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4 第三保護室前の廊下


 まるでむずかる幼子のようだ。

 肩口から伝わる体温に安堵を覚える。影虎は、そんな自分がどうしようもなく馬鹿らしく思えた。

「……はなせ」

 断固とした響きだった。拒絶するような。振り払うような。

 硬いその声が影虎の鼓膜を揺らし、すとんと胸の奥に落ちてくる。

 無理なのだと知る。己では紫呉を引き止められない。己はこの男の枷とはなれない。己はこんなにも、この男に縛られているというのに。

(……それで良い)

 影ごときに縛られるような主であってはいけないのだ。己の主は、こんなくだらない懇願ごときに揺らぐような、そんなつまらない男ではない。

 影虎は体を離した。瞑目して、息を吐く。

「では、ご命令を。我が主」

 ふざけた口調を模って、笑ってみせる。見上げる紫呉の目は、いかにも物言いたげだった。

 視線で促がせば、紫呉は目を伏せ、僅かに笑みを浮かべたようだった。

「草薙影虎に命じる」

 一呼吸置いて、紫呉は言った。

 留守を頼む。

 聞きなれた、表情の無い硬質な声音。その声が揺らいだ心根を粛してくれる。いっそ酩酊感すら覚えるようで、この児戯じみた命令ごっこさえ愉快に思えた。

「御意」

 戯れついでに厳かぶって答えれば、滑稽な戯れに心から従ってやろうかという気になれた。

 紫呉は軽く影虎の胸元を(ちょうど心臓のあるあたりだ)押して、数歩下がる。薄い唇が何か言葉を紡ごうと開かれるが、結局紫呉は唇を真一文字に引き結んだ。真黒い瞳に僅かな逡巡が窺える。それを断ち切るように身を翻し、紫呉は駆け出した。

 振り返りもせずに夜道を行く背を見送れば、急にずしりと肩が重くなったように思う。影虎はその場にしゃがみ込み、遠ざかる足音に耳を澄ませた。

 やがてそれも聞こえなくなった頃、影虎はようやくに立ち上がった。首を回して、肩に積もる重みを追いやる。ごきんと鳴った骨が、我ながら年寄りじみていておかしかった。

 のろのろとした足取りで、保護舎へと戻る。砂を掻く左右非対称の己の足音がやけに煩わしくて、影虎は必要も無いのに足音を殺して歩いた。

 雪斗が保護されている部屋の戸を、ゆっくりと開ける。

 影虎が部屋を後にした時の格好のまま、須桜は壁際に座り込んでいた。抱えた両膝に埋もれさせていた顔を上げ、おかえりと小さく呟く。

「……お前がとめてくれるかと思ったんだけどな」

「まさか。無駄よ。あたしが何か言って、聞くような子じゃないでしょ」

 須桜は立ち上がり、影虎の側までやってくる。須桜は雪斗の様子をしばし窺っていたが、ほどなくして一つ頷いた。目顔で部屋の外を示す。

 二人は連れたち、部屋を後にした。戸のすぐ側に立ったまま、夜のしじまを乱さぬように小さな声で会話をする。

「薬なり何なり使えば良いだろ」

「一緒よ。仮に無理やり眠らせても、目を覚ましたら行っちゃうに決まってるわ」

「……何か腹立つ」

「何が」

「別に」

 須桜が妙に紫呉を理解している様子なのが、腹立たしかった。引きとめようとしていない事も、何だかやたらと腹が立つ。

 今になって、紫呉の前で平静を乱した事が恥ずかしく思われた。紫呉が帰ってきた時は素知らぬ顔で通そうと思っているが、何も言われないならそれはそれで恥ずかしい。いっそ罵り馬鹿にしてくれた方が、楽になれそうな気がした。

 影虎は腕を組み、須桜から顔を背けた。保護舎の廊下は行灯が薄暗く照らすばかりで、顔の赤みまでは気付かれないだろうがそれでも、気分的に顔を見られたくなかったのだ。

「……何か言ってた?」

「留守を頼むってさ」

「そう」

 須桜は壁に背を預けた。見おろすその横顔には疲労が色濃く見てとれた。無理も無い。雪斗の治療に、精魂使い果たしたのだろう。

「悔しいわね」

「ん?」

 影虎も須桜に倣い、彼女の隣に立って壁に背を預ける。須桜は己の両手を見おろし、唇を曲げるようにして笑った。

「あたし、結構強くなったでしょ?」

「そうなあ」

「影虎に比べたら、そりゃまだまだだけど。でも、ようやくあの子の側で戦えるくらいには、強くなれたと思うのよ」

 須桜は俯いて、くすくすと笑った。

「……なのに、結局あたしはまた、あの子の無事を祈るしかできないのね」

 そのうちに須桜の頬は弛緩するようにして笑みを無くし、疲れきった様相を浮かべるばかりとなった。

 悔しいのは影虎とて同じだった。草薙とは主を守護し、そして死ぬ存在だ。そのくせこうして主の側から離れ、須桜と同じく無事を祈る以外に出来はしない。

 命令だ。仕方ない。言い聞かせ、声を呑む。

 それでもやはり、悔しかった。悔しくて、不安だった。

 瑠璃の中で別の行動を取るならばまだ良い。瑠璃は縄張りだ。もし何かがあったとしたら、容易ではないにせよ、駆けつけることも可能だ。だが玻璃ともなれば、おいそれと手出しは出来ない。

 行灯の灯りに、蛾の羽ばたきが大きく揺れていた。あの蛾も憐れなものだ。そんなに火に近づけば、さぞ熱かろうに。それでも、灯りを求めずにはいられないのだろう。

 揺れる蛾の影から、影虎は目を逸らした。

 受けた命令は何としてでも貫くつもりだった。留守を頼むと、紫呉は己に、命を下した。ならば貫くしかあるまい。

 しかし、加羅の目的が見えない。手を打つにしても、いったいどうすれば良いものか。

「ほんっと、あの若サマは何を考えてんだかな」

「そうね」

 短く応える須桜の声が嫌悪に濡れていた。

「奪うと言っていたわ。それから、追ってこい、って」

「追わせて、それで? 何がしたい」

「知らないわよ」

 苛立たしげに須桜は眉を顰めた。

 ふいに、視界の隅で揺れていた影が消えた。

 行灯の火に呑まれた蛾が、ジ、と音を立てて地に落ちた。蛾は尚も羽ばたこうと、焦げた羽をうごめかしてもがいていた。

 ブブ、ブ、と、耳障りな羽ばたきが聞こえる。地を這うその姿が見苦しい。影虎は帯に仕込んでいた長針を取り出し、蛾に向けて放った。

 床に縫いとめられた蛾が動きを止める。静寂が再び廊下に満ちた。

 行灯は今や何にも邪魔されず、静謐な灯りを生み出していた。

 その灯りに目を細め、影虎は反芻した。

(奪う)

 いったい、何を。


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