序章二節 - 過去と希望
比呼を励ますような凪の笑顔を見ると、この町に来たばかりのころを思い出す。
比呼はほんの数ヶ月前まで、彼らの敵――華金国の王に仕える間者だった。しかも、当時の比呼はこの国の領主とその家族を殺害する任務を負っていた……。それを知るのは、凪と一部の上級官吏、そしてこの国を治める城主一族だけ。厳重に秘された真実が広まれば、人々の比呼を見る視線はもっと冷ややかなものに変わるだろう。比呼を追い出したり、傷つけたりしようとする人も出てくるに違いない。
「……予定外ではあったけど、さっきので屋根の雪がほとんど全部落ちたね」
過去を思い返す比呼の内心など知らずに、凪は目の前の大きな雪の塊と黒い瓦屋根を見比べている。
この国の姫君が闇の中にいた比呼に手を差し伸べ、凪が比呼に居場所をくれた。もちろん、彼女たちとともに生きられるようになるまでには、いくつかの困難があった。長期間の尋問や洗脳の日々は、今でも夢に見る。ただ、あの日々のおかげでここにいられるのだから、悪夢も幸せな思い出だ。そう思うように刷り込まれているのか、比呼自身がそう判断したのか。疑問に思う時もあるが、どちらでも良い。
「えっと、あとはこの雪を大通りの端にまとめておけば良いんだっけ?」
この国で生きたいと決めたのは、間違いなく自分なのだから。
「そうそう。そうしておけば、官吏たちが川まで運んで捨ててくれるから。屋根の雪はこのままで大丈夫として――」
たしかに屋根から落ちた雪は、不格好ながらも大通りの端に列を作っている。
「あとは玄関前の除雪。うちは病人やけが人がよく来るから、広めに丁寧にね」
凪は言うと同時に、玄関前の雪をそりのような平たい道具で押し出しはじめている。
「わかった」
比呼はうなずいて、凪の動きをまねてみた。ちょっと均衡を崩せば滑り落ちる屋根の雪と違って、平地に積もった雪は見た目以上に重い。凪より筋力があるにもかかわらず、比呼が一度に運べる雪の量は同じくらいだ。きっと何かコツがあるのだろう。
「水路に落ちないよう気をつけて。それで足を折る人が毎年何人もいるから」
「うん」
会話をしながら、玄関前や庭の雪を大通りまで運んだ。
そんな比呼に、道ゆく人々は意味ありげな視線を向けていく。比呼の慣れない動作が目を引くせいもあるだろうが、一番の理由は別だろう。
比呼の素性は隠されているが、彼がかつてこの国の姫や彼女を守る護衛官にけがを負わせた事実までは消せない。それが記録上「事故」扱いになっているとしても、民衆の中には比呼を好ましく思わない者がいるのだ。比呼は彼らの大切なものを傷つけてしまった。
かつて、甘くやさしいと思った人々は、不信感と警戒心のこもる視線を比呼に投げかける。町医者として信頼を集める凪が近くにいるおかげで、大きな問題が起こることはないが、目は口ほどに雄弁だ。
比呼は彼らにできるだけ明るい表情を見せるように意識した。表情や態度で害意を持っていないことを示したい。しかし、受け入れられるのはいつになるのか……。
「比呼、軒のつららを叩き落としてくれる? 周りに氷の破片が散らないよう気を付けて。間違ってもつららの真下に立っちゃだめだからね!?」
「わかった」
凪は比呼を仲間と認めてくれている。この輪を少しずつ広げるのだ。
――コツコツと、一歩ずつ。
比呼は心の中で自分に言い聞かせた。雪の降る冬に慣れるのも、この町になじむのも。
「おーわりー!!」
つららを落として戻ってきた比呼を見て、凪は明るく叫んだ。大きく伸びをしている。
「結構、肩や腰が疲れるね」
比呼も彼女をまねて腕を上げる。冷たい外の空気が着物の隙間から入り込んできて、慌てて身を縮めたが。
「ふふふっ。早く中に入ろっか。おばあちゃんが朝ごはんをこしらえてくれてるはずだから」
凪は除雪に使った道具を全て抱えると玄関に向かいはじめた。雪が取り除かれて歩きやすくなっている。
「僕も持つよ!」
比呼は慌てて凪を追いかけた。彼女は比呼が使っていた道具も持ってくれたのだ。大きく足を踏み出して、駆け寄ろうとして――。
「うわ!」
地面のくぼみに残っていた雪で足が滑る。体勢を整えようと違う足を出せば、氷の粒をまぶしたような地面にそちらも滑る。何度か足を滑らせたあと、一度こけてから立ち上がった方が早いと判断して、比呼は凍った地面に身を投げ出した。受け身は取ったので、体は痛むがけがはない。
「比呼が冬の歩き方を身に付けたらね」
半身だけ振り返った凪が笑った。垂れ目でのんびりした雰囲気の彼女には似つかわしくない、いたずらっぽい笑顔。
「早く凪を安心させられるようにがんばる」
慎重に立ち上がりながら比呼は笑みを返した。彼女のあたたかさは、比呼の不安をかき消してくれる。
「足に荒縄を巻いてるでしょう? それが滑り止めになるから、そこが最初に地面に着くように歩くの。歩幅を小さくしてね」
その場で足踏みして例を見せてくれる凪は、愛嬌があって素敵だ。比呼も彼女をまねて足踏みした。足の裏を垂直に持ち上げて垂直に下ろす。踵やつま先から足を下ろすと滑り止めが効く前に滑ってしまうので、避けなければならない。理屈を理解したらあとは実践あるのみだ。
「そうそう」
凪はうなずいて、再び玄関へ向かい始めた。
「凪は滑り止めがないのに何で滑らないの?」
比呼は彼女の足元を見て尋ねた。
「だって、もう藁で編んだ長靴を履いてるじゃない」
比呼も同じものを履いているのだが……。
「普通はこれさえ履いとけば滑らないの。比呼に巻いてあげた滑り止めは、子どもや初心者用」
つまりこの荒縄があっても滑ってしまう比呼は初心者以下ということか。この国に馴染むには、まだ時間がかかりそうだ……。
その場で足踏みを繰り返しながら、比呼は小さく歯を食いしばった。




