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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第五章 土の語り 1 

 朝の鈍い光がのたうつ靄を白く膨らませ、夜の闇に次いでまなかいを覆っている。耳に聞こえる水音はごく静かで、櫂の軋る節奏が少しずつ速くなる。

河口へと下るにつれ岸辺は離れ、広い葦原の間をもう長いこと進んでいた。空がさらに白くなり靄が薄れる頃、舟の前は開け、流れの行方も定かでない細やかなさざ波の中へと滑り出た。

 思いがけない広がりに、目深に下ろしたマントの頭巾の奥で、とっさに目が動かぬものを求めてさまよい、右へと振り向く。

 遠くで烏が鳴いている。この二日間初めて聞く鳥の声だ。大きな木のある地面が近い。

 湿地の向こうのおぼろな影となって見えていた木立ちは、隆起した地をびっしりと覆う固まりとなって、上へと、奥へと、右の方に膨らんでゆき、次第に巨大な丘の様相を現した。

 前の年の堅い葉をまとった常緑樹に覆われた山腹は湖の際に丸く張り出し、今度は湾曲した広い内側に水を抱くその中ごろで、立ち上がった岩盤で断ち切られたように色と形を変える。さらに近づくとそれは、切り石を積んで造られた城壁であった。

 水際を石で畳んだ百尋もの長さの埠頭と、岸から一定の幅をとって水中に打たれた波除けの杭の列との間を舟は進んだ。

 湖から見える城の下部は山腹から続く森に覆われている。山腹の中ほどの胸壁の上から庭木と見える花をつけたサンザシの枝が突き出し、木蔦の厚い幕があふれ出た上辺からびっしりと壁面を覆っている。

 埠頭を先へと行くと荷下ろし場の浅くて広い石段があり、その表は苔むし、流れ着いた朽葉や藻がたまっていた。崖の内に掘り込んで造られた倉庫の扉は、周辺を囲った柵の奥に、どれもぴたりと閉ざされている。埠頭のはずれに木の桟橋と直角に備えられた乗降用の大小の船着き場があったが、一部朽ちて傾いだその下には浮草が漂い、奥の壁に掘られた舟渠にいくつかの舟の影が静止している。

 先ほどよりも近い、城壁の下の森の中で烏が鳴いた。荷下ろし場に舟をつけ下ろしてくれた舟頭が湖面に小石を投げ、その音が烏の声に呼応する。

 倉庫の脇の傷んだ小屋の横に、崖を登る石段があり、舟渠の上をまっすぐ横切って、崖に沿って緩やかに小道が丘の左手を登っていく。道の上の山腹はまた木々が覆い、湖に臨んで開けた斜面には段になった果樹園があると見え、その上部の低く揃った果樹の列が丘の左奥に垣間見える。左に伸びる小道のはるか先にまたくねった石段が現れ、上段の森の間に消えている。

 埠頭に立ち、下からまっすぐ見上げると、頭上には丘の頂を巡る城郭が丸くその一部を迫り出している。こちらから見える胸壁に人影は無く、さらに上の遠くて細い窓の奥にも人のいる気配は無い。

挿絵(By みてみん)

「誰もいないようだわ。」

 振り返ると、舟はもう主の意思に沿って南西の沖へと遠のいていた。櫂の動きは急ぐふうも無く、しかし、舟は漕ぎ手の名のごとく速く水上を行った。

 倉庫の扉の前に頑丈に閉ざされた柵を眺め、次いで小屋の横の石段から崖の左へ通じる道を見やる。木立ちの間に紛れた、その先にも小道は続き、おそらく果樹園の下辺を回り込んで、どこかにたどり着くはずだ。どこか、城に通じる入り口に。

 倉庫、小屋、石段の登り口、そのすべてを閉ざし遮っている柵は六尺ばかりの高さだ。身体を滑り込ませる隙間は無いが、横木に手足をかけて登れそうだった。意を決して背にした背嚢を下ろし、向こう側に投げ込もうとした時、思いがけずすぐ頭の上で、

「ああ」

 烏のしわがれた声が人の言葉で言った。

「違う。入口は真反対だ。」

 少女は弾かれたように顔を上げ、小屋の、苔で緑色になった茅葺屋根の上に、まともに嘴のような高い鉤鼻、暗い顔色を覆う黒い髪、鋭く細められた黒い目を見た。

 飛びのいて背嚢をひっつかみ、埠頭の反対側へと駆けだした少女の後ろを笑いとも鳴き声ともつかぬ声が追いかけた。

右だ(アク)右だ(アク)!」

 少女の逃げる方へ声はけしかけるように言った。

東へ(ツイ ホズ)煙い北へ(ツイ キフ オズヒ)!」

 埠頭の端から、勾配の急な斜面へと木の根元に取りつき、登った。湖から見た瘤のように盛り上がった丘の形は、しかし、登れば程なくなだらかな斜面に出た。二丈ばかりの眼下に湖面が広がる。埠頭から見えた城郭は山腹の森の中に入ってしまうと全く見えない。いつしか登る方向を誤って離れてしまったのだろうか?

 東へ、北へ。あの烏の化物の言葉の通りにしてもいいのだろうか?

 さらに登ってゆくと下から見えていた、丘の中腹の木蔦の絡んだ胸壁が目の前にそそり立っていた。差し出された枝のサンザシの花もはっきりと見える。

 壁の切り石は大きく、色味の違うものが組み合わさっている。よく見ようと近づきかけて足を止める。―――もっと東へ。ここに入り口は無い―――壁の前には深い空堀があり、逆茂木が植えられていた。

 堀の外周に沿って回り、斜面の北をさらに一丈あまり上へと登ると、張り出した城郭の右へと長くのびる城壁が現れた。二丈あまりの壁の上には空が広がっている。郷全体を囲む城壁に辿り着いたのだった。

 城壁に沿って東の方へ行くと、さほど大きくない通用門があった。横合いから伸びて来た蔓にすっかり覆われて、長年使っている様子もない。門の前の地面には短く打たれた杭が等間隔で並び、斜面の下へと水平な段を作りながら下っていた。かつて荷揚げのために下の埠頭まで備えられていた木道が取り除かれた跡だ。この杭の列をもっと下の方で見つけていればここまで登って来るのはもっと容易だったろう。しかし、どのみち通用門は閉ざされていた。―――もっと東に行くしかない。

 城壁は湾曲しながら、突き出た丘の形に従って険しい崖のきりきり縁まで迫っている。そのわずかな際を回っていくと、足元は少しずつ広く前方に開けて来た。整えられた森と草地が広がり、渡る風には家畜の匂いと、わずかだが鼻をつく煙の匂いが混じっていた。

 人が暮らしている。ニクマラの郷はここにある。

 城壁の行く手に見張り台が見え、城壁の上には歩哨の姿も見える。

 少女は背嚢を担いだ上からマントを掛け直し、城壁の陰になる枯れ草の地面を歩いて行った。


 低い雲の下に吹く生温かい風は雨の匂いを運んできた。ニクマラの領内に入って半里もの道のりを丘を登りながら城門までたどり着いたひと固まりの人々は、しつこい煙の匂いを汚れた髪と服にまといつかせたまま、西の空から迫りくる嵐にせかされるように前へとにじり寄った。

「押すな。」

 ふたりの門衛が槍を交差してとどめた。

「並んで待て。」

 失意に満ちた顔を一瞥し、何度となく繰り返した言葉を言うと、相手は違えど同じ言葉が返る。

「ひどい災難から逃れて来たんだ。」

「並んでくれ。」すっかりしわがれた声を張り上げ、門衛は言った。

「縁者を頼って来た者は右に並べ。女子ども年寄りはその隣だ。男は左だ。」

 色めき立って詰め寄る二、三の男の後ろからひとりの女が細い声を振り絞っていった。

「あのう、姑を先に通してもらえませんかね。ここの内百姓の縁者でございますが。息子が先についているはず。」

 門衛は顎をしゃくった。

「右へここから六町、ふたつ目に百姓用の入り口がある。そこの門番が用を聞く」

 足を引く年寄りと嫁とが西の通用門へと急ぎ去ったその後に割り込むように、妻と子供を連れた男が門衛に詰め寄った。

「どうして家族と引き離す?どうして男だけ別にするんだ。」

「検問が済んだら会える」

 門衛は男たちを脇に並ばせて待たせ、郷に縁者がいるという者の名をひとりひとり尋ねて、門の小扉から順に中に入れた。門の内側からは時折、待ち構えていたらしい、城住まいの使用人が身内を迎える声が漏れ聞こえた。縁故を持たずにたどり着いた者たちはうなだれて門の脇に待った。

 やがて城の執事が兵をふたり従えてやって来た。

「主が事情を訊く。中へ入ってくれ」

 男たちは中に入り、その家族も呼ばれた。門番の後ろで再び小扉が閉じられ、身よりも知人もいない五人が後に残された。十三、四歳の少年がひとり、五十年配の小柄な女がひとり、六十半ば、半白の中背の老人、杖をつき妻と思しき老女に付き添われた老人。少し離れて小柄な少女がひとり。

 疲労をあらわにした一同の後ろに、道と脇の木立ちとの間でふらりと身軽な様子で立つ少女に目を留め、門番は避難民たちとの長い押し問答の間で今初めてその姿を見たように思い、改めてそちらに顔を向け、問いかけようとした。

 扉が内側から開き、執事が伴っていた兵のひとりが戻って来て呼ばわった。

「誰か、ここに内住まいの使用人だった者はいるか?襲われた館の主人の側に仕えていた者は?」

 半白の男が顔を上げ、前に出た。その傍らで女が慎ましく言いかけた。

「ここにいる者はみな内に仕えていた者でございます。この私の兄は館の蔵に勤めておりました。」

 老夫婦の妻も割り込むように声を張り上げた。

「私の夫は館の執事でございました。」

 兵は素早くふたりの老人を見比べ、年取った方の足がなかなか進まない様子を見て、若い方の老人を招じ入れた。

 当然のようにその後ろから付いて入ろうとしていた少年は門番に襟首を捕まえられた。

「待てよ。連れなのに入れんのか?」

 ぽつぽつと降りはじめた雨が煤に汚れた顔の上に流れ、筋を描いた。

「駄目と分かってりゃ、橋のところでトゥサ・ユルゴナスに行くかクシノンの村に行くかしていたのに。」

「過日の騒ぎについて詳しく話せる者を求めているのだ。」

「そんなもの、いくらでも話してやらぁ」少年は兵の足もとに唾を吐いた。

 女は門番に押し返された少年の肩に手を置いた。

「私どもは三日前に長年仕えていた家いら難を逃れて来ました。先にこちらに保護を求めて参った者がいるはず。」

 門番は後ろで戸が閉まったのを見届け、手短に女と老夫妻に話した。

 三日前の深夜にアツセワナの丘の上に大きな火の手が上がるのを見張りが見つけた。煙は一晩中上がり続け、平野の村人たちが家を飛び出して集まり、茫然と見入った。大きな家屋敷が丸ごと襲われ、火をかけられたのだ、方角から言って第三家か第五家だろう、と、主水路の向こうの村落まで様子を聞きに行った者が伝えた。明けた一昨日前の朝から、アツセワナから通じる公道、クノン・ツイ・クマラから次々と避難民がニクマラの郷に逃れて来ていた。昨日の晩までにアツセワナの街の職人や家の使用人や作人、女子どもを含む二十八人もの者が逃れて来た。執事以上の身分の者はおらず、皆、取り乱して受け答えの要領を得ず、ニクマラの領主は事件の詳しい情報を欲しているのだ。

「私どもは第五家(カヤ・ローキ)の者でございます。」女ははっきりと答えた。

「その事さえもまだ伝わっていないので?三日前の晩、邸が“青頭巾”の匪賊団に襲われました。お館様も殺され、逗留していたお客人の留守の家臣に至るまで殺されました。私どもは一晩地下室で凌ぎ、その後、それぞれつてのあるものからイビスへ、あるいは主水路(アックシノン)の村や、トゥサ・ユルゴナスへと逃れました。足の悪い者がおりますので先ず一番近い第三家(カヤ・アーキ)を頼ったのでございますが、そこでも既にお邸を捨てて、丘の上の新市街(アクス・タ・ソレ)に逃れて行かれたようでしたのでね。」

 そっと近づいて来ていた少女が女の言葉に耳を傾けていた。が、みるみるその目が大きく見開らき、より懸命に聞こうと門の脇に寄って来た。門番はそちらに顔を向け、素早く尋ねた。

「お前。お前はどこから来た。(なり)が皆とは違うな。」

 少女は鋭敏な円らな目を彼に向けた。驚いて身をすくめる様子をしたが、刻々とその居ずまいには落ちつきが戻って来た。古風で簡素なつくりの服装だったが、生地と仕立てがしっかりとした外套と服と靴にぴったりと身を包み、後ろにのけた頭巾の下からきちんと分けた栗色の髪と、丸い引き締まった顔が現れた。マントの襟元の下に、近頃では珍しい赤い染料で染めた胴着がのぞいている。

「こんな奴は知らない。」少年が振り向いて叫んだ。「なんだこいつ―――混血だ。ヨレイルじゃないか。それとも―――」

 少年は口を思い切り両横に引き、次いで唇を内に巻き込んで閉じたと思うと、何かを吐き捨てるように開けて見せた。

 少女はつんと顎を上げて軽蔑の素振りをし、妻に支えられて立っていた老人が少年を見、怒りに生気を得たように声を震わせて言った。

「黙れ。何を言うんだ。ここは王の忠臣だった方の領内だ。保護を頼むにそのような無礼は許されん。」

「王、王って誰だよ。」少年は老人に聞かれないように声をひそめて毒づき、少女を睨んだ。

「お前誰だよ?お前なんかカヤ・ローキにはいなかったぞ。」

 少女は門番に向き直った。

「ここはニクマラの殿、ミオイル様のお館の門前と存じ上げます。私はクマラ・オロの源のひとつ、ベレ・イナの水に縁の者でございます。昨今奉公先を求め、親元から旅立ってまいりました。名は(アニ)でございます。」

 小柄な少女はきちんと足を揃えて礼をした。あっけに取られている門番を見て、老人は咳き込みながら乾いた声で笑った。少女は振り向き、老人の曲がった背やくたびれた服装を次第に本降りになってきた雨が濡らすのを、先ほどとは打って変わった子供らしい心配そうな顔で見た。

「この子は別件で訪ねて来られたようだ。」老人は門番に言った。

「古来の言い方で奉公の申し込みをしに来たのだ。分かる年寄りに来てもらいなさるといい。」

 門番はけむに巻かれたように老人と少女とを交互に見た。ずっと続く城壁と牧場との間の森から微かに烏の鳴く声が断続的に聞こえていた。少女は前よりも少し上目づかいに口元を引き締めて返答を待っている。

 しばらくしてまた戸が開き、四十ばかりと見える、がっちりとした中背の、温厚な顔つきの男が出てきた。少女は何かほっとしたように肩の力を抜いた。男は一同にうなずきかけた。

「どうぞ中へ。ここでは雨に濡れる。近くの休めるところへ案内いたしましょう。」


 四人の避難者と少女とは、門の内に通され、そこからまだ一町ほど道を行った、小径が横合いへと引き込んでいった木立ちと池に囲われた小ぎれいな家に通された。炉のある居間の周りに小部屋が設けてあり、炉の前の卓も椅子も彫刻を施した立派なものだった。壁にはつづれ織りの壁掛けが下がっていた。 

 中に入ると老人は力尽きたように倒れ、案内の男は少年の手を借りて、小部屋の寝台へと老人とその妻とを運んだ。男は薪と食べ物を届けると約束して出て行った。

 少女は暗い居間に出てきて注意深く見回した。小部屋は四つあり、炉の脇の壁掛けで隠された反対側には煮炊きの出来る小さな土間がある。ただ、薪棚は空で、釣り燭台に蝋燭は無く、家のどこもかしこも冷えていた。

 老人の寝かされた部屋にすばやく戻ると、皆は足を揉んだり手をさすったりして老人を介抱していた。老人は口を開けたり閉めたりして舌で唇をなめている。

 少女は気付いて背嚢を下ろし水筒を出すと、老人の傍らに跪いている女に差し出した。女は驚いて受け取ると老人の妻に水を渡し、自らは老人の肩を抱えてそっと起こした。妻が少しずつその唇に水を注いだ。少女は来ていたマントを老人に掛けた。老人の足を揉んでいた少年が目を上げて彼女を見た。その足は汚れ、皮が擦り剝けていた。

 やがて男が薪の束と食べ物の入った籠を持って戻って来た。少女は籠を卓に置いて炉に火を焚こうとしている男に、きれいな水と(たらい)を持って来てくれるように頼んだ。男が取りに行っている間に少女は炉に火を熾した。

「水が来たら、皆さん、傷を洗って。足もよ。」少女は背嚢から血止めの蒲黄と軟膏、包帯を取り出して言った。

「人前で足を出すなんてとんでもない。」

 老女が首を振ったが、女は言った。

「ありがたいわ。足を洗えばよく休めるものね。」

 水を持って来た男に少女は、この家は誰のものか、領主の館はまだ遠いのか、と尋ねた。

「ここは賓客のための宿泊所だ。外からの使者を泊めるところだ。館はもう三町先だ。領主の貴賓、縁者でなければそこには泊められない。」

「まだ三町も先なの!」老女はしわがれた声で言った。「で、私たちは二クマラの主様にお目通りできないの?」

「いずれそのうちに。」男は表に目をやった。「この雨風だ。じきに嵐になる。今日はここで休んでください。食べ物も薪も十分にあるはずだ。寝具は南の部屋、敷布は箪笥にある。」

「先に着いた者たちはどうなりました?」女が尋ねた。

「知己、縁者のいる者はそれぞれの家に迎えられた。あるいは職人たちの宿舎にいる。男たちは広間で主の尋問に答え、その場で休んでいる。悪いが、事態が事態なので出入りを厳しくしている。」

 女はやや面を堅くした。

「尋問?私の兄は、求められて事情をお話するだけでなくお取り調べを受けているのですか?もしそうなら、それはもう済みましたでしょうか?」

「兄上、というのは?」男は一同を見回した。

「ひと足先に執事だという方が連れていきました、第五家(カヤ・ローキ)で蔵の会計をしていた者です。」

「執事の家は暖かいはずだ。」男は思い出しながら言った。「明日には会えるだろう。」

 老人と少年の足に包帯を巻き終わると、少女はいっそう激しくなった雨風の中に帰って行こうとしている男を追いかけて行き、尋ねた。

「客人の宿泊所という事は、昔、東からの旅人を泊めていた宿駅だったのですか、ここは?」

「変わったことを訊く子だ」

 男は少女の身形に目を留め、奇妙に人懐こい茶色の瞳を見て言った。

「門番がひとり変わった子が混じっていると言っていたな。」

「仕事を求めて来たんです。」少女は真面目に言った。「一宿一飯と物語の引き換えに。」

「それも返事は明日だ。―――宿駅は丘のずっと下の森の奥に入って行ったところにあった。あんたが生まれる前くらいまではな。そんなことを訊くからにはあんたはコタ・ラートのこちら側の生まれじゃないな。」

 男は奥に目をやって声を落とした。「人と話す時は“東”の話に気をつけたほうがいい。」

 男は戸を開けた。まだ日中だというのに薄黒く雲に押しつぶされた空から雨が猛烈に振り、風が唸っていた。閂を掛けるように、という男の声の半ばで扉は風におされてばたんと閉まった。


「イネ、こちらに来て火におあたり。あなたがおこしてくれた火ですもの、そして何か皆でいただきましょう。」女が卓の籠から食べ物を取り出しながら声をかけた。

「屋根と食べ物の恩恵を分け合いましょう。物語を求めているんですって?そう、あなたのお薬のお礼に私たちが返せるものといったらそれくらいかしらね。」

 パン、チーズ、よく保存された林檎、それらを切り分ける小刀、そして酒の瓶。改めた内容に満足したように声が和らぎ、そして残念そうに付け足された。

「あいにく、今はいい話をしてあげられそうにもないけれど。」

 少女は女を手伝って小部屋にいる老夫妻に食べ物と酒を持って行き、離れて炉の端の床に座り込んでいる少年にもチーズをのせたパンを渡し、戻って来ると女の向いに座った。

「私はコタ・ラートの向こうからやって来たの。ニクマラに来たのも初めてだし、皆さんに何が起こったのかも知らないの。―――アツセワナがここからどれほど遠いのかも知らないわ。私がコタ・ラートを渡ったのは一昨日の朝よ。その前の晩、アツセワナで何があったのか話してくださいな。」

 女は奥の部屋とに気兼ねしながらゆっくりと話した。

「私たちは皆、第五家(カヤ・ローキ)から来たの。分かる?アツセワナでも由緒あると言われる家よ。若い子達はアツセワナに王様がいらした事なんて知らないわね。だけど、十七年前には王様はいらしたし、この王様と先代様はアツセワナどころか、コタ・ラートの向こうまでも治めていらっしゃった。ご先祖の血筋は第一家(カヤ・ミオ)で、一族は、アツセワナの第三家(カヤ・アーキ)第五家(カヤ・ローキ)、ここニクマラ、そしてコタ・ラートの向こうのコセーナの郷とも縁戚だった。

「そしてアツセワナには他にも、早くから第一家の臣下に下った第二家(カヤ・ツル)、主が謀反をおこして討伐され滅んだ第四家(カヤ・ユツル)があった。丘の上で、第一家から第五家といえば、その昔、互選で王を出していた時代に常に代々の領主が議会に席を連ねるほどの家柄だったの。

「私たちがお仕えしていたのはその中の第五家でね、最近では王様も出ていなければ王家との婚姻もなかったけれども、宰相だったトゥルカン様に嫁いだ方のご実家だし、私の子供の時分にはお嬢様が第三家(カヤ・アーキ)のアッカシュ様に嫁いで行かれたわね。その第五家で、隣で休んでおられるお年寄りは昔、執事だったし、私の兄は蔵に勤める出納係。私は若い頃からご一家の女のかたがたにお仕えしていたけれど、早くから女っけの無い家になってしまったからね、三日前までは女中頭でしたよ。そこにいる子は内百姓の子で、帳場の見習いになるために字を習いに来ていた子ね。」

 少年は火の側で耳をそばだてている。女は話を続けた。

「先代様が亡くなって寡の弟御が跡目を継いでからというもの、家には母御の実家だというのでアガムン様がよく出入りするようになり、ご家来を連れて何日も逗留なさっていた。お金は払ってくださるし、お館様がご意見されないものを、私たちが締め出すわけにはいかないのだけど、正直に言って、やり繰りが大変でしたよ。アガムン様が連れて来る者の中には随分がらの悪い者たちもいましたからね。

「この何年か、巷では青頭巾と呼ばれる匪賊団が近隣の村を荒らして恐れられていた。私たちのところでも薄々その噂は伝わっていましたよ。だけど、大きな声では言えなかった。今となっては明らかなことだけれども、家にやって来て長逗留している者たちこそそうではないかと皆気付いていましたからね。他がこまごまと襲われているのに、さして警護の厳しいわけでないカヤ・ローキだけが狼藉から免れていたのですものね。

 この災難の起るほんの少し前までもね、アガムン様が御家来衆を連れてきていました。もう一月ものご逗留だった。家の者を自分の召使のように指図なさって、旅の用意をなさっていた。行く先の事は私たち使用人には何も告げてはくださらない、だけど、随分前からどなたを娶るつもりかという事は、館でも、また北のお隣のイビスでもさんざん吹聴なさっていましたからね。

「私たち、年取った者たちにはわかっていましたとも。コタ・ラートを渡ってコセーナに行くのだとね。」

 女は卓越しに少女をじっと見つめた。

「コタ・レイナ州のコセーナはアツセワナの五家に勝り劣りのない大きな郷があり、なかでもコセーナは王家と太い血のつながりがあります。私たちは、アガムン様が、先王の亡きあとコセーナに身を寄せた王女ロサリス様をお連れになりに行ったのだと気付いていました。」

「あいつら、ひと月の間ずっと、百姓家に分宿していたんだ。青頭巾の奴ら、元門(タキリ・カミョ)の界隈をいつも占領してて、仕事にも行けなかった。」

 火の前で座っていた少年が突然、怒ってまくしたてた。

「納屋を取って、道具を出しに入るのも許してくれなかった。馬で農地に乗り込んで来るかと思えば、他所から誰かを連れ込んだり、こそこそしやがって。客の家来衆も一緒になって出たり入ったりしていた。仲間だと思っていた。」

「だから、なおのこと彼らが襲いかかってくるとは思わなかったのよ。使われているのを口惜しく思いながら、どこか私たちは安全だと思っていたものね。」

「なにが安全さ?」少年は険悪に言ったが、それきり火を向いて黙った。

「ともあれ、領内に滞在していた者たちが、よもや宿主になっている館を襲うような事だけはあるまい、と、少なくとも内で奉公している私たちは思っていたの。なのに三日前、アガムン様が家来衆を連れて出発されて一時も経たないうちに、館のほうぼうを好きに出入りしていた連中が一斉に戸という戸をあけ放ち、それを合図に武装した者たちが押し入って来て、あろうことか、留守番に残っていたアガムン様の家来を残らず殺し、家の中で抵抗した者を手始めに、しまいには逃げ回る召使を手当たり次第に手に掛け、館には火をかけた。」

 女は両手で口を押え、顔を伏せた。

「お館様も手傷を負ったままお部屋に閉じ込められ焼かれてしまった。」

 少年はとげとげしく言った。

「あいつらは納屋でずっと相談ごとをしていたよ。そして、首領が青い覆面頭巾を被って、他のも青い頭巾やら頬かむりやらで武器を持っていちどきに出て来たよ。真っ先に出て来た納屋を焼いたんだ。それで驚いて出て来た者を片端から殺し、その後で館から聞こえた声を合図にして、そっちに向かって行った。おれは元門(タキリ・カミョ)の北の古い城壁と城壁のどん詰まりに隠れていたんだ。奴らがまた、今度は馬に乗って元門(タキリ・カミョ)を出て丘を下っていくまで。厩の馬をみんな引き出して乗って行ってしまった。城壁の上から見たら、環状道路(カマカエノン)のところでクノン・エファの方に曲がって行った。」

挿絵(By みてみん)

「アガムン様が家来を連れて行かれた方ね。」女は言葉を継いだ。

「私たちは一晩たってから、助けを求めて第三家に行ったけれど、お邸の者は皆、夜のうちに新市街(アクス・タ・ソレ)の方へ登って行ったようだった。旧市街(アクス・タ・コエ)には大きな家はもう残っていないからね。私たちが新門(タキリ・ソレ)に辿り着いた時には、第三家の遅れて出た家畜番たちが、門から羊の群れを下の農地に連れて行くところだった。アックシノンの村まで連れて行け、というご命令だったそうよ。」女は首を振った。「一緒に逃げて来た使用人でそちらに付いて行った者もいる。受け入れてもらえればいいけれど。」

 少女は、卓の向いで顎の下に両手を握り合わせて黙りこくっていた。しかし、瞼の下で茶色の瞳が何かを懸命に思い出そうとしてくるくると動いていた。

「気分の良くなる話じゃないわね。」女は言ってため息をついた。

「いいえ」少女は短く言った。

「何か心配ごとがあるような顔をしているわ。」女はいたわるように言った。「それとも、何か思い出したのかしら。」

「いいえ」少女は椅子の上にぴんと背筋を伸ばした。「話をありがとうございます。」

 そして皆の注意がまだ自分の方に向けられている間に主題を変えようと決心したように、顔をめぐらして火の明かりのみが照らす暗い室内を見回した。そして丸い頬をくいと傾けて雨の音に耳をすました。

「かなり降っているわ。―――ニクマラは丘の上だからこの水はみんな小さな川になって繋がって、ほどなくクマラ・オロに流れていくのね。水の旅は短いわ―――今度は私がお話をするわね。」

 少女は水筒から一口飲むと、火の前で膝を抱えた少年を見、奥の部屋の老夫婦を見、静かに待つ女の方を見た。

「長い旅をする水コタ・イネセイナ、そこからわかれたコタ・ラートにまつわる物語を。水に乗ってもたらされるさまざまの良いものの話を。そして別の水の流れとそれがもたらすものが、ここニクマラの丘の下に広がるクマラ・オロに辿り着きひとつになるということを。私の母の河、私が生まれ育った土地、皆さんのアツセワナはみんなその途上にあるわ。」


   遠い北の地からやって来た三兄弟の末っ子と筏に乗った乙女と大きな蛇の物語


 昔、はるか北に連なる山脈を越え、瞳の明るい三兄弟がやって来た。兄弟は姉神(ベレ・イナ)の額からうねり下る髪の裾野まで辿り着くとそれぞれに行く道を定めた。

 西には油断のならぬイネ・セ・イナ河が南へと太い腹を長々と横たえ、西の果てに妹神(ベレ・イネ)、東の果てに姉神(ベレ・イナ)がある他は、行方も知らぬ深い森が広がっていた。

 用心深く堅実な長兄はイネ・セ・イナの奔流と森の深い懐を避けて程よい高地にとどまり、家を建てた。

 勇敢で冒険好きの次兄はエファレイナズの森深くに分け入って行った。末っ子はどうしようとも心に決めかねたまま、イネ・セ・イナの脇を下って行った。

 イネ・セ・イナの太い腹を辿って行くと、その胴はますます太くなり、その先では大蛇の顔が口を開け、ざあざあと水を吐いていた。末っ子は蛇の顔を避けて岸辺の堅い岩の上に登り、夕刻になったので休むことにした。

 蛇の吐く水はきらきらと金色に輝いた。末っ子が見とれていると、蛇はつと顔を寄せてきて、向こう岸に渡らないかと囁いた。わしが頭に乗せてやる、向こう岸には宝があるぞ。

 末っ子は蛇の機嫌を損ねぬように曖昧に微笑みながら、それでもはっきりとかぶりを振った。蛇は向こう岸を向いて黄金を吐き、流れ下る濁流の末端で尾を振ってこちらに泥をはねてよこした。

 末っ子はひょいと脇によけると蛇の寄越した泥を足でとんとんと踏み固めた。そうして翌朝また下った。

 蛇は毎夕同じことを尋ね、毎回向こう側に金を、こちらに泥をよこして泳ぎ下って行った。末っ子は必ずそれを踏み固めて蛇と自分の間の堤にした。

 蛇が去ると末っ子は堤の上に腰掛けた。蛇が通り抜けた夜は澄み渡り、妹神は雲のベールを脱いで端座していた。末っ子はにこにこしながら膝を打って歌った。

   

   向こうに座らっしゃる娘御は お天道さんに見られまいと

   しとやかに面を隠しておられたが

   色男が行っちまえば ひとりでお洒落を楽しみなさる

   裳裾に金をちりばめちゃ 御髪を星で飾ったり

   おれはお姿拝むだけ

   蛇が渡してくれるとて あまりに高嶺の花だもの 


 末っ子の歌声は森の木のあちこちにぶつかり、ぶつかった幹元から木霊(ヨレイル)がひょっこりと顔を出した。末っ子は薄闇にきらりと光る眼を見ないように背を向けた。ヨレイルは堤に木の実を植え付け、それが根を張り、岸を強固にした。

 末っ子はなおも下って行った。蛇は毎日通り過ぎた。時には頭の上に何かを載せていた。それは大きな筏だった。筏には人や動物が載っていた。蛇は時々ふらふらと頭を巡らせ、筏の上から何かしら振るい落として獲物をぱくりと飲み込んだ。

 末っ子は怒って地団駄踏んだ。蛇は堤の足元に顔先を近づけせせら笑った。しかし、末っ子は堤を踏んで崩しはしなかった。筏を載せた蛇は通り過ぎ、水の引いた岸辺はより深く切り立った。

 ある日、末っ子は寂しくなった。草木の芽吹く春のことだった。仲間も連れ合いもいないのは彼ひとりだった。

 河を見やると蛇が大きな筏を運んでいた。たくさんの人間や家畜がその上に載っていた。中には可愛らしい娘もいた。娘は彼よりもさらに明るい髪と目をしていた。末っ子の胸はきゅっと締め付けられた。岸にとどまっている限り彼は何も手に入れられないのだ。

 蛇はいつも通り筏を食おうと沈みはじめた。末っ子は初めて怒って片足を堤の上に掛けて端を崩し、土くれをつかんで蛇めがけて投げつけた。蛇は慌てふためき、隠れようとした。そうして向こう岸に自分が吐いて積み上げた黄金の砂州の向こうに逃げ込んだ。砂州はひと息に乗り越えるには大きすぎ、蛇はあまりに慌てていたので、自分の半身を少しこちらに残していった。

 この時残った小さいほうの蛇が後のコタ・ラート(背川)である。

 コタ・ラートは踏み抜いた堤の端から流れ込んでとぐろを巻いてとどまり、クマラ・オロ(広い湖)となった。

 ところで蛇が飲もうとしていた筏は、砂州の湖の近く(ニクマラ)に乗り上げていた。人々は向こう岸に下り、娘も岸に下りた。

 大蛇が積み上げて残していった土地は小高い丘陵地になっており、蛇の口を逃れて流れ着いた人々がいくつもの村をつくっていた。ひとつの村から立派な牛の群れを連れた若者が丘を下りて来て娘を見初め、村へと連れて行った。

 新たに出来た河は末っ子のいる岸と娘の下りた岸の間を流れていた。そしてかつての大蛇ほどではないが、絶えずくねりながら土を寄せながら太い胴を横たえていた。

 末っ子は始めて東の森に顔を向けた。森の木の陰から小柄で滑らかな褐色の肌と艶やかな黒髪の木霊(ヨレイル)が人懐こい目をして差し招いていた。末っ子は思い切って森の中に入って行った。末っ子はヨレイルがくれた木の芽の匂いを嗅いだ。青く清々しい匂いだった。末っ子はヨレイルと一緒に焚火を囲み、(ヨーレ)を歌った。

 夜が明けて見ると、ヨレイルは小柄だが等し並みの人間の娘に見えた。ヨレイルは末っ子の手を取り森の奥へと走って行った。驚いたことに程なく前方が空いて明るく開け、河が優美に流れていた。向こう岸にはこちらと同じように森が広がっている。これが妹川(コタ・レイナ)であった。

 末っ子とヨレイルの娘はそのまま歩いて河沿いを下って行った。両側から静かに水の流れる音が迫り、終に目の前が開けた。ふたりの立っているのは小高い丘を下って行ったはずれで、両側から流れて来た川がひとつとなった大きな流れが、木立ちと草地の帯がまだらに彩る湿原へと吸い込まれて行った。背川(コタ・ラート)妹川(コタ・レイナ)の合流点であった。末っ子はそこで旅を終えた。

 末っ子は畑にする土地を探した。森はいずれも立派な大木が揃い、末っ子の持っているちっぽけな斧では太い幹に埋もれ、手からもぎ取られてしまうほどだった。ヨレイルが、年老いた大木が枯れ、倒れて、梢の陰の取り払われた周りに光の射しこんでいる場所を見つけた。辺りには実生の苗木が育っていた。ヨレイルは幹の上に飛び上がり、歌い、踊って、古木の大きさを讃え、後に育つ若木が親に負けない立派な木になるように祈念した。

 末っ子は斧を振るって古木を割り、ヨレイルはその薪を焼いて、灰を均し、そこに一本の木を植えた。末っ子は持って来た粟を植えた。ヨレイルは木の育つのを眺め、末っ子は粟が育ち、木を追い抜くのを見て笑った。末っ子は五、六度もこうして勝ちを楽しんだが、やがて、若木が粟の穂を越えるほどに育つと、ヨレイルは粟の根を掘り起こして焼き、木はそのままにして次の枯れ木を探しに行った。

 末っ子は故郷を思い出して小さな家を作った。雨が降ると小さな家の土台は水に浸った。末っ子は家の土台を高く上げた。

 小さな家は水面に浮かんでいるかのようだった。湿原は湖になり、木立ちは小さな島々になって残った。森には無数の水路が出来、その間を大きな背びれをのぞかせて魚が行き来した。末っ子は、魚の背の影が家の横を通るさまを眺めていたが、ヨレイルはその影を恐れて(かみ)の森へと逃れて行った。

 末っ子は高台までヨレイルを呼びに行ったが、娘は戻ってこなかった。そして、彼のもとには赤ん坊がひとり残された。

 雨が止むと青空が広がり、コタ・レイナはきらきらと煌めいた。きれいな大きな魚が列をなして河を遡って行った。

 魚はやがて背中に何かを載せて下って来た。一匹目の魚は、金色の羽虫がぶんぶんと唸っている洞のある木の株を運んでいた。洞の中には甘いにおいを放つ蜂蜜の溢れそうな蜂の巣があった。二匹目の魚は、故郷にあったのと同じ林檎の実を山盛りに運んでいた。中でもよく熟れた実の中から取り分けた種は、のちに苗木に育ち、堤に植えると立派な木に育ち実をつけた。末っ子は、別れて来た兄たちがコタ・レイナの上流で腰を落ち着け、うまくやっている便りを受け取った。

 三匹目の魚は花の冠を頭に載せていた。末っ子は魚に近づいて行った。と、魚は末っ子の手をくわえ、水の中に引き込んだ。魚は娘の姿になり、末っ子と、コタ・ラートとコタ・レイナの水の混じった先を一緒に泳いだ。湿原の島のひとつに上がると、末っ子と娘は捕まえた魚を分け合って食べた。

 その時、男は家の方で赤ん坊が腹を空かせて泣くのを聞いた。男は河を泳いで家に戻った。赤ん坊が何を与えても食べられないので困っていると、魚の娘は陸の上にあがって来た。男はその腕に赤ん坊をゆだねた。娘は赤ん坊を水できれいに洗い、授乳した。女は毎日やって来て、そのうち赤ん坊はふたりになり、年上の子が乳離れする頃にはもうひとり増え、という具合に子供はどんどん増えていった。

 毎年春から夏にかけて河が水かさを増すと、湿原の東から大きな魚がやって来た。男の妻はその魚を(ハヤ)と呼んだ。(ハヤ)は様々のものを運んできた。大きな獣の皮や良い匂いのする木の皮、立派な白檜や黒檜の丸太を、何匹もの鼻先で押してくることもあった。男は、舟人の求める代価が手元にあれば気に入ったものを買い取った。無ければそのまま見送った。舟はコタ・レイナを遡り、遠い兄弟たちが拓いた土地の収穫物を載せて戻って来た。

 子供たちが大きくなると舟と一緒に北へ西へと出かけて行き、ある者は行った先に腰を落ち着け、ある者は連れ合いを伴って戻って来た。ひとり目の息子は“大麦”と呼ばれる娘を、ふたり目の息子は“蕎麦”と呼ばれる娘を連れて来た。

 コタ・ラートの蛇は今も時々やって来る。だが、もう人をさらっていくことは無い。ふたつの河の淵の間(エフトプ)を治める男とその息子たちは、高く築いた屋敷の周りに田を作り、湿地の島をつないで堤をつくり、水路を掘って巡らし、もし、蛇が昔のことを思い出して暴れに来たら、入り組んだ堤の内に誘い込んで閉じこめ、他で飲み込んで来た豊かなお宝を吐き出すまで決して逃がさなかったからだ。


「コタ・レイナには古くから三つの郷があり、元々の土地に住んでいた者の血を受け入れて家柄をつくっていったのだ。三兄弟とはよく言ったものだな。」

 弱いがしっかりとした声が言った。少女は立って老人の側に行った。小部屋の壁に炉の光線が遮られ、熱も光も届かず、寝台の上は冷たかった。少女は炉に戻った。薪棚の下に煉瓦が三つ四つあった。少女はそれを炉の焼き床に置き、南の部屋から毛布を見つけてきて老人のもとに戻って来、その身体をくるんだ。

「こいつ、頭がおかしいや。河が蛇だとか、魚が荷物を運んで来るとか、魚と結婚するとか。」

 腕の中に顔を埋めるふりをして少女の動きを目で追いながら少年は聞こえるように言った。

「昔話ではよく()()()を使うのよ。」女は声を低めて少年に言った。「あんたもここに来てお座り。」

「アツセワナに人が来る前から、コタ・シアナの水の民は舟を操り、コタ・レイナ、クマラ・オロを自由に行き来していた。」

 咳をし、ひと区切りずつ言葉を休みながら、老人は言った。

「コタ・レイナに三つの郷が出来、ニクマラに人が住むようになってからは、遠いイナ・サラミアスから物の交換のために舟が行き来するようになったのだ。コタ・シアナの舟人と舟とはあたかも一尾の魚のように一体だ、とアツセワナの商人たちは言っていた。」

「エフトプのご先祖の息子さんたちが“大麦”と“蕎麦”を妻に娶ったというのは、私たちのお館の紋章の言われと似ているわ。」老人の妻が不意に言った。

「私たち、第五家は、年寄りの間では“エンドウ豆”と呼ばれていましたよ。」

 女は老女に小さく相槌を打ち、興味深げに少女を見た。

「子供の時分、昔話を聞きましたね。アツセワナの丘の麓で先祖らが住みはじめた時に、よく洪水に悩まされていたが、コタ・イネセイナは宝も運んできた。肥えた土も、不思議な種を持った女の子も。その話では女の子は赤ん坊で、手に種を握って盥に乗って流れて来たんですよ。」

「それは新手の話ね。」老女はわずかに負けん気を見せて言った。

「私の聞いたところでは、アツセワナのご先祖がニクマラから嫁を貰って五人の息子を産んだのだということでしたよ。上から、麦、稗、胡麻、そら豆、エンドウ豆というのですよ。それぞれ、第一家から第五家までになったんです。」

「そうそう」老女をなだめるように女は言葉を継いだ。

「その通りでした。他にイビスは黍で。」

「どこの家にもそっくりな話が残っているのよ。その作物のお陰でどんなに人々が救われたか。どんなにその家の父祖が豊かになったか。―――どちらの話が本家本元かということでお隣の子供と喧嘩になるくらいでね。」

 老女が悔しそうにとりとめもない昔の諍いのことを口説きはじめた下で、女は言いにくそうにそっと声を低めて少女に言った。

「女の子の息子たちはそれぞれの種子を育てるのに秀でていたのです。女の子はもうひとり、出来の悪い子を産みました。本当は大事な子だったのですけれど、その子を実家のニクマラに残していったという話でした。」

 少女は寝台の脇から立ち上がり、目をくるくるさせて炉辺に戻った。

「面白そうだわ。昔話は、人によって違うところが一番面白いわ。」

「いずれ後でね。」女は老人たちを気遣って、素早く横切る姿に小声で囁いた。

 少女は炉で温めていた煉瓦を布にくるみ、これで少し暖かくなるかしら、と言って横になった老人の足元に置いた。

「アツセワナの五つの家が揃ってコタ・イネセイナの流域を耕していたのも、水の民が東西南北を縦横に行き来し、様々の郷の品々を運んでいたのも、思えば遥か昔のことだ。」

 老人は目を細くし、ゆっくりと思い出しながら言った。

「わしの若い頃には第一家、第三家、第五家は拮抗し、コタ・イネセイナとコタ・ラートの間に水路が拓かれ、農地は広がり収益をあげて大いに栄えていた。また、水の民の舟ばかりではない、高価な品を携えた東からの客人が王のもとに訪れるようになったんだ。そうだな、もう……。」老人は考え込んだ。

「四十年近い昔?」少女は言葉をそえた。

 老人は目を開け、ふたりの女もこちらを見た。卓の端に腰掛けた少年だけが歌のように節をつけて言い続けている。

でたらめだ、でたらめだ、でたらめだ……

「お黙りよ。」老女が叱りつけ、少年はふつりと黙り込んで卓から下り、その下に座り込んだ。

「でたらめというほどじゃないわ、いろいろ繋げたけれど。」少女は、老人の襟元まで毛布を掛け、帰って来ながら言った。

「それにお話は釣り糸のようなものだわ。端を投げてやると少しずつ顔の違ったお話が次々に食いついて来る、そのどれもが真実よ―――それが嘘だとしても。嘘は隠された傷で、触れられたくない痛み。それとも必死でつくりあげた希望―――嘘は嘘なりにどこかに真実があるのよ。」

 女は首を傾けて少女を見つめ、ややあって言った。 

「それで、イネ、あんたはその話の()()()()()から来たの?」

「魚よ。」少女は答えた。「私は魚に乗ってやって来た(アニ)。」

(アニ)―――すずめっちょ」少年は呟いた。


 その晩も、女は渡された食糧を用心して少しずつ皆に分配したが、朝になると昨日の男がやって来た。

「執事があなた方に会う。」

 戸の閂を外して出迎えた女に男は言った。

「おじいさんに熱があるんです。」アニは言った。

 老人と妻はそこにいてもいい、後で施療師に来させるから、と男は言い、女と少年とアニを外に案内した。

挿絵(By みてみん)

 道は、両脇にカシの木を植えて矩形を描くように曲がり、まだ三町先という城の入り口を一町手前を切るまで隠していたが、カシの木立ちの奥には若葉をつけた落葉樹の梢が見え、さらに奥に草地、菜園を囲う生垣と見える低い藪が連なっていた。最後の緩い湾曲を抜けると真っ直ぐに伸びた道の果てにだしぬけに城の中郭の門が現れた。男は門扉の小さい木戸を開け、三人を通した。

「ご領主の館はあのお城の中でしょうか?随分と大きいわ。」

 少女は、家臣の家々の向こうに、奥に大きく湾曲して聳える主郭を見て言った。ついて来た少年は馬鹿にしたように肩をすくめ、男が答えた。

「あれは使用人たちが住む棟だ。あの中は―――」男は入って来た門のあるぐるりの城壁を顎でしゃくって言った。「兵が寝起きもする。殿の館は城の奥だ。」

「それでも大きいわ。コセーナよりも。」呟く少女の声は半ば口の中に消えた。

「館の南は湖に面している。高くて見晴らしがいいそうだ―――内の召使でもなかなか入れん。殿か奥方の側仕えでもなければ。」

 男は門扉を入ったところに並ぶ家臣の家の中でも中央の大きな家に一同を案内し、取次に用件を言い、自分はこれから仕事があるからと、入って来た門とは反対の、地面を均した広場のある方へと去って行った。

広い応接の間には大きな炉があったが、火は焚かれておらず、中は冷えていた。壁に沿って作られた腰掛けに男女子ども数人がうなだれて腰をおろしていた。女は年取った兄を中に探そうとして壁の周を回ったが、昨日別れた兄の姿はなかった。

 やがて、執事が部下をひとり伴って現れた。執事はぐるりと室内を見回し、女と、少年、少女を目に留めると、椅子に掛け、自分の前を指して言った。

「まだ話を聞いていない者、ここに来てくれ。これから領内に留まることを望む者には名を記録してもらう。他に移るつもりだが休息のため暫しの滞在を願う者、宿と食事の代価または引き換えに提供できる仕事を申し出てくれ。そののち、宿と持ち場を決め、案内する。」

 執事の部下は小卓につき、帳面と筆を用意し、昨日から来ていた者から順に名を聞き、記録をした。

 執事は新たに来た三人を順に呼び寄せ、簡単に身の上と仕事を訊いた。

「私は内で奥様、お嬢様に仕えておりました。近年は女中頭をしておりました。」

「内で働く者の手は足りている。」執事はそっけなく言った。

 女を脇に待たせ、次に少年が呼ばれ、名と仕事を訊かれた。女はアドルナといい、少年はキブと言った。最後に執事は少女を手招いた。

「何が出来る?」尋ねかけて、執事は少女の身形と顔立ちに目を留め、傍らの男と目を交わして言った。

「どこから来た。齢は?若い娘が奉公するような場所も無ければ宿もないが、嫁に行く気はあるか?」

 少女はマントですっぽり覆った肩を小鳥のようにぶるっと震わせると、真っ直ぐに執事を見返して言った。

「私はお嫁の口を探しに来たのではありません。求めているものは、歌の種にする物語。もうひとつは旅を続けるための宿と食事です。私は代価として仕事をすることが出来ますし、仕事によって増やせる穀物、実物、葉物などの種物も一緒に持っています。許されるならば、一季留まって種を何倍にもして更新し、借地のお代を払いますし、まもなく訪れる夏に向かって、稲田の植え付け、燕麦、蕎麦の蒔きつけ、羊毛の選別、毛梳き、糸紡ぎの力にもなれましょう。その他、家の内の仕事もできます。掃除でも。台所でも。」

 少女は、まだ出来ることを探すふうに辺りを見やった。

「読み書きも、算盤もできます。―――小さな子供に教えることもできます。」

「計算が出来るなら帳場に重宝だが、ずっとこのかた仕事がない。帳場にいた者も他に回っている。」

 執事は少女に名を書くように言った。

(アニ)。あんたの奇妙な申し出にわしは考えたり答えたりする暇は無い。荒れた畑を貸し付けてやることは出来るが、そこで一年後に出来る作物を全部合わせてもあんたひとり分も出まいし、その間飲まず食わずという事もあるまい。仕事はどこでも手がいる所に順に入ってもらう。食事は出るし、宿も都合しよう。あんたの持っている種をここに出して帳簿に量を書きつけなさい。蒔きつけの終わったものは引き取れないが、種を預かろう。ただし、検査をしてからだ!屑の種に実入りを期待はできん。」

 少女は背嚢を下ろし、種の袋を出した。

「エンドウ、ソラマメは終わった。ササゲは預かる。蕎麦、燕麦はこれからだ。カブ、菜種もいつでもいい。どれも収穫後に更新した種を一割増して返そう。これは何だ?」

赤稗(トゥサカ)です。すぐにでも蒔けます。」

 少女は種の目録を帳面に書きつけた。

「どこか耕地の片隅に小さな田んぼを作らせていただけたら。」

 執事は、少女の小柄な体格と胸の前で組んだ、しっかりしているが小さな手をじろじろと見、品定めするように肩を乗り出した。

「土地は主人の土地だ。出来高に対して借地料として払ってもらう歩合を決めねばならん。あんたはその土地があんたの種の好みに合うかどうかわからぬうちから支払いの義務を負う。」

「半分差し上げます。半分いただきます。」アニは即座に答えた。

「その事もそこに書きなさい。」執事は言った。「あんたがここから去る時に清算できるようにな。」

 少女は言われた種をそこに残し、赤稗の袋だけを背嚢に仕舞った。 

 執事は、避難者たちを警備の者に見張らせて帳面を持った部下を奥に呼び、何事か用を言いつけた。やがて男が戻って来て言った。

「あんたがたをそれぞれの持ち場の責任者のもとに連れて行く。ついて来てくれ。」

 女は心残りそうに兄の姿を探して振り返ったが、立ち上がり、踵の抜けた靴底をひきずりながら、少年と少女、他に身寄りのない独り者の男が何人かと幼い子を連れた夫婦者と共に外に出た。

 執事の記帳係は、夫婦者とひとりの男に中郭の城壁を指して言った。

「西の方に行くともうひとつ門があり、そこを出ると職人区だ。あんたたちはそこの宿舎に住んでくれ。仕事の世話はエマオイという男がしてくれる。門の中に入って聞けば誰でも分かる。」

 職人区に行く者たちが分かれて行った後で、入って来た城門のところに戻ると、記録係はそこに立っていた当番の兵に残りのふたりの男を西の丘の見張り塔に案内するように、と告げた。

「早速だが、古参の兵と一緒に見張りの仕事をしてもらう。二、三日は塔の中だ。おいおい外郭の歩廊の警備も回って来る。」

「私らは内で仕えていた者だ。家来として代々仕え、縁者には王の食卓の給仕をした者もいる。」

 不満を漏らす男たちを見返して、小柄な記録係は顔色ひとつ変えずに言った。

「このニクマラ・ガヤでは、それぞれの仕事の他に男が交代で郷の守りをするのだ。給仕役や衣装役は無い。これといった手業の無い者は野良と守備の役務を担うのが決まりだ。代々からの家臣なら武術の心得もあるだろう。出来ることをしてもらうだけのことだ。」

 門衛の詰所を過ぎてから少女は尋ねた。

「西の丘の見張り塔というのは、お城から離れているの?」

 主郭の奥にさらに西に伸びる城壁は、南側では湖に面して切り立っていたはずだ。

「城郭の外にある塔だ。昔、湖を見張るために造られた。常に宿直の者はいるが、今は外を見張るよりは、怪しい者を見張る場所だ。―――あんたはよくしゃべるが」

 男は少女に振り返った。

「あまり根掘り葉掘りと尋ねたり、人に言って歩くようなら、あそこにやられてしまうぞ。」

 門を出ると、道は外郭の正門からやって来た方から分かれて城壁に沿って左に伸び、中郭の突き出した区画をぐるりと巡りながら、北の草地の中と、西の、木造の家畜小屋や百姓家の立て込んだ区画へとそれぞれ分かれて伸びて行った。その先にはそれぞれ簡単な門があり北の門は荷の出入りや商人や職人、西寄りの門は百姓の用に使うのだと記録係は言った。 

「その外は?」尋ねすぎるなと警告されたばかりの少女は、意に介した様子もなく、道の先の、畜舎の向こうにぐるりと見える外郭を指し、尋ねた。

「耕地と牧場だ。そこの村に住んでいる内百姓の者たちが門から出て働きに出る。」

 記録係は、道の左側の村落へと入って行き、すぐに出会った年配の男に三人の新顔を預けた。

「百姓頭のコートルだ。」

男はさっさと歩きはじめながら名乗った。

 土を踏み固めた小路が、五、六件ごとに寄り集まった藁葺き屋根の百姓家の区画を巡りながら、村じゅうに通っていた。共同の納屋や、スズカケの木を植えた休憩所があり、村の中心には共同の竈もあった。

「手を入れれば住める空き家がある。先にそこへ行くかね?それとも仕事場を案内するかね?あんたたちは昼飯を逃したよ。晩までパンの支給は無いし、もし家で休むなら、余りものでよければ後で女房に届けさせるが。」

「足が痛くて。今はとにかく休めるところに行きとうございます。」

 女は踵の破れた靴をスカートの下に隠して言った。少女が口を挟んだ。

「新しい靴が要ります。小母さんと、この男の子に。靴職人を呼んでもらえますか」

 男は何の話か分からないというように少女を見返し、言った。

「百姓のわっぱに靴が要るもんかね?―――お前、草履や藁沓は編めんのか?」

 訊かれた少年はかっとして答えた。

「編めるさ。なに言ってるんだよ。余計な事言いやがって。」

「エマオイに言ってみるか。」少年の事は無視して、男は女の華奢で品の良い様子を見て呟いた。

「近頃()()と会っているかは知らんが。―――そら、すぐそこだ。」

 男が連れて来たのは、集落の西の奥の小さな百姓家だった。

「つくりは確かだが、主がいなくなってから長年屋根も吹き替えておらん。夕べの嵐で雨が漏ったかもしれん。」

「雨露がしのげるのはありがたいこと。休み休み片付けましょう。」

 女は屋内を見回しながら言った。炉があり、小さな卓と椅子が二脚あり、細枝を積んで敷き詰めた寝台の枠があった。

「寝られるように筵と、火を焚けるように薪も持って来よう。」男は少年に振り返った。

「お前はうちに来い。」

「私はこれから仕事をする場所を見たいわ。」少女は言った。男はうなずいた。

「案内しよう。あんたたちに決まった持ち場はない。手のいる所はその都度どこにでも入ってもらう。」

「小母さん、私、行ってくるわね、見てきたことは皆すっかり話すわ。」

 少女の言う言葉に女は弱々しく微笑み返し、ちらりと気がかりそうに男を見た。百姓頭のコートルと名乗った男は少女のお喋りをさして気にする様子もなく、がっちりとした背の後ろに小さなすばしこい姿と不貞腐れた少年とを従えて、城郭の内の村の中から、隣の畜舎と草地、そして城郭の外へと案内しに出た。

「アツセワナの第五家(カヤ・ローキ)は焼き討ちにあったってことだったな。物見から見たら、夜中だというのに空があかあかとしておったよ。第三家だ、いや、第五家だって、皆えらく騒いでたな。あんたがたはそこから逃げて来たのかい?」

「こいつは違う。」少年が先回りして言った。「こいつは混血で家無しだ。」

「その言い方、やめてよ。」少女が言い返した。「だいいち、人のこと知りもしないくせに。」

 コートルは振り返って少女の顔を見た。

「あんたは半分北の血、半分東という感じだな。まあ、分かりやすいほうだよ。アツセワナのごく高貴な血筋でも何かしら混じっているだろうし、前の宰相のトゥルカン様なんかはイネセイナ河の西の血なんかもちょっぴり入っているということだったな。わしら、エファレイナズの地べたに暮らす者なんてのは、まあ、完全に雑種だわな。」

 コートルは少年に振り返った。

「お前の年頃じゃ知らんだろうが、昔はここでもアツセワナでも、ヨレイルの血を引いた者がたんと働きに来ていたよ。彼らは農繫期にはいい()だった。春でも、秋でも、郷では“季節もん”を大勢雇い入れて、耕地の隅に仮小屋をたてて、皆そこで泊まったもんだ。おれなんか、自分の家を抜け出して仲良くなった連中のところに泊まりに行ったもんだ。」

 村のはずれの門は開いていた。そこから先はぼこぼこした草地の中に踏み跡がつくる道が、出会っては離れてはゆっくりと下って行き、眼下に広がる耕地へと続いていた。

「こんなに広い畑は初めてだわ。」

 少女は思わず声を上げた。青々とした麦田が、長い筋を描いて下へ下へと横向きのしま模様をつくり、はずれの雑木林の奥にもまだ、牛が犂をつけて耕している畑がある。左手には草地と柴と柵で囲われた牧場があり、羊がひと群れと山羊が数頭、放されていた。

「向こうに光っているのは?」

「池だ。魚を飼っている。左に丘があるだろう、その麓に小さい谷があって水が出ている。もう一方、内の井戸から出て流しているのがあわさって川になっている。水車のある粉ひき場はあの池のちょっと上だ。少々遠いが、あそこは外百姓の者も使うからな。」

「外百姓?自作農のこと?」

「あんた、どこから来たんだね?」男は尋ねたが、特に問い詰めずに答えた。

「城の内にいれば内百姓、外にいれば外百姓だね。おれらは全部寄り合いで決めて、種蒔きでも収穫でも皆一斉に決められた仕事を片付けるが、彼らは区ごとに()()()にやっとるね。話によるとアツセワナは外百姓でも主水路(アックシノン)の西と東とでやり方が違うようじゃないか。」

 男は少年を見やって言った。「西は内百姓みたいな村にまとまっていて、東はそれこそ一軒ずつてんでにやっていってるってな。」

「知らないよ。そんな地所の端っぽなんか行ったこともないよ。」少年は答えた。

「どちらも、麦を郷倉に納めなけりゃならんのは同じだ。賦役があるのも同じだ。その他は外百姓は自分たちでやっていってる。内百姓は殿様の家に付いた百姓だ。内百姓が面倒を見る畑の作物や家畜はそっくり殿様の持ち物だ。」

「そうだよ。損な生まれだよ。」

「だが、壁の中の者たちは皆助けあうんだ。」

 少年は応えなかった。

 牧場の西側を小川に沿って、ふたつつながった大きな池のそばまで下ると、丘の裾に並ぶ数軒の百姓家ともっと急勾配に造られた麦田が見えた。

「疲れてなけりゃ果樹園(カジェマルナ)を見せよう。」コートルは門へと戻りながら言った。

 百姓門から中に入ると、コートルは門脇の外付けの階段から外郭の上の歩廊へとふたりを連れて行った。少年はふたりを追い越して、二丈半もの高さのある城壁の上に駆け上がり、我知らず歓声を漏らした。つい先ほど歩いて行った牧場と池、縞目を描いて波紋のように丘を下っていく耕地と間の木立ち、人も家畜も豆粒のようになって動いているのが一望に出来た。

「あれが、昨日歩いて来た道よ。」少女が右手の草地と森の中に見え隠れする土の色の筋を見つけて言った。「あらあら、そうじゃないわ、もうひとつ向こうの道だわ。途中でつながっている。」

 少女の横に回ったコートルがそちらを見て言った。

「あれは使用人の門から出てる道だな。どれも城郭の中では内門の前でひとつになっている。」

 少女はぐるりと向きを変えて城郭の内を眺めた。昨晩泊まった庭園の中の客の宿泊所の向こうには木立ちに隠れて菜園がある。使用人の道と百姓の道の間には畜舎の屋根が見え、すぐ眼下には、内百姓の、区画ごとに寄り集まった屋根が見える。アニは小さく指で差しながら素早く数えた。四、五十

「ここと内郭との間にもうひとつ壁があるわ。あの中は?職人区だったかしら。」

「そうだ。(うち)ん所との境に二か所、戸がついてるよ。」

 コートルは歩廊を南西の方に向かって歩いて行った。壁はところどころ少し高く円形に張り出した物見塔を備えていた。歩廊は塔の迫持ちの下を通って同じ高さに続いていき、西側をぐるりと回り込んで丘に近づいた。歩廊の横合いから丘へと橋が架かり、下を小川が流れていた。丘に架けられた橋の向こうには細い道が続き、丘を縫って、南の丸い塔へとつながっている。

「見張り塔ね」

「そうだが、今は湖から来る者などいないよ。―――今じゃ、領内に押し入った怪しい者を留置しておいたり、家の者でも乱暴を働いた者を懲らしめるのに入れておく牢屋みたいなものだな。」

 コートルはごく気楽に言ったが、少女は鼻白んだように口をすぼめ、少年は「へえ、じゃあ、あいつらは……」と言いかけたきり、気持ちを傷つけられたようにむっつりと目を伏せた。

 城壁を南へと進むと湖に下る斜面の上に、段になった果樹園が見えた。ぶどう棚がつくられ、花を咲かせた果樹が見える。

「林檎、梨、サンザシ。」歩きながら少女は言った。「あれはスモモかしら?イチジクもあるわ」

「あんたは食べるのが好きだね?」コートルは機嫌よく言った。

「嫌いな人がいるかしら。」

「おれもあまり知らんね。だけど、初めから靴を履いているような家の娘っ子は、食べる事に関心がないって顔をすることがあるのでね。」

「死んでしまうわ。」少女はぎょっとして言った。

「私には食べるものをくださいな!働くのはそのためよ。大体は食べ物にも物語にも好き嫌いが無いの。―――あの小さな木はなに?もうたくさん実をつけているのは。そして、あの青黒い葉っぱの木は?」

「あの小さい奴は金橘さ。」

「あの種が欲しいな。」

「食えば出てくるさ。種だらけだよ。もうひとつのはビワだ。」

「ちぇ、百姓が領内の()()()なんか食えるわけがないだろ。」少年が呟いた。

「食えるさ。仕事に入った時に運よく実っていればな。」

 果樹園のはずれあたりでコートルは城壁を下りた。そこはちょうど職人区との境の壁につながっているところで、近くには行き来をする戸がついていた。近くには井戸があり、洗い場があり、舗装された排水路が壁の下を通って洗い場の下の小川へと続いていた。

「上にも井戸があるの?」

「職人区にひとつ。内郭にもあるよ。」

 百姓家に戻っていくと、コートルの妻だという女が、さしあたり必要なものを差し入れ、掃除を終えた狭い庭先に腰をおろし、アドルナと、その傍らに立って底の破れた靴を調べている男と話をしていた。声を掛けたコートルに振り返った顔を見ると、昨日避難者たち達の面倒を見、執事のもとに案内した男だった。

「ちょうど良かった。それを直してやってくれるか。」

「うちに来た家族連れの者たちもだいぶん足を痛めていたので」エマオイは持ち前の落ち着いた静かな口調で言った。「ここはどうかと見に来たんだ。」

「この子のも見てあげて」アニは少年の袖を引っ張って行った。「私の靴は大丈夫。」

「あんたはいい靴を履いている。道の悪いコタ・レイナの森や岩がちなオトワナコスでも大丈夫だ。」

 エマオイはアニの足元を見て言いながらわずかに笑みを浮かべた。

「そうなの?」少女は驚いて呟いた。「知らなかったわ。」

「アツセワナから逃げて来た者たちはほとんどが裸足か上履きのようなものしか履いていなかった。皆、どこかしら怪我をしているし、膝や腰を痛めている者が多い。若ばあさまが回って診ている。」

「私たちの足はこの子が見てくれましたよ。」立ち上がって出迎えた女がアニの肩を抱いて言った。

「だけど私は施療師じゃないわ。おじいさんが熱を出していたから心配だわ。」

「年寄りたちは内郭に移ったよ。そこの治療師が見てくれる。」

 エマオイが言ったが、女は何か問いかけたことを諦めたように口をつぐみ、足を引きずって小屋の中に戻って行った。

 コートルは少年の包帯の足が直に地面に触れているのを見て、ちょっとすまなさそうに肩をすくめた。

「で、履物に出来る革はあるのかい?このぶんじゃ、たくさん入り用になりそうだ。()()はこのところ来ているのかい。」

「昨日の朝、声を聞いた。」エマオイは答えた。

「皮が手に入ったのかどうかはわからない。いつもとは違う掛け声で湖のほうから呼んでいた。」

「仲間うちの合図だったのかな。」

「そうだろう。今晩“洗い場”に行ってみるよ。」

 いつしか少女は、黙り込んで両手を握りあわせ、耳をすましていた。夕刻が近づくと、水辺から飛んでくる鳥が丘の森へと集まり、城の周囲に幾多の鳴き声が飛び交う。

   アク、アク……

   アク、アク……

 百姓門から仕事を終えて続々と戻って来る人々の声に烏の鳴き声は次第に紛れ、頭の中に繰り返す不穏な振動となって残った。


 何日かしてエマオイはやって来た。

「皮は手に入った。なめして靴にするのにひと月ほどかかる。」

 羊の剪毛の手伝いから帰ったきた少年は、囲いに追い込む前に羊の蹄を洗ってやったその後で小川でさっと漱いできた、草履履きの足を見下ろし、密かに期待を込めた目を上げた。

 アニは、革職人の姿を見て駆け寄って来た。

「早く靴が欲しいわ。」

「あんたのじゃないだろう。」コートルはからかうように言った。

「キブには田んぼも手伝ってもらうのよ。もう苗もいい具合に育っているし、すぐにも植えなきゃ。」

「田植えに靴なんかいるもんか。」少年がすぐにかみついた。

「分かってるわよ。だけど畔が荒れているから草履だと茅で足を切るわ。」

 アニは、下洗いした羊毛の籠をスズカケの木の根元に下ろし、ひょいとしゃがんで、水で冷えた手にこびりついた白いぎとぎとした羊の脂を履いている靴の革にごしごしと擦りつけ、撫でつけ、草の葉で掌を拭った。

「何をやっているんだ?」コートルは尋ねた。

「靴の手入れと手の掃除よ。」アニは答えた。

 アニはやって来た翌日から村の百姓の女房や娘に混じって働いていた。その仕事ぶりにコートルは満足した。少女は仕事の内容をよく知っていて、段取りと自分の入る場所さえ飲み込めば、すんなり流れに乗って作業をこなした。朝には菜園の草取りとカブの植え付け、昼間は男たちが刈り取った羊毛を下洗いし、夜には百姓家に持ち帰った羊毛を選別した。間に呼ばれれば、水汲みも山羊の乳しぼりもした。アニが農場で働いている間、アドルナは家で炊事や片づけをし、館に掃除に出かけ、台所で働いた。夜になると繕い物をした。

 名をキブという少年もまた、よく働いた。カヤ・ローキの内百姓の子だった少年は、領地の季節ごとの仕事と手順をすっかり知っていた上、体格以上の力仕事にも黙々と耐えた。

 この夕刻、村の休憩所まで戻って来たふたりに、コートルは、もう時節も終わりなので果樹園からもいできた金橘をひとつかみずつ与えた。アニはアドルナへ持って帰るために三つを隠しにしまい、自分の分のひとつをさっそく口に放り込んだ。よく熟れた橙色の実は一口で頬張れるほどの大きさで、噛むと弾力のある皮がつぶれて、甘く強い芳香とともにとろけるような果肉に包まれたたくさんの種が口の中に飛び出してきた。

「種だらけだよ。」少年は、はしゃぎながら叫んだ。「全部飲んじまった。」

 少女は注意深くひとつずつよくしゃぶった種を掌に吐き出した。ササゲくらいの大きさの丸い種だった。後で洗って乾かしておこうという心積もりだった。

 ふたりの大人は、少年と少女が並んでスズカケの下に足を投げ出して果物の種を大事そうにしゃぶっているのをしばらく眺めていた。

「ところであんた、もう田を見て来たのかい?よく、時間があったもんだ。」

 アニはうなずいた。

「稲田は皆で植えるんだ。あんたひとりが張り切ってもだめだよ。」

「稲の苗のことだけじゃないわ。赤稗トゥサカを早く蒔きたいのよ。もう時期が遅くなっているから。稲田の上の小さな田を借りたの。明日は草取りをしたいわ。あの茅をなんとかしないと。キブに来てもらってもいい?」

 コートルは首をかしげた。羊は毛刈りの作業が大詰めに入った上に次々と仔を産み始めている。米なんぞはもう何年も食糧としては十分な収量が無く、種籾を残すだけの仕事だ。大人でも持て余す茅がはびこった放棄地に、ふたりもの若い有望な働き手が取られるのはほんの一日でも惜しいことだった。だが、少女はうんと言う返事のみを待っている。

「まあ、やってみるさ。あんたとキブとアドルナとでな。」

 エマオイは、少年が草の上に脱いだイグサを編んだ草履を手にとって眺め、やがて両手の間で二、三度もみほぐして形を整えた。すこしでも履き心地を良くしてやろうというのだった。

「ヤモックは来ていたのか。」コートルはちょっと憚るように声をひそめた。 

「ああ」エマオイは事も無げに答え、こちらを見ている少女に気付くと「皮屋のことだよ。」と言い足した。

「例の第五家(カヤ・ローキ)の事件の時、賊はいつも通り奪って屠った牛や羊をたらふく食って、残骸を置いていったんだ。ヤモックは後始末が悪いと腹をたてていたよ。おれもだ。連中はとどめを刺さずに虐めて遊ぶんだ。皮は傷んで、血や肉で汚れ、ろくなものが出来ない。」

「さぞ、忙しかったろうな」

 コートルの声にわずかな侮蔑を聞き取り、エマオイはちょっと顔をこわばらせた。

「彼らは埋葬もする。他に誰がする、報酬もないのに。」

「荒らされた場から拾うだろう。」

「誰も支払わない礼金を死者が身に着けた物から少し払うということだ。」

「皮を、強盗に殺された家畜から剥いでくるの?」少女は少年の方を気にしながら尋ねた。

「そうだな、それは皮屋の仕事のことで我々がとやかく言うことじゃない。」

 コートルはエマオイと見交わして言った。

 一同が休んでいるスズカケの木陰の休憩所に仕事から帰って来た男たちが数人加わり、先にいたコートルとエマオイをその中に取り囲み、仕事の合間に交わされた噂話を評議しあった。

()殿()が襲われたカヤ・ローキを偵察に行かせたという話や、領内の外百姓たちのうち、主水路(アックシノン)沿いの庄の者たちが、どこの家に庇護を求め仕えようか、それとも自分たちで長を選び村を治めようかと村民の中で意見が割れたという話。いや、しまいには、それぞれで分割して我が物にしようという声まで上がり始めてまずいことになっているらしい、という話をした。

 いや、頭がいなくなるというのは大変なことだわな。

 ()()()のような旦那でも、居らぬ時のざまを見ろよ、って言うものな。

 百姓たちは互いに笑いあいながら、ひとりひとりうなずき、次第に黙り込んだ。

「それにしても、アガムンはどこへ消えたんだろうな?」

 ひときわ高い声が上がった。

「どこかに隠れているんだよ。あいつが一番怪しいじゃないか。青の匪賊はもともとあいつの手下だって言うんだろう?」

「それにしたって、消えてしまうのは変じゃないか。賊の集団はあちこちうろついてるのを見られているというのに。」

「カヤ・ローキの百姓衆もさ、いがみ合っている場合じゃないぞ。奴ら、またすぐ腹を空かす。そしたら主のいないところから先に狙うにきまってるさね。」

 百姓たちはそれぞれの家に戻って行った。少女は籠を抱えて村落の一番西の区へと駆けて行き、少年は、まだ歩きながらエマオイと話しているコートルの少し後ろを大人しくついて行き、エマオイはコートルの家のある角を曲がった小路をまっすぐに職人区のある中郭の通用口へと戻った。


 田は丘の東の斜面の、湿地に近いところにあった。眼下に葦原の広がる小高いところに古くから拓かれ、やがて湖と川の水運が東西南北の交易を取り持ち、ニクマラを次第に大きくしていった時にも、丘の上部西面と次々に開墾される麦畑の収穫を陰ながら補い、盛りの時には八百人にものぼる領民の口を養っていた。

 およそ三十年前に丘の北東を湿地へと流れ込んでいたささやかな川は北西の穀倉地帯トゥサ・ユルゴナスの開拓に伴ってコタ・イネセイナと繋がる大水路の中に取り込まれ、トゥサ・ユルゴナスを含めた各郷との商取引によってニクマラは栄え、それと引き換えるように領内での耕作は少しずつ勢いを無くしていった。二十年前頃には、トゥサ・ユルゴナス、イビス、そして、王シギルと宰相トゥルカンとが競うように開墾していったアツセワナの農地が、優にニクマラを養いうるほどの収穫をあげていた。それでも丘の東の田は細々と営まれていた。

 事情が大きく変わったのは十七年前の内乱とそれに続くイナ・サラミアスの噴火であった。噴煙による五年間の闇は飢饉を招き、ニクマラはコタ・ラート以西ではもっとも多い死者を出したのであった。

 三割もの領民が餓死したことで食い扶持が減り、郷は持ち直した。しかし働き手は減り、荒れた農地が残った。手入れの行き届かないまま、畑は草地と雑木林に戻った。東に臨む五町歩ものかつての美田は、今や十反ばかりを種籾の保持のためのみに耕作されている。

 荒れて茅の繁った田は見るも気の滅入る光景だった。黄緑のしなやかな長葉の揺れる地面の下がどんなに厄介なことになっているか知っているキブはため息をついたし、アニも同じであった。五十を超えるまで野良に出たことの無いアドルナは途方に暮れたように微笑み、年若いふたりに尋ねるように見やった。

「簡単よ。やることは―――ただ刈り取るのよ。」

 アニは鎌を取り直し、猛然と田の畔周りから刈って行った。キブもすぐに取り掛かった。力強い、鮮やかで規則正しい音がたちまちアニを抜いて行った。アドルナのためらいがちな鎌を引く音が、ふたりの後ろの黄緑色の波の中で、それでも途切れることなく聞こえていた。

 誰もひと言も話さなかった。答えが出るまで、刈るか、投げ出すかのどちらかだった。アニには借りた土地から田を掘り出すより他の答えなどあり得なかったし、キブにとっては誰かの先に鎌を置くことなど論外だった。アドルナには若い者が答えを出すまでついて行く他は無かった。

 小一時間も経たないうちに三十坪ばかりの田を刈り出した。刈り倒した茎はいくつかの山に積み上げた。

「根を掘らなきゃ。」キブはにやりとした。

「そうよ。やるわ。こう、株に向かって鍬を入れて。あとは横合いにずっと刃を打ち込んで行って。根方の崩れたところから引っ張ってみるから。」

「二尺くらいは深く掘らなきゃ、びくともしないぞ。」キブは肩をそびやかした。

「そうね。だけど、仕事は今日だけじゃないわ。力をなるたけ残すようにしましょう。ここ一坪を掘るだけであんたに壊れられたら後が困るもの。」

 キブは鍬を振りかぶり、株元を連打した。ひと打ちで地下茎の張りつめた地面が割れ、二度目に鍬の刃がびっしりと束になった泥だらけの縛めをぷつぷつと千切りながら引っ張り出して来た。それを振り払って三度目を打ち込む。

「分かったから、そんな風に一か所で()()()さないで少し動いてくれる?私に仕事をさせないつもり?」

 アニはしゃがんで切り株をつかみ根元をゆすった。白い牙のような芽をつけた節のある長い紐が何本もするすると泥の中から出て来た。それは時々切れて、鋭い斜めの切り口を上に向けて地面の中にとどまった。アニは棒きれで周りを崩しながらそれをつかんで一本一本抜き取った。

 アドルナが声を上げて手を押さえた。鋭い地下茎の先端が手を突いたのだった。土に汚れた掌に血がまるい雫にふくれあがった。アドルナはスカートで血を拭い、無事な方の手で残った根を抜き取った。

 半日もかかって二、三坪もきれいにするのがやっとという具合だった。アニとキブとは頑固におしだまっていたが、目に見えて肩と首が下がって来ていた。

 アドルナはそっと畔に置いてあった籠を取って来て、そろそろお昼にしましょう、と声を掛けた。田の北側の上の森から水が湧き、湿原に向かって小さな流れを作っていた。三人はそのほとりで昼食にした。

 籠の中の包みが開かれると、少年と少女は驚いて同時に声を上げ、見たことも無い洒落た半月型のきつね色のご馳走を手につかみ、かぶりついた。

「なんだこれ。うめえ!」

 生地に包み込んでこんがりと焼いた中身は、魚醬で味付けした刻み込んだ野菜で、中にはわずかばかりだが肉や魚も混じっていた。館の台所で余ったものを許されて持ち帰ったものだが、どれもこれも三人で分けるにはちょっぴりなので刻んで混ぜたのだ、とアドルナは持ち前の柔らかい低い声で言った。今朝、パン焼き窯の火加減を見る合間にちょっと入れさせてもらったのよ。

 キブの様子は見るも滑稽だった。獲物に襲い掛かるイタチのように目を見開き、掌にこぼれて来る油と具とを舌で拾いながら、他のものは目にも耳にも入らぬふうだった。彼は見ているアニに気付くと、目をふっとすがめた。

「何見ているんだよ。変な顔。」

 食べてしまうと少年はとろけてしまったように静かになり、ハンノキのさざめきに耳を傾けるように目を細くしていたが、まもなくごろりと木陰に横になるとすやすやと眠りだした。

「小母さん、私少しその辺を歩いて来たいのだけど。」

 アニは、森の奥を眺めながら立ち上がった。アドルナは水ですすいでいた手を前掛けの下にくるんでうなずいた。「いいわよ。私も少しやすみたいから。」


 足首よりも高く伸びた草を分けながら、森の中のなだらかな斜面を道に戻る方向に歩く。

 朝には、外郭の百姓門を出て道なりに丘を下り、草に埋もれた小道へと下りて、しめて半里もの道のりになる田んぼにやって来たのだったが、小道を戻らずに西に向かって進んでみた。

 東の旅人の宿舎のあったところは丘の下の森をずっと奥に入って行ったところだ―――最初の日にエマオイはそう言っていた。本道から通用路に下りるまでの両側は、今ではよく知っている広い畑と牧場だ。もし、今も小屋があるなら畑の下の森の中だ。

 やがて、見当をつけた辺りが明るく開け、本道に出た。ここまででもう六町ばかりも来ている。しばらく道に沿って下ってみたが、道の脇は草と藪に覆われ森は北西に広く斜面を覆い、見える限り何の変化も無かった。

 午前に茅を抜いた田んぼはまだ醜い穴だらけの地面にすぎない。それに今日のうちに片付けなくてはならない切り株と、根の張った堅い地面もある。もう帰らなくては。

 東からの旅人たちは西に王の賓客として訪れるようになってもまだ細心に人目を避けていたのかしら?それに、ニクマラの人々も城郭の内の宿泊所に泊めるほど彼らに心を許していなかったのかしら。

 下に向かう道の左手、西の森は(たてがみ)のようにうち揃った枝ぶりが連なる針葉樹の合間にカシやシイが濃い葉を茂らせ、暗かった。ところどころにまばらに若葉の明るい色が見える。

 丘の下から北西に広がる森は、暗黒の森(イズ・ウバール)と言ったっけ。

 しんと静まった森に響きわたった烏の声に、シアニは身をすくめ、かがんだ。

 この森には烏ばかりが住み着いているのかしら。立ち上がった拍子に見えたものに気付き、シアニは立て続けに鳴く烏の声に気を払うのも忘れ、そのまま、草の間を何歩か森の中へと進み、立ち止まった。

「見つけた。」

 午後の仕事の残る田へ戻りながら、シアニは呟いた。本道から西の方へ引き込まれた道の取り掛かりだ。両側から覆いかぶさる草の間に、地面を畳んだ敷石が阻むわずかな隙間があった。とても狭い、長く打ち捨てられた道だが奥まで辿っていけそうだった。もう今は廃墟になっているかもしれないけれど、二十三年も続いた絹を商う道(エノン・トード・シレ)の宿駅のあったところまで。


 田に戻ると、キブは昼寝から目を覚まし、所在無げにうろうろとしていた。小川のほとりに見慣れない老女が行李を傍らに置き、アドルナの傍らにしゃがんでその手に包帯をしていた。小柄で、束ねただけのまっすぐな白髪の勝った黒い髪が浅黒い顔色を際立たせている。しっかりとした腰にぴったりと巻きつけたスカートの上に、まっすぐに裁って接ぎ合せた粗い織り柄のある上着を着ていた。アドルナは、昼食をとった時と同じ場所にいたが、具合が悪そうだった。

「あんたはあまり強くない質だね。」低く、鋭さのある声で老女は言った。「今夜熱が上がるかもしれない。傷から土の中の良くないものが入ったよ。」

「茅で切ったのよ。」アニは、駆け寄った。「そんなに酷い傷だと知らなかったわ。」

「慣れた者は大丈夫さ。このねえさんは野良で働いたことが無いんだろう。今、寒がっているから後で熱が上がる。悪い血は抜いて包帯をしたから、今晩は温かくしておやり。」

 老女は田の方を向いて、そこに積み上げられて白く乾いている茅の地下茎を指差した。

「それを良く洗って、濃く煎じて飲ませなさい。秋の物より効き目は落ちるが、血を止めるには一番だ。」

「早く家に帰った方がいいわね。」

 アニは小声で言い、老女はうなずいて行李を取り、小川に沿って森の中に戻って行った。キブは何も言わずに鎌を集め、鍬を背負った。アニは、茅の地下茎のなるべく新しく太いところを何本か折りとると、籠に放り込んで右腕に抱え、左肩をアドルナに貸して、草の生い茂った半里もの道を、城郭の内の百姓家へと戻った。

「それは若ばあさまだな。」

 スープを持って来た女房についてふらりと様子を尋ねに来たコートルが、戸口の外で処方通りの煎じ薬を作ろうと、鍋の中に白い茎を削ぎ入れているアニに田で会った老女の風体を聞いて言った。

「時々、外に薬草を探してうろついている。大ばあさまは近頃は家に籠りきりだ。おれら雇人の診療をしてくれる。アドルナは茅で手を切って熱を出したんだってな。手こずっているようだが、まだ頑張って赤稗とやらを植えるつもりかね?」

「ええ」アニは短く答えた。


 アドルナの熱の下がった二日後、アニは田んぼに出かけた。病人の看病をしながら百姓家の周りで出来る仕事をしている間に、羊の毛刈り作業が少しずつ落ち着き、稲田の田植えが始まっていた。誰もがアニが仕事に加わるのを待っていた。その日の朝、アニは、知り合った農婦から譲ってもらった男の子の古いチュニックに着換えた。百姓門から出て、皆で道を下っていく間、キブはいつになくにやにやしてこちらを振り返った。

 アニは、四つの田に分かれた組のひとつに加わった。水を張った下の泥はさほど深くなく、よく均されている。アニが列に加わると、皆、一様に顔を上げ、この新参者の働きぶりを見守った。小さな丸っこい姿は鴨のように滑らかな足取りで田の中を進んだ。腰に付けた苗籠からひとつかみ取ってさらに小さな株に分けながら泥の中に植えこんでゆく。滑らかな動きに満足して、皆はそれぞれの仕事に専念した。

 ひと畝植え終り、苗代へと続きの株を取りに行くと、そっと自分の組を抜け出して待っていたキブが一緒に来いと耳打ちをした。辺りを見渡して誰もふたりを見ていないのを確かめると、さっと雑木の間に分け入り、斜面を駆け上がって行った。

 キブが連れて行ったのは二日前に三人で刈り出した上の小さな田だった。三十坪ぶんの黒々とした地面が初夏の光を浴び、ふたつの白茶けた茅の小山と好対照をなしていた。

「あんた、偉いわ。やったわね」

 アニは喜んで言った。キブは何か憎まれ口で言い返したそうに息を吸い込んだが、単に顎で草の山を指した。

「そのままじゃまた根付くぜ。」

「燃やすのよ。」アニはきっぱりと言った。

「良く広げて風を通しましょう。もう二日も経てばよく乾くから、燃やせばいい肥やしになるし、種も蒔けるわ。」

 少年はちょっと怯んだようにアニを見返したが、答えなかった。

 翌日にはアドルナが田植えの一同に加わった。アドルナは、行き会う人ごとに傷を心配し、ついでに念押しのように野良に不慣れな事とひよわな質をあげつらうのに途方に暮れ、邪魔にならぬように、皆とは反対側の位置からひとりで植えはじめた。その様子を気の毒に思った同年輩のひとりの女が隣に加わった。やがてアニがそこに加わり、三人の間には少しずつ楽しげに語らう声が飛び交った。

 次の日、アニは田植えの一行が田に下りて行く途中で、列を抜け、乾かしておいた上の田の枯草を燃やした。からからに乾いた地下茎は中によく空気を含み勢い良く燃え上がった。熱気が渦をまき、辺りの景色を飴のように歪ませる。その上に次々と草の束を分けて重ねていった。束の下の方にわずかに残っていた露が、火の勢いを削ぎ、煙をたてた。

 下で田植えをしていた者たちの間でざわめきが起り、何人かの者は怒鳴り声を上げてたちまち走って来た。

「誰だ、そこで何をしている!」

 屈強な男たちが血相を変えて走って来たのを見てアニは驚いたが、強いて落ち着き払って言った。

「田を焼いたのよ。ここを借りたのだけど、酷く荒れていて茅の根を焼かないと使えなかったのよ。もう、すぐにも終わるわ。」

「青頭巾の焼き討ちかと思ったぞ。」田植えの監督が怒って言った。

「白い煙がもうもうと立って、城の見張りに見つからなけりゃいいが。」

 アニは、灰の中に形を留めている炭火を、棒きれで叩いて砕き、火を消した。男たちも、後で様子を見に来た女たちも咎めるようにアニを見つめ、仕事に戻った。少し離れたところで青い顔をしたキブがアドルナに寄り添われて立ち尽くしていた。が、やがて何も言わずにくるりと振り切るように背を向けて下の田に戻って行った。アドルナは詫びるようにアニにうなずきかけ、キブの後をゆっくりと追って下に下りて行った。

 田の真ん中にひとり残り、アニは去って行く人々の背が草の陰に消えて行くのを見送った。

「やっとトゥサカの種が蒔けるわ。」

 空を仰ぎ、両腕を差しのばしながら大きく息を吸い込むと、アニは自分を奮い立たせるようにそうつぶやいた。

 

 その日の夕方、アニは渋り切った顔の監督に呼ばれて、館から帰って来たばかりで、かんかんに腹を立てているコートルの前に行った。

「外で火を点けたのはお前か」

 百姓家の立て込んだ狭い小路に怒鳴り声は響きわたった。

「田を焼いたんです。私の育ったところではああやって草を焼くんです。」

「おれはクオルトゥマ様に呼ばれた。大殿がたいそうご立腹で、火を燃やした者を捕まえろと命ぜられたそうだ。もし内の者なら厳しく罰せよと仰せだ。おれは、百姓頭の資格で処分を任せてもらうことをなんとか許してもらったんだ。」

「火を燃やすのがいけないとは知らなかったのです。」アニは頭を下げた。「今日一度きりで、二度と許可なく田畑を焼くことはいたしません。」

 コートルの懸念が和らいだ様子は無かった。許されて家に戻る前にアニは、明日からは半日は自分の田に手を入れたい、と願い出たが、コートルはその顎を縦に動かすかどうかのところで横を向いて、行け、と言った。

 非難の目を向けたのはコートルばかりではなかった。その日が暮れるまでに、アニには火つけ雀(チャガラニ)という仇名までついてしまった。

「あんたか、領内で勝手に火を焚いたというのは。」

 アドルナ達とカヤ・ローキを逃げて来て、時折不慣れな野良の用をあてがわれながら兵舎に組み込まれていた男はアニを見ると不機嫌に言った。

「えらいことをしてくれたもんだ。私らカヤ・ローキの者はあんたとは知り合いでもないのに仲間にされて迷惑している。」

「仲間ですよ、一緒に門から入ったのですもの。」アドルナが言った。 

 男は振りかえると食って掛かった。

「見張りの者が何と言っているから知らないからあんたはそうしていられるんだ。あの火は何かの合図だったと噂されているんだ。」

「そんな馬鹿なことがあるものですか。嘘をおっしゃい。」

 アドルナは背筋を伸ばして男を見据えた。

「あんたの兄さんは領主に呼ばれたのだぞ。塔に入れられてからもう何回呼ばれたことか。私も呼ばれた。未だに私ら内の家来は間者としてここに潜り込んでいるという疑いがかかっているのだぞ。」

「何度聞かれても初めに話した以上に答えることなどありませんとも。」

 言い返しながらも、その後アドルナは家に帰ってから食事時も黙り込んでいた。

 翌朝、仕事のはじまりを告げる鐘の鳴る前に、誰よりも早く門を出ようと支度をしているアニにアドルナは言った。

「なるべく皆と一緒に行くのよ。何か言われてもね。」

「あら、言われるのなんか構わないわ。」いつになくアニは口答えした。

「仕事を進めるためにしなければならないことをしたまでよ。悪いことみたいにやり方を変えたりなんかしないわ。田をほったらかしにして荒らしたのはここの人たちのせいよ。()()()()()()というのだったら、すっかり私の仕事を見てからにして欲しいわ。」

「やり方を変えるわけじゃないのよ。」

 アドルナは辛抱強く言った。

「ただ、あなたが一緒だったという事を言ってくれる人がいる方が安心だという事よ。―――田んぼに着いたら、そこからは私はあなたと一緒に上に行くわ。稲田ではどのみち役に立たないでしょうし。」

 茅を取り除くためにキブが深く土を掘ってあったので、田は、土をさらに鍬で細かく砕いて灰を鋤きこむだけだった。それでも三十坪もの田を女ふたりだけで耕すのは大変なことだった。

 アドルナと仲良くなった女が昼を告げに顔を出した。ふたりは小川で手を洗い、食べ物をもらいに下の田に行った。

 皆は一度田から上がり、配られたパンを持って思い思いに草の上に座り、談笑していた。キブはいつも男たちの輪からも女達からも少し間を置いていたが、この時も畔端に適当な間を測りながら決めかねてうろうろとしていた。キブやアニの年頃の者は城内にもほとんどいなかった。子供たちは皆、六つか七つは年下だった。

 アニはキブを呼び、ちょうど何かよんどころなく用を思い出したかのようにこちらに急いで歩いて来るキブが、ふと何かを見つけて逃げようかどうしようかと立ち止まったのに気付いて振り返ると、焼いた田の上の畔に若ばあさまと呼ばれる施療師が立っているのが見えた。

「ねえさん、熱は下がったかね。あまり無理をすまいぞ。」

 若ばあさまは、一同の横に下りて来ると、アドルナの傷の具合を見、アニを見て、深い皺のよった気難しい褐色の顔の口元に笑みを浮かべた。

「ちゃんと言うとおりに薬を作ったかね。」

「良くなってる?」アニは心配そうに尋ねた。「夏の根っこはあまり効き目が無いんでしょう。」

「良うやった。」老女は応え、アドルナに言った。「あんた、野良仕事はしてこなかったね。この手は鍬を取るのに向かん。」

 アドルナは頭を下げ、目を逸らした。

「お料理が上手よ。縫物も。」アニは素早く言い、少し考えて矢継ぎ早に言った。

「読み書きも出来るし、お話も上手よ。」

「いいえ」アドルナは慌てて言った。「上手ではないわ。」

「上手にお話を()()()のよ。聞くのが上手なの。じっと耳を傾けているだけで、話し手に辻褄が合っているかどうか分からせることが出来るなんて、凄いことじゃない?」

「ここではできないことが多いわ。」

「私の母さんがそうだったわ。菜園を少ししたけれど、縫物やお料理の方が得意だった。私は外の仕事が好きだったわ。」 

「上の田に何を蒔くの?もう遅いだろうに。」農婦が愛想よく尋ねた。

「トゥサカよ。」アニは隠しから種の袋を取り出し、見せた。

 ほう、と若ばあさまが言い、農婦は粒を掌に受けて眺め、言った。

「初めて見るわ。」

「稲よりも遅い種蒔きでいいけど、もうそろそろ時期が過ぎてしまうわ。だから急いでいるの。」

「ちっぽけだね。そんなの、お腹がいっぱいになるかしら。」

「とても大きな房になった穂をつけるわ。良く土を寄せてやらないと倒れてしまうくらい。それに渇きにも強いの。」

 アニはふと遠く東に目をやった。

「私は小さい時からこれを育ててきたの。」

「どこから来たの?」不意に女は尋ねた。

「この種はね」アニはくるりと振り返ると円らな茶色の目を向け、声音を高くして言った。

「むかーしむかし、コタ・イネセイナが大きな蛇だった時に、金の穀粒の次に吐き出した二番目の赤い穀粒だったのよ。その昔、蛇は洪水をおこしてエファレイナズの耕地を荒らしていたの。人々の大事な財産を奪い、人の命も奪ったの。その一方で、たくさんの人の宝となるものを恵んだの。蛇は大事な家畜をさらっていき、その引き換えに耕地に蒔く麦の種を吐き出した。次に人間の乙女をさらっていき、もっと痩せた高地にも育つ赤稗を吐き出した。」

「この間も蛇の話をしていたわね。」

 アドルナは言い、思い出そうと顎に手をあてがった。

「蛇がふたつに分かれてコタ・イネセイナとコタ・ラートになったという話だったわ。エフトプの始祖となった男は女の子の乗った筏を助けるために土くれを投げ、驚いた蛇はふたつに分かれた。―――その土くれはとても大きかったのね。どう考えてもちょっとした丘と同じくらい大きかったのよ。何故ってね、私の子供の頃、実家が少しばかり耕地を持っていたクノン・エファの界隈では大昔河が流れていたのだと言い伝えられているの。畑を深く掘ると大昔の貝がでてくるの。水に入れると解けて土になってしまうのよ。アツセワナの堅い地盤(キヌイ)に阻まれてコタ・イネセイナとコタ・ラートに分かれたのだろうと言われていたわ。アツセワナの丘の上には瘤のように盛り上がった小さな丘、ワナ・ダホゴイがある。きっとそれが投げた土くれだったのよ。

「もう少し北の、クノン・ツイ・イビスにはウナ・ツルニナという土地があって、特に誰のものという事もなく、長いことそっと置いておかれた。周りが拓かれ、誰かの家が立ち、畑が出来てもその場所だけはそっと置いておかれた。子供の頃に見たウナ・ツルニナは真ん中に静かな池があり、周りを木立ちが囲んでいたわ。この時期には池のほとりにきれいな菖蒲が咲いていたわね。」

姉妹の生まれた地(ウナ・ツルニナ)」アニは身を乗り出した。

「それはもちろん、サラミアとドルナイル、姉妹神のことだわ。小母さんの名も少し似ているわね。」

 アドルナは辺りを憚るように辺りを見回し、囁いた。

「今ではその姉妹が女神だったという者はいないのよ。」

「女が神様だなんて言ったら大変なことになるわね。」農婦が陽気に口を挟んだ。

「おじいさんたちは女房を()()()なんて言うけど、神様の身分がよっぽど下がったのでなければそんなことを言えるわけがないわね。風呂焚きさせたり、ご飯を出させたり」

 施療師の老女は含み笑いをした。アドルナは懐かしむように話を続けた。

「ウナ・ツルニナには様々な言い伝えがあったの。五穀をはじめとする全ての良いものはそこから生えて来た、とも言われていたわ。」

「穀物の種は人々と一緒に上流から流れて来たのじゃなかったの?」アニは尋ねた。

「一部外から伝わったものもあったでしょうし、もともとそこにあった穀物もあったのでしょうね。―――あの静かな池のほとりにすくすくと菖蒲の芽が上がってくるところを見れば、どんな草もそこから生まれるのだと信じてしまうでしょうよ、ものがどんな風にこの世に現れたのかを初めて考えた場所があそこで、それが子供だったとしたらね。いつ頃からだったか、そこには入れなくなってしまったけれど。周りの耕地もまとめてトゥルカン様がお買い上げになったということだったわ。」

「トゥサカはどこから来たのかしらね?コタ・ラートの西にはなかったのかしら。」アニは赤稗の袋を大事に隠しに仕舞い込みながら呟いた。そして農婦に振り返った。

「このニクマラからアツセワナにお嫁に行って麦、稗、胡麻、そら豆、エンドウ豆、それに黍の息子を産んだ女の子の話を知ってる?」

 急に尋ねられた農婦は驚いてかぶりを振った。「いいや!」

「それはむしろ、アツセワナの私の故郷の近くで話されていた話だったのよ。」アドルナが後を引き取って言った。

「ニクマラでその話が残っているとは思えないわ。」

「嘘の話だろ。」いつものごとく、まったく聞いていないような顔をしていながらキブが口を挟んだ。「嘘なんか聞いても損だよ。」

「面白い話なら聞きたいわね。」農婦が言った。

「話してごらんよ。」施療師の老女が言った。

 アドルナは時間を気にするように、稲田の田植えの者たちが休んでいる下の方の音に耳をすませた。まだぽつりぽつりと雑談をする声がきこえている。アドルナは急いで低い声で言った。

「面白いかどうか分からないわ。悲しい話よ。種を握って盥に乗って河から運ばれてきた女の子、というのが私たち子供うちではよく話された物語のひとつでした。他にも、ウナ・ツルニナの辺りで生まれたが洪水で家を無くし、たどり着いたのがニクマラだったとも言われています。いずれにせよ、その子はアトゥシルという名でニクマラからアツセワナに嫁ぎ、七人の息子を産んだのでした。初めの六人は立派な子だったのですが、七人目の子は病弱で足の立たない子だったのでアトゥシルはこれを恥じ、実家にこの子を残してアツセワナに帰ってしまったという事です。」

「その話ならニクマラにちゃんと伝わっているよ。」

 老女が持ち前の鋭い声で言った。

「年寄りなら皆知っているし、私は子供の頃にここにやって来て代々の郷の者から聞いたね。」

「じゃあ、その話をしてくださいな。」

 即座にアニが言った。下の田では監督が昼休みの終わりを告げ、人々が談笑をやめて、風の音を聞きながら午後の作業へと取り掛かっていくところだった。

 初めから田植えに加わっていないアニとアドルナと、期待の数に入っていないキブと農婦、そして誰もそこにいるとは知らない施療師の老女は、焼いた田の畔端に腰をおろし、物語を始めた。


   太陽と月と稲の少年と蝶の少女


 アトゥシルは北の地からやって来た娘だった。どこで生まれたのかは誰も知らない。器量よしで働き者で、この娘が土にものを植えれば何でもすくすくと育った。湖畔(ニクマラ)の村人はたいてい魚を獲って暮らしを立てていたが、次第に雨の後の大水を避けて丘の上に住むようになった。この娘が何でも()り物を上手に育てたので、乾いた陸の上でも食べるものが取れるようになったからだ。

 アトゥシルが年頃になったころ、北の大きな丘から立派な牛の群れを連れた若者がやって来た。牛を見た村人たちはその見事な牛が大人も子供もいっぺんに養えるほどの乳を出し、その糞が畑の土をこの上もなく肥やすのを見て欲しがった。若者は相応の対価が無い限り牛は譲れないと言った。村人たちは次々と娘たちを若者に引き合わせたが、若者の気に入る娘はいなかった。村人たちは最後にアトゥシルを連れて来た。若者はアトゥシルを妻に迎えることと引き換えに立派な雄牛と牝牛を一頭ずつ村に譲ることを承知した。

 アトゥシルは美しく丈夫な息子たちを次々と産んだ。中でも初めの五人の子は優れていたので父親は喜んだ。奇妙なことに子供たちは片方の拳を握ったままだった。父親が良く耕した自分の畑に息子たちを連れて行くと子どもは土の中に拳を埋め、するとたちまちその手の中から、麦、稗、胡麻、そら豆、エンドウ豆が生い出てきた。後に生まれた息子たちも何かしらの役に立つ作物を育てた。

 ところでアトゥシルが最後に産んだ子は弱く足の立たない子だった。この子もやはり拳を握っていたが、自分で畑までは行けず、と言って両親がなだめすかしても叩いても掌を開こうとはしなかった。父はあきれ果て、母も恥ずかしがって、とうとうこの子をニクマラの田に置き去りにして北の丘に去ってしまった。

 村人たちは何とかこの子を養おうとしたが、この子は少しも大きくならず、立てるようにもならなかった。しかも、子供の父アコマイの残していった牛が途方もない大食いで、飼い葉の他に丘じゅうの草木、果ては大事な作物まで食べ始めたので、村人たちは皆で集まって、牛を潰そうかそれともひ弱な子を刻んで牛に食わせようかと相談し、子供を殺すことにした。牛はまだ仔も産めば乳も出すのだからと。

 湖の水かさの増す春先に村人は水辺に下りて鎌を研いだ。すると湖の東から光り輝く太陽が近づいて来た。太陽は村人に何をしているのかと尋ねた。村人は少年を指差し、この餓鬼は自分で太れもしないから牛を太らせるために刻んで餌にするのだと答えた。

 太陽はその言葉を聞くと水の上から陸へと上がった。太陽が近づくと少年の蒼白い頬はどんどん赤みをさして肉付きが良くなり、しまいには黄金色に輝いた。太陽が呼ぶと少年は自分の足ですっくと立った。しゃんと立ったのは少年だけではなかった。すべての地面に眠っていた種、地上の枝から芽があがった。

 太陽は少年に地の中に拳を埋めるように命じた。少年はすたすたと歩いて行って拳を埋めた。しかしどうしても拳を開くことは出来なかった。太陽は妹の月を呼び、自身は西の山の端に去った。

 月は蝶の少女を連れてやって来た。月は少年を眠らせ、少女はその耳に大地と水と夏の光の歌をうたった。朝、再び太陽が戻って来ると、少年は目覚め、少女は衣の袖で優しく風を送った。太陽がふたりの上を通り過ぎると、ついに少年は手を土の中から抜いた。そこには一本の稲の苗が生い出ていた。

 この穀物はたいそうよく実った上に旨かった。村人は見違えるように立派になった少年にとどまってくれるように頼んだが、少年は太陽が遣わした舟に乗り、東の国へと去って行った。

東の国は少年と同じように黄金色の肌をした人々が住んでいた。人々は蝶の少女と同じように、万物に語り掛ける歌謡(ヨーレ)で少年に語りかけた。それはいつも育つように実るようにと命じていた。啞者だった少年は次第に言葉を覚え、ある時訪れた太陽に言った。

「私は私に相応しい人々のもとに来ました。私は彼らと同じように生き、契り、子を育てたいと思います。」

「お前の命は短く、お前の命は多い。お前が彼らと契ることはなく、子を育てることも無い。」

 太陽は答えた。

 太陽は稲の少年を月のもとに預けた。月は稲の少年を蝶の少女と一緒に育てた。ふたりを高い山の上に置き、自身はもっと高い空の上から見張っていた。月が顔を背けている時、半分を闇に隠している時、蝶の少女は同じヨーレしか歌わず、少年が話しかけても答えなかった。

 ある夜、月は高みから冴え冴えと輝かしい顔をすっかりこちらに向けていた。月のいる場所は遠く、光は広く山の上を照らしていた。風がひとひら、月の面に薄い雲のベールを掛けた時、少年はため息をついた。

「私はすっかり実っている。人なら良いひとと子をなし育てられるのに。」

 不意に蝶の娘がため息をつき、いつもとは違う言葉を漏らした。

「毎日毎日糸を繰り、機を織り、糸を繰り、機を織り。私の機は仕上がり新しい袖も出来た。人の娘は良い人と一緒になるものを。私も良い人と一緒になって子を育てたいなあ。」

 その言葉を聞いた稲は蝶を呼び寄せた。蝶は飛んで来て真新しい袖で稲を抱きしめた。

 その時風は雲を払い、月は煌々と照り輝いた。あまりの明るさにふたりは思わず空をふり仰いだ。月は輝きつつ警告を発していた。

「私を見よ。私はお前たちを見張っている。お前たちが慣習を破ることは許されない。お前たちの命は互いのものではなく人々のものだ。」


 老女が言葉を切り、アドルナを見て、あんたの話はおなじだったかね、と尋ねるまでのかなり長い間をアニは続きの物語を待って耳をすませていたので、驚いてふたりを見比べた。

「少し違うようです。稲の少年は兄弟たちを追って北へと旅をするのです。」

「それは聞き手を少しばかり気楽にするね。」老女は静かに言った。「手を汚す者を、私とも言わずあなたとも言わず、その場から隠すことでね。とはいえ、今夜ご飯が出たら皆これまでとは違う味がすることだろうよ。あんたは茅で手を切って痛みを知ったんだ。穀物の頭を刈る資格があるよ。」そして農婦とアニに振り向いた。「あんたたちの手は先にそれを知っている。」

「―――あの子はどこへ行ったかしら?」

 アドルナはキブがいなくなったのに気付いて辺りを見回した。

「ずっと前に立って行ったようだけれど。」農婦は答え、首をすくめて囁いた。「とっくに仕事の時間だったよ。いいさ、ここを手伝うよ。何をすればいいの?」

 アニは立ち上がって鍬を手にした。半日は田植えの仕事をするという約束だった。しかし、アドルナも女も彼女の方を見、若ばあさまが行李を持って立ち去ったと見るとすぐにキブがふらりと戻って来て、残った焼き跡を耕しはじめた。アニは隠しから再びトゥサカの袋を取り出すと、女に手渡した。

「地面を均して、五分ほどの穴をあけて三、四粒蒔いてちょうだい。手幅くらい間をあけてね。」

 キブとアニが鋤きかえした地面に、女達が種を蒔いた。やがて、耕し終えたふたりが種蒔きに加わり、夕刻、下の田の田植えが終わる頃にはトゥサカの種蒔きはすっかり追いついていた。

「どんな芽が出るか楽しみだわね。」

 農婦はこっそりと帰ってゆく列の後ろに加わりながら言った。

「稲とほとんど同じよ。後は大きくなるまでに少し間引いて、倒れないように土をかけてやるの。」

 アニは人のいい農婦に振り向いて答え、感謝を込めてささやいた。

「あれがちゃんと育って小母さんにご馳走できたらいいと思うわ。」

 農婦は目をぱちぱちさせ、小さく笑みを浮かべたが、控え目な声で言った。

「まあまあ、小作料が払えるところまでいけば上等だわね。穂を結ぶとこまでいかなけりゃ牛に食べさせてお終いだし、見張ってなきゃ蛾に荒らされるし。」


 トゥサカの芽が出そろうまでに、菜園では収穫の済んだエンドウ豆が取り払われて葉物が植え付けられ、耕地には燕麦が蒔かれ、蕎麦が蒔かれた。

 田植えの日以来、領内の警備の様子は変わった。城郭の歩哨が増え、正門はいつも門衛を配置して閉ざされ、使用人の通用門や百姓門でさえ、出入りの無い時は閉められた。城郭の外の仕事にも兵が四隅を固め、その警戒は外ばかりでなく、内で働く者たちにも怠りなく向けられていた。

 アニは時々は田を見に森を通って外を出て行ったが、行きも帰りも見張りの兵が目を光らせていた。

 ある時、正門に近い外郭の内の菜園で草取りをしていると、外で門衛と誰か老若男女を含む複数の者が言い争う声がした。ひと月足らず前に同じようにやって来た者たちには、彼らが新たにどこからか来た避難民だと見当がついた。まず、畑で作業していた者たちが百姓区に返され、その後で正門が開けられ、避難者たちの検問がされた。その後、百姓たちの噂で聞いたところによると、主水路(アックシノン)の周辺から逃げて来た第五家の外百姓たちだと分かった。

「やっぱり、言った通りだ。」皆は口々に言った。「百姓がばらばらでいればたちまち匪賊の餌食だ。」

 移って来た農民たちは初め、内百姓区の空き家を貸し与えられたが、そのうち人数が増えると外郭の外の耕地の納屋にも割り振られた。彼らは食糧目当ての賊に押し入られ、脅されて逃げて来たのだと言った。田畑は、穂の出かけた麦が少し馬に荒らされ、水路が踏み荒らされたところもあるがまだ作物は育っている、家族を先に逃がし、男たちの何人かはまだ用心しながら水路の番をしているのだそうだ。

「一時ご厄介になるだけだ、戻って田を見ねばならないんだ、そう殿に訴えたそうな。」コートルが、領主が避難者たちに引見した時の模様をスズカケの木の下で内百姓たちに話して聞かせた。

「どうも、賊を追い払うのに兵をさし向けて欲しい様子だった。おれのいる場ではそう口にしたわけではないが。」

「こんなに遠くからかい?もっと近くのイビスだの第三家(カヤ・アーキ)だのは助けてやらんのか。」

「そりゃ、連中は放っておくだろうさ、どちらも我がことで手がいっぱいだし。そうでなくてもだよ、主のいない百姓が独り立ちするのを助けるよりは、音を上げて自分の家の小作になってくれる方がいいものな。」

 百姓たちの噂通り、避難してきた男の大部分は家族をニクマラに置いたまま、二、三日後には五里も離れた田畑へと戻って行った。村には気兼ねそうに井戸の水を使い、竈の前に並んでパンの配給を受ける母子の姿が見られた。

「知っている子はいる?」少し離れてその様子を見ていたキブにアニは訊いた。

「いない。ほとんど会ったこともないや。」

「収穫祭の時も?郷のお百姓は皆集まるでしょう?」

「そんなもの、やった事ないよ。」キブは言い、この頃ではあまり見せなくなった、胡散臭げな目でアニを見返した。

 一度農地に帰った百姓たちとは違う者たちがまた逃げて来、日を追うごとに、城壁に下に寄り集まって保護を求める人々の数は増える一方だということだった。アニは一度、コートルに連れられて登った外郭の歩廊に上がって遠くを眺めてみたいと思い立ったが、衛兵に厳しく阻まれた。

「格別の用がない者は上に登るのはならん。」

「火つけの娘っ子が、高いところになんだ。」通りすがりの男までがかかりあった。

「私は(アニ)だもの。」

 アニはそう答えたが、男は剣呑な目をして通り過ぎて行った。アニは、仕事が終わってからコートルを探してもう一度城壁に登れないか尋ねた。

「何故、上るんだ?」

「上から耕地を眺めてみたいの。どのくらいあるのか知りたいのよ。」

 コートルの顔が途端に腹を立てたように赤くなった。

「そんなことを知ってどうするんだ。」男は怒鳴るように言った。「一度見れば分かろう。だいたい、上がって見たところで隅々までは見えんよ。」

 アニは、説明しかけたが、相手の怒った顔を見てやめた。その代わり、職人区の方から内百姓集落に用事を聞きに来ていたエマオイをつかまえて尋ねた。

「内の耕地が五十町歩強、谷の西の外の耕地が百町歩弱だ。」エマオイは即座に答えた。

「何故、そんなことを訊くんだ?」

「この郷にはたくさんの人がいるわ。お城の中の人たちを見たことは無いけれど。」

「城の中には職人区と同じくらいいるよ。郷全体ではあんたたちが加わって六百人に少し足りないくらいかな。」

「今、穀物の植え付けられている畑は四分の一くらいでしょう。」

「それはあんたの方が詳しいからな。」

 修理の受付や品物の注文を取るのに忙しそうにしながらも、エマオイは他の質問は無いかとアニを見やったが、アニは考え事をしながら家へと帰って行った。

  

 城壁の外の麦畑は色づき始めた。東の斜面の四つの田で稲は順調に伸び、小さな田のトゥサカも生えそろい、何本にも分かれた芽で窮屈そうになった。分けた株をまた植え付け、次々と田に入り込んで発芽する雑草を抜くのに毎日半日もの時間を費やした。

「あんなに小さな種からこんなに丈夫な茎がのびるなんて不思議なことね。」アドルナはしみじみと言った。「私の手で蒔いた種からもちゃんと育ったのだわ。」

「雑草もよ。」アニは辟易して長い丈夫な絹糸のような根のついた草の芽をつまみ出しながら言った。

「それこそ植えてもいないのにあっという間にのびてくるわ。私はトゥサカが伸びるのが待ち切れない。早く穂を出してどっさりと実ってくれないかな!全然間に合わないわ―――人がどんどん増えて来るのにも、新しい物語を探しに行くのにも。」

「探しに行く?」アドルナは訊き返した。「エファレイナズはどこも危険よ。」 

 諭すようにしながら、その声には年若い友が去ってしまうことへの懸念が滲んでいた。

 野良で手に傷を負って以来、アドルナには館での仕事は無かった。手がしびれて力が入らず、裁縫などの細かい仕事はもうできないのだと言っていたが、ふたりにはもう分かっていた。第五家(カヤ・ローキ)の主家の内で働いていた者と火つけ雀(チャガラニ)は、助け合っていく他にこの村での居場所はなかったが、この取り合わせは互いに立場をはかばかしくするものではなかった。仕事の時は、アニ、キブ、アドルナの三人はいつもまとめておかれ、城内の区画を移動するだけでも細かく用事を聞かれた。

 田植えから半月もするとコートルが三人を呼び、これから毎日稲田の草取りに出てくれ、と言った。通うに一里にもなる田の仕事で、アドルナは館の西翼の養老院にいる老夫婦にすら会えなかったが、外に出てもいいという事はもう疑われてはいないという事よ、と言った。ニクマラの郷の者の目が冷たくなるほど、アドルナは身を低くして耐えようとしたが、アニは村の外の景色を思い描きはじめていた。

「そのうちニクマラの食糧庫が持ちこたえられなくなった時に、私は先に出て行かなくてはならないと思うの。」

 ある日、トゥサカの田の草取りをしながらアニは言った。

「そして、それはトゥサカが色づく前なのじゃないかという気がするわ。」

「食糧が足りなくなるということ?もし、このニクマラで食糧が足りないとしたら他に足りるところがあるかしら。それに、足りなくなったとしても、あなたひとりが出て行ったからと言って、主水路(アックシノン)の村から逃げて来た人や―――私のようなカヤ・ローキの者が助かるかしら。」

 やや冷たい口調でアドルナは言い、下の稲田で草取りをしているキブの方を見やった。上下の田で三人の他に出ている者はひとりもいなかった。アニは引き抜いた草束を、枯れ草を積み上げた山の上に放り投げるために立ち上がった。

「そうね、私は沢山食べる方だと思うけれど、それでもひとり分に過ぎないわ。それを小母さんの分かキブの分にしておくわ。私は次の物語を探しに行きたいの。ここでは見つかりそうにないわ。だって私が聞きたいのは―――まだエファレイナズに王がいた時の頃で、女神を崇める人々が東の国から絹を持ってやって来る話だもの。」

 アドルナは草の根を切っていた鎌の刃先を地面の上に止め、顔を上げた。

「その話なら私にも話せるわ。ねえ、アニ、だから急いでここを出て行くことはないわ。」


 その日の帰り道、アニは赤稗の田を起した日に辿ってみた、いつもより下で本道に合流する森の中を、膝丈近くまで伸びた草を分けながら帰った。どうしてそんな遠回りをするのかと文句を言うキブには答えず、アニは出て来た道の向こうを確かめるように伸びあがって眺め、次にひょいとかがんで地面を覗き、後はすたすたと本道を門に向かって戻り始めた。

「この近くに烏の巣があるかもしれないなと思ったのよ。前に鳴き声を聞いたから。」

「烏なんてどこにでもいるよ。」キブはつまらなそうに言った。

 少し斜面を登ると、門までの道の右奥に広々と作られた麦畑を道から隠している外縁の森にまで、大勢の人のざわめきが聞こえて来た。そこに仮小屋をたてて暮らしている主水路(アックシノン)の村の避難民たちだった。朝はそれぞれ静かに家ごとに起き出して用をしているのが、夕刻には一斉に仕事から戻るために数倍も賑やかになる。内百姓たちはとうに城壁の中に戻ってしまっている頃だった。アニはそっと木立ちの中に入っていって、畑の脇の草地にいる人々や、森との境に立ち並ぶ掘立小屋を数えた。

「何をしているんだよ!」

少し後ろを小走りに追いついて来たキブは囁き、小屋の前で泣いている子を折檻している男の姿を見ると、腹立たしげにアニの肘をつついて道へと戻った。

「ちっとも足りていないんだわ。」アニは呟いて、戻って来た。

 東の丘の麓に横たわる小川には、水を求める人々がありあわせの器を手にして立ち話をしながら列をなしていた。もう見慣れた光景だ。だが、移り始める季節に着るものの替えが追い付かず、暑そうに襟元を開け、髪も乱れている。少し離れた羊の囲いの前ではふたりの農夫がそれとなく彼らを見張っていた。

 村に帰ると、コートルがスズカケの木の下で三人を呼び止めた。エマオイが出来上がった靴を届けに来たのだった。

「いや、いい靴じゃないか。それで踊りでもするかね。」珍しくコートルが冗談を言った。

「丈夫そう。良かったわね、キブ。」アニは、ふた揃いの靴を見比べて言った。

「大きいや。」足を入れてみてキブは言った。

「お前はまだ大きくなるだろう?苔でも詰めて履くんだな。」

「靴下を編んであげるわ。」アドルナは言った。「もし、毛糸が手に入ったら……。」

 ふたりの靴の履き具合を試しているエマオイの横で、コートルが頃合いを見て言った。

「アドルナ、あんたの連れの老夫婦だが、内郭から、ここに移ってもらうことになった。迎えに行ってくれ。おれも一緒に行くから。」

「何かあったのですか。」

 アドルナは屹として見返した。

 コートルは何かを探すように面をそらし、寝具や敷布、椅子などが足りるかな、と呟いた。

「私も行くわ。」アニは思い立ったように言った。

 エマオイは家に帰る途中だからと言って、三人を境の通用口から職人区の中に通し、内郭の門まで案内した。

 コートルとアドルナは西翼の棟の端にある養老院に老人を迎えに行き、アニは話があるのだと言って、執事の家を訪ねて行った。


「軒先に宿りをさせていただいております雀でございます。温情の(かた)にお預けしている種のことでございます。」

 取次の者は、百姓の少年のような汚れたチュニックを着たままやって来たアニを見てすぐさま締め出そうとした。が、ちょうど帰って来て戸口のところまでやって来ていた執事は、高い歌うような声で呼び歩いている少女の姿と、くたびれた二枚貝のように中途半端に開いた扉を見て不機嫌そうに足を止め、呼ばわった。

「今帰った。開けろ。なんだこの騒ぎは。門付けの歌うたいが来ているのか。」

 閉まりかけた扉が開いてそそくさと主を迎え、また閉まろうとするところに割り込んだアニが預けた種と借地料のことを切り出した時に、初めて思い出したように執事は振り返り、取次に戸を閉めるのを待つように言った。

「田を焼いて騒ぎを起こした娘だったな。」

 玄関間に立ちふさがって執事は厳しい目つきで娘を見た。

「穀物は普通の草より弱いんですもの、強い茅の根を先に焼いてしまわないと蒔きつけが出来なかったんです。」

「ここは田の出来具合を聞く所ではない。土地の貸し付けをし地代を取るところだ。収穫の前に引き払うというなら仕方がない。ただし種を戻してはやれんぞ。」

「承知です。田を引き払うつもりはありませんし、赤稗は育っています。」

 アニは背を伸ばして執事を見上げた。

「蔵の蓄えが心配なのです。」

「百姓の心配することではない。蔵の差配は殿と顧問の年寄りが協議して決めている。帰りなさい。」

 執事はくるりと背を向け、取次の召使は戸を閉める前にアニを外に押し出そうとその肩に手をかけた。アニは小さな肩をいからせて声を張った。

「どうして、間近に田を見ている者をただ(なり)が小さいからと言って侮り、目を向けないのですか。私がここで働きはじめてから一度も領主様もご子息様も外を回っておられるところをお見かけしたことはありません。私の知っている郷では、領主は毎朝直に田畑を回り、作物の出来を見ておりました。作付けや収穫の配分の協議には、一門の者なら女であっても参加できたものです。」

 執事は振り返った。

「それはどこのことを言っているのだ?」

「コタ・レイナのある小さな郷です。」アニは素早く囁いた。

 執事は手招いてアニを中に入れ、戸を閉めさせ、手真似で召使を下がらせた。そしてまだ日暮れ前の弱い灯りの差す窓辺に寄り、少女をじっと観察した。

「そこでは十五年前の噴火が起きるまでは領民の倍もの人の口を養えるほどの収量があったのです。近隣の村が不作の時でも十分にまかなえたのです。ところが噴火が起き、灰の降りつづけた五年間の間に収量は四分の一以下に減り、そのうち食用に回せる分は三分の二。郷の領民は半分に減ってしまいました。」

 窓辺に立つ難しい顔を見返しながらアニは生真面目な顔つきで話した。

「森の木の実や草の根で命をつないだそうです。ここではあの土地より五割増しの耕地があるということですが、領民の人数は倍です。」

 執事は面こそ動かさなかったが、口の片端をひきつらせ、穏やかな口調で言った。

「あんたの知る由もないことだ。」

「百五十町歩の耕地に六百人もの人。そこにこのひと月で二百人もの人が来ています。」

 アニの目は、執事の後ろに見える次の間の棚に積まれた帳簿にとまった。

「最も栄えていた頃のニクマラと同じ数だ。領内の人の数と収穫高、取引高は常に記録されている。」

 執事はアニの見ているものに気付いて言った。

「休耕の田を除くすべての土地を働かせ、湖の水運と水揚げされる産物で当時は豊かだった。―――とはいえ、噴火の痛手から立ち直ってもう十年以上にもなるし、その間、ニクマラの領内の者が飢えたことはない。今も農地の作付けを増やすことを検討している。だが、それはあんたの心配することかね?だいいち城郭の外にいる避難民だが、彼らをわが郷の者と見なす必要があるかね?彼らは彼らが世話をしている田畑があり、作物が育っている。郷からは護衛をつけて見に行かせている。賊も彼らの田には手を出していない。収穫の時に、百姓は自分たちの分を得るだろう。」

 アニは首を振った。

「田を荒らす者はいつも食べ時を狙うもの。鹿は若芽どきを、鳥は結実を。盗人は麦が熟れるのを待っているのよ。そして、彼らが田が誰のものかなどと考えるかしら。」アニは首を傾けて考えた。

「人だってそれぞれに違うことを考えるわ。それは耕したお百姓のものか?それは亡くなった領主のものか?それは誰のものでもない、ただ麦の実った土地か?―――鹿や鳥に聞いても駄目だけど、言葉が通じる相手なら聞いてみなくては。ニクマラの領主ミオイル様は、主の亡くなったカヤ・ローキの農地の収穫を当てに出来るとお考えなのですか?」

 執事はじろりと目をくれた。

「アニ、コタ・レイナの郷はいざ知らず、あいにくこのニクマラでは女や百姓を館の会議に加えるしきたりは無いんだ。ところで、あんたはどうするつもりでここに来たのかね?中途半端な思い付きを郷の者に言って回って不安や不満をかき立てるのかね。」

 アニはあからさまな不興に逢い鼻白んだが、ふと、何か空に書かれた答えを読むかのように言った。

「いま自分のものでない米粒はあてにするものではないわ。私自身がこれを分からなくては。雀にとって蒔いた種は隠れて見えないもの。いずれ収穫はあるかもしれないけれど、見えるまでは無いと同じもの。十分な米がある田に移るだけだわ。―――私は赤稗(トゥサカ)の田を引き継いでくれる人に今期の収穫を譲り、次に移ろうと思います。」

 執事は耳で聞いた不可解な言葉を反芻するように改めて少女を眺め、やや表情をやわらげた。

「あんたひとりが出て行って二百人の口が助かるものでもない。慌てずにここにいなさい。出かけるにしてもまたいい折もあるだろう。ところで、前にも訊いたが嫁に行く気はないかね。あんたが殿に意見を出来るなどゆめゆめ考えちゃならんが、そこそこの男の家を上手に切り回すことはできそうだ。」

「嫌です。」アニは即座に答えた。

「もしここを出たらどこへゆくつもりだね。」

「トゥサ・ユルゴナスです。」アニは答えた。

「なるほど。トゥサ・ユルゴナスを検討する価値はあるだろうな。帰りなさい」

 アニは会釈をしてくるりと踵を返すと、自分で扉を開けて執事の家を出た。


 広場を横切り、職人区に通じる門の前に差し掛かった時、アニは短い女の悲鳴を聞き、三々五々工房から宿舎へと通りを横切っていた職人たちが門前めざして駆け寄って行くのを目にした。

「いや、ほんの先の百姓家に引っ越すだけだ。」

 人々が取り囲んで尋ね、助力を申し出る中、コートルが不機嫌に言う声が聞こえた。

「こんなに具合が悪いと分かっていたら担架を用意しておくんだった。」

 集まった人の中からエマオイが抜け出て来、コートルの向いにかがみ、ふたりして肩を寄せ合うように腕を組み合わせて倒れた老人を抱え上げた。アドルナが泣いている老人の妻を励ましながら、散らばったわずかばかりの身の回り品を拾い集め、男たちのあとについて歩き出した。アニはアドルナを手伝おうと駆け寄り、抱えられた老人を見て立ちすくんだ。

 老人は少し喘いで頭をコートルの肩にもたせ掛け、虚ろな目で空を眺めている。こめかみと頬の皮膚が薄く下の骨を覆い、浅く息の漏れる唇から歯茎がのぞいていた。

 後からやって来た職人たちと閉まる門扉に背を押されるようにして、アニは門の内に入り、急いで一行に追いついた。

「死に目に間に合うように身内の家に帰される。城のしきたりだ。」エマオイが淡々と言った。

「どうしたらいい?」

 アニはそっとアドルナに近寄って行って尋ねた。アドルナは弱々しく微笑み、老女は呆然と見返しただけだった。

「私、先に帰って家を温めておくわね。」

 アニは前に回ることを詫びて、職人宿舎と作業場の間の通りを小走りに抜けて行った。

 火を焚き、老人の身体を拭く湯を沸かそうと小川まで水を汲みに行って戻って来た時、病人を運び込んで戸口から出て来たエマオイと鉢合わせた。

「あんたは執事に何を言って来たんだ。」エマオイは尋ねた。

 アニは、ニクマラの食糧庫の見通しを話した事と赤稗の収穫を待たずに自分が旅立つつもりだという事を話した。

「貸し付けた種物に割増しをつけて返してくれるように頼んだかね?田を引き継ぐ者と自分の名とを書付に残して収穫されたものの半分を受け取れるようにしてくれるよう、頼んだかね?」

 アニは、エマオイを見返し首を振った。

「働いていながら、出て行く時には来た時よりも無くしている。しっかりしろ。」

「今すぐ出て行くわけじゃないわ。どうするつもりか言ったけれど契約を取り消して来たわけじゃないもの。」

「そうだといいが。」

 エマオイはすっかり日の暮れた中を帰って行った。

 狭い百姓家の中は突然増えた住民で手狭になった。コートルの家から戻って来たキブは戸口から出たり入ったりしている。せっかく履いていた新しい靴を脱いで両手に握り、老夫婦のいる側に見えない壁があるかのように近寄らなかった。

 老人は粗い喘ぎを続け、蒼白になって目を開いた。アドルナは老人の上体を抱えて横を向かせ、背をさすった。老人は咳き込み、呻きながら絞り出すように洗面器に水を吐いた。

「やめておくれ!あんたはこのひとを苦しめているよ。」老女がアドルナの腕を老人から引きはがした。

 長い呻きが終わると老人の目が閉じ、か細く長い息の下で再び眠り始めた。アドルナは大人しく洗面器を持ってその場を立った。老女がむせび、キブは小さく舌打ちをし、靴を下に落とした。

「中に入ってお座りなさい。」アドルナが目顔で諭した。

「命令するなよ。女のくせに。」

 アドルナはいつになく厳しい眼差しでキブを見返した。

「あんたのことは兄さんがここにいなくても私が預かっているんですからね。戻ってきたらちゃんと仕事を教えられるようにね。」

 キブは途端に顔を歪めた。開いた戸の外から、コートルが村人たちに埋葬の手伝いに出られる者はいるか、と呼ばわる声が聞こえて来た。

「あの野郎」

 老女が声を上げて少年の罵りを遮り、睨みつけた。

「戸をしめて。そしてどこでもいいから座って。」アニも鋭く囁いた。

「スープを温めるんだから。あんたがうろうろ歩き出したらもう一回余分に温めなくちゃならないのよ?煮返すたびにスープが減るのよ?」

 少年はそれを聞くとぷいと出て行った。戸がばたんと閉まり、表で様子を気にしていた村人も囁きを止めて去り、コートルの声も遠のいて表は静まった。

「漱いでくるわね。」アドルナは洗面器を持って言った。

 長い時間をかけて戻って来ると、アドルナはアニに言った。

「あの子は家の裏にいるわ。他にどこへも行けないんですもの、可哀相に。」

 アニは火から下ろした鍋を見やった。

「長い夜になりそうね。」

 寝台に突っ伏したまま眠ってしまっていた老女をふたりして敷いた筵の上に寝かせた後で簡単に食事をとり、前にいるには暑くなってしまった炉辺を避けて戸口の脇に座った。

「キブは戻ってこないわね。」

「意地を張っていて戻るに戻れないのよ。私にも分かるわ。」アニは訳知り顔で言った。

「大丈夫。私が家を飛び出した時よりは随分暖かくなっているもの。―――きっと知らん顔で戻って来るわ。でも腹ぺこのままね。」

「あなたはひとりでここまでやって来た。でも、ご両親は健在ね。」

 アドルナはさらりと言ったが、アニはぴたりと一瞬動きを止めた。

「―――本当のところは分からないわ。」

「それでも、無事でいることを信じていられるのね。」しみじみと言い、まなじりに長くしわのよった薄い茶の瞳でアニを見た。

「あなたはエフトプから来たのかしら?コタ・レイナに降った灰はアツセワナよりもずっとひどかったというけれど、あの土地の堅実で芯の強い人柄はかわらないのね。あなたを見ているとコタ・ラートの東のほうがここよりも早く回復し、豊かになってきていることがわかるわ。昔はコタ・ラートの向こうからアツセワナの市にやって来る人たちが大勢いたし、丘の上に訪ねてくるコセーナやオトワナコスの若い方々は逞しくて気さくで娘たちに人気でしたよ。」

「そう?」アニは少し嬉しげに尋ねた。

「そうよ。私の兄が、このニクマラの外門まで一緒に来ていたのを覚えているかしら?」

 アニはちょっと首をかしげて考えた。

「初めてニクマラに来た日に先に呼ばれて入って行った男の人?あの日以来会っていないわ。」

「そう、会えていないのよ。兵舎にいる知り合いの(ひと)の話によると、しばらく一緒に西の丘の塔にいたそうだけれど。」

 その面に度々兆す不安の影が、この時はっきりと眉根に刻まれたが、アドルナは強いてそれを振り払い、話し始めた。

「私の兄はカヤ・ローキで出納長だったの。まだ若い頃、先王シギル様がアツセワナに領主の子弟のための学校を開かれた。短い間だけれど、兄はその頃、主の言いつけでご子息の付き添いとして城内に出向き、行儀や修辞学を学ぶ一方で、先生としては算術から経理までを教えていた。初めの五年間だったから、ちょうどコセーナのご兄弟がおられた頃ね。その後も何度か顧問として王宮に呼ばれている。私もまた、兄のつてで城内の催しで人手の足りない時には手伝いに呼ばれて行ったものよ。第五家から宰相家や第三家に嫁いだ方の縁もあったので、そちらのお邸に呼ばれたこともあったわね。」

 アニの目が、強い好奇心をあらわして見返したのを認めて、アドルナは静かに尋ねた。

「どこから物語を始めたものかしらね?」

 アニは深く息をつき、低い屋根裏の垂木のあたりに目を逸らした。やがてその奥の、煤けた藁屋根のあるはずの闇に、何か違う風景を透かし見るように言った。

「前の王様の御代、第二回の“黄金果の競技”の後、アツセワナに帰って来た王女に何が起こったのかを聞きたいわ。」

 





 


 




 




 

 

 

 


   








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