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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第五章 土の語り 2

黄金果の競技が遠いイナ・サラミアスで行われたのは豊かな収穫を得たその年でもひときわ晴れやかな日でした。私たち留守番の召使たちは、主たちの出払った丘の上でそこそこの仕事をこなし、あとは丘の上から初穂納めの祭りジニン・ソルトゥサタムを終えて静けさを迎えた農地の、麦の蒔きつけの終わった黒々とした麦田や、刈り取りの後の二番穂を食べさせるのに放している牛が小春日の中でゆっくりと座り込んで反芻している田を眺めながら、同じ輝かしい空の下の、しかしおよそ想像しがたい、険しい山々で繰り広げられる勇ましい競技のことを噂しあっていました。

 シギル様が第一回の黄金果の競技を始めた時、私はほんの十歳にもならない子供だったけれども、遠いいにしえの神々の地で行われた不思議な神託の競技の様子にあれこれと思いをめぐらせたものです。やがて、その競技で女神の役目をつとめた女の子が気の毒な境遇であったことにも気づくようになったけれど、平凡な暮らしの中で、生真面目だけど退屈なのや器量を鼻にかけている怠け者や、あれこれ男たちを選りすぐっているうちに行き遅れてしまった三十女には、身分も容姿も良く能力も優れた男たちの運命を、手にした金の実ひとつで左右する乙女の物語は、お天気の庭であさつきやすずしろを摘む合間に夢想するような、いい気分にさせてくれるものでした。

 無論、ロサリス様はそんな女の子ではありませんでした。お小さい時からよく知っている私たちは、ごく普通に姫が幸せな結婚をされることだけを望んでいました。気持ちの優しい素直な方ですから、何人もの男の人を手玉に取るような婿決めの競技は、形ばかりとはいっても姫には似つかわしい方法ではありません。

 それでも、催しそのものはロサリス様にとって何の危なげもないものに思えました。なぜと言って、表向きの婿決めの触れ込みにもかかわらず、私たちにはその候補の名を聞いた時から、勝負は決まったものだ、これはただ、シギル様がコセーナのダミル様の器を試すためだけに催すものだと分かっていましたから。

 その日は夕刻ごろほんの短い時間空が荒れただけですぐにまた晴れわたりましたが、その晩を境に夜はぐっと冷え込むようになり、数日後、疲れた様子のご一行が帰って来られたのは、その年で初めてアツセワナに霜の下りた晩でした。

 予期していた前触れも無ければ、帰って来たお館様も何もおっしゃらない。私たちはただ、突然のご帰宅に慌てて、冷え切ったお部屋に火を焚き、館を温めました。

 王宮は、召使たちも多くお供をして出払っていたから、ご到着時にはさぞ冷えていたことだろう、王も姫もお疲れだろうにお気の毒に、と話しながら、さて、婿決めの話はどうなったのかしら、と囁きあいました。

 旅装を解いたばかり、遅いありあわせの食事をとっていたお館様が、まだお休みにもなる前から突然私をお呼びになり、明晩王が我が家を訪れごく内輪の晩餐会を持たれる、広間を温め準備をしておくように、とお言いつけになりました。

 身分のあるお客を迎えるというのに、段取りの相談を執事や顧問のお年寄りにするのではなく、私に言うなんて!

 私は当時、だいぶん齢だった前任者から女中頭を引き継いだばかりでした。男に相談せずに女に準備を任すという事は、本当に内々の、出来ればお越しを誰にも知られずにどなたかと会う、または会談の場を持つ晩餐になるだろうと察しました。

 それにしても食卓にはどんなものを出したらいいのかしら、内輪のと言っても賓客を迎えるのにあまりみすぼらしい料理ではいけないし、かといって、特別なものを買い出しにやらせれば、そこで出会う召使同士がたちまち噂をはじめるだろうし。

 私がうつむいてあれこれと考えておりますと、お館様が突然、従者に運び込ませてあった旅の手回り品を入れた箱から包みを出して目の前の卓に置かれました。

「これを準備その他の資金に。―――トゥルカン様からだ。」

 持った時からそれが反物だと分かりました。私は気をつけてその中身を改めました。私自身は持ってはいなかったけれども、お嬢様がお輿入れ先で作ってお召しになっているのを見た事がありました。なぜ、絹を、トゥルカン様から?うちでご主人がもてなし、王様の内輪の晩餐の支度をするのに、代金をトゥルカン様からいただく言われなどありはしない!

 ともかくも明晩の晩餐の支度にすぐに用立て出来る品でもないので、私は台所の蓄えの中でやり繰りをしようと決めました。ご主人のお留守の間も家の者はそうそう怠けることもなく冬支度はむしろはかどっていました。新しい肉に、挽きたての粉、貯蔵庫には収穫したての生り物もあるし、鳥小屋では育った若鳥がいて、毎日のように出ている市には太った魚が並んでいる。王様が内々にひっそりと会を持ちたいときは、もてなす側もそれを良く汲んでおかなくては。

 カブと肉の羹を作るのに香草を摘んできて仕込み、魚の包み焼きにする粉にバターを刻み込んで寝かし、蜂蜜で煮る林檎と桂皮を見繕いながら、私は、まだ私たち下々の民が誰も知らない競技の結果をいち早く聞けるのかしら、と好奇心が湧き上がるのを抑えきれませんでした。

 早くなった日暮れに間に合うように、室内にだけいつもよりも多く灯火を吊るし、広間を整えて、表まで迎えに行った主人が王と姫をお連れするのを待っておりました。

 間もなく玄関間に声がして、主人が先にお通しした客人が入って来られました。客人だけを先に?おや、ダミル様!では、やっぱり婿君が決まったのかしら?

 兄が王宮の学校に出向いて算術を見ていた頃のダミル様はいつも泥んこのやんちゃ坊主でしたが、十年も経ったその時には、アツセワナのどの若者よりもがっちりとした、姿勢の良い、瞳の明るい好男子におなりでした。この日は殊に身形も整い、髪に櫛目も入り、また、この目を信じるならば、別人のように大人びた落ち着きを漂わせておられる。

 しかし、ダミル様は昔ながらに気さくに挨拶をされ、私たち召使を気遣い、消えた蝋燭を付け替えるのに下げ燭台を掛けるのさえ手伝ってくださいました。

挿絵(By みてみん)

 やがてよく存じ上げている、シギル様の良く通る張りのある声が聞こえ、主人が、姫君を伴った王様を案内して入ってまいりました。

 そこには私の予期していた華やいだ雰囲気はなく、静かな、といって暗いわけでもない、敢えて言うなら力強い落ち着きと言った気配がただよっていました。姫は夕刻の寒い風に備えてまとっておられた長い外套を脱いだ下も、ごく落ち着いた色合いの装いをしておられました。それでも、ひと目見れば姫が出立からがらりと変わられたのが分かる―――内側から光を湛えたように美しくおなりで、これもまた、大人びておられる。ふたりがともこうですもの、もう間違いはない―――それなのに、何でしょう。もうひとつ婚約された仲のようにも見えない。

 王はダミル様に会われると、ごくよそよそしく目だけで挨拶して席に着かれる。ダミル様はごく礼儀正しくご挨拶をなさったけれども、なんだか謹慎を解かれて初めて出仕したかのよう。

 お客様が揃われたようなので、お料理を運び始めようと、私は控えの間に合図をしにいきました。その間も、はしたないことですけれども、お三かたがどんな話をなさるのかと、耳はとても敏感になっていました。

「ダミル、過日はご苦労だった。」

 そうは仰るけれども。

「そなたのしくじりの詳細は、そのうち酒の肴にでもしよう。―――今宵は早急に確かめたいことがある。が、まず、謹慎を申し渡したそなたの兄だ。一年の間コセーナにとどめ置く。そのようにトゥルドを通して弟に伝えた。もうひとつはそなたの心積もりについてだ。」

 それを聞くと姫がなぜか顔を蒼ざめられました。

 ダミル様はちょっと微笑んで頭を下げると、真面目な顔つきになり、何か話を切り出そうとなさいました。

 玄関間から、取次の少し驚き慌てた声と、トゥルカン様の機嫌のいい、声高な声が聞こえました。―――念のために申しておきますと、トゥルカン様の機嫌の良い声は、非常に注意を要するのです。

 主は恐らくもう承知のことであったでしょうに、思い設けぬ訪問を受けたかのように王に宰相が来られたことを申し上げました。シギル様はぐっと口元を引き締めてダミル様を目顔で制し、主に宰相を通すように、と仰いました。

 私はもう一揃いの食器を用意するよう女中に言いつけ、その後は次々と運ばれる料理に不具合が無いかを確かめるのに忙しく、王とトゥルカン様の、まるで斬りあいのような声高な談笑の内容もほとんど耳に入っては来ませんでした。が、その中でも、トゥルカン様が、どこそこの家の息子がいい齢だがまだひとりだとか、もうほんの数年も待てば十分な齢であるとか、まあ、競技の前までは話にも出なかったご子弟の名を次々と挙げているのが聞こえてきました。当家の主の弟君―――のちに跡目を継ぐことになったのですが―――の名も挙がりました。確かに独り身ではおられるけれど、ひいき目に見ても風采がいいとはいえず、既に男盛りも下りにかかっておいでだというのに。

 トゥルカン様は王女様の婿決めの次には、国中の若者の仲人をなさろうというのかしら?そうだ、まさかとは思うけれども、王女様の婿君はアガムン様に決まったのではないでしょうね?それでいつもにもまして居丈高なのかしら?

 王女様はその頃には顔色を取り戻して、というよりはむしろ赤くなって食事もなさらずに卓に目を落としておられました。

 ダミル様は注意深く、お三方の様子を見ながら、美味しそうに食事を続けておられました―――まことに料理人冥利に尽きるところでございます―――が、途中から、腕を組んで難しいお顔になったと思うと、にっこりなさって、ごく気楽に声をかけられました。

「お声がかからなかったようですが、資格としては僕もまだ含まれるわけですね?」

 トゥルカン様がそれは恐ろしい目でダミル様を見、シギル様は我が意を得たりとばかりに笑みを押し隠して胸をそびやかせました。

 しかし、姫君はそのわずかな会話の間に、細い鋭い声で言葉を挟みました。

「父上、私は間もなく成人を迎えます。父上の跡目を継ぐにあたって結婚は必ずのことなのでしょうか?」

 父君は峻厳な面持ちで仰いました。

「そうだ。将来後継者をもうけるためにも身を固めるのは早い方がいい。私が元気なうちに世継ぎの顔は見ておきたい。」そしてどことなく遠くから見守るような諭すような眼差しになり「私が妻を娶ったのも即位する前だ。二十だった。」と付け足されました。

 姫君は目を伏せ、「私が二十になるにはまだ二年もございます。」と小声で言われました。

 トゥルカン様はその時初めて姫を振り返りました。その時気付いたのですが、トゥルカン様はいつもそれは姫君に細やかに気を回し、物腰は慇懃で丁寧であったのが、この日は初めから目も会わさぬように冷たい素振りをしていたのです。

「高貴な家の子女は経験豊かな老人の紹介によって引き合わされるもの。野生の鳥や獣なら自然に出会うこともあろうが、殊に王家の血筋ともなれば相手方の家をもよく吟味せねばならぬ。この慣習を破ることは王家の子女には許されませぬ。しきたりにのっとって政をすることで民は安心する。慣習を破れば、民の心を動揺させ、信頼を揺るがすことになるでしょう。変化は凡小にとり不幸なことだ。」

 私は一介の家女中ではありますが、王家のいわれやしきたりについて幾らか聞いたことがありましたので、はて、トゥルカン様こそは例を見ない引き立てによって宰相という稀な地位を得、先代様と一緒になって政の大改革を行った方ではなかっただろうか、と耳をそばだてました。それに実際、名の上がった男たちの中にはあまり身分の良くない者やその息子たちも含まれていたのです。コタ・イネセイナの向こう、チカ・ティドの役人までも範疇に入っておりましたもの。

 トゥルカン様の態度が居丈高なら、姫もまた、ひるまず毅然とされている。

「それはいずれ。公正な仲人による導きがありましたなら。」そして父君の方に振り返って言いました。

「私が父上の子であれば私自身、伴侶の力を借りずとも王となる資格があるはず。」

 王様とトゥルカン様はふたりながら姫の方を振り向かれました。

「私は結婚によって夫に準ずる妃の地位を与えられるのではなく、自ら王の資格を得て伴侶を選びたいと存じます。」

「―――何を言っているのか分かりませぬな。」ややあってトゥルカン様がそっけなく言われました。

 しかし、ダミル様は面を姫君に向けられ、真面目くさって言われました。

「妙案ですね。私が里元で指揮を執っている男たちも、方策を任せればさも自分で考えたような顔をしていますが、中身は母親だの妻だのに牛耳られていますからね。女達に決定が覆されることもしばしばです。指導者の悩みは世の半分を占める女子の心がわからぬことです。時に立場を替えてみるのも良いかもしれませんね。」

 姫君は思いがけぬ味方を得てはっとなさり、ダミル様を見返しました。なかなか絵のようないい眺めでございました。でも残念、ダミル様の襟元に薄荷のソースさえついていなければ!

 ところで、シギル様は姫君がこのようにご自分のご意思を述べられた時から、なんとも読み取りがたい面持ちをなさっておいででしたが、徐々に年若いご家臣を見るような厳しい眼差しになり、

「娘よ。何かの権利を要求するならば何かを提示せねばならぬ。それは有益な物か、仕事か、能力でなければならぬ。そなたが私と民の前に世継ぎの資格を要求するならば、王としての器を証てみせよ。」

 最後の言葉を言われる前にシギル様はちらりとトゥルカン様を見やりました。先手を打っての言葉だったに違いありません。トゥルカン様の顔を見れば、何を言いたいかは一目瞭然でした。庇護されている若い女であるあなたに何が出来るものかと。

 すると王女様は立ち上がり、静かにトゥルカン様の席の側に歩み寄りますと、恭しく一礼をなさって尋ねられました。

「宰相殿、およそ王に相応しい器とはどのような物で表せるものでしょうか。」

 ダミル様がくすくすと笑われる。トゥルカン様は横柄に応えられました。

「宝冠と笏でございますな。」

 ロサリス様はからかいにも気づかぬふうに続けられました。

「では相応しい仕事は?」

「言うまでもなく国土を良く治めることですな。広くはエファレイナズ全土の民の不平の芽を摘み、従わせ、ほどほど満足させながら国土を富ませることだ。狭く見積もっても新王宮の主郭の内に収まる人と財産、南の耕地は掌握せねばなりますまい。父君はそこの主でおられるのだから。」

「必要な能力とは何でございましょう?」

 トゥルカン様は立っている相手をも見下ろすかのような顔つきで言われました。

「世が戦乱であれば、大きく力強く、武勇に優れ、判断の早く的確であることが肝心。戦略をたて、交渉をしまたはそれに長けた家臣を味方につけ、裏切らせないことですな。かつての祖父君、そしてその臣下であったわしのように。忠実な家臣を持つのは主君のもっとも大事な能力だ。平時であってもそれは変わらぬ。女であるあなたは、その者自身が何人もの勇猛な部下を抱えるような家臣を指図することができるかな?」

 ロサリス様は瞬きすまいと懸命に目を見開いてトゥルカン様を見返しておりました。その卓越しの向いでダミル様はいそいそと林檎の蜜煮のお代わりをお取りになる。

「―――そのように勤めましょう。」

 シギル様は主をお呼びになり、だれか記録の出来る者にこれらのやり取りを記録させるようにとお命じになりました。主は私に蔵の記録係をしている兄を呼ぶように、と申しつけ、私は兄を呼びに行きました。

 私が兄を連れて戻ってまいりますまで、主が王と宰相の間のご機嫌を取り結ぶようにぽつりぽつりと話を差していた様子。その間、両者の対峙する食卓ではほとんど会話が無かったに違いありません。ダミル様は朗らかな方でしたが、残念ながら主が差し向ける類の話題には全く関心がないようでしたのでね。私が―――ダミル様もそのように思っておられたようですけれど―――残念に思ったのは姫が全く食事に手をつけられた様子がなく、記録係が来るまでのこの長い間も、意思を通すまでは、と決意されたかのように食卓の席に戻ってはいなかったことでした。

 シギル様は、競技の観覧で日焼けした頬を燃え立たせて顔を前に向けておられました。その微動だにしない眼の前には髪も顔色も白々としたトゥルカン様がおられます。姫は両手を胸の下に重ねて立っておられる。

「よくぞ申した、姫。そなたは宝冠を要求するにあたり、王の責務に堪えることを証明せねばならぬ。そなたが私と宰相の前でそれを誓ったことをここに記録させ、そなたの民に対する責任と親愛の証としよう。」

 王は重々しく仰いました。

「私は成人を迎えるまでの二年をかけてそれを証しましょう。そして、民の誰もがわかる王の資格の印を頂戴いたします。」

 ロサリス様は凛と背を伸ばして、仰いました。

「私は父上とトゥルカン様がそれぞれお持ちの一双の鍵を頂戴したく存じます。」

 姫が仰った鍵というのは、城の主郭の門と中の蔵の鍵のことでございます。それこそ宝冠も王笏もその中に収められております。その他どんな宝物が保管されているものか、一介の女には計り知れぬことでございますが、よく知られているところでは、王統や、領土の境界の記録、歴史書、エファレイナズの領主と交わした主従の誓文が収められているのでした。

 鍵を持つ者は誓約を根拠にして臣民に号令する者でございます。アケノン様もシギル様も、即位の時以来、一双の鍵をトゥルカン様と分けてお持ちでした。ロサリス様がふたつながらお求めになったという事は、ご自分が王位に就かれる時には宰相という役職を廃すると言っておられるのです。

 その場に初めて連れて来られた兄は驚いて主を見、王とトゥルカン様を見比べました。

 トゥルカン様は立ち上がって姫に向かい合われました。

「某に異存は無い。後ほど公の場を設けて課題を民にも知らしめていただきたいものだが、この場で先に申し上げておこう。王女よ、あなたはこの二年をかけて王としての力量を示さねばならぬ。

「折よくここに第五家(カヤ・ローキ)の当主がおられる。今ここに審査の諸々の便宜でご苦労をかけることをお詫び申し上げておこう。このカヤ・ローキの主水路沿いに隣り合った双子のようにそっくりの村がある。二年かけてこのうちのひとつの村をもう一方の村よりも富ませよ。言うまでもなく、相方にはわしが推薦する優秀な監督を送り込んでおく。あなたが彼よりも成果を出したことが明らかになれば、あなたが父上の後継に相応しいと認めよう。」

 トゥルカン様のみならず、父上もまた厳しい態度で接されるなか、ロサリス様は毅然として誓いをたてられました。ダミル様は助け舟を出すこともなくただ、静かにその場を見守っておられる。

 ご本人が思ってもみなかった大きな障壁を不意に見つめ、賭けに挑んでみよう、いや、これが不可能と決まったものではないではないかという思いが下りて来る瞬間が人にはございます。とうにその頃には私にも事情がわかってきておりました。ロサリス様には既に心に決められた方がおられるのだと。


 ふたりの腰掛けていた薪束の横で、突然、戸が性急な力強い調子で叩かれた。アニとアドルナは立ち上がった。戸が開き、緊迫した面持ちのキブが、その後ろに連れていた男の腕を引いて入って来た。

「兄さん」

 アドルナは声を上げかけ、奥を憚りながら少年の後ろの男を中へと迎え入れた。

 男はしばらくの間に白髪が倍にも増え、疲れやつれた身体はふた回りも小さくなっていた。

「あの時の小父さんなの?」椅子を押し出して来ながら、アニは驚きに打たれて囁いた。

「ええそうよ。」アドルナは男を座らせながら囁き返した。「痩せて、晩年の父さんに似ているわ。」

 老人はそれを聞くと微笑むように唇を引きつらせた。

「今までどこにいたの?」

 掛けた老人にアニは尋ねた。

「おじいさんやおばあさんと一緒にはいなかったのね。」

「西の丘の上の塔よ。」代わりにアドルナが答えた。

「一緒にいたふたりからそう聞いたわ。どうして兄さんだけ留め置かれたのか、詳しい話はわからないけど。」

 アドルナは戸口に目をやり、外に耳をすませた。

「解放されたのですか?それとも―――逃げて?」

「しゃべるのをやめろ!」キブが怒って口を挟んだ。「何か、何か食べるものを出してやれよ。早く!」

 すぐにね、アドルナはそう言って少年をなだめ、アニは、パンを切り、スープに少し水を足してキブと老人のために温めた。

「まだ、お前は小母さんにそんな乱暴な口をきくのか?」男はようやく唇を湿すと小声でとがめた。

「だって、表がまた騒いでいるんだ。正門の上に人が集まってて、二水路の向こうに火が見えるって」

「遠くだ。今晩ここを襲ってくるような話じゃない。」

「―――また、ここを出なきゃならないかもしれないからさ……。」少年は腕に顔をつっぷした。

 アニは老人の膝にスープの皿を置き、その足元に座り込んでいる少年には手に匙を握らせ、膝がしらをひょいとかがんだ膝で小突いて皿を置く場所を空けさせた。

「さあさあ、食べるものが来た!待たせたわね。おあがりなさいよ」

 アニは老人に振り返り、小声で庇った。「―――いつもはちがうのよ。私の知ってる中じゃ今日が初めてだわ。突然いろいろなことがあったの。おじいさんが倒れたり。具合がとても悪いの。」

 男はうなずいた。

 男と少年が食事をしている間に、奥の老女が起き上がり、アドルナは老人の様子を見に行った。食事を終えると男は寝台の側に歩み寄り、大きく顎を落として弱く息をしている老人を見下ろした。

「今夜のうちに逝かれる。」

 男は寝台の傍らに放心したようにかがみ込んでいる老女の手をとり、老人の手を握らせると、妹を振り返った。

「お前たちは少し休んだか?イネもキブも今のうちに横になっておきなさい。私とアドルナは少し話したら休むことにする。」

「何か起きるんですか?」アドルナは尋ねた。

「分からん。今夜ではないと思うが。」

「お皿を洗いに行きたいんだけれど。」アニは言った。男は首を振った。

「夜が明けるまで待ちなさい。それよりも皆、靴と外套を傍に置いて置くんだ。アドルナ、パンがあったら包んでおきなさい。水の準備も。」

 炉の燠を散らし、弱い炭火だけを残して、アニとキブは筵の上に外套を掛けて横になった。

 ほとんど暗闇に近い中で、第五家(カヤ・ローキ)の年取った兄妹は低い声で、門で別れた時以来の互いの様子を話し合った。

「ここのご当主は何をお尋ねになったの?」

「アガムン様が滞在している間の事だ。アガムン様とお館様が共に謀って他の家を落とし、奪おうとする企みは無かったかと。忽然と兵を率いて姿を消し、滞在していた家を消したのはもっと大きな企みを隠すためではないのかと。」

 長いこと抑えていた憤りが湧きだしたようにアドルナは鋭く囁いた。

「私たちが狂言をしているとでも?情けないこと。襲われたのはこちらなのに。」

「我々は他所に行けば疑われる。今に始まった事ではあるまい。」

 少しの間、会話が途切れ、やがてアドルナが気丈な低い声で言った。

「ええ。私たちはただ、家に仕えていただけでしたが、主たちは誓文に名を記した主君に忠実なわけではありませんでしたものね。」

 病人の引きの長い息が、炉に残るわずかな赤い色と共に暗闇にとどまっている。

 眠る者たちに気兼ねするようにさらに声を低めて、男はつづけた。

「二クマラの領主親子が警戒するのには訳がある。」

 その妹は注意を向けた。

「アガムン様がここや(アーキ)の家に嫌がらせをし、脅し付けているのは長年の話だが、それとは別に新しい兆候があったのだ。例の“青頭巾”の襲撃のひと月前にも、アガムン様は先触れも無く馬で領内に乗り込んで来たのだ。もう日も暮れかかり、牧童が牛を囲いに連れて行こうとしていたところだった。既に酒が回ったかのように怪しげな様子のアガムン様が公道(クノン)から騎乗してきて、牧場に乗り込み、領主の自慢の牝牛をからかって追い回したあげく傷つけたのだそうだ。それでも当家の人々は礼をもって応じ、出迎えてもてなしたのだが、アガムン様は当主の目の前で、ご子息に向かってお前はもうおれとは格が違う、と侮辱したそうな。」

「何という無体なことを仰るのでしょう!」呟いてアドルナは口に手をやり、兄を見た。

「私たちが疑い半分に聞き流していたことを、二クマラの領主様はお気づきになったのね。」

 兄はうなずいた。

「子息クオルトゥマ様がこの話を私に言って聞かせるまで、私はアガムン様がカヤ・ローキで吹聴していたことは話していなかった。家にいた客人の事を、召使の身で何の証拠もなく言えるものかね?だが、話さなかったことで隠し立てととられ、長く留められることになったのは間違いない。

「アガムン様が、青頭巾の賊が境界の農地を荒らすのを欲得ずくで見逃していることも既に承知だった。そしてお館様は賊に宿を貸していた張本人だ。ニクマラの領主から見れば、アガムン様もカヤ・ローキも“青頭巾”の賊も皆一緒だ。お館様ご本人が襲われ、殺されたと言ってもなかなか信じてはもらえん。アガムン様も、グリュマナも姿を消していたのだから。」

「では、今になって兄さんを解放したのは―――」

「アガムン様が向かったコタ・ラートに調査の者たちを差し向けたのだそうだ。彼らが、アガムン様の家来が青頭巾によって殲滅させられた証拠を見つけたのだ―――そして、アガムン様ご本人の亡骸も見つかったのだという。」

 筵の上で横になっていた少女がマントの下で突然身じろいだのでアドルナとその兄が振り返った。

「アガムン様は―――アガムン様は、やはりお亡くなりになって……。」動揺しながらアドルナは呟いた。

「コタ・ラートの下流で流れ者(タパマ)たちが河をさらって見つけたのだと」口にするのをためらうように男はその言葉を言い、嘆くように付け足した。「このニクマラでさえ、かつてあった異邦人への敬いは忘れ去られている。引き上げられた亡骸を改めはしたが、弔いは彼らに任せたようだ。」

 アドルナは素早く祈りの言葉を呟いた。

「コタ・ラートでは何が起こったのでしょうね。」

「私たちが推測していたことで概ね間違いはなかったようだよ。」

 男は苦々しく言った。

「アガムン様はコセーナに長年身を寄せていたロサリス様を、お子様に仕立て上げた囮を使って脅し、結婚を承服させようとした。ところがコタ・ラートまで迎えに行った時に、待ち構えていたコタ・レイナの郷の武者と後ろから付けてきた“青頭巾”の両方に挟まれて討たれたのだ。これは二クマラの兵たちの噂話だが。」

「コタ・レイナの大将はダミル様ですか?」

「おそらくそうだろう。」

 アドルナは大きく息をついて尋ねた。

「ロサリス様はご無事で?」

「分からぬ。ともあれ、コタ・レイナの衆は深追いはしなかったという。橋を越えず、突然現れた“青頭巾”の一団を、手出しせずに静観していたようだ。アガムン様の部下の三人の生き残りが岸辺を隠れながらさまよっていたところをクオルトゥマ様の部下に発見された。―――保護され、そののち塔に連れて来られた。私は、彼らがカヤ・ローキに滞在していたアガムン様の供の兵だと領主たちに証言した。あとは彼らが捕虜を尋問し、私は塔に帰された。彼らへの尋問でわれわれカヤ・ローキの者は彼らの企みと無関係だったことが分かったのだろう。」

 アドルナは外に耳をすませた。

「静かだわ。―――さっき、門の上に人が集まっていたとキブが言っていたけれど?」

「歩哨が二水路(ツルクシノン)の向こうで火を見たんだ。クオルトゥマ様も見張り台に上がっていた。カヤ・ローキの村が襲われたのだろう―――麦が熟し始めたからな。」


 明け方、静かだが力強い音が、外から戸を鳴らした。

 戸口から細く差し込む光を頼りにアニは行って戸を開けた。夜の藍色はまだ城壁の内や家々の陰にとどまり、空には薄黄色い光が兆し始めたところだった。コートルとすっかり外套を着こんだエマオイが外に立っていた。

「みんな騒がずに起きてくれ。話がある。」

 中へと滑り込みながらコートルが言った。

 筵の上に起き上がった人々をよけて奥まで入って来ると、コートルは寝台の上の老人の手を取って脈をみ、側頭に触れ、顔を近づけた。

「夜半逝かれたわ。」アドルナは静かに言った。

 寝台の脇に突っ伏していた老女が痩せた肩を縮め、息すすりをはじめた。

「弔いと埋葬をご領内で許していただけましょうか?」

「村人の墓地は丘の北だ。ここからは遠いしあんたたちの手に負える仕事じゃない。手伝いはもう頼んである。それよりも話だ。」

 コートルは椅子にどっかりと座ると一同を見回した。

「知っての通り、麦の刈り取りの季節だ。内は内、外は外で実った麦田から掛かる。代々のニクマラの百姓の仕事は何も変わらん。しかしあんたたちはカヤ・ローキの者だ。カヤ・ローキの麦田はアツセワナの主水路(アックシノン)にある。」

 小屋の中にひんやりとした沈黙が流れた。コートルが言葉を継ぐ前にアニが沈黙を破った。

「それは、賊に占領されている麦田を刈らないと私たちはここで食べていけないということですか?」

「待て待て」コートルが閉口したように首を振った。

「話は最後まで聞くものだ、アニ。あんたが執事の所に行って賢しらなことを言ったものだから、おれにはおまけの悩みが増えたんだからな―――あんたはここの皆とは別だ。別だと悟られてしまったのがどんなに厄介かすぐにわかるよ。」

 黙って戸口に立っているエマオイをそのまま待たせて、コートルは声を低めて素早く説明した。

 アックシノンの村から百姓たちが逃げて来てから、上の者たちはすぐに郷の食糧蔵の蓄えについて会議を開いた。百姓たちの訴えもあり、アックシノンの農場に護衛を差し向け麦の収穫を乗り切れるよう守ってやろう、という事に方針は決まった。避難時に援助した分は収穫が済めば返済してもらえばよい。

 ところが、二クマラから差し向けた護衛は、二水路の先を渡ることさえできなかった。カヤ・ローキの襲撃の後で、第三家(カヤ・アーキ)の主、アッカシュは、丘の上層へと住居を移し難を避けたのだったが、すぐさま自領の耕地を守るために兵を差し向け、かつての第一家(カヤ・ミオ)の領土だった南部を含む農地と、そこに通じる公道を封鎖したのだ。

 アックシノンのもとのカヤ・ローキの村がどうなっているのか、ニクマラの家の者には少しも分からなかった。カヤ・アーキの兵も、もとカヤ・ローキの百姓が田の世話をしに戻るのだと言えば通してくれるのだが、その百姓たちも戻っては来ず、様子がわからない。恐らく、賊に乗っ取られた村の周囲には、第三家(カヤ・アーキ)と、もしかしたらイビスからも自領を守るために差し向けられた兵が対峙しているのかもしれない。

 このままでは返済を期待できない。田に実った麦は誰のものになるのか。賊が取るのか、カヤ・アーキやイビスが庇護の代償として取るのか。大部分の避難民はここにいるというのに。これが当てにならないとすると、二百人分の余分な食い扶持をしょい込むことになる。このままでは冬越しが出来ない。

 その次に持たれた会議では、イビス、第三家に使いを出して協定を結び、田を守り利益を分け合うとともに、大部分が二クマラに身を寄せている避難民をも分散させるように持ち掛けようというものだった。

「カヤ・ローキのアックシノンの村はもう、三つの家で分けて庇護民にしようという持ちかけだな。」

 だが、使者を選任しているうちに、どこから聞き出して来たものか、カヤ・ローキの百姓たちが抗議した。農地はわしらが守って来た。まだわしらで持っている。殿さまたちが何をしてくれたね?わしら抜きで分け合う相談はおかしいじゃないか。

「それに、第三家のアッカシュ様の奥方はカヤ・ローキの出だし。子息のビオロス様が家を継いでくださるんじゃないかと望む者も百姓の中にいくらかはいる。また、いっそう厄介なことにアガムンの母親もカヤ・ローキの出だしな。」

 アニはそっとアドルナとその兄を盗み見た。ふたりともまったく面を変えずに聞いている。コートルは話を続けた。

 つい昨晩にはトゥサ・ユルゴナスの協力を得ようという案が持ち上がった。小さいが抜群の収量のあるかの地から穀物を借り受けることは出来ないか?

 しかし昨晩、城の見張り台からアックシノンの方に賊による襲撃とみられる火の手が上がるのが見られた。実った麦を奪おうとする賊の狼藉か、それとも賊とカヤ・アーキの兵がぶつかったのだろうか?

 まさに恐れていた通りの方向に物事は進んでいる。カヤ・ローキの百姓たちは食糧と土地の両方を失い、難民となってニクマラに残されることになったのだ。ニクマラは今や養いきれぬ余所者を抱え込んでいる。彼らをこのまま我らの郷の中に、実った麦田の側に置いておいても安全なのか?まだ彼らが自分たちの失った物に気付かないうちに他に移らせる方がいいのではないか。

「彼ら避難民はわしらを襲うかもしれない、と、上の人たちは言っている。」

 コートルは申し訳なさそうに言い、キブの顔がいきなり打たれたように歪み徐々に赤くなるのを、見てうなずいた。

「彼らは収穫を手伝うと言っている、どんな仕事でも不平は無いと言っている。それはそうだろう!だが、どのみち食糧は足りなくなる。」

 面倒が起こる前に避難者たちを移動させてしまいたい、というのが、昨夜遅くに行われた話し合いの結論だった。アックシノンの百姓たちを五、六家族ずつに分けて、カヤ・アーキ、イビス、トゥサ・ユルゴナスに送るのだ。だが、アックシノンから働き手が帰るのを待っている家族が多いし、ひともめふたもめしているうちに時間もかかる。

「それで、あんたたちは先に行かないかと思って。」今まで黙っていたエマオイが口を切った。

「人数が小さいうちなら動きやすいし、おれはトゥサ・ユルゴナスには顔見知りもいて行き慣れている。特にアニ、あんたは出来るだけ早く出た方がいい。」

「おじいさんのお弔いも出来ないの?」

 エマオイは返事に詰まったようにコートルを見やった。

「こちらに任せてくれりゃいい。」コートルが苛立たしげに言った。

「それよりもあんたの本題だよ。これは上から聞いた話でもなんでもないんだが、―――つまり、噂に出ている以上、あっという間に広まるってこった―――コタ・ラートに出かけていた調査の者がタパマたちから聞いたんだが、エフトプの郷の者が、若い娘の行方を血眼で探しているということだ。ちょうどカヤ・ローキが襲われた頃に行方不明になったので、何でもエフトプの領主の一家に縁の娘でコタ・レイナの三郷の繋がりに深く関わっているということだ。背格好までは聞いていないけどよ、あんたは昨日、執事のところで、普通の娘が滅多に言わないことをぺらぺら賢げに言ったばかりか自分がコタ・レイナの郷から来たと言ったんだろう?そんな噂はすぐにくっつくよ。」

「上の者の耳に入ったら、あんたの身元を問い詰めにくるだろうな。」エマオイは付け足した。

「ニクマラがあんたを第三家(カヤ・アーキ)のアッカシュの所に交渉道具として突き出しても、コタ・レイナの郷に返礼と引き換えに突き返しても、どちらだってあんたには面白くなかろう?」

 アニは弾かれたようにぴんと背筋を伸ばした。

「行くわ。思ったよりも早い出立だけれども、トゥサ・ユルゴナスに案内つきで行けるのなら。」

「あんたがたはどうするね?」コートルは一同を見回し、アドルナの兄にうなずいた。

「コーア―、解放されたところでご苦労さまだが、あなたは行かれた方がいいですよ。ここではあなたの身分を守ってくれる主人のいないところであなたの顔ばかり知っている者がうようよいますからね。アックシノンの百姓たちだって主家の財布を管理していたあんたのことは知っていますよ。どうにもならないことであんたに泣きついたり逆恨みしないとも限らない。アドルナ、あんたも行くね。キブは?」

 キブは応えなかったが、若干、男の方に身体をずらした。アドルナが小さくうなずいて声を掛けた。

「あんたがいると兄さんも心強いわ。勉強の続きもできるわね。」

 コートルは手を打って立ち上がった。 

「よし、皆、どうやら支度も大体できているじゃないか。靴もちょうど間に合った。村の者が起き出してくる前に外に出るぞ。」

 キブとアドルナは新しい靴を履き、アニは筵の上に枕の代わりに置いてあった背嚢を取って背負い、マントを着た。アニの他には誰もマントを持っていなかったし、アドルナの兄には新しい靴が無かったが、エマオイは行く道筋で都合しようと言った。

 コートルは老人の遺骸に向き直り、胸に手を当て礼をした。

「カヤ・ローキの執事だったそうだな。上の者が知っていたら、もう少し待遇に気をつけていただろうに。埋葬の前に持ち物を調べに来るかもしれん。おばあさん(コーナ)、もしニクマラの館の人に取り上げられたくない物があったら今のうちにここを発つ者に預けておきなさいよ。第五家(カヤ・ローキ)にはカヤ・ローキのお館さんの知られたくない事情もあったろうし、そんなものが今さら見つかっても下々が迷惑するだけだよ。」

 老人にはカヤ・ローキを逃げて来た時の着の身着のままの衣服と支給されたわずかばかりのものがあるだけだったが、老女は古い革の隠し袋をアドルナに渡し、寝台の足元に来て同情を込めて見ているアニに目をやった。

「私は中を見たことが無い。仕事をしている間じゅう持っていたから帳面や書く道具だろうね。イネ、あんたは読み書きが出来るかね?あげるよ。」

 アニは袋を受け取ると、何かを思いついたように背嚢を下ろして中から何かを取り出し、そっと老女の手に握らせ、囁いた。

「これを取っておいて。困った時には役に立ててね。」

 表の小路はまだ薄青い陰の中だったが、家々の中には村人たちが少しずつ起き出してきている気配があった。中央の井戸と広場を避けて、家々の背中側に生垣の囲う小庭を配した裏の小路を通り、門の前の通りが見えて来るとコートルは小さく唸って足を止めた。

「ちょっとここで待っていてくれ。」一同に言うと、門の前に固まって何か話し合っている数人の女に近寄って行った。

「何故、そんなところでたまっているんだ?」

 戻って来たコートルは皆に言った。門の向こうにカヤ・ローキの連中が集まって待ち構えている。どうやら、中の門と正門にはもっとたくさんつめかけているようだ。領主に訴えるために城内に入れてくれと言って、門番と押し問答しているらしい。

「このまま外に出る訳にはいかない。あの連中に捕まったら面倒だ。」コートルが言った。

「いや……。」エマオイが頭を振った。

「今よ」アニが言った。

「そうだ。」エマオイが顔を上げて言った。「そうだ。さらに時間が経つと内外の見張りがより厳しくなる。皆が戸惑い、動き回っている間の方が目立たない。若くて身軽なふたりはすぐにこのままおれが連れて南の木戸から出る。このお年のふたりはあんたが弔いの格好をさせて老人(コーア―)の埋葬に連れて行ってくれ。今ならまだ彼らも死者の前に立ちふさがるほど激高してはいない。埋葬が済んだら墓地のはずれで待たせてくれ。おれが後で迎えに行くから。」

 コートルがアドルナとその兄とに弔い用の長い外套を貸すために家へと連れて行き、アニとキブはエマオイに付いて家畜囲いの横を通り、菜園の手入れをしに行く体で内門の前の道を横切った。内門は開き、何人かの見張りの兵が正門の方に向かった。

 内門から一町ほど歩いた城壁に南に面した木戸があり、上から覆いかぶさる蔦の幕の下に閂が下ろしてあった。

「それを外したらここから出たのがわかってしまうわね。」

 アニが言ったが、エマオイは構わず閂を外し、木戸を開けて外に出た。木戸の外は足元から急な勾配の斜面になり、平行に打たれた木の杭が、はびこった草の陰に等間隔に斜面を下っていた。

「もうここに来るのはおれくらいだからな。」エマオイは呟いた。「おれとヤモックが仕事に来るくらいだ。」

「湖まで降りるの?」

 斜面を覆う木立ちと藪で杭の列の下っていく先の方は見えない。キブは驚いたようにアニを振り返った。

 エマオイは出て来た城壁を軽く叩いた。壁から足元まで裾を引いた蔦の幕が揺れた。

「いや、壁の外を東に回って少しずづ丘を下りながら北へいく。麦田の下で道まで出るんだ。」

 足元を埋める草の中を城壁の外に沿ってぐるりと南へと回った。東の南端は狭く切り立ち、三人は、ひとりずつ壁に身を寄せながら横伝いに壁の湾曲を渡った。ほどなく土台は広くなり、嗅ぎ慣れた牛の匂いが漂い、城の東に出たのだと分かった。

「牧場の下に回る。藪の中で見えないが、この先は急に落ち込んでいる。おれが先を行くから、声を掛けたらその通りに下りてきてくれ。キブ、お前は後だ。」

 上に向かって広がった葉の波を揺らしながら少しずつ進み、エマオイが来いと言った時だけ、ふたりは前に進んだ。やがてエマオイは藪を覗き込むようにしてかがみ、身体の向きを変えると、根元から曲がった太い枝元を掴んだと思うとふっと草の中に姿を消した。

「急がずにそっとここまで来てくれ。」声がして、枝がゆさゆさと動いた。

 アニがそっと崖の際に近づいていくと、エマオイは下の段の木の根方に立っていた。アニは後ろ向きになり、傍の木の株とその下の根の塊を掴みながら、少しずつ身体を下ろした。下にいるエマオイが途中から腰をささえて足を下ろしてくれた。アニが横によけたところに、キブが、足の届かない分を飛び降りるように下りて来た。

「あんたたちはまだ背がちいさいからな。」エマオイは心配そうに言った。「この下にはもっと段差の大きなところがある。しかもその下は固い粘土で湿って滑りやすいんだ。」

「私、長いリボンを持っているわ。」

 アニは背嚢からリボンを取り出し、長く繰り出すと中ほどを傍らの木の根元の枝にひと巻きし、二本をまとめてエマオイに渡した。

「珍しい物を」エマオイは呟き、崖を伝って下りる指の中にリボンを通しながら先に下り、端をしっかりと固定して、アニとキブが下りるのを助けた。

「この下も降りるの?」さらに先にある崖の方を指してアニは尋ねた。

「いや、そのまま北の方へ下って行けば、じきに田の上の森に差し掛かる。そこまで行けば少し道も使える。」

 アニは片端を引っ張ってリボンを巻き取り、仕舞った。

「小父さんと小母さんを迎えに行くのでしょう、だいぶん遠いのかしら。」

「池を丘の下へ下って行ったところだからここからは遠い。が、あんたたちには途中で待ってもらう。落ち合うのにちょうどいい場所がある。」

 杜松の森の中のゆるい坂を下って行くと、やがて前方は明るくなり、楡の木立ちと小さな湧き水の段々に下っていく脇にさしかかった。その先の開けたところを辿ると、草原と雑木の中に切り出された四つの小さな鏡のような田が青々と丈の揃った稲を生やして並んでいる。アニとキブは、いま田んぼから見慣れたほうの林と小川の源の脇を歩いているのだった。

「あの上の小さな田はあんたたちが植えたやつかい?」エマオイは指差した。「赤稗(トゥサカ)と言ったな。」

「そうよ。」

「あんたの赤稗は大事な食糧になるはずだ。この冬、皆は身に染みてそれを思うだろう。何年かかるか分からないが、初めの収量の半分は受け取れるよう、おれが掛け合ってやる。」

 アニは田を見つめているエマオイの顔をちょっと嬉しそうに見たが、真面目に言った。

「あそこにあるものはもう、代わりに育ててくれる人のものよ。」

「誰だ?」

 アニは一緒に田を植えた農婦の名を言った。

「じゃあ、あんたの取り分の四分の一の証拠としてこれを受け取ってくれ。」

 エマオイは隠しから紐に綴った小さな木の札を出し、一枚抜き取ってアニに渡した。アニは目を丸くして受け取った。松の木を削った札でニクマラの焼き印が押され、古く赤黒くなっていたが、微かに松脂の匂いが残っていた。

「いいものをもらったわ。」アニは掌に載せてキブに見せた。「あんたにも権利があるのよ。小母さんにもよ。」キブはあまり心を動かされた様子も無かった。

「それは昔は郷倉のあるところならどこででも交換出来たんだ。だが、今はここだけだよ。」

 エマオイは注意した。

「そんな事はないわ。」アニは事も無げに答えた。

 田の上を辿って行くと、いつもの仕事に使う林の中の通用路に出た。日も昇ったというのにしんと静まり返った丘の麓には鳥の鳴く声さえしない。空は少し曇り、ぬるい風が吹いていた。

「草取りに出て来る人たちに会うかしら?」アニは尋ねかけたが、立ち止まって耳をすませているエマオイに倣い、丘の様子に注意を払った。

「上の麦畑で騒ぎが起こっているようだ。」

 声高なやり取りがいくつも入り混じり、低いどよめきの中に溶け、それらが風に千切れ、低い雲の下で消えてゆく。

「何が起こっているかはここではわからん。悪いことにならないのを願うばかりだが、足止めされるわけにもいかん。急ごう。」

 三人は足早に道を進んだ。

挿絵(By みてみん)

 普請された広い道をエマオイは下らずに横切り、下草の繁った森の中に入った。草の葉が覆い隠した地面を歩く靴は、時に土に、時に平たい石畳に当たった。一町も行った頃にアニは言った。

「エマオイ。私たちが落ち合う場所というのはもうそんなに遠くは無いのでしょう?あと半時もしないうちに雨が降りそうだわ。小父さんと小母さんを迎えに行ってあげて。―――私たちの下に石で畳んだ道があるでしょう、その先が休憩場所だと思うけれど、違っていて?」

「まったく、驚いた子だな!」エマオイは振り向いて言った。「あんたがどこから来たのか聞きたいものだが先を急ぐのでな。」

 それでもエマオイは少し心配そうに言った。「道は見ての通り荒れている。まだ件のところまで五、六町は先だ。小屋は小さく、分かりにくい。」

「丸木の小屋でしょう?もしかしたら六角形をしているのじゃなくて?」

 エマオイは顎を引いて口を結び、濃い眉の下の黒に近い茶の目でアニを見返した。沈黙のなか、行く手の森の奥で烏の鳴き声が二度繰り返したとみると、エマオイは意を決したように息をついた。反対に、アニは奇妙な不安にとりつかれたように目を伏せた。

「行ってくる。」エマオイは静かに言った。「見つけたら中に入って閂をかけるんだ。おれが戻って来て合図をするまでは火を焚いたり、大きな声で話してはいかん。」

 エマオイは森を西の方へとどんどん先へ行き、アニはすぐに長い木の枝を拾い上げて邪魔な小枝を落とし、杖にして足元の草を左右に払いながら、石畳の記す道を辿って行った。

 本道から奥へ入っていくごとに木は浅い緑の落葉樹から、硬い濃い葉のカシやイチイ、針葉樹へと変わり、翳った空と相まって林床は暗くなっていった。草丈は短く、代わりに苔が覆い、道を遮るものは実生の幼木の枝へと変わった。辿る道は大木の間を少しずつ湾曲しながら、下りから上りへと切り変わった。道の右側は大きくさがり、その向こうに木立ちが帯状に遠のいている。下を小川がとおっているようだ。

 キブはエマオイが行ってしまってからいくぶん不安げな面持ちで辺りを見回していたが、少しずつアニの側に寄って来て不安を漏らした。

「誰かがついて来ている。」

 アニは立ち止まって耳をすませた。徐々に吹きはじめた風に梢が鳴り始めていたが、下草や藪の動く気配はなかった。少し歩き、立ち止まる。自分の立てた音と、キブの立てた音、そして藪の鳴る音。風。

「急ぎましょう。」アニは囁いた。「あそこにクチナシの藪があるでしょう?あそこまで行ったら、しゃがんで、すぐに木の根元まで行くのよ。そしたら誰がついて来ているか分かるから。」

 ふたりは道を探るふりをしながら、クチナシの小さな木が二、三生えているあたりまで進み、いきなりしゃがみ込み、クチナシの根元までいざっていった。外に向かって広がる葉の間から後方に向かって覗くと、ふたりのいた六間ほど後ろに、何日も着たきりでしわになった、しかし見慣れたチュニックの男がいた。肩まで伸びた薄い髪に、短い間に日に焼けた色白の顔。

「なんだ、あいつか。」キブはそう言ったが、キブもアニもその場を動かなかった。男はカヤ・ローキから逃げて来て兵舎に入れられていた内勤めの者だった。

「どうしてあの人が来るの?」きょろきょろと辺りを見回している男を見て、アニは囁いた。

「逃げて来たんだろ。」

「一緒に来るつもりかしら。」

「おれは嫌だ。」

「私も、エマオイが一緒じゃないと安心できないわ。」

 男はぽかんと開けた口に曖昧な笑みをうかべてふたりの隠れている辺りを見回している。葉の茂みの陰のふたりを見分けられてはいないようだ。

 アク、アク!

 ごく近くから発せられた烏の声に、男が、そしてクチナシの根元に隠れているふたりも飛び上がった。

 鋭く、警告と悪意に満ちた声はとても烏の身体から発せられたとは思えない大きさだった。男は弾かれたように飛びのき、草の根によろめきながら一歩二歩と後ずさり、身を返して出来得る限りの速さで走り去った。

 ああ……。

 ふと、声は奇妙に人間の男のような、笑いとも溜息ともつかぬ音に変わり、止まった。徐々に強まる風が梢の葉を鳴らしたが、地上の藪を揺らすものはひとつとしてなかった。

 キブはようやくそっと目を動かしてアニを盗み見た。アニは向こう側に顔をかしげ、誰かの囁きに耳を傾けるように小さくうなずき、キブに振り返って囁いた。

「もう大丈夫。」

「あの声何だよ?人か?」

 アニは答えあぐねたようだったが、上り坂の上を指した。金茶色の花をつけたカシの木立ちの向こうに、さらに明るく光を通したニレの梢の緑がひと固まり見えた。

「あの上よ。」言うと、アニは杖をぽんと手放してぐんぐんと坂を登って行った。

 小屋は少し高くなったところにあった。小木の藪と這い上がる蔦に覆われた屋根の低い、六角形の丸太の小屋は、ちょっと見たところではそれ自体が高台の上の小山のようだった。ふたりはぐるりを北の方へとまわってようやく入り口があるらしい壁の窪みを見つけた。アニは垂れかかっている蔦を剥がしてまくり上げ、戸を開いた。中が真っ暗なのを見てキブはひるんだ。

「もう、雨が降るわ。」アニは中から招いた。「エマオイは小父さんたちを連れて来るからもっともっと時間がかかる。それに中に入って閂を掛けろって。」

 アニはしばらく手探りで進み、つまずいたらしい声を上げかけたが、驚いて言った。「入り口は土間だけど中は板張りよ。中にも柱がある―――一本、二本……。」

 重い布のぶつかる音と黴の匂いのひと扇ぎの風。「仕切りの帳よ。」膝を擦りながら進むアニの弾んだ声の上に、押しのけられながらずるずると頭の上を撫でていく帳の音が被さる。「ここに窓があったわ。」

 遠くを巡って声はまた別の帳を押しやって戻って来た。

「内側に六本の柱、真ん中はきっと炉ね。暗がりで入ったらきっと落ちるわ。まさしく話に聞いていたイーマの家にそっくりよ。」

 キブがぎょっとしたように戸口から飛び出した。降り始めていた雨が、小屋を覆うニレの葉を鳴らしている。

「どうしたの?」アニは驚いて尋ねた。「何に驚いているの―――イーマ?」

「こんなところ、嫌だ。」キブが戸の外で叫んだ。「かまきり女(ハシヴァナ)のこと知らないのかよ。七回斬られて喋る首も。」

「馬鹿馬鹿しい。何のお化けばなしか知らないけれど!」アニは呆れて言った。

「だいいち斬る方と斬られる方じゃ斬る方が悪いに決まっているわ。怖がるなんて失礼よ。」

 そう言いながらもアニは出てくると戸を閉め、軒の下に立った。

 エマオイがカヤ・ローキの年取った兄妹を連れて戻って来たのは昼をだいぶん回ったころだった。エマオイは戸口に立っているふたりを見ても何も言わず、難しい顔で小屋の戸を開け、戸口で火を点け、慣れた様子で中へ入り炉の火をおこした。

「この雨はしばらくで止むだろうが、今日はまだ歩けそうですか?」

「少し休ませてもらえれば」アドルナの兄は言い、小屋の中を見回した。

「床に直に座るのが辛ければ小さい腰掛があります。」

「ここはニクマラの宿駅かね?」

 エマオイはうなずいだ。「長い間使われていなかったので傷んでいるが、上等の木で建てられ、東から絹の交換にやって来た賓客を泊めるために屋内のつくりを似せてあるそうですよ。」

 炉の火が燃え上がるとエマオイは中に皆を導き、どうしても中に入るのを嫌だというキブを連れて下の小川に湯を沸かすための水を汲みに出た。

 火影に照らし出された家の中をアニは歩き回って眺めた。

「似せてつくったというけれど、あまりエファレイナズの家と変わらないわ。」

 框に腰掛けた老人がうなずいた。

「建てたのはニクマラの大工たちだ。格好を似せたに過ぎん。私も詳しくは知らないが、イナ・サラミアスの北部の冬の居住地では大きな木が育ちにくく、木材はもっと細かっただろう。六角形の家は隣合わせに寄せて建て、厳しい風を防ぐためだったということだ。」

 少女は立ち止まり、帳を眺めた。

「隙間風を凌ぐのに帳は大事だったでしょうね。でも、この帳は毛糸だわ。」

「さすがのイナ・サラミアスの民も帳まで絹には出来なかったでしょう。イラクサかニレから糸をとったのじゃないかしら。」アドルナが言った。「それともご先祖が着ていた大事な古い絹をついには裂いて織ったかもしれない。シギル様がこれを建てた時にご覧になっていたら、帳も絹がいいと仰ったかもしれないわね。シギル様は一度ことを思い立つととてもこだわるお方でいらしたようだから。でも、それだってまだ絹がどんなものかほとんど知らない者たちが用意したのですもの、仕方がないわ。」

「二十年以上も交易が続いたのよ。」アニは呟いた。「子供が生まれて大人になるくらいの時間だわ。」

「そうそう」アドルナは思い出したようにアニを手招きした。

「ロサリス様が心に秘め事を持って“黄金果の競技”から帰って来られたことを話していたのだったわね……。」


 偉い方たちは皆ぴたりと口を閉ざして結果のことを仰らないけれど、ロサリス様が帰って来られた時には既にこれと思う方を心に決めておいでだ、という事に私は気付きました。しかしその方はダミル様でもアガムン様でもない。むろん“黄金果の競技”に関わった方には違いありません、ダミル様は見当がついておられるふうでしたし―――それでもシギル様はその方の名をおくびにも出さない。姫がご自分の願いをかなえることはとても困難であろうと察せられました。

 姫は出来る限り正当にご自分の権利を得ようと決心されました。王の妃ではなく女王になろうとし、宰相の干渉を退ける決心で、トゥルカン様に門と蔵の鍵の引き渡しを望まれました。それに対し、トゥルカン様は鍵の引き渡しの条件となる課題を出されたのです。

 第五家(カヤ・ローキ)が所有する主水路(アックシノン)沿いの隣り合うふたつの村のうちのひとつをもう一方よりも富ませよ、と。

 審査の基準を決めるのと、この試みの民への公表はまた冬至が明けてからにでも、とシギル様との約束を交わし、トゥルカン様は帰って行かれました。

 トゥルカン様が帰られた後も、食卓の上の凍てつくような厳めしい気配は変わりませんでした。むしろどちらかと言えばシギル様の方がいっそう厳しい面持ちをされていたのです。両拳を卓の上に置き、岩のように前方を見据えておられる。そして、お可哀相に、姫はとうとう何ひとつ召し上がりませんでした。

 姫は父王の方に向き直って申されました。

「父上、私は宰相の申した課題に臨むにあたってまだ十分な準備が出来てはおりません。」

 シギル様の耳が赤くなったので、私は次の瞬間、姫が怒鳴りつけられるのではないかと心配しました。

「私は王家の女子としての教育は受けて参りました。しかし、私がもし男子であったら受けていたはずの修練をすませてはおりません。各家の子弟の学ぶ学校で学ばず、父上の出席される会議、裁判、方々への視察にお供せずに父上の後継となってもよいものでしょうか?」

「いや」シギル様は厳しいお顔ながら穏やかに応えられました。「それは受け入れられぬ。」

「では、私はこの冬から学校へ通います。」

 その時、黙って神妙に耳を傾けておられたダミル様が真面目な口調で仰いました。

「姫、馬には横乗りでなく男のように乗りこなせるようにならなくては。それに護身術をお習いなさい。」

 そんなことが大事だとはその時の私には少しも分からないことでしたが、王にも姫にも腑に落ちる節があったようでございます。

 シギル様親子も間もなく席を立たれ、ダミル様もおふたりを王宮までお送りするために立ちました。

 出がけにシギル様は私に振り返り、「世話になったな」と仰ると、包みをくださいました。「まかない代に充ててくれ。」

 持った途端に私にはすぐにわかりました。こんな事が一日のうちにあることかしら?トゥルカン様に続いてシギル様までも、まかないの代にと絹の反物をこの手にお寄越しになる。しかも今回はずっしりとした重さ、厚みから先のものとの違いは歴然としておりました。後で開いてみた時は、そのしなやかさと、冬の晴天のもとに輝く新雪のような高貴な輝きに心打たれてしまうほどでした。

 私はすっかり途方にくれてお館様に尋ねると、市に出して売れば良かろうということでした。まさかそんな。念のためにふたつながら持って行き兄に相談したのでございます。

 市に出すのは絹にふさわしい売り方ではない、と兄は申しました。絹はアツセワナの城内に家を持つ者にとってもひと財産と言われ、立派な家畜ひと群れ、相当な駿馬のつがいに相当するものだ。そのために設けた場で持ち主同士が交渉を重ねてようやく値が決まるような品だと。

 さらに、トゥルカン様の絹を見て兄の申すことには、これは緑郷(ロサルガヤ)の稀人が持って来た絹ではない、トゥルカン様がエファレイナズの東の果てに拓いたアタワンで織られたものであろう、ということでございました。

 私の娘時分には王宮のある丘の上の技能修練所に通い、機織りを習ったものでしたが、その後ロサリス様が通うようになったころには絹織物の伝授もされたようでございます。同朋として技能を習った女の子たちはコタ・シアナ辺りの娘たちで、大勢が仕事を求めてアタワンに移ったのです。イナ・サラミアスの北部にも近いかの地はもともと異邦人との交換市が開かれておりましたそうで、シギル様のなさる年一の取引とは別に糸の材料が運び込まれ、女の子たちはそこでわずかな報酬で絹を織っていたのでしょう。

 さらに兄の申すには、おかげでここ近年のうちに市に安い絹が出回るようになりシギル様が鋼と引き換えにイナ・サラミアスから引き取られる絹には、アツセワナではまともな値がつかないのだとか。

 絹の目利きのいる郷、コセーナかエフトプ、二クマラでなければ取り引きにはなるまい。だが、それも領主家の輿入れほどのことでもなければ。

 お館様には絹を相応しい価格でお金に代えて来ようなどという事はまったく思い当たらないご様子でしたので、私はふたつの反物を、すっかりわびしくなった館の蔵の棚に仕舞い込んだのでした。

 もはや晴着を縫ってお輿入れをするお嬢様がたも第五家にはおいでになりません。こうして、あまり財産のない第五家の中で、絹はたいそうな宝の持ち腐れとなってしまったのです。


 外の小枝が葉擦れの音をたて、遠慮がちに戸が鳴ったので、アニは框から立ち上がって戸を開け、思わず一歩後ずさった。

「やあ……キームルさん。アドルナ。」

 頭から雫を垂らし、気弱い笑みを浮かべて立っていたのは、小屋にくる途中でアニとキブをつけて来、烏の声に驚いて逃げ出した男だった。

「上じゃ朝から大変な騒ぎだ。城壁に外の居候の百姓らが押し寄せてな。内の者は誰ひとり囲いから出られず麦刈りは延期さ。」

 アニとアドルナ、その兄は互いに素早く見交わしたが何も言わなかった。

「私は門の上を見張っていたんだが、連中、しまいには泥を投げるやら、よじ登ろうとするやら。おお、いいやだ。」男は頭を振り、年取った兄妹の顔を薄闇の中に窺うようにして言った。

「あんたらは他所に移るんだろう?トゥサ・ユルゴナスに。私も連れて行ってくれ。」

「私たちの連れに聞いてみないことには」アドルナは用心深く答えた。「トゥサ・ユルゴナスが私たちを迎えてくれるかどうかはエマオイの交渉がうまくいくかにかかっているわ。」

 男は気に障ったように喰いついた。「あんたに言われる筋合いはないね、泥と動物しかないところに内勤めが行く、何も変わらんじゃないか。―――火があるなら乾かさせてもらうよ。」

 男はアニを押しのけて、炉の側へとずかずかと上がりこんだ。

「チャガラニ、背嚢の中に何を持っている?」男は顔を拭いながらアニに尋ねた。

「みんなの食べ物よ。」アニは答えた。

「私にも分けてくれ」

「代わりに何をくれるの?」

 男は手を下ろしてアニを見返し、鼻を鳴らして顔を背けた。

「表の雨は止んだかね?私たちはこれからまだ先まで進む予定なんだよ。」

 アドルナの兄は穏やかに男に言った。

「私たちにお前さんを拒む権利は無いだろうが、辛抱して行けるかどうかだな。そして私たちを連れて行ってくれる人の指示には従わねば。」

「キブとエマオイはまだかしら?すぐ下の小川にいるはずだけど?」

 アニは大声で言って、探してくるわね、と、戸を開けて外に出た。出るとそっと戸を閉じながら、細く残しておいた戸と敷居の隙間に短い棒を挟んでおいた。

 急いで小屋の北側にまわり、下を流れる小川を探した。狭い谷の方へ少し下りると、鍋を持ったキブが土手の斜面から小川の水辺に繁るカンボクの茂みを落ち着かない様子で見下ろしている。

「キブ、水を汲んだのならどうして戻って来なかったの?エマオイは?」

 キブはカンボクの茂みを顎でしゃくった。小川の岸にエマオイはいたが、誰か姿の見えない者と話している。エマオイの静かでゆっくりとした口調に応えるのは、少し高めで性急なしわがれた声だった。

「おれはそこには行っていない。流石に一晩で行き来は無理だ。だが、カイツブリ(バグ)どもの話を考え合わせるに、火を放ったのはイビスとカヤ・アーキの兵だ。百姓を敵に回した―――しばらくは収まるまい。」枯れた笑いが漏れた。「賊も百姓も無いもんだ。出会う奴はみな怖い。人の影さえ見りゃ隠れる、さもなきゃ殺されるものな。」

「クノン・ツイ・クマラを使えないのか」エマオイが思案しながら言った。「すると、二水路の脇の道を行くことになるか。―――長く手入れされていないが普請され歩き込んだ道だ、連れには足の弱い者もいるからイズ・ウバールの中を通るよりはましだ。途中の小屋も夜には心強い。」

「おれが言うのも何だがね、宿無しがいっぱいうろついているからな。」相手は言った。「お前の連れは全員信用できるか?」

「と、思うが―――みんなカヤ・ローキの避難者だ。館で働いていた年寄りと子供だ。」

 相手はふっと息を吐いた。

「もう昔のことじゃないか。あんたも、相手方も、これで同じほど失くしたのじゃないか?」

 エマオイは穏やかに言ったが、相手は答えず、何かを差し出し、エマオイは身を乗り出してそれを受け取った。

「行くなら早くしろよ。」

 小川の小石を踏む音がして、声の主は去って行ったようだった。エマオイは向きを変え、手に束にしたシギを下げて戻って来た。

 アニとキブを認めるとエマオイはただ、手にした鳥を持ち上げてみせた。

「今晩の肉だよ。だが、休んだならすぐに出かけるからな。」

 キブを促してさっさと小屋の戸口に回るエマオイを後ろから追いかけて、アニは素早く囁いた。

「見張りの兵舎にいた人が私たちの後に来たわ。一緒にトゥサ・ユルゴナスまでついてくるつもりらしいわ。」

 エマオイは、戸口に挟んである棒に気付いてひそめた眉の下で目を光らせた。

「これは誰がしたんだ?」

「私よ。何だかあの人が信用できないからとっさに閉められないようにしたの。」

「それだけ気を回せるならあんたは大丈夫だな。」エマオイは戸を開きながら簡単に言った。


挿絵(By みてみん)

 ニクマラからトゥサ・ユルゴナスへは、アツセワナの西部とニクマラとをつなぐ公道クノン・ツイ・クマラ、そしてアツセワナの丘を取り巻く環状路の西端を巡り、百姓の道(エノン・トゥマオイ)を経て行き来される。

 シギルの世には、物資のやり取りをする荷車や修業中の職人、旅人たちが日々行き来し、道は両脇の所領を持つ領主らによって管理され、沿道には宿を営む家もあった。内乱とイナ・サラミアスの噴火により、共同の手入れが放棄された後にも、古くから開かれた道はもっとも大切な交通の要であった。

 いまひとつの道は、トゥサ・ユルゴナス開拓の後に設けられた第二水路の脇を通る管理路であった。四十年以上前には暗黒の森(イズ・ウバール)に発し、ニクマラの西の湿原に向かって細々と流れていた川であったのが、農園の開拓と共に拡幅され、コタ・イネセイナから新たに太い水源を得、主水路に次ぐ大水脈となって沿岸の土地を潤すようになった、その堤の上の道である。

「水路の脇の道は良く均されてまっすぐだし歩きよいはずだ。」エマオイは小屋に戻って来て言った。

「コーア―、もう半日歩けますか?間の管理小屋で今夜は休めると思いますが。」

「あんたに任せる。私たちは皆、この近辺には不案内だから。」アドルナの兄、キームルは言った。

「ただ、水路に行くまでは広い道を使えないだろうと思います。公道(クノン)にはカヤ・アーキの兵や賊や―――それに気の立った百姓らがいて、彼らに掛かりあっている余裕も我々にはない。今日行く道の半分は森の中の悪い地面を我慢してもらわないと。」

「承知だよ。」キームルは静かに言った。

 小屋を出ると外で待っていたキブは先に立って小川のある小さな谷に下りて行こうとした。

「いや待て、上に戻って少し西に回ろう。少しなだらかで足を取られる流れも少ない。」

 杜松の森の中をエマオイはなるべくなだらかな地面を選びながら下って行った。北へと下って行くとカシの森に入り、老人を除くカヤ・ローキの三人は暗さに戦き、黙然として心なしか足早になるようだった。無口なエマオイは靴の履き心地を尋ねた他は連れの気持ちをほぐすような言葉に気を回すようなことも無く、ただ、一同がついて来ているか確かめるために時々足を止めた。

 自身が遅れないように精一杯のアドルナに代わり、アニは遅れがちな老人の横に寄り添った。

「このまま北に行くと川に行き当たるのじゃない?」

 アニは後ろから先頭のエマオイに話しかけた。エマオイは止まらずにシギを後ろにぶら下げた肩をゆすりあげた。

「何故、そう思うんだ?」

「私たちの居た村と西の丘の間の水場から、水は大池にたまって内と外の耕地の間を川になって丘を下るでしょう?水路の方へ下るのだったらいつかは出会うわね?」

「大池の水は川になって水路に流れ込んでいる。」エマオイは答えた。「そこには水路の管理小屋がある。我々が今晩目指すのはそこだ。」

「二水路は常駐の管理人がいるのか」キームルが興味深げに呟いたが、エマオイはその微かな言葉を聞き取って振り返った。

「十七年前の内乱と、さらにイナ・サラミアスの噴火とで、王の遣わす監督は不在になりました。しかし、彼が雇い入れていた水路番はまだいくらかいます。二クマラとトゥサ・ユルゴナスは早いうちから彼らに報酬を与えて見させています―――常駐ではありませんが。あの内乱から程なく彼らは狩られ追い立てられる身の上となったので。」

「誰が?なぜ?」アニが大声で尋ねた。

 林床に厚く積もった細かい朽葉が足音さえも吸い取り、小枝を踏み砕く音が時折微かに沈黙を破る。

 ややあってキームルは穏やかに、エマオイに言うでもなくアニに言うでもなく言った。

「アツセワナではクノン・エファより北には広い耕地を管理する領主がもう、ほとんどいない。長年のアッカシュ様とアガムン様の確執や賊の乱暴で、主水路(アックシノン)の百姓たちも苦しめられた。水路が荒れて水が滞らないのが不思議だ。」

「見ている者はどこかにいますよ。」

 エマオイは歩みを止めずに答え、左右に目を走らせて辺りの様子を確かめると、連れへの気遣いをやや減じたかのように足を速めた。キブと男、アドルナはつられて少し小走りになったほどだった。アニは老人の腕を支え、下り坂に時々潜んで足を掬う小さなくぼみに注意を促した。

「すまないね。」老人は小声で詫びた。

「小父さん、ゆっくりで大丈夫よ。怪我をして歩けなくなるよりずっといいわ―――日はいずれ暮れるけど小屋は逃げない。歩き続ければひどく暗くなる前に着けるわ。」

「イネ、お前さんは先ほどアドルナから昔の話を聞いていたようだね。」キームルは言った。

「お前さんの知る由もない、シギル王のおられた昔の話を」

「私は物語を聞くためにここにいるのですもの。」

 アニは先に行く四人との距離を目で測りながら答えた。エマオイの後ろにぴたりと男がついて行き、その後を決して男に追いつかないように横に離れてキブが、その後をだいぶん遅れてアドルナが、ふたりの少し前をたくし上げたスカートの裾の後ろで朽葉を擦るように下りて行く。

「王女に出された課題のことを知りたいかね?」老人は尋ねた。

「ええ、是非!」アニは勢い込んで囁いた。


 “黄金果の競技”で王女はご自分を導く花婿ではなく、自分の主人たるご自身を見出して来られたようだった。ただ、その挑戦はいかにも向こう見ずなことに思われた。王女はご自分の不利な点を理解しておられたが、世間の女達のように骨身に沁みて分かっているわけでは無かったし、男たちの中でも物事が決して正義や理に基づいて動くものではない、そして大勢は脅しや打算や誤った解釈によって容易く誠心を翻すものだということもご存じではなかった。それでも課題に取り組むにあたってご自分に足りない知見を修めようと決心なさり、そのように実行された。

 王女は王宮の深窓で並みの女子よりは高度な語学、数学、技能などを学んでおられたが、男子であったら施されたに違いない教育を受けてはいなかった。父王と共に丘の上の市街やトゥサ・ユルゴナスの農場を散策されることはあったが、父上の直接の勤めである会議や視察のお供をされたことは一度も無かった。

 王女はこれをご自分の欠点と見なし、冬の間、将来の臣下となるであろう級友と机を並べて学ぶために学校に通われた。昼間は十から十五の少年たちと過ごし、主に勉強を教えた。夜にはもっと年かさの若者たちとさらに上の学問に励まれた。日中トゥサ・ユルゴナスや各家での役務についている子弟たちだ。

 ここにはトゥルカン様の私塾を出た者たちも加わった。これはシギル様が学校をつくられたのと同じ時期にトゥルカン様が私財を投じてつくったものであり、主に領主の子弟よりは身分の劣る商人や職人の子であった。また、貧しく身寄りのない子供もいた。彼らは頭が良く、仲間のなかで統率がとれていたが、何人かの若者の間では共通した独特の信仰または思想を持っているようだった。その信仰の根本が何なのか私にはわからないが、彼らは一様に激しく女を蔑む向きがあった。

 王女の心にはこの中で采配を取れるようにならねば将来の政を行うのは難しかろうという思いがあったろう。実のところは若者たちの威圧に耐えて踏みとまるだけで精いっぱいだったのではなかろうか。ともあれ一年もの間、王女は通い続けた。

 学問に励む一方で、王女はご自分の存念と件の課題を公表する段に来ていた。

 父王は姫君に対し、ご自分同様に必ず宰相にも頭を下げるように、と要請した。統治の印、門と蔵の鍵の片方を持つ以上、宰相の権力は父と同等である、その手から取りあげようと思うなら相手の格を良く見定めよ、という戒めだったのかもしれぬ。王女は、通例の会議の場を借りて自らの試みを告げたい由を双方に願い出、会議の招集に立ち会い、傍聴をも許可された。

 会議の招集は冬至明けになされた。あの“黄金果の競技”から二月後のことだ。エファレイナズ全土の領主、その他議員の身分の者―――トゥサ・ユルゴナスやコタ・レイナの自作農の代表などが、王宮の広間に会する。

 毎年この時期に行われる通例の会議は、五つの家が協議し互選で王を決めていた(いにしえ)のしきたりを起源とする。第四家の謀反と内乱による王不在の時代にも領主たちの努力によって細々と続けられ、アケノン様の代で王の召集による会議が再開された。

 もはや恒例のことだから、前後の宿泊も含む場の準備には、丘の上の他の家々からも手伝いが出る。カヤ・ローキからもアドルナが召使たちを連れて手伝いに行ったのだ。私も会議に出席する主の供をして出かけた。

 広間には会議のために中央に卓が置かれ、両脇の炉には赤々と火が焚かれていた。卓の奥に王が、その右側に宰相が座し、王の左にはその時議長であったエフトプのキアサル様が席に着かれた。以下にはコタ・レイナのおふたかたが、またその向かいには、第三家アッカシュ様、第五家である主、ニクマラのミオイル様、イビスのカジャオ様が着かれた。さらに少し席は下になるがトゥサ・ユルゴナスの庄長、コタ・レイナの自作農の代表が着席した。私を含める主の供をしてきた記録係、またはご子息は後ろに控えていた。そしてシギル様の後ろには髪を目立たぬように束ね、長衣の上から男もののマントに身を包んだ王女が私どもと同様、筆記具を携えて立っておられた。

 やがて、キアサル様が進行役を務められ会議が始まった。

 まず、領主の方々による領土の運営の報告がある。その年の作物の出来、治安の状況、疫病や天災の有無が順に報告される。

 それが済むと地方ごとの監督官が呼ばれ、その記録に基づいて郷の出来高の報告と郷倉に入れた石高との照合がされる。会議のこの段は毎度少なからず緊張の走る時間であった。滅多に明らかになることはなかったが、利益の隠匿は古鍋にこびりついた焦げのように、あっても見過ごされがちだが目に留まれば不愉快なものだったからだ。

 また、領主たちが行った交易や商いによる利益の報告も求められた。これは領内での饗応に費やされた分を除き、後ほど十分の一を税として集められ、道や水路、救護所などに充てられる。当時は鉄山を持っておられたトゥルカン様、シギル様が筆頭であった。そして、穀物の収穫高はさほどではないものの、水運を存分に生かした交易や運送業を営んでいたエフトプとニクマラも富裕だった。

 これら各家の所領の報告事の最後に、この年間に境界や治水、商取引について領主間の諍いがあった場合は、王の前で報告された事実の確認がされ、両者の信頼の回復が促され、または承認された。

 ここまで済むと毎年のごとく場の緊張は一時やわらぎ、王の指図によって一杯の酒が振舞われ、主従の誠、盟友の絆が確かめられたとみなされる。

 この時も王が合図をして酒の杯が配られたが、過日の“黄金果の競技”の思わぬ結果を引きずってか、居並ぶ領主がたの面は固かった。

「コセーナのシグイー殿、お世継ぎは息災であられるか。」

 トゥルカン様が不意に声を掛けられる。長年知っている者ならば誰でもわかる攻撃の気味を帯びたその声が笑みの形の口から発せられるのだ。シグイー様は振り返ると愛想よくうなずかれた。

「知ってのとおり意気地のない奴だが、しおたれた見た目よりは元気だよ、宰相。」

 二月もあれば、噂の域を出ないにせよ私たち下々の者にも色々なことが知られてくる。アガムン様が偽物の金の実を王に差し出して怒りを買い、失格になったこと。競技に直接出ておられなかったダマート様がどういうわけかこの不正に加担していたらしく謹慎を申し渡されたこと。

 妹は女中たちからもっといろいろ聞いていたが、男たちの間では一言あれば片付くことだ。黄金果の競技に死はつきものだ。第一回の“黄金果の競技”などは今回の比ではない。この会議の顔ぶれの中でカジャオ様の兄上、それに私の主の従弟は第一回の“黄金果”で命を落としている。第二家などは世継ぎを失くして絶えてしまったくらいだ。

 それだけ言葉を交わしておいておふたりとも目を逸らすと口をへの字に曲げて杯をあおる。友愛の確かめの場は役目を果たしてはいないようだった。

「では、次の題に移るとしよう。()()()の値を決める。」

 王が促され、キアサル様が係に指示を下された。

「豊かさの秤をここに。」

 会議の手順に則ってそこに控えていた係の者が秤と金銀の分銅を持って来、卓の上に置いた。

 実際に秤に載せて何かを測るというのではない。その年の穀物の収穫量が明らかになったところで、民の生活に欠かせぬ穀物、羊毛、油などの値が決められ、造幣局と交換所に申し渡される。この時に、変わらぬ価値を象徴するものとして金と銀が皆の目に置かれるのである。金と銀はどちらも一両の重さだった。

 我々は食べていかない訳にはいかないのだから、一両の金に対して小麦の値が変わるという事はほとんどない。むしろ小麦こそは金であり、小麦の出来高が他のものの値を左右するのだ。

 この年は小麦が並み以上の出来であった。そこで郷倉に納める量、租、全土の農場の雇人の労賃として支払われる小麦の量が割増された。支払われる小麦の手形に使われる(キーブ)にちなんで、年毎に決まるこの単位はキーブと呼ばれる。並作なら一キーブは小麦一斗だ。余程の不作でない限りこれを下回ることはない。小麦に続き米、羊毛、油の値が決められる。これらの()()()と呼ばれる品目は、議会に参加できる領主、名主のみが産出し販売できるものであり、その値は全土どこで取り引きされても変わらぬように取り決められていた。最後にトゥルカン様が一キーブに相当する金子の値を発表し、この取り決めが承認される。これもおよそ銀貨一セラで通って来たのでほぼ型通りに済むはずであった。

 しかし、トゥルカン様はこの年はやり方を変えようと思い立ったようであった。並作だった昨年の一キーブに相当する銀貨一枚に新たに発行した十分の一の価値の銅貨一枚を足したものを提示された。小麦の量も一割増だったのだからこれに異を唱える筋合いはない。だが、シギル様はふと険しい顔になった。だが、口にしたのは違う件だった。

「宰相、近頃、旧市街(アクス・タ・コエ)とそなたの領内では殺傷や、盗みが増えているではないか。しかと取り締まりをせよ。」

「ああ」トゥルカン様は椅子に深く掛け、腹の上に両手を重ね、天井に目をやりながら答えられた。

「領民はまだ小遣いには慣れておらぬようですな。些細なことで子供のように喧嘩をする。じきに収まりましょう。」

 私はその時四十半ばほどだったが、子供の頃からこのかたエファレイナズの庶民の暮らしが少しずつ変わって来たのを見ていた。私と妹が子供の頃育った家は第ニ家が持っていた耕地の近くの自作農だったが、その頃生活で使われる物はすべて家で獲れたり、作ったり、近隣と交換してくるもので、父親がわずかに持っている金子は大切にしまっておくもので家の用に使うものではなかった。後で仕えるようになった第五家(カヤ・ローキ)の領民もそうだ。我々庶民は家長、もしくは領主が営む農場で産する物を分配され、やり繰りするだけだ。たまさかに褒美や祝い事として羊や牛、時には小さな畑が与えられるとこれは財産だ。これらやその産物を領内で売り買いすることは出来るし、主の許しを得れば収穫祭の市に出かけて売ることは出来る。だが、それは頻繁なことではなかった。

 金子は領主たちが互いの取り引きをする時に使われる時があるくらいだった。それも、大口の取引をした時の価格を擦り合わせるのに使い勝手がよかったのだ。アツセワナでは早くから領主お抱えの商人がエファレイナズを横断して商売をしていたが、庶民相手ではなかった。

 変わったのは一回目の“黄金果の競技”の後だ。はるばる東から絹と鉄を交換にやって来る旅人のために宿駅がつくられ、また彼らが交換で得た鉄を売るために、他の入り用なものを買うために市が出来、人が集まるのを当て込んで商売が盛んにされるようになり、その中で、木札(キーブ)や金子はよく使われるようになった。遠いコタ・シアナから農場や織物工房に働きに来た若者や娘たちに労賃を払うのにも使われ、庶民が市街の市で普通に売買するようになったのだ。

 シギル様は市中に金子が多く出回るようになったために庶民の心が荒んできたのだと仰りたかったのかもしれぬ。だが、私は今でもトゥルカン様の言われる通り、人々が新しい道具に慣れるには、失敗と修正を繰り返す他は無いのだと思っている。そしてその風を起したのは他ならぬシギル様だったと。

 しかし、王女は父君の口調から何かそこに見過ごせぬ意味あいがあるのだと感じたようだ。

「宰相殿。昨年一キーブ一セラであったのを一セラと十分の一になさったのには何か意味があるのですか。人々が報酬の交換を受ける時に混乱するのではないでしょうか。」

「下々の身で考えてごらんなされ、豊年の祝儀に一枚余分に付くのは嬉しかろう。」トゥルカン様は小娘にするように王女に答えられた。

 王女は父王に振り返り、言われた。

「父上、やはり、一キーブを麦一斗と定め、今年は別途麦一升の褒美をつけることにしては?そうすれば一キーブ一セラですべて済みますし、麦一升についてのみ十分の一セラで済みます。」

「ロサリス」

 王はご自分の従者にもなさらない厳しい顔で語気粗く王女を遮られた。

「金子の値が民の命の綱、キーブの値に先行するのか?王に二言は無い。先に蔵ものの値を定めるのがしきたりだ。」

 交換所で間違いのないようにしっかり通達をしておけば大丈夫でしょう、キアサル様が王女をなだめるように言われたが、一同に代わって王の体面を慮ったのであろう、というのは王女の言葉によって一キーブ一セラと十分の一にするということは、麦以外の物の価値を身を削って補填するのだということに、皆遅ればせながら思い至ったからだ。

 トゥルカン様は、一キーブの相場を決めた流れでまだ一同の注目がご自分に集まっているのを見定めると、キアサル様が相場決めの象徴である秤を下げさせる前に軽く手を上げ、シギル様の方へ身を乗り出すようにして向かれると、「よろしいか?」と伺ったうえで、王女の申し出と王女の上に課された課題について述べた。

 領主がたの驚きぶりは面に表れた以上であったと察せられた。この二十年というもの、やんわりと草で覆われた下の亀裂を固唾を飲んで見守ってきたのだ、その亀裂が直にこじ開けられたようなもの。半分くらいは王女への怒りがあったかもしれぬ。皆がどちらかと言えばトゥルカン様の顔色を窺うように目をやった中で、難しいお顔ながらびくともしなかったのはシグイー様とその後ろのダミル様くらいだった。

「わしに異存はない。」一同がそれと尋ねたようにトゥルカン様は言われた。

「姫はそのつもりで既に励んでおられる。見ての通りだ。わしもこの二月の間に課題は用意した。王女は父君とわしの分け持つ蔵と門の鍵を所望だ、その器に相応しい課題を出そう。

「過去二十年の間、王とわしが切磋琢磨しあってこのアツセワナの領土を豊かにしてきたのは皆ご存じであろう。中でもコタ・イネセイナとコタ・ラートの水脈を繋ぎ、間を南北に縦断して耕地を潤している主水路(アックシノン)は競争が良い実を結んだ例として最も誇りとするべきところだ。このアックシノンに沿って開かれた農地は屈指の沃土であり、適切に営まれている村々はあたかも国の雛型である。

「さて、この雛型の中で、第五家(カヤ・ローキ)の隣あう二村はまことに双子のようだ。この秋播種を終えた畑は一坪当たりに出そろった芽の釣り合いもちょうど良い。この村同士を競わせよう。王女とわしの推薦する者とでそれぞれに村を受け持たせ、より村を豊かにした方を勝ちとするのだ。」

 宰相はそう言われて、後ろに控えていた従者を振り返り、手招きされた。宰相の後ろには私のように記録を取っている者がひとりいたのだが、いつの間について来たのであろう。その後ろにきわめて質素なマントにがっちりとした体躯をつつんだ男が立っていた。

 あまり城内に来た事はないのだろう、男の立ち振る舞いは硬く、見慣れぬ風体に一座はざわめいた。促されて深く被った頭巾を上げたところを見ると、齢のころ三十ばかりかと思われる。白っぽい茶の髪は肩まで伸び、頬から四角い顎にかけて短い髭が覆っている。まだ若いのに眉の付け根に深いしわがあり、急に落ちくぼんだ眼窩の奥の目は冴えた青い色をしていた。

「チカ・ティドから来てわしの下で学んだ有能な男だ。姫、この男があなたの相手だ。」

 王女はその男に会釈された。この頃にはもう姫も宰相の含みのある言い回しを気にとめぬほど度胸が据わっておられた。男は大人しく挨拶を返し、その際立った色の目を無表情に前に向けた。

「農地の収量を増やしても良い。生り物を売買してより収益を増やしても良い。村人の労働の報酬としてより内容の豊かなキーブを贈った方へわしの持つ鍵を譲り渡そう。」

 トゥルカン様は手を前に出し、そこに出たままになっていた秤の銀の分銅を載せた皿に鍵を置いた。天秤は大きく傾いた。

 宰相が皿の上に載せた鍵が何であるかに気付いた領主がたは、今はじめてその男の顔を見定めようとしたが、男は再び頭巾を被って、宰相の後ろの燭台を架けた柱の陰に下がっていた。

 宰相の言葉はとても聞き流してはおられぬ意味をはっきりと表していたものの、領主がたにはあまり強い懸念を覚えられなかったようだ。またぞろ王と宰相の、今度は人形を押し立てた力比べにすり替わっただけのことで、結局はダミル様、またはアガムン様が婿に収まることになるのだろう、と思われたようだ。

「ところで勝ち負けはどうやって見分けるのでしょうね?」

 ダミル様が一同のそれぞれの沈思黙考を破るように晴れやかな声で仰った。

「同じ蔵をつくって満たしてみるのですか?それとも大きな秤を作るのでしょうか?」

「面白い考えだ、ダミル殿。」トゥルカン様はぴしゃりとした口調で仰った。

 会議を終えた領主がたはその晩は王宮に宿泊され、翌日にはうち揃って主水路(アックシノン)の件の村へ行き、それぞれの村人たちを広場に呼んで以上のことを申し渡し、王をはじめとするご一行の方々の立ち合いのもとで農地を検分し、庄長に王女と例の青い目の男を引き合わせた。それが済むと、領主がたはそれぞれの領土へとお帰りになった。

 さっそく課題に取り組まれるのと平行して、王女は父王の供をし、コタ・ラート以西の領内の視察に回った。冬の間学校に通う少年たちも夏の農繁期になれば仕事に出ている。王女は王と共に何日にもわたる旅をして、ご自分の地所を含むアツセワナの家々を訪ね、その耕地を縦断する主水路(アックシノン)とその管理所を視察した。沿道の領民や夫役の陳情があれば父王と共に耳を傾け、領主に対策を取らせるか会議に持ち帰った。

 また、丘の上の施療院、施薬所、孤児院や養老院を訪ね、郷倉をまとめる大倉庫を視察し、技能修練所を訪ね、工人たちをねぎらった。技能修練所は、機織り、皮革職人、大工、石工、指物、細工、陶工、冶金鍛冶など、アツセワナの工房に属するあらゆる分野の技を高めるために造られた研修所だ。有望な若者がそこで研鑽を積む一方、エファレイナズ全土の郷の親方の等級の者が集まって研修を行う。トゥルカン様の肝煎りではじめた収穫祭の呼び物、技芸品評会でその年の名人(アトゥーリ)を勝ち取った匠が城内に招かれ、冬の間賓客として滞在し、彼らを教えるのだ。国の主でもあり女主でもある女王になる姫にとって、賓客をもてなすのもまた重要な仕事であった。

 私は農事には不案内だ。ロサリス様がどのようになさったか詳しくは知らない。だが、どの仕事の場もそうであるように、皆が長年かかって作りあげて来た仕組みに新顔に口を出されて面白い者はいない。あからさまな拒否には会わなくてもはじめは煙たがられ、体よく無視されたことだろう。私の耳に入ってきたことは、王女が彼らと同じ(なり)をして中に入り、邪魔にされながらも、一年の農事の全てを見ようとしていたということだ。

 ロサリス様が百姓たちの寄り合いをご覧になりたいと仰っても、村の農夫たちは嫌がってのらりくらりと返事をかわしながら、自分たちでさっさと集まって取り決めをしていたものだが、ある時、作況を見ながら畔端で相談ごとをしていた折に不意にロサリス様が馬でやって来られたことがあった。ロサリス様は黙って耳を傾けた後、何か質問しようとすると、村の年取った三役の者たちが怒って、いくら王の娘御だからって女だてらに男の仕事に口出しするもんじゃない、と文句を言ったそうだ。流石に気の毒に思った農夫がひとり、あとで姫に声をかけた。

「姫さま、わしらにはこうこう、と長年守って来たやり方でとおったものを、なんでこんな、理も通らなけりゃ行方も分からぬ方法で隣と競う羽目になったのかさっぱりわからんのだよ。事の起こりは、お前様が国を治めるのも婿を選ぶのも自分でやりたいって仰ったからだろう?出来るわけがねえ。わしらはトゥルカン様がそうしろと仰るから、お前様の指図に従ってる()()くらいはするけどよ。それ以上は堪忍してもらいてえ。はしたないねえ。こちらが恥ずかしいわ。」

 姫は、面倒を掛けていることを詫びた。しおらしい様子に勢いを得て農夫は口説いた。

「ダミル様がまだいらっしゃるんだろう?うんと言えばいいじゃないかね?このままでは可愛くないよ。」

 ロサリス様は農夫を見返すときっぱりと言われた。

「引き返す事は出来ないわ。去年の私からは思いも及ばぬところに来てしまったけれども、今の私には前にしか道がないのよ。―――迷うことすら、もう私には出来ないの。」

 もう一方の上流の村が例の青い目の男の指図でうまく回っていたのかどうかはわからない。が、この男に文句を言う勇気のある百姓はひとりも居なかっただろう。その時の私にもそう言えるし今ならなおのこと―――そもそも誰が訊くだろう?

 初めの一年が過ぎ、定例の冬至の会議が開かれた。各領地の情勢が報告されたが、第五家の収穫高のうち、アックシノンの雛形のふたつの村の収穫高は伏せられた。二年目の麦は蒔かれ、芽も出揃っていた。

 トゥルカン様が冗談のように進捗について水を向けられたが、王女はただ差しさわりのない返事だけをしてやり過ごしておいでだった。だが、その後は思いなしかふさいでおられるように見受けられ、会議の終了が告げられ、父王に許されると早々に広間を退出された。

 その年は問題の村の審査も検分も無く、領主がたはゆっくりと帰途につかれた。

 一年ぶりに父君の供をして来られたダミル様は、一段と落ち着かれ、既に領主の風格を醸し出しておられた。シギル様は広間を出ようとするシグイー様父子をお呼び留めになり、そこにおられた方々がまだ退出しきらぬうちにダミル様に向かい、一体、お前はどのような所存なのか、と囁いた。

「私の思いは変わりません。」ダミル様は明言しつつ、「それでも男の意見ばかりで決定されることが姫の意に染まぬなら―――。」と敢えて求婚の意思表示を避けておられる。

 シグイー様がその様子を見て肩を割り込ませ、言葉を挟まれた。

「息子がいても良いことばかりではないぞ、兄上。昔は私も、息子を沢山持って家の周囲を固めて置くに越したことはないと思っていたものだ。が、今となっては何故兄上がこのように煮え切らぬ奴に目をかけられたのかさっぱりわからん。このままでは嫁も取れずに年取って、私たち夫婦は心配で死んでも死に切れんよ。それに上の愚息は田舎を嫌がって都に行かせてくれという。さしも子に甘いトゥサカもとさかの出た雄鶏は手に余るとみえて家から出すことを承知した。」

 一年の謹慎を終えて王のもとに出頭したダマート様はその後自ら望んでアツセワナにとどまり、城内の職務に着かれたとのことだった。

 シギル様は一年ぶりにイネ・ドルナイルから幼馴染のトゥルド様の帰って来られていたのもあり、弟君にゆっくりしていくようにと勧めておられたが、シグイー様は長逗留になるのを渋っておられた。

「館を留守にしていると思うと腰が浮く。」

 シグイー様は名残惜しげにシギル様とその傍らにおられたトゥルド様を見やった。ダミル様が事も無げに父上に言われた。

「ラシースがいますよ。」

 アツセワナではあまり聞きなれぬ古風で単純な名だ。そこにいる誰も気にとめた様子はなかったが、シギル様はわずかに耳をそばだてるふうに眉を動かした。

「そうだな、あれに任せておいても安心かもしれん―――相手が嘘をつく生き物でさえでなければ。」

 シグイー様は、ちょっと考えるふうに頭を傾け、先からの話の流れでか、苦い笑みを浮かべて呟かれた。そしてやはり帰途を急ぐので、と兄王に断られ、ダミル様を連れてその日のうちにコセーナへの帰途につかれた。

 弟御とお気に入りの甥御さまが帰られたのが残念だったのか、シギル様はその後心積もりしておられた内々の宴もお取りやめになり、手伝いの召使たちにまで振舞った酒もご自分は召し上がらず、ごく短い時間だけ、別室でトゥルド様と簡単な夕食を摂られて話をされた。そして翌朝早く、トゥルド様もまた、正門(タキリ・アク)からコタ・レイナ方面へ向けて単身発たれたようだった。


 丘の裾をほぼ下りきり、なだらかな起伏の地面にカシの木が茂る森に入るころ、エマオイは一度足を止めて休憩した。

 昼頃降った雨はその後森の上に差した陽射しに温められ、徒歩の旅の火照りも加わって汗ばむような蒸し暑さになった。男たちは上着を脱ぎ、アニはマントを脱いで風に当てるために木の枝に掛けた。

「そろそろ着替えたいな。」

 アニは、手で首筋を扇いでいるアドルナにこぼした。

「少し戻れば小川があったわね。手と顔くらいは洗えるでしょうけど。」アドルナは低く囁いた。「我慢するのよ。トゥサ・ユルゴナスに着けば、安全に洗うこともできるでしょうから。」

 小川で手と顔をすすぎ、水筒を満たして戻って来ると、アニは背嚢とマントを取りに置いてあった木の側へ行き、立ち止まって鼻の頭にしわをよせた。マントを掛けた枝元の幹の下で上着を脱いだ三人の男が休んでいる。キブは幹に寄り掛かり、エマオイと男は枝を挟むようにして向かい合って何か話している。

「あの娘はコタ・レイナの……。」男が何か尋ねそうになるのをエマオイは手を振って止めた。「他人の事情だ」

 男はエマオイよりも先にアニに気付いたがそこを退こうとしない。

 アニは両拳を腰にあて、張った肘で押し分けるようにして男たちの間を進み、「失礼。」枝に掛けたマントと根元に置いた荷を取った。エマオイが詫びて木から離れ、上着を被った。

 座って休んでいるキームルとアドルナの側に戻ってくると、アニは胸に抱えていた荷を背負い、我知らず拳を固め、呟いた。

「母さんはひとりでどんなに心細かったかしら!」


 ニクマラの丘の大池に発し、森の中を西へ大回りして下って来た川筋が、二水路へと目指す一行の行く手に現われたのはもう日も暮れ、闇が迫って来たころだった。一行は左側から寄せて来る土手の向きに従ってハンノキの繁る川沿いをゆっくり進み、ようやく開けた眼前を水平に走る土を盛り固めた堤を認めた。近づくにつれ、水路を流れるせわしく力強い唸りが聞こえてきた。堤の上には草が繁り、小さな木もところどころ生えていたが、上面にはよく土を固めた細い道が一本通り、川が合流しているところでは頑丈な丸太づくりの橋が堤の間を渡していた。

 橋を渡ったほど近いところに古い管理小屋があったが、先に行って中を調べたエマオイが滅多に見せぬ不機嫌な顔で戻って来た。

「中は荒らされている。汚れてもいるし、それよりもここを使った連中がいつ戻って来てもおかしくない。森の中に戻ろう。イズ・ウバールの中にずっと下がって、そこで野宿だ。」

「誰が使ったの?」アニは尋ねた。「水路番?」

「タパマか?」男が尋ねた。

「いいや。彼らじゃない。」エマオイは強く言ったものの、言葉を選ぶようにして慎重に言った。「もう長いこと“青頭巾”やその他の賊に襲われて家を失くした者たちがこの辺りをさまよっていて、半ば彼らの仲間になっているんだ。ここは少なくとも雨風はしのげるからな―――だがもう昔の管理小屋じゃない。タパマたちと彼らがやりあうこともある。巻き込まれる危険を避けよう。」

「もう道が暗いわ。」アドルナが疲れた声で言い、キブはこっそり溜息をついた。

「野宿の場所が見つかったら火を焚ける?」アニは言い、エマオイの背でくたびれてぶら下がっているシギの束を見た。

「そうありたいものだな。」エマオイは答えた。

 エマオイは川を上の方へ少し戻り、そこに流れ込んでいる小川を頼りに、分厚い繁った葉が空を覆うイズ・ウバールの中へ入って行き、小川のほとりの朽葉とシダに覆われた窪地を見つけるとそこで相当時間をかけて火をおこした。その間にキブとアニが羽をむしり、串に刺した鳥をなんとか炙った。

 慌ただしい食事の後で皆はすっかりぐったりとしてうつらうつらとしかけていたが、エマオイはキブを揺り起こし、焚きつけた枝の燃えさしをひとつ持つように言い、皆を立たせた。

「用心のためにもう少し森の奥に移ってから休もう。」

 足元を照らしながら小川の浅瀬を渡り、低木の藪をひとつ抜けて、エマオイはようやく幼木の群れが点在する大きなカシの木の下に休むことを許した。大ぶりの葉をつけた小木の根元に寄り、皆はかき集めた朽葉の上にシダを厚く敷いて枕にし、キブはキームルの隣に休み、アニはアドルナに寄り添ってマントを上から掛けた。松明の火をもみ消す前にエマオイは、カシの反対側に丸めた背を向けて横になっている男に、夜半に見張りを代わってくれるように頼んだ。

 夜明け前のまだ暗いうちに、間近な気配と鋭い囁きが眠りの薄衣を引き剝がした。

 跳ね起きて立ち上がろうとするアニの腕を分厚い手がつかみ、エマオイの声が、しっ、とたしなめた。アニの傍らでアドルナが息をひそめて身を固くしている。

 夕べ焚火をした小川の辺りから、幾人もの入り混じった興奮した話し声と強引に藪を分け入ろうとする物音が聞こえる。煙の匂いが微かに風に漂う。

「追剥だ。三人ほどだ。」

 エマオイの後ろでキブが小さく罵った。

「キブ、お前は先に月の方へそっと二十歩ほど行け。おれは反対側に行く。合図に口笛を吹くから、思い切り叫ぶんだ。先に気付いていることを教えてやろう。うまくいけば追い払える。あんた達三人は茂みの奥に入ってそこを動くな。」

「あの人は?」アドルナは疑念を込めて囁き、闇と夜霧で覆われたあたりを見回そうとした。キームルは、静かに、と囁き、妹と少女とを広葉の繁った小木の後ろに押しやった。

 エマオイとキブは既にその場を離れ、シダを分ける足音と先よりも押し殺した囁きが、しかしほんの間近に聞き取られ、三人の潜む藪の広葉が火影の閃きを照り返した。

「そこだ。すぐそこだ」囁きにつられ、明かりがさまよい、火の粉を散らした。「娘と年寄りが木の脇に寝ているはずだ。」

 アドルナの手がきつくアニの腕をつかんだ。アニは胸に抱いた背嚢の口を探った。

 左手の藪を突き抜けて、次々とむき出しの脛が踊り込み、棍棒の先が茂みの枝先をかすめた。カシの幹元に松明をかざした先頭の者がぴたりと足を止め、唸った。

「どこだ?」

 その時離れた藪から鋭い口笛がひと吹き、次いで、違う方角からの叫びが同時に起きた。

 賊が松明を足元に捨てて振り返ると、返事のように短い悲鳴があがり、嘆願のむせびともっと大きな叫び、そして振り下ろされる影と重い鈍い音がそれを遮った。打ち震える枝葉の音の中に、惨めな喘ぎは消え入った。

「ああ、耐えられない!」アドルナが呻くのと同時に、アニはその手を振り払い、小刀を手に藪から這い出た。アニが出たのは三人の男の背後だった。物音に気付いた男たちが振り返った時、アニは彼らの横に回っていた。

「ミアース、ミアース!」

 アニは、立ち上がり、大きく手を振りかざして、藪の中の兄妹から自分の方へと注意を引いた。

 朽葉に燃え移り大きくなった明かりが追剥のぽかんとした顔を映した。

 男たちが歩み寄って来る、その襤褸をまとった姿、汚れた手、顔。後ずさった足が下に倒れた身体の一部をぐにゃりと踏みつけ、よろめきくずおれた膝の下に服を着た無言の骨と肉がぎしぎしと動いた。

 小刀をかざし、顔を覆い、耳に響き渡るわーっという声を誰の声かと訝りながら、アニは、自分に近づこうとする者を振り払い、触れる手を払いのけ、声の中で新たに声をあげた。

「アニ、アニ。」騒ぎの中にアドルナのなだめる声が呼び、鈍い地面を打つ音と葉擦れの音は遠のき、男たちの声は聞き覚えのある言葉と会話の声音に変わった。それらを聞き取った時に軽くぽんと手がはたかれ、小刀が飛んで柔らかい朽葉の上に落ちた。

 周囲に人が立ち、こちらを窺っている。少し離れて火を踏み消す静かな音がする。やがて焦げた葉と朝露の混じった鼻を突く煙の匂いが冷えた風に混じって漂って来た。

「イネ、顔を上げて目を開けろ。」

 すぐ前でしわがれた声が言った。

「おじいさん―――?」

 怪しむようにアニは言い、ゆっくり目を覆った肘をどけた。そして、首を振り、改めて目の前の男を見た。

 黒っぽい張りのある、チュニックのような服に革のベルト、革の籠手、 明けてもなお青黒い森の中で、男の顔はかがみ込んだ肩に羽織った毛皮の白茶に対比してひときわ赤黒く見えた。細面の中高の顔に目立つ鷲鼻―――嘴のような。白髪の目立つまっすぐな黒い髪の下の黒い目は、アニの目と会うとぐりっと丸くなり、額にお道化た畝を二本浮かび上がらせた。への字に曲げた口から低い作り声が言った。

()()()()()か。」

 細身だが、身体つきはまだ老齢には程遠い。

「人違いだわ。―――烏の小父さん。」アニは言った。

 深い皺の畝は三本の浅い溝だけを残して消え、一重の丸い瞼の下で目は細くなり、両端にしわを湛えた。

「おれはヤモックで通ってるよ。」男は言って、両膝に手をついてかがんだ姿勢から背をのばした。

()()()から下りな。あんたに悪いことをした奴だが、そこにいても座り心地は良くないだろう?」

 男の差し出した手をつかんで、アニは急いで立ち上がり、後も見ずにアドルナの腕の中に駆け込んだ。アドルナはアニを抱きしめ、その肩を、背を撫でさすった。

 ヤモックの傍らにいた顔だちの似た若い男とヤモックと同年輩らしい男は、倒れているアツセワナの男の傍らにしゃがみ、動かない身体の肩を持ち上げ頭の傷を調べたが、死んでいることがわかると埋葬するためにその場から運び出した。

「あんたが近くにいることは分かっていたが、間に合うように来てくれる自信はなかった。」エマオイが言った。「連中に先に気付いていることを報せてやれば諦めて逃げると思ったんだが……。女達を危ない目に遭わせてしまった。」

「獲物の目星をつけて狙っていたんだ。しつこいのにも訳があるのさ。」

 ヤモックは腰に手を当てて、アニとアドルナ、キームルとキブを順番に見やり、特徴のある高めのしわがれた声で言った。

「そして、今も逃げて行っただけだ。また狙ってくる。イネ、あんたを狙っているんだ。この験の悪いところから移ろう。息子らも片付けたら追いついて来る。おれ達がついている方があんたたちは安全だぜ。」

「そうしてくれれば言うことはない。」エマオイは即座に答えた。

 ヤモックは手振りで先を示し、先に立って歩いた。今度はエマオイはしんがりを務めた。

 ヤモックは二水路の方は行かず、小川の上を辿って、イズ・ウバールを北に向かって進み始めた。

「今は小川を辿る方が明るくて歩きやすい。だが、あの餓鬼めら、忘れずに追いかけてくるだろうからもう少し行って谷が深くなったら上に登ろう。」

 隠者のような身形に反し、ヤモックはよく喋った。早朝の騒ぎからすっかり黙りこくっていたアニをはじめ、きわめて口数の少ない他の者の分を補って余りあるほどだった。

 わずかな仲間と森や川辺を彷徨う暮らしで、一体どうやって物売りのようなにぎやかな話し方を身に着けたのだろうか―――一瞬とて平坦ではない地面から目を離せずに懸命に歩きながら、アツセワナの市街から来た者たちはヤモックの絶え間ないかすれた高い声を聞きながら、不思議に思った。

 どうやら、追剥に存在を吹聴しておく方が一行の安全を守れると考えているようでもあった。

「あの餓鬼どもは“青頭巾”のおこぼれをあずかりにクノン・ツイ・クマラ界隈にうろついているやつだ。エマオイ。あんたは昨日、連れは信用できると言っていたが、あのやられた奴は自分で小屋まで密告しに行ったんだぜ。」

 ヤモックは歩きながらふらりと振り返り、すぐに向きを直して浅瀬を渡る石の落ち着き具合を確かめた。

「森を通る小さい一行の中にコタ・レイナの家出娘がいるってな。あいつ、道々案内しながらしゃべっていたよ。話の分かる者の所に引き渡せば礼金が出ると。ちっといい思いが出来たら自分を思い出して口添えしてくれってな。」

 ヤモックは、むっつりと黙り込んでいるキブにも、屹として口を結んでいるアドルナにも頓着する様子は無かったが、ふと烏のような笑い声を上げかけ、すぐに真面目な顔つきになって言った。

「こうなることは分かっていた。あいつらは“青頭巾”が鼻にもかけぬちんぴらだが、自分より弱い者から根こそぎむしり取るからな。自分がすぐに同じ目に遭うとも知らず人を陥れに行く、で、それにいちいち正義の言い訳がつくんだ。若い娘が家を飛び出してさまよっているのを放っておいてはいかん、とな。相手は聞いちゃいないのに。哀れな奴だ。」

「まだ人を憐れむなんて、あんたも不思議な人だ。」

 エマオイは言った。

「滅多にないほど人の悪いところを見て来ただろうに。」

「あんな奴は前にもいたし、どこにもいた。―――おれの身内にすらいた。なぜだか分からんが。」

「あんたは自分が奴らの代わりに何度も畔返して考えてやり、考えの浅い連中を憐れみ、それで最後には許してやるんだろうな。」

「許して、か?」ヤモックは笑い、鋭い烏の声音を放った。話しているふたりの間でアニと老兄妹は身をすくめ、キブは渡っていた小石を踏み外して水の中に片足を落とした。

「死んでしまった者に許すも許さないもなかろう。終わっているんだから。それに、おれは悪い奴よりは弱い奴の方が好きだよ。弱い奴は助け合うことを知っているし全体には懐っこいんだ。だが、奴らのすることは良くも悪くも測りがたい。ましてその結果たるや中空に熟し炸裂して悪臭をまき散らすころには地上に蔓延した枝葉が()()()に白けてそっぽを向き主の分からぬことになっている―――毒をかぶるのは大抵他の奴なんだ。で、そいつを始末しろと言い、そいつは除かれ、可哀相にと言われ、他でまた悪い実がなる。」不機嫌な思考に徐々に昂る声は終いに意地の悪い独り言に変わった。「おれはまだしも“青頭巾”の方がわかる。より嫌いだが堂々と嫌われるだけ筋が通っているからな。」

「そんなに大きな声にならなくても聞こえているわ、小父さん。それに私たちがその話を聞かなきゃならない?それが言っても聞こえないところにいる人の話だったら、ここで話しても仕方がないでしょう?」

 ヤモックは憤然として言うアニに気付くとさばさばと言った。

「イネ、もしあんたが家に帰りたいと思っても、残念ながらおれはすぐにはコタ・レイナに連れて行ってやれないよ。こちらに仕事があるからな。」

「帰らないわ。」アニは言った。

「潔く言ったもんだな。」ヤモックは目を細め、スイバの葉をむしり取って噛み、吹いて捨てた。

「私はトゥサ・ユルゴナスに行くのよ。その先も行く先は決まっているわ。―――行かずに帰るなんてありえないわ。」

「豆粒をひとつ追いかければ他のが転がりだす。」ヤモックは呟いた。「豆の気持ちになってみろ。迫って来る影が鳩か鷹か、百姓の手か、どうしてわかる?思えば、おれのも連中のやっていることと何も変わらん。―――ああ、気の毒に!それにおれも気の毒に。」

「あなたの仕事って何なの?」アニは尋ねた。

 ヤモックは答えず、エマオイもまるで無視しても構わないことのようにアニの質問を飛ばして、かいつぶり(バグ)と呼ばれる仲間たちからヤモックが聞いた、二晩前のアックシノンの村の襲撃の詳しい話を求めた。

挿絵(By みてみん)

 先月の初めの“青頭巾”の第五家(カヤ・ローキ)の襲撃のあと、隣家である第三家(カヤ・アーキ)の主アッカシュは、住居を城郭の上の層にある第ニ家(カヤ・ツル)の旧邸に移した。そして、かつてシギル王と王女の所領であった農地を含む正道(クノン・アク)以南の農地を警備するために兵を公道の要所と水路の周りに配備した。

 ニクマラに逃れて行って護衛を求めたように、一部の百姓たちは第三家を、またはイビスを頼った。第五家は双方の家と縁がある。放置された領土を自領に組み込むことを念頭に、それぞれの家から主水路(アックシノン)の第五家の三つの区画の村を守ることを名目に兵が遣わされた。

 両家は水路の外側から互いを牽制し合い、水路の枠で囲われた農地の中に敢えて入り込もうとはしなかった。集落の家々はすっかり賊が占領して居座り、百姓たちは分水路の管理小屋に分宿して、賊の目を盗みながら小さな舟で水路を渡り、日々農地の世話に通っていた。

「百姓たちにしてみれば狼のいる檻の中に入って羊の世話をするようなものだ。だが、当座は大丈夫だ、奴らは百姓を見かけたって手出しはしない。取り上げるなら熟れて乾いた麦で、青い麦じゃないからな。」

 麦が実り、色づきはじめて刈り入れの時期が迫っていた。もう隠れて出来ることは何一つなかった。

 村の納屋には、刈り取りの鎌、刈り束をかけて干す架、脱穀のための穀竿、全ての道具が揃っている。村の食糧を食いつぶしている賊は、困るのを承知で朝も夜も納屋の周りにたむろし、百姓たちが近づこうとするたびに武器をちらつかせて脅し付けた。ある日、何人かの百姓が勇気を奮い起こし、納屋の入り口をふさいでいる連中に近づき、中の道具を使わせてくれ、と話しかけた。賊はこの百姓をからかい、何度も頼ませたあげく、それでも田を作る者の誇りにかけて悪人のお前さんたちを主人とは呼べないと言うと、皆で襲い掛かって百姓たちを叩きのめし、果てにはとうとう逃げ遅れたひとりを殺してしまった。

「青頭巾のために言っておかねばならんが」ヤモックは嫌々付け加えた。

「村に居残っている奴のほとんどは下っ端の、あまり頭の良くない連中なんだ。そうでなければなにかしら交渉の手間をかけて百姓を生かさず殺さず配下に組み入れようとしたはずなんだ。あの頭目と幹部らは村をまるごと領土支配するくらいのことは出来るはずだからな。」

 アックシノンの百姓たちはそれでも隣のカヤ・アーキの村を訪ねて行き、さらにアツセワナのアッカシュの館まで訪ねて行って助力を頼み込み、水路の周りを兵が巡察する中、何とか鎌を借りて刈り取りを始めた。

 賊らは百姓家の屋根や垣根の上から見物し、「おれ達の()()()()だ」とはやし立てた。百姓たちはからかいに耐えながら黙々と刈り取りを続けた。刈り取った麦は架を組んでかけ、干さなければならないが、架を組むための道具がない。

「可哀相な仲間の亡骸はまだ納屋の前に打っちゃっておかれ、嫌でもそこに近づけばどうなるか思い出さない訳にいかないんだ、彼らは離れたところから刈りはじめたが近づくにつれて生きた心地もしなかったろうよ。」

 仕方なく、集落との境を垣のように二畝ほど残したまま、刈り取った麦は束ねて地面に立て、塚にして干した。

 賊たちは刈り残された麦を見て罵り始めた。馬鹿にしてやがる、おれ達に刈れというのか。

 農地の周りにいたカヤ・アーキの兵たちが騒ぎを聞いて警備の間隔を詰め、集まって来た。イビスの兵もその近くにいた。彼らはそれぞれ主である領主たちから、機会があれば百姓らを助け、うまく収穫物を領内に運び込ませるように計らえ、と命じられていた。

 この兵たちがうっかり賊に答えてしまった。刈り取りは自分でするがよかろう。もともとお前たちの物で無いものを欲しいというなら、刈る労を取るくらいは当たり前だろう?

 賊らは薄気味悪く黙り込んで家の中に入ってしまい、その日は出て来なかった。カヤ・アーキの兵長は百姓らに領内の農地で脱穀をさせ収穫物も守ってやるからと約束し、はしけを渡して兵を農地に入れ、干してあった刈り束を運び出させ始めた。その間に百姓たちは集落との間に残してあった二畝を大急ぎで刈り取った。

「そして賊は、夜に刈り取りを始めた。」ヤモックは背を向けたまま、草の茎をむしって口にくわえかけ、やめて遠くへ飛ばした。

「ご丁寧にも架を組んで下げたんだ―――イビスとカヤ・アーキの兵の首さ。」

 兵の一部が主の命令を待たずにすぐに報復に出、百姓家に火をかけ、出て来た賊を射殺した。賊はすぐに村から引き上げてあった橋を渡して水路の向こうに繰り出して来た。

 夕べから運び出していた刈穂のほとんどはまだクノン・アクの脇に積まれ、夜露を避けながら、足の遅い荷車で順に運び出されるのを待っていた。クノン・アクの南には少し遅れて刈り取りの始まったカヤ・アーキの所領があり、カヤ・ローキの丘陵地の耕地でも、避難先から戻って来た百姓たちが保護の見返りを支払うために収穫を始めていた。賊はそれらから公道(クノン)を通って丘の城内へとゆっくり運び込まれる荷車の列を襲った。

 脱穀の済んでいない刈り束は引きずり落とされ、踏まれ、露に濡れ泥に汚れた。畑の中に逃げ込んだ賊をあぶり出すために放たれた火が刈り取り前の熟れた穂を焼き、カヤ・ローキのクノン沿道の麦の大部分とカヤ・アーキの麦の一部が燃えた。

「どちらも馬鹿だ。」ヤモックは感情の無い、性急な高いしわがれ声で言った。「だが、馬鹿の渦中にいたら自分も馬鹿でいる方が生き延びられるんだ。」

「今回のことに巻き込まれた百姓たちは、家族をカヤ・アーキ、イビス、ニクマラに置いて来ている。中でもニクマラにいる避難民は多いので、数日中にカヤ・アーキとイビスに送り出す予定だった。遣いを出し、三家の間で農民を庇護し収益を分けようと持ちかける予定だったんだ」

 エマオイは心配そうに言った。

「だが、今、無法者がうろつく土地に女子どもや年寄りの集団を歩かせるなどできない相談だ。それよりも働き手は妻や子のもとに帰りつけるだろうか?イビスとカヤ・アーキは賊の報復を恐れて門戸を閉ざしているのではないか。」

「そりゃ、そうだろうよ。」ヤモックはあっけらかんと言った。「アッカシュとカジャオが欲しいのは第一に穀物、第二には働き手、他は無しで、第一が無しなら第二も無しさ。―――後に残して来た奴の心配は奴らに任せておくんだ。あんたに頭があって身体があるように奴らにも身体と同じ数だけ頭があるんだ、そいつらが考えればいいじゃないか。」

 エマオイは黙って考えに沈み、そのために少し歩調の遅くなった彼を、ヤモックの後ろにぴったり続いているアニについて歩きながらキブとアドルナは不安そうに振り返った。

「だが、あんたはおれ達を送ってくれるんだな?」エマオイはしんがりから軽く声をかけた。

「ニクマラにいる百姓どもをあちこちに案内しろというなら話は別だ。」ヤモックはぴしゃりと言った。

「あんたは知り合いでたまたま行き会った。それだけだ。クオルトゥマの仕事の手先なんてもう嫌だね―――コタ・ラートでは何の稼ぎもなかった。それはいい。だが、言っておくが()の埋葬など真っ平だった。ただ、おれの、夜の翼を分かち合う()()()()()が間違ってついばんじゃ困るからね。あいつらの身はもっと高潔なもので出来ているんだ。」

 小川は小さな谷の間を通り始めた。ヤモックは東向きの朝の光をいっぱいに受けた斜面を森の奥の方へと登り始めた。水の上を覆う、ウツギの白い花の枝の間を分け入り、ニクマラよりも少し遅く花をつけた、梢を黄色い房でこんもりと覆ったシイやカシの下に入ると、旅は昨日と同じ暗い薄闇の中に入った。柔らかく沈む朽葉を踏み、幼木の枝を分ける静かな音に後ろにいつしかもうふたつの足音が加わった。ヤモックの息子と仲間が追いついて来たのだった。

「あんたたちの足に合わせるともう一晩森の中で過ごすことになる。」前よりも柔らかく低い声でヤモックは言った。「心配は要らない。今晩は屋根の下で休めるし、おれ達よりももっとあんたたちの気にいるよ。古い小屋だがニクマラのイーマの宿よりはずっとまめに手入れされている。」

 キブがぶるっと身を震わせ、ヤモックは不意に立ち止まり、平生とは打って変わった鋭い目つきで息子に目配せした。ヤモックの息子は籠手の下から抜き取った木の葉様のものを肘から先のひと振りで斜面の下に向かって投げた。

 かさかさと遠のく葉擦れの音に向かって若者は下りて行き、立ち木の幹に刺さっていた手裏剣を取り戻して戻って来た。

「逃がした。今度は青い奴だったよ。」

 ヤモックは口をひん曲げて顎にしわを寄せ、「それなら、相手の名を教えてやれ。」ひとつ大きく息を吸い込むと、

 アク、アク!

 と、烏の声を放った。一瞬にしてしんと静まり返った一帯の、谷の向こうの藪からひとつふたつと続けて葉擦れの音が去って行った。

 いっきに歩調を速めた一行が無言で斜面をさらに登り、針葉樹の列をなす小さな峰をひとつ越えるまでヤモックはひと言も発しなかったが、緩い平坦な森林に入ると、エマオイの声を掛けたのに応じてモミの木の下に足を止めた。エマオイが休憩を促さなかったら流れ者(タパマ)達はまだいくらでも歩いたに違いなかったが、他の者は顎があがりかけ、齢を取った兄妹は足をもつらせ、腕を泳がせるようにしてやっとで追いついた。

「青頭巾もこの子を狙っているの?」アドルナは追いつくと息を整える間もおかず、ずっと気にしていたことを尋ねた。

「いやいや!」ヤモックは首を振った。「違う。」答えながらも、自分と調子を合わせるように首を振り、続いてさも尋ねたいことが沢山あるかのようにその目を捉えようとするアニをお道化た黒目がちの目でじっと見返した。

「奴らとおれ達は宿敵なんだ。互いに同じものを探していて互いに相手が何を突き止めたのか気になって仕方が無いのさ。連れが誰かは気になっただろうがね、奴らは目的に合わないと思ったら無駄な力は使わない。だから獲物が違うことを分からせておけば却って安全なんだ。若いの(アート)、」ヤモックはキブに目を向けた。「お前はその麦藁みたいな髪も白い顔も隠さずに曝しておく方がいい。そして、イネ、安心しろ。エフトプから逃げ出した小っちゃな家出娘のことなんか奴の知った事じゃない。」

「そうだと思ったわ。戦利品には小父さんと戦う骨折り以上の価値はないってことね。でも、どうして烏の声なの?」

 座り込んでさっそく背嚢の中に食べ物を探しながらアニは尋ねた。ヤモックの息子と仲間とは水を探してシダに覆われた坂の下の緑の帯をなす藪へと下りて行った。高い梢からわずかに射す光が艶のある黒い髪を青く光らせた。

「烏は、おれ達と血肉を分けているんだ。」息子の後姿を見ながらヤモックは皮肉に言った。「ある時から同胞になったのさ。」

「そう!」アニはさっそく喰いついた。

「私はある日突然、自分のご先祖が魚だって知ったのよ。でも、ある日突然、自分が烏になったのが分かった人の話を聞けるなら聞きたいわ。」

 ヤモックはちょっと目をくるりと回し、口を開けたが、その口をそのまま閉じ、もたれたモミの幹を軽く叩き、呟いた。

「おれは若い頃アツセワナにやって来て初めて燕麦の粥を食ったが、同じものを馬が喰っていると分かったからといって馬と兄弟になった気はしなかった。―――この成り行きはそんなに簡単じゃないんだ。聞きたいならそのうち話してやってもいいが、ここで話すようなことではない。」






 

 

 


 

 







 





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