第一章 夜の語り
雀 雀 雀っ娘 小雀っ娘
雀っ子 青い空へ飛んでゆけ
飛べ飛べ 高く飛べ 青空へ
うまく巧みに お前の翼でもって
速い風に乗れ 青い空で歌え
乾いた重い風が天井の上の高いところで唸っている。時折、煙出しをかすめる風の陰気な笛が、暖炉の火の焦れた怒りの呟きをかき立てる。椅子の軽いきしみと衣ずれの音。そして規則正しいふいごが呼気を送り、生気を得た炎が燃え上がる音。光。
光が見えたと思った―――音のせいだ。力強い炎の唸りが聞こえると同時に、あの絶え間ない、板戸を打ち鳴らす硬いささらな粒の爆ぜるのが一瞬途切れ、かっかっと石畳を鳴らす蹄の音が聞こえたからだ。
子供はぱっちりと目を開けた。いつもどおり暗い天井の垂木の影が見えるだけだったが、その目には、居間の壁や床にひらっひらっと踊る火影が見えているのと同じことだった。子供は小さな寝台の上から寝返って下り、ぼんやりした目のまま、明るいほうへ素足でぺたぺたと駆けて行った。
風がどっと扉を突いて室内に押し入り、ひと声気味悪く吠え、子供の足をすくませたが、速やかに戸が閉まると、子供は両手を前に突き出し、あっと喜びの声をあげた。
「シアニ」
暖炉の前にかがんで火を起こしていた女が立ち上がってやって来、子供を抱き上げた。
「目が覚めたのね。」女は肩掛けの片側で子供を包んだ。
子供は、肩の上のふさふさとした栗色の髪を振ってくるりと身をよじり顔を玄関口の男のほうに向け、右手を伸ばした。
男はかがんで靴の塵を落としていた手を止め、覆面の上の目だけを細めて笑ってみせた。
長いマントを着たがっちりした肩も、頭巾も、灰を被っている。マントを脱ぐと、塵とも埃ともつかぬさらさらした灰が石のかまちの上に落ちた。
「外で払おうとしたんだが風が強くてだめだ。」
迎えに出た小女が男のマントを受け取り,玄関のわきに掛けた。男は覆面を外すと、差し出された布で顔と手を拭うのももどかしく、床に片膝をついてさっと両手を広げた。
たちまち子供は女の腕からもがき降りると、男の腕の中に飛び込んでいった。
「ダミル、火のそばまでおはいりになって。」
女は声をかけ、つと背を向けて男を居間の奥に導き、手で椅子を示した。
「お掛けになって休んでくださいな。寒かったことでしょう。今、何か召し上がるものを…。」
「いや、お構いなく。」
男は慣れた様子で首っ玉にぶら下がっている子供を抱えなおして椅子を引き寄せ、どっかりと腰かけると、心地よさげに深く息を吐いた。
「よしよし、シアニ、」
膝の上に収まって、つぶらな目でじっと覆面を取った顔を見つめてくる子供の生真面目な顔に、男は思わず顔を撫でまわした。「何かついているか?」
「ずっと来なかった」子供はとがめるように言った。男は軽く笑いかけたが、厨のほうに向かう女に「どうかそのままに」と声をかけた。女は面目を傷つけられたかのように目を伏せかけたが、立ち止まって男を見返した。
「せめて薬酒と温かいものを。もうお粥くらいしかできないけれど…。」
「麦も薪も足りているか?」男は身を乗り出した。
「肉や魚の蓄えは?」
女は一寸スカートを握り、声をこわばらせた。
「大丈夫よ、まだいろいろ残っているわ。そこにある火で今は我慢していただくしかないけど。」
「明日、少し薪を切ってこよう。」
「灰の止んだ折に何か燃やすものを拾ってこられるし、畑に植えたものも見てこられるわ。まだ土の中に残してあるものが…。」
「もし、今晩ここで泊めてもらえれば朝早く馬で森まで行って…。」
「いけません。」女は冷たく言った。
「休んだらお帰りになって。バギルに見送りをさせますから。」
「ロサリス―――姫。」男は表情を硬くした。
「失礼を―――仰せのままに。」
「お休みになって」
女は厨に食べ物を取りに行った。
小女がぬるい湯を洗面器に張って運んできた。
男は首に子供の両腕をぶら下げ、膝に子供を座らせたまま手を洗った。子供はおとなしかったが片時も離れようとはしなかった。栗色の頭を傾げ、男をじっと見上げたと思うと、とんとんと膝の上で跳ねてささやいた。
「おはなし、おはなしして。」
男は微笑み、子供を抱えなおして横向きに座らせると、水で薄めた薬酒の杯を取り、喉を潤した。
「さて、むかーし、むかーし」
言いながら男はゆっくり室内に視線を巡らせた。
古に森の中の丘の上に建造されたこの館は、彼の生まれ育った屋敷と同じく、その基部と最も古い母屋の部分は石造りだ。が、代を変え、主を変えるうちに棟を建て増し、補修された部分は木材だった。子供のころから知っている床と間仕切りは、生活の傷や歪みを年輪のように刻み、煤で黒ずみながらも磨かれ、どっしりと温かく光っていたものだ。
ことに最も新しい主は、この丘に踏み入ると同時に、故郷の気質を存分に生かして樹木の造形と香りを館の内に取り込んだ。樹幹のうねりがそのままの長椅子、樺の木の皮を張った椅子、枝を編んだ吊り棚―――。新しい木の香りが漂い、その中に通された若い妻は巣を吟味する小鳥のように、この居間の中心から向きを変えては、室内の隅々まで眺めていたのだ。
今はどうだ。同じものがすべて影の中だ。日の目を遮っている火山灰のせいばかりじゃない…。
男が入ってきた小さな玄関から通じる居間の入り口の鴨居には、弓を掛けておくための台木が打ち付けられている。が、そこから優美な弓が消えて久しい。
外から舞い込む火山灰を防ぐため、窓は絶えず締め切られ、炉から発するわずかな光では、室内を暗くするものは闇とも煤ともわからない。しかし、窓の下に置かれた長椅子と足台、その上に無造作に置かれた竪琴には明らかに埃がたまり、緩んだ弦の間には蜘蛛が糸を張っていた。
子供が顔を上げて手を伸ばし、男のもしゃもしゃした髪を引っ張り、驚いて手を見た。
「白いのついた。しらがかな。」
「白髪なんかあるもんか。」男はむっとして呟いた。「そのうち出るかも知れないがな。」
床が忍ぶような軋る音をたて、衣擦れの微かな音がして男の横の卓上に温めた粥の皿が差し出された。振り返ると、女は両手で被っていた墨染めの紗のベールを両肩の上にまで落とした。色白の、まだ少女のような細面の顔の両脇を編まれた豊かな黒髪が下りていた。が、まぎれもない銀色の筋が幾重も黒を縁取るように混じっていた。大きく潤んだ灰色の瞳をとりまく長いまつげが咎めるように瞬いた。
「すまない」男は口の中で呟き、声を大きくした。
「さて、むかーし、むかーし」
女はしばらく火のそばに佇み、そっと手をかざし、荒れた手が乾いた音をたてるのを恥じるようにこすり合わせ、もう一脚の椅子を火のそばに押してきて座り、縫物を手に取った。男は振り向いた。
「ここの空気はよどんで良くない。子供の胸には…。」
「どこへ移れと仰るの?」女は鋭く遮り、声を落とした。
「ダミル、話してやってくださいな―――何でも結構ですから。それでこの子は安心するのですから。」
男はため息をつき、大きく息を吸った。
「ようし―――。」
目を閉じてさえ消えない灰。灰。灰…。外にも、室内にも、テーブルにさえも。東の方から襲い来る闇の吹雪の奥底からかつて輝かしく語られた山容を呼び覚ますには、目を閉じ、記憶を手繰り、あるいは父祖さえも生まれる以前に時を遡るのみ…。
創生
昔、昔―――もののはじめに大いなる炎があり、その中にひとつの白光を放ち燃え盛る塊が生まれた。塊はふたつの頭に分かれ、それぞれが身体を持ち二柱の女神が生まれた。
女神らは目覚めるとともに互いの身を引き離した。その跡をも、火が渦巻いては静もった。乾いた血潮で出来たのがエファ・レイナズ(女神らの間の地)であり、冷めゆく蒸気がたまり流れ出したコタ・イネ・セ・イナ(姉妹を隔てる川)である。
こうして徐々に炎は治まり、灰や蒸気は落ち着いて土になり、あるいは水になって溜まり、残りは雲になって飛び、空は晴れわたった。
姉妹がそれぞれに位置を定めたとき、東の方から天空の太陽が姉妹を訪れた。
姉神は太陽と契り、麗しい緑の衣を得て、サラミア(栄誉を得た女)となった。
一方、太陽を恐れた妹神は霞に身を包んで隠れた。これゆえ妹神はドルナイル(慎み深い女の子)という。
そして万物の最後にサラミアは四人の子を産んだ。ヒルメイ(太陽に仕える者)、クシュ(水を守る者)、ウナシュ(土を守る者)、タフマイ(風を見る者)。
四人の子らは、母神のもとで草木、獣を護り整える役を担った。彼らの子が増え、孫が増え、人間イーマとなった。
子供はいつしか肩を男にもたせ、ぐっすりと眠りこんでいた。男は子供をそっと抱え上げるともの慣れた様子で居間の端に仕切られた小部屋の小さな寝台へと運んだ。
室内はひんやりとして寝台は冷たかった。男は毛布を片手で引き寄せながら子供を下ろし、よくよくくるんだ上で軽く肩の上を叩き、しばしじっと見下ろした。ちょっと身じろいだ後で子供はすうっと息をたててそのまま眠り続けた。もう丸い頬の輪郭と微かに光る髪の他は何も見えない。
男は居間に戻るとテーブルにつかずにそのまま戸口まで行き、空の鴨居を眺めながら籠手を着け、マントを肩にかけた。
「ダミル―――」女は戸惑ったように立ち上がった。
「今、バギルを呼んで見送りを」
「いや、いい」ダミルは顔をわずかばかり傾けたが、さっさとマントの襟をとめた。
「あなただって彼の小言を聞きたくないだろう?私がここにいられるのはあの子が起きている間だけだ。わかっているよ、ロサリス。」
戸が開き、短い笛を鳴らし、あとは室内に静寂が残った。
静けさの中で子供は伸びをして薄目を開けた。
話は途中だったはずだ。なぜ静かなのだろう。つづきを聞かなきゃ。子供は明るみに向かってとことこ駆けだした。
パチパチと音をたてる、あれは踊り。のびあがる火の。
よく知っている両手が抱き上げ、膝にのせる。覆いかぶさるようにかがんで手を伸ばし、火かきで火をかき立てる。炎の色はだんだんに弱くなり、暗くなり、しんしんとした寒さがすっと風を運んでくる。
「火はもうおしまいね。」嘆息とともにそんな言葉が漏れ、「お眠り、お眠り」手の影がそう言って瞼をなでおろす。眠るとまた暗い部屋に行かねばならない。子供は懸命に目を開けようとした。ショールを掛けた両腕がぐるっと全身を包み、ふっと温かい暗闇の中に全身が沈んでゆく。
(サラミア)悲しげな声が言った。(サラミアはもういない。いるのは失った女だけ。)
子供は目を開けた。
澄んだ闇の中に、ほの白い姿があった。若い顔とどこを見つめているとも知れない杏仁形の目、しなやかに背筋に沿って下りている長い髪。
子供はにっこりとして手を伸ばした。
「モーナ、お話をして。」
少女の影は子供に顔を向けた。と思う間もなく、寝台の枠に両手をかけ、その顔は子供の横にかがんできた。
子供は翌朝、小女に揺り起こされた。閉めた室内が暗いのはいつものことだった。が、炉の火は小さく、室内は冷えていた。火床には枯れた小枝が少しばかり燃され、小女は石で畳んだ炉辺近くまで子供の小さな椅子を引き寄せて座らせ、膝にぬるい粥の木皿を載せた。
「薪がなくって。」娘は言った。
「朝拾ってきた分ももうじき燃えてしまうわ。ひいさまはちょっと用があって出かけているの。いい子にしててくださいね。」
子供はようよう食べ終わると、小女に前掛けを外してもらってから椅子から下り、まっすぐに玄関に走っていき戸を押し開けた。
「道を下りて行っちゃ駄目ですよ!」テーブルを拭き、皿を下げながら小女が叫んだ。
開いた戸の下でふわりと薄い塵の煙があがった。石のかまちにたまっていた灰が外に押しやられたのだった。塵はいつになくもやもやと長く宙にわだかまっている。子供ははっとその白さに目をとめた。外には淡く陽光がさしているのだった。
子供は思い切って外に出た。そして小女が見ていたら嫌がりそうな事をした。足指を縮めて少し灰にもぐりこませ、そして庭までのほんの短い石畳の舗装の上を足を擦りながら少しづつ進んだ。ごくわずかだがまぎれもない温もりを感じながら。石畳を下りると小さな足の下で湿った火山灰の層が、ごくっと鈍い音をたてて動いた。玄関の南東側は灰がやや厚く吹き溜まっていて歩くたびにごくごく鳴るのだ。
館の前庭の、母屋の南西の壁のわきにはほんの少し日のあたる場所があり、小さな畑とサフランの株がある。わずかな葉物とエンドウに掛けた薦にもサフランの芽にもうっすらと灰がかかっている。だが子供は気にとめなかった。世界を知り始めた時から灰はあるものだったから。だが今、藁の下には薄く緑の葉があり、サフランには黄色の花芽がついていた。
子供は自分の足で行ける限りのところに思いを巡らし、そこにはどんなものがあるかを考えた。
館を取り巻いている庭を左手に行けば東側に植わっている大きなモクレンの木、あとは締め切った扉と灰の被ったつまらない壁と露台があるだけ。庭の端の木の間から下を通る道のはずれにある馬小屋の屋根が見えたっけ。しかしそこには馬はおらず、行ったこともない。丘の縁が切り立っていて危ないので年寄りの門番のバギルにしかられる。右手に行けば厨があり、丘の下段の水場と畑に通じる木の階段がついている。そこには池もある―――だが、やはり南西の下段の番小屋に通じる階段があり、そこから仕事をしに登ってくるバギルやその妻に見つかってしかられるかもしれないのだ。はじめから連れていってくれる時を別にして。
子供にはもうひとつ知っている道がある。庭の外縁を囲う種々の林の中でも、厨に近い栗の木の下の根方がほどよく崩れており、灌木の藪に隠れてしまえば、太い根が土を囲い込んで段状に下っていくのをたどり、斜面を覆う林へと降りて行ける。やがて岩石まじりの割れ目をたどり、丘の南西の下方に位置する門番小屋と薪小屋の裏に出る。
子供は立ち止まって思案した。玄関のまっすぐ前、正面には下から上がってくる道がある。馬が一頭やっと通れるくらいの幅の、土を固めた道。そこを下るとほどなく柵に行き当たる―――外側に灌木を巡らし、イバラで覆い、しかしそこには外側からわからぬように編んだ透垣の揚戸がついている。子供はその向こうには行ったことがない。
子供には知る由もなかったが、館に至るまでの丘を巻いて登る道には二重の偽道がついており、並木と段差に巧みに隠された道は、二か所の揚戸を正しく見つけなければ、むなしく丘を巻いて麓へと導きだされてしまう仕掛けになっていた。だが子供にわかるのは、炉端で膝に抱き上げて話をしてくれる男がやってくるのはいつも正面の道からだということだけだった。それも夕方か、夜。
道に人影を見たとき子供の心は期待で踊った。が、下からやって来たのは番小屋の女房だった。女は子供を見ると裾をからげて駆け寄り、道の入り口から庇うように傍らに押しやりながら服をはたいた。
「胸が痛くなりますよ。」
「お日さまがきた。」
子供は空を指さした。どんよりとした霞の中に白々と丸く、弱い光が透けている。
「少し出ているわね。」女は相槌を打った。
「お日さまの姿なんて何年ぶりかしら―――だけど今は家に入って。家にいたっていい事はありますからね。」
子供は背中を押されながら、いいことの答えを確かめるために女の後ろの道の方を覗き込んだ。
やはり蹄の音と馬具の軋み、そして手綱を引いて入ってくる姿。今日は顔を出している。
「よう、シアニ。」
「ダム!」
ぐるっと逃げてダミルのもとへ行く子供を見て、五十も過ぎた門番の妻は「あらあら」とため息をついた。ダミルは子供を庇いながら馬を叩いてなだめ、手綱を門番の妻へ渡した。
「ご苦労だが厩へ頼む。おお、その前に土産を下ろさなきゃ。」
鞍の前に天秤のように掛けてあった編み籠を下ろすと子供の前に見せた。中で何かが動き、子供は驚きの声を上げた。小さくとがった嘴のついたせっかちな首が伸び、縞のある茶の羽毛がぶるっと籠の中で震えた。
「鳥、鳥だ。」
「ウズラのつがいだよ。」
ダミルは籠を上げ、シアニの手を引いて館の中へ入っていった。
室内ではロサリスと小女がテーブルの上にこね鉢を出し、ゆり根の澱粉を練って団子をつくっていた。薪箱には新たに薪が入り、炉の火は勢いよく燃えていた。下の番小屋から薪を持って上がってきたバギルは、火を焚きつけたあとその前に陣取り、今朝運び込まれた食糧や塩、薪の有難さや贈り主の気前の良さ、思いがけずもたらされた生きた財産を守るために畑地と林の間に家禽小屋が必要なことなどをこんこんと説いていた。
ロサリスは老人をないがしろにしていないしるしに時折静かに応えていたが、ダミルを見ると目を伏せて素早く礼を言い、卓の上の貧しい食べ物を見やった。
「もう、本当に物が少なくなってしまっていて―――」
ロサリスは小声で言い訳をした。背を向けたまま黙って聴き耳をたてているバギルを気にしながらぎこちなく微笑んだ。
「ずっと前に蓄えてあった百合の根の粉をもどしてみたの。こんなものを口にするだろうとは思わなかったわ。でもそんなに悪くもないの。ほかにもナラの実の粉、トチの実の粉…。みんな五年前から作り始めたの。まだ実の拾える間に―――あの人が一度教えてくれたのを。」声が詰まり、唇が震えるのを、
「そうか」ダミルは強いてそこに声を重ね、椅子を引き寄せて掛けた。「結構。私はいい時に来たと思ってもらえそうだ。それにいい時に来合わせた。腹ぺこでね。ご相伴にあずかってもいいかな。あなたの気位ではさらにもうひとつは受け取り難かろうが、こちらは母から言付かってきたのでね。」
ダミルは腰の物入から小さな麻袋を取り出した。
「いいものだよ、ごらん。」
玄関のわきのたたきでウズラを撫でていたシアニがやって来てのびあがり、ダミルの膝によじのぼった。ダミルは袋の中のものを少し掌にあけた。
「トゥサカ―――赤い稗だ。もう何年も前にオトワナコスから譲り受けた種を、母は自分の住まいの隅に畑を作って毎年育てていた。オトワナコスの作物はもともと寒さや暗さには強いが、中でもこれは強い。おれの母の名だ。」
誇らしげに言い足したその言葉に、ロサリスは種に見入りながら小さくうなずいた。
「そしてこちらは蕎麦だよ。早く育つ。どちらもあなたの畑に撒くといい。」ダミルは顔をあげ、館の住民が皆そろっているのを確かめた。
「今日、ここに来るとき、久しぶりに太陽の姿を見たんだ。丸い形で太陽を見たのは何年ぶりだろう。灰が収まりつつあるんだよ。そして木の芽も多くついている。我々が気付くより先に草木にはわかっているんだな。ウズラもほんの数日前にひと群れも森にいるのを見つけたところなんだ。噴火の難を逃れてエファレイナズで生き延びていた。なんとライチョウもだ。―――わがコセーナでもこの冬は種の分も食用に回しかけていた。ありがたい。まさに恵だよ。」
「暦どおりならそろそろ春の嵐がくるころだ。」バギルが振り向いて言った。
「今朝の風の匂いだともうじき雨が降るね。いやな雨かもしれんが、空気はきれいになる。そしたら山の火が落ち着いたかどうかもわかるだろう。」
ダミルはシアニにほんの数粒ウズラのために握らせてやり、子供を下におろして手の中の種の袋を見つめた。
「母は灰が降る間もこれを育てて種を守ってきたが、もう今年は力が尽きたと言って私に託したんだよ。私はこれを“救い島”に植えよう―――ほら、前の洪水の時に残った高いところさ。」
折しも風が唸り、たちまち大粒の雨が東側の壁を叩き始めた。小女は急いで窓と扉を閉めに行き、バギルの妻は厨の通用口を閉めに行った。
「きっと灰やら泥やらで大変なことになるな!うちの耕地はラシースが堤を切ってからちょっと雨が降るとあの高台を別にして川西の下はすぐに水浸しになる。」
ダミルは、馬の様子を見に行くためにバギルが出て行ったのを確かめて目配せした。
「―――それで、館も畜舎も、界隈で暮らすものも助かったんだよ。あの高台の畑に今年はトゥサカを植えよう。イナ・サラミアスが火をおさめ灰がやんだなら、その時こそ前を向いて動き始める時だよ。」そして団子を顎でしゃくった。「ねえ、それはゆでるより平らにして焼く方がうまいんじゃないかな。」
しかし団子は鍋でゆでられ、ゆで汁も一緒に配られた。ほんのひとすすりで無くなってしまうような食事だった。ダミルは思わずため息をついた。みんな瘦せ、やつれている。子供だけが丸い顔をしている。
子供はウズラに稗の粒をやっていたが、雷鳴と、今や滝のように降り、樋から壁まで流れ出す雨の音を聞いて驚いてダミルの方に走ってきた。
「川になるよ。」子供はダミルの膝に両手をついて言った。
「ああそうだな。」ダミルは笑っていった。
「でっかい蛇のように太った川になる。」
「蛇に?」子供は叫んだ。「食べられちゃう!」
「この子は利口だな」ダミルは喜んでシアニを膝に抱き上げた。
「そうだ。川は昔、大きな大きな蛇だったのさ。」
ダミルはロサリスに振り向いた。
「今日は昔語りをするにはいい日だ。この雨が止んだら私は帰るよ―――シアニ、昔、大きな蛇がいたんだ。その蛇はどこにいたと思う?サラミアとドルナイル姉妹が生まれた時、その間に川が出来た。コタ・イネセイナだ…。」
創世 2
サラミアの四人の子、光水土風を監視し、草木獣を護り整える者たちは子を産み、孫をもうけて、それが増えに増え、人間となった。年長の四部族がイナ・サラミアスの山麓に住み、太母である姉神サラミアを敬い、狩りをして暮らした。今では我々は―――コタ・シアナから西に移り住んだ者と、後で外界からやって来た者、あるいは両者の混血の子孫―――彼らイナ・サラミアスの民をイーマと呼ぶ。コタ・シアナから西に渡った者たちは、エファレイナズの森の中に広がり、やはりサラミアを拝んで暮らした。サラミアを讃える歌を歌うというので、彼らはヨレイルと呼ばれた。歌声が森の木々に響きあうので木霊もまたヨレイルである。
一方、妹神ドルナイルにも子供たちが生まれた。日に愛されたサラミアに対し、ドルナイルは夜と親しかった。サラミアが緑の衣と花々で身を飾ったように、ドルナイルは金銀玉石の装いを夜のもとでだけ見せた。また子供たちにそれらを用いることを許した。イネ・ドルナイルの人々は、石や、金銀銅、鉄さえもどうにか用いて見事な道具を作った。
「蛇、出てこないよ。」シアニは片肘をテーブルにつけて頬杖をつき、とがめるようにダミルを見た。
「待て待て、ここまではおさらいなんだ。あわてるな。」
こうしてそれぞれに人々が暮らし、長い長い年月が経ったころ―――。
この閉ざされた女神の庭に新たにやって来た者たちがいた。
「今もコタ・レイナの同盟で結ばれた三つの郷の始祖となる三兄弟だ。この長兄、すなわち、オトワナコスの郷の祖先に起こった話をしよう。」
ダミルはテーブルの上の種の袋をシアニの前に滑らせて据えた。
「この赤い種と蛇の話だよ。」
オトワナコスの始まりとエクミュンの話
昔、エファレイナズがイナ・サラミアス同様、ことごとく森の民と獣の庭であったころ、コタ・イネセイナ(姉妹を分かつ川)を遡った山並みを超えてやって来た明るい瞳と白い肌の三兄弟がいた。天の開けた山地を巡って来た彼らの目に行く手に広がるエファレイナズの森は深く恐ろしげに映り、進路を変えては暴れるイネ・セ・イナ川は遠くに横たわる頑健な丘の周囲に土砂を積み上げながら、あたかも宝を巻く大蛇のように太い奔流を波うたせて兄弟を脅し、東の丘陵地へと押しやった。運んできた土で中州が太ってきたため、大蛇はふたつに割れ、細い穏やかな流れが東側に残り、兄弟は徐々に岸へと下りてきた。ここに種をまいたところよく育ったので、畑をつくり家を建てて暮らし始めた。
次男は東へと森を分け入り、三男は分かれた細い川、背川を南に下った。しかし長男はここにとどまった。果てしのない森には自分たちよりもそこの暮らしに長けた人々がいることを知っていたからだ。しかもその人々は、木を切り拓き定住しようとする者を好まなかった。やがて妻を得た長男は、もうけた子らとそこに村をつくった。
オトワナコスが今のベレ・サオ(額の峰)山麓に村を構えるよりも以前、一族にエクミュン(長い弓
)とコロラク(陽気な愛しいもの)という兄と妹がいた。親はいなかったが一頭の羊を大切に飼い、毛を刈って物に替え、どうにか暮らしをたてていた。
ある夕刻、妹が背川のほとりで羊の毛を梳いて歌っていたところ、川の中から蛇が現れ、羊をひと飲みにしてしまった。どうして暮らしをたてていこうとコロラクが泣き出すと、蛇は歌っておくれと請い、黄金の種を川のほとりの柔らかい土の上に吐き出した。
この種は深々と埋まり動かせなかったが、芽を出したわわな穂を実らせて兄弟の暮らしを豊かにした。
コロラクはやがて年頃の娘になり、ほうぼうから嫁に請われるようになった。髪も長くのび、足りないのは嫁入りにふさわしい服だけだった。
またある夕刻、コロラクが川辺で髪を梳きながら、服をどう都合したものかと思案にふけっていたところ、先よりも大きくなった蛇があらわれ、歌っておくれと請うた。コロラクは蛇を見ると怒って櫛を投げつけ、「お前が羊を飲み込んでしまったから晴着を織る糸がないのだ。」となじった。蛇はそれを聞くと口を開いてぱくりとコロラクを飲み込んでしまった。妹を迎えに来た兄はそれを見て怒って蛇を追ったが、蛇は先より大きくなり鎌首をあげて、前より遠く乾いた高地に赤い種を吐き、川の中に姿を消した。
金の穂は枯れ、代わりに高地に生えた赤い稗は何倍もの赤い穂を実らせ村中に飢える者はいなくなったが、兄はどうにも胸の痛みが癒えず、高い山から木を伐りだし、長い弓と矢を作って川べりに戻って来た。そして川に向かって怒鳴った。
「やい蛇め、顔を出せ。おれの妹を返せ。」
しかし大蛇は水面にようよう顔だけのぞかせ、優しい声で言った。
「おれの可愛い花嫁に晴着がない。みすぼらしい格好で里へ帰るのは嫌だと言っている。上質の糸を取る羊をくれ。」
エクミュンは腹を立てながら村に戻ったが、村には一匹の羊もいない。エクミュンはさらに高い山でもっと長くてしなやかな木を求めた。
すると高い崖の上から見事な角と長い毛を持つ山羊の背に乗った山の娘が下りてきた。山の娘は見慣れない若者に訳を尋ねた。エクミュンは事の次第を話した。
「赤い種は妹の身の代です。それを受け取ったからには妹を取り戻すことはかなわない。蛇が次に狙うのはあなただから用心しなければ。」
娘はそう言ってエクミュンを山に案内し、強くて長い針葉樹を教え、大きな角と長い毛の大きな山羊をも与えた。
エクミュンは大弓をつくり、山羊を連れて川辺に下り、大声で蛇を呼んだ。
「蛇よ、毛の長い羊を連れてきたぞ。出てきてその目で確かめてくれ。」
大蛇は大きな波紋をつくりながら頭をだした。その頭があまりに大きいので波の縁に白いしぶきが立った。
「どうだ、これでおれの美しい妹に立派な晴着がつくれるだろう?」
蛇は鎌首をあげて山羊をひと飲みにしようとしたが、山羊は高く跳ね上がって逃げ、エクミュンの放った矢が蛇の喉を貫いた。
蛇は川の中に沈んだ。岸に打ち寄せられた泡は白い梅花藻になった。エクミュンはこれを妹の形見とあきらめ、山羊を連れて高地に戻り、そこで硬い斜面を耕し、赤い種を蒔いた。やがて山の娘を娶り、健やかな子供を多くもうけたが、生涯コタ・ラート(背川)には近づかなかった。
蛇がもたらした赤い稗トゥサカは、どんな寒い年にもよく育ち、この地オトワナコスの村人たちは飢えることなく、つつましくも息災に暮らした。
ダミルは物語の終いをかみしめるように結んだ。コセーナの盟友、オトワナコスの人々がイナ・サラミアスの噴火の後も息災であったかどうか、この五年間、ほぼ確かめるすべはなかった。語った言葉は今は願いでしかない。
皿を片付け、炉辺に椅子を出して縫物をしていたロサリスは茫然と呟いた。
「婚礼衣装を欲したものが逝き、弓を引くものは残った。」針を持つ手が膝に下りた。
「私に起こったことは反対だわ。婚礼衣装を欲したものは残り、弓を引く者は逝った。」
ダミルは強く首を振った。
「違うよ、ロサリス。この話はそんな風に聞くものじゃない。これはオトワナコスに移り住んだ人々の苦労話さ。はるか北の外界からイネ・セ・イナ沿いに南下しながら、家畜を育て、耕して麦を育てたが、川は恵む一方で氾濫し、羊を、作物を、時には人さえもさらっていったんだ。我々コセーナの祖先も、エフトプの祖先ももとをたどれば同じだ。後でやって来たアツセワナの人々の祖先もはじめは似たようなものだったろう。彼らは勇敢にもあの暴れ川のほとりに留まった。」
ダミルは敬意と称賛を込めてロサリスを見たが、ロサリスは頑なに呟いた。
「今、あの川のほとりにいる者の多くは卑怯で臆病よ。」
「姫」
食事の後で外の様子を見てきていたバギルが入ってくるなり不機嫌に言った。
「外の雨はあがったようだ。灰で目隠しされていようが日が暮れるまでは男の仕事は終わっちゃいないんだ。客人をちゃんと晩餐までもてなせないなら、せめて帰して差し上げたらどうかね?わしも送るなら明るいうちが助かるよ。殿、馬を出してくるよ。」
ロサリスは縫物を膝に置いたまま黙りこくっている。
「私はもう帰った方がいいようだ。」ダミルは立った。
シアニは、話が終わってからまたウズラの方に行っていた。
「鳥におうちがいる。」シアニが玄関に来たダミルを見上げて言った。
「バギルが作ってくれるよ。ちゃんと世話をするんだよ。」ダミルはマントを着け、ロサリスに声をかけた。
「明日からはしばらく荘園のまわりを見て歩くつもりだ。何日かは寄れないが、薪と食糧には困らないはずだ。何かあったらバギルをコセーナに寄越してくれ。」
館を出ると、バギルは鹿毛の馬の手綱を引いて道の端で待っていた。
「殿、甘やかすのは良くない。」老人はきっぱりと言った。
「父上や自分の生まれた故郷をあんな風に言うなんて尋常じゃない。」
「しかし、初めて心の内を口にしたよ。」
バギルが道の先の隠し揚戸を上げると、ダミルは馬に跨り言った。
「バギル、下の戸も開けておいておくれ。そうしたらもう送ってくれるには及ばないよ―――シアニに鳥小屋を作ってやってくれよ。また捕まえてきてやるから。」まだ何か言いたげに憮然としている老人にダミルはきっぱりと言った。
「灰はじきに収まる。私は明日にはコセーナの周りの様子を見に出るし、妹川が上流で道を潰していなければオトワナコスに使いを送ってみるつもりだ。七日間はここには来ない。部下に、ニーサかケニルに、見回りの時に番屋によらせる。足りないものがあったら彼らに言ってくれ。―――灰が止めば良いことも悪いことも動く。姫も塞いではいられないさ。」
春に向かう気候は、その後二、三日ごとに強い風と雨を伴い、そのたびに外の空気は澄んで明るくなってきた。バギルはウズラが来た翌日には、厨を下って行った先の小さな畑地のわきの木立ちの陰に鳥小屋をつくり、次にその周囲を囲った。七日後、強い嵐が去った後で、バギルはウズラを囲いの中に移した。
庭の木々は明らかに芽をほころばせていた。丘の上に日が射し、ロサリスでさえ窓辺に寄り、しみじみと庭に降り注ぐ光線に見入った。
バギルの妻は粉をひき、ロサリスは貯蔵庫の壺を小女とあらためていた。シアニは、テーブルの上のこね鉢とめん棒を玩具にしていたが、突然、卓に両手をついて身を乗り出し叫んだ。
「ダムが来た!」
その言葉が終わるか終わらないかに、石畳の上にいつもより大きく靴の泥を蹴落とす音がしたと思うと、戸が大きく開き、ぬかるみの汚れを膝の上までつけたダミルがもどかしげに大きく手招きした。
「ごらん、すっかり空気が澄んで日が射している。おいでシアニ。」
シアニは一度椅子の上にしゃがんでから手をついて後ろ向きに滑り下りた。
「ロサリス!」ダミルは声を大きくした。
「イナ・サラミアスの姿が見える―――山の稜線がはっきりと。あの日以来だよ。」
居間の敷居のところまで出てきていたロサリスは、あっというように両手を口に当てて立ちすくんだ。ダミルは構わずにずかずかと室内に入ってくるとロサリスの手をつかみ、外へと引っ張っていった。
玄関から出て左側へと回り込んだところで、ロサリスはようようダミルの手を振り払い、顔を壁へと背けかけたが、やがてその顔に光を感じて東の方を見た。
木々の梢を透かしてくっきりと遠くの山脈が姿を見せていた。左側からなだらかな線を描く山容はしかし、右へ目をやるほどに大きく崩れてへこみ、もとは一つながりだった優美な線が欠けて落ちたのが見て取れた。
「イナ・サラミアス―――姉神サラミアの地だ。痛々しい姿になってしまったものだが―――。」
ロサリスは茫然として見つめている。口が少し開き、蒼ざめた頬はこけ、外明かりは無情にも鬢の白髪の筋をも銀色に際立たせている。ダミルはその様子をそっと見た。この頬に幾分丸みがあった頃、何年にもわたってその上に涙のあとを見つけてきた。もうそれすらも見られなくなっていたが。いや、本当に泣いているのを見たのは五年前に一度きりだった。
小さな手がチュニックの裾をもどかしげに引っ張り、ダミルは気が付いてシアニを抱き上げた。
「おう、やっと見られたな、シアニ。あれが双子の姉さんのサラミア―――イナ・サラミアスだ。大きくて分かりにくいが寝ている姿なんだよ。ここから見えるのは肘の先と腰から膝くらいかな。南に長く裳裾を引き、北の方は長い腕の尾根に肩。額の峰の先には豊かな髪のうねりがある。こちらに来てごらん。」ダミルはぐるりと右側に庭を回った。厨の裏の木立ちの向こう、西の方にははるか遠くにまた高い山塊の頂が見えた。
「あれがベレ・イネ。妹神。座するイネ・ドルナイルだ。大昔にやはり火を吐いて、変わり果てた姿になったそうだ。もともとは美しい女神だった。姉妹ともに美しい山だったのだ。」
ダミルの後ろにそっとついて来ていたロサリスは、我に返って素早く手で両の頬を拭い、その手を前掛けに隠すと声をかけた。
「ダミル、失礼しました。よくおいでになったこと。どうぞお入りになって。」
館の中に入ると、下から厨に上がって来たバギルが興奮した面持ちで、ダミルから預かっていた大きな魚を見せた。
「これは私がさばきますぞ!こんな見事なマスがいたとは。」
「コセーナの池じゃないさ。」ダミルは得意そうにちょっと目を輝かせ、炉端に掛けた。「泉の下流の淵にいたんだ。木立ちに守られて灰にも埋まらなかったんだな。」
ロサリスは、魚を見ると手を打って言った。
「裏に芹か浅葱はなかったかしら?ダミル、夕食までいらしてくださいな。バギルも。今日は皆で一緒にいただきましょう。」
「ダム、ウズラが卵を産んだよ。」
シアニがダミルの肘を引っ張り、背伸びしてささやいた。
「じゃ、そっとしておくんだ。」
しかし、バギルが魚をおろし、ロサリスがそれに香草を添え、麦粉の皮に包んでかまどで焼くまでの間、ダミルはシアニとウズラを見に行き、ついでに火の絶えて久しい鍛冶場を見に行き、ぐるりと丘の北の中腹の段を渡って厩に行き、飼い葉をやり、水をやった。
ダミルがシアニを連れて館に戻ると、室内には灯火が灯され、暖炉は心地よく燃え、卓上は整えられ、料理は仕上がっていた。ダミルとシアニは丁寧に手を洗ってから食卓に着いた。魚の包み焼きの他に、魚の出汁に澱粉のとろみをつけたカブのスープがあった。
誰にも遠慮をさせないために、ダミルはまず自分の分を大きくとるとどっしりと構えて、七日間のコセーナの領内の様子と周辺の見回りの報告、灰がやんで起こった珍しい出来事を立て続けにしゃべった。
「こうして口に出して話せるようになっただけでも進歩だな。」ダミルは一同を見渡して微笑んだ。
「まず領内にいる者の覆面が取れた―――可笑しいかい、イネ。だけどコセーナの家人たちは館の棟から棟、作業場と移るのにどうしても外を通るので、食事以外はいちいち覆面を外さないんだ。この間、皆が顔を出したらひどいものだった。男は剃刀も当てず、女は仏頂面―――笑うのをわすれているんだよ。だが無理もない。笑うことはおろか、泣くことさえままならなかった。必死だったんだ。弔いの涙すら灰がやむまでとっておいたんだ。そして、笑い出すのも泣き出すのも働くのも一斉にやりだすんだよ。まず耕地を掘り出さねば。水路の修理―――いや、コタ・レイナの浚渫を是非ともやらなくては。一体何年かかることだろう。だが三つの郷が協力してやり遂げなくてはならない。もとの暮らしに戻るにはコタ・レイナの保全はどうしても必要なんだ。」
「オトワナコスとエフトプは大丈夫かしら」
ダミルの皿が減らないのを見ながらロサリスは杯をすすめ、静かに尋ねた。
「双方と行き来はありまして?道は埋まってはいないかしら?」
ダミルは上機嫌で魚を頬張り、次の話題に備えた。
「七日前の嵐の後、オトワナコスとエフトプに使いを送ろうとうちの年寄りたちと相談していたら、三日後にオトワナコスの方から使いが来たんだ。領主の甥がふたり。山の灰が収まり、イビスの連中も静かにしているというので頃合いを見て見舞いに来てくれたんだ。灰は向こうではそうひどくないらしい。道も馬で何とか通れるようだ。そしてお馴染みの赤い稗と山羊のつがいを三組持ってきてくれたよ。高地から見るとこちらの灰はひどいとさ。大所帯で大食らいがいるから痛手も大きかろうと気遣ってくれたんだよ。」
ダミルは笑い、ふと真剣な顔になった。
「むこうには気にしていることがあるし、我々にもすぐにその問題は降りかかる。夜盗や飢えたものが隣人を襲うことはしばしばあったが、徒党を組んだ大きな賊の集団が跋扈しているらしい。残念だが、灰が静まって動きやすくなるのは誰にとっても同じだからな。それに依然としてそれより前からの問題がある―――。」
ダミルはロサリスの目を避け、門番夫妻を見やり、皿に目を落とした。「我々は灰の始末と修復の傍ら、戦いに備えねばならないだろう、という話をした。」そしてせっせと食事の続きに取り掛かった。
食事が終わるとロサリスは子供の服を繕い始めた。女たちは卓を片付け、バギルは丘の周囲の森の様子をぽつりぽつりと話し始めた。ダミルはうなずいていたが、
「そうだ、オトワナコスの使いがこんな気の利いたものを。」そう言いながら、はたとどこに隠してあったかと一瞬迷うように身じろいで、折り上げた袖のひだの間から、三角錐の小さな木の実をひとつかみ取り出した。
「仕舞うのに困るようなものをくれる。あちらも別れ際に思い出したんだろう。コセーナに来る道中の、あの件の十本木の下で拾って来たんだろう。直に手にあけてくれるものだから。」
「イスタナウトだわ。」
テーブルの上に置かれたその実を見て、ロサリスの目が一瞬輝き、唇に誇らしい微笑がよぎったのをダミルは見逃さなかった。
「この実がなるのだからオトワナコスのあたりの様子が悪くないのがわかるだろう。今にイナ・サラミアスにも緑は戻るさ、ロサリス。かつてのようにね。ほら、シアニ、この実は旨い。生でも食えるぞ。だが炉であぶるともっと旨い。ねえやとそこで炙っておあがり。」
ダミルが無造作に掴んで出した実はシアニの小さな手にあふれ、子供は拾っては落とし、落としては追いかけして五つ六つ両手に握りしめた。その様子をしげしげと見ているうちに、ロサリスの灰色の瞳は再び長い睫毛の落とす影に隠れてしまった。
シアニはいくつかの実を食べて満足すると、残りを仕舞おうとあれこれ探したあげく、襟元に入れては裾から落とし、袖に入れては落とし、しまいにダミルの袖を不思議そうに折り返しては、ダミルを笑わせた。
「シアニ、ここへおいで。」
ロサリスは裁縫籠から端切れを選び出し、すぐに小袋を縫い上げた。そしてその中にイスタナウトの実を入れ、口をリボンで縛った。
「シアニの種の袋よ。」
シアニはその袋を神妙に手に取ると、人形のように大事に胸に抱えた。そして急に思い出したようにダミルの膝元にやって来た。
「ねえ、おはなし」
「い、い、と、も」ダミルはわざと低い声で唸った。シアニはダミルを見上げ、ふふっと笑った。
「何の話だ?」
「エクミュン。」
「エクミュンは人気者だな!オトワナコスの子たちも大好きだ。いろんな話に出てくるんだよ。だがシアニが聞いていられるなら長い話をしてあげるよ。平気かな?」
「うん、平気。」
「途中で寝るんじゃないかな?」
「寝ない」シアニはふくれ面をしてロサリスを見やった。「ひいさま、先に寝るよ。」
「本当かな?」ダミルは穏やかな目をロサリスに向けた。
「エクミュンの話なら誰も寝ないと思うな。」
「私たちも聞かせてもらえますかね。」
バギルの妻は厨から出てきて手を拭きながら言った。
「ここで暖まりながらゆっくり座らせてもらいましょう。いい薪ですこと。たっぷりと持ちますよ、これは。」
「本当ね。」ロサリスはふと一同を見回した。
「私たち皆で ここで暖まり、お話を聞くことにしましょう。」
ベレ・イネの噴火と長い夜
エクミュンの妻は、ベレ・サオの山から来た神通力のある女だった。息子たちは弓の名手であり、娘たちはそれぞれに、糸をつむぐ者、酪をつくる者、薬酒を醸す者と呼ばれた。これはエクミュンの数ある冒険の最後の物語である。
昔々、黒く濃い雲が天を覆い、昼が何日も訪れないことがあった。夜の星々も黒い幕に遮られ、ただ朝のうちだけ赤黒い陽光がぼんやりと家々の屋根を照らすのみであった。
高台にある長の館の上にはさらに急峻な岩がちの斜面があり、その先ははるかな山並み、そしてベレ・サオの頂につながる峰があった。そこだけは昼の間は明るく、夜は星を頂いて清冽な濃紺の闇があった。館から見上げると星のもとに山腹にたつ一軒の家があった。そこがエクミュンの家であった。
長は村人たちを集め、ヨーレ(歌)を詠唱させた。ほどなく大山羊の背に乗ってエクミュンの妻が山から下りてきた。
「西の妹神が火を噴き、煙で空が曇っているのです。私の里の者がヨーレで姉神に祈り、東から風を送ってもらいましょう。山の上の青草が伸びてきたら家畜を出して草を食べさせなさい。」
やがて北東の峰の上から微かなヨーレが聞こえてきた。風が吹き、風に乗ってさらに大きな歌声が聞こえると、天の雲が分かれ、陽光が射した。人々は家畜を囲いから出し、青草を食べさせた。
毎日、人々は朝になるとヨーレを歌い、陽の射すあいだ仕事に励んだ。エクミュンの娘たちが、山羊の毛を織って温かい衣をつくり、山羊の乳で酪をつくり、生命力の強い薬草で薬を調合したので、人々は長い冬を息災に過ごせた。
「やれやれ、やっぱり寝てしまったな。」
ダミルは胸にもたれ、すっかり目を閉じているシアニを抱えなおそうとした。シアニはぱちっと目を開けた。
「エクミュン、まだ出てこないよ!」
「そうだった。ごめんよ。」ダミルは咳払いをし、薬酒で喉を潤した。
「さて、こうして山の民のヨーレによって風が起こり暗い雲を払うわずかな昼間にオトワナコスの人々は何とか赤い稗を育て、山羊を育てて暮らしをたてていた―――ちょうど今の我々のように。」
イービズの鬼とイーマ
幾日かして山裾の西の森から悲壮なヨーレが響いてきた。何人かの村人が助けに下りてみると褐色の肌のヨレイル(木霊)たちだった。ヨレイルたちは館に連れてこられ、娘たちの手厚いもてなしを受けると身の上を語りはじめた。
「私たちは西から逃げてきました。西には昔、大蛇が住んでいた土地があり、イービズ(木々を刈る)という鬼が住んでいます。蓬髪は炎のよう、目は氷のよう。イービズは人は食らいませんが、黄金の穀物をどっさり食べます。この黄金の種を蒔く畑に私たちの仲間を切り殺しては埋め、肥やしにするのです。まもなく私たちを追ってここまでやってくるでしょう。」
長の館にエクミュンと妻が呼ばれた。エクミュンの妻が言った。
「イービズが悪事をなすのは太陽の光がとどかず、黄金の穀物が育たなくなったからです。黄金の穀物は私たちの赤い稗よりもひ弱なので力を与えようとしてヨレイルの血を捧げるのでしょう。まず太陽を呼び戻すために、私の兄弟の中でも最も強い兄を呼んで力を借りることにしましょう。」
そしてエクミュンの妻は首飾りを外してエクミュンの前に置き、別れの許しを請うた。長兄に頼みに行くときには生まれ故郷の山よりも遠いところへ訪ねゆかなければならなかったからだ。
山の女は、長年暮らした家よりも高い高い山を登って行った。そして村の上の頂に着くと足で地をひと蹴りした。山の際はぱくりと割れて断崖絶壁を残して崩落し、女の姿は消えた。
山の山腹に村の人々を引き連れて避難していたエクミュンは言った。
「さあ、山がおれ達に城をくれた。盛土をして石垣を築き、砦をつくるぞ。畑も高く盛って囲うんだ。いつでも矢が放てるようにな。」
エクミュンと人々は崩れ落ちてきた土を盛り、石をきれいに組んで、崖を背後にし、礎を石で高く組み上げた強固な砦をつくった。広々とした畑も美しい棚につくり、牧場も囲いをもうけて山羊が森に迷い出ないようにした。その間にも鬼から逃れてくるヨレイル達がオトワナコスに迎え入れられた。
いくたりかの年月が流れたある日の夕刻、東の妹川の彼方から、甘く、しかし深い底知れぬ力を秘めたヨーレが流れてきた。人々は驚き怪しんで戸外に出、夕暮れに瞳を凝らし、耳をすませた。夜半を過ぎたころ、門の外に琥珀色の肌と炯々と輝く黒い瞳を持つ、容姿の優れた男女十人がたどり着いた。先頭の男が言った。
「私たちは一門の娘の呼びかけに応じ、ふたつの川を越えてきました。」
それを聞くとエクミュンは人々をかき分けて前に出た。
「妻の身内か。ようこそおいでを、兄上。」
十人の男女は砦に立ち、頭を高くあげて天を仰いだ。そして東のイナ・サラミアスの稜線に敬愛を込めた眼差しを向けると、その唇から優しい祈りが流れ出た。それは短いものだった。言うなれば挨拶をしたというような。
次に彼らは北西に向き直ると、ひとりひとりが村全体に匹敵するほどに、力強くヨーレを歌いはじめた。
母よその慈しみの手でもって
妹君を癒してください
身内の高貴な宝に呼び寄せられ
這いよっては刺す虫が妹御を苦しめるのです
熱い炎の吐息、蒸気の涙が天を曇らせ
その苦しみがさらに小さな者どもの苦しみを呼びます
緑の衣の母よ
その手を どうか妹君に
さすればイーマは
傷の火照りを鎮める涙の一滴ともなりましょう
歌声が天を響かすと、それは村の上の崖が崩れた時よりももっと恐ろしい轟となった。そしてその鳴動の中で、人々は北の山の峰々が東から西に渡ってゆっくりと盛り上がってゆくのを見た。足元の地面はもちろん、世界を包む大気そのものが絶えまなく揺れ、押し寄せ、唸った。山肌の森がうねりながら押し寄せ、時に耐えかねて地を割り、土を幾筋も流した。きらめく銀の川筋が震え、のたくり、沸き立ったかと思うと、泥に紛れ、山肌を流れた。
人々が身を震わせつつ、夢とも現ともつかぬ放心から我に返ってみると、オトワナコスは両側に深い渓谷を、背後に断崖を備えた高い砦に変貌していた。渓谷は清らかな水を湛えていた。
誰ともなくあっという声が上がり、かつては遠い山裾のはるか向こうに横たわっていたコタ・ラート(背川)が新たに北に出現した渓谷を源にしてすぐ近くに流れを移したのを、人々は認めた。渓谷のすぐ北から西にかけてなだらかな山脈が出現し、やわらかな朝の光を受けていた。ベレ・イネから吐き出されていた黒い噴煙は何年かぶりで治まっていた。
「光がエファレイナズに戻って来た。イービズの黄金の穀物が育てばヨレイル達は安心して森に帰れるぞ。」
人々はそう思ったが、声高には言わなかった。何年もの間村人たちはヨレイルを受け入れてきたし、彼らは木の実の食べ方、獣のことや珍しい歌を知っており、性質は穏やかで好かれていた。村の者と夫婦になった者もいた。オトワナコスに残り、この郷の人間として生きるかどうかは彼らの決めることだった。
しかし、イーマ達は砦の上から気がかりそうに西を見つめた。背川が流れを変えたことで何が起きるかはまだ分からなかったからだ。
砦の櫓の上で西を見張っていたエクミュンが叫んだ。
「息子たちよ、弓弦を張って守備につけ。イービズそのものがこちらにやって来るぞ。その名の通り木を刈り、なぎ倒し、ヨレイルらを追いかけて、こちらにまっしぐらに駆けてくる。」
それを聞いたオトワナコスの長は心を乱され、イーマ達に向き直りなじった。
「あなた方は背川をこちらに祈り寄せてここを孤城に仕立てたが、わしらは鬼をここに呼び寄せて戦いたいわけではない。逃げてくるヨレイルをこの上受け入れたらどうなるか。ここがいっぱいになり身動きできないところをやられてしまう。」
村人たちは長が動じるのを見て風に揺れる茅のようにどよめいた。イーマの年長者が答えて言った。
「もともとこの災いは、外界から来た山師たちがイネ・ドルナイルを悩ませたことによる。妹神の苦しみを癒すために東の姉神が腕を伸ばし、外界との境を遮った。ベレ・イネの噴煙を止め、空に光を取り戻すには必要なことだったのだ。だが姉神自らが動けば森羅万象のさまも動く。峰が動いたために背川の源は断たれ、新たに出来た川につながった。イービズのもともと枯れていた耕地は水の下になり、かの者は行き場を失って暴れている。いや、新たに耕地を得るために森を拓かざるを得なくなったのだ。」
最も若いイーマが言った。
「あなた方も元は森を拓いた者。彼らと同じ道をここで選ぶこともできる。」
人々は改めてイーマ達を畏れを込めて見た。山を動かしたこの者たちは、自分たちにどんな運命をもたらそうというのか。しかし、イーマの女は一歩前に出てなだめるように言った。
「私たちはここに住んでいた妹のひとりの求めに応じて来た。もはやあなた方の一部である妹は、あなた方と、私たちの末弟にあたるヨレイルたちのために助けを求めたのです。私たちはあなた方のと同様、ヨレイルの嘆きをもうち捨てておきはしない。」
「ここを守られるがよい。」年長のイーマは言った。
「われわれはここを下り、イービズの鎌から弟妹を救いに行く。」
その時からからと頭上から笑い声が響いた。櫓の上で油断なく遠方に目を据えたままエクミュンは言った。
「なあ、村の衆、臆病風は腹の中で何と囁いた?ヨレイルたちを追い立て、イービズの鬼に引き渡すと?一体、明日には子や孫に何と言い逃れる?昨日まで共に寝起きし、飯を食っていたつれあい、兄弟、友の姿が消えたことを。恥ずかしくはないのか。そうして鬼と呼ぶ敵に倣い、友の血肉の上に生い育ったものを食うことが。こうしている間も奴は近づいてくるぞ。打って出るのがいちばんだ。ここを修羅場にするには及ばん。おれはあんたらと一緒にいくぞ。」
エクミュンは砦から下り、ついてこようとする息子たちに言った。
「お前たちの矢は遠くでも届く。防壁の上からよく狙って橋を渡らせるな。」
エクミュンと村の男たちの何人かがイーマ達に従って高柵と石垣に囲われた台地を出、城門の外の橋を渡って、森へと下りた。一行は西へ西へと進んだ。イーマ達が何ひとつ武器を帯びていないのを村人たちは訝しんだ。一体、どうやって戦うつもりなのか。しかし彼らは眼差しを西に向けたきり、歩調を緩めることもなかった。時に仲間に、時に後からついてくるエクミュン達にかける言葉はそのままヨーレのようであった。
炎が立つ。西日の赤よりも赤い。天を曇らすのは煙か?
妹神が泣き治まり、煙の雲が晴れたというのに、これを凌ぐ炎と煙が弟妹を焼き苛むとは。
ヨレイルの願い、オド・タ・コタ(川向こう)の友の願い、すべてが違う方に向かっている。
これをサラミアの災禍としてなるものか。
やがて、イーマの言葉のとおり、行く手の森の天辺を焦がす炎と煙の色が見え、次いでかすかな嘆きの叫び、木の倒れる軋み、梢の焦げるパチパチという音が聞こえて来た。
そして一行の前にイービズがその姿を現した。
イービズは巨大な鬼で頭上でちろちろ燃える赤い髪と鉄の刃のようにぎらぎらひらめく牙とかぎ爪とを持っていた。普段は黄金の穀物を育てて食うという人並みな習慣もかなぐり捨て、今は鬼の本性そのままに逃げ惑うヨレイルを捕えては順にむしゃむしゃと食らっていた。
イーマの女は無残な光景にもはや先に進むことは出来ず、そこに膝を折り両手を差し伸べ叫んだ。
「ここへおいで。哀れな子」
その姿を頼みに駆け込んできたヨレイルの子供がその腕に抱かれるや、イービズは十本ある長い鉄の爪を一本投げつけ、背後から女もろとも刺し貫いた。
エクミュンは怒って矢をつがえた。
「この野郎、大人しげな相手と見ると人も木も見境なく殺めるか。おれの愛しい妻がくれた矢にかけて、木が命中するとどんなに痛いか思い知らせてやるぞ。」
彼の傍らでイーマの長は静かに言った。
「鬼の爪は十本。我らが一本ずつ引き受けよう。強い弓手の方。」
「何を言う?」
エクミュンがそう聞き返す間もなく、イーマらは一斉に、殺された女と子供の両側に分かれて前方へ駆け出た。気付くと彼らが傍らを過ぎたのは、鉄の刃を受け、やや前にかしいだブナの木であった。
九人のイーマらはこちらへと逃げてくるヨレイルらを追い越し、両手を広げてイービズとの間に立ちふさがった。両手両腕はたちまち枝葉となり、逃げこむヨレイル等と弓を構えるエクミュンの姿を隠し、イービズの九本爪から守った。
イービズの鉄の爪は、イーマが変じた樹々に触れると威力を失い、地の上に落ちた。
「何ということだ!」
エクミュンは叫び、村人たちも叫んだ。エクミュンの放った矢はイービズの心臓にあたり、イービズは崩れ、あろうことか小さく何人にも分かれた。人並みに小さく、ただ髪は赤く眼が氷のような人間であった。村人らは、小さくなってもまだ暴れる鬼どもと戦い、振り払いながらじりじりと退却していった。
オトワナコスの砦のふもとにやって来た時、エクミュンは上に向かって叫んだ。
「息子たちよ、後を頼んだぞ。」
声に応えるがごとく、砦から飛んできた矢が次々と頭上を越え、鬼どもを仕留めた。村人とヨレイルたちに先に橋の上を渡らせたところでエクミュンの矢は尽きた。エクミュンは弓を下ろした。
「ぬしらの境界はとうに過ぎたというのによくも追いすがってきたものだ。だがこの先は同じ農民でもおれたちの国だ。ぬしらは入れぬぞ。イーマとヨレイルの地をさまようがいい。」
そう言ってエクミュンは橋の端をめりめりと引き上げて外し、前方へ放り投げた。橋は横ざまにずしんと地にのめり込み、一枚岩の壁になって鬼どもの行く手を遮った。と同時に、あまりにも力を込めたためにエクミュンの体も岩になった。
鬼どもは今にも覆いかぶさりそうな岩の姿形に恐れをなして逃げ去っていった。森は深く、朝になるころにはさらに深く生い茂り、道に迷った鬼どもがもとのイービズの里に帰りつくことはなかった。
エクミュンの妻が山を踏んで出来た要害は今もオトワナコスの全容に見受けられる。また門の外の谷を越えたところには横に長く岩盤の飛び出たところがあり、傍らには前のめりの大岩がそびえていて剛腕の岩と呼ばれている。
また、森をイビスの荘の方へ下る中ほどには、開けた空き地の際にきれいに一列に並んで九本、そして少し森の中に入って一本、きわめて立派なブナの古木が生えている。イナ・サラミアスに多く、この周りでは稀なこの種のブナは、姉神が好んで立ち寄るとされ、それ故にイス・タナ・ウト(かの女の現る木)と呼ばれている。
「シアニ、これがその木の実だ。」
ダミルがイスタナウトの木の実の入った袋をとんとんと卓上で跳ねさせた。シアニは眉をひそめ、口をへの字にしている。
「木は痛くないの?」
「大丈夫さ」ダミルは請け合った。
「ダムは子供の時から何度もオトワナコスに行ってその木を見たよ。大きな木だよ。そして怪我をしたのはずっと昔だからもう傷なんかなかった。治ったんだよ。」
シアニはにっこりとしてダミルの胸にもたれかかると、今度こそぐっすりと眠ってしまった。
ダミルは子供を起こさないように静かに座ったまま、ロサリスを見た。ロサリスはとうに裁縫のことを忘れてしまって、両手を膝の上に組んで火を見つめていた。常はおとなしやかにまっすぐな眉が弓なりに上がり、一点を見据えたその目に火影が踊っている。頬が赤みをさしているのも暖炉の火照りのせいばかりではあるまい。
「や、すっかり遅くなって…。」うつらうつらと舟をこいでいたバギルが、はっとして周りを見、子供を膝にのせているダミルに気付くと申し訳なさそうに立ち上がった。
「殿、泊っていきなさいよ。何か敷物と毛布を持ってきてあげる。今日は月も無いし、今から帰るのは危ない。ね、そうしなさいよ。」老人はロサリスを横目で見た。
「ここでも―――なんならむさくるしいが番小屋にでも。」
「待ってくれ」
ダミルは片手をあげて制し、まずシアニを小部屋に寝かせに行き、ゆっくりと足音をひそめて戻って来た。暗く静かな室では、それでも大きな体格から出る床の軋みも衣擦れの音も消しおおせなかった。ダミルは自分の出す音に気を取られるあまり、ロサリスがさっと立って歩み寄ったのに気付かなかった。ロサリスは明かりを背にして間仕切りのそばに立ち、両腕を組み合わせてまっすぐにダミルを見上げた。
「姫、ひとつ頼みを聞いていただきたい。」ダミルは丁寧に言った。
「なんでしょう」
「地下通路を使わせていただけないだろうか―――緊急の時のために。」
ロサリスは睫毛を伏せると低く言いよどみながらゆっくりと答えた。
「七日前に食糧の貯えを出すために入り口は開けたけれども―――あの日以来ずっと封印していましたの。その後の地震で崩れているかもしれず、中の方はあらためていないので、すぐには返事はできないわ。」
ダミルはばつが悪そうにちょっと微笑んだ。
「実はコセーナの方からは入って確かめてみたんだ。分かれ道のところまでは難なく来られたし、崩れそうなところも見つからなかったよ。」
「まあ、ダミル」ロサリスはきっと声を鋭くした。
先からふたりのやり取りを聞いていたバギルは辛抱しきれなくなって前に出、大声で言った。
「姫、安全のためにもそれがいい。ダミル様をコセーナにお帰しするのが暗くなってからでは危なくて仕方がない。灰が止んだらまた夜盗だの、コセーナやここを狙う者が動き出しますでな。連絡もつけやすい。あの道に助けられたのは一度や二度じゃない。そろそろ開けて使えるように手入れしておいた方がいい。」
老人の堰を切ったようにまくしたてるのを見て、ロサリスは一瞬口元を引きつらせ、首を振った。
「あの道も最後には襲撃を受けたわ。玄室の中でさえ安全ではなかった。」
「そいつらは正面から入り込んだんじゃなかったかね?あの時、ここを守る男は誰ひとりいなかったからな。」
ロサリスは両の拳を握り、ごく小さく床を蹴ってバギルを睨んだ。
「おだまりなさい―――」ロサリスは鋭くささやいた。
「許さないわよ。あの人がどうしていたか知っているでしょう―――。いつもイナ・サラミアスから逃れてきた人々やヨレイルを護り、逃がしていたのよ。ダミル、あなたの計画を聞いてすぐに駆け付けてくれたのよ。ただ、間に合わなかった。誰もが思いもしなかった相手が来た―――。」
その場にいる誰もが動かなかった。が、ロサリスはまじろぎもせずにバギルを見、ダミルを見た。
「その後であの人に何ができる?私たちの宝―――息子の後を追う以外に何が出来たというの?イビスのグリュマナの一党が襲ってきたのはその後よ。彼は遅い襲撃に臍をかんだでしょうよ!もちろん女子どもしかいなかったわ。そして彼らを守る私は腑抜けだった。」
バギルの妻はつと近寄って夫の背に腕を回し、その腕をしっかりと掴んだ。
ロサリスは息を整え、静かに言った。
「ダミル、通路は使っていただいて結構です。お確かめになったなら大丈夫でしょう。ただし、いくつかの約束は守ってくださいませ。」
「約束は守る。必ず」ダミルは誠実に言った。
「あなたがひとりでいる時には訪れない。また信頼のおける者、ニーサかケニルを使いに寄越しても他の者には入らせない。」
「では今晩からお通りください。」
ロサリスはくるりと踵を返し、玄関から正面の奥にあたる扉の傍らの壁龕から灯火を取り、扉の閂を外し、開いた。
さっと冷気が足元から暖まった室内に流れ込んで来た。ダミルが、続いてバギルが、ロサリスが先に立って入った奥の間へと進んだ。
そこは居間とほぼ同じ広さの縦に長い空間だった。小さな手燭が照らすわずかな範囲では中央にどっしりと据えられた円卓と見まがうばかりの灰白色の塊が暗闇の中に見えるばかりだったが、子供の頃からこの奥津城をよく知っているダミルには、真昼の光の下で見るのと同じように中の様子が思い描けた。
足の下は玉砂利が敷かれ、枯れ草がその間にのぞいている―――もとよりここは屋外だ。冬の間だけ上に屋根をかける。それが五年もの間外されていないのだ。ぐるりは四つのアーチを有する馬蹄形に巡らされた石壁に囲われ、アーチの間の締め切られた扉の奥には住民のいない五つの部屋がある。墓よりずっと後につくられたハーモナの守り人一家の住居の跡だ。祭殿の中央にある円卓のようなものは、その下の地中に深々と根付く巨樹の切り株だった。その直下の丘の地中に玄室があり、コセーナとハーモナに縁の者の遺灰が収められているのだ。木は一度倒れた時に根元から切られ、死者の名を刻む碑として切り株が残されたのだという。
今、ロサリスはその碑の横を通り過ぎ、正面の突き当りの倉庫へと導いた。床の揚戸をめくると下に暗い穴があき、地下につながる梯子がついていた。ロサリスはわきに立ってダミルを見た。ダミルは灯火を受け取る前に、ちょっとバギルに振り返ってうなずいた。
「バギル、送ってもらうにはおよばないよ。ここは私がやっと通れるくらい狭いんだから。明日馬を連れ戻しに来るから世話を頼むよ。」そしてロサリスの方を向いた。
「姫、あなたにも馬を連れて来よう。馬がいればあなたの方からコセーナを訪ねてくることも出来よう。シアニは大きくなってきたから友達も必要だろう。それにたまに母に会ってやっていただきたい―――ラシースがいなくなって寂しいのはあなただけではないよ。」
バギルが、足元を照らし、ダミルはほんの十段ばかりの梯子を下りて、バギルから灯火を受け取った。
バギルはずっと下を覗いて、灯がすっかり奥に吸い込まれて見えなくなってしまっても、なかなか躊躇して戸を下ろさなかった。通路を見下ろしながら暗闇の中でぶつぶつとこぼした。
「魚のお礼をもう一度言っておくんだった。鷹揚な方だよ。姫、父上とは気性が通って、そりゃ気に入っておいでだった。荘のやりくりが大変だったのもあろうが独り身でおられるのは確かに思うところあってだよ。」
ロサリスはつとその場を置いて祭殿を通り、居間へと取って返した。バギルは揚戸を下ろし、大股で追いかけて来た。
「そりゃ道理だ。コセーナの一部であるこのハーモナにあなた様を住まわせながら奥様をお貰いになるなんて無理な話だよ。女の方が嫌がるさ。年頃もちょうどいい男と女がいて背中合わせに住んでいるなんて、な。」
炉の前に来るとロサリスは思い出したように震え、ショールをかき合わせた。バギルの妻は、ロサリスを暖炉に押しやり、夫が入ってきた後で、祭殿の境の扉を閉めた。
「姫、そろそろ考えなさい。」
「考えているわ。」
ロサリスは炉端にしゃがんで火を掻き起こし、手をかざした。
「わしらが何とかしてあげられるならいいが先行きも短い。これからはコセーナを頼らなきゃ口過ぎもならん。シアニがいればなおさらだよ。」
「子供はこれから手がかかるよ。よく食べるしね。」バギルの妻はおっとりと言葉を添えた。
「雀の子ではない、人の子だもの。母さんも、父さんも、きょうだいも必要だよ。」
「しばらくの間、わしらであの子を預かってもいいんだ。」
バギルは思いついたように妻に目配せし、ロサリスに励ますように言った。
「評判でも気になさっているなら、コタ・レイナ界隈でこの組み合わせに不満のある者なんかひとりもいないよ。」
「評判なんか!」ロサリスは裾を払って立ち、ぴしりと言った。
「イナ・サラミアスの者と契った女が、今さら世間の評判など何でしょう?」
バギルは落胆と後悔のため息をつき、その妻は悲しげにロサリスを見た。
「事は、エクミュンに許しハルイーに許したことをサラミアはあの人にはお認めにならなかったということよ。」
ロサリスは細い声で呻き、その場から身をもぎ離すようにして小部屋の中へと駆けこんだ。
小部屋の隅の封印した長持ちの上に身を投げかけ、声を押し殺してむせんでいると、シアニがむっくりと寝台の上に起き上がった。
「ひいさま…。」
小さな影はこちらに顔を向け、じっと暗がりに目を凝らすかのように動かない。ロサリスはベールの端で口元を隠し、それから素早く目を拭って優しく答えた。
「どうしたの、シアニ。怖い夢を見た?」
「ううん、モーナとお話していた。」
「モーナ?」
「でも、もういなくなった。モーナにエクミュン知ってるってきいたの。」
「そう…。」モーナって誰のことを言っているのかしら、ロサリスは訝しんだ。夢を見たに違いない。子供は夢で見たことを本当だと思い込むものだから。
「それで、何て―――?」
「知ってるって。長い弓を持っていた男の子を知ってるって。でも名前がちがってた。―――ハルイーって」
ほら、やっぱり夢だわ。でもこの子は夢の中でさっきの私の声を聞いたのね。ロサリスは両手で口を押えた。ここでは何も言わなかったはずだ。
「ひいさまはどうしてここにいるの?寝ないの?」
ロサリスは強いて小さく笑い声をたてた。子供を不安にさせてはいけない。
「喉が渇いたわ。そうだ、シアニ、お茶を飲みましょう。炒り茶が見つかったの。温かいのをつくって飲みましょう。甘づら、銀杏、熊笹に、十薬、肉桂、薄荷に蓬…。」
シアニを抱き上げ、居間の炉の火をおこしながらロサリスは歌うように言った。
「香ばしくておいしいのよ。それに温まるわ。」
ふいごで風を送ると火はたちまち力強く燃え上がった。
「助かったわ、ダミル。ありがとう…。本当によく持つ薪だこと。」
翌朝、ロサリスは狭い子供の寝台の上で目を覚ました。毛布の中がすっぽりと丸く抜けて、居間の窓の板戸が開き、風と光が入っていた。
シアニが素足で立ったまま、窓の下の竪琴を両腕で挟むようにして、でたらめにかき鳴らしていた。
「ミアース、ミアース」
子供はロサリスに振り向き言った。
「ヨーレだよ」
ロサリスはその日、窓と戸を大きく開けた。そして羽ばたきを取り、竪琴の埃を丁寧に払い、調弦した。
「シアニ、もう触っていいわよ。」
言いながらロサリスはそのまま窓辺に腰掛け、シアニの顔を見ながら、考え考えして爪弾き、歌った。
雀 雀 雀っ娘 小雀っ娘
雀っ子よ
シアニは身をくねらせてくすくす笑った。
「どうしましょう?ああ、そうだわ、」
青い空へ 飛んでいけ
飛べ飛べ 高く飛べ 青空へ
シアニは両手を広げ、ぐるぐる居間の中に輪を描いて走った。
うまく 巧みに…。
両手をバタバタさせる。溺れているかのよう。ロサリスは声をたてて笑った。
お前の 翼でもって
目が回って倒れ、突っ伏したと思うと、転がって子供はげらげら笑い、起き上がってロサリスの膝に抱き着いた。
速い風に乗れ
歌え
青い空で 歌え!
ダミルは赤褐色の小柄な雌馬に乗って翌日やって来た。そしてそれをバギルに引き渡すと自分の鹿毛に乗って帰っていった。
「こいつはしばらくコセーナに飯を食いに通わなきゃならんな。」厩の前の留め杭につないだ馬が、灰の中にわずかに生えた青草を食み出したのを見てダミルは笑い、バギルに目配せした。「そして弁当と寝藁を持って家に帰るのさ。」
翌日ロサリスは、馬の前にシアニを乗せてコセーナへと向かった。
ハーモナはコセーナの荘の南に位置し、コセーナ領の周囲に巡る公道の内にあって全体を森に守られ、やはり木立ちに覆われた丘の上の館には、外から来た者はおいそれと近寄れなかった。
ハーモナに至るただひとつの道はコセーナの城壁の東口から延びている。それがさんざんに森の中に引っ張った挙句、丘の南の麓まで来、そこから二重に丘を巻いて登る道の登り口へと導かれる。その先には果てしなく丘を回るか、袋小路に行きついた挙句もとの道に吐き出されるか、案内のない者が入ろうとすればたちまち迷うように周到に細工をされている。が、二か所の隠し戸さえわかっていれば、ほんの四か所道を折れ曲がるだけで麓と丘の頂はつながるのだ。
ハーモナはもとよりコセーナの領主の墓所であり、コセーナに生まれた者とコセーナに縁付いた者が眠る地であった。その一系統が守り人として墓と森、南西部の泉の保全をしながら、墳墓の周に家を建てて住まってきたのであった。ハーモナの守のひとり娘がコセーナの当主に嫁いだ二代前からハーモナには住む者が絶えて、コセーナの家人が通いで手入れを続けてきた。それは八年前まで続いた―――。
ロサリスは、門番小屋と反対の側の丘の東回りの道を取った。そこもまた二か所の揚戸を開けば通れる。しかも近い。丘の麓からロサリスは、森の中に馬を乗りいれた。普請こそされていないが、そこにもまた隠された道がある。長年にわたって踏み固められた小道が、薄い踏み跡の偽道に交差しながら九十九折にくねって木々の間を通っている。今はダミルしか通らない道だ。だがその中でも道にかかる小枝は注意深く切り払われ、灰の覆った地面にも蹄のくぼみが道のありかを示している。
「うちにいた馬はこの道をよく知っていたわ。」ロサリスは呟いた。
「目を閉じて任せてもちゃんとコセーナとハーモナの間を往復できたくらい。こういくのよ、シアニ。右左、右左、右左、カシ。右左、右左、右左、ナラ。同じようにしてシイの木。麦の穂が連なっているように道がついているの。偽道は麦のノギ。本当の道は実よ。」
ロサリスは巧みに手綱を操った。
半分は私に 半分は雀に
一粒四十四 半分で二十二
二十二で手打とう 丸い実ざっくり
よくばり ケチケチ 虫食ってすっからかん
馬の背に揺られてシアニは笑い、ロサリスも笑った。
「小鳥は穀物も食べるけど悪い虫も食べるわ。仲間だから分け合いましょうって歌よ。」
土を固めた道が前方に現れ、それはすぐに二手に分かれた。左はハーモナに戻る。ロサリスは右側に乗り入れた。
ヒノキの木立ちがしばらく続き、やがて古い葉の中に新芽の伸び始めたカシの木が整然と並ぶ平らな地にさしかかり、帯状に道に従って残る森の左手に畑地と馬のいない馬囲い、うらぶれた番小屋、そしてその奥の斜面に作られた果樹園と、小高く盛った土台に高くびっしりと木杭を巡らせて砦に仕立てたコセーナの荘の南端が見えた。ロサリスは言葉少なに道なりに馬を進めたが、シアニはぱっちりと目を見開いて、延々とそびえる丸木の垣を見つめていた。
前方に耕地の境界の柵が横切り、道はその手前を上り、砦の東の小門へと導いていた。
ダミルの部下、年若いニーサが出迎え、シアニを抱きおろし、ロサリスから手綱を引き取った。若者に伴って待っていた奥方付きの女が丁重に挨拶をした。
「お待ち申しておりました。ロサリス様。女主人がお目にかかりたいと申しておりまして。」
「堅苦しい言い方はやめてくださいな。」ロサリスは小声で言った。
「私はここではトゥサカ様の娘以上ではありません。―――伺いましょう。」
ロサリスはシアニの手を引き、女に付いて広々と構えた荘園の中を案内されるままに、正門の内にあたる広場まで回った。広場の東西には井戸と水場が設けられ、奥には立派な両開きの扉を備えた母屋があり、その両翼には家人や作人の木造の住居が配されている。
ロサリスはかつて主家の姫として父とともにコセーナを二度訪れ、立派なヒノキの柱と大きな炉のある広間でもてなされた。三度目は避難者として逃げ込んだのだった。今、女が母屋と西の棟の間を通って連れてゆく、領主の住居の、さらに奥の女主人の住居へ。南西に位置する奥方の住居は、小さな杜の中に建ち、小さな池と庭を備えていた。庭に面した露台からは、ハーモナの小高く盛り上がった丘が見え、西側からは妹川の水辺に休らう水鳥の声が聞こえたものだった。
奥方は露台の椅子に掛けてハーモナを眺めていた。ロサリスはその姿を見ると思わず跪いた。
記憶にあったしっかりとした体つきと豊かにうねる髪、丸みのある血色の良い面立ちからは二回りほども小さくなってしまって、しかし包み込むような慈愛と威厳はそのままに備えた姿に心打たれ、言葉を失ってしまったのだった。五年の年月と噴煙の闇が隔てた間に、その手を一度も求めず、手を差し伸べ無かったことへの悔悟が胸を締め付けた。
奥方は杖を引き寄せて立ち上がり、片手をゆっくりと広げてロサリスを迎えた。
「姫、久しぶりですこと。」そして吐息をつくとまたゆっくりと椅子に沈みこんだ。
「掛けたままで失礼をさせて頂きますよ。近頃めっきり足が弱ってしまいましてね。」
「お訊ねもせずに申し訳ございません。」
ロサリスはうつむいて小さく言った。奥方はシアニに目をやるとロサリスを優しく見つめ、ゆっくりかぶりを振った。
「お母様は堂々としていらっしゃい。子供が心配しますよ―――。この子は緑郷の子の子?」
「いいえ」ロサリスはびくりとして老女を見返した。奥方はふっと気付いて、詫びとも自嘲ともつかぬ笑い声を漏らした。
「あらあら、そうだわ。この子はシアニだ。そう、私が名を付けたコタ・シアナの小雀ちゃんね。シアニ」奥方は手を伸ばしてシアニの頬を撫でた。
「何かあげるものがあったらねえ。おばあさんには女の子が無かったから、あなたが何を喜ぶかわからないのよ。」シアニはロサリスの手を離すと、奥方の椅子の横に回り、のびあがって口に両手をあてがい、耳打ちした。
「シアニ、いいもの持ってる。」奥方は身を乗り出した。
「トゥサカ!イスタナウト…。そうそう、シアニ。おばあさんの名も赤い穂よ。本当に、何をあげようかねえ、果物もないなんて…。そうだ、裁縫箱を。」
小間使いが箱を取りに行く間に、トゥサカは櫛を隠しから取り出してシアニの髪をとかし、小間使いに目配せして、小箱を開かせ赤い毛糸と鋏とを取り出し、シアニの分けた前髪を顔の横で結んだ。
「ほら、可愛くなったよ。これをもってお行き。」
革の小袋に、色糸の束と鋏、小布に留めた針を入れてやり、子供の手に握らせた。
「髪をちゃんととかすのよ。きれいで元気でいるために。雀だって羽を梳くでしょう。そして女の子は縫物が出来なくては。役にも立つしおしゃれもできる。母様によく教わるのよ。」
シアニは首をかしげてロサリスを見上げた。奥方はロサリスを差し招き、シアニの背を優しく押して言った。
「お友達のところへお行き。似たような年齢の子がいるからね。食事も一緒にするのよ。母様がお帰りの時に呼びにやるから。」
小女がシアニを中庭で遊ばせるために連れて行ってしまうと、奥方は椅子の背にもたれ、垣の向こうのハーモナの丘を眺めていたが、
「気付いたでしょう」ゆっくりと口を切った。
「私ももうだいぶん、弱ってきましたよ。気を強く持っていたけれど足がきかなくなってからは何もかもが早く衰えていくわ。」
ロサリスは老女の手を手に取り、その足元に腰を下ろした。
「何も言わなくてもいいのよ。時がたてばなるようになる。ついに灰がやんだようにね。」
「私の中ではまだ何も変わっていません。」ロサリスはうつむいた。「痛みが和らいだように思うことがあっても無くなりはしません。」
「もちろんそうですとも」トゥサカは強く言った。
「トゥサカ様、私とあなたの痛みは同じようであって違うのです。」
手の中の小さく皺んだ手を握り、震えながらロサリスは言い切り、固く目を閉じ、恥じ入りながら胸の内を吐き出した。
「どうして灰は止んだのかしら?灰の中で私は隠れていられたわ。怒り、呪い、誰の周りにも私と同じ災厄があると思い、誰にも見られずに安らいでいられたのよ。今は皆が私に前を向けと言うわ。闇が晴れて動き出さないのはおかしいと言わんばかりに。私はこの痛みを置いて立つことは出来ない。どうしても」
「私たちは同じものを無くしたのよ。」トゥサカは淡々と言った。
「でもあなたは若い―――希望があるから苦しいのね。」
「そうです。」ロサリスは目を開き、トゥサカを仰いだ。
「では希望を持ったまま聞いてちょうだい。あなたの従兄には甘えていればいいのよ。もともとコセーナは身内には篤いの。家で働く者にもね。一度この門の内に入れば家族として迎えたわ。夫もアツセワナからここに来てその家風を守ったし、息子たちも―――ダマートは違ったわね―――守ろうとしたのよ。ダミルにはあなたは妹も同然。安心していいわ。」
トゥサカの声は疲労を表してだんだんに潤んできた。
「だけど、あの子にも手が回らない事があるの。家人、作人、馬方、その家族、他にも災禍から逃れてきた身寄りのない者―――。男、女、子供、それぞれに持ち場があり、よく働いている。そして面倒を見る頭もいる。でも、持ち場を超えることはないし全体に目は通らない。私はここで彼らの母だった。おなかのすかせた作人、食材を待つ台所の女、難儀をした馬方、みんなの不満を聞き代わりの策を講じ、仲直りさせ、休ませ…。男にも遠慮なく言える女がいなくてはだめ。」
トゥサカは椅子の背にもたれ、息をついた。
「何日かに一度でいい。ここへ来て皆に会い声をかけ、食事を一緒にしてやって欲しいの。姫、私の腰の鍵はあなたが引き継いでください。ここにコセーナの全ての目録がある。それに蔵の鍵。あなたはアツセワナの城門の鍵を持っていなさる。故郷にお戻りになるまでで結構です。私に代わり、コセーナの母になってください。」
「希望を持ったまま…?」
「そうよ」トゥサカは、背もたれに首をあずけ、目を閉じた。
ダミルは、腹心の部下に老練な補佐をつけた二組の使者を、妹川流域の盟友、オトワナコス、エフトプ二つの郷に送った。三郷の会議を要請するためであった。その間にも荘内では、火山灰の重みで傷んだ家屋の補修や耕地の検分、水路の浚渫がダミルの指示によって進められた。
ロサリスはハーモナの丘の小さな畑にバギルの助けを借りて赤い稗を蒔いた。そして毎日朝のうちにシアニを連れてコセーナに通い、女たちを手伝って台所に立ち、時には少し大きな子供たちに読み書きを教えた。しかし、それよりも頻繫にしたのは、彼らに教わって籠編みを手伝うことだった。子供ですらめったに遊んでいることはなかった。何しろ水路の灰や土砂をさらいだすのに籠がたくさんいるのだ。降灰のためにさっぱり草木の育たなくなった土壌にも茅ばかりはよく生えたので、これを藁のように打ってしなやかにし、筵に織ったり叺を作ったりした。何をしてもロサリスは荘園の子供たちにはかなわなかった。彼女の持っている技能は全て、裕福なアツセワナで手入れの行き届いた道具が揃っていてこそ生きるものであった。ここでは縫い取りよりも籠編み、綴れ織よりも筵織だ。
子供たちはロサリスの不器用な手助けよりも、仕事の息抜きの自由なおしゃべりの方を望んでいた。ロサリスはしっかり者の子供たちをそっとしておいて、少しづつ館の中を見て回った。誰もが忙しげで話しかけられるようなものではなかった。遠慮がちに遠巻きに眺めているうちに、ロサリスはやがて、年寄りたちの孤独に気付いた。灰で胸を病み、未曾有の災難と老齢のために経験も力も出せず、邪魔にならぬように隅にいて塞いでいる老人たちだった。彼らは話しかければ喜び、咳止めの飲み物に感謝し、ロサリスを慕うことで彼女に居場所を与えた。やがて荘園の者たちは彼女がいることに慣れ、彼女はどこを自由に歩き回っても気後れを覚えなくなった。
シアニは台所と水場以外ならどこへでも子供たちについて行った。厩でも作業場でも畑でも、彼らには大人にはない通路があり、大人には障壁となる領分の境界もなかった。で、木工所から鉄工所、畜舎に菜園と縦横に歩き回って、食事時に行き当たった場所でなにがしかを口にした。夕刻になると大抵の子供たちは決まった大人に呼ばれて連れていかれた。シアニは大抵、最後まで、仲間がその父や母の手をつかまえて去っていくのをずっと見送っていた。そして奥方付きの小女が迎えに来ると、奥方の部屋まで行って挨拶し、ロサリスと馬に乗って帰るのだった。
日はどんどんと長くなり、木々は順調に芽吹き、梢の先にはシアニがこれまで見たこともないような色々な形の葉っぱが広がり始めた。
荘園の前面に巡らされた堀の浚渫が終わり、主だった水路もきれいになった。秋の麦の蒔きつけまでに耕地の準備を急いでいたダミルは喜んだ。
「水車を取り付け、水を引いてみよう。コタ・レイナから少々の灰は入り込んでくるだろうが、半月後には合議のためにオトワナコスとエフトプから代表が来る。コセーナが順調なことを見せて意気をあげようじゃないか。」
翌朝、男たちは新しく作った正門の跳ね橋を下ろし、馬に引かせた荷車に解体した二連の水車の他、樋や、長い杭、板、大きな槌などを積んで、大挙して出かけて行った。
子供たちと一緒に門のそばまで行ってそれを眺めていたシアニは、広場まで戻って来た時、外付けの大窯でパンを焼き、スープを作っている女たちのところへ走っていき、ロサリスのスカートをつかまえた。
「ひいさま、水車が回るとこ、見に行きたい。」
「シアニ、邪魔しないのよ。外へ出ては駄目よ。」
シアニは珍しく口を尖らせた。思いがけない顔つきにロサリスは笑いかけ、
「水車が見たいの、シアニ?無理もないわね。」遠くに眼差しを向けた。「そういえばアツセワナには大きな水車が三連あったわ。コタ・イネセイナから黄金の穀倉地帯に引き込む取水口に…。」
シアニは門の方をちらっと見た。門は大きく景色が開き、幅広の真新しい橋が架かっている。
「皆はお昼を食べにここに戻って来るわ。すっかり済んだら、後でちょっと見に行きましょう―――
今日は晩もここでいただくから急ぐことはないわ。」
三十六もの家族に作業に来ている五つの自作農。独り者…。彼らすべての昼と夜に出す食事―――。卓や椅子は?食器が足りない分はどうやって回そうかしら。
二十個の大きな丸いパンを取り出した後に入れる羹の鍋が八個、掻き出した燠火の灰で焼いている魚が十尾…。
立ち働く女たちの間でふと立ち止まって勘定していたロサリスの耳に、パンを棚に移していた女の頓狂な叫びが飛び込んできた。
「あれ、お嬢ちゃんが門のとこから出ていきましたよ!」
ロサリスは次の瞬間、他の者が素早く開けた間をすり抜けて、橋をめがけて走っていた。
シアニは跳ね橋を渡りきるまでその真ん中を一心に駆けていったが、橋の先端が土を固めた道の上に下りているところに出ると足を止めた。前方は少しずつ段状になって下っているだだっ広い原に見えた。道の彼方にまた森が広がっている。
左側からざわめきが聞こえ、それが奥方から教わった大きな川、コタ・レイナのある側だと思いいたった子供は、橋の際からぴょんと跳ね下りて、空の堀沿いにとことこと歩いて行った。
こちらに背を向けて集まっているひと群れの男たちの間で指揮を執っているのはダミルだった。男たちが見守る先にあるのはすっかり仕上がり、据え付けられた二連の水車だった。車軸の受け台の上に傾斜した樋が取り付けられ、二つの水車の樋の間にはさらに太い樋が堀と水車との間にさし渡され、固定された。
「もう一度全部見ろ。すべて揃っているか?万端障りないか?よし、輪留めをはずせ―――皆、車輪からいったん離れろ。堰の上を開いて水を流してみよう。」
男たちは水車を見たまま、少し後ろにさがり、数人は樋の横についた。シアニは見えなくなったダミルを探して男たちの間をかいくぐって前に出た。
「誰だ。子供をこんなところに来させたのは!」
気付いたひとりが叫び、
「何だと?」
ダミルは水車の動きを気にしながら振り返った。その目に見えたのは、堀の脇をまろぶようにして走って来るロサリスと二三の女たちだった。
「シアニが…。」
ダミルはぐるりと周辺を見回し、水車のわきに立っている子供を見つけて叫んだ。
シアニは水の際に立ち、水車がごうごうと轟きながら回るのにすっかり心を奪われていた。車軸の回転と共に、輻の三角の放射が生命を得たように目もあやに回っている。水を切る羽根板、そしてシアニが作業場でたくさん見つけた小さな水筒は、上まで上がってくると順繰りにきらきら光る筋を描いて水を樋に落としてゆく。低い軋みと思い水音は恐ろしく、降りそそぐ水のさざめきは陽気で軽やかだった。シアニの耳には水車のお道化た歌の他には何も聞こえなかった。
さっと飛びついてきた大きな影にシアニは驚き、よろめいて、次の瞬間、ダミルに抱え込まれたまま、身体が宙を飛んだ。
「水を止めい!」
誰かがそう叫ぶのが聞こえた時、ダミルはもんどりうちながら自分の背を下に、回る水車と岸との間の水中に落ちた。しこたま水が鼻に入り、もがきながら男たちが機転を利かせて止めた堰と水車との間で体勢を立て直し、シアニを差し上げながら立ち泳ぎした。
「さあさあ、」男たちが互いにつかまりながら手を差し出し、まず子供を助け上げようとすると、ダミルはいきなり子供を頭の上まで水に沈めた。
「やめて」ロサリスが悲鳴をあげた。
子供は水中で大きく息を吐くと、両腕で水をかいて顔を出し、ぎゅっとつぶっていた目を開け、
「はあっ」と声を出して息を吸った。そしてダミルの腕の中で立ち泳ぎをしながら瞬きひとつせずにその顔を見返した。
「驚いたな」ダミルは呟いた。「生まれながらに泳ぎを知っている。さすがは水の民の子だ。」
「ダミル、何をするんです!」
蒼白になり、喘ぎながらロサリスは岸に助け上げられたシアニを胸に抱きとり、自らも女たちに助け支えられながら水際を離れた。
「殿、あんな風にいきなり飛びつくのはまずいね。」年配の男に冷やかされながらダミルは手をついて岸に飛び上がった。
「皆、すまん。もう一度動かしてくれ。調子をみよう。」
再び水車が回り、水が樋を伝って堀の中を走り始めると、ダミルは顔の水を手で拭い、コタ・レイナと耕地との間の土堤の裾のニレの木の下にいるロサリスのもとへ行った。
ロサリスはシアニの濡れた服を脱がせ、自分のスカートで拭き、ショールで包み込んでいた。頑としてダミルから顔をそむけ、つとめてきびきびと動いているが、ショールを結び合わせる手が二回すべり、長い睫毛の下の怒りを帯びた灰色の目からふた筋の涙がこぼれ落ちた。
シアニは神妙な顔でロサリスの肩に手を置いていたが、ダミルの足音に振り返り、つと手を伸ばしてその手をつかんだ。ぬるく温まった水が、腕を伝って流れて来た。
「父さん―――」
シアニはダミルを見上げてそう呼び、ロサリスに振り返ってその肩を叩いた。
「母さん」
ロサリスははっとしてシアニを見返し、当惑して言いかけた。
「シアニ―――」
「いいじゃないか」
ダミルが小声で素早く遮って言った。「この子がそう呼ぶならよばせよう。」
そしてくるりと背を向け、男たちの間に帰っていった。
コセーナでは、大きな仕事が済んだ後に郷の者をもてなす饗応が催された。母屋の扉は大きく開かれ、あかあかと光を放つ炉の前から灯火の灯された広間、松明と焚火に照らされた広場に至るまで人々は集い、料理を取りに歩き、好き好きに座っては語り、宴を楽しんだ。
炉の前の長い卓の一角では、宴の賑わいをよそに、ダミルと各所の頭、顧問の年寄りが集まり、その年の後半の見通しについて話し合った。次いで盟邦を訪ねた部下たちを呼ぶと、会談の準備について話し合った。
「まず無事と友好の意思を確認すれば十分では」
父の代からの年寄りたちは彼らのしきたり通りに互いに軽く見交わしながら口を切った。
「相手の要望は予測はしてもよい。だが、援助を申しでることはありませんぞ。さしあたり、どこも己の身で精いっぱいですからな。」
「思えば、おれは平時の本格的な外交は初めてだ。」ダミルは呟いた。
「五年前は急を告げる事変の使者としてオトワナコスに押し掛けたんだ。エフトプの使者に対しては、はったりで領主の椅子に掛けて迎えたようなものだ。―――領主としての挨拶は初めてだ。」
「まずは、確認を」最長老が丸めた背から顔をあげ、重々しく言った。
「まずもって、今も同盟は有効なのか。」
作人と工房の頭はそっと席を立ち、年寄りたちは顔を見合わせた。
「コタ・シアナの戦いでは我らは一部オトワナコスの助太刀も得たが…。」
「あれはイビスの兵が彼らの領域に近づいたからにすぎん。」
男たちはダミルの方を見た。
「殿、長年イナ・サラミアスの噴火で皆が個々のことに追われ、敵味方どころではなかった。が、今や灰は止んだ。昔のことも明るみに出てくる。エファレイナズがアツセワナの王のもとにひとつの国であったのが分裂し、先王は亡くなられた。コタ・レイナ州はアツセワナのアッカシュを認めてはおらんが、同時にもう一方を認めたわけではないのですぞ―――。」
長老は、少し離れて女たちに給仕の指示をしているロサリスの方をわずかに顎でしゃくって見せた。
「殿が奥方を迎えられるなら我々は喜んで受け入れるが女王は―――。我がコセーナも含め、コタ・レイナの三つの郷はそれぞれに自治し、アツセワナの干渉を退けることに決めたのですぞ。そちらこそが今の生きた掟では?向こうから指摘される前に、しかと思い出していただかねば、ダミル様。」
年寄りたちが席を立って引き上げていくと、ダミルはすっかり冷えた肉を食べながらふたりの部下に言った。
「荘境で身元の分からない者が徘徊しているということだったな。賊の心配もされている。以前のように自警団が必要だ。班を組織し、武装させろ。」
その様子を広間の端でじっと見ていたロサリスは、奥の通用口から出ていき、やがてふたりの屈強な若者に椅子ごと運ばれてきた奥方を広間に通した。
「母上」ダミルは自ら立って迎えに行き、両腕に抱え上げ、若者たちに暖炉からほどよい場所を空けて椅子を置くようにと命じた。
「今宵は気分が良いようですな。」
奥方は髪も肌も晒したように白くなり痩せていたが、黒い瞳は澄み、唇には微かに赤みと笑みが残っていた。
「賑々しく声のしているのに、寂しくひとりではいられませんよ、姫もいらっしゃるのに。」
ロサリスは頭を下げた。
「昔はひと仕事終えるごとにこうして宴をしたものですよ。」
「ええ」ロサリスはふと脇に目をそらした。「アツセワナでもそうでしたわ。」
トゥサカは食卓を見回した。
「物のさみしい時によく頑張ってそろえたこと。男ばかりの家だから、それはもう、食べるものを用意するのは大変でしたよ。今晩も忙しかったでしょう?男に妻や子供。億劫がって家で待っている年寄りも忘れてはいけないわ。内心さみしがっているもの。嫁たちが土産を包めるように幾分は取っておくのよ。」そしていたずらっぽく瞬いた。
「台所で女たちは立ちっぱなしよ。でも酒で男たちがつぶれてしまうと、ゆっくりとっておきの御馳走を楽しんだものだわ。酒で舌が馬鹿になっている男たちにはわからないおいしいものをね。」
「酒が入らなくても馬鹿だと言われるんでしょう。」
ダミルは杯を手にした。
「他にも僕にそう言ったものがいましたよ。」
奥方は居間を見回し、卓から離れた敷物の上で、女の子たちと骨のお手玉で遊んでいるシアニを呼びにやらせた。
「さあ、今日は久々に昔語りをしたくなったの。ハーモナの小雀ちゃん。あなたがお話が大好きと聞いてね。いつも誰が話してくれるの?」
「父さん」シアニはいつになくはにかみながら一言一言ゆっくり言った。
「母さん―――それからね、モーナよ。」
「その三人目が誰なのか見当がつかないな。」ダミルはロサリスを見やった。「知っているかい?」ロサリスはシアニが見ていないのを確かめてから、そっとかぶりを振った。
「あら、いるわよ、ねえ?」トゥサカはシアニに言った。
「私にはわかりますよ。シアニにとっても大事なお友達がいることがね。」
「謎だが、とにかく母さんを信じることにするよ。」ダミルは片頬杖をついた。「それで、どんな話だい。僕が知っている話だろうね。」
「当たり前ですよ。」トゥサカはそっけなく言った。
「あなたが忘れてないか確かめるために―――忘れることがないように今話しておくのです。私とそっくり同じように言えるように。後でシアニに聞いてお貰いなさい。」
シアニはダミルの脇の下から潜り込んでその膝に収まり、卓の上に両腕を組んで待っている。
「この子は吸い付くように瞳を大きくして聞いている。さあさあ、間違ったら叱られるよ―――。」
奥方はお道化てみせると、目を閉じて少し考え、深く息をつくと目を開き、力強い声でよどみなく語り始めた。
コセーナとハーモナの成り立ち
火の中から生まれたふたりの女神のうち、姉は太陽と結ばれサラミアとなった。妹は雲に包まれ、ドルナイルとなった。
イナ・サラミアスでは草木鳥獣を護るイーマが、エファレイナズ(姉妹の間の地)には、歌唱でサラミアを讃えるヨレイルが、イネ・ドルナイルには金工、石工に優れたドルナイルの子らが暮らしていた。
それぞれがしきたりを定め、平和に暮らして長い長い年月が経った頃、この閉ざされた女神の庭に新たにやって来た者たちがいた。コタ・レイナの三つの郷の始祖となる三兄弟である。
長兄はコタ・イネセイナの岸から背川コタ・ラートを越えて北の丘陵地に移った。末の弟はコタ・ラート沿いに南に下った。
さて次男―――頑健な身体と明るい瞳を持った者の子孫は、エファレイナズの森深く分け入り、やがてコタ・レイナ沿岸を広く開拓し、居を構えて、この一帯を長いイナ川沿岸の州と呼びならわすようになった。さらに肌の白く、髪も瞳も明るい外界の子らがコタ・イネセイナの奔流を下り来て、河岸の丘の覇を競い合うよりも以前のことである。
黒い瞳、黒い髪のエファレイナズの森の子らは、コセーナの耕地から遠ざかっていたが、秋の狩場をめぐりコセーナの家人と小競り合いをすることがあった。双方の争いの中で、時に捕虜という形で互いに血縁をつなぐことがあった。こうして森の中に生まれた落とし胤は、眷属の儀式に招かれることも、認められることもなく、ひっそりと人と離れてさすらうようになったという。
コセーナの統領の嫡子ソヴィル(勇敢な子)は、晴れやかな中秋の頃、七日にもわたる大掛かりな狩りを催した。
東へ東へと進むうち、森の民のひと群れが森の中の空き地に集っているところに遭遇した。ソヴィルは密かに年若い仲間と近寄ってみると、そこは巨木が寿命尽きて倒れた場所で、ヨレイルたちが巨樹の魂を送り、幼木の成長を言祝ぐ祭祀をしていたのである。
ソヴィルは、倒木の上に素足で舞う、長い黒髪としなやかな身体を持つ娘に目を奪われた。この娘こそがこのヨレイルの一族の首長の娘シシル(若草の子)であった。
儀式の最後にヨレイルたちは全員で詠唱した。ところがこの声に驚いて、ソヴィルの供人の連れていた犬が驚き、止める間もなくヨレイルの輪の中に躍り込んでしまった。ヨレイルのひとりが犬を殺そうとし、それにつられて飛び出した仲間たちとたちまち戦いになった。シシルは怯えて木の陰に小さく身をひそめていた。ソヴィルはこの娘を捕えて盾に取り、仲間を呼び集めると、さらに東へ東へと逃れた。
やがて彼らは清らかな流れに至った。これがイナ・サラミアスとの境、サラミアの涙とも言われるコタ・シアナ(若い娘の川)である。秋で水は少なく、コタ・シアナは危なげなく大人しやかに見えたので、ソヴィルと仲間は、その晩、その岸辺に休んだ。
ところがその晩、不気味なヨーレが森の中にこだまし、突然コタ・シアナの水はふつふつとたぎり、一行の野営地にあふれて来た。そればかりか堤の上からヨレイルたちが矢を射かけ、進むも退くもかなわず、人も犬もみな流された。いや増す水は、堤の中腹の窪みにまで逃れていたソヴィルをも流し去ろうとした。
その時、堤の上からか細い手が伸び、サラミアに助命を請うヨーレが聞こえた。シシルはソヴィルのために許しを請うたのだ。シシルの兄らは弓を下ろし、問うた。
「妹よ、その者のため助けを請うとは。その者を身内とみなす訳があるのか。」
「はい、この人は私を妻とし、私は子を宿しました。」
それを聞くと森の民は黙って姿を消し、コタ・シアナの水も引いて行った。
ソヴィルには既に正妻がおり、野を駆けて遊ぶような年齢の息子もいた。シシルはそれを聞くと正妻とその子を恐れて、どうしても館に入るのを嫌がり、身重のまま森に帰っていった。
さて、遠い昔にやって来た三兄弟の子孫は、コセーナの他、オトワナコス(丘に面した州)とエフトプ(淵に挟まれたところ)という、つましいが堅固な自治州を築いてそれぞれに暮らし、時々使いを送って古からの絆を確かめる他は互いを構うこともなかった。
その間に、西の方では彼らと祖先を異にする、白い肌、明るい髪の人々が外界から移り来て住まっていた。彼らがどのようにやって来、暴れ川コタ・イネセイナを制し、またそのほとりの丘陵をめぐって身内で戦いに明け暮れ、それゆえアツセワナ(長たちの争う丘)と呼び倣わされるかの地に腰を落ち着けたか。それはまた別の折に語られるべきことである。
しかし、このころアツセワナは、一族の中でも有力な五家の互選による王政がしかれ、民の暮らしは潤い、耕地を求めてさらに森を拓き、コタ・ラート以西をすっかり版図に収めていた。さらに同族に連なるイビス(木伐り)、ニクマラ(湖畔)とは強固な同盟を結んでいた。
コタ・ラートは流れの移ろいやすい川でであった。イビスとその庇護者アツセワナは背川の移ろいを出来うる限り利用して耕地を広げようともくろみ、背川に面した領土を持つオトワナコスとエフトプはこの動向を警戒していた。
一方、コセーナのソヴィルは、アツセワナがイネ・ドルナイルとの交易によって有益な鉱物を得、高い技能を用いて開拓、建築をすすめ、豊かに暮らしていることを聞き、アツセワナとの交渉を望んだ。
アツセワナは交渉に応じる条件として、コセーナとアツセワナとを行き来する道を作ることを求めた。ソヴィルはすぐに普請にかかったが、同朋たるオトワナコスとエフトプはこの取り決めに怒り、コセーナとの付き合いを断ってしまった。
息子アサル(高い誉れ)が後継として立派に育ったと見たソヴィルは息子にアツセワナの名家の娘を娶らせようと思い立った。
花嫁は新しくできた道を輿入れしてきた。新道は、古くからコセーナ、オトワナコスとエフトプをつないでいた道の上に交差し、その先の橋を渡ればコセーナの領内であった。
ソヴィルはアサルと共に花嫁を迎えに出ていた。やがて西の方から輿入れの松明が揺らめくのが見えた。ソヴィルとアサル、供の者たちはそれを見ると喜んで橋を渡り、花嫁を迎えようとした。灯の中にその顔が見分けられるほど近寄った時、突然横手の森、橋の下からオトワナコスの郎党が襲い掛かって来た。後ろの橋はあっという間に落とされた。短剣の他は武器も帯びずに臨んだ戦いであった。松明がひとつ消え、ふたつ消え、そのさなかでアサルは父を失った。
「アツセワナの者にコタ・レイナを渡らせるものか!」
オトワナコスの者が叫び、生きた味方と花嫁の姿を探し求める目の前で最後の火もふっと消えた。と、
「闇は、川の上にも下にも等しく優しい。」
ごく若い男の声が言い、アサルは傍らに静かに人影が寄り、自分の手を引き寄せ、おののいている小さな女の手を握らせたのが分かった。
「こちらへ」
若者がささやき、アサルと花嫁を森の中に導いた。周囲を守るよう走る二三の人影は、闇に慣れた目にヨレイルと見て取れた。
その頃のコセーナは、まだコタ・レイナの西の耕地はわずかで、うっそうとした森が広がっていた。若い森の子は、巧みに暗闇の中を導き、仲間に救わせた数名をも加えてコタ・レイナの川下の岸に出、小舟でアサル達を無事に館まで送り届けた。
館に戻るとアサルはオトワナコスの無法に改めて怒り、父の遺骸の奪還と復讐にはやり、家人を呼び集めて武装と馬の用意を命じた。しかしその前に森の若者は立ちふさがり諫めた。
「まだ夜も明けてはいないではありませんか。日の光のもとで花嫁に会って差し上げようとは思わないのですか。あるいは弟には」
アサルは驚いて若者を見返した。
「生きた父に会うことのなかった子に、さらに兄を失う悲しみを与えないでください。」
若者はシシルが森で産み育てたソヴィルの子だった。
アサルは半ば信じ、半ば怪しみつつ、まだ少年のようなほっそりとした若者に課題を与えた。
お前がこれを果たせるなら復讐を待ってやってもよい。父の遺骸を、それに相応した贖いと和平と共に引き取ってくるように。出来次第ではお前の命も無いものと思え、と。
それでもアサルは弟に、自分の忠実な年老いた守り役をつけてやった。オトワナコスでも一目置かれている者であった。
弟はオトワナコスから、丁重に装束に包まれた父の遺体とそれを担う人足五名とその家族、侍女に伴われた領主の娘を連れて戻って来た。
娘は広間に入ってくると、アサルの前に深々と礼をした。
「この度の家の者の不始末、深くお詫び申し上げます。私があがない代でございます。供の者も郷里には戻らぬつもりで出て参りました。どうぞお心のままに。」
アサルの傍らで聞いていた花嫁は、この娘に同情し、夫に口添えをした。
「どうぞ、殿、寛大なご処分を。今の私ほどこの方の気持ちをわかる者はおりません。またこの方ほど私の心細さをわかる方もおりますまい。」
アサルはつとめて厳しく振舞い、表情を崩さなかった。弟を呼び寄せると、娘の横に立たせた。
「弟よ。こちらはオトワナコスの息女だ。お前の妻に迎える。おろそかにすまいぞ。さて、あなたはこれで父上の名代としてものが言える。家族でなければ耳を貸すつもりもないのでな。」
娘は両手を胸に当て、述べた。
「父よりの伝言でございます。我らは同じコタ・レイナの水を飲む兄弟。それぞれの長は集って兄弟の誓いをし、およそコタ・レイナの水の流れるところの繁栄と平和の責務を担うことにいたしましょう。」
アサルはじっと聞いていたが面も変えずに言った。
「我が妻について、オトワナコスはどう思われるか。」
娘は父の言葉に無かったことにまごついたが、花嫁が助け舟を出した。
「私もこれからはコタ・レイナの水で生きるのです。水の領域は生の領域。なんでアツセワナの利便を計らいましょう?私が引いたのは商いのための一本の線にすぎません。」
アサルは言った。
「協議の申し出を受け入れよう。腰元を除く残りの者は帰ってよい。オトワナコスには後ほど結納の品と共に正式に婚儀の申し入れをする。」
ここにオトワナコス、コセーナ、エフトプはコタ・レイナの兄弟として盟友になった。三つの郷は、流域の治水、治安、領外の開拓について互いに合議し、承認と協力を得ることを誓った。
そして今後、アツセワナ、イビス、ニクマラとどのような関係になり、何を取り決めようとも、すべての上にこの『三兄弟の誓い』を置くことにした。
アサルは協議が終わると初めて弟を抱き寄せた。
「子よ、息子よ。」
そして館に正式に迎え入れ、オトワナコスに息女との縁組を申し入れた。
イルガートは館で農夫たちに立ち混じって働きながら、ふいに森に消えることがあった。若い妻は承知のことなのか不満を漏らしはしなかったが、アサルは不審に思い、不機嫌にもなった。ついに幾晩も不在の後、兄は弟の捜索に繰り出した。
弟は館から南東の森の泉のそばに庵を結んで、母の面倒を見ていた。厳しく叱責する兄に弟は、母が自分を産んだために一族から離れねばならなかったこと、終生母を許さなかった祖父ウトゥハル(深く通る光)が死期に際して母と自分を訪ねて来て、昨夜身まかったことを話した。
アサルは、弟の言葉によってはじめて父ソヴィルと家人が森の民に行った襲撃について知り、その口が父を詰るのを聞いた。気位の高いアサルは許しこそ請わなかったが、すべてを黙って聞き、その地にウトゥハルを葬ることを許した。
一帯は森の民さえも畏んで滅多に立ち入らぬ豊かな森であった。木に覆われた小さな丘陵地が水の湧き出る湖水を見下ろしていた。
アサルはその地をハーモナ(陽光の没する地)と名付け、出自を問わず死者を悼むために、父ソヴィルとウトゥハルの遺灰を丘の大樹のもとに共に葬り、この丘を墓所と定めた。またこの地に生い育つ者と訪れる者には、人であれ鳥獣草木であれ、等しく水を分かち、その生命を奪うことのないように、と宣言し、この地の管理を弟に預けた。
「ご存知かしら、この奥津城ハーモナは西のアツセワナの都城からも東の緑郷イナ・サラミアスの心臓ニアキ、聖地ティスナからも等しい距離にあることを。」
「もちろん知っていますよ、ここで聞いているふたりはね。」
ダミルはいつの間にか膝から降りてしまっていたシアニのことを忘れて、考えを巡らせながら答えた。
「ちゃんと覚えていましたか?」奥方はつけつけと言った。
「忘れていないのと知っているのとは違うようです。僕も年寄りたちも会議の前に思い出すことがありましたよ。水に関わる者は兄弟であり、すべての掟の上に置かれるとね。」
「まるで思い出のようにお話なさいますね。」
ロサリスはやや硬い面持ちで呟くように言った。奥方はうなずいた。
「ええ、たぶんね。思い出していたのよ。あなたもそうではなくて?」
「はい―――色々なことを」
「あなた方の父上ご兄弟は、若いころこのコセーナを訪ねて来てこの話を私の母から聞きましたよ。」
奥方はふいに華やいだ口調になった。
「姫、あなたの父上はソヴィルとシシルの物語を気に入っていました。」
「さもありましょう。」ロサリスは小さな声で言った。
「若いころの父ならば。今はまた違うふうに考えたでしょうが。」
「私は王子方を覗きに行って母にしかられたものです。」奥方は得意げに言い、ダミルは笑った。
「母さんの好奇心に感謝するよ。父がこの家に入って、おかげで兄と僕がこの世に生を受けたんだからね。それにしても、母さんがどの息子をいちばん気に入っていたかわかる話し方だったね。」
「私は公平に話しましたよ。私の母に聞いたとおりに。」奥方は話を思い返すように少しの間、考えた。
「思えばこの話はコセーナにたくさんの外部の血筋が入るきっかけを語っていたのね。 アツセワナの、オトワナコスの、 森の民の。それでもね、コセーナ本家には長いこと森の民の血は入りませんでしたよ。」奥方はロサリスを向いて行った。
「アサルに息子はいなかったけれど弟を後継にはしませんでしたよ。賢い妻のつてでアツセワナから婿を迎えたの。コセーナの嫡流は末子をハーモナにやることはあっても、ハーモナから子を取ることはなかった。代々アツセワナとの縁組を重んじたの。ハーモナの守の娘だった私の母がコセーナの当主に嫁ぐまでね。」
ふいに奥方の顔には疲れがどっと出たかのような影がさした。
「ダマートは私の方から受け継いだヨレイルの血が気に入らなかったみたい。」
「兄上が自分の中にヨレイルの血が混じっているなんて、たとえこの話を聞いていたって気付いたものですか。気位ばかり高いぼんくらでしたからね。しかし、兄上は少なくとも弟思いでしたよ。」ダミルは低く、苦々しく言った。
「―――むしろ嫉妬ですよ。」
「そうかしらね」奥方は首を傾げた。「じゃあ、あなたはどうなの?」
「次男坊は最初から分け前がないことを知っていますからね。嫉妬なんてばからしい。」
「ハーモナはよく手入れされていたわ。母方の祖父亡き後、少しづつ荒れていたのが、八年前にふたたび人が住むようになった。特別な手を持った子がね。私が朝起きて必ず目をやるハーモナがどんどん青々と盛っていったのよ。」トゥサカはロサリスに目で微笑んだ。「泉も森も保たれていた。獣も人も憩っていた。だけど、父祖の墓所の入り口は注意深く隠されていた。」
「兄は子供の頃からあの辺りを怖がって寄り付かなかったよ。」ダミルはちょっと笑った。
「僕たちが小さい頃はハーモナの母屋の裏の東側はまだ新しい棟がなくて墓の入り口の古い石のアーチと中の切り株が剝き出しで草生し、人気もなかった。僕はあちこち潜り込んで遊ぶ子供だったから地下の古い抜け道を知っていたよ。ハーモナからどんどん入っていってコセーナの南端の番小屋に出た時は驚いたな!もっと仰天したのはダマートさ。父にしかられてあの小屋に隠れて泣いているときに暗がりで床板が跳ね上がり、泥と草と埃だらけの頭が出てくればね!あれが僕だったとは最後まで知らず、まして地下通路のことも知らずじまいだった。もっともおかげで僕がこうしているわけだ。当主として。」
ダミルは杯に残った最後の酒を飲みほした。
いつの間にか人々の姿は消え、締め切られた扉の内で最も近い灯火だけがあかあかと燃え、がらんとした広間には宴の馳走の残り香もしんと冷えて、椅子や卓上、床に賑わいの乱れをとどめたまますべては静もっていた。
「もう夜も遅いわ―――。」
ロサリスは落ち着きなくシアニの姿を求めてあたりを見まわした。
シアニは暖炉の前に敷かれた毛皮にさらに毛布を敷いてもらって寝ていた。傍らに奥方付きの小女が腰を下ろして付き添っていた。
「姫」トゥサカは注意を引くために声を強めた。
「ハーモナはあなたの夫が手を入れたところよ。あそこに住むのに何の遠慮もいらないわ―――。でもお願い、しばらくこのコセーナに滞在してくださいな。もうしばらく、ね」
ロサリスばかりでなくダミルもはっと振り返った。
「あなたはまだつらいわね。運命がその忍耐に報いてくれますように。私が旅立つまでの間は、あなたとシアニの顔を私に見せて。三番目の息子と小さなイルガートのことを思い出していられるから。私に残された祈りをあなたの加勢にしてあげる。」
十日して奥方を見送り、葬儀を済ませた後、ロサリスはシアニとハーモナでの生活に戻った。
コタ・レイナの三郷の代表はコセーナに集って古来の盟約を確認し、それぞれの地の立て直しのために帰っていった。
三つをつなぐコタ・レイナの浚渫と、コタ・ラートの西に不和のまま残されている旧王国の片割れ、アツセワナ、イビス、ニクマラへの対応は皆の心にはあるものの、三年後と約束された次の会談までに問題は持ち越されることとなった。