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三章二節 - 月の幻

与羽(よう)!」


 今度は声が出た。前を走る少女は、「あの時」の与羽に見えた。もしそうなら、同じ間違いは犯さない。辰海(たつみ)は足を速めた。それに合わせて前を走る与羽の影も早くなるが、少しだけ距離が詰まった気がする。


 影は次第に山道を外れて、山の中へ。神域として守られているこの一帯は、ほとんど人の手が入っていないようだ。中州ではなかなか見られない巨木が立ち並んでいる。辰海は梢の間から射し込む白い月光を頼りにあたりを確認した。


 こんな状況であるにもかかわらず、ふと懐かしさが胸に込み上げてくる。

 幼いころ、与羽と城下町近くの山を何度も駆け回った。起伏の激しい地面を転ばないように走るだけで、とても楽しかった。今は大人になって――と言うともっと年上の大人たちに笑われるかもしれないが、あの時よりは大人になって、すっかり「走って遊ぶ」ことをしなくなった。与羽の影を追いかけていると、自分も十一、二歳そこらの子どもに戻った気分になる。成長するほどに増えていくしがらみから、解き放たれた気分だ。


 どれくらい走っただろうか。体力に自信はあるが、(やぶ)の多い山中を走るのは久しぶりで、足が上がらなくなってきた。次第に足を緩め、一度立ち止まった。前を走る影も、辰海に合わせてゆっくりになり、そして木の陰に溶け込むように止まる。彼女がどれだけ待ってくれるかわからないが、辰海は木の幹にもたれかかって息を整えることにした。今は寒さを感じないほど体がほてっている。いや、これが夢だとするのならば、寒さを感じないもの当たり前かもしれない。


「大丈夫?」


 驚いたことに与羽の影が話しかけてきた。良く響く聞きなれた声。月の光の中に進み出てきたのは、今よりも幼さの残る与羽だった。弱い光につやを失った黒い髪と黒い着物、そこからのぞく白い肌。白と黒の陰影で作られたその姿は、目の前にいるのにそこにいないような、不思議な儚さを秘めていた。


「与羽」


 辰海はその姿に手を伸ばした。逃げられるかと思ったが、彼女は心配そうな顔で辰海を見るだけで動かない。彼女の白い小さな手に触れようとして――。


「あ……」


 すっとすり抜けた。その瞬間、辰海の口元に笑みが浮かんだ。


「なんで笑っとん?」


 実体を持たない与羽が不思議そうに首をかしげる。


「君が幻で良かったと思って」


 きっと本物の与羽は、今も天駆(あまがけ)の屋敷で眠っているのだろう。安心と疲労に、辰海はその場に座り込んだ。


「私が偽物なんは背かっこ見たらわかるじゃろ? むしろ、なんでこんなところまでついてきたんか不思議」


 与羽の幻も辰海の前にしゃがみ込む。


「君が、好きだから」


 偽物の与羽になら、気持ちを伝えてしまってもいいだろう。与羽は驚いたように目を丸くした。


「あれ? 知らなかった?」


「そんな突然言われると思わんかった……」


 恥ずかしいのか、与羽はうつむいて不機嫌そうな声を出した。彼女の姿は幻だが、そのしぐさや性格は本物そっくりだ。辰海は与羽の顔に手を伸ばした。そっと額に触れようとしたが、やはりすり抜ける。


「触れんよ。私は幻じゃもん」


「……君の額を見せてほしい」


「?」


 突然の要求に首をかしげながらも、与羽は自分の前髪をかきあげてくれた。白い額は賢そうに広くつるんとしている。


「ありがとう」


 辰海はいつも与羽に見せているやさしい笑みを浮かべてお礼を言った。


「それで、君は何者? どうして僕の前に現れたの?」


 息が落ち着き、少し冷静になってきたので、そう尋ねてみる。


「何者かは難しい質問だから、先に後ろの方に答えるわ」


 左ほほを撫でる考え事のしぐさも、与羽と一緒だ。


「あんたの笛の音を聞いて、助けて欲しいと思ったんじゃ。それで、この神域に連れてきた。本当はもうちょっと奥まで来て欲しいんじゃけど……。この姿は、あんたを呼ぶのに一番効果的そうだったから借りとる。何者かって問いじゃけど、そうじゃな……。たぶん、あんたが一番会いたいものの姿、なんかな」


「今じゃなくて、昔の君に会いたがってるんだね、僕は」


「これは、あんたの心から生まれた私だから言えることじゃけど、あんた今の与羽に引け目があるじゃろ」


 彼女は、辰海の心が思い描く与羽なのか。どうりで辰海の記憶にある与羽と全く同じ仕草を見せるはずだ。


「そうだね。そうかも」


 与羽の姿をした自分と話していると考えると、とても気が楽だ。


「それで、僕はどこまで君についていけばいいの?」


「来てくれるん?」


「帰してくれるの?」


 それはそれでありがたいが。


「いや、来てくれたらうれしい」


「じゃあ行くよ。与羽の姿をした君の頼みは断れない」


 これは夢なのだろうか? それとも現実? もし現実なら、与羽に心配をかけるだろうか。それは本当に申し訳ない。


「できる限り、生かして帰すから」


 そんな不穏なことを言って、与羽の幻は歩き始めた。


「僕は何をすればいいの?」


 与羽の斜め後ろを歩きながら尋ねる。


「それは私にもわからん」


「これは夢? 現実?」


「さあな。あんたが夢だと思えば夢になるし、現実だと思えば現実になる」


 よくわからない答えだ。


「本当の与羽や中州の人たちに心配かけちゃう……」


「それは、仕方のないことじゃ。けど、みんななら冷静な判断をして行動できると思う」


「どこに向かってるの?」


「……あんためっちゃおしゃべりじゃな」


 与羽が足を止めずに振り返った。眉間に小さくしわを寄せ、不機嫌そうな顔をしている。


「前を見て歩かないと危ないよ」


 いつも与羽にするように注意すると、与羽の姿をした幻は呆れたように小さく息をついた。


「幻に心配は無用だって。ぶつかってもすり抜ける」


 しかし、彼女は素直に前に向き直って少し足を速めた。文句を言いつつも、ちゃんと正しい注意には従ってくれるところも、本当の与羽そっくりだ。どこへ行くのかはわからないが、最後まで彼女についていこう。


「時間がないから、ちょっと急ぐ」


 そう言って駆けだした与羽を、辰海は淡い笑みを浮かべて追いかけた。

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