第四章 水の語り 1
火かき棒が熾火を突き、ふっと火花を吐いて炭が割れた。シアニは膝の上に組んだ手から顎をもたげて男を見上げた。波形の縫取りの紋が浮き出た鉢巻きの下に、くっきりとした眉の峰、その奥に笑い皺を帯びた切れ長の目が警告を帯びてこちらを見ている。シアニは、咳ばらいをして口元を引き締めた。もう戻ってくる時間だ。男の目はそう言っている。物語は語り手が止めれば戻って来なければならない。たとえ、まだ終わったように思えないとしても。
「長い話で疲れたか?春先の明け方は遠い。まだひと眠りする間はある。」
シアニは首を高くもたげて語り手に挑むかのように見返した。
「“黄金果の競技”―――。これは二回目の競技の物語。そしてその中に一回目の競技の物語があった。ずっと前にアツセワナの王シギルとヒルメイのハルイーが絹と鉄の交換を約束した話を聞いたわ。約束は果たされず、レークシルを連れ出して逃げたハルイーは捕まって、王が持ち掛けた“黄金果の競技”でレークシルを賭けて競うことになった。―――そこで私はレークシルが可哀相になって続きを聞かなかったの。おかげで、まるで居眠りしている間に大事なところが何年も飛んでしまった気がしたわ。二十年くらい経ったのかしら?そして、失敗したと思ったシギル王とイナ・サラミアスとの交易は叶ってずっと続いていたのね。」
「交換のはじまりは絹と穀物だった。」男はさらりと言った。
「“黄金果”の勝者と認められたハルイーにシギルは約束通り“アツセワナの黄金”、穀物を贈った。」
「違うわ。」シアニは鋭く言った。競技場の山野から勝利の実を拾い上げたのは誰だった?
「“黄金果”の本当の勝者はレークシルよ。」
「―――レークシルが勝ったのかもしれない。確かに。」男は目で頷いた。「競技を仕掛けた男たちには決して分からないことだろうが。ともあれ、シギルは穀物を贈り、レークシルは返礼として身に着けていた紗の肩掛けを贈った。そして、あらためて“誓約の州”において交易の約束が取り交わされた。翌年以降、絹一反について三貫目の鉄を取り引きすると。」
「そして約束は二十年間続いた。二回目の“黄金果の競技”まで」
シアニはあぐらをかいて座りなおしたお腹の上に両腕を重ね、重々しく言った。男はくすりと鼻を鳴らした。
「私の代わりに続きを話すかね?―――交易はその後もしばらく続いた。そう、二十三年もの間。アツセワナによってイナ・サラミアスが滅ぼされるまで―――遠い昔の話だ。それに物語を終えて戻る時間だ。」
「いいえ、まだ夜だわ。」
シアニは窓を見やって強情に言った。細い夜闇の奥に滴り落ちそうに星が光っている。
「お話はまだ続いているのよ。だって、その二回目の“黄金果の競技”の人たちはまだ生きているわ。それにまだそんなにお年寄りでもないし。ロサリスはシギルの娘。ダミルはシグイーの子でシギルの甥。ふたりは従兄妹同士。」
シアニは首をかしげて考えた。本当かしら?朝になったらこのお話は消えるのじゃないでしょうね?
男は冷めてしまった茶で喉を潤している。そうしながら一段と暗くなった炉の炭火の周りに灰をかき寄せている。シアニは自信なさげにそっと尋ねた。
「あなたは母さんを王女って呼んでいたでしょう―――?あなたはラシース?」
「いや、違う」男が素早く手を振ったので、シアニの耳には水の跳ねる音が聞こえたように思えた。魚が飛び込んだみたいに。
「まだ名乗っていなかったな。私はサコティーだよ。」
「あらそう」シアニはもじもじとスカートをつかんだ。
男はちょっと笑った。
「がっかりさせたかい?」
「―――いいえ。」両掌で膝をなでつけて、シアニは向き直った。
「あら、どうして。私、あなたが一番好きよ。」
男は片手に顔を伏せて笑い出した。声はほんの一瞬、明朗に響き、素早く静まった。間仕切りの奥で物音がし、休んでいた河番の女房がくすくすと笑い声をたてた。シアニは生真面目に男が自分の方を見るのを待った。男は少し背を丸め、前よりも打ち解けた姿勢をしている。
「あなたはラシースと互角か、それよりも力があったでしょう?勝っていてもおかしくなかったのに。」
シアニは弟分を励ますような口ぶりで熱心に言った。
「私は競技の外の存在だよ?それでも王女の元に行くなら、必要なのは金の実じゃない、舟だ。彼女をそこにあるべき向こう岸に送り返す舟。金の実は私にとって獲得するものじゃない。彼から遠ざける物だ。出来る限り遠くに、確実に。」
「ラシースを助けようとしたのね。ガラートもあなたも。」
男は微笑しかけて、一瞬目を逸らし、シアニに劣らぬ生真面目な面持ちになった。
「そう―――いいや。実を言うとあの時は勝ちたかった。打ち負かし、奪い取りたかった。」
「彼、ずいぶん失礼だったものね。」シアニは厳しく言った。
「そんなことはないよ。」
「ハルイーの息子が泳げなかったなんて驚きだわ。ハルイーは何でも出来たのに。」
「イナ・サラミアスにはクマラ・シャコの他に深く水の溜まったところが無かった。浅い高原の池塘か、あとは泳ぐには速すぎる渓流や滝。泳げる者は多くはいなかったよ。」
男は諭すように言った。
「次にラシースに会った時にはちゃんと泳げるようになっていたよ。」
「あら、そう。」
男は横を向いて唸った。
「どうしたの?」
「少し気になったんだよ。私は自分の方に話の盛りを良くしやしなかったか、とね。」
「ちっとも」
奥からすり足で河番の女房が出て来た。肩掛けをかき合わせ、炉の火をちらと見やって言った。
「ロサルナートはここへ来てすぐに泳げるようになりましたよ。ダミル様の教え方だものね。さっさと泳ぎを覚えるにこしたこっちゃない。」
「コセーナに来たの?」
シアニは思わず声を高くした。奥で亭主が寝返りをうち、呻く声がした。女房は炉の前に素早くかがんで火を掻き起こし、小さな薪を上に足した。
「二年ほどいて、それから訪ねて来たトゥルド様に連れられてコタ・レイナ、アツセワナと回って帰ってきたね。」
いつの間にか止んでいた鼾の代わりに不機嫌な唸り声が遮った。
「しゃべるこっちゃない」
「―――秋の終わりにコセーナを訪ねてきて、ハーモナの手入れをしながら住んでいましたよ―――事実を言ってるだけじゃないの。」女房は振り返って言い返した。
サコティーは膝の上に両肘を預け、薪の上に再び明るく燃え上がる炎を、頬杖をついてじっと眺めている。ほんのしばらく前に内気な若者のように見えた表情は、一刻一刻と陰の中に静まり、峻厳で測りがたい、老いた顔へと変わってゆく。シアニはきちんと膝を揃えてまじろぎもせずその顔を見つめた。まだその心が閉じてしまわないうちに訊けるかしら?
「あなたのことをもう少し教えて。」シアニは思い切って言った。
「クシュのサコティー。クシュの長アーメムクシの甥であったメムサムは、飢饉と長雨の年、一家を連れてイナ・サラミアスを去った。人柱に選ばれた娘を守るためだった。彼の妻は身籠っていた―――その後でクシュの一族はどうなったの?」
サコティーは目の上をこすり身を起こすと、位置を変えて壁に背をもたせ、腕を組んでシアニに向き直った。黒い瞳は凪いだ水面のように穏やかだ。
「父はシアナの森の高台に避難していたクシガヤの民を頼り、私が生まれた後で川辺の一隅に住居を構えた。“黄金果の競技”の後でクシュの家族のいくつかがイナ・サラミアスを下りた。父が故郷での彼らの居心地を悪くしてしまったのかもしれない。私の姉の身に起こったことを見て、イーマの仲間が信じられなくなったのかもしれない。あるいは、ハルイーとレークシルが異端とされながらも民に戻ることを許されたのが不満だったのかもしれない。彼らの幾らかはクシガヤよりさらに下って行ってそれきり戻ってこなかった。幾らかは私の父を倣った。つまりクシガヤの人々の住まいの下に家を建てて落ち着いたんだ。
「私の家族を含め、移って来た者たちはみな、水の民に教えを請うて、一から暮らしを立てねばならなかった。少年たちは率先して舟の漕ぎ方を習った。流れを遡って、故郷の岸に幼馴染の友を探しに行ける。そして事実、舟を操れることはそれまで以上に重要になっていたんだ。
「やがて兄たちが舟の操り方を覚え、渡しをするようになると、用のついでに私を載せて“誓約の州”の川下に位置する舟着き場に行くようになった。ちょうどベレ・イナの袖口とでもいった位置かな。春と秋の二度。」
「二度?」
「イーマの若者たちが交易のために下りてくる。春は森から切り出した木材を筏にして大きな湖まで運ぶんだ。我々はその仕事を請け負った。」
「聞いたことがあるわ。」シアニは手を打った。
「塩、鉄、穀物、そして舟での行き来の代価に、森の木を充てていたのね。ハルイーが少年の頃からもう高い値では売れなくなっていたというけれど……。」
「この頃には少し事情が違っていた。エフトプの南の水路が整えられ、アツセワナの南では王シギルが広大な農地トゥサ・ユルゴナスの開墾に着手したところだった。土留めの杭や水路の樋の多くはアツセワナの南、暗黒の森から切り出されたが、シギルはイナ・サラミアスからも木材を買い取った。私がようやく舟縁をつかんで乗っていられるふたつみっつの童の頃から、舟を操りながら筏を押して運べるようになった十二の歳までの間、春の木材の輸送は続いた。
「秋には絹と鉄の交換だ。毎年、寒露の頃、冬越しのためにニアキに集まったイーマ達は、最初の会合で、使いの者を選ぶ。ティスナで織られた絹を携え、アツセワナまで届ける役目をする者だ。これはタフマイの若者たちが担うことが多かった。三年に一度ほど、相場を確認するためにヒルメイの主幹が出向いた。絹に対する鉄の比は決まっていたが、市に出るものの値は穀物の出来によって変わる。穀物を確保するために時には鉄の価値を確認し、交渉する必要があった。私たち兄弟は彼らの渡し守を買って出た。とはいえ、コタ・シアナを渡るだけだが。
「イーマ達はタシワナの北からシアナの森に入る。そこからは彼らの案内人はヨレイルたちだ―――彼らはシアナの森、エファレイナズの各地を知り尽くしている。そして、サラミアへの信仰からイーマを慕っている―――彼らの案内によってイーマの使者はコセーナ、エフトプ、ニクマラのそれぞれ監督下にある宿駅を経、手厚く守られてアツセワナに入る。宿駅には絹の目利きが常駐して品を検分していた。使者の一行が襲われること、絹のまがい物が紛れ込むこと、これらは決してあってはならぬことで、常に警戒されていたんだ。その頃、トゥルカンはイナ・サラミアスの絹に同じ重さの黄金に匹敵する値を付けていたから。
「使者がアツセワナの王宮にたどり着くと、取引に決められた部屋に通される。そして王の面前でコタ・サカの責任者と対面し、交換が行われた。王自身も絹の目利きだったという。鉄は鋼の塊を計り、イナ・サラミアスの要望に応じて鏃や短刀に造られた。アツセワナは古くから加工に優れている。が、そのうち、産地コタ・サカの鍛冶場でも良いものが作られるようになった。残った鉄は金子に替えられる。こうしてやがて入用な物を市で手に入れたイーマ達は順次コタ・シアナの岸へと帰って来る。」
「アツセワナでもコセーナでも、イナ・サラミアスでも収穫の感謝が捧げられる秋ね。」
シアニは思い描きながら言った。
「イーマ達は別れて住んでいた男と女が一緒になり、恵みに感謝する共食を催し、男の子と女の子は結婚に備えて歌垣遊びをする―――ニアキには行ったの?」
「ほんの子供の頃に何度か」サコティーは物思いしながらゆっくり答えた。
「荷と人を運び終えると、兄たちは昔なじみの誘いもあってニアキに出かけた。私はただくっついて行ったに過ぎない。父は山を下りて以来、二度と戻らなかったし、母は未練を残しながら父に従ってクシガヤにとどまった。
「兄達もやがて年頃になるとニアキには行かなくなった。他の若者たちもだ。同じ時期にクシガヤでもつまどいの催しがあった。クシガヤの娘を心に決めているのに、その晩にいないという手はない。
「兄達がニアキに行かないなら、私にはあまり行く意味がなかった。自分の知らぬ家族の故郷を見聞きするのは興味深かったが、遊びも知らなかったし―――そこで出来ることもあまりなかったんだ。」
「でも、オクトゥルとラシースとは仲が良かったんでしょう?」
すっかり暑くなったので落としていた毛布をくるくると巻き上げながらシアニは言った。
「オクトゥルは誰にでも近寄って話しかけたし、ラシースは反対にいつもひとりだった―――私とおなじでね。」
サコティーは壁に頭をもたせ、苦笑した。
「アツセワナのトゥサ・ユルゴナスが完成してから春の仕事はほとんど無くなった。クシガヤの祖先が何百年も行き来していた木材を運ぶ葦原の中の路はほぼ廃れてしまった。年に一度、イナ・サラミアスでわずかな友人に会うよりも、私は一人前の証に自分の舟が欲しかった。クマラ・オロの先に行けば舟の仕事はいくらでもある。兄達がそうしたように、やがてクシガヤの中から伴侶を得れば家族を舟で養わなければならないから。」
「―――ハヤのこと?」シアニは尋ねた。
サコティーは無言で炉辺に目を落としたが、やがて首を振った。
「ハヤはクシガヤで私の隣の家の子だった。四つ年下でアツセワナに奉公に出た時には十二になるやならず……。」
「そんなに小さい時にどうしてアツセワナに行ったの?」
「仕事が減り、何よりも魚が減った。私が幼い頃、クシガヤでは長が音頭を取り、村は総出で仕事をした。春の筏流し、秋の漁―――。実入りは家ごとに分配された。だが、“絹と鉄”の交易で一時潤ったことによって、我々の暮らし方は変わった。民を養うのに山川が恵むものでは足りなくなってきた。我々が口にする物が少しずつ変わっていったのも事実だ。イーマもクシガヤも、もはやアツセワナの穀物に頼らざるを得なくなっていた。次に、春に村で取りまとめていた木材の運送が無くなった。仕事の代価としてまとめて貰っていた鉄具や塩、食糧は、舟頭がそれぞれに稼ぐ渡し料―――渡された金子で買う他には無かった。コタ・レイナの郷の近くに行けば市があり、何でも売っている。だが、そこまで行かねば何も手に入らず、値は高い。ピシュ・ティの市も廃れ、そこに物を売りに来る者はいなかった。我々は川と生きる術を忘れはじめていた。貧しくなったとは思っていなかったが、金の無いのを恐れていた。」
シアニは気に掛かっていた事を思い出して言った。
「イナ・サラミアスの木はどうして売れなくなってしまったのかしら。木はいつでも要るものでしょう?トゥルカンはイナ・サラミアスの木を欲しがっていたのじゃなかったかしら?ハルイーとシギルが交易の約束をしたのはイナ・サラミアスの森を守るためじゃなかったの?」
疲労からか気難しく目を細めていたサコティーは、意外な言葉に驚いたという風に鋭い目を上げてシアニを見返した。
「トゥルカンが木を欲しがる?いや、彼がイナ・サラミアスに最も求めたのは鉱床だ。緑衣の下の鉱物。製錬のための燃料がその場で手に入るならそれに越したことはない、ただそれだけのことだ。」
「ああ、そうだったわね。」シアニは昔に聞いた物語を思い出そうとしながら言った。
「では、シギルは森を守ろうとしたか?」サコティーは言い、声を落とした。
「彼はイズ・ウバールは大きく切り開いたし、イネ・ドルナイルのコタ・サカの森も鉄の精錬のために次第に小さくなった。トゥサ・ユルゴナスの開墾の間はイナ・サラミアスでイーマが許す限りの木材を買い取った。―――ただ、若い頃訪れたイナ・サラミアスの風景を愛し、娘に因んだ名を付けた。そして、イスタナウトの木を愛した。だが、彼の行った交易はイーマとコタ・シアナの民の暮らしを変えてしまった。」
「それで、ハヤは―――」
「奉公に行った娘たちの何人かは冬に帰って来た。染めた糸で織ったリボンや羊毛の胴着を身に着けて川辺に下りて来た娘たちや、その妹たちをハヤは目を大きく見開いて見つめていた。ハヤの家は父を早く亡くし、貧しかった。色物の服など、クシガヤにいては望めないことだ。」
しまいに呟くように低く言いきると、サコティーは話を打ち切る合図に、膝の両の手を合わせて閉じた。
「私が似ているというクシガヤの女の子はハヤ―――?」
シアニは小声で言ったが、敢えてサコティーの顔を覗き込もうとはしなかった。サコティーは疲労を振り払うかのように立ち上がった。
「もう、夜明けまで間もない。少しでも眠っておくがいい、イネ。」
「シアニよ。」
「シアニ。」サコティーはシアニを見ずに繰り返すと、河番の女房に振り返って言った。「夜明けが近いな。少し舟で眠って来る。私はどうも、水の揺れの無いところではよく眠れなくてね。この子は本人が休みたいだけ置いてやってくれ。多分、長くはとどまらぬだろうが。」
クシュの男は、静かに室を横切り、川辺へ下りる石段に通じる戸口から出て行った。シアニは丸めていた毛布を広げてくるまると敷物の上に横になり、男の座っていた辺りの壁がうっすらと外明かりの色を兆して来たのを眺めているうちに眠りに落ちていった。
丘の川辺の石垣に設けられた河番の詰所から木戸を開けてもらい、さらに石段を登っていくと高柵の南西の入り口にたどり着いた。
門の内は、丈の揃った生垣が、昔の奥方の住居と小さな庭を囲んでいる。子供の頃のようにその幹の間に身体を滑り込ませれば、その奥には庭に続いて領主の邸がある。生垣の幹は太く枝もびっしりと張り、到底潜り込める隙間は無かったし、シアニにはもうそんなことを試みようとさえ思えなかった。彼女は生垣に沿って工房の裏を通り、鍛冶場の鎚音と午前の仕事の音に満たされた短い通路を抜け、西の詰所の通用口から、薄暗く火の気のない、がらんとした広間に入った。
東側の戸が開け放たれ、ダミルは戸口で腕を組んで外を眺めていた。シアニは姿勢を正して、まっすぐに歩いて行った。ダミルは振り向き、手を腰へとやると、明るい色の瞳を瞬きもせずにシアニに向けた。四角いあごの端まで一直線に結んだ口、頬から耳に掛けて赤みがさし、髪はやや湿りを帯びて縮れている。長靴にはまだ露の跡と草の葉がついている。しばらく前に馬で帰って来たところなのだ。―――きっとハーモナから。
「今までどこにいた?」
ダミルはこれまで聞いたことも無いような低い声でゆっくり尋ねた。シアニは両足をぴったり揃え、小さく息を吐いてから一言ずつ言った。
「河番の、詰所に―――泊めてもらいました。」
「どうしてそんなところに―――」熾った炭火に水を差したようにしゅうっと声が高くなった。
「ハーモナではみんな心配して探したんだぞ。まさか、あそこは河からしか入れないはずだ。」
「堤の先に歩いて行ったら、いつもより水が高くなっていたんです。そこにクシュが舟で来て、乗せてくれたんです。」
ダミルは顎に手をやり、せわしく歩き回りかけ、やっとで踏みとまると詰問と懇願の間の声で言った。
「ひとりで夜に出歩くとは何事だ?」
「申し訳ございません。」シアニは腰をかがめ、丁重に言った。
ダミルは、ふと改めてシアニを眺め、もう片手を卓の椅子の方に振った。
「そこに掛けなさい。母様は自分のせいだと言っている。だが一方の言い分だけを取るのはお前にとっても公平なやり方じゃないし、解決にもならん。私は、母様とお前の間で何があったのか全く知らないんだ。」
シアニはダミルを見上げた。
「父様。母様は悪くありません。」
「庇いあいか?仲直りできそうなのは結構だが、私への返答になっていないぞ。お互いに悪くないならなぜ喧嘩になる」
「私がひどい言葉を言ったのよ。子供たちが言うことを聞かないものだから、腹が立って。それで母様を傷つけてしまったの。」シアニは素早く考えながら言った。
「バギルが私の辛抱が足りないのがいけないみたいにいうものだから、つい―――悪い言葉を返したの。どちらかと言えば、バギルに言ったんだわ。」
「いったいどんなことを言ったんだ?」
シアニは一瞬口をすぼめ、顔を赤くした。
「私が二度と口に出すまいと誓った言葉を言わなければならないの?母様が傷ついたほどの悪い言葉よ?」
「なら、まあ、聞かないことにしよう。」ダミルは苛々しながら言ったが、ふと心配そうに尋ねた。
「バギルが何か余計なことを言ったのか?」
「余計なことって?」シアニは訊き返した。
「特に変わったことは聞かなかったんだな?」
シアニは用心深く首をかしげてダミルを見返した。
私には父さんに尋ねてみたいことがある。だけど、母さんが何も言わなかったのなら、私が今ここで尋ねるのは公平じゃない。
ダミルは、最も手近な椅子を引き寄せるなり、卓に突っ伏すように座り込み、首を振った。
「こんな騒ぎはたくさんだ。訳の分からないのに、ちょくちょく家の者がいなくなってみろ―――羊なら囲いを直すか泥棒を始末するかだ。だが、お前には聞く耳も分別もあるだろう。言っておく。夜に黙って出かけてはならん。」
「承知しました。」
「帰って母様に心配をかけたことを謝りなさい。」
シアニは丁寧に礼をしてダミルの前を下がった。入れ替わりに呼ばれた少年に、ダミルが集会の召集をかけ長老と頭たちを呼ぶように、と命じるのが聞こえた。
いつもと違う場所から朝が始まり、いつもと反対の方角に歩いて一日をはじめるのって、不思議な気持ちだわ。シアニはちらと空を見上げた。もうすっかり日が高い。
東門は出入りする作人たちのために開け放ってある。後ろから小走りに走って来た先ほどの少年が、彼女を追い越し、野良で働く者への休憩の合図に掲げる旗を取りつけに、門の傍らの櫓を登ってゆく。旗竿に付けられた旗には、集会のあることを示す赤い布が結び付けられていた。
やがて昼食と集会のために作人たちがぞろぞろと戻って来る道を、シアニは逆向きにハーモナの方へさくさくと歩いて行った。思いなしか、いつもより皆、固まり、口数が少ないみたい。何人か声をひそめて囁きあっている者はいるけれど。
通り過ぎてしまってから、シアニは、今朝は郷の誰にも話しかけられなかったことに気付いた。
お話を聞いた後には、きちんとこちらの世界に魂を戻しておかないと、だんだん姿が薄くなってそのうち消えてしまう、と、年寄りたちはいつも警告している。自分の魂はきっと、まだ半分コタ・シアナに置いたままなのだろう。
それを言うなら、母さんはずっとむこうに居続けているわ、シアニは、人々の塊がたちまち途切れ途切れの尻尾になって、門の中に吸い込まれてしまうのを振り返って思った。ことに、イビスから戻って来た人々がコセーナに住みはじめた去年の夏ごろから、そう。そのむこうの景色の端っこが、私にも見えるようになったのだけれど。
物語が終わり、夜が明けたらその時が知る時だ、とクシュのサコティーは言った。だが、物語の糸の端はそれぞれの語り手のもとで続きが紡がれるのを待っている。自分には語り手が許した事のみが知らされ、その知り方にも順序作法がある。物語において自分はまだ生まれてもいない身だ。ロサリスが語らぬ息子についてダミルに尋ねるべきではない。ロサリスの物語があり、ハヤの物語があり、自分の物語を始めるのはそれからだ。
ハーモナは、新芽の木立ちから来る風をまとい静かに佇んでいた。館の居間に窮屈に詰め込まれていた子供たちは、開け放たれた戸口から飛び出して丘の下の原へと消え去り、その声だけが時折さざめきとなって届いた。
シアニは見慣れた庭の外側を回った。窓の内から小さく咳き込む声がした。爪立ちして中を覗くとロサリスが膝の上に抱いた子の背をさすっていた。その視線の先に、炉の火にかけた釜がある。
シアニは素早く家の中に駆けこんだ。
「咳止めのお茶?」棚を探しながらシアニは言った。
「そうよ。それから、杏の蜂蜜。」
ぐずる子をあやしながらロサリスは低く歌うように言い、ひとつ瞬いて感謝を示した。
咳が止むと子供はうつらうつらし始め、シアニが先に整えておいた子供部屋の寝台に、ロサリスは子供を寝かせた。
かがみ込み、そっと枕元から引いた手で、シアニが掛けた上掛けの襟元を整え、呼吸に耳をすませる。髪はまとめた束から少しほつれて緩み、服にはしわが寄っていたが、物腰表情は身繕いを整えたばかりのように端然としている。
「母さん、重かったでしょう?」シアニは、色白な肌の目の下にさした紫色の翳に目を留め、囁いた。
「これでも力は強いのよ。」
ロサリスは、立ち上がってそっとシアニの肩を叩き、庭に面した露台へと導いた。華奢な身体を包む黒い古い服の裾には、染みた土ぼこりが点々と残っている。
「母様。」シアニは後ろから思い切って呼びかけた。「母様。心配をかけてごめんなさい。」
ロサリスは、振り返った。
「今朝、早いうちにクシュのサコティーが来て、あなたが河の見張り所にいると教えてくれたわ。」
「サコティーが」シアニはそこに立ったまま、ロサリスに言った。
「ゆうべ、話してくれたの。母様が金の実を投げた、“黄金果の競技”のことを。シギルの一人娘、ロサリス姫の婿を選ぶために、宰相トゥルカンの息子アガムンとコセーナの領主の息子ダミルが競い、そのふたりの間では勝負はつかなかった。」シアニは、ひとつ息をついて言い継いだ。
「しかし、コセーナのダミルは森の中で誰にも知られていない相手と黄金果を競って戦っていた。最後に、王女の手に黄金果を返したのはその若者だった。ただ、女神サラミアの他にそれを見ていた者はいなかった。その若者の父はヒルメイのハルイー。母はレークシル。両親は第一回の“黄金果の競技”の勝者だった。若者の名はラシース。」
「サコティーは言ったかしら。」ロサリスは、庭へと目を逸らして言った。
「その若者が金の実を獲得に行ったのは、王女のためではなく、サラミアのためだったと。」
「そう言ったと思うわ―――いいえ。」シアニは考えた。「レークシルのためだったかしら?自分のためだ、と言っていたような気もするわ。でも、最後には王女にあげたのよ。王女がアガムンの悪だくみを証明できるように。」
シアニは我知らず汗ばんできた手でスカートの端を握り、ロサリスの手が同じように握りしめられたのを目にした。
「物語はそこまで?」ロサリスは、目を逸らしたまま尋ねた。
「王女の婿は“黄金果の競技”では決まらなかった。そして、ラシースはイナ・サラミアスを離れて、エファレイナズに渡りました―――。サコティーが話したのはそこまでよ。」
ロサリスは、やや蒼い顔で立ち尽くしていたが、シアニの真剣な目に出会うと、次に来る問いを待ち受けるかのように面をやわらげ、手で促した。シアニは、しばらく逡巡したのち、いきなりぶっきら棒に尋ねた。
「ロサリス姫は、コセーナのダミルと結婚したの?」
「いいえ。」ロサリスはきっぱりと言った。
シアニは、はっと息を吐いて露台の端に腰掛けた。胸がどきどきして、次に何を尋ねたものか分からない。ロサリスは、ゆっくりシアニの横に腰をおろした。
「あの後で王女には長い試練があったの―――後に比べればずっと短かったけれども、その頃は日が淀んで進まないかのように長かった。ヒルメイのラシースにもそう。黄金果の競技に匹敵する試練がいくつもあった。」
ロサリスは、首をめぐらせて、花芽のほころびかけた木蓮の木を眺めた。
「競技のこともあれば、運命が与えた難題もあった。王女にはベレ・サオの岩の上よりはまだ出来ることがあったわ。アツセワナは生まれ育った場所だから。だけど敵は、壁の下の蟻のように大勢いる。」
「どうして?」シアニは目をつり上げてロサリスを見上げた。
「“黄金果の競技”でアガムンがもう失格になったなら、悪い求婚者はもういなかったでしょう?」
意に染まない婿決めの毬を投げてしまった姫は、最後には、ラシースのくれた本物の金の実を使って、男たちの野心と陰謀で混乱した競技を収拾したはずだったのに。
「おかしなものね。私には唯二の選択肢の片方が消え、第三の道がうっすらと見えたものが、男の人たちには、ただ私を覆い包んでいた堅固な壁がほころびたかのように見えたらしいの。求婚者は増えたのよ。年齢の幅も、身分の幅も―――トゥルカンは王の判定をいつでも覆せると思っていた。そしてアガムンは以前よりもいっそう、王女の相続する土地、引き継がれるであろう事業、コタ・サカの製鉄、トゥサ・ユルゴナスからの収益、イナ・サラミアスとの取り引きに強い関心を持つようになった。あの後も、何度拒み、いくら状況が変わっても私に求婚し続けた―――何度も。」ロサリスは、苦々しく声をひそめた。
「今でもなのよ。」
シアニは驚きのあまり短く叫び、両手の中に顔を埋めた。
「不愉快な怖い思いをさせたわね。」ロサリスはシアニに詫びた。
「大丈夫。何も起こりはしないわ。何もできるものですか。ごらんなさい、ここの焼き討ちだって失敗に終わったでしょう、もう七年も前よ。」
「本当に?でも母さん、今も、って言ったわね―――。」
「あら、言い間違えたのよ。」
ロサリスは立ち、シアニの手を取って木蓮の木へとゆっくりと歩み寄り、その幹元から周を巡って歩きはじめた。これが男の人だったら、これから踊りに誘うか、それとも何か大事なことを打ち明けそう。
しかし、ロサリスは黙したまま一周し、二周した。
踏み跡が地面のうえに、滑らかな剝き出しの道をつくる。シアニがイスタナウトの杜と泉との間を通って道をつくったように。
「火事になった時に私がいた森があるでしょう?」シアニは触れ合う肩に囁いた。すらりとした長い首が支える横顔はシアニよりずっと高い位置にある。
「地下道の出口の傍の。南に泉のあるニレの森の中に若いイスタナウトの木が生えているところ。あの木は誰が植えたの?」
「私よ」ロサリスは答え、木蓮の幹に手を触れた。「私の夫、ラシース・ハルイーと。」
つと離れた手を胸の前に握りしめ、シアニはロサリスを見た。繊細な、盾のように動かぬ面は、母のものではない。時折垣間見える、見知らぬ女のものだ。
「息子を授かったわ。イルガート。泉を見つけ、ハーモナをつくったイルガートと同じ名よ。」
「母さん―――。」シアニは口ごもった。どうしたら、自分に潜んでいるらしい刺が母さんを刺さないように訊くことが出来るのかしら?
ロサリスはまっすぐに両腕をのばして、シアニを抱き寄せた。
「私の子よ。あなたは私の子よ、シアニ」
シアニは、少しの間だけ素直にロサリスの肩に額をあずけた。それから顔を起こし、手をロサリスの肘に重ね、そっと身を離した。
「そうよ、分かっているわ。でも母さん、母さんの男の子がいても、私は母さんの子だった?」
ロサリスは、はっと息を漏らし黙考した。その顔は夕べのように蒼白にはならずに、やがて静かに熱を帯びてシアニを見返した。
「シアニ。私の家族は初めに思い描いていたようにはならなかったわ。愛する人達が次々と欠けていく中で 、助けが必要な人と、失ってもなお与えたい人とが集まり、補い合っていつか家族になっていたの。私の息子が連れ去られた時、私のこの腕、この胸、唇から生まれる子守唄、全てが意味と力を失い、枯れてしまうと思った。その時にあなたが手の中に下りて来たのよ。あなたは自分の両手でつかんだ―――ダミルと私という両親を。
「あなたはどんなに私に輝かしい命をくれたことか。子供を育てることは、周りの世界を味方にしていくことよ。子供は、大人がもういらないと思って閉じてしまった万物の扉に通じる鍵を持っているの。母親がものへの礼節を持って言葉を教えれば、子供はその鍵でどんどん知恵を押し開いてゆく。母親は我が子のために頭を下げ、力を頼み、お礼をすることを覚えるようになるのよ。草花や地面や雨に対して。人に対して。良い力を借りて網をつないでいくことで、知らず知らずに他の母子を助けることもできるようになるの。あなたはこの大きな家族をつくるきっかけになったのよ。」
「母さんはみんなに公平だったわ。」シアニは認めた。
「私は時々、それが不満だった。だって、私だけがただひとり、父さんと母さんの子だと思っていたから。」そして、思い直して言った。「馬も、服も、お話の時間も、他の子達よりもいいものをもらっていたわ。」
ロサリスは愛おしげに目を細めた。
「ダミルは特にそうね。あなたは特別なのよ。」
「父さんはずっと独り身で……。」
朝に会って来たダミルの隠しきれない狼狽の様子を思い返し、シアニは呟いた。
「そうよ。」ロサリスはコセーナの方を見、礼をするように頭を下げた。
「ダミルはずっと、コセーナの領主として跡継ぎを望まれている。この十年、いくらでも良い伴侶を得る機会はあったのに。あの通り義理堅いものだから、私の居場所と立場を守り、あなたの父でいるために、妻を迎えることを躊躇していたのね。」ロサリスは小さく首を振った。「―――だけど、まだ遅くはない。」
シアニの心の中にまた澱をかき立てるような不安が呼び覚まされた。
私とのひと悶着が落ち着いたとしても、母さんの心の様子は何ひとつ決着してはいないようね。私には見えない奔流のただ中にあって、石のように静かにしているけれど、その石が動かないと誰に言えるかしら?
「母さん。私は愛された幸せな子よ。良く分かっているわ。母さんの子供たちはみんな幸せよ。そして母さんが好きよ。それでも、足りない?―――男の子もいるわ。それでも、いたかもしれない他の子の方が……。」
やっぱり私は馬鹿だわ。母さんを留めるために自分も動けず、そうして出来ることは傷つける事だけ。
「私では代わりになれないのね……。」
「シアニ。母親はね、何人子供を授かっても、失ったたったひとりの子を忘れることが出来ないのよ。」ロサリスは、シアニの側頭に手をやり、その髪を撫でた。
「あなたにこんなふうに分かる日が決して来ませんように!」
午後に縫物の続きをして身頃を仕立て、散歩がてらに、弟妹たちがどんな風に仕事を片付けたかを見周りに、シアニは、台所の裏から丘を下りて行った。
居間はきれいだったし、台所の棚には皿や鍋が正しい位置に、少し傾いて仕舞われていた。外の物干しに掛けた布巾は、少し弱い絞り方で皺がよったまま乾きかけていた。鳥小屋から畑までは点々と藁がこぼれている。が、小屋の中の鳥は新しい敷き藁の上を歩いている。
夜に通り抜けた丘の斜面をゆっくりと下り、さらに薪小屋の下の斜面をくぐって下りて行くと、足元の下の方でがさがさと音がした。その場にしゃがみ、木の株をつかんで止まって見ていると、丘の地下通路が通っている穴の中から、ぬっと木の長柄の先が出ては引っ込み、続いてチュニックの裾が揺れる後ろ向きの腰と丸めた背、続いて頭巾を後ろにずらした白髪の頭が出て来た。溜まった枯葉や土を熊手でかき出している。シアニは、穴の上をよけて左側に回った。
バギルは、シアニが下まで下りてきてきちんと立つまで、ぐるっと尻をむけていたが、熊手の柄の先がシアニの方に突き出さないように気をつけているのは明らかだった。
「あんたが出たり入ったりするからここから台所まで地面が禿げて木が根付かん。」
バギルは地面を掻きながら、放した右手をちょっと斜面の方に振り、ぶつぶつと言った。
以前より痩せた、かがめた広い肩越しに見える後頭部は、枯れ草色に日焼けした薄い髪の間から日焼けした地肌がまるく覗いている。
「あら、前よりずっと小さな木が出て伸びているわ。―――もう私はここは通らないわ。そしたら、すぐよ。夏にはきれいに隠れるわ。」
平静を装っても、声が何だかとんがってしまう。どうしてあんな言葉を―――くそじじいなんて―――思い浮かべたのかしら。無くなった髪の毛よりもずっとたくさんの苦労をしてきたに違いないお年寄りに。
バギルはむっつりとシアニを見やった。ちょっと悲しげな口元だ。
「今日は、フレマが掃除をして、ニーナが卵を拾ってメミネが食卓を整えた。」
悪かったわ。言おうとしてシアニはバギルを見返した。どうして。いけないかしら。私がひとりでやっていることを、三人でやっただけだわ。
「誰もお前さんのように手際よくできん―――あんたは働きすぎだ。徐々にあの子らに任せるといい。でないと、いまひとつ仕上がらない者ばかりになってしまう。」
窪地に押しやった朽葉と草の塊の上に、かがんで拾い集めた枯れ枝を無造作に放った。
「燃やすの?」火打石を隠しに探しながらシアニは訊いた。
「いや、置いておけ、少し風もあるしな。」
熊手をおいて汗をぬぐいながらバギルは言い、斜面にちょっと腰をおろした。枯れ色の森の地面と梢に新芽の緑が兆し、南を向いた斜面にはリュウキンカが咲いている。泉の方からニレの木立ちを通って風が吹き抜ける。
「シジュウカラが巣をつくっているわ。可愛いな。」
シアニは曲がった桜の梢から、枯れ草の山の上に下りて来た影を指差して言った。草に絡んだ羽毛を抜き取って口にくわえ、斜面の藪の間へ消えてゆく。
「放っておけ!」バギルはぶっきら棒に言った。
「知ってるわよ。」
「皆がお前さんのように分かっているわけじゃないからな。」
腰をおろしたバギルに並ぶ格好で、立って同じ方を眺めながら、シアニはちょっともじもじした。嘘のようだが、夕べのことの仲直りは済んでいない。
「あんたはもういい娘さんだ。」突然、全く違う口調でバギルは言った。
「もうちょっと、自分の綺麗な顔や手を大事にすることも考えてもいい。」
シアニはちょっと驚き、考え込んだ。私にもとうとう、その日が来たんだわ。子守のおばあさんたちのお世辞じゃなく、男の人からきれいだと言われる日が。ただ、初めにそう言ったのがお年寄りで残念だけど。
シアニは思い出してふふっと笑った。
「バギル、あんた、母さんと踊ったの?」
「誰と?」
さあ、どうだ―――?
「ハヤとよ。―――二十年ちかく前だと思うわ。」
「ハヤと―――!そんなこともあったな。」バギルは思いがけずすんなりと言った。
「シギル様が催した二度目の“黄金果”の祭りだ。―――誰かから聞いたのか?」
「クシュのサコティーから。」
「夕べわしらが蒼くなってたころ、あんたはちゃんと屋根と食事と物語にありついておったんだ。結構。」
目元に浮かんだ笑いの皺がふいに消えた、バギルは真面目くさって尋ねた。
「どんな話をきいたんだ?一晩でだいぶん物知りになったようだが。」
シアニは首を振った。物知りになったどころか、何も知らないことがわかっただけ。
「シギル王の姫をめぐってトゥルカンの息子アガムンとコセーナのダミルが“黄金果”の獲得を競い―――どちらも果たせなかったという話よ。ただそれだけ。すごいのは私の知っている名前が何人も出て来たってことよ。中でもロサリスという名のこの王女は、初めはとても大人しかったのに、男の人たちがイナ・サラミアスで勝利の実を求めて走り回っている間にひとりで逃げ出してしまうのよ。でも、責任を投げ出したことを後悔して、置いてけぼりにしてしまったハヤという女の子を助けに戻るの。」
シアニは顎の下に指をやり、夢想した。
「日没間近に、姫君は顔を隠しながらクシガヤの娘たちに混じって踊るのよ。丸太の端に乗って即興で。厳しい父王も悪賢い宰相も、どちらも王女に変装しているハヤを捕まえてひどい目に遭わせるかもかもしれない、そんな心配をしながら踊り抜くの。そこでね。」シアニは目配せをした。
「姫は心強い味方を見つけるのよ。」
「ほう?―――何を、大袈裟な。」
バギルは、左側に立てかけた熊手の柄を杖に立ち上がりかけたが、シアニは素早くそれを取り上げると、反対側にまたぎ越え、長椅子のように曲がった桜の枝に腰掛けた。
「さあ、ここからが肝心な話よ。聞いてくれなくちゃ。姫は、父王の家臣でクシガヤに近いシアナの森の生まれの男を見つけたの。それで彼に頼んだのよ。ハヤと踊って、ってね。トゥルカンの部下がハヤを捕まえようとしていたからよ。バギルというその男はハヤを守りながら踊ったそうよ。」
「踊ったのは本当だが、ただ踊っただけだ。抜き身の刀を振り回して踊ったわけでも無し。」
バギルは膝を撫でながらため息をついた。
「その時、わしは、何人かの仲間と護衛を務めていたんだ。王に忠誠を誓ったトゥサ・ユルゴナスの名主としてな。」
今日はこの言葉を三度も聞いたわ、“黄金の穀倉地帯”。一回目の“黄金果の競技”の開催でイナ・サラミアスとの絹と鉄の交易を成立させたシギルが次に取り掛かり、十二年かかって開いた大農場。
「驚き、驚き!」
シアニは足をぶらんとひと振りし、その膝の上に両肘をついてバギルを覗き込んだ。
「あんたはこのお話に出てきて、クシガヤの踊りが踊れて、生まれたシアナの森から遠く遠く離れたアツセワナの大農場トゥサ・ユルゴナスに住んでいて、王様からも王女からも信頼されてて、クシガヤの小さな女の子、ハヤのことも知っていて―――こんな事ってあるかしら?」
「さあな、クシュが針小棒大に話そうが、わしはその場で聞いたわけじゃないからな。そうだとも言えず、違うとも言えず、さ。」
シアニは、声をたてて笑った。あのサコティーがほらを吹くなんて、可笑しすぎる。
「もし、あんたについて違う話を信じてもらっては困るというのなら、あんたが自分で話してくれなくちゃ。シアナの森ではじまって、姫君とハヤで終わる話を。それでサコティーの言ったことが本当かどうかわかるから。」
バギルは両膝を叩き、両手をそこに憩わせると、南西の森を見やり、唇を湿した。
バギルとトゥサ・ユルゴナスのこと
シアナの森は今はどうなっているかな?灰にやられた木が立ち枯れているか。それとも石灰石を焼く炭にするのに切り払われてしまったか?噴火の前、あそこは鬱蒼と木が茂っていた。そんな中にもいくつかの家があった。飛び地のように畑を拓き山羊を飼っていたんだ。朝に隣の家を訪ねて行けば、帰りつくのは夜という具合にそれぞれが離れた森のなかに。
わしは、シアナの森の自作農の倅に生まれた。貧乏人の子沢山と言うとおり、兄、わしに続いて弟妹が次々生まれた。しまいに何人になったのかは知らない。わしが数をよむようになる前に死んだのもいるし、家を出てから生まれたのもいただろう。
わしらあの界隈の農民にはヨレイルの血が何分の一か入っているのかもしれん。暮らしの半分は彼らのようなことをしていたしな。暮らしの足しにと、畑の周りに罠をかけてウサギや小鳥を獲り、秋には木の実も拾った。そして森を横切る時はよく歌った。歌うのが好きだというよりも、時々声を出さないと危ないんだ。狩りをしながら移動するヨレイルの矢が獲物と間違えて飛んで来るかもしれないからな。あんたも知っているニーサな、あの子の父親の家はヨレイルの通り道だった。彼らとは懇意にしていて、婆さんが酒だの薬だの上手に造れたものだから、上手に商売をしていた。住まいの周りに鳴子をめぐらして、互いに用事も用心も知らせあっていたな。
我々遊び仲間は、百姓の子もヨレイルの子も一緒だ。十から十五ほどの頃は童どもみんなでコタ・シアナに魚を獲りに行った。まあ、魚目当てが半分、あとは齢も色気づいて来るころだから、クシガヤの若い者のつまどいの踊りを見物に行くんだな。
川の木の下に魚の罠を仕込んでおくだろう、そして日暮れ時には藪の陰に隠れて、河の上の丸太踊りを見ていた。連中が相方を見つけて河原に下りて踊り出すと、こちらは暗がりに混じって出来るだけ近づいて一緒に踊るんだ。誰が一番気付かれずに近寄れるか競争したりなんかしてな。翌朝、罠にかかっている魚を賭けて、ひとりずつ試すんだ。女を中心にして同じ円の中に入れれば三割、髪に触れば五割、手に触れば全部ってふうにな。もちろん、うまく踊れば踊るほど近づける。わしはこれでも巧かったんだ。魚を半分浚えたことがある。だが、やりすぎちゃいけない!クシガヤの連中は穏やかで普段は危ないことも無いが、状況が状況だしな、近寄りすぎると相手の男に尻を蹴られる。これが痛いのなんのって、逃げ帰るしかない。翌朝引き上げるはずの魚もなにもかもふいだ。
何故そんなことをするって?先刻言った通り、隣を訪ねて帰るのが明日、という森の中では年寄りが世話をしてくれん限り、若い娘に会うことなどかなわなかったんだ。
もう少し大きくなると、これはなかなか若者にとって悩ましいことだった。その頃は娘が少なく、近隣から嫁を貰える見込みも無かった。兄に仕えて畑を耕しながら家においてもらうか。運を開きに外に出て行くか。アケノンの治世のころから、若者たちの関心は西へ西へと引き寄せられていた。耕すだけが生きる術じゃない。働き方はひとつとは限らないと思うようになったんだ。
西に行くにはふた通りの道があった。シアナの森にはタシワナからコセーナに通じる道がある。他にも、あまり知られていないが、コセーナに季節雇いの仕事に出かけるヨレイルたちの道もある。また、コタ・シアナには交易のためにクマラ・オロまで出かけるイーマを乗せる舟が通る。
どちらを行ったかって?舟はただでは乗れない。足で歩く他はない。ヨレイルたちについてコセーナ、エフトプと働いて駄賃をもらいながら回り、最後にはニクマラ・ガヤに行ったんだ。
違う世界で運を開きたいと言ってもやっぱり森と水辺からは離れがたい。それでもニクマラ・ガヤならアツセワナに近く、北からも東からも人の行き来が頻繁で見聞するにも都合が良い。
すぐにも人手が助かるというのでまずは野良仕事から入った。ニクマラ・ガヤにはアケノン様の妹君が奥方として嫁いでおられた。奥方はよく外の木陰でお子達の勉強を見ておられたが、雇人の中に若い者がいると声をかけて一緒に読み書き算盤を教えた。自分の指より多い数が分からなかったわしは、急に二段も賢くなったような心地になった。それだけでもできる仕事が増える。舟着き場を出入りする荷を見れるようになり、帳簿の管理を任されるようになった。部下をふたり使えるようになったんだ。ニクマラで働いていた女房と出会い、息子をふたり育てた。
ニクマラに仕えて十五年も経ったころだ。城内に勤めていたある真夜中、門番があわてて中郭の詰所にやって来て、奥方に内密に取り次いでくれという客の来訪を告げた。わしは門までその男に会いに行った。
その男は伴も連れず、夜露をしのぐマントもない服は、茨にあちこち引き裂かれしわになっていた。たどり着いた途端に倒れてしまった馬を、厩番が一生懸命介抱している。それには一顧もくれず、いかにも尊大な様子で奥方に会わせてくれという。
わしはなりの大きい、強そうな相手を前にして、どうやって守備の者が内門に着くまでに阻止したものかと考えていた。ところが、城仕えの年寄りたちはこの若者を知っているらしく、非常に驚いた様子で中に案内し、奥方を呼びにやるやら、もてなすやらした。この男はそれを当たり前のようにふるまっている。
奥方は真夜中にも拘わらずその若者に会いに出て来た。そして二、三言葉を交わすとわしを呼び、早朝にアツセワナへ届ける荷舟の運送係にその若者を加えるように、と言いつけた。
それはその夏の終わりのことだった。どことなく気ぜわしい、落ち着かない夏だった。なに、作物の出来は悪くなかった。ただ、いつも東に雲が居座っていて朝日が冴えないんだ。そして、ニクマラから出すコタ・レイナ、コタ・ラート行きの舟では、当面ついでの客を乗せないようにしよう、と話し合いがされた。舟が何者かに襲われることが増えていたからだ。
その秋、突然、王から通達が城に届いた。アツセワナで催される収穫祭の手順が変わった、というものだった。王が考えついた新しい趣向だとかで、郷の面目を賭けた貢物がいるんだとか。これには工房の古参の職人たちが大いに頭を練った。若い王のわがままだ、と皆文句を言っておったよ。わしはニクマラの収穫の集計を終えてほっとしたところだったし、アツセワナの祭りは領主一家と従者一行のお偉方の他には関りの無いことだ。師匠たちが慌てるのが珍しくて面白がっていたな。
ところが、息子の領主夫妻を送り出す準備をしながら、奥方はわしに戯れに声を掛けた。
「バギルや、お前は何かに出ないのかい?」
話によると、収穫祭の後で、各郷から参加した者によって角力や技能の競技が行われるという事だった。わしは何をしたってさほどの腕自慢じゃない。住んでいたのがシアナの森なら、なけなしの日々の技をなんとか息子に伝授しようと思ったろう。だが、ここには先生がいくらでもいる。それに細工など奢侈品でアツセワナ、イビスにかなう職人はいない。口車に乗せられてついて行かなくて良かった!
わしはニクマラで留守番をしていたが、出かけた者たちはなかなか戻ってこなかった。祭りの途中で帰って来た者の話によると、件の競技の日程は延びに延びて、シアナの森の狩りに移り、おまけに最後にひとつ、大きな競技が新たに催されることになったのだそうだ。
「その秋一番の果報者に山の女神が贈り物をするのだ、と噂が流れた。その果報者とやらは何をする?イナ・サラミアスの険しい山の中で崖っぷちを走るだの、滝の中をくぐるだのして毬をさがすんだ。」
バギルの瞳が皺の襞の下でくるっと回った。
「“黄金果”の一回目の競技だわ。」シアニは声をあげた。「ハルイーとシギルが競ったのよ。」
「そうだな」バギルは膝をさすった。「わしが聞いたのは、途中で怪我を負って山の中から運び出され、その後を見ずにニクマラに帰って来た連中の話さ。」
コタ・シアナのそばにいながら、わしはイーマを間近で見たことがなかった。そのイーマが身にまとっているという絹がどんなものかも知らなかった。だが、領主が戻って来たニクマラで、突然、それぞれに噂が持ち上がった。女達はその布がどんな風かと噂したし、男達は、やっとで帰って来た領主の一言に慌てふためいた。
「イナ・サラミアスからの使者を泊める宿駅をつくる。」
王が直々に命じたのだそうだ。コセーナ、エフトプ、そしてニクマラを指名したのだ。
何のためだ?イーマをこのニクマラに泊めるのか?
王が鉄山を持っていたらしい。それをもとにイーマの作る布を手に入れ、商いをするらしい。
そいつはうまく行くのか?―――だが、翌年からイーマはやって来た。
彼らは館の北に造られた、小川を見下ろす丘の上の小さいこぎれいな宿舎に泊まった。わしの生まれ育った家のような小さな宿舎だ。イーマ達の逗留中に、物売り、職人が市にやって来る。それまでアツセワナの他にそんなに賑やかな市が立つことはなかった。そしてイーマらが帰っても集まった人は減らなかった。仕事は沢山あったんだ。
ニクマラの岸から街道に乗せられる荷が増えていた。木材も沢山運ばれていた。イナ・サラミアスから切り出された上等の木材だ。“絹と鉄”の交易を始めてから四年、王が新しい事業を軌道に乗せようとしていた。
エフトプとニクマラから、水の工事に詳しい技師がアツセワナに呼ばれたということだった。翌年にはアツセワナから王の名代が来て、イズ・ウバールを検分し、領主と話して行った。名代が帰る頃には、王の出したお触れが噂になってわしの耳にも入って来た。
「未だ自らの土地を持たず、しかし志ある者に耕地を与える」
心が動いたかと?わしは既に、余所者としてはニクマラで望みうるだけの信頼と役目を得ていた。家庭は平穏でこれ以上望むことはなかった。だが、ある日、大奥様に呼ばれた。
これまで通されたことの無い、奥の部屋の、湖に面した露台の外明かりのもとで、奥方は膝の上に何やら反物を広げて眺めている。わしはそれまで、そんなに綺麗な布を見たことが無かった。これが噂に聞く絹というものかと思った。奥方はひとわたり眺めると満足そうに巻き上げ、腰元に手渡した。
「そこに控えておれ。まだ嫁に見せてはならぬ。」
そうしてわしの方に顔を向けると、シギル王のトゥサ・ユルゴナスの事業をどう思うか、と尋ねた。
どう思うかと、申されましても……。
そなたは一国一城を構える父のもとで生まれ育ったのであろう?―――奥方はただふざけてこう言ったんだ。小さな畑とあばら家の百姓の倅のことを―――
粗末な領国でございました。―――わしは答えた―――ここにご奉公させていただいてこのかた、飢えたことも凍えたこともございません。
奥方はわしの目をじっと見つめて言った。
知ってのとおり、アツセワナの耕地は全て、いずれかの郷の領主に属する。このニクマラでもそうだ。作人は、耕し、扶持を与えられるが、土地もそこに実るもののひとかけらも自分のものではない。それは全て領主のものだ。領主はそこから郷倉に納め、領民に分配する。不服の無くなることは決してあるまい、ことにそなたのように勤勉な者には。そなたより働きの少ない者と同等のものしか得られぬ、ここでは。―――そして、肩越しにアツセワナの方を指さした―――トゥサ・ユルゴナスでは、税と王への奉仕の義務を果たせば、有志が一丸となって開墾した土地の一区画を所有することができるが。
わしはあまり気がすすまなかった。下の子はまだやっとの六つだ。わしは、若造の頃から目をかけ、読み書きを教え、何かと引き立てて下さったご恩を思った。考えられる答えはひとつだった。
「奥方のご命令とあれば。」
奥方はわしの顔つきから乗り気でないのを察したようだった。腰元に振りかえると、もう一度絹を見やって首を振った。
「アツセワナの使者殿にお返しするように。あいにく、わが郷に王の誘いに応じる者はいないようだ。」
わしは、奥方の期待に沿えなかったことを悔やんだが、奥方は気にしない様に、と言っただけだった。
五年経って、奥方は再びわしを同じ場所に呼んだ。今度はその膝の上に絹の反物は無かった。
「バギルや、女房は達者か?下の息子は大きくなったか?」
息子はその頃、皮なめしの徒弟になり、親とはもう離れて暮らしていた。
「五年前にお前を呼んで話したことを覚えておいでかい。」奥方はたずねた。「他でもない。同じ申し出を受ける気があるかを尋ねようとしているのだが。」
わしは答えた。
「はい。雛めは無事巣立ちましたので、行け、と命令くだされば木を移って暮らしをこしらえましょう。」
奥方は、既に伐採と整地の終わったトゥサ・ユルゴナスの六つの区画のうちひとつに、一世帯分の空きができたから、そこに入らないか、と言われた。
「居住の申請は王宮でされねばならぬ。だが、先ず私が紹介状を先に届けておくので、準備が整うまでアツセワナの私の実家を訪ねて行き、そこで待つように。」奥方は言われた。
わしらはわずかな家財は金子に替えた。手慣れた工具、女房はわずかな鍋釜、裁縫道具、そして着換えを少しだけ手荷物にまとめ、城門までの街道を荷馬車の後ろに乗せてもらった。煉瓦の塀で囲まれた街を、丘の上まで歩いて、アツセワナの第一家の旧い邸を訪ねた。
第一家は、アケノン様と妹御三かたのご実家とはいえ、ご兄妹は母方のおじい様の家コセーナで幼少期を過ごされていたので、邸はわずかな期間の他は、遠い縁者の年寄りに管理されていた。わしらが尋ねて行った時も、わずかな召使と老婦人がふたりいるきりだった。
年寄りの門番が入れてくれた中庭は草木が枯れてがらんとし、わびしかった。のっけから聞こえてきたのは、子供を叱りつける婆さんの声だ。鬱陶しい、泣くのなら外で立っておいで、といって回廊のところから押し出されたのは、小さな女の子だった。いい服を着て、髪もきちんとしていたが、べそをかいた顔は見ていられたものじゃない、しゃくりあげながら声をたてまいと、いーっと唇を引き結んで鼻の上とおでこにしわを寄せている。ちゃんと答えることも出来ない程だった。
わしの女房は、知ってのとおり、そんなのを放っておけない女だ。荷物をそのまま地べたにすとんと下ろすと、女の子に駆け寄って、どうしたの、って尋ねた。その子は、とにかくそう言ってくれるスカートをはいた膝を求めていたんだな、相手の顔も見ずにしがみつくとわんわん泣き出した。母様がいない、女の子は口がきけるようになった途端にそう言いたてた。
表の様子が変わったので、婆さんが様子を見に出て来て、わしらが立っているのを見つけ、何用だ、と尋ねた。わしが、ニクマラの奥方から紹介状が来ていないか尋ねると、荷物をそこに置いて、王宮に申請に行けと言う。
わしは、女房を女の子をくっつけたまま荷物と一緒に待たせて、王宮にトゥサ・ユルゴナスの居住の申請をしに出掛けた。
第一家の邸はアツセワナの丘の上でも高いところの南寄りにある。同じ層の北の端には宰相トゥルカンの邸だ。それより高いところには、あとはまっすぐ登っていけば王宮があるだけだ。
丘をめぐる城壁は階層を上に行くほど、高く厚く積まれていくので、道を歩いていても見晴らしがいいとは言い難い。だが、階層の角には盛土をして木を植えた広い見晴らし台があり、そこに登れば、丘の麓や周りの耕地なんかが見渡せる。王宮へと登る石畳の道の南の角にはちょうどそんな露台があった。わしはそこに行って東側のコタ・ラートの川辺から広がる耕地や道から、ニクマラを隠しているイズ・ウバール、丘の裾野の、低い煉瓦塀の中にひしめく家や、西に回ってコタ・イネセイナの岸に拓かれた新しい土の色の耕地を眺めた。
そこから見えるトゥサ・ユルゴナスは、ほんの一部だったが、平らに切り均された地面と深く掘られた水路の様子から、丘の西側に遮られて見えない耕地の広大さを推し量ることが出来た。
王宮の門で取次を頼むと、すぐに裏門に連れて行かれ、そこに設けられた検問所でふたりの役人から厳しい審査を受けた。短刀はもちろん預け、物入れや胴着の内側まで調べられてから、内閣に通された。中庭を二度通り、奥の館の、あまり大きくない一室に通された。家臣の仕事部屋でもなければ、謁見の広間でもない、貴人のくつろぐ居間のような部屋だった。書き物をする台を置いた広い窓辺の椅子に掛けていた男が立ち上がって歩み寄り、わしの正面に立った。
忘れもせん。そこにいたのは、十年前、ニクマラで真夜中に奥方を訪ねて来た、大柄な、灰色の目の気位の高い若者と同じ顔だった。
「ニクマラの叔母上の紹介で来た者だな。シアナの自作農の生まれ、壮健で勤勉、事務も出来るそうだな。」振り向いた卓の上には、奥方の紹介状らしい書状があった。
「名は?」ちょっと唇に笑いを浮かべながら男は尋ねた。紹介状にあるような、短い名前が珍しかったんだろう。親父の名をわざわざくっつけるような身分でもないしな。
「バギルと申します、お役人様。そこには書いてなかったんで?」
男はごく真面目に答えた。
「本人かどうかを確かめるのは極めて大事なことだからな。」
そう言って、わしをここに連れてきた役人のひとりに合図をした。役人は手にした巻物を広げ、そこに書かれた誓約の文言をひとつひとつ読み上げた。
コタ・イネセイナ沿岸の土地を開墾せし者に王は以下の権利を認める。
一 開墾地の所有、耕作を認める。
一 収穫物の余剰に関しては売買を認める。
一 代表者を選ぶことを認める。
また、所有者は王に祖を納め、有事の際にはこれを助けること。
庄全体に対しては次のように定める。
一 庄の自治を認める。
一 代表者たる庄長は評議会において発言することを認める。
一 全収量のうち規定分を郷蔵に収めること。
わしはそれらを全て承服し、文書のしまいに何十と連なった名の末尾に自分の名を署名した。
役人は苛々したように紙を巻き上げてさかんに目配せを寄越したが、わしには何のことだか分からない。目の前の男は笑って右手を差し出した。
「誓約はこれで完了した。バギル、頼りにしているぞ。」
わしは突っ立ったままその手を取り、握手を交わした。
その時、そんな場所には似つかわしくないぱたぱたという足音がして、何と驚いたことに、第一家の邸で見かけた女の子が駆け込んで来た。しかも、どうだ、その手で一生懸命引っ張ってきたのはうちの女房じゃないか!泣いていない時のその子は、アツセワナの職人が作った一級品の人形みたいに可愛らしかった。烏の羽みたいに黒い髪で、大きい露玉みたいな灰色の目でな。だけど広い額にきりっとした眉と目の色は、目の前の男と同じだよ。ひと目で父娘と分かる。
「お父様、この小母さんが書き取りを見てくれたから勉強がすぐに終わったの。お話もたくさん知っているし、お料理も上手。ねえ、ここに住んでもらってください。そしたらもう泣きませんから。」
なんだ、ちゃんと順序立てて喋れるじゃないか!
だが、女房は、女の子に袖をつかまれたまま、頓狂な声をあげてそこに膝をつき、馬鹿みたいに何度も頭を下げた。
「シギル様、王様、ご無礼をお許しください。」
わしは仰天して、取るもとりあえず跪こうとしたが、王は意地悪くぐっと手を握ったまま離してくれんのだ。役人に目配せして別の巻物を文机の上に広げさせると、やっとで手を放し、姫君を傍らに手招いて椅子に掛けた。机に広げられたのは開墾中のトゥサ・ユルゴナスの図面だった。河のそばに仕切られた六つの区分の中に、居住者の名らしきものが書き込まれている。王は白く空いた区画をとんとんと指で叩いてしかつめらしく言った。
「庄長に遣いをやり、件の地区の区長に新たに居住者が入る旨を伝えておく。作業の遅れている地区で土地の配分は済んでおらず住居は整っていない。しばらくは細君と城の中に住んでくれ―――父の実家の方から仕事に通うのだ。」それから女の子を見やって言った。「娘が面倒をかけたようだな……。この冬、妃を亡くしてな、男と年寄りばかりのところで世話が行き届かんのだ。」
女房が家政を手伝うことになり、わしらは第一家の邸に当面住まわせてもらえることになった。と言っても、件の土地を見に行ったが最後、たちまち戻れなくなったが。空きが出来た土地にはいろいろと問題があったのだ。
翌日、わしは割り振られた土地に行ってみた。前の日に図面を見ておいたので、下流の低い区画だとわかっていた。
王宮を見上げる丘の南西から急に川幅の広がる、コタ・イネセイナの岸に堤防を築き、その内に二百町歩にわたる耕地を拓き、勢いを弱めた水をみっつある大きな水車で水路に引き込んでいた。
土地はもともとの地形をだいたい三段くらいに、切り均したり、盛ったりして整地されている。田畑の境にはまだ植わって間もない若い木がぽつぽつと並び、全体の六割くらいのところでは、麦や豆が広々と植わり、牧場や家畜の囲いも出来ている。城内の宿舎から仕事に通う者もいるが、既に家もいくらか建ち、菜園や納屋も備えてそこで暮らし始めている者もいる。
トゥサ・ユルゴナスは六つの区に分かれ、それぞれに五、六の家族があるそうだ。その勘定ならおよそ三十もの家があってもいいはずだ。だが、ざっと数えて十ちょっとしか家は見当たらない。うまくいっている部分に限ってのことだからな、低地のほうは行き詰っているようだった。堤の内側だったが、森の際から水が広がっていて、そこに積んだ板の切れが押し流されて漂っているようなありさまだった。水から出ている部分も半分くらいは練られた泥といった色をしている―――わしがあてがわれた土地はどうもそちらのようだった。
わしは区長に会うために、低い方の土地の飯場に行ってみた。飯時になっていたので概ねの者が集まっていたが、生まれも様々らしい。
恰幅のいい男がわしの顔をじろじろ見たあげく手招きした。わしはこの通り背丈はあまり大きくは無いし、肌の日焼け具合もちょうど微妙なところだった。声を掛ける前にたっぷり迷ったんだろう。
「あんた、季節雇いの新入りか?」
「いいや、居住を申し込んだ者だ。ニクマラの郷から来た。」
「ほう、では一本釣りかね?王がこれで買い取って来た奴だ。」男は膝に布を広げる仕草をした。その男の周りにいた二、三の者がちょっと身を乗り出した。
「わしらと仲間ってわけか。色が黒いからてっきりあいつらの方に近いのかと思ったよ。」
彼があごでしゃくって見せた先には、ヨレイルらしい男たちが地べたに座って休んでいた。
仕事に来て早々、仲間うちで差をつけたり区別したりもないもんだ。だいたいわしから見れば初めは誰も同じだ。
「区長は誰だね?」
おれがその役目をしている、と男は答えた。
彼らがもっといいことを教えてくれそうには無かったから、わしは、座り込んでいる男たちに声を掛けてみた。彼らは、この五年もの様子を聞かせてくれた。
この事業には、初手にはもっとたくさんの、何倍もの人手がいた。わずかばかりの給与とまかないで凌ぎながら、河の流れを変え、森を切り、土地を均し、身を削るような労働に耐え、意欲を失わなかった者だけが残っているのだ、予定の土地の伐採と整地があらかた済み、六つに区分けされた時、残った三十家族で籤をひいた。あとは同じ区の者たちで協力して仕上げることになっていた。
「おれ達の引き当てた土地は難物だが、その中でも出て行った者が押し付けられたのはひどい部分だった。他所の者は沼床なんて呼んでいるよ。あんた、全員と喧嘩して配分を変えるよう頑張るかね?」
「それは必ず喧嘩になるってことかい?あんたはどうかね。」わしは訊き返した。
彼らのひとりが、初めに声を掛けた男たちの方を見た。
「相手にもよる―――提案にもよる。だが、互いに耳があればだ。」
もうひとりが、ぬかるんだ土地を眺めやって言った。
「初めにこの土地を拓くことにした時はもっと水はけがよくなる予定だった。が、春になると下流の方から水が湧いてきて半分ほども水浸しにしてしまう。入ってくる水を堤で止めるにしても、沈まないように底を上げるにしても、もっとたくさんの土を盛らなきゃならん。だがどこから持ってくる?上の連中は、自分のところに満足している。ここを改良するために一旦仕上げた田畑を切り崩すなど承知せん。そしてここの連中はここの連中で仲間を助けようとはしない。あいつらは―――先の男たちに顎をしゃくり―――もともと五件に割り当てるには狭い土地だった、土を盛って高くすれば七町歩あて三件になら当てられると言った。分かるか?おれ達の分は無くていいと言っているんだ。せっかく来てもらったが、どうもあんたの分は初めから無かったって勘定だな。」
ヨレイルたちは先に休憩を終えて出て行った。
わしはその沼床を自分の足で歩いてみた。そこは長年河の一部だったところだ。長年の水の通り道が固い地盤を削っては溜めてはを繰り返し、土を盛って均してもその下に縞模様の窪地が隠れていて、毎年水が入り込むたびに腿まで埋まるような深い穴があく。牛馬でも入れようものなら大変なことになる。だがこの水はいい水だ。泥を上げて積んでおくとたちまち草が芽を吹いて青々と伸びる。そこに鴨やら鷭やらが巣をつくるし、溜まって池になった水の中には、いつの間にか魚が育っている。こんな場所を他に見なかったか?コタ・シアナやコタ・レイナの下流の湿地に。ニクマラの脇の農地でも。
わしはそれから三日間、トゥサ・ユルゴナスの中を歩き回ってエフトプの郷からやって来た者を探した。イビスやアツセワナの大きな耕地の作人だった者も尋ねた。沼床にふさわしい作物は何かを訊くためだ。
「どうしても穀物で、というなら米だろうな。」彼らは口をそろえて言った。
「もう少し底を上げれば、若い苗が流されることも無いし、実る頃にはほどよく水がはける。」
「陸の上の方をもっと切り崩すんだな。」
わしはその話を同じ区の仲間にしてやってくれ、と頼んだ。彼らは渋った。彼らはすっかりその頃には上の土地を手に入れて首尾よく土地持ちになっていたんだ。そばで暮らしている者の土地の扱いに口やら手を出して恨みを買いたくないものな。
「そちらの話はそちらでしてくれ。水に困らないのは結構なことじゃないか」
彼らはそう言って引き上げて行った。分からず屋と言いうほどでもないが、嫌味は余分だ。今に見てろ。わしはもう一度沼床を眺めた。堤の手前にもうひとつ堰をつくって水門をつけ、流れ込む水をもう少し減らせないか?資材は森から切って来られる。人手はもっといるな。
わしは仲間たちを呼んだ。田をつくる計画を話し、窪んだところを埋めて均し、水を調節する工事に必要な人手がいる、と話した。
「誰がそんな工事をやるんだ、誰が?」区長を名乗る男は語気粗く言った。
「おれじゃないぞ?それにおれの陣地に手を出してみろ、ただじゃおかんからな。」
彼は前の年の秋に、慌ただしく麦を植え付けたところで、それが、まばらながらも伸び始めていたところだったんだ。
ヨレイルたちにとっては先刻承知の成り行きだった。わしは彼らがとっくに試みたことを繰り返したに過ぎない。だが、わしらは目を合わせて前とは少しだけ違うことに気付いた。同じ考えの味方が三人に増えたという事じゃないか。だったらもう少し先まで試みてもいい。
「開墾にとりかかった時には全部で何人いたんだ?」
「ざっと今の十倍」彼らは答えた。
「報酬は?」
「まかないと宿舎、給与があった。給与は郷倉の手形か、望めば金子で払われた。だが、水路が完成し、土地が我々三十世帯に引き渡されてからは、他の者は解散した。二年前に上で耕作を始めた者たちは、区の中で助け合う他に季節雇いを入れている。彼らは取れた作物から報酬を払う。しかし、我々に差し出せるものはない。」
わしらは話し合って、もう少し仲間を増やすために、同じように行き詰まっている隣の区を訪ねてみた。彼らは作戦を聞いて手を貸すことを承知した。ただ、口説き落とす役割だけは御免だと言った。いいとも、さしあたってはひとつの号令に従う八人分の腕力が欲しい。
その晩、仲間みんなで出かけて行き、河から水を引き込んでいるみっつの水車を全て止めた。朝になって、水が回ってこないので、庄長、区長をはじめとしてトゥサ・ユルゴナスの上手で耕作をしている百姓たちが皆何事かと集まって来た。わしら三人は、自分たちの土地の準備が整っていないことを訴えて、堰と水門をつくり、田を均す人手を集めるために力を貸してくれ、と頼んだ。
「私らは自分の稼いだ分をよけて、雇人に渡しているが、あんたは手伝いに何を寄越せるんだ?」最後まで耳を傾けた者も決まってそう言って首を振った。
「庄の郷倉の蓄えを信用貸ししてくれ。」わしは言った。
「それで何人雇う?」
「百人は欲しい。」
「冗談じゃない」即座に何人もの声が返って来た。
「そんなに蓄えがあるものか。」
ここで黙ったら負けだ。
「郷倉の倉はエファレイナズにあるの全部でひとつの倉だ。」わしは腹に入る限りの力を振り絞って怒鳴った。「ここで手形をもらったら、エファレイナズじゅうで通らなきゃ嘘だ。」
「トゥサ・ユルゴナスで勝手に手形はだせん。王が発行しない限りは。」
「前はじゃあ、王が出していたんだな?」わしは喜び勇んで言った。言質はきちんととっておかないとな。「王が発行すると言われたら、皆、承知するんだな?」
わしは泥だらけのその足で城内に戻った。仲間ふたりもついて来た。誰も止めはしなかった。恐らく王の逆鱗に触れて、トゥサ・ユルゴナスの住民が二、三世帯減るだけだと踏んだのかもしれない。
王宮の門の前で、女房に付き添われた姫が毬投げをして遊んでいた。姫は、わしが父君に用事があるのだと察すると中に飛んでいって、謁見の手続きも無しに、父君その人を連れて出て来た。
「挨拶はいい。用があるなら手短に言ってくれ。」王はてきぱきと言った。
「トゥサ・ユルゴナスの河辺の地区には工事が必要です。陸では既に耕作が始まり、庄内から人員を割くのは難しく、外から人夫を雇入れねばなりません。私どもに未だ土地からの実入りは無く、彼らに報酬として払えるものは、将来の返済をお約束し、殿からお貸しいただける穀物のみでございます。」
「その工事を行えば、将来的に土地から豊かな収穫を見込めるということか。」王は尋ねた。
「もし、そうならなければ、どうする?」
「悪くて、王様に多大な損害をお掛けしたあげくお手討ちとなるか、良くて傷の大きくならないうちに、ご期待に沿えなかった負け犬として三世帯がこの事業から去ることでしょう。」
「必ず目的を完遂して返済せよ。」王は顔色ひとつ変えず、きっぱりと言った。
「それで、具体的に私に何を要求する?」
「つきましては人夫に支払う給与として郷倉の手形を発行して頂きたく存じます。」
「何人雇う?またその期間は?」
「この工事では一旬に百人雇いたく存じますが、農繫期に人手は欠かせません。蓄えが心細くても人を雇う時は雇わなくてはなりません。穀物や金子で用意できない時、郷倉の手形を使えたなら、皆助かることでしょう。」おっと、少し余分にしゃべったわい。
王は少し考えた。
「新しい型の手形をつくり、やがてはトゥサ・ユルゴナスで発行出来るようにしよう。―――発行の手続きを取る。一緒に来い。」
その頃、エファレイナズのどの郷でも穀物を余分に備えておく郷倉を備えてあった。飢饉への備えでもあったし、他に貸し出すことも出来た。倉には収穫高を記録した台帳の他に、木切れでつくった手形が用意され、穀物の貸し借りの管理に使ったり、季節雇いの報酬に配ることもあった。
タシワナから来る石灰の袋についている札とコセーナから行く穀物の札を突き合わせて、数を合わせるだろう?札を先にやって後で都合のいい郷でそれに見合う穀物を受け取るということさ。
アツセワナ、イビス、ニクマラ、そしてコタ・レイナの三郷はそれぞれに自分のところから手形を発行していた。それぞれに決められた木、形、塗料、郷の印が王宮の大蔵所に登録され、その通りに厳重に造られた。王の許可の印と郷の銘を彫った焼き印は必ず、王の管轄の鍛冶場でつくられた。各郷倉の出納係は、全ての郷の手形の見本を持っているんだ。これで、手形を持っている者は、その郷からはもちろん、他の郷倉からも決まった量の穀物を受け取ることが出来る。いずれ札が戻って来る時にはきれいに支払うことになるわけだ。
王は、驚いたことに自分で印の図案を描き、鍛冶場に出向いて鍛冶を指名した。
「人夫の給与として一旬あたり三斗の麦を支給する。百人分三十石貸し与える。時間がかかっても返せよ。」
「ほれ、これがその時つくった焼き印だ。そしてそれを押した手形がこれだ。」
バギルは隠しの中を探り、柄のついた黒い鉄の塊と、紐を通す穴のあいた薄いすべすべした茶色の小さな板切れを取り出して見せた。板にはふたつの図案が並んだ焼き印が押されていた。
「イズ・ウバールから切り出したカシの木の板にクルミの油を塗った。仲間で手分けして三百枚つくった。初手のは大きさも形も、まあ、ひいき目に見てもばらばらだったわな。それでも後でつくった庄の内輪用のと同様、何回りも使ったんだ。」
「何回りも?それに、他にも作ったの?」シアニは、バギルの隠しから他にも何か出て来ないかと目を走らせた。「それじゃ、とにかく工事はうまくいって、沼床はちゃんと田んぼになったのね。」
バギルは閉口したように両手をあげた。
「そんなに一緒くたに訊くもんじゃない。トゥサ・ユルゴナスでわしは何人もいっぺんに相手にするのがしょっちゅうだったが、あんたみたいにひとりでみっつもものを訊く者なんかいやせんかった。」
バギルはそう言ってひとつひとつ指を折った。
そうだ、田んぼは出来た。最後には河岸の三区は稲田に落ち着いた。この土地は毎年春には水と一緒に肥えた泥が入って来る。高い陸の土地は年ごとに作物を変えねばならなかったが、田では毎年倍もの米がとれた。稲つくりに慣れた者が自分から下りてきて、そうでない者と交渉し、土地を交換した。庄全体の収量はたちまち増え、郷倉の借りも二年後には返せた。
手形を発行する印は作った時のまま、わしの手にあった。一百姓でありながら領主様の権限があるのと同じだった。庄の六つの区の中で、住民はそれぞれの家を建て、暮らしを回していた。米をはじめ穀物は、租を納め、蓄えの中から売りに回せるほど十分獲れていた。作人を雇わなくては回らなかったが、報酬は十分払える。初めに作った手形が借りの返済と共にすべて戻って来た今、いよいよこれをうまく回す時だ。
雇い人の報酬は手形で払われるようになった。板数枚を渡して事足りるから楽なものだ。しかし、これでも面倒なことがあってな。郷倉の手形はどこでも使えるように、引き換える量が決まっている。一枚当たりのその年の相場がだいたい一斗だ。徒歩で仕事を移り歩く者や女子どもにはきつい重さだ。アツセワナの両替商のところで金子に変えることも出来るが手数料が上乗せになる。それで庄の中でだけ小割に使える札を作ったんだ。庄の住民にも都合が良かったんだ。殊に、米はたっぷりあるが他のものは何もない、わし等低地の百姓にはな。
開墾したとき飯場だったところには、共同で持つ納屋が出来、他に広場をいくつか設け、木陰をつくるようにスズカケやニレの木を植えた。そこでは住民が市を開いた。自分の家でつくった青物や果物、飼いならした鴨やら卵やら、岸辺の柳からとれる小枝でつくった籠を売る者もいる。また、丘の方を向いた入り口には、行商人がよくやって来たので、中に呼び込んで商売をさせた。そこに修理屋も来れば、散髪屋、家畜の仲買人も来る。庄の囲いの中で住民が取引に使うのは、穀物か小割の札だ。門の脇にはそのうち両替の小屋が作られた。
それはまるで街のようだった。小さな国のようだった。贅沢なものはなかったが、必要なものは何でもある。
五年後、わしはトゥサ・ユルゴナスの庄長になった。寄合を開き、皆で必要なものは何か話し合った。大きな郷から来た者たちは、学校と診療所のことを挙げた。もっともな問題だった。晴れて土地持ちになった者たちは収穫高を把握し、種籾をとっておき、税を払い、作人に報酬を払わなければならない。当然、読み書き算盤が出来んでは済まん。仕事の終わった夜には多少心得のある者が納屋に集まった百姓たちに勉強を教えていた。あそこではわしのような者でさえ教える立場だった。が、若くて呑み込みのいい奴らにはもっといい先生が必要だ。
庄の若夫婦に子供が出来ると、女房が産婆を務めた。あれはニクマラにいた頃、施薬師の手伝いをしていたことがある。その施薬師はヨレイルの血を引く女で、身内は皆、“知恵のある者”だという。その縁者だという夫妻を呼び寄せてもらった。薬草に通じ、骨接ぎもすれば、家畜も診ることも出来た。
庄で生まれた子供たちが大きくなり始めた頃に、子供たちに読み書きを教える先生の目途がたった。それは、王の命令で警備と奉仕の二年の役務を課された、領主の子弟たちだった。
そう、ダミル様もな。ダミル様は、わしがトゥサ・ユルゴナスにやって来るほんのちょっと前に、ちょうどアツセワナでの五年間の教育を終えられてコセーナに戻られたところだった。だが、わしが庄長に就いたその年に、王の課した義務に従い、庄にやって来た。二年間奉仕をしながら農事を学ぶためだ。
日中は他の若者たちと農作業をしたり、交代で子供の勉強を見たりした。遊んだり、体技を教えることもあったな。夜には庄の夜回り、警備を務めていた。気さくないい若者だったよ。
わしら百姓の領国にはなんの不足も無かった。
そうそう、ひとつちょっとした事件があったな。
その年、姫が父君に連れられて庄を見に来られた。わしが案内して市や集会所、倉などを見、上の方から順に農地や用水路のしかけを見て回り、わしの家で休憩した。最後に河辺に作られた水車を見たいと言われたので、生垣の裏から河の水車までずっと見晴らせる田の際までお連れした。
姫は、水を張った田が鏡のようだと言って喜んでいた。女房は「苗を植えてみましょうか」と言ってほんの一握り手渡した。なに、畔の脇にちょっと挿すだけだ。それでも足を泥に入れるのをためらっていた。土になどほとんど触ったことがなかったんだ、無理もない。
その時、田の向こうの方に、泥を馬鍬で均している若いもんを見ていたシギル様が、いきなり手を上げ、そちらを示して言ったんだ。
「あそこにいるのが、お前の将来の伴侶だ。よく見ておけ」
ダミル様だった。ダミル様は伯父上に気が付くとにこやかに礼をし、姫には手を振って、「よう!」と言った。姫は目を丸くして黙り込み、しゃがんで苗を水の中に置くと、すくっと立つなり回れ右をして、とことこと道を駆けあがって行ってしまわれた。わしの家なんかは素通りして、そのまままっすぐ庄の出口の方へな!
「その時母様はいくつ?」
「十二、いや十三かな」
「父様は?」
「ちょうど二十歳だな。」
「なんて馬鹿なんでしょう!」シアニは厳しく言った。
バギルはうなずいた。
「まったくだ。汗まみれの泥まみれで、おまけに肌を脱いで、顔から肩から日に焼けて真っ赤という恰好だもんな。」
「どうして男の人って分からず屋なのかしら。」
バギルは肩をすくめた。
「さあな。望みをうっかり口にして運を駄目にしてしまう人間がいるものだが、シギル様がそれだ。」
いいえ。言霊がつむじを曲げたわけじゃない。自分のことを勝手に決められそうになったら、女の子だって逆らう。怒ったり、逃げたり、黙り込んだり。
十二歳。大事な数だわ。
「ハヤと姫はいつであったの?」
「同じ年の秋だ。秋は刈り取り、脱穀と春よりももっと人手もいる。季節雇いは沢山入れていた。クシガヤから来た若い者の一行にハヤがいた。ハヤは小さくて十かそこらだった。はしっこくて気が利くが、その時一番必要なのは屈強な男だったんだ。わしはハヤをアツセワナの機織り工房へ連れて行った。あの子は、そこでちょうど手仕事を習いに来ていた姫君の横の機についたのさ。」
「でも季節雇いだったんでしょう?取り入れが終わってみんなが帰る時に、ハヤは帰らなかったの?」
バギルは首を振った。
「わしの若い頃とは事情が違っていた。まだコタ・レイナでは、手形を見せさえすればそれが身元の証になって、いくばくかの仕事と引き換えに泊めてくれる家もあれば、乗せてくれる舟もあった。だが、アツセワナでは舟賃も宿代もかかる。これは金子でないと承知してもらえないし、両替にいけば給与の穀物と交換出来たが、手数料でだいぶん目減りする。そもそも、機屋に見習いに入ったばかりのハヤの給与はまかないと宿を差し引けば雀の涙ほどもない―――つまり一、二年かかっても舟、宿の金を払えないほどだったんだ。もっと悪いことに、若い娘がひとりで歩いているとさらわれかねなかった。それでもハヤは運のある方だった。他の娘たちはひと通りの技能を習うと、アツセワナの大きな家や、他の郷に仕事を求め、遠くはアタワンにまで行ってそこで雇人になった。だが、姫君は工房で技能を修められると、王宮のご自分の住まいにハヤを連れて帰り、ご自分の侍女にしたんだ。」
「ハヤのことをもっと教えてくれる?」
バギルは腕を組み、難しい顔の顎先を胸に埋めた。それから目元を緩めると、ゆっくりと思い出すように言った。
「お前さんと違って静かで大人しかったよ。だが時々、お前さん顔負けにおかしなことを喋った。そう、黒い大きな目でじっと人の顔を見た後にな。―――おかしな子だった。何かひとのことを言っていたな。田の中にいるひと、家の中のひと、井戸の中のひとの話をしていた。」
「何か人がいるのが見えていたの?」
「いや、そうでもなかった。ただ信じていた。家の中に入る時、水を汲む時、火を使う時、物を食う時、いちいちそのひとに話しかけないでは済まんらしいのだ。大切な家族に挨拶するように。」
ハヤは私よりもずっと細やかだったんだわ。モーナが見えた私よりも見えない母さんの方が花を大事にしているように。
「ハヤはそれから姫君とずっと一緒だったの?」
「一緒だった。顔を合わせたその時から、馬が合うとでもいうのか、慕うというよりも、一方がいないではひとりにも足りない、という様子だった。実際、ふたり一緒なら、ひとりの十倍も大胆だったものな。“黄金果”の時の姫には驚かされたもんだ。あんたの母親にもな。」
「サコティーは私の顔がクシガヤの女の子を思い出させると言ってこの話をしてくれただけよ。それがハヤだ、とはっきり言ったわけじゃないわ。でも、本当に―――?」
「お前さんの母親はハヤだ。小さい頃から面影があったが、大きくなったらますます似てきた。丸い顔と大きな綺麗な目がな。」
バギルは腰掛けた斜面に両手を付き、立ち上がろうとして、シアニが足元に置いている熊手に目配せをした。
「長いこと座っていたもんだ!それを返してくれ。」
「あら、私がするわよ。穴の中をさらえるの?」
シアニは熊手の歯を上にして引きずり、丘の中の通路の入り口を覗いた。記憶よりも低く狭い入り口の奥に暗闇がわだかまっている。
「違う、そうじゃない。」バギルは苛立ちながら手真似した。
「歯を上に向けるのも引きずるのも駄目だ。後は洗って片付けるだけだ。―――若い娘がそんなものを持ったら手が荒れる。」
バギルはシアニの手から熊手を取った。
「いつもおじいさんの田んぼで使っているのに。」シアニは文句を言った。「もう、鍬で起こしておかなきゃならないのよ?」
まだ、そんなことをやっているのか。バギルは呟き、コセーナに遣ってしまった男の子の名を次々と上げては首を振った。代わりに田んぼを見させる奴を探さないとな。
バギルは、午後じゅうかけて片付けた小さな庭をひとわたり眺め、南西にゆるくのびる堤に沿って下って行き、水の湧いている小さなせせらぎで熊手を洗った。シアニはその横で鎌をすすいだ。
バギルは小川の下っていく方へ顎をしゃくった。
「あんたは夕べ、ここを河の方に向かって歩いたんだろう。朝はやく土手に足跡を見つけた時にはぎょっとしたよ。河に落ちたのかと思ってな。夜になるとあの辺は水音が静かなくせに深くて危ない。」
「サコティーがそう言っていた。舟が突然現れたのでびっくりしたわ。」
「クシュは緑郷の君が頼めば時々あそこに舟をつけていた。」
「ヒルメイのラシース・ハルイーのこと?」
「そうだ。クシュから聞いたろう。昔なじみらしいからな。」
「ここにいたのでしょう?」
「そうだ。」
バギルはきれいになった熊手と鎌を持ち、ニレの林の方に戻りながら言った。
「あの堤の間の水辺はコセーナが包囲された時の最後の出入口になった。―――だが、初めは誰もそんなことは知らなかったんだ。丘の裏側は先々代から長いこと手が入っていなかったということだからな。ロサルナートは二、三年でここを手入れした。秘かに自分の庭もこしらえた。結構、結構!つまるところ後で嵐から逃れてきた者の隠れ家にもなったんだからな。」
バギルは手に道具を下げたまま立ち止まり、何か神聖なものに対するかのように、ほの白く林立する若木を遠くから眺めた。
「母様とラシースとは結婚したの?」
「イーマ流にな」
シジュウカラが細い金色の枯れ草をくわえ、まだらな影と灰白色の幹の間を横切っていった。
「身ひとつに、取りどころは勤勉さだけ」
「それだけでは足りない?」
「わしらのような小百姓ならともかく、領主のその上におられる王の婿としてはな。」
バギルは言い訳を誰かに聞かれまいとするかのように声を落とした。
「“黄金果の競技”が思いもかけない番狂わせに終わった後も、王も、他の多くの男たちも姫がダミル様と結ばれることを望んでいた。王は二年もの間、折に触れて姫の気持ちを尋ね、説きつけようとした。
が、姫は姫の決めた方の妻だ。―――長い年月の間にわしにもようやくそれがわかった。」
バギルはイスタナウトの杜に、人にするように軽くうなずきかけて、南の道の曲がり角へと丘に沿って帰り始めた。シアニは素早く追い付いて並んだ。
「結婚式を見たの?きれいだった?母様は―――ふたりは」
老人は振り返り、目を細めて、小柄な娘の肩へとうねる髪の艶、健やかな澄んだ目と丸い頬を見た。
「そりゃあな。生きているものはそれだけで美しいものだ。まして若い者ふたりが睦まじければな。」
バギルは、丘の上の、濃色の固い葉と淡い色の新葉とに半々に覆われ、館の屋根の端が見えるか見えないかの辺りを手で指した。
「東棟の縁のところに大きな木蓮があるだろう。もう明日にも咲きそうな。あの木の下で婚礼の式を挙げたんだ。あの木の後ろからふたりして、それぞれ左と右にぐるっと回って出会ったところで男の右手と女の左手を合わせ、相手を祝福するんだ。それで終いさ。立ち会ったのはシギル様とダミル様、トゥサカ様、わしら夫婦だ。王女の祝言がそれで終いだなんて誰が信じるね?」
目尻の細かな皺の陰にうっすらと濡れた光が明滅した。
「今日のような夕暮れどきだった。白い木蓮はちょうど花盛りだった。木を巡ってお互いを見た時のふたりの顔は―――ああ、祝言などこれで十分だ、と思ったものだ。」
後にしてきた森から呼び交わす鳴き声が、風音に混じって聞こえた。
それから、どこで暮らしたの?ここで?それとも遠いアツセワナのお城で?
そのまま尋ねようとして、シアニは、バギルがいつしかむっつりと口を閉ざしてしまったのに気付いた。
「どうしたの?」
「祝言の後、王は帰り、姫も短い逗留の後でアツセワナに帰った。王位を継ぐ儀式のためだ。だが、その日は来なかった。」
バギルは質問を振り切ろうとするかのように足を速めかけたが、諦めて不機嫌に言い足した。
「あんたに少し話し過ぎた。」
「誰にも言わないわ。あんた自身の話以外は。」
シアニは、驚きつつ、言葉を仕舞った胸に両手を重ねて請け合った。
「もうひとつだけ。ハヤのことよ。ハヤは誰と結婚したの?クシガヤの人ではなかったんでしょう?」
シアニは、自分の赤みの強い髪とヨレイルよりも白い肌を思い、クシュのサコティーの黒いまっすぐな髪と褐色に日焼けした精悍な風貌を思い返し、少し残念に思いながら描いた父の面影を打ち消した。
「知らん―――アツセワナの男か、北の―――どうしてわしが知るね?」
バギルは噛みつくように言ったが、唸り声まじりのため息をつくと、振り返り、後にしてきた小さな秘密の庭と奥に横たわる堤の方に目をやった。
「内乱があったんだ。ハヤは姫に付き従ってここに難を逃れて来た―――ハヤはあの岸に下りた時、クシガヤの民に戻る途を捨てたんだ。クシュは一緒に来いと言ったんだが。身重な姫が心配だったんだろう。」
そしてシアニに目を戻すと、自分が逃げるのを諦めるかわりに、熊手の頭を地において仁王立ちになり、行け、というように顎でしゃくった。
「それをちょうだい、片付けておくから。」
シアニはやんわりと両手に農具をつかんで取り上げるとさっさとまっすぐに道の方へと歩いて行った。
幸せな時はわずかの間しか続かなかった。もっともなことだ。その結果としてロサリスはこの奇妙な家庭の女主人なのだから。
“黄金果”の後、王女とヒルメイのラシースにはさらにいくつもの試練があった。結ばれた後にも。内乱が、噴火が……。その間に王女にとって悲しい別れがあった。シアニの知らない人々がそれだ。父王との、夫との、生まれた息子との、ハヤとの。
それでも死別だったとは限らないわ。
シアニはちらりと後ろを振り返ってバギルが見ているのを確かめると、大人しく道の上へと上がり、小走りに丘の上に登る方へと駆けて行った。
その晩は不思議なほど、すんなりと物事が進んだ。午後じゅうバギルの妻に遠足に連れ出されていた子供たちは、帰って来るとシアニのところに寄って来て次々と戦利品を見せた。しおれたつくしんぼやフキノトウ、カタツムリの殻だの、白く晒され、きれいに残った葉脈だの。
シアニは子供たちの手を洗ってやり、姉妹たちに混じって食事の支度を手伝い、食べさせた。いつもよりも大人しい子供たちの話し声と、相手をする大人の短い応えの他には静かな食事だった。
次々と居眠りをはじめる子をゆすってあやしながら、時折、バギルとロサリスの目が自分の上を通り過ぎるのを感じ、シアニはそれとなく伸びをするふりをしながらそちらを見た。
バギルのくるっとそっぽを向く横顔、宙を浮く眼差しに、じりじりと笑いの虫が動くのを抑えながら、シアニはロサリスの獣のように静かで、風のまにまに振れる柳のような眼差しを捕まえる事ができなかった。
森の木霊みたいに、掴まえようとすると、それは一瞬遅くて木の枝なのだ。シアニはぼんやりと空を掴み、ふと目を上げた。ロサリスはちょっと微笑み、傍らで舟を漕いでいる子を抱えて揺すぶった。
食事が終わるとシアニは片付け、順におやすみなさいを言いに子供たちをロサリスのところに連れてゆき、着換えを手伝って寝かしつけた。
ロサリスは、疲れているから夜なべの仕事をせずに寝るように、と老夫妻と娘たちを促した。 シアニは娘たちに混じって寝室に行った。
姉妹たちが声をひそめて就寝前のお喋りをするのを、シアニは丸くなって眠ったふうを装いながら、部屋が静まるのを待った。
「今日の昼過ぎ、コセーナでちょっと男の人たちの集会があったのよ。」
シアニが背を向けている向こう側の寝台の端から、中では年上の娘がもの思わし気に囁いた。日中コセーナの台所に働きに行っている娘だ。七年前の襲撃を誰よりも覚えており、そのためか日常の変化に鋭敏だった。
「また見回りを厳しくし、境界の監視を増やすと言っていた。それに去年アツセワナからやって来た人たちが後で残されていたわ。殿様と、昨日やって来たというあのちょっと怖そうな人の前に。」
怖そうな人か。シアニは口元を上掛けの陰に埋めた。
「見たことの無い顔だちだわ。色々訊いていた。―――殿様とは古い知り合いみたいだけど。」
「エフトプからの伝言を持って来たんでしょう。また、三郷の話し合いがあるんじゃないかしら。台所じゃもう噂になっているわ。宴会の準備があるから。」
反対側の端から興奮した声が囁き返した。
「宴会よりももっと先の心配があるのだと思うわ。」年上の娘が言った。「畑の植え付けまで見直すって言ってたもの。」
「あら、また赤稗や蕎麦ばかり増えるの?もっと青物を作りたいわ。それに鳥や羊を増やせばいいのに。」不満げな呻きが答え、
「あの子、寝たの?」ちょっと間があって言い足した。
シアニのすぐ横の娘が答えた。
「しばらく前まで目がぱちぱちしていたけど。」
シアニは目蓋が震えそうになるのをこらえ、二、三度長い息を吐いた。
「寝てるわ。」顔のすぐ前で囁き声が答えた。
「聞いた?あの子、エフトプに出されるかもしれないんだって。」
「養女になるんだってね。」隣で囁き声が返る。「赤い服にも道理があるわけよね。」
「もう何日も前からお年寄りたちが話しているわよ。殿様の気持ちは秘蔵っ子かもしれないけど、生まれは私たちと変わらないでしょう。この縁組に力があるのか、って。」
「もう、やめて寝なさいよ。」年かさの娘がたしなめた。
娘たちは口々に小声で謝り、一斉に夜具に潜った。
シアニはひときわ長い息を吐き、静まった寝室が本物の眠りの静寂に包まれるまでじっと待った。百を十回も数えてから、そっと上掛けをずらさないように持ち上げて寝返りをうち、反対側から滑り降りた。
隅の棚に行って手探りで自分の物入れを掴み、寝間着の上から寒くないようにマントを羽織り、外の露台に通じる両開きの戸の片側を細く押し開けて、外に抜け出た。
エフトプに養女に行く?初耳だわ!
戸をぴたりと閉めて、シアニは大きく息をついた。
それが何時かによっては急がなければ、ね。行き先がどこだろうとあまり関係の無いことだけど、ひょっとして道中の足が幾分、助かるかもしれない。
シアニは露台の上にあぐらをかいて座り、袋を前においた。月がもう少し雲から出ないと光が足りない。藍色の闇に包まれた庭の正面には姿の良い木蓮の影が枝を広げ、咲き初めた白い花が浮かんでいる。雲のようにぼんやりした輪郭が、やがて側方からこちらの方へとくっきりとした線と色を浮き出してきた。シアニはもうすでに知っている袋の中身をひとつひとつ取り出して、前に並べた。
櫛、鋏、針と糸、火打石と火打ち金、黒曜石のかけら。布で作った小袋がふたつみっつ。
「鋏は本当は研いだ方がいいのかしら。」
シアニは鋏を弱い月の光にかざしてみた。黒曜石でも研げるかもしれない。ひょっとしたら鏡の方を台無しにするかもしれないけれど。
母さんの鏡をもう覗けないのは残念だわ。もう、どこか似ているところはないかしらと探す必要はないけれど、映る顔からハヤはどんな娘だったのか、父さんはどんな人だったのか想像してみたかったな。
再び雲が月を覆い、並べた点検中の品を暗くする。右の方から薄く明かりが漏れる。小部屋の窓だ。ロサリスがまだ起きている。
シアニはひとつひとつまた袋に戻しながら考えた。是非、小刀が必要だわ。そして、水筒。着替えや食べ物や、他の全てのものを入れる大きな袋。頭陀袋か、背嚢がいいわ。
明日、必要なものがどこかで手に入らないか探すわ。そうそう、バギルが何か大事なことを言わなかったっけ―――畑を見られる者をみつけなくては―――まったくその通りだわ。そして馬の面倒もみられる者を。
物入れ袋を掴んで立ち上がり、シアニは小部屋から漏れる光を見た。もう相当の時間が経っている。
きっとまた、あの長持ちを開けているんだわ。窓辺に明かりを置いて。
部屋の中にはきっと樟脳の香が満ちている。ほとんど十五年も閉じ込められた箱の中から解放されて。その中に紛れて、顔を近づければ分かるものかしら、絹の香はどんな匂いなのか?
つと裸足の足が地面へと下りかけ、そちらに引き寄せられそうになるのを、シアニは押さえて自分に言い聞かせた。
いま母さんと、母さんが織ったあの布をもう一度見る勇気がある?それを覗き見る勇気がある?
足の下で張り付いた草の葉の冷たさと同時に、ぱちっと鞘口の閉まる微かな音が耳を打ち、シアニは立ち止まった。もう、灯が切り出した窓辺はすぐ目の前だ。
「今度こそ―――最後にしなければ」
シアニは思わず後ずさり、火影のゆらぐ窓辺を見つめた。母の声とは信じられない、低い押し殺した囁きだった。
続いて衣類を取り出し、広げる気配。シアニは息を詰めた。撫でつける軽い衣擦れ、その中に埋もれる切羽詰まった囁き、「どうか勇気を」そして畳みなおす気配。
さらにもうひとつ、何か小さな金属が滑って落ちる音がした。探った手が床の上を抑え、拾い上げる。
ややあって、はっと息がもれる。
「これはどうしようかしら?」打って変わって子供のように戸惑った声が囁く。
「どうする?」
シアニはそっと壁を伝って戻り、露台の上に膝で這い上がると、そこに置いてあった物入れを掴んで胸に抱え、戸を探って引き開けるとその内側へ滑り込んだ。
深更の眠りに満たされた生あたたかい室内に、外の冷気をまといつけた身体が、異端者のようにたじろぐ。マントを脱いで物入れを内に包み込み、棚に置くと、寝台の端から夜具の間に潜り込んだ。闇の中に目は冴え冴えとして、声音の違う言葉と物音とが、交互によみがえり、果ても無く耳の中を巡りつづけた。




