序章
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墨を塗りたくったような空から、無色の液体が落ちてくる。どんなに暗いところから生まれても染まることのない、無垢な雨。
彼は漆黒の空を仰ぎ、絶え間なく落ちる透明な雫を顔に受けた。
――僕はその逆。
近づくものを、全て黒く染めてしまう。もしかすると、自分は闇そのものなのかもしれない。重く息苦しい世界に溶けてしまいそうだ。
――それは嫌だな。
漠然と、そう思った。
この世界は自分に良く似合っていると思う。しかし、似合うだけ。好きにはなれない。
「…………」
思考が少し濁っているようだ。余計な感傷を消すために軽く首を振ると、腰よりもさらに下まで伸ばした闇色の髪が一拍遅れて揺れた。
雨粒が顔に垂れ落ちるが、彼の表情は変わらない。視界を奪いそうになる雫を拭うことすらせず、彼は眼下の町を見下ろした。闇の中に浮かぶ、無数のかすかな明かり。なかなかに栄えて見える。穏やかなだいだい色に、不思議な安心感を覚えた。
「あそこでいいんですよね?」
雨と煙にかすむ町明かりを見据えて尋ねた。
すぐに後ろから「そうだ」と返事が返ってくる。
「中州城下町。小国中州の国府だ」
その口調には、かすかな嘲りといらだちがあった。
「人口およそ二万九千人。全方位を川に囲まれた稀有な土地。我が国と幾たびも戦をしているが、どれも中州が防衛に成功している。絶対的な土地の利があるからな。どうも戦では分が悪いらしい」
彼がどういう立場の人間かは知らないが、どうも中州国には苦い思いをさせられているようだ。
「……王からの指示は聞いているな? 暗鬼。標的は、この国の前城主――舞行と、城主乱舞。そしてその妹の与羽。ようするに、城主一族全員だな」
闇をまとった青年――暗鬼は、全く感情のこもらない無表情でそれを聞いていた。彼は南の大国華金国の王に使える「影」だ。王に反抗する貴族や敵国の情報を集め、時には障害となりうる者を排除するのが彼の仕事。
「殺していいんですね?」
「もちろんだ。やってくれるか?」
そう尋ねられたが、暗鬼に選択肢はない。
「やりましょう。でも、それなりの報酬はいただきますよ」
「安心しろ。ちゃんと用意しておく」
その答えに暗鬼は暗い笑みを浮かべた。褒美を得られる喜びは皆無。自然に浮かべたものではなく、無理やり口の端を吊り上げて、目を細めたと表現した方が適しているかもしれない。
「一月で終わらせます」
囁くようにそう言い残して、暗鬼は闇にまぎれていった。