第一話
帝国暦 169年 5月 バウムガルデン皇帝 アルマンド4世 死去
豪奢に作られた部屋、あらゆるところに金細工がなされ、さらには高名な画家の描いた絵画や、名のある職人に掘られた彫刻などがあらゆるところに飾られている部屋で、第7代皇帝、アルマンドは静かに息を引き取った。
多くの文官、そして武官たちが周りを固めており、その中には皇妃、そして生まれて間もない皇子もいた。
享年28歳の若さである。
元々一地方程度の国力しか持たなかった国だが、このアルマンド4世が就任して以来、破竹の勢いともいえる速度で小国や各豪族を下し、その版図を大きく広げていったこの国は大陸の中でも有数の力を持つ国へと成長し、今一歩で大陸の覇権を手に出来るところだったのだが、皇帝の突然の死により、拡大してきた勢力は衰え、また、降してきた各部族などが反乱を起こし独立を果たした結果、最盛期の3分の1ほどまでにその勢力は一気に衰えた。
生まれて間もない皇帝はわずか3歳でその座に着き、帝国史上最も若い皇帝となった。
当然、そんな皇帝に政治を司ることなど出来るはずもなく、変わりに皇妃の実家、すなわちフルヘンシオ公爵家が後見人となり、その権勢を振るった。
彼らがまず最初にやったことは、反乱を起こした部族の制圧。
それと同時に離れている国へ友好的な使者を送り、部族の制圧にちょっかいをかけられないように手を打ったのだ。
帝国暦 170年 8月
帝国より南西にある、山に囲まれた平原に住むメルキト族。
彼らは、遊牧民族の一つであり、季節ごとに様々なところに部族ごとに移動する、定住を持たない民族だ。
狩りを生業としており、馬をこよなく愛し、弓と槍に長け、山や平原を自由に駆け巡る部族で、比較的平和に暮らしていた。
何度か帝国の使者がやってきて、恭順の意を示すように求めてきたが、自由を愛する彼らにとってそれは許容できるものではなく、やんわりと族長がその申し出を断っていたのだ。
「友達になろう」という言い方であれば、彼らは喜んで握手をしたのだろうが、やってきた使者の物言いは「部下になれ、そして部族の娘を恭順の証として帝国に差し出せ」という横柄な物言いであり、族の若い者達はその言葉に怒りを発し、使者を切ろうとまでしたのだが、長老が若者達をなだめ、柔らかく断りを入れたのだ。
メルキト族は女を大切にする風習があり、まるで生贄のごとくそれを差し出せという帝国に対しいい印象は持っていないのだ。
そこへ皇帝の訃報が風の噂で届いたのだが、彼らにとっては何の関係もない話であった。
……はずであるのだが……
「ジェベ、何処へ行く?」
初老ともいえるような容貌を持つ男が、ジェベと言う10くらいの若者に声をかける。
メルキト族の特長とも言える、黒髪に黒い瞳、そして黄色の肌を持つ10にも満たない少年は快活な笑みを見せ、鞍も手綱もない馬にまたがり、馬の首に両の手をバランスを取るように軽く添えている。
「族長、少し山を駆け巡ってくるだけだ。そう時間はかからん」
「家の事を手伝いもせず遊びに出るのか?」
族長の目がわずかに釣り上がる。
「すでにヤギの乳は搾った。それに俺はもう10になる。狩りを覚えるにはいい頃合のはずだぞ?」
「お前はまだ狩りの仕方を覚えてはおらぬだろ?」
「ははは、昨日の鹿は俺が射止めたのだぞ? 父に無理を言って連れてってもらったのだ」
思わず額に手をやる族長。
彼らにとって生きるうえでの糧となる狩りは、神聖な儀式に近いものがあり、初めて狩りを行うに当たってはそれなりの手順というものが必要となってくるのだが、いわば様式美とされているものであり、そこまで重要視されるものではない。
「それに、族長も昔はやんちゃしていたと俺は聞いているぞ?」
馬上でニヤリと笑みを見せるジュベ。
族長はわずかに咳払いをして何かをごまかすような仕草だ。
「う、うむ……まあ、そう遠くへは行くなよ。この辺には狼も良く出る。山に捧げものをしてはいるが彼らとて飢えがあれば我らを襲うときもある」
部族ににとって狼は神聖な生き物で神の使い灯されている生き物なのだが、牙をむいてくればやむをえず撃退しなければならない。
ゆえに極力そのようなことがないようにと軽く注意を促す。
そこへジュベと同い年くらいの女の子が走ってやってきた。
「ジュベ! 何処へ行くの? 今日は野草を一緒に撮りに行く約束よ!」
黒髪を歳相応にのばし、部族特有の白い布で作られた服を身に纏っている少女は腰に手を当てながら怒りをあらわにしている。
「ツェツェグ! すまん! クドゥスがどうしても遠くへ行きたいといっているのだ。俺にはこいつの羽を伸ばしてやる義務があるからその約束は明日に回してくれ!」
クドゥスとはジュベが乗っている馬のことだ。
ジュベはクドゥスの首元を軽く叩くとあっという間に走り去ってしまった。
「ジュベのバカーーーー!」
少女の叫びが平原にこだまする。
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「ふう、あやうくツェツェグに捕まるところだった。野草もいいが最近あいつ妙になれなれしくて仲間達から、かわれるからな」
少年ならではの気恥ずかしい思いもあるのだろうが、ジュベとてあの少女のことは気に入っているのだ。
気の強い部分はあるが、部族にとって気の強い女というのはかなり好まれる部類に入る。
臆病でおどおどした女性などあまり好まれず、ジュベも多分にもれずその一人だ。
しかし、ツェツェグと一緒にいるところを見られると同年代の男達が最近はよってたかって冷やかしに来るので、ジュベとしては気恥ずかしいやら、どう対応していいやらで困っているのも事実であり、最近は少し距離を置くようにしているのだが、ツェツェグは離れるどころかますます追いかけてくる有様なのだ。
「約束……悪い事したなあ……」
馬の背に揺られながら、ポツリと漏れる言葉は罪悪感の現れでもある。
そこへ、ジュベはピクリと反応する。遠くに鹿の群れが目に入ったのだ。
「今日はついてるぞ、クドゥス。昨日に続いて鹿の群れにまた出会えるとは、山と平原の恵みに感謝しなければな」
背中にしょっていた弓を片手に持ち、馬と共にゆっくりと風下から近づいていくジュベ。
群れはまだ気付かず、草を夢中で食べている。
鞍もなく手綱もない状態にも拘らず、見事なバランス感覚でゆっくりと弓を構えるジュベ。
馬と共に育ってきた彼らにとってはこの程度は当たり前に出来る行為だ。むしろ自分達の足で歩くより馬の背に揺られて育ってきたほうの時間のほうがが長いといっても過言ではないだろう。
彼らにとって馬は足であり手であり体の一部なのだ。
その気になれば馬の背に揺られながら睡眠を取ることすら可能な彼らにとって、馬から落馬するという行為は、とても考えられる出来事ではなく、むしろ落馬という概念すら持たぬ部族だ。
そして一匹に狙いを定め、弓を放とうとした瞬間、風向きが変わり、鹿の群れにジュベの存在を気付かれたのだ。
あツ! という間に群れがちりぢりになって逃げていき、ジュベは舌打ちしながら狙いを定めた鹿に向かって両の手で弓を構えながら馬を走らせる。
全力で走る馬の背に激しく揺られるが、決して落馬しないその姿はまさに人馬一体というのをあらわしているが、先程述べたように彼らにとってはごく当たり前の行為だ。
そして動き回り逃げ惑う鹿においつき、併走しながら弓をしっかりと引き絞り、矢を放つジュベ。
見事首筋に命中して、甲高い悲鳴をあげ、鹿はその場で崩れ落ちる。
「やった!」
ジュベは素早く馬の背からおりて、腰に差していた短剣を鹿に突き入れ素早く止めを刺し苦しみから解放させる。
これも彼らの風習の一つだ。
生け捕りにして家畜としてかうのが目的であればまだしも、こういった場合おいては素早く止めを刺すことが自然への礼儀であり、恵みへの感謝の証でもあるのだ。
喜びをあらわにして、止めを刺した後、そこで彼の手はいったん止まる。
「しまった! 短剣しかもってきてないぞ……」
解体作業には向かない短剣なのだ。
しかしここで放置するわけにはいかない。なぜなら命を奪うという行為をしたからであり、ここで放置した場合、ジュベは下手をすれば命を弄んだとして部族から追放される恐れすら出てくるのだ。
奪った命は無駄にしてはならない。それが彼らのおきての一つだ。
「仕方ない。時間はかかるが、これでやるしかないか……狼が寄ってこなければいいが」
そうして彼は鹿の体に短剣を突き入れ、手際よく解体していく。
集落で解体作業を何度かやっているので手順はわかってはいるが、やはり短剣だと、効率が悪く気がつくとすでに日が暮れていた。
「思ったより時間がかかったな。クドゥス!」
馬の名前を呼ぶと、その辺を走り回っていたクドゥスがあっという間にとことこと駆け寄ってきて、ジュベにその鼻面を押し付ける。
「よしよし、お前は部族の中でも賢い馬だよ」
そうしてクドゥスの首や頭を軽く撫で、解体した肉と皮と骨を、10歳という未発達な体にも拘らず縄でジュベの背中に何とかくくりつけ、わずかな隙間にうまく乗り込み軽く走らせる。
「昨日は父と一緒だったからな。これでボルドに自慢できるぞ。あいつ悔しがるだろうな」
同年代の子にわずかに差をつけたことが誇らしいのか、馬上で思わず笑みを漏らすジュベ。
クドゥスがその通りだといわんばかりにわずかにいななき、ジュベはますます上機嫌になる。
「お前もそう思うか? よしよし、帰ったら餌を沢山やるからな。これはお前の手柄でもあるのだ」
ぽんぽんと首を軽くはたきながらクドゥスに話しかけながら彼は帰り道をわずかに急ぐ。
しかし、ここで集落の様子がおかしいことにジュベは気付いた。
なぜか集落のほうから煙が上がっているのだ。
「なんだ? 誰か火の扱いを間違えたのか?」
思わずそんな事を口にするが、集落に近づくにつれ、ジュベは顔色を変えていく。
「……ソリグ! 何があった!」
草むらに伏すように倒れている若者に呼びかけ、ジュベは馬の背から降りた。
呼びかけた相手は10代後半くらいの若者であり、ジュベと同じように黒髪に黒い瞳を持つ者である。
草には赤黒い液体が広がっており、ジュベにはそれが何なのか一目で分かった。
「ジュベか……に、逃げろ……帝国のやつらが不意打ちを仕掛けて……ごほっ」
ソリグの口から血が吐き出される。
どのような治療をしてもすでに致命傷なのは幼いジュベにでさえ分かるだろう。
「しっかりしろ! ソリグ! 目を閉じるな! ボルテを嫁にするんじゃなかったのか!?」
「あ、あいつら……ボルテを殺しやがった……」
「……女を殺したのか?」
ギリッと歯噛みをしてその目から怒りを溢れさせるジュベ。
「よせ!! あいつらは大軍でいきなり襲ってきたんだ! お、お前だけでも逃げろ……」
「父は? 母は? 族長はどうした!?」
「知らん……いきなり襲われて何がなにやらわからないうちに……あいつらボルテを攫おうとしやがったから、俺もやつらを殺したけど……矢がボルテに当たって……」
ソリグはそのまま事切れた。
「おい! ソリグ! ソリグ! そんな……帝国だと!」
狼に襲われて部族のものから死者が出るということはたまにあるが、それは自然のおきての一部ということで折り合いをつけ彼らは狼を皆殺しにすることはないが、これが人間同士となれば話は別だ。
メルキト族もかつては部族同士の争いに身を投じたこともある。
そして、部族の一人が傷つけばそれは部族にとっての侮辱行為に値するということで、剣や槍を手に復讐に走るのが彼らの流儀だ。
とうぜんジュベもその流儀の中で生きてきた。
まだ10歳ではあり、部族同士の戦争に身を投じたことはなく比較的平和に育ってきた少年といえど、その教えはしっかりと受け継いでいるのだ。
そして目の前で部族の仲間であるソリグが血に伏して倒れ、またその若者から部族の女を殺されたことを聞いたのだ。
心を怒りに染めるには充分な出来事でもある。
「クドゥス!!」
馬の名前を呼び素早く背中に乗り込み、集落へと向かうジュベ。
集落に入ると血臭がジュベの鼻腔を襲い顔をしかめさせた。
そして見渡す限りの死体が彼の視界に入る。
部族の死体だけではなく、帝国の鎧を着けた死体もかなり目立ち、一方的にやられたことではないことを証明しているが、喜べるはずがない。
「父上! 母上!」
必死に両親の名を叫ぶが、その叫びに答えるものはなく、その代わり彼の目には別のものが飛び込んできた。
「ツェツェグ……」
幼い少女が衣服をはだけさせ、あお向けに寝転がっている姿を見て、思わず馬の背から転げ落ちるジュベ。
ある程度年を経ていれば、何をされたのかは一目瞭然だが、幼い彼にとってはそれは理解できず、ただ死んでいるということしか分からなかったが、それだけでも馬から転げ落ちるには充分すぎるほどの理由だ。
よろよろと少女の下へ駆け寄り、はだけていた衣服をそっと体の上にかけ抱き寄せる。
「ははは……嘘だろ……ツェツェグ……だって明日野草をとりに行く約束してたじゃないか……なんでだよ……約束破ったの謝るからさ……そうだ! 今から一緒に行こう。もう日が暮れているけど俺が案内するからさ……なあ、目を開けてくれよ!」
しかし少女は答えず沈黙を守っている。
ジュベの頬から冷たいものが伝わり、その雫がポタリと少女の顔に落ちる。
ジュベは少女の顔をさらに抱き寄せ、その唇に軽く口付けをして、そのまま地面に下ろし再び馬の背に乗って生き残りの者を探そうと視線を巡らせるが、人の気配は全くしない。
帝国は引き上げたようで、帝国の姿も全く見えないのだ。
夜、ジュベは部族の死体を一人一人丁重に土に埋めていく。
幼い少年にとってはかなりの重労働であり、休憩しながらそれでも何とか土を掘り、埋めていく。
その中には彼の両親の姿もあり、ジュベはただ黙々と作業を続けていく。
幾人か見当たらない仲間もいたが、今は特に気にせず土に埋めていく。
彼ら部族の風習は土葬が主流だ。
自然の恵みによって糧を得る彼らは、死んだときは自然に返れるようにとの願いを込め、土に埋められそして天へと登っていくと信じられているのだ。
やがて朝が来て、再び夜が来るが、ジュベは無言のまま時折休憩をはさみ、自分で狩った鹿の肉を焼いて食べながらも部族を葬るのに手を止めることなく、一心不乱に続けていく。
そして、最後の一人、ツェツェグに土をかける時にポツリとつぶやく。
「部族が受けた侮辱は部族の手で……ツェツェグ約束するよ。必ず仇を討つと……今度は本当だ……」
そういうと彼は集落にある武器になりそうなものを持てるだけ持ち、クドゥスにまたがり故郷を後にする。
草原に出たジュベは、集落を襲った帝国軍を見つけるべく月明かりと星の光を頼りに帝国軍の後を追おう。
狩猟民族のジュベにとっては帝国軍の後を追うことなどたやすいことだ。
特に草原に生えている草が不自然に折れ曲がっており、その折れ曲がった具合などから、どれだけの人数が、どっちの方向へ向かったのか簡単に分析することができる。
鹿などの群れを探す時にも良く使う手だ。
そして糞の種類などからもどの動物か判別することすらも可能なのだ。
実際に狩りを行ったのはごく最近ではあるが、昔から父に連れられてそういった教えを実践を交えて受けてきたジュベにとってはたやすいことである。
とはいえ闇に包まれている状態なので時折馬から下りて地面を良く観察する。
「向こうか……」
再びクドゥスの背にまたがり走り出すジュベ。
やがて、大人数が過ごしたと思えるような跡地に辿り着き、ジュベはあたりを物色する。
日はすでに登っており、朝焼けの光がジュベを包み込むが、ジュベは特に思うことなど何もない。
(……ついこの間までは皆元気だったのに……父上、母上……ツェツェグ)
いつもであれば彼らに囲まれ、同年代の少女と憎まれ口を聞きながら楽しんで生活をしていたはずだったのだ。
不意にそのことが頭をよぎり、ジュベは再び頬から涙を流す。
そんなジュベにクドゥスが慰めるように鼻面を押し付けてくる。
「クドゥス……慰めてくれるのか? そうだな、まだお前がいるし悲しんでいる場合じゃないよな……もう部族は俺一人なんだから……」
おそらく襲撃によって全ての仲間が死んだと思い込みジュベは自分を奮い立たせた。
葬った仲間に幾人か見当たらなかった顔があるが、恐らく皆殺されたのだろうと思っているのだ。
「ここで少し休憩していこう」
クドゥスにそう話しかけて、ジュベは帝国軍の陣跡と思われる場所には捨てられたような天幕がありジュベはその中に入り込み、そこで体を横にした。
ほとんど寝ていなかったせいもあるのか、体を横にしたとたんあっという間に眠りに落ちた。
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帝都から見て南にある領地の屋敷のとある一室にて、何人かの男が集まっていた。
部屋の間取りはかなり広く作られており、部屋の真ん中には細長く四角いテーブルが置かれており、そのテーブルを囲むように男達はなにやら話し込んでいる。
「それにしてもフルヘンシオ公爵の専横、とてもではないが許容できんぞ!」
一人の男が怒りをあらわに怒声を放つ。
体躯は大柄で肩幅もかなりあり、顔には一筋の傷が付けられており黒い髪と黒い髭を蓄え目からは柄ら強さを思わせる光が溢れている。
また皆が皆、多少身なりを整えているとはいえ、簡易な衣服に身を包んでいるにも拘らず、彼は鉄の鎧を着込んでおり、武人そのものを表している人物だ。
「落ち着きたまえ、アポリナル侯爵。貴君の怒りはこの場の誰しもが感じておられる。そのように声を発せられては皆驚くであろう」
アポリナル侯爵と呼ばれた男の怒りをなだめた男は、アポリナル侯爵に比べずいぶんと若い感じのする青年だ。
そんな若さながらもアポリナルに対する言葉遣いから彼も相当な地位を持つ人物だとおもわれる。
「しかしな、ラディスラオ候、皇帝陛下の叔父と言う事だけで、あのように自由に振舞うとは……それとも何か? やつは先代陛下から遺言などで政は全てフルヘンシオの一族に任せるとでも言われたのか!?」
「そのような話は聞いておりませぬな。政に関しては皇帝陛下が幼い身であるなら、我ら一同が力をあわせ守り立てていかねばならぬ、特に7候貴族をないがしろにするなどありえぬぞ。我ら自身がどれだけ血を流して帝都の版図を広げてきたのか……それをあのフルヘンシオは全てなかったことにしたのだぞ! 理由は手柄を与える皇帝陛下が崩御され、さらに崩御の時にそばにいなかったという理由だけでだ! あの時我らは版図を広げるための遠征に勅命によって出ていたのに……やつは……」
この場にいる別の男が堅く握り拳を作り、手をぶるぶると震わせアポリナルと同じように怒りをあらわにする。
「ギオマル候……貴君までアポリナル候に引っ張られないで欲しいものだな……下手な軽挙妄動は身を滅ぼすぞ」
静寂が場を包む。
この場にいる皆が皆フルヘンシオの専横に怒りを感じ集まっているのだ。
「レイナルド公、貴君の思いをお聞かせ願いたい。あのままあやつの専横を許すのですか?」
アポリナルがこの場にいる一人の人物に言葉を向け、この場にいる全員がその男に注目した。
声を向けられた人物は50後半というところだろう。
体躯はアポリナルより一回り小さく感じらるが、そこから滲み出る雰囲気はアポリナルよりも一回りも二回りも大きく感じる人物だ。
髭は生やしてはおらず、赤い色の髪を持った男であり、衣服に関しても皆より一段上のものが使われているのが見て取れる。
「ギオマル候よ、貴君はカラカット平原に兵を向けたそうだな」
レイナルドと呼ばれた男が静かに声を発する。
アポリナルのような豪声でもなく、ラディスラオのようななだめる声でもない。
しかし、その静かな声には確かな力が込められていた。
「何か問題でもありましたか? かの地に住む蛮族どもは帝国に恭順の意を示しませんでした。先代陛下が、お心を砕き、何度も使者を送ったにも拘らずです。ゆえに帝国の意を示すためあの地の蛮族を一掃し、あの平原を手に入れることが出来れば、我が帝国の食料も潤うこととなりましょう。あそこは良い畑になります」
「勝手に兵を動かすなど、フルヘンシオに付け入る隙を与えるとは思わんのか?」
「我が私兵をどうしようが、私の勝手だと思いますが? 先代陛下の御心は版図を広げよとのこと。それに、かの平原は我が領に隣接しております。いつ蛮族共が我が領内に襲い掛かってくるか分かりませぬゆえ、いわば治安のために兵を繰り出したに過ぎませぬ」
得意げに胸を張ってそう言い張るギオマル。
彼としては命がけで版図を広げてきたのにその手柄もなく、またせっかく手に入れた領地も先代の崩御によって治めていた者達に反乱を起こされ、ほぼ失ったのだ。
ゆえに腹いせのつもりもあったのだろう。そして彼らが敵対しているフルヘンシオに対してのあてつけとも言える行為なのだ。
そしてそういった事情は、この場にいる全員に言えることだ。
しかし、実際に兵を上げたのは彼一人である。
この場において一番気の短い人物ともいえるだろう。
「その先代陛下はすでに亡くなられておる……なればこそ自重すべきではないのか?」
「これはレイナルド公のお言葉とも思えませぬ。先代陛下が亡くなられ、その効力は失われたと申すのですか? それこそあのフルヘンシオの言いなりになっているようなものではありませんか! あんな男の命令など、このギオマル決して受け入れることなどありませぬ!」
大きく息を吐きレイナルドはわずかに沈黙をする。
再び場は静寂に包まれたが、やがてレイナルドが再び口を開く。
「貴君の思いは良く分かった。この場にいる者達も全て同じ思いであるだろう。しかしまだ時ではない。今下手に兵を動かせば、やつに付け入る隙を与える恐れがある。ゆえに各自、自重してもらいたい。特にギオマル候とアポリナル候、そなたらはしばらく領内にいてもらいたいものだ。ギオマル候、カラカット平原に送った兵はすぐさま帰還するよう指示を出して欲しいのだが了承してもらえるか?」
命令ではなく頼み込むような口調だ。
「分かりました。レイナルド公がそういうのであれば、今は自重いたしましょう。しかし期待してよろしいのですね?」
レイナルドは特に何も答えず、静かに口元を釣り上げた。