歩哨が呼び、集まって言葉を交わしたが、若者はその音さえも遠のくのをじっと待った。

 味方の気配が消えてから、人影の消えた一画で身じろぐ音がし、やがてひとりの影が立ちあがって歩きはじめた。彼の見張る前方でさらにもうひとつの影が立つ。同じ方向に向かう彼らの足音は石畳に響いて容易く拾える。彼は少しずつ間を詰めた。

 ふたりの男はもはや人の住んでいない狭い小路を進み、一本右側から寄せてくる小路で待ち構えていた他のものふたりと短く声をかわした。その先一、二軒廃屋を越した先に小路の合流点があり、草生した古い石を敷いた小道はやがて始め門(タキリ・カミョ)に通じる表通りに合流する。男たちは小路の出会いの手前に止まり、腰を低くして前方を窺った。割れた石畳の間から丈高く伸びた草の間を縫うように、ひとりの小柄な娘がやって来る。周囲を警戒しながらもその動きは素早く、先へ先へ急いていた。

「ハヤ!」低く鋭い若い女の声が、娘のやって来たその後から呼びかける。娘はびくりとして振り向いた。なおも行こうとしながらも、さすがにその足が緩む。

 声の主とその訳を訝しむ間もなく、彼の前で物陰に潜んでいた者達が通りへと躍り出た。

 若者は警戒の指笛を吹き、女達と襲撃者の間に突進し、組み付いた先頭の者ともろともに石畳を転がった。

「出会え!」

 まだ近くにいた味方、正中門の衛兵、クノン・アクの巡回の歩哨が答える。しかし、ひとりと組み合ううちに残る三人がひと息に包囲を縮め、娘たちに襲いかかる。そして北の古い大通り、ロノ・エメウトリから二騎の騎馬がやって来る。

 軽い驚きと嘲笑のどよめき。背の高い娘は戦きながらももうひとりを庇い、懐刀を抜いていた。後ろに回ったひとりが小さい娘を捕らえ、ふたりの男がいとも簡単に娘たちを引き離し、刃を取り上げた。

「女を逃がすな!」真っ先に乗り込んで来た騎馬から、聞き覚えのある傲慢な声が飛んだ。

 ようやくひとりを抑え込みにかかった若者を、馬から下りた男が近寄り脇腹を蹴放した。すんでのところで転がり、致命的な打撃を躱したものの咄嗟には動けず、逆に抑え込まれる。相手の上にすっぽりと覆面をした姿が立っているのが見えた。夜闇の中に首から上が溶けたかのようだ。アガムンが馬上から冷ややかに見下ろして言った。

「邪魔者は切り捨てて構わん。女を馬に乗せろ。」

 覆面の男が剣を抜く。駆けつけてきた衛兵が叫ぶ。

「誰か?トゥルカン殿のご家臣か?」

 男は剣を引っ込めて踵を返し、馬に乗った。

 手を放された若者は咄嗟に馬の側に飛び込み、轡を捉えて命じた。

「伏せ!」

 馬は足を畳んで身を沈め、覆面をした男は前へのめり転げ落ちた。若者は素早く覆面の首元を捉え、素早くぐるりと反転させた。そして鞍が空になった馬の横腹を叩いた。

「行け!」

 一方、アガムンの鞍の後ろに乗せられた娘は素早く身を返して反対側に飛び降り、叫んだ。

「ハヤ、ハヤ!誰か来て!」

 アガムンはくるりと馬首を巡らせて旧道の方へ逃げ去った。馬に置いていかれた男は、ずれた覆面をもぎ取り、そのまま物陰に身を潜めた。

 アガムンの馬から飛び下りた娘は連れの少女を見つけると辺りを見回し、ふたりして近づいて来る兵たちを避けて、古い街の立て込んだ家の間へと滑り込んだ。

「ロサリス!」若者は低く呼び、後を追った。

 娘は廃屋の細い隙間の奥に入って行き、壁に囲われた箱庭に抜け出て、振り返った。連れの娘が怪我をした手を庇ってかがみ込んでいた。

「刃の先が当たったのよ。」ロサリスは心配そうに言った。

「大丈夫です、姫様。」娘は小さな声で答えた。「大したことありません。そのおかげで放されたのですもの。」

「早く手当てをして血を止めなくては。」

「ハヤ」若者は薬を探しながら言った。「サコティーの―――妹?」

 娘は黒い円らな瞳をちらと上げたが、答えずに目を伏せた。若者はロサリスの後を引き受けて素早く娘の手を包帯した。

「早くここを出て味方のところへ。戻れば落ち合えるはずだ。」

「いいえ、待って。」

 三人は息を潜め、耳をすませた。三人が入って来た壁の間を擦って誰かが入って来ようとしている。

「ここは袋小路か。」

「家の中に入って表に抜けられるわ。」ロサリスが戸の蝶番の壊れた裏口を指差した。

「では先に行って。」

 若者は娘ふたりを先に中に通すと、ぴたりと戸を閉め、閂の代わりの棒を差し込んだ。狭いふた間をまっすぐ通り抜けて戸の無い正面から表に出る時、裏口の戸が一撃のもとに残る蝶番を折られ、次の一撃で内側に破られたのを、三人は聞いた。後ろから男の声が叫び、小路の通りに近い方からふたりの声が応え、足音が響いた。

「左よ、来て。」ロサリスは小路の奥へ駆けだして言った。小路は古い家々の間を湾曲しながら城壁の方へと向かっている。やがて南の方から出会った小路と一緒になり、城壁に並走して北に向かう。

「南に向かっていれば正中門に出たのでは……。」

 息が続かず、立ち止まって喘いでいる娘たちに若者は言った。

「ええ、でもその前に捕まってしまうわ。」

 果して南の方から足音が追って来る。ロサリスは城壁に沿って斜めに細い小路を上がり、城壁に面して煉瓦つくりの古い家が並ぶ街区に入った。何件かの家には灯りが灯っていた。追って来る男たちの足音が聞こえると、灯りの漏れた窓は一斉に板戸を閉めた。ロサリスは空き家を見定めてひとつの家に飛び込んだ。古い淀んだ空気が漂う。

「待て、床板が抜け落ちている。」若者は囁いた。

「そうよ。」ロサリスは暗がりにかがみ、足元の暗黒を覗きながら言った。

「この町はとても古いの。昔、都の中心は北東のワナ・ダホゴイにあり、表通りはそちらにあった。後で王宮が南西に移った時に、そして昔の街を埋めて城壁を築き直し、上に家を建てたの。この通りは第四家(カヤ・ユツル)が無くなった後、一斉に正面の向きを変えたの。そんなに深くは無いわ。底からでも手を伸ばせばここに届くくらい。」

「床下に下りるの?」

 ロサリスはうなずいた。丘の鞍部を埋めた地下には昔の遺構がそのまま残り、その上に新しく家を建て、もとの家屋の間取りと小路はそのまま地下室に使われている。

 一区画にたった一か所の出入り口を探りながら、北へと抜け道を探した。すっかり口のふさがれた室は食糧庫のようだ。時折、上を歩く者の重みで天井の板が軋る。

「ここは人が住んでいる。―――貸家だわ。次は仕立屋。静かだわ。ここは織物屋。夜は人がいないからここから出られるといいのだけど。」

 若者は拳で天井の板を叩いてみた。音は響かずに籠った。「上を何か大きな重いものがふさいでいる。」

「大きな機が置いてあるようだわ。」ロサリスは失望をこらえて先に進んだ。

 やがて真夏の沼地のように淀んだ青い匂いが漂い、地下室のほとんどが大きな甕に埋められているところに行き当たった。

「ここが染物屋だわ。北の端よ。どうしても出なくては。城壁のはずれまですぐだわ。そこから上の郭に行ける。宰相の館の裏よ。」

「出よう。」若者はすぐに答えた。「地下から誰かが追っている―――それに上からも。」

 染料の保管室の床板はどこも動かなかった。突き当たりの行き止まりになった室の片隅に半ばの高さまで煉瓦を積んだ仕切りがあり、中には砂が詰まり、甕が天井ぎりぎりの高さで間を置いて埋まっている。床板は湿り、むっとする沼の臭気が鼻を突いた。

「染め場だわ。」ロサリスは囁き、地下の暗闇の奥で声が上がり、反響した。

 若者は仕切りの上に上がり、頭上の板を押しのけた。甕の口の上に渡してある板が開き、夜というのにほの明るい室内が上に広がった。

「早く!」

 若者は次々とふたりの娘を煉瓦の上に助け上げ、次いで室内に滑り出、娘たちを引っ張り上げた。床板を戻し、手近にあった灰の盥を引き寄せ、上に載せた。途端に盥の底が跳ね、板の下から罵る声がする。もっと重いものを探し、糸束を掛けた台を引き寄せる。

「誰か来る!」

 ハヤの手を取り、表の様子を窺おうと戸を開けかけ、ロサリスは身を翻して、染め上がった布が幾重もの帳になっている物干し台の間に滑り込んだ。

「裏口は?」

 若者は裏庭に通じる奥の二枚扉を開け放そうとし、飛び退った。裏に待ち構えていた男が跳ね返った扉の間に肩をねじ込んで来た。

 同時に表の入り口が蹴破られ、覆面を取った先ほどの男が入って来た。

「そいつを捕えて物干しに引っ括れ」入って来るなり男は命じた。

 床板が持ち上がりじわじわと半回転しながら盥をひっくり返し、物干しを倒した。糸束を掛けた二本の掛け棒が大きく揺れて落ち、開いた床から半身藍と灰にまみれた男が現れた。

 若者は、掛け棒を片方引き抜くと、正面の藍色の男を突き放し、もう片方を裏庭から飛び込んで来た新手の男の足もとに投げてその足を掬った。しかし、床に転がった男の手が片方の足を捉え、背後から別の者が羽交い絞めにする。

「えいっ!」

 細く鋭い掛け声があがり、むっとする青臭い匂いが広がった。上から被さる重い風と闇を、一瞬緩んだ男の腕を振りほどいて逃れ出る。

 くぐもった呻きと床の上にのたうつ湿った音の背後から、壁の際をすり抜けて来た影が彼に追いついた。蒼ざめ、しかし高揚したその顔の後ろで、生乾きの藍染の布を頭のてっぺんからほとんど全身に被せられた男がもがいている。

「待って、ハヤが」

 応えるように、倒れた物干しと壁の間から小さな娘が糸束の散らばる床を這い出して来た。

「その糸を投げてくれ。」若者は出て来た娘に言った。

 残るひとりを組み伏せ、後ろにねじりあげた手首を輪になった縒り糸の束で絡げた。娘はようやく男の上を飛び越え、裏口の戸を開けた若者とロサリスに追いついた。

 ロサリスは裏庭のぐるりを囲う板塀の木戸にまっすぐに走り、開けた。染物屋の二階に灯が灯り、窓が開いて家の者が声を交わすのが聞こえた。三人は閉じた木戸の反対側でそれを聞いた。辛うじて互いの輪郭が見て取れる中で、ロサリスは無言で草生した古い街のはずれに水平な城壁の影がくっきりと黒く横切っている方を指した。

 城壁の脇の道に辿り着くまでを若者は娘ふたりの後方を守り、中郭の入り口で先に立って通りを見た。通りの向こうには上の層の城郭が張り出し、その奥に抜きん出て大きな邸がある。宰相の館だ。

 正中門の前へと通じる左側を窺う若者の袖を、華奢な手がつかみ右へと引いた。既に左の方からこちらに向かう蹄の音が聞こえている。

「アガムンが来る。」白い額に眉根を寄せて娘は囁いた。長い睫毛をひとつ瞬き素早く思考を巡らせる。

拝水の門(キリ・クシモ)の内側に行ける。すぐ前に上に行く階段があるし、門番は顔を知っている者なら通してくれるわ。」

 一町も走ると家々はまばらに閑散とした様子になり、狭くなった表通りが一本きり西へと伸びていた。厩があり、車大工の工房、資材置場、石工の作業場を過ぎた。トゥルカンの館の下を過ぎると、左手には小さな家が何軒か並ぶ。

「コタ・イネセイナの漁師の家よ。朝が早いからみんなもう休んでいるわ。」立ち止まって耳をすまし、騎馬が追いかけて来なかったことを確かめると、ロサリスはほっとしたように言い、弾んだ息を整えた。

「逃げ切ったわ。」

 漁師の家々の向こうに、少しずつ狭くなる城壁に挟まれた通路が、灯りの無い闇の奥へと消えていく。河畔から急な階段で登って来る拝水の門(キリ・クシモ)はすぐ先で、通路を挟んだ向かいに、上の郭への小さな入り口がある。そこに詰めている門番は、郭の中の住民を子供に至るまで知っており、顔を見れば通してくれるのだという。

 右手の城壁はアツセワナの丘の西の際を縁取り、その外側の闇の底に大河コタ・イネセイナが横たわる。その後方にあってはるか遠くに聳えるのはイネ・ドルナイルの山容であった。

 間を遮るものの無い西の城壁の際で、若者はいま初めてその全体の容姿を見た。

 イネ・ドルナイルは星々の潤む夜空の中にその上体を屹立させ、長い肘先を巡らせた腹部に濃い闇を抱いている。肩より上を濃紺の雲が覆い、気高くも恐ろしい相貌を隠している。

 足を止めて山に見入っている若者の横で、不意にロサリスが声をたてて笑った。

 若者は驚いて振り返った。連れの娘さえも訝しがる傍らで、ロサリスは両手の上に顔をうつ伏して激しく肩を震わせている。奇怪な見知らぬ者を見る心地に、急激に心に震えが走り、若者は途方に暮れて思いがけず突き放すように鋭く言った。

「何がおかしい。さらわれるところだったのに―――よく笑えたものだ。」

 ふっと声が消え、肩がすくまって両手が嬰児の手のように拳に閉じる。

 若者は逡巡し、自分を突如脅かしたものが目の前の華奢な娘ではないのかと改めて見た。

 はて、笑っていると思ったのは思い違いで泣いていたのか―――。

 そっと右手を娘の肩に回し、その身体が縮まるのを感じて両腕を伸ばし、自分に引き寄せ包んだ。手の内にぴたりと腰の輪郭が合わさるのを感じると、そっと身を離し、手を放して遠ざかるように身体の向きをずらした。

「折ってしまいそうだ。」若者は浮かされたように素早く呟き、沈黙に陥った。

「大丈夫。そんなこと、あるはずないわ。」

 ロサリスは囁き、ハヤに気付くと目を逸らし、気丈に付け加えた。

「残念だわ、アガムンに私が()()()()()と教えてあげられないなんて。あの人が差し向けた男が布を被ったところ、見て?」

 そうして今度は小さく声をたてて笑い、目元を拭った。


 シアニは、冷たい風の吹きこんでくる方に顔を向け、目を開けた。夢の中で感じたと思った締め付けるような胸の痛みは消えず、組み合わせた両手の下でますます鋭くなってきた。シアニは小さく呻いて息を吐いた。少し開いた戸の間から薄い藍色の空が見えた。

 小屋のすぐ外の森でヤモックが帰って来た仲間と声を交わしている。

「ち……逃げられたか。」苦笑交じりの声は奇妙に満足げな調子を帯びていた。「はしこい奴だ。」

「思ったよりも近くに居た。去年にはもう来ていたんだろうな。バグたちの言う通り、例の女がいれば遠からぬ所にいる。」仲間が冷静に答えた。「こちらは街の者に聞くと大体わかる。ハシヴァナと皆呼んでいる。」

「いやな名だ。」

「一方、娘のほうだが。」

「……娘?ああ、雀っこか。ずいぶんとまた話が飛ぶじゃないか。」

「エフトプからニクマラに消息を尋ねる使者が遣わされたということだ。」 

「バグたちに訊いてもらちがあかなかったか。連中も大将が娘を逃がした犯人じゃ返事に窮するわけだな。」

 ヤモックは愉快そうにかすれた笑い声をたてた。

「そいつがニクマラに辿り着けばすぐにトゥサ・ユルゴナスに報せがゆく。あの子はどうするつもりかな。おれもどうしたものか―――」

「連れてはいけないぞ。」

 ふたりのタパマは小屋まで来ずに森の中に戻って行ったようだった。シアニはゆっくりと起き上がった。ヤモックの足音はほとんど聞こえなかったがこちらにやって来るのがわかった。

 戸がゆっくりと開き、長い影が戸口に塞がった、が、身を起こして見ているシアニに気付いた様子もなく、黙って佇んでいる。シアニはその顔の視点を追った。

 奥の部屋との境の掛け布が落ちて、ヤモックの顔は真っ直ぐに、奥の闇に紛れている壁に描かれた一双の目の方に向けられていた。

「どうしたんだ?」

 毛布を被ったまま、むっくりと座りなおしたシアニに、ヤモックは振り向きもしないで尋ねた。

「ここに来てから時々脇腹が痛いのよ―――それとも心臓かなあ。」

 シアニはヤモックのせいだと言わんばかりに文句を言った。ヤモックはちょっと鼻を鳴らした。

「ふん―――あんたのおふくろは怖い人だったかい?」蛇がしゅうっと音をたてるようにヤモックは静かで滑らかだがはっきりと聞き取れる声で言った。

「ちっとも」

 シアニは毛布を被って、戸口のヤモックの脇をくぐるようにして外に出た。小屋の外は夜明けが兆して薄青く景色が形を表しはじめていた。ヤモックは戸口から身を返してシアニの横に並んだ。

 額の上に手をやって長いごま塩頭を撫でつけると、イネ・ドルナイルの背後から広く空の上辺を覆う雲を眺めた。「昼頃、雨が降るかな。」それからシアニに言った。

「とにかくな、そんな風に訳も無いのに脇腹が痛いときにはな、何か金物をかち合わせて音をたてるのさ。魔物はその音が嫌いだからな。ほら、そこにある鉱滓の欠片だっていいさ。」 

「そうね。私、火打ち道具を持っているわ、小父さん。確かに効き目があると思うわ。かちかち鳴らすたびに()()から背中を抜けて飛び回るような気がするもの。」

「そいつはいい。そいつは弱い奴だから振り切るまでもう一息だ。あまり悪さもしないが気持ちのいいものじゃないからな……。」

 シアニはヤモックを見返し、首を振った。

「いいえ、やめておく。今はまだ連れて行かなきゃいけないから。」

 ヤモックはそれを聞くと顎に手をやって考え、ややあって真面目に答えた。

「しばらくそいつの気に入りそうな処に()()()()()おくやり方がある。姿の良い、生きのいい木の傍で鋼を鳴らすとそいつは木につかまるから、あんたはその間自由だ。そいつをまた負ぶってやってもいいという気になったら、木のところに戻って呼べばいい。」

「そう!ありがとう。」

 シアニはすっと背を伸ばして言った。痛みは嘘のように消え、代わりに自分の傍らに立つ、慣れ親しんだ気配がとどまっていた。ヤモックはお道化て目をむいて額の上にひとつがいの翼のような深い皺を浮かび上がらせた。

「何かいい考えでも浮かんだかい?」

「ええ。」

「じゃあな、今朝は朝飯は無しだから、代わりにこれからどうするかの会議だ。まず、皆を起す前にお前さんがどうしたいか、行き先を考えるんだな。」



 





 


  

 



 







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