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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第四章 水の語り 2

 すっかり明るくなり何もかも準備の整った朝食の卓に、シアニは空いている長椅子の端を見つけてそっと滑り込んだ。既に髪を整え鳥小屋と畑を見て来た妹のひとりが、事も無げに皿と匙を渡し、パンを回した。

 バギルがちょっと眉を上げ、うなずいている。万事申し合わせ済みのようだ。大事にしてもらえるのは気分がいいけれど、張本人の私にはいつ話が来るのかしら?不確かな事を小耳に挟んだきりじゃ落ち着かない。

 食事が終わると子供たちは蜘蛛の子を散らしたようにさっさと仕事に出かけて行った。

「コタ・ラートの壁はどのくらい出来たのかしらね?」ロサリスが台所でバギル夫妻に尋ねている。

「橋の前は塞がってしまったかしら」

 さあな。バギルが不機嫌に答えた。橋の前なんかは真っ先に塗りこめてしまえばいいものを、よ。

「あの子達、よく頑張ったわ。煉瓦を作り始めてからもう八年になるのよ。」

 コタ・ラートの沿岸に、火山灰の煉瓦を積んで防壁をつくりに行っている若者たちは、堤に仮の壕を掘って寝泊まりし、滅多にコセーナまで帰ってこない。

「一度見舞いに行こうと思うわ。色々と不自由しているでしょうから。次にパンを焼く時はうちの分を一度我慢しましょう。」

「少しだけ取り分けてもいい?」シアニは口をはさんだ。「私もパンをあげたい人がいるのよ。」

「誰に?」バギルが訊いた。

 シアニは、答えずに言い足した。

「イチジクとクルミを入れていい?去年どっさり取れたでしょう?」

「いい考えだわ。」ロサリスは上の空で相槌を打った。

 バギルと妻は心配そうにロサリスを見ている。当分私にお鉢は来そうにないわね。

「母様、縫物は午後にするわね。私、畑をちゃんとするのにいろいろ探し物があるの。物とか、人とかね。」

 シアニは外に出、前庭から出る揚戸を押し開けた。新葉の広がり始めた木立ちとまだ隙間の目立つ垣に沿って巻き道を駆け下りていくと、厩の下の段の揚戸の向こうに、垣に取りついた影が透かし見えた。外働きの頭巾をつけた五十年配の女が、揚戸を開けようと揺すぶっていた。

「どうしたの小母さん」昔から見知ったコセーナの農婦の顔に、シアニはすぐに声を掛け、戸を開けてやった。

「アニ嬢ちゃん。ひいさまはおいでかね。」女は不安げな目と疑いの入り混じった眼差しで辺りを見回しながら言った。

「ええ、いるわ。ついて来て。」

 シアニは、女の先に立って丘の上へと戻った。女は胸に手を当てて息をはずませながら、シアニの後からついて来た。

「ここよ。母様、コセーナから訪ねて来た人よ。」

 まだ居間にいたロサリスに女を引き合わせると、女はすぐさま用の続きに行こうと身を翻すシアニが姿を消すのも待ちきれずに、頭巾をかなぐり取りまくしたてた。

「後生でございます。妹の居場所を教えてくださいまし。」

 思わず立ち止まりかけるシアニに、行きなさい、と目顔で促してロサリスは女の腕を取って奥に導き入れた。

「落ち着いて。こちらにお掛けなさい。」

 バギルの怒った声がロサリスの声にかぶさる。藪から棒に何だ。こちらの方で(せん)からあんたの妹を寄越すな、と言いたかったところだ。

 女房がなだめ、ロサリスが叱る間にも細く漏れ聞こえる女のすすり泣く声を振り切って、シアニは丘をコセーナの方へと下りて行った。

 訪ねて来た女の妹というのは、四十も過ぎた寡婦で、去年の秋、長年暮らして来たイビスから帰って来た者だ。ひときわ人当たりのきつい女だが、羊毛を紡いで縒るのがうまいので、ロサリスがハーモナに呼んだり、コセーナに出かけて行ったりしては一緒に仕事をしていた女だった。

 アツセワナから戻って来た者たちは全体にロサリスにはよそよそしく振舞っていた。いや、彼らがやって来てからというもの、ずっとコセーナに住んでいた彼らの縁者たちも何となく様子が変だ。どうしてとりわけ無愛想な女が母さんに近づいたのかしら。何故母さんはそばに置いたのかしら。仕事が出来ると言っても、いなくて母さんが困るほどでもなかったのに。この女、一度、行商人の風体の男と森の際で立ち話をしているのを何人かが見たというけれど。

 坂の勾配が落ち着き、駆ける勢いが落ち着いて来ると、シアニはふと考え込んだ。

 母さんは好んであの女を傍に呼んだわけじゃない。二晩前に私とぎくしゃくする前から様子がおかしかったもの。クシュのサコティーが来る前からさえ。今のことと関係があるのかしら。

 私の計画を邪魔するようなことが起こらなければいいけれど。 

 シアニは閉じた東門の端に一人用に開けられた通用口を通りながら、水筒をどうやって手に入れよう、と考えた。遠くに働きに行く男たちが持つような革の水筒が一番だけど。それに小刀。背嚢に作りなおせるような袋はどこに行けば手に入るのかしら。


 タシワナへの旅から帰って二日目の朝、ダミルは夜明けから一時も経ってから、来訪者の報せを受けて目覚めた。外明かりの明るさに驚きながら手水を使い、簡潔に身形を整えて、約束してあった広間の炉の前に出向いた。

 客は予想通り、火の気のない炉に最も近い窓辺に、両手を腰にして立っている。二晩前からその油断のない姿勢は変わらない。

 ダミルは簡単な食事を用意させると、客に失礼を詫びながら素早く腹ごしらえをした。

 自分が寝過ごした間、他の者はさっそく余分に働いたことだろう。昨夜から警備の範囲を広げ人員も増やした。食糧の確保のために作付けを見直せ、と農園の頭たちにも命じた。

 そして今朝約束通りやって来たこの男も、朝にかけてひとつ狩りを終えて来たかのような感がある。

 ダミルは、立ったままの男を見てちょっと眉をひそめた。

「君は二晩にわたって食事も酒も断った。馬鹿げたことを気にして申し訳ないが、私を信用してくれているかね?」

「口にするものは自分で用意すると決めている。常に旅にある身としてはこの習慣を止める方が難しい。」男はすらすらと答えた。「それに夕べ、あなたが一昨日の私の報告を受けて長たちと協議していたその時間は私にとっても大事だった。今朝の巡邏で相手に警戒される前に森の中に潜む者を見つけ出すには。」

「うむ、その通り。」ダミルは二日間の事を思い返しながら言った。

 十六年前の動乱以来、ふっつりと出会うことのなかったクシュのサコティーが突然単身コタ・レイナを遡ってやって来た。四年前まではアツセワナの監視の目をくぐってコタ・サカで造られた鉄をエフトプまで運んでいたが、コタ・サカの村がグリュマナらの襲撃によって壊滅してからは行方知れずになっていたクシュのサコティーが。

 彼の到着の晩に引き合わせた顧問の年寄りたちは、噂には聞くものの面識の無い男への警戒心をあらわにした渋面で出迎えた。クシュのサコティーは単刀直入に、エフトプからの喫緊の要請と、近年、彼がコタ・イネセイナの沿岸で聞き知ったアツセワナの状況を報せた。

 エフトプの領主キアサルは、長年にわたってコセーナの援助を得ていることに対して謝意を表した上で、緊急に三郷の会談を開き、西に見られる不穏な動きについて対応を講じたい、と申し入れて来た。

「キアサル殿は私の報告を聞いたその場で三郷の話し合いの意を固めた。」

 サコティーは年寄りたちが眉ひとつ動かす(いとま)も与えずに言葉を継いだ。 

 この八年、コタ・ラートの東岸の防塁の建設は目覚ましい。壁に阻まれ、河を挟んでお互いの様子は徐々に見えなくなる。だが河を挟んだ東西の変化は正に対照的だ。

 イナ・サラミアスの噴火がもたらした灰の被害はコタ・ラートの東で甚大であったが、三郷の協力によって灰による河と森の荒廃は克服しつつある。田畑の力も回復している。

 対して西は、灰の害が少なかったにもかかわらず、領主らは孤立し、境界で諍いが絶えず、田畑の力は衰えている。どちらに活力があるかは明らかだ。西の者が壁のこちらを覗けば脅威を感じることだろう。

 鉄などの物資に不足しているが?―――年寄りたちが口説く。

 いや、それは行き来を止めれば当然のことだ。―――サコティーは答えた―――西は鉄の流れを止めるためにエフトプを度々襲い、コタ・サカを襲ったが、アツセワナ自身、もうあまり鉄を持っていないのだ。コタ・バールを所有する第五家の当主が亡くなり、彼と縁続きのふたりの男は権利を主張し、いがみ合っている。トゥルカンの企みを支持し、シギルを殺害し王権を奪ったあのふたり、アガムンとアッカシュだ。

 もう少し詳しく言おう。―――サコティーは微笑して言った―――私が集めることの出来た情報はただ、私の黒い髪と肌の色にも恐れずに答えてくれた者から聞いただけの話だが。

 息子の世継ぎの誕生を心待ちにしていたアッカシュに不幸があったのは三年前のことだった。死産の末、息子の嫁が亡くなったのだ。

 既に八年前コセーナを抜け駆けで襲ったことで、アッカシュはアガムンに対して不審の念を抱き、ふたりの仲は疎遠になっていた。対立はすぐに明るみになった。あまつさえ、亡くなったアッカシュの嫁が所有していた土地を、不幸の最中の虚を突いてかすめ取ろうとしたのだ。

 襲われた耕地に直ちに兵を遣って追い払ったアッカシュと、襲撃の命令を下し遠くから見ていたアガムンとはそれぞれの邸に戻る丘の道でばったり鉢合わせた。怒るアッカシュにアガムンが言い放ったのは次のようなことであった。

 元はと言えばコセーナに身を寄せているロサリス王女の相続するはずだった第一家の耕地を、本人の不在をいいことにかすめ取ったものである。正当な主がいる限り立ち入るべきではない。このために今後も警備の兵に見張らせるつもりだ、と。

 王女は相続を放棄している。―――ダミルは呆れ果てて言った―――叔父と縁を切るために王権はおろか王女の地位も捨てたのだ。彼女に残されたのはハーモナのみだ。このような欲得ずくの争いに自分の名が使われることこそロサリスの最も嫌うことだ。

 それを聞いてもアッカシュは安心はせぬし、アガムンも満足はしない―――サコティーは続けた。

 王女がいる限り祭り上げる者はでてくるし、拠り所とする者もまた事実いるのだ。

 ふたりが袂を分かったことが知れ渡ると、西の領主たちは領地の守りを固めた。境界のぐるりに見張りをたて、それぞれに行き来を断って領地に引きこもった。互助のための郷倉を管理するものはおらず、折からの不思議な天候の乱れから穀物の収量は大きく落ちて、殊に豊かな穀倉地で名高いイビスは、この二年は種籾を取れば蓄えは翌年を持ちこたえるのがやっとという。会議も二年もの間開かれず、境界を荒らすならず者が増え、得体の知れない病までが流行りはじめているという。

 これは単に、西の中だけでふたりの男が争っているだけではないのか―――長老は言った―――互いに争い、すり減らし、疲れ果てればコタ・レイナ州に手を出すまいに?

 アッカシュは単独で西を支配する器が自分には足りないことを悟るや、同盟で領主らを味方につけようとした。各家、郷の自治を認め、それぞれの境界を守らせることに注力しようとした。一方、アガムンは王権を手にする切り札を東に求めている。

 攻めてくるという事か?―――年寄りたちは顔を見合わせた。

 キアサル殿の言われる通り、直ちに三郷の会談をもうけねばならぬ。

 サコティーの報告と年寄りたちの意見を入れて、ダミルは、翌日の昼には会談が行われることを家の者たちに報せ、オトワナコスとエフトプに向けて派遣する使者を選んだ。ニーサに命じて、警備の範囲の拡大と強化をも図らせた。

 その場でした事はそれだけではなかった。集会を彼の後ろで聞いていたサコティーが、進行が頭たちの話し合いに移った折にダミルに耳打ちをし、去年イビスから逃れていた者たちの一群を広間にとどめてくれ、と頼んだのだ。その後、サコティーはひとりずつ尋ねた上で解放していき、最後にひとりの女を捕えた。

「夕べは慣れぬことをしたので寝覚めが悪い―――どうしている?」

 齢よりも老け、痩せて小柄な女の怯え、抵抗するさまを思い出してダミルは、苦々しく尋ねた。

「向こう岸の小屋に預けている。例の火山灰の小屋だ。あの若者たちの集落に住んでいる夫婦者の女に世話をたのんだ。見張らせてはいるが手荒なことはしていない。そして、問い詰めた甲斐はあった。」

 サコティーは冷静な眼差しを返した。

「あなたが昨晩、長老がたと話を詰めている間に、私はもうひとり、件の女の仲間の男を森の中で捕まえたのだ。行商人のなりをしているが、長年アガムンに使われている間者のひとりだ。私はあちこちで顔を見ている。去年から何度か河を渡っては森で件の女と落ち合い、アガムンの言葉を王女に伝えていたらしい。」

 ダミルの顔が瞬時に赤くなり、目が光り鼻腔が膨らんだが、浮いた腰を椅子に沈めると、サコティーに掛けるように促した。

「もう少し具体的に訊きたい。」

 サコティーは窓の縁に足を組んで腰掛けた。

「アガムンは王女を巻き込もうとしている。」

「どういうことだ?また、どのようにして」

「女が王女に伝えたという言葉をそのままあなたに言えば逆上するだろう。」サコティーは牽制するようにダミルを見て言った。「だがまず、思い出してほしい。依然としてシギル王とその王女の名は、南の方では正統な王の血筋として力を持つのだ。ニクマラ、それにシギルが民に呼びかけて拓いたトゥサ・ユルゴナスも一領主と同じ力を持つ。会議における発言権もだ。」

「アガムンがアケノンの血筋やトゥサ・ユルゴナスの名主たちのことを()とも思うものか。」

 ダミルは呟いた。

「だが、資力を投じて戦うのと、労せずして実を取るのと、いずれかを選ぶなら?知ってのとおり、彼らはただの大人しい百姓ではない。いざとなれば戦士になり得ることも、アガムンは十分わかっている。彼らの忠誠を得ることが出来るのは、エファレイナズの王だけだ。アガムンが王になろうとするならどんな手段を使うだろう―――お馴染み過ぎて思い当たらないか?」

 ダミルは今度こそ、がばと立ち上がった。

「あいつはロサリスに何と言ったんだ?―――汚らわしい!」

「王女に顔を合わせるまでに気持ちを整えるといい。」サコティーは、睨みつけるダミルの目を受け止め、静かながら鋭く言った。「白状した女によると、アガムンは確かにそう言った。」

「ロサリスが承知するわけがない。」

「そうだ。それがむしろ彼女の立場を弱くする。」

 ダミルは荒々しく息を吐き、つと卓を離れて腕を組み、狭い窓の前を大きな獣のように行き来し始めた。サコティーは黙って待っている。やがてダミルは立ち止まり、振り返った。

「その話だ。私が長年部下を通して君に頼んでいたのは。君の到着を聞いた時、真っ先に思い浮かべたのもそのことだ。差し迫った用事を先に年寄りと協議せねばならず、なかなか尋ねられなかったが。もうやがて十六年になる。ラシースと息子の行方について、君は少しでも耳にしなかったか?それにトゥルドのことだ。彼はまだ無事か?コタ・サカの村の再建はもうできまいな。」

「トゥルド殿は無事だ。村は場所を転々と変えている。敵が頻々と様子を窺いに来るので、精錬の火がおこせない―――トゥルド殿の居場所は言えない。安全のためだ。」

 サコティーは向いの煤けた壁に飾られた、先代の当主の長い剣や盾の上に目を移したが、その言葉は心に浮かんだ風景を読み解くように語った。

「イナ・サラミアスの噴火から十六年―――私はそのうち半分を生き残ったクシガヤの仲間と一緒にクマラ・オロの上で過ごした。ご存知か?クマラ・オロは遥か遠くでコタ・イネセイナとつながっている。私たちはその沖まで逃れていた。イナ・サラミアスの系譜の水とイネ・ドルナイルの系譜を含むコタ・イネセイナすべてを飲み込むクマラだ。

「七年が経って、姉神の水から灰の色が鎮まったころ、私は妹神の水の中に赤い砂が混じるのを見つけた。コタ・サカの村が動きはじめた印だった。私は仲間数人とエフトプまで戻って行った。キアサル殿に会い、この事を伝えた。

「私はトゥルド殿とは面識がなかったが、仲間うちに会ったことのある者がいた。それでコタ・サカとエフトプの間を三年の間取り持った。エフトプに寄った折に、あなたの部下が父子の消息を尋ねていると聞いた。私はニクマラとイズ・ウバールから調べはじめ、コタ・ラートを徐々に遡って周辺に消息を尋ねた。収穫は多くはない。何しろ私はお尋ね者同然だ。だが、お陰でアガムンが同様に黒髪で肌の浅黒い子を血眼で探していることが分かった。間もなく、アガムンが手下にコセーナを襲わせたという噂を聞いた。その時のアガムンは、理由はわからぬが既にラシースの息子の生存を信じており、ただ、どこにいるかについてはまだわかっていなかったのだと思う。」

「一度トゥルドが訪ねて来てオトワナコスへと旅立った後、」ダミルが思い出しながら口を挟んだ。

「だいぶん経ってからロサリスが何かの折に話していた。息子が生きているかもしれない、コタ・サカの村にそれらしい子がいたとトゥルドが言っていた、と。」

「私は未だその子を直に見たことはない。私は、トゥルドからその子の話を聞いてコタ・サカの村を訪ねに行く途中で襲撃の話を聞いたんだ。急いで駆け付けたのだが、コタ・サカの村はもともと深い山の奥にある。既に十日ばかりも経っていた。製錬所から鍛冶場、集落に至るまで蹂躙され、人っ子ひとり犬一匹いないありさまだった。だが殺戮の跡はあれど屍が残っているでもない。私は、その晩そこにとどまった。誰か生きた者が近くに隠れているのではなかろうかと。案の定、夜更けになると、岩山に隠れていた村の生き残りの者が明かりを見て下りて来た。私は彼らから話を聞いた。

「村を襲ったのはだいたい二十人くらいだったという。彼ら襲われて逃げおおせた者の有志は、その晩のうちにありあわせの物で武装して村に戻り、まだぐずぐずと戦利品を貪っていた六人を討ち取った。が、既に多数の女子どもを含む虜は先に帰った他の襲撃者に連れ去られていた。

「後に逃げ戻った者の話によると、敵は頭と腹心らしい三名の他は六名ずつの組に分かれていた。司令部は襲撃の命令を下すと真っ先に姿を消した。あらかじめよく計算されていたようだ、ある六人組は技師らを狙って襲い、捕えて連れ去った。逃げて来た男は、女子どもを含む捕虜と一緒にコタ・バールの方へ連れて行かれたのだが、途中で、人買いの集まっているところにとまり、いくつかに仕分けされたという。彼はコタ・バールの方に引いていかれ、人買いに買われた者たちは河の方へ下って行ったのだと。

「コタ・サカの村の襲撃はグリュマナ一党の仕業と聞いた。」ダミルが言った。

「ここでも皆が大いにその事を口にした。鉄の供給源が断たれたのも重大だったが、なにしろ、十六年前にハーモナを襲ったのが彼らだったのだ。我々コセーナの者にとってその名を聞くのは痛恨の極みだ。君は直接は知るまいが―――」

「私は一度彼とまみえたことがある。あなたには思いもよらぬところで。」

 サコティーは呟き、ダミルを見返した。

「間違いない。私がイネ・ドルナイルに渡った日と前後して、グリュマナと腹心三名がコタ・イネセイナをはるか南の方から遡って来てアツセワナの方へ行くのを、トゥサ・ユルゴナスの庄民が目にしている。

「だが、そのときの私は取るもとりあえず、捕虜たちの行き先を追った。人買いたちが取り引きをする場所というのはコタ・バールの中ほどの、古い砂の採集場跡だと言うが、そこにはもう何の手掛かりもなかった。彼らがどこへ分かれて行ったのか、分かるような足跡は無かった。

「私がやっとで手掛かりを聞けたのは二年後、コタ・イネセイナの上流で無頼者に混じって、アツセワナとチカ・ティドとの渡しをしている時だった。羽振りの良さそうな客で、チカ・ティドで人を()()()()こともある、という商人だった。産出の減った鉄の取りあいでアツセワナでは値がどんどん上がっている、という話から、コタ・サカの襲撃の話になった。

「その男は、ちょうどその時に、コタ・バールの取り引き場で土地の子らしい幼い女の子をふたり買ったと言っている。奇妙なことにその子たちを買ってくれと彼に頼んだのはその兄だという十二、三歳の少年だった。この子はそのまま鉱山に連れて行かれたという。彼がそれを覚えていたのは兄妹の顔が似ていなかったからだ。

「彼はまた、若い女を見たとも言っていた。虜でもないのに子供たちから離れず、他の商人が連れて行ったが、やがて姿をくらませたという。

「次に向かったコタ・バールで聞けたものは噂以上の何ものでもない。鉱夫たちは自分たちの仕事は三十年来変わっていないし、新入りにも奴隷の身分の者はいない。ただ、中腹の湖より奥の山には化物がいる、と。」サコティーは苦笑した。

「もちろん、湖を回って登ってみた。噂にたがわず、大昔の黒餅(バルヘン)の穿場は寂れ、うち捨てられている。坑道の中に入るのは非常に危険だ。あちこちは崩れ埋まっているし、妹神は今も絶えず揺れて山肌から岩石を落とす。夜になると風が唸り―――耳をつんざくようだ。

「チカ・ティドに下りて、粗鋼の取り引き所に紛れ込む方が噂は聞きやすかった。私はコタ・サカの鉄を少し持っていたので―――しかし、危ないやり方だった。彼らはにわかに興奮して、コタ・サカの村から連れて来られた技師が坑道の奥に閉じ込められていて、そのうち何人かが赤砂の製法を訊かれ、拷問のあげく殺されたのだ、と言い、お前は誰だと詮索し始めた。以前度々姿を現した女の同類か、と言う者もいた。ここにグリュマナがいたら面白かったろうに、とも。友好的でないのは明らかだったが、私はその場を逃げる前に訊いた。グリュマナはどこにいる、と。もう、ずっと来ていない、と言うのが返事だった。コタ・イネセイナのこちらには顔を見せていない、と。私はアツセワナに渡った。

「アツセワナの北での聞き込みは遅々としてはかどらなかった。客が忠告してくれた。舟を下り陸に上がろうと思うなよ、と。今さら驚かないがこの肌の色のせいか、と尋ねると、川の上にいればお前は舟で我々の足だ。陸に上がれば、どこかの使用人か畜生かならず者だ。旅人?そんな者はいない。

「彼の言っているのはこういう意味だ。どの郷も家も境界に歩哨を立て、門番の顔なじみの商人以外は入れないと。街道を歩く者も厳しく取り締まっていた。だが、コタ・イネセイナとコタ・ラート、その間に走る運河、水路の流れまでは誰も止めない。私は南で少し手に入れた小物を舟に載せ、耕地に水を運ぶ水路に乗り入れた。領主たちの抱える使用人たちはむしろ自分たちの使う日用の物に不自由しているはずだ、と思ったのでね。

「それでも大抵の者は怪しんで近寄ってはこない。私が話を聞けた相手はせいぜいが薪拾いの老婆か家畜番の子供―――だが、彼らは私に関心を持ち、尋ねてきた。変わった服を着て長く髪を垂らした黒っぽい女はあんたの仲間か、とね。」

「コタ・サカからコタ・バール、チカ・ティド、そしてアツセワナの北と―――」

 ダミルは顎に手を当て、唸った。「流れの辻褄は合う。再三話に出てきたその女というのは、同じ人物か?」

「ルメイだと思う。」

「するとその子はやはり―――?」

「王女には二日前にもう伝えた。」サコティーは厳しい面を上げてダミルの目を捉えた。

「私が懸念したのは、王女がその時既にトゥルド殿から聞いたことに確信を得ており、そればかりかさらに悪しき予想に心を乱されているように見受けられたことだ。私は、コタ・サカの子が彼女の息子だった見込みが強い、とは認めたが、依然としてその居所は不明だと強く言った。この意味が分かってくれればいいのだが。」

「それで彼女に何か吹き込んでいる間者がいると思ったわけか。」

「昨日あなたがここに家の者たちを招集した時に、私は偶然見覚えのある顔の農婦に目を留めたんだ。イビスとアツセワナの境界の木立ちで人を待つ姿を、私は夕暮れ時の運河の上から何度か見ていた。去年の夏のことだ。同じ蛇だからこそ分かる。」

「待ってくれ……。」

 ダミルは、東の詰所の方から聞こえた女の声と当直の応対に耳をそばだて、開いた扉から、取次の声を遮るように、黒い長衣の姿が滑り込み、つかつかと歩み寄って来るのを、炉の前まで出迎えた。

「ロサリス」

 ロサリスは昂然と顔を上げ、灰色の瞳を見開いてダミルを見つめ、奥の窓辺に立つサコティーに目をやり、会釈をした。

「ダミル殿、お話し中の失礼をお赦しください。クシュ、あなたにも。しかし、私が参りましたその用件にお心当たりはございましょう?他でもない、昔からここに仕えて参りました忠実なイナが、妹を案じているのです。集会の後に留め置かれたまま、一晩明けても帰ってこないのだと。河の方へ連れて行かれたそうですね?尋問はもう終わったのでしょう。姉の元に帰してくださいませ。」

「それは出来ない。」ダミルは眉間にしわを寄せて聞いていたが、断固として答えた。

「何故でございますか。」

「彼女が自白したことを証明する者がいないからだ。」

 ロサリスはさっとその場に跪いた。

「立って。いや、掛けなさい」ダミルは、身体をやや開いて椅子を示しながら後ろでじっと立っているサコティーに目をやった。

「私が証人でございます。いえ、彼女に罪があるなら私も同じこと。」ロサリスは顔を上げたが、立たずに両手を組んだ。

「彼女はご存知のように、昨年の秋にイビスから逃れて参りました。兄上のダマート様に付き従ってイビスに移り住んでいたものの、噴火からこのかたの世情の不安からか、身を寄せていた家の譜代の家来たちから辛く当たられ、暮らしにも事欠くようになりここに帰って参った、その家族のひとりであることに間違いはございません。

「イビスは遠くたどればアガムン殿の母上の実家、第五家と縁続きでございます。アガムン殿は昔からイビスにはよく訪ねて行かれる。そこで、家人の前でも憚らずに昔の通りにうそぶくのが常であったとか。」ロサリスはふと言葉を切り、唇を噛んでから低くひと息に言った。

「シギルの娘を娶りエファレイナズを我が手中に収めるのは極めて当然の流れだ、と。」

 ロサリスは目を伏せたが、声は淡々とよどみなく、アガムンがアッカシュの第三家の不幸を嘲笑い、公然とロサリスに求婚するつもりだと言ったそうである、と女から聞いたことを話した。

「この事はイビスから戻って来た者なら誰でも耳にしたことでございます。皆、胸の内に秘めて黙っていたことに過ぎません。ただ、彼女だけが打ち明けてくれたのです。」

 ロサリスは目を上げた。

「彼女の申した事と、私の申し上げた事に隔たりがありましょうか。」

 ダミルは顔を赤くし、ふくれた口元を引き締めてサコティーをちらと見た。サコティーは微動だにせず言った。

「相違はない、王女」

「では、解放を。」

 ダミルは、手を叩いて当直を呼び、サコティーに確かめながら、河の向こうの小屋にいる女を連れてくるように命じ、ロサリスは立ち上がって、広間の外に手を揉み絞って待っていた女の姉を呼び寄せた。

「昼には東門のところまで送り届けよう。詰所で待て。そして向こうひと月は姉夫妻の監督のもと、柵の内での仕事に勤務させるように。ハーモナへの出入りは許さん。」

「ダミル殿、ありがとうございます。」

 動転したまま何度も頭を下げる女の肩を抱いて、出口へと向かせながら、ロサリスは礼を言った。

「ロサリス―――ハーモナの女主人、昨日、私はコセーナの領主としてコタ・レイナの同胞に使者を送った。近日中に会談を予定している。」

 東の戸口まで自ら送って出、ダミルは、ロサリスの黒い装いの後姿を見つめながら言った。

「では宴の心積もりをしておきましょう。」ロサリスは振り返り、すぐに目を逸らして足早に去ろうとした。ダミルは、戸口に仁王立ちになったまま大声で言った。

「いや、物の無い時期だ。大きな宴は必要ない。食事と宿泊の支度があればいい。コセーナの女達で十分まかなえる。会議にはあなたも出席なさるように。」

 ロサリスと女を見送り、ダミルは、空を見上げ、太陽の位置を確かめてから憤然として戻った。

「私は、半分も分からないことに同意を求められ、断を下している。昨日からずっとだ。―――そして、自分の判断が正しかったか検証する間もなく次の問題がくる。間もなく長老たちが来る時間だ。」

 ダミルは、卓に手を置き、サコティーに振り返った。

「君はロサリスの前で間者の男を捉えたことを話さなかったな。」

 浅黒い横顔は窓の外を見ている。聞いていないかのように見えるが、瞳がわずかに動き、峻厳な口元が緩んだ。

「わざと言わなかったのか?」ダミルは、非難するように言った。

「この後で、彼女がどう立ち回るか見えるようだ―――人目を気にしながら、森の中に見慣れぬ姿を探しに行くだろう。王女は胸に一物持っている。我々には決して打ち明けまい。」

 はるか遠く耳を傾けるように、サコティーの黒い目に翳りがさした。


 水筒、小刀、背嚢―――水筒、小刀、背嚢。シアニは鍛冶、木工の工房を横目で覗きながら探した。男たちは短刀を肌身離さず持っている。余分な鉄は無いし、革は端切れだって貴重だ。鍛冶場の火は消えている。鍛冶師の革の前掛けが壁にかかっている。これをそっと持って行ったら?これを切るには鋭い刃物と強い力がいるし、縫い針ではつき通すことが出来ない。もちろん、鋲もそれを打つ鎚もない。ふらりと戻って来た鍛冶師がじろりと見たので、シアニは手を放し、さっとその場を去った。

 革でなくちゃいけないと思うから見つからないんだわ。水筒は水の入れ物だわ。背嚢は食べ物と着替えを入れて運べる入れ物だわ。工房から台所に移りながらシアニは貯蔵室や棚を眺めた。瓶に籠、袋。木箱。入れ物はいろいろあるけれどどれも大きすぎる。

 棚の隅に埃をかぶった素焼きの小瓶があった。シアニはそれを手に取ると、水場に行き、洗って水を詰めてみた。漏れてくる様子はない。これでもいいわけだわ。ただし、このままでは傾けるとすぐに流れ出てしまう。栓はどうしよう?木を削ってぴったりな栓は作れるかしら?栓が水を吸ったら膨らんで私の力じゃ開かなくなる。そうだ、布をかませればいい……。

 水筒がすぐに見つかって良かったわ。旅では水は大事だもの。

「もし落としたら割れる。」シアニは呟き、新緑の梢を見上げた。

 コタ・レイナの堤にはしだれ柳が植わっている。あのしなやかな枝は、生のまますぐ編めば、細い瓶を中にきっちり編み込めるくらい柔らかいはず。

 正門は閉まり、はね橋は上がっていた。シアニは東の通用口から出て柵の下をくぐって前面の棚になった耕地を横切って正門の前の水路に沿って、コタ・レイナの堤まで駆けて行った。

 柳の枝は黄緑色の芽を出して風にそよいでいる。

「籠から葉っぱが生えるんじゃないかしらね。」

 呟きながら鋏で切ろうとし、シアニは思い直して、鋏を隠しに戻すと黒曜石の欠片を取り出してみた。

 楕円の石は、平らな片面の縁が一部斜めに欠けて刃のように縁の薄くなっているところがある。枝に当てて引いてみると、難なく削ぎ切れた。

 小刀はもう持っているんだわ、鏡と一緒に。もう少しいい形に出来れば、切っ先をつくり、刃を少し広くすれば、お魚をさばくことだってできる。

 シアニは水車の堰を見下ろす堤に腰を下ろし、早速、枝を十字に組み合わせて編み始めた。静かだ。跳ね橋は上がったまま。今日は麦畑に出て来る人影もない。正午に近い頃には、だいたい瓶の口の周りまで編み終わっていた。

 後で木工のところで、栓にするのにちょうどいい太さの木切れが無いか探してみよう―――立ち上がり伸びをしながら、対岸の小高いこじんまりとした畑地とその下に立ち並ぶ煉瓦の小屋の集落、作業場と目を移した。ヨレイルの若者たちがいつになく仕事の手を止め、何かに気を取られているように一方向を注視している。明るい茶の肌に黒い髪。白、黒、茶の混紡の毛織の服。雀のようだわ。

 シアニは柳の籠でくるみ込んだ水筒を掴み、堤からぱっと駆け下りると、もと来た通り高柵の周を回った。東門の上に休憩を告げる旗は出ていたが、通用口が開いているきりで、耕地から戻って来る作人たちの姿もない。昼をもう大分過ぎている。空腹を覚えながらハーモナまでの道を戻って行った。

 いつも通り道の蛇行しているところで近道しようと森に下りたところで、シアニは道の反対側の森から、ロサリスが横切り、いま来たところを素早く見返してから、前を、藪を縫うように歩いていくのを見つけた。だまし道のついたジグザグの道の方に入っていく。

 シアニは後について行った。懐かしさに心そそられる。だまし道は遠回りになるので、もうしばらく使っていない。踏み跡は薄れ、木の枝も伸びている。

 左、右、左―――右、左、右―――。

 数えながら、シアニはいつまでもロサリスに追いつけないのを不思議に思った。とうとう通用路に行きつき、分岐を右の方にとり、道の見通せる限り誰もいないのを見、どこで抜かしたのかしら、と思いながら駆けあがった。揚戸を上げ、また分岐、そして館の正面に通じる揚戸をくぐり、手を洗いに行く。

「いい年をしたいたずら娘が帰ってきたわ」バギルが栗の木の間から下の水場を覗いて言った。

「粥が冷めちまったよ。」

「母さんの分もね。」

「あんたの少し前に帰って来たところだ。」バギルはひどく不機嫌に言った。

 シアニは少し驚き、バギルが不機嫌に見えるのはどこか悲しげだからだと気付いた。昨日の夕方長いこと一緒にいて色んな顔を見たからだわ。

「シアニ、縫物はひとりでも出来るわね?」

 食卓について粥を匙でかき込んでいるシアニに、食器を下げた台所からふらりと戻って来たロサリスは窓の外を見やりながら尋ねた。

「もちろんよ。もう裁ってあるんですもの。真っ直ぐに縫うだけだわ。」

 答えながらシアニは、長衣にするつもりで裁ってある新しい服を身頃とスカートとを分けられないかしら、と考えた。試すのにいい機会だわ。

「見てあげた方がいいのじゃありませんかね。」バギルの妻が気兼ねそうに口を挟んだ。

「あら、大丈夫よ。」シアニは急いで言った。母さんはひとりになりたがっているし、私には構われたくない訳がある。「母様、パンはいつ焼くの?」

 ロサリスは、はたと困ったように考えた。

「ごめんなさい、まだよ。五、六日後じゃないかしら。コセーナでお客様を迎える準備もあるし、うちで贅沢は出来ないわ。」

 五、六日。急ぐわけじゃないけれど、間に合わないと嫌だな。明日はルーナグを探そう。今日は外仕事に出ていなかった。本格的に忙しくなる前に話をつけておかなくちゃ。

 今朝の騒動について、ぽつりぽつりと交互にとりとめもない質問を繰り返す老夫妻の元にロサリスを置いたまま、シアニは、縫物籠をつかんで庭の明るい光のもとで仕事をするために外へと出て行った。


 翌日コセーナにルーナグを探しに行くにあたって、シアニはまず小袋にいっぱいクルミと干しイチジク、干し杏を詰めていった。男の子は女の子ほど台所の出入りに自由はない。これは興味を引くのにいい。

 果して、仲間の少年たちの前では「()()()()()を聞いてやるわ」と見栄を切って出て来たルーナグは、シアニが渡した小袋を覗くと、少年たちがたむろしている工房の前の小広場から、工房と厨との間の小路の陰に回り、さっそく中身を掌に受けてむしゃむしゃ頬張りだした。

 この年頃の男の子にはとにかくすぐに食べられるものが交渉道具ね。てきめんだわ。高価な見えないものよりも、小さく、少なくてもまず見えるものから。

「あんたに頼みがあるの。ちょっと面倒だけど。」

 開口一番、嫌そうな顔がますます嫌そうに鼻にしわを寄せた。

「女にも出来る事よ。」シアニは優しく言った。機嫌取りにも匙加減が肝心だ。

「女と同じことが出来て何の自慢になるんだよ。」

 わざと友達に聞かせようとして。そんな大きな声で注意を引いたら後悔するわよ。

「馬の世話だけど。」

 ルーナグの日に焼けた顔の中で目がぱちぱちした。こちらが先で正解だったわ。シアニはこなれた“姉さん顔”で囁いた。

「生き物だからいい加減な人には任せられないわね。コセーナきっての若駒を譲るからには私と同じくらい上手に扱える人でないと。」

 ちょっと法螺をふいたけれど、どのみち教えるのは私じゃないし。

「嘘だ」ルーナグは口をとがらせて言った。「馬なんか持っていないくせに。」

 そろそろ援軍を出そうかしら。

「ニーサに聞いてごらんなさいよ。」

 ルーナグは急に大人しくなった。シアニは袋をもじもじと握っている手を見て優しく言った。

「それ、全部食べていいのよ。ニーサのところに行きましょう。」

 シアニは辺りを見回し、木工の工房で椅子を直している、警備の夜回り班の若者を見つけてニーサがどこにいるか尋ねた。

「夕べの巡視で帰って来たのが明け方だから、出てくるのは昼過ぎだよ。」

「昼食に来る?」

「ああ」

「じゃあ、その時にね。」シアニは若者に礼を言い、ルーナグが何か文句を言う前にもうひとつの用件を言った。

「まだ、ひとつ、もっと重要なものがあるのよ。」

 合図をして、門の方に引き連れてどんどん先を進みながらシアニは話を続けた。

「見返りは半年後、だけどあんたのものになれば何度でも挑戦できるし、頑張れば収穫は増えるわ。それにコセーナの領内では領主の他に誰も持っていないものよ―――農地よ。」

 ルーナグは振り切って逃げようとするかのようにきょろきょろした。

「逃げちゃ駄目。昼にはニーサにあんたに馬の稽古をつけてもらうんだから。田んぼを見に行くわよ。時間あるでしょう?」

 我知らず、強い口調で言い、シアニは東門を出、徐々に小走りになりながらカシの森の向こうの、老人の作った小さな田にルーナグを連れて行った。

 去年、刈り取りの終わった後に一度おこしておいた田には、朽ちた藁と土の混ざった表土に、いちめんに霞がかかったようにタネツケバナが咲いている。脇を流れる小川には雪解け水が漲り、土を盛った畔には黄色いサフランが咲いている。もう何年も知っている風景だ。

「何だこれか。」ルーナグはがっかりしたように言った。「小ちゃな田んぼ。全部おこすのに小半時もかからないじゃないか。」

「それはそうよ。小さいから馬の犂で耕すわけにはいかないわ。小さいのにとても手間がかかるの。一年中、雪の下に眠っている時の他は子供のように世話が必要よ。だけど、ここはコセーナの同じ広さの田の倍は取れるのよ。ここだけで少なくとも五升から一斗獲れるわ。」

 馬はもちろん大事だけれど、気を引くためのご褒美に過ぎない。一番守りたいのは老人の田んぼだ。

「二回おこすのよ。土の中に空気を良く入れるの。田の精霊が目覚めてはたらくようにね。そして水を張る。太陽の光と大地が土と水を温めると稲が育つ田の準備が出来る。一晩水に漬けた種を苗代に播くと、一月後には水に流されないくらい丈が伸び、根がしっかりする。これを取り分けて田に植えるの。草が伸びるし、鳥が花や実を食べにくる。やがてたった一日だけ咲く花の間に風が吹きとおり、穂を結ぶ―――それを見届けるのはあんたよ。」

 ルーナグはぽかんと口をあけ、逃げ道は断たれたと宣告が下される前に臍を固めて名誉を救うしかないのだろうか、と宙を仰いだ。その目が見つけたものは救いになるようなものではなかった。畑の向こうの草地に山羊を繋ぎに来ていたバギルが、立ち止まって、伸びあがるようにふたりの並んでいるところを見張っているところだった。

 シアニはバギルを見つけると、胡散臭げな目つきもものともせず、たちまち駆け寄ってその袖を引っ張ってきた。

「ねえ、バギル。この田んぼは私のものね。」

「ああ。」

「私がいいと言わなきゃ誰も自分のものには出来ないわね?」

「待てよ。もらったって、それがおれの何の得になるんだよ?」ルーナグが我に返って言った。

「ハーモナの奴らで食う田をどうしておれが耕すんだ?」

「あら―――見てなさい。」

 シアニは両手を腰に当て、しかつめらしく言いバギルに振り返った。

「ねえ、バギル、私がこの七年であげた収穫はどのくらい?」

「締めて六斗かな。蕎麦や赤稗を別にしてな。」

「じゃあ、その代金を手形で払ってちょうだい。あのカシの板のをよ。」

 バギルはちょっと面白そうに眼をしばたたいた。

「それをどうするね?ちょうど六枚あるが」

「一枚は私が食べた分だから返すわ。残りの五枚で労賃はもらったことにするわ。でね、あんたが、一年ルーナグを監督して一斗の収穫をあげるとするでしょう?一年分の労賃として一枚この子に渡すの。ルーナグ、あんたは一年頑張ればコセーナでの食事の他に米一斗分の余分な食糧を持っているのと同じことになるのよ。結構な強みじゃなくて?」

 ルーナグが言われたことを落ち着いて反芻しようと丸めた背を向けたのを見て、シアニはバギルに向き直り、バギルが懐かしそうに取り出した手形を五枚数えて一枚ずつ差し出すのを真面目くさって受け取り、重々しく言った。

「私が誓文を書いてこの子が署名したら預かってくれる?」

「何て書くんだ?」 

「ハーモナの南東のカシの森の田畑はシアニがルーナグに以下の条件のもと譲り渡すものである。ひとつ、バギルの監督のもとで田畑が適正に耕作されること。ひとつ、ルーナグが上げた収穫は彼のものであり、ハーモナがこれを必要とする時は彼から買い取らねばならない。」

 バギルは少年をじろじろ見た。

「そんな面倒なことをしなくても十分だ。わしが見ているし、毎日ちゃんと世話に通えば一年一斗の収穫があると見てやろう。あそこのカシの木が、鴨が、何よりも田んぼが証人だからな。」

 神妙に頷くルーナグを見て、シアニはバギルに耳打ちした。

「時々おいしいものをあげてね。」

 ニーサに会いに行く昼になるまで、シアニは一緒に田を耕そうとルーナグに言ったが、バギルはわしが教えておくから、と言って、用具小屋までルーナグを連れて行った。シアニはハーモナの台所に行った。あと旅に必要なのは荷物をまとめる袋だ。昨日コセーナの棚を見たので、どのあたりに有望な品がありそうか見当がついていた。コセーナの台所にあるものは何もかも大きすぎたが、ハーモナにあるものだったら?

 バギルの妻は粗い石臼で蕎麦を挽いていた。蕎麦の実の入った麻袋はちょうど一斗入る。

 大きさはちょうどいいけれど、袋はぐらぐらするし撓むと重く感じる。シアニは棚の上を見た。炉に近い方には、こね鉢や鍋、奥の高いところには、あまり使っているところを見たことの無いものがある。丸い背負い籠がある。あれなら楽だけど大きいし滑稽だわ。やっぱり背嚢がいい。両肩にしっかりかける帯をつけて、底を落ち着かせることはできないかしら。

 シアニは背負い籠を手に取って見た。細い蔓を編んだ平たい細帯がついている。

「ここのご主人は手先の器用な方でしたね。ニレの木の皮やイラクサからきれいな糸をとって編んでいましたよ。」バギルの妻が顔を上げて言った。「私も何か細い帯を編んでもらいました。使ったことはありませんけどね。結ぶのが難しくて。」

 挽いた蕎麦をさらえ取って甕に移し、手を前掛けで拭い、バギルの妻はわざわざ奥の部屋に行き、畳んだ細帯を出して来た。淡い黄褐色の地に白い厚い糸の蔓草模様が浮かんでいる。

「あら素敵」

「あげますよ。」バギルの妻は簡単に言った。

 背嚢のベルトが出来るわ。

 背負い籠の乗っていた棚のさらに奥に小さな行李がある。高さは少し足りないがいい幅だ。

「これはアツセワナの柳で編んだものですね。トゥサ・ユルゴナスで病人か怪我人が出ると、施療師が出かける。その時、これに薬を入れて運んだんです。」

「中には何が入っているの?」

「見てみましょうね。何も入っていないと思うけど。」

 年老いて背の縮んだバギルの妻に代わって、シアニが伸びあがって棚から行李を下ろした。軽いが中にころんと転がるものがある。

「包帯がひと巻き。あらあら、それにリボンがひと巻き。」バギルの妻はそれをじっと見つめた。「これはロサリス様のものだわ。」

「じゃあ、母様に返した方がいい?」

 バギルの妻は首を振った。「もう構いませんよ。もらっておしまいなさい。」

 丸ごと差し出された行李を受け取って、シアニはちょっと、上にたまった埃を吹き、前掛けで拭った。

「そこの麻袋ももらっていい?」

「いいですとも」

 しめしめ、これで出来たようなものだわ。

 戦利品を素早く部屋に運び込むと、シアニは、昼を目指してコセーナに戻るためにルーナグを迎えに行った。

 コセーナの広間は卓の近くから厨にかけて昼食を取りに来た人々でごった返していた。シアニは、卓の端で疲れの取れない様子でうなだれて食事をしているニーサを見つけると、ルーナグを連れて、床に座っている人々をよけながら近づいて行き、囁いた。

「ニーサ、時間は取れる?」

 ニーサは不意を突かれて顔をあげ、訝しげにシアニとルーナグを見比べ、炉の近くで年寄りと話しているダミルを見て首を振った。

「余分な時間は取れないよ。会合の準備もあるし。」

「ほんのひと言よ。そこで、いい?」シアニは、開いている扉から見える水場の脇の林を指差した。

 ニーサは皿を持って立ち上がった。ルーナグはふたりの後から憮然とついて行った。その足元の左右から休憩中の者たちの舌打ちや文句が蚤の跳ねるように起っては静まる。

 木の下に来るとシアニは切り出した。

「余分な時間は割かなくてもいいわ。大事なことは急ぎじゃないもの。私の馬の稽古の時間をそっくりこの子に譲りたいの。」

 男と少年とはふたりながら目を丸くした。

「もちろん世話も教えてね。だけど、ふたりとも、その中で一回だけ私にちょうだい。おじいさんに会う日を一回だけよ。」

「どうしてもすぐに会わなければならない?」ニーサが尋ねた。「それは稽古の時間を回すだけじゃ足りない、一日かかる―――使者は明日にも来るかもしれないのに。」

「あら、そんなにかかるわけないわ」ほんの三日前に会いに行った時は一時余りで帰ってきたのに―――シアニは笑い出しそうになって言った。しかし、ニーサはごく真面目だった。

「あの時、引っ越すと言っていた。行き先は知っているけれど前よりずっと遠い。いつ行こうと思っている?」

 思いのほか簡単なことではないのに気付いて、シアニも真顔で答えた。

「明日ではないわ。」

 母さんはパンを焼くのをいつだと言っていたっけ?

「五、六日後か、もっとかもしれないわ。」パンはしばらくなら()つ。「あなたの都合がつけば。それより二、三日あとだって。」

「一日くらいだったら暇がもらえるだろう。」ニーサが気乗りしないふうに呟いた。「おれの結婚式とでもなんとでも。」

「承知してくれる?」

「その時に言ってくれれば、二、三日内に都合をつけるよ。」ニーサは言って、ルーナグに振り返り、素早く少年の顔つき体格身形をあらためて言った。

「明日から夜が明ける前に厩に来いよ。」


 シアニは、東向きの露台に掛け、昨日縫いあがったスカートを傍らに広げ、そのままでは短い身頃の裾の前面に細かく襞を取りながら帯を縫い付けた。胴に帯を二重も巻いておけば、身頃とスカートの継ぎ目を隠すことが出来る。スカートの腰を縮める紐も通した。出来上がりを堪能する間もなく新しい服を脇に置き、シアニは、古い冬服を断ってズボンを縫い始めた。身体つきが以前とは変わってきていることをロサリスから教わったので腰回りをゆったりと取り、両脇が閉まるように(ボタン)を取り付けた。

 居間の方で少し高い声が飛び交った。朝、コセーナに出かける時に馬を断り歩いて出かけて行ったロサリスを心配して、バギルが帰って来たところを口説いているようだった。

 シアニは、ちょっと耳をすまし、新しい服をさっと巻き上げて縫物籠に入れて足元に下ろし、膝の上のズボンを広げた。部屋の戸の開く気配はない。今日も縫物を見には来ないようだ。今晩、さっさとお披露目してしまおうかしら?着てしまえば、まさか脱いで点検させて、とは言わないでしょうね?

「殿も、今回は大きな宴はしないと仰っていたから、支度はコセーナの女達に任せて少し休まれてはどうでしょうね?」

 夕食の後で、額を手に預けてうなだれているロサリスにバギルの妻が声をかけた。シアニはさっさと着換えに引っ込み、新しく縫い上げた服を腰の継ぎ目が分からないように気をつけて着こみ、新しい赤い胴着を上から着けた。子供っぽい釦ではなく、細紐で編み上げてぴったりと締めるやり方だ。

「母様、出来たわ、どう?」

 ロサリスは顔を上げ、シアニの姿を認めると驚きと感慨を込めてじっと見つめた。

「よくできているわ。」立ち上がり、近寄って両肩に手を置き、しみじみと言った。

「もう、立派な娘ね。いつの間にこんなに年月が……。お祝いをあげましょうね。」

 灯火を手にして小部屋に行き、例の長持ちの蓋を開けると、布にくるんだ絹の他、いくつかの物を取り出して傍らの子供用の寝台の上に置き、さらに長持ちの中を探って、長い柄のついた黒ずんだ鍵を取り出した。リボンを取り出して切り、鍵の柄の先についた輪に通して結び、シアニの首に掛けた。

「これはお護りよ。そう思って持っていてちょうだい。」

 ロサリスのすることをじっと立って見つめていたシアニは、寝台の上に重ねられたものの一番上に一振りの短刀が置かれているのを見つけた。

「母様、それは?」

 ロサリスはそちらに目をやり、さっと短刀の上に手を置くと、「これは駄目よ。あげられないわ。」長持ちの底に入れ、その上から他の物を仕舞った。

 それはそうよ、高価そうだもの。もう私に必要な小刀はみつかったのだし。それに、いい短刀だけれど普段の用に使うには少し長すぎる。

「服の内側にしまっておくのよ―――お護りは誰にも見せないのよ。」ロサリスは注意した。

 一人前のお祝いに鍵をもらうしきたりってあったかしら?一家の女主人は食糧庫の鍵を預かるもの、とは聞いたことがあるけれど。シアニは、小さいながらもずしりと胸に重い鍵を手でつかんで、服の胸の内に落とし込んだ。

 服はこれで合格ね。シアニは、今日手に入れたもののことを思い返した。明日から少しずつ背嚢をつくるわ。


 翌日、エフトプからはキアサルの名代アタラが、オトワナコスから領主カマシュの名代ゴルテが、それぞれ馬に乗り二人の伴を連れて、公道を南と北からやって来た。簡単な晩餐が用意され、ロサリスはその夜からコセーナに出向いた。会談は翌朝から開かれることになっていた。

 シアニがコセーナに出かけて行った時、広間の外には歩哨役の鍛冶師の徒弟と、二郷の従者のふたりが扉の前を見張りながら世間話をしていた。エフトプの従者はやや肩の丸くなった中背の年配の男で、オトワナコスの従者は元気な若者だった。

「五年ほど前までは度々小競り合いがあったね。クシュの舟は神出鬼没だが、それでも最後に陸にあげる時は狙われた。夫婦川の島はいつも戦場だった。」西側の戸口の段に腰をおろしてエフトプの従者は言った。

「鉄が来なくなってから狙われなくなったのかい?」

「いや、戦う元気も無いんだろう。こちらも同じようなものだけどな。」

「こっちは最近、高台の物見から見張っても、コタ・ラートまで敵が来ることはないよ。」

 オトワナコスの若者が言った。

「イビスにもアツセワナにも鍛冶の火は見えない。敵も鉄が無いんだ。近頃はイネ・ドルナイルの採掘も止まっている。昔から昼夜分かたず燃すっていう精錬の火が、ここ一年はフクロウのように目を凝らしても見えないんだ。」

「へえ、仕事が無いのは同じか!」鍛冶師の徒弟が言った。「それに関しちゃ、お互い様のお気の毒様だな。」

「静かすぎるのは良くない。」シアニの良く知っている懐かしい声が割り込んだ。東側から回り込んでやって来たケニルだった。

「何か起きそうだから話し合いをしてるんだろう?」鍛冶師が仕事場から抜けて話に加わりに来た。

「既に事が起こっていないか確かめ中さ。」ケニルは手を振って会議中の広間を示した。

「ケニル!」シアニは声を掛けた。

 ケニルは振り返り、お道化たふうに目を見開いた。

「誰かと思えばシアニか!まるまると大きくなってめかしてるから、どこの姉さんかと思ったよ。」

「三年以上会っていないでしょう?オトワナコスから帰ったの?」

「いや、向こうに家族がいるしな。」ケニルは近寄って来て、珍しそうにシアニの長いスカートを見た。

「あの緑の毛虫もまるまると元気に増えてるよ。この夏はそろそろどうにかしなきゃな。―――殿に用事か?会議が終わって戸が開くまで入れないよ。」

「わかっているわよ。」

 シアニはそのまま広間の外を回って厨の方に言った。厨では盛んに鍋から湯気が上がり、肉の脂の焦げる煙があがって、女達の立ち働く声が飛び交っている。新しい服に前掛けを用意していなかったので、台所の手伝いを避けて、会議の進捗が分からないものかと、広間の炉の奥の扉に近づいた。扉は換気のために少し開いている。そっと中をのぞくとこちらに背を向けた長老三人とダミル、ロサリスの横顔が見えた。

「この後、西が我々に及ぼしうる脅威をオトワナコス、エフトプのお二方はどう見ておられる?」

 ダミルの問いかけに扉の陰で見えない男がぽつりぽつりと答えた。オトワナコスの使者、ゴルテ、それともエフトプのアタラかしら―――。

「アッカシュとアガムンが互いを下そうとしている、あるいは西の中だけで覇権を争っている、それが完全に壁の向こうのことであれば特に急ぐことではないのだが、クシュの報せのとおり、アガムンが争いの場で王女の名を出したとなれば、我らも無関係ではおられませぬな。」

 また別のきびきびとした声が言った。

「あなたに双方から何か働きかけはなかったか?」

 ロサリスの顔が上がり、眼差しを遠くに据え、静かに答えた。

「働きかけという程ではございません―――兆しでございます。」

 静まりかえる中で、ひと言ずつ押し出される言葉を、シアニは身を引っ込めて聞かずに済ませた。様子を見に来ただけだ。盗み聞きをしたいわけじゃない。そっと身をかがめて詰所の前を横切る時、耳に残った言葉が追いかけて来た。―――昨年の秋ごろからでございます―――。

 昨年の秋からといえば、イビスから逃れて来た家族がコセーナに住みはじめた頃。そこから何かを説明するのだとしたら、長くかかりそうだわ。シアニは広間の反対側の扉の前の段に腰をおろした。無駄足だったけれど、今日はハーモナに戻ろうかしら?

 シアニの左側で軋る音がして、東に面した大扉の片側が少し開き、疲れた様子のロサリスが出て来た。シアニに気付く様子も無く、肩にしていたショールを頭から被り、重い足をせかすように東門の方へと去って行った。

 帰るんだわ。さっきの様子からは拍子抜けするくらい唐突だけど、会議は終わったようだわ。

 シアニはまだ閉まり切ってない大扉に駆け寄り、肘と身体を押し込むようにして中に入った。客人は正面の扉から出たに違いない。

「父様……。」

「シアニ!」

 面食らった声が炉の前から飛んだ。卓を取り巻いている顔が一斉にこちらを向いた。一瞬暗くて見えなかったが、使者たちはまだ会議の席に着いており、遠くの真正面にいる長老たちは棒を飲んだように目を丸くし、口をすぼめてこちらを見ている。

「母様が出てらしたので―――失礼いたしました。」シアニは会釈をして扉から出ようとした。

 途端に、立派な身形をしたふたりの客人がちらと互いを見やり、振り返った椅子から半身を乗り出した。古いが絹の縫い取りのある胴着をつけた短躯の恰幅のいい老年の男と、ダミルよりも少し年上らしい、これも仕立ての良い山羊革の胴着を着た鋭い顔つきの男だ。

「いや、お気に召さるな。」年かさのエフトプのアタラは片頬に微笑みすら浮かべた。

「ご息女と……?」

「シアニ、用は後で聞こう。今は会議中だ。」ダミルは会議の姿勢のまま、素早く囁くように言った。

「ご息女と言われましたか。」オトワナコスのゴルテが陽気に畳みかけた。

「私の娘だ。」

 ダミルはふたりを交互に睨みつけ、ぶっきら棒に言った。

「母御は―――?」アタラは、測りかねるようにシアニの黒みの強い艶やかな髪と濃いクリーム色の陰影の浅い顔を見つめた。

 ダミルの茶色の瞳が、危険の音を聞き取ったウサギのように宙にとまった。

 父さん、咳払いも瞬きも駄目よ。

 シアニはとっさに進み出、会釈をした。新しいスカートのたっぷりとした重みが思いがけず身ごなしに威厳を与え、唇をちょっぴり引き締めると目元に気丈さが宿る。

「母はクシガヤの生まれで、ロサリス・ニーニア姫の侍女でございました。私はクシガヤのハヤの娘、シアニでございます。」

 どう、噓じゃないわ。

 目顔で合図を送ると、ダミルはすまなさそうに頷き、動転の治まり切らぬ声で言った。

「その通り。母はこの子が生まれた時に亡くなったのだ。」

「こんなに大きなご息女がおられたとは。」アタラは驚き呆れて声を大きくした。

「では、まぎれもなく?」

「目の中に入れても痛くない。」ダミルは辺りを払う声で断言した。

「お嬢さんは、父君に用事があるのでしたな。」

 ゴルテは愛想よく手を大きく振って前へと促した。シアニはその前を通りながら、親切な男の顔を見返した。日に焼けた高い頬骨の奥の切れ長の目は厳しげだが、声は明朗で親しげだ。

「我らのことはお構いなく。そこで外の空気を吸って休憩がてら待たせて頂く。」

 アタラは調子を合わせてそそくさと立ち、大扉の脇に外を眺める体でゴルテと並んで立った。

「何だ?早く言いなさい。」ダミルは小声で言った。

 シアニはダミルの傍らに行き、隠しからバギルから譲ってもらった手形の木の小札を出した。

「父様、これを知ってる?かつてエファレイナズで広く使われていたものよ。これは今でも使えるものなの?」

「ほう」

 ダミルの興味深げな声にふたりの使者は振り返り、会議の重苦しさを忘れたように目配せするのを見て、近づいてきてシアニの手元を覗いた。シアニははにかみもせず、綴った小板から二枚抜き取ってふたりに差し出した。

「おふたかたの郷では使っておられますか?」

 ゴルテが手の中で小札を丁寧にひっくり返し、その形と印をあらためて言った。

「西では知りませんが、我らが郷では稀に交換に応じることがございますな。昔、郷の外に働きに出ていた老人が、暮らし向きが思うに任せぬようになったところで思い出したように郷倉に持ってくる。厳しい倹約の後に自らに許すごくささやかな安心の食糧なのでしょう。むろん、支払ってやります。我々の倉がトゥサ・ユルゴナスから同じだけ取り戻せるかどうかはまた別の話だ。労働に報いが無ければ領民は意欲を失う。」

「お嬢さんはこれをどこで手にされましたか」アタラは丁寧に尋ねた。

「ハーモナに持っている田の耕作を学んだ時に、勤労の報酬としてトゥサ・ユルゴナスのかつての庄長からもらったのですわ。」

「良いものをもらいましたな。」エフトプのアタラはダミルを見やって言った。

「我らの郷倉の蓄えはすっかり尽き、かつて出回っていた我がエフトプの小板は穀物の代わりに倉に片付いている。あれが再び民の糧を保証する日が来るよう、改めて復興を肝に銘じることとしましょう。」

「コセーナでは長く見ていなかったな、」ダミルは言った。「だが、もし誰かが交換を望むのなら、応じるようにはしよう。シアニ、お前は今それと交換してほしいのか?それとも種籾用にしたいのか?五斗もの種を蒔く田はなかなかのものだな。」

「今はそのまましまっておきます。こうして。」シアニは小札を綴りなおして隠しに仕舞い、真面目に言った。ダミルが口にした言葉が新たな視野を与え、ふとまだ見ぬ大河の岸に広がるいちめんの耕地を思い描いた。その田の中で緑の苗はすくすくと伸び、黄色く色づいてゆく。

「種とも替えられるのだと思うとただ食べるよりも楽しみだわ。それでも食べなきゃならない時は食べなきゃならないでしょうけれど。―――だけど、父様、お願いに上がったのは私以外の人や子供がこれを持って来た時のことなの。どうぞ、お願いします。」

「わかった、わかったシアニ。」ダミルは長老や使者たちの目を気にしながら言った。

「もう行きなさい。会議がある。」

 シアニはもう一度重々しく一同にお辞儀をして、駆け出したいのを我慢しながら東の大扉から出て行った。

 椿事に続くつかの間の休息から気を取り直し、ダミルは非常に困難な状態で中断していた協議の再開を進めるため、まだ立って戸口を眺めていたふたりの名代に着席を促した。

 しかし、低くひと言ふた言言葉を交わしてこちらに戻って来る彼らの顔を見た途端、ダミルは協議が別の方向へ向かったのだと悟った。ダミルは長老たちを振り返った。年寄り三人はまるでもう会議が終わったかのように顎を胸に落とし、あるいは椅子の背にふかくもたれ、くつろいだ笑みを浮かべている。

 席に戻ったゴルテはアタラに目顔で了解をとってから口を切った。

「先ほどまで我々は問題に陥っていた。というのは、我々はハーモナをあなたの治めるコセーナの一部とみなしているのだが、あなたがハーモナの女主人として立てている王女に、我々の協議に協力する姿勢が見受けられないのだ。王女こそはこの不安定な状況をつくっている当事者だというのにだ。我々は直截に、彼女に西からの接触は無いかと問うたのだ。それなのに返ってくるのは謎のような言葉。正直なところ、腹に据えかねている。あなたはかつて王女は継承権を捨てた、と言った。ならば、そのつもりで遇するがよい。三郷の同盟と領土を守る会議に、王女はいらぬ。

「ところで、コセーナの領主としてのあなたに頼みがある。ご息女を我らが郷のいずれかに預けてくださらぬか。ご息女はまだ若いが、オトワナコスには良い年頃の子息がいる。縁組すればいまに何よりも強い絆になろう。」 

「我が主キアサルは、あいにく男子に恵まれず、娘夫妻にも子がおらぬ。さらにいまは食卓が豊かとも言い難いが―――」身を乗り出し、強い声でアタラが後を引き継いだ。「長く東西との交易を取り結んで参ったエフトプには、まだ珍しい奢侈品や古くからの文物もあり、楽器や詩文の師匠も住んでいる。ご息女は利発だ。他家で行儀作法を仕上げればさらに磨きがかかる。私はダミル殿さえよければ、主にご息女を養女として迎えるよう勧めるつもりだ。」

 長老たちは顎を胸に落としたまま、ちらりと目を上げた。使者たちが来てからはもちろん、タシワナから帰った後はおくびにも出さないようにしていた問題が、あたかも彼ひとりをのけ者にして打ち合わせ済みのように進んでいく。

 ダミルは決断を延ばすためにひとりで反駁を試みた。あれはまだいかにも幼い、他所には恥ずかしくて出せるものではない、そしてわが子のようにあれを愛しているロサリスは心を傷めるだろう……。

 アタラは面を厳しくし、勢いを得て言った。いや、若いからこそ良いのだ、見たところ丈夫で気前もある。手を掛けて育てる余地は大きいほど良いのだ。

「我々は結束の道を探りにここに集まっているのだ。しかし、王女は我々の懸念をゆるがせにし、コセーナの信用を損ねた。この状況において新しい縁を結ぶのはコセーナにもまさに必要な答えではないか?」

 ゴルテも傍らで大きく頷いた。ダミルは仕方なく、長老たちを振り返った。

 長老たちは既に座りなおして体制を整えていた。ダミルがほとんど相槌も打たずに卓の上を見つめている間に年寄りたちはふたりの名代の要望と見解を聞き、領主に問い合わせる手順を検討し、縁組の日程の見当をつけた。

「殿、よろしいか?」アタラとゴルテにあらましを確認した後で、長老がダミルに尋ね、ダミルは初めて顔を向け、ロサリスの了解を得られれば、と答えた。

「あれを育てたのはロサリスだ。話し合いも無しに返事をすることは出来ぬ。領主の判断として最後に命令をくだすとしても、だ。」

「さっそく主に報せ、段取りを決めるために従者のひとりを帰そうかと思ったのだが……。」

 アタラとゴルテは、ロサリスを交えた相談を午後に改めて行うことを承知し、休息を取るために宿舎に帰って行った。

 午後にハーモナにロサリスを呼びにやらねば。年寄りたちの出て行った後で、外の空気を吸おうと東の戸口まで出た時、ダミルはちょうどやって来たサコティーの浅黒い顔とこちらの眼差しを捉える黒い目を認めた。

「たった今、王女をハーモナまで送って行ったところだ。」サコティーは忍耐強い穏やかな顔にやや閉口したような表情を浮かべた。「思った通り、森をさまよっていた。」

 ダミルは不機嫌に言った。「午後からまた彼女を会合に呼び出さねばならん。今朝疲れ切ってここを出て行って―――。」

「疲れは心に隠し事をしているせいだ。森の中を歩く彼女の足は速い。」

 サコティーはダミルの目を見、眉をひそめた。

「あなたこそ今晩十分に休息を取った方がいいな。目が赤くなっているぞ。近日中に事が明るみの元に動きはじめる。そうなれば休む間もなく対応に追われる。」

 サコティーは行きかう人の目をもう少し避けるために扉の陰に身体を滑り込ませた。

「せめてあなたには打ち明けてくれればよいものを。―――王女は捕まった女の代わりに間者に会おうとしてずっと森の中を探し回っている。そして今日は自分の足もとも分からないまま会議が始まってしまった。あなたをはじめ皆を不審がらせたまま、だ。しかし、五日と待たず彼女も我々もアガムンの要望を知ることになるだろう。」

「その訳は?」

「三日前の明け方、男は対岸に向かって合図を送った。呼子笛を組み合わせた合図だ。恐らく王女との接触を果たしたことを報せる合図だったのだろう。向こうから応えがあった。今度はアツセワナから正式な使者が来る。」

「早く来るがいい!ところで捕まえた男はどこにいるんだ。私は会っていないぞ。」

 腹を立てながらダミルは言い、ふと、サコティーに振り返り、身内に走った戦慄を押し殺した。

 サコティーはごく穏やかに感情を表さずに見返した。 

「尋問も、裁きも無しにか?戦の最中ならともかく、領主の了解も得ず?」ダミルは驚きに目を見張り、咎めた。「冷酷になったものだ。」

 サコティーはダミルの非難を瞬きもせずに受け止めたが苦々しく呟いた。

「変わらなかったものがどこにある?」


 その日の午後遅くに行われた話し合いは、ごく穏やかに進んだ。ロサリスと二郷の名代との間で閊えながら事の次第を説明したダミルは、ロサリスが突然の縁組の提案に驚きながらも、冷静にひとつひとつ条件を問いただし、郷の暮らし向き、防備を確かめながら、徐々にその面に安堵と満足さえ表していくのを認め、安心すると同時に、ロサリスの愛娘を手放す思い切りの良さに物足りなさを覚えたほどだった。

「エフトプは大叔母が嫁いだ縁もございます。」ロサリスははじめてアタラに面をやわらげた。

「わが娘が文物豊かなかの地でさらなる成長を遂げることは、母として望外の喜びでございます。」

 そしてオトワナコスのゴルテに振り向いた。

「オトワナコスのご子息の中ではどなたが?」

「主カマシュの弟御の末の子息、ホザマ殿がもっとも齢の釣り合いが良かろうと存ずる。確約はできぬが。」ゴルテはむしろ厳しい目でロサリスを見た。「ご息女の要望を聞き入れる事はかなわぬ。その事を重々、ご承知を。」

 ロサリスはわずかに頷いて目を逸らした。ダミルは咳ばらいをして一同を見回した。

「この件、皆、心を一にされたな。」

 エフトプのアタラが大きくうなずいた。

「では、この縁組が滞りなく実現するよう祈って、早速明朝、郷に遣いを走らせるとしよう。」

 二郷の名代は淡々と合意を確かめると宿舎に引き取った。

 しかし、エフトプとオトワナコスに遣いの早馬が出される前に、コタ・ラートの防塁壁の物見から、コタ・ラートの北の橋を渡って騎馬がやって来たという報せが届いた。アツセワナのアガムンからの使者とその従者ということであった。ダミルは使者を通すように命令した。二郷の名代は、成り行きを見定めるために遣いの出発を後らせることにした。

 翌日、使者はコタ・レイナ橋から門までは歩哨に、門から館までは敵意に満ちた老若男女たちに見つめられながら悠々と乗り込んで来た。

「亡き王シギルのご息女、ロサリス殿に我が主アガムンより和平の申し入れ、および格別にお伝えしたい儀を預かって参った。王女に目通り願いたい。」

 使者は、ダミルと居並ぶ長老、二郷の名代を眺めまわして言った。ダミルはロサリスを迎えに遣った。

「王女ご本人であられるか?」

 尋ねる使者に、ロサリスは一瞬屈辱の火照りを面に浮かべたが、静かに応えた。

「私がシギルの娘です。」

「この場で主の言葉を申し述べても―――。」

「この場にいる者はすべて運命をひとつにする者。アガムン殿から申し付かった事、斟酌せず申し述べなさい。」

「では、いま少しお傍に寄らせていただいて。」

 使者は一同を見やり、ダミルが警告を込めて一歩踏み出すのを見ぬふりをしてロサリスの前に進み出、跪いた。

「主の言葉でございます。コタ・シアナにおける父トゥルカンと父君シギル殿の戦いに端を発した内乱の余波は今に至るまでエファレイナズを分断し、ひとつにあるべき国を小地主が無秩序に権利を主張しあう

野蛮の地に変えた。民の暮らしぶりの後退は著しく、王権によって広く政を行い、秩序の回復を図ることは喫緊の課題である。

「イナ・サラミアスの噴火の災禍は父トゥルカンの命を奪い、トゥルカンの推し薦めたアッカシュ殿とロサリス殿との間の王位継承の問題は、長の間、検討されぬまま棚上げされている。図らずも噴火は双方の停戦をもたらしたともいえる。しかるに十六年もの月日がたち、互いの怨恨も癒えてきた今、新たに国の行く末を考える時である。」

「和平だと?民の暮らし、秩序の回復だと?同じ字づらで正反対の心根がのうのうと語るのを聞くほど気色の悪いものはない。」ダミルは吐き捨てた。「誰が始めた戦だった?王女の命を脅かしたのは誰だった?」

「ダミル様、お静まりください。使者殿は間違ったことは申しておりません。」

 ロサリスはそっととりなした。

「交渉事は、ただ交わした言葉が守られ得るかどうかで立ちゆくことでございます。使者殿、いまひとつのお言葉を承る前に、アガムン殿の見地について正しておくことが二件ございます。ひとつ、私は八年前、既に私の相続分であった父の私領を放棄しました。ゆえに叔父アッカシュが管理するかの地について口出しは無用でございます。ひとつ、コタ・レイナ州は領主たちの協力のもと平和に治まっており、王政を必要としておりません。

「しかし、コタ・ラート以西との停戦、和平、人、物の交流は望むところでございます。アガムン殿に宜しくお伝え下さるよう。この事をご承知のうえでの次の話でないなら、この場でお引き取りくださいませ。」

「では、王女ではあるが継承権を持たぬロサリス殿。」使者は強いてゆっくりと言った。

「お立場に何ら支障はありませぬゆえ話を続けさせていただきましょう。次こそがこの度の遣いの本旨でございます。我が主アガムンは亡きシギル王の息女ロサリス姫に結婚を申し込む所存である事。ついてはこの儀についてロサリス殿の意思を確かめてくるように、と言い遣っております。」

 ロサリスは一陣の風に打たれた細葉のように一瞬身を震わせたが、コタ・レイナ州の面々は激震が走ったかのように凍りついた。

「戯言も大概にしろ。」ダミルがぴしりと言った。

「某はただ、申し付かったことを伝え、返事をいただくのみ。」

 ロサリスは静かに使者に問い返した。

「王位も土地ももたらさず、年老い、留守を守るだけの女に何をお望みか?条件をお言いなさい。」

 使者は立てた片膝の上に肘をつき、上目づかいにロサリスを見た。

「アツセワナの女主の証を、すなわち“門と蔵を司る印”を婚姻の証に持参されるように。これに対し、我が主の方でも見返りを用意いたしております。結婚のその時までお引渡しは出来ないが、一部お見せしてくるようにと言い遣っております。ここに―――。」

 従者を呼び寄せて小箱を取り、蓋をあけると、中身を包んだ布の一端を開いてみせた。

 ロサリスが後ろによろめいて卓の端をつかみ、使者が素早く箱を閉じる一瞬前に、ダミルはその中に八の字に縒って結わえた黒い絹糸ようのものを見たように思った。

「何だ?」ロサリスの腕を支えながらダミルは鋭く問うた。

「王女ご自身がお分かりのもの。」使者はロサリスをじっと見ながら言った。

「王女が得心されたか否かを見届けて来いとだけ、伺っている。」

「馬鹿馬鹿しい。お前の報告でアガムンに否か応か分かるというのか。」

「十分なようですな、王女」

 ロサリスはダミルの手を放し、目を開いて使者を見返した。

「承知いたしました。もし、アガムン殿自らが北のコタ・ラート橋までそれを携えてきてくださるならば。自ら花嫁を迎えにお越しくださいますよう。国境の橋の上で互いの約束のものを交換する。それが条件でございます。私はアガムン殿に嫁ぎましょう。しかとお伝えください。」

 ロサリスは扉に控えている番人に命じた。

「この方と連れの方に替え馬を。門までお送りしなさい。」

 使者が一礼し、くるりと身を返して広間を出て行った。

 扉が閉まるのも待ちきれず、ダミルは大声で言った。

「いいのか?よく考えもせず、我々に相談もせず―――。」

「何を話すの?」ロサリスは声をひそめて食ってかかった。

「ロサリス殿、使者を引きとめるなら早くなさい。」アタラが厳しい面持ちで促した。

「いいえ、これで良いのです。皆さま、どうかこちらでお掛けください。訳をお話します。」

 ロサリスは、大扉の外を改めてからしっかりと閉め直し、会見に立ち会った一同を卓へと導いた。

「十七年にわたる争いを終わらせます。」

 皆が卓につくと、ロサリスは胸の前に手を組み、言った。炉の脇にはサコティーが影のように立っている。

「私は、西に行きます。コタ・ラートの向こうへ。約束します、アツセワナに嫁いでもコタ・レイナに手出しはさせません。ハーモナからただひとりの女が去るだけのことでございます。」

「わかっておられない。このように単独で交渉しようとするところ、既に一介の女の振舞ではない。」

 渋々席についたものの、それまで腹立たしげに横を向いていたゴルテが突然口を切った。

「コタ・レイナ州は女王を認めぬ。あなたはそれを承諾してハーモナにとどまった。八年前の攻撃に対しても我々は王女の身を守るのではなく、同盟国を侵略者から守るために手を携え、コタ・ラートの向こうに退却させたのだ。あなたに独断を許したことが我々の自治の否定と敵に受け取られただろう。」

「約束するとはいうが……。」アタラも言った。

「あなたひとりを得てアガムンが満足するものだろうか。あなたの血筋を理由にエファレイナズを全て手に入れるのが目的なのは明らかだ。父のトゥルカンを見るがいい―――。」

 ロサリスは卓の上にコタ・イネセイナとコタ・ラートの間に横たわる版図を思い描くかのように目をはしらせた。

「今のアガムン殿にとって大事の事は叔父アッカシュを下し、西において第一の勢力を持つことでございます。アガムン殿は私を手元に置くことで、第一家の地所を要求し、アッカシュの領地には背後となるニクマラ、トゥサ・ユルゴナスの庄を、父シギルへの忠誠を理由に中立から味方にと引き込むことが出来ると見込んでおりましょう。」

「しかし、あなたは自らその力をアガムンに与えるのか?」

 ゴルテが測りかねるようにロサリスを見た。ロサリスは首を振った。

「そう巧くゆくものですか。やむなく敵対する地の一部にあるとはいえ、ニクマラ、農民の矜持を軽く見ておられる。彼らが私ゆえにアガムン殿に着くことなどあろうはずがない。アガムン殿は勢力において叔父アッカシュを上回ろうと焦っておられる。しかし、良くても領主、庄長らに無視されるだけでしょう。」

「だが、あなたが要求に応じた“門と蔵の印”は、ニクマラ、トゥサ・ユルゴナスの庄ばかりでなく、我らコタ・レイナの帰属の証として利用されるかもしれないのだ。」

「領主らの協力無く彼単独でコタ・レイナを攻める事は出来ない。それなのにアガムン殿の現状は西の統一からは程遠い」ロサリスは言い、ふと笑ってゴルテを見返した。「何を恐れることがありましょう。」

「あなたがアガムンのもとに行かれる影響は、あなたが思う以上に大きいかもしれませんぞ。」

 ゴルテが腕組みしてうなだれているダミルを見やって言った。

「存外に向こうを勢いづけ、こちらの力を削ぐかもしれん。人の情は測りがたいからな。あなたにせよ故郷に戻るのだ。いずれ向こうの暮らしに馴染み心が傾くのではないか。郷を守る者として我らはその疑いを看過できぬ。境界の向こうへ行くものは敵。この乱世では他の理屈は通らぬ。」

「覚悟の上でございます。万一、彼が領土を要求して来たら、どうぞ武力でもって思い知らせてやるがよろしいでしょう。私は構いません。―――いいえ、ご安心ください。この婚姻でアガムン殿が受け取れるものは何一つありません。」

 高ぶった細い余韻が、黙する男たちの囲む卓の上に消えた。

「姫」

 皆とは離れて卓の端に席をとっていた長老が表を上げた。白い眉の下に冷ややかな目が光った。

「敵の陣地の数に加わる者は敵だ。他にどう言いようもない。それでも行かれるか。」

 ロサリスは頷き、小声で言った。「はい、行きます。」

「あなたは夫君に操をたて変わらぬと誓ったそのお心を十七年の間に変え、アガムンに嫁ごうとされている。コタ・レイナに手を出さぬという誓いもいつまで持つものやらな。」

 ダミルが顔を上げ、ロサリスは立ち上がった。卓についた両手がみるみるうちに震え出した。

「―――失礼を。気分がすぐれませぬので外で風にあたってまいります。」

 東の戸口へと行くその傍らにサコティーが素早く近寄り、扉を押し開けた。ロサリスは顔を上げてサコティーを見、会議の席から当惑した顔を向けているダミルを振り返った。

「夫は戻らない、そうでしょう?」低く囁き、次いで声を絞り出した。

「ダミル、私は独り身の女です。何処へ嫁ごうともう自由ではありませんか。」

 ロサリスが出て行った後、サコティーは静かに細く開けた扉を閉めた。

「よくも悪くも来るべきものが来た、ダミル殿。同胞の方々と方策を話し合われよ。」彼は扉の内を後ろ手で押さえ、促すように目配せした。

 ダミルは外明かりの遮られた扉から、厳しい面持ちが取り囲む薄暗い卓上へと顔を戻した。

「ダミル殿、領内に住まわせておきながら手も足も出ぬか。」

 アタラが厳しく言った。

「我々が同席しながら女にこの場を仕切らせ―――アガムンに侮られますぞ。」

「いや、我がコセーナでは父の代からそうなのだ。」ダミルは低く断固として言った。「ハーモナの守も女主も、領主の会議には出る。これは我が館のしきたりだ。それにこれは彼女の用件だ。」

 一同はそれぞれに憤懣を腹に収めた。

「王女の結婚についてはこちらも心積もりさせてもらう。彼女が何と言おうが我々の信用を揺るがすことだからな。しかし、まず、先に相談してあったご息女との縁組はどうしたものか」

 ゴルテは一同に聞かせるように大声で言った。アタラは落ち着いて応えた。

「私は予定通り主キアサルに伝えるつもりだ。この縁で我々の結束を強めることが望ましいと思う。王女の血を引いていないのはかえって良かった。」

「ならば、オトワナコスもそのようにしよう。だが、私はおふたかたと今後の見通しを立ててから、遣いではなく自ら郷に戻ってカマシュと相談する。」

「私もそのつもりだ。」

 アタラはダミルに振り返った。

「ダミル殿、我々はこの通り、盟友として一層の連携を望んでいる。しっかりされよ。王女はもはや我々の会議の仲間ではない。彼女とアガムンが行動を起こすなら、我らはそれに備えねばならん。」

 ダミルは、身を起こし、一同を見回してうなずいた。

「話し合おう、この出来事が来るべき最初の一波なら。」

 心持ちを改めようと、飲み物を出すように命じ、席から立って、ロサリスが出て行ってから扉の内に立っていたサコティーの、外に耳をすませる様子に注意を向けた。

「何だ?クシュ―――」

 サコティーは振り向き、扉を開けた。

「私に心当たりはないが―――新しい波がもうひとつ来たようだぞ。」

 扉の向こうで家人たちが東門の方へと注意を向け、そちらに集まろうとしているのが見えた。

「どうした?何か変わったことがあったなら言え!」

 ダミルはその場でどなった。戸口の近くからひとりふたりと振り返り、その奥から門の見張り役の少年の声が、そして姿がこちらに向かって来た。

「人が―――タシワナから人です!大勢の人が」

 戸口の下の段にたどり着いて息を切らしながら報告しようとする少年の横で、凛と張った声が答えた。

「一族うち揃って、はるばるタシワナから参ったようです。女も子供も。」

 ロサリスがいつの間にか気持ちを立て直し、きりりと背筋をのばし厨の女達を従えていた。

「殿、門のところにはもう長が到着しております。家畜や荷も一緒ですので門を開けて皆を通し、会ってあげてください。私は女子ども老人を先に通用口から通します。」

 ダミルは立って、東の戸口から降り、人だかりめがけて大股に歩いて行った。

「あけろ、あけろ。殿だ。」気配に気づいた人々が囁き、道を開けた。

 開かれた門のところで、男たちが溜り、その中で腰の曲がった老人が、かがみ込む門番を相手に伸びあがるようにして何かまくしたてている。門の隣の小さな通用口から、細く列になって、女子ども、老人がゆっくりと入って来る。

 高柵と水場の間に立って、人々を招き入れながら、ロサリスが呼びよせた家人ふたりに指示を下している。

「この人たちを広場の方へ案内なさい。宿泊の天幕の用意を。そして秋の宴のように二か所に火焚き場をつくり、食事を摂れるようにしなさい。外にはこの人たちの連れて来た山羊もいます。うちのとは分けて牧場に入れておくように」

 ロサリスはそのまま女子どもの列に付き添って広場へと向かい、その後から門の片端から入って来た男たちが続いた。

 ダミルは門へと急いだ。門番と話しているのは、十日余りも前に会って話して来たタシワナの村長その人であった。

ご老人(コーアー)、これは早い再会だな。」

 ダミルは、老人の憤慨した顔が振り向くのを待って穏やかに声を掛けた。

「村を挙げて一大決心をしての出立だったようだが、旅の目的地はどこだ?」への字になった口を見て言い継いだ。「このコセーナか?」

 老人は大きく息を吸い込み、幾度となく門番に繰り返した言葉をまくしたてた。

「わしらの村は昔々から、普請やら田畑の刈り入れやらでコセーナの殿様にお仕えして来ましたに、石切りの仕事まで取られてしまって、これからどうやって食っていくんだ?先祖がやってた田畑を後に回してでも、コセーナの殿様がこう言えば道普請、こうと言えば石切りと、慣れない仕事を一から覚えてお仕えしたのによ?」

挿絵(By みてみん)

 ダミルに口も挟ませずに、老人はそこにたったまま、懇々と八年間の苦労話を続けた。ダミルの後からゆっくりと門のところに出て来たオトワナコスのゴルテは、興味深げに耳をかたむけていたが、辛抱強くくうなずきながら、いちどきにやって来た事どもの差配に沈思しているダミルの前で、ようやく話し終えて大息をついている老人に、ひょいと身を乗り出して声をかけた。

「ほう、お前さんがあの石壁の立役者かね?」

 老人は次々と変わる相手に疲れ果てたように振り返ったが、ゴルテの親しげな面持ちにきょとんとして訊き返した。

「何ですかね?」

「コタ・ラートの岸にずっと造られたあの防塁の煉瓦だよ。火山灰を煉瓦に造るには大変な熟達を要すると聞いた。なかでも石灰石を切り出して焼くのは危険で辛い仕事と聞く。」

「その一番大変なのをわしらは一手に引き受けていたんで。」

 おさまりかけていた鬱憤がまた沸々とわきあがってか、再び頬を赤くして老人は言った。ゴルテは厚い大きな手を老人の痩せた肩の上に置いた。

「そのご苦労の成果をその目で見ていないとは残念だ。私はオトワナコスから来たが、わが郷から見下ろすコタ・ラートは大蛇の腹に沿って細い影が刻まれるが如く、灰煉瓦の防塁が上下にわたって連なり実に見事なものだ。ここの工匠たちがそなたの作った石灰を徒や疎かにはしなかったことはあれを目にすれば明らかだ。そなたもさぞ誇らしく思うだろう。」

 狐につままれたようにゴルテを見返す老人に、ダミルは声を掛けた。

「まあコーアー、上がってくれ―――。村の衆は皆とうに中でくつろいでいるぞ。ちょうど、今日という日はこのゴルテ殿をはじめ、コタ・レイナの郷の方々が我が館に客人として集まっているんだ。もてなすからあんたも加わってくれ。そこで行く末の事を考えようじゃないか。」

 ゴルテが老人の肩を叩いて促し、ダミルは村人の列の尻が広場の方へと回り込んで消えた後から、村長と残った二、三の村役たちの先に立って会議が中断されたままの広間の方へと案内した。


 コセーナの広場にはにわかに小さな村ができたかのようであった。かまどをつくり、薪を準備するとタシワナの女達は自分たちで煮炊きを始めた。タシワナの村長は広間での晩餐に与り、コセーナの長老たち、コタ・レイナの名代たちに引き合わされ、たちまち気を良くした。

「アガムンからの返答はまだしばらくかかりそうだ。」ゴルテが日数を数えながら言った。

「一度、コタ・ラート橋の近くまで、防塁の建設の進み具合を見に行ってはどうだろう?この御仁にも興味深かろうし、我らも今後のことを考えるのに場所を変えればまたいい思案も浮かぶかもしれん。」

「良い考えだと思うが、ダミル殿はどう思う?」アタラはダミルに振り返って言った。

 ダミルは、広間と厨との境を行き来して女達に給仕の指示を出しているロサリスを見やって、重い口を開いた。

「おふた方がそう望まれるなら―――」

 ロサリスがさっと振り返り言った。

「明日はお休みいただき、明後日の早朝に出かけるのがよろしゅうございましょう。私もご一緒させていただきます。防備と見張りに励んでいる子供たちを見舞いに行きとうございます。」

 ゴルテとアタラ、長老たちは互いに見交わし、返事を渋ったが、ダミルは、うなずいた。

「明日のうちに馬の蹄鉄を調べさせよう。」

 アツセワナの使者を迎え、休む間もなくタシワナの村人をもてなした後、ハーモナで休みたいと願い出たロサリスを、ダミルは、ニーサに馬で送らせた。ニーサはハーモナの館までロサリスを送って行き、バギル夫妻に招き入れられ、飲み物を振舞われた。

「明日はパンを焼くわ。」ロサリスは倒れ込むように椅子に掛けながら上機嫌で言った。「パン種あるわね?」

「取ってありますけれど―――」バギルの妻は戸惑って言った。「間に合いますかね?温めて元気づけないと。今晩からだと……。」

「何でまた、今そんな面倒なことをしなさるんだ。」バギルが口を挟んだ。「パンなんか別に急ぐこっちゃない。オトワナコスやエフトプの重臣と一日いるだけでお疲れだろうに、馬に乗ってコタ・ラート橋までついていくなんて……。」

「会議で籠りっきりだったからパンを焼いたり、外を歩くのは気晴らしになるわ。」

「あの男どもは嫌味も言うからな……。それはそうと、アツセワナの使者は何と言って来たんです―――畜生め」

「まったく急ぎの事ではないのよ」ふっと声をひそめてロサリスは素早く言った。「―――コタ・ラートから帰って来てから殿に聞いてちょうだいな」

「母様、パン焼き手伝うわ。」ニーサに飲み物を運んできたシアニが言った。

「多めに作っていいでしょう?果物とクルミを入れて。」

「もちろんよ。忘れていないわ。」ロサリスは言い、ニーサに振り返った。

「ニーサ、あなたの弓の腕は以前のままかしらね?」

 不意に尋ねられてニーサは少し考えた。

「この頃は前ほど鍛錬していませんからね。弓の手入れは折々していますが。」

「コタ・ラートには殿と同伴するの?」

「お供します。」

 ニーサは質問の続きを待ったが、ロサリスがそれきり立ってパン種の支度をしに行ったので、出された飲み物をひと息に飲んで立ち上がった。シアニはニーサを玄関まで追いかけて行った。

「ニーサ、コタ・ラートからいつ帰るの?」

「明々後日の夜には帰って来られるだろう。」

「じゃあ、その次の日に厩でね!」シアニは囁いた。「言ったでしょう?おじいさんのところへ連れて行って。」


 二日後、ダミルはゴルテとアタラ、タシワナの村長と石灰と煉瓦の工匠らを伴い、行きに半日以上かかるコタ・ラート橋に向かった。ロサリスはニーサに付き添われ、ヨレイルの娘をふたり伴に連れ、少し遅れて出かけた。

 タシワナの村長は貸し与えられた小馬に跨りついて来たが、やがて馬を降りて歩くと言い、村人の何人かを伴に、ダミルらのはるか後ろを徒歩でゆっくり追いかけた。そして午後には荷馬車を御して追い付いて来たロサリスの一行に拾われ夕刻少し前にコタ・ラート橋のたもとに追いついた。

 村長を追い越したタシワナの屈強な工匠らは馬で行く領主と名代らにほとんど遅れることなく、昼を少し過ぎた頃に、石壁が前方の視界を遮る堤の上にたどり着いた。

「ああ、こりゃえらいことだ。」

 村人たちは森が切れていきなり眼前にそそり立つ、一間から一丈の壁を見て叫び、珍しそうに近寄って、顔を近づけて見、壁を叩いてみた。

「ありゃ、この下の奴はすかすかでないか?向こうから穴ぼこを通して光が漏れてるぞ。」

「おい、うちの天井の上を歩くな!穴ぼこをあけるのは誰だよ?」

 堤の脇の藪からむっくりと浅黒い顔の若者が顔を出した。壁をつついている男の横に登って来、胡散臭そうにその顔を見た。「あんた、見ない顔だな。」

 男はちらりと若者に目をくれ、より気掛かりなふうに壁を撫でた。

「穴くらいは可愛いもんでな、兄ちゃん(アート)、放っておくとそのうち前にどーんと倒れて来るぜ、歪んでいるからな。」

 若者は心配そうに男の横にしゃがんで覗いた。

「それは初めの頃に造ったやつだよ。その頃は砂利と水のあんばいが分からなくて、繋ぎが脆かったんだ。片栗粉の団子みたいにこねてもすぐにびしょびしょに水が浮いてさ。」

「こっちはいい。」タシワナの男は順に煉瓦壁をつついて言った。「これと、これと―――これは駄目だ。上に積んで重くなるから、ほら、ひしゃげている。この上には櫓を組みなさるな。」

 近寄って来たダミルは耳をそばだてて聞いていたが、興味を引かれて言った。

「名人のお出ましか!この若者たちはほんの少年の頃やって来て、ろくに監督もしてもらえないまま見様見真似で仕事を始めた。その頃作り始めたのがこの辺りなんだ。今からでも壁を補強できそうか?」

「できますともさ。」男は即座に答えた。「わしら、村では殿に教えてもらってこのかた八年ずっと灰で家を直してきましたからな。」

「櫓を組んじゃ駄目だって?」寄って来たヨレイルの若者たちはがっかりして叫んだ。「せっかく物見台も造ったのに。この間、アツセワナの使者が通った時もあそこで見張っていたんだぜ?」

「名人、見てやってくれないか?」ダミルはそこに集まって来たタシワナの工匠らを見回して言った。

「物見台はここだけではないんだ。コタ・ラートに沿ってエフトプまでいくつも備えてある、壁も、もし、修理が必要なら、材料を運ぶから彼らに教えて直してくれ。」

「今日、明日でかたがつくことじゃないよ?」工匠らは互いを見合って言った。

「そうだろうとも!」ダミルはにこやかに言った。

「長い事かかる事業だ。食う寝るところ、住むところ、だな。この子達の住まいのあるコタ・レイナの西岸の下が空いている。そこに住まいを移して、ここに交代で通ってくれないか。」

 ダミルは馬首をめぐらし、コタ・ラート橋の橋台のたもとで馬上で話し合っているふたりの名代のもとに戻った。

 アツセワナから伸びる公道の一端につながるコタ・ラート橋は、付近では真っ先に壁が築かれた場所だった。使者の行き来した壁はちょうど橋の幅だけ残して両側に築かれている。コタ・ラートのもっと南にかかる中の橋とくらべ、橋には欄干もなく、小さな荷車がひとつ通るだけの幅しかない。

「王女はここを通ってアガムンに嫁ぐことになる。」

 アタラは石壁の間に見える橋を指差した。

「行き来は河の上の橋一本」

「王女は、コタ・ラート橋までアガムン自身が来ることを結婚の条件とした。王女は結婚にことよせてこの橋の上で取り引きをしようとしているのだ。」ゴルテは近寄って来たダミルに振り返った。

「王女が呑んだ交換条件とは何か、ダミル殿は聞いておられるか。」

 ダミルは首を振った。

「彼女は決して言わぬ。」言わないのはロサリスばかりではない。サコティーもだ。

「二日経っても心は変わらぬか。」アタラはため息をついた。

「信じるかどうかが問題ではない。出来るかどうかだ。」ゴルテがきっぱりと言った。

「アガムンは冷酷で老練。王女が適うわけがない。相手を橋の上に呼び出した王女は“門と蔵の印”を奪われ、悪くすると命を落とす。」

「それは私も心配している。」ダミルは力を込めて言った。「戦いの備えが必要だ。」

「我々は領主にこの事を伝え、援軍を頼むつもりでいる。」ゴルテはアタラと見交わした。

「今、我々は戦力を見積もるためにここに下見に来たのだ。当然向こうもそれを計算に入れていると思わねばならん。陣立てを考えよう。」

 三人は馬を降り、橋の上へと出た。橋台の足もとから水辺まで砂地が広がり、低い草木が縞状に生えている。

「向こう岸は堤の上に橋の上を狙って弓手を配置できる。」ゴルテは対岸の堤を指差した。「こちらも防壁に沿って櫓を組むことは出来ようが、姿を見せていては、アガムンは交渉に応じまい。」

「壁の外に出て王女の護衛を出来ぬか……。」ダミルは呟いた。

「それは愚の骨頂ですぞ!」アタラが聞きとがめて言った。「敵が前、壁が後ろとは!」

「しかし、アガムンは表向きは戦をしに来るわけではない。この婚儀もなるべく事前に公にしたくはないだろう。大々的に兵を連れて来ればアッカシュの目を引き背後から襲われるかもしれず、随行する兵士は儀礼用の装備の域を出まい。」

 アタラは厳しい目でダミルを見やった。

「我らは来るべきものに備えなくてはならぬ。この度の事を読み違えてはならぬ。アガムンの真の目的は結婚ではあるまい?王女とてそれは分かっている。王女は争いの元となる自分がここを去ればコタ・レイナは安泰というが、まさに十七年の決着をつけるのならば、我々は壁の内に兵を張り込ませ、王女の誘いによってアガムンを橋のこちらまでおびき寄せ、殺してしまうしかない。」

 ゴルテは即座にうなずいたが、ダミルは嫌悪の声をあげた。

「それはあまりに卑怯なやり方だ。」

「ダミル殿、現状を見なされ。アッカシュ、アガムンのために西が乱れ、イビス、エフトプが双方の味方を拒んでいる今は、ここでアガムンを殺しても西はただちに結束してこちらを襲っては来まい。各郷に和平の使者を走らせ、コタ・レイナは西と戦わぬという協定を結ばせれば良いのだ。王女をアガムンに嫁がせるより余程安心だ。」

「しかし、呼び出すのをロサリスひとりにさせるのか?」

「それをしてもらわねば困るのだ。」

 遅れてやって来たロサリスは道のはずれで荷馬車を止め、荷台に乗せていたタシワナの村長が下りるのに手を貸しながら、膝の具合を尋ねた。ついて来た娘たちは大きな籠を手に下りてきて、堤の周りに集まって来ていた若者たちに切り分けたパンを渡し始めた。一緒に来たニーサは馬を立ち木に繋いだ。橋から離れた堤の方々からも若者たちが徐々に集まり始めた。長年、交代しながら壁を作って来た者たちだ。ロサリスは、石壁の前であれこれと腐しているタシワナの工匠に愛想よくかがみ込んで話しかけていた。

「あれを見ろ。我らが女王に戴いたかもしれない者が自ら荷馬車を御し、百姓のおかみのように壁職人と世間話をしている。我々の相談していることを気にとめている様子もない。」アタラが失望をにじませて言った。 

「王女は裏切るかもしれん。女とは弱い者だからな。ただ弱いだけではない。身分を捨てたと言って十七年間あなたの庇護を受けて生き永らえ、今度は野心家のもとに権威の印を携えて嫁ぎ、コタ・レイナ州は攻めさせぬと約束するなどと。数年と、いや、婚礼の日一日たりとそんな約束はもつまい。」

 堤に腰をおろして休憩を始めた若者たちひとりひとりに声をかけながら、ロサリスは、軽い足取りで橋の方へやって来た。

「遅参いたしました。あの子達の仕事ぶりは見てやっていただけましたか?」

 この数日来、最も生き生きとした顔つきでロサリスは、男たちを見回して言った。

「壁にも、たどたどしい手の跡から隙のない積み上げまで、そこかしこに成長の跡が見て取れましょう。どうぞ労いの言葉をかけてやってくださいませ。―――私は失礼して久々に少し橋の上に出てコタ・ラートの流れを感じとうございます。」

 ロサリスは、男たちの脇をぬけて橋の上に真っ直ぐ進んでいった。日暮れも近い逆光の中で敷板の上に斜交いに影を引いて立ち止まり、振り返って少し上の方を仰ぎ、大きく手を振った。石壁の上流側の物見台の上にニーサが立ち、眩しいのか目の上に手をあてがってしきりに首をかしげている。やがて両手を挙げ頭上で合わせた。ロサリスは、合図を見届けると向きを変え、マントをかき合わせた両腕を抱えるようにして橋の上を戻って来た。


 二日後の朝早く、シアニはニーサに伴われてイーマの老人の住むというシアナの森深くへ出かけた。

 ルーナグが馬場まで出して来た、きちんと手入れされ馬勒のつけられた小馬を、ニーサは一旦戻させて大きな馬を二頭牽いて来させ、鞍を置き、鐙を調節した。老人が移って行った、古い自作農の住居跡までは遠く、並足なら戻るまでに一両日かかるのだという。小馬の背では無理だ。

「帰りは相当遅くなるだろう。お父様とお母様のお許しはもらった?」

「いつもより遠出しますとだけ。あんたは?結婚式のお暇をもらったの?」

「いつか年貢を納めることになるな。」ニーサは呟き、鐙を軽く馬の腹にあてて、先に立った。

 いつも練習に使っている馬場を柵に沿って行くと、コセーナの領地を取り囲むように伸びている広い公道に出る。左に曲がって北西へと辿って行けばやがてコタ・レイナ橋に行くし、右に南へ差して行けば、かつての老人の住まいのあったカシの森の方へゆく。ニーサは右へと手綱を引いた。

 毎日見回りが行われる道はよく手入れされて、広く保たれていた。ニーサは少し馬足を速くし、シアニは黙ってついて行った。間もなく道は小川を横切る木橋を通る。今は森番の若夫婦の家になっている灰煉瓦の家とシアニの田へとつながる小川だ。小川を超えると間もなく公道は、南西へと巻いてゆく広い道から、コセーナの領地を出たシアナの森へと入ってゆく分岐に差し掛かる。シアニが行ったことのない道だ。幅は、ハーモナの丘を巡る隠し道よりも少し広いくらいで、両側の木々はぐっと迫り、急に伸び始めた若枝が新芽のついた枝を左右から突き出している。馬はその中を押し進んでゆく。

「この道はタシワナまで続いている。長年使っているから地面はしっかりしている。」

 ニーサが前から少し振り向いて声を掛けた。シアニはうなずくのがやっとだった。姿勢だけをなんとか保ちながら荷物のようにまたがるシアニを載せて、馬は危なげなく、背をしなやかにうねらせて、シアニではなくニーサの呼び声に従って駆けて行った。小川の浅瀬が横切る空き地でやっとでひと休みした時には、シアニはもうたっぷり一日分乗ったと思った。「序の口さ」ニーサは言った。

「ここにも家があったの?」シアニは狭い空き地から何本かひょろひょろと伸びている実生の幼木を見て言った。

「昔、もっと奥にあったよ。」ニーサは東の方に顎をしゃくって言った。「ここは、ヨレイルたちが旅の途中で野営に使ったんだろう。」

「火の焚いた跡だわ。」馬の上にまたがり、せせらぎに沿った道を少しづつ足を速めながら、シアニは空き地の上の焼け跡を見つけて言った。

「これは新しいな。タシワナの連中が来る途中で賄いに焚いたんだ。ほら、道から草地にかけて踏み跡がのこっている。―――周りが見えるようになったじゃないか。」

 ニーサの言った通り、一度休んだ後ははじめよりもずっと大きな馬の背に慣れていた。

 道を進むにつれて、森は奇妙に透けて明るくなっていた。枝葉のまばらな歪んだ木と、根元に厚く斜めに吹き溜まった火山灰、シアニの幼い日の記憶の中に遠のいていた光景が、真昼の光の下で、少し和らぎ、回復した姿で呼び覚まされた。

 道は橋のないせせらぎを横切った。灰色の固い地面の上を澄んだ水が浅く流れ、灰の層と腐葉土のまだらに積もりはじめた中に芹の芽がのびて緑の帯をつくっていた。ニーサは馬足を緩めて道の右に下り、森の奥に向かって緩い上り坂を進んで行った。かつて灰を被り枯れて朽ちた木々の根元からはひこばえがのび、既に何年目かの枝の上に新たな新芽を出している。

 一度越した流れを、斜面をまわりこんでさらに細くなったそれをまたぎ、遡っていくと、前が開け、真ん中にひしゃげて地面に向けて曲がった林檎の木と折れた林檎の木が並んだ広い草地に出た。ニーサは馬を降りて、二頭を林檎の木に繋いだ。

 馬を降りる前から、シアニには、傾いた衝立のような木組みとその奥に意図されて配置された林に気付いていた。ちょうど馬から下りた足もとに、長い丸太の朽ちかけた残骸が横たわり、その片端は、地面に直角に残る溝と、向こうの片端は途中まで積みあがったままの壁の残骸と枠を組んでつながっている。

 シアニは丸太をたどって駆けて近寄ってみた。家跡の壁の右側に見えた藪は、ひと群れの高さの揃ったハシバミ、その奥に、小高く栗の林が見える。

 壁のすぐ後ろから乾いた木の打ち合う音が響いた。ニーサはまだ馬のところにいたが、シアニは迷わずに壁の奥に行ってみた。

 廃墟の角と背中合わせのようにして、径一間余りの可愛らしい六角形の小屋がくみ上げられているところだった。長い銀灰色の髪が風に揺らぎ、その下に、頭程の高さに上げた丸太を両脇の丸太に穿った受け溝にはめ込もうと慎重に構えている、黒っぽい襤褸を着た節くれだった痩身があった。

 シアニは息を詰めて待った。ことりと音がして丸太がはまっても老人はすぐには動かなかった。シアニはそっと前に回った。壁に寄りかかった肩が上下し、鷲鼻の上で目は閉じ、鉢巻きの下から汗がにじんでいる。

「おじいさん!」

 シアニは声を掛け、老人は明らかな驚きを面に表しながら、目を開けた。半身を向け、逡巡するかのように両手を壁にかけたまま、「誰だ?」鋭く言い、少し顔を右に逸らして目を細め、少しずつ身体をむけると、やっとのことで訝しむように言った。

「―――アニ、アニか?」

 シアニは、見上げるような長身と厳めしい相貌、眼光の記憶を、痩せて顔色の褪せ、白い眉の下の弱い目の光の中に見出そうと、老人の顔を見つめた。

「アニ、コーアーに返事をしないと駄目じゃないか。」やって来たニーサがたしなめて、パンの籠をシアニの腕に置いた。シアニは我に返って言った。

「そうよ、私よ。アニよ。」

「どうしてここに来た」

 そっけない言い方がかすかな懐かしさを呼び覚ます。

 ニーサが小屋の周を回りながら、コセーナではついぞ聞いたことのない伸びやかなふうに、壁をどこまで上げるのか、と尋ねるその声の陰で、シアニはそっと答えた。

「お別れを言いにきたのよ。」

 老人が切りそろえてあった垂木用の細い丸太を、ニーサは組みあわせて順に結び付け、簡単な屋根をつけた。そして、屋根を葺く柴を切りに小川の方に探しに行った。

 シアニはパンの籠を小屋の中に入れた。老人は、切り離された丸太の切れのひとつに腰をおろした。シアニはその脇にかがみ、言った。

「わたし、父さんと母さんの本当の子じゃなかったのよ。」

 老人はまったく動じた様子も無く、ただ、シアニに向けた目を細めた。

「羽が生えそろうまで巣に置いてもらえたな。」

「うん」

「うまく、飛んでいくんだぞ。アニ。」

 老人は節くれだった大きな手を上げ、シアニの側頭にやり、ちょっと髪を撫でた。

「うん」

 シアニは、泉の水を詰めて来た水筒を出した。口に噛ませた布が水を吸い上げて少し染み出ていたが、

水はたっぷりあり、まだ冷たかった。

「私が見つけた水筒よ。」シアニは少し得意げに言った。

 老人は水を飲むと、ちょっと立ち上がって木切れを二、三手に取り、手ごろなのを選りすぐって戻って来た。そしておもむろに短刀を取り出すと、水筒の口の径を目測し、鮮やかな速さで木を削り始めた。

「あのふたりは達者か?」

「父さんと母さんのこと?ええ、どこも悪くは無いわ。」

 シアニは老人の手元をじっと見つめながら言った。大きな手だが、指の節々が曲がり、瘤になっている。古傷の中でも親指の付け根の傷痕は大きく、強く握りこめないため、短刀の握り方は独特だった。

「ニーサと何も話さないの?」

「あいつは余計なことを訊かないし言わないので助かる。おれには関りの無いことだしな。」

「でも、おじいさん、いま訊いたでしょう?」

 老人は口をへの字にして黙りこくった。

 半球状の塊に彫り出すと、今度は扁平な方から内に向かってくりぬき始め、しまいに球の頂点に小さな丸い穴をあけた。穴の外側から少し削って注ぎ口様の傾斜を縁に刻み、出来上がった半球を水筒の口にぴったりとはめ込んだ。老人は今度は細い桜の枝を切って来て、一寸ほどの長さにし、片端の皮を削り落としにかかった。シアニは今度は黒曜石の欠片を取り出して、老人から木切れを受け取り、見よう見まねで削りだした。

「気になるのよ。母さんもコセーナを出るのじゃないかしら。」

「何故だ?」途端に老人は怒ったように言った。

「父さんと母さんは結婚していないの。私がいなくなったら母さんには父さんといる理由がなくなるわ。」 

「馬鹿な。―――とうに好きあっているものを。」

 出来上がった栓を水筒の蓋の穴に差し込むとぴったりと合った。これで水が漏れることは無く、楽に開けて飲むことができる。

 ニーサは柴を下回りの半分ほど屋根に上げたが、日の傾きを見て悲鳴を上げた。

「シアニ、駄目だ、もう帰らなくては。コーアー、頼むからひとりで屋根に上がらないでください。なるべく早いうちに来るから。」

 老人は一緒に林檎の木のところまで来て、シアニが乗って来た馬に触り、不機嫌そうに言った。

「こいつは蹄鉄を履いていないな。」

「鉄が足りないのよ。」シアニは、大人たちが言っていることを思い出しながら言った。

「コタ・サカの村が五年前に襲われて、それ以来入ってこないの。」

「鉄はさまざまな形である。探し方が足りんのだ。」老人はそっけなく言った。

 ニーサが添えた両手を弾みに鞍の上に素早くまたがり、シアニは老人に振り返った。

「おじいさん、元気でね!いつか、いつかまた来るわ」

 折れ曲がった林檎の木の、影と弱い光のまだらの中で老人は少し顔を背け、ゆっくり手を上げて応えた。白髪が肩から腰のあたりにかけて柔らかく揺れた。

「アニ、急いで!」ニーサが促した。

 帰途の半ばは日暮れ過ぎた暗闇の中だった。欠けてゆく月のわずかな光と星明りのなかで、ニーサとシアニは、馬を励ましながら森の中の道を帰った。分岐からコセーナの領内に入ると、館の方角にほのかな明るみが見えた。広場に焚いているタシワナの村人のためのかがり火であろうと思われた。さらに道を行くと木々と家々を透かして遠くに静止する火の玉が見え、それはじきにふたつに分かれ、右側を柵に伴われた導入路の果て、東門の前に松明の火が灯されているのが分かった。

 いくらも行かないうちに行く手にふたつの人影が塞がり、止まれと合図をした。ニーサが馬を降りると、男たちは駆け寄って来た。

「馬は入れておく、そのままゆっくり門まで行け。殊勝らしくした方がいいぞ。」

 年かさの方が言い、若い方は気の毒そうに言った。

「殿はえらく機嫌が悪い。ロサリス様の結婚のせいだよ。おれ達も今日聞いてびっくりさ。相手がアガムンだものな。」

「やめろ」ニーサがシアニを見やって慌てて囁いた。

 年かさの男は若者の頭をはたいて、馬の手綱を取ってついて来い、と命じた。

「ニーサ、何の話?」

「しっ、黙っていなさい。」ニーサは囁き、齢よりも若く見える口許を引き締め、歩みを早めた。

 門脇の松明の間にダミルは仁王立ちになって立っていた。他に誰の姿も無く、門の内の様子も静まり返っている。もう夜半だった。

 ニーサは自分の後ろにいるように、とシアニに合図をし、ダミルの前に出た。

「帰って来たようだな―――」ダミルは何か冗談を言おうとする声音で言いかけ、突然踏み出し、平手でニーサを打った。

 ダミルが人に手を上げるのを見て、シアニは立ちすくんだ。

「嘘をついたな。」思わず頬をおさえながら、それでもシアニを庇うように右手で遮るニーサに、ダミルは恐ろしい声で言った。

 シアニはニーサの横を回り込んでダミルの前に出た。

「父さん、家の者を打つなんて。まるでアガムンだわ。」

「なに?何だと―――」ぐっと握った両拳を腰にあててダミルはシアニに振り返った。

 この顔を見るのは二回目だ。だが、今は十日前よりももっと怒っている。今にも火を噴きそうなほど。

心配をかけたからだわ。だけど、戻って来たからこれ以上悪い事にはならないはず。何も悪いことは起こらなかったと分かれば。

「父さん、落ち着いて。私がどこに行っていたと思っているの?全部話すわ。」

「駄目だ。」ニーサが遮った。「約束を破ることになる。」

「何の約束だ?」ダミルが怒鳴った。

「黙ってったら!」シアニは両手を振りたてて叫んだ。「シギルだったら娘にそう言ったかしら?」

 ダミルは拳を収め、ニーサに振り返り、走ってハーモナに事情を報せに行き、戻ったら邸に報告に来いと命じた。

「来なさい、シアニ。迎えが来るまでお前に言っておくことがある。」

 念を押すように振り返りかけたニーサに早く行け、と叱りつけ、ダミルは門番のふたりを外に見張りにやらせ、門番の詰所に入り、腰をおろした。シアニは戸口の明かりのもとにたたずんだまま、ダミルを見返した。

「父さんは私を信用する?」シアニは尋ねた。「シアナの森に住むある人を見舞い、住まいを整えるのを手伝っただけだと言ったら信用する?ただ、その人は住んでいる場所を誰にも知られたくないのよ。ニーサにも聞いて。同じことを答えれば安心でしょう?」

 ニーサの名を聞いて、ダミルは怒りを新たにして頭を振りたてた。

「あいつめ、嘘をつきおって!」

「結婚式でしょう?時間をつくるためよ。私は嘘で良かったと思っているわ。」ダミルの取り乱した様子に何となく悲しげな気分になってシアニは言い、首を振った。

 ダミルは、ふと膝の上で拳を開いて見つめ、その手でごしごしと頭をかいた。

「しまった、おれとしたことが!―――だが、この前とは事情が違う。」ダミルは、手の中で呟いた。

「叱るなら私にしなきゃいけないのに。私の責任だわ。」

「男ならな」

 ダミルは手の上に目を上げて言った。が、シアニは屹として言った。

「私は男並みなんでしょう?」

「決してそうではない。」ダミルは、ため息をついた。「シアニ、子供を褒める言い回しと若い娘に言う言葉は同じではない。私は迂闊にもお前を子ども扱いしていた。だが、実はもう年頃の娘だ。年頃の娘は訳が違う―――子供よりも娘のほうがより身仕舞が難しい。」

 それは娘自身が変わるからかしら?それよりももっと周りの人たちが態度を変えるからじゃなくて?

「それで、もし同じ十五だとしたら、男と女にどんな違いがあるの?」

「身体が違う。そして力が違う。分からないか?」

 昨日の言葉は子供だまし、今日は違うというわけね。しかし、シアニはまじろぎもせずに言葉を待った。

「男は戦うように心も体も出来ている。女は子供を産んで守る。お前がどんなに頑張っても力では男に勝てない。これは分からねばならない。女にはその子供も含め一家の命がかかっている。だから守られねばならず、価値があればこそ狙われやすいという事なんだ。」

「私は子供の頃よりもむしろ自由ではないという事?望んでも、自分で気をつけていても、誰もそれを許さないという事?」シアニの口調は我知らず激しくなっていった。

「そうではない、と言ってやりたくても事実がそれを許さない。私はコセーナを守る主だ。私に属するとみなされるだけで狙われることもある。世の中はお前が思っているよりも理不尽だ。」

 シアニはダミルの目を見返して言った。

「私が女だから?」

「そうだ。」

 動かしがたく聳える岩壁の上に鎚の一撃が下りたかのように、茶色の瞳同士がかち合った。

 シアニは両脇で拳を固め、冷ややかに言った。

「父さん、私に言っておくことって何なの?どうぞ、言ってくださいな。」

「まだ決まった話ではない。が、お前は当事者だ。早くに言っておくべきことだった。先に言っておけば、お前ももう少し慎重に行動したかもしれないんだが。」

「ですから、言ってくださいな」

「お前はコタ・レイナの郷双方から同盟を強めるかすがいとして望まれている。双方ともにお前との縁組を望んでいるんだ。だが、エフトプには良い齢の男がいない。そこでまずエフトプの領主に養女に入り、ゆくゆくはオトワナコスの親族に縁付くことが検討されている。」

「縁付くというのはお嫁に行くという事?」

 予想していたよりもはるかに大きな事に、シアニは茫然とした。小さな震えが足元から上がって来た。

「そうだ。まだ、双方から返事は来ていないが。」

「返事が?遣いを出したの?私が話を聞く前に―――」シアニはすっかり動揺して叫んだ。

 門の外で話し声がする。ニーサが戻って来、バギルが迎えに来た。わずかに変わった状況が怒りと闘志を呼び覚ました。

「女だから、価値があるから、守り、そのくせ絹のように取り引きに使うの?」

 誰も、彼も、私の知らないところで勝手に話をしていたんだ。

「―――母さんまで?」

 ダミルは、椅子から立ちあがった。

「何を言う?」

「私はエフトプ、オトワナコスへ遣られ、母さんはアツセワナに遣られるのね。」

 通用口の戸が開きかけている。シアニは詰所の戸口からひらりと一歩外に飛び退いた。

「見損なったわ。」

「なんだと?」ダミルはかっとなった。シアニの知っているどんな顔よりも赤くなった。

「私が進んでロサリスをアツセワナに引き渡すとでも思っているのか?家の者なら命令してでも、身体を張ってでも止める。だが、それは出来ん。ロサリスはハーモナの女主であっておれの所有するものではない。彼女がそうと決めたことをおれには止められん―――子供のくせに。何も知らないくせに。」

 やっぱり子供だって!年頃の娘っていうのは鍵をかけて他の男に渡す、箱に入った子供かしら?

 どう、返事に困ると捨て台詞に持ってくる都合のいい言葉なのよ。

「意気地がないって言ってるのよ。母さんが独り身だっていうなら父さんだって独り身よ。どうして母さんをアガムンに渡すの?アガムンの方が母さんに相応しいっていうの?女が選べないところでもって真っ当な男が勝つのでなければ、せめて女には逃げる自由くらい欲しいわ。」

 門から入って来たバギルが驚いて立ち止まっている。ニーサは門番ふたりを引っ張って門の外へ出た。

 シアニは瞬きもせずに戸の外から狭い室の中に立ち尽くすダミルを見ている。ダミルは、椅子の上に座り込み横を向き、頭を抱えた。

「友の妻だ―――友の死を認めることはできん。」

「いいえ、余計悪いわ。ここにいて母さんを守れないのでは。」

 シアニは踵を返して灯火を下げたバギルの前を通り、通用口から滑り出、松明の脇に立っている男たちの前を横切って、暗いハーモナへの道を小走りに駆けて行った。

「殿!どうしたんです?」

 血相を変えて覗くバギルに、ダミルは、肘の下から顔を向け、呻くように言った。

「シアニをハーモナから出すな。おれがいいというまで―――エフトプから迎えがくるまでだ。」

 年取ったバギルがまろぶように駆けだそうとするのを、立ち上がって後ろから追いかけるように叫んだ。

「ニーサ、お前もだ。お前もバギルと一緒にあいつをハーモナまで連れて行け!」

 ニーサは既にバギルを追っていた。ダミルは門番に通用口を閉めるよう命じ、ニーサが戻ってきたら自分のところに報告に寄越すように、と言いおいて、疲れ切った足取りで館へと向かった。

 立ち寄った水場の縁石に掛け、頭を冷やし、喉を潤して空を仰ぎ、ふとダミルは疑問を漏らした。

「しかし、あの子はどうして知ったんだ?」


 初めの使者の到着の七日後、アツセワナのアガムンから二度目の使者が遣わされてきた。コタ・ラート橋の視察に出向いて以来、見張り台につめている若者から、向こう岸に敵が検分に来ているという報告が幾度か届いていた。時には騎馬で橋を半ば以上まで進んで来るという。

「橋に細工はしていないだろうな?」ダミルは神経質に言い続けた。「夜も見張れ。こちらも松明をかかげ、見張っていることを向こうに報せろ。」

 やがて夜ごと、双方から交互に騎馬が出ては橋の中ほどで馬首をめぐらせては帰ってゆく光景が繰り広げられた。半ばを超えようとすると相手方が牽制の鬨の声をあげ、それを威嚇するように騎馬側の背後から棍棒や鉢を打ち鳴らす音が応戦する。

歌謡(ヨーレ)の練習にちょうどいいや。」ヨレイルの若者が鼻歌を歌いながら、堤に戻る前に工房の前の小広場で立ち話をしていった。

「だけど、あんまり橋の上に出て行くのは良くないよ。河原から見ていると石を投げたくてうずうずするものな。向こうにも同じさ」

 二度目の使者は、アガムンが、コタ・ラート橋まで自ら花嫁を迎えに来るという条件を承諾し、半月後に輿入れを指定したことを口上で伝えた。

「花婿から花嫁に、贈り物でございます。」使者は従者に背負わせてきた留め金のついた木箱をコセーナの広間の床に置き、くるりと背を向けて馬上に戻った。そして、その晩には、両側で松明の燃え、無言の目が監視する橋の上を通り抜けて帰って行った。

 ロサリスは、箱をハーモナに持ち帰り、子供たちを寝かしつけたあとで慎重に開けてみた。

 バギルの妻が手燭を持ち手元を照らす下に、細かい折り皺が弱々しい荒れた光を反射した。乱雑に丸めて押し込まれた白い絹地の塊だった。

「儀礼用の長衣のようだわ。花嫁衣装ね。」一瞥してロサリスは言った。

 取り出して点検しようとするのをバギルの妻が慌てて止めた。

「毒が仕掛けてありませんかね。虫とか、蛇とか……。」

 ロサリスは膝の前掛けの上に絹地を取り出し、広げた。

「大丈夫よ、悪さをするものはなにもないわ。藁すべの芯ほどもね。」軽蔑の気味を帯びて歌うような声が答えた。「あるのは悪意だけ。」

 裾に大きく褐色のしみの広がった跡がある。

「何でしょうねえ……!」怒りと嫌悪を表して、人のいいバギルの妻は声をあげた。「黄色くなっているわ、皺はよっているわ―――」

「血かしら?洗ってよく叩いてみるわ。これ以上悪くもならないでしょうから。」

「着るんですか!」

 バギルの妻は承服できないという風にロサリスを見つめ、ためらいながら、女主人が考えを変えるようにと、ひとつひとつあげつらった。コセーナに絹はございませんが見栄えも質も負けない毛織物がございます、コタ・ラートまでは馬上での旅となりますから身体に合ったものをお造りなさい、そもそもこのような屈辱を黙って受け入れておられるのが口惜しくて―――。

「あら、相手には合わせておくのよ。」ロサリスはおっとりと返し、相手の泣かんばかりのふくれ面に、陰鬱に言い足した。「相手の心根を見たからこそ、私は迷いがさめて心に決めたとおりに出来る……。そして従順と愚鈍をまとった下は誰の目からも隠される。安心して。私には一番ふさわしい衣装というわけよ。」

 ロサリスは長衣を緩く畳みなおして箱にしまい、留め具をかけた。


 二郷の名代たちが帰り、領主の返答を携えコタ・ラート橋の背後の備えを検討して戻って来るまでの十日ほどの間に、コセーナの郷では、水路の水入れと畑の犂入れが速やかに行われた。やって来たタシワナの村人たちの居住地が対岸の一画に当てられ、コタ・ラート橋で壁の補強に出かけた男たちの代わりに、残った者たちが少しづつ家を建てる準備を始めた。

 エフトプのアタラは領主の書状を携えた従者を伴って上弦の月の頃に戻って来た。その一日遅れて、エフトプから遣わされた年配の婦人と従者が舟で到着した。

「長年、主家で子女の監督をされていた。奥方の信任も厚い。エフトプまでご息女の付き添いをされる。」アタラは婦人を紹介した。「そして、件の日に橋の背後を守らせる兵十名もコタ・ラートに沿ってやって来る。」

 オトワナコスのゴルテはさらに二日後、カマシュの甥のひとり、ホザマと一緒に戻って来た。

「すぐにも婚約を、と主カマシュは言っている。」挨拶をすませるとゴルテはさっそく切り出した。

「ホザマ殿は約束を交わしたらすぐに郷に帰り、河岸の警備にあたらねばならぬのでな。」

 二十代半ばを過ぎたと思える、中背痩身の少し浅黒い肌に鳶色の髪の若者が進み出て挨拶をした。

「カマシュの弟の末の息子、ホザマです。ご息女との縁がみっつの州の絆をさらに深めんことを。」ホザマはごく役割をわきまえた様子でダミルを真っ直ぐに見つめて淡々と述べた。

 ダミルは、若者の表情身形を見極め、深くうなずいた。

「娘を呼ぼう。」

 シアニは新しい服に身を包み、背筋を伸ばして広間に入って来た。艶のいいクリーム色の卵形の顔には笑顔の片鱗も無く、伏し目にした茶色の瞳は頑固に前だけを向いている。その目には、誓文の羊皮紙を置いた卓の左右に分かれて立つ、親しげに微笑むエフトプの婦人も、わずかに眉をあげて興味の眼差しを向けるオトワナコスのホザマの姿も映っていなかった。

 シアニは筆を執って羊皮紙に署名をし、ホザマの方に向き直った。

「シアニ、どうだ、ホザマ殿はいい男ぶりだぞ。」

 ダミルに言われるままに手を差し出し、男の両手が自分の手を取り、その口が誓いを述べる間だけじっとしていたが、承認の言葉を口にするや、無礼と恥じらいのぎりぎりの境目のところで、ぱっと振りほどくように手を引っ込めた。

 ホザマは苦笑すると、一同に挨拶をし、帰って行った。エフトプのふくよかな顔だちの婦人はロサリスよりもふた回りも年上だったが、色も彩な刺繍のある胴着をつけ、縫取りをした帽子の上から短いベールを掛け、小さなブローチで留めてあった。シアニの目が、その鮮やかな装いに引き寄せられるのを逆らって瞬いた。婦人はシアニとダミルを交互に見ながら言った。

「逗留が長引くのではと心苦しく思っておりましたが、これで私の方でもお嬢さんを連れて帰れますよ。格別の支度は必要ありませぬ。身ひとつで来ていただければ。奥様はお着きを心待ちにしております。ご都合が良ければ明日にでも。」

 シアニは突然夢から覚めたようにダミルを見た。

「お父様、待ってください。せめて一度父子でお話をさせてください。」シアニは、広間の正面の扉に近い片隅を指した。「そこで構いませんから。」

 ダミルはコタ・レイナの名代と長老たちを見回した。

「しばらく失礼をして、娘と話しても構わないだろうか。」

 ダミルは、エフトプの婦人とゴルテを中心に世間話を始めた卓を離れ、急ぎ足に先を行くシアニの背の後について、炉から最も遠い扉の脇に行った。ダミルは振り返った娘の顔の、少し厚ぼったい瞼とすぼまって尖った唇を見て、おそらく最後にゆっくり見られる娘の顔が機嫌の良い顔でないのを悲しく思った。

「顔色が冴えないな―――具合を悪くしていたか?」ダミルはぎこちなく尋ねた。

 シアニはかぶりを振った。「ここを発つ日取りのことなの。」その目がダミルの広い肩越しに卓の方を窺った。

「ここは近いか?」

「いいえ、聞こえても大丈夫。ただ、出来るだけゆっくり出たいのよ。母様もアツセワナに嫁いでしまうし、私はエフトプに行けばもう向こうの娘だわ。エフトプからオトワナコスにお嫁に行き、コセーナに娘として訪ねてくるのもかなわなくなるでしょう?」

「そうは言っても五日とは待てん。」ダミルは日を数えた。「ロサリスも四日後の朝、いや、三日後の夜には準備を整え発つ。婚礼の日は不測の事に備えて男たちの大部分はコタ・ラートに出向き、お前の方の護衛に力は割けん。」

「母様は馬で出かけるの?私は母様が発つ時にこの広間でお別れをしてエフトプに行くわ。それとも途中の道までは一緒かしら?」

「お前は馬ではなく、舟で行くんだ。一緒に発つのは問題ないだろう。方向は分かれるし、件の時までに一日半の猶予も出来る。」ダミルは考えながら言った。「だが、この場所でお別れだな。」

 シアニは手を打ち合わせた。

「十分です、父さん。もうひとつ、わがままをいい?大した事じゃないけれど迷惑もかけないわ。」

「言ってごらん。」

「私はもっと小さい頃から、いずれこの家から花嫁になって出るのだと思っていたわ。きれいな服を着てベールを被り、馬にお道具の箱を積んで門から出るのだと。」

「そんなことを考えていたのか?」ダミルは世にも奇妙なことを聞いたように戸惑い、改めて娘の顔を見た。「思いもよらないことを言うものだな。」

 シアニの頬が赤くなり、目は攻撃的に輝き、早口になった。

「エフトプに行ったらここでお嫁入りの支度が出来ないでしょう?ちょうど新しい服もあるし、まだ綺麗なうちにお嫁入りの真似事がしたいの。ベールを被り、箱をつけた馬でハーモナとコセーナの懐かしい場所にご挨拶するの。ただ、ひとりでそんな恰好をして回るだけよ。他に何もいらないわ。……時間がくるまでそっとしておいてくれれば。」

「気の済むようにしなさい。もう謹慎しろとは言わない。―――そんな願いなど容易いことだ。誰もお前のままごとなど気にしないよ。」

 ダミルは娘の肩に手を置き、エフトプの婦人に了解を得るために打ち合わせの卓に戻った。婦人は、言いにくそうに声を小さくして説明するダミルと、目を光らせながら赤い顔をうつむかせているシアニの横で高らかな笑い声をあげた。

「もちろん、このお年頃の娘さんには一大事ですとも。よろしゅうございますよ、お嬢さん。」

 婦人はベールを留めているブローチを外し、シアニの胴着の胸に留めた。シアニはカマキリが胸にとまったかのように顔をのけぞらして見下ろした。

「それを貸してあげます。仲良しのしるしにね。ちょっとつければ気分が揚がるでしょう?お嫁さまごっこを楽しんでいらっしゃい。」


 翌日、シアニは古い服を着こみ、台所でバギルの妻を手伝って料理や仕事に精を出し、昔話を聞き、ゆっくりお喋りをした。

「バギルの腰の具合はどう?私の謹慎の間、しばらく寝たり起きたりだったでしょう?」

「気分の病ですからね。昨日から外に出ていますよ。ルーナグを見てやらなきゃいけないと言ってね。あの子がいてくれて良かった。あの人は育つものさえ見てりゃ治ります。」

 台所の裏の木にはロサリスの婚礼衣装が吊るしてあった。シアニは興味深げに近寄って眺めた。洗って叩き、両端を木の棒に巻いてぴんと張った衣装は、つぶれた折り皺が本来の光沢としなやかさを損なわせてはいたが、薄く、白く繊細だった。

「小童の糸かしら?」シアニは呟いた。

 戸口の外でかがんで鍋を洗っていたバギルの妻はにわかに息巻いた。「それを見ると箒でぶっ叩いてやりたい!―――でも、姫がお召しになるものだと思うとねえ」まくしたてる声は涙声に変わった。

「家を出る時のご挨拶も無し、お披露目も無し。こっそり逃げるように発たれるなんて。先の時だって無かったんだ、と言えばその通りですよ。うちの人の言う通り、相手が相手だもの、何を着ても同じだっていうのもその通りで。だったらうちの白羊の毛のほうが着心地もいいのに。」

「ベールが要るわ。」シアニは衣装を眺め、冷静に言った。「母さんはいつも黒い短いベールばかり。花嫁には似合わないわ。」

「姫のお気持ちではそりゃ黒ですよ。だけど考えてごらんなさい。道中、コタ・レイナの男たちやコセーナの野次馬たちがじろじろ見るんですよ……。」

「どこかに長いベールはないかしら。」

 洗い終わった鍋をかまどの脇に伏せて、バギルの妻はふと顔を上げ、思案した。

「私のは夏用の毛で織ったものでしたね。今見たらやっぱり厚ぼったく硬くみえるんじゃないでしょうかね。」かかっている服を口惜しげに指差し、「あんなものでもやはり絹は絹です。」

「とってあるの?見たいわ。」

 バギルの妻はいそいそと奥に行って、ちょっと残念そうな顔で白い布を腕に下げて来た。

「折り皺ができてましたよ。それにちょっと虫が喰ってますね。やれやれ。」

 シアニは腕に掛かっているたっぷりした量を見て言った。「悪くないと思うわ。吊るしたら少し皺が伸びないかしら。」」

 シアニは木の間に紐を渡し、細く糸を縒った薄い毛織を掛けるのを手伝った。布の丈は長く、精一杯腕を差し上げた高さから二つに折って、両端がそよそよと草の上を撫でる。

「このベールは嬢ちゃんが被ってくれたらいいなと思っていましたよ。」

 木の間に揺れる布を見て、バギルの妻はしみじみと言った。

「本当に?」並んで眺めながらシアニは言った。

「じゃあ、私にも貸してちょうだいね!」

 バギルの妻は目を拭ってため息をついた。

「いいですとも。だけど、嬢ちゃんはエフトプに行くのでしょう?そこからお輿入れだったらこれに出番はありませんよ。本当に、誰も彼も一度にいなくなってしまうなんて。」

 その日の夕食の時、バギルの妻は配膳の途中で、木陰に干してあった花嫁衣裳を入れるのを忘れていたと言って慌てて外に行こうとした。シアニは、ふたつとも日があるうちに入れて奥の小部屋に掛けてあるわ、と告げてロサリスを見た。

「母様、お着付けはいつするの?」

 ロサリスは皿の上で弄んでいた匙を止めた。ほんのわずかばかりよそった煮豆がそのままだ。

「明後日の昼頃かしら。」

「お仕度を見てもいいかしら?」シアニは目を逸らして尋ねた。

「駄目よ」ロサリスは素早く言い、言い訳するように一同を見回し、バギルの妻に言った。「着換えはひとりで十分よ。良かったらシアニを手伝ってやってちょうだい。この子も一緒に発つのだから。」

「私だってひとりで十分よ。新しい服を着るだけだし。」シアニはきっぱりと言い、おろおろしているバギルの妻をそのままにして先に席を立った。

「母様、ではお別れは明後日の夕方にコセーナの広間でね。私、お庭を散歩してくるわ。」


 次の晩遅く、シアニは拝殿の一番奥の機屋の中に入って行き、()()を並べた棚の奥に隠してあった背嚢を取り出した。ハーモナで謹慎中に作り上げたものだ。行李の蓋を外し、身に底を切った麻袋の下回りを縫い付けて上に口を縛る紐をつけ、ニレの皮の帯を切って背面に肩に背負うための輪を作り、しっかりと縫い付けてあった。シアニは、その中に旅に必要なものを全て入れた。隠し袋の中身―――裁縫道具に鋏、櫛、火打ち金に火打石、砥石を当てて少しとがらせておいた黒曜石の小刀兼鏡。水筒。包帯とリボンがひと巻き。バギルからもらったカシの小札五枚。肌着の替え。マント。

 新しい服は皺を延ばすために機屋の空の機の間に棒に掛けて吊るしてあった。そして、前日の夕方に半分切り取っておいたベール。

 シアニはズボンの上から新しい服を着た。リボンに吊るした鍵は胴着の内側に入れ、背嚢を手に取り、拝殿へ出た。煙った大きな月が中心の墓標から機屋と倉庫の戸口まで白く濁った光を落としている。

「お別れを言わなくちゃ。」シアニは呟き、辺りを見回した。何処の戸からも灯りは漏れていなかった。大人も子供も皆眠っている。

「モーナ」シアニは墓標に向かって囁いてみた。何も変わらない。雲を払う風のひと吹きも草木のそよぎも。

 やっぱり私にはもう見えなくなったのかしら?以前だって私が会いたいときに出て来たわけじゃなかった。誰にでも、そう。思えば、こんなに人がたくさんいる場所に現われたことが奇妙だったんだわ。このハーモナの中でもかの女の好きな場所はあるのじゃないかしら。

 シアニは今では少し薄気味悪く見える、倉庫の中の地下通路の揚戸を思い浮かべた。小さい時にたった二回通ったきりだけど、中にはイスタナウトの杜に通じる道がある。昨日若木たちにお別れは済ませておいたけれど、あの場所にいたのかしら。

 シアニはそれとなく倉庫の戸を開けてみた。床の揚戸は開き、弾みで閉じないように蝶番に近い方に棒を渡してある。

 そのはずだわ。私よりももっとあの場所にお別れを言いたいに違いない人がいるもの。

 シアニはそのまま子供部屋へと戻った。戸を開けると一陣の風が室内を通り抜け、寝静まった少女たちの中から微かに身じろぐ音と咳が聞こえ、一瞬後にさらに深い眠りの沈黙が辺りを包んだ。閉めてあるはずの中庭に通じる閂がはずれ、透いた戸から澄んだ光が漏れていた。シアニは寝台の間をすり抜け、戸を押して露台に出た。

 花に代わって新葉に包まれた木蓮の大木の幹元にモーナが立っていた。シアニは驚きもせずに、こちらを見つめる杏仁形の目をじっと見返した。そこにいることも、四年ぶりに見る姿がいまや自分とほとんど年頃のかわらぬ少女なのもごく自然のこととして、呼吸する外気と共に静かな共感が温かい血流となって身体を満たした。

「探しに行くわ。」

 銀灰色の幹にとまる蝶の触角と開いた羽の翅脈の紋のような、眉と瞳の残像が一瞬とどまる、もはや誰もいない木蓮の木にシアニは語りかけた。

「お別れじゃなくて―――あなたも一緒に来るのよね?」

 左手に下げた背嚢の中でかたりと旅の道具がかち合った。シアニははたと小突かれたと思った方に顔を向け、背嚢を胸に抱えて囁いた。

「そうよ、大事なものを忘れてた!種をもっていくのよ。イスタナウトの実と穀物の種を。」





 

 


 







  



 


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