二章二節 - 巣籠り戸を開く
いつもの日常ではあったが、この日は昼前に来客があった。
「お~い、比呼。様子を見に来たぜ」
玄関先で声を張り上げたのは、冬の間に何度も顔を合わせた雷乱――与羽の護衛官だ。
「雷乱、いらっしゃ~い」
玄関に面した居室から凪が叫ぶのを聞いて、比呼も急いでそちらに向かった。
中州城下町でもまれにみる長身かつ大柄な雷乱は、少し身をかがめるようにして居間に入ってきた。分厚い着物を着てはいるが、上着は身につけていない。寒くないのだろうか。
「今日は日が出てきたぜ」
いぶかしげな比呼の表情を見てか、雷乱が戸口の方を親指で指しながら言った。
「眩しくて目が潰れそうだ。通りも荒れ始めてるしよ」
雷乱は城の使用人棟にある一室で寝泊まりしている。城から大通りの中ほどにある薬師家に来る過程で、いくつかの苦労があったらしい。
「冬ももう終わりですねぇ」
香子が、雷乱のためにお茶の準備をしながら言った。その口調はしみじみと噛み締めるようにゆっくりだ。
「新たに巡ってくる春のあなうれしや。冬が厳しいと、春の暖かさはいっそうすばらしく感じます」
「わかるー」
凪も相槌を打つ。みんなの会話を聞きながら、比呼は今朝見た風景や朝食の味を思い出した。
「春ってことは、与羽たちもそろそろ帰ってくるのかな……」
春の訪れで比呼が一番に思うのは、自分を救ってくれたやさしい少女のことだ。
「かもな」
雷乱がうなずく。
「そっか……」
それはとても喜ばしいことだが、心を重くするものもある。できることならば、彼女が戻ってくるまでにもっとこの町に馴染みたかった。与羽を安心させたかった。
「何暗い顔してるの?」
凪は不思議そうに比呼の顔を見ている。彼女はこの冬の間で、かなり比呼の表情を読めるようになった。
「春までに、もうちょっと城下町に馴染みたかったなって」
比呼は正直に答えた。
「そんなこと気にしなくて良いのに……」
励ますような、ありのままを受け入れるような凪の言葉は、この冬の間何度も聞いた気がする。彼女の言う通り、不安になって焦る必要はないのかもしれない。でも、しかし、やっぱり――。
「それなら、比呼さん。お出かけしてきてはいかがです?」
「お出かけ?」
唐突な提案に、比呼は香子を見た。老婆は意味ありげに笑っている。
「それは名案かも!」
首をかしげる比呼の目の前で、凪は手を一つ叩いて祖母の提案に賛同した。
「ほら、比呼ってずっとあたしたちの手伝いで家にいたでしょ? もっと外を歩いたら、何か変わるかもしれないじゃん」
そんなに単純なものなのだろうか。比呼の気分転換にはなるかもしれないが。
「比呼さんは美青年ですから、町の奥様の目の保養になるかもしれませんよ? おほほ」
香子は冗談を言いながら笑っている。
「今日は患者さん少なくて余裕あるし、たまにはお休みしといでよ。――ね? 雷乱、比呼と一緒に行ってもらってもいい?」
「かまわねぇぜ」
雷乱は凪の依頼を快く引き受けた。
「でも、凪たちも全然休んでないし……」
比呼は年末に居候を始めてから働きづめだったが、それは凪や香子も同様だ。
「お気になさらず。生きがいですから」
香子はすでに比呼用の上着を取りに立ち上がっている。
「そうそう。あたしもそのうち休ませてもらうから」
「でも……」
「休むのもお仕事!」
凪が声を張り上げた。
「城下町に早く馴染みたいんでしょ? それなら外に出た方がいいに決まってるよ。それとも、町を歩くのが怖い?」
「怖くは、ないよ」
比呼を快く思っていない人はまだ残っているが、彼らに恐怖を感じたことはない。
「じゃあ、行っといで」
穏やかにほほえむ凪は、見た目とは裏腹に強引だ。
「……わかった」
比呼は彼女に押し切られるように、その善意を受け入れた。
「それでよし」
凪は満足そうにうなずいている。
「お休みと言っといて悪いけど、日没までには帰ってきてね。夕食準備しておくから」
「うん」
彼女の笑顔につられるように、比呼も笑みを浮かべた。
「雷乱もうちで夕食食べるでしょ? 比呼を連れ出してくれるお礼」
次に凪は、比呼の外出準備を待つ雷乱に視線を向ける。彼はすでに履物を履いて土間に立っていた。会話にはほとんど参加していないが、比呼を連れ出す気マンマンだ。
「そりゃ助かるぜ」
雷乱は嬉しそうに口の端を上げた。彼の金欠はまだ改善されていないらしい。
比呼は分厚い上着を羽織って、下駄を履いた。冬の間愛用していた藁の長靴に足を入れようとして、今日は絶対に下駄の方が良いと雷乱に言われたのだ。雷乱も歯の高い下駄を履いている。
「いってらっしゃい」
立ち上がった比呼の背に凪の高い声がかけられた。いつもそうだ。あいさつは凪の方からしてくれる。
「いってきます」
振り返ってぎこちなく笑むと、凪は小さく手を振ってくれた。
「じゃ、ちょっと行ってくるぜ」
雷乱のように自然にあいさつできるのは、いつになるだろうか。帰宅のあいさつは自分からしようと心に決めて、比呼は雷乱とともに外に出た。




