祇園
京都祇園の有楽町に店をかまえるお茶屋で、斉藤は贔屓にしていた芸妓の「桂つ扇」に花をかけて、気になっていた取引先と京都の夜を楽しんでいた。 お茶屋は祇園甲部歌舞練場の裏手、北側に位置する古くからのお茶屋がある。気風が良く面倒見の良い女将と若女将の人柄が、途切れない客足を支えているお茶屋だ。
芸妓、地方と舞妓の舞を楽しみ、後席の宴もたけなわ午後10時も過ぎたころ突然、斉藤の胸が苦しくなり座っていられなくなって卓に突伏した。
ーー 息が出来ないぐらい苦しい。
その瞬間、桂つ扇が斉藤の腕をビックリすような力でつかむと、支えるように引き寄せ、低い声で静かに耳元で桂つ扇がつぶやく。
「斉藤はん」
「…」
「斎藤さん」
「…う…ん」
「斉藤はん、ちょっと 酔うてはります〜 皆さん、ちょっとごめんなさいして、向こうで休みましょう ねー」
「うんうん」
「廣ちゃん、ちょっと廣ちゃんよろしくねー」舞妓の市廣に声をかける。
「姐さん、おおきにぃ〜 にぃさんこんなんで、ごめんなさいですけど、よろしゅうおたのもうします〜。」
会場の取引先からはヤンヤヤンヤの拍手がなる。 騒ぎを聞き付けた女将が飛んできてすかさず分け入り。
「こんなお時間ですけど、豆次を呼んでもいいかしら?」
是非是非〜とヤンヤヤンヤの大はしゃぎ。
斉藤を担ぎ、隣の部屋へ運び入れ横にさせると、間伐入れずに桂つ扇が右往左往し的確に動き回る。
「席」を落ち着かせて、斉藤のもとにやってきた女将が、脈や血圧を測定し始める、程なく医師が駆け付け診察を始めた、今すぐどうこうなる訳ではないが精密検査を強く勧められ、明日紹介状をメールしておくので必ず出向くように約束させられた。その夜はお茶屋の配慮で簡単な布団を用意してもらい、お座敷の畳でしばらく横になった。
いついかなる状況にも対応できるのがお茶屋の真骨頂であり実力で有る。 斉藤は虚ろな意識の中、「我が社の社員にも爪の垢を煎じてガブ飲みさせたい気分だ」と考えていた。閉じた目のせいか、気を遣って静かに素早く歩く彼女たちの着物や足袋が真新しい畳とこすれるシュッシュッと言う音や、畳や板の間を小さく移動するキュッキュッと鳴る音、息づかいがなぜか耳に心地よい。
しばらく横になると、痛みは何事も無かった様に消えたが。胸につっかえる様な重たい感覚は翌日も仄かに残っていた。 その間もう大丈夫と言うまで、白くてか細いそれでいてとても柔らかく暖かい桂つ扇の手が、自分の手を離さなかった。そんな彼女をプラトニックに可愛く愛おしく感じていた。 斉藤も男、今まで下心が全く無かったとは言わないが、かたくなにそういった事に付いては己を律してきた……。
プラトニックに「娘」「枝」として桂つ扇を見ていた。
ーー それにしても、全く男という生物はこんな時まで……我ながら呆れてしまう。
翌朝、京都支店から飛んできた支店長と一緒に帰ることとなった。目の下にくまを作った若女将と桂つ扇、そして全く衰えを知らない女将が心配して見送りをしてくれた事に恐縮する斉藤がいた。
後に、妻や関係各所から。若女将と桂つ扇が素早く妻と必要各方面へ連絡した後、一睡もせず傍らで付き添っていたことを知らされ、さらに恐縮した事を思い出していた。
ーー 次は足洗いに二人を誘わなくてはと思っていたが…
斉藤が病院で検査を受けるきっかけはその出来事で、それまでは全くといっていいほど自覚が無かった。
ーー 帰り際、女将から「明日病院に行かへんかったら、出入り禁止どっせ」としっかり釘を刺された。 身内や側近からの忠告は聞き流してしまうことも多いが、なぜか、女将の忠告は素直に聞いてしまう。 翌日、家内が素早く手配してくれた病院で、全身の検査を受信する事となった。
斉藤は、お礼と心配掛けまいとその直後女将にメールを飛ばし、桂つ扇に伝えておくと返事をもらった。
その、一週間後の検査結果が予定より早く出た。
ーー今日、仕事中に病院から緊急の呼び出しを受け、急いで来院したのだが。……まぁ、こんな時はいい話は無い。
その予感はそのまま、現実のものとなった。