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一章七節 - 暗殺者の葛藤

 

  * * *


 辰海(たつみ)の言った通り、数日後に中州の文官を名乗る男性が訪ねてきた。しかし、無一文の暗鬼(あんき)が家を借りるのは難しいらしい。それはそうだ。いくら善意あふれる中州城下町と言えど、家賃が払えるかどうかわからない人に部屋を貸す大家はいない。

 そうなると方法は二つ。自分で大家に直接交渉して住む場所を探すか、複雑な審査を受けて国の補助金を得て暮らすか。ただ、暗鬼に時間のかかる審査を受ける余裕はない。早く「仕事」に取りかかる必要があるからだ。

 少しだけ、困ったことになった。花街や賭場などに、住み込みで働かせてくれる場所はないだろうか……。


 そんなことを計画していた彼を引き留めたのは、暗鬼が一番最初に「お人よし認定」をした女性、(ナギ)だった。


「そんなに城下町に住みたいんだったら、うちに住み込んで手伝って」と言うのだ。


「え? いいんですか?」


 暗鬼は目を丸くしてみせた。


「いいよ。薬師(くすし)はいつも人手不足だから。住み込んでくれたら、夜の急患対応も楽になるし。そのかわり、しっかり薬のお勉強してもらうけど」


「ありがとうございます!」


 暗鬼は笑顔でお礼を言った。

 こんなにあっさり、順調に物事が進んで大丈夫なのだろうか。不安になってしまう。何か大事なものを見落としているのではないか。罠にかけられているのではないか。


 彼らの善意の裏はいまだによく見えない。凪の場合は、人手が欲しいからだろうか? それならば与羽は――? わからない。世間知らずな姫君の気まぐれだろうか。


 考える時間は、まだあるはずだ。


 中州では、時間がゆっくり流れる。

 昼は凪とともに薬師家を訪れるけが人や病人の治療や訪問診療を行う。夜は熱を出した子どもや、けがをした大人がいつ来ても大丈夫なように準備しつつ、眠る。


 凪の得意先には中州城もあり、与羽(よう)に案内された場所よりも奥に入ることができた。彼女は足の悪い先代中州城主――舞行(まいゆき)のもとにも四日に一回ほどの頻度で通い、腰やひざに(きゅう)をすえているのだ。

 二人目の標的。先代城主と聞いていたが、彼は与羽の父ではなく祖父らしい。動きの鈍い老人である上に、施術中の部屋には凪と舞行、そして暗鬼しかいない。油断しきった彼らの喉をかききるなど、造作ない。


 任務成功へ一歩前進。


 与羽に関しても、城や城下町でよく合うので、徐々に習慣や嗜好がわかりはじめた。まだ最後の標的中州城主にだけは会えていないが、凪とともに頻繁に城に立ち入るようになったおかげで、どこにいるのかおおよその見当はついた。


 さらにもう一歩。二歩。そろそろ、動かなくてならない。


 ぬるま湯につかっているような、平和な日々は新鮮でとても気持ち良いものだったが、暗鬼にはどうしてもやらないことがあるのだ。


 それが、自分の命と居場所を守るために、不可欠だから。


 暗鬼は前を機嫌よく歩く少女を見た。頭の高い位置で一つに束ねた黒髪は、いつものように青と黄緑にきらめいている。彼女は時々薬師家を訪ね、城下町の地理に不慣れな暗鬼を連れ出してくれるのだ。

 むき出しになった彼女の首筋をかき斬るなど、とても容易なことのように感じられた。ただし、今そんなことをすれば、暗鬼の後ろを歩く彼女の護衛に叩き斬られるだろうが……。


「?」


 暗鬼の視線に気づいたのか、与羽が振り返った。


「どこか行きたいところある?」


 わずかに首を傾げてそう尋ねてくれる。油断しきった彼女の顔に、暗鬼は目を細めた。


「いえ」


 首を横に振る。笑みを作ろうとしなくても、最近は自然に笑えるようになった。与羽といる時は、ほぼいつも表情が緩んでいるかもしれない。

 本当は、仕事を行うにあたって確認しておきたい場所がいくつかある。しかし、それは暗鬼一人の時でも見られる。与羽といる時は、彼女に連れ回されるのも悪くない。


 与羽は城下町中を案内してくれた。城下町の大通り沿いには、大きな商家や学問所、道場などが立ち並び、一本路地を入れば、より庶民向けの小さな商店や工房などが存在する。城下町北部は住宅が多く、南部は飲食店や娯楽に関係する施設が多い。しなを作って呼んでくる若い女性にあいさつを返しながら花街を闊歩(かっぽ)する与羽の姿は、暗鬼の予想していた中州国の姫君像を見事に打ち壊した。


「おすすめのこい焼きやさんに寄って行こう」と今日の与羽は、大通りを折れて、狭い路地に入った。


 こい焼き? なんだろう? 暗鬼の脳裏に大きな鯉が丸焼きにされている光景が浮かんだ。


 与羽が案内したのは、横長の大きな窓の前だった。そこにかけられた古びたのれんは、元は(だいだい)色だったのだろうが、今は色あせて白に近い。そこを営んでいるのも、のれんと共に生きてきたような老婆だ。

「こんにちは!」と元気にあいさつした与羽は、耳が遠い彼女のために指で三と示して、「こい焼き、三つください!」と大声で注文した。


「あい、三つね」


 老婆はしわがれた声でそう言って、部屋の奥に行くとそこで作業をはじめた。何かを網において焼いているようだ。やはり鯉の丸焼きかと思ったが、漂ってくる甘い匂いが違うと告げている。


 しばらくして、老婆は紙の包みを持って窓の前に戻ってきた。


「ひとつは若いお兄さんにおまけしとくのぅ。もうひとつは与羽ちゃんに――」


 老婆は三つ分だけ代金をもらい、「いつもありがとう」と言いながら、丁寧に包みを手渡した。この中に「こい焼き」が入っているのだろう。


「ありがとうございます!」


 与羽は無邪気な笑みを浮かべて、礼を言う。幼い子どものように。彼女は姫君らしく横柄な時もあるが、感情豊かで元気だ。


「はい、ユリ君どうぞ」


 大通りに戻りながら、与羽は包みを開け、中のこい焼きを渡してくれた。魚の形に焼かれたまんじゅうだ。


「これがこい焼き? たい焼きじゃなくて?」


 それはどう見ても華金では「たい焼き」と呼ばれている菓子だった。


「鯛って、海におる赤色のお魚だっけ?」


 与羽が首をかしげる。そういえば、中州は海から遠い内陸の国だ。


 暗鬼ははっとした。失言だった。気を抜いていた。暗鬼は華金と中州の国境付近にある、滅びた貧村の出身という設定だ。「たい焼き」などという嗜好品、知っているはずがない。


「そうです。華金で鯛はめでたい魚だそうで、お魚の形をしたお饅頭をたい焼きと呼ぶのだそうです。以前徴兵されたときに、都近くから来た人に聞いてずっと食べてみたいと思っていたのですが、まさかこんな形で出会えるなんて。――あ、でもこれは『こい焼き』なんですよね」


 そう興奮した様子で言って、暗鬼は与羽が差し出すこい焼き二つを受け取った。これで、ごまかせただろうか……?


「そういえば、雷乱(らいらん)も『たい焼き』がどうとか昔言っとったっけ?」


 納得したのか、まだいぶかしんでいるのか、与羽は後ろをついて歩く護衛官を振り返る。そういえば、彼も暗鬼同様華金出身だったか。それなのになぜ姫の護衛をやっているのか。謎だ。


「……昔の話だ」


 雷乱は地鳴りのように低い声でそれだけ言って、そっぽを向いてしまった。


「こいつも昔いろいろあったらしい」


 与羽はそれだけ暗鬼に教えると、自分の分のこい焼きを口に運んだ。こい焼きを三つ頼んだのは、自分が二つ食べるためだったらしい。


 暗鬼も思い出したようにこい焼きを口に運ぶ。一口目から甘さ控えめのつぶあんが詰まっていた。生地は柔らかくて、ほんのり甘い。


「おいしい!」


 暗鬼は叫ぶように言った。表情は――、大丈夫だ。笑わなければと思う前から、笑顔になっている。想定よりも大きな声を出してしまったので、暗鬼は恥ずかしがるように肩を丸めた。与羽は「その気持ち分かるよ」とでも言うようにうなずいている。


「良かった。こい焼き、気に入ってもらえて」


 与羽はこい焼きを三つ、いっきにたいらげて、幸せそうに笑う。

 甘いこい焼きをかじりながら、暗鬼はもう少し暗殺を先延ばしにしようと思った。


 ――もう少しだけ。


 国にもどれば、お金には不自由しないし、仕事の合間にはまとまった休暇がある場合も多い。華金王の「影」としての仕事は命がけだが、見返りも十分にある。早く仕事を終わらせて、安全な隠れ家で過ごせばいいはずなのに、ここの暮らしは何と表現すればいいのかわからないが――。だめだ。先ほどの「たい焼き」失言で動揺したせいか、思考がまとまらない。


 ――もう少しだけ、こうやっていたい。


 なぜだかわからないが、そう思った。生地にはちみつを混ぜているらしいこい焼きの甘さが、体に染み渡る。


 ――あと一週間(なのか)だけ。


 暗鬼はそう思った。


 そうしたら、今度は必ず、標的の三人を殺す。

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