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三章六節 - 月白龍神

 

 * * *


 月が沈みはじめたころ、白と黒で描かれた与羽(よう)の影はゆっくりと足を止めた。周りの風景からして、ここは龍山(りゅうざん)の中腹らしい。木々の根元には大岩が露出し、あたりには身の丈よりも大きな岩がいくつも重なっている。その岩の隙間に与羽の姿を借りたものが、無言で滑り込んだ。


「あ、ちょっと!」


 辰海(たつみ)は慌てて追いかけた。身をかがめて何とか通り抜けた先は広い。岩の隙間から差し込む月光の帯に薄く照らし出されたそこは、上下左右を大岩で囲まれた石室だった。荒く平面に整えられた壁は、明らかに人の手が入っている。辰海はざらりとした壁に手を添えて奥へ進んだ。


「与羽?」


 月光が届かない闇を見据えながら問いかけるが、答えはない。消えてしまったのだろうか……。


「与羽!」


 石室に辰海の声が響く。やはり、返事はない。突然の孤独感に襲われた。


 奥に進めば彼女が待っているかもしれない。そんな希望を胸に、辰海は闇の中を手探りで進む。壁を撫で、すり足で――。五十歩ほど進んだあたりで、岩の継ぎ目の凹凸しかなかった床が、緩やかに下りはじめた。さらに足を前に進めると、なにかとがったものが足先に触れる。


「……っ!」


 辰海は慌てて数歩下がった。痛みはないので、けがをしたわけではなさそうだ。足先に触れてみても、傷はない。


 何かが床にあって、これ以上先へは進めない。あとは、壁から手を放して石室の反対側を目指すか、戻るか。石室は奥に行くほど広くなっているようで、その場でどれだけ腕を伸ばしてももう片方の壁に触れることはできなかった。


 今触れている壁から手を放せば、方向を見失う危険がある。一回戻ろう。もう少しすれば朝日が昇るはずだ。

 冷静に判断して、辰海は振り返った。


「…………!」


 そこに、彼は立っていた。


 長い白髪。頭に生える金色の鹿角を見た瞬間、脳裏に一つの神話が浮かんだ。まっすぐ辰海を見据える目は赤い。あたりは自分の鼻先さえ見えない暗闇であるにもかかわらず、彼の持つ色彩だけはくっきりと見えた。


 辰海は彼が何者か悟った。


 四月(しげつ)龍。

 月白(げっぱく)龍神。

 月主(つきぬし)


 呼び名は様々あるが、どれも同じ龍神をさす。龍神伝説では悪神と語られる神。しかし、のちに改心し、悔恨(かいこん)の涙を流し続けているという。


「あ……」


「黙れ」


 辰海が発しようとした言葉を、彼は冷い声でさえぎった。伝説と違いその目は乾いている。感情のこもらない赤い目で見られると、(おそ)れが背筋を駆けのぼった。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう状態を言うのだろう。


「俺に話しかけるな。俺に触れるな。戻れなくなるぞ」


 身を固くした辰海にそう忠告して、龍神はゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 金色の角と赤い目以外は肌も髪も衣服もすべてが白い。辰海は後ろに尻餅をつくようにして、彼に場所を譲った。白い足袋(たび)に包まれた足が、先ほど辰海が踏み込めなかった場所まで進む。かちゃりと硬い石のこすれ合う音が石室に響いた。


 龍神月主が爪まで白い手をそっと前にかざす。そこには壁があるようだった。促されたわけではなかったが、辰海も彼と同じようにとがった石の敷き詰められた場所へ這うと、そこに触れた。今まで触れてきた石室の壁とは違う、天然の岩肌だ。わずかに湿り気を帯びている。


「枯れつつある」


 呟いた月主の目から、一粒だけ涙が零れ落ちた。


「ここから、枯れ川が伸びている。帰りたければ、それをたどると良い」


 月主の白い手が岩から離れた。辰海がそれを目で追ったときには、もう何もない。先ほどまでと同じ闇が広がるだけだ。夢か幻か。不思議なことが多すぎて、思考が追いつかない。


 辰海はもう一度、石室の最奥にあると思われる岩肌に触れた。どこかから水がしみ出しているようだが、量は多くない。岩の下を指でたどると、小さな水たまりがあった。冷たいそこに手を浸すと、敷き詰められた石に触れる。鋭角でつるつるした面がいくつもある結晶のようだった。水晶だろうか。誰かが意図的に集めて敷き詰めたようだ。


 次に、水を片手ですくって、顔に運んだ。匂いはない。わずかに口をつけてみたが、澄んでいて飲めそうに感じた。辰海はさらにあたりに触れて探ったが、水のにじみ出る岩肌とそれを溜める小さな水晶池以外何もなさそうだった。


 ――ここは何なのだろう?


 ゆっくりと石室の入り口に戻りながら、辰海は考えた。天駆の神域内にある人の手が入った空間。おそらく、とても古いものだ。百年、二百年、いやきっともっと――。もしかすると、天駆という国ができる以前に作られたものかもしれない。神話時代やそれに近い昔は、多くの人が龍神の住む山の中で暮らしていたそうだ。その時に残された遺物なのかも。今の技術でも運ぶのが難しい大岩をいくつも組み合わせてつくられた石室は、当時の人々にとってとても大切な場所だったはずだ。入り口が岩でほとんど覆い隠されていたのもなにか、――奥にある水脈を守ろうとする意志を感じる。


 石室の入り口まで戻ると、差し込む月光の帯はすでに消えていた。空はまだ暗いがじきに夜が明けるだろう。


 辰海はその場に崩れるように座り込んだ。今夜は一睡もしていない。あたりを調べるにしても、帰るにしても、明るくなってからだ。それまでは少し休んだ方がいい。走り続けた足が疲労を訴えていることに、今更ながら気づいた。石室の壁に背を預けて膝を抱く。岩に囲まれた空間だからか、真冬であるにもかかわらず不思議と寒さは感じない。辰海は膝の間に頭をうずめた。


 ――少し休もう。


 そう決めて、ゆっくりと目を閉じた。

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