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7 玻璃へと続く間道・西 そして

**************************************************


 夜は明けるその直前に、一層濃く色を深める。樹上の紫呉は、深い瑠璃紺の空を眺めていた。

 稜線と交わる空が暁に染まり始めた。赤に塗りつぶされるようにして、瑠璃紺はやがて橙に色を変える。

 姿を現した太陽は、山々を一層黒く彩る。空の赤と橙が白みを増すその一方で、浮かぶ雲が紅く彫られていく。

 そのうちに、太陽が全貌を見せた。紫呉は眩さに目を細めた。風がざわと森を鳴らして吹き抜けていく。

 空の隅、真紅の残輝が、蒼穹に飲まれゆこうとしている。白々と輝く雲の切れ間から、燦燦と光が降り注いでいた。

 ほどなくして雲も紅さを消し、慣れた薄墨の陰影と戯れ始めた。萌える深山に影を落としながら、空をゆるゆると流れていく。

 響く小禽の鳴き声が嫌味なほどに爽やかで、紫呉は何となく笑い出したい気分になる。頬をくすぐる風が心地良かった。

 朝の空気は、どことなく白に包まれているようだ。その中、群山とその足元に広がる森林が緑を主張し、風に歌っていた。

 紫呉は爽月の朝の空気を思い切り吸い込み、吐き出した。あばらが痛むようだったが、気にしないことにした。

 樹上に在ったのは、野犬を避ける為である。安定せぬ姿勢での眠りではあったが、野犬に注意を払いながら眠るよりは随分と気が楽だった。

 紫呉はするすると樹上から降りた。この木に登るのは数年ぶりだったが、たくましい枝ぶりは今も変わらぬままだった。幼い頃に見かけた、鳥の巣はもう無かった。

 透かし柄の蝶が踊る柿渋色の羅の羽織に、腕を通す。その羽織は影虎のものだった。着丈が合わず袖が余ってしまうが、足りぬよりはずっと良い。次いで、白紗の襟巻きを巻く。

 簡易的な変装だ。この姿を見た者の記憶に留めさせ、もしもの時には羽織と襟巻きを捨てて逃げれば良い。ついでに袴も脱ぎ捨ててしまえばもっと良いだろう。

 紫呉は玻璃へ続く森に足を踏み入れた。今まで以上に神経を尖らせて、足音を殺して歩く。

 ふいに、肩に食い込んだ影虎の手の力の強さを思い出す。まるで縋るような弱い響きを持った彼の声が、胸の奥に引っかかる。

 どれだけ迷惑をかけているのか。どれだけ心を痛めさせているのか。分かってはいる。

 だが、何もせずにいるなどと。

『――おれは奪うよ』

 煩わしいその声を、紫呉は首を振って彼方へ追いやる。

 紫呉自身に加羅の刃が向かうならば良い。紫呉が耐えれば良いだけの事だ。

 しかし、他者へとその刃を向けるのならば。

(……阻むに決まっているだろう)

 血に染まった雪斗の腕が脳裏によぎる。

 あの腕は、傀儡を舞わせる腕だ。器用に花を作ってみせる腕だ。作り、生み出すための腕だ。

 美しいものを生み出す事に、命を注いで生きている男だ。その雪斗から、何よりも大切であろう腕を奪うなど。

 この腕は、奪い戦う事しか知らないけれど。それでも、彼が大切に思うものを、護れるのならば。

 戦ってやるさ。

 もう、奪わせはしない。

 体の痛みに汗が滲む。だが歯を食いしばって耐えた。いつ帰還できるか分からないのだ。限りの有る薬に簡単に頼ってはいけない。

 それに、これしきの痛みなど。雪斗の負った痛みに比べれば。

 痛みと怒りと空腹は判断を鈍らせる。分かっている。だが、まだ大丈夫だ。まだ己は冷静だ。落ち着いている。

 そう言い聞かせる必要がある程度に心はさざめいているのだと、紫呉は気付いていないふりをしていた。

 汗を拭う。むせ返りそうな程の濃い草いきれを思い切り吸い込み、息を吐いた。

 手首の牙月に指を沿わせる。牙月は応えるように、パチと鳴った。

 頼れるものはこの牙と、己の肉体。援けるものは、己の精神。

 さあ、戦え。

 まだ早朝だというのに、太陽は容赦なく照りつけてくる。足元に落ちる木洩れ日を踏みしめ、紫呉は歩いた。

 加羅は確か、玻璃の中央部に住まうはずだ。そう聞いたのは幼い頃ではあるが、日生の若君がそうそう簡単に居屋を変えはしないだろう。

 玻璃の中央部――、そこには瑠璃の支暁殿しぎょうでんと対を成す、鼎宵殿ていしょうでんがあるはずだ。

 水晶の甍は陽光を七色の彩りに変じさせ、蒼穹と共に美しく照り輝くと聞く。

 それを取り囲むのは高い塀と、七官吏の官舎。贅を凝らした造りは、迂闊に手を伸ばせばその威光に焼かれてしまいそうな程の、権威の象徴だという。

 噂には聞いていた。だが所詮噂だろうとも思っていた。しかし、初めて目にして紫呉は納得した。

 なだらかな丘陵から滑るようにして道に降りる。森を抜けると、遠くに鼎宵殿が見えた。

 中央には、まだ随分と距離があるはずだ。だが、この距離からでも感じるその眩しさに、紫呉は思わず目を細めた。

 蒼穹を目指し屹立するその姿は、凛々しさと優美さ、雄々しさと華やかさ、おそらくは美しさを形作る全ての要素を内包しているように思える。

 煌く甍はひたすら眩く、目を焼かれてしまいそうである。だがその七色の光彩は、たとえ眩さに目を焼かれようとも見ていたいと思わせる美しさが有った。

 汗を拭う。まるで睨むような鋭い視線で、紫呉は鼎宵殿を見上げていた。

 だがやがて視線を逸らし、俯いた。襟巻きを引き上げ、顎を埋めるようにする。のろのろと歩き出した。

 ここは玻璃だ。鼎宵殿を視界に入れた途端、そう強く感じだ。

 鼎宵殿には、容易に近づけないだろう。警備はもちろん厚いに違いない。

(……ひとりで、何ができる)

 弱気が駆け抜ける。

 紫呉は爪先で砂を軽く蹴り、舌を打った。

 不要だ。

 感傷も、弱い心も。

 惑うな。迷うな。

 何の為に、己はここに来た。

(考えろ)

 弱さに揺らぐよりも、打つ手を考えろ。

 どうすればあそこに近づける?

 どうすれば加羅に追いつける?

 必要な情報は何だ。

(警備の体制)

 だがどうやって知る。まさか人に尋ねるわけにもいくまい。

 とりあえずは、中央部に近づいてみるか。

(いや)

 先に、脱出経路の確保だ。どの道がどこに繋がっているのか、それを知る必要がある。

 とりあえず早朝の今、森に面したこの小道に人の姿は無い。民家も近くには無く、周囲は豪商の蔵と見受けられる建物が連なっている。

 蔵を囲む塀に手をつけ、見上げた。塀は、勢いをつければ跳び越えられる高さだ。

 全神経を聴覚に集中させる。塀の向こうに人の気配は感じられない。

 それが朝の今だけのことなのか、それとも常の事なのか。分かりはしないが、とりあえずは塀の内に籠れば追っ手をやりすごす事もできそうだ。

 仮に人がいたとしても、それは玻璃の赤官や護焔隊などのような、戦闘訓練を受けた者ではない可能性が高い。警備を請け負った民間の者だろう。

 ならば、口止めも容易い。

 蔵は道なりにずっと続いている。塀に沿って歩きつつ、中の気配を探る。やはり中に人はいなさそうだ。

 ふ、と詰めていた息を吐いた。どっと疲れが圧し掛かってくる。そのまましゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られた。

 目の前がちかちかと光る。視界が狭まる。

(駄目だ)

 肩口を塀に寄せ、ずるりと屈んだ。

 気持ちが悪い。痛い。

 休んでいる場合ではないのに。

 だって、早くしないと。奪うよと加羅は言ったのだ。

 また、誰かが。

(誰が?)

 いつ。

 何も分からない。

「くそ……っ」

 固めた拳を、塀に叩きつけた。

 なあ日生、お前の望み通りにお前を追ってきてやったぞ。

 何がしたい。何を望んでいる。教えろよ。早く来いよ。

 腹が痛む。左の脇腹だ。昔、加羅に刺された場所だ。

 違う、今痛むのは、あばらに傷を負っているからだ。蹴られたから。その所為だ。

 どちらにせよ、加羅がくれた傷痕だ。

「……は」

 思わず声が漏れる。

 笑ったのか、息を吐いただけなのか、紫呉自身にも判別がつかなかった。

 己の身を抱くようにして、服の上から傷を押さえる。

(翔兄)

 懐かしい名にすがりつく。

 下ろした瞼裏によぎるのは、首の無い翔太の姿だ。

 そうだ、あの時も、二年前も、加羅に斬られたんだ。ずらりと腹を撫で斬られた。

 何故ここにいると聞こうとしたのか、何故あの時あの丘で僕を殺そうとしたんだと、そう聞こうとしたのか。それは分からないけれども。

 とにかく何故、と、そう言おうとしたのだと思う。

 けれど言葉にはならなかった。言葉になる前に、加羅の刃に紫呉は裂かれていた。

 倒れた紫呉の傍らで、加羅は血振りをした。そして向陽を振りかぶる。

 だが首を落とされたのは、紫呉ではなく翔太だった。

(……僕の所為で)

 翔太は死んだ。

(また、誰かが)

 僕の所為で。

(……させるものか)

 今度は。

 今度こそは。

 もう、己の所為で誰かが傷つくのは嫌だ。

 だから。

(立て)

 まだ、抗えるはずだろう。

 紫呉は叩きつけた拳を開き、塀に爪を立てた。うまく力の入らない脚を叱咤し、不恰好に立ち上がる。

 足元に落ちた汗が、ぽつと音を立て、じわじわと地面の色を変えていく。

 照りつける陽光が肌を焼く。眩む視界の隅で鼎宵殿は尚も艶やかに煌いている。

 荒い呼吸のまま、紫呉は鼎宵殿を睨み上げた。

 塀を頼りに、ずるずると体を引きずるようにして、歩き出す。

 白めく早朝の空気は、高く昇り始めた太陽に散らされつつあった。


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