終章一節 - 湯治場
【終章】
「与羽?」
辰海の声にはっとして、与羽は顔を上げた。
今彼らがいるのは、温泉街の奥に秘された宿の一室。師走の忙しさを乗り越え、やっと目当ての湯治場にやって来た。
「大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど……。龍頭天駆や夢見神官が心配? それとも調子悪い?」
辰海の手が額に触れる。ふわりと漂ってくる桜の香は、辰海がいつも着物に焚き染めているもの。甘く香ばしい匂いに、与羽はほっと息をついた。
「大丈夫」
与羽は小さく開けた口を笑みの形で閉じる。
「退屈?」
そう身を乗り出して聞いてきたのは、実砂菜だ。
「それもあるけど、一番退屈そうなのはミサじゃん」
一日中宿にこもり、することと言えば湯に浸かるか、本を読むか、寝るか、雪景色を楽しむか、話すか――。それくらいしかない。
与羽にはまだ祖父孝行という目的があるが、実砂菜は手持ちぶさたにぼんやりと風景を眺めていることが多かった。ひと月以上の宿暮らしにおしゃべりのネタも尽きてしまったようだ。
「これもお仕事。だけどお義兄さまだけ外出し放題なのずるいよね!」
実砂菜は声を荒げた。たしかに湯治場に来てから、大斗は外出することが多い。道場主や武官に武術指南をしているそうだ。この温泉地内にはいるようだが……。
「わーたーしーもーいーきーたーいぃー!!」
「僕で良ければ、手合わせするから……」
「辰海くんは女の子相手だと手を抜くからいやー!」
「素手で良ければ相手するって」
「私と与羽が組手したら、辰海くんがドキドキしちゃうからだめー!」
実砂菜はだだっ子のように床を転げ回っている。大斗は外出中で、舞行は正月に会いに来てくれた白師とともに温泉を楽しんでいる。実砂菜が思う存分自分をさらけ出せる状況だ。
「なんじゃそりゃ」
与羽はため息をついて外の風景を見た。雪の積もった温泉街とそのいたるところから立ち上る湯気。神域に食い込むように作られた町なので、あたりの山には木が残されていて景観は最高だ。どこまでも白い世界の眩しさに、与羽は目を細めた。春になれば、この温泉旅行は終わってしまう。しかし、それにはもう少し時間がかかるだろう。
「与羽、こっち見てよぉ!」
実砂菜が与羽にもたれかかってくる。
「『お仕事』でしょ? もうちょっとで大斗先輩が帰ってくるから」
彼女にはそれまでがまんしてもらうことにした。退屈に耐えるのも仕事だ。
実砂菜は不満そうに錫杖を鳴らしたものの、素直に与羽から離れた。部屋の隅に坐禅を組み瞑想をはじめている。
与羽は窓から外を眺め続けた。枝から落ちる雪。つららから滴る水。今日は少し雪が解けはじめているようだ。空気はあいかわらず身を切るように冷たいが、もしかすると春は与羽が思うより近いのかもしれない。




