三章十三節 - 春花の泉
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辰海が朝起きれば、昨夜吹いた笛のおかげで石室奥の湧水が増し――、などという奇跡は起きず、今日も辰海は食料調達と川を掘り出す作業をはじめた。
異界に誘われるように、昨日よりも深く春の窪地に入る。何度も振り返り、帰り道があることを確認しながら。
ほのかに春の香りを漏らす梅林を抜けると、山菜が所々に顔を出す空き地の先に小さな泉が見えた。その表面から立ち上る湯気を見るに、温泉が湧いているらしい。この場所が暖かいのは、温泉や地熱のおかげか。神秘の理由がわかって、辰海は少し安堵した。
湧き上がる湯はわずかに白く濁っているが、さほど匂いはなく、熱い。食材を茹でることができるかもしれない。
辰海は泉の湯が流れ出す小川を見つけて、そちらに歩み寄った。源泉から少し離れたので、こちらは泉ほど熱くない。人が入れる温度だ。さらに小川を下ってみたが、その先は岩の間へと続いている。この川を辿って神域を出るのは無理だろう。帰る手段は、やはりあの枯れ川しかない。
辰海は小さく息をつくと、再び小川を泉の方へ戻った。せっかく湯を見つけたのだ。少し休もう。小川脇の岩に腰かけて、ゆっくりとむき出しにした足を浸した。ゆるやかな流れが、膝下を撫でていく。疲労をやさしく揉みほぐしてくれるようだ。あたたかな風が吹くと、梅の香りが空気を淡く染めた。
――与羽にこの場所を紹介してあげたいな。
彼女なら、目を輝かせてこの幻想的な窪地を探検するだろう。小川の湯を跳ね上げて、梅林の中にその綺麗な光沢を持つ長い髪を見え隠れさせて――。辰海は無邪気に駆け回る与羽を想像して笑みを浮かべた。
ふと与羽みたいなことがしたくなって、湯の中でそろえていた足を勢いよく跳ね上げてみた。飛沫が宙を舞い、陽光を反射してキラキラと光る。あげた足を水面に叩きつけると、一層大きな雫が跳ねた。
辰海は両足を交互に動かして、バシャバシャと水面をかき乱した。舞い散る雫と、足を交互に覆う空気と湯の感触、小川に残る泡とそれがはじけて消えていく様子。
「ふふっ」
全てが楽しくて、辰海は笑い声をもらした。強い孤独は見えないふりをした。まだ二日目だ。まだ耐えられる。
足をゆっくり動かしながら、辰海はここに来た時のことを思い返した。
天駆の屋敷を出たとき、すでに月は傾きはじめていた。そしてここに着いた時、月は沈む直前だった。それならば多分、山中を移動したのは二刻(四時間)と少し。いくらか走ったとはいえ、茂みを避けて蛇行し、分厚い落ち葉に足を取られながら進んだので、平地ほど速く移動できていないはず。移動距離はきっと五里か六里かその程度。川を一日一里(四キロメートル)掘り返せれば、五日ほどで帰れる計算だ。
「大丈夫」
辰海は自分に言い聞かせた。この孤独にはちゃんと終わりがある。与羽にはきっと会える。
また会った時のために、恥ずかしくないようにしておかなくては。辰海はそう自分を鼓舞して、短刀を取り出した。
それを顔に押し当て、ひげを剃っておく。意識して、いつもより慎重に丁寧に。濡らした手巾で体や髪も拭いた。
「よし」
身だしなみを整えなおして、辰海は水面に映る自分の顔に笑いかけた。疲れた顔をしていては、いざ与羽と再開したときに心配をかけてしまう。
辰海は立ち上がった。湿った髪が乾くまで暖かな窪地で食料を探そう。心の中で強く自分に言い聞かせて、進む。山菜の芽を摘み、まだ行ったことのない方向へ。
今日の一番の収穫は芋だった。大昔の人が育てていたものが野生化したようで、大小さまざまな里芋がいくつも出てきた。大きいものでは辰海のこぶし以上もある。傘のように広がった葉も用途がありそうだ。
体の汚れがきれいになった上に食料も豊富にある。希望が膨らんでいく。
――安心して、与羽。絶対に戻るから。
辰海は胸の中でそう誓った。




