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19 鼎宵殿

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 先を行く加羅の背を追い、汀は歩みを進める。二人は、森から鼎宵殿への道のりを辿る途にあった。急ぐでもなく、殊更にゆるやかに歩みを運ぶわけでもない。単調な二人の足音が、夜のしじまに響いている。

 振り返りもしない加羅の背に、汀は声を投げかけた。

「急がなくても良いんです、か?」

 加羅は歩みを止めない。

「はやく、八重様にご報告差し上げるべきではないんです、か?」

「伯母上は寝ているさ」

 まるで世間話をするような調子で、加羅はよどみなく答えた。

「この時間だ。よくお休みのことだろう。これから無理に起こすんだ。伯母上はさぞ不機嫌になられるだろうさ。その不機嫌が治るまで、どうせ時間がかかる。なら急ごうが急ぐまいが、大した違いはないだろう」

 違うか、と加羅は前を向いたままに言う。

「よく、ご存知です、ね」

「貴様が言ったんだろう」

 振り向くと同時、歩みを止めた加羅は白い面に嘲りを浮かべて言った。

「伯母上の寝起きは悪い、と。そう言っていたのは貴様だろう?」

「そういえば、そうでしたか、ね」

 じっと、視線が注がれる。どこかで鳴く野犬の声が、長く尾を引く。

 こちらを見上げる加羅の紅緋の眼に、表情らしい表情は無い。ただ見ているだけだ。そのように見えた。真実は知らない。本当は、何かを探っているのかもしれない。

 だが、どうでも良かった。伸びた前髪で隠れてしまった片方の目が惜しいと、汀はぼんやり考えていた。

 確かに、加羅の言う事は当たっていた。八重は、己の空間や時間を侵される事を極端に嫌う。機嫌を損ねた彼女はだだをこねる幼子と同じで、中々に手に余る。

 ふいに、興味を失ったかのように視線が逸らされた。いや、それも、興味を失った素振りをしているだけなのかもしれない。加羅の真意はいつだって見えない。だがやはり、汀にとってはどうでも良い事だ。

 二人分の単調な足音が鼎宵殿を目指す。どこかで鳴く野犬の遠吠えは、尚も響いている。

 獣の声が、腹の奥底を揺らす。未だ身にまといつく血の匂いが、押さえつけた興奮を震わせてくる。

 もしも、この、前を行く背に斬りかかれば、いったい彼はどんな反応をするだろうか。本能に任せ、喰らいついてくるだろうか。

「……ふふ」

 汀は喉元の噛み跡に指先を触れさせ、ひそかに笑った。指先を濡らす感触はなく、傷口はもう乾き始めている。硬くこびりついた血を引掻けば、痛みと共に溢れた血が指先を濡らす。熱い体は夏の所為だけではない。

 ふ、と加羅が小さく息を落とす音が聞こえた。呆れたのかもしれない。軽蔑したのかもしれない。気味悪く思ったのかもしれない。

 どうでも良い。どうだって良い。だって、加羅は人だ。もしも今斬りかかったとしても、きっと、加羅は刃を抜かない。避けて、考える。考えるのだろう、足掻きはしない。生きもがきはしない。考える。生き延びる術を。まこと人らしく、思考を巡らせるのだろう。それでは面白くない。

 雲の切れ間から星明りが覗く。どこかに雲隠れした月の姿を探しながら、汀は高下駄をからころ響かせ、加羅の後ろに続く。

 そんな汀につられたわけでもないのだろうが、加羅もまた、空を見上げた。雲が重く垂れ込めた夜空を眺める横顔は、やけにあどけなく見えた。

 結局、雲から覗く月の姿を見つけられぬままに、鼎宵殿へと辿りついた。

 夜明かりの中、鼎宵殿の水晶の甍がさやけく瞬く。深い夜の彩りを、その透明の中に閉じ込めたかのようだった。日中目にするような煌びやかさは無い。だが、冴え冴えと夜に浮かび上がるその様は、確かに美しくあった。

 門衛が二人の姿を目に留めた。夜闇に浮かぶ汀の白の長羽織に気がついたのだろう、おかえりなさいませ、と敬礼の姿勢を取ってみせる。

 そして側にもう一人いる事に気がつき、彼は手にした棍を咄嗟に構えた。何者だと声を張る。

「日生加羅。おれが名乗る必要があるか?」

「わ、若君……!? これは、し、失礼を。その、お姿が、隊服とは異なっていたものですから……」

「伯母上に知らせてきてくれないか」

 言い訳を遮った声に、怒りの様相は無い。だが萎縮しきった門衛の男は、はッ、と硬く肩をいからせ応え、まろぶように駆けていく。最近護焔隊に配属されたばかりの者だった。

 残された門衛が加羅の様子を気にして、ちらちらと視線を投げかけている。それには目もくれず、加羅は八重の私室のあたりへと視線を注いでいた。

「斉藤」

 呼びかけに、汀は首を傾げた。

「身を清めて来い。その格好で伯母上の御前に向かう気か?」

 ああ、と汀は袖先を摘んで、広げてみせる。確かに、あちらこちらに物騒な色彩が飛び散っていた。

「それは、確かに。八重様は血の匂いを、お嫌いになりますから、ね」

 こちらを気にする門衛にひらりと手を振り、汀は殿内に向かった。おかえりなさいませ、と殿内のあちらこちらから声が飛んでくる。護焔隊の者達だ。

 適当な者に声をかけ、湯の用意をさせる。濡らした手ぬぐいで身を拭えば、血の気配は遠ざかった。共に冷めていく昂りが少しばかり惜しい。

 平衣に身を包み、八重のもとへと向かう。八重の部屋の前の廊下に、加羅の姿があった。正座し、丸窓から入り来る夜の光に視線を落としている。

 その傍らに汀は立った。加羅はちらとも視線を寄こさない。

 壁にかけられた竹籠の中を、蝶灯が舞っている。籠の外、光に寄せられた蛾が蝶灯を目指し、何度も籠に身をぶつけている。その度に、ブ、ブ、と濁った音が静けさをささめかせた。

 やがて、すらりと襖が開かれた。侍女の声に促がされ、二人は室内へと足を運ぶ。

「……もう。どうかしたの? わたしは眠いわ」

 あくびを噛み殺し、八重は不機嫌な声で言った。

 彼女は薄い夏布団に包まれていた。しどけなく横たわったまま、顔だけを覗かせている。流れる黒髪をわずらわしげに払い、不機嫌を隠さずに頬を膨らませる様は、年不相応にあどけなかった。

 そのあどけなさを、不自然な程に紅く濡れた唇が艶やかに彩っている。身を横たえたまま、はやく言って、と八重は先を促がした。拝跪した加羅が、ちらと侍女に視線を流す。

「彼女はわたしのお人形よ。気にしなくて良いわ。ほらはやく。はやく言わなきゃ、わたし、眠ってしまいそうよ」

 と、八重はわざとらしくあくびをするふりをした。

 少しばかりの逡巡の後、加羅は引き結んでいた唇を開く。

「如月の次男殿が、この玻璃の地においででした」

「まあ」

 八重は、ぴんとのばした指先を朱唇にあてがった。

「それは本当かしら? ねえ、汀」

「本当です、よ」

 呆と立ったままであった汀は、言いながら加羅の左隣に腰を下ろす。

「そう。そうなの。それで? もう帰ってしまわれたのかしら?」

「はい。辰覇に瑠璃の地までお送りするように、申しつけております」

 汀はわずかばかり瞠目した。

 辰覇に追わせたのか。それには、気がついていなかった。

 辰覇は手練の隠密だ。気配を消すに長けている。彼の気配を察せなくとも無理はない。

 彼の言う事が、真実であればの話だが。

「いつ頃、帰られたのかしら?」

「つい先刻。まだ、里には戻られていないかもしれませんね」

「そうね……。ねえ、汀。あなたのその傷は、どうしたの?」

「八重さまがお気になさるほどのものではありません、よ。ただ、野犬にじゃれつかれただけですから、ね」

「まあ。あなたにじゃれつくなんて、とんだ暴れん坊なのね」

 困った子。小さな子供を叱るように、八重は笑み含みの声で言う。

「……ごあいさつをしなくちゃいけないわ。でも、こっそりこちらに来ていたのだとすれば、ご家族に言ってしまってはかわいそうね。まずは、ご本人にお声をかけなくちゃ」

「しかし、まだ里には帰られていない可能性の方が」

「だからじゃないの」

 加羅の語尾に被せるようにして、八重は声を弾ませる。

「まだお帰りになられていないなら、それこそ、ご本人がこちらに遊びにいらしていた、という事でしょう?」

 ゆっくりと身を起こし、八重は細い指先を組み合わせて微笑んだ。

「次男殿がいらっしゃらない時は、ご家族の方にごあいさつをしなければね。遊びにきてくださるのでしたら、ちゃんと言ってくださらないとって。何の準備もせずにお出迎えだなんて、恥ずかしいことですもの」

 にこにこと、まるで少女のように八重は微笑んでいる。

「ねえ加羅。まだ、次男殿のお部屋の伝鳥に、声を飛ばせるでしょう? 昔みたいにこっそりと、お話してごらんなさいな」

「……」

「ほら、伝鳥を連れてきて」

 軽く手を打ち合わせ、八重は侍女に命じた。

 腕に伝鳥を乗せ、侍女がこちらにやってくる。鷺に似た白い鳥は、侍女の腕にとまり穏やかに目を瞑っていた。

 加羅の腕へと移される。伝鳥はばさりと羽を広げ、一声高く鳴いた。開かれた目は赤く、紅玉を思わせた。

 かけられる声をねだって、伝鳥が加羅の肩口を軽くつつく。真白な羽を見やりながら、加羅は唇をゆるゆると開いた。

「……今宵は、あいにくの群雲ですね」

 珍しい事もあるものだと、汀は薄い唇に笑みを滲ませる。

「そちらに、月は見えますか」

 加羅の声には迷いが見えた。迷いながら、言葉を選んでいる。明確に彼の心の動きを感じ取れるだなんて、そうそうに無い。

 しばらくの後に、返る声があった。

「いえ、こちらもあいにくの空模様です」

 伝鳥越しに聞こえるその声は、確かに汀も耳にした事のある声だった。

「しかし若君、こんな夜更けにいかがなさったのですか?」

 急な事で驚きましたよ。

 表情の滲まない、硬質な響き。それは確かに、如月の次男が有する声だ。

「……いえ。ただ、瑠璃に月は在るのかと。それを、確かめたくなったのです」

「雅な事を」

 返る声には、ほんのわずかな笑みが含まれていた。

「夜更けに申し訳ない。非礼をお詫び致します」

「いえ、お気になさらず」

「ありがたいお言葉感謝致します。お元気そうなお声が聞けて、喜ばしい限りですよ。それでは、また」

「……ええ、またいずれ」

 ふっ、と伝鳥の目から光が消える。報酬をねだる伝鳥を侍女の腕に移した加羅は、何かを思案する素振りであった。

「今のお声は、次男殿のお声よね?」

 きょとんとした顔で、八重が首を傾げる。

「はやいお戻りね。お姿を見かけたのは、先程のことなんでしょう?」

「はい、確かに、そのはずですが……」

 歯切れの悪い加羅の物言いに、八重は柳眉を顰めてみせる。

「俥か、早馬か。つかまえられたのなら、可能性は……」

「そうね。それは確かにあるわね。でも、あのお声は本当に次男殿のものかしら?」

「おれが」

 八重の声に声を重ね、加羅は伏せていた面を上げる。

「……失礼。わたくしが、彼の声を聞き違えるわけがない」

 強い眼差しで、加羅は八重を見つめる。

 ことりと小首を傾げた八重は、艶やかな微笑を頬に刻んだままだ。

「きれいな目ね」

 黒の眼を光らせて、八重は声を笑みで濡らした。

「あなたの目は、本当にきれい。きれいな色ね。とても美しい、焔の色だわ」

 濃厚に絡まる視線は、汀の肌までを刺激してくれる。ちりちりと、薔薇の棘のように、視線の下の心が突き刺さる。

 思わず汀は笑みを浮かべた。

「汀? どうかした?」

「……いいえ。八重さまも、とても、おきれいでいらっしゃいます、よ」

「まあ」

 八重はころころと声をたてて笑った。

「よく回る口ですこと。憎たらしいわ」

 軽く握った拳を口元にあてがい、八重はくすくすと楽しげに笑っている。

「良いわ。ご家族へのごあいさつは、やめにしておきましょう。不明瞭な要素が多すぎるもの」

 うんと一つ伸びをして、八重は褥に身を横たえた。言外に退室を促がす八重に目礼し、二人は部屋を後にする。

 廊下に差し込む夜明かりは、僅かな白を含み始めている。夜明けがそこまでやってきているのだ。

「ねえ、若君」

 加羅は振り返らない。

「あなたは本当に、演技がお上手です、ね」

 返る声も無い。

 微塵も揺らがぬ真直ぐな背に、ただ視線で戯れる。

 込み上げる笑いに、汀は喉を震わせた。

 蝶灯に身を寄せる、蛾の姿はもう無かった。


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