六章十節 - 梅花と栗飯
「少しだけ寄り道しますね」
屋敷の門をくぐるや否や、空はそう言って門脇の小屋へと向かった。昼間彼が良くいる執務所だ。その軒下に、小さな屋根とそれに守られた石碑があった。名は刻まれていないものの、そこに供えられた栗飯のおむすびから誰かの墓だと確信できる。空は小さな墓石の前に集めてきた花びらを手巾ごと置き、静かに手を合わせた。
与羽と辰海は彼から距離をとって見守っている。与羽の鼻に落ちた雪がじわりと解けた。
「……なにも、聞かないんですね」
しばらくして立ち上がった空は振り返りながらそう呟いた。
「私だってそこまで無遠慮じゃない」
与羽の低い声は、できるだけ感情を消してある。聞かなくても、空の態度と雰囲気を見ればわかるのだ。家族か恋人か友人か――。とても大切な人がその場所に眠っているに違いない。
「あの石室で、二十年ほど前に人が亡くなったんです」
ぽつりと、空はつぶやくように話し始めた。
「わたしは、間に合わなかった。だから――。二度と彼女のような犠牲を出したくなかったから、わたしは月主神官になったのです。あなたたちを無事に連れ帰ることができて、わたしは使命を果たせました」
墓標を振り返った空は、かつて見た疲れ切った目をしている。
「空……。死ぬなよ……?」
その姿がはかなげで、与羽は思わずそう声をかけていた。
「もちろん。またいつか、あなたたちのように神域に呼ばれる人がいないとも限りませんから」
空は手櫛で前髪を整え、口元に穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「ただ、あの様子だと数年は水が流れ続けるでしょう。しばらくはのんびり過ごせそうです」
そう軽口さえ言ってみせる。
「宿坊に戻りませんか。雪が強くなってきましたし」
辰海は空気を読んで、話題を変えることにした。手を取ると、与羽はすぐに従ってくれた。空はその少し後ろにいる。
「空」
遅れがちな彼を案じて、与羽は空いた手を空に差し出した。彼を一人にしたくなかったから。
「あなたはどうしてそうもお人好しなんですか……」
空の足が止まった。
「空……」
与羽が彼の名を呼ぶ。辰海は嫉妬と心配の混ざりあった目で空を見ている。
「寒いし、早く戻ろ」
与羽は無理やり空の手を取った。氷のように冷たい手だった。
「ほらめっちゃ冷えとるじゃん」
そう空の大きな手を強く握ろうとして、手を払われた。
「すみませんが、急用を思い出しました」
空が背を向ける。その瞬間、彼がすばやく自分の目元をぬぐったのを、与羽は見逃さなかった。
「空」「与羽」
空を呼び止めようとする与羽を、辰海は言葉で制した。
「お二人に、龍神様の加護がありますように」
低く美しい声が二人の幸せを祈る。
「でも、雪が強くなってきとるし――」
「与羽!」
辰海はさらに語気を強めて与羽を止めた。
「君のやさしさは素敵だけど、君がまぶしすぎて見ていられない時もあるんだよ」
きっと今の空はそんな状態だ。与羽のあたたかさは、時につらい思い出を封じる蓋まで溶かしてしまう。
「夢見神官、あなたにも月主様と龍神様の加護を!」
辰海はすでに遠くなりつつある空の背に叫んだ。
「……体に気を付けて!」
少し悩んだものの、与羽もよく響く声で空の健康を祈る。
返事はない。しかし、間違いなく聞こえただろう。空はわずかに天を仰いで、神域へ続く門に消えていった。
「戻ろう。僕たちにできることは、もうないと思う」
辰海は与羽の肩や頭についた雪を払いながら言った。空はひとりでいることを望んでいる。
「……うん」
辰海の言う通りかもしれない。風主神殿で舞を奉納して、枯れ川には水が戻り、絡柳も中州へ向けて旅立った。与羽が龍頭天駆でできることはすべてやり切れたはずだ。あとは祈るだけ。変化を、幸福を――。
与羽は神域を振り返った。白く霞む先に、空の姿はもう見えない。彼はこれからもこの場所で生きていくのだろう。神の祝福を宿し、大切な思い出を胸に。
「与羽、心配なのはわかるけど、前を向いて歩かないと危ないよ」
いつものように、辰海のあたたかい声が降ってくる。
「……うん」
与羽は素直にうなずいて前に向き直った。
そろそろ旅の本来の目的を果たさなければ。祖父孝行。ここから先は、中州の姫君でも、舞い手でもなく、ただの孫娘だ。




