二章一節 - ふきの花咲く
「うーん。今日の雪下ろしは大通り側だけ!」
凪は屋根を見上げてそう指示を出した。月は変わり、弥生(三月)。暦の上ではすっかり春だが、中州城下町には、まだまだ冬の名残が居座っている。
「反対側は良いの?」
屋根へと梯子を上りながら、比呼は下にいる凪を振り返った。
「そのうち勝手に解けて落ちるから大丈夫。大通り側だけは、通行人に当たると危ないから先に落としておくの」
「なるほど」
屋根の雪はかなり薄くなっていた。屋根全体を覆っていたものが自重で屋根の半分辺りまでずり落ち、黒い瓦を見せている。どの家もそうだ。白一色だった世界は黒い屋根や雪と土の混ざった薄茶色に塗りかえられつつある。
「手伝いいるー?」
梯子の下で凪が叫ぶのが聞こえた。今朝の雪下ろしは比呼に任せてもらえるらしい。この冬の努力が認められた、と思っていいのだろうか。
「僕一人で大丈夫。凪は先に温まってて」
比呼は屋根の縁に立って叫び返した。
「落ちないでよ」
「うん」
凪の心配顔にほほえみかける。
「じゃあ、お願いするね」
「任せて」
凪の明るい声に背を押されて、比呼はさっそく仕事に取り掛かった。問題なくこなせるだろう。真冬よりも雪が減り、コツもつかんでいるのだから。雪を四角く切り取って、下に人がいないことを確認して滑り落とす。それだけだ。
雪に鋤を立てると、パキリと薄い氷の割れる手ごたえがあった。昼間に解けた表面が夜の間に再び凍っているらしい。通りに落ちる雪の音も、氷が割れる高い音が目立つ。
「ふぅ」
短時間で屋根の雪を落とし終わって、比呼は息をついた。体がほてって暑い。口元まで覆っていた毛織物を少し緩めると、肌を刺す冷気が心地よかった。しばらく前までは、どれだけ息苦しくても防寒優先でしっかり巻き付けていた首巻きが、今は邪魔にすら感じられる。きっと、あの時よりも気温が上がっているのだろう。
白い空には薄青が滲み、大通りに列をなしていた雪像は、無残に崩れて小山になって――。冬が終わろうとしていた。
――暖かくなるのは喜ばしいことだけど……。
雪下ろしの仕上げとして軒先のつららを落としながら、比呼はわずかに寂しさを感じた。季節の変化に反して、比呼は何も変われていないのではないかと――。冬に取り残された気分だ。
除雪が終わった屋根を見上げて物思いにふける比呼に、通行人の視線が刺さる。冬の空気のように冷たいそれに、比呼は唇を引き結んだ。
――中に戻ろう。凪たちが待ってる。
そう、自分に言い聞かせた。道具を抱えて、重い脚を小さく動かして玄関へ。
「おかえり」
「……ただいま」
比呼を迎え入れてくれる凪の笑顔に、まだ慣れないあいさつを返した。
「ごはん、できてるよ」
「ありがとう」
今朝の朝食は、おかゆと昨日近所の人からもらったと言うふきのとう味噌だった。調味された味噌に、刻んだふきのとうが混ぜ込まれている。
「ちょっと苦いけど春の味」
凪が幸せそうにほうっと熱い息を吐いた。甘辛い調味料と春の訪れを告げる山菜の苦みが組み合わさって、食欲をそそられる。
「もう少し緑が増え始めたら、ヨモギを摘みに行かないといけませんねぇ」
ヨモギは止血薬等に使われる薬草で、草餅や草団子の材料にもなる。
「……では、今日の支度をはじめましょうか」
話しながらもすばやく朝食を流し込み、全員の茶碗が空になったところで香子が号令をかけた。
「はい」
朝食後は一息つく間もなく、診察の準備だ。
会話には春が増えたが、暮らしぶりは冬と変わらない。朝食を食べ、食器を片付けたら、出勤してきた奉公人たちとともに患者に備える。薬づくりや診察室の掃除、治療の補助など、香子がテキパキと役割を割り振っていく。比呼の仕事は急患に備えてお湯を沸かしたり、薬や備品の整理と補充をしたりと、人目につかないものばかりだ。




