表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/21

18 光の丘

**************************************************


 荒い呼吸は、やがて笑いに変わった。足を引きずり森を駆け、紫呉は嗄れた声をあげて笑う。

 何だ、このザマは。

 追って来いと加羅は言った。奪われるのが嫌ならば、己を追って来いと。

 だから、追ってきた。失うのが怖くて。奪われるのが恐ろしくて。もう何も、なくしたくなくて。

 だというのに、何なのだこのザマは。結局、己は何も成していないではないか。

 禍根を残しただけ。ただ、無為に人を死なせただけ。婚儀をひかえた妹が待つ兄を、病がちの兄が待つ弟を、家族の待つ家を持つ者達の、命を奪っただけ。

「……っはは!」

 きみは血狂いだと汀は言った。己は否定した。

(嘘をつけ)

 何が違うだ。否定など、できるわけもないだろうに。お前はただの血狂いだ。

 だって、この背はまだ快感を覚えている。腹の奥の悦を飼い馴らすことも出来ず、体内を巡る熱は今もこの体に宿っている。

 荒い呼吸を落としながら、嗤いに喉を震わせながら、足を引きずり歩く。よろめく体を、幹に手をつき支え歩んだ。

 足元に落ちる夜闇が、ふっと途切れた。幹を探る手が、空を切る。流れ来る風に、紫呉は顔をあげた。

 開けた視界で、夜が波打つ。泳ぐ草の合間に踊る花弁は白く、闇に慣れた目には眩いほどだった。

 丘の中ほどでは、あの背の高い樹が夏の風と共に歌っている。ざわと枝葉を揺らし、腕かいなを広げ、曇天の夜空を見上げていた。

 まるで誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、紫呉はふらふらと樹を目指し、歩んだ。急な来訪に驚いて、足元を夏虫が跳ねていく。

 下生えに足を取られ、転んだ。受身を取る事もできずに、紫呉はそのまま草の中に顔から突っ込んだ。

 ぐしゃりと音がした。腕の下、月見草がひん曲がっている。真っ白だった花弁はひしゃげ、血で赤く汚れていた。茎はよじれ、葉も、散ってしまった。

 長く息を吸い、吐く。草の香りがした。それでも纏う血のにおいは消えず、いっそ愉快ですらあった。

 体のあちらこちらが痛む。何がどう痛むのかも分からない。痛みに息もうまくできなくて、涙が滲んだ。

 痛いと一度認めてしまえば、もう、呑まれて仕方がなかった。痛い。舌も、喉も、手も、腕も、腹も。胸も。

(……戻らないと)

 そう思うものの、体が動かない。痛い。痛い。無様だ。みじめだ。愚かだ。痛い。苦しい。重い。潰されてしまいそうだ。

 だが、這ってでも、進まなければ。はやく戻らなくてはいけない。これ以上愚行を重ねるわけにはいかない。如月の血に連なる己が、玻璃の地にいたと、そう、八重に報告がいったのなら。里はどうなる。考えたくもない。

 ずるずると這う。身の下で草がよじれた。花が潰れた。それでも這った。

 手にしたままの牙月に戻れと念じる。だが牙月は紫呉の命を聞きいれない。カタカタと振るえ吼え、まだだもっとと叫んでいる。

 ここにはもう誰もいない。斬るべき相手はいないだろう。なのにまだ求めるのか。馬鹿な犬だ。

 せめて、と鞘を探る。のろのろと鈍い動きで、牙月を鞘に納めた。

 草を掴み、鉛のように重い体を前へと進める。見やった軌跡で、ひしゃげた草花が地面に伏していた。

 途端に込み上げる嘔気に耐え切れず、紫呉はえずいた。引いた血の気が、ひやりと背中に落ちていく。

 胸糞悪さにえずくものの、胃液すら吐き出せない。腹筋が引き攣れて腹が苦しい。口周りを汚す血液は、体内から溢れたものなのか、誰かのものなのか、それすらも分からない。

 身を投げ出すように地面に伏し、痛みをやり過ごす。痛い。どうしようもなく痛くて痛くて、もう、動けない。

 汚れた指先に落ちる木陰に、大樹の下まで這い進んでいたのだと知る。土を押し上げ浮かぶ樹の根に、紫呉は頬を寄せた。

 遠く、野犬の遠吠えが聞こえたような気がした。このままここにいては喰われてしまう。早く、立ち上がらなければ。

 動けと願ったが、指先が微かに震えただけだった。霞む視界で、牙月が揺らぐ。夜に溶けるようにして、姿を変じる。

 黒の狼の姿をした牙月が、緋色の眼を光らせてこちらを見ている。牙月の周囲に揺らぐ夜が、まるで陽炎のようであった。

 牙月は天を仰ぎ、一声鳴いた。長く尾を引く遠吠えに応え、あちらこちらから遠吠えが響き来る。

 その意味を問う力もなく、紫呉は目を閉じた。

 草花を吹きぬける風に、大樹は枝葉をかき鳴らす。夏虫が涼やかに音色を奏でる。荒い己の呼吸が耳障りだった。

 この丘で、加羅はさよならと言ったのだ。

 そうだ、あの時もこんな風に這い蹲って、痛みに呻いていた。

 憎かった。悲しかった。痛かった。怖かった。だから、刀を手に取ったんだ。どうあっても手の届かぬ相手と分かりながら、どうしても、赦せなくて。

 ただ護られているだけだった弱い自分が、赦せなくて。

 そうして得る力は、ただの暴力だと分かっていたけれども。


 ――私の駒になりなさい。お前の牙に餌を与えてやろう。


 伸ばされた兄のその手を、取ると決めたのは己だ。

 すがるように、手を伸ばしたのは己だ。


 ――良いか。黒器を手にするって事は、常に人殺しの道具を持ち歩くって事なんだぞ。その気になりゃあ、いつでもどこでも誰でも殺せるって事なんだぞ。


 そうですね、翔兄。あなたは何度も、僕を諌めてくれたのに。


 ――お前は本当に抗いきれるか? 人の血のにおいに、肉を断つ感触に、その愉悦に抗いきれるのか?


 最初は、怖くてたまらなかったんですよ。肉のやわさも、骨の硬さも。

 知っているでしょう、ねえ翔兄、怯えて、僕は何度もあなたの懐に逃げ込んだ。

 あの怖さを、忘れてはいけないはずだったのに。


 ――覚えておけ。怒りに呑まれるな、恐怖に呑まれるな、悦楽に呑まれるな。怒りも恐怖も悦楽も捻じ伏せて支配しろ。


 ごめんなさい翔兄。僕は、はいと頷いたはずなのに。

 まだ、腹の奥で熱が疼いているんですよ。

 もっと、って。足りない、って。馬鹿みたいに。

 もう、動けないのに。


 戦える己で在りたかった。強くなりたかった。己の弱さも捻じ伏せられるほどに、強く在りたかった。

 そう、願っていた。


 ――きみは、彼がどう死ねば、納得するの、かな?

 ――ぼくもきみも、人殺しである事に変わりはない、でしょ?


 ああ、そうだな斉藤。

 僕は、己は人殺しだと、認めたつもりでいたよ。

 それでも奪った命を背負って、背負い抜いて、這い蹲ってでも生き抜くと。

 何回も、何回も何回も、覚悟を重ねて。認められたつもりになっていたよ。

 ああ、そうか。お前を恐れた理由が分かった。

 お前と同じ彩りが怖かったんだ。

 同じ黒を宿したその目が。同じ昂りに濡れるその黒が。同じ熱と戯れるその黒が。

 その目に突きつけられてしまうのが。その目に暴かれてしまうのが。

 怖かったんだ。


 近づく気配にゆるゆると目を開ける。草を踏み分ける獣の息遣いが聞こえた。野犬を従えた牙月の遠吠えが、しじまを裂く。

 大樹の枝葉の隙間から夜空が見えた。流れ行く雲の切れ間に、星が光る。大樹の隙間に瞬く星明りがまるで、果実のようだ。

 ごぼ、と喉が嫌な音を立てた。口から溢れ出た鮮血が頤を伝い落ち、身の下で潰れ曲がった月見草へと零れていく。


 ――ドンカを知っているかい、紫呉くん。


 いえ、知りません。何ですか?


 ――ドンカはね、ドングリの精なんだよ。白くてふわふわしてるんだ。掴まえたら、幸せを運んでくれるんだって。


 へえ……。加羅は物知りですね。ふわふわ。ふわふわか……。


 ――でも、掴まえた人はまだ誰もいないんだってさ。だから、おれたちが初めてになろうよ。掴まえて、里のみんなに幸せをあげるんだ。


 良いですね! でも、


「……でも、一番目には、加羅にあげます」


 獣の気配はすぐそこだ。短く息を弾ませ、野犬は紫呉の顔を覗き込む。

 肩を踏まれ、鼻面を押し当てられた。濡れた頬をべろりと舐められる。


「…………腥い」


 星空に月は見えない。


**************************************************

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ