中
セレナ・ファフニールはファフニール王国第一王女である。
彼女は物心ついたときにはもう、この部屋の中にいた。
王城の広大な敷地の端に忘れ去られたかのように位置する離れの一室に。
言葉もまともに喋れず、感情を露わにすることもなく。
ただ、王族にふさわしくないと虐げられながら。
ーーー
加護に対する明確な序列が存在する中で華々しい加護を持つことは、統治をするうえで必要不可欠であった。
不思議なことに王族は代々栄光にふさわしい加護を得ていた。当然のごとく、現国王も賢者という名誉ある加護を得ていた。
セレナはそんな国王と第一王妃の第一子として生まれた。
第一王妃は公爵家出身であり、少しばかり病弱であったものの、美しい金色の髪と整った顔立ちを持つ彼女は王国でも有数の美人と有名であった。
国王は幼馴染でもあった彼女に年少のころから思いを寄せていた。
当時隣国の大国から第二王女を妃として迎え入れる話もあったが、周囲の猛烈な反対を押し切って彼女を正妻とした。そして隣国からの王女は第二王妃として迎え入れることとなった。
それから彼らは仲睦まじく暮らした。彼らの幸せにともに時を過ごす様子は、国民にも自然と笑顔を与えた。
だが、幸せの時はそう長く続かなかった。
第一王妃はセレナを出産するとともに命を落とした。もともと病弱であった彼女の体は出産に耐えきれなかったのだ。
結婚に反対していた者は、ほら見たものかといわんばかりに国王を責め立てた。
最愛であった妻を失った悲しみと相まって、国王は生気を失ってしまった。政治的発言力もかぎりなく無と化し、周囲の傀儡となり下がった。
そんな中、実権を握ったのは第二王妃のクロエであった。この混乱に乗じて様々な権力を手のうちに収めていった。
そんな最中、第一王妃の子の加護の検査が行われた。国王は彼女の加護に望みを掛けていた。
だが、あろうことか彼女の加護は魔物使いであった。
魔物使いは暗殺者などの加護と同等に忌み嫌われている加護であり、王族が持つ加護としては論外であった。
これに国王は絶望し、第二王妃は歓喜した。
もうすぐ生まれてくる自分の娘のアンナを次代の女王にできることがほぼ確実な未来となったからである。
第二王妃はすぐにこの子供を危険だとし、王城の隅にある別邸の一室に監禁した。
ーーー
それから10年ほどの月日が流れた現在、依然としてセレナは部屋に監禁されていた。
世間はセレナのことを遠い昔のことのように忘れかけていた。
彼女の部屋に窓はなく、簡易なベット、洗面所、クローゼットが取り付けられただけであった。
その広大な大地で走り回ることを知らない体は当然のごとくやせ細っていて、同年代の娘と比べても一回りも二回りも小さかった。
服は継ぎ接ぎだらけの汚れた服を着まわしていた。以前新しい服を着たのはもう何年も前になるが、皮肉にもその成長を忘れた体には服を新調する必要はなかった。
また、日光を浴びたことのない体は病的に青白かったが、整った顔立ちはそのままであった。これがまるで陶器でできた人形のような印象を彼女に与えていた。
この離れにはメイドが一人働いていたが、提供するのは簡単な食事と掃除のみだった。当然のごとくセレナは教育を受けていない。メイドの受け答えを曖昧に理解する程度にしか彼女の知能は発達していなかった。
案の定というべきか、物心ついたときからメイドぐらいとしかあっていない彼女は感情の表し方を知らない。彼女は、ほぼ一日中空に浮かぶなにかを目で追いかけている。
そんなただ生きているだけの人形のような彼女をメイドは大層不気味に思っていた。
そんな彼女に近頃頻繁に会いに来る者がいた。
第二王女と国王の娘、アンナである。
彼女は10年の月日を得て、立派な王女となっていた。
彼女は母親譲りの赤い髪を豪奢な金色の装飾で飾っていた。年相応より少し低い彼女の身長は、彼女の愛くるしさを強調していた。つり目がちな彼女の目も、彼女に無邪気な印象を与えていた。
彼女は母親である第二王妃の意思を真摯に受け止め、自分こそが第一王妃であるべきなのだと信じ切っていた。彼女は第二王妃に少しでも近づきたい出世欲豊かな家臣らに囲まれて育ってきたため、自分は偉いのだと勘違いを起こし、よくふんぞりかえった尊大な態度をとっていた。
そんな彼女は社交の場での不満などをセレナに当たることで発散していた。
「セレナ!この私が来て差し上げたわよ。私自ら足を運んで来てあげたのだから、寛大な私に頭を地面にこすりつけて感謝しなさいな。あら。そういえば、言葉も理解できなかったのでしたっけ?」
そんな騒がしい挨拶とともに毎回アンナはセレナの部屋へ訪れる。
「相変わらずこの部屋は汚らしいこと。まぁ、お前のような出来損ないにはちょうどいい物件かもしれないわね。
あなたのような人が王城にいるだけでも不快極まりないのだけど、あなたを生かしてくれている寛大なお母さまに感謝することねっ。」
そう言ってアンナはセレナのみぞおちを殴る。
戦姫の加護を持つ彼女の右ストレートは屈強な戦士のそれに匹敵する。彼女の拳がセレナの肉に食い込み、臓器を押し潰す。セレナは痛みに顔を歪めながらうずくまる。
彼女の暴力は日常茶飯事であり、セレナの体には夥しい数のの痣があった。
「はぁ、あなたの代わりに社交の場に出なければならない私にはあなたに理解できない苦労がたくさんあるの。そんな私のサンドバック代わりになれるのだから感謝しなさい。
本当にあなたは泣いたり叫んだりもしないのね。不気味だわ。
はぁ、まだあなたは私のお古を着ているのね。あなたにはまだ着こなせないわよ。こうしたほうがお似合いなんじゃなくって?」
そういってセレナの服のつぎはぎ部分を破りとる。セレナの華奢な脚が露わになった。
「私たちの食事の残り物を下賜してもらうだけじゃ飽き足らず、服までもなんて。とんでもなく強欲なのね。うふふ、また来ますわね。」
そう言い残して去っていった。
ーーー
その日、アンナの帰りを見計らったかのように別邸に綺麗な礼服に身を包んだ男性が訪れた。
「国王様から彼女の魔物使いとしての危険度を測ってこいとの銘を受けきた。しばらくは危険かもしれないので部屋に近づくでない。」
そう彼はメイドを追い払い一人でセレナの部屋に入ってきた。
「もう十年になるか。それにしてもこの環境はあまりにも酷いな…」
「本当に君のお母様にそっくりだ。
私は君のお父様の側近のロンだ。お父様は君のことを心配していたよ。
お父様は君をいずれ遠くの国のほうに嫁がせようと考えている。だからこれから君の部屋をたびたび訪れるようになる。
まず初めにこれを渡しておこう。これは絵本だ。まずは本を好きになってほしいとのことだった。」
そう言ってロンはセレナに絵本を手渡した。
絵本は王国の子供の間では有名なものであった。勇者が魔王にさらわれた姫を助け出すというストーリーで、生まれたばかりの子供でも楽しめるように文字数は抑えてあり、代わりに子供の好むような柔らかなタッチでページいっぱいに絵が描かれていた。
セレナは人から贈り物をもらうこと自体初めてであったし、ましてや絵本を見たことがあるわけなかった。
掌に握らされた本をセレナはじっくりと観察した後、今度はその手で掴んで離してを繰り返し質感を確かめた。
「ほん、も知らないのだな」
ロンは悲痛な気持ちになった。
彼女自身の状況もさることながら、この現状を知らされた国王の気持ちを考えると尚のこと彼は絶望を隠せなかった。
「仕方がないな、失礼いたします。」
彼はセレナを怖がらせないようゆったりとした動作で彼女の隣に座り、彼女の弱々しくも絵本を持つ手を支えた。
「絵本はこうやって読むのですよ。」
彼は少しづつページをめくりながら、時間の許す限り読み上げた。
日が傾き始めた頃、男は手を止めた。
「ああ、もうこんな時間か。申し訳ないが、もうそろそろ私は行かなければならない。私が次に会いにくる時までその本を大事にしておいてくれ。」
そう言って立ち去った。
その時間はセレナにとって初めての様々な色に彩られたあたたかい時間であった。
ーーー
ファフニール王国では王族主催のパーティーがたびたび開かれている。
このパーティーには社交界デビューを果たしたアンナの存在をアピールする名目もあり、アンナはまるで第一王女のように振舞っていた。
パーティー会場は煌びやかな装飾で彩られており、豪勢な食事が並んでいた。
各国からの著名人も何人か参加しており、今回のパーティーには隣国から第二王子が参加していた。
隣国は大国ではないものの、王子は整った顔立ちをしていたため、令嬢からの人気は高かった。
彼は第二王子であるため王位を継ぐ可能性は低く、王位を継ぐ心持であるアンナからすれば良い結婚相手でもあった。彼は社交界デビューを果たしたばかりのため、アンナは実際にあったことがなかったものの、会場に表れたときの彼の外見からも好印象であった。
第二王子は主賓であるアンナに挨拶に来た。
「お初にお目にかかります。ヨルムンガンド王国第二王子オルトと申します。」
「アンナ・ファフニールですわ、ダンスのお誘いですの?」
二人は華麗な社交辞令を交わした。オルトが続けて口を開いた。
「つかぬことをお聞きしますが、貴女が第一王女でいらっしゃいますか?お母様から聞いていた噂とずいぶん違うのですが。」
「え、ええ。まあそんなところよ。ところで、その噂というのは?」
「第一王女は黒髪の娘で、母親に似て精霊のように美しい娘になっているだろうと聞いていました。」
「そ、それをどこで?」
アンナは驚愕した。セレナの事実は身内のほんの数人しか知らないはずであったからである。
だが、さすが王族の教育を受けてきたものというべきか、彼女はすぐにその動揺を隠し平然を装った。
「私の母が第一王妃様の学友であったらしく、出産に立ち会っていたらしいのです。」
「まぁ。そうだったのですね。」
アンナは納得した。ヨルムンガンド王国にはセレナの叔母が嫁いでいたからだ。そしてどうやってこの場をしのぐか、思考を働かせた。
「彼女は今どちらにいらっしゃるのですか?」
「彼女は今体調を崩していまして。」
アンナは白々しく、王子の問いに関してそう答えた。
「そうでしたか。お母様もしばらく会っていないとのことでしたので、私から話を聞くのを楽しみにしていらしたのですが、体調がすぐれないのであれば仕方ないですね。
母には最初のダンスは第一王女様と踊るように言われたのです。でもそれは今日叶いそうにありませんね。
それでは失礼いたします。」
周囲の令嬢の中には彼女の尊大な態度を良く思っていない者も多かったため、いい気味だわとアンナを笑う声がちらほら聞こえた。
アンナはしばらくの間呆然としていたが、自分のダンスの誘いが断られたのだと気づくと、外見は平穏を装いつつも、セレナのせいだと内心怒り狂っていた。
プライドの高い彼女からすればこの結果は到底受け入れられるのもではなかったのだ。
ーーー
「セレナ、いるかしら!?」
今日はいつにもまして機嫌が悪いようで、いきなり扉を乱暴に開けて部屋に入ってきた。
セレナは国王の側近が手渡してくれた絵本をベットに腰かけて読み返している所であった。彼女は本を受け取ったあの日から本を何度も丁寧に読み返しており、肩身はなさず持っていた。
だが突然な来訪に驚き、彼女は本を背中の後ろに隠すことしかできなかった。
「今日のパーティーではあなたのせいでとんだ恥をかいたわ!」
そういってアンナはいきなりセレナの腹を蹴とばし、セレナはその反動でベットから転げ落ちた。
セレナは嘔吐いたものの、ろくに何も食べていない彼女の胃からは胃酸が逆流するだけであった。セレナの食道がひりひりと痛んだ。
アンナはその様子をあざ笑いながら見ていた。彼女は苦しむセレナの様子を見て見て少し気が済んだようであった。
少しばかり冷静さを取り戻した彼女の目は、先程までセレナが座っていた場所におかれていた本を捉えた。
アンナは本の存在を不思議に思いながら、手に取った。
「あら、なんなのこのうす汚い本は?
あなたどこからその本をとってきたのか知らないけど、こんな稚拙な内容も理解できないの?
そんなんだから王位継承権を奪われて、おちこぼれなんていわれるのよ。」
セレナはそれを渡してはいけないように思えた。
その幼い手足を使ってあぅあうと必死に取り返そうとした。
初めて見る彼女の人間らしき思考を目の当たりにしたアンナは一瞬驚いたが、いともたやすくその手をほどく。
「なに?これをそんなにも大事にしているの?
ふふ、いい気味だわ。これを破いたらあなたはどんな顔を見せてくれるのかしら?」
そういってアンナはセレナの目の前で絵本を無残にも破りさいた。
セレナは初めての感情に呆然とその様子を凝視しているだけだった。
その表情を見て気が済んだのか、アンナは部屋から出ていった。
セレナはその落ちている紙くずと化した本を集め、つたない動作ながらも必死に元の形に戻そうとしたが、やがてそれは叶わなかった。
ーーー
パーティーの後、セレナ以外の王族が集まってお茶を楽しんでいた。
長方形のテーブルの端に位置している、ひと際目を引く椅子には国王が座っているものの、その佇まいに威厳は感じられなかった。その隣に座る第二王妃が実質的な権力を持っているのは明瞭であった。
第二王妃は口を開いた。
「今日のパーティーもなかなか良かったのではないかしら?アンナも注目の的だったわ。
そろそろ婚約者の選定に移らせなくてはならないわね。女王となったときにしっかりと役に立ってくれそうな人が好ましいわ。
そういえば隣国から第二王子が来ていたみたいね。どうだったのかしら?」
「はい、お母さま。見てくれは良かったのですが、その、噂に聞いていた第一王女と違うといわれまして…どうやらセレナの叔母である彼の母親が出産に立ち会っていたみたいで。
ですが、私のダンスを断り評判を傷つけた彼には何らかの制裁をと考えております。」
「そんなの彼女は母親同様、体が弱くて亡くなってしまいましたとでも言っておけばよかったのよ。」
国王はそれに抗うように今にも消え入りそうな声で言った。
「あの、第一王女はセレナで、、、」
「黙りなさい。まだそんなこと言っているの?
あなた、今すぐにでも私の帝国の王女である権利を行使すればあなたの首は消し飛ぶのよ?
私を差しおいてあんな病弱な女なんかを娶るからよ。まだ一応は王女として生かしてあげているのだから寛大な私に感謝なさい。
こんなことを話し出すなんて、あなたよっぽど疲れているんじゃないかしら?」
王は口をつぐんでしまったが、やがてとぼとぼと口を開いた。
「...すまなかった。私は少し疲れているみたいだ...いっそのところ、少しの間だけだが古い友人の国へ療養に行ってもいいかもしれぬ。」
その言葉を待ちわびていたかのように第二王妃は即答した。
「あら、それはいい考えだわ。すぐにでも行ってらっしゃいな。」
国王はその言葉を聞いて何かを察したかのように、席を立った。
「...わかった。そうすることにするよ。明日の朝すぐに手紙を出そう。留守は、任せたよ。」
3日後、国王は遠方にある旧友の領地まで出かけた。
ーーー
国王が国を発った翌日、彼の側近はセレナのもとへ訪れていた。
彼は最初に会った日から、定期的にセレナの元を訪れていた。その甲斐もあってか、セレナは少しの言葉なら話せるようになっていた。
「久しぶりだね。本は喜んでくれたかな?本が見当たらないが。」
「う、ん」
セレナはボロボロになった本を見せるわけにはいかないと、幼いながらもその頭脳をフル回転させて考え、結果ベッドの下に隠しておくことにしたのだった。
「まあ、構わないけど。実はだね、君のお父さんは、古い学友の国に視察に行っている。君を受け入れてくれないか相談すると話していたよ。
遠出には体力が必要だ。いくつかお菓子を持ってきておいたから、食べるといい。」
そういって、国王の側近はカバンの中から、クッキーやキャンディーなどのお菓子を取り出した。その甘い匂いと、カラフルな見た目はセレナの興味を強く引いた。
彼女はおっかなびっくりキャンディーの一つを手に取り口の中に入れた。
「どうだい、おいしいかい?それはキャンディーと言ってね、今巷の年頃の女性の間で流行っているんだよ。」
セレナの舌はその味わったことのない、じゅわっと広がる甘未の刺激に歓喜した。セレナの顔は自然と綻んでいた。
「きゃんでー」
そうセレナはつぶやいた。
彼女の手は自然と次のものに伸びていた。
側近は微笑みながらその様子を眺めていた。
ーーー
国王が不在の王国では、第二王妃が名実ともに実権を握っていた。
「ふふ、あの邪魔な国王が遠くに行って清々しいわ。
いずれこの国の王の座も私のものになるなんて十数年我慢した甲斐があるというものね。こんな小国に第二王妃として嫁がされたときはどうなるかと思ったけど、あの王妃が病弱で助かったわ。」
クロエは豪奢な赤いドレスに身を包み、国王の席に深く腰掛けていた。
彼女が感慨に耽っていると、突然彼女の家臣の一人が部屋に飛び込んできた。
「失礼いたします。至急王妃様のお耳に入れたい情報が。」
「国王陛下が第一王女を逃がすための受け入れ先を探しているとの情報を受けました。」
「まさか、あの男がそんなことをしていたなんて!…ふふ、ならその計画を打ち砕いてあげましょう。」
第二王妃はあるパーティを呼んだ。そのパーティーは勇者パーティ程ではないものの、相当の手練れであった。だが悪い噂が絶えないことで有名であった。
「なんの御用でしょうか?」
リーダー格である男が聞いた。
「お願いしたいことがあるのよ。」
第二王妃はそう言って至福の笑みを浮かべた。
ーーー
セレナは食べずに残しておいた最後の一つのキャンディを手の中で転がして、そのきらきらと光る様子を堪能していた。
するとそこに下品な笑みを浮かべた冒険者が入ってきた。
「君が噂に聞く第一王女かな?」
そう言って慣れた手つきでセレナを袋に入れて拘束し、馬車にのせて王城を離れた。
セレナはただ恐怖で怯えていた。
パーティはセレナの入った袋を抱えて、ダンジョンの奥深くまで来ていた。
下っ端が口を開いた。
「こんな所まで来る必要はあったんですかね?こんな深くまで来れる奴らなんてそうそういないでしょうに。」
「馬鹿野郎。第二王妃の依頼だぞ。満を持しておいて損はない。報酬は普段の依頼とは比べ物にならないからな。」
リーダー格の男はそう言ってセレナを袋から出し、認識阻害の魔法を魔法使いが掛け終えると去っていった。
セレナはただ絶望していた。
右手にずっと握っていた飴だけが心の支えであったものの、もう溶け始めてきていた。溶けた部分に虫が群がった。
何日もすると体が冷たくなってくる感覚に襲われた。
このまま死ぬのかな?そんな思いが彼女の頭をよぎった。
絵本で見た街やお菓子、心残りは沢山あった。
だがその願いは届かない。そう、セレナは子供ながらに悟った。
不意に、パリンという音が響いた。
大丈夫か?という声に彼女は動揺しながらも顔を上げた。
すると黒髪の男の顔があった。
そのぎこちないながらも優しくあろうとする声に安堵した。
その隙間から垣間見える黒い目も彼女は安心感を覚えた。
彼女はとっさに絵本の勇者様思い出した。するりとやゆうしゃさまという単語が口から出ていた。
その男は王子様でないと否定したものの、彼女にとって彼が王子様であること代わりはなかった。
セレナは彼についていくことにした。
そのクロと呼ばれる男はセレナを丁重に扱った。
その目からはセレナを通して別の大切な誰かを思い出しているようにも見えた。彼に抱きかかえられている間、セレナは不思議と安心感を覚えた。時々感じる恐怖も、彼が与えてくれる安心感を前に彼女にとってはなんとでもなかった。
冒険の間、聖女と呼ばれる女性はセレナに積極的に話に来た。
その生まれ持ったであろう声にはどこか癒しを感じさせる力があり、するりとセレナの心に届いた。セレナは彼女が自分の傷を癒してくれていたのを覚えていたため、彼女のことを少しばかり信用していた。
聖女はセレナに食事を振る舞った。
まともな食事を撮るのは何年ぶりだっただろうか。その匂いにセレナはわれも忘れてしゃぶりついた。
スプーンもまともに使ったことはなかったが、必死に口元に運んだ。その温かい気持ちが感じられるシチューに彼女は自然と涙ぐんだ。
夕食を食べ終わると勇者と呼ばれる人物が彼女に近づいてきた。
その笑顔にはクロムのような彼女を心配する気持ちは感じられなかった。代わりに彼女を利用しようというげすい笑みが浮かびられていた。
彼女は本能的にその笑みに恐怖を覚えた。
次の日もセレナはクロと行動を共にした。
セレナは幸せだった。
だがそんな幸せは長くは続かなかった。
勇者と呼ばれる男が離れたかと思うと、何か強大なものを引き連れて帰ってきた。
抱きかかえられている手から伝わる男の慌てようから、何かまずいことが起こっているのだと悟った。
勇者が叫んだかと思うと、クロムに剣が刺さっていた。
何かよからぬことが起きていることを彼女は本能的に悟った。
すると勇者はセレナの腹を蹴とばした。
勇者のそれはアンナの何倍も痛いものであった。彼が何を叫んでいるかはセレナには理解できなかったものの、罵倒されているのだということは感じ取った。
それも彼からアンナと同じ雰囲気を感じ取ったからである。
だが隣を見るとクロムが血を流して倒れていた。彼女の脳は理解できないながらも何かあってはならないことが起こっていることは理解した。
すると、とめどなく涙があふれていた。セレナはこの感じたことのない感情に戸惑った。
セレナは失う恐怖を初めて知った。
失いたくない。そう強く思うが、その弱弱しい手では何かを守ることなど叶わない。
すると黒竜が目の前に現れた。
黒竜は国の信仰を一身に集めることが当然であることのように思えてくるほど威厳のある佇まいであった。
鱗一つ一つが彼女の大きさほどあり、鋼鉄をあざ笑うかのような強度と美しさを誇っていた。そんな鱗は、竜の可憐さをも感じさせる一挙一動に合わせて流れるように動いた。
セレナは本能的に震えていた。
自然と目から涙が溢れ出ていた。
だか助けを求めることを知らない彼女は、ただただそこに座り込むことしかできなかった。
彼女は本能的に命の終わりを察した。
―――――
王族の血を検知しました。
黒竜をテイムしますか?
―――――
え?
不意に無機質な声が脳裏に響き、セレナは混乱する。
―――――
黒竜をテイムしますか?
―――――
もちろんだがセレナに言葉は理解できない。
だが彼女の加護は本能的にその答えを知っているようであった。
「ていむ、する」
そう幼い声が洞窟内に木霊する。
―――――
了解いたしました。
黒竜のテイムを開始します。
―――――
―――――
10%完了。
王族の魔力を検出。
―――――
体から温かい魔力が流れだしていく感覚に心地よさを感じる。
―――――
30%完了。
魔力の接続完了。
―――――
何か自分の魔力が大きな存在とつながった感触を覚える。
それに合わせて目の前にいた黒竜が淡い光に包まれていった。
無機質な声は続く。
50%、、、
70%、、、
―――――
100%
黒竜のテイムに成功しました
―――――
淡い光が収まり、元の薄暗い洞窟に戻った。
―君が僕の主人かい?なんだかたよりないなぁ。彼の末裔なんて何百年ぶりだろう。まぁ、君の姿を見ると察するよ。近代の王族はバカなことをしたもんだね。
不意に脳裏にあたたかな声がした。
セレナはその声に困惑した。
―ああ、僕は君の目の前にいる黒竜だよ。困惑するのは無理はない。僕は代々君たち王族と契約を結んできたんだよ。初代国王は著名な魔物使いだった。彼は平和な国を作りたいと模索していてね。僕は彼に手を貸すことにしたんだ。でも僕の寿命からすれば、彼の寿命はほんの一握り。そして国は彼がなくなっても続いてく。だから、僕は度々彼の末裔に生まれる「魔獣使い」たちと契約を結ぶことにしたんだよ。まぁ永遠の時を生きる僕からしたら暇つぶしみたいなものさ。
―、、、すまない。人に話すのは久しぶりでね。ついつい話しすぎてしまった。君は、言葉は喋れないのかな?
黒竜のマシンガントークを呆気に取られて聞いていたセレナに、黒竜は尋ねた。
「すこし、だけ。」
―そうか。契約を結んだ僕には君の感情が絶えず伝わってくる。君が強く望むだけでも君の意思をくみ取れるよ。だから言葉に関してはそこまで問題じゃない。さぁ、君は何を望む?僕と契約したからには何か強い思いがあったはずだ。それを君の口から聞きたい。
「たっ、たすけて、くろさんを」
ーくろさんっていうのはそこに転がっている人間だね?うーん。僕は治癒魔法は苦手なんだけどなぁ。でもそれが君の願いならお安い御用さ。でも僕の魔術では傷を直すことしかできない。目ざめには時間がかかるだろう。それでもいいかい?
「うん。」
黒竜は治癒魔法を作動した。
黒竜の有り余る魔力をつぎ込んだそれは、聖女のものには劣るものの、暖かな光に包まれた大規模で神秘的なものであった。