君と僕
僕らを飲み込む様に怪物が大口を開けている様に見えた夜空。
そこに広がる無数の小さな明かりに向かって、突き出した人差し指で一つ二つと数えていく君。終わりの見えない星の数え歌が始まっていた事に僕は驚いていた。
君の顔から腕時計に目をやると、蓄光でほんのりとした明るさを放つ短針が、宵の時はとうに過ぎている事を教えてくれる。心のリズムがいつも以上に早いスピードで駆け抜けているのに、君は僕の気持ちも知らずに、と言うか御構い無しのようで、ゆったりとした動作で右手を漆黒のキャンパスに向かって振っている。
その点と点を結べばどんな絵が浮かび上がるんだろう?
この時間が永遠に続けばいいなと、僕は星空に向かって願ってみた。
それが叶うかどうかは分からないけどさ。
湿り気を帯びた生ぬるい風と恥らいながら顔を隠し始めた太陽の日を浴びながら、僕は塾に向かう為に自転車に跨って、どこまでも長く続いている心臓破りの坂道を漕がずに下っていた。坂道が緩やかになり道路脇に建ち並ぶ家の数が増えてきて、遠目に商店街が見えてきた頃、浴衣姿の男女が犇めくのを嫌でも捉えてしまった。
僕はこれから男子講師とワンツーマンのむさ苦しい逢瀬を交わすというのに、周りの奴らときたらなんていけ好かないんだ。出来る事なら僕だって、男なんかと一緒に居るより可愛い彼女と一緒にお祭りを楽しみたいってのにさ。
ぁぁ! むかつく!
僕は内心で悪態を吐きながらも、全力で目的地に向かう事で平常心を保とうと試みていたけど、道路は規制で歩行者天国に切り替わっており、人の海で自転車を漕ぐことが出来なくなってしまった。
漕ぐ事で得ていた風が止んで、不快感をもたらす湿度をまとった風が身体にまとわりついて蒸し暑さを知らせてくる。
自転車を押し歩いていると、顔や全身からもぽつぽつと汗が吹き出てくる。
菩薩の心は僕には宿ってなかったようで、目の前にいるカップルを見ていると鬱屈とした気持ちがぶり返してきた。
暑いし、歩きづらいし、なんで祭りのなか孤高を気取るように塾になんか行かなくちゃいけないんだ。
僕は目に付いたコンビニに無理やり自転車を止めてと言うか放り投げて、人混みや悶々とした気持ちから逃れる様に店内に潜りこんだ。
冷たい風が全身を包む。毛穴から発散されていた熱が気化していくのを感じられる最高の瞬間だ。
ふと右手側にある雑誌コーナーに目をやると、浴衣を着た同級生の女子が笑いながらこっちを見ていた。
「すごい形相だね」
「は?」
くすくす笑いながらこっちに近づいてくる、名前もよく知らない子。
「なんで、そんなに苦しそうな顔してるの?」
人のことを小馬鹿にしたような台詞なのに、目元が綺麗な流線を描いて三日月の様になったのが印象的で、それに心が揺さぶられてしまった。
「あ、暑いからな!」
「そっかぁ」
右手で軽く拳をつくり、口元に添えて笑っている。何が面白いのかさっぱり分からないけど、笑われているのはなんとなく分かるけどさ。
「花火見にいくの?」
ぶっきらぼうに質問をすると、目線を下に向けて少し寂しそうに答えた。
「そうだったんだけど、友達が急に来れなくなっちゃって……」
「暇してるなら、一緒に見る?」
暑さで頭がおかしくなったのか、周りのカップルに同調してしまったのか、柄にもないことを言ってのけてしまった僕。 君は目を見開いて驚愕に満ちた顔をしていた。きっと同じくらいに僕の顔をもそうなっていたに違いない。
普段なら、そんな軟派で気の利いた言葉、口が裂けても出るわけがない。
少しの沈黙が訪れてから、間を取り壊すように君は愛らしいえくぼを見せながら呟いた。
「うん」
予想も期待もしていなかった言葉に、全身に電気が流れたのかと思うくらいの衝撃が走った。
酸素欠乏状態の金魚の様に、息づきをするように口だけがぱくぱくと動いていた。
本当は声も出るはずだったのに。
「顔芸でも流行ってんの?」
口元を綻ばせて、嬉しそうに笑っている君。
うまい返しが思い浮かばなくて口をだらしなく開けたまま、ただ頷いただけの僕。
「へんなの」
笑いながら僕に対するもっともな評価を下した。
僕は今、坂道を下ってきたとき以上に額に汗を流しながら来た道を駆け上がっていた。
平坦な街中で見るよりも、丘から見る花火の素晴らしさを伝えたら、またしても二つ返事でそこに行くことを了承したのだから驚いた。これからは迂闊に余計な事は言えないかもしれない。
でもそのおかげで僕の荷台には君がいる。さっきまで色んな人を憎んでいたはずなのに、その立場になっているのだから世の中面白いもんだ。
「がんばれー」
背中がとんとんと叩かれて可愛らしい声援が聞こえてきたから、その言葉を額面通りに受け取って坂道を駆け上がる事に全力を注いだ。目的の拓けた丘に辿り着いた時には全身汗だくで、息も絶え絶えになりその場に突っ伏してしまった。折角の君との花火祭りになったと言うのに、肝心な身体は言うことを聞いてくれそうにもない。
瞼は徐々に重くなり、視界が狭められていく感覚を最後に意識が途切れてしまった。
はっと目を開けると、君は僕の隣に座り込んで夜空を見上げている。
その横顔を見つめていたら、なんだか心がこそばゆくなってしまう。
僕の視線に気がついたのか、こちらを振り向いてにこっと微笑んで、草むらに置いてあった金魚柄のポーチから飲みかけのジュースを手渡してくれた君。
「死んじゃったのかなと思っちゃったよ」
「なら声かけてよ」
「だって、息してたし」
笑いを堪えるように、控えめに開かれた唇の隙間から白い歯を見せながら笑っていた君。
「そ、そっか」
生返事をしながら、受け取ったジュースに口をつけてから気がついた。
僕は何も買っていなかったことに。
暑さとは違う熱気で顔が熱くなってきたけど、この暗さだからこの火照りには気づけないだろうきっと。
僕の焦りもよそに、君はまた夜空に顔を向け始めたんだ。