小瓶の中の夜空
「この綺麗な夜空を小瓶に詰めてずっと眺めていられたらな……」
彼女は涙を流して囁いた。
憎いとも思ったどこまでも青白な空が、漆黒の壁に光を散りばめたような美しい空に変容した。
あの時、彼女と一緒に見た衝撃の壁画と同じ光景だ。いや、それ以上に美しいものが頭上に広がっていた。
僕は横たわる彼女の身体を抱き起こした。
「ねぇ、見て。とても綺麗じゃない? これが夜空なのね」
彼女の声から生気が段々となくなっていくのを感じる。この空のように美しい漆黒の髪と瞳も段々と色を失い白くなっていく。
「ああ、そうだよ……! 君があの時、見たいと言っていた夜空だ!」
こうなることは分かっていた。この時を迎えても泣くものかと覚悟していた。
しかしそんな決意とは裏腹に僕の身体は隠す気がないらしい。声はかすれて、目からは大粒の涙を流していた。
突然の夜に驚いたのか虫たちも鳴き始める。それはまるで情けない僕の決意を応援するかのように。
「これで本当の夜空が描けるようになるね? 夜空の画家になりたかった夢が、叶うね」
ニコリと笑うが彼女の目は焦点があっていない。僕を見ているのか、背後を見ているのかわからない。
「君のお陰だよ。最高の夜空が描けそうだ」
そういって彼女に微笑みかける。
「そうだ、私があげたプレゼントは開けてみた?」
今朝、部屋の机の上にあった小さくて可愛くリボンが結ばれている長方形の木箱を上着の内ポケットにしまい込んでいたのを思い出す。
「ああ、もちろんだとも」
「ふふ、嘘ね。まだ開けてすらいないんじゃない?」
「ばれたか」
「何年一緒に過ごしたと思っているの? バレバレよ。ほら開けてみて」
急いでプレゼントの箱を取り出しリボンを解いて蓋を開けてみると、そこには一本の筆が入っていた。
「これは……」
「これで最高の夜空を描いてね。約束だよ」
こんなものを貰っても意味がないんだ。君がいないと意味がないんだ。
それでも君のためになんて口からは出せない。言ってしまえば君は悲しんでしまうだろう。
「ああ、分かった。最高の夜空を描くよ」
夜空を描きたかったんじゃない。君のために描きたかったんだ。夢にまでも見た、この夜空を見せたくて。
彼女の手が僕の頬に添えられる。
「きっと貴方なら夢を叶えられる。私だって叶えられた」
僕にとってその夢は叶えたいけど叶えて欲しくない夢だった。だから画家になると言った。本当の夜空を見せられなくても。君の夢を叶えられるような絵が描ければと。
でももう見てしまった。絵なんてものじゃ太刀打ちできない本当の夜空がそこにあった。
この衝動を。この激情を。この感動を。
大きな真っ白なキャンパスに、この筆と、この悲しみと共に、今すぐにでもぶちまけてやりたいと思った。
そして彼女の夢を叶えてやりたかった。
「ああ、どうせなら貴方の描く夜空がもう一度見たかったなぁ」
彼女はそう言い残して息を引き取った。
僕は筆を握り締めていた。
彼女の死によって世界は夜を取り戻した。
亡くなった彼女の遺体は丁重に弔われた後、火葬場に運ばれた。身寄りのいない彼女の遺骨は僕が受け取り、共に故郷へと帰った。
ーーー
ーー
ー
夜空を取り戻した直後の世界では少しパニックに陥ることになるが、人々が夜に慣れた頃には次第に収まっていった。
数年後、とある若い男が一つの絵画を公開した。
作品の名前は「小瓶の中の夜空」。
小瓶の中に可愛らしい少女と美しい黒の夜空が描かれていた。
特にその黒色は誰にも真似ができないと評された。