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語り箱~かたりばこ~  作者: 守屋 真倣
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第四章 水の語り 『黄金果の遊戯』2

「待て!」男は、飛び上がって影に叫んだ。自分に付き添い、助けてくれたと思った者が、探し求める金の実を持っているのを彼は知ったのだった。

 影はすとんと飲まれるように森に消えた。風の去った堤はしんと静まっている。

 男は夢から覚めたように茫然と、谷川の周を眺め、コタ・シアナに注ぐ水紋とその奥に真昼の陽射しをうけて平らかにきらめく川面を眺めた。二艘の舟が争った証は、流れる水の上に求めても無駄なことだ。

 振り返り見て男がさらに驚いたことには、地面の上に倒れていた哀れな男の姿は消えていた。そう、間違いであればどれほど良かったか!だが、そこには彼の終焉の跡だけが残されている。

 男がそこにいた谷川の上で、ナナカマドの茂みが風を内に含んで赤い葉を震わせた。風は沢沿いに奥へと抜けた。沢のこちら側は少し上に行くと大きく傾斜して丘陵へと連なる。丘陵より上は競技者の立ち入りを許されてはいない。競技が体裁どおりに行われているものならば、だが。競技者でない者が場に出没し、黄金果を持ち去るような遊戯で、境界にどれほどの意味がある?相手は境界の向こうの人間かも知れない。

 沢の向こうは広い緩やかな森が広がっている。イーマ達が“ただむき平”と呼びならわしているこの地はイナ・サラミアスの衣の一端、袖口であり、黄金果の競技の場では唯ひとつのなだらかな森であった。だが、この森での探索が他の場よりも容易であると言えるだろうか?いま、この森の主たるイスタナウトは緑の衣を黄金へと変え、サラミアの錦繡を織りなす種々の供の木々は橙、茜、紅と色を差し、陰影の所在すら紛らわせている。これほどの金の輝きの中で、ただひとつの黄金が見出せようか?

 困難と見えるなら、そこに試みて良い道があるということだな、男は独り言ちた。そして向こう岸の森へと沢を渡る途を探り始めた。黄金果はひとりの人間と共にあり、共に動いている。


 ラシースは、クシュのサコティーが熟達の舟頭との水上の一戦を決める前に、丘に沿って詰めていた競技の見張りふたりが彼の求めに応じて下りてきたのを見ていた。彼は殺された男を彼らに任せた。仲間に説明するわけにも姿を見られるわけにもいかない。彼は黄金果を手にしている。しかし獲得を決定する決勝点がどこに現れるかは知らない。

 ラシースは胸の前に掛けた金の実を手に取り、目を落とした。血に汚れた実だ。自分が身に着けている間にさらにもうひとりの命を奪った。何故、自分はこんなものに手を出したのだろうか?何故、ここで手放せないのだろうか?

 前にも同じ疑問を覚えた。それでも拾ってしまった。―――コセーナのダミルが傍にいたからだ。彼に取られたくなかったからだ。彼がこの実をせせらぎで拾い上げたとしよう―――やはり殺し合いは起きたに違いない。それでも、彼なら今の自分ほど醜い存在にはならないのではないか。

 ラシースは王女の灰色の瞳をちらと思い出した。あれがどんな感情を浮かべるかよりも明確な報酬、権威と家、豊かな耕地を見ているからこそ、彼らは争っているのだ。そしてそれは彼らには正しいことだ。自分は違う。

 ラシースは首から金の実を外し、右手に持つと力いっぱい森の真ん中めがけて放った。金の実は鳥のようにまっすぐに茜の火影をまとった森の中を飛んでいった。

 森を吹き分ける風がイスタナウトを騒がせ、新たにもぎ取られた木の葉がはたはたと彼の髪の上を叩いた。彼は振り返った。木立ちの向こうにはコタ・シアナの源流があり、ベレ・サオの滝の初めの一筋があり、彼がそこから黄金果めがけて矢を放ったイナ・サラミアスの目元がある。彼は木立ちを透かし見るように瀑布の方を向いた。雲の流れに従い、光は移行し彼の頬に触れた。

 彼の前を乙女は横切っていった。長い髪はいまにも風にたなびいて触れるかと思え、素足の甲にかかる白衣は、彼の靴の上を霞のようにひるがえった。肩から袈裟がけにしたあかがね色の錦繡は母の機に掛かっていたものだ。裾の方がわずかにまだ仕上がっていない。乙女が襞の間からゆっくり差し上げた手には、朱鳥の薬草が零れ落ちるばかりに緋色の花房を輝かせている。こちらを見やる非情な目が笑みを含んだ問いを投げかける。

 お前の望む報酬はどちらだ?朱鳥の草か、私に触れることか―――。

 朱鳥の花がふらりとうなだれる。機の上に伏して泣く母の姿が重なる。起き上がって杼を取る手は白く細く、しかめた眉根と言葉の絶えた口元には死相が兆している。醜い―――ラシースは後ずさった。醜さとは縁のないものと思っていた母に、静かな破壊が訪れようとしている。

 杼が経糸の間を通り、刀杼が打つ。朱鳥の花弁が一枚散る。その色が乙女が掛けた衣の未完の裾へと継ぎ足される。その目が再度問う。

 いましばらくの母の命か、私の夫として不朽の命への死の門をくぐるか。

 手を上げかけてラシースは拳を握りしめた。どちらを選ぼうにも、黄金果は彼の手元にはない。捨ててしまった。

 乙女は顔をそむけた。その手の握るひともとの花の中で母は身をおこし、清らかな目で彼を見返した。その目は乙女の目と全く同じものだった。たおやかな手が花弁の最後のひとひらを摘み取り、彼の見ているその場で花は朽ち果てた。

 幻は消え、射すくめるようなベレ・サオの高みからの眼差しもその気配を消した。彼は森の中でひとり置かれた。丘陵から断続的に鳥の呼び交わす声が聞こえる。東から南の方へと。一日は半ば過ぎた。そしてその間に彼は全てを失ってしまったのだ。


 コセーナのダミルは、谷川へ注ぐ沢をふたつ渡り終えたところで、森を弧を描いて横切って行く金色のものに気付いた。鳥よりも速く、木の葉よりも硬く輝いて、それは螺旋を描きながら地面へと落ちて行った。彼は駆け寄って行き、拾い上げた。金の実だ。間違いない。彼が大鷲の翼の下で一瞬だけ拾い上げたものだ。あの時片羽根がもげてしまったのだ。あの谷から姿の見えぬ者がずっと付いて来ていた。崖のところでは助けてくれたはずだ。それにしても何故これを捨てたのだろう?よく耳にする土地の者の悪戯だろうか?

 残った羽根の付け根に首に下げるための紐が結んである。念の入ったことをする。見ればただの紐ではない。小さな石の輪を通している。金の脈が入った緑の石。これは大事なものではないのか?

 どうすべきかはわかる。これを懐に入れ、河畔へ下りる口を見つけて日が高いうちに渡るのだ。しかし―――玉石を眺めているうちに男の心に疑念とも好奇心ともつかないものが湧いて来た。

 アガムンがここより上で舟に乗ることになっていた以上、この先の川下の森は奴の味方にとって競技場の範疇ではなかったに違いない。ここではおれが危ない目に遭うことはなかろう。それにこれを捨てた奴は少なくともアガムンが嫌いなようだし。アガムンが空手で泳いで戻ったのを見て満足しておれにくれてもいいと思ったのかな?土地の者で姿を見られては面倒だからわざわざ離れたところから投げたんだ―――。

 いや、そう容易く信用してもいいものか。家の者が死んだのだぞ。しばらくの間に亡骸も消えた。土地の者なら何かを見聞きしたに違いない。そいつが今おれを見ているなら何とかおびき出して話をさせたいものだ。

 コセーナの男は正面を見た。ちょうど目印にはほどよいナラの大木がある。辺りを警戒する素振りでゆっくり身をかがめた。厚く積もった朽ち葉の間に小さいながらも黄色い艶やかな葉をつけたカエデの幼木が三本。男は、カエデがなす三角形の中央に、懐から出した拳を素早く突っ込んだ。餌は大きいほど面白い。男は落ち葉の中から空の手をひろげてゆっくり抜き取った。よく見ていろ。そして悩むがいい。埋めたのが何なのか。

「さあ、出て来い」

 男は呟いた。そしてすたすたと南を指すふりをして歩き出した。

 ナラの梢がひとつふたつ樹冠の峰を越して見えるところまで離れたのち、コセーナの男は、素早く低木の藪の脇を回って引き返してきた。どこもかしこも同じに見えるイスタナウトの森の中では自分自身が迷ってしまう。それに囮からあまり離れるのは得策ではない。彼はナラの木を見張れる藪陰に腰を下ろした。

 金の実をおれにくれるつもりだったなら埋めたのを知るとびっくりするぞ。それも石の飾りだけを持って行ったと知ったら。姿を見られて都合が悪いならこれがおれの手に渡ったのも後悔するはずだ。ただ、遊ぶのに飽きて捨てただけなら戻ってこないかもしれないな。

 空にまだらにかかった雲が太陽を隠し、一瞬にして森をひんやりと赤黒い影に変えた。何かが男の後ろから近寄っている。コセーナの男は立ち、ナラから少し遠巻きに輪を描くように歩いた。こいつと連れになってそこそこ経つ。どうやら近くにいるかいないかくらいはおれにも分かるようになってきたようだ。彼の足音にほとんどぴったりにのせて、枝葉の擦れる音が伝わる。埋めたものには用心して近寄らず、おれのすることは気になって寄って来たというわけか。

 彼は振り返った。まったくうまく隠れる。だが、近くにいるのは分かっている。その太い幹の裏だろう。それに背を向け、気付かないふりをして少し離れてそれから―――。

 男が振り返ると何かが木の右側から飛び出して来た。そら来た!踏み出した足元にふわりと落ちたのは、葉をいっぱいにつけた太い木の枝だった。枯れて灰色になった葉はがさがさと賑やかな音をたて、面食らって見下ろす男の左腕を滑るように忍び寄った何者かがねじり上げた。攻撃に驚きながらも男は、背後に回った者を見てやろうと、力に逆らわずにぐるりと足場を変えながら身体を回した。均衡を失い後ろに倒れながらも、とっさに身を引く相手の腕を捕まえようとすると、手はするりと抜け、枝の跳ねる音とともに、仰向けに倒れた男の目の前に跳ね戻ったシャラの細枝がしなやかに揺れた。

「まったく!」

 男は起き上がりながらいまいましげに言った。

「遊んで欲しいだけなら別の折にしてくれ。何も教えてくれる気がないならおれは帰るだけだ。」

 しんと静止した森を見回し、男は消えた者を探した。いつの間にかナラの裏側に回って来ている。思いがけず遠くに地の上を動く影が見えた。そして葉を散らす微かな音。金の実を埋めた辺りだ。やはり来たか、だが待てよ―――男は左肘を動かしてみた。こいつは思ったより悪い奴だったかもしれない―――。

「しまった、取られる。」

 男はナラの大木の下に駆け戻った。地面は平らで、一見動いた様子は無い。だが、金の実を身から離しては駄目だ。埋めた場所の見当をつけようとして彼はまごついた。カエデの幼木はたくさんある。どれも似たような大きさだ。

 男は慌てながら枯葉の中を探した。よく見ると濡れた朽葉が下から盛り上がっている。小さな三本のカエデの間だ。やはり、取られたのだ。

 地に投げかけられたナラの枝の影が少しずつ彼の背の上に動いて来た。迫り出した太い枝元から何かが跳んでふるふると枝葉を震わせ、彼の背に躍りかかった。

 前のめりに手をついた彼の背に相手の膝と足がとまり、手が肩に触れた。

 こいつ、実を取ったくせに。もう容赦しないぞ。男は手を捕まえて手繰り、相手を逆さに背から落とした。たちまち落とした地面から両眼めがけて鋭い指先が飛んで来、彼はわっとのけぞって手を離した。横に転がって逃れた相手は遠くへは行かずに傍らでじっと伺っているようだ。

「何をするんだ!」

 涙のにじむ目を押さえながら男は罵った。

「放り出すかと思えば、また取りやがって。この上何の用があるんだ。」

 森はしんと静まっている。まだそこにいるのか。

「そいつは取り返すからな。それともお前の飾り玉を王の所に突き出すか。」

 えっ、という微かな短い息が木々の間から漏れた。しかしそれきり、怪しい者の気配は宙に消え去ってしまった。

 コセーナの男は隠しを叩いて確かめた。この石は思ったよりも大事なものだったらしいな。おれも金の実の方を埋めるなんて馬鹿なことをしたもんだ。交換に応じるなら、お互いにこれ以上の詮索は無しにしてもいい。

 あたかもその思いを聞いたかのように、不意に小枝を折る音が高く響いた。コセーナの男は振り返った。彼の後ろの、かなり離れた枯れた二本の大木の間で金色がちらと光った。しばらくの間によく動いたものだな!怪しんで見つめるその前で、今度ははっきりと人の手がそれを振ってみせた。男は用心しながら近寄った。

 二本の古木は、幅の広い小川の土手の脇にある。互いに根を絡ませあって高い塚をつくり、その後で枯れ朽ちたところに水が土を流し、深い穴をつくっているのを、後で繁った灌木が覆い隠していた。その上に金の実が載っている。

 玉飾りを返してやろうか。いや、金の実を取り返してからだ。コセーナの男は藪に近づいた。朽ちて透けた藪の株元に背を丸くして潜む影があった。それは下から覆面をした顔をのぞかせた。朽葉を透かして射しこんだ光が薄い色の目をきらりと光らせた。金の実を持った手がするすると引っ込んでゆく。

 コセーナの男は藪に飛び込んだ。藪のすぐ裏は古木の根が枠取った深い穴で蔦が幕をつくっている。男はそこにまろび込むついでに曲者の首を両手に抱えて道連れにした。

 さんざんな目に遭わされたという怒りが彼の有り余る力を情け容赦のないものにした。自分が上になったを幸いに襟首をつかんで押さえつけると顎を殴りつけた。金の実が手からぽろりと落ちた。

 曲者は実には構わなかった。その手をすぐに腰の短刀にやり、抜き放った。コセーナの男はすんでのところで離れ、狭い穴の中で相手がやみくもに振り回す前に匕首をはたき落とした。それが相手の足を少し傷つけたらしい。呻き声は凶暴な怒りを帯び、その両手が彼の喉を締め上げようとした。恐るべき力、予想を超える手と腕の厚み。男はその腕にむしゃぶりつきながら膝で相手の下腹を蹴り上げた。ぐっという呻きが相手の痛手を知らせた。彼は相手の蓬髪を捕らえ、朽ちた根の壁に叩きつけた。曲者は彼に身を持たせて気を失った。彼をよろめかせるほどの重さがのしかかる中、とろとろと生温かい血が肩に流れてきた。コセーナの男はその身体を押しのけて身を起こした。狭い穴の中で正体の無い身体はぐにゃりと根に支えられて起きている。コセーナの男は身震いをしてそそくさと金の実を拾うと、穴から這い出した。

 雲の過ぎ去った空のもとに出ると、男の胸に後悔と疑問が頭をもたげた。おれはやりすぎはしなかったか?あいつはおれを助けてくれたのじゃなかったのか。だが、穴の中でどうだったろう!おれを殺そうとしたじゃないか。

 男は隠しから玉石のついた紐を引っ張り出して眺めた。どうもそぐわない。あの粗暴な振る舞いと体躯、音もなくしなやかな動きとが同じ者だとは。それとも他にもうひとりいるのかな。男は首を振り、再びそれを隠しに仕舞った。

 これを見た時に、おれは心のどこかで女のものかもしれないと思ったのだな。それでつい気が緩んで油断をしたのだ。この石ははからずもおれ自身があいつに言ったように、競技の間に起こった事柄の報告とともに王の御前に提出するのが良いのだろう。男は足早にそこを離れた。

 唯一の競争相手は競技を放棄した。黄金果は彼の懐に収まった。ここでの目的を終え、コセーナのダミルは川を渡り決勝点の丘に向かう手立てを探った。

 この平の森の中は歩くに心地よいが、いずれ川へと下りねばならない。アガムンが舟に乗った地点まで戻るのは気が進まない。が、土地は少し高く上っていく。河畔に沿った崖は険しく高くなっていったはずだ。そしてそのまま行けば平はいずれ長手の尾根の先に行き当たり、そこから多くの水脈を得て、源流に開いた三つ目の広い谷に出るという。その谷はどのくらい険しく、どれほど水があるのだろう―――。そしてその先には“掌”。ベレ・サオの女神の目が真っ直ぐ見晴らす台地は、突き出した手先でコタ・シアナを北へと押しやり、その周の岩壁は高く険しく、直下の流れは速いとか。

 この先の谷を試してみてもいいな。ただ、手間取った時のために平らなところは早く行った方がいい。

 男は太陽を南に見て足を速めた。いちめんに散り敷く朽葉はそこここに走る浅く細い小川の水を吸い、踏み音を静かにする。不思議なくらい静かだ。不思議と言えば、ずっと前から遠くで鳥が鳴いているな。

おかしなものだ。違う鳥が同じ順で鳴くとは。男は走りだし、自分の甘さに笑い、次に腹を立てた。またしても誰かが自分の傍について来ているのだ。

 それは風とまがう軽い音だった。しかし、風が彼に続いて止まり、惑うだろうか。まだついて来ていたのか。しつこい奴め!彼は癇癪を起こした。

「卑怯者め、姿を見せたらどうなんだ。」

 男は立ち止まって怒鳴った。ふた抱えもある堂々たる古木があたりを占めているところ。ここは藪や若木が少なく見通しがきく。これで終いだ。おれがここを動かなければ相手も動けまい。

「やい、そこにいる奴。御免も頂戴も無しのだんまりか?二つの子でも物が欲しけりゃ手ぐらい出すぜ。お前は葉っぱばかり食ってる小虫だよな。籠で大事に飼われているイナ・サラミアスの虫さまだよ。絹のおくるみでお()りつき。だけど風呂は鍋なんだぜ。」

 石礫くらいは飛んでくるかもしれんな。男はえくぼのある口許を歪めた。通じないのか辛抱強いのか。 

「何故ってお前のおふくろの女神さんはそれでお前を茹でるんだ。苔むすくらいな年寄りなんだぜ、美人だなんてそりゃ嘘だ。繭をはいでのばして皺くちゃ顔の上に貼り、糸を引っ張りまばらな髪に継ぎ足して、婆あ顔に化粧するのさ。おまけに蛹を食っちまう。」

「黙れ」

 静かながら怒りに燃えた声が応えた。男が振り向くと、立ち並ぶ銀灰色の幹の間からひとつの影が現れた。

「母を侮辱したな。」

 コセーナの男は、相手が姿を見せたことで少し怒りを収めた。これが付きまとって来た者か。おや、さっきおれがやっつけた奴は誰だったのだろう?随分と様子が違う。

 現れた者は、背はあるがすらりとして、青みを帯びるほどの黒髪も琥珀色の肌も滑らかだ。見るところ随分若い。木漏れ日を受ける泉のように、黒い瞳が怒りを湛えている。

 コタ・シアナの舟頭はこの若者を見ていたのか。若者がまとっているのは繊細な色合いの紬の服だ。彼の前につかつかと歩み寄って来るとほのかに絹が香る。

緑郷の子(ロサルナシル)

 隙の無い注視を続けながらも男は横柄な口ぶりを引っ込め、西の流浪の民がイーマを指して言う呼び名で声をかけた。

「誤解があったなら謝りもしよう。だが、どういうわけで私の邪魔をするのか。」

 ラシースは首を振った。

「それを賭けて勝負をしたい。」

「この金の実が欲しいのか?」

 若者はうなずいた。

「よし」

 コセーナのダミルは面白がって言った。イーマが黄金果を欲しがる理由は知らないが、正々堂々の勝負なら異存はない。彼は懐から金の実を取り出し、あたりで最も大きなイスタナウトの幹の、赤い蔦をまとったその葉の間に置いた。

「ここにちょうどサラミアがいるとしよう。この樹の前で堂々と戦おう。万一おれが負けたら誓って黄金果はお前に渡してやる。勝負がつくまでは触れてはならんのだぞ。」

「いいだろう。」

 若者はその樹に目をやり、重ねて戦慄を押し殺すようにある一点を見返した。そして男を振り返り、言った。

「そこにかの女(タナ)がいるのが見えるか?」

「いいや」

 コセーナのダミルは即座に答えた。

「心の目だろうが、修辞法だろうがおれには見えん。」

 若者は、際立って枝ぶりの見事なその樹から顔をそむけて言った。

「見ないように用心するんだな。」

「王女のための勝負にどうして他の女の顔なんか見るものか。」

 向き直り、構えの姿勢を取りながらコセーナのダミルは言った。彼に向き合いながら若者の目が微笑むように細まった。

 コセーナの男はふと相手を見て、上げていた両の拳をゆるめた。コセーナでは拳骨での殴り合いが普通だが、拳の握り方も知らない者をそのまま相手にはできない。

「規則をつくらないか。」彼は、今かと待ち構える若者に声をかけた。「肩を地につけた方が負けにするとか。」

「三度だ。」若者は嫌々言った。「三度であんたは負けだ。こちらは命のあるかぎりは」

「馬鹿な。」コセーナのダミルはむかっ腹をたてて言い返した。「三度めでおれは帰る。その後は知るか。」

 ふたりは互いに向かい合い、相手の様子を見ながらじりじりと左右に弧を描いた。

 さっとコセーナの男がわずかに先んじて突き出した右の拳の下をかいくぐり、イーマの若者は右手でその肘を捉え、ひねり返そうとして、とっさに目標を変え、相手の腰に横から組み付いた。

 コセーナの男はちょっとよろけたもののしっかりと踏みとまり、上から若者の両脇を捉え上げ、あっという間にひねり倒して両肩を地につけた。彼は軽やかに立って機嫌よく言った。

「そら一回。立てよ、待ってやる。」

 若者は無言で立ち、前よりも低く構えた。コセーナの男はちょっと眉をひそめ、怪我をした額と右の腕を若者に見せた。

「本気で欲しがれ。―――こんなものはかすり傷さ。遠慮するな。」

 若者は男を見返し、枝の上の小鳥のように小刻みに左右に跳んだ。男の左を狙って手を出し、組みつこうとする手を払い、横に交わす。

「小賢しい」男は苛立った。「右を狙え」

「あの鷲は私が呼んだ」

「なに」

 若者は男の左肘をつかみ、胸元を捉えその下に肩を滑り込ませて背負い上げようとした。男は抵抗して後ろに引き戻し、すかさず身体をぶつけて押し倒した。

「二回」男は怪我をした手で若者の頬を打った。

「鷲をけしかけたのがお前だというならこれがそのお礼だ。ついでに三度目を試す前に謎に答えろ。おれはナラの木の下に何を埋めた?」

「なにを言ってる」若者は男の手を引きはがそうとしながら叫んだ。

「お前の仲間の躯、母の護符、何だって構うものか。黄金果でさえなければ」

「あれを取ったのはお前ではなかったんだな。」

 コセーナの男は手を緩めてやった。若者は跳ね起きるなり、男の右腕を傷の上から力いっぱいつかんだ。男は叫び声を上げて左拳を固め殴りかかった。若者はすんでのところで左にかわし、逆に相手を転がして押さえこみ、両手で口と鼻をふさいで深々と枯葉の中に押し付けた。

「一回」一旦手を離し、再び顔を押し付ける。「二回!」そして、男を離して後ろに飛びのいた。

「卑怯だぞ。」コセーナの男は足をばたつかせて怒鳴った。

「素人に()などあるか」若者は平然と言った。「愚か者に恐れなどあるか。」

 こいつは見た目よりも悪い奴だ。そして思ったほど向こう見ずでもない。コセーナの男は傷を押さえて唸りながら立ち上がった。

「つまり、お前はアガムンの側の者ではなく、何故それが必要かは知らんが、コセーナの兄がつけた護衛でもないんだな。結構だ。残りは一度、そして結果は全てだ。これはいい。はじめからこうすれば良かったんだ。ただ、互いに相手に不足の無いことを知るために前の二回が必要だった。」

 彼は両肘を張り、足腰の落ちつきを確かめて、手をひろげた。

「さあ来い」

 次に若者が腕を捉えた時、男は両手でつかみ返し、思い切り振り飛ばした。若者の身体は宙を飛んだが、地面にはしっかりと両足で下り立った。二度目には背から落とされたが、肩がつく前に素早く転がって起き上がった。起き上がりながら落ちていた長い枝をつかみ、その勢いを得て男の向う脛を払った。男はすれすれに前へと転がってよけて見せた。そして自分も得物を探した。若者はそれを見て自分の棒を放って寄越し、素早く鉢巻きを解いた。左の拳にくるりと巻いて両手の間にぴんと張り、相手の振りかぶる棒の手元を跳ね返し、横にぴたりと付けると二度三度と待たずにぐるぐると棒と相手の手首とを結わえ上げ、ぐいと引き上げると同時に相手の足を払って前に転ばせ、腰の上から足で押さえた。男は前に泳いだが、棒がつかえて地に手がつかない。若者はさっと上からかがんで素早く男の肩を押し付け、次に棒を吊り上げて顔をあげさせた。

「母への侮辱を取り消せ」

「参った」男は反り返った苦しい姿勢で真っ赤になりながら、やっとで言った。「離してくれ。ちゃんと謝るから。」

 若者は手を緩めて男の腕を下ろしてやり、鉢巻きと枝をほどいた。

 男はうなだれて塵を払い、髪を手で梳きあげ、精一杯の面目を保つと、神妙に若者を見返して言った。

「私はコセーナのダミル・シグイー。君の名を教えてくれ。」

「ヒルメイのラシース。」

「父上の名は?」

「ハルイー」

 男は隠しから玉石のついた紐を取り出し、若者に差し出した。

「ヒルメイのラシース・ハルイー。黄金果は君のものだ。そして美しき母上への非礼をお詫びする。」

 若者は玉石の紐を首に掛け、イスタナウトの正面に歩み寄ってその幹を見つめ、静かに黄金果を手にし、懐に仕舞った。

「コセーナの方、案内いたしましょう。この先森を南西に行けば尾根の水が集まる広い谷に出る。対岸へ渡るにはこの手前が斜面も流れも緩やかです。幅は少しありますが。」

「泳ぎなら得意だ。」

「谷より先は断崖。そしてその下は急流です。」若者は男の血のにじんだ右腕に目をとめた。

「非礼をお許しください。傷の手当てをいたします。」

「こんなもの、なんでもないさ。」

「水の中で傷が開くといけない。」

 若者は沢の脇で男の傷の手当てをし、鉢巻きでしっかり縛った。

 コセーナのダミルは立ち上がって(から)の両手を見、ひとたび諦めたようにため息をつくと、いくぶん興味深げに若者の様子を見守った。若者の出現により森は怪しげな翳りを取り去り、穏やかな光彩に満ちて男を受け入れたかのようだった。黄金果を争っている最中ですら、ひとりで見知らぬ森を彷徨う時ほどの心細さを覚えることはなかった、男はそう思い返した。その中でも若者は男に聞こえぬ音に耳を傾けるかのように遠くに眼差しを向け、四方に鋭敏な知覚を巡らせている。やがて若者は手を振って男を促し、南西へと森を歩きはじめた。

 コセーナのダミルは、気さくに若者に並んであれこれと尋ねるともなく声をかけたが、若者がほとんど答えないのを見て、口調をあらためた。

「尋ねて良ければ。君はどうしてその実が欲しかったんだ?アツセワナの王の主催する婿選びの競技の実が。」そして考えて言い足した。「欲しがって悪いということもないが。」

 ラシースは杏仁形の黒い目でダミルを見返した。

「私は競技をはじめから見ていましたが、あなたの他にはそこにいる理由の分からぬ者ばかりでしたよ。」

 ダミルは大きくうなずいた。

「それはその通りだ。はじめから居た者ですら何の目的でいるのかわからぬ者ばかり。さらに知らされてもいない者が次から次へと現れる。君も私から見ればその中のひとりだよ。最後にはまともに応じてくれたがね。だが、王女を得るためではないのだろう?」

「そうです。」

「失礼な話だ。」

「母のためだったのです。」若者は低く素早く言った。「いや、金の実を持って来れば母の病に効く薬をやろうという者がいて」

 不意に腹を立てたように口を閉ざした若者にダミルは気の毒そうにうなずいた。

「すまなかったな、病気の母のために危険を冒して来ている者がいるとは思わなかったので、品の悪いことを―――悪童の戯れ歌のようなことを言ってしまった。だけど僕にそんなことを分かれと言っても無理だぜ。こちらは君の姿も見えない状況で、他の何人もの敵を相手にしなくてはならなかったんだからな。競技がはじまってすぐに、僕は五人の者がアガムンの手下だと気が付いた。それに、」ダミルは苦々しげにつぶやいた。「どうやら兄の言いつけで僕にお節介な手助けをしようとしていた者がひとり―――」

「お気の毒です」

 若者は初めて同情を込めてまっすぐにダミルを見返し、丘陵を見やった。鳴きかわしていた鳥の声は、南西の方へ下るにつれて少しずつ減り、今は途絶えている。

「民の者が助けに来ていたはずです。が、おそらく助からなかったでしょう。」

「あれは悪い者ではなかった。僕ら兄弟の幼馴染で。だが、大きな報酬を賭けた競技だ。君たちイーマの民にはわかるまいがな。誰の心も少しおかしくなっているのかもしれん。善人だと思っていた者でさえこんな裏切りを働く。ところで敵はまだ他にもいるようだ。」

 ダミルは髪をかき上げて傷に触れて怯み、その手の陰からそっと若者の傷ひとつない頭部を見やった。

 思い出してラシースは言った。

「気をつけてください。あなたの命を狙っている者を見かけました。青白い目の男です―――鷲の谷の滝の下からあなたを弓で狙っていました。」

「森の中から君同様に私の跡をつけていた者。その男がそうだったのだ。」

 ダミルは謎が解けたという風に声を高くした。

「私は、競技の途中から木霊のようについて来て助けてくれる者に気付いていた。そいつは、崖で立ち往生していた時に手を貸してくれた。他にもうっかりと危険に踏み込まないように引きとめてくれ、クシガヤの舟頭たちを喧嘩させてアガムンの乗った小舟を転覆させた。そして、金の実を持っていた。そしてなぜか途中でそれを捨てた。そこまでは君だったのだろう?」

「そうです。」

「僕は、君がどのくらいこの競技の裏工作を知っているのか知りたくて、捕まえようと思った。おそらくその時にも僕の様子を見ているだろうと思って、おびき寄せるために金の実を埋めた。何故、何を埋めたのかきっと確かめに来ると思ってね。だが君は私が金の実を埋めたとは知らなかったのだろう?」

「知りませんでした。」

「それを見ていて、金の実を取った者がいた。」

 ダミルは後方を指差した。

「僕はそいつに誘い込まれて土手の暗い穴の中で戦い、その黄金果を取り戻した。どうして急に凶暴になったのかわからなかったよ。だが、そいつの目的が黄金果ではなくむしろ僕の命だったというなら合点がいく。僕はそいつを叩きのめし、気分が悪かったので後を確かめずに出て来た。訳が分からないままに。君はずっと僕が持っていると思っていただろう?」

 ダミルは笑った。

「僕は君が取って行ったんだと思った。一度投げ捨てたくせにね。どうして投げたんだ?」

 ダミルは年下の者に尋ねる気安さで人懐こく尋ねた。

「こんなものは馬鹿な遊戯だと思ったんだろう?身を危うくしてやるような事じゃない。さっきから君の顔はもう半分そう言っているよ。」

 若者は反論するように振り向いた。

「いや、君にはそんな思いつめた顔をして挑む理由があるかもしれない。ただ、僕ならそんな顔をしなきゃならないような事はしないだろうと思うのさ。だって、腑に落ちないんだ。君に危険を冒させて金の実を取ってこさせようとした者は、それが出来るなら何故君の母を救わないんだ?そいつの性根は良くないよ。だって、金の実自体はただ、金を塗った木の彫り物だぜ、削って煎じても挽いて粉にしても薬になんかなりゃしない。」

「仰る通り、私はその者の申し出にはもう望みをかけてはいない。ただ、見せてやるだけです。そしてその鼻を明かしてやるんだという愚かな望みのために、自分が怯み退くのが許せない。―――その方が正しいのだとわかっていても。しかし、それをあなたから指摘されたくありません。私は私の与り知らぬ企みで戦利品が穢れるのを見て嫌気がさした。しかし、あなたはこれが血にまみれても得る価値があると思っていらっしゃるのでしょう。」

「王女を得る手段が金の実だったからだ。」

 相手の険のある言い方につられてダミルはやや険しい面持ちになった。

「女は価値のあるものだろう?男にとって。花と花。鳥と鳥。雄も雌も片方じゃどうにもならない。農民にはわかるんだ。狩人にもわかるだろう?気立ての良い年頃な娘がいて広大な土地がある。どちらも愛情をかけ手間をかければ恵みをもたらす。」

「王女は素晴らしい方ですか。」

 若者は先に立って何か探すように蔓の這い上がった林を見上げながらごく軽く尋ねた。

「素直で生真面目で意地っ張りだ。」

 コセーナのダミルは即座に答えた。若者は背を向けていたが、男が独り言のように言い足すのを聞いていた。

「あの目が見ているんだぞ、あの手が金の実を投げたんだ。どんな酷いことになろうとそうすることを男たちが強いて、場をしつらえた。まともな奴が拾ってやらなきゃ可哀相じゃないか。」

「あなた方の競技場から金の実は消えましたよ。」若者はちらと振り返った。

「どうして、それはそれで悪くない。」

 ダミルは茶色の目を細めて笑った。口の横のえくぼが際立った。

「花婿の候補のどちらにも勝利の実が無いのなら、僕にはまだいくらでも他のことで勝負をする機会があるということだから。」

 若者は静かに顔をそむけた。ダミルは首をかしげた。どうやらますます訳がありそうだ。だが、自分には関りの無いことだし彼に話す気はないようだし。

「どうも不思議なんだが。」

 彼は無邪気に言った。

「僕がこの森を歩き出してから後ろの方で鳥の声がついて来るようなのだが―――ほら、鳴きだした。」

 しばらく止んでいた鳥の鳴き声が再び丘陵の上から発せられた。

「あれはいい声だな」しばらく耳を傾けてからダミルは呟いた。「木笛のように落ち着く。」

「ヤツガシラの声です。」ラシースは言った。“鷲谷”にいた時から繰り返し聞いている。

「さっきからこいつが二度繰り返すとヤマガラが合いの手を入れているようなんだ。」ダミルは言った。

 彼がそう言っている間にヤマガラの声が少し近づいた位置から響いた。

「ほら。そしてヤマガラが二、三度鳴くと次にはこれだ。」

 高い、乾いた鋭い声が答える。

「ライチョウだ。」

「これはちょっと嫌な音だな。錆びた車軸が軋る音に似ている。仕事が遅れるし、油を差し忘れた誰か若い者が叱られる前兆だ。」

「あれはただの合図です。ああやって呼び交わして変わりがないかを確かめている。報告のこともある。前兆のこともあるでしょう。」

「百舌の鳴き声はしばらくは聴きたくないものだ。」ダミルは思い出して身震いした。

「私もです。」若者は素早く言った。「何にもならなかった。」

 ふたりは黙り込んだ。丘陵は背後に遠く退き、“長手尾根”の稜線が右側を下りながら近づいてくる。斜面から少しずつ集められた水が尾根の麓に流れをつくり、前方を回り込むように北西へと湾曲していく。その先が三つ目の広い谷になる。北に面し、しめやかな陰に入った尾根から呼び交わす鳥の声が、少し声音を変えて降って来る。

「あの鳥の声はコタ・レイナの脇でも聞いたことがある。木の芽を油で炒めた時の音に似ているな。」

 若者は不思議そうに見返した。ダミルは陽気に言った。

「ヨシキリの声が僕にはそう聞こえるんだ。そしてあれは―――土鍋が沸いて蓋がかたかた鳴っているぞ。鴨だ。」

「お疲れなら少し休みましょう。鳩が鳴いたのも聞こえたようだし。」

 ラシースはあたりを見回し、マタタビの蔓を手繰り、熟した実をいくつかもいで差し出した。

「少しですが甘いので元気が出ます。そこにある虫飼い(ミモカリ)の赤い実も食べられます。」

「ありがとう。呼ばれることにするよ。」

 ダミルは立ったままむしゃむしゃ食べ、赤い実を素早く摘み取って口に押し込むと目顔で先に行こうと促した。

「なあ、君。」

 左手から流れてきた沢が目の前を横切り、木々の間に徐々に開けてきた谷間に段を刻んで流れ下って行くのが見え始めると、ダミルはさっさと自分から先に立った。

「さっきからついて来る鳥の声が君の仲間の合図なら、僕と一緒にいる所を見られるのはまずいのだろう?早く隠れてその金の実の扱いを考えた方がいいぞ。それを取って来いと唆したのが男だったら、手に入れるためにどんな手順が必要だったか思い出してぶん殴ってやれよ。女だったら―――気をつけろよ。それは本物だからな。」

 “ただむき平”の西と“掌”の間には北に開けた広い谷があり、“長手尾根”の麓をなぞって来た水が横合いからさらにいくつもの流れを加え、蛇行しながらコタ・シアナへと流れ込んでいる。上辺に切り立った壁が少しあるが、谷の内は低木も良く茂り、下るほどなだらかになり、手掛かりには事欠かない。上から見下ろすと、緋色に手をひろげた枝の重なりの下に澄んだ流れが見え、その先に震える鏡のように青い空を映した水面がある。

「この沢に沿って下れば、コタ・シアナのほとりに出ます。少し上に戻り幅もあるが、無理に下から渡ろうとすると流れが速くなる。」ラシースは指差した。三日月型に湾曲した淵は迫る両岸に押し込まれ、流れの中心に青黒い畝を生じている。「岸には取りつくものもない。絶壁の下の急流です。」

「分かった。上で渡ることにする。」

「後はあの長い峰に沿って行けば」

「あの峰をひとつふたつ越えればコタ・レイナの源流がある。そしてコタ・ラートの源流がある。」

 ダミルは振り返ってにっこりした。

「その間の郷には僕と同じような人間が住んでいるよ。ヒルメイのラシース・ハルイー、ちょっと先にはいろいろな人々が(くに)をつくり住んでいる。その金の実が結んだ縁だ。君が万一にも“河向こう”に渡ろうと思うことがあれば、コタ・レイナのコセーナまで足を運んでくれ。シグイーの息子ダミルは君を忘れないからな。」

 コセーナのダミルは勾配の緩やかなところを選んで谷を下って行った。その姿はすぐに色づいた木の下に隠れた。ただ、時折、木の枝にすがって下りる時にその梢が揺れるのが見えた。ラシースは男が十分に下るのを待った。

 背後の峰を覆う橙からあかがねの錦の間に一期を生き切った木の葉がはらはらと舞い落ちる。その透いた樹間からひとり、またひとりと下りて来る影は、鷲谷から丘陵に沿って配置されていた競技の見張りの者たちだ。彼を目指して包囲の輪を縮めている。

 ラシースはコセーナのダミルから騒ぎの場を遠ざけるために、敢えて道を戻った。少しづつ足を速めながら、行く先を探った。森の中を振り切ってどれだけの時間走れるものか。それとも岩場に彼らを引っ張ってやろうか。自分の心臓が堪え切れるまで走った後で、何人を相手にできるものか。

「止まれ。」

 彼の脇に並びながら、二、三の者が囁くように命令した。ちらりと振り返る目に目が返す。昨夜彼と共食し、遊びに誘った者たちだ。

 女神はどこまでも捧げることを要求する。同胞から黄金果を守り抜くのは、余所者から奪うよりもはるかに難しい。

 追手の足を妨げ、入り組んだ沢の間に紛れるために平の上の丘陵へと勾配の厳しい方に道をとる。競技場との境界、さらに登れば見張りの弓の射程に入ると言われている地帯だ。藪に覆われた小さな枯れ沢のひとつを伝う。追手の呼び交わす声は途絶え、代わりに藪を鳴らす音が左右に迫る。

「止まれ。」

 丘の上から厳しい声がかかった。

 沢の上が明るく開けている。後ろには戻れない。左側から聞こえる小さな水の流れの元は、上の開けた棚地の泉だ。大きな桂の木がその傍らに立っている。ラシースはその幹の陰に飛び込んだ。大木の下は平らで明るい黄の葉が一面に散り敷き、隠れるところはどこにもない。

幹を回り込む余地すらなかった。風見(タフマイ)の主幹ヤールの号令により両側から見張りの若者たちにたちまちに抑え込まれた。

丘から急ぎ下りてくるふたりの男がいる。ヤールと共に下りて来たガラートは、透いた梢から差す光のもとに現われた顔を認めると、若者たちに手を離すように命じ、素早く歩み寄った。

「我が目を疑ったぞ、ラシース。本当にお前か。返事をしろ。」

「はい」

 見張りの監督を務めるヤールは集まって来た若者たちを見回し、顔ぶれを確かめながら木の元まで下りて来ると、枯葉の上に膝をついた若者とその前に立つ男を険しい目で見やり、声を掛けた。

「ガラート、それ以上近寄るな。その者の尋問が出来ないなら他の者に任せろ。」

「ヤール、病んだ枝が打てぬなら、私はイーマではない。」

 ガラートは少し下がり、周囲に離れていた見張りの者たちを全て呼び寄せ、ラシースに向き直った。

「私がニアキで報告を受けたのは正午を過ぎた頃だ。そして、彼らは迅速に行動してくれたものの、事態は非常に込み入った悪しき様相を呈していた。事故及び殺人。もしこの事柄に我が民の者がかかわっているならば私はその者を詮議し、罰しなければならない。」

「私はどんな罪に問われているのでしょう。」ラシースは尋ねた。

 ガラートは険しい目でラシースを見返し、次いで戸惑いながらも持ち場どおりに並んで指示を待つ見張りの者たちを見渡し、言った。

「この馬鹿者に私にしたのと同じ説明をするのは煩わしかろう。私が彼にあらましを話してやるから皆には補足を頼む。

「知ってのとおり、競技の開始は日の出と同時だ。事前に打ち合わせた通り、我々は競技場の渓谷の南岸に、アツセワナの者は北岸に見張りの者を配置した。日の出と競技の開始を見守るのは彼らの役目だ。彼らの鳴らす角笛は日の出直後から二度にわたって鳴っている。この合図については、何があったか後ほど彼らの報告を受ければ明らかになろう。

「アツセワナの二度目の角笛が鳴って間もない頃だ。“鷲谷”の脇を見張っていた数名の者が、谷の主とは違う鷲の声を聞いた―――私の目の前にいる者が普段自分の合図に使うものと同じだった。その者が今日の見張りに詰めていないことは周知のことだ。だが、見張りが変わることはあり得る。そして、そこにいる皆はその者を信頼していた。彼らは挨拶として合図を交わして人数を確かめた。鷲の声の返事はそれきりなかったが、異変とは考えず見張りを続けた。

「それから一時ほどして、水洞の上の(わたり)から、見張りに助けを求める合図があった。ふたりの者が行くと、そこに額に怪我を負った男が横たわっていた。奇しくも手当を受け、葉で覆われた姿だったというが。さらに、姿は見えぬが助けを求める声がする。声を頼りに辿り、川岸の水洞に通じる地中の亀裂に迷っていた男を見つけて救い上げたという―――どうした?」

 ガラートは若者の顔によぎった表情を見とがめて尋ねた。

「なんでもありません。」命をとりとめたか。顔を見た者が。

 ガラートは若者に辛うじてわかるほどの吐息をつき、次に一段と声を強めた。

「さらに半時もたたぬ頃だという、淵に差し掛かる川岸から、周りにいた多くの者が、急を知らせる百舌の声を聞いた。」

 ガラートの目は厳しくラシースの目を見つめている。まだ自分から言おうとしないのか、言葉を継ぐ前にその唇がそう口走る。

「求めに応じて彼らは駆け付けた。だが彼らを呼んだ者はそこにはいなかった。ラシース、お前は今までどこで何をしていた?皆の報告を考え合わせるに、競技の初めからお前はいたのだ。そしてしばらく前まで競技者のひとりをつけていたのをここにいる何人もが見ているのだぞ。黙って罪を重くせずに早く言うがいい。」 

「この者たちが見たのは刺され息絶えた者だ。」

 桂の根本を踏まえ、腰に両拳をあてがってやり取りを聞いていたヤールが大声で遮った。

「私は特に驚きはせん。“黄金果の遊戯”は女に迷った愚か者が競う遊戯とはいえ、裏では常に企みがついて回るもの。イナ・サラミアスの者を手懐けて競争を有利にしようとする者もいれば、また、その不正を口実に攻め込もうという者もいる。アツセワナに騙され、競技場に忍び込むイーマがいるなら、その者が悪いのだ。競技中に命を落としたとて我々はその者の魂を送り弔いはせん。競技に介入したことを相手方に気取(けど)らせ報復の名目を与えるような事はな。

「だが、この度死んだのは西の国の異邦人だ。民の潔白を証すものもなく、証言もなく、躯だけを引き渡したらどれほどの怒りを買い、報復を受けることか。ガラート、夕刻には北岸を見張ったアツセワナとの確かめがあるぞ。早くそいつに真実を言わせろ。―――でなければ、相手が得心する下手人を用意しろ。」

「何を言う」ガラートは振り返って咎めた。「指導者に相応しくない言いよう」

「存亡にかかわる問題だ。時間もない。」

「シギル王は公平だ。嘘をつけばそれこそ我らへの信頼は終わる。いや、その時にイーマは終わっているのだ。」

「ならば、その嘘を彼でとめろ。」ヤールは言った。「君がイーマとして終わる前にな。」

 ガラートはラシースの前にかがんだ。 

「お前は手を下した者を見ただろう。お前自身が手を下したなら助けを呼ぶはずはない。」

「私が見た者の名を言えば、聞いた方に危険が及ぶ。」若者は声を低めて言った。

「私もそれは懸念している。」ガラートは呟いた。

「どちらかの家に属する者が相手方を襲ったか。そしてその罪は我々に被せられる。無論、そう心積もりしたうえで企まれたことだろう。」

 ラシースは一度の瞬きで応えた。ガラートの眼差しは一段と厳しさを増した。

「お前ではない―――。だが、お前はまだ私の問いに答えてはいないな。お前はこの競技において越えてはならぬ境界を侵したのだ。そうだな?その行いは十分に我々を危うくする。さらに触れてはならないものに触れはしなかったか。」

 ガラートは右手をラシースの肩に置き、素早く囁いた。

「ここで私に渡せ。日暮れまでにまだ手立てはある。」

 大叔父の肩から外衣の垂れが黄金色の翼となって背後から陰をつくっている。金の実を競技に戻そうと言うのか。若者たちはわずかに目をそむけ、ヤールははっきりと首を振り腕を組んだ。どう取り繕えよう、金の実にははっきりと彼のものと分かる矢傷がついている。彼の顔を見た男は生きていて、北の岸の仲間のもとに戻されれば、喜んで彼の人相風体を話すだろう。

 ラシースは大叔父の峻厳な顔を見返した。傾きはじめた陽光に普段は目立たない顎の大きな傷跡が白く浮かび上がる。母に似た顔だちの微細な均衡がその傷のあわいで傾いでいる。

「母は―――」若者は、大叔父にだけ聞こえるように言った。「母はまだ機を織っていますか?」

 微動もしない口の脇で傷がぴりりと震える。若者は目を膝の上に落とし、拳を握った。「休むように言ったのに。」

 コタ・シアナのはるか上流から微かにクマタカの声が森を谷を越えて届いた。高く、かそけく、しかし確固とした警告を込めてその声音は響いた。

 ガラートは不意に立ち上がった。彼は下がらせていた見張り達を呼ぶとラシースの周りを固め、ヤールに歩み寄った。

「この者をそのまま王の警護の者に引き渡す。」

 ヤールは傲然と彼の前に立った。

「不満だ。」彼は即座に言った。

「我が一族の若い者を配備し、見張りの責任を負う者として私はこの者の所持品の検査と相応の罰を要求する。」

 ヤールはつかつかとラシースに歩み寄り見下ろした。見ることを拒む正視とでも言ったものか。次いで言葉が吐いて捨てられた。

「イナ・サラミアスの背面に追放するのが相応しい。」

「なに」ガラートは驚き、怒って言った。

「君は私怨を持ち込んだな。しかも二十年前の競技では影も形も存在しなかった者に対して。」

 ヤールはかすかに頬を引きつらせ、若者から目を逸らした。

「先の競技の最中に私の父は死を遂げた。それは父自身の責任だ。我らの郷に企みをするアツセワナとそれに加担する者に災いあれ。しかし“黄金果の競技”が常にイナ・サラミアスの命運を危うくする呪われた遊戯なのは変わらない。その元を作ったこの者の両親こそは疫病神だ。だが、思いと裁きとは別だ。この者について要求するのは検査と制裁だ。その後で死者、怪我人とともに競技の主催者に引き渡す。発見された所持品も一緒だ。―――あるいは全てをこちらで始末し、調査の要求を拒否し、民の存亡をかけて今後の付き合いを断つか。私は民の犠牲を増やしたくない。ガラート、早く判断をしてくれ。」

 ガラートは、円を描いて立つ五人の若者たちの中心に膝をつくラシースに向き直った。

「ラシース、隠しているものを出せ。さもないと力ずくで取り上げることになる。イーマの名も共にだ。」

 大叔父の気遣いの有無にどれほどの違いがあるだろう。選択の一方はもう全て終わっていて、ただ黄金果を放棄することによって軽蔑された卑小な生が残される。

 もう一方のために自分はまだ使う命を持っている。幻の目が胸の内をよぎる。大叔父の親切に仇をすることはさらに贈り物の価値を重くするだろうか。

 ラシースは立ち上がり、おもむろに胸の内から紐に掛かった玉石を前に引き出し、ガラートに示した。

「ヒルメイの主幹ガラート、母の叔父上。私はあなたが真実を告げることを要求する。母について偽り無き(あかし)に、私からこの護符を奪え。さもなければその下を明け渡しません。」

 ガラートは一歩踏み出し、手をのばすと、護符ごと若者の襟元をつかみ突き放した。ラシースは後ろによろめいた。傍らに控えていた者が、彼を後ろから支えた。

「この愚か者」

 ガラートは放した手を拳に固め、怒りに顔を赤く染めて若者を睨みつけた。

「父にも母にも相応しくない小者。この手に触れるのも嫌だ。望むならお前には全員と戦わせよう。だが、私はお前を相手にはしない。」

「馬鹿だな」

 ラシースを支えた若者がぶつかった痛みに呻きながら口の中でこっそり囁いた。

「逃がしてやる。言うことを聞けよ。」

 オクトゥルは押しやるふりをしてラシースを立たせ、ガラートに言った。

「ガラート、私があなたの代理にこの者と戦います。」

 ヤールが遮った。

「駄目だ。」

「もっともだ。私にはお前に代わりに戦ってもらう理由などない。後は処罰があるだけだ。」

 ガラートは泉の向こうを振り向いた。手招くとそこに静かに控えていたらしい若者が無言で立ち上がり、素早く沢を渡ってやって来た。

水郷(クシガヤ)に下りたクシュの倅か」

 ヤールは若者を見て顎をそびやかし言った。

「名は何と言ったか」

「メムサムの子サコティー」

 若者はラシースを見やってぶっきら棒に言った。

「ここは狭い。戦えるように場所を移ってください。」

「そんな暇は無い。」ガラートは言った。

「この場で取り押さえ、所持品を押収し右手の腱を切れ。」

 サコティーは前に進み、桂の木の前に五人の若者に包囲された輪に入り、向かい合って互いに左右に同心の弧を描くと、少し長く弧を引いて止まり、ラシースに目配せした。

 ラシースは組まずに拳を固めてサコティーに殴りかかった。サコティーは容易くうしろに飛ばされ、警護のひとりにぶつかって外輪を乱したと見ると、たちまち立ち直って、包囲の外へ向かって駆けだしたラシースに突進した。

 正面に回って塞がったオクトゥルが合図をした。

「左を抜け」そして反対側にまろび込み、駆け寄った者の足もとをすくった。

「前へ!」

 後ろに回ったサコティーが彼に言った。それから、向き直り左右から追う者をいなすと、踵を返してラシースの後を追った。

「裏切りか。ふたりともに」

 怒って叫ぶヤールを上回る声でガラートが言った。

「いや、彼は捕り手だ。逃げられぬ。」

 ラシースは身体の向きを切り返して林を横切り、棚地の端に向かった。丘陵の険しい斜面ののり面には低木の藪に隠された枯れ沢が上からは見えない道をつくる。彼は下に向かって連なる藪のひとつに飛び込んだ。水が穿った土肌の底で、丸い石が足をすくう。身体を擦る砂利が次々と動き、滑り落ちるに任せながら、続いて飛び降りるサコティーと目が合った。上へと掻き消える同胞の叫びを聞きながら、サコティーの厳しい戦いの眼差しがラシースの目の裏に焼き付いた。


 丘陵を下り、平に差し掛かってもラシースは足を緩めなかった。サコティーの足はほとんど彼と変わらない程速かった。そして見交わした目から、彼がひとつの使命を果たすまでは決して追及を緩めないことを悟っていた。

 コセーナのダミルを見送った谷の方へ降りようとする彼を、サコティーは前に回って遮った。ラシースは西に沢を横切り、谷の向こう側へと渡った。サコティーは彼の足元をついて来る。このまま横に移動し続ければさらに険しく切り立った壁のどこかで行き詰まる。そのまま飛び込んで流れに運命を任せるか?

 今ちょうど彼が背を向けている方角にベレ・サオは聳え、競技の始まった滝の目蓋から彼らふたりを見つめている。まだ戦いの最中だ。ラシースは、右へとのばしかけていた手を止め、上の手掛かりを探った。クシュのサコティーと決着を付けずに彼の勝負が終わることはない。彼自身がそれを承服しない。

 ラシースは棚地の上に上がった。ここが“長手尾根”の突端、ベレ・サオの“サラミアの目”の正面に位置する“掌”だ。尾根から生じ、春夏にはいくつもの小さな水の帳をおろす滝は絶え、壁にあいた虚ろな窟が暗い陰を湛えている。冷たい風にさらされるイスタナウトの林は中の峰のどこの山腹よりも早く朱く朽ち、半ば以上散り果てて、蒼白い幹を連ねていた。

 ラシースは初めて振り返った。コタ・シアナの源流の(もとい)にベレ・サオは照り映えている。幻の乙女ではない、イナ・サラミアスの面が直に彼に向けられている。水と光に潤むその眼差しに魅入られ、疲労とないまぜの陶酔に両足は止まった。彼の前面に滑り込む影。両肘を捉えたサコティーの手を一度振り払い、ラシースは最後の勝負に挑んだ。ふたりの若者は山猫のように睨み合い、とびかかり、組み合った。

「君と果し合いはしない。だが、件のものはここに置いていってもらう。」サコティーは声をかけた。

「お断りだ。護符に触れてみろ、ただではおかないからな。」ラシースは、激しく言い返した。

 水練に長け、櫂を巧みにさばき、その上なお彼の領域、岩場をも森をも彼に優り劣りなく駆ける者を、若者は憎み、打ち負かそうとあがいた。この物静かな友にはこれほどの力があったのか。顔色も変わらず息も乱れない。

 サコティーは相手を枯葉の中にねじ伏せ、金の実を奪い取り、棚の際から崖の底へと投げ捨てた。

 ラシースは、短い声を漏らしたが、谷の際に駆け寄って、黄金果の落ちていく様をじっと見守った。深い陰に入った岩壁の襞を黄金の球は、二、三弾み転がり落ちてゆき、その色が消え果てる寸前にはるか下の岩に引っかかった。渓流から吹きあがる風が、岩壁に僅かに張り付く赤い草木の葉を揺らす。しかし、黄金果は闇に白く静まっている。

 傍らに来たサコティーの気配に一瞬身構えたものの、ラシースはそこを動かなかった。一瞬にしてその面から激情が消え去ったかに見えるがそうではない。手に届かぬものがまだ、その眼下にあって彼を離さないのだ。

「仕事が甘いぞ、サコティー。見えているじゃないか。」

「どうしてあんなものに手を出したんだ?」サコティーは途方に暮れたように言った。

「まさか―――誰かに頼まれたのでは?」

 ラシースは振り返り、笑い声を立てた。自分が“河向こう”の者から頼まれて黄金果を取って来る?そんなことを疑われる危険さえ初めから考えたことは無かった。

「“河向こう(オド・タ・コタ)”から仕事をもらうことは君にはそんなに珍しいことか?」

 相手の優越にどこまでも刃向かうのをやめられないとは、なんと敗北とは強い毒を持っていることだろう。サコティーの顔が屹となるのを見てラシースの胸は痛んだ。自分がこんな言葉を口にするとは思わなかった。そして相手は飽くまでも寛容だ。

「僕が君に呼ばれて行ったのは仕事でなくて頼まれたからだ。」

 サコティーは辛抱強く言った。

「そしてイーマの多くは僕たちクシュを河を下った者として蔑んでいるが、ガラートが僕を指名したのは僕を信用しているからだ。僕なら彼の意を汲めると。君を助けようとしているんだよ。」

「 何から?弓を引けないようにして村に置いておくためか?それが“背面”への追放や死罪よりましだからか?彼は僕の問いに答えなかった。僕に決断させないためだ。」

 ラシースは首を振った。

「君に分かるものか。僕が何故あれを手に入れようとしているのか。ただ自分のためだ。誰のためでもない。母のためですらない。それを言い訳にしようとした時、()()はどんなに軽蔑して僕を見ただろう―――。」

 さっと血の色がその面に兆し、目が斜陽を受けて輝いた。

「頼まれた?もし、頼んだ者がいたとしたらあれだ。」

 彼は手を上げベレ・サオを指差した。

「ほら、見ている。僕がここで諦めたらかの女(タナ)は頼む者を間違えたのだ。君を選ぶべきだった。だが、僕はそれを認めたくない!確かめることは出来る。もし、僕に命じたのがかの女(タナ)ならあの実も取って来られるはずだ。」

 日没にはまだ間がある。サコティーが止める間もなくラシースは崖に取り付き下り始めた。

「戻れ、ラシース」サコティーは叫び、上からわずかな足掛かりを探した。

 岩壁を下りるなら自分の方に一日の長がある。サコティーがなおも彼の後を追うのか、その気配も呼び声も耳には入ってこない。渓谷の外に向かって流れる水の音が刻一刻と近づくのが分かるだけだ。

 もうあとわずかで金の実に手が届くという時、ラシースはサコティーの叫びとからからと小石の転がる不気味な音を耳にして顔をあげた。サコティーが誰かと争っている。肩幅の広い影と乱れた髪が崖の縁から彼の真上に乗り出した。その手には彼の脳天めがけて打ち下ろそうとしている大きな石が握られている。コセーナのダミルを狙っていた男だ。

「ラシース、飛び込め」

 サコティーの声と、不意を打たれて男の手からこぼれ落ちた石とが頭上から降って来た。

 ラシースは、金の実をつかみ取り、そのまま宙に身を躍らせ、あっという間に身を切るように冷たい晩秋のコタ・シアナの水に落ちた。落ちると同時に、凄まじい渓流の水が彼をその冷たい腕に捕らえ、一時、水底へと引きずり込んだ。


 体の芯まで凍てつくような水に揉まれ、上も下も分からぬ闇の中に目と口とが同時に開いた。口から鼻から押し入る苦しみの中で彼はきららかな水面の光を見た。ラシースは、金の実をつかんだ手を必死で差し伸べた。水の上の大気の中へと。水が身体を流す。ここが死に場所かもしれない。彼は金の実を引き寄せ、やっとのことで懐へと入れた。その拍子に身体はくるりと返り水の上に顔が出た。彼は氷のような空気を胸の中まで吸った。崖の直下の矢のような流れが彼をふっと峡谷から川幅の広い“手”の外へと押し出した。底はまだらに浅いが立つことは出来ない。岸は離れてゆく。

 流れの中心で速さが変わった。どこかで滞り、水が分かれている。砂利が手足を擦り、茅原が彼を受け止めた。彼は手をかき、株をつかみ、水から這い上がった。

 彼を運んできた流れはふたつに分かれ、細い柳と茅の茂みを水上に冠した大きな中州を巡っていた。“長手尾根”の突端を仰ぐ川中にあるその島は故は知らないが“誓約の州(コス・クメイ)”と呼ばれる大きな中州だ。ラシースは、水際にくずおれた。

 細い叫びがして、柳の枝が分かれた。その間に蒼白な小さな顔と白い衣の裾がのぞいた。編み下げた黒い髪が振り子のように揺れ、水際に踏み込んだ足元からみるみる水が吸いあがるのも構わずに、華奢な手が伸び若者の服の肩をつかんだ。灰色の瞳が、同じように驚いて見返す黒い瞳と出会った。

「離れて。下がって、危ないから。」若者は言った。

 娘はおずおずと手を離し、そのままするりと柳の向こうに姿を消した。

 ラシースは、立ち上がり、素早く懐の金の実を確かめ、大きな怪我が無いのを確かめた。

 娘は島の片端に佇んでいた。彼の微かな足音に気がかりそうに振り返りながら、その目が西に回った太陽へと向く。彼女にとっての運命の時は近いのだ。

「アツセワナの娘さん(イネ)、どうしてここに?あなたは今日の競技の女神では?」

 金の実を投じたその手は、飾り気のない生成りの長衣の胸の上に固く組まれている。

「言わなくてはならないかしら。」娘は固い口調で言った。「どうか放っておいてください。」

 若者は、あらためて娘を見た。朝とは違う服だ。背の高い彼女には少し小さく丈も短く、髪にも飾りひとつない。

「昨日とは様子が違う。今日も舟で来たのなら、そろそろ迎えの者が来なくは決勝に間に合わない。競技の決勝点はあの丘の上でしょう?」

 若者は北西の岸の丘を指差した。

「あなたは?」

 娘は聞き返そうとしかけ、顔をそむけた。

「いいえ、聞きたくないわ。あなたには関りの無いことだし、舟も無いのですもの。―――ともかく、ご無事で良かったわ。」

 娘は弱々しく笑いかけ、両の手の中に顔を隠した。

「あなたにここで会いたくはなかった。他の人が来て私は帰れるはずだった。だけど、私に舟が無いようにあなたにも他所に行く方法は無いようね。」

 自分は、舟頭と別れてきたばかりだ―――若者は横切る流れを見た。背の立つ深さなのかもしれない。しかし一度足をすくわれると二度と立ち上がれないのはたった今思い知らされたばかりだ。

「とにかく、風のあたらないところへ行こう。渡る手立てを考えましょう。助けを呼ぶ方法もあるだろうし。」

 娘は手から顔を上げかけたが、頑なに動かなかった。

「私から離れて、こちらを見ないでくださる?」

 誰が見たいものか、落ち葉時の雨みたいに泣く女の姿なんか。若者はもう一度流れに顔を向けた。サラミアは川では自分の命を奪わなかった。金の実に加えられる犠牲の重さが足りないということか。まだ自分は何か危険を冒さなければならないのだろうか。だが、何故、ここにこの娘がいる?

「仰る通り、私は今朝ベレ・サオの岩の上からコタ・シアナの源流に向かって金の実を投げました。」

 柳の木を間にして、娘は若者に語るともなく語り始めた。

「このコタ・シアナまでの道中、山の中に連れて行かれる間、この競技で私のする役目について考えていました。私が家を守るため、父の守って来た(くに)の安寧のために誰かと結ばれねばならないのだとは分かっていました。ふたりの方のうち、父が内心どちらを望んでいるかも。でも、もう片方の家は申し出があれば無下には出来ない力のある家です。父がこれに対抗するためにどれほど苦心して叔父上を説き伏せたことか。縁談があった時に私がすぐにうなずいていればこの競技が行われることもなかったでしょう。でも、私には返事ができませんでした。考えてもみてください、私はその時、ほんの子供の時に一、二度見かけた方の名を聞いただけだったのです。

「そして、アガムン様のこともほとんど知ってはいませんでした。そして、この競技がどれほど危険な場所で行われるかも知りませんでした。あの、橋の上から見た目のくらむような谷底―――!私はその場にいながら女神を装って着飾り、危険な競技をこの手で始めるのです。あの時、あそこにいた人たちはどうしてあんなに熱狂して喜んでいるのかしら?彼らの自慢の身内が華々しく姿を見せる、それは誇らしいでしょう。でも、死ぬかもしれないのに。

「毬を投げる瞬間まで私は自分に言い聞かせました。実に運命を託したのだから、この実がもたらす結果が正しいのだわ―――それが神託というものだ。あれほど時間があり、心に何度もつかえを覚えたのに、ただの一度も勇気を出してこう言えなかった。これはただの木の毬よ、こんなもののために命を賭けるなんて良くないことだ、と。

「でも、私は実を投げました―――。投げるだけなら造作もないことですもの。なのにどうして、同じように造作もないことが言えなかったのでしょう。」

 若者は、もたれていた柳の枝を折って、娘の話を遮った。

「その金の実はあなたが思うよりも強いんだ。」若者は己に向かって言った。

「皆がそれを見、追うほどに価値が出、誰かが傷つけば一層強くなる。獲得のために誰かを傷つけた者はいっそう、欲しくなるんだ。その金の実が全ての罪を浄化し、有り余る栄誉をもたらすことを望んで。」

 彼は驚いて振り向いた娘に冷たく言った。

「あなたがしたことへの神託を待つがいい。」

 この娘を安心させてやることは出来るかもしれない。若者は風の冷たさに苛立ちながら考えた。金の実は自分の懐にあり、どちらの男の手に渡る気づかいもない。コセーナのダミルはこの娘に好意を持っている。もし、コタ・シアナの水の冷たさに浸ってなおその心が変わらなかったなら、再度求婚を試みるだろう。だが、夕暮れまでの辛抱だ。教えてやるまでもない。後は、何故ここにいるのかわからないが、この娘の帰る手立てを見つけてやらなければならないのだろう。

「結果を決めるのは誰なのでしょうか?」

 娘の声の失望の色があまりにも大きかったので若者は振り向いた。

「サラミアでもコタ・シアナの流れでもないとしたら。他のものだとしたら。」

「どういうことです?」

「私が金の実を投げ、競技者たちが、崖を伝って行きました。その時です。」娘は指を上げて伝い落ちてきた涙をぬぐい、灰色の瞳をしばたたいた。

「私の傍らにいたハヤが言いました。今、ベレ・サオのサラミアの目から矢が飛び、黄金果をイナ・サラミアスの地に持ち去ったと。そして神と見まごう素早さで、サラミアの頬から駆けおりる人の姿があったと。あの子は私を慰めるように言いました―――この競技は誰もが考えなかったお告げをするかもしれません。」

 若者はただ黙って娘を見返した。

「私は、神託のための競技に異を唱えることが出来なかった。私はこれが正しいのだという答えを求めていた。それで予想もしないことが起こったのを神意の表れだと思ったのです。―――それに、あなたの事を思い出したのです。」娘はうつむき恐る恐る囁いた。「ハヤはただ、私をなだめたかっただけだったのですけれども。」

 見間違いだ。誰もそんなところに近づくわけがない。若者は否定しかけて微笑の中に言葉を押し込めた。この娘もただ、御付の少女が夢のように語った言葉を聞いたに過ぎない。信じているわけではない。

「ハヤは、あの子自身の事で気もそぞろだったのです。昨日、あの子が私にイナ・サラミアスの地を踏ませるために舟を借りてくれた、その相手の若い舟頭さんはあの子の故郷クシガヤの若者でした。まるで兄妹のように育った仲で、今日は、競技がベレ・サオで行われている間にあの子を舟遊びに連れ出してくれるという約束をしていたのです。

「私には自由に使える舟が無かった。でも、ハヤの話を聞いてどうしてもイナ・サラミアスに渡りたくなった。神託が三つ目の結果を用意しているのなら、私がかの地に行くことが新しい道を開くのではないかと。それで昨日と同じように私を乗せてくれと頼んだのです。ハヤはもちろん嫌がりました。昨日と今日では私の立場は違う、厳重に天幕の中で守られて競技の決勝の夕刻までは出られないことになっているのですから。それにハヤは、日暮れ前には丘の上で故郷のクシガヤの娘や若者たちにたち混じって王の前で踊りを披露することになっているのです。懐かしい人々に会えるわずかな時間を削ることはあの子には承服できないことでした。そこで私は、表向きは諦めた風をして、お兄さんに会いに行くなら綺麗な服を着なさい、とあの子を騙して私の服を着せ、慣れない服に手間取っている間に、私はあの子の服を着て天幕を抜け出しました。そして、聞き出してあった舟着き場で舟が来るのを待ったのです。舳先の両脇にカワセミの絵を描いてある舟を。

「若い舟頭さんは、人目を気にして急いでいました。私はベールを被っていて、少しかがんで小さく見えるようにしていたので、そして、ハヤの癖を良くわきまえていましたので、舟が水に出て、話しかけられるまで気付かれませんでした。思ったよりは早かったわ。そしてイナ・サラミアスの岸はまだ遠かった。舟頭はどんなに驚いたでしょう!」

 娘は後悔の混じった苦い笑い声を立てた。再び涙が伝った。

「舟頭は私を叱り、すぐに舟を戻そうとしました。ちょうどこの島まで来た時だったのです、彼は急に舟を停めて私をここに降ろしました。私には聞こえない合図を聞き、友が加勢を呼んでいるからと。私には、迎えに来るまでここを動かないようにと言って舟を出して行ってしまったのです。」

 その後何が起こったのか、若者にはわかった。彼に呼ばれたその舟頭は郷を同じにする仲間との争いを強いられ、相手の客を沈めたが、本人は舟を傷つけられた。そして裏切った友の審問に立ち会わされ、彼を逃がすために“掌”の岩壁に取り残された。

「もう長い間戻って来ません。彼に何があったのでしょう?この競技の間、私には見えないとこで良くないことが起こっているようだわ。一日が終わる頃にはどうなっているでしょう―――それなのに私はここにいるために日が沈めば終わるはずの一日さえ終えられない。私がいないとわかったらハヤはどんな目に遭うかしら。」

娘は不意に柳の枝を押しやり、島の西側に駆け寄って水際に立ち、流れの向こうの岸を見つめた。

「遠いけれど、思ったほど深くないかもしれない。」

 娘は己を奮い立たせるようにかすれた声を高くした。

「イナ・サラミアス側よりは浅くて緩やかに見えるわ。私だって少しは泳げる。」

 娘は岸辺を少し歩き、水に入る場所を探した。どこから入っても同じだ、水はコタ・シアナ全幅を早い勢いで流れ、それがたとえ腰ほどの高さでもたちまち足をさらわれるだろう。

 娘は一度も振り向かなかった。若者に何か言われるのも、見られるのすら耐えられないという風にやにわに水に突進した。

「待て、駄目だ、そんなやり方では…。」

 駆け寄って腕を捉えようとした若者を振り払い、娘は水辺に踏み出した。岸にたまった流木の塊が動き、娘の足元を揺るがせてゆっくりと剥がれ、強い流れに浮かんで流れ出した。

 娘は悲鳴を上げ、倒れかかりながらすがるものを求めて手を泳がせた。柳の枝は遠く、茅の穂は霞のようにつかむ手の間をすり抜ける。

 若者はやっとのことで娘の手首をつかんだ。

「怖いわ」

 水面のうねりを見て娘はようやく細い声を絞り出した。

「怖くていいんだ。」若者はほっとして言った。「僕も怖い」

 娘は、震えながら身体の向きを変え、若者の差し出した手を両手でつかんだ。若者はすかさず腕を引き寄せ、娘は若者の足元の岸に飛び移った。若者は木の幹から手を離し、娘の手を両手にしっかりと包んで、いま少し島の内へと導いた。

「身代わりの子を助けたいなら無茶をしてはいけない。生きて渡れなければ何にもならない。いいね?」

 若者が手を離すと、娘はその場に座り込んで泣きじゃくった。

「どうしたらいいの?一刻も早くハヤのところに帰らなければならないのに。」

 娘は“長手尾根”の彼方に白く雪の山頂を仰ぎ、叫んだ。

女主(ミアス)、ミアス!黄金果の神託を求めはしません。あれはただの遊戯の毬。夫も正義ももたらさない。この競技を終わらせて、ただ、私を帰らせてください!」

 流れる雲が影を落としたか、純白の輝きに蒼く陰がさした。夕刻が近づくとイナ・サラミアスの空模様は変わりやすい。若者はベレ・サオの周にわだかまり始めた雲を見つめ、ひとり呟くように言った。

「―――簡単だ。何かを決めるのはこんなに簡単だ。」

 若者は娘に振り返った。

「私に任せてください。舟を呼んでみましょう。」

 若者は、カワセミの鳴き声を真似、川面の上に舟を呼んだ。

 夕刻に向かい煌々と照っていた光が、にわかにぎらぎらとした赤黒い色を帯び始めた。ベレ・サオの峰の上には暗雲が立ち込め、頂の雲の天蓋に稲妻が閃いた。娘はその光景に射すくめられ、小枝のように震えた。この空の変化はどうしたことか?娘は若者を見た。若者は続けて呼びかけを試みながら励ますように娘を見返した。イナ・サラミアスから押し寄せる風が島の上の木々を撓め、急いて流れる川面にしぶきがあがる。口笛は激しい風に寸々に千切れ、空に散る。

 若者は辛抱強く何度も試みた。カワセミの他にどんな舟があるのか彼は知らない。鴨か、シギか、ナベヅルか?サコティーの舟がぶつかって行った舟にはどんな印があった?

 娘には幻としか思えなかった。舷の厚い、しっかりとした舟が、音もなく茅の間に滑り込んで来た。背を丸く伏して舟の輪郭の一部をなすかのように乗っているのは逞しい壮年の男だった。

 男は背を起こし、岸に立っている若者をじろりと見やった。

緑郷の子(ロサルナシル)

 男は手を上げて礼をしたが、不愛想に言った。

「女主の機嫌は良くないようだが、何かわしに用かね?」

「来てくれてありがとう。」

 若者は男の厳しい目を受け止めて言った。舟頭はちょっと白い歯を見せた。

「沈めた舟の客の面倒を見るのは当たり前だ。」

 ふと、若者は胸を突かれたかのように虚空を見、それから天を仰ぎ笑った。

「ああ、僕は何者でもない!」

 そして舟の舟頭に言った。

「クシュの友にして師。この人をエファレイナズの岸に送っておくれ。」

「あんたはどうする。」近づきつつある雷雲を見上げて舟頭は言った。

「私をここに置いていってくれ。そうすれば、かの女(タナ)は舟を見逃す。」

 若者はまっすぐに娘のところに歩いて行った。

「舟が来ました。急いでお乗りなさい。」

 そして、懐から金の実を取りだすと、娘の手を取り、茫然としているその手にしっかりと握らせた。娘は思いがけぬ重さに思わず両手で受け止めた。

 一日の旅を物語り、金の実は痛ましいばかりに傷ついていた。金は剝げ落ち、矢傷を受け、いくつものへこみ、羽は失われ、水を吸って黒ずんでいる。

「真の実をあなたの手元に。確かにただの木彫りの毬だ。だがそれには唯一本物という力がある。」

 若者は淡々と言った。

「心に迷いを持たぬように。さようなら、王女。緑(さか)る木。」

 王女は実を胸に抱き、言葉もなく頭を下げた。

 ふたりにはそれ以上言葉を交わす暇は無かった。舟頭は娘を急き立て、娘はそのまま素早く舟に乗った。波がしらは不穏にあかがね色にざわめき、頭上には墨のような雲が空を覆った。

 舟の艫が岸を離れるな否や、王女は天の暗黒がどっと頭上に落ちるのを感じた。閃光とともに凄まじい音が耳をつんざいた。ぱっと燃え上がった火柱が目の端から前へと広がった。

「ご覧なさいますな!イナ・サラミアスの女主ですぞ。」舟頭は娘に覆いかぶさって叫んだ。

 王女は両耳に手をやり、ふさいだその隙間から風が恐ろしい声を持ち、掌の内に響くのを聞いた。

 ―――わたしを選ばなかった……!

 風は空に散り、それきり静まった。王女は顔を上げ、そっと後ろを振り返った。中州に揺らめく炎は一本の立ち木だった。若者の姿は見えない。

 舟頭はぐっと櫂を取る手に力を込めた。舟は水の上を大きく進み、爆ぜて飛ぶ灰をも引き離した。灰は白くほころびては水に落ちた。嵐は過ぎ去り、煙の匂いも後ろへと去った。太陽は明るく輝き、王女の手には金の実が握られていた。


 競技の決勝点となる丘は、コタ・シアナの源流の渓谷が“掌”と“御髪の峰”の間で果て、エファレイナズの東と南の外縁をめぐる旅路に出るその正面の川岸に南北に長くのびている。

 およそ二十年前より半月ごとに市が開かれているその丘は、河に面した東側はそのまま草木を残し、西側に囲いと門を設け、中には宿舎と工房が造られている。南に長い裾野と丘の上は道をつくり、整地がされて、市の露店や、祝祭の天幕、小さな催しの競技場や舞台に用いられる。

 昨日から丘の麓にはアツセワナやエファレイナズの郷の者が集まり、黄金果の競技とは別の遊戯や曲芸を楽しんでいた。野原で行われる曲芸や歌舞の披露、郷人達の力自慢、跳躍や投擲、角力など。木陰で小さな取引も行われる。丘の上ではまた別の競技、歌舞音曲が催され、競技者の帰りを待つ貴人たちが無聊を慰めていた。

 夕刻が近づくにつれ、丘の登り口から西側へと回り込む坂道からは民人が追い払われた。道沿いにかがり火が焚かれ、アツセワナの警備の兵が配置された。ベレ・サオの源流からコタ・シアナを渡って黄金果の探索に挑んだ者たちが王の御前にたどり着くまでの最後の道程である。

 岸辺から裾の野ではベールを下ろし人に紛れ近づくことが出来たものの、両側を兵に固められた道に近づくことは出来なかった。ロサリスは途方にくれた。日が傾き、遊びに飽きた男たちは三々五々集って通りかかる者をからかい始めていた。祭りとは言ってもひとりで歩いている女はいない。

 人目に触れぬよう、森に身を隠すようにして西の居住地の囲いへと近づいていくと、通用門のたもとにたたずむ娘たちの一団があった。小麦色の肌、黒い瞳。コタ・シアナの娘たちだ。白い服と長く編み下げた黒髪はロサリスの身形と同じだ。ハヤが一緒に御前で踊ることになっていたのはこの娘たちだ。少し離れて若者たちも集まっている。

 ロサリスは森の中からさっと一団に近づいて行った。何人かが気付き、ある者は冷ややかに見返し、ある者は人懐こく微笑んだ。ロサリスは娘たちの見交わす目から、年長者の見当をつけ、話しかけた。

女主(ミアス)のご加護を。」

 話しかけられた娘は慎ましくうなずいた。

「はい、姫君。」

 コタ・シアナの娘の中にはハヤのようにアツセワナの家に奉公に出ている者も多い。ロサリスは首を振り、小声で言った。

「これから踊りに行くのでしょう?お願い。私も連れて行ってくださいな。」

 娘は黙って自分の前の位置をあけた。そして、肩から掛けていた麻の薄布を頭から掛けながら仲間たちに振り返って言った。

「私たちもこの人と同じようにしましょう、みんな顔を隠して。こうして顔が見えなくても見分けたら私たちの本当の良い人(ラート)ってことよ。」

 娘たちはちょっと賑やかにざわめいたが、たちまち年長の娘に倣って頭から薄布を被り、くるくると位置を入れ替わった。若者たちは苦笑し、囁きあった。

 一行はやがて丘の上から招じられた。案内の者に従って丘の登り口へと向かいながら、ロサリスはベールの下で背をこごめた。娘はつと近づいて来てロサリスに言った。

「御前まで忍んでいくのでしたら、私たちと踊ったほうがよろしゅうございます。踊りは難しくはありません。」

「あなた方の真似をするわ。私を端の方に入れて。」ロサリスは娘たちと若者たちの頭数を数えた。

「ひとりで構わないから。」

「私が最後だからその後ろに付いてください。そこなら二人踊りの順が来ないから。」

 丘への坂には道に沿って交互に槍を持った兵たちが並んでいる。左手から差す光が娘たちの白い衣を紅色に染めた。


 丘の中央に設けられた広場では、一日賑わった小さな競技や歌舞の披露の場は片付けられ、いよいよ祭りの最高潮に向けて、決勝の見物と審査のための席が整えられていた。

 北側の奥に設けられた壇上の席に王は腰を下ろし、催しの出場者に手を叩き、勝者を讃えねぎらっていた。終日あらゆる催しに臨席し、陽にさらされ続けた顔は赤く焼けていたが、いささかも疲れを窺わせぬように秀でた顔に笑みを保っていた。黄金果の勝者がその前にたどり着けば全ての競技は終わりになり、王女の婿が広く告げ知らされることとなる。その時まで戦う者たちの前に疲れを見せるのは王の本意ではないのだ。

 近づく日没と勝者の審理を前に、宰相トゥルカンは王女を呼びにやらせた。早朝にベレ・サオから戻り、王とは反対に天幕に籠ったきり人々の前に出ることの無かった王女は、付き添いの腰元もなく、薄暮の空にさまよい出た月のようにひっそりとやって来た。

 父王は娘を迎えようと自ら立ち上がって、自身の隣の席に導いた。白いベールを被った姿はひるんだように立ちすくんだが、王はその手を捉え、さっさと先に立って玉座に戻り、深々と腰を下ろした。王女はよんどころなく、少し中心から顔をそむけ、椅子に掛けた。

 全ての貴賓たちが呼ばれ、席に着き、日没の前の最後の催しが触れ係によって告げ知らされた。

 コタ・シアナの若者と娘たちの舞であった。広場には三本の大きなモミの丸太が平行に並べられた。呼ばれた若い男女の群れが、二手に分かれ、端から両側の丸太を伝い、位置に付く。傍らに控える壮年の奏者たちが手にするのは二本の拍子木だ。奏者は躍り手たちにうなずきかけて、三つの拍と吟唱で旋律を奏で始めた。

 もとは水上の丸木橋とも舟とも言われる。若者の木、娘の木、それぞれの上で向かい合ってひと節踊り、次から順次中央の木の上でひとりずつ進み出た男女が組んで踊り、心の通った者が手を取りあって木から下りてゆくというつまどいの踊りであった。

 王の席より右手の丸太に娘たちが、左手の丸太に若者たちが並び、向かい合って、拍子木の拍にあわせて踊り始めた。ひと節終わると左右から出た一組の男女が中の丸太に移って踊る。手を合わせ、押し、引き、足で拍子を取り、交互して蹴り、跳び、抱え回り位置を変える。そうして前へと進み次の組に中央を譲る。順を待つ男女は両脇でひっそりと同じ所作を繰り返す。

 娘の木の片端に、ひとり背の高い娘が、水になじまぬ小石のようにぎこちなく遅れて踊っている。

 王の右側に少し離れて座っていたトゥルカンの首がすっと伸びた。老人は王の向こうの王女の席をちらと見やった。椅子の端にかぼそく掛けていたベールの王女は心を動かされたように身を起こした。その隠れた顔の先には、丸太の最後尾にいる背の高い娘がいる。

 踊りが三回りもすると、端の娘の動きは滑らかになり、ベールの中の顔は高く上がり、雄弁に所作に従い振り返り、うなずいた。その仕草は相方と踊る他の娘たちよりもはるかに大胆に上座に向かってなされたので、見物人の幾らかの注意はそちらに向かった。娘は突然、王女に向かって大きく差し招いた。王女は立ち上がった。見ていた人々の間に大きな緊張が走った。何かを見つけ、こらえきれぬように王女は壇を下りて踊りの輪の列の中に駆け込んだ。同時に丸太を下りた娘が王女を腕に抱きとめ、踊りを止め集まって来た娘たちの中にその囚われの同胞をゆだねた。

 ロサリスは輪から出るとベールを取って顔を表した。あっけにとられた人々の産み落とした静寂をロサリスは逃さなかった。

「若者たちよ、踊りを続けなさい。」

 王女の命に、水の民の若者、娘たちは畏まることなく嬉々として応じた。娘たちはベールを取り、若者たちは各々の相手を見定めて対になり、地面の上で即興で踊り始めた。

 見物の人々はこの余興に沸いた。ロサリスの足は震えていた。人々の好奇の喝采はまだ味方ではない。未だ恐れてその顔を見られぬ父王の後ろで、宰相トゥルカンは立ち上がって護衛のひとりを呼んだ。仲間たちの輪に入ったものの相手がおらずぽつねんとひとりで踊っている王女の衣装の娘を指差し、何かを命じている。ロサリスは頭を巡らせ、父の家来の中に逞しい壮年の男を見出した。

「バギル、ハヤと踊って!」

 クシガヤに近いシアナの森を故郷とするこの男はマントを取り、進み出た。コタ・シアナの若者たちは輪を開いて新たな踊り手を通した。無骨な男が小柄な娘と踊るのを見て、人々はやんやとはやし立てた。

 王は日に焼けた口許をぐっと引き締めて立ち上がった。そしておもむろに拍手をした。人々の喝采は静まった。コタ・シアナの男女は踊りをやめ、脇に退いて跪いた。

「日没だ!」

 誰ともなく声が上がった。人々はどよめいてエファレイナズの森の上に沈まんとする赤い日輪を見た。アツセワナは遠く、広大な森に阻まれている。運命への恐れが王女の胸をひしひしと締め付けた。金の実が自分の手に戻った時、女神は不興を表しはしなかったか。金の実は自分に主導を明け渡したのだろうか。それとも思いがけぬ裏切りを働くのではないだろうか。

「手間取っているようだな。」

 父王の声が、王女の慄く心に穏やかに呼びかけた。

「席につきなさい。」

 暮れゆく丘の裾野から坂に沿って赤々と松明が灯る。

「太陽が沈んでしまうぞ。」人々が囁きはじめるなか、丘の麓から新たなどよめきが上ってきた。

「アガムン殿が来るぞ。」

 王女は胸の前に両手を組み合わせ、目を閉じた。

「ダミル殿も来る。接戦だ!」

 乗り出して見ていた人々は一斉に傍らに退いた。

 ふたりの男は肩を突き合わせるようにして坂道を登って来る。アガムンはよろけるようにダミルの前に塞がり、ダミルは横によけて接触を避けた。坂を登りきったところでダミルはアガムンをかわして振り切ると一気に王の前へと駆け付けた。

 王の両脇で待ち構えていた審判が杖を差し渡して留め、位置を承認して杖を控えた。続いて到着したアガムンも同様に承認された。

 王は玉座から下り、期待に目を輝かせて甥を眺めた。

「ダミル、最後の最後まで駆けて来たか。」

 ダミルは息を弾ませながら、濡れた髪を冷静な顔からかき上げた。

「私は猟犬の性をしておりますのでね。」

「何を言うね、君。」

 膝に手をついて喘ぎながらも、アガムンがせせら笑うように口を挟んだ。

「歩いて来ても良かっただろうに。」

 王はくるりと背を向け玉座に戻り、アツセワナの三家と五つの主だった郷から招かれた領主、名代を呼んだ。

「黄金果に挑んだ勇士らは帰還した。審理を行う前に彼らの成果を見せてもらおう。」

 王は順に前に跪くふたりの男の顔を見た。ダミルは表情を変えずにまっすぐに前を見ている。アガムンが膝を進め、滑らかに口を切った。

「聞きしに勝る難所でございました。負傷も致しましたが苦労の甲斐はあったと存じます。」

 男はうつむいて隠しに手をやり、湿りを帯びて垂れた灰茶色の髪の下からロサリスに目を向けた。

「このように黄金果はわたくしの手に。これを我が伴侶となる王女の手に捧げます。」

 アガムンが高々と差し出したものは、人々の瞼にのこる黄金の実そのものだった。ロサリスは胸の潰れる思いで身を引いた。審理に呼ばれた領主たちはひと呼吸あって静かで重い吐息のざわめきをたてたが、その中からつきあがるように失望の声があがった。

「馬鹿な、そんなことが。」

 まだ若い声の主はコセーナの名代、領主の嫡男ダマートだった。

「ダミル、お前が―――お前が手にするはずだったのに。」

 王は日に焼けた顔の中で爛々と目を輝かせながら微動だにしなかった。その右隣りで、大きく前にかがんで身を乗り出したトゥルカンは、領主たちの一群のなかからダマートの目を捉え、にっこりと笑みをつくった。

「ダマート殿、その申しよう、聞き捨てなりませんな」

 沈黙をも身振りひとつで思いのままにする老宰相は、通りの良い低い声でゆっくりとたしなめた。

「弟自慢にもほどがありますぞ。力量、器量、ともに互角と見込んでの競技ではないか。それとも心外の妙策でも用意なさっていたのかな?ダミル殿ほどの若者に兄御の手助けが必要なわけもなし。」

 ダマートは蒼くなって立ちすくんだ。

「兄上、私はしくじったのです。」ダミルは言った。

「御前をお下がりなさい。不義に加担するよりはましだ。黄金果が私の手から現れなかったのは道理あってのことなのです。」

「黙れ」

 王が椅子を蹴って立ち上がった。

「黄金果が手にないのが道理だと?誠意を誓って競技に挑みながら勝負の意を侮った言いよう。よくもおめおめと娘の前に来られたものだ。兄弟ともに私の前から下がれ。」

「父上、お待ちくださいませ」

 王女の細い声が王を引きとめた。王女は胸の上に両手を重ね、ようよう動悸を静めながら言った。

「ダミル様は道理あってと言われました。黄金果を発見できなかったのではなく、獲得できない故をご存じの様子。ここでアガムン様の報告と合わせてその故を尋ねましょう。わたくしはその経緯を伺いとうございます。」

 王はぐるっと顎をめぐらせて好男子の甥を睨みつけ、荒々しく席に戻った。

「横に退け。不甲斐ない奴め。」

 ダミルは兄の腕をとって末席へ退いた。

「審査をすすめるべきですぞ王。」トゥルカンは言った。「ここに勝者が名乗りをあげておるのに。」

「ほう、」王は振り向きもせず大声で言った。「どうかな。」

「どうぞご検分を」アガムンは手すさびに弄んでいた金の実を再び差し上げて進み出た。

「アガムン殿、御控えなさいませ。」 

 ロサリスはきっとアガムンを睨みすえて言った。

「父の嘆きを察し申し上げるとこれ以上の不実はたくさんでございます。わたくしはその実が偽物であることを知っています―――。父にもすぐ知れることでございます。」

「ロサリス」

 アガムンは口許に薄笑いを浮かべ王女の粗末な身なりを見た。

「どうしたんです、その姿は?どうやら面白い余興があったようですな。父君も私の父も心配を隠してひと芝居うつのはさぞ苦労だったでしょうよ。今後勝手は御免こうむりますよ。大事な方を一人歩きさせて謗られるのは私ですからね。」

「どれ、見せてみろ。」

 王は椅子に掛けたまま手でよこせと合図した。金の実は王の手に渡った。王は顔色ひとつ変えなかった。

「いちおう、汚れてはいる。が、きれいなものだな。傷ひとつないぞ」

 王は言ってロサリスに差し出した。ロサリスは首を振った。

「父上、わたくしの投げたものには翼の付け根に傷がありはしませんでしたか?」

「そうであったな。」王はうなずいた。「競技の前に私が切り取っておいたのだ。」

「では、これをお確かめくださいませ。」

 ロサリスは、肩に下ろしたベールの陰から、真の金の実を取りだし、父王に差し出した。王はもう一方の手にそれを受け取った。王はそれを手の内でくるりと返し、印を確かめると、ふたつの実を同時に皆の前に示した。一方は少しも損なわれずに真新しく輝き、もう一方は痛ましいばかりに形を失いながらも、コタ・シアナの水を吸い、手に重く、暗い光を湛えていた。

「真の実は最後にはこのような姿になるものだ。」

 手にした実の長い試練の傷痕と冷たい重みに感じ入りながら、王はしみじみと言った。

「よいかアガムン。浅はかな奴め。」

「勝者は不在だ。」トゥルカンは言った。

「この競技を白紙とすることを求める。王よ。婿選びの新たな審議を。」

「むろん、競技は白紙だ。しかしこの男は婿の候補として金輪際認めぬ。」

 王は大声で言い、偽の実をアガムンの方に放りやった。金の実は立ちすくむ男の足もとに地面を打ってひと跳ねし、誰もから離れたところに落ちて虚しく転がった。

「さて、娘よ。」

 王は手にした実と娘とを交互に見ながら、厳しく言った。

「いくつか不明の点をそなたに正さねばならぬ。」

 ロサリスはまっすぐに父の前に立った。

「はい、父上。」

「競技の間、そなたはどこにいたのだ?」

「コタ・シアナの中州、“誓約の州(コス・クメイ)”と呼ばれるあの島でございます。」

「それは何時からだ?」

「ここに戻った後、コタ・シアナの民人の助けを借り、舟で川を下ったのでございます。」

「ただひとりで出歩くとは軽率千万だぞ。」

「申し訳ございません」

 王女は頭を下げた。

「その実をひとりで見つけたのではないな?」

「はい。」

「ではいかにしてお前の手に渡ったか話してくれ。」

「わたくしもこの実の来歴については存じません。」

 ロサリスには、末席で片頬に笑くぼを浮かべて目をしばたたかせているダミルの姿は見えなかった。

「イナ・サラミアスのかたが私に下さったのです。」 

 王は椅子から身を起こした。

「イーマとな。その者の名を聞いたか?」

 王女は戸惑って父王を見た。

「名は存じ上げません…。」しばしの沈黙の後、ふと思い当たって彼女は言葉をそえた。

「ヒルメイ族で、父君は腕の立つ狩人とか。」

 王は無言で膝を打ち、次いで深い息を吐いた。

 トゥルカンが声を高くして遮った。 

「これは我らの競技に介入した者がいるということだ。王よ。」

 敢えて言葉を発さずにいた領主たちも、その言葉に顔を上げ、各々うなずいた。

 王は、おもむろに顔をあげた。宰相の言葉にいささかも心動いた様子は無かった。

「競技の結果は変わらぬ。だが、両国にまたがって行われた催しにおいて(のり)が守られたかどうか確かめる時が来たようだ。」

 王は言い、黄金果を軽く持ち上げた。

「この実は他にも様々なことを告げる。」

 王は、娘に席に着くように命じると侍者を呼んだ。

「本日、ベレ・サオの渓谷の北岸を見張った者たちの長をここに呼べ。」

 ほどなく王と同じ年配の、あまり体格は無いが姿勢身ごなしの堂々とした赤毛の男が警備の任についていた部下をひとり伴ってやって来た。男は丁寧だがいささかも畏まる様子もなく王に礼をした。王は男を傍に招いた。

「トゥルド。若い者たちは皆コタ・シアナの水の試練をくぐったようだ。そなたの到着は遅かったが装いは乾いているな。皆に遅参を詫び、物見遊山の報告をせぬか。」

「いきなりのお叱りでございますか。」

 トゥルドはにこやかに言った。

「ご存じのとおりの難所でございます。他にも込み入った事情があり、たったいま南の見張り方との話を終えて戻って来たところ。話もあれば、物もあり、人との別れもございます。」

 トゥルドは一同を見回し、部下に言いつけて持参していた長い包みを王の前に預けた。

「それをご覧になる前に、競技の開始から我が北岸の見張りの者が目にしたことの報告を。

「ベレ・サオの滝の直下、競技の始点の最も近くにいた者の証言でございます。例の橋の落下の後、ダミル殿アガムン殿ほか四名が東の岩壁に黄金果を求めていた折、その上を飛ぶ矢を見たと。さらに矢の発したあたりからベレ・イナのおとがいともいうべき急斜を駆けおりる影を見たと。姿は人だがとても人とは思えない、羚羊のようにあの岩肌を下りてきて赤く色づいた茂みの中に消えたと申しております。」

 王女は胸の前に両手を組み合わせたまま、じっと耳を傾けている。

「さて、岩棚から飛んだ件の矢について。競技者のうち四人が岩壁の上へと行き、見張りの者の目からしばし隠れたと見ると挑戦者のひとりが上から落ちてきた。」

 トゥルドは言い、一同の末尾に互いに離れて立つアガムンとダミルを、落ち着き払った目で順に見たが、居並ぶものの興味が自分に向いているのを認め、報告を続けた。

「その者が手にしていた物がこれです。」

 トゥルドは王の前の包みを開け、一本の矢を取り出した。

 それは細い矢柄に鷲の羽根と返しのある鋭い鏃のついたものだった。

「イナ・サラミアスの矢だ。」

 オトワナコスとエフトプの領主が同時に言った。

「いかにも」

 トゥルドはうなずいた。

「そしてこの矢柄の長さをご覧あれ―――。落ちてきた男はこれを手に握っていた。そしてどうやらこの矢が幸いしたようで鏃の返しが断崖の藪に一旦掛かり、直下に落ちるのを防いだのです。両足を折ったものの一命をとりとめたとのこと。

「さて、またいっそうの奇妙なことはその男とともに上に上がって行った男がだいぶん後になって血相を変えて下りてきた。助け出され訳を尋ねても上で何が起きたかを言わず、ただ後生だからアツセワナには戻りたくない、イネ・ドルナイルの穿場の水汲みにでもしてくれと頼むばかり……。」

 トゥルドはちょっと言葉を切った。

「ここにはちょうどそこにおられたおふた方がおられる。尋ねても良いが、話を先に進めましょう。」

「言うまでもないことだ。」

 トゥルカンが言った。

「イナ・サラミアスの者が競技に介入したのだ。」

 トゥルドは機敏に矢を持ち替えて王に渡し、トゥルカンに振り返った。

「かの地からはまた違う言い分を聞きましたよ。」

 トゥルドは両手を腰に当てた。

「しかし、当初は私どもも事の次第を訝りながら、神事とて競技者たちの妨げにならぬよう、後に後に控えながら競技場をつぶさに調べました。土地の者が“鷲谷(シグハマ)”と呼ぶ谷からその下の滝まで、向こうの見張りの領域までも踏み込んで調べたのです。正午を一刻ほども過ぎた頃でした。“鷲谷”から注ぐ三連の滝の脇で奇妙なものを見つけました。岩根に突き刺さりへし折られた短弓です。」

 トゥルドは包みの中から真っ二つにおられた弓を取りだし、示した。

「怪しい。いかにも怪しい。矢に弓とは。」

 イビスの領主がトゥルカンに目配せした。

「我が配下の部下もそう言ったものです。」

 トゥルドは言った。

「たちまちその場で詮議が始まりました。これはイナ・サラミアスの介入の証か、と。だが、以下に起こったことが弓と矢の説明をしてくれましょう。我々は気持ちも昂り、声高にイナ・サラミアスの者の競技への介入の可能性を口にしていました。すると一の滝の向こうの岩棚から大音声とともに長弓を構える姿が現れたのです。

「介入とは笑止!神託とは無関係の侵入を止めるに何のためらいがあろう―――と。私はその男が誰であるか知っていました。そこで尋ねました。ハルイ―、この矢を放ったのはあなたか、と。すると男の言うには、自分の胸に訊くがいい、トゥルド。ヒルメイのハルイ―が的を誤るかどうかをな。おれの矢は殺める時は殺め、助ける時は助けるんだ、と。この弓はあなたのものかと尋ねるとさも軽蔑したように答えました。おれの弓は長いのがひとつきりだ。そんな短い弓でお前の鏃をつけた矢が射れるものか。そうして南西の方、“長手尾根”の方に向かって鋭いクマタカの声を発したかと思うと、あっという間に岩を上がり、谷の中に姿を消したのです。」

 トゥルドは折れた短弓を脇に抱え込んで王から柄の長い矢を受け取り、弦にあてがって見せた。

「言うまでもない。これでは引き込めない。」

「相変わらずの男だな。」

 王は黄金果を眺め、王女に微笑んだ。

「この実には矢傷があり、鏃とも合わさるが、お前に実をくれたのはまた別の者のようだな。」

「はい」王女は驚いて答えた。

「黄金果の競技には知られざる競技者がつきものだ。―――トゥルド、報告を続けよ。」

「さらに一刻たちまして、アガムン殿に続きダミル殿が渓谷を渡るのが確認されましたので、角笛の合図にて、かねてからの約束通り、南岸の見張りの長、ヒルメイのガラートと会談を致しました。そこでガラートは競技場から救い出したふたりの怪我人とひとりの死者を引き渡しました。」

 トゥルドは気の毒そうにコセーナのダマートに礼をした。

「ダマート殿、あなたの従者だ。」

 ダマートは叫び声を上げ、よろよろと前に出かけた。

「殺されたのか?誰に?」

 ダミルは脇から兄をしっかりと押さえ、囁いた。

「兄上、ようやく気付かれたか。誰が事を知っており、誰が得をするかよくお考えなさい。恨みの矛先を間違えてはなりません。」

 その目は、向い側に陰気に立ってこちらを盗み見るアガムンを見返していた。

 トゥルドは話を続けた。

「またガラートはこう申しました。競技には先方に知らされていない者がおり、当方の知らない者がいた、と。また、両者ともにコタ・シアナの水に自ら飛び込み行方をくらませた、と。ガラートの言うところによると侵入したのは青い目の男だったということです。禁を犯して競技に近づいた者については、黄金果に触れるのを目撃した者はおらぬ。ただ、民からは追放した者であるのでもはやイーマとしての名を持たぬと申しました。

「そこで私は、引き取ったふたりの怪我人に何かこの潜入者について知っているかと問いただしました。ふたりともに、一瞬だが顔を見たと申しました。額にヒルメイの印をつけた眉目秀麗な若者であったと。また、ふたりともに青い目の男の事は知っているが、それ以上は聞いてくれるな、と懇願するのです。このままイネ・ドルナイルの穿場にやってくれ、と。またしてもイネ・ドルナイルの穿場だ。」トゥルドは首をかしげた。「揃いも揃って楽園で待ち合わせがあるかのように頼むのです。ふたりとも満身創痍で哀れにも片方は盲目になったというのにですよ。」

「知られざる競技者が双方からひとりずつ。」

 王は呟いた。

「ともに場から去り、勝敗に関与せず競技は白紙となった今、痛み分けとする他はない。」

そしてトゥルドを振り返った。

「トゥルド、ご苦労であった。自ら苦役を望む者たちの口を割らせるのは容易ではあるまいな。そなたの裁量で居場所を与えてやってくれ。」

 王はを厳しい顔つきでダミルを呼んだ。

「お前の道理とやらを聞かせてもらおう。」

「いとも簡単なことです。」

 ダミルは王と領主たち全員を見渡せる位置まで進み、明瞭に答えた。

「かの“鷲谷”から影のように私に同行していた若者がおりました。彼には彼なりの理由があって黄金果を追っていた。この競技には公には七人の挑戦者がいた。だが本当のところ、私は他の者など相手にもしなかった。取っ組み合いの末、まさしくその者が私から黄金果を奪ったのです。ほら、これです。」

 彼は腕を差し上げて傷を包帯しているヒルメイの紋の鉢巻きを示した。

「ひどい目に遭いました。なかなかに内気で姿を見せずにウルシだの鷲だのを使いによこすのです。おまけに本人に代わって言い訳してやる始末。私にはハルイ―の子と名乗っていました。」

 領主たちは近寄って、縫取り織りの日輪の紋を見た。

「姫、相違はございませんか。」

 エフトプの領主は振り返った。

 王女は茫然とそれを眺め、やがてうなずいた。

「そうそう」

 ダミルは思い出して付け加えた。

「彼は護符として、緑に金の脈のはいった小さな石を持っていました。」

 何人かの領主たちは一斉に目を合わせた。王は顎を上げ、黄金果を手にして立ち上がった。

「これにて黄金果の競技、およびその審査を終わりとする。」

 王は大声で宣言し、一同を見回した。

「この上の審理を望む者はその旨を申し出よ。また、競技について言い残した事があるならこの場で申し述べよ。トゥルカン」

 王は傲然と立つ宰相に向き直った。

「委細承知か。」

 トゥルカンは王におもむろに礼をした。そして王女の前にゆっくり歩み寄った。王女は、老人が見慣れた笑みを取り去った面の上に、新たな興味の色と警戒の気味を浮かべるのを見た。

「姫。腹を割って申し上げるとわしはあなたが好きだった。清げな物言いや欲の無い素直な性がな。わしが祖父君の代に心血を注いで作りあげたこの国を受け継いでくださるなら不肖の息子と娶せ、王位に置くも良しと思っていた。」

 白眉の下で目が軽い侮蔑を帯びて光った。その声がいたわるような口調で言葉を継いだ。

「しかし、あなたの資質は政には向きませんな。―――また、ご自分の不足を埋める判断力もお持ちではない。残念ではあるが、わしがあなたの力添えをする日は今後一切無かろう。」

「トゥルカン様、あなたの言葉は私の心を刺すようです。」

 王女は戦きながら答えた。

「民を治める器量がない―――その謗りが単に謗りであれば恐れるほどではない。それが真実であれば恐れよ。私の心は今、こう悟りました。そして私はどれほど恐れていることか。トゥルカン様、それでも私には分かりません。このような蔑みを受けてもその方の子を産み、その方を看取ることの出来る女がいるものだろうか、と。」

 トゥルカンは王女の前を横切り、一同の輪の外へと去った。

「姫よ、他に言うことはあるか。」

 王は黄金果を娘の手に置き、静かに言った。領主たちとダミルは身じろぎもせずに王女の言葉を待った。

 王女は一同の注視にも気づかぬふうに黄金果を胸に抱き、おもむろに壇を下りた。かがり火のつくる明るみの外へと歩み、星の煌めくベレ・サオの山頂に向き直り、礼をした。絶えず生死を繰り返し、万物を更新し、産み、恵み、看取りつづける偉大な恐ろしい母なる女神に恭順の意を表した。

「わたくしに唯一本物の黄金果を与え、迷いから覚めさせ給うたサラミアに感謝を。」

 王女は声に出して言い、父王に向き直った。

「そして父上、どうぞ、私の身代わりとなった娘にはお咎めの無きように。」

「相分かった」

 王は簡潔に言った。


 若者は閃光の中に乙女の顔を見た。母と同じ目は難詰するように見返し、ふと気が付くとその顔はずっと幼い少女のものになった。

 これは誰だろう? 

 訝るうちに意識は闇の中に落ち、彼はそこで目覚めた。目を開けてもやはりそこは闇の中だった。闇の底にほの白いものが見え、その無数の手を打ち振り、起きよと急き立てるかのような白いものはびっしりと立ち並ぶ茅の穂だった。

 汀からひたひたと水が顔に迫り、ずっぷりと全身は水に浸かっている。自分はまだ死んではいない。

 起き上がった彼の目の前に、雷に引き裂かれた一本の木がある。幹を焼いた火は収まっている。が、枝が炎に包まれている。彼の指だ。真っ赤に熾り輝いた瞬間に消える。いや、違う、梢だ。梢の枝が木枯らしに苛まれ、芯から朽ちゆく葉脈が血のような色をにじませる。非情な風が造る紅葉だ。

 この木はどんな木だったのか。今年初めて花を咲かせ、実を結んだところだったのだ。実は奪い去られた。彼の心に故知らず、生涯の中で覚えたことの無い悲しみと憤りが湧きあがった。遠い記憶が、失われたものが難儀の末の喜びのもとで形成されたかけがえの無いものだったと教えた。

 傷ついた木は彼の前で変容していった。望む姿なのか望まぬ姿なのかは分からない。荒々しい怒りがそのまま裂かれた樹幹を覆うこぶのような樹皮になり、枝には長く鋭い刺が植わった。刺に守られた中心に位置し、彼は暗い満足を覚え、次いでたとえようのない寂しさに苦しんだ。

 ―――いいことだわ。正しいことよ。

 こちらを見返す灰色の目が懸命に言う。

 生きるということは。

 樹皮の壁の中で彼は声を発しようと喘いだ。外から助けを求める声が聞こえる。かつて彼は歩くものだったはずだ。彼は壁を破り、飛び出、倒れた。

 少女の声が歌っていた。地面に雨が降り注ぎ、そして止み、彼はぬるい朽葉の匂いのする土に埋もれていた。彼の上にひとりの少女が土をかき寄せていた。髪は短く色白で、男のような風変わりな服を着ている。その両手はかき寄せた土の塚の上に重なり、軽く叩いて言った。

「夜は間もなく終わる。光が来たら目をさましてね。」

 少女は懐かしい歌を口ずさみながら去って行った。湿った細やかな腐葉土が、少女の足が踏んだ跡を柔らかくへこませていった。

 ラシースは、微かな光を感じて瞼を上げた。夜半の闇には星明りを隠す雲が加わり、夢の中と何ら変わらぬ光景だった。しかし、イナ・サラミアスの岸から流れを渡って小舟がやって来る。灯した松明が水面のさざめきに光を何倍にも輝かしながら近づいてくる。小舟は流れの中にしばらくとどまり、ほどなく揺らぎ輝く光と火影に映し出される精悍な舟頭の影を乗せたまま、川下へと遠ざかって行った。

 落胆の声が凍えた唇から漏れ、ラシースは、再び腕の上に頭を横たえようとした。が、粛々と水を分ける音とともに近づく黒い影に目をとめた。遠いその輪郭は、天の彼方から轟く風の唸りにも動じるふうもなく、ただ慎重に足元を確かめつつ着実に動き、ラシースには、時々こちらに向けるその炯々たる眼差しが見えるかのようだった。

「ラシース。」

 父ハルイ―は大声で呼んだ。

「そこにいるのか」

 応えなければ。ラシースは起き上がろうとした。手足は地面をかくばかりで立とうとせず、声は出なかった。

「そのままいろ。今行くからな。」

 ハルイ―はそういうと、腰のあたりまである水の中を進み、流木の溜まった岸の端へとたどり着いた。

 ハルイ―の足が岸に掛かろうとした時、空は突如唸りをあげ、洲の木々を揉みしだくように揺さぶった。ハルイ―は背に手をやり、負っていた長い弓を取ると高く掲げ叫んだ。

「じゃじゃ馬め!夜は眠りの時だ。お前の預かる草木鳥獣を安らわせ、母らしくその守に励め!」

 風は一瞬にして止み、ラシースは力を振り絞って起き上がり、叫んだ。

「父上、ここです。」

 岸に上がって来たハルイ―は、息子に歩み寄ると、その手を引き起こして立たせた。

「あの女は昔からおれのことが大の苦手でな。」

 不敵な男はこともなげに言い、息子に短刀を差しだした。

「眠る前にもうひと仕事あるぞ。」ハルイ―は島の中ほどの木立ちを指差した。

「あの下を少し刈り払って炉をつくれ。周りの草を束ね、低い木の株は折るか横にからげて壁をつくれ。」

 そして息子の肩に持って来た外衣を掛け、弓をも渡すと、乾いた流木を集め、茅を刈りに岸辺へと行った。

 ラシースは林の内の下草を少し刈り、周囲を固く束ねあわせて垣をつくり、石を並べて火床をつくった。ハルイ―は刈って束ねた茅をその周に立てて並べ、流木で押さえると、内に入り火をおこした。

 ラシースは、濡れた上着を脱いで枝に掛け、外衣にくるまり、火には背を向け、冷え切った手足を丹念にさすった。彼の後ろで薪が一本、二本と足され、やがて燠になった薪から光と熱とが発し、外衣を通して背に伝わりはじめると、ようやく人心地がつき、彼は少し手足を伸ばし、火に向かった。傍らには彼の弓、彼の短刀が揃っている。

 ハルイ―はもう少し野営の仮庵を整えると、寒風でこわばった顔をごしごしと拳でこすり、腰の水筒から一口飲むと、息子の膝に放り、火の傍に座った。

「何があった。話せることがあったら話してみろ。」

 ラシースは酒に口をつけかけ、父を見た。

「父上、私は黄金果に触れ、掟を犯しました。死罪かもしれません。」

「追放だ。ガラートはそう言った。」

 ハルイ―は現れた時からずっと眉根に深い皺を寄せ、口許はむっつりと重たげに引き結んでいたが、息子の告白を聞いてもその面は何ら変わらなかった。

「おれには今宵一晩ここでお前に会うことだけが許されている。そのつもりで話せ―――ここには他に聞く()もおらぬ。」言ってハルイ―はわずかに唇を引きつらせた。

 ラシースは、こゆるぎもしない父の表情から自分の問いをひと先ず差し控え、昨日の朝の、高原に現れた乙女の言葉から王女との出会い、今日の黄金果の競技の始まり、女神が下した霹靂までを順を追って簡潔に話した。話しながら、父の心が自分の話を辿りながらも徐々に己の思念に傾き、しまいにははじめとは全く違う、見知らぬ者の目で息子を眺めるのを見て、ずっと懸念していたことを口にした。

「父上、母上は?どうしておられます。お元気なはずがない。私は黙って出かけ―――罪を犯したことをご存じのはずだ。」

 息子の上に戻った父の眼差しが一瞬憐憫の色を浮かべ、しかし、その口は簡単に言った。

「レークシルは死んだ。」

 ラシースは、その言葉が影を突き抜けるように自分の中を通り抜けるのを聞いた。言葉の消えた後には何も無かった。彼は訊き返すように父を見、父は目蓋を一度瞬かせてうなずいた。

「僕は生きていける。」

 父と子の視線が互いに膠着し、牽制しあうかのように動かぬ中で、ふとラシースの唇が微笑むように震え、その言葉を吐いた。恥じ入るように拳を握り、続いて堰を切ったように止めようもない言葉を苦しみながら吐き出した。

「今やっと。あの目を見なくてもいい、僕を推し量るような、恐れるような、すがるような―――」

 彼は声をあげて笑い、父を見、言った。

「あなたに逆らうのも平気だ。もう僕の手を縛る母はいない―――苦しむことなどないところへ行ったんだ……。」

 吐き出し、空になった腹の底から呼気をもとめて子は喘いだ。煙の混じる苦く冷たく刺すような夜気が鼻腔から喉から流れ込み肺腑を満たしてくる。冷たい、冷たい、霜を結ぶ夜気が。両の拳を胸の前で揉み絞り、彼は声をあげて泣いた。

 ハルイ―は黙って息子の様子を眺めていたが、やがてすこし苛立ったように口を切った。

「これでいい!」

 返事の代わりに息子は顔を両手と外衣で覆い、嗚咽を押し込めた。泣いている者の傍で途方に暮れ、あたかも天に非があると難詰するかのようにハルイ―は拳を空に突きつけたが、その先の星に向かい、重々しく語りかけた。

「ようやくわかったか。見ろ。息子はお前の手を離れたぞ。」

 ハルイ―は拳を引っ込めると、傍らに突っ伏したままの息子に話しかけた。

「お前は何を思って競技に臨んだのだ?()()()に請われたこと、王女に会ったこと、レークシルに朱鳥の薬草を手に入れること。どれも大した動機にはならなかったろう。ただ、若い者の人並みな遊びもさせてもらえず、年老いた両親の諍い事を訳も分からず仲裁せねばならないことに腹が立ったのだ。それにお前にとってはどこであろうとイナ・サラミアスを駆けることは何でもないことだ、そうだろう?」

 ハルイ―はちょっと笑った。

「誰が知らずとも自分の力を試し、黄金果を手に入れ、お前を気の毒がっている奴らの鼻を明かしてやりたかったのだ。もっともなことだ。困難はそれ自体が動機になり得る。

「二十年前、おれは鉄の入手に熱中し、交換の代に繭を殺して絹の価値を上げることを思い立った。折しもアツセワナのトゥルカンはベレ・イナの山中に眠る鉱脈に目をつけて併合を目論んでおり、王シギルはイナ・サラミアスとの交易の道を探っていた。おれはシギルと約束を取り交わした。ちょうど今頃、初霜の下りる時分、おれは絹を用意し、シギルの用意した鉄と交換するとな。だが、約束は果たせなかったのだ。鉄は沼に消え、絹は他の大事のためとはいえ、おれが使い物にならなくしてしまった……。

「おれはシギルとの約束を果たそうと、唯ひとり絹をつくる手立てを持っていたレークシルに望みをかけた。だが、あれはあれで自分の身の上の不幸を嘆いており、可愛がっている蝶を殺める者としておれを忌み嫌っていた。身と心をひとつにする()()()の巫女として身を守る必要もあった。あれはおれを殺そうとまでした。

「それまでは絹のため、交渉を成り立たせるためだと思っていた。だが、結局おれは得難い故にあれを欲したんだ。おれはレークシルをあの女から引き離すために碧玉の守り刀イサピアを奪い取り、いまひとつの名とともに“白糸束(ティウラシレ)”の瀑布の深みに投げ捨てた。」

 焚火の火影に、うなだれる息子の艶やかな髪の房が光った。

「絹は駄目になり、シギルとの約束は守れず、レークシルを連れて逃げる他は無い。シギルの怒りは激しかった。南のエトル・ベールからコタ・シアナを渡り、シアナの森をさまよっているところで王自身が加わった狩りの一団に見つかり、捕縛された。

「イナ・サラミアスの巫女を知らぬ者はいない。男たちは、微笑めば日が射し、嘆けば雨が降り、歌えば唇から蝶が生まれるという噂を引き合いにし、あれを取り囲み、出来るものなら嵐をおこしてみろ、とからかった。―――馬鹿な奴らめ。イサピアを失くし、意のままに天地を操ることは出来ないにしても、あれにはまだその気になればかの女(タナ)と心を通わし、手近な草木鳥獣に下知することも出来るのだ―――

「この時、シギルは家臣らの非礼を咎め、レークシルに歩み寄り何を望むかを尋ねた。レークシルは穀物が欲しいと言った。不作で冬越しが危ぶまれる民のためだ。シギルは、イビスの細工師が彫った木彫りの林檎を手に取り、これに翼をつけるように命じた。そしておれの縄を切らせ言った。我と思う者はこの黄金果を獲得し、女を得よ。そしてレークシルに言った。お前を得る男に麦二十石を与える。

「イーマとアツセワナの協議によって場が決められ、レークシルはベレ・サオの滝のもとで、もはや殆どその名の意味をなさぬサラミアとして黄金果を投げた。挑んだ者は多かった。シギル自身も加わった。そして谷には、森には、川辺には、知られざる者が多く潜んでいた。皆、難所に、敵に難儀した。見えない者の襲撃―――中でも我々はレークシル自身に悩まされた。言ってのとおり、あれはその気になれば、鳥獣に下知出来る。」

「何故、母上が競技場に?」

 いつしか顔を上げ、父の織りなす荒々しい物語に耳を傾けながら、ラシースは言った。ハルイ―は目元を険しくして息子を見返した。

「競技が公正なものでないことをお前はよく知っているはずだ。行いを監視する者はいない。シギル自身が探索に出ているようではな。レークシルはすぐに身の危険を感じてその場を逃れたのだろう。岩場に襲い掛かる鳥の群れやベレ・サオから下り来る羚羊、それらはあいつの仕業だ―――黄金果とともに己の身の自由を獲得したかったのはあいつだ。そんな途など無かったが。

「死者、怪我人、落伍する者が相次ぎ、最後にシギルとおれは“掌”で組み合った。シギルは体格も力もあった。そして公平だが冷酷にもなれる男だ。対しておれはイーマの中でも殺されて惜しまれるような人間ではない。―――レークシルはただ待てば良かったんだ。おれがシギルに殺され、最後にシギルを殺し、自分が黄金果の勝者になり、自由と死を手に入れることも選べただろう。が、レークシルはおれを助けるために出て来た……それともシギルを助けたのかもしれん。いずれにせよ、あれは隠れていた窟から黄金果を手にして現れた。そして間に割って入り、おれの手に黄金果を預けたのだった。」

「可哀相に、母上。」

 ラシースは呟いた。その時を思い起こす父の眼差しから、見る影もないほど疲れ果て絶望している母の姿は想像するに難くなかった。

「シギルはおれの勝ちを認め、十分な麦をつけてレークシルを返してくれた。レークシルはその礼に身に着けていた紗の蝉羽を贈った。おれは勝ったことで許され、レークシルを妻にした。翌年には改めて絹と鉄の取引を成立させ、イナ・サラミアスはシギルの第一家と交易を始めた。

「おれが妻にした女が他の者から見て変わっていようがおれは一向に気にはしない。ただあれの中に()()()の性が見て取れることがある。いや、人の目など疑いを抱けばそう見るようになる。おれの目とてそうだ。あれは身籠り、この子はサラミアに捧げると告げた。おれの子だ、男でも女でも渡すものか。おれはそう言った。お前は無事生まれ良く育った。だが、あれはいつも不安げだった。取られると分かりながら、逃げも戦いも出来ぬもののように……。」

 ハルイ―は腹立たし気に言い、酒を口にした。常は酒に飲まれることを忌避する男だ。しかし、父はそれ以上に泣けない男だ。そして弱さを認める男ではない、断じて。

「母上は、私が危ないところへ行こうとすると打ちました―――強い力で」

 ラシースはそっと母を庇った。

「父上、私が夕べ出かけてからの事を話してください。母上はいつ、どのように逝かれたのか。サラミアが私の前に現れてから私は悪い兆しを感じていました。しかし、ガラートに尋ねても答えてくれなかったのです。」

「ガラートはお前が皆の前で取り乱すのを見たくなかったのだろう。」

 ハルイ―はちょっと皮肉を言った。

「レークシルを姉のように慕い、お前を可愛がっていた。そしてあいつにはお前が何にとりつかれているのかわかっていたのだろう。兄、姉、母の許婚だった男―――近い身内に起こったことがお前に起きているとな。だがお前は、あいつがお前を逃がそうとオコロイの息子ヤールの前で打って見せた芝居を混ぜっ返し―――まあいい。黄金果の競技は愚か者がする遊戯だが、そこに臨んでいる間は黄金果を追い、守るのが正しい。

「この夏からレークシルは変わった。遠からずサラミアがお前を奪いに来ると思ったのだろう。()()が織り始めたのはお前の婚礼の外衣―――死装束だ。」

 ハルイ―は首を振った。その時の妻の中にいる性の違うふたつの魂をどう言い表したものか。

「ゆうべお前が出かけた後だ。おれが気付くとレークシルは機に向かっていた。思いも及ばぬ速さで夜通し織っているのだ。が、杼を投げるごとに手がとまる。迷っているのだ。おれは織るな、と声をかけた。レークシルは機を置きかけた。と、やにわにまた刀杼を取ろうとする。しかし、あれはそうしながら懇願しているのだ。どうぞご容赦ください、と口走り、かと思えば邪魔をするなと罵り、刀杼で自分の身を打ち据える。一体目の前にいる女が誰なのか。あれがイサピアを帯びていた時ですらあのように恐ろしく暴れるのを見たことは無い。だが、()()()の力は立ち勝っていた。レークシルは逆らいながら織らされ続ける。おれはたまりかねてあいつを抱きすくめて止めようとした。するとレークシルはこちらを向き―――」

 ハルイ―は息子に振り返り、ゆっくりと言葉を継いだ。

「おれの腕を手でつかみ言った。私を信じてください、ハルイ―、ただ、私の傍にいて―――。昼頃、終に機が上がり、レークシルは刀杼を置くと同時におれの腰から短刀を抜き、織り上げた布を真っ二つに断ち切った。それからおれの腕の中に倒れ、そのままこと切れた。」

 口を閉ざすと同時に、その面には深い疲労の色が現れてきたが、それを補うように薪を火にくべる手の動きはしなやかで速かった。

「レークシルはサラミアを出し抜いたと思ったろう。だが、お前はもう少し苦労したようだな。」

 ハルイ―は木に掛けた上着を顎でしゃくって言った。

「オクトゥルはお前が泳げたか心配していたぞ。」

 守り神のように彼の傍らにある弓、短刀。身を包む外衣の絹の香。彼が黄金果を守って逃げ、言い逃れ、自分の行く先すら決められずに女神の手の内をさまよっている間、父は、友は彼を案じ跡を辿りそれとなく助けてくれていたのだ。

「父上」

 ラシースは地に手をつき、頭を垂れた。

「あなたの支えとなるべき子が去るのを、どうぞ許してください。」

「おれは父タッカハルに許しなど得なかった。行くがいい。」

 ハルイ―は横柄に応えた。

 小さな火を守りながらふたりは静かに夜を明かした。掛けておいた服の霜を払い落とし、火にかざして柔らかくしてからラシースはまだ湿った服を着、うつらうつらとしはじめた父に自分の外衣を重ねて掛け、傍らの弓を取った。細やかな彫り模様のわずかな空白を矢摺の上に見つけ、おもむろに短刀を手に取った。

 ハルイ―が短いまどろみから目覚めると、息子は弓に彫り物をしていた。鳥獣や草花の模様の中に、小さな乙女の横顔を刻んでいる。高い額に憂いの眉の線、つつましく伏し目な目蓋、細い鼻梁、小さな顎。

「愛想のない顔だ。」

 ハルイ―は息子の手元を覗いて評した。

「難しい。」

 いったん止めた手は、慎重に持ち直した刃の先でわずかに微笑んだ形の口を加えた。

「いろいろな表情を一度に描こうとすると、かえって無表情になるのですよ。」

顔の横には流れるような幾筋もの細い溝が、髪の編んだ形をつくりあげていった。

「おお、夜が明けるぞ。」

父の声にラシースは顔を上げた。燠火の絶えかけた一筋の煙をたどった先、薄紫の空が覗け、藪の中に鳴きかわす鳥の声もする。凍てついた夜は過ぎ、イナ・サラミアスから昇る太陽が競技の果てたコタ・シアナの水辺を明るみのもとに覚ましめる。


 ラシースは、父にゆり起こされた。昼間の光が空を爽やかな青に染めていた。

「王の一行は出発したぞ。お前も行くがいい。」

 仮庵の結わえ目を切り、ほどいた粗朶を燃してハルイ―は魚の燻製を炙っていた。

「いつから食ってない?若い者が食わないのが女のせいならそんな女とは付き合うな。」

 父が差し出した聖餅にかじりつき、かみしめ、飲み込み、よほどしてから彼は反論した。

「寝食を忘れるのは何もそのためばかりではないでしょう。黄金果を追っているときは他のことなど考えなかったし、コセーナのダミルやクシュのサコティーと力を尽くして競っているときは黄金果が何のためのものかも考えなかった。あんなに一生懸命だったのは初めてだ。―――そう、楽しかったな。」言って彼は考えこんだ。「これもおいしい。」

「生まれ落ちて初めて食うものだからな。」

 ハルイ―は燻製を割いて息子に片方を投げ、林の間から見える西の岸の石の河原と堤、その上に色づきはじめた森を指した。

「今から行くところをよく見ておけ。高いところに生まれついた花などない、皆地べたに置かれ、身の程も遠慮会釈もいらん、ひたすらに大きくならねばならん土地だぞ。」

「丘の坂と、堤の上の森の他は何も―――。」

 ラシースは首を振った。

「話に聞く耕地も、街も今はまだ想像もできません。人々がどうやって暮らして、どんな苦労や喜びがあるのかも。」

「アツセワナの女が教えてくれるだろう。」

 父はこともなげに言った。

「蛙を飲んだような声ですよ!」

 息子は慌てて言い、頬を赤らめた。

 父は何も聞かなかったふりをしながら意地悪く息子の次の言葉を待っている。息子は膝元に目を落とし、呟いた。

「―――夏の夜にでも聴けば心地よく眠れそうだ。」

 ハルイ―は難しい顔の口元にちょっと笑みを浮かべた。

 コタ・シアナの水は空の青と純白の雲を映し、穏やかに流れた。一晩で紅葉は深まったものの、昼の陽は暖かく、若者の手足はしなやかさと強さを取り戻していた。

 一晩で水位は大きく下がりいくつもの洲が現れている。

「さあ、行け。」

 父の言葉は最後の命令だった。ラシースは心を決めてイナ・サラミアスを背にした。

 流れつづける川の水は冷たい。しかし足は川底を捉え、流れも彼の歩みを妨げることは無かった。せせらぎが洲を繋ぎ、いくばくかの休息を与える。しかし彼は、背に見守る父の目を感じながら次の流れに足をいれた。水は浅く、陽光にきらめいて優雅であった。イナ・サラミアスから遠のくごとに水は彼に優しくなり、踵にまつわるさざ波は囀るように朗らかだった。

 ついに若者はコタ・シアナを越え、エファレイナズの岸に着いた。

 ラシースはそっと後ろを振り返った。向こう岸に既に父の姿は無かった。目の前にはコタ・シアナのきらめきが長い日輪の形を成し、白い光の奥に彼の故郷を隠していた。

挿絵(By みてみん) 

 


 



 





 













 









  






 

 




 



 








 

 

 

 

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