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5 玻璃へと続く間道・東

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 乾弐班の屯所まで、必要な物を取りに戻った。煙草は置いてきた。懐が妙にすうとするような気がしたが、気にしない事にした。

 必要最低限の物資だけを手に、紫呉は玻璃へと続く間道を目指していた。

 間道とは、玻璃と瑠璃の里境である玉骨と呼ばれる塀に沿って南に進んだ先にある道だ。本来玻璃に向かうならばこの玉骨を越え、正式な手続きを済ませねばならない。

 だが、今回は誰にも知られるわけにはいかなかった。一昼夜をかけ、紫呉は間道を目指していた。

 この間道の存在を知るのは、紫呉の他には二影とそしてきっと、加羅と二吼とだけだ。先日影虎が玻璃に忍んだ際も、おそらくはこの道を使ったのだろう。

 塀に沿って歩みを進め続ければ、やがて玉尾が見えてくる。整備されていた玉骨は玉尾に近づくにつれ苔がむし、朽ちた色に彩りを変え始める。

 玉尾は二璃の里を囲む樹海に飲まれるようにして、ぷつりと途切れていた。というよりもむしろ、樹海から玉骨が生えているような風情であった。曲がった枝を伸ばす樹に絡められ、どこからが樹で玉骨なのかも分からないほどだ。

 歩き続けた体は疲労を訴えているが、歩みを止めるつもりはなかった。夜空を見上げれば燦々と光を降らす月が在る。それだけで、強くなれるような気すらした。

 呼吸を落ち着け、紫呉は樹海へ足を踏み入れる。

 深い深い森だ。月光すら足元に届かぬほどに木々は生い茂り、濃密な草いきれが目に染みそうなほどだった。

 木々を掻き分け、道なき道を進む。目印となるのは、西の方角に見える一際背の高い木だ。その木の側には、木を取り囲むようにして小高い丘が広がっている。僅かな面積だ。だがそこばかりは、日の届かぬ樹海の中、陽光の祝福を受けたように花々が咲き、風が草木を奏でていた。

 記憶にあるその景色は、目を瞑れば今も鮮やかに瞼裏に蘇る。春の椿、夏の葵、秋の桔梗、冬の水仙。

 懐かしい。しかしいらぬ感傷を呼び起こしてくれるその記憶は、今は邪魔なばかりだった。

 垂れる汗を拭う。爽月とは本当に名ばかりだ。爽やかさの欠片も感じない。小風の一つも吹かぬ樹海には、淀んだ空気がひしめいている。

 荒ぐ呼吸と共に、怪我の痛みがぶり返す。噴きだす汗が冷や汗なのか、通常の汗なのかも分からない。

 紫呉は蹲った。腰の傷もまだ完治していない。血反吐を吐いた喉は呼吸のたびにじわりと痛む。

 蹴られた腹も、どこが痛むのか分からない程度には痛んでいる。あばらが数本傷ついている、と壱班の隊員は言っていたか。

 道理で、空咳をすれば腹が痛むはずだ。それにつられて腰まで痛みだすのだから、始末に終えない。

 怪我が治るまで待つのが、せめてもの懸命な判断なのだろう。だが、待っている間にまた誰かが傷ついたら? そんなのは御免だ。

 取り出した痛み止めを噛み砕き、紫呉は立ち上がった。眩暈がしたが、苔むす幹に手をついて耐えた。

 下生えを踏んで歩きだす。無心にひたすら歩みを進めていけば、西に見える高い木は、もう随分と近づいてきた。

 枝葉を掻き分ければ、丘が開けた。月光に照らされた丘が、ぽかりと浮き上がって見えた。まるで湖の浮島のようだ。

 その中央で、背の高い木がざわざわと鳴いていた。ひらりと舞った広葉が紫呉の足元に落ち、小さくかさりと音を立てる。

 夏の微風にさやと草が鳴る。闇に慣れた目に月光が眩しかった。頬を撫でて樹海へと流れる風が、柔らかで心地良かった。

 丘は、記憶にある光景と違って見えた。それもそのはずだ。幼い頃、ここに訪れるのはいつも昼間だった。

 あれは月見草だろうか。白々と夜に泳ぐ花は、夏の夜の濃密な空気に歓喜して震えているようだ。

 髪を揺らす風が感傷を連れ来る。紫呉は丘に足を踏み入れるのを躊躇った。感傷に潰されてしまいそうで、怖かった。

 大きく、息を吐きだす。丘の中心に立つ木を目指し、ゆっくりと歩き出した。鼓動が速いのは、きっと、歩き続けた所為だ。

 高い木だ。幹も太く、しっかりと大地に根を下ろしている。ざらりとした幹の感触は、今も昔と変わらぬままだった。

 真下に立って見上げた。葉を広げる枝が、夜空を支えているかのようだ。葉の隙間から漏れる月光が、頬に落ちてくる。

 幼い頃、よくこの丘で遊んだ。お互い家族には内緒で里を抜け出し、日が落ちるまで夢中になって。お互いに護衛を連れて。

 泥だらけになって転げまわる二人を、保護者ぶった影虎が呆れた顔で眺めていた。そんな影虎を呆れて眺めていたのは辰覇だ。

 そういえば昔、辰覇に助けてもらった事がある。この木から落ちた紫呉を受け止めてくれたのだ。

 須桜はめったに来なかった。おとこだけのひみつきちなのですよ、と得意になった紫呉が言った所為だ。

 竜造はそれに輪をかけて姿を見せなかった。幼い愛娘と、先代の焔である与四郎の側を離れられなかったのだろう。

 ここに立つのは、もう六年ぶりになるのか。瑠璃も玻璃も見渡せるこの丘では、いつも空が歌っていた。眩い蒼穹が世界を包んでいた。

 今は二璃に等しく夜が降っている。皓々と冴える月が、二璃を抱きしめている。隅々まで夜に塗られた空で、星が瞬いていた。

 手を振り別れるのは、いつも夕暮れ時だった。太陽と月とが顔を見せる朱色の空の明りを背負って、また今度、と、笑って。

 あの頃は、ただひたすらに日々が楽しかった。無邪気だった。笑って、泣いて、笑いあって。

『ドンカを知っているかい、紫呉くん』

 幼い声が耳に蘇る。

『ドンカはね、ドングリの精なんだよ。白くてふわふわしてるんだ。掴まえたら、幸せを運んでくれるんだって』

 得意げに、紅緋の両眼を光らせて加羅は言った。

『でも、掴まえた人はまだ誰もいないんだってさ』

 だから、と加羅は紫呉の手を取って笑った。

『おれたちが初めてになろうよ。掴まえて、里のみんなに幸せをあげるんだ』

 草を分けた。藪を分けた。土を掘った。木に登った。

 どこを探してもそれらしき姿は見えなかった。でもその代わりに、鳥の巣を見つけた。巣の中にまだ卵は無かった。

 もしかしたら今からここで新しい命が生まれるのかもしれない。孵化する頃に、また見にこようと紫呉は誘った。

 それに対しての応えは『そうだね、いつか』。

 その『いつか』は、結局迎えられず仕舞いとなった。

 紫呉は腹の傷を押さえた。

 加羅と袂を分かったのも、この丘だ。

 別れの間際に残された言葉は、さよなら。加羅は茜に焼ける空を背負って、痛みに呻く紫呉を見下ろして、笑って、さよなら、と。

 別れを告げたその口で、加羅は追ってこいと言う。勝手な男だ。

 何がしたい。何を考えている。何を望んでいる。

 必ず、暴いてやる。

 これ以上、お前に奪わせはしない。


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