六章一節 - 身をそそぐ
【第六章 龍の涙】
――師走晦日。
「こんばんは」
この半月ですっかり聞きなれた良く響く美声は、空のもの。静かな緊張を胸に、与羽は顔をあげた。
「……だれ?」
空だとわかり切っているにもかかわらず、与羽がそう問いかけたのには理由がある。彼は普段の神官装束よりもさらに上質の布地で作られた純白の狩衣姿で盛装し、同色の房飾りがついた小さな冠を頭にのせていた。いつもは両目を覆い隠している長い前髪をあげて顔を晒しているので、印象がまったく違って見えたのだ。
「空ですよ」
彼は与羽の問いに、切れ長の目を細めて苦笑した。以前は疲れた目元をしていたが、今はいくぶん穏やかだ。
「馬子にも衣装ってやつだね」と大斗が笑えば、
「冗談も程度を考えろ」と絡柳がため息交じりの指摘を加える。
「どうでしょう? どこも変じゃないですか?」
そう言って、空はその場でゆっくり一回転した。大斗の軽口に慣れきっている。
「いいと思うよ」
「よかったです」
興味なさそうな大斗の代わりに与羽が答えると、空はにっこり笑った。表情がわかりやすいせいか、今日の彼はいつもより若々しい。
今日は大晦日。あと四刻(八時間)もすれば、新年を迎える。北向きの龍頭天駆にはすでに夜の気配が忍び寄り、古い年が眠りにつこうとしていた。
「このたびは舞行様も同行されるということで、暗くなる前にお迎えにあがりました」
空は与羽たちを神域にある風主神殿へ案内するために来てくれたのだ。
「わざわざすまぬのぅ!」
舞行がゆっくりと立ち上がる。
「いえいえ。中州の皆様にお願い事をしているのはこちらですから」
空はすばやく舞行に手を差し出すと、外に控える籠まで案内した。身分の高い人や裕福な女性が外出時に使う乗り物で、人ひとりが座れる小部屋を棒で釣るしてある。舞行がぶ厚い綿入れの上に腰を下ろし、落下防止用の紐に捕まると、棒の前後を屈強な武官たちが慎重に持ち上げた。
「では、行きましょうか」
空は老いた舞行の膝に持参した毛織物をかけて振り返った。外出準備を整えた中州の面々が並んでいる。
今回の目的地、風主神殿は神域の入り口近くにある。舞行の乗る籠をできるだけ揺らさないようにゆっくり進んでも、半刻(一時間)以内で到着する距離だ。
あたりはまだ夕方の色を濃く残しているにもかかわらず、神殿の正門にはすでに参拝者の姿が見えた。庶民に神域内の神殿が解放される行事は少ないため、正月神事には早い時間からこぞって人が訪れるらしい。
空は人混みを避けて裏口から神殿内へ入っていく。境内では、これから訪れる夜に備えて、たくさんのかがり火が焚かれていた。室内も明るく、暖かい。
与羽たちの出番は大晦日の最後の瞬間。まだ数刻の猶予があるものの、早めに準備を行うべきだ。舞行が控えの間に落ち着いたのを確認するや否や、中州の面々はそれぞれ身支度をはじめた。
与羽は誰もいない個室で、丈長の分厚い上着を脱いだ。きつく縛られた金銀の帯をほどくと、はらりと着物の前がはだける。重ね着した青や紫色の小袖から腕を抜き、一番内側――襦袢の止め紐に指をかけた。与羽の身の丈に合わせてつくられた真っ白な襦袢は、下着として着ているもの。与羽は意を決してそれを足元に落とした。
「さむ……」
完全に何も纏わない姿になると、室内が十分に温められていても肌寒い。
与羽は急ぎ足で部屋の中央に置かれた大きなたらいに歩み寄った。中には湯が張られている。
まずは禊だ。湯の中に足を入れ、手足、顔、胴体と丁寧に清めた。少し熱い湯のぬくもりが全身に広がる。湯をすくうとほんのりと柑橘の香りが立ちのぼった。丁寧に洗った腕に鼻を近づけると、湯と同じ甘く爽やかな匂いがする。腕だけでなく、与羽の体全体にこの匂いが染みついたことだろう。与羽は湯が冷める前に禊を終え、体を拭くと用意されていた下着を身につけた。上半身用の丈の短い半襦袢と、下半身用の体に添う股引。どちらも白く、薄手の生地で作られている。
その上に重ねる衣装は、この日のために天駆領主が用意してくれたものだ。与羽は下着姿のまま隣室に移動すると、三人の女性に囲まれた。風主神殿で働く巫女だと言う。彼女たちは軽い自己紹介をしたあと、与羽に手際よく衣装を着せていった。
肌触りの良い紅の小袖の上に、純白の小振袖を重ねる。足を入れる部分が二股に分かれた、動きやすい袴の色も紅だ。腰に帯として巻かれているのは、あえて色むらができるように染められた紫の厚布。
これくらいの着替えならひとりでできるのだが、与羽はおとなしく彼女たちに身を任せた。




